2017年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信464より
先月の報告会から

遥けきマボロシの頂

早大探検部カムチャツカ遠征隊
井上一星 走出(そで)隆成 野田正奈 小松陸雄 吉田健一 小野寛志

2017年11月24日 新宿区スポーツセンター

■プロジェクターから映された映像は、探検の拠点としたレインディアステーションの小屋の前で早稲田大学探検部・カムチャツカ未踏峰遠征の旗を持つ6人とガイドのアントンの姿だ。よく見ると隊長の一星さんの顔は赤く腫れ上がっている。

◆早大探検部の発足は1959年。全国で5番目にできた探検部だ。58年の歴史の中で今回のカムチャツカ未踏峰遠征隊は、155番目の海外遠征となる。報告会の席でまず隊長の一星さんが説明したのは、探検のベースとなる8つの基本的な考え方だ。それは「発想」、「研究」、「計画」、「準備」、「交渉」、「資金」、「実行」、「報告」で成り立つ。これは法政大学探検部OBの岡村隆さんが学生時代に提唱したものだ。

◆「探検とは何か?」と彼は自分に問いかけ、「探検とはこれだと言いきれないものだ」と答える。例えば、山岳部には山に登るという明確な目的がある。しかし、探検にはない。探検にとって、山に登ることも、沢を下ることも、ひとつのツールでしかないからだ。探検には「発想」が必要だ。彼は政治的にアクセスが容易でなかった場所なら地図上の空白が残っているのではないかという「発想」に至る。カムチャツカ半島は1990年まで東西冷戦の最前線として外国人だけでなく、ロシア人も入域が禁止されていた土地だ。そこに彼は自分のフロンティアを見定める。

◆「発想」の後は「研究」だ。1976年夏にこの地を探検したアーネルト・ムルダネシュ隊の報告書を読み、必要な装備について考えた。そして、彼は「計画」を練ると同時に一緒にカムチャツカに向かう仲間を募った。「計画」では「実行」までの段取りを考え、「準備」として、計画書の作成、現地情報の収集が行われた。計画書は原稿用紙換算で100ページほど。計画の実行には探検部全員の承認が必要だ。計画の責任を全ての部員が共有するのだ。

◆「準備」を進めると共に「交渉」がはじまる。カムチャツカ半島に入るためにはロシア保安庁からの入域許可が必要だ。ツンドラの大地を移動するための現地の足も確保しなくてはならない。学生には時間と資金面の制約もある。今回彼らは「資金」の一部をクラウドファンディングに頼っているが、クラウドファンディングだけでは全てを賄えない。必要資金の総額は約300万円。クラウドファンディングで集まった資金やOBのカンパ合わせても、まだまだ必要な額には届かない。彼らは協賛企業を募り、懸命にバイトをした。医療係の野田さんは、周りが驚くくらいバイトをしていたという。

◆全ての準備が整えば、あとは「実行」あるのみだ。「実行」の成否の9割は準備の段階で決まる。そして、「実行」の後は「報告」という最後の仕事が残る。「報告」は個人の経験を知識に変えるものであり、体験を自分だけのものに留めておいてはいけないという考えが根底にある。今回の報告会の前に彼らは大隈講堂でクラウドファンディングの協力者に向けて遠征の報告をしている。会場ではアンケートが配られ、概ね参加者は満足していたようだが、一部「コンパクトにまとまり過ぎではないか?」という意見もあったという。

◆8つの探検の要素を説明した後に一星さんは探検と冒険の違いについての自分なりの考えを語る。「探検の『検』という字は調べるという意味です。一方で冒険の『険』は危険を冒すという意味を持ちます。だから、探検は本質的に冒険とは違うと思っています。探検には準備の段階から意義や安全性を問う必要があります」。

◆ここでカムチャツカ未踏峰遠征の映像が流れるはずだったが、音声の調子が悪いため、一旦隊員からの報告に切り替わる。まずは撮影係の小野さんだ。ナイル川での水源調査やナミブ砂漠縦断の事前調査でも彼は撮影をしており、今回の遠征は3回目の撮影となる。「映像記録の価値とは、映像でしか伝えられない景色や感情を残すことだと思います。何かを記録しないと誰にも伝えられない。僕にとっての探検とは現地へ行くことでしか得られないリアルを撮りに行くことです」。

◆撮影機材は自費で購入し、遠征では2台のドローンと2台のカメラを駆使して撮影をしている。映像の準備が整い、プロジェクターで彼らの遠征が投影される。トナカイの群れをドローンで撮影した映像と共にチュチュク人の歌声だろうか、朗々とした声がそれに重なり、それぞれの隊員が思いのたけを叫ぶ。「なんでもやってみたい。小学生の頃から苦手なことにも挑戦してきた」(走出)「受験のがむしゃらな感じが終わって欲求不満。エネルギーの出しどころがほしい」(野田)「俺はカムチャツカで探検から解放される」(吉田)「インターンに行くべきなのは分かっている。でも、探検の誘惑に負けた」(小野)「ロシアに行って死ぬかもしれない。内心めっちゃ不安。クマが怖い」(小松)「その景色がどう映るのか、ただそれを知りたい」(一星)

◆8月4日日本を発ち、ウラジオストク経由でカムチャツカ半島に向かった遠征隊は、現地ガイドのアントンと合流し、8月11日にアチャイバヤムに到着する。アチャイバヤムから目指すレインディアステーションは85キロ。装甲車なら1日の距離だ。そこから目的のレジャーヤナまでは徒歩で60キロの距離。しかし、水害で装甲車が行けないことが分かった。そこで別の移動手段として、ボートを選択したが、重量制限のため全ての荷物を乗せることができない。食料の半分を諦め、ボートでレインディアステーションを目指す。

◆しかし、川の水深が浅く、ボートが思うように進むことができない。結局、彼らは周りに何もないツンドラの湿原に降ろされ、そこからレインディアステーションを目指した。ボートで進むことのできたのは35キロほどで、残りの50キロは湿原の中を歩いていかなければならない。遠征隊は30キロ以上の荷物の入った大きなザックを担ぎながら、装甲車のキャタピラの跡に沿って歩く。ときどき足が膝まで沈む。膝まで沈んだ足を引き抜きながら、一歩一歩進むしかない。そんな湿原を歩いているときに野田さんが足首を捻じってしまう。彼女は鎮痛剤を飲みながら、先を目指す。

◆日中の気温は15℃ほど。ときには流れの速い小川を渡らなければならず、多摩川での渡渉訓練が活きる。彼らを悩ましたのは、足を絡め取るような湿原だけだはない。大量の蚊や小さな虫がどんどん鼻の穴や耳、そして、目に入り込んでくるのだ。蚊に血を吸われ、目に入ってきた虫を手で除けている内にバイ菌が入り、まぶただけでなく顔中が異様に膨れ上がってしまう。

◆8月19日、ようやく遠征隊はレインディアステーションに辿り着く。残っている食料はそれほど多くはない。目的のレジャーナヤに向かうのだとすれば、往復120キロを更に歩かなければならない。交通手段も限られているこの場所でレジャーヤナに向かえば、9月中に日本に帰ることもできないだろう。レインディアステーションは、時折トナカイ遊牧民のチュチュク人がやってくるだけの陸の孤島なのだ。彼等は悩んだ末に、レジャーヤナに向かうことを断念する。

◆「ここまで歩いてきたのに、何もしないままで帰れるのか?」。地図で未踏峰を探すとレインディアステーションから12キロの距離にその場所を発見した。ハイマツが密生している尾根沿いは時速500メートルで歩くのがやっとだ。容易に未踏峰には近付けない。時折、熊の痕跡を見つける。未踏峰の山頂に向かうガレ場は手で触れると一瞬で崩れてしまう。登る場所も易々と見つけることはできない。他のルートを探し、そして、日が暮れる。

◆レインディアステーションに滞在できるのはあと僅かだ。焚火を前に一星さんが隊員に向かって「明日の早朝出発して、未踏峰を目指す。メンバーについては相談する必要がある」と語りかける。そして、未踏峰登頂を控え、遠征隊は最後のミーティングをする。「野田が果たして行けるのか?」彼女はレインディアステーションに辿り着くまでに足を捻っていた。今ではそれが癖になってしまい、ちょっとした水汲みの際にも捻ってしまう。

◆「あたしだって行きたい。みんなと同じ決意の固さと金額を払ってここまで来ているんだから」絞り出すように彼女は言う。「決意の固さとか払った金額の話ではない」と彼女の想いに一星さんが答える。「連れていけないという可能性を感じてしまうのは、野田が無理をするかもしれないから。そして、これまでに野田が無理をしたから」「少なくとも偵察には行きたい。行けるところまでは行きたい」

◆副隊長・走出さんは「自分の目で見て、自分の想いを納得させたいという人とは一緒に行きたくはない」と言い放った。重い沈黙がレインディアステーションの暗闇を包む。どのくらいの時間が経ったのだろうか。「あたし残ります。どうしても行きたかったけど、説得されて残るんじゃなくて、自分として納得して残ることにしたんで大丈夫です」と震える声で告げた後、彼女は俯く。髪で隠れた彼女の視線の先は見えない。

◆やがて長かった夜が明ける。野田さんに見送られながら、遠征隊は出発する。霧雨の中、道なき道を歩く。今にも崩れてしまいそうなガレ場を手探りで登り、尾根に出ると、それまで視界を遮っていた雲が晴れ、目の前に目指す山の頂が現れる。「天国みたいだね」と誰かが呟く。「もう死んでいるのかも」と笑い声が響く。2017年8月25日午後4時40分32秒、目指す未踏峰の頂きに到達。頂からの景色を眺めながら、一星さんは言う。「1300メートルという標高をしょっぱいと思わないと言えば嘘になってしまうけれど、ここに来たら標高なんて関係ない。それくらい綺麗な景色だ。それにここから見える景色には来た道、来たかった道、そして、これから行くかもしれない道を感じさせてくれるものがある。僕らは今その真ん中にいる」

◆「ワセダ山」と仮に名付けたその山を下り、8月28日、遠征隊はレインディアステーションを離れた。しかし、突然彼らの旅は終わる。小野さんが食中毒で倒れ、ヘリで緊急搬送されたのだ。遠征の映像が終わり、各隊員のそれぞれの担当に関する報告がはじまる。まずは副隊長の走出さんだ。彼は装備品について「無駄なものが多いと前に進めない。だから、安全対策を考えた上での装備のリストアップは重要でした。重量はグラム単位で計測しました」と報告する。

◆出発前の訓練に関しては、小松さんからだ。当初目指していたレジャーヤナは夏でも雪山のため、白馬岳での登山訓練をしている。訓練中たまたま他のグループの滑落者がいたため、ヘリで救助を要請した経験が今回の緊急搬送に活きた。記録についての吉田さんの考えは「記録とは物事を様々な形式によって形あるものに残すこと」だ。それは文章、写真や映像といった誰でもアクセスでき、そして、追体験ができるものである必要がある。

◆「旅行と探検の違いは、報告の必要があるかないかだと思います。旅行は個人の思い出として完結するだけでいい。でも、探検は報告の必要があり、他者から評価されるべきものです。そうした記録からの報告の有無が旅行と探検を区別するものだと僕は思います」。探検というフィールドについて、記録の観点から彼はこう感じている。「地図上の空白を求める探検はなくなっていくと思います。一方で新たな記録機器の誕生で、新たな追体験ができるようになります。それが新しい時代の探検に繋がっていくのではないかと感じています」

◆医療係の野田さんはツンドラでの生活「ツンドライフ」について語った。「ボートに乗るときに食料を半減させたことで、ツンドラでの生活は半サバイバルのようなものになりました。ベリーを採取し、川があれば魚を釣りました。私達はキンチャヤマイグチなどのキノコを採取して、お味噌汁にして食べていました。キノコ自体には味はありませんが、クリーミーでお腹を満たすには十分でした」

◆それぞれの報告が終わり、各隊員の遠征の感想が伝えられる。まずは野田さんからだ。「今日で遠征が終わっちゃうんだなというさみしさが込み上げてきています。私は未踏峰に登れなかった。歩く度に足首が痛かった。最終的に登らない選択をとったのだけれど、登れば良かったとは思っていない。私は最後まで自分の意志を曲げなかった。でも、隊のリスクになるのは避けたかった。自分の選択を後悔してないのは、事前準備への想いがあるからだと思う。あのときの想いが大きかったから、後悔には至っていない」。彼女は出発前、時間ぎりぎりまでバイトを入れていた。「正直、今回の遠征で死ぬかもしれないとも思っていました。ベッドの下に遺書をこっそり隠して出発しました。私にはそういう出発前の記憶が大きかった。だから、今は5人に対する感謝の気持ちでいっぱいです」

◆「もともと山登りも好きじゃない。こういう場で発言するのは恐怖なんですが、折角自然の中にいるのに山登りにはルールがあって、社会的なものに縛られている。そういうのが嫌いです。今回の遠征ではこうあるべきというものがなかった。自分達で決めたことを自分達でやる。童心に戻れたとこの年になって感じました」(吉田)「僕は未踏峰に登りたいという想いが強かったです。だから、そこに向かう途中は楽しかった。自分は今誰も行ったことのない場所に向かっているんだって。未踏峰の頂きに立ったとき、大きな達成感も感じました。でも、一方で拍子抜けもしました。未踏峰登頂ってこんなもんなのかって。何の障害もなく登れてしまって、肩透かしをくらったような感覚でした。心のどこかでは今回の登頂は失敗して、未踏峰は未踏峰のままでも良かったんじゃないかと思う自分もいます。それでも、それができたことには胸を張りたい」(小松)

◆「何か未踏のものに触れたい。それはロマンに近いものだったと思います。今回は達成したというよりも、達成してしまったというのが正直な感想です。大隈講堂、そして、今夜の地平線報告会。光栄で嬉しいが、立ってしまったという思いです。それは自分が今回の遠征では隊長ではないからです。一星さんの企画について行ってしまった。人の企画で自分の目標を達成してしまった。達成感と一緒にやっちまったという思い、そして、次どうしたらいいんだろうって。今回の遠征は1年以上前からスタートしています。もう11月末なので、来年同規模のものをやろうとするならば、もう動いていないといけない時期です。来年、僕は3年生にもなります。達成感と共に今回の遠征以上のことをやらなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうな日々です」(走出)

◆「こうして皆さんに映像を観てもらって、ありのままを見せない方が良かったのかもしれないという思いもあります。それでも、現地のリアルを撮ってくるという最初の目論見は果たせたんじゃないかと思います。今回僕はヘリで搬送されることになりました。備蓄の油をつかったキノコ料理でお腹を壊したからです。他の隊員も同じものを食べています。たぶん、重い機材を担ぎながらの撮影が続いて、エネルギーが切れてしまったんだと思います。病院での診断は食中毒だったのですが、脈動の低下も見られました。荷物も背負えず、歩けない状態で翌日を待っていたら命に係わると判断し、ヘリを呼ぶことになりました」(小野)

◆「遠征で何が辛かったかと言えば、12ヵ月前から自分が前に進んでいるのかどうかも分からないことでした。交渉も上手くいかず、何度も何度も止めてやろうと思いました。隊員達はそれを口に出します。でも、僕は準備をしている12ヵ月の間はそれを言えませんでした。僕にできることは遠征をやると言い続けることだけでした。時には周りからの厳しい質問もありました。隊員すら敵に見えることもありました。だから、周りのみんながしんどいと言っていたツンドラの湿原を歩くのが、僕は嬉しかったです。たった一歩でもそこでは前に進んでいることが実感できます。はじめの目標だったレジャーヤナには辿りつけなかったけれど、自分の足で近付くことができた。だから、僕はツンドラの湿原を歩くことが嬉しかった」(一星)

◆最後に報告を聞いていた法政大学探検部OBの岡村隆さんが感想を彼らに伝える。「発想が起こった時点から報告書を出版するまでが探検で、今回の君達の遠征は今後の学生探検の雛形になるようなものだと思う。コンパクトかもしれないが、ひとつひとつがツボを押さえているし、しかもそれぞれがちゃんとやらないと探検にはならないものだから。今回登頂した未踏峰が小さいことは否めないが、それよりも準備中のことが記憶に残っていることの方が大事。そうした記憶が君達を大人にしていく。現場で何をやるかも、もちろん大切だが、全存在を掛けて何をやったかの方がより意味を持つ」。この遠征を機にあるものは探検を離れ、あるものは新しい探検のフィールドを探すのだろう。いずれにせよ、ここが出発点。彼らは今その真ん中にいる。(光菅修


報告者のひとこと

地平線報告会という大舞台を終えて

■「ついに遠征が終わってしまった気がして、寂しい」。 野田隊員の言葉で、そうかこれで“終わり”なのか、と感じた。思えば一年前から、毎週隊員たちと顔を合わせてきた。遠征中には朝から晩まで共に暮らし、帰還してからも報告会のためにと集まった。まだまだ仕事は残っているが、地平線報告会という大舞台を終え喪失感に襲われている。この遠征のために、何度となく悩み、苛立ち、頭を抱えた。ツンドラにたどり着いたときには、足を取る沼地にすら感動した。やっとの思いで登った山頂から見た景色は、今でも瞼の裏に焼き付いている。そんな遠征が、終わった。でも、“終わり”とは決して悪いことではないだろう。体験が経験へと変わることが“終わり”だ。そして、経験とはいつか次の一歩へと導いてくれるものだろう。これから何をしようか、何を目指そうか。今すぐ答えは出なくとも、また情熱を、執念を見つけなければならない。やっと一歩踏み出した、私の「探検」はまだまだ続く。いつか今日という日を思い出して、「あの日が『始まり』だった。」と、語る日が来ることを願って。(カムチャツカ遠征隊隊長  井上一星

必死さが伝わっていれば……

■地平線報告会に出席するのは今回が初めてだった。聴講することを飛ばして報告する立場になってしまったため、失礼を承知して言わせていただくと緊張はなかった。ただ、元々地平線報告会を知っている友人や当日出席されている方々を見て、先日大隈講堂で行った報告会とは全く別物になると感じた。大隈講堂で行った報告会はあくまで広報の延長線上で、比較的キャッチーな内容であったと思う。地平線報告会という場は普段からフィールドに出ている方、またそういった活動を行っている人の報告を日頃から聞いている方々の集まりであったため、わかりやすさよりも活動のコアに近いものを発表するつもりであったし、その方向性は正解であったと感じる。学生という身分もあり、技術はもちろん姿勢に関してもまだまだ未熟な部分が目立った報告であったと思う。ただそういった若さから出る必死さなどが伝わっていれば幸いである。(記録係 吉田健一

何を言っても受け入れてくれる気がした会場

■普段は緊張しがちな私が、地平線報告会では全く緊張しなかった。それどころか発表というまたとない瞬間を、楽しめていた。それは発表する場所が小さいから、とか知ってる人が多いから、とかわかりやすい要因じゃなくて「私たちが何を言っても受け入れる」会場の雰囲気からこう感じたからだと思う。動画や感想含め、私たちのやってきたことをリアルに報告できたことは嬉しい。実をいうと、隊員の小野が作った動画は見ていてヒヤヒヤした。見方によっては、いい加減にやってると思われても仕方ない部分があったからだ。でも、ヒヤヒヤするってことは、いい加減にやっていたと思われたくない。それくらい本気で活動に取り組んでいたからじゃないかと、そんなことにも気づけた地平線報告会だった。(医療係 野田正奈

現場での撮影の苦労が報われたか、と……

■カムチャツカ遠征の映像を上映させて頂きました、撮影係、武蔵野美術大学院1年小野寛志と申します。発表の機会を頂き本当にありがとうございました。精力的に活動されている方々に見て頂くことができ、現場での苦労が報われた気がしてやっと心が少し楽になりました。カメラマンとして実際に現地に行き、撮影している中で、私の主観ではありますが「リアルだ」と感じたカットを切り出して映像を作りました。等身大の僕らが受け入れられるかどうか、映像を見て頂いてから急に不安になりました。しかし、隊員のデコボコした感じが良いと言ってくださる方もおり、少し安心しました。映像に関してはまだまだ勉強が足りないなと痛感しております。(撮影係 小野寛志

帰国後は遠征のことを思い返すことなかったので……

■地平線会議の報告会では大隈講堂で行った報告会とは違う正直な感想を言おうと思っていました。そこでカムチャツカ遠征のことを深く思い返すことにしました。その時には帰国してから約1か月半。遠征の細部は忘れかけていました。考えてみれば帰国してからは忙しい日々が続き、遠征を振り返ることなどしていませんでした。遠征中に携帯で記録していた日記も書いたままで読み直すことはしていませんでした。久しぶりに日記を開くとたくさんのことを思いだすことができました。そしてあんなこともあったなあ、と振り返ると嫌だったはずの思い出も悪くないような気がしてきます。地平線報告会は遠征を振り返る良い機会になりました。ありがとうございました。(訓練係 小松陸雄

憧れの地平線報告会で報告者になってしまったことの“さびしさ”

■地平線報告会が終わった時、寂しい気持ちがした。これで本当に遠征が終わった気がしたからである。遠征前は準備に忙しく、バイトでお金を貯め、訓練活動も行い、常にロシアのまだ見ぬ土地に思いを馳せていた。アチャイバヤムの村を出て、ツンドラに繰り出した時、活動がやっと始まったと強く感じた。そして日本に帰ってきた時は、長い夢から覚めたような、それでいてまだ夢の余韻に浸っているようなそんな心持ちだった。それらが遠い過去になっていく。そんな気がしたからである。地平線報告会は憧れだった。それなのに、自分が発表者になってしまった。もしかしたらそんな思いも寂しさの要因のひとつかもしれない。次はどこに行こうか、最近またエンジンがかかってきた。(副隊長 走出隆成


早稲田大学探検部とは

■全国各地に「探検部」が登場してから、およそ60年が経過した。IT、AIという言葉が世界を席巻する現代にあってもなお、その灯火は消え入る様子をみせない。まるで時代と逆行するように、「探検」を志す学生達が集う。かつて一斉に競うように海外進出を目指した学生探検部であったが、今では理念や気風、運営システムは、それぞれがまったく異なる。在学から卒業までの数年間は、部のすべてが取って代わられるのに十分な時間であると言っていい。束の間の学生時代はいくえにも受け継がれ、各学生探検部は時代の波を乗り越えながら独自に発展されてきた。

◆さて11月の地平線報告会は、早稲田大学現役探検部員による、夏のカムチャツカ遠征にスポットが当たった。彼らが所属する「早稲田大学探検部」は創立からすでに半世紀を遡り、地平線界隈でも名高い大先輩を数多く輩出してきた。本隊はその歴史の最先端をつっぱしる連中だ。この夏、カムチャツカ遠征を生んだいまの早大探検部とは、どのような集団であるのか。その内側の一部を紹介したい。

◆早稲田大学探検部は、日本国内、および世界各地において探検活動を行うことを目的に活動している。現在部員は38名。うち4分の1は他大学に籍を置く学生たちで、カムチャツカ隊6名のうち2名もそれに当たる。部員の減少をきっかけに10年ほど前から、当探検部は正式に早稲田大学という敷居を超えて部員を募るようになった。当探検部にとってこの決断は、それまでの伝統を覆すものであったにちがいない。このような大転換を主導してきたのは、歴代の「幹事長」であろう。近年にあっては、彼らは部の責任者であり、各代の理念や方針をかたちづくる存在である。活動はつねに事故の可能性と隣り合わせているので、部員達の命を預かるともいえる幹事長の役割は重い。

◆当部の要は、週に一度ひらかれる「部会」と呼ばれる会議である。活動の審議や報告、部の運営についての話し合いがなされる場だ。提出される計画は部員によって厳正に精査され、実行までに何度も修正される。承認しないものが1人でもいる場合は、計画は却下される。大学の所属に関係なく、現役部員全員に参加が義務付けられている。部員の安全を確保することと、部の存続のうえで欠かせないのである。

◆探検計画は、部員であれば誰でも部会に提出することができる。各計画には、示された探検観やその意義・目的に共感した者だけが参加する。いわゆるコノユビトマレ形式である。救助訓練等の特別な活動以外に参加の義務はない。上記のような部の規則は「部則」と呼ばれ、探検部内で正式に定められている。12月になると一・二年生で既存の規則を一字一句見直し、新年度の草案を作成する。毎年末には「一泊ミーティング」と称した儀式的な部会が開かれ、上級生を相手に夜通し議論を行い、承認を経てやっと新体制が整うのだ。その後の1年間は、この「部則」が探検部の絶対となる。

◆当探検部での活動はつねに自分の意志が第一である。それゆえ部員たちは「探検とは何か」「如何にして探検を実現できるか」を自問自答し続ける必要がある。部員同士でその手の議論が始まると、白熱してなかなか収束しない。一向にまとまらぬ答え。「それでも探検してやりたい」というエネルギーはいつも、探検へと昇華させない限り、自身のうちに閉じ込められるほかないのである。

◆カムチャツカ遠征も例に漏れず、計画実現までの道のりは長かった。安全性の確保や実現の見込みを十分なまでに高めることは言うまでもなく、部員の前で「探検的意義」を証明しなければならなかったからである。最終的にカムチャツカ計画に大きく共感し、そこに「探検的意義」を見出した6名が、いざ彼の地へと飛び出して行ったのだった。他の部員たちはというと、各々によって日本での探検活動に精を出したり、数年後に見据えた遠征の偵察行へ出かけたり、個人的な活動として海外へ足をのばしたりと(私はボルネオに行った)、思い思いに過ごしていた。

◆このように自主性が求められる早大探検部は、決して気楽なたのしい場所ではない。わたしの先輩であるWさんは「探検部は止まり木のような場所だ」と表現した。やがてそこから降りるものもいれば、見つけたものをきっかけに探検の外へ出ていくものも少なくない。われわれ探検部員をつなぐのは、唯一「探検」というキーワードである。

◆「探検」と向き合うたびに数え切れぬほどのもどかしい思いを経験してきたわたしは、カムチャツカで欲求を爆発させてきた彼らを、報告会で熱く語る彼らを、うらやましく、そして悔しく思った。世界には知られざる場所が、知られざる事実がまだまだ残され、生み出されているはずである。その予感だけは、わたしにとって確かである。「早稲田大学探検部」は、それらを追求する集団であるにちがいない。時代の流れとともにいかに変容しようとも、「探検」への答えを体現しつづける精神は、変わらず受け継がれてほしいと願っている。探検は正座して頭を働かせたところで始まらないのだ。立ち上がれ。挑戦しつづけろ。早稲田大学探検部。(早稲田大学教育学部2年 下川知恵


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