2016年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信444より
先月の報告会から

道中渡世旅明暮(みちなかわたりよたびのあけくれ)

三輪主彦

2016年3月28日 新宿コズミックセンター

■「みなさん、こんばんはー」「こんばんはー!」。わきあいあい、元気なあいさつから始まった443回目の報告会。報告者は、「地平線会議」世話人で、発足の1979年、第1回目の報告者でもある、三輪主彦さんだ。「地平線会議」きってのランナーであり、走歴は50年以上。長く「走り旅」を楽しんできた三輪さんだが、1983年、J.シャピロ著『ウルトラマラソン』の中で「ジャーニー・ラン」という記述を見つけてからは、この言葉を使うようになった。

◆この本によれば、「ジャーニー・ランナー」は自分たち独自の世界を好む「種族」であり、三種の神器は「ひま」「金」「ロードマップ」。「ちょっといってくらあ」といった風に、ふらりと旅に出かけてしまうのだ。早くても時速7、8キロ。ときには歩いているくらいの速度で、ゆっくり、長く、気の向くまま、走る。「ジャーニー・ランは自由で勝手なもの。だれが速いとかトップとか、そんなものは関係ない」と、三輪さんは言う。

◆ところで、月曜だというのに会場は開始時間には満席状態で、菅原博さんや下島伸介さん、坪井伸吾さん、渡辺哲さんなど、たくさんのジャーニー・ランナーが集結していた。三輪さんの教師時代に生徒だった方たちも駆けつけ、各分野のエキスパート、古参・地平線メンバーも勢ぞろい。ときに愛あふれるツッコミを入れられ、三輪さんがたじたじになる場面もあった。

◆そんな中、「写真を用意しました」とまず映されたのは、原発事故によりいまは見ることのできない富岡のローソク岩。それから、福島第一、第二原子力発電所の見える航空写真だった(ここで三輪さんが写真に添えた文字について、「火力発電所の位置が違いますよ〜」と東北にバイクで通いつづける賀曽利隆さんからツッコミが!)。航空写真で色が異なって見える部分には「双葉断層」があり、第一原発はこのそばに建てられている。1994年に走った三輪さんは「当時も知っていたのだから、もっと言わなければいけなかった」。

◆そのときの記録を読むと、「自分の足でないと、急坂を確認できない」と書いてある(かっこいい!)。ランナーは走るだけで満足しがちのため、ずっと「ただ走るだけではいかん。記録を残さねば」という思いがあったのだ。ちなみに、ジャーニー・ランについての最初の本は、「先を越された!」と口惜しいが、江本嘉伸さんの『鏡の国のランニング』(1988年、窓社)なのだとか。チベットやモンゴルなど、地球のあちこちで走りまくるこの本の中には、なぜか「三輪主彦との戦い」という章もある。江本さんと三輪さんは長年のライバル・ランナー同士。この日も「皇居一周ではどっちが勝ったか」なんて言い始め……。あれ、「だれが速いとか関係ない」んじゃなかったの?

◆ 少しさかのぼって1984年、女子マラソンが初めて正式種目となったロサンゼルスオリンピック。三輪さんには、優勝したベノイト選手ではなく、熱中症でふらふらになりながらも競技場を走ってゴールしたアンデルセン選手の姿が印象的だった。感動する人もいる中、「無理やり走らせるのはよくない」と強く思ったという。ちなみに、テレビを観ていた場所はカナダの山の中で、このときにおもしろい出会いがあった。

◆家族でトレッキングをしていると、ランニングスタイルのおじさん数人が現れたのだ。「何してんの?」「50歳の誕生日だから50キロ走ってる」。「60歳の時は60キロ走るの?」子どもたちが聞くと、「当たり前だ」。「面白い人たちがいるんだな。山の中を走るのも面白そうだな」と思った三輪さん、この頃から日本中を走り始めた。それから大きかったというのが、日本のジャーニー・ランの草分け、田中義巳さんとの出会い。田中さんの企画で東海道550キロを走り、「長い距離を走る」という面白さがわかったのだ。

◆1999年には日本縦断ジャーニー・ランもおこなった。九州最南端・佐多岬を目指したが、当時(〜2012年まで)は岩崎産業が所有する土地で、車かバスでしか行けなかった。そのため人力移動の旅人たちは、夜中や早朝にこっそり侵入してきたのだが、三輪さんは到着が昼になったので「待ってられるか」と海岸線を歩き、気の毒に思った地元の人にこっそり崖を上る道を教えてもらい、なんとか岬まで辿り着くことができた。

◆「夏だったけど、寒くてずっと歯をがちがちさせながら走っていたら、歯が折れちゃった」というのは、北海道を走ったとき。最北端・宗谷岬で、Tシャツに短パン姿でほほ笑む原健次さんと一緒に撮った写真が映し出される。三輪さんは、「原さんはほんとうにすごかった」(この日、会場に原典子さんから「原健次が生きていたら、ぜったい会場にいたはずです」というメッセージとともにクッキーが届き、全員でごちそうになりました)。

◆寒くて三輪さんは、妻の三輪倫子さんに防寒着を頼んだ。旭川の町の中を走っていたところ、向こうから女の人がにこやかにやってきたので、挨拶してすれ違う。すると、「あんた! なにしてんの!」。「見たことある人だなと思ったら、奥さんでした……」。会場からは「えー」の声。「長い距離を走ってると、わけわかんなくなっちゃう」との言葉に、ジャーニー・ランの過酷さが伝わってくる。そして、はるばる持ってきてくれる倫子さんのやさしさや、「あんた!」と叱られるところに、ご夫妻の関係も伝わってくるような。

◆ところで、「たいていのジャーニー・ランナーは、『寅さん』に憧れがある」と三輪さん。「リリーさんの家」が奄美大島の加計呂麻島にあり、島旅のエキスパート河田真智子さんの案内で、向後夫妻と一緒に行ったことがあるのだ。ほかにも中山嘉太郎さんと一緒に走っている写真や、海宝道義さんの「しまなみ海道100キロウルトラ遠足」の写真がつづく。それから会場に集ったランナーたちの中で、何人もが参加しているという、日本で現在最長(270キロ/36時間)のウルトラマラソン「桜道国際ネイチャーラン」の写真が。雨が降る中、三輪さんは公衆トイレで仮眠、大きなごみ箱に入って休憩しながら走った。ランナーにごみ箱は大人気で、入ろうとしたら先客がいたこともあったという。様々な場所、そして人たちが現れ、縦横無尽に話がすすんでいった。

◆最近は、暗渠の川を歩く「ぶらりばクラブ」を結成、都内の暗渠の川60パーセントほどを歩いたそうだ。川は必ず蛇行するため、うろうろ走るのも気持ちいい。おすすめなのは、谷中にある昔の川のあと「へび道」。それから川沿いにブルーテントが立ち並ぶ、隅田川だ。「そういえば、都立戸山高校の教師時代には戸山公園もテント村があった」と三輪さん。毎日そこを走って通勤していたので、テント村の人たちに親しくしてもらい、学校に行くのが楽しかったという。

◆ ここから、「だんだん、神がかってくる」と、最近の「パワーを感じる場所」でのジャーニー・ランについての話に。2002年に熊野の大峰奥駆道を走り、2012年はオーストラリアの「ウルル」(エアーズロック)へ行き、聖地をめぐるトレイルを走った。2015年には(心臓手術のあとだというのに!)、4000メートルのラダックへ。「いろんなところに神様がいるな」と感じたのだという。70歳になった記念には、区切り打ちで「四国遍路」を開始。遍路の道中はお大師さまとの「同行二人」というが、夫妻で歩いているので「三人旅」をしているそうだ。

◆たくさんの写真は自動で次々かわるように用意してあって、壮大なBGM付き。でもすぐ写真を止めるので、曲も止まってはまた始まって、なんだかちょっとおかしい。走っている動画を流せば、「わざとらしいですねー」「ここにカメラが置いてあります」と「自撮り」の解説をしたり、カメラを取りに走って戻ってくる姿までを見せて、「通常のジャーニー・ランナーに比べて、二倍は走ってるんです」なんて言ったりする三輪さん。とにかく会場からは、笑いが絶えない。

◆西行の500回忌にあたる年、そぞろ神に憑りつかれ、家を引き払い、「おくのほそ道」の旅に出たという松尾芭蕉。そろそろ佳境ということで、「芭蕉先生こそが、ジャーニー・ランの先達だ!」という三輪さんの足で獲得した新説が発表される。署名に「はせお」を使っているところも「馳男」とも漢字にできて、ランナーっぽい! とのこと。芭蕉先生の足跡を辿り、「おくのほそ道」最難所といわれる山刀伐峠を越えてみると、とんでもない脚力があり、鍛えたランナーでもきつい行程を移動してることがわかり、「先達」との確信を持ったという。

◆それから句に対する想いもわかってきた、と。暗(くらがり)峠は、奈良から大阪に抜ける道だが、芭蕉先生は病を患いながらも(翌月には亡くなる)、句を詠むため、9月9日「重陽(菊)の節句」に合わせて40キロの道を歩いて峠を越え、「菊の香に くらがり登る 節句かな」という句をつくったのだ。三輪さんは、峠道の国道(「酷道」でもある)308号線を走ってみて、わずかではあるが芭蕉先生をより感じられたという。

◆歴史を調べ、史実を追いながら、興味の向くところ、自分の足でどこへでもゆく三輪さん。ほかにもいま、「神社って面白い」らしい。日本一えらい伊勢神宮の天照大神と三輪神社の神さまが「同一の身」であるという説があり、これから「ヒミコとヤマトヒメの旅」をしてゆくとのこと。「それを500回目の報告会で、もう一度しゃべる!」と宣言して、報告をおえた。するとすかさず、「500回はみんな狙ってるんだから」と江本さん。二人は永遠のライバル! いまだ、息の合った戦いは健在なのかも。

◆「報告会ってもっとぴりぴりしてるものだと想像していたけど、ゆるゆるでうれしい」との感想は、大阪から駆け付けて、実は定例の報告会には初めて参加したのだという遊上陽子さん(た、たぶん、今回は三輪さんだからで、いつもは違うと思いますー)。昨年末に出版された三輪さんの本『ちょっとそこまで走り旅』(創文企画)のお祝いもかね、最後に河田真智子さんと、戸山高校の元生徒の方々からお花が贈呈される。「三輪先生がいるから、いまのわたしがいる」とは、代表して前田規子さんの言葉。「でも三輪先生を支えているのは本人ではなく、奥さまです」と付け加えられると、会場からは「そーだ!」の声が。最後まで、わきあいあい。「われらが先達、三輪先生」の好奇心に連れられて、いろんな人に出会って、いろんな場所に少しだけ飛んで行けたような。なんだか、あったかい気持ちになった、報告会だった。(加藤千晶


報告者のひとこと

言い忘れたこと!

 半ボケ状態なので、言いたいことを忘れないように十分に準備をして臨んだにもかかわらず、福島第二原発の位置を間違えたり、日本最南端と最西端を取り違えたりした(実はわざと間違えてウケ狙った高等テクニックだった。ちょっと苦しいいいわけだな)。当日は言いたいことは言ったつもりだった。しかし今になると「富岡のロウソク岩」を例に福島の原発の危うい地質構造をもう少し詳しく話すべきだったと思う。

◆原発銀座の若狭湾の真名井神社まで天橋立から走ったら「波せき地蔵」が立っていた。海抜40m、1300年前の大地震の津波が押し寄せた場所だという。四国の衛星画像を見てほしい。ほぼ東西に直線状の筋が見える。私はここを走った。佐多岬半島に出ると道がすばらしくなった。伊方原発があった。直線状の筋は日本最大の横ずれ断層、中央構造線だ。原発は直上に造れないが、断層の幅は数キロある。そんな所に原発を作るなんて狂気の佐田だ。だから佐田岬半島と言うのか?

◆冗談はさておき、日本中を走ってどの原発も危ういところにあることを知った。人が住まない所に原発を造ったという。人が住まないのは住めない理由があったからだ。たいてい大災害が繰り返す地だ。そんなことを走って各地を訪れて初めて知った。

◆3.11のあと私は慚愧に堪えなかった。慙愧(ざんき)とは政治家の使う「残念だ」という意味ではない。知っていたのに知らせなかったという恥の気持ちだ。次に同じ悲劇が起きないように、危うい原発は再稼働させないようにしなければ。そのことを声を大にするべきだった。それが言い忘れたことだ。500回記念大集会にはもう一度話をさせていただきたい。それまでわが身が持つか。あるいは原発が持つか。いろいろ心配がある。ボケてはいられない。(三輪主彦


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