2009年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信362より
先月の報告会から

ハンディキャップチャリダーズ ゴーゴー豪州!

風間深志 田中哲也 今利紗紀 山崎昌範

2009年12月25日 新宿区スポーツセンター

■中国でのバイク事故から奇跡的に生還!という速報が2週間前にあったばかりの賀曽利隆さんが、「皆さん、こんにちはー!」と元気な笑顔で現れ、報告会冒頭で報告者の風間深志さんについて熱く語ってくださった。なんとしてでも駆けつけたかったのだと思う。「風間さんは神の目をもった人!」と、1982年のパリ・ダカール・ラリーを振り返って語る賀曽利さんの話を、風間さんはくしゃくしゃに笑いながら聞いていた。

◆40年間近く、共に冒険の夢を抱き情熱を焦がして地球を走りまくってきた賀曽利さんと風間さん。当時、読売新聞の記者だった江本嘉伸さんが、20代だった2人のキリマンジャロのバイク登頂計画を取り上げた記事がきっかけで、風間さんは会社を辞めて冒険家へと一気に転身した。その後数々の世界記録を打ち立て、二度目の挑戦となった2004年のパリ・ダカで大事故に遭う。

◆左足の治療は難航し、見るからに豪傑の風間さんでさえ入院中は笑顔が消えかけていたと聞いた。しかし、風間さんは今まったく新たな地平を切り開き、運動器(骨・関節・筋肉・靭帯・腱・神経など、身体を支える器官)の大切さをアピールするキャンペーンに呼応した、世界一周の旅に4年がかりで挑んでいる。第1弾は2007年のスクーターによるユーラシア大陸横断18,000km。第2弾は2008年の四駆車でのアフリカ大陸縦断。そして第3弾が2009年8〜10月、足にハンディキャップをもつ3人の仲間と自転車で走ったオーストラリア横断5,150kmの旅だった。

◆スライドを見ながら風間さんが話し始めた。前回訪れたアフリカでは義足センターを訪れ、義足の出来上がりを待ちわびる少年と出会う。「アフリカの子たちって普段の生活が厳しくて、足の一本くらいなくても治療してもらえて嬉しいくらいっていう感じで、次元を超えた元気さがあった」。

◆またある時は、現地の少年2人組に突然あざ笑われて驚いた。足が不自由になってから他人の目線に敏感になったという風間さんは、彼らが自分の足をばかにしているのだとすぐにピンときた。カメラをぶら下げて歩き、どこか先進国の人間気分でいた自分が、貧しい国の人に見下げられている。その図にはっとした。下から世界を見るって面白いな!と、新しいベクトルに出会えた興奮を感じた。この土地では、五体満足で元気に歩けることが何より重要な現実だった。

◆場面はいよいよオーストラリアの旅に突入! 公募などで集まったメンバーは、自称イイカゲーンな風間隊長らしく事前打ち合わせなしに成田空港で初めて対面。出発地点のパースでは「今回の旅ではみんなカミングアウトして本音で話そう。喜怒哀楽も隠さず出して自分の障害と立ち向かって行こう」と約束した。53日間にわたる旅は、1,000kmごとに交代で計5人の医師が同伴するが、健康面の自己管理が重要になるためそれぞれに緊張があった。風間さんは「決して背伸びしないで今の体でやる。そのうち慣れてくる」を自身の心得として出発した。

◆メンバーの“マサ”さんこと山崎昌範さんは、48歳。8年前に勤務先で車の部品に押しつぶされ、頚椎の4・5・6番目を損傷。当時は首から下が動かない重症だったが、「リハビリと運と先生に恵まれて」杖をついて歩けるまでになった。リハビリに飽きると病院を抜け出し、パックとテントを持って日本中旅したこともあるマサさん。しかし今回は出発2週間前に風間さんから「オーストラリア行くか?」と突然の誘い。2人の若いアスリートたちに“普通の障害者”である自分がついて行けるのか。正直心配だったが、遅れるのは嫌だ!と負けん気一本で進むうち、気がつくとゴールしていた。

◆左手足は今でもしびれや麻痺があり、オーストラリアのザラメのような凸凹道では自転車の振動が楽ではなかったのも本音。でも今の現状と向き合おうという一心で前へ。「異国の地でマサの関西弁を聞くと、日本を思い出して癒されたよー」と風間さんが嬉しそうに笑った。旅では夜な夜な居酒屋マサを開いていた酒盛り番長だ。

◆紅一点の“サキ”さんこと今利紗紀さんは、歯科助手をしている26歳。「初めて会ったとき、美人でビックリした! 俺ってやっぱりついてるなあ」と風間さんが話すように、とても可愛い女性。外見は健康体に見える彼女は大学の体育学部にいた20歳のとき、骨のがんである骨肉腫を発症し休学して手術。大好きな運動をあきらめなさいと医師からは言われ、抗がん剤治療を受けながら毎日病院の白い天井ばかり眺める日々。

◆心まで壊れてしまいそうなサキさんに、主治医から「もう何でも好きなことやっていいよ」との一言。すぐ復学して見事に教員免許を取得した。手術の際は足切断か人工関節か選択を迫られ、運動を続けるため義足を履ける前者を選びかけたサキさんだが、周囲の薦めで足を残すことにした。必死のリハビリで、今はスキーも100m走もやれる。「前例がないなら私がやってやる!」、サキさんからは負けるもんかの信念が伝わってくる。

◆がんが肺に転移し、両肺の手術も経験済み。今も3か月ごとにがんセンターで検査があり不安は消えないが、今回の旅の企画を知り「これなら楽しそうじゃん!」と思った。同時に、骨肉腫をもっている人たちに、運動をあきらめなくても平気だよと希望をもってほしくて、それを前面に出していこうと思った。「サキは気丈夫。崖っぷちに立った人の腹の座り方がある。女は年じゃないね、強さがあるよ」と風間さん。彼女のガッツで旅のムードがさらに勢いづいたことは何度もあった。

◆最後は“テツ”さんこと田中哲也さん、38歳。チームの顔とよばれる理由は、片足にサイボーグのような金属製の義足をつけていて、見た瞬間に足がないとわかるからだ。「僕は見た目はこの4人の中で一番重いけれど、進行もないし痛みもないから本当は一番軽いんですよ」とテツさん。19歳のときにバイク事故に遭い手術。病院のベッドに寝ていても片足がないことに気づかなかった彼に、「足がつかなかったんだよ」と母親が告知した。ショックで1週間落ち込んだが「考えてもしょうがない! 楽しもう!」と、障害者スポーツにのめりこんだ。

◆長野とソルトレイク五輪ではパラリンピックのアルペン日本代表選手として出場。小さい頃から青森の実家で畑仕事をして鍛えた体力には自信がある。トリノ五輪代表の選考大会では、気合が入り加速しすぎて転倒、唯一の一本足を骨折して冷や汗! 今は引退してスキーインストラクターとして活躍している。風間さんが「旅の出発前にテッちゃんに電話したら、今墓参り中だって言うんだよ。誰のお墓って尋ねると、自分の足が埋まってるって言うんだよ。驚いた!」。

◆もう1人紹介したい人がいる、と風間さん。現地のサポートチームの一員である帝京大学医学部整形外科学講座教授の松下隆先生だ。“運動器の10年”の提唱者で、日本支部の運営委員長でもある。治療が上手くいかず13ヶ月間苦しんでいた風間さんを1週間で治した恩人。「俺の“治しの親”。医者を超えてお父さんのような存在です」と風間さん。松下先生曰く「外傷分野だけに限って言えば、先進国では日本の治療は飛びぬけて最低。なんとかしなければいけない」。それはまさに風間さんが身をもって感じていたことで2人は意気投合し、風間さんが“運動器の10年”を知るきっかけになった。

◆旅のスライドが続く。空が大きい! 大地も大きいし海も大きい! 山火事で焦げた森林地帯や、穀倉地帯、放牧地を、電動アシスト付き自転車のペダルを漕いでひたすらに進む4人(バッテリーは太陽でチャージ)。遠目では普通のサイクリストに見えるが、通り過ぎるトラックの運転手たちは、テツさんの一本足を目にしたり、キャンペーンだと知ると、ピースサインや時には10ドル札でエールを届けてくれた。「義足は生足の回転の速さについていけないので、全部一本足で走ったんです、ハッハッハー」と笑うテツさんに「なんのための義足だよォー。ずっと肩にかついでるんだもん。ワハハー」と風間さんも大笑い。珍道中のエピソードと掛け合い漫才のようなチームワークで会場にも笑いが絶えなくて、エネルギッシュな4人に圧倒された。

◆この旅の大事な目的の一つである外傷治療施設の訪問では、高級デパートのようにきれいな施設に驚いたと話す風間さん。松下先生は「スタッフも大事。日本でも、ヘリが着陸できる場所を確保したり、医師を分散させず集めて24時間体制をつくることが必要」と話していた。

◆最後に一言ずつお願いすると、「自分が動けば、チャンスはたぶんどこかに転がってるんだと思う。健常者も身障者も関係ない、チャンスがあったらつかんでみましょうや!と感じたのが一番の思い出です」とマサさん。

◆続いてサキさんが「道中で死んでいるカンガルーを見たり何もないところを走っていると、ああ私は生きているんだなーと思う。再発の危険性と闘いながらハラハラしているし、苦しくても生きて自転車をこげることにありがたさを感じた。生きてるって感じながら、今も生きてます!」。

◆テツさんは「何もない146kmのストレートラインのナラボー平原をまた走ってみたい。この片足でどこまで自分の可能性を最大限に活かせるのか、健常者にどこまでくらいついていけるのか、逆に追い越していけるのかが僕の目標。障害者がなんだって言われないようなスポーツ選手を目指していきたいですね!」。

◆最後は風間隊長。「つくづく思ったよ〜、元気っていいなあ!って。何かに挑んで頑張るっていいなあ。障害者も健常者も関係ないよ!」。

◆報告会の余韻は続き、2次会でも大騒ぎ。テツさんの義足を外して触らせていただく機会もあった。女優さんのように美しい風間夫人恵美子さんにも会えてドキドキした。太陽みたいな風間さんの大カムバックと、陽気なマサさん、サキさん、テツさん3人の登場で報告会は常夏にパワフルだった。報告会のあとにはずっしり勇気が残り、年が明けた今もずっと命と体と心について考えさせられている。(大西夏奈子


報告者たちのひとこと

「行動を公明正大に“讃え”評価(時には厳しく)してくれる場が『地平線会議』なのだな」

■冒険(旅)の成果は、後に報告を終えてこそ完結する、と常々思っています。誰にも頼まれもしない冒険(旅)に、勝手に出掛けて行って勝手に帰って来て後「どうだった?」と人様に聞いてもらえるなど、とてつもない幸せと言っていいでしょう。旅先での自分の興奮と感動を、帰ってから他の人達にも共感(理解)して貰えるなどは、旅を2倍にも3倍にも楽しむことに等しいのです。

◆お陰さまで、今回の私たち障害者4人によるオーストラリア自転車横断の旅は、現地において十二分に手応えの有った成果に加えて、帰国後の新宿スポーツセンターの地平線会議の報告会で、すっきり「実」を結んだ感がありました。熱心な皆様の聴聞に対して心から感謝を申し上げます。

◆実は、旅の専門家を前にしての報告会だったから、最初はやや緊張ぎみでした(取り調べされるようで?)が、始まってみれば、逆に「旅心」というものをちゃんと理解しくれている人達だから、普通の人たちよりもずっと深く内容を理解をして貰えたような気がしました。私たちの今回の旅の本音は─「運動器の十年」という社会貢献活動を踏まえて、それぞれの障害を乗り越えて目標に向い頑張ること、(健常者に負けないくらいの)夢を実現する勇気を持つこと─にありました。そして、癌と闘うサキも、左足だけのテツも、脊髄損傷のマサも皆、申し分の無い頑張り様でした。

◆活動の成果の方は、現地でどれほどの人達と出会い実績を積めたか、に見る事が出来ますが、一方の見えない自分たちの頑張りや勇気となると、実感としては旅の途中の苦しみや最終ゴールの感動の中にあっても、所詮は自分達にしか解らない? そんなジレンマを、沢山の方達によって公明正大に“讃え”評価(時には厳しく)してくれる実に有り難い場が「地平線会議」なのだな、とつくづく感謝の気持ちでいっぱいの報告会でありました。

◆当日出席の皆様、スタッフの皆様、本当にありがとうございました。これでやっと「オーストラリア自転車横断」の荷を下ろすことが出来ます。やれやれ……。(風間深志

「皆さんにお会いでき又ひと回りデカクなりました」

■世間知らずで…「地平線会議」ってなんだ? とはじめ思いました。風間さんから聞いたのと地平線通信を見てはじめて知りました。もう30年も続いてる!! ビックリ! です。風間さんの冒険活動をはじめさまざまな冒険活動をされてる方々ばかり。地平線通信を見ているとあんな所やこんな所自分も行ってみたい!所ばかりで……二次会でも沢山の人達とお話ができあっ!という間でした。こんな時間ってホントにあっ!という間ですね!

◆地平線会議では今回のオーストラリア自転車の旅の話はあまりできませんでしたが僕たち障害者、風間さん、やまちゃん、サキちゃんの話はなかなか発表できる機会もなく皆さんとお話でき嬉しくおもいます。8月25日パースを出発しシドニーを目指す! あの広い大陸でしかも自転車! 癒されるのは仲間の声と、菜の花畑の花の香り牛や羊の鳴き声カンガルーやエミューの野生動物でした。53日かけてシドニーにゴール! 5153キロの自転車旅! オイラは右足はありませんが自転車という最高のパートナーと自由自在に動き回れる。オーストラリアのデッカイ大陸のように心身共に成長しました。そして地平線会議で皆さんとお会いできお話ができてさらに成長しました。また皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。何かあるのが人生。何もない人生なんてある訳がない。明るい気持ちで毎日、楽しく生きることこそ人生。(田中哲也

「人の記憶に残る人間になりたい。そして、私自身も楽しい記憶を含め喜怒哀楽をより経験し感じたい」

■無事終電にも間に合いました(走れる足に戻ってよかった!)。帰国して2か月。話す相手は友人くらいでもっともっとたくさんの方に伝えたく、うずうずしていたんですワタシ。今回障がい者であるからこそ参加できた企画でしたが、以前の私だったら『差別されてる』って思っていたでしょうね。今は『機会は生かせ。楽しく生きなきゃもったいない』という気持ちで生活しています。

◆報告会で触れたように私を救ってくれたのは闘病の戦友であり医師であり仲間でありスポーツです。自転車がなければ私はただ息をして生かされてるだけでしょう。あぁ身体が動くってなんてすばらしい! 発病当時のことを江本さんに質問されましたが、もう5年も前のことなのに今回のオーストラリアよりも鮮明に覚えていることが多々あります。

◆人間の記憶はなんて残酷なんだろう、直ぐに忘れられたらいいのにと闘病時は思っていましたが、今は人の記憶に残る人間になりたい。そして、私自身も楽しい記憶を含め喜怒哀楽をより経験し感じたい。行動せねば! 伝えたいことがうまく話せず不十分で申し訳ない気持ちがありますが、今回報告会の機会を下さった地平線会議の皆様ありがとうございました。(今利紗紀

「あの地平線会議でまさか、私がお話をさせていただくとは」

■地平線会議のことは、ネットで植村直己さんのことを検索中に知りました。小豆島で隣りのテントの方と地平線会議のことが話題になり、それ以来ホームページを拝見していました。その地平線会議でなんと、まさか、私がお話をさせていただくとは、まったく考えていませんでした。まして自分の障害についてあの様に真面目に語るとは……。

◆いままでは、仲間や、旅の途中で出会った方々に酒の肴として話した程度です。はたして皆さんには退屈せずに聞いていただけたのでしょうか? 自分の中にたくさんの?が浮かんでいます。次回、この様な機会があればもう少しうまく話せるかも……。ですが今回、江本さん、スタッフの皆さん、そして話を真摯に聞いてくださった参加者の皆さんに出会えた事を、たいへん喜んでいます。

◆そして2月にスタートする、風間深志さんの「障害者100人による日本縦断駅伝」(スタートは2月21日、沖縄を出発し各県の障害者が、たすきをリレーして札幌にゴール)に私たちオーストラリア組は、サポート隊として、また私は、マネージャー兼サポートとして全行程に参加します。また何時か、皆さんと会えることを楽しみにしています。(とくに2次会には是非!) (山崎昌範


回想・風間深志さんとの「キリマンジャロ挑戦」

■昨日(12月25日)の報告会での風間深志さんの話には胸を打たれた。何度か涙ぐむような思いをしたが、「風間さん、よくぞここまで回復したねえ…」と、声をかけたくなった。さらに驚かされたのは、「オーストラリア横断」に同行した昌さん、哲さん、紗紀さんの3人。重度の障害をかかえながら、それをちっとも顔に出さず、底抜けの明るさだった。風間さんが3人に大きな影響を与えただけでなく、3人から風間さんが得たものも、すごく大きなものだったと容易に想像できた。風間さんは以前の元気さを完全に取り戻していた。それが嬉しかった。

◆「カソリ&カザマ」がバイクでアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロを登ろうと思いたったきっかけは、なんともたわいのないものだった。ぼくが『月刊オートバイ』誌で「峠越え」の連載をはじめたのは1975年春のこと。そのとき、編集部に風間さんがいた。風間さんは「峠越え」をおもしろがり、「カソリさんがどんな風に峠越えしているのが、同行取材をしてみたい」ということで、その年の晩秋に甲州と信州の境をなす奥秩父連峰の峠をバイクで越えた。賀曽利隆28歳、風間深志25歳のときのことだった。

◆雪の降る標高2360メートルの大弛峠を越え、信州峠を越えて一晩、甲州の温泉地、増富温泉で泊まった。温泉宿では湯上がりのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げていく。「カソリ&カザマ」は波長が合った。「オレはね、日本中の林道を全部、走破したいね。自分の走ったコースを地図上に赤く塗ってさ。日本地図をまっ赤にしてやる!」とカザマ。「ぼくはね、日本中の峠を全部、越えてやるんだ。何年かかっても絶対にやってやる!」とカソリ。「でもさ、カソリさん、日本なんて小っちゃいよ。どうせやるなら、世界で一番高いところにバイクで登ろうよ。オレたち男なんだからさ」。「カザマさん、でもエベレストは無理だな。アフリカのキリマンジャロならバイクでピークを極められるかもしれないよ」。「いいねー、カソリさん、やろう、キリマンジャロにバイクで登ろうよ」。結局、この増富温泉での“ほら話”がバイクでのキリマンジャロ挑戦のきっかけになった。

◆増富温泉からの帰り道では「よーし、バイクでキリマンジャロに登ろう!」と、風間さんと気合を入れて語り合った。東京に戻った後も、風間さんに会うたびにキリマンジャロの話をしたが、それはしょせんは夢物語でしかなかった。夢を弄んでいる楽しさはあったが、キリマンジャロ計画はすこしも進展しないし、それにともなう苦労も苦痛もまったくなかった。月日はどんどんと流れていったが、キリマンジャロはあいかわらずぼくたちの手に届くところにはなかった。風間さんと一緒に奥秩父の峠を越えてから4年後の1979年の初夏、『月刊オートバイ』の風間さんの担当している「オフロード天国」というページの企画で、南アルプス・スーパー林道の北沢峠を越えようと試みた。開発か、自然保護かで大もめにもめた峠だ。

◆一晩、山梨県側の峠下の広河原で野宿し、翌朝、夜明けと同時に出発した。このとき林道はまだ完成していなかったので、工事のはじまる前の時間帯をねらっての北沢峠の峠越えであった。峠道を登るにつれ、甲斐駒ヶ岳が目の前に迫ってくる。残雪が朝日を浴びてキラキラ輝いていた。想像していたほどの苦労もなく、山梨・長野県境の標高2032メートルの北沢峠に立った。峠を越え、長野県側に入り、峠下の戸台に下った。「オレたち、日本で最初にバイクで北沢峠を越えたんだ」。このときの北沢峠を越えたという感激がキリマンジャロに対する気持ちをメラメラと燃え上がらせた。ぼくたちはさっそく具体的な「キリマンジャロ計画」をまとめあげ、「チーム・キリマンジャロ」を結成した。

◆計画がかなり具体化したころ、読売新聞夕刊の社会面に5段抜きの大きな記事で、ぼくたちの「キリマンジャロ計画」が報道された。江本嘉伸さんが書いてくれた記事だ。この江本さんの記事が冒険家、風間深志を誕生させることになる。

◆読売新聞の記事の直後に、風間さんは会社の副社長に呼ばれ、その席にぼくも同席した。「いやー、読売の記事を見たよ。なんとしても成功するようがんばってくれ。会社としても全面的にバックアップしよう」と、そのぐらいのことを言ってもらえるのではないかと期待したが、甘い期待は見事に打ち砕かれた。

◆副社長は風間さんに「どうしてもキリマンジャロに行くのなら、会社を辞めてもらわなくてはならない。風間君だけに特別な休暇を出すことはできない。考えてもみたまえ。もし私がここでキミの休暇を認めていたら、同じようなケースが次から次へと出てくるのは目に見えている」と、まさに企業の論理でそう言った。副社長には考え直してくれるように頼みこんだのだが、ムダに終わった。風間さんはキリマンジャロをとるか、会社をとるかでずいぶん悩んだが、結局、会社を辞めてキリマンジャロを取った。風間さんにとっては、まさに一世一代の、人生を賭けてのキリマンジャロになった。

◆「キリマンジャロ挑戦」はキリマンジャロがナショナルパークになったこともあって、バイクではマラングーからのメインルートに入っていけなかった。で、真南のムウェカからの直登ルートに突入。ジャングルを抜け、氷河地帯を見上げる標高4000メートルの地点で引き返した。ぼくにとってはキリマンジャロはもうこれで十分だったが、風間さんは違った。その後、バイクでネパール側と中国側からエベレスト(チョモランマ)に挑戦し、さらに南米の最高峰、アコンカグアにもバイクで挑戦することになる。

◆「カソリ&カザマ」はキリマンジャロの2年後、1982年には「チーム・ホライゾン」を結成し、「パリ・ダカール・ラリー」に参戦。日本人ライダーとしては初めてのことになる。「地平線会議」を意識しての「チーム・ホライゾン」。ぼくは大会10日目に九死に一生を得る事故を起こし、サハラからパリに空輸されたが、一人きりになった風間さんは残り10日間を見事に完走。まったくサポートのない中で、総合17位に輝いた。これは長らく日本人ライダーの最高位になっていた。

◆サハラの地平線を走り抜いた風間さんは、「パリ・ダカ」で新たなる力を得た。そして信じられないような「神の目」をも持った。その後、風間さんは超人的な力と神の目でもってさらなる地平線を求め、前人未踏のバイクでの北極点到達、南極点到達という快挙を成しとげることになる。それらはすべて、読売の、江本さんのあの記事からはじまったことなのである。(賀曽利隆 12月26日)


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