2000年1月の地平線通信



■1月の地平線通信・242号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙◆皆さん、明けましておめでとう。とりあえず2000年までやってみよう、と始めた地平線会議。その2000年を迎えて、まあよく続いたなあ、との感慨がある。

◆1978年12月頃に言い出し、79年8月に動き出したこの活動がともかく存続してきたのは、やるべし、そのうち何かになる、との予感が皆の中に共通していたからであろう。発足当初の最大のねらいだった探検・冒険年報「地平線から」の毎年発行は挫折しているし、とりたてて自慢する発展はないけれど、その予感を頼りに20年と4か月にわたって、毎月の報告会の開催と通信の発行を一度も欠かさず続け、パソコン通信による談話室をもう足かけ10年も開き、東京だけでなく地方でも地平線報告会をもてるようになり、写真展「地平線発」を各地に展開してきたことは、誇っていいだろう。自賛は好まないが、新しい仲間を含め支えてきてくれた皆さんを、偉い、と思う。

◆で、正月明けの5日、変わった山登りをした。場所は三重県度合郡のいなかにある、国束(くづか)山といい、標高411メートル。

◆「じゃ、行きますか」そう言ってすたすた歩き出した東浦奈良男さんにくっついて新年の山登りは始まった。手製のザックを背に、腰に鉈と籠、鈴。自宅を出発した東浦さんは、車をいっさい使わず、まず15キロほど車道を歩く。間もなく75歳になるとは信じられない強靭な足で、途中休憩というのがない。冬というのに靴下も手袋をつけない。おまけに、た、食べ物も水も何ももたない!「朝と夜食べれば大丈夫」だって‥。

◆それだけではない。この山好きおじさんは、59歳で印刷会社を退職した翌日から1日も休まずに山に登っている。私と一緒に登ったこの日がなんと「連続5552日目」の登山なのである。台風でも、病気になっても、這ってでも登ってきた。

◆そう書くと、いかにも変人奇人めくが、至極まっとうな人だ。読書と山が好きで、退職の日からは時間を好きな山登りにあてよう、と決めていた。他人から言われてやるのではない、自分が好きで決めたから全然大変なんかじゃない、その自由さが私には楽しいんですよ、という。奥さんも「止めてやめるものではないし‥」と、のんびり構えている。

◆2時間も歩くと、次第に山が近づいてくる。「あれが、神山です。姥(うば)捨てがあった山でね」。へえ、あの『楢山節考』でおなじみの姥捨てって、このあたりでもあったんだ。でも、いくつで捨てられたんですか?「60歳だね。1週間分の食料をつけて山に置き去りにする。むごいことだったねえ」姥というから女性だけなんだろうが、当時男はもっと短命だった。「ふうん‥」と、なんだかしみじみしてしまったのは、他人事ではないからだ。

◆地平線会議を始めた時、1940年10月生まれの私は39歳になろうとしていた。ダイエーの王監督と同期だが、面識はない。それが2000年にはなんとなんと、そういう年齢になる。相変わらずよく食い、よく遊びの人生で、最近は畑正憲に似ている、といわれるのがなんとも不愉快なのであるが、全体には還暦なんか遠い先のこと、というのか実感だった。第一、それらしい渋みというか味が、ちっとも備わってこない。

◆が、しかし時は過ぎゆくものだ。山に捨てられないまでも、いずれ東浦さんのような日がやって来る。それにしても、地方には東京に座っていては会えない逸材が多いな。地平線会議は、もう少し飛び出したほうがいい。うーむ、自由の喜びかあ。連続登山はもう新味がないから、好きなイヌ7、8頭との連続散歩記録10000日でもめざそうか。思いは千々に乱れる正月明け登山であった。[江本嘉伸]


報告会レポート・242
さよなら千年紀特別企画!!
チベット秘蔵記録

千年紀さよならオークション
ケルサン・タウア+参加者全員
1999.12.22(水) アジア会館

◆千年紀最後の記念すべき報告会にふさわしく、いつもとは違った形で12月22 日に開かれた報告会。中国併合前のチベット王国の未公開記録映画の上映と、世界中を駆け回る地平線の面々が出品する恒例の地平線オークションというゴージャスな二部構成となりました。

◆第1部は時は第二次世界大戦前、鎖国中のチベット王国の超レアな記録映画の上映。在日チベット人ケルサン・タウア氏がバブル絶頂期にドイツ旅行中に偶然、1938年から39年頃のチベットをドイツ人探検隊が取材した16mmフィルムの記録映画を発見。自民族の文化を守るためにぜひとも必要と考えたケルサン氏は100万円相当の身銭を切って即座に購入しました。4部構成の16mmフィルムをビデオテープにコピーしたものを、ケルサン氏と地平線会議の世話人でチベット通の江本嘉伸氏の解説付で披露されました。音声が無かったのは残念でしたが、AD修行半年の若輩者の私からみても、フェードイン、フェードアウトなどフィルムではなかなか高度な編集技術が駆使された、構成内容、映像などもかなりハイクオリティな記録映画でありました。

今日のラサではかなり漢人文化が浸透していますが、映像では、牧畜・農耕や仏教寺院での僧侶・巡礼者など、当時のチベット民族のオリジナリティとバイタリティあふれる生活文化の鼓動が活き活きと脈打っているようでした。大秘境の探検を強調した高山地帯や沙漠を進むドイツ隊の姿には、演出のいじましさすら感じてしまいましたが、対照的に、悠然と暮らしているチベットの人々の朗らかさが民族的なたくましさを醸し出していました。これはぜひまた見せていただきたいと思います。

◆第2部は、世界各地から地平線会議の面々が持ち帰ってきた“お宝”と旅の体験談が飛び交う、久々の地平線オークション。関野吉晴氏のグレートジャーニーで使用したアウトドアウェア、恵谷治氏の北朝鮮グッズ、故斉藤実氏の愛用オリジナルステッキ・渓流竿、熟女風来坊金井重さんのオリジナル額縁付色紙、スターナヴィゲーションの石川直樹氏のミクロネシアふんどしなど、面白お洒落なお土産の数々が後世に語り継ぎたい旅のエピソードと共に厳選40点出品されました。この日の売上総額66,400円。貴重な品々を出していただいた皆様、お買い上げいただいた皆様に感謝感激でございます。

◆昨今の不況のせいか、プレY2K問題で参加者の金銭感覚が崩壊していたせいか、はたまた次に何が出てくるかわからないスリルのせいか、はじめのうちはなかなか人々の財布の紐が固く、せっかく用意した地平線小切手も使われる事なく、世界中でもこんな絶品がお目にかかれるのはこの日しかないのよ!! というような貴重品がまるでガレージセールの中古品のような値段で落札されていくのには、貧乏人の私にははがゆいばかり。まぁ、これも地平線らしいところなのですが。

◆この日は地平線報告会初参加の方や久々の方も多く、二千年紀を迎えた今年の地平線会議の新たな展開への起動力が増したという期待も感じられました。次回1月29日の山形で行われる地平線オークション後半戦にも、まだまだ貴重な品とエピソードがたくさん出てきます。世界でたった一つのお宝が手に入る今世紀最初で最後の大チャンスですよ。胸を希望で、財布はお金でふくらませて、山形に行かなくちゃ!ダワ。[山本千夏]


地平線オークション(前半)
出品者/品名 全リスト(出品順、敬称略)

以上、40件、売上総額66,400円でした。ご協力ありがとうございました。なお、時間切れでオークションにかけられなかった品物も多数ありましたが、今月の山形報告会で後半戦を実施しますので、お楽しみに。


特集・ミレニアム新年メール

2000年の年明け、各地にいる地平線会議の仲間に「ミレニアム新年メール」を寄せてもらった。近況を知りたかったし、世界と日本のあちこちの年越し風景を是非一度まとめてみたかったのだ。江本あてのかたちになっているものもあるが、地平線通信に載ることは了解済み。それぞれの文章の冒頭の見出しは編集部でつけた。メール、ファックスを送ってくれた皆さん、ありがとう。ちなみに、あのカソリック教祖はじめ、高知のサムライ山田君以外は全員メールでした。そういう時代になったのだ、と感慨深し秋の暮れ。では地平線ならではの斬新かつ含蓄に溢れたそれぞれの新春メール、じっくり一読あれ。

1
羊2頭のもてなし

●みなさん、あけましておめでとうございます。

◆ブルキナ・ファソの年越し ここ西アフリカのブルキナ・ファソも、無事に新年を迎えました。夜の気温は20度台半ば、Tシャツ一枚で夜風に当たるのがとても気持ちいい、そんな気候の中での年越しです。でも涼しいそよ風にもちょっと砂が舞っているのが西アフリカらしいところですね。ラマダーン中とはいえ、アラブ圏と違っていつも通り昼間の方が町に活気があり、夜は静かになってしまう日々が続いていましたが、さすがに今晩は町中がきらびやかなイルミネーションの中、ざわついて眠る気配を見せません。あちこちで花火や空砲が鳴り響いています。

◆我が家の年越し 妻の親類がクリスマス休暇でマリから我が家に来てくれまた。30日には、友人のニジェール人とフランス人のカップルが旅行の途中、年越しの挨拶に立ち寄ってくれました。大晦日には、ベナンからも妻の親類が訪ねてきてくれました。アフリカの人たちのフットワークの軽さを感じるとともに、彼らの友情にとても感謝しています。

でも日本の友人も負けていません。友人の京都の教授も私の家で年越ししてくださいました。家族や友人たちのために、大晦日には我が家でヒツジを2頭殺しておもてなししました。昼間はアフリカ料理、夜は日本料理でした。アフリカ生まれの妻がいれたアフリカの香辛料で作ったチャイ(インディアンティー)を日本の友人が飲んでいるのを眺めたり、妻が作ったお雑煮やフランス風ビートサラダをマリ人の親類が食べている様子を見ていると、世界の広さと親密さが我が家に濃縮されているようで、とても幸せな気持ちになりました。

また、年越し直後には、日本、フランス、マリ、象牙海岸共和国から年越しのお祝いの電話をいただきました。実際の年越しまでは2000年問題の不安がありましたが、結果として、とても楽しく、友人たちの暖かさがに身にしみる年越しになりました。

◆Y2K問題 こちらは日本と9時間の時差があります。ですから、日本など先に年が明ける国の様子に注意しながら、何がおこるか確認したり、トラブルがあっても準備する時間がもてたので、ある程度余裕を持って年越しを迎えられました。しかし、いずれにしても西暦2000年に早い時期に突入した日本のSEあるいは会社幹部の方たちは、とても緊張したことでしょうね。先に年が明けた国の様子は、テレビとインターネットで確認していました。

しかし12月31日のお昼頃から年明け番組が見られるというのは、ちょっと不思議な気がしますね。日本にいると、日本が世界中で一番に早く年が明ける地域のような気になっていましたが、あらためて見てみると、キリバツとか日本より3時間ほど早く年が明けるところがあるのですね。

そうそう、もうひとつ驚いたのは、ブルキナ・ファソもフランスのテレビ放送も、西暦2000年を新千年期の始まり、21世紀と呼んで報道していることです。2000年は20世紀最後の年ですよねえ。カウントダウン直後、電気、上水、商業交通(タクシー)、国内・国際電話、携帯電話、無線、テレビ、ラジオなどの社会インフラ稼働状況を確認しました。すべて平常通り稼働しており、胸をなでおろしています。

しかし今日の午前中は、前述の項目に加え、ガス、石油、下水、公共交通、航空機、衛星通信、医療機関その他の状況調査と結果報告のため事務所に行かなくてはなりません(T_T) でもまあ、午後は自宅に戻り家族と楽しく過ごせそうでなによりです。機械のトラブルより、それを引き金に起こるパニックが怖いなあと思っていましたが、そういう事態もいまのところ起こっておらず、ちょっと人間を見直しつつ2000年が始まりました。

◆胃袋の年越し Y2K問題への対応で、午前中出勤しなければならないことと、もし何かあった場合はお正月気分に浸れなくなる危惧があったので、実は昨晩のうちに、年越しそばと一緒におせち料理とお雑煮に手をつけてしまいました。胃袋の方は、ロンドンと同じ時間帯のブルキナ・ファソより一足早く、サウジアラビアあたりの時間帯で年を越ししてしまったわけです(^_^;)。

でも、本当の2000年の最初の食事(昼間はラマダーン中なので断食してますから)は、精神的にも落ち着いて食べられそうですので、じっくり味わえるものを食べたいと思います。アフリカ料理か、フランス料理か、イタリア料理か、日本料理か、何を食べようかなあ。うーん、思考回路がすぐに食べ物の方に流れていくのは、ラマダーンのせいだからでしょうか…2000年がみなさんにとって素晴らしい年でありますように[ブルキナ・ファソ 福井慶則]

2
雪掘りの新年

◆ここ数年、正月らしい事からどんどん離れているような気がします。去年の春に松之山に引っ越してきてからテレビも新聞も見ないので、静かで平和な日々です。そんなわけで、2000年問題やミレニアムとは無関係に暮らしています。

◆12月31日は、今シーズン2度目の雪掘り(こちらでは雪下ろしとは言いません)のため、屋根に登ってアイスブロックと格闘していました。12月中ごろからしんしんと降った雪はすぐに1m近くまで積もり、正月までにこんなに降るのは4年ぶりだと言います。

◆正月らしい行事といえば、連れ合いの希望で年越しそばを食べたのと、ようやく出す移転通知(兼年賀状)の宛て名書きぐらいでしょうか。

◆そもそも、なぜあれこれと区切りをつけるのか不思議だったので、しばらくは、食べて・寝て・出す(順番はどうでもいいけど)という基本的な生活をしていこうと思っています。そこから、年中行事などの意味が見えてくるかもしれません。

◆いずれにしても、世の中、知らないほうが幸せな“情報”が多いような気がします。近所の人たちと笑いあいながら、畑で野菜を作って、田んぼでお米を育てる。地球の裏側で飢餓に苦しんでいる人のことに思いをはせる前に、隣のばあちゃんが何を食べているのかを知ることのほうが、今は貴重に思えます。

◆そんなわけで、今年は自分たちの畑と田んぼをやりながら、松之山の1年間の生活サイクルを教えてもらうつもりです。[雪の新潟・松之山で、新井由己]

3
ちょっと静かかな?と思うと、
驚異の8冊同時進行!

◆江本さん、あけましておめでとうございます。今、時間は午前5時15分。外はまだ真っ暗です。

今朝は4時起きで、昨年バイクで走った「日本一周」の原稿を書いています。3月には『日本一周 バイク旅4万キロ』(昭文社)というタイトルで上下巻の2冊で出ますが、まったく時間がないので、“ライダー・カソリ”は“ライター・カソリ”になって暮れも正月もなく目を三角にして書いています。ところがそれだけではなく、昨年出た『世界を駆けるゾ! 20編』(フィールド出版)の続編の『30編』、『40代前半編』、『40代後半編』も書いています。さらに『賀曽利隆、旅の鉄人(仮題)』(JTB)と『日本食べ歩き紀行(上・下巻)』(フィールド出版)の原稿も同時進行で書いていています。つまり8冊の本の原稿を書いていることになります。今まで4冊の同時進行というのはありましたが、8冊というのは記録です。

そのうち、『世界を駆けるゾ! 30代編』が自分の手を離れ、今月中には出るのがひとつ救いです。2000年代最初の本で、ぼくにとってはちょうど30冊目の本ということになります。このように正月早々から原稿に追いまくられている毎日ですが、春先までには大半の原稿をかたづけ“旅人カソリ”になって旅に出ます。

それと江本さん、もうひとつ、暮れの12月29日の夜にはささやかな“心臓発作2周年記念”をやりましたよ。29日の朝、目をさましたとき、自分が元気で、普通に息していることをうれしく思いました。2年前の12月29日の夜といったら心臓発作の大激震をくらった直後のことなので、「もう、だめだ‥‥」と、目の前は真っ暗でした。1年前の同じ時間では、我が心臓は大分よくなったとはいうものの、まだまだ余震がつづいているような状態で自分の体の先行きに対する暗さを感じていました。

それが今では「もう、大丈夫」と思えるほどに回復しました。この心臓発作というのは、考えてみると、なんともありがたいことなのかもしれません。そのおかげで初めて自分の体を休めることができたし、自分の体をいたわるということを知りました。なにはともあれ江本さん、これからの2000年代をよりよいものにしていきましょう。[伊勢原の自宅で、賀曽利隆]

4
病院のミレニアム問題

●『ザクッ、ザクッ ザクッ、ザクッ』。伊南(いな)村でのミレニアムは、雪の積もった山道を踏みしめる足音で始まりました。

●1999年の大晦日は、70歳を超える孫佐さん(役場職員のお父様)から『しめ縄』作りを教わり、孫佐さん宅の神棚祭りをお手伝い。

●想像していたとおり?朝から日本酒を「まあ、まあ、まあ」とコップになみなみお酌され、テーブルいっぱいの郷土料理に囲まれました。そのままの勢いか、飲んで食べて話をしつつ、真っ昼間から年越しそば(もちろんそば粉100%の手打ち)を頂き、満足度100%の気持ちに酔いしれいたものの、時計はまだ昼の1時。引きとめられながらも家に戻り、大掃除をしようと思っていたら、近所の子どもたちと遊ぶことに・・・小学生3人に連れられて、雪の坂道をせっせと登り、山村での雪遊びに戯れました。

●夕方は村の温泉に長湯して、一年間の垢落とし。ぽかぽかの身体で寒さで『キーン』張りつめる空気の中、家に戻りました。

●大晦日の夕食は、村でお世話になっている人からもらった『鯛の頭』をあら煮にしたもの、孫佐さん家から頂いた地元の粕漬け、漬け物、くるみ餅などを並べると、はたまた頂きものでテーブルは溢れそうになっていました。

●紅白歌合戦の最後の曲を聴いてから、近くの山にある『広瀬神社』へと向いました。森の中、雪を踏みしめながら、酔いも醒める寒さの中、神社への道のりを一歩一歩進みました。去りゆく1年に感謝しつつ、新しくはじまる年への期待に胸が高鳴る思いあり……。

●電灯のない森の中、ひっそりたたずむ神社にて、手のひらを合わせ、新しく巡ってきたミレニアムに対する願いを祈りました。きっといいことありそうな、そんな気持ちをかみしめながら……。(福島県伊南村で・丸山富美)

5
環境問題とインターネット

●◆2000年という時代は、環境問題とインターネットテクノロジー元年だと思います。モルジブはその象徴でしょう。国の平均海抜が1.5mしかない国は先進国のCo2排出による温暖化から海水面が上昇して、何の手段もこうじない場合2100年には50cm海水面が上昇して、モルディブの多くの島が海面下に沈みます。

僕はこの誰の目でも見てわかる地球環境の悪化を、僕はいま目のあたりにしてます。もちろんこの問題は、国際会議などで取り上げられていますが、しかし、このような小さな国からの情報発信ではメディアに取り上げられません。

そこでインターネットの活用です。私のいるエリアドゥという島は首都マーレから船で北に1時間のところで太平洋に浮かぶさんご礁に囲まれた孤島です。ここから文章や、動画、静止画、音声などを電話回線とインターネット回線を使いだれでも格安で情報を発信することができます。環境の問題は地球上に住む人であるなら「関係ないよ」といわずに、みんなで考えなくてはいけない問題です。それをつなぐのがこれからはインターネットですね。

環境問題とインターネット、一見遠い存在ですがこれからは、ネットワークがすべてをいい方向に解決する手段であると思うのです。2000年という年はこのスタートラインにたった年であると思います。[モルディブで、九里徳泰]

6
お台場から2000年問題を
ウォッチする

◆あけましておめでとうございます、江本さん。山上@会社です。お台場は今、お祭り騒ぎです。会社の周りには路上駐車があふれ、ゆりかもめはスシ詰め、花火まであがる始末。ミレニアム・カウントダウンの声が携帯テレビから漏れている中、自席の監視パソコンから10数台の各種サーバへログインし、時間の変化や、e-mailのスプールなどのデータ量チェックをしていました。

ニュージーランドやオーストラリアからの2000年状況報告が、インターネット上から流れてくるのをみながら、日本のその時を半ばふやけた緊張感を持ちながら待機していました。花火があがり、東京湾の船の汽笛がなり、その時を迎えます。そして、無事に日付が代わり、“2000”の数字がそれぞれのサーバから飛び込んで来ました。ホっと胸をなで下ろすと共に、こんどはシステムテストに入ります。メールの送受信、日付チェック、インターネットとのやりとりなど。ひとつひとつ、OK のマークをつけて行きます。そして、今1時をまわり、一応の結果を出す事ができました。問題なし、と。

とはいえ、ここ半年ほど、情報の調査から始まり、全世界をつないでいるひとつでもある、インターネット上のサーバや、イントラネット内のサーバにおいて、ひとつひとつ対応をしていきました。そう、ひとつとして、対応が不要だったサーバがなかった程でした。その準備の甲斐があったのかもしれません。

◆妻とはまだ、新年の挨拶をしていません。きっと、もう寝ちゃっているでしょうから... 明日、仮眠をとって目が覚めたら、新年の挨拶の電話をかけようと思います。あとちょっと、残作業が必要です。そして、大国アメリカが2000年を迎えるまでは、監視する予定です。

ここ数年、ネパールや北海道で迎えていた新年ですが、今年は仕事でどこにもいけません。悲しいですが、その分、来週末は北京に遊びに行く予定です。今年もバリバリ旅をしていこうと、1999年から2000年を無事乗り越えた後に想うのでした。[山上修@お台場の職場にて JST 2000.01.01 00:38]

7
なんと、あの関野さんと‥

◆みなさん、あけましておめでとうございます。以下簡単なネパール報告です。なんと、行きのバンコクで関野さんとお会いしました。関野さんもネパールに行くとのことでした。軽くご挨拶をしましたがたぶん私の顔はしらなかったでしょうね。お客さんの中に関野さんファンがいらっしゃって、感激していました。

新年はアンナプルナ方面のプーンヒルという丘の上で迎えました。めちゃ感激の初日の出を眺めることが出来ました。さすがにメッカなので、プーンヒルは200人くらいごった返していました。チャーター便のおかげで日本人だらけ! テント場は大手旅行社で占められて、おかげでテント場を探してさらに歩くことになった日もありました。

ちなみにエベレスト街道もゴーキョ方面のロッジが満杯で泊まれない事があったそうです。半年ぶりのカトマンドゥはずいぶんきれいになっていました。空気も道も空港も。排気ガスをまき散らす乗り合いのテンプーが町中に入れなくなっていました。いずれ普通のテンプーも無くなる方向にあるそうです。

ポカラの町は、レイクサイドに「ホーン禁止」なる標識が立っていてびっくり! あのけたたましいローカルバスのホーンの音でポカラの朝があけるのに。したがって今回はとっても静かな朝でした。ちょっとさびしい。では、みなさま、今年もよろしくお願い致します。[カトマンドゥにて、杉田晴美]

8
小学校の元日同級会

◆大晦日は、月光川の魚出版会(鳥海山の南麓を流域とする月光川(がっこうがわ)水系の淡水魚を調査している団体で10年ほど前から関わっています)恒例の年越し例会があり、夜9時から朝5時半まで、酒も飲まず2000年問題を気にかけることもなく、ひたすら話し合いをしていました。継続中の問題(「胴腹滝(どうはらのたき)」という有名な湧水のすぐ上流で採石をしている問題)がひとつの山場を迎えたことへの対応、新たに出てきた問題の対処など、話題は尽きませんでした。

明け方、眠い目をこすりながら自宅から30キロほど離れた遊佐町から帰宅しました。3時間くらい眠り、10時頃に起きてお雑煮を食べました。雪もない、静かな正月です。今年は年賀状を全く書いていなかったので、とりあえず来た人にだけ出そうと書きはじめましたが、半分もできないうちに昼になりました。

◆午後からは、小学校の同級生が集まり、地元の皇大神社で厄払い(42歳の本厄)です。43人のクラスでしたが、集まったのは19人。それぞれ期することがあるのか、みんな緊張した面もちでした。その後近くの温泉で直会をしましたが、こちらに参加したのは13人でした。

それでも、小学校の同級生で泊まるのは6年生の修学旅行以来なので、けっこう盛り上がりました。30年前のスライドを映写して昔を思い出したり、近況を話し合ったりと、2000年最初の日を賑やかに過ごすことができました。みんな同じだけ年をとりましたが、それなりにいい顔になっていました(とくに女性は)。

今朝は海も穏やかで、部屋の窓から、打ち寄せる波をしばらくぼんやりと見ていました。大きな自然のサイクルは、ずっと変わることなく続いてきたのでしょうね。ともあれ、2000年(=40歳)をひとつの区切りとして、これからの人生を歩んでいきたいと思います。[酒田市で、今月の写真展「地平線発」の準備に追われる飯野昭司]

●◆みなさん、あけましておめでとうございます。以下簡単なネパール報告です。なんと、行きのバンコクで関野さんとお会いしました。関野さんもネパールに行くとのことでした。軽くご挨拶をしましたがたぶん私の顔はしらなかったでしょうね。お客さんの中に関野さんファンがいらっしゃって、感激していました。



不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第10発 ?生田目の混沌?

◆◆母に泣きつかれて板橋の実家に帰ってはみたものの、住みなれた中野の生家とは違い、いつまでたってもお客というか下宿人のようで落ちつける場所はなかった。

◆それにひきかえ、母といえば、30年来苦しめられた酒乱夫の暴力や金策(父のスポーツ洋品店はいつも自転車操業だった)に奔走する必要もなく、前にもまして糸の切れた凧状態だった。自分一人が食べていければいいのだから、適当にのらくらやっていればいいものを着物のしたて仕事を請け負って、ガツガツと注文を引き受けては夜なべも度々というありさまだった。よほど老後が不安だったのか、それとも自分の身体の変調に気づいて、身体の動くうちに少しでも蓄えようと思っていたのか、元々働き者ではあったが、異常なまでの働きぶりであった。

◆その上、私にも法外な下宿代を要求し、さらに驚いたことに、最近父に聞かされて知ったことだが、父にも私の養育費といって月々送金させていたらしい。これには私も恐れ入った。なぜなら、離婚調停のときに父は自分がアパートに追いやられているうちに、自分名義の中野の家を勝手に売り払われて誘引文書偽造だと調停員に泣きついた。調停員は父に「今まで奥さんと娘さんを苦しめてきたんだから、家の一軒くらい慰謝料のつもりであげなさいよ。娘さんも18歳を過ぎていて養育費も必要ないんだから」と諭されていた。

◆そんないきさつの上、いちど嫁いだ出戻り娘の(それも成人した)養育費を要求するとは大した面の皮だ。そしてそれに応じた父は底無しのお人よしか、もしくは母が私を(両方か)こよなく愛していたのか・・。いやいや、それはないな。

◆調停員に、「酒をすっぱりやめて心を入れ返る気はありませんか?」と聞かれた時に父ははっきり「酒は止めません」と言い放った。すかさず調停員が「酒と家族で酒を選ぶんですね?」と念を押すように確認すると、少しも迷わず、落ちついた声で「ハイ」と言った父の声と調停員たちの嘲笑含みのあきれ顔を今も私は忘れない。父に捨てられたという気持ちより、ああ、私は酒に負けたんだと情けなさがこみ上げた。家族も失い家ももっていかれても、それでも酒が大切か・・。上等じゃないの、どこででも野垂れ死にしろ、このアル中オヤジ!と心の中で叫んでいた。

◆あんなバカと縁が切れてよかったと母と祝杯まであげたのに、その父に母が金をせびっていたなんて、そんなことはつゆ知らず、OLとホステスの二足わらじでせっせと伝書鳩のように働いていたなんて・・。とほほ・・。どうして母がそんなにお金に固執していたのか、夫と別れ、娘もいつまでもあてになるか分からないと踏んでのことか・・。

◆そんな母を病魔は心だけでなく身体までも確実に蝕んでいた。ほどなく、原因不明の肝炎で入院となった。酒も飲まないし、海外旅行にも行かないし、ましてや異性交遊もない(笑)母がどうして肝炎になるのか? でもこれは序の口だった。この時はまだガンは発見されなかった。ただ肝臓は長引きますからと医者に告げられ、月の出ていない夜の海に泳ぎ出すような気分になった。

◆もっと稼がなきゃな! 折りしもバブル絶頂期、私は新宿のクラブから銀座に引き抜かれた。(花の銀座はイジメも一流!)以下次号![生田目明美]


地平線新刊情報

難波裕太著
「人生バンザイといえる老後のつくり方」
情報センター出版局

 代表世話人の「E」さん、この本をじっくり読んで、老後をどう過ごしたらよいか考えて下さい。ここには96歳の自分の父親を毎日観察しながら「これだから、長生きできるのだよ」と感心したことが書きつづられています。著者の言う「クソジジイ」の行動を読むと、これだけ自分勝手に自己中心に生きられたら、それは幸せ。年寄りと同居する我が家でも共感することがたくさんあります。「老いてはだれに遠慮がいるものか。己の道を突き進め」のように生きるのが長生きの秘訣だそうだ。「アレッ、Eさんには必要のない本だった」 難波裕太は地平線の仲間だがペンネーム。本名がバレるとまずいことがあるのでヒミツ。[miwa]



地平線ポスト
地平線ポストの窓口がもうひとつ増えました。手紙、葉書、FAX、電子メール何でもOK!!
地平線ポスト宛先:〒173-0023
東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
もうひとつの地平線ポスト宛先: 〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
Fax: 03-3359-7907
E-mail :

●野々山富雄さんから…屋久島発
◆ついに待望の電気が入りました。苦節2年、ランプ生活。明るい部屋って本当に感動モノです。さっそく炊飯器を買いました。つかれて帰っても暖かい飯がくえるんだ。うれしいなア。でも電気はなかったとはいえ、今までケータイやラジオ用電池の充電はよそでやってもらってたし、共同で使える洗濯機もあった。電気と全く関係ない生活なんてやはりできたわけじゃない。山の中の暮らしとはいえ、完全に機械文明とかけ離れて生きることはできない。要は使い方の問題なのだろうと思う。そんなことを考えながらここで暮らして生きたいもんだ。まあそれはそれとして、今は電気のある生活を喜んでいたい。次は電話、パソコンだア。


●服部知司さんから…交野市発
◆地平線通信が来ないなと思っていたら、いつの間にか切られていたようです。長年親しんでいただけに、予告なしの打ち切りはショックでした。通信費送付しますので来年一年間発送をよろしくお願いします。打ち切りの際は前号に「会費切れ」などと書き添えていただければありがたいのですが。

【昨年の夏、名簿整理した時に、落としてしまったのだと思います。ちゃんとチェックをしなかったのでそのままになってしまいました。2年ぐらい前に一度手紙を出して、いる、いらないの返事を頂きました。あのとき以来カットはしていないはずだったのですが。ごめんなさい。[三輪]】

スルジェさんへ

◆この夏、キャンプしながら一家で東北を旅したおり、田沢湖近くの手造りの家に住む友人の佐藤夫妻を訪ねました。佐藤さんとは15年前、ポカラのスルジェ館で知り合い、10年ぶりくらいの再会でした。話題は当然のごとくスルジェ館のことになり、夜ふけまで話しこんでいると、平尾さんやスルジェさんがひょいとその場に現れて、話の輪に入ってきそうな気がしました。

◆佐藤さんと会ったのは、かあちゃんとふたりアジアを旅しているときで、ネパールでは5か月をすごしました。ネパールというのは人と人とをむすぶ見えない糸の存在をふっと実感させる土地です。スルジェさんが亡くなる直前に、佐藤さんと話をする機会がもてたのも、なにかそんな糸のようなものの作用が働いたのだと、そんな気がします。[渡辺久樹]


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その12 死刑囚あれこれ

◆3回にわたっての実況中継、いかがでしたでしょうか。最終回は死刑に関するエピソードをお届けします。

◆いくら死刑判決を受けていたにしても、いざ処刑されるとなると、冷静ではいられません。もしあなたが明日にでも処刑されると宣告されたらを考えてみてください。そこで死刑囚はどうなるのかというと、その多くは宣告後に処刑場まで自力で歩けず、引っ立てられるように引きずられていくのが実態だそうです。かくして処刑場の庭にはくっきりと、つま先による二本の線が玉砂利のうえに描かれるとか。

◆そんな中でも猛者はいます。城ヶ島の雨を口ずさみながら処刑場に堂々と消えた車、恋人を殺してしまったがためにひたすらその日を待ちわび、笑顔で果てた根岸、あまりにもの暴れに順調な執行が進まず、ついには看守らによってたかって絞め殺された佐藤といった強者が語り継がれていました。こうなると気になるのは歴史の中で処刑された人々の最期であり、自分がそうなったら、ですね。

◆ここでもうひとつ昨今の時勢に合わせて、執行にかかるコストについても考えてみると。執行要員としての看守が8人、医務が階下に3人、立会人7人(内訳は前回までを参照)が最低人員、それに万が一の態勢を整える必要からも、さらに5人ぐらいは増えるでしょう。彼ら一人あたりの日給を2万とすればこれだけで40万円、さらに執行立会手当が14000円(こんなのがあるんですよ)、本省からここまでの諸手続き、通達要員、その移動費なども含めれば、一人の執行のために人件費だけでも100万円は軽く突破する計算になります。

しかもそこに設備投資が加わるわけですから、死刑執行という行為がいかにむだなことか分かるというもの。くれぐれも死刑にはならないよう注意しましょう、これほど税金の無駄遣いもないので。


The Way to Dewa Shonai
出羽庄内への行き方

出羽庄内(山形県鶴岡市)で開催される写真展「地平線発」(1/23〜30)と「出羽庄内ミレニアム集会(第243回地平線報告会)」(1/29)。鶴岡がどこにあるかはだいたいわかっているんだけど、いざ行くとなると、さてどうしよう……。そんな人へのヒントとアドバイス。

東京方面から

●鉄道(JR)
上越新幹線・羽越本線経由で約4時間。例:東京08:24→新潟10:34(あさひ309号)10:42→鶴岡12:28(特急いなほ3号)/鶴岡17:20→新潟19:04(いなほ14号)19:13→東京20:55(あさひ6号)。

●飛行機(ANA・庄内空港利用)
所要時間は約1時間で、1日3便。羽田発07:30・12:15・14:30/庄内発09:10・13:55・16:15。片道普通1万4900円(特割1万3000円〜・往復特割1万2000円〜)。空港〜鶴岡駅はリムジンバスを利用(約35分・片道740円)。

●夜行高速バス(庄内交通・国際興業)
所要時間は約8時間半で、1日1便(酒田行)。渋谷東急イン前22:30→鶴岡6:55/鶴岡22:20→渋谷東急イン前6:40(池袋、大宮にも停車)。運賃は片道7540円(往復1万3570円)。

●自動車
東北自動車道(村田JC)→山形自動車道(西川IC)→国道112号線経由で約7時間/関越自動車道(新潟IC)→国道7号線経由で約6時間。雪道ではスタッドレスタイヤまたはチェーンを付け、十分注意して走行してください。

 

大阪方面から

飛行機は冬期間運休なので、鉄道(JR)をご利用ください。東京経由のほうが便利かも。

●鉄道(JR)
所要時間は北陸本線・羽越本線経由で約8時間半。例:大阪20:17→鶴岡6:33(寝台特急日本海3号)/大阪10:12→鶴岡18:33(特急白鳥)。

 

鶴岡駅から出羽庄内国際村へ

「羽黒センター・羽黒山頂」行または「今野行」バスに乗り「出羽庄内国際村(釣りバカ会館前)」下車(約10分・片道290円)。バス停から出羽庄内国際村までは徒歩約1分。釣りバカ会館の反対側にある白っぽい建物です(東京からの列車との接続がうまくいかないようです)。

タクシーだと、約1000円。

 

当日の宿泊

報告会の当日(1/29)は、「Part・2」の会場にもなる「つるおかユースホステル」に、特別料金(2000円)で宿泊できます。正式オープンは3月18日からですが、報告会の前日、翌日などの宿泊も受け付けてもらえることになりました(料金は1泊2500円)。

直接ユースにいらっしゃる場合は、羽越本線の三瀬駅(鶴岡の3つ手前)下車、徒歩約15分(鶴岡駅とあつみ温泉駅からもバスがあり)。下記飯野までご連絡いただければ、詳しい行き方をご案内します。

なお、翌日、ユース(三瀬)から直接東京へ帰る場合は、JR利用だと次の接続があります。


せっかく庄内地方に行くのだから、という人に

写真展や報告会「Part・1」の会場となる出羽国際村のアマゾン民族資料館は、1万点にのぼる世界の民族資料を収蔵・展示。酒田市にある土門拳記念館(月曜休館)を見るだけでも、庄内に来る価値があるでしょう。また周辺には、湯野浜温泉・温海温泉・湯田川温泉・由良温泉など、古くからの温泉地がたくさんあって、寒鱈汁や地酒、蕎麦をはじめ、庄内名物のとびっきりうまいものも堪能できます。雪を眺めながらの最上川下りやスキーも魅力です。


問い合わせ先


事前にご一報を

報告会の「Part・2」に参加ご希望の方は、食事や宿泊、会場セッティングの都合などもありますので、事前に上記飯野または丸山まで直接コンタクトしていただけると助かります(当日になってのキャンセルももちろん可。予約なしでふらりと来ていただいてもだいじょうぶですが)。


便利帳



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙 新しい気分で迎えた西暦2000年。その記念すべき最初の地平線報告会を、1月29日の土曜日、出羽庄内(山形県鶴岡市)で開催することになりました。酒田市在住の飯野昭司さんを中心とした地元のグループが1年がかりでこつこつ準備を進めて、ひさしぶりに写真展「地平線発]を実現。その期間中の最後の週末にあわせて地平線報告会も実施し、写真展ともども盛り上がろうという趣向です。96年夏の「拡大神戸集会」、98年4月の「ベトナム・カンザー集会」、そして昨年夏の「日高集会」に続く、アジア会館を離れた企画の第4弾。題して「出羽庄内ミレニアム集会」に、みなさん、ぜひお越しください。

全体は大きく2つのパートに分かれていて、それぞれ会場も違います。山形県外からいらっしゃる場合は、こちらのページの案内を読んで、自分にふさわしい行き方や時間をよく検討してみてください。

Part・1…“狩り”をめぐる地球体験

●会場:出羽庄内国際村ホール(写真展「地平線発」と同じ会場です)
     鶴岡市伊勢原町8-32/0235-25-3600
●時間:13:00〜17:00
●参加費:500円

【前半・メインゲスト2人のお話】
庄内在住の2人のユニークなメインゲストを迎えて、お話をうかがいます。

松原英俊さん……大学卒業後に老鷹匠に弟子入りして修業をかさね、伝統的な鷹狩りの技法を身につけたという、現役の鷹匠。捕獲が禁じられている鷹の人工飼育などにも取り組みながら、伝統文化の継承をめざす。(『地平線から・vol.6』p.10参照)

山口吉彦さん……幼少の頃からアマゾンにあこがれ、文化人類学を修めたのち、のべ10数年にわたってアマゾンに滞在して、狩猟採集民たちの研究を重ねてきたアマゾン研究家。現在は出羽庄内国際村の「アマゾン民族館」の館長を務める。

【後半・地平線豪華メンバーによるリレートーク】
会場に集まった地平線の行動者たちがリレー形式で語る、世界各地のさまざまな狩猟生活。モンゴルの草原で、ヒマラヤの山裾で、アフリカの密林で、極北の氷原で……。旅人として目にした、耳にした体験を、スライドや生録で紹介していきます。


Pause…移動と夕食

●時間:17:30〜18:30

約10km離れたPart・2の会場へ、車に分乗して移動。夕食をとります。


Part・2…二千年紀の旅のスタイル


●会場:つるおかユースホステル
     鶴岡市大字三瀬字宮の前1-1/0235-73-3205
●時間:18:30〜21:00(引き続き懇親会に)
●参加費:1000円(夕食付き)※宿泊費別(2000円)

【前半・旅のスタイルをめぐって】
参加者全員のプロフィールと旅のスタイルを紹介。続いて、2000年代の地平線の旅はどうなっていくのかを語り合いたいと思います。

【後半・恒例の地平線オークション】
12月の地平線報告会に引き続いて、恒例の地平線オークションを実施。東京では時間切れでお見せできなかった貴重な“お宝”も多数登場の予定です。

【番外・もちろんあります、懇親会】
庄内名物の地酒や鍋(寒鱈汁・鮟鱇鍋)を囲んで、“熱い”夜を過ごしたいと思います。外は、これも庄内名物の地吹雪かも。


■問い合わせ先


通信費カンパ(2000円)などのお支払いは郵便振替または報告会の受付でお願いします
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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