2001年7月の地平線通信



■7月の地平線通信・260号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙〜国境という壁〜

アフリカ大陸で生まれた人類がシベリア、アラスカを経由して南米最南端まで進出したのは、異論はあるが、10,500年前だといわれている。道路など一切ない未知の旅路を、家族を連れ、採集・狩猟で食料を調達しながらの旅では、想像もつかない様々な困難に出会ったことだろう。しかし彼らには私の「プライベイト・グレートジャーニー」で出合う、人類史の中では新しく生まれた困難はなかった。国境の壁だ。

アメリカ大陸を移動している時は国境を越える困難さはほとんどなかった。唯一、パタゴニアの南部氷床を縦断した時にトラブルが生じた。氷床の上で国境を越えたが、出入国管理事務所、税関などはないので、縦断終了後、カヤックで移動し、最寄の港町の警察に出頭した。彼らにとっては外国人がアルゼンチンから直接やって来るのは初めてのことなので、慌てて大きな町の警察の上司に問い合わせをした。「出入国のオフィスのないところで国境を越えるには事前に許可を出しておくべきだ。」と大目玉を食らっただけで、拘束されることもなかった。

国境での障害は、アメリカ大陸を出てユーラシア大陸に向かう時から始まった。セント・ロレンス島のユーピック・エスキモーと、セイウチの皮を張ったスキンボートを使って、ノームからセント・ロレンス島経由でプロビデニアに行く許可は簡単におりた。しかしスキンボートでのベーリング海横断に失敗し、ベーリング海峡、ウェールズ(米国)とウエレン(ロシア)の間をカヤックで渡る許可を申請したが、ウェレン上陸の許可はおりなかった。おりた許可は「ウェールズから税関のあるプロビデニアまで直接来ること、但し緊急の場合は上陸を許すが、速やかに最寄の国境警備隊に出頭すること。また監視役としてプロビデニアの海洋研究所の所長を同行させること」という内容だった。幸い海洋研究所の所長が理解ある、協力的な人で、最短距離での上陸を許してくれた。

ロシアからバイカル湖の南のモンゴル国境を越える時、外国人は鉄道以外の手段では越えられないと言われ、特別な許可が必要だった。モンゴル‐中国国境は空いている時期が限定され、私たちが行った時は閉鎖されていて、通過出来なかった。3ヵ月後国境が空いている時に再度試みて越えた。

ヨルダンからアフリカ最初の国エジプトに行く時に試練があった。イスラエルを通る陸路なら15キロ、簡単に行ける。ところが今後必ず通らなければならないスーダンでは、イスラエルを通った者は入国を拒否する。それでは紅海をカヌーで渡ろうと思ったが、エジプトの許可が出ない。イスラエルの領海を通らなければならないからだ。最終的には、イスラエルの領海を通らないコースで許可が出た。最短コースならば6〜7キロで穏やかな海なのに、いつも強い北風の吹く、白波の立つ15〜6キロのコースを指定された。エジプトの許可取りに奔走してくれていた白根全と共に挑んだ。強風のため2度失敗し、3度目にやっと渡れた。

来年の1月にはゴールのタンザニア・ラエトリに着く予定にしているが、エジプト―スーダン国境を自力で通過する許可がまだ出ていない. スーダン―エチオピアの国境はいまは開いているが、政情次第ではいつ閉じるか分からない。旧大陸に入って以来国境が鬼門になっている。[関野吉晴]


今月の報告会は30日(月)です。



先月の報告会から(報告会レポート・260)
神々の楽園
小林尚札
2001.6.22(金) アジア会館

●6月の報告会レポートは、報告者の小林さんの友人で、地平線報告会は初めての参加という田中裕子さんに執筆をお願いしました。田中さん、ありがとうございました。


◆会場の片隅には来場者へのおみやげが置かれていた。トウモロコシの粉、塩の井戸から取れた紫色の塩、くるみ、そして地酒。いずれも、「神々の楽園」で日々食されているもの。口に含んでみれば、見知らぬ土地が急に近しく感じられるから不思議だ。

◆写真家・小林尚礼さんの地平線報告会は、中国・雲南省の最高峰、梅里雪山(標高 6740メートル)やその麓の村、そこに生きる人々がテーマだった。すでに彼の写真は雑誌や新聞でも紹介されているが、彼自身が直接説明してくれる、このようなスタイルのスライド上映は今回が初めてのことである。この2 年間に5回の撮影旅行を行い、ようやくすべての季節の写真が揃ったこともあり、報告会の運びとなった。

◆小林さんが梅里雪山を初めて訪れたのは、1996年。当時は、登頂を目指す登山隊の一人だった。その5年前にも同じ山岳会の仲間が登頂を試みている。しかし、親友を含む十七人の隊員全員が遭難し、消息を絶っていた。

◆その後98年、遭難者の遺体や遺品が氷河で発見される。遺体の収容作業に当たるため、小林さんは再び現地に向かった。高さ千メートルの氷壁の下に散らばったテントや衣服の残骸に、自然の厳しさを軽んじた現代人のおごりを感じた。その上、地元の人は、神の山として崇める梅里雪山に登ろうとする外国の登山隊を快く思わない。「この山の麓に暮らす人々はどんなことを考えているのだろう。」登山者である彼の目が、山から、そこに住む人々へと転じた。勤めていた会社を辞め、撮影人生が始まった。

◆村の風景はどこか懐かしい。春には桃や梨、リンゴの花が咲き乱れ、秋には収穫物の麦やトウモロコシが家の屋根を彩る。かつて日本でもありふれていたような、農村ののどかな光景が広がっている。しかし、一つ、大きく違っているのは、背後に梅里雪山がそびえていること。村人たちは、天にも届きそうな山に見守られるようにして暮らしている。

◆小林さんは何度か村に通ううち、村長と親しくなった。弱冠38歳だが10年も村長を務め、尊敬に値する人物だという。確かに写真で見ただけでも、穏やかで、聡明な様子がうかがえる。彼は言う。「村長と仲良くなれたことが大きな収穫だった」。今では、撮影で訪れるたび、村長の家に寝泊まりさせてもらっている。言葉の壁は厚い。でも、じかに語り合いたいから、通訳をつけずに取材している。こうして彼は徐々に村人たちとうち解けていったのだろう。どの人も実にリラックスした表情を見せている。

◆撮影を始めて2年。小林さんは「彼らが考えている本当のこと」を知りたくなった。仲良くなるにつれ、これまでに聞いてきた話は、もしかしたら外国人の自分に対する建前に過ぎなかったのではないか、そんな想いが頭をもたげているという。さらに、この「神々の楽園」には、観光化の波が押し寄せている。今後、村はどう変わっていくのか。彼らは、「豊かさ」をどう捉えているのか。「梅里雪山と共に生きる村人たちをずっと見守っていきたい」と力強く語ってくれた小林さん。これから、彼は私たちに何を見せてくれるのだろう。

◆上映会は盛況だった。100人以上が集まり、みんな熱心に写真を見、質問を浴びせる。友人として、思わず胸が熱くなった一夜であった。[田中裕子]



ガンと戦うシール・エミコさんから

◆ガンとの本当の戦いは、副作用との戦い。抗ガン剤治療、放射線治療、どちらもガン細胞を滅亡してくれますが、いい細胞もドンドンやっつけてしまいます。それらに伴う副作用は発熱、嘔吐、食欲不振や全身倦怠感、白血球・血小板の減少、下痢、脱毛、放射線宿酔(しゅくすい)といって最近ごぶさたしてるのに二日酔いに似たうれしや?つらい?病状、その他もろもろ…。

◆私の場合、抗ガン剤点滴の後、午後から放射線のW治療をうけてたのでWパンチをくらってしまった。腸に炎症がおこり激しい痛み。食べられない、体力が落ちる、カも出ない…の悪循環。べットに一日中横たわる毎日。トイレにも車イス。痛さにただ耐えるだけの日々は心底の苦しさに敗北感さえ感じた。でも、友人の言葉に希望だけは失わなかった。「苦しい試練の後にはきっとそれをしのぐ幸せが待ちかまえているに違いありません」おかげで、体調が回復しつつある今、食物がロにできるだけでどれだけうれしいか。

◆「山でも同じですが、頂上に登るまでの苦しみは頂上に立ったときに吹き飛んでしまいます。その頂上に登る苦しみと努力がなければ人はきっと登山に価値を見いだせなかったと確信します」と山好きの友人、北川高さん。そう、山は人生そのもの。闘病生活そのものなのだ。

◆ここまでがんばってきたんだもん。向こうの景色が見えるまで登りつづけるぞ。自転車でのアンデス山脈越えを思い出す。あと3分の一かな。いや、4分の一かな。人生のテーマ「たのしむ」を忘れずに闘病生活、苦しみもたのしんじゃおっと。from シール・エミコ(^^)/



宮本常一没20周年記念 第2回佐渡芸能大学
「祭りはええもんじゃ」―芸能と食と匠の文化交流―

●昔からの地平線会議の仲間である村崎修二さんからのメッセージ!

◆久しぶりの大仕事です。まるで官房長官みたいな仕事を日夜こなしています。人間を尊敬することで、自分自身が解放されたいと思い、文化運動を継続していますが、先人たちの希望をつなげて、遍歴の旅を模索していますが。大切な節目を迎えていくという実感を持ちました。むくげの花に寄せて夏の佐渡に遊びに来ませんか。ぼくは7月の半ばから8月の末まで佐渡で過ごします。倒れないように、後方から応援をよろしくお願いいたします。

◆来る8月3日(金)から12日(日)の10日間、故宮本常一ゆかりの地、佐渡南部の度津神社(佐渡一宮)を皮切りに、赤泊・小木・真野・畑野・両津と会場を移し、第2回の芸能大学を開催します。…略…今回は生前「祭りはええもんじゃ」と、しきりに口にされていた宮本先生の言葉をそのまま冠してつどいとし、芸能の庭に伴う食や匠の文化を見据えた生活文化としての「祭り」の存在価値とその伝統に目を向けて行きたいと願っています。

3日(金)〜5日(日)――羽茂町 開会行事/伊勢太神楽/記念講演「宮本常一と日本文化」岩井宏実/伊勢太神楽/花こま/周防猿まわし
6日(月)〜7日(火)――赤泊町 講演「宮本常一と佐渡」田村善治郎/シンポジウム 印南敏秀・小島孝夫・真島俊一
8日(水)〜9日(木)――小木町 講座/実演 太鼓
10日(金)――畑野町
11日(土)〜12日(日)――両津市 講座/フォーラム/閉会/コンサート 高石ともや、影法師

◆詳細は〒742-0414 山口県那珂郡周東町田尻 光猿館 道ゆく芸能研究会 Fax 0827-84-2360
◆今月30日の地平線会議の会場にも申込書はあります。この会の賛助金(一口1000円)も申し受けます。



木のおもちゃを作りたい!
ドイツ出発直前のメッセージ

◆聞くところによると、「地平線会議」が発足したのは、1979年8月17日だという。この日の私はといえば、just 11ヶ月。この“集まり”を知ったのも、つい最近である。そんな私が、なぜセッセと書いているのか。聞いてください。

◆私のやっていることは、いたって真剣である。木のおもちゃを作る人になりたい!と、学生の頃から思っており、今、その思いを実現させるべく、いばらの道をかき分け、出口を探している。“なんで木のおもちゃなの?”とよく聞かれる。最初から木のおもちゃを作るんだ!と言っていた訳ではない。きっかけは何だったか覚えていないが、それまで自分のやりたいことについて、悶々としていた高校1年の冬、工業デザインという分野を知った。ピコーンときて血が騒ぎ、資料をかき集めた。そして、“遊園地の乗り物を作る人になるんだ!”と言っていた。

◆しばらくそう言っていたのだが、モノがあまりに大きく、“作る”と言っても、デザインと設計と建設とを全部できないということに気がつき、もう少し小さくて、子供に馴染みのあるものにしよう。と思った。そして次は“100円でゆらゆら動く乗り物を作る人になるんだ!”と言っていた。モノが小さくなっただけで、先の“作る”という問題をクリアしていないことに、またしばらくして気がつき、“自分で作る”ということについて考えた結果、木のおもちゃにたどり着いたのだ。

◆木のおもちゃが嫌いという人を聞いたことがない。しかし、今の日本で、木のおもちゃを作っている人というのは、存在すること自体が難しい。木のおもちゃに、癒され、和まされているのに、それが生み出される場はほとんどない。原因は大量生産ができないから。量産されたものは、たとえ木でできていたとしても、ぬくもりがさめている。“オリジナルの手作り”にこだわりたいのは、そのためだ。

私が作ったおもちゃで、旋盤(せんばん)を使えば、すぐに仕上がるものがある。表面はつるつるで、すべて均一の太さになり、短時間で出来上がる。しかし、そのつるつると、均一が嫌で、私は1つ1つカンナで削った。周りの者はなぜ旋盤を使わないのかと呆れ、あまりの作業の大変さに、私自身、“何かに逆らって生きているんじゃないか?”と不安になったりもしながら、出来上がって、人に見せると“このボコボコがいいね”“つるつるだと、味がないもんね”と言うのだ。“オリジナルの手作り”に皆、賛同するのに、それを生業にできないという矛盾の中で、私は今、奮闘中なのだ。

◆無機物ばかりと向き合い、遊びを考えることができず、おもちゃに遊ばれる人々、子供に限らず、大人にも、もっと生き物と向き合ってほしいと思う。遊園地やデパートの屋上に行かなくても、いつも一番近くにいるよ! という存在になるようなおもちゃを作っていきたい。[前田歩未・木のおもちゃ作家]



伊南村だより

◆真夏の伊南村からこんにちは。今回は、おめでたいお話をひとつ。

◆昨秋、この村で開催された『地平線報告会』がきっかけとなり、東京で保母さんをしていた 森田(旧姓)千津子さんが伊南村へ嫁がれました。お相手は村の森林組合で舞茸作りに 命をかけている田崎さん。報告会の際には舞台上で和太鼓も敲いた人物です。千津子さんは、7月2日転入届けを済ませ、晴れて伊南村民となりました。村民1800人あまりの村では地平線の効用として、またまた盛り上がってしまいそうです。[丸山富実]



速報 エミコさん退院決定!!

ヤッホーイ!! 大変、おせわになりました!! ようやく退院のメドがつきました。来週の中頃、11(水)か12(木)の予定です。こうして元気になれたのは応援してくれてる友だちがいたからこそ。見守ってくれてる人たちがいたからこそ。みんなに勇気を与えられ、元気の元を授かり、ギンギンのエネルギーを送られたからこそつらい治療にも耐え、今日までがんばってこれたのです。本当に感謝しています。

だから今回、退院と聞いて私が「おめでとう」を言われるのではなく、私がみんなにありがとうを言わなくてはならないのです。「本当に、どうもありがとうございました!!」退院したらしばらくは、療養とリハビリ生活。そして残りの『世界一周旅行』完走に向け夢を実現させたいと思います。

返信はホームページの掲示板あてに…。
<エミコの元気なガン闘病HP>
http://www.ny.airnet.ne.jp/kanami/emi.htm



HAT-J“自然と人間”講演会・交流会を開催

◆田部井淳子さんが代表を務める「HAT-J」が“自然と人間”と題した講演会・歓迎交流会を7月12日に開催。ゲストは自然保護、山岳環境を真剣に考えながら登山活動を続けている、登山家のラッセル・ブライス、Pole to Pole 2000主催者のマーチン・ウイリアムズと、日本の若手登山家・探検家としてご存じ石川直樹、今月の地平線報告者の山田淳。




今月の地平線報告会の案内(絵:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

7S'sトレンド化計画

7/30(月) 18:30〜21:00
 July 2001
 ¥500
 アジア会館(3402-6111)

「セブン・サミッツ(7S's=7大陸最高峰)は、誰でも登れる。だから今流行の最先端なんです。この機会に、山は面白いということをもっと多くの人が知って、もっと多勢7S'sに行って欲しい」というのは、東大スキー山岳部の山田淳さん(22)。今年4月、オセアニア最高峰のカルステンツ・ピラミッド(4884m)を登り、最年少7サミッターに王手をかけました。

 小学生の頃、ゼンソクで体が弱かった山田さんは、学問に生きようと小4で決心。中学からはじめた山歩きは健康になる為の手段でした。2年前、本で知った7S's登頂を思い立つと、持ち前の集中力を発揮。高度順化のため富士山のガイドをやりつつ、驚異的なスピードで登ってきました。ちなみに東大の友人たちは「ふ〜ん」という反応だそうです。

 今月は、この秋チョーオユーに、来春エベレストに臨む山田さんをお迎えし、山の遊び方を語ってもらいます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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