2016年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信452より
先月の報告会から

一瞬に永遠を求めて

和小松由佳

2016年11月25日 新宿区スポーツセンター

■451回目の報告者は小松由佳さん。世界第2位の高峰K2(8,611m)を日本人女性として初登頂したのが2006年、24歳だった。同年「植村直己冒険賞」を受賞。その後、山から谷へ舞台を移し、現在はフォトジャーナリストとして活動している。いったい、どんな心境の変化があったのだろう? ベビーカーのなかにいる生後7ヶ月の息子サーメルくんと一緒に報告者席に立った小松さんは、「非情の山」K2の写真を眺めながら、山との出会いから話し始めた。

◆秋田で生まれ育った小松さん。周りにはいつも山があった。「あんな山に登りたい」と高校で競技登山を始め、「もっと大きな山へ」と東海大学山岳部に入った。大学を卒業した2005年、チョモランマ登頂に失敗。敗因はチームの人間関係だった。挫折感でもう山をやめようかと考えていたとき、山岳部の監督からK2に誘われた。「一期一会のチャンス。死ぬのではと不安もよぎったけれど」行くと決めた。

◆東海大学K2登山隊のメンバーは6人。全員が8,000m峰未経験者だったが、実力よりチームワークを重視した。現地の山岳民族をポーターとして雇い、ジープと徒歩で2週間かけて山麓まで行く。登頂ルートはノーマルルートの南東稜ではなく、あえて南南東稜を選んだ。中国・パキスタン・インドの国境付近は政治的な緊張が走る地域。外国人登山隊の監視役として専任コックとパキスタン軍人もついてきた。

◆装備を身につけ、いよいよK2に挑もうというそのとき「ドーン!」と爆音が。雪崩だ。2006年のK2死亡率は26%。ピラミッド状の険しい地形、岩のもろさ、急変しやすい天候、酸素の薄さが、厳しさの理由だという。「命をこめて1歩1歩、祈るように登った。恐怖感のなかに生きている実感があった」。平均傾斜45度。平地はほとんどなく、C1(6,400m)は岩と岩の隙間にテントを張った。大変だったのはトイレで、C2(7,200m)では男性隊員もいるテントの中で排泄した。強風にあおられ自動車ほどの岩が落ちてきたときは、山壁にじっとへばりついた。「人間の命が自分の情熱や努力とかではなく、運、不運に左右されるのを感じた」。

◆ついに頂上へ挑む日。アタック隊に選ばれたのは体調が整っていた若手3人。リーダーの蔵元学士さん、小松さん、現役山岳部員だった後輩の青木龍哉さんだ。ところがBC(5,200m)を出発して1時間後、蔵元さんが盲腸で麓の町へ緊急搬送される事態に。小松さんがリーダーになり3日後、C3(8,000m)へ到着。仮眠し、午前3時にC3を出た。この先は酸素を吸いながら進む。「ヒマラヤの8,000mより高所はデスゾーンと呼ばれ、無音で異次元の世界。自分の感覚が研ぎ澄まされ風や太陽を強く感じる」。

◆下を見ると真夜中なのにチラチラと光が。隊の仲間が焚き火でエールを送ってくれているとわかり、「みんなで一緒に歩いている」と思った。青木さんと体をロープでつなぎ、目に見えないクレバスにはまらないよう慎重に登る。8,200mまで来ると眼下にカラコルムの山々が広がって「世界は山なんじゃないか?」と感じた。上へ上へ、四つん這いで前進。ここが山頂だとわかった瞬間ゴーグルの中に涙があふれた。

◆「頂上からは地球がまるく見えた」。しかし喜びにひたる余裕はなく「あくまで折り返し地点。半分感動、半分恐怖」。最低でも15時までに登頂しなければならなかったのに着いたのは17時前。これはつまり、下る途中で確実に酸素がなくなるということ。下降しながら小松さんの意識はだんだん遠くなり、雪面から巨大な影があらわれて自分の体をすっと通過していく幻覚を何度も見たという。8,200m地点でついに酸素が尽きた。このとき午前2時。

◆このままC3まで下るか、夜が明けるまで3時間待つか? 青木さんの反応が相当鈍くなり、小松さんの思考力も低下。「良くない波がどんどん起きている」と、ビバークを決めた。雪面を削って横並びに座り、朝を待つ。つい寝落ちしそうになるが、自分たちの息の荒さに驚いてはっと目覚める、その繰り返し。起きるとまず「生きてる?」と隣の青木さんに尋ね、反応が返ってくるたび安心した。もしこのとき青木さんが力尽きていたら一緒に力尽きていたのではないかと思えるほど、隣に生きている存在があることが心強かった。

◆気がつくと熱い太陽が顔を温め、紫色の雲海が崇高に広がっていた。朝だ!!。あまりの美しさと、生きていることに感動。ふらふらの足でC3に帰りつきBCへ連絡したら、遭難騒ぎになっていた。ビバーク地点がちょうど山の裏側で無線の交信が途切れていたためだ。出発前に両親へ遺書を残していた小松さんは、K2で得た体験を通じて「ただ生きているだけですごいこと」と、命の価値を噛みしめた。

◆BCで登頂を祝っていたときに会ったロシア隊の青年たちは、その後雪崩にあい帰らぬ人に。下りは落石が激しく、青木さんは「K2に殺されるかと思った」。山麓まで戻り、土に生える緑色の草を久しぶりに見た小松さんは「感激のあまりゴロゴロ転がった」。「K2は多くを教え、与えてくれた」。過激派といわれたイスラム教シーア派のポーターたちとの出会いも大きかった。歌って踊るのが好きな彼らと、言葉は通じなくても家族のように打ち解けた。蔵元さんとも無事再会し、仲間との絆があったからこそ登頂できたと実感。「人が生かしあい、つながりあって生きている」。レンズの向こうの小松さんに心を許し、微笑むポーターたちのポートレイトが続く。

◆翌年は大学時代の先輩と2人でパキスタンのシスパーレ(7,611m)北壁へ。氷河を横断し、底が見えないほど深いクレバスをジャンプして飛び越えるのは恐怖だった。頂上まであと少しのところで、雪崩がひどくなりリタイア。この後、小松さんの心に変化が起きる。「私は山を目指してはいないんじゃないか?」。困難なルートに挑むことよりも、麓の人々の暮らしに惹かれていく気持ちに気づいた。

◆「裕福ではなくても、厳しい自然のなかで互いに支え合って生きる人々を見たい」。小松さんにとって、このシスパーレが最後のヒマラヤになった。勤めていた登山用品店を辞め、自転車に寝袋をつけて沖縄へ旅に出たが、なぜ山をやめたのか、自分自身でも整理がつかない葛藤の日々。東京郊外の牧場で働きながら1年に3〜4ヶ月間旅をする生活を4年送った。

◆中学生のときに見たドキュメンタリー番組が、世界の人の暮らしに興味を持つようになった原点だという。ラダックの山あいに暮らす羊飼いのおじいさんは、寒い冬の放牧が大変でも便利な町へ移る気はなく「ここには山があり人間がいて動物がいる。これが私の幸せなんだ」と語った。その姿に「頭をハンマーで叩かれたような衝撃を受けた」。

◆東西アジアの遊牧民に会いたくて、2008年8月モンゴルの草原を訪れた。知り合いを通じて東部スフバートル県の遊牧民一家と縁がつながり3ヶ月の居候生活。「大地は360度、空は半円に広がる」。ゲルの主は2人の子どもがいる29歳の夫婦。小松さんは、男の仕事である羊の放牧も、女の仕事である乳搾りも手伝った。お父さんがヤギを屠るところを横で眺めていると「なんのために草原に来たんだ」と怒られ、小松さんも屠った。ツノとツノの間の柔らかいところを打って気絶させ、おなかにつけた切りこみから手を入れて動脈をちぎる。「生温かい血の感触が今でもよみがえる重みある経験」。

◆モンゴル滞在中、いくつものカルチャーショックが。ある晩ウォッカに酔った男性たちが激しい喧嘩を始め、1人の男性がもう1人の太ももにナイフを突き刺して大量出血。心配したが、翌朝には包帯を巻いて2人仲良く馬に乗り放牧していたのには驚いた。性に対しても彼らはおおらか。家族とゲルで川の字になり眠っていると、小松さんのすぐ横で夫婦が夜の営みを始めるので「私は悶々とするわけです」。人と動物との関係性も独特だ。友情があるのと同時に、いわゆる「ペット」とは違う一定の距離感があった。

◆モンゴルを後にした小松さんはロシア、ウクライナを経て、砂漠の遊牧民が暮らす中東へ。2008年はシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、2009年はイラク、イラン、2010年はエジプト、イエメンを歩いた。ヒマラヤを離れて5年になる2013年、人から用事を頼まれパキスタンへ行く機会があり、憧れだったナンガ・パルバットを麓から眺めた。「以前なら山といえば頂やルートが浮かんできたけれど、山麓の人々、風、水、すべてが山なのだと感じた。これまでの道のりはここへ来るための長い旅だったんだと、妙に納得した」。

◆2008年、シリア砂漠に暮らす半遊牧民のアブドュルラティーフ一家と出会う。60代と70代の両親には16人の子どもと100頭のラクダがいた。ラクダの放牧を担当する12男末っ子のラドワンさんは、のちに小松さんの夫になる人。「シリアの人々はすごく明るく目がキラキラして、どこに行っても旅人に優しかった」。シリアの有名な言葉に「ラーハ(ゆとり、休息)をたくさん持つ人生が一番いい人生だ」というものがあるそう。シリア人は大切な人と過ごす穏やかな時間を大切にし、シビアな話もシリアン・ジョークで冗談に変えてしまう。

◆平和な時間が流れるシリアで内戦が勃発したのが2011年。政府側、反政府側、ISという3つの勢力の影響下におかれ、2016年現在で人口2,240万人のうち27万人が命を失い、約400万人が国外で難民生活を送る。外国人と親しくするとスパイ容疑をかけられるため、シリアの友人たちは小松さんから離れていき、小松さんも秘密警察に監視されるようになった。

◆放心状態で宙を見つめるラドワンさんの表情をとらえた写真が印象的だ。「兄のサーメルが警察に連行されたと電話で知らされた瞬間を撮ったもの」。民主化運動に参加していた兄はずっと警察に狙われていた。同じく運動に参加するラドワンさんの身も安全ではない。小松さんは「自分がここにいることで彼らに何ができるのか?」と考えたが、答えが出なかった。するとあるイギリス人ジャーナリストから「今ここにいるなら写真を撮ればいい。1枚の写真は人の心を変えることができる。それがめぐりめぐって政治や世界を変える。カメラはそれほどに大きな力を持っているんだよ」といわれ、内戦の惨禍が迫る日常を生きる人々を撮り始めた。シリア警察は銃よりもカメラを警戒していた。

◆「会いたいけれど来ないでほしい。警察にマークされている」とアブドュルラティーフ一家から電話越しに伝えられ、実際に情勢は悪化の一途をたどった。小松さんはそれ以降シリアに入ることができていないが、周辺のヨルダンやトルコでシリアから逃げてきた難民を取材するように。働く子どもや、「あまりにたくさんの血を見てしまったので故郷に帰ることに戸惑いがある」と話す夫婦。状況は厳しいが「出会った難民たちは希望を持って生きていた。時に明るくて強い。悲惨な状況だけでなくそういう姿も伝えていきたい」と小松さんはいう。

◆レバノンへ逃れたラドワンさんと2013年に結婚。家族3人で東京に暮らし、ラドワンさんは力仕事を掛け持ちしながら実家へも仕送りを続ける。5年前に捕らえられた兄はまだ行方不明。今年誕生した赤ちゃんに兄と同じ「沙芽瑠(サーメル)」という名前をつけ、優しく頼もしいお兄さんがどうか生きていますようにと願いをこめた。この言葉には「夜の中の光」という意味があるという。

◆「K2の頃より主人と結婚した日本の生活のほうが日々サバイバル。本当の冒険とはヒマラヤ登山のように単発的なものではなく、毎日の日常生活の積み重ねだと思うようになった。これからも日常を自分なりに豊かに生きていきたい」と締めくくった小松さん。若くして大功績をあげ、若くしてその世界から身をひくことは、どれほどの勇気がいるんだろう? そして人生をまるごと冒険に塗りかえてしまうほどの覚悟とは……。小松さんの尋常ではない芯の強さに圧倒され、ときどき聞こえるサーメルくんの元気な泣き声が心に響いた報告会だった。(大西夏奈子


報告者のひとこと

どんな土地に行って何をしていても、直感を働かせる

 ヒマラヤ登山、自転車旅、モンゴルの遊牧民との生活、砂漠の旅、フォトグラファーとして難民の取材、この10年の間のことだ。一見何のつながりもない、かけ離れた行為としてとられることもあるが、私にとって全てが一本の線でつながっている。

 そのときどきに心が求めるものに忠実に、頭で考えるよりも、先に足を前に出してまず歩き始めることをしてきた。単純で鈍感な性格ゆえ、失敗も恥も多く挫折もあったが、“まずは始めてしまう。そしてやりながら学ぶ。そこで迷ったなら周りを見渡し、ゆっくり歩きながら決めていけばいい”と信じている。また既存の価値観ではなく、自分の目や心でものごとを見て感じることを大切にしたい。なかでも直感は、生き物として最も大切な感覚のひとつだと思っている。どんな土地に行って何をしていても、直感を働かせることができれば大丈夫だと思っている。

 旅で出会った人々は、草原であれ沙漠であれ、どの土地でも日常を愛おしんで生きていたことが印象的だった。広い世界に憧れ出会いを重ねるごとに、狭い世界が深いということを知るようになった。

 4年前、シリア人の主人との結婚をめぐり両親に勘当され、実家に立ち入ることができなかった一年半があった。この孤立無縁の日々があって初めて、私にとってのふるさとはその風土ではなく、そこに生きる人であることを痛感した。愛する家族や仲間とともに日常を日常として送れることが、いかに特別でかけがえのないことか。今は母として、女として、そして人間として、日常を丁寧に積み上げることを大切にしたい。先鋭的な厳しさのなかにあるものより、日常の深部にきらりと光るものを見つめていたい。生きることは、日々が一期一会の宝物だとしみじみ感じている。(小松由佳


地平線報告会に乳児が来た! そして私のB面

■私は子供が苦手だ。娘を産んで育てている今、8歳ぐらいまでの子どもならどう対処すればいいかは学習済みなので、はた目には子供好きな人っぽく映っているのだろうが、内心は苦手意識に加え恐怖心やちょっとした嫌悪感までトッピングされたコンプレックスの塊である。我が子に対しては大らかかつきめ細かい心を持って、個性と好奇心を尊重した愛情深い幸せな子育てをしている。そういう気持ちがよその子には持てないのだ。

◆そんな私にサーメル君のお世話係のお鉢が回ってきた。報告会にほぼ毎回娘を連れて出席している私は、さぞいいお母さんのイメージで捉えられているのだろう。しかも江本さんたってのお願いとあっては断る訳にはいかない。8年前は四六時中抱っこひもでおなかにくっつけていた娘がどんどん成長してしまい一抹の寂しさを感じている今、懐かしい感触を少しは思い出せるかも、とも思ったし。

◆しかし娘がぽよぽよの赤ちゃんだったころを思い出せるかも、なんて思ったのは大間違いだったと、お世話開始10分で悟った。ベビーカーの中で機嫌よくガラガラで遊んでたのもつかの間、だんだんむずかり出してこのままでは泣き出してしまう、という瞬間さっと抱っこして会場最後列に移動。重っ、そして太っ。娘との違いすぎる感触にしばし呆然。何を隠そう、男の子を抱っこしたのはこの時が初めてなのだ。

◆しかし気を取り直して娘のときと同じように立ってゆらゆらしたり座ってとんとんしたりしているうちに機嫌はすっかり良くなりケラケラ笑い声まで聞こえるように。束ねた私の髪を思いっきり引っ張って、思わず「イテテテ」と言うとそれがツボだったらしく何度でも引っ張ってはイテテテ…を繰り返す。まつ毛がくるんとカールしたパッチリおめめの赤ちゃんが上機嫌で笑っている図、愛らしい以外の言葉が見つからない。会場最後列では、「ちょっと抱かせて」コールが止まらず、右から左、左から右へサーメル君のリレーが始まっていた。

◆しかし休憩後、おっぱいを飲んで満腹になり眠くなったのにお母さんじゃない人たちに抱っこされている心地悪さに大泣きしてしまい、しばらく会場外に連れて行くと、次々と交代してくれる人たちの優しさがあった。最後列の受付スタッフだけでなく、子育て孫育てをこなしてきたベテランさんたちも加わってくださり、なんとか2時間半が終了。ギーギーいきみながら大泣きするサーメル君をお母さんのところに連れて行ったとたん、脚の上にちょこんと座ってほよっとしている。こんにゃろ。でもやっぱりお母さんじゃないとね、お母さんのいる安心感が赤ちゃんには何より大切で幸せなことなんだなと、解っていたけど改めて思った。

◆今回の報告会、私は二時間半まったく聴いていない。映像も観ていない。いつも通り長野さんの紹介文と絵から想像を膨らませ胸を躍らせて報告会に臨んでいるのに、だ。他の人が外に連れ出してくれているときだって、サーメル君が気になりすぎて透視もできないのに入口の鉄扉を凝視していたのだから。そんな悔しさとモヤモヤ感が大いに残る報告会だったが、別のところで少し収穫があった。

◆サーメル君のこれからの人生、一筋縄でいかないこともあるかもしれない、でもとにかく幸せに育ってほしいと心から願っている。そう思える私は、苦手意識などのよその子どもと接する際に不要な感情は少し解消できたのではないかな、と思う。まだサーメル君に限ってのことかもしれないけど。子供と密に接すれば接するほど、愛情がコンプレックスを薄めてくれるのかもしれないと思った。(瀧本千穂子

あの落ち着いた話ぶりはどこか達観したような……フォトグラファー・小松由佳さんの意外

 ■小松由佳さんの名前を久しぶりにみたのは2年前。山形県の「山岳資源の魅力向上推進プロジェクト」の有識者として名前があり、肩書が“フォトグラファー”になっていたので、気になってネットで検索し本人のウェブサイトにたどり着いた(現在のサイトは当時とは変わっている)。サイトのニュースには「写真誌『名のない星』発刊しました!」とあり、その一つが『命をつなぐ旅』と題されたサケの遡上を撮影したものだった。撮影場所は秋田県にかほ市の川袋川(かわふくろがわ)。鳥海山の西麓にある湧水の川で、わたしがよく行く山形県遊佐町の牛渡川(うしわたりがわ)の少し北にある姉妹のような川だ。小松さんが日本人女性初のK2登頂者であり植村直己冒険賞受賞者であることはもちろん知っていたが、まさか写真家になっていたとは……。

◆しかもこの時は「鳥海山頂美術館」(頂上にある大物忌神社参籠所の一画を利用した夏季限定の美術館)で「憧れの山 ナンガ・パルバッドへ」という写真展をやっていた。行きたい!と思ったが、鳥海山頂は簡単に行ける場所ではなく(わたしの足だと往復8時間くらいかかる)、週末の予定と天気をにらんでいるうちに会期が終わってしまった。その頃は小松さんがシリアに通っていることは知らなかったので、通信の案内をみておどろいた。シリアの内戦や難民については数少ないニュースや昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された映像くらいしか知識がなく、できれば内側からみたシリアの実情を知りたいと思っていたからだ。

◆報告会はK2に登った10年前の映像から始まり、山を離れて草原や沙漠を旅しやがてシリアに通うようになったことを、まるでアナウンサーがナレーションを読むようによどみなく進められた。まだ若いのにあの落ち着きはなんだろうと思うくらい、丁寧でおだやかな話ぶりだった。2013年を最後にシリアには入国していないとのことだったが、これは外国人と接すると政府から疑われ親しいシリア人に迷惑がかかるかららしい。小松さんのおだやかさの陰には遠いシリアの友人たちを想う気持ちが秘められているように感じた。「山形国際ドキュメンタリー映画祭2017」のコンペティション応募作品も届き始めたと聞くが、今回は前回にましてシリアを題材にした映画が多いだろう。厳しい現実のなかに少しでも希望がみえることを期待したい。(飯野昭司 山形県酒田市)


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