99年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信240より

報告会レポート・240
山はカッコいい!!
大久保由美子
1999.10.29(金) アジア会館

◆ちょっとがんばれば8000メートルの世界を味わえるのではないか。大久保さんの高山旅行記とでもいうようなトークは、私をそんな気持ちにさせた。しかし、高山病や激しい気象の変化、数えたらきりの無いような難問の中、それを縫うかのようなピークアタックは、中途半端な思いで成し遂げられるものではないことは言うまでも無い。

◆大久保さんの“高山の世界”への玄関はヒマラヤだった。96年、小西浩文さんのエベレスト遠征隊にベースキャンプマネージャーとして参加した大久保さんは、6500メートル地点での3日間の“高所順応トレーニング”を通じて、高所に強い体質を認識する。遠征では身近な人間の死を経験し、高山の危険さを実感することとなったが、8000メートルの世界への遠征と、人への興味の強さは、大久保さんを次のステップへと導いていった。

◆97年のガッシャーブルム峰へは当時所属していた社会人山岳会「G登攀クラブ」の5人のメンバーと出かけ、第2次アタック隊での登頂となった。スライドからは、白一色、雪山の研ぎ澄まされた鋭さが伝わってくる。しかし、雪の状態が良かったとはいえ、あっという間に行って帰ってきてしまったかのような大久保さんの語りっぷりに、思わず江本さんの質問が飛んだ。「きついと感じたことはなかったのですか?」誰もが不思議に思っていたことだ。答えは、ちょっと考えた末「8000メートルの頂上についたらどんな気分だろう、という好奇心がモチベーションとなり、血気盛んな状態でキツイとは感じなかった。」とのこと。

◆続けて同年秋のアマダブラムは、人とのつながりにより実現した山行とでもいうべきか、外国の友人のコマーシャルエクスペディションに合流する形での山行となった。結果的に、日本人女性では初めて、という記録的登頂となったようだが、ちょうど他の隊にも日本人女性がいたことで、“先手必勝”と盛り上がるメンバー達とは対象的に、大久保さんいわく「記録好きの西欧人らにせかされ、私自身は不機嫌だった。」と、その時の不機嫌さを思い出したかのような口ぶりに、あくまでも自分のやり方で山を楽しみたい。という大久保さんのスタンスを感じた。

◆99年、それまで技術力の不足を痛感していたという大久保さんは、基本に立ち返るべくカナダの登山学校に入学する。これが新たなステップへの充電期間となったのか、学校の友人と二人でのマッキンリー、そして恩田真砂美さんとのムスターグアタ登頂など、“大所帯の組織ではなく少人数”という、大久保さんのスタイルでの山行を精力的にこなしている。

◆無酸素、そしてテクニカルなルートではなく、あくまでも自分に合ったルートを使い、山に挑戦していきたい。そう語る大久保さんは、“無理をしない”という山を楽しむ上で一番大切と思われることを信条としている様子が伺える。

◆「自分の意思を超えた流れのようなものの上に乗っちゃった」。通信の予告編にものっていた言葉だ。一見、流れに身をまかせているだけのようにもとれるが、私には、大久保さんの歩みは、自分の中での目標を定めることにより、各遠征をステップにし、あえて4年目にして、登山学校に入学するなど、確実に階段を上っているように見える。

◆それでは流れに乗るとは?私は流れという言葉よりも、次へ、次へと進み続ける大久保さんの強い探求心を感じずにはいられない。山の世界へ一人で飛び込み、自己流の山行を重ね、社会人山岳会では同期の死という悲しみを乗り越え、結果的にそれでも止むことの無い探求心が吸引力となってヒマラヤとの出会いへと繋がったのではないか。

◆その強力な探求心のパワーの源はなんなのか、育った環境や、好奇心の強い性格であるという事以外に、“のめり込むほど好きな、何か”を探しつづけ、バイク、スキューバなど、様々な分野にトライして来た大久保さんにとって、山がその答えであった、ということがひとつ。そして、5年間のOL生活が、大久保さんの好奇心を爆発寸前まで押さえ込み、着火剤となったことも一因といえるのではないか。安定したOL生活から第一歩を踏み出した事で得た出会いを、「自己完結したくない」という大久保さん。人前に出ることが苦手といいつつも、真剣に、山とそこから得た気持ちの変化を語ってくれた。

◆同じ女性として良きパートナーである恩田さんと共に、大久保さんの山へのパワーは、ますます強い流れとなって、留まる事がなさそうだ。[新村美穂]
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