2011年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信381より
先月の報告会から

悪夢と忘れていた未来

賀曽利隆・高世仁

2011年6月24日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

★第1部 「鵜ノ子岬から尻屋崎まで 東北・太平洋岸の全被災地報告」
 バイク・ジャーナリスト 賀曽利隆

★第2部 「チェルノブィリ最新報告 そしてフクシマ」
 映像ジャーナリスト・高世仁

「鵜ノ子岬から尻屋崎まで 東北・太平洋岸の全被災地報告」
賀曽利隆

■今回は、貴重なお二人の報告会ということで6時半きっかりにスタート。いつも以上に賀曽利隆さんはテンションが高かった。地平線会議のイラストレーターだった三五康司さん(長野画伯が不在の時、常にカバーしてくれた)がリハビリ最中にもかかわらず奥さんに支えられて参加してくれたからだ。賀曽利さんは世界中で多くの人に出会っただろう。その一人ひとりをよく覚えており、そのつながりをともかく大事にする。探検家植村直己さんに出会った人で、彼を悪く言う人は誰もいなかった。賀曽利さんも植村さんによく似ている。一度でも会った人は誰もが彼のことを覚えている。先日岡山で恐竜研究の第一人者の方にお会いした。「三輪さんって、もしかすると賀曽利さんの仲間の?」と言われあとは話がスムーズに進んだ。賀曽利の威光だ。

◆昔私は高校の先生をしていた時、暴走族にいろいろ悩まされた。つい「俺は賀曽利にバイクを教えたんだぞー!」と言ってしまい、後に引けなくなった。賀曽利さんに話したらすぐに駆けつけてくれ「三輪先生がボクにバイクを教えてくれたんだ」と連中に言ってくれた。それ以降清瀬の町をバイクで走り回っている連中に挨拶されるようになった。まさに「虎の威を借りて……」の教師生活をしていた。若者のなかには「賀曽利なんかに負けてたまるか!」と気負って「サハラの会」を始めた連中もいたが、いずれも打ち負かされて「賀曽利ック」教徒になっていった。三五さんも前はバイク乗り、その後奥さんともども賀曽利ックの一員になった。

◆今行われている地平線報告会は1979年賀曽利さんが「生の情報を集めるためには本人を呼ばなければ……」という精神ではじめた。彼はその後すぐに旅に出たので後は私が担当していた。いまでこそ大盛況だが、ある年末の会はスタッフを入れても10人足らずだったこともある。長野君と「このまま減ると来年は0になるなあ」と心配していたが、「困った時の賀曽利頼み」という標語の通り、彼を呼ぶと100人近くが集まるようになった。

◆今回の震災で、会場の時間が昼間になり、4月、5月の報告会に人が集まらないことを心配した江本さんは「困った時の賀曽利頼み」の奥の手を出した。おかげで多くの人が集まった。今回またまた賀曽利さんは登場だが、前回以上に気合が入った。今回のテーマは震災後の鵜ノ子岬から尻屋岬を走る見る聞くの旅だ。

◆彼の旅の話は地図がないとほとんど分らない。福島浜通りから、宮城、岩手のリアス海岸、青森のさいはて岬までの入り江、岬、迂回林道を行く。彼の頭の中には東北中の道路、林道、海岸線、岬がびっしり描かれており、出会った人の名前をきちんと覚えているように地名に愛着を持ってしっかり記憶している。賀曽利さんの師匠である宮本常一さんの話も住宅地図にあるレベルの詳しさで日本中の地名、人名が次々と出てくる。

◆賀曽利さんの今回の話も「広田湾と大野湾の両側から津波が来て広田半島は島になったんです」と言われるがどんな場所なのか地図で探さなけりゃわからない。そんな地名が機関銃のごとく発せられる。私は、彼が作成にかかわった昭文社の「復興支援地図」のページを繰りながら懸命に地名を追いかけたが、しばらくすると地名なんかどうでもよくなり、彼のバイクの後ろにまたがって一緒の揺れの中で旅をしているような気分になる。かくして聴衆はカソリック教徒に洗脳されていく。

◆今回の旅は、小さな鵜ノ子岬からはじまる。勿来の関が海に突き出した岬で、ここから福島の浜通りが始まる。岬の下の勿来漁港で第一泊目の野宿。そこへ原発災害で避難民になった渡辺哲さん(前回報告者)が差し入れを持って来てくれた。「オイオイ被災者に世話になるなんて、立場が逆じゃないか!」と私は思ったが、そんなことは気にしない教祖は、「勿来港がほとんど被害を受けなかったのは岬があったからですよ!」という。岬は「御崎」の意味でそこには神社がある。

◆岬3点セットは神社、灯台、港で、ちゃんと揃っているところは今回も被害がなかったんですよ。……カソリ教義その1だ。美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑が建つ塩屋の岬も奇跡的に被害がなかった。ここにも灯台、港はある。将来歌碑の場所が「ひばり」神社になるに違いない。……これは三輪説。

◆原発で福島浜通りの道路は寸断され、渡辺さん他大勢の人が避難させられた。「バイク乗りはとことん行けるところまで行こうという精神が旺盛なんです」原発周辺のどの道路にも警備員や警官が立っていて先には進めない。原発を迂回し林道を通って広野から南相馬市へ抜ける。国道を経由すれば簡単だけど、20km圏ギリギリを進まなければ住民の辛さは分らない。福島県は浜通り、中通り、会津と3列に地域区分されるけど、今回通った阿武隈という地域を忘れていないだろうか。賀曽利さんは大好きな阿武隈を加えて4列が正しい福島県の地域区分ですという。……カソリ教義その2 阿武隈の山の中にはいい人達がいるんですよ!

◆阿武隈山中を経て南相馬市にでる。ここから石巻までの海岸が今回の津波で一番被害を受けたところ。「もう世紀末の状態ですよ。こんなにひどい状況とは思わなかった」原発の影響で遺体捜索もできない地域がある。前回の報告で「行方不明の最後の一人まで探さなきゃ、災害の復興なんて言えないですよ」と言った彼の言葉を思い出す。すでに3か月たったがまだ行方不明者は数千人もいるのだ。賀曽利の怒りは消えない。私は松川浦の端にある鵜の尾岬が気になっていたが「松川浦なんて海ですよ!」長い砂州が津波で消え去り海とつながったらしい。

◆「亘理の鳥の海海浜の森なんかめちゃくちゃです」阿武隈川、名取川など川の出口の平野や仙台空港などは壊滅状態になっていた。「よくわかりましたよ。津波に対しては河口が盲点だったんです」……カソリ教義その3が展開される。伊達藩自慢の運河貞山堀も「あれを伝わって津波が入ってきたんですよ」と容赦ない。旧北上川の河口の町、石巻はもう地獄の状態です。こんなにやられるとは思ってもみなかった。

◆牡鹿半島から三陸リアス海岸が始まる。平成の大合併で石巻は大きなエリアになっていた。中心部はやられたけど無傷の場所もあり、そこを拠点に復興を始めることができる。しかし小さな町村は全域がやられたところもあり役場も町長も亡くなって自力ではどうにもならない場所もある。平成の大合併にもよい面があったのだ。前回報告者、八巻英成さんが住職の保福寺は目の前の出島が防波堤になって津波被害が小さかった。それと同じで日本三景松島も例外的に被害が小さかったのは、松島湾の前にある浦戸島が防波堤になっていたからだ。松島にはもう観光客も来ている。ひとくくりに全部の地域が被害にあった訳ではない。それぞれ現場にあった復興を考えなければならない。……カソリ教義その4。

◆陸奥国の国府だった多賀城は1100年前の貞観地震の時には津波に襲われた。今回多賀城市は大変な被害を受けたが、津波は45号線でとまり多賀城跡までは来なかった。だからと言って今回の方が小さい津波ではないが、過去の教訓が生かされていないことが見受けられた。貞観地震、今回の地震津波を100とすれば明治三陸地震は50ぐらい、1960年のチリ地震津波は10程度で桁が違う。……カソリ教義その5。今の大人はチリ地震津波の経験だけで油断が大きかったのではなかろうか。これまでの津波の遡上最高は明治三陸地震で観測された綾里の38mだったが、重茂半島姉吉では38.9mまで遡上した。しかし姉吉は誰も亡くならなかった。ここには「ここより下に家を建てるな」という石碑があり、地区の人は教えを守ってきたのだ。

◆さらに三陸のリアスの湾をひとつひとつ訪ね、現在の様子を見て聞いて歩く。「あるくみるきく」は賀曽利さんの師匠である宮本常一さんの教えだ。宮本さんはさらに「考える、話す、書く」も実践した。賀曽利さんは歩いた日数、走った距離では師匠を超えた。今回の報告でも分かったが「話す」のは賀曽利さんの方が上手だ。

◆「書く」については量だけは超えている。思索という点では「宮本学」が成り立つほどの人と比べるのは失礼と言われるかもしれない。しかし思索というのは深さと広さの積だと私は思う。お月さんまで2往復する距離を地球上で走りまわっている賀曽利さんの広がりは「賀曽利学」を創造するまでになっている。

◆震災後にさまざまな方々のレポートを見聞きしたが、ほとんどが未曾有、想定外、価値観の変革、生活の見直しなどだ。それらはマスコミで使い回された言葉だ。何年もかけ、この広がりを歩き走りまわってきた賀曽利レポートとは説得力が違った。3.11以降へなへな、ボー然となり、テレビに向かってブツブツ言うだけの生活を送ってきた私も、賀曽利ック教徒に戻ってそろそろ立ち直ろう。重くなった腰を上げなければと思っている。(「カソリック教」も「カソリ教義」も本人の言葉ではなく三輪が勝手に作った言葉です。今回賀曽利ックに再改宗した三輪主彦

「チェルノブィリ最新報告 そしてフクシマ」
高世仁

■東北沿岸部を隈なく巡り、被災地の近況を報告された冒険王・賀曽利隆さんに続いては、北朝鮮拉致問題の報道などでテレビ出演もされている映像ジャーナリストの高世仁さんが登場。

◆「奥さんともここで出会っているし、地平線会議にはいろいろ恩義を感じているんです」。まずはそんな発言で会場を和ませつつ、昨今のテレビ不況によって、これまで縁のなかったネット動画を通じて取材映像を配信するに至った経緯から、高世さんの報告はスタートした。

◆今回、高世さんがチェルノブイリを取材したのは4月初旬。フジテレビでの放映を前提とした取材だったが、実際の放映時間はわずか5分ほどだったため、他局への売り込みを検討する。「今年はチェルノブイリ25周年なので、きっと他の局も乗ってくると思っていました。ところが、福島第一原発がこういう状況のなかでチェルノブイリの映像を流すと、人々に不安を与えるだろうというTV局独特の配慮が働いて、売れなかったんです」。

◆その後、ネット上で動画配信するという選択肢を提示された高世さんは、無料公開することを決め、映像を5つのテーマに分けてアップ。予想以上の反響があり、CSや別の動画サイトでの放映、さらにはDVD販売の話も決まった。

◆まず、チェルノブイリとは、どのような事故だったのか。86年4月26日、チェルノブイリ原発は試験運転中、制御が効かなくなってメルトダウンする。その後、大爆発・大炎上し、黒煙とともに放射性物質をまき散らした。事故当時、ゴルバチョフは登場していたが、大半の守旧派は、事故を隠蔽しようと動く。ところが、翌日スウェーデンの観測所が高い放射線量を測定し、騒動になったため、ソ連は事故を公表。しかし、政府が国民に事故を知らせたのは1週間後だった……。

◆驚くのは、事故を発表するや、政府は一転、30キロ圏の住民をわずか1〜2日で強制避難させたこと。「この辺りは共産圏の強みなのでしょうね」と高世さん。首都キエフでは、学生は黒海に近いピオニールに4か月間疎開させられ、夏休みは9月1日から10月1日まで延長された。

◆ちなみに4月下旬といえば、春の訪れを待ちわびていた人々が、戸外に出て菜園の手入れを始める時期。加えてメーデーの大パレードなどもあり、結果的に、多くの人々が死の灰を浴びせられる事態を招いたのだった。

◆25年後の現在も、原発から30キロ圏は立入禁止区域(第1ゾーン)のまま。そしてセシウムの汚染度によって、第1ゾーン同様、全員退去しなければいけない無条件移住区域(第2ゾーン)、任意移住区域、放射能特別管理区域と、危険度によって4つの区域分けがなされている。

◆この基準で見ると、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3か国で1万km2、日本では800km2=琵琶湖の1.2倍の面積が、立入禁止区域になるという。

◆ここで、5つのなかから 1)「事故後の後始末」をテーマにした映像を上映。「あとどのくらい管理し続けなければいけないのですか」という高世さんの問いかけに答えることができない、担当者の困惑した表情が印象に残る。そのほかは 2)立入禁止地区に暮らす人々 3)ガンと生きる被ばく者 4)情報隠蔽と避難の実態、5)汚染土壌との闘い、という4つのテーマで編集されている。

◆リーマン・ショック以降、経済危機に陥っているウクライナでは、世界から支援を得るために、高世さんいわく“警戒しないといけないくらい”積極的に情報が公開されている。立入禁止区域のホテルに宿泊する、原発労働者と同じ食事をする、原発の建物内に入る……。そんなディープな「チェルノブイリ観光ツアー」も組まれている。ガイドもよく心得たもので、参加者の要望に応じて、放射線数値の高いホットスポットに連れていくとのこと。「その一方で、広大な土地で居住や耕作が禁じられ、ガンに苦しんでいるひとがいる。月並みなことばですけど、事故はまだ終わっていないと思います」。

◆今回の原発事故について、世界は、日本人の想像よりはるかに強い関心を寄せている。「ウクライナでも、老若男女問わず、どこに行ってもフクシマにものすごい関心を持っています」と話す高世さんは、取材を通じて事故の後処理には、いかに時間とお金と労力がかかるかがわかるにつれ、怖くなりました……と続けた。

◆「石棺を覆うための、世界最大の移動式ドームの建造費は1200億円。フランスの企業は100年、きちんと使えば300年使えるというけれど、そのためには15年ごとのメンテナンスに建造費と同等の費用がかかり、3000人以上のスタッフを要するといいます。普通の原発でも20〜30年かかるのに、事故を起こした原発は、廃炉にするにも130年かかるといわれるように、直接的な費用だけでも、気が遠くなるようなコストがかかるわけです」。

◆事故後、ウクライナで原発の被災者と認定された人数は約250万人。被災の状況や程度に応じて、40種類ほどの年金や補償金が支払われている。90年代前半には、国家予算の15%が直接的なチェルノブイリ関連の費用に充てられ、給料の19%がチェルノブイリ目的税として課税されていたそうで、こうした現実からも、原発事故が国と国民に、いかに多くの負担を強いるかがよくわかる。

◆もう1つ、高世さんの話のなかで強く残ったのが、「適応」ということばだった。原発から30キロ圏には、「強制退去させられたけれど、移住先ではとても暮らせない」と危険地域に戻ってきた老人たちが、今も300〜350人暮らしている。暮らしを賄う年金は郵便局から届けられ、週に1度は移動販売車が食料などを売りに来る。寂しいけれど、畑で野菜も育つし、空気はいいし、幸せに暮らしていると話す老人たちの、「政府のいう通り移住した人々はどれほど悲惨か」という言葉は、まさに日本でも、30キロ圏の住民の方々が直面している問題といえるだろう。

◆「お百姓さんを生まれ育った土地から引き離せば、精神的にも肉体的にも大きなストレスになり、自殺やアルコール中毒の引き金になりかねません。飯館村でも、特養などは例外的にそのまま残す話になりましたが、実際、老人をいきなり違う環境に置いたらどうなるか。私たちは放射線量の方からばかり考えるけれど、避難したほうが、リスクが高くなる場合もあるのではないか。現地を取材したことで私自身、認識が少し変わりました」。

◆年齢によって放射能への感受性は異なるし、同じ30キロ圏でも、放射能の汚染度は場所によって大きく変わる。除染作業を行うなど、できる努力をすべてやった上で土地に居続ける方法を、そろそろ考える時期が来ているのではないか。高世さんは「適応」の前提について、そんなふうに話される。

◆3日で帰ることができるといわれ、住民票と現金を手にしただけの住民を強制避難させた政府を「共産主義国家」と非難するのはたやすいけれど、翻って日本政府や東電の対応、情報開示はどうだったか。

◆気象庁は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)で、放射能がどの方向に流れるか予測できたはずなのに何もアナウンスせず、放射能が気になる人々は、ドイツや韓国の気象庁の情報をチェックしていたこと。キエフで取材(4月初旬)をしたチェルノブイリ博物館のスタッフは、高世さんに「(福島第1原発は)絶対メルトダウンしている」と話したそうだが、政府と東電は、事故から2か月以上経った5月半ばを過ぎて、ようやくメルトダウンを認めたこと。「いつ家に帰れますか」と訴える避難所の被災者の方々に対して、すぐ帰れるかのような話をする政治家たち。「情報をきちんと伝えなかった点では、日本とソ連の対応は、それほど変わらなかったのではないでしょうか」。

◆そして原発は絶対安全、という前提で、事故に備えた対策がまったく取られていなかったように、(原発の)近隣住民、そして多くの日本人が、原発にあまりにも意識を向けてこなかったという事実。「福島第一原発が放出している放射線量は、チェルノブイリの15%に近づいています。違いもあるけれど、住民の再避難、土壌の表土の入れ替え、情報公開の遅さやその真偽など、フクシマとチェルノブイリは、まるでデジャ=ヴュのように似ているんです」

◆まだ、事故は収束していないのに、日本全体としては、何とかなるというムードや風潮が感じられる、と話す高世さん。「でも、見ればみるほど原発事故は大変なものです。放射能汚染という現実に適応して生きざるを得ないこと、その覚悟が必要だと、私は思っています」。

◆情報の出し方を検証すること。そして特に子どもの健康調査はしっかりやっていくこと。事故後の政府や東電の初動に納得がいかなかったと話す高世さんは、今後、やるべきこととして、その2点を挙げられた。

◆実は今回、高世さんが大震災を報道する際、取材相手は当たり前のことのように、こう口にしたという。「TV局は東電をはじめ、大企業から広告費をもらっているから、原発のこともちゃんと報道できないんですよね」。TV業界に身を置く者として、高世さん自身、もちろんその感じはわからなくはない。だが、国難といわれる大災害時に、マスメディアは本当のことなど伝えていないと、世間の多くが思っているとすれば、これからTVはどうなるのか、このままでいいのか。今回はそんな思いのなかで決断に至った無料公開だったそうだ。

◆「ネットで公開してよかったと思いますか」という江本さんの問いに、「社会的反響の広がり方を見ると、求められていた情報だったことは間違いないとわかりました。お金にはならないけれど、よかったと思います」と、応えた高世さん。

◆チェルノブイリの教訓をフクシマにどう生かすべきか。本題に加え、ネットの影響力がここまで強く、大きくなっているなかで、今後、テレビやマスメディアによる報道がどうなっていくのだろう。そんなことを考えながら聞いた、今回の報告だった。(塚田恭子

★高世さんがネット上に公開した映像、チェルノブイリ「フクシマへの教訓」1〜5はジンネットチャンネル http://www.jin-net.co.jp/jinnettv.htm から、または youtube http://www.youtube.com/user/takase22/ から見ることができます。
報告者のひとこと

写真を「乗り上げ船」「巨大防潮堤」「原発事故関連」の三テーマに分けて見てもらいました

■大震災の2か月後、5月11日に出発した「頑張ってるぞ! 東北!! ツーリング」の「鵜ノ子岬→尻屋崎」ですが、その第1夜目はじつに印象的で忘れることができません。東京から常磐道でいわき勿来ICまで行き、東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬の勿来漁港で野宿したのですが、そこに4月の報告会で話してくれた渡辺哲さんが車で駆けつけてくれたのです。渡辺さん差し入れのカンビールとつまみで思いもよらない野宿宴会になり、夜中の漁港でおおいに語りあいました。その渡辺さんがいわき市から報告会の会場に一番乗りで来てくれました。今度は報告会の会場で、野宿宴会のつづきのようなノリで話すのでした。

◆今回の報告会では最初は話だけでいこうかとも思ったのですが、みなさんに「鵜ノ子岬→塩屋崎」の写真を見てもらってよかったと思っています。やはり「百聞は一見に如かず」といったところでしょうか。とはいっても何百キロもの東北太平洋岸の全域をわずか2、30枚の写真で見てもらうのは無理というもので、もうすこし詳しく多くの写真を見てもらいたいと何度も思いました。と同時に毎年のようにバイクで走っている大津波以前の東北・太平洋岸の写真も合わせて見てもらえたら…と思った次第です。

◆「鵜ノ子岬→尻屋崎」のあと「乗り上げ船」、「巨大防潮堤」、「原発事故関連」の3テーマの写真を見てもらいました。今回の大津波を象徴するような各地で見た「乗り上げ船」ですが、この言葉は江本さんの作った新造語。じつにうまくいい表した造語なので、これからも使わせてもらおうと思っています。

◆「原発事故関連」では「いわき→福島」の国道399号に焦点を当ててみました。その沿線で一番、強烈な印象で残ったのは川内村です。大地震にも大津波にもやられなかった阿武隈山地の川内村ですが、東電の福島第1原発の爆発事故の影響をモロに受け、村内のあちこちに「危険」、「立入禁止」の看板が立っていました。国道沿いの商店はすべてシャッターを下ろし、信用金庫や農協も休業中。放射能汚染の影響で田畑は荒れ放題。村はまるで死んだかのようでした。

◆報告会を終えて自宅に戻り、この原稿を書いていますが、書き終わり次第、「環日本海ツーリング」に出発します。東京から新潟まで行き、そこから日本海に沿って東北を北上。青森から函館に渡り、北海道→サハリン→ロシア本土→朝鮮半島と日本海を一周し、境港に戻ってきます。そのあとも東北の全域を縦横無尽に駆けめぐる予定でいます。大震災から6か月後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」もぜひともやってみたいと思ってます。これだけの大きな被害を受けた東北・太平洋岸なので、その復興は大変なことですが、その歩みをこれからもずっと見続け、応援しつづけていきたいと思っています。(賀曽利隆 報告会当日夜)

取材しながらどんどん怖くなった。「日本人は覚悟しなくては」

■今回のチェルノブイリ取材の結論は、「日本人は覚悟しなくては」だった。汚染地を車で走ると、放棄された農場と村々がどこまでも続く。事故原発の処理にはこれから100年かかり、運転の止まった原発に、これからもずっと大勢の人々が働き続けるという。250万人を超える被災者への補償は、国家財政を押しつぶしている。そして、多くの被災者が、今も、心と体へのダメージを抱えて暮らしている。原発事故とは、四半世紀という時間がすぎてもなお、これほど巨大な負担となって社会にのしかかってくるのか。国が傾くのではないか。取材しながらどんどん怖くなった。我々日本人も、これから、その負担を背負っていかなくてはならないのだ。ひるがえって、こんな事故が起きるまで、テレビはあまりにも原発の危険を軽視してきたと、業界で飯を食ってきた者として反省している。本来テレビに売るはずの取材映像を、ネットに無料で流すという「反逆」には、その反省も多少込められている。これをきっかけに新しい報道のあり方を模索していきたい。(高世仁


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