2019年2月の地平線報告会レポート


●地平線通信479より
先月の報告会から

沼のイラク、源のトルコ、水旅珍道中

山田高司 高野秀行

2019年2月22日 新宿コズミックセンター大会議室

━━母なる大河

■トルコ東部、アララト山の麓近くに大河ユーフラテスの源流はある。アララト山は大洪水を逃れたノアの箱船が辿り着いたとされている円錐形の火山だ。トルコと国境を接しているアルメニアでは富士山に似たこの山を古代から「神聖さ」と「自由」を象徴する山として捉えていたという。近くで産出される大理石は、サンゴ礁からなる石灰岩が火山の熱を受けて変成したものだ。

◆アララト山のある東アナトリア一帯の山脈は、9千万年前にアフリカプレートから分かれたアラビアプレートが、4千万年前にユーラシアプレートにぶつかった際にできたもので、サンゴ礁はその移動に伴って運ばれてきたものなのだろう。そんなプレートの衝突によってできた山脈の間を縫うようにして流れるユーフラテスの源流は、やがて農耕の発祥地であるディヤルバクル北方のケバン湖に流れ込み、幾つかの湖と国境を越え、大河チグリスと合流した後、ペルシャ湾に辿り着く。

◆一方、チグリスはディヤルバクル近郊のタウルス山脈を源流とし、クルディスタンを抜け、バグダッドを潤し、ユーフラテスとの合流地点を目指す。このふたつの大河は東アナトリアの山々の雪解け水による氾濫を繰り返し、メソポタミア文明を生み出す肥沃な三日月地帯をつくりだした。そんな母なる大河を昨年の1月と8月にノンフィクション作家の高野秀行さんと地平線会議同人である山田高司さんが訪れた。それは20年前の約束を守るための旅だった。

━━出会いとアグロフォレストリー

■ふたりの出会いは今から28年前の1991年。87年のコンゴ川を最後に政情不安なナイル川を残しパンアフリカ河川行を中断した山田さんが、「緑のサヘル」を立ち上げた年だ。農大探検部だった山田さんは1981年に南米大陸の3大河川をカヌーで縦断し、それをきっかけにして「青い地球一周河川行」という計画をスタート。85年にアフリカに渡り、セネガル川、ニジェール川、ベヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川と川旅を続け、アフリカの大地とそこに住む人間の強烈な生命力に魅せられた。そして、同時に砂漠化と森林破壊のすさまじさを目の当たりにした。

◆川から学んだモットーは、「遊び心8割、真面目さ2割」という山田さん。「地球のグランドを整備しておかなければ遊ぶに遊べない。自信と誇りを持って地球を遊ぶために、地球のグランドを整備しなければ」と木を植えることを決心する。そんな当時の心境を彼は手記「川よ森よ地球よ」の中でこんな風に記している。『川からアフリカを見るだけでは物足りなさを感じていた。その源の森のこと、人々の暮らしを、住み込んでもっと知りたいと思っていた。もっと深く観る目が欲しかった。川から世界を見る訓練をしてきて、地球の庭師になりたいと思うようになった。ナイル川下りの前にチャドで植林するのも悪くない。植林プロジェクトをやりながら地球の庭師修行をしようと決めた』

◆一方の高野さんは87年に早稲田大学探検部としてモケーレ・ムベンベ(コンゴ・ドラゴンとも呼ばれる未確認生物)を捜索する遠征隊を結成し、88年コンゴ民主共和国のジャングルでゴリラやニシキヘビを食べながら3か月間、ムベンベを探し続けた。奇しくも同時期にコンゴにいたふたりだが、91年の出会いでは顔見知りになる程度でしかなかったという。ふたりの関係が変わったのは97年。「緑のサヘル」のメンバーとして5年間チャドで植林を続けながらナイル川下りの機を伺っていた山田さんが、「ナイルの会」を立ち上げるために帰国したときだった。

◆「ナイルの会」の目的はナイル源流での植林事業。そのためにはまずナイル源流域5か国(ルワンダ、ウガンダ、ケニア、エチオピア、スーダン)を調査する必要があった。「アフリカを知っていて、経験があって、英語とフランス語をある程度話すことができて、すごく暇で、ノーギャラでも参加できる人間がいないかと探したら、ひとりいたんだよ。それが高野だった」。

◆4か月の調査の中で高野さんは山田さんからアグロフォレストリー(耕地の中に土を肥やし、果実をつけ、家畜の餌になる樹種を植え、農業を安定させ、自然生態系の循環も考慮した複合農業)について学んでいく。「僕は文科系の人間で民族や文化、言語については知っているのですが、自然や地理に関しては弱いんです。特に環境問題については何も分かっていませんでした。最近持続可能な社会という言葉をよく耳にするようになりましたが、それはその当時アフリカで既にお題目となっていたものでした。今になって日本で流行っているのにはびっくりですね」。「山田さんからは持続可能な社会についての全体的な理論から、個々の事象について学びました。例えばマメ科の植物であるアカシアがサヘル地域のような環境でどんなに大事なものかといったことを。山田さんは僕にとって最初で最後の師匠のような人ですね」。

◆アグロフォレストリーの中核をなすアカシアの木は、空気中の窒素を固定し肥沃度を回復することで土壌に栄養を与え、農民や動物の隠れ場所と日陰を作る。高タンパクの実は家畜の飼料になるのに加え、何種類かの鳥類の住処にもなる。中でもアカシア・アルビダ(白アカシア)という樹種はマジカルツリーとも呼ばれ、アグロフォレストリーには絶好の樹種だ。

◆サヘル地域の普通の樹種は雨期に葉をつけ、乾期に落とすが、アカシア・アルビダは逆で雨期に葉を落とし、乾期に葉をつける。モロコシ、トウジンビエなどサヘル地域の穀類はイネ科なので、その作付け期である雨期に十分な日光を必要とする。そこで畑の中に葉を繁らせる木があっては邪魔になるが、アカシア・アルビダはその間葉をつけない。またアカシアの根系は、劣化した土壌を避けて深く地下水面まで届き、奥深くにある有効水をも蓄えることができるのだ。

◆高野さんは調査の3か月後にはケニアにあるアグリフォレスト研究所の受付女性が感心するくらいその意義について話しができるようになっていたという。そんな旅の中で交わされた約束が「治安が回復したらパンアフリカ河川行最後の川、ナイルを下る。その時は誘う」というものだった。その後、いずれはナイルをという想いを胸に山田さんはルワンダで植林事業を続けたのだが、上流域の治安は一向に回復することはなかった。

◆やがて月日は流れ、昨年高野さんから「そろそろ約束を果たしてください。ナイルは未だ無理ですが、チグリス・ユーフラテス川なら行けるでしょう」と連絡がきた。「アフリカを飛ばして次に行くつもりはない」と言っていた山田さんがチグリス・ユーフラテス川行を行くことを決めたのは、長年の友への信義からだったのだろうか。高齢の父親に「お前、(イラクに行くなんて)バカじゃないのか」と反対され、悩みに悩んだが、義兄に背中を押され旅に出た。

━━イラク行

■ふたりが最初に向かったのはイラクの玄関口バクダット。高い建物が少なく、日干し煉瓦の建物が立ち並ぶ街だ。街中からチグリス川を眺めることができる。イラクと言えば、自爆テロが直ぐに思い浮かぶが、実際にはそれほど危険な気配はない。自爆テロが多発していたのは3、4年前で、市街地では既に起こらなくなっている。そんなイラクでは千葉大学の大学院生ハイダル君にふたりは世話になった。

◆日本で政治学を学ぶ彼はイラクの宗派対立について宗教指導者、政治家、族長にインタビューしようと帰国していたのだが、全て断られ、いきなり暇になったという。イラクには建前上宗派対立はないことになっているからだ。親切な彼に旅の間何度もお礼をしようとしたふたりだったが、ハイダル君は頑として受け付けなかったという。ゲストの面倒はホストが全部見るというアラブの古い風習が残っているのがイラクなのだ。

◆イラクは家系図を辿っていけば、ムハンマドを越えてノアの息子まで遡ることができる歴史ある土地でもある。国内にエデンの園があったと言われる場所もあり、そこには今でも枯れたリンゴの木が残っている。そんなイラクは実は隠れたグルメ大国でもある。国民食のひとつである鯉の円盤焼きは、背開きした鯉を薪でじっくり焼き上げたもの。姿形は日本の鯉とそっくりだが、臭みが全くなく、脂が乗っていて美味しい。

◆そして、もうひとつの国民食は水牛の乳からつくられる乳製品。またクッパと呼ばれるひき肉と玉ねぎの入った餃子のようなものも美味だ。バクダットにある午前中しかオープンしていないクッパの有名店は、いつも人で溢れている。店の前で何度か自爆テロがあったそうだが、客足は全く途絶えない。イラク人の食に対する情熱を感じる逸話だ。またタバークという米粉でつくった円盤状の食べものは、粘土板の上で焼き上げる。燃料は葦。かつて楔型文字は葦を使って粘土版の上に書かれていたが、文明の発祥の地では筆記用具と調理道具が同一なのだ。タンノール(インドではタンドール)と呼ばれる窯でつくるホブスと呼ばれるパンも美味しい。

◆しかし、イラクには当然のように一般の観光客はほとんどいない。一番の理由はビザを取ることができないことだ。仮に取れたとしても地方に行くための公共の交通機関はなく、自由な旅がほとんどできない。更に言えば、治安の問題から知り合いから知り合いへと常に信頼できる人を繋いでもらわないと旅はできない。今回のイラク行には「信頼できる人を見つけ、更にそこから信頼できる人を繋いでもらう」というふたりがこれまでの旅で培った無形の技術が凝縮されている。

━━川旅への想い

■このイラク行に出発する3年前、ふたりは2週間ほどの時間をかけて北上川を下っている。その時の記憶が楽しく、初めて川に触れた気がしたという高野さんは川旅についてこんな想いを抱いている。「ストイックにぎりぎりと上に突き詰めていく山に比べて、川はほぐれていくという感覚ですね。自由というのはこういうことなのかなって」

◆川旅はその土地の一番最下層を流れる。だからこそ、世界を下からの目線で見ることができる。旅をしている間、常に土地の人に見下ろされる旅。上陸後、再び川に帰っていくときにわびしさと自由が入り混じるが、それがなんともいいのだ。探検部時代、多摩川と四万十川しか経験のなかった高野さんは、そんな川旅に魅了されていった。しかし、普通の川旅をするのは嫌だった。高野さんのモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それをおもしろおかしく書く」こと。

◆そんな彼の前に現れたのが、「沼のイラク」だった。イラクと聞いて思い浮かぶのは、焼けつくような太陽の下の乾いた世界だろう。しかし、イラク南東部、チグリス川とユーフラテス川の合流地点にアフワールと呼ばれる大湿地帯がある。その四国ほどの広さの湿地には水牛を飼い、葦の家に住みながら、舟で移動する水の民がいるのだ。今となれば、どうして東南アジアのようなもっと普通のところから始めなかったのかと苦笑いする高野さんだが、そのときはそれしか目に映らなかった。そして、「これこそ山田さんと一緒に行くべき場所だ」と確信した高野さんは、半ば強引に山田さんを引っ張り出したのだ。

━━沼のイラク

■バクダットに到着後、ふたりはアフワールへ。実はアフワールの湿地帯はフセイン政権下で一度消滅している。湾岸戦争の後、アフワールを拠点にしていた反抗勢力を恐れたサダム・フセインが湿地帯に流れ込む水を堰き止め、潰したのだ。湿地帯は身を隠す低灌木や葦があり、全てがどろどろ、ぐちゃぐちゃで大きな軍勢が攻め入ることができない。馬も象も、当然戦車もだ。

◆湿地帯は中国の水滸伝でもあるように古今東西マイノリティーやアウトサイダーが逃げ込む場所なのだ。日本では織田信長を苦しめた一向一揆衆がそうした場所を拠点としていた。そんなマイノリティーの拠り所であるアフワールには2000年前に生まれた新興宗教もひっそりと存在している。その名もマンダ教。ユダヤ教から分離した原始キリスト教の姿を今日に残している。絶対的平和主義者のマンダ教徒は古代アラブ語を話し、信仰の対象はヨハネ。彼らの教義では、人は光の国から闇に覆われているこの世界にやってきて、やがて光の国に戻っていくという。

◆一度湿地が消滅したアフワールだが、フセイン政権崩壊後、地元の人が堰を壊したことで再び水が流れ込み、湿地帯が戻ってきた。今では40〜50%の湿地帯が回復している。そんなアフワールに住む水の民の生活で第一の収入源は水牛の乳からつくられるクリームやバター、チーズなどの乳製品。イラクの国民食である乳製品は、アフワールの水牛の乳によってつくられる。

◆湿地帯で獲れた魚や葦も重要な収入源だ。葦は燃料になるだけでなく、水の民の住む家の材料にもなる。彼らの家はチバイシュと呼ばれる葦と泥を交互に積み重ねてつくった浮島に建てられ、その周りで水牛が放牧されている。湿地帯には集落というものはなく、それぞれ自分のテリトリー(浮島)がはっきり分かれているところは、遊牧民的と言えるだろう。飼っている水牛の糞は乾かした後、調理用の燃料となる。葦に比べて高温になるだけでなく、煤も出ないからだ。

◆一方、ムディーフと呼ばれる葦の家は水の民の一族が集まる豪華なものだ。入り口に葦でつくった4本の尖塔を持ち、アーチ状につくられたそれは光差し込む洞窟のよう。この製法は5000年前から変わっていない。イラクには専門の大工集団が4組いて、湾岸諸国で同じような葦の家をつくっているという。またアフワールで以前と変わらぬ生態系を保つイランとの国境地帯の湿地には豊富な魚類を目当てにした白いペリカンの群れが舞い降りる。

◆国境地帯と言っても実際には国境はなく、人々は舟で自由に行き来しており、麻薬の密売も多く行われているそうだ。湿地帯の水深は浅く、30〜50センチほど。気を付けなければ船外機のプロペラが水底に着いてしまう。そんな湿地を水の民が舟での移動の合間に歌うのは、恋の歌。ゆったり竿を湿地に差し込みながら、朗々と歌いあげる。

━━源のトルコ

■「沼のイラク」から一旦帰国し、8月に改めてトルコに向かったふたりのチグリス・ユーフラテス川源流の旅はディヤディンから。ディヤディンからはアララト山を遠くに臨むことができる。直ぐそばにはイスタンブールとイランの首都テヘランを結ぶ国際道路が走っているが、この川がユーフラテスの源流だと気付いている人は少ないだろう。

◆源流の川旅のために日本から持参したのはパックラフト。パックラフトは川や湖が点在するアラスカの原野を旅するために生まれた小型のボートで、空気を入れて膨らませるとゴムボートとカヤックの中間のような形状になる。重さは2〜3キロほどと軽く、頑丈で空気を抜けばバックパックにも入る優れものだ。4日ほど下った後はケバン湖に北方から流れ込むムンズール川へ。雪解け水が地表に染み込み、透明度の高い水が泉のように湧き出して川となっている。

◆ムンズール川の透明度は、長野県を流れる梓川の清流をイメージしてもらえばいいかもしれない。川辺に立ち並ぶのは柳と楢、その足元には蓼やキク科の植物が群生している。一方、チグリス川の源流は泥の川。古都ディヤバクルから川を下るが、上流の採石場と綿農場のために川の水は濁っていた。途中、クルド人の若者たちの歓迎を受け、サズ(長いネックを持つリュート属の撥弦楽器)の音色に合わせながらふたりは踊る。更なる下流にはコロラド川のような景色も。

━━舟工房

■そんな旅の合間にふたりは自分たちの舟をつくってもらおうと舟大工を探した。自分たちの拠点となる舟を持ちたいと思ったのが、きっかけだ。イラクでふたりが訪ねた工房では若者が舟をつくっていたが、遠目にはきちんとつくられている風の舟も近くで見れば隙間だらけ。しかし、イラクではそんな舟でも問題はない。なぜなら太古からこの地ではコールタールが取れるからだ。隙間があってもコールタールで埋めてしまえば浸水の心配はない。3メートルほどの舟は3日で完成し、150ドル。部族長が乗る舳先の長い舟は完成まで2週間を要し、費用は小型の舟の6倍ほど。イラク情勢が不透明のため、ふたりは気長にときを待ちながら、いつか舟をつくって旅をするつもりだ。

━━約束の旅

■ふたりの報告の後、農大探検部創設者の向後元彦さんからは世紀の大発見かもしれないと指摘が飛ぶ。映像にイラクにはないとされるマングローブのようなものが写りこんでいたからだ。また東京農大造園科卒でランドスケープ・アーキテクト(景観設計師)の望月昭さんからは青春時代の懐かしい映像を観させてもらえたと感謝の言葉も。今回のチグリス・ユーフラテス川行は湿地帯と源流域の旅で幕を閉じたが、これはきっと20年前に約束した水辺を巡る旅の序章に違いない。ふたりの約束、そして、山田さんのパンアフリカ河川行はナイル全流を下ることで完結するのだ。ナイル上流部の治安がいつ回復するかは分からない。それでも、僕は高野さんが「最初で最後の師匠」と呼ぶ山田さんと巡る「約束の旅」の報告を楽しみにしている。(光菅修


報告者のひとこと

私と高野秀行のクロニクル

 2年前の夏、高野はメソポタミア川探検の誘いに高知にやってきた。四万十川をパックラフトでツーリングした。高野は毎朝1時間アラビア語の勉強を欠かさなかった。東京在住イラク人のアラビア語講師の発音を録音したスマホで勉強する高野に、パリギャルソン仕込みのコーヒーをドリップして「ワラー ムッシュー」と出すのが小生の朝の始まりだった。

 高野は優に十指に余る言語を操る。それも欧米語以外にアジアやアフリカの言葉もできるので、語学の天才のように思われがちだが、一緒に旅してわかるのは、言葉が好きでいつも新しい言葉に好奇心旺盛という事。つまり、人間に興味津々だ。行くところが決まると東京でその国から来た人を探して言葉の勉強を始める。昨年、イラク、中国、トルコと行ったが、どこでも現地語で冗談を飛ばして笑いを誘っていた。

 軽妙洒脱な文章力には定評があった。今回の報告会では、話術もすっかり上手くなっていて、立て板に水のようだった。売れっ子になり週に2回以上講演に呼ばれているらしい。かたや普段、木や森としか話してない小生は、ダムだらけの日本やトルコの川のように、詰まること多々でお詫びします。以下、高野との出会いから現在までのクロニクルを列挙する。

 1987年、コンゴ共和国ウバンギ川沿いの町インプフォンドにて。パンアフリカ河川行中、農大探検部3年後輩清水と。「おお、ここからジャングルに入ったテレ湖で駒大探検部の野々山たちが怪獣ムベンベ探しに来とるぞ、野々山からパリに手紙があった。野々山、2年まえパリの俺のとこ寄ってからコンゴ行った時は全然フランス語出来んかったが、大丈夫か?」「早稲田の探検部の高野がよくできるそうですよ。今回のチーフです」。この探検が『幻獣ムベンベを追え』。

 1991年、東京信濃町「緑のサヘル」事務所にて。野々山の紹介で高野に会い仏語翻訳を頼む。「自慢じゃないが、我々はフランス語をなんとか話すが書くのは苦手だ。緑のサヘルの規約書とチャド政府への提出文書の翻訳を頼みたい。自慢じゃないが、我々は貧乏だ。金は払えないので、今夜の晩飯酒飲み放題でどうだ?」「オス」。

 1997年、ルワンダにて。ブルンジ、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、スーダンと植林候補地を視察した。「高野、今回は4ヶ月3食昼寝宿付きで給与なし。そのかわり、いつかナイルを下る時は君に特等席を用意する。どうだ?」「ラジャー」。このころ、高野は『ワセダ三畳青春期』から『アジア新聞屋台村』のころで、売れず食えず暇だった。

 2007年、『神に頼って走れ』で高知にやってきて、四万十川にてワンデイツーリングのあと、「山田さん、ナイルは未だに治安悪いけど、どこか別の海外の川に行きましょう」。「知っての通り、2004年末に、お袋がくも膜下出血で倒れ、チャド・スーダン国境のダルフール難民キャンプから急遽帰国以来、海外は控えている。高野、ユーラシアの面白そうな川偵察しておいて」。

 2018年、20年来の約束が果たせつつある。(山田高司

それはバカだから……

 いつかナイルの川旅をしよう……。そう約束してから二十年。まさかティグリス=ユーフラテス川へ向かうとは思わなかった。

 今から思うと、なんて間違っていたんだろう。山田高司隊長は体を壊してからずっと郷里の四万十に逼塞し、外国へは十年以上も行ってない。「飛行機の乗り方も忘れた」と言っていた。いっぽう、私は川旅初心者。国内の川をいくつかカヌーで下ったことがあるだけだ。

 常識的に考えるなら、まずタイやミャンマー、インドネシアといったもっと治安がよくて、川自体の情報もあり、私が土地勘や言語勘を持ち合わせている場所に行くべきだった。きっと、リラックスして心身がほぐれるような旅ができたにちがいない。その後でもっとハードルの高い川を目指すべきだった。

 なのに、いきなり向かったのがイラク。世界で最も緊張を強いられる国の一つで、川(と湿地帯)の情報もまるでない。この旅は下見程度だったが、よくも悪くも刺激が強すぎて、山田隊長はしばしば悪性の腰痛と強いストレスで意識朦朧となっていた。もともとごっつい顔が強ばっていたせいか、行く先々で現地の人たちに同胞(つまりイラク人)と間違えられていたほどだ。そしてそんな中でも気力でビデオカメラを回していた。さすがである。

 イラクの旅が終わってから、次こそリラックスできる川旅をと出かけたのが同じティグリス=ユーフラテス川の源流域であるトルコ・クルディスタン。イラクほどではないが、ここも治安が保証されない地域であり、しかも川の情報はない。そして私はカヌー初心者である。トルコ語も片言だけだ。

 行ってみれば、またしても困難の連続。山田隊長はiPhoneの衛星写真と現実の川を見比べては、これから川がどうなるのか予測しようと毎日奮闘していた。私は私で、慣れないカヌー漕ぎに奮闘。しかもやっとその日の目的地である村に着くと、今度は村の人たちと交渉したり友好を保ったりしなければならない。彼らが発する「どうして車に乗らないで舟に乗ってるのか?」なんて難問にも笑顔で答えなきゃいけない。「それはバカだから」と正直に。

 そう、なにもかも、理由はバカだからである。ふつうは五十歳を過ぎて(山田さんに至っては六十歳もになって)「友だちと約束したから」と川旅などしない。心身の条件が整わないのに未知の土地にチャレンジしたりしない。

 でもバカだから見える景色というのもある。バカだから出会える人もいる。そういうバカさ加減が私たちの身上である。これからも二人のバカ師弟コンビは阿吽の呼吸で失敗を重ねながらさらなる川旅を続けていく予定である。(高野秀行


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