2017年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信461より
先月の報告会から

スワ湖発セカイ行き

〜8年半157ヶ国のチャリンコ旅〜

小口良平

2017年8月25日 新宿区スポーツセンター

■地平線会議の報告会ってのは、世界でかっこいいことしてきた人が、かざりっけなしでその挑戦を聞かせてくれる舞台だ。そこには営業トーク的な小ぎれいにまとまった話なんて必要ない。なぜならそれは真実の報告だからだ。それをふんふんと聞いた人が、いい話だったねー、で終わるのも勝手だけど、よし!オレもいっちょやったるぜー!と世界に飛び出していく原動力につながれば、報告会名利に尽きるってものだ。

◆今回の小口良平もまたそんな旅人のひとり。彼が初めて地平線の報告会を聞きに来たのは11年前。埜口保男氏(第169回報告者)の著書「自転車漂流講座」で地平線会議の存在を知り、報告会でいろんな行動者の話を聞いた。そんときゃ、彼はまあ無名だ。だれも小口良平なんて知りはしないけれど、ちゃんと地平線に仲間を作っていった。そして9年前、彼は世界を夢見て自転車で出発し、いくつかの記録を打ち立てて去年の秋に世界一周をなしとげた。今度は報告者として、地平線に帰ってきた。

◆彼の報告内容を書く前に、ちょいと安東浩正から解説しよう。自転車世界一周式サイクリストってのは、まあたくさんいる。日本人だけでも今現在走行中でざっと30人ばかりだろうか。小口良平はもっといるんじゃないかと言っている。世界一周自体がパイオニアである時代は昔のことで、今はそれぞれが他の人とちょっと違う冒険要素をいれながらチャレンジしている。でもまあ、記録としてわかりやすいのが、昔から訪問国数と走行距離なのである。

◆走行年数があげられることもある。小口良平はその国数と距離の記録で日本人最多を更新して帰ってきた。訪問国155ケ国、走行距離15万5000キロだ。池本元光氏が47カ国で日本人初世界一周をなしとげたのが70年代前半。井上洋平氏(第182回報告者)が13万キロ越えでしばらく破られることのない記録を打ち立て、国数では117カ国の待井剛氏がしばらく記録保持、中西大輔氏がそのどちらも越えて2009年植村直己冒険賞を受賞した。それを小口良平がどちらの記録も更新して帰ってきたわけだ。記録更新はパイオニアワークを意味する。

◆距離や国数が重要かって? いや、それは最重要なことじゃないってことは、言われなくてもサイクリストはみんなわかっているさ。100のサイクリストがいれば100の物語がある。その内容に優劣をつけようってんじゃない。ただ、登山家が8000m峰を幾つ登ったか、ってのと同じことで、記録としての目安にはなる。それでも距離や国数なんて意味がないと思うなら、まず自分が157カ国訪問できるか考えてみてくれ。15万キロなんてとんでもない数字だ。小口良平は、よくやった。地平線で話す資格はあるじゃないか。

◆ご託はこのくらいにして、報告レポートを書こう。話はテーマ別にショートストーリー立てである。まずは旅へのきっかけ。建設業界の営業マンで1000万円をためて、大学の奨学金を返済し、残り650万円で旅を始めるまでの話だ。高校ではサッカーをしていた。卒業時に進路を考えるも、やりたいことがない。そこで時間をかせぎに東京の大学へ。その大学も就職を考えなければならなくなると、まだ何をすべきかわからない。

◆とりあえず奨学金を返すために働かないとな。40年間続けられる仕事って、なんだろう? そんな時、8歳の出来事を思い出す。地元の諏訪湖を兄と自転車で回った思い出だ。ゆっくりペースでいろいろ発見する大冒険だった。よし! じゃあ温泉のある箱根まで走ってみよう。ママチャリで夜中に板橋を出発するも、朝になってもまだ湘南。なれない長距離走行にすでに体も心もボロボロで限界。この先の人生も壁があると逃げる自分が見えてきて、コンビニの駐車場でひとり泣いていた。

◆ふと、行きすがりのおばあちゃんがお茶を差し出してくれた。「汗と涙は他の人のために流すものであって、自分のための涙はこれで最後にしなさい」と。その励ましに、人生に影響を与えるほどの言葉があることを知る。そして箱根まで走りきり人生で初めての達成感を得る。自転車の旅だったからこその出会い。人に会うことが自転車旅の原点となる。

◆就職も決まった。まだ卒業まで時間がある。自分のまわりには、海外旅行の話できらきらしてる人がいた。そこで地図を広げて、なんとなくチベットに行くことに。北京から列車でチベットへ向かうと、尺取虫みたいに五体投地で2年かけてラサを目指すチベット人に出会った。日本のお遍路とも違うようだ。世界には世界のルールがある。世界一周してから自分だけのルールを見つけよう。湘南のおばあちゃんみたいな人にもあえるだろう。自転車と世界一周がここでつながった。

◆とりあえずお金を貯めよう。就職した会社でのあだ名はおにぎり君。朝はご飯にタマゴと納豆、昼は特大の爆弾おにぎりを持参、夕食なしの節約生活。続けること5年で1000万円をためる。会社も3年もいると面白くなってきて、やめないほうが楽かもと思えた。でもそれじゃあなんで節約してるの? 夢のためじゃないか! 馬鹿な事いってるんじゃないと言ってた親も、1000万円貯めた現実に理解を得た。さらにモチベーションも埜口さんの本とかでキープ。10年前のできごとだ。地平線に来てたのもこの時期だね。

◆トークの合間に時折短い動画が入る。サイクリスト三大聖地のひとつ南米チリのオーストラル街道だ。自分の冒険を世間に伝える手段の撮影機器も、最初はコンパクトカメラだったけど、それが一眼レフとなってゆく。動画は出会った人がとってくれたものが多い。冒険のスタイルも、今では世界中あちこち行き尽され、表現が重要になってきている。インスタグラムで稼いでいる人もたくさんいる。

◆走行距離も慣れると1日150km走れるように。一番たくさん走ったのは4日間で1152km。自転車そのものの重量は20kgだが、キャンプ用具で+60キロ。さらに水が多いと90キロ。荷物は最初のころは、とりあえず全部もっていったので多かったけど、旅慣れてくると今度は趣味の荷物が増えてきた。例えばコーヒー発祥の地エチオピアではコーヒーミルが増え、高地のアンデスではパスタをしっかり煮るために3kgのダッチオーブンとか、結局荷物はちっとも減らない。

◆宿泊は7割がキャンプで、民家に泊めてもらえることが2割、1割は安宿。テントを張るときは最初は人に見つからないよう選んでいたけど、オーストラリアで子供にテントをひっくり返され、まあ子供だったからよかったけど強盗だったら? と思うと怖くなり、今度はできるだけ人がいるところに声をかけてテントを張らしてもらった。すると泊まらせてくれたり、食べ物をくれたり、次に泊まるところを紹介してくれたりで出会いが増えた。

◆世界一周の前に2007年に日本一周から始める。大学で東京にいたとき、ビルの狭間では方向もわからないし山もみえない。故郷の諏訪にもどってきて、それまで当たり前だった景色のすばらしさに気づいた。なのでまずは日本を走ることに。日本と台湾で24627km走り、2009年からいよいよ世界一周へ。まずはオーストラリア。町から町まで100km以上離れているのはあたりまえ、エアーズロックを目指す時は500km町がなく荷物も70キロ。夜中にテントを食い破って入ってくるアリに体中咬まれるやばい出会いもあった。

◆次のニュージーランドではギネス記録の世界一急な坂へのチャレンジを動画で。Youtubeで大ヒットしたらしい。はあはあ息を荒げながらもなんとか最後まで登りきる!と思いきや、そのはあはあは走って撮影してくれた日本人のハアハアの音なんだって。3か国目のインドネシアでは交通事故。前歯が二本折れて、とりあえず差し歯、この差し歯も世界一周中に入れ替わり、インドネシア産、エチオピア産、ジャマイカで3本目、ペルーで4本目。

◆前歯がないと食事にも苦労がある。ペルーでは名物リャマ肉を食べたいけど、硬くて食べられない。おばちゃんに噛んでもらってやわらかくしてもらってから食べた。おばちゃんも照れてた。前歯も折ってみるもんだな。

◆病気の話。タイでは腸チフス、インドでデング熱、アフリカで熱帯マラリア、その他、南京虫にインフルエンザ。日本ではたいしたことない病気でも、インフラの整わない国々では薬がなくて死にかけてあぶなかったり。でもいつも誰かが助けてくれた。出会った人にはTシャツにサの子のこととか思い出したりして、励みになる。

◆タイの看護婦さんはTシャツにドラえもんの絵を描いてくれた。日本の援助で看護婦になったんだとか。他にも橋とか道とか学校とかで、世界中で日本の援助の痕跡を見ることがあった。お金をためれば世界一周できるなんて、日本人に生まれただけで宝くじにあたったようなものなのかもね。最初は日本人と知られたら誘拐されたり襲われるんじゃないかと思ってたけど、日本の評判がよいので自転車に日本の国旗をつけてみた。すると好評で、日本人は礼儀正しいとか評価してくれる。これまで世界をいろいろまわって好きな国を振り返ると、島が多いことに気づく。固有の文化があるのだ。

◆カンボジアでは腸チフスでふらふらのまま走った。学校でテントを張ると人々に追い払われそうに。そんなとき、見た目がマフィアみたいなおじさんが家に招待してくれた。でも彼は警察官でなんと自分と同い年の26歳(笑)。渡し船代とか飯も出してくれた。8人家族の家に泊めてくれただけでなく、出発時にお金を手渡される! それは現地人にとって半月分の給料という大金。湘南のおばあちゃんを思い出す。そんな優しさを世界中でうけて、いつかお世話になった人たちに日本を見てもらいたい、というのが次の夢になる。

◆カンボジアで出された肉の写真。それは犬の肉だった。オーストラリアで地元の長野の郷土料理の馬肉の話をしたら、みんな青ざめて家族を食べるのか?って言われた。肉も世界もそれぞれだ。学生時にバックパッカーで訪れたチベットを今度は自転車で再訪。エベレストBCへ向かう途中で公安につかまって留置所へ。強制国外追放となりネパール国境まで車で送られてしまう。でも国境イミグレで物陰に隠れて彼らが去るのを待ち、自転車で引き返してエベレストへ。

◆ここでは28日間風呂に入ってない。でもチベット人は一生に3回しか風呂に入らないんだそうだ。インドでは旅人はだいたいみんなお腹を壊す。左手はトイレでお尻をあらう手で食事は右手だけど、料理を作るときは両手を使っている。これが原因では? 日本のウォッシュレットなら手を使わなくていいんじゃない? 

◆そのインドで二回目の交通事故。自転車のアルミフレームにヒビが入り、新しい自転車調達に3か月だけ一時帰国した。ちょうど東北の震災がおこり、世界中からいろんな物資が送られてきた。世界では原発事故で日本は終わったと思われてる。そうじゃないんだと、震災の出来事を世界の人たちに伝えるメッセンジャーになろうと決め、旅を再開する。

◆タジキスタンはサイクリスト三大聖地のひとつだ。ワハン街道、地雷の看板、丸二日人に会わず、900kmのダートに5000mの峠。車がやってくるのが音や目でなく、ガソリンのにおいで伝わってきた。それくらい空気も澄んでいる。夜テントを開けると、流星が降ってきてびっくりして閉めてしまった。圧倒的な大自然の前では感動よりも恐怖を抱き、もしかして自分は死んじゃったんじゃないかと思ったくらい。覚悟がいるけどそれに応えてくれること間違いなしなので、ぜひ走ってみて!

◆イランに行くと言うと、みんなやめろっていう。でも当地を走ってきたサイクリストはぜったい行けと言う。で行ってみると、おもてなし豊かな国だった。ヒゲのあるのがイケメンで、眉がつながっているのが美人の証。ホメイニ以降は女性は下着でおしゃれする。整形も多いらしいけど、鼻を低くして胸を小さくする。なんか日本の逆じゃない?

◆パフェの中に生卵を入れたデザートがある。はっきり言っておいしくないけど、見た目のよさが重要らしい。500万円のペルシャ絨毯の上で食事しながら、この国で感じたことを君の言葉で伝えてほしい、と。イランはアメリカと仲が悪いから、メディアで良いことは言われてない。でも自分の目で見て判断することの重要さをイランで知った。

◆冬のハンガリー。零下20度でのパンク修理では涙も凍った。極寒の夜がくるのが怖い。死ぬ前に子孫を残そうとするからだろうか、夢精してしまう。モルドバへと40日間、零下20度を走り切った。次は南極だ!

◆現地では三つの挨拶を覚えると地元民と仲良くなれる。こんにちは、ありがとう、おいしいだ。エチオピアでどぶろくとかおいしくないけどおいしいっていうとどんどんついでくれる。そして笑顔だ。これで世界はなんとかなる。国境には道がないことが多々ある。隣の国に侵略されないためだ。GPSは持ってるけど、現地の情報が最優先だ。

◆まだまだ話は尽きないが、省略して最後に到着したニューヨークの動画を流そう。タイムズスクエアが15万5000キロの終着点。思い描いた通りのゴールとなった。旅の初期に香港であった女の子と6年ぶりにニューヨークで再開した。ゴールのシーンにお祝いに来てくれたのだ。でも子供といっしょだったのが悲しい……。なんと旦那は日本人だそうで、しかも自分と同い年らしい。6年前に彼女と分かれる時に後ろ髪をひかれてたけど、もしかして俺が旦那になれてたかもなあ。でもやっぱりあの時、旅を続けたからこそいろいろな人に出会えたじゃないか……。

◆最後に長野の自宅に帰りついたときのテレビ取材の映像を。納豆卵かけごはんに涙する。振り返ると、生きていることを実感できる旅だった。屋根がある、お湯が出るといったあたりまえのシンプルな幸せに気づかされた。百聞は一見にしかず。続けることの大切さ。人と比べるから自信が無くなるんだ。アフリカの人々を知ると比べることに意味なんてないと思う。いつか月を自転車で走りたい。南極も。口に出していればいつかかなうかもしれない。

◆それぞれの国の印象よりも、出会った人々の印象のほうが大きい。帰国したら子供たちに夢の話を伝えたいな。本も情報を発信していたから出版できた。もっといろんな人とつながりたいから、諏訪湖を自転車で走る体験型イベントも企画している。4年後には地元でカフェのあるゲストハウスをつくって世界中の人との交流につなげたい。今日来てくれた人との出会いも財産です!

◆さて時間目いっぱいでも話しきれないことはたくさんだろうけど、あとは著書の「スマイル!」(笑顔と出会った自転車地球一周157カ国155502km、河出書房新社)に任せよう。質問コーナーで、保険は? 全部で120万円くらい払ったけど、250万円分を使った。イスラムの国にそれだけ行くとアメリカ入国は厳しいのでは? 各国で紹介された新聞記事があると信用してもらえる。

◆会場には前々記録保持者の井上洋平氏とか、出発前に地平線で出会ったサイクリストや野宿仲間たちも集まった。仕事で来られない大先輩の埜口さんからは、世界一周を終えても自転車で走り続けるようにとメッセージが送られた。地平線の報告会には次世代の冒険王を生み出すポテンシャルがあるっていう、いい例が今回の小口良平だったんじゃないかな。かつての自分がそうだったように、聞いた人に今度は出かけて欲しい、という思いの詰ったトークでもあったらしい。

◆今月の地平線報告会の会場にもまた、11年前の彼のように将来に夢をはせる旅人がきていたかもしれない。いやいや、聞きに来た人はぜひともみんな行動者になるのがいい。さて、今回のお話で何が印象に残っただろう? 今回のトーク実現の立役者で、某代表世話人に裏工作した野宿嬢は、お金ためるのに、お米だけ食べまくってたって話が、超人すぎると一番記憶に残っているという。

◆なるほど、これは重要だ。食費を削って冒険資金をためるってのは、これはもう無名時代の植村直己がフランスのシャモニで働いていたときに、イモばかり食っていたのと同じじゃないか。基本的に無名の冒険家にはハングリースピリッツが必要なのだ(つまりお金がない、いや1000万円持ってても無駄使いはできない)。

◆報告会を終えて恒例の2次会の中華食堂へ。一方的に報告される1次会と違って、2次会だとこれから冒険に向かいたい人が直接話を聞くのにうってつけだ。でもね、どうも昔と違うような気がする。しかもここのところ会費が3000円ぐらいかかってるらしい。中華で3000円? ビールの頼みすぎでしょう。例えば、食費を節約して冒険資金をためているような人が、参加したくても参加できない2次会から、未来の冒険王が生まれるだろうか? ビールで差をつけるといいかもしれない。

◆非公式だけど時々3次会野宿ってのもあるんだよ。都会のジャングルで朝までディープに話せるいい機会だ。小口良平もまた3次会の仲間だったのだな。地平線の彼方で、また会おうじゃないか!(安東浩正・冒険サイクリスト)


報告者のひとこと

イランで受けた最高のもてなしの心

■11年前の2006年9月に参加したのが、私と地平線会議との最初の出逢いでした。あのときは、まさか自分が聞く側から登壇する側にまわるとは思ってもいませんでした。今もあのときの光景を覚えています。登壇者への強い羨望の眼差しを。

◆11年の時を経て、座る席を10mちょっと移動して、パソコンを前に立つ私は当時と何か変わったのでしょうか?「自分を変えるきっかけが欲しかった」。そのきっかけを世界一周自転車旅にかけた私。「嫌なことはなかったんですか?」。よく聞かれるこの質問に対しては苦心して答えるのに対して、「いい思い出は作れましたか?」。にはスラスラと答えられます。

◆当然、その時々でぼったくられたり、喧嘩したり、事故や病気にも遭いました。が、嫌なことを思い出しづらいのは、そういったことが1年の365日のうちの30日にも満たなかったからだと思います。私が鈍感な性格だとか、大らかな性格だとかではないと思います。これには多くのサイクリストが共感をしてくれるはずです。心底、優しくされて楽しい毎日だったと思っています。だからこそ、今回の地平線報告会は苦心しました。

◆「今までの講演会ではなく、小口良平という人間の話をしてくれ」。460回の歴代の報告者の方からすれば、私のしてきたことは語るに及ばない話しだと思います。それでも自分のしてきたことを多くの方に知ってもらいたいと思い、今回は無理を言って報告会をさせて頂きました。1ページに約17日分というストーリーを込めた書籍の執筆のときもそうでしたが、8年半という期間を150分の中に入れる作業は、いかに自分を削るかという作業でした。

◆苦心を重ねた当日の報告会でしたが、皆様の中に小口良平という人間が伝わりましたでしょうか? ほんの一部でも伝わったのであれば、幸甚です。私の名刺には「自転車冒険写真家」と入れてあります。帰ってきて言われる三大ワード。「今日は自転車で来たんですか?」「次はどこに行くんですか?」「今は何をしてるんですか?」。これらを説明するためにも、日本では肩書が必要ですね。ただ、私の場合は肩書を並べれば並べるほど、何をしているのかわからない得体の知れないものになっていますね(笑)。

◆私の場合は、肩書きは周りの取材の方がつけました。そこにスポンサーの要望にも応えて。肩書は難しいですね。私のしたいことは、「旅で感じた良さを伝えたい」ただそれだけなのですが、言い得て妙な肩書がありません。私は常々、「冒険」と「旅」は大きく違うと思っています。「冒険」は自分の限界に孤独でチャレンジすることで、自分の生命の「体温」を感じる。「旅」は無力な自分を知って、多くの人の力を借り、他人の「体温」を感じる。ともに生きていることを実感するのに体温という「熱量」が必要なんだと思います。

◆話がアマゾン川のように蛇行しましたが、ポロロッカのように逆流させます。「旅で感じた良さを伝えたい」ということを今後の活動にしていきたいと思っています。これだけ装備や食料、アプローチに至る過程まで先進してくると、現代の冒険家が求められるスキルは、技術ではなく表現力なんだと思います。いかに自分のすることが多くの方に夢と元気を与えられるかどうか。そのためには、メディアを含め、映像関係機材をうまく扱えるようなスキルも必要になっています。

◆今回、報告会後のコメントを自転車会(JAAC)の大先輩の埜口保男さんより頂きました。「自転車の魅力を後世に伝える活動をすることで、ようやく自転車旅が完結する」。20代は苦労を知って自分の覚悟をつけさせる時期。30代はその覚悟を表現する時期。40代はこれまでの生き方を還元する時期。50代はひとりじゃ叶えられない夢をみんなと叶える時期。

◆旅から帰って早11か月。講演会、書籍、カフェ&ゲストハウスのOPEN、故郷の長野でのアウトドア&観光ガイド。旅で得たものを「五感を使って伝えたい」。それはイランでの想い、世界中での想いがあります。イランでは世界で一番おもてなしの心のこもった対応をしてもらいました。訪問後では、イランに行くのを怖れていた自分がいたことに恥ずかしくさえ感じました。

◆「君がこの国で感じたことを、君の言葉で、君の大切な人に伝えて欲しい。そうすればいつの日かこの誤解が解けるから」。世界の警察官と言われるアメリカを敵に回しているイランならではのメッセージでした。SNS等で、知らない人の話を信じて傷ついたり傷つけたりする現在、なんと愚かしいことなのでしょうか。イランの話を毎回させて頂くのは、優しくしてくれた彼らへの恩返しでもあって、私の大切にしていきたい生き方を私自身も忘れないようにするからでもあります。

◆かつて南米一豊かだったベネズエラの没落の現状を体験したからこそ、人の笑顔は枯渇しない世界最高の天然資源なんだと感じました。旅を一言で表すならば、「シンプルな幸せに気づかせてくれる」それを伝えたい。そして「続けることの大切さ」「生まれ故郷を離れる大切さ」「夢を発信する大切さ」を実践しながら、皆様を繋げていくことが、人生の命題となりました。2016年9月25日のゴールは、本当のスタートラインに立つまでの助走だったことに気づきました。

◆微力ではありますが、これからも誰かのため、地球のために尽力していきたいと思います。今回の報告会が、誰かひとりでも心に何か届けられたのであれば、旅をしてきたことが報われます。これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。(小口良平


◆これまでの地平線報告会で語られた自転車旅一覧◆

18回  81/3/27   503日間自転車世界一周◇平田オリザ
65回  85/3/23   快走ゴンドアナ大陸1万4000キロ◇西野始〈薬剤師〉
102回  88/4/22  山越えに情熱をかたむけて◇九里徳泰〈中央大サイクリング同好会〉
105回  88/7/22   旅は風来坊のように◇熊沢正子〈フリーライター〉
169回  93/11/26  自転者漂流講座◇埜口保男〈看護師〉
182回  94/12/16  サドルの上の6年半◇井上洋平〈サイクリスト〉
187回  95/5/30   乱氷帯を抜けておうちに帰る◇河野兵市〈植木職人〉
196回  96/2/27   かくチャリンコ族は丘を下りき◇熊沢正子〈ライター〉
216回  97/11/28  長い長いチャリンコ旅のおはなし◇阪口エミコ〈サイクリスト〉
236回  99/06/25  カイラスの渦巻◇安東浩正
286回  03/06/25  荒野の自転車野郎・冬期シベリア横断録◇安東浩正
309回  05/04/22  4年越しのタージ・マハル◇シール・エミコ & スティーブ
338回  07/07/27  満点バイク・アフリカ行◇山崎美緒
345回  08/02/29  チベットの名も無き花のように◇シール・エミコ & スティーブ
392回  11/12/23  80,700キロの助走◇伊東心
424回  14/8/22   ギャップ100℃の恍惚◇関口裕樹


自転車から降りるな

江本さん

 久々の自転車登場に行く準備をしていたのですが、病欠発生のため今日は北京での宴会が終わるころまでの勤務へのシフトが組まれてしまいました。

 昨日は東南アジアを担当していた現役のタンカーの船長と不動産会社の社長を看取りました。年間300人程度なので1勤務帯2名は稀なのですが、それでもときどきぶつかります。タンカーの船長は他の患者の対応中だったので直前の詳細はわかりませんが、不動産屋の社長は、奥さんとともに目の前で徐々に白く変化させる顔を見つめながら呼吸停止を見とどけました。

 そんな日々も5年目。

 精神科から緩和病棟。周囲は同じアスリートなんだろ、柔道でメダルとったんだから体操でも取れるはずだ、と要求する環境に四苦八苦してきましたが、海外放浪(ここでは主に国内ですが)のおかげで切り抜けられています。先日も看取った患者が福岡の秋月出身と聞き、宮崎車之助や熊本神風連の乱を話題にしたところ、そのご家族から絶対の信頼をえることができました。

 さて、まだまだ若いと思っていた私も年が明ければ還暦です。さてどうするかと動向を考えたいところですが、この慢性欠員状態の職場はどうにもやめさせてくれそうにありません。私もまた貧乏性のためのんびりできない性分なので、働けるうちは働き続けることにしています。

 もし可能なら小口君に先輩風を吹かせてのアドバイスがあります。

 以前、伊東心君のときにもいいましたが、世界一周組が旅を終えるや自転車を降りてしまう現実があまりにも多いので、

 「旅が終わっても満足することなく自転車に乗りつづけ、自転車をライフワークのひとつにしてほしい。若いときの経験をのちの人生にいかに生かすかでその人の価値が評価されるのだ」と。19歳のとき初めて北海道まで走ってから40年、9月で通算走行距離45万kmを迎えます。月との往復距離76万kmを目標に生涯自転車に乗りつづけます。

 どうにも日程が合わないのですが、近日中に緊急の勤務を断ってでも顔を出します。(埜口保男 報告会当日のメール)

小口良平さんが大好きで、地平線会議を知らずに参加してしまった私

■私はちまた?で「小口良平さんのストーカー」と呼ばれている者です。まったく地平線会議の事を知らず、ただ小口さんの講演が聞きたくて…でも少し「地平線会議」という所が、タダならぬ場所だという事は耳にしつつも、しっかり調べる余裕もなく、8月25日の地平線報告会にお邪魔させて頂きました。不届き過ぎる不届き者です……。

◆小口さんのお話を聴くのは、帰国されてから今回で15回目でした。いつもはできるだけ1時間以上前にスタンバイしているのですが、この日は、直前まで用事があり、恥ずかしくも道に迷い、汗だくで走って10分ほど遅刻。少し遠慮して??いつも最前列に座る所を、前から4番目の端に座りました。ちょうど、小口さんがはじめの挨拶をしている途中でしたが……。んんん??? 小口さんが、とても変です。。いつもと全然違う。話し方も変。目線もうろうろしてる。

◆具合でも悪いのかと思い心配になりましたが、すぐに小口さんが極度に緊張していることが分かりました。九州まで小口さんを追いかける私ですが、こんな小口さんは見たことがありません! 真ん中の列の最前列に安東浩正さんがいることにも気が付いて、うわ……。ここ、本当に凄いところなんだ!と、やっと気が付くおバカな私……。心配で4列目から2列目に移動するも、小口さんの様子は依然として、いつもとは違ったものでした。

◆20分か、30分か。いつもの小口さんの口調に戻るまで、大分、時間が掛かったように思います。私もあまりに心配で、何を話していたのか聞き取れないくらいになり、30分がとてつもなく長く感じました。でも、そこはさすがの小口さん。調子を取り戻した後は、安定したいつもの様子。でも、やっぱりいつもよりずっと緊張されていたと思います。

◆報告会後の二次会で、不届き者の私は、江本さんの事もちゃんと知らず、お隣に座ってしまいました。やんわりと私の不勉強さを指摘され、地平線会議についてのご教示を直々に頂きました……。そして、頂いた3か月分の地平線通信を読み、驚くと共に、まだまだ凄い方が日本に沢山いる事を知ってワクワク!! 楽しみが増えました!!

◆病気持ちで突然、消えたりする私ですが、冒険家の皆さまの生命力あふれる命に触れて、私も楽しく元気に生きて行けそうです! 本当に本当に、素晴らしい時間と貴重な体験をさせて頂きました。また、地平線会議にお邪魔させてください! そして、できるお手伝いは、なんなりとお申し付け下さい。規格外のすんごいチャレンジャーの皆さまと、それを応援する気持ちの良い支援者の皆さまに心からの敬意を示しつつ。(一柳光子 知的障害児童デイサービス勤務)


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