2002年5月の地平線通信



■5月の地平線通信・270号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙◆新潟県の中山間地に移住して4年目を迎えた。棚田や温泉(日本三大薬湯)で知られる松之山町は、県内でも有数の豪雪地だ。今年は春の訪れが早かったが、雪が解けて田畑が顔を出したのは4月下旬。東京で桜が満開というニュースが流れていたときは、家の前には雪が2mあった。

◆例年の積雪は3〜4m。役場の公式記録によると、平成13年度の積雪は3.45m、一日で降った最高は69cm、累計降雪は14.26mだった。ちなみに12年度は、最高積雪4m、最高降雪1.13m、累計降雪19.44mと多かった (まいったか) 。

◆12月から4月まで雪のある暮らしだからこそ、春が待ち遠しい。周囲は山菜採りの真っ最中で、田植えの準備にあわただしい。

◆もちろん、我が家でも自給を目的とした米作りをしている。一昨年から田んぼを借りて、試行錯誤しながら、有機無農薬・天日乾燥のコシヒカリを作っている。去年までは1反3畝(1反は約300坪)の田んぼで7〜8俵(1俵は60kg)を収穫し、自家用の2俵を残して友人たちに売ってしまった。今年から面積を増やして3反を耕すことになった。さらに来年は5反になる予定。こうなるともう、兼業農家のレベルである。

◆百姓仕事というのは非常に合理的に行なわれ、どれをとってもムダがない。ところが、すべてにおいて素人なので、何を準備してどういう段取りでやればいいのかわからない。何事も、少しずつ覚えている段階だ。

◆米作りは「苗半作」といわれるほど苗を育てるのは重要な仕事。去年まではお世話になっている農家で苗作りの手伝いをして、その苗をいただいていたが、今年は苗代の場所だけ借りて自力でやってみることにした。

◆苗代の表面に種籾を直接まく昔ながらの方法もあるが、それだと田植え前の苗取りが大変だ。「茶飯(朝食)前の仕事」と呼ばれるわりに、やってみると苗取りで1日が終わってしまうほどなのだ。というわけで、機械植えに使う苗箱にまいて、それを手で植えることにした。

◆今のところ、苗は順調に育っているようだ。田植えは今月25日から始める。週末は地平線の仲間や友人たちも何人か手伝いに来てくれる。すべて手植えなので、何日かかるかやってみないとわからない。プロの手なら1日1反らしいが、素人2人だから1週間かかるかもしれない。

◆田植えは泥遊びをしているようで、けっこう楽しい。3本の指で苗をつまんで泥の中に差し込む。ちゃぽん、という音を立てながら、春の陽気に温められた水が波紋を広げる。ぬるっとした泥の感触がたまらない。辺りには鳥の声が響き、足もとには生まれたばかりのカエルの姿が……。

◆我が家の田んぼは雨水のみを使っている。農薬を使う田んぼとは切り離されていて、無農薬でやるには最適な環境だ。ところが、除草剤を1回使うか使わないかで、あとの作業に大きな差が出てしまう。最近の除草剤は草を枯らさないで発芽を抑える弱いもの。多くの農家が「除草剤は農薬ではない」と言うほどだ。

◆とはいうものの、まだコダワリを捨てきれない。今は米ぬかを使った除草を試みている。田植えの4〜5日前に代かき(耕して平らにする作業)をして、田植えの翌日ぐらいに米ぬかを散布。すると、米ぬかが水面で膜を張ったようになり、雑草の発芽を抑えられるのだ。それでも、夏には水草がびっしりと生えてしまうので、除草機を転がしたり手で取ったりする。

◆夏を過ぎると田んぼの水を抜いて機械が入りやすいように乾かすのが普通だが、我が家は収穫時まで水を張ったまま。それを手で刈り取ってから6段ぐらいのハセに掛けて自然乾燥させる。収穫まで水があると稲の茎に養分が残り、乾燥中にそれが籾に吸収されておいしくなるのである。

◆さて、今年も収穫の楽しみを思い浮かべながら、せっせと田植えに励むことにしよう。でもやっぱり、稲刈りのときは水がないほうがいいなぁ。(新井由己)



先月の報告会から(報告会レポート・270)
ルーシーの世界地図
関野吉晴
2002.4.26(金) 箪笥町区民センター

◆今、私は都立高校で英語を教えている。最近の中・高生にとって「マングローブの向後(元彦)さん」「グレートジャーニー(以下GJ)の関野さん」はちょっとした有名人である。なぜなら、二人の話がそれぞれ中学2年と高校1年の英語の教科書に載っているからだ。最近の教科書はいろいろなトピックを扱うようになったが、登場人物が歴史上の人だと、あまり関心がない。学校の図書室にGJ写真集を入れたら、たくさんの生徒が手に取っていた。写真集を見た生徒が、逆に先生に人類の歴史について語ったりしている。つまらないと言われる教科書も、話題によっては大きな影響がある。同時代を生きている人の話は生徒にとって大きなインパクトがあるのだ。

◆GJは人類のたどった壮大な旅、関野さんの旅はそれを自分なりにアレンジした、マイGJだった。GJの時にももちろん肉体的・精神的な苦しさはあっただろうが、マイGJにはそれに加えて「国境」という難関があった。たとえば、モンゴル・中国国境は通り抜けることができない。フェンスが張ってある緩衝地帯のさらに間にある国境の碑に、モンゴル側からタッチしていったん引き返し、後に中国側から同じ碑のところまで来てつなげるという、厄介な手順を踏むわけだ。

今回、ヨルダンからエジプトへは紅海をカヌーで越えた。最短距離では7キロ位だが、一部イスラエルの領海があり、そこを通過するとスーダンに入国出来なくなり、スーダンに入れないとタンザニアに入れない。領海に入らないよう監視船にヒモをつけ、船の動力に頼らないようにヒモをたるませて出発した。エジプトとスーダン国境は通りぬけることが出来ず、その間110kmを残してスーダンに渡り、エジプトとの国境のフェンスを触ってからタンザニアに向けて出発した。

ちなみにラエトリにゴールした時、テレビ的には『感動のゴール!!』という感じに写っていたが、関野さん自身は「まだあと110km残ってるんだよなぁ」と思っていたという。ゴール後にもう一度エジプトに戻って、嫌がる国境警備隊の司令官と共に砂漠を歩き、見覚えのあるフェンスまでたどり着いた。フェンスの向こうのスーダン人たちも、ヘンな格好をした男がフェンスに向かって歩いてくるのを不思議そうに眺めていたそうだ。

◆2001年9月11日、関野さんはエチオピアでラジオを聞いていた。初めはピンと来なかったが、その後、街に出てその映像を見てやっとすごいことが起きたことに気がついた。「日頃から映像になれている私達は耳で聞くだけではなかなかイメージが沸かなくなってきている」と言っていたが、同じことがこの報告会に参加した私達にも言えるのではないだろうか。もしこの旅を伝える媒体がラジオだけ、本だけ、写真だけしかなかったら…。見たこともない土地に住む人たちの顔や生活を想像することは不可能であろう。そうなればその土地の良さ、美しさ、楽しさを、また、困難、苦労をイメージすることもありえない。

例えばカヌーで越えた紅海はハムシーンと言う強風が吹き、そこをカヌーで越える事の大変さを理解してもらえるように伝えるのは、映像なしではなかなか出来なかったであろう。しかし、実際に関野さんの撮った写真やTVの映像を見ることができるおかげで、私達もイメージを膨らませることができたのである。TVなどで見たイメージをさらに膨らませ、あふれ出すパワーをお互いに共感したり、体感したいとの思いが報告会最多参加者158名を集めたのではないだろうか。

◆10年ほど前、大学生の私に父が「JourneyとTripとTravelの違いってなんだ?」と訊いた。調べもせず「知らない」というとかなり怒られたが、今思うとあの頃、グレートジャーニーの計画が始まっていたのだ。当初の計画は2000年1月にラエトリ到着の予定だったが、実際には2002年のゴール。30カ国以上を自力で旅した関野さんにとっても、見守ってきた地平線会議にとっても長い旅、長い10年間であったことはいうまでもない。2001年1月の報告会の後、関野さんは「グレートジャーニーは2000年中にゴールしますよ」と言って「2000年13月」とサインしてくれた。今回、写真集に書いてくれた日付は約束どおり「2000年26月26日」だった。計画の20世紀中のゴールに結構こだわっていたのだと感じた。(GJ出発時三輪涼子、ゴール時山田涼子)


【はみだし情報】
 世界七大陸最高峰制覇に王手をかけていた東大生の山田淳君(地平線第261回報告者)日本時間の5月 17日、チベット側からチョモランマ登頂に成功! 山田君は登頂時23歳9日で、セブン・サミッツ(七大陸最高峰制覇)世界最年少記録を十ヶ月更新。99年10月のキリマンジャロ登頂から、約2年半での快挙!



地平線ポストから
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飛騨の山々とアトリエ「月のふね」
◆13日の朝日新聞「私の視点」(「国際山岳年・日本に山の日を作ろう」)読みました。江本さんのお顔が朝日新聞に載っているのが不思議な感じでした。「山の日」っていい提案ですね。「海の日」があるのに「山の日」が無いのはおかしいですよね。

◆国際山岳年ということばからは、自分が住んでいる飛騨山脈のふもとを連想することはありませんでしたけど、「国際」の2字をはずして身近な山を見直そうという、江本さんのことばに、ああそうかと思いました。

◆この飛騨山脈は地元の人にとっては登る山というより眺める山であるような気がします。私は、高山市内からこんなに北アルプスがよく見えるものだと知りませんでした。地形の関係で、実家がある地点からはまったく山は見えません。18歳までの行動範囲からもほとんど山は見えず、この町のすばらしさを知らなかったわけです。

◆3年前に高山へ戻り、行動範囲が以前よりも広がったことで、山を眺める機会も増えてきました。山が見える場所に引っ越したいくらい美しいです。飛騨山脈とはいかなくとも、身近なところにあるちょっとしたお山で山菜を採ったり、まきを拾ったり、のんびりしたりということもしたいと思いますが、今のところはなかなかできません。江本さんの提案を読んで、このイベントが遠い世界の話ではないんだと思えました。

◆近況です。以前、地平線通信にも載せていただいた事がありましたが、また養護学校で講師をしています。今年度の担当児童は「小脳症」という障害の女の子です。歩けないので抱っこをすることが多く(移動は車椅子ですが)、肩と腰がつらい。体力つけなくちゃ。育児休暇をとっている教員の補助として勤めていますが、育児休暇を取れる年数が1年から3年に延びたため、7月までの予定が来年の3月までの延長となりました。来年までは安定収入です。

◆それと平行して染め織りも細々やっております。高山へ戻って早三年。とうとう、アトリエを借りることになりました。台所を染め場として使っていましたが、不便なので作業場が欲しい欲しいと思っていました。アパートでも借りようかと思っていたところ、高山の町の真ん中にいい場所が見つかり、パタパタと決めてしまいました。以前は床屋だったところなので、ガスや水道の工事も楽でした。昭和40年代の建物でおもしろい雰囲気です。大家さんが二階にお住まいになっています。今のところ週末のみのアトリエとなっています。学校の夏休みが始まるころまでには、もう少し片付けてショップの部分もつくれたらいいななんて考えています。みなさん一度いらしてください。アトリエ「月のふね」です。(飛騨高山5月13日発 中畑朋子)


【おまけの情報】
◆大阪の梅田のデパート大丸12階で、中畑さんがメンバーになった飛騨のクラフト協会の展示コーナーが5月8日 (水曜) から22日 (火曜) まで2週間開催中。中畑さんの染め織りの作品が特別展示販売されています。狭いスペースながら立派な会場で、ご本人の経歴などを書いた写真入りのパネルもあって、展示というよりは「ナカハタ染め」がブランドとして販売されている感じ。関西方面の方は是非。


なんと、頭蓋骨線状骨折・・。
◆地平線のみなさまへ。大変ご心配おかけしました。自転車通勤中に転倒し、病院に行ったら頭蓋骨が折れてるわでICU送りに陥りましたが、翌朝腹が減ってお代わりしたら一般病棟に追い出され、10日間の安静で退院しました。脳外科のインターネット情報によれば、頭蓋骨線状骨折とは、傷病名のわりには軽傷らしく、寝ていれば1週間で8割は自然治癒するとのこと。ケガで入院沙汰とは通算27万1645km目の大失態でした。この割合から思うに、次の入院は55万kmごろになりそうで、そのころまたお騒がせするかも知れません。(埜口保男)



【北極海での河野兵市さんの遭難から一年、順子夫人の本完成】

「地平線会議の皆様、いろいろご心配いただきましたが、夫 河野兵市が亡くなってから、早くも一年になろうとしています。この一年妻である私は何をしていたのかというと、毎夜、会社勤めの側ら、原稿書きに専念しておりました。もちろん子供たちを守り、主人が成功した時も事故の時も何があっても家族は、変わらない生活をしようと決めていました。私の書いた本は、冒険の記録や追悼の本ではありません。私が、夫とどう生きてきたのかということを本にしました。当時芸能界のヘアーメイクをしていた私の初めての海外登山、パキスタン ナンガパルバットで夫に出逢った秘話に、是非出遭って下さい。

タイトル 『絆 (河野兵市の終わらない旅と夢)』 河野順子薯
河出書房新社 1,300円
出版日は、命日の5月17日。15日頃、全国の書店に並びます。

では、ご自愛のほどを。河野順子」




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

360万年のピクニック
グレートジャーニー・エピソードII

5/28(火) 18:30〜21:00
 May 2002
 ¥500
 牛込箪笥区民センター(03-3260-3677)
 都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅真上

1978年、タンザニアのラエトリで発見された足跡の化石は、全世界から注目を浴びました。26センチ・21センチ・19センチの3つの足跡が並んで10メートル以上も続いていたのです。火山灰の上に足跡を残したのは、最古の人類とされる、アファール猿人でした。

彼(彼女)達がこの地を通り過ぎた360万年後、一人の日本人冒険家が自らの足跡をここに記しました。関野吉晴さん。9年がかりで人力のみでたどった人類拡散ルート遡行巡礼。そのゴールが、ラエトリでした。

今月は、先月に引き続き関野さんをお招きし、いよいよグレートジャーニーのラストステージ、アフリカの旅を報告して頂きます。あふれ出る旅の記憶が、ぜいたくなほど豊富なサブ・エピソードを披露します。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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