2015年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信439より
先月の報告会から

南極の白い跡

阿部雅龍

2015年10月30日 新宿区スポーツセンター

■人を見かけで判断してはいけない。肩書きもまた見る人の目を惑わす。素人芝居は臭いが、本当に演技の達者な人はそれが芝居なのか地なのかわからなくなる……。「夢を追う男」という「匂う」肩書きを名乗る阿部雅龍(あべ・まさたつ)さんは、本当に匂う人なのか、それとも「臭う」人なのか。プロジェクターにつないだPCを完璧にセットし、まだ大会議室がガヤガヤしている中でBGMを鳴らす。

◆薄手のジャケットを軽く羽織り、丸首のシャツの上にはアクセサリーが光る。短く整えた髪に、描いたような眉毛。緊張の色は見えず、垣間見える余裕は投資家にプレゼンする若手起業家を思わせる。見かけだけで判断してはいけないと思いつつも、私の頭の中のアラーム音が鳴り響く。いったいどうして?

◆阿部雅龍さんは秋田出身の32歳。昨年と今年にカナダ北極圏単独徒歩行を経て、来年にはグリーンランド1200キロ走破を予定。翌2017年には南極点への到達を目指している。まるで受験勉強のように計画的だ。「いまさらどうして行くのかとよく聞かれる」。

◆同じ秋田出身で、日本人で初めて南極大陸を探検した白瀬矗(のぶ)中尉に憧れてきた。まだアムンゼンとスコットが「世紀の南極点レース」を争っていた時代、白瀬はロス氷棚に上陸を果たし、南極点を目指したものの上陸地点から数百キロのところで断念。付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。「それから100年経っても彼のルートをたどった日本人はいない。彼の足跡をたどって大和雪原を踏んで南極点に立ちたいというのが、いまの一番の夢」。

◆29歳のときに一念発起、2017年南極行きのための5年計画を立て、まずはカナダの北極圏に向かった。トレーニングを兼ね、食糧や装備の詰まったソリを引いてスキーで歩く。2014年は500キロ、今年は750キロを踏破した。カヌーや筏で世界中を旅し、極地を目指してテレビ番組にも出演、雑誌の取材もこなし、著書『次の夢への一歩』(角川書店)を書き、アウトドア用品の広告にも出て、資金を稼ぐ「夢を追う男」。だが10年前はまったく違っていたという。

◆髪を金色に染め、眉を剃った姿の大学生当時の写真。農家の跡継ぎを期待され、国立大学で機械工学を専攻した彼が冒険を意識した最初のきっかけは彼が4歳のときの父親の交通事故死だった。遊んでもらった記憶はないが葬式だけは覚えているという。「人間はいずれ死ぬんだな、と知った。人生は1回しかないから後悔しないほうがいいじゃないかとそのとき思った」。享年29歳の父親の死から彼は学んだ。

◆でもやりたいことが何ひとつない、と就職活動に悩んでいた時期にふと思い出したのが白瀬矗、間宮林蔵、アムンゼンと言った冒険家への憧れ。彼らのような理想の大人に近づきたい。そう思って調べるうちに、北極と南極を世界で初めて単独で横断した大場満郎さんを知った。「人生は一度かぎり、笑って死ねる人生がいい」。この大場さんの言葉を見てすぐ学生課に行き、家族に黙って休学届けを出し、山形県にある大場満郎冒険学校でスタッフとして住み込みで働き始めた。時間のある時には大場さんの蔵書を片っ端から読み、山の中でトレーニングに励んだ。

◆「母ちゃん、おれ冒険するから大学休学するよ」と、1年間の休学の間に南米大陸単独自転車横断に。母親とは大げんかになった。その出発時はまだ髪が黄色だった。自転車に60キロの荷物を積み、「本当につらい旅だったが、友人たちにこれやって帰ると言った手前、続けるしかない。ずっとやめる言い訳を探していて、自転車が盗まれて続けられなくなることを期待していた」。

◆当時から「ぼくが伝えることで何かが変わるのであれば伝えたい」と、自分の旅の模様をブログで発信し続けている。そこには旅先で阿部さんの人生を変えてくれたという人たちの姿がある。ペルーの高級リゾート地で宿泊代が足りずに困っているときに「うちに泊まりに来たらいいよ」と言ってくれる人に出会った。暖かい家族、温かいスープに感動した。寝る時はベッドを空けてくれた。

◆「すごく感動した。人ってやさしいんだなと思った」。それまでは旅でうまくいかないこと、つらいことを人のせいにしていたが、この経験で考え直したという。自分の夢を実現することだけを考えるのではなく、旅を成し遂げることが助けてくれた人たちへの恩返しになると考えるようになったのだ。

◆「それまではその場しのぎの嘘ばかりだったのが、帰国してからは友人、家族と本音で話せるようになった」。思うに南米最南端までの彼の旅を後押ししたのは、「意地」なのではなかっただろうか。それはたぶん父の死から学び取り、母親から譲られた性格なのだろう。

◆休学していた大学を卒業後は、就職せずにトレーニングを兼ねて浅草で人力車を引き始めた。「どこが鍛えられるのか」と江本さんの質問に答えるに「ふくらはぎの裏、ハムストリングス。いちばん鍛えられるのはソリを引く筋肉」だという。

さらに人力車を選んだのは「日本文化を勉強して、説明できるようになりたかったから」と彼は言う。南米の旅行中、日本について尋ねられても何も答えられず、地元秋田の素晴らしさに気づいたが「説明できる言葉を持っていなかった」のだという。人力車はガイドでもあるので、話術も鍛えることができる。

◆浅草の車夫になってもう8年。人力車に興味津々の報告会会場からは様々な質問が飛び出す。「人力車の収入は?」いい時と悪いときの差が激しく、思われているほどよくない、と彼は言う。阿部さんは自前の車を持たず、借りて個人で営業しているため、客がつかないと赤字になる日もある。いま浅草には人力車を経営する会社が15軒あり、少なくとも200人の車夫が毎日お客さんを取り合う。

◆「訪日客増で儲かっているのでは?」意外なことに阿部さんの客の8割は日本人だという。「リキシャ」と言えば海外では普通の交通機関。ノスタルジーを感じるのは日本人だけ、らしい。「笑顔のためにお金をもらっている。この仕事はすごく大好き。ずっと続けていきたい」。来年には人力車で1日40〜50キロずつ、日本一周をする計画もある。

◆27歳。秋田に帰れば同世代の人が結婚して、家を購入している。「『夢を追う』とか言って、何もできていない。自分は何もない人間だ」と落ち込んだ。いまから思えば、他人のことばかり気になっていた、と阿部さんは話す。車夫をやっていたかと思えば、カナダのバンフでビデオカメラマンをやっていたこともあるし、アフリカのウガンダをWFPのボランティアとして訪れたこともある。

◆まだ日本人がやっていないことを、と5か月かかって米国のロングトレイル、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)の4000キロ以上を歩いたが、「日本人初」は10日違いで逃してしまった。翌年はCDTから続くカナディアンロッキーのグレート・ディバイド・トレイル(GDT)約1200キロに挑んだ。トレイルとは名ばかりの未整備の道。これもGDTをすべて歩いたというカナダ人に山中で出会い、話を聞くうちに彼に同行して完歩した奥さんが日本人であることを知った。

◆またも「日本人初」を逃し、悔しい思いを抱えて帰国。この悔しさの背景にあるのも「意地」ではなかったか。「日本人初」になぜそこまでこだわっていたのかと考えた末、既に「日本人が何十人もやっている」アマゾン川単独筏下りに挑んだのが29歳のとき。大場さんも29歳でアマゾン川を筏で下ったことがあり、それへの憧れもあったという。

◆ただし乾期はあまり例がない。動力は櫂だけ。川下りというより重い筏を水中からロープで引き、浅瀬から引き離すことに追われた。途中、マラリアも患った。日が暮れれば本が読めるほど明るい星空。水面にも星が写り、世界が星で一杯になる。ピンクのイルカが筏に遊びに来る。ホタルも筏で羽を休める。筏の旅でないと出会えない光景がそこにあった。

◆そして20歳のとき自転車単独行のスタート地点としたエクアドルの赤道記念碑にまたたどりついた。9年間で大きく変貌した阿部さん。父親が亡くなった年齢でもある。「まだやってみたいことがある」とこのとき極地への挑戦を決心したのだという。

◆ここで最初のカナダ北極圏単独徒歩行の話に戻る。単独行とは言え、この旅は彼一人の旅ではない。秋田大学の学生たちが「北極プロジェクト」として共同研究を実施しているからだ。例えばソリを引く氷の状況を毎日欠かさずリポートする。例えばノナブト準州のイヌイットの村とSkypeをつなぎ「出前授業」を行う。これらの模様は『阿部雅龍のカナダ北極点単独徒歩 秋田大学と北極を結ぶ』という20分のドキュメンタリービデオにまとめられた。4年生のリーダーをはじめ、学生たちが口々に語る。「冒険家としての阿部さんに惚れた。すごいなと思った」「他人に真似できない自分の夢を追っている姿がすごい」。

◆毎朝テントの中で精神統一を欠かさない。食糧と燃料を満載した重さ140キロのソリを引きながら、北極ウサギなど氷上の野生生物にも目を向ける。マイナス30度でも「あったかいっすね、正直」とカメラに向かってさわやかにリポートする阿部さん。その姿を見て私の頭の中のアラームが一層高鳴る。これでは若者を洗脳する「夢を追う教」の教祖様ではないか。自己啓発セミナーの講師や新興宗教のリーダーの姿が彼に重なって見える。

◆地平線報告会の報告者に共通することかもしれないが、偉業を成し遂げようとする人はどこか普通の人とは変わったところがある。おそらく白瀬矗もそうだっただろう。ヒーローに憧れ、彼自身がヒーローに同化していく。それがシャーマンのように目の前で語り出した困惑が、このアラームの正体だったのかもしれない。するとこの困惑は、「夢を追う男」があまりにも眩しく、私の中のジョーシキが素直に受け入れられないことに起因しているのだろうと分析する。

◆北極圏にはシロクマ(ホッキョクグマ)も生息する。安東浩正さんや荻田泰永さんが恐怖したシロクマだが、阿部さんは「真っ白い世界に周囲数百キロ、生き物がいないところでひとりで生きるシロクマが大好き」と言い切る(その言葉にアラーム音がさらに高く響く)。ときにスプレーを手に、またショットガンに弾をこめつつ、「僕らは友達だから、あっちに行ってください」と大声で歌を唄う。この感覚は星野道夫さんにも通じるかもしれない。

◆そして今年は80日分の食糧を積んだ160〜170キロのソリ2台を引き、シオラパルクから片道600キロを往復する計画だ。南極は少しずつ彼に近づいている。約1億円の資金をどうするか、棚氷や南極横断山脈を越える技術的な難しさ、そもそも1200〜1500キロに及ぶルートを単独でどうやって進むか。

◆「白瀬矗が辞世の句に遺した南極の「地中の宝」は『挑戦心』だと思っている」「大場さんはいつも『手を挙げて歩きなさい』と言っていた。それが理解できるようになった」と彼にとってのヒーロー2人の言葉を挙げて阿部さんは報告を締めくくった。

◆次は南極に向けどうやって「意地」を通すのか。「ノルウェー隊が通ったアムンゼンのルートを通るのが現実的かもしれない」。南極点を目指すルートを説明する彼のまなざしは少し真剣で、緊張しているように見えた。それで私の頭の中のアラーム音は少し静まった。(落合大祐


報告者のひとこと

「夢を追う男」の肩書きは、これからも貫きます

■夢のような時間でした。まさか僕が地平線会議で話す機会を頂けるとは。今までに何度も聞き手として参加させて頂いていました。地平線会議に来れば本で読んでいた人達に会える。昔の僕はドキドキしなから、そしてワクワクしながら会場に足を運んでいました。生業である人力車の話も沢山させて頂いたのも地平線会議ならではでした。

◆極地を始めようと行動し始めたのは30歳の時。20代は鍛錬を兼ねて始めた人力車の仕事で貯めた資金で世界中を飛び回り、外国で働いたり現地で言語を覚えたりして多くの経験を積みました。そうして見えたのが極地という憧れの土地でした。僕は今その地を踏みしめ歩いています。それが嬉しくて堪りません。

◆来年のグリーンランド単独徒歩1,200kmも面白くなりそうです。2月半ばの極夜が明ける時に世界最北の村シオラパルクに入ります。徒歩期間中に村々は経由しますが、基本は南極を見すえて補給はほぼしません。80日分の食料を積んだソリは150kgを軽く超すでしょう。

◆近年、グリーンランド沿岸は凍り方が悪く内陸越えも余儀なくされるかと思います。傾斜のある内陸を重いソリを引いて歩くのは今年のカナダ北極圏の経験からも地獄の苦しみです。ただグリーンランドが出来たなら南極はもっと近くなる。

◆僕は夢を追う男という肩書を使っています。それに対して訝しげな目を向ける方も、誤解を呼ぶ事もあります。でも、そんな人目を気にしたりゴチャゴチャ面倒くさい事を考えるよりも、僕自身が自分の夢を純粋に追い続け、叶え続け、更に大きな夢を追っていきたい。そういう人間になりたいと心から願うのでこの肩書を10年間以上貫き通しています。

◆夢を追う男は人力車を引きながら南極点を追い続け、そして達して地平線会議へ笑顔で戻って来ます。真っ直ぐ目標に突き進みます。(阿部雅龍


阿部雅龍さんのフットワークの軽さ、その行動力、冒険を「自己表現」とする捉え方に刺激されました

■いつものように報告会の会場に足を踏み入れた時には、開始時間からすでに30分が経過していました。驚いたのは、その日の報告者がおしゃれで今風な青年だったこと。そんな冒険家、阿部雅龍さんの話は「こう思った、よし、やってみよう!」の連続で、私は時にハラハラしながらも、そのフットワークの軽さ、その行動力に、何度も驚かされることとなったのです。興味深い冒険話の中、しかし私がいちばん印象に残っているのは、冒険を「自己表現」とした彼の捉え方でした。表現するということについて、ちょうど意識が向いている時期だったからかもしれません。

◆今年9月、知人の個展に足を運び、ある1枚の絵に深い感銘を受けました。その絵は風景を描いたもので、画面の大半を占める空の赤が実に複雑で豊かな色を成していたのです。佐藤先生、というのが作者で、美大受験の浪人中に私がとてもお世話になった先生でした。先生は記憶の中にある空の赤を再現するために、絵の具を何度も重ねたり、重ね描いた色をじゃぶじゃぶと洗い流してみたり、絵の具だけでは事足りず、山で赤土を採取し塗りたくってみたりしながら、長い歳月をかけてその絵を完成させたそうです。

◆赤い空の風景は、それほど先生の心に深く焼き付いたものだったということでした。手垢や紙のつぎはぎが残るその絵に「表現せずにはいられない」という先生の執念が強くにじみ出ており、それが私を感動させたのです。赤い空は、先生のお父さんが亡くなった日の朝焼けだということでした。

◆「先生が描いた絵、見たーい!」と時々生徒にいわれることがあります。のらりくらりとそれをかわしているのは、自信を持ってみせられる絵を今描いていないからなのですが、阿部さんの話を聞いたり、恩師の絵を見たり、そのほかたくさんの人や物事との関わりの中で、そろそろまた私も描こうかな、描けるかもしれないなと思い始めています。阿部さん、今後のご活躍を楽しみにしています。私も一歩足を踏み出してみることにします。(今は美術の先生 木田沙都紀


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