2017年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信465より
先月の報告会から

チベットのはしっこで縁を叫ぶ

稲 葉  香

2017年12月22日 新宿区スポーツセンター

■「これは聞き逃せない……」、稲葉香さんが12月の報告者と知ったとき、手帳を開いて予定が空白になっていてうれしかった。今年の4月、人づてに稲葉さんのブログを知り、行間からあふれる魂の熱量に圧倒されずっと気になっていた。初めてお会いする稲葉さんは、ひっつめ髪でエスニックな服を着こなし、小柄だが力強い眼差し。意志を持った人の目だ、と思った。「めっちゃ緊張しているんですよ」と言うが、背筋の伸びた姿勢にはブレがなく、難病のリウマチを患う患者には見えない。

◆稲葉さんを形容する言葉はいくつかある。大阪の繁華街にサロンを持つ美容師で、金剛山のふもと千早赤阪村の古民家にパートナーと暮らしながらカフェを営み、各地を歩いてきた旅人で、河口慧海の足跡を追ってドルポの踏査や未踏峰を登り、ネパール踏査の第一人者である故大西保さんの弟子で、リウマチ患者。しかし、これだけで稲葉さんを言い当てることは難しい。私がなにより惹きつけられたのは、魂に突きつけられるような言葉の響きにあったからだ。

◆「今回は伝えたいことが3つあります。リウマチになってから河口慧海にたどり着くまでの自分、大西保隊長に出会い参加した慧海プロジェクトの遠征、その後自分で計画したドルポ遠征について」。「リウマチは膠原病の一種で、軟骨を攻撃して骨を破壊する。19歳で発病してから、寝起きの激痛が毎日10年続いて、心と身体がやられて絶望的でした」

◆初めて旅にハマったのは25歳の時。発症5年後に行ったベトナムだった。「ベトナムでは手足のない人がたくさんいた。足のない子が手を挙げ「俺はここにいる」と示す。すると車がみんな止まり、その中を堂々と突っ切って行く。その光景に衝撃を受けた」。自分が生まれた時にベトナムは戦争をしていた。「日本はなんでもあるのに、情報に惑わされている自分を甘いと感じた。人生短くていいから、本気で生き抜きたい、と思った」

◆戦場カメラマンの沢田教一を知り、一瞬の大切さを考えた。そして、年に1回は旅をしよう、と決めた。美容師は休みが少ない。悩んでいたとき先輩の誘いを受けてフリーランスになった。給料がなくても実家にいればどうにかできると思った。「自分の中では旅と旅行を区別している。旅は思いが100%になったら行く、ということをルールにしているんです」

◆興味を持つと、ストーカーのようにハマっていく性質だという。「『神々の山嶺』を読んで、エベレストから植村直己にたどり着いた。彼の生き様に惚れ2001年にアラスカへ行った」。当時はアウトドアを全く知らなかった。ザックを見て何が入っているんだろうと思うくらいの知識で、マッキンリーをバスで周遊したが、アメリカはそんな自分を暖かく受け入れてくれた。

◆「無知なことがかえってよかったのかもしれない」。お陰で受ける衝撃は何もかも大きく、最終地点に到達したとき通常の五感の感覚が飛んで不可思議な状態を味わった。「そして、もっと山の中へ入りたい、と思いました。29歳。植村さんがエベレストに登頂した年齢でした」。2002年には一人でネパールへ。出会う日本人から危ないと怒られた。それでも、ゆっくり歩いていたらカラパタールまで登ることができた。

◆残念ながらマッキンリーで感じたような五感が飛ぶ感覚は味わえなかったが、『神々の領域』の境界線を知覚した。5500m地点を超えたとき後ろを何かが通り過ぎ、これが神の領域だと確信した。ほかにも、不思議なことが起きた。「10年近く激痛から始まっていた朝の目覚めが、ネパールではすっかり消えていた。山では毎日楽しい気分で起床し、山を見て天気を確認し、気付くと手が動き足で立っていた」

◆「ヒマラヤの大地が自分の力をよみがえらせてくれたんだ」。当時のネパールには電気はなかった。環境が厳しいほど体の感覚が蘇るのかもしれない。帰国してから担当医にその話をしたが相手にしてもらえず、頭にきて他の病院を探したが、同意してくれるところはどこもなかった。数字で示せないと医者は認めてくれない。仕方なく、元の病院に戻ると、薬の量を減らす約束をしてくれた。

◆帰国後は毎週のように山に登った。そのうちに体力と気力がついてきたのを感じて、10年間ずっと飲み続けてきた薬と通院を、自己判断でやめた。自然治癒力は医学的に証明される訳ではないが、3.11以降はまわりが興味を持って話をきいてくれるようになった。そして14年前に河口慧海にたどりついた。「あまり知られていないんですが、慧海はリウマチだったと手記に残っているんです」。「慧海は日本人で初めてヒマラヤを超えてチべットに密入国した人物。大阪に生まれ普通に暮らしながら、情熱を持ってチベットへ向かった。そんなところにも共感した」

◆自分がリウマチになったのは、慧海に出会うためだった気さえする。発病してからの20年間を振り返ると、全てが慧海に繋がっているように思えた。慧海を追ってとりあえずチベットに行ってみよう。2003年にカイラスを目指した。地元の人たちが死んでもいいという思いで目指してくる聖地。ハンパな気持ちでは行けない場所だったが、今その時がきた、と感じた。「カイラスでは巡礼する人たちと出会い『信じる』ことの意味を知った。信じることで人は美しく強くなる。そこは、心の本音が見える世界だった」。カイラスでの経験で、化粧をしない自分が好きになった。

◆帰国後、薬を飲まずに病気が改善しているのを見て、医者からサンプルの血を欲しいと言われた。何をいまさら、と頭にきたが提供した。採取の結果はなしのつぶて。最悪だった。医者とはいえ、目を見れば本気かどうかわかる。リウマチは不治の病と言われているので、本気で治そうと親身になってくれる医者は少ない。2004年に再び慧海を追ってムクチナートまで歩いた。このときはカグベニという村で不思議なことが起きた。この土地に足を踏み入れたとき「自分はここで生まれたんだ」と直感し、体が熱くなって血が騒いだ。旅の最終日には不思議な虹を見た。

◆このとき「自分にブレることがあったらこの土地に戻ってこよう。これからはヒマラヤの風のように、カリガンダキの流れのように生きていこう」と決めた。土地への強い思いを封印して帰国すると、慧海の手記が発見された事を知った。すごいタイミングだった。手記により、それまで知られていなかったルートや、7月4日が越境した日であったこと、その峠も解明された。

◆次は6000m以上に登ってみたい。雪山ワンシーズンの経験で、2005年にネパールのアイランドピークに登った。改めて歩くことの大切さを全身で感じた。翌年に千早赤坂村に移住して自然の中での生活をはじめることに決めた。2007年3月にドルポに行きたい気持ちが再燃し、そのことをブログに書いたところ、大西保さんの後輩がそれを読んで大西さんに縁が繋がる。4月にメールアドレスを教えてもらい、5月に会いに行き、すでに決まっていた8月の遠征(慧海ルート再調査)に入れてもらえた。

◆なんと、大西さんは千早赤阪村から30分のところに住んでいた。移住したことも運命だと思った。慧海プロジェクトの遠征に、8月に出発することになる。「軍手持ってこい」とひとこと言われ、行ったら練習なしでいきなり馬に乗り、2回くらい落馬しながらもなんとか無事に旅をこなした。カンテガという未踏峰にも登った。自分はただ計画に便乗しただけなのに申し訳ないと思いつつ、腰痛をなだめながら二次隊で登らせてもらった。慧海が越境した峠にも立つことができた。その当時、ドルポの情報は少なかったので、峠に立てただけで思い残すことはない、と思った。

◆大西保さんは慧海プロジェクトの隊長で、西ネパールの第一人者。70年代からネパールで高峰を登り、97年からは西ネパールで未踏峰を調査していた。今でもそのエリアを調べると、どこかで大西さんに辿り着く。大西さんについては、いつかまとめたいと思っている。大西さんがすごいのは、旅の間に見える山や谷をマメにノートや地図に書き込んで行くところ。当時はなぜかわからなかったが、今になってやっと、地図にないルートの面白さ、想像することの面白さがわかって来た。未開エリアを開拓する方法を大西さんに教えてもらったことは、自分にとっての宝だ。

◆遠征から帰国して半年後に一度死ぬ経験をした。山へのアプローチで突然倒れて意識不明となり、3日経って目が覚めた。病院でも原因不明でしばらく静かにしていた。その2ヶ月後に今度は助けてくれた友達が中央アルプスで滑落して死んでしまった。現実に混乱し、いきなりリウマチが再発した。マイナス思考になり、薬も再開した。

◆2009年に再びムグからドルポに入る遠征の計画があった。大西さんは私の病気が再発していることを知っていたにもかかわらず、再び誘ってくれた。「どんなに遅くてもお前はマイペースでいけ」、ただひとことだった。横断か未踏峰か希望を聞かれ、横断を選択した。出発までは店が忙しく、リウマチも再発し不調だったが大西さんには言わなかった。出発日も全身激痛でザックも背負えない。なんとか飛行機に乗り、踏査のスタート地点に立ったら、不思議なことにまた痛みがゼロになって横断をやりきることができた。

◆この横断で、先人のルートを辿ることの面白さを知った。実際には、谷をへつったり徒渉したりと大変だったが、その分到達した時の感動は大きかった。天候にも恵まれた。無人地帯の突破も多く、無名峰もたくさんあった。名前がなくてもかっこいいものはかっこいい。その光景を見て、名前なんてなくてもかっこいい人はかっこいいよな、と気づいた。

◆このとき、美容師としてやりたいことがひとつあった。自分の髪でドルポの伝統的なヘアスタイルを結う。地元の子供にアプローチしおかあさんに約束を取り付け、編んでもらった。村から望む山ひだにそっくりな髪型だ、と思った。それから3日間、シェーのゴンパではお祭りがあった。髪も服もドルポの人たちと同じになって盛りあがった。

◆途中、デビッド・スネグローブの『ヒマラヤ巡礼』に出てくる青年ラマに会うことができた。歳を聞いたら大西さんと同じ年。おじいさんになっていた。後にその村をもう一度訪ねた時は、ラマは亡くなっていた。大西さんも亡くなってしまった。2011年に自分のヘアサロンDolpo-hairをオープンした。大西さんは慧海の初版本と、2004年に見つかった慧海日記の核心部(越境した日)のコピーを額に入れて、いきなり訪ねてきて「困ったらこれを売って活動資金にしろ」と言って置いていった。

◆2012年に12年に一度のシェーのフェスティバルがあった。大西さんから「ドルポは変わったから俺はいかない」と大分反対されたが、折れずに自分で計画して女3人で行った。8月の満月に行われるという情報だけを頼りに行った。6000mの山にも登った。

◆2014年に今度は1899年の5月に慧海が10ヶ月滞在していたツァーランを目指してアッパームスタンに行った。それまでの経験から賄賂でヴィザを取れることがわかっていたので、一人でポーターとガイドをつけて行く。このとき、ツアーランで慧海の像を見つけた。根深誠さんの本にはその像は慧海ではないと書かれているので、なんども地元の人に確認したが「慧海だ」という。地元の人がそう言っているのなら、これ以上聞かないでおこう、と思った。

◆帰国後、ドルポを教えてくれた大西さんと吉永定雄さんが亡くなった。その翌年に父も癌になって亡くなってしまった。落ち込んだ。リウマチが再発した。どう脱出するか考えた。「答えは一つしかない。自分流のヒマラヤ療法をやろう。次は慧海ルートの突破だ」と決めた。2016年に慧海ルートへ行った。リウマチの薬は強く感染症にかかりやすいため、医師から長期の旅は無理だと言われた。それでは、薬をやめて行くと伝え、ドルポへ向った。

◆途中ヤルチェンゴンパという寺があったが、慧海はなぜかそこには立寄っていない。いかに焦ってここを通過したか、その心が表れているような気がした。残された手記には、7月4日にチべットへ越境したことが記されているが、慧海によって塗りつぶされ削除されている。詳細はわからない。ポイントとなるのは仁広池と慧海池が峠から見えることだが、5411mのクン・ラからその湖を望むことができる。その峠で折り返して、一周するように無事踏査できた。

◆ドルポでは今回も魔法にかかり体の痛みはなかったが、下山したら全身激痛に見舞われた。それでもやり遂げた充実感で顔はニヤケていたと思う。帰国してから2ヶ月は痛みがひどく大変だった。とりあえず働きに出た。悔しかったけれど、病院での治療も再開した。12月に治療をはじめて1月末にはアイスクライミングに行ける程回復し、現在は2週間に一度の注射になったので、また次に行けるな……と思っている。

◆慧海ルートの踏破をやることは、ドルポの大御所様への追悼の思いがあった。慧海ルートの大西さん、ツォカルポカンを初登頂した水谷さん、ヒマラヤ巡礼を翻訳された吉永さんへの思いがあった。彼らから教えてもらった事を今度は自分でやって追悼するつもりだった。「実際にやってみると全然追いついていないことを思い知った。報告の最後に、個人的な思いを込めて、大西さん吉永さん水谷さんの写真で締めくくりたい」

◆今まで地平線の報告で涙を流した記憶はない。けれど今回は、稲葉さんの言葉がギリギリの切実さで心に迫ってきて弱ってしまった。SNS全盛の時代になっても、直接触れるべき言葉を持つ人に出会う……。地平線会議はそんな場なのだと稲葉さんの話を聞きながら改めて思った。

◆報告会では稲葉さん自身が編集した動画が4つ流れたが、そのうち2つは以下のリンクから見ることができる。

http://www.dolpo-hair.info/gallery.html

「未知踏進」「Upper Mustang」

上記のリンクにはないが「慧海の道」「国境から」も流された。(恩田真砂美


報告者のひとこと

報告会を終えて

「未知踏進」という生き方

■報告会を終えてひとまずホッとする。久々の緊張感だった、喋り出したら止まらなかったけど(笑)。地平線報告会で講演をするなんて想像もしてなかったので、本当に江本さんには心から感謝します。ありがとうございます!

◆私は関野吉晴さんのグレートジャーニーで地平線会議を知って、ウェブサイトで楽しませていただいている世界だった。それが報告者側になるなんてこれぽっちも想像もしてなかった、だから信じられなかった。まず江本さんに私のことを伝えるところから始まった。何から話そうか、どこまで話そうか。慧海に辿りつくまでに、自分の中でストーリーができ上がっている、それを話すには20年分いる、でもこんな機会は2度とないと思い私の思いを江本さんに書いた。

◆長すぎるので、前半の20代と、後半の30〜40代の今を分けて書いて映像も送った。すると江本さんは丁寧に心のこもったメールを下さった。最近の、なんでもかんでも軽いメールだけで終わらせてしまう時代にウンザリしていた私はその対応に凄く感動した。無名の私の人生を聞いて下さり、感想まで書いて頂き、その上で電話でのやりとり……。慧海の足跡を辿る、Dolpoのキーワードもあるが、『メインテーマは、稲葉香の生き方だ』と言って下さったことがとても嬉しかった。

◆そしてテンションマックス!になり、『未知踏進』をやろうと決めた! これは「自分の中で未知の世界を一歩ずつ踏み進む」という意味だ。このテーマで年に一度旅をするライフスタイルを始めて気が付いたら20年が経っていた。自分のお店や関西で話すことはあったが、関東で?! しかも、地平線報告会で話す内容として非常に迷ったが、その江本さんの一言でやることにした。試してみようと思った。大阪じゃない場所で、全く知らない人ばかりの中で。

◆「慧海に出会う為にリウマチになったんだ、慧海のおかげで人生がこんなに面白くなった、運命だ」って勝手に思っていること、伝わったかな〜?! いつかこれを本にまとめて書き上げたいと思っていて「慧海と私日記」題名まで決まっている。私がDolpoに通えるようになったのは、慧海ルートを歩けたのは、故・大西保氏のおかげ。大西さんを語らずにして慧海はDolpoは西ネパールは始まらない。何を調べていても辿り着く先は、大西さん。Dolpoに行けば行くほど偉大さを感じる。なんでそんなに早くに逝ってしまうねん、何度思ったことか。

◆昨年のMustang&Dolpo遠征は、慧海の足跡を忠実に辿り5000m以上の峠11本、4000m以上の峠は数え切れないほど越えて最高到達地点は国境の山エメルンカン6028m、そしてDolpo横断、一歩ずつ追悼の思いで歩いた、口だけでなんとでも言える世界が嫌だった、だから行動に移してその思いを形にしたかった。それをこの地平線報告会で伝える事が出来てとてもよかったと思う。この機会をいただいたことに感謝です。本当にありがとうございました。

◆「慧海の道」の詳しい内容をゆっくり説明することは出来なかったけど映像として流せたので良かったです。また機会がありましたら聞いてください。大西さん達のロマンが詰まっています。私はそれを大事にしていきたいと思っています。そして「未知踏進」という生き方は、個人的な思い入れが沢山あって自分が一番大事にしている世界観で一人で楽しんでいたが、誰かの何かに引っかかればいいなと思って話してみた。

◆万人に受けたいとは思わない、必要な人に必要な分だけ届いたらいいなと思う。私は、慧海と同じ持病・リウマチを持って慧海ルート(ネパール側)を歩ききった。人体実験的なことをしたのだが、興味がある人は私のブログ(2017/4/13)を読んでほしい。リウマチ界の革命を起こせるんじゃないか?と思う。もう10年以上前から言っていて証明出来ないでいるけど、自分の中では確信した。私は、慧海の足跡を辿ってDolpoを歩き、行けば行くほど深くなるこの世界に魅了されている。次の夢は、Dolpoで越冬がしたい!

◆最後に、江本さんから頂いた情熱は計り知れない宝となった、心より御礼を申し上げたいです。ありがとうございました!(稲葉香


地平線会議という場で一層輝いていた香さん

■初めて参加させていただいた地平線報告会は気付きや感動がつまった2時間半だった。今回の報告者稲葉香さんとは10年来の付き合いで、香さんの影響でネパールに行き、はまった一人でもある。美容師である香さんのところにカットに行く度に話に出るネパールに洗脳されるかのように自分も行ってみたくなり、香さんが計画しガイドするネパールの旅にもプーンヒル、ランタン、エベレスト街道、そしてムスタンと4回の旅に参加してきた。

◆4度目の旅のムスタンは慧海を辿る旅でもあり、道中の村で慧海の情報を集め回る香さんの慧海ストーカーっぷりも垣間見れた。そんな付き合いもあり香さんのことはそれなりによく知っていると思っていた。しかし、今回初めて耳にしたことも多く、そして改めてこういった場で香さんの想いを聴いて胸が熱くなった。自身の半生を力いっぱい表現していた。いつもと変わりなく素直にストレートに自分を表現していてその想いがひしひしと伝わってきた。

◆これまでも強い人だなぁと思っていたが、今回その強さがさらに一歩先へ進んだように感じた。リウマチという難病と向き合う強さ、興味のあることに突き進む強さはもちろん、きっとこれまで自分とまっすぐに向き合ってきて自分に妥協なく生きてきた、自分自身に対する強さなのだろうと思う。そしてそれを今自分だけのものでなく、他の人々に伝えようとしているところに強さがまた増しているのではないかと感じた。

◆そして、そんな香さんの想いを受け止めて発表の場となった地平線報告会。冒険や旅の内容だけでなく、なぜそれに惹かれ、やり続けているのか。そのことこそが興味深いと感じて今回の発表ができあがったことにとっても感動した。毎月発表者とこのようなやりとりをしてこの会が実現しているのだと思うと、さらにこれを40年間も続けて来られていると思うと本当に驚きだ。

◆そして今回参加したたった数時間でこの40年の重みを少なからず感じることができたのは、江本氏はじめ、この会に対する多くの方の強くまっすぐな想いがあって運営されているからなのだと思った。いつでもどこでも簡単に情報が手に入る今という時代、こうしてライブで感じることができる場でいろんな気付きと感動をもらえた時間となりました。(神山知子

ドルポ、ムスタンの魔力

■ネパールヒマラヤのドルポ、ムスタン地方は魔力がある。河口慧海が何故この地に逗留して、チベット越境のルートとして選んだのだろうか? ムスタンは古くからのチベットとの大交易路だから、当初はカリガンダキを遡上して、越境を図ろうとしたが、関所の目を逃れることはできないと感じ、遥かな峠を越え、ドルポからチベットを目指したのだろうか…… 。

◆ドルポは河口慧海の時代も、そして現在でも、困難な旅を求められる、ヒマラヤで最も奥深い地域だと思う。だからこそ、ネパールを知れば知るほど魅力を感じてしまう地なのだ。川喜田二郎教授、根深誠さん、大西保さん、そして稲葉香さんがこの地に魅了されたのは理解できるような気がする。

◆現在のネパールヒマラヤは道路の建設ラッシュだった。カリガンダキ源流のムスタンは、チベット国境まで車道が開通している。かつての交易路は、1970年代からトレッキングをする旅人の大聖地と変わり、さらに、車とバイクで旅する道に姿を変えた。

◆一方、河口慧海がチベット越境したドルポ地域は、自分の足で5000mの峠をいくつも超えなければならない。だが、何年か先には、慧海が越えた、クン・ラにも、車道が開通する日がやって来るのかも知れない。それでも、ドルポ、ムスタンの魔力は残っている。ドルポやカリガンダキ源流のムスタン山群、ダモダル山群には未踏峰がいくつもある。テーマやアイディア次第で、まだまだ面白い旅が出来ると思う。(庄司康治 早大探検部OB 1999年3月、233回地平線報告会「氷上のキャラバン」報告者。『氷の回廊ヒマラヤの星降る村の物語』著者)

短い人生、落ち込んでいる暇はない!

■稲葉香さんは辛口の故大西保さんから推薦された数少ない1人だった。大西さんとはヒマラヤ関連で30年のつきあいだったが、彼が所有している登山関係の和書洋書資料数は国会図書館のそれよりも多いのではないかと思う。資料探しに万策尽きて大西さんに泣きつくと「こんなのあるで〜」とさり気なく助けてくれたし、講演や助言を乞われると断らない割には人の好き嫌いがはっきりしていて、反面「こいつは!」と思った相手には惜しみなく自分の資料も書籍も供出する人だった。

◆その稲葉さんが「本音トーク」の地平線で講演すると知り、是非とも聞きたい!と数年振りに足を運んだ。気負いも誇張もない彼女の講演を聞き、何事にもすぐ挫折する私は色々な事を突き付けられた思いがした。自らを「慧海の追っかけ」と笑顔で話す稲葉さん、その表情はとても生き生きとしていて充実感に溢れていた。病までをも肯定的にとらえ、「全て自然の流れのままに」「積極的に」行動する彼女の今後を密かに見守っていたい。

◆講演終了後、彼女の前に向後元彦・紀代美ご夫妻が書物を並べておいでだった。それが伊藤邦幸氏の著書……。「自分の半生は自分のために、しかし三十歳を過ぎたら、何か直接他人に奉仕する仕事に身を委ねよう」とオカルドゥンガに診療所を開き、後に「ネパールのシュバイツァー」と呼ばれた氏とは氏が浜松医大勤務時代に袖擦り合うご縁があった。広島に生を受けたキリスト者伊藤邦幸氏は1960年、東大山岳部時代の仲間の誘いで第五次南極観測隊に参加、63年には志を同じくする東京女子医大山岳部OGの聡美と結婚、そして1965年にはカラコルムのキンヤンキッシュ(7852m)に東大隊隊員として参加している。

◆隊は1名が雪崩で行方不明となり登山を断念、帰路勃発した第二次印パ戦争のため再挑戦の機会は訪れなかった。因みに、その隊には私の親しい友人の当時カラチ勤務だった父君が現地隊員として参加していた。伊藤氏はその登山の折、奥地での診療を乞い群がる人々の治療体験から、アジアの僻地医療とその啓蒙に尽力しようと決意、夫妻で時には家族で現地に赴任。しかし、1986年晩秋の富士山での訓練中妻聡美が滑落死してしまう。

◆我々はその後このキンヤンキッシュに幾度も足を運んだが、この東大隊と私の因縁は話せばとどまる事なく続くのでやめておく。しかし、よりによってあの場で伊藤氏の名前を目にするとはなんという奇遇。氏が62歳でこの世を去って四半世紀、「しっかり前向きに生きていけよ」と稲葉さんや大西さん、伊藤氏から肩を押された気がした。「短い人生、落ち込んでいる暇はない!」(寺沢玲子

山岳会が機能していた時代、田口君との再会

■2017年最後の報告者の稲葉香さん。飾らない、率直な感じがとっても良かったです。彼女を「西北ネパール」へといざなってくれたのが、何度もお話に登場した大西保さんと吉永定雄さん。このお二方が所属していたのが「大阪山の会」です。大西さんは同時に「カトマンズクラブ」を主宰、サガルマータ(エベレスト)等に遠征隊を旺盛に送りだしていました。ですので「大阪山の会」と「西北ネパール」が私の中ではなかなか繋がらなかったのです。

◆ある時パラパラとめくっていた『岩と雪』22号(1970年〜1971年)カンジロバ・ヒマール周辺の山群(大阪市立大学山岳会)の記事の中にこんな記述が有りました。《この山域に入られる予定の大阪山の会と紫岳の合同隊(阿部和行氏、吉永定雄氏ら)が明らかにしてくれるものと期待している》。ここに登場する「紫岳会」は私の所属していた会(「岳僚山の会」)の仲間の古巣です。黒部山中の「奥鐘山」にルート名を残しています。半世紀に渡り、彼の地へ通い続けてこられた方々の情熱に頭が下がります。

◆遠征の際はさりげなく「一緒に来るか」の一言、貴重な資料はある日突然2tトラックで稲葉さんのお宅へ。何てシャイでダンディな方たちなのでしょう。稲葉さん、最後の世代の方々と出会えてほんとに良かったですね。間に合いましたね。自前で後進を育て、終生変わる事のない仲間とザイルを組む。何と80年代は健全で幸せな時代だったのでしょう。山岳会がちゃんと機能していたのですから。あの時代だからこそ私も山を続けられたのです。

◆老舗の山岳会が次々消えて行きます。今回吉永さんの訃報に接し、ああまた端正な大人の集まりが消えてしまったなと、言いようのない寂寥感を覚えました。岳僚山の会はあの松本憲親氏が代表をされている事を知り、志願して入会しました。冬季登攀の実力は言うまでもないのですが、5.13をリードできるアルパインクライマーを目指しているところがすごい! 山野井さんと一緒だなとひそかに思っています。入会直後の5月の合宿(剣岳でした)入山時に池の谷右股で座りこんで寝てしまった(しかも斜面を背中にして、怒鳴られても気が付かなかった、危ないですねえ)。松本さんが新人2人を引き連れて黒部縦断を敢行、三の窓で合流した際にはお疲れなのに私に長次郎の頭で雪訓をしてくださいました。仁王立ちになって、鬼の形相で頭から落ちろーとやられました。

◆父親の勤務先が原子力研究所だったので中学校は茨城県東海村の東海中学校でした。原子力のお膝元ですから、いろいろありました。田口洋美くんとは1年生の時に同級でした。彼のお母さまが音楽の先生だったので、きょうだい揃ってお世話になりました。田口君が関わっている事を露知らず、京都での「奥三面」のドキュメンタリー上映に奔走していたのも、不思議なご縁と思います。2002年12月の報告会(「東北アジアの森の民」で田口さんが報告)での再会は、びっくりでした。宮本常一さんを私淑していて、観文研に出入りしていたなんて、知らなかったなあ。このお正月休み同窓会に出席、田口君とも再会、報告会楽しみにしているよと告げて帰って来ました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。(中嶋敦子


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