2013年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信408より
先月の報告会から

極限のリーダーシップ

佐藤徳郎

2013年3月22日  新宿区スポーツセンター

■遠くの海に見えていた津波があっと言う間に市街地に達して家屋や車、橋をも押し流し、ぐんぐん水嵩を増して町をのみ込んでいく……。宮城県南三陸町の防災対策庁舎から撮影されたという映像が流されると、会場は一瞬にして静まり返り、そのうちに小さな悲鳴が上がった。今回の報告者は、その南三陸町で震災後、地域の住民を先導してきた佐藤徳郎さんだ。

◆2011年3月11日。佐藤さんは、自宅から20キロほど離れた登米市中田町の花の卸屋にいた。家業としてホウレンソウ栽培のほかに生花を加工して販売していたため、彼岸を間近に控えたこの日、手元にあった現金17万円全部を握りしめて花の仕入れに行ったのだという。14時46分。佐藤さんは、ワゴン車いっぱいに花を積んで代金を支払った直後だった。おつりは1800円ほど。これが、津波後しばらくの間の全財産となった。

◆そして、立っていられないほどの揺れ。「これは絶対に津波が来る」と思い、車に飛び乗った。ところが、付近の北上川にかかる米谷大橋は渡れなかったり、三陸自動車道のインターもバーが下りていて入れなかったり、何度も足止めを食らう。5キロほど下流の登米大橋をやっと渡って猛スピードで国道398号線に入り、南三陸町の合同庁舎のあたりまで下ったところで交通規制に止められた。これ以上、町には入れない。車内から下方の川を覗き込むと、瓦礫が流れこんできているのが見える。

◆「津波だから逃げろ!」窓を開けてクラクションを鳴らしながら後ろの車に向かって叫び、縁石に乗り上げながらもUターンして上流を目指した。山を回って、ようやく自分の住む地域にある大雄寺の駐車場まで来たところで初めて、変わり果てた町の姿を目の当たりにした。「町全体がなかった。よく原爆の写真などで見るような光景が広がっていて、なんともいえない。現実として受け止められない自分がいた」。佐藤さんたちの「その日から」が始まった。

◆佐藤さんの自宅があったのは、南三陸町志津川。同町内での津波の被害は、死者556人、行方不明者223人。志津川にある建物の75%が被害を受けたといい、役場や警察、公立病院といった公共の建物も軒並み罹災した。前出の防災対策庁舎で、津波が来る瞬間まで避難を訴えた女性職員のエピソードが印象深い地域だ。佐藤さんが区長を勤める中瀬町行政区には197世帯603人が生活していたが、被災を逃れたのは、わずか8世帯。大規模半壊が1世帯あり、残りの188世帯が10分ほどの間に家を失い、27人が亡くなった。

◆佐藤さんが大雄寺の駐車場にたどり着いた時、付近には40人ほどの人が集まっていた。しかし、その中に家族の姿はない。200メートルほど下ったところの農家のビニールハウスで妻を見つけることはできたが、妻は「地元消防団員の長男が地震直後に水門に行くと言ったまま戻らない」と言う。志津川に隣接する歌津地区のスーパーに勤める次女とも連絡がつかない。「それでも、高台のほうに長男が運転を担当している消防車があったので大丈夫だろうと思った。次女も、離れて暮らす長女のところに『無事』という、たった二文字のメールを入れていたので生きているだろうとは思っていた」。

◆町の被害の状況もつかめないまま、その夜はビニールハウスに70人くらいが集まり、たき火で暖を取りながら朝を待った。夜間にも津波は何度も押し寄せ、高台に車両を停めていた警察がその度に「逃げろ」と教えに来てくれた。しかし、お年寄りたちは1度や2度は高台に逃げてくれたが、3度目にもなると「もう俺たちはいいや」と言って動かなくなってしまった。そう言って一瞬、佐藤さんは言葉を詰まらせた。数秒の沈黙。「例え高齢者であっても諦めさせるわけにはいかない。それが一次避難のときに一番辛かった……」。ふりしぼるような声でそう続けた。

◆雪の降る寒い夜半になって、やっと入って来たのは、町民約1万7千人のうち1万人と連絡が取れないという絶望的な情報だった。「自分のところは果たして何人が残っているのか」。愕然とした佐藤さんは、町内の住民の安否確認をすることにした。妻からは「娘も生きているか死んでいるか分からないのに、娘より部落の人が大事なのか」となじられたが、娘のことは妻とその兄がなんとか捜してくれるだろう。しかし、部落のことは自分がやらなければ、そう考えた。

◆張り紙や伝聞情報は排除し、実際に顔を確認できたらノートに名前を記入する方法で、震災翌日の12日から3日間、7か所の避難所を訪ねて歩いた。最終的に記載された名前は約250人分。RQ市民災害支援センターの活動で佐藤さんに出会った新垣亜美さんは、「震災直後に歩き回ったために、佐藤さんの足の爪が真っ黒につぶれていたことが印象的だった」と振り返る。

◆安否確認の2日目、交通規制の箇所で車を降りて歩き出したところ、後ろから来る車に呼び止められた。「お父さーん」と呼ぶその声は、慣れない山道を1日半かけて帰ってきた次女だった。2日ぶりとはいっても、とてつもなく長く待ち望んだ再会だっただろう。救出活動をしていた長男も無事に帰り、ようやく家族全員が顔を揃えたのは震災から1週間が経った後だったという。

◆ビニールハウスで一晩を過ごした佐藤さんらは、警察が無線で連絡を取り指定してくれた入谷小学校に避難。そこで23日間を過ごした後、2次避難としてRQが東北本部を置いていた登米市の鱒渕小学校へ。そこから仮設住宅に移るまでの約4か月間、中瀬町の人たちとスタッフは交流を深めていき、現在に至るまでその関係は続いているという。

◆なかでもRQが設けた足湯や食堂で開いた「お茶っこ」は、中瀬町の住民にとって精神面で大きな救いになったようだ。「4、5家族17、8人の人が小さい教室に雑魚寝状態で過ごしていれば、面白くないことも起きる。逃げ場所を作ってもらったおかげで鬱憤を晴らせたことが、避難所で大きなトラブルなく過ごせた一番の要因だったのではないか」。佐藤さんはこのように評価する。

◆一方、当時RQ総本部長を務めていた広瀬敏道さんは、佐藤さんの功績について次のように語る。「あのような災害時なので、地域がバラバラになってもしかたないと考えたところが圧倒的に多かった。でも、若い人なら地域から離れても生きていけるかもしれないが、お年寄りにとっては自分が生まれ育ったコミュニティーはものすごく大事。それを守るために佐藤さんは人並み外れた努力をされてきた」。

◆それというのも、入谷小、鱒渕小、仮設住宅と移っていく際に、佐藤さんは常に中瀬町の住民がまとまって動くことを主張してきたのだという。鱒渕小に移る際には、住民間でまとまった決断を行政によって一度は覆されそうになって、町長のところに直談判に行った。仮設住宅に関しても、当初は公用地が不足していて必要な軒数の3分の1ほどしか町内には建たない予定だったが、佐藤さんは「8世帯が残る地域にみんなで帰ろう」と民有地の使用を強く主張。取材をうけたNHK記者の口利きもあって、同時の国交省の大臣直々の約束を取り付けた。

◆そして現在、佐藤さんたちが直面しているのは高台移転の問題だ。志津川高校裏の移転予定地をボーリング調査したところ、想定以上に岩盤が堅かったために計画の変更を余儀なくされているという。実は岩盤の堅さは織り込み済みで、それでも充分にできるとUR系のコンサルタントから聞かされていた。それなのに。昨年5月に計画を決定して、この3月に変更を言い出すまでの1年近く、あなたたちは一体何をやっていたのか。佐藤さんは怒りを露わにそう詰め寄ったという。

◆「国の復興事業は護岸工事などハード面ではどんどん進んでいるのに、住民の生活面や居住区については遅れに遅れているというのが理解できない」。復興住宅の建設は遅々として進まず、仮設住宅の入居期間は延長に延長を重ねる。「地域の256人のうち高齢者が51人いて、彼らからはよく『俺が生きているうちに高台に行けるのか』と言われる。計画の遅れを待てる人ばかりではない。人生に終止符を打つ年齢に達している人は、やっぱり仮設で終わりたくない、死にたくないというのが本音ではないか」

◆「俺たちは俺たちの町を作るんだという強い意志を持った被災地の行政が一か所でもあってほしい」「強めのことを言う町民もいないと、『はいはい』と言っていたのでは自分たちの思うような町づくりはできないのではないかと思う」と佐藤さん。このリーダーシップが、避難所や仮設でお年寄りが孤立するのを防いできたし、もともとあった地域のコミュニティーを分断させずに済んだという部分は大きいだろうと思う。

◆なにが、そこまでさせたのか。佐藤さんは「住民の生命がかかっている。自分がやらなければ、あの地震のときの区長は誰だったのかって孫の代まで何代にも渡って言われるだろうと思っただけだ」と何でもないことのように言う。だが、後ろについている250人の住民の存在も大きかったのではないか、と想像する。

◆また、新垣さんらRQのスタッフに対する感謝の言葉を佐藤さんは何度も口にする。即時に迫られる決断について、周りの住民や家族にさえも相談できなかったが、スタッフに考えを打ち明けられたことが精神的な支えになったのだ、と。そして、佐藤さんは「区長をやっていて他の人たちと接する時間や機会があるのが一番ありがたい」と言う。「ただ財産を失って終わりというのではなく、被災しなければ他では恐らく築けなかった人間関係が築けたことが嬉しい」。

◆6月中旬に南三陸町を訪れた宮本千晴さんも、震災を機に佐藤さんと知り合った一人だ。その時、佐藤さんは、ビニールハウスを建てるために山の中の立ち木を払って土地を作り、一人で重機を動かして除染のために落ち葉や表土をはぎ取っていた。宮本さんはその姿を見て「意気に感じた」と言う。避難所から仮設住宅、高台移転へという道筋がついたら、次に考えなくてはいけないのは自活していく手段だ。そのように前置きをして宮本さんは言う。「粗い筋書きながら、被災した地元の者としては何をすべきなのかというストーリーを佐藤さんは頭の中に組み立てていて、それを議論するよりもやってみせようとしているのだと分かり、舌を巻いた」

◆最近になって撮影されたビニールハウスの写真には、びっしりと一面に植えられたホウレンソウが青々とした葉を茂らせていた。地平線報告会の会場に段ボール3箱分持ち込まれたそのホウレンソウを1束100円で分けてもらい、帰ってからゆでてそのまま食べてみた。聞いたばかりの話が脳裏に焼き付いていたせいか、佐藤さんの気迫がつまった味がした。(菊地由美子


報告者のひとこと

方向性さえ間違わなければ、必ず誰かが手を差し伸べてくれる

■報告会では触れられませんでしたが、高台移転について、私は「地域包括支援的な移転がしたい」と考えています。施設などに頼るのではなく、昔のように地域全体でお年寄りを見守るようなイメージです。そのために地域でまとまっての避難にこだわってきました。また、「1人暮らし用の、小さな木造一戸建て災害公営住宅が作れないか」とも思っています。

◆家を建てない・建てられない多くの高齢者は災害公営住宅に入ることになりますが、そこはやがては空き部屋になる。そのとき、田舎暮らしに憧れてこの町に来たいと言ってくれる都会の若者が住みたくなるような、今流行のデザインの公営住宅を作れたらと。

◆現在の計画にある鉄筋4〜5階建てのアパートでは、壊すときにもお金がかかりますし。このようなことを考えているわけですが、まさか自分が行政区長としてこんな役を担うことになるとは思ってもいませんでした。

◆私が区長を引き受けたのは7年前、54才の時です。その時、単なる連絡役では面白くない、地域のためになるそれなりの仕事はしよう、と考えました。結果は中瀬町周辺の道路整備事業等で出してきたつもりです。しかし、震災後に起きたことは区長の仕事をはるかに越えることでした。何年後かに、今自分がやっていることの結果が出ます。それが本当に正しいのか、良いことなのか、今はわかりません。

◆ただ、私は人には本当に恵まれました。頼んだわけでもないのに、いつも周りの人たちが助けてくれた。そこでわかったのは「自分が方向性さえ間違わなければ、必ず誰かが手を差し伸べてくれる」ということです。高台移転のような話は、さまざまある意見を全て吟味したり、意思統一にこだわっていては進まないことです。ある程度までやったら、決まったものを受け入れるしかない。これからも、周りの人たちに支えていただきながら、自分を信じてやっていきます。

◆今回、地平線会議の場で話をさせて頂いて、本当によかったです。皆さんが私たちのことを見守り続けてくれていることがありがたい。怖いのは、時間とともにあれだけの災害が少しずつ忘れられてゆくことです。政治にしても忘れやすいのではないか、と。これからも、皆さんと長く交流が続くことを祈ります。(佐藤徳郎

地域でまとまる選択をした地区は、津波で流されなかった家が残っているケースが多い
━━ビニールハウスで考える志津川の明日

■今(4月9日)、1週間の予定で南三陸町に滞在中です。今回は恒例の子どもお泊まり会、そして佐藤徳郎さん宅のビニールハウスのお手伝いに来ました。7棟あるビニールハウスのうち4棟でほうれん草を育てているのですが、成長しすぎて出荷できないほうれん草は抜いて片付けます。寒くて成長が遅れていたものが一気に伸びてしまって佐藤さん一家だけでは採りきれなかったとのことです。

◆4棟のうちの3分の1くらいと量がかなり多い。以前なら無駄がほとんど出ないように調整して作れたけれど、栽培を始めたばかりなので土やハウスの癖がわからないのだそうです。まだ課題はありそうですが、市場への出荷にも同行させていただき、仕事を再開された実感が伝わって来て嬉しかったです。

◆一方で住宅の方は、報告会でも話されたようにまだ先が見えていません。志津川の中心地では、解散した部落が多いです。そういう地区では個々の家庭で移転地を考えます。行き先は基本的には高台に指定されている東地区、中央地区、西地区の3つの中から選ぶことに。

◆さらに、この3地区以外でも5世帯以上集まれば希望する場所を造成してもらえることになっています。そうやって個々で動くほうがいいという人もいるし、最近では仮設住宅で生まれた新しいコミュニティーで一緒に動きたいという声もあります。

◆中瀬町のように昔の地域でまとまるか、そうでなくてもいいか、最終的に選ぶのは個人の自由です。でも、新しい人間関係作りに不安を抱える人たち(主に年配者)のことを考えると、もとのつながりで暮らせるチャンスが残っているのはとてもありがたいことでしょう。

◆佐藤さんがやられてきたことは、声をあげられない人たちにとってどんなに心強いことか。ご本人が言われているように成果がわかるのは数年先でしょうが、自分の地域が残るならということで、外へ出て行かずに志津川に留まった人も結構いるのではと思います。中瀬町でさえ約600人が250人ほどと、人口は震災前の約3分の1に減っています。

◆ちなみに、地域でまとまる選択をした地区は、津波で流されなかった家が残っているケースが多いです。また、もし地域がまとまって動くとしてもお年寄りは公営住宅に入居する割合が高いと思われるので、あまりまとまる意味がないだろうという意見もあります。

◆様々な意見があり、そして、どうすればいいのかわからないことだらけの状況です。でも今回、お泊まり会に顔をだしてくれた佐藤さんが、参加している子どもたちに「仮設暮らし、もう少しだけ我慢してくれよな」と言ったひとことが心に残りました。先は見えなくても、「自分がやる」という真剣さが大事だと教えられた気がしました。(新垣亜美


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