2005年2月の地平線通信



■2月の地平線通信・303号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙2月はマラソンと風邪の季節だ。元気にまかせて10キロ、15キロなんて走っているうち風邪にかかり、予定をキャンセルして3日間もじっとしているハメに。その間よく寝、よく飲み物をとった。だるい身体はいつものコーヒーを受け付けず、この際だから、とふだんは飲まないさっぱり系をいろいろ試す。

◆ラフカイ、ウルフィーの両親から送ってもらった「カリンの蜂蜜漬け」が秀逸だった。秋に届いていたのを「風邪の時ののどの痛みに良く効きます。小さな子どもだと思ってかわいがってください」との千恵さんの手紙に従って、時折ビンをゆらして中身をまぜていたのがちょうどよい按配になっていた。ありがとう、田中さん、大いに役立ちました、なによりもおいしかった!

◆この際だから、と冷蔵庫に保管しておいた京都北山の水でお茶も入れてみた。12月、念願の京都北山に行った。京都は山の深い場所である。「国際山岳年」で顧問になってもらった梅棹忠夫さんの講演(02年11月、大阪で。私が聞き役となった)の中で、梅棹さんは京都一中(現洛北高)時代、北山の小屋での合宿をきっかけに山登りに目覚め、「山城三十山」を登るようになった、と熱をこめて話した。

◆「北山からヒマラヤへ」が、今西錦司、西堀栄三郎その他を生んだ京都の山男の合い言葉というか、共通の思いだ。その原点ともなった一中の山小屋に一度行ってみたかった。直前に京都の斎藤惇生さん(元日本山岳会会長)に電話で教えを乞うと、2人の案内役をつけてくれ、なんと「山城三十山」のひとつ魚谷山に登った上、昔ながらの味わいを残す小屋(北山荘)で囲炉裏を囲んで昼食を楽しむ贅沢な経緯となった。

◆水は、その時案内してくださったひとりが、「おみやげに」とボトルに汲んでくれたものだ。山奥から引いた清水を小屋の前の筧(かけい)で受ける。こんな近くにいい水場のある、雰囲気のある小屋を持った京都の山の民が羨ましくなった。

◆小屋のすぐ下方にある今西錦司さんのレリーフに案内してもらったことも嬉しかった。「今西錦司博士之碑(1902・1・6−1994・6・15)之建 日本山岳会京都支部」。今西さんとは何度かお会いしているが、1982年1月10日、宮本千晴、森田靖郎両氏とともに京都の今西さんのご自宅を訪ねた時のことが一番印象に残っている。発足間もない地平線会議を支えるための「1万円カンパ」に協力して頂くのと、年報『地平線から』に座談会ゲストとして登場してもらうことが目的だった。

◆今西さんは、快く1万円を出し、終始ご機嫌で話してくれた。この座談は面白かった。たとえば、大リーダーの条件として「第1に人間的魅力、2番目に使命感、第3に洞察力やな」という言われ方をした。「まあ、人間的魅力も、洞察力も生まれつきや、使命感は生まれつきと違います、ある程度修養が効くと思うね」。血圧220の身でせっせと山に登り、山頂で酒を飲む気持ちよさを「医者もかぶとぬぎよった」と語る、あの話し方が懐かしい。この座談は『地平線から1981』に「地平線を夢見る若者たちへー今西錦司さんに聞く」として掲載されているので是非一読を、と言いたいが入手はほとんど絶望的かもしれない(私も1冊しか持っていない)。

◆そう言えば、地平線会議の発足の折には、西堀栄三郎さんからも1万円のカンパを頂き、いろいろアドバイスをしてもらった。あちこち書いていることだが「元気に長生きしたいと思うたら」と、西堀さんは言った。「1年に1度だけ、死ぬような何かをやってみるんや。マラソンでも断食でも。あとは何もせんでええのや」。それで、私はいまも毎年100キロマラソンを走っている。

◆1月30日には西国分寺の東福寺で恒例の宮本常一さんの会があり、お馴染みも久々の顔もいりまじって賑やかに盛り上がった。そうだ、千晴氏の元気な孫も初お目見えした。常一さん(勿論1万円カンパ人でもあった)も今西さんも西堀さんも、地平線会議のことをサポートしてくれた忘れがたい先達である。名前も知らなかったという君、どんな人か最低知っておいてね。

◆カリンの蜂蜜漬けと京都北山の水のおかげで、風邪をなんとか乗り越えてこのフロント原稿を書き終えた。(2月13日未明 江本嘉伸)



先月の報告会から
チベットの言霊(ことだま)
中村吉広
2005.1.28(金) 新宿区榎町地域センター

◆冒頭、報告者・中村さんを紹介する江本さんはやや困惑気味に見えた。その人物像をいったいどんな言葉で手短に伝えるのか? 中村さんとのつきあいが20年近くなる僕はちょっと楽しみにしていた。「プロフィールを書いて」と依頼したらA4にぎっしり6枚分の“履歴書”を送ってきた中村さんの“厚み”ある経歴のダイジェストだけで10分が経過。「江本さん、今日は長いね」というつぶやきが会場のどこかから聞こえる。

◆中村さんは1958年、福島県いわき生まれ。父親の転勤で長野県上田市に転居し、4歳にして“言葉”という壁を知った。新聞奨学生として東洋大学哲学科に在学中、欧州文化を理解するにはキリスト教、ユダヤ教を知らねばならないとの思いからイスラエルのキブツに入る。その後、英語とヘブライ語を修め、海外放浪を続けた。

◆帰国後はしばらく塾講師を続けた。何事も手を抜かずに取り組む熱血漢。深入りするあまり塾経営者になったこともある。塾講師時代に、代々木のパナリンガ学院で日本語教師初級免許を取得。しかし、まさかチベットで教えることになろうとは誰も予想しなかっただろう。きっかけは一連のオウム真理教事件だった。

◆チベット仏教の研究を進めるうちに、チャプチャ(中華人民共和国青海省共和県)の青海民族師範専科学校へ留学する道が開かれた。伝統的に「アムド」と呼ばれる草原地帯の小さな町にある、民族教育の拠点だ。チベット仏教の経典を読むために文字と文法を学びぶにはふさわしい。先生も文法学の権威だった。

◆チベット語文法を学ぶうちに、その元になったサンスクリット文法にまでさかのぼる。報告会では、サンスクリット語のアルファベットがチベット文字にきっちり対応していることを示す手作りの表が張り出された。驚いたのは、日本語のアカサタナの順番が、サンスクリット語のアルファベットの順番と同じということだ。なぜこんな面白いことを学校で教えてくれなかったのだろう?

◆学生だったはずが、拝み倒される形で同じ学校の日本語クラスを引き受けることになった中村さんは熱血教師ぶりを発揮。生徒たちの日常語であるアムド語(チベット語の方言のひとつ)で、しかも会話ではなく文法にこだわって日本語を教えた。日本語とチベット語が非常に近いことをすでに知っていたからだ。それまでチベット人たちは、中国語を通して日本語を学んでいた。日本人に置き換えれば、韓国語を英語を通して学ぶのと同じくらいナンセンス。日本語・韓国語・チベット語は、単語を“てにをは”でつなぐ膠着語と呼ばれる言語で、英語や中国語とはまったく違うのだ。

◆チャプチャでの授業風景のビデオは圧巻だった。生まれて初めて日本の文字を見た生徒たちが1時間後には五十音表を読んでいる。まるで中村さんの催眠術にかかっているかのようだ。チベット語の母音はアイウエオの5つで、数も順番も日本語と同じ。アカサタナハマヤラワとアイウエオを組み合わせれば五十音が言える。チベット人だからこそ簡単なのだ。

◆3カ月後には、さだまさしの「防人の詩」の聞き取りをこなし、さらに3カ月後には、選抜された生徒たちが翻訳に着手する。ビデオの中では夏目漱石の『坊っちゃん』の翻訳が進む。中村さんはまず黒板に日本文を書き、“てにをは”を丸で囲む。チベット語と日本語の語順はほぼ同じだから、単語を置き換えて行けば翻訳が完成する。チベットには無い“汽船”をどう訳すのか? といった議論を交えながら、恐るべきスピードで翻訳は進んでいく。

◆日本語が下手な生徒は、チベット語文法が理解できていない。逆に、チベット語をしっかりマスターすれば、日本語はすぐ上達する。この事実は、中国において劣等民族視されがちなチベット人にとって、自らの文化に誇りをもつきっかけになるはずだ。中村さんは、しばしばチベット人相手にチベット語の文法を説いた。それが日本語理解への近道だからだ。報告会にはアムド出身のチベット人が来ていた。日本に来てから日本語を学び、チベット語との近さに気づいたという。確かに彼のメールの“てにをは”は、しっかりしている。アムド語がわかるから、日本人の倍はビデオを楽しんだことだろう。うらやましい。

◆しかし! 残念ながら、チベット語で日本語を教える試みも、文法を重視する教え方も受け継ぐ者がいない。チャプチャの日本語クラスは今年消滅してしまった。アムドの草原に燃え上がった日本語熱を受け継ぐ者は現れないのだろうか?

◆チベットの未来も心配だが、日本の国語教育のお粗末さも深刻な問題だ。何かを学ぶ道具となる国語力が低下しては、その国の未来は真っ暗である。それでいて、幼稚園児に英語を喋らせたりする始末。日本から朝鮮半島、満州、モンゴル、チベットと連なる“膠着語回廊”は、はるか西、トルコまでつながっている。「日本語と兄弟関係にある韓国語やトルコ語を勉強して自信をつけておいてから、必要に応じて英語や中国語をやればいい」と中村さんは言う。

◆やや遅咲きの知の巨匠・中村吉宏のデビュー戦、今回はコトバという切り口で語ってもらった。しかし、それは中村さんがもつ引き出しのごく一部にすぎない。20年間、あることないこと聞かされてきた僕だが、いまだに「あ、その話まだ聞いてない」というネタが出てくる。どこかで“続き”が聞ける日が楽しみだ。[長田幸康]



地平線ポストから

[西牟田靖君の力作、ついに完成!!]

 一昨年7月、「サハリンの鳥居」というタイトルの報告会をさせていただいた 西牟田です。
2000-2003年にかけて、サハリン、台湾、韓国、北朝鮮、旧満州、ミクロネシアと回ったときの様をお話ししました。報告会にて「本として出版します」と公約を掲げましたが、覚えている方はいるでしょうか?このたび、その公約をようやく果たすことになりましたので報告いたします。

◆『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局、定価1680円、404ページ)2月25日にようやく発売されることになりました。戦前、戦中の日本という僕にとって大きすぎるテーマ。しかも、亜寒帯から熱帯までと訪れた地域の特徴がバラバラ、行った手段もバラバラ。どのようにまとめ上げればいいのか、一時は考えあぐねてしまいましたが、ともかく仕上がりました。6月以後、編集者と侃々諤々、ほぼ毎日延々とやりあうなど、タイヘンでした。執筆中すべての収入が途絶えたので、やりくりも大変で、親類からの借金がみるみるふくれあがりました。

◆本の内容ですが、分類でいうと歴史紀行になると思います。ですが司馬遼太郎や小林よしのりなどとはまるで違う、一筋縄ではいかない、ちょっと変わった構成になりました。ロールプレイングゲームのような展開、臨場感が特徴といえばいいでしょうか。政治や歴史に詳しくなかった僕が日本の足あとに触れて経験値を積み重ねていき、それとともに「大日本帝国」の輪郭が見えていく、そんな構成なんです。

◆カバーデザインはズバリ日の丸ですが、独特の文字フォントが日の丸や「大日本帝国」というタイトルの威圧感を中和しています。そんな不思議なデザインに仕上がりました。23日の報告会に10冊ほど持って行きますので、よろしくお願いします(実はまだ発売日前なんですが、なんとか用意します)。(2月7日メール、西牟田靖)


おでん評論家、新井由己さんの新著『日本全国おでん物語』

を好評発刊![生活情報センター出版、1,470円(税込)]冬に欠かせない鍋物の定番、おでん。北海道から沖縄まで、全国のおでん専門店を訪ね、ご当地のおでんを紹介している。筆者は「おでん研究家」の肩書も持つ、ルポライター。その筆者にして、定義に苦労し、「その土地の人が『おでん』と呼んでいるものが、おでん」と書いているように、ページをめくるにつれ、各地のおでんの多様さに驚かされる。 (中略)韓国や台湾のおでん事情、コンビニおでんの地方色の分析、種やつけだれの分布図なども掲載。情熱のこもった「おでん総覧」だ。(05年01月18日朝日新聞生活面から)


◆安東浩正第1信

 荒野のサイクリスト安東です。極東シベリアの自転車ツーリングの出発点サハリンから新年のごあいさつです。今回の計画はサハリン南端より、凍結した間宮海峡を自転車で渡りオホーツク海沿いに北上して途中から内陸部の寒極オイミヤコンに入り、ベーリング海峡までユーラシア大陸の最東端を目指すというものです。ルート上に正式な道はほとんどなくて冬の間だけ走れる冬道をさぐりながらの旅となります。前回のシベリア横断より遙かに難しい旅となりそうです。零下50〜60℃に耐える特別な寝袋やテントなども用意しました。今はサハリンの真ん中のティモフスコエという街で、昨日旧国境の北緯50度線を越えました。これから山の中の道をたどって間宮海峡に向かいます。一週間以内には大陸に渡れるで しょう。もしかしたら関野さんに会えるかも!まだ零下25度です。旅は始まったばかりです。(1月5日サハリンより 手書きですいません) また手紙出します。


◆安東浩正第2信「間宮海峡横断」

江本さん! 極東シベリア自転車縦断中の安東です。たった今、間宮海峡の横断を成しとげて大陸側のラザレフという村に着きました。サハリンは1ヶ月もかかってしまいましたが思いの他に有意義でした。カラフト時代からの残留日本人の方々や石油関係の人々に歓迎されながら 旅してきましたが、サハリンの西岸側はほとんど人が住んでおらず、冬期は除雪されない道を自転車を押し進んできました。間宮海峡の横断よりもサハリンの道なき山脈越えの 方が大変でした。海峡は最狭部で8キロしかないですが、海流のために凍ってないのでう回して2日かけて15キロ距離を進み横断しました。ラザレフでは昨夏に関野さんが自転車で来た時に置いていったであろう自転車部品を地元の人がもってきたり、関野さんの痕跡がありました。たぶん数週間後に関野さんもまたここに来ると思います。海峡横断時に氷が割れて海に落ちてしまうなどのハプニングもありましたが2人共にいたって元気です。これからオホーツク沿いにさらに北を目指します。(1月17日 ロシア、ラザレフより 極北のサイクリスト 安東より)


◆関野吉晴氏も間宮海峡横断!

 安東浩正さんのちょうど10日後の1月27日、関野吉晴さんも間宮海峡を橇を曳いて横断した。1月10日日本を出発、ハバロフスクからアムール川沿いに河口付近に達し、サハリンに沿うかたちで南下していた。パートナーのロシア人青年、アレクセイさんと二人の行動で見事海峡横断に成功した。安東君の置手紙があったらしく、「安東君は一度落ちたらしいね」と伝えてきた。今回の帰国予定は3月下旬(E)。


金井しげ女から「12/26〜1/11まで北アフリカのリビアに行っていました。」という長い手紙を頂きました。スペースがないので、砂漠の中で作った俳句だけを掲げさせてもらいました。しげさんの旅を想像してください。

寒晴れや 紫紺の山かげ 砂漠ゆく
寒あかね 一本の紐となり 消えにけり
初市や ラクダ引く指 ドラム打つ
テント出て 月夜の砂漠に 迷いけり
砂ねむる 半月のぼる 真夜しんしん
冬天に 男らの輪唱 つつ゛きけり
砂にしむ トアレグのうた 星月夜
冬麗や キリンも斑点も 岩絵あり
ワジ砂漠 象の岩絵や 去年今年
冬日向 メドーサの首 ごろごろと
まっすぐに 列柱通り 冬の波
オリーブの 引きうすどでんと 冬日和

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

[1万円カンパ実行人リスト](05年2月15日現在)
金井重 丸山富美 埜口保男 北川文夫 飯野昭司 青木(生田目)明美 横山喜久 野々山富雄 西澤栄里子 中島菊代 岩淵清 森井祐介 花崎洋 坂下哲之 関根皓博 村田忠彦 賀曽利隆 大西夏奈子 松田仁志 岸本実千代 河田真智子 江本嘉伸 海宝道義 海宝静恵 遊上陽子 斎藤豊 河野昌也 近藤淳郎 鹿内善三 香川澄雄 シール笑みこ&スティーブ・シール 菊地由美子 白根全 村松直美 原健次 三上智津子 佐々木陽子 藤田光明 三輪主彦 佐藤安紀子 坂井紀子 石原卓也 加藤幸光 吉岡嶺二 藤本亘 松川由佳 山本千夏 山本祥子 田口幸子 瀬沼由香 小林天心 後田聡子 横内宏美 江本くるみ 杉田晴美 戸高雅史 井上智 宮本千晴 向後元彦 向後紀代美 藤原和枝 坂井広志 古山里美・隆行 下島伸介 桜井恭比古 神長幹雄 山田まり子 坂本勉 山田和也 中村易世 石川秀樹 山本将 網谷由美子 森國興 西山昭宣 田中昌二郎(敬称略)




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

野生の事情

2月23日(水曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 於:新宿区牛込箪笥区民センター(03-3260-3677)


昨秋は各地でクマやサルの多発出没が話題になりました。なぜでしょう? 頭数が増えたから? 奥山の木の実が不作だったから? 「ヒトが野生動物と関りを持たなくなったからだよ」というのは、狩猟文化研究所主宰、東大大学院生の田口洋美さん。「歩き屋」と自称するフィールドワーカーです。

「農業は野生動物の土地を奪う営み。耕作地のある人里にクマやサルが出るのは当然です。ヒトとケモノが出会う最前線に、かついては狩猟文化があった。ところが山里の過疎化と共に猟師も激減。'70年代に50万人いたのが、今は15万人です」。農地が拡大しても、動物の頭数コントロールを担っていた狩猟人口が減って……という図式が浮かびあがってきます。

民家に入り込んでエサをあさるクマの姿は、「食」と「自然」があまりにも離れてしまった我々ヒトの姿の逆像なのかもしれない。今月は田口さんに日本の野生動物の現状についてお話しして頂きます。必聴必見。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付で!
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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