The Chiheisen News 2003-07-2

山田和也さんによる

なぜ「障害者イズム」なのか?

障害者イズムウェブ 「障害者」という言葉を使うことに対し、はじめのうちはかなりのためらいがありました。けれども、6年間にわたる取材期間で、彼らのおかれている世界がどれだけ世間一般から隔離され、無視されているのかを知った時、あえて「障害者」と呼ぶことにしたのです。

きっかけは1995年1月、阪神大震災直後の神戸、瓦礫の山の中を車椅子に乗って精力的に走り回る障害者のグループに出会ったこと。彼らは被災した障害者仲間の安否を気づかって、神戸に来ていました。
「ひとり暮らしだから、部屋の中で車椅子から落ちたり、コンロの火で火傷をしても誰も助けに来てくれない。そのままじっとしている他ないんですよ。」
まず車椅子に乗った障害者が「ひとり暮らし」をするということに驚きました。さらに、どうしてそんな危険を冒してまでひとりで暮らす必要があるのだろうか?そんな疑問からこのドキュメンタリーは出発しました。

翌年、障害者団体から話を聞くことから取材が始まりました。障害者がひとり暮らしをすることを「自立生活」と呼んでいることも知りました。しかし、どうしても分からないことがありました。「『自立する』ということが、危険と引き換えにしてまで、ひとり暮らしをする理由に果たしてなるのだろうか?」。理解したつもりでも腑に落ちないまま時間が過ぎていきました。そして1年間、再度の交渉を経て、自立生活への一部始終を撮影させてくれるという3人の人々に出会いました。3人とも40歳を目前に控えた、脳性まひによる身体障害者。脳性まひによる障害者の平均寿命は50歳だという説があり、そのことが殊更彼らの背中を押しているように見えたのです。身体障害者の世界の何をどう描くのか、それらはまだ茫洋として、何も見えてはいませんでした。ただ、彼らにはもう時間がないのだということは私にもはっきり分かりました。

それからの6年間、無我夢中でカメラを回し続けました。迫りくる期限に追い立てられるように、必死に社会に出ていこうとする彼らを見ていくうちに、彼らの住む世界と一般の社会の間に大きなギャップがあるのだということを何度も痛感させられました。
彼らが障害者であること、そのことをまずしっかりと社会に認識してもらわなければならない。そんな願いをこの「障害者イズム」というタイトルに込めました。

現在、彼らは40歳を越し、それぞれのやりかたで社会への参加を果たしています。
私は何が「自立」なのかいまだにさっぱりわからないまま、カメラを回し続けてきました。でも、確かなことがひとつあります。彼ら「障害者」は今、しっかりと自分自身の足を地につけて立っているのです。
                     ディレクター・山田 和也


「このままじゃ終われない」ということ

「このままじゃ終われない」、それはここに登場する3人の障害者たちの心の叫び、そして、私たち制作スタッフそれぞれ共通の心の叫びでもあるのです。

 私を始めとするこのドキュメンタリーのスタッフは、全員長年にわたりテレビ番組の制作現場で仕事をしてきました。そんな中出会ってしまったのが、「まったくテレビ的ではない」彼らでした。常に一過性の話題を追いかける事を要求されるテレビの世界では、視聴率こそすべて。「普通の」障害者が「普通」の生活をするプロセスなど、視聴率絶対の世界では無価値にも等しいのです。「視聴率が取れない」という不条理な理由で、このドキュメンタリーの企画は相手にしてもらえませんでした。普通の障害者に起こっている問題、つまり一般的な問題だからこそ社会に伝えなければならないのに、テレビメディアの経済性の中では、存在自体が無視されてしまうのです。
 それでも私たちは当てのないまま、カメラを回し続けました。取材期間は6年間、収録テープは200時間を超えました。他の仕事をしていても心は現場にありました。
「何に代えても取材現場に戻りたい。」
 そんな不思議な魅力がスタッフを放しませんでした。自立を目指し、社会の壁に幾度となく立ち向かう障害者たちのひたむきさや心の底から一喜一憂し、素直に感動を表現する彼らのありのままの姿は、私たちに勇気を与えてくれました。同時に障害者たちの前に厳然と存在し続ける大きな壁の存在を世に知らしめる使命も感じていました。
だからこそ「このままじゃ終われない」のです。

 マスメディアに登場する障害者は、ほとんどの場合「特別な人」です。
 パラリンピックの選手、障害に悩まされながらも偉業を成し遂げる人、花形職業から一転して車椅子生活を余儀なくされた人、何万人に1人という不治の難病に侵されてしまった人。悲劇、感動秘話…、ですが私たちの隣にいる「普通の」障害者たちに関する関心はほとんどないと言っても過言ではないはずです。
「自由のない施設を出てひとり暮しをしたい」というごく当たり前のこと。それすらも「夢」になってしまうのが彼らの現状なのです。いざ実行に移したときの、社会や肉親の抵抗。日常的な障害者への差別(就職、労働条件、恋愛、住宅、飲食店への出入り)に対する怒りと失望。自分たちの存在すらも気にしてもらえない悪意のない「無視」。そして不自然な体勢を強いられることから脊椎が傷ついてしまう「二次障害」という時限爆弾。平均寿命50歳、そこから先の人生は約束されていません。迫りくるデッドラインを見据えながら、彼らは「自立」という「当たり前」の夢に向かって走り続けています。普通だからこそ普通の人生を送りたい。それが夢でなくなるときまで彼らは「このままじゃ終われない」のです。

 そんな思いから私たちは、3人の身体障害者が施設を出て、社会参加を果たしていく6年間を記録しつづけてきました。テレビメディアでは、決して取りあげられることのない地道な人生が、どれだけ困難で、誇り高く、感動的であるか、私たちは世の中の全ての人々に向けて伝えていきたいのです。

登場人物

●小池公男さん(39歳ー1997年当時)
 脳性まひによる重度の身体障害をもつ。
障害者施設に暮らして20年、いつかは施設を出て暮らしたいと考えている。「脳性まひによる身体障害者の平均寿命は50歳」という説があり、そのことが小池さんの心に重い重圧としてのしかかっている。
自立に向けて、小池さんの活動が始まる。

●日原一郎さん(37歳−1997年当時)
 自立を目指す障害者への支援グループ「自立ネットワークやまなし」の会長。自身、重度の脳性まひによる障害を持つ身だが、日々、自立を夢見る障害者たちの為に奔走している。障害者が施設や肉親の元を離れて暮らすすることを「自立生活」と呼んでいる。97年、日原さんは小池さんの自立生活を実現させるために動き始めた。今までメンバーの中で自立生活を実現させた障害者はいない。小池さんがその第1号になる。

●中込恵美さん(39歳−1997年当時)
 中込さんも「自立ネットワークやまなし」のメンバー。
自立生活を夢見てきたが、手が思い通り動かせず自力で車椅子に乗れないためあきらめてきた。97年、日原さんの誘いで自立生活の講習会に参加、一週間の自立生活を体験する。そのことがきっかけとなって「自立して生きたい」という強く願うようになり、遂には無理だと思っていた電動車椅子の運転を習得してしまう。自立生活のためのアパートの獲得、家族への説得と、自ら自立生活への階段を登りはじめる。


(取材期間)
1996年4月ー2002年12月
 *撮影は、1997年4月から現在まで続いています。
  全シーンの80%はすでに撮影が終了しており、残り20%を2002年12月までに撮り終える予定です。


あらすじ
 1997年4月、山梨県甲府市にある障害者療護施設。
 自立を目指す身体障害者、小池公男さんの居室からカメラは回り始める。自立に向けて活動を開始した小池さんの前に、困難な問題が次々と現れてくる。経済的な問題、入居している施設の冷たい反応、不慣れな行政との交渉、そして、今まで面倒を見てきてくれた家族の反対。
 そういう気が遠くなるような長い道をともに歩いてくれる仲間がいた。
「自立ネットワークやまなし」の仲間達。親や施設から独立し、1人の人間として当たり前のことである社会参加を実現することを目指す身体障害者の集まりだ。
 東京の先進的な障害者組織に教えを仰ぎながら、小池さんと「自立ネットワークやまなし」の戦いが始まる。
 しかし、行政の対応は、思った以上に冷たかった。
「他人に迷惑をかけて、1人でアパートに住むことが、本当の自立と言えるかね」
福祉事務所は、まともに取り上げようとはしない。
 さらに、思いがけないもう一つの壁が立ち塞がる。それは、社会の無関心。自立生活を支えて行く上で不可欠のボランティアが集まらない。
目立たない「普通の」障害者であることがブレーキをかける。
 小池さんは、甲府での自立をあきらめ、制度が整い、ボランティア組織も充実している東京での自立に方向転換してしまう。

 もう1人、自立を目指した中込さん。「他人に迷惑をかけないで」という家族の反対に阻まれる。中込さんは、家族の理解を得るために少しずつ準備を進めていく。まず、施設の職員さんの理解を得る、家賃の安い県営住宅に入居できるように知事に陳情を繰り返す。無給のボランティアを募集する、少しずつ家族の信頼を獲得していった。
 そして、4年後の2000年10月、中込さんは県営住宅に入居、自立生活を始めた。
 2002年、日原さんが代表を務める「自立ネットワークやまなし」は、NPO法人の資格を取った。
 小池さんも、今年9月から、東京で自立生活を始める予定である。

 40歳を前に、それぞれがさまざまな障壁と闘った。
そして、少し出遅れたけれども、社会人としての人生を歩み始めた。

 これは、20周遅れの青春レース、6年間の記録である。



「障害者イズムー20周遅れの青春レースー」
―シーン表―

***以下のシーンのうち、80%は撮影済みで実際に起きた事実に基づいて構成しています。***

<自立に向けて>1997年
シーン01 小池公男さん紹介;脳性まひによる身体障害とは
シーン02 自立ネットワークやまなし:登場人物紹介
シーン03 会長日原一郎さんの日常:二次障害との闘い
シーン04 自立生活運動とは:障害者差別との闘い
シーン05 小池さん自立へ向けて行動開始:生活保護を申請
シーン06 初めての交渉:制度の障壁、冷たい窓口対応
シーン07 日原さん東京へ情報収集に行く
シーン08 他人介護料(介助ヘルパー費)を認めさせる
シーン09 次の障壁:家族の反対

<挫折>1997年
シーン10 中込恵美さん紹介:自立生活体験講習会
シーン11 自立ネットワークやまなし:自立へ向けて会員の意識に温度差が 
シーン12 日原さん行動に移る:アパート探し
シーン13 次の行動:小池さんの介助者を探すが見つからない
シーン14 小池さんの抜け駆け:東京での自立を目指す
シーン15 日原さんの絶望:独り旅を試みる

<中込さんの自立>1998年ー2000年
シーン16 中込さん動き出す:電動車いすの練習始める
シーン17 日原さん復活:自立生活講習会を企画
シーン18 中込さん、県営住宅入居を目指す:杓子定規な入居規定
シーン19 障害者手帳の書き換え:「障害」が重い方が有利?
シーン20 県営住宅に特例で入居が許可される:しかし家族の反対
シーン21 ボランティア探し:学生たちの無関心
シーン22 住宅は確保した:家族の説得
シーン23 新たな障壁:病気

<20周遅れの青春>2000年ー2002年
シーン24 障害者プロレス:障害を見せ物にすることとは?
シーン25 日原さんの活動:高校生障害者に自立の精神を
シーン26 中込さんの夢が叶う:入居!

(以下は、今後の取材予定)
シーン27 日原さんの挑戦:自分たちで介助者派遣事業始める
シーン28 小池さんの挑戦、東京での自立を目指す
シーン29 回想「それぞれの自立」:この6年間
(完)



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