2008年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信350より
先月の報告会から

アマゾン河人情漂航譚

宮川竜一

2008年12月23日 新宿区スポーツセンター

■地平線通信のNo.345(8月号)で坪井伸吾さんが書いた「見送る側」で、大学生のM君がアマゾンをイカダで川下りしたいという内容を読んだ。その記憶がまだ新しい2か月後に、M君こと宮川竜一君のアマゾンイカダ下りの報告が載っていた(通信No.347)。「あっ!あのM君、本当にアマゾンに行ってきたんだ。」となんだかワクワクしながら読む。「なになに!?サルの新一君?」私は、子ザルを旅の友にした、彼のユニークな川下り体験に興味がわいた。

◆報告会の冒頭、進行役を勤める坪井さんが宮川君から送られた1枚の絵葉書を読み始めた。「坪井さんへ。僕は、今、『アマゾン漂流日記(坪井さんの著書)』の116ページあたりにいます。毎日流木と風と戦っています...。イカダに乗って夕陽の中、食器を洗い、夢がかなえられて幸せだと感じます」という手紙の一部。宮川君がアマゾンの自然に感動している気持ちが表れていて、坪井さん曰く「アマゾンにいることを純粋に感動し、表現している内容に宮川君の素直な人柄がにじみ出ている」。

◆登場した宮川君は、最初に自身がアマゾンで撮ってきたビデオを上映した。ぶつかるとびくともしない流木との戦い。助けてくれる舟を待っている場面。そして、子ザルの新一君が顔や首にまとわりつき、舐めてくる。その愛らしいこと。私はその映像を見て思わず小声で「かわいい...」と発してしまった。映像があることで現地の雰囲気はよくわかったが、それにしても、固定カメラに話しかけるモノローグなど、まるでドキュメンタリー映画を見るようで用意周到な「発表」だ。

◆10数分間のビデオが終わり、アマゾンの旅の報告本番。2008年7月21日、成田から飛行機を3度乗り継ぎ、アマゾン川が流れるペルー・イキトスへ。そこである日本人と知り合い、イカダを組む人間を紹介してもらった。トッパという材木を頑丈な木のつるの様なもので縛ったイカダの上には1.6mの高さの居住部分。前後にドアをつけた立派なもの。後方にはトイレもある。

◆8月13日、イカダが出来上がり念願のアマゾン川単独イカダ下りを開始。憧れてきたアマゾン川だが、いざその大河を目前にすると急に怖くなり、尻込みしてしまった。目の前にある川はあまりに大きく、この先の不安や寂しさで涙がこみ上げてきたという。イカダは、1人用としては大きく、居住性はいいが操作性が悪く重かった。流木にぶつかってしまうと1人の力ではどこにも行けなくなってしまう。何時間も悪戦苦闘するが、最終的には通りがかったボート(ペケペケ)に助けられることが多かったという。民家にお世話になることもあり、川の上での一人旅とはいえ地元の人とも知り合い、辛いことばかりではなく、なかなか良い経験もしてきたようだ。

◆イカダでの川下りは、流木と座礁との戦いで、毎日のように流木にひっかかり、そして、座礁の繰り返し。そんなことが起きると自分の力ではどうしようもないことがわかり、落ち込んでしまう。精神的に不安定になり、悲しい気持ちになった。そんなときは、料理をしたりして気持ちを紛らわす。バナナをつぶして腐りかけた肉と一緒に丸めた“腐肉バナナボール”やプリンもどき!?など、奇妙な料理だ。

◆また、唯一持参した1本のカセットテープを聴いていたと言う。ビデオの画面でも流れていたその曲は、サザン・オールスターズだった。「落ち込んでしまったり辛い時でも、サザンを聴いていると旅の醍醐味を味わえる。そして今は、自分にとって旅の思い出の曲となった」と報告会が終わり二次会に行く途中に話してくれた。私の大好きな友人であり、今、癌と戦っているシール・エミコもサザンのファンであり、世代差はあるのに2人の共通点を見つけて、なんだか嬉しかった。

◆アマゾン川下りは、虫との戦いでもあった。大小さまざまなサシバエや蚊などの虫に無数に刺されて、足は化膿し始め痒みから痛みに変わり、最後には骨までジンジンと痛み出してきた。虫に刺された足は熱を持ち、半端じゃない痛みで、立つと、座ると、触ると、歩くと、とにかく何をしても痛い。動けない。会場で回覧された「アマゾン日記」には「痛い、痛い、痛い」と書きなぐってある。9月5日、川下りを途中で断念し、1500キロにわたるイカダ下りを終えた。最終的に近くの村に助けられ、病院に3日間入院することになった。助けられた村には、イカダをプレゼントし、新一君も飼ってもらうことになり、無事帰国した。

◆さて、そんなアマゾン挑戦をやってのけた大胆な宮川君、過去に繊細な一面があったことを告白した。「一点集中型」な性格という彼は大学受験を控えた高校3年生のとき、受験勉強に対してストイックになり、かつ精神的な弱さから自室で受験勉強中に頭にお茶をかけたり、ティッシュボックスに火をつけては慌てて消して我に返るなど、若干ノイローゼというか鬱気味だったという。

◆そんなある日、真夜中にパジャマ姿で外に出て走り出した。とにかくひたすらまっすぐ走った。辿り着いた公園で防寒着も着ておらず、寒さの中、「家だったら暖かい料理がある。あったかいお風呂もある。布団で寝られる」、「一歩外に出たらこんなに厳しい世界があるんだ。寂しい、寒い、腹が減っている。でも、そんな世界があることに感動した」と彼にとっては大きな発見だったという。

◆晴れて第一志望の大学に入り、1年生の夏休みに北へ向って歩いてみよう、と計画した。とにかく行けるところまで行こうと無銭での徒歩旅行だ。この旅では、コンビニの裏などに廃棄された(賞味期限切れの)お弁当などで空腹を満たしながらも旅を続け、厳しい“外の世界”を自ら体験しながら仙台まで行き、そして、仙台からはヒッチハイクをして青森の竜飛岬まで行くことができた。このことで精神的にも強くなり、また、人の温かさを感じることのできた旅になったそうだ。さらには、少しくらいカビが生えた食べ物でも大丈夫な(!?)強靭な胃腸に鍛えられたかな。

◆大学2年(2008年)の春休みには、ネパールとインドを徒歩(450km)と自転車(1000km)で旅をした。ネパールで5日間の断食修行をした時、この過酷な修行は何かしらの希望を持たないと乗り越えられず、このときに「自分にとって好きなことは何か」を(希望を持つために)あれこれ考えた。そして、その時「僕は、旅が好きだ」「川の旅がしたい!」と思いついた。

◆帰国後、早速、植村直己さんの本を読みアマゾンをイカダで川下りしたということを知り、その半月後にはアマゾン行きを決意したというから、この行動の早さに驚いた。5月には、坪井さんに連れられて地平線会議にも初めて参加した。後ろの席に座り指を銜えながら聞いていたが、まさか自分が憧れの地平線会議の報告者になろうとはそのときは思っていなかっただろう。

◆宮川君の報告会は家族、とくに母親への思いが溢れる点で、おそらく過去の地平線報告会とは異色だったのではないか、と思う。計画を考え始めた当初、家族に心配させないため「アマゾンで“船旅”をしてくる」とウソをついたが、親友から「親を裏切ってはいけない。」と忠告され、出発前日の夜、両親にイカダで川下りすることを告白した。もちろん父は激怒し母は泣いた。それでも、危ないことをしないことを約束し説得し続け、最後の最後に了解を得て日本を出発した。毎日携帯電話で連絡すること、が条件だったようだ。

◆報告会後半、再び坪井さんが登場し、まずGoogle Earthでアマゾン流域を紹介したが、興味津々の内容だった。自身がイカダ下りに挑戦した16年前の地形とまるっきり変わっていてどこが川だったか痕跡もなく、こうも変化してしまうんだぁと驚いた。さらに8月13日のイキトスエリアの気象データをもとに、宮川君が初日に遭った暴風雨をそのデータをもとに説明してくれた。気温や雨量、風速などがデータとして残っているため、「出発してすぐにスコールが入る。突風が来て、11分後には視界が10キロから500メートルと悪くなり、彼は暴風雨の中にいた。10分間で気温が9度下がり、かなり恐ろしい状態だった」など、初日に宮川君に起きた嵐の状況についてとてもわかりやすい解説だった。

◆さらには、アマゾンから携帯が通じることにビックリだったと坪井さんは言う。家族とは頻繁に連絡をとる約束だったとはいえ、通信状況の悪いエリアに行くことが多く、旅に出たら1、2週間連絡が取れないことが当たり前な地平線会議の常連組からは苦笑さえ出た。どんな場所でも携帯がつながるようになったこのご時世、どこでも携帯で連絡できると思うことのほうが“普通”の感覚になってきているのかもしれない、と私自身もびっくりした。

◆坪井さんは、川下り大会に参加したエピソードを交えてイカダについて話したが、面白かった。「イカダは、ほとんど自分でコントロールできないが、逆に言えば潔い乗り物かな。危険があっても回避できないからつっこむしか仕方ない。その覚悟で乗るしかない」と言うのだ。

◆宮川君の旅だが、断念することにはなったけれど、この旅で彼は、「大切なのは、旅を成功させることじゃない。親を大切にする事、皆を笑顔にさせることだ」と気づき、日記に記した。なんだか「格好いいこと言うな〜」と思ったけれど、実は、No.347の通信を読んだとき、19歳の男の子が旅をしたことで親に対する感謝の気持ちを素直に書いている部分に私は一番感動した。

◆最後に本人から「感謝したい3人がいます。」と言って、家族(ご両親と弟さん)を壇上へ呼び出し、ご家族の方にマイクを向け一言をお願いした。弟:「帰ってきて嬉しい!」と、いきなりだったにもかかわらず、弟君らしいコメント。父:「心配させられた。(アマゾンでは)いろいろな困難があったと思うが、本人に乗り越えていく能力があり、19歳の若さでなかなかやるな、大したことしたなと思った。息子であることを誇りに思う」母:「本当に心配だった。3日間連絡がないときがあり、坪井さんに相談もした。そして、いつでも飛べる(アマゾンへ行く)準備をしていた。彼の勇気は凄いと思うが、今後は何か社会貢献をして欲しい」さらに、「普通でいいと思った。誰でも出来ることをしてほしい。誰も出来ないことをするのではなく」と、母としての気持ちがこめられていた。

◆2008年最後の報告会は、いつもの常連さんに混じり、ご家族や多くの友人たちも来ており、予備の椅子でも間に合わないほどの盛況ぶりだった。冒険の話と共に「家族愛」を感じる、そして宮川君の友人たちの「映画作り」の場ともなった、いつもと一風変わった雰囲気の地平線報告会ではあった(藤木安子


報告者のひとこと

■地平線会議で報告をするという、かねてからの夢が叶った。旅を支えてくれた家族を始め、江本さんや坪井さん、話を聞いて下さった皆様に感謝したい。報告を終え、改めてエゴイスト冒険者ではなく、家族に心配ばかりかけずに自分の旅ができる様になりたいと思った。それは自分にとって都合の悪い情報を隠すという事ではなく、家族に心配をかけるという問題と誠実に向き合っていきたい。

◆当日は予想以上の多くの方に足を運んでいただいた。僕は皆に感謝の気持ちを述べたが、後で何故自分が「ありがとう」と言ったのかと考えてみた。それは今回の報告が自分にとって自己表現の場であったからなのだと思う。歌手が自分の思うことを詩にして歌うように、僕は旅をし、そこで見たものや感じたことを話した。そしてその歌を聴いた人がどこかでそれを口ずさむように、話を聞いて共感して下さった方が一人でもいれば、それほど嬉しい事はないのである。

◆報告会の打ち合わせの際、江本さんから一冊の本を頂いた。それは地平線会議の『地平線から』というシリーズの第8巻で発行されたのは19年前、その時僕はまだ一歳である。大変面白く2日後には殆ど読み終えた。そこにはその年の行動者の記録や、冒険者たちが各々の冒険やそれに対する気持ちを書いた文章が載せられている。今僕が旅をし冒険のことを考えているように、自分が生まれた頃も人はそれぞれの青春とロマンをもって冒険をしていたのだ。そこには、僕がほんの少し下っただけでヒーヒー言ったアマゾン川を、カヌーで遡行しようと挑戦した人もいた。また今年で30年目を迎える地平線会議だが、それが如何にして創られ、創立者たちがどのように支えてきたかが分かりとても興味深かった。

◆僕がアマゾンでの経験を話すと友人たちが「感動した」などと言ってくれる。人は、その人の内に元々あったものが、他の存在によって別の言葉や行動で表されたものを発見した時、感動するのだと思う。僕が旅に求めるものの一つもこれである。これからも旅をしていく中で沢山感動し、自分を再発見していきたい。

◆まだまだ僕には数えきれないほど沢山の、また果たすには計り知れない苦労を要するであろう夢がある。しかし夢を追い自分に挑戦し続ければ、いつの日か最高のロマンを手にすることができるのではないかと、今後の人生という旅に期待で胸を膨らませている。(宮川竜一


アマゾン報告会で言えなかったこと

■「ポルトガル語が話せる」「ペルー・コロンビア・ブラジル3国国境周辺の情報に明るい」「強盗やゲリラという単語に動揺しない」「情報をもらさない」「一人でも動ける」ほとんどCIA並の特殊任務だが、ブラジルアマゾンで音信不通となった宮川君を探すには、この条件をクリアーできる人に頼みたかった。

◆8月30日、宮川君のお母さんから電話があった。彼はご両親にはイカダ下りの事実は伏せて旅に出たはずだ。なのにその親御さんから面識のない自分に電話がくる。これはもう非常事態に違いない。覚悟を決めて受話器をとると「5日間、息子と連絡がつかない」という内容。もっと最悪の事態を想定していたので、正直ホッとした。

◆とはいえ今まで携帯でついていた連絡が途絶えているのも事実だ。咄嗟のことで返事に窮した僕は、「少し様子をみましょう」とだけしか答えられなかった。もし会話の中でお母さんが、立命館や早稲田の遭難事件に一言でも触れたら、もっと情報の提供はできた。だがまるで知らないとなると、不安でいっぱいのお母さんをさらに追い込む事実はとても話せない。ただ、心情的にはそうでもそんな情報操作をしてもいいのだろうか? もし可能性のすべてを話したらどうなる?

◆家族が事実の重みに反応し派手に動いた場合、マスコミに情報がもれ、今度は宮川家が無謀な若者の身内として世間から叩かれるな。16年前に立命館探検部の遭難騒ぎの際、彼らに情報を提供し当事者の端っこにいた身としては、二度とあんな光景は見たくない。探検部という盾がない宮川家にはもっと過酷な運命が待っているはずだ。

◆それから1日たち、2日たっても本人からの連絡はない。動きが取れないので、ともかく宮川君に起こりうる可能性をすべて書き出してみた。最悪は、FARC(コロンビア革命軍)による誘拐だった。嫌なことに3国国境周辺では、その可能性もゼロじゃない。どうする。天災か、人災か? もし遭難なら一秒でも早く動くべきだ。やはりすべてを知らせて家族に委ねるべきじゃないのか……。

◆しかし……言えないものは言えない。うわぁー、これはもう自分で動くしかない。と悩んだ末に出てきたのが冒頭の条件だった。知人でもっともこの条件に近い人。それはブラジル在住の釣りガイド、グランデ小川さんだった。小川さんは開高健氏のオーパ・シリーズにも出てくる伝説の釣師だ。祈る思いでメールすると、本人がすぐに近隣の町の市役所宛にFAXを流してくれた。その数時間後に宮川君本人から家族に電話が入り、事件は水面下で解決。ほへー、力が抜け、部屋でクラゲ状態になった。

◆さて今回の影の主役小川さんだが、宮川君のお父さんから、息子と一度会ってやってほしい、とのメールに対し「私は住所不定で、携帯もない。これからペルーアマゾンに3か月ぐらい潜伏します」という怪しげな返事を残し、密林へと消えている。(坪井伸吾


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