2005年7月の地平線通信



■7月の地平線通信・308号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙んにちは。6月25、26日、山形県朝日村 湯殿山ホテルで、「第16回ブナ林と狩人の会」という催し(「マタギサミット」)が行なわれたので参加してきた。民俗学者、田口洋美さんが主催して毎年続けてきた集会で、ことしも新潟、長野、秋田、山形のマタギ衆、クマやシカ対策に関わることの多い研究者など140名ほどが集まった。2日間の話の中で「むらをどうするのか」、という命題とともに「私たちは、けものたちにどう対するのか」という切実な問題をつきつけられた、と思った。

◆たとえば増えすぎたエゾシカ対策として「北海道西興部(にしおこっぺ)村の試み」と題して報告した33才の伊吾田宏正さんは、「ガイド付きハンティング」の導入で地域管理をしてゆく、と訴えた。初心ハンターの養成も含めての取り組みで、私たち自身が銃を持ち、けものたちに対する必要を説いたことが強く印象に残った。「害獣が出た」といっても、通常自分たちは安全な場所にいて何もしない。誰かが「駆除」してくれると思い込んでいる。

◆7月9、10日は山と健康をテーマにしたフォーラムの仕事で奈良にいた。この地に滞在する時は、必ず朝、シカたちに会いにジョギングをする。ことしは猿沢の池にあまりに多くの、おそらく数百のカメがいるので驚いた。飼えなくなったカメを池に放す人が多く、外来種を含めていまや7種類ほどがいるらしい。そのカメたちに観光客は優しいのだろう。岸辺に立つと餌をもらえると思って、一斉に寄ってくるのだ。

◆シカたちの草原は、雨でびしゃびしゃだった。小鹿の群れがいくつか、こちらも皆疑うことなく、おいしいものがもらえるかも、という表情で寄ってくる。その優しい表情に心がなごみつつ、マタギサミットで報告された増えすぎたエゾシカ対策のことを考えた。

◆以下、まったくの私事で恐縮だが、本題になる。6月は、私にとって生涯忘れられない出来事があった。先月の通信でも少しふれたが、我が家には2匹の犬がいる。6月13日昼過ぎ、そのうちのひとり、12才4か月と20日生きた雌のゴールデン・レトリーバー、くるみが眠りについた。我が家で地平線の新年会をやっていた頃、会ってくれた方も多いと思う。38キロもある大型のわんこだが、公園などで保育園の園児たちにあちこちさわられても、しずかに尾を振っているような穏やかな性格だった。乳腺にできたガンが化膿し、最後は急速に身体にまわったらしい。動けなくなって1週間、私の膝元で静かに息を引き取った。

◆くるみとは、長いつきあいだ。ショックは大きかったが、当面残されたマルチーズの雪丸をどう励ましつつ、元気に一緒に過ごすかが、拠りどころだった。が、元気いっぱいだったその雪丸が数日して急に具合がおかしくなった。体が震えだし、痛みに耐えている様子で、獣医に連れていった。昨年8月30日、交通事故に遭って折った肋骨数本が痛みだしたのか、と思われた。

◆しかし、18日正午過ぎ、突然、手足を突っ張らせ、激しく痙攣しだした。まったく初めての尋常でない症状だった。すぐ抱きかかえて獣医のもとへ。いろんな注射を打って、いったんは小康状態となり、夜私と自宅に帰ったが、19日午前9時30分、小さな叫び声をあげたのが最後だった。4日後に予定されていた5才の誕生日を待たずに、雪丸は突然逝ってしまった。

◆雪丸は4年半前、飼い主予定だったアメリカ人が急な帰国で「誰かかわいがってくれる人の家に」と置いていった、当時6か月のチビ犬だ。四谷の犬好きの奥さんにその話が持ち込まれ、「くるみちゃんの家なら…」と、ある冬の夜、散歩コースの公園でチビ犬と待っていたのである。

◆マルチーズなんて犬の仲間に入らない、と信じていた私は、雪丸と名づけたわんこを、当初はよそにあげるつもりだった。1か月して新幹線で名古屋の友人宅まで連れて行ったのだが、すでに雪丸の心は私たちに食い込んでしまっていて、どうしても離れようとしない。結局先方に謝って、そのまま連れ帰ってきた。以後、雪丸は私たちの家族となり、8才になって少し動作が緩慢になりはじめたくるみの、いい弟分になった。くるみは元気を取り戻し、ふたりはいつも一緒で、雪丸はとりわけ私を慕っていて、山の家でも四谷でも私はいつの間にか、2匹なしの暮らしなど考えられなくなっていた。

◆その最愛の2匹が6月、わずか6日の間に相次いで逝ってしまったのだ。いいものばかり抱えてはいけない、もっと厳しい生き方をしなさい、自分の仕事にもっと打ち込みなさい、とでも天は言いたかったのだろうか。想像もしなかった展開に、さすがに心身ともにこたえる。このボディブローは、利き過ぎだ。私は最愛のけものを緊急の際は自分で殺せるだろうか?ということは考えていた。それだけの責任はとりたい、と。でも、こんなかたちで結末が来るとは、まったく覚悟していなかった。ことしの夏をどう過ごせばいいのか。情けないほどに弱々しい自分の心に呆然としている。(江本嘉伸)



先月の報告会から
足元にピース!
桃井和馬
2005. 6. 24(金) 榎町地域センター

 梅雨の中休みで真夏のよう!冬のオーストラリアから戻ったばかりで、こたえる暑さだわぁ〜、と思いながらも高田馬場から歩いて会場に向かう。ちょうど今回の報告者である桃井和馬さんが入念な打ち合わせをされていた。スクリーンに広がる写真はひょっとしてギアナ高地?と、期待を膨らませながら開会を待つが、まさか、レポートを担当する事になるとは…。

◆桃井さんは地平線会議とは大学生の頃からのお付き合いで、単独の報告者としては15年ぶりの登場という。恵谷治さんなど厳しい先輩たちから「世界で一番遠いところへ行け!」と言われたのがきっかけで、各国の若者を集めて挑戦と冒険の心を育てようというイギリスの「オペレーション・ローリー」に応募し見事合格。イギリスで1ヶ月トレーニングをして3か月間、帆船に乗って大西洋を渡るという体験をする。

◆トビウオが甲板にキラリと飛び跳ねるところやイルカの群れなどその時撮った写真が友達から好評を博したことに勇気づけられ、フォトジャーナリストの道に。1980年代、フィリピンや中南米を訪れる。紛争地帯を報道カメラマンとして駆け巡る日々。そこでの写真は、破壊、死体、焼け跡など、今の桃井氏さんの写真とは違って誰が見てもひと目で戦場と分かるものが多かったようだ。

◆報告会の中で桃井さんは写真の世界が斜陽化してきていると指摘した。たとえば、撮影する側にとっては重要な雑誌1ページの写真の値段は、1960年代、ベトナム戦争時代からほとんど変わっていないそうだ。「見る側の想像力の低下も、斜陽に拍車をかけている」と、マドリッドの美術館でピカソの「ゲルニカ」「泣く女」を観た時の印象を例としてあげた。あのキュビズムの絵は、ぱっと観ただけでは何を表現しているか分かりにくい。実は、1937年制作のこの作品はスペイン、バスク地方をナチス・ドイツが爆撃し、多くの罪のない人々が犠牲になったことを知ったピカソが、暴力の不条理や悲惨さ、悲しみ、平和を願う気持ちを一気に描き上げたものだ。

◆このことは写真にも通じる。写真にはうつっていない、その中に潜む物や隠されたいろんな思いを写真家は表現し、観る者は想像力を働かせてその写真を感じることが出来たら…。スクリーンに、写真が映し出される。サラエボの鉄筋コンクリートの建物の窓から望む町の風景。そこはスナイパーが動くものを狙い撃ちするための窓だった。また、3つの片方だけの靴の写真。戦争で亡くなった人達のものだ。異なるサイズ、形からその持ち主の人生を感じる。そして、地面で寝るオラウータン。本来なら木の上で寝る動物が、人間に飼われるうち、自分を人間だと思いこんで、地面で横になっている…。

◆桃井さんの写真が事実を報告するだけに終わらず、その奥に潜む感情、意味、物語などが織り込められていく中で、「戦場カメラマン」の立ち位置は、変わっていった。戦争や紛争が終結して何年も経った後、その国の現状を記録したいと思うように。ことしも、3月から4月末まで40日間、アフリカ取材に飛びまわった。その時、ルワンダで撮った1枚の写真がある。扉のしまった家の写真。100万の民が殺されたあの大虐殺から11年経ったルワンダは援助も豊富で民族差別もなくなり、今は平和だと人は言う。しかし、小さな村の畑で村人が作業中も家の戸はしっかり錠をかける。戦争後、隣人を信じられなくなってしまったからだ。閉じられたドアは「人間不信」の象徴だった。

◆一方、桃井さんは、戦争が起こる原因を調査し、探っていくうちに地球環境について考えるようになったという。ルワンダは山に覆われた国で、人口が増えるにともない山を切り崩し、畑を作ってきたのはいいのだけれど、棚田などを作らず、突貫工事をしたために自然崩壊が起きた後、食料に困るようになり紛争が起こった。戦争と環境問題は表裏一体。アマゾンの森も空から見ると森林が減りボロボロだそうだ

◆もうひとつ。桃井さんは写真で世界を表現するだけでなく、「身のまわりの世界」を大事にもしている、と語った。ある年、アリゾナに住むホピ族の長老に「あなたは、いまここにいるが、家族はどうしているのか」と聞かれて言葉に詰まった。「世界平和を唱えるのなら、まず家族を大切に、身の回りの地域を大切にすることだ」。以後、3つの視点をもって活動するようになる。身の回りの視点(1日を愛し‐普通の人のレベル)・社会レベルの視点(1年を憂い‐政治家的レベル)・地球レベルの視点(1000年後に思いを馳せる‐グリーンピースなど)。

◆家族を大切に思う桃井氏は地域社会とつながろうと、住まいの多摩地区で地域活動を始めている。その一つとしてPPT(ピース・プロジェクト・タマ)を立ち上げた。会員たちがお金を出し合い、そのお金で地域から1人を「ピースボート」に派遣しようという試みだが、私だったら真っ先に「行きたい!」と手を上げるだろうに意外にも最初はなかなか手を上げる人がいなかったようだ。長期のお休みが取れない日本らしい話でした。

◆コミュニケーションのとれた地域では、無駄な争いは起こらない。桃井さん曰く、「自分が取材で日本にいない時も、そうしておけば地域の人達が自分の家族を見守ってくれますしね!」。そのピースボートの講師としてヨルダンまで乗船し、数日前に帰国したばかり。ピースボートの面白さは外国を見聞すると言うことより、閉鎖的な空間に、ある覚悟(長期休む、お金を貯めるなど)をした上で全国から集まった人達自身が面白いのだとおっしゃっていた。

◆前半の終わりに流れたギアナ高地の映像や、後半にスクリーンに映し出された写真は素晴らしかった。後半の写真はタンザニアのンゴロンゴロ〜NYのグラウンドゼロ(この2枚の写真で400万年の時の流れを想像してみる)、そのほかにも沢山の国の人や風景が意図的に並べられ、映し出されていった。撮った人の意図を感じ、観る側は想像力を膨らませて…。

◆8月6日まで品川にある、キヤノンギャラリーSで開催中の地球環境写真展「未来の地球へ!」に行かれるともっと沢山の写真を観てみると、一人一人違った感想があるかもしれませんね?

<追伸・7月5日の写真展初日に行って来ました。ゆったりしたスペースでとってもよかった。地球誕生から生命誕生、世界の発展、破壊、再生みたいな動き。自然体の子供達の目の表情に惹かれました>
(旅・自然が好きな時遊人、でも株も大好き?な渡辺泰栄)

■桃井和馬 地球環境写真展「未来の地球へ!」
http://cweb.canon.jp/s-tower/floor/1f/gallery/g-env/index.html
2005年7月5日〜8月6日/入場無料
  会場:キヤノンSタワー1F
キヤノンギャラリーS
  交通:JR品川駅港南口より徒歩8分
開館時間:10時〜17時30分
休館:日曜・祝日


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■安東浩正さんから…2005.7.6…メール
 記憶の中の幻のフィルム…極東シベリア自転車縦断8600キロ

 シベリアを駆けずり回っていたチャリンコ野郎の安東です。しばらく連絡なくてお騒がせしましたが、6月17日に稚内より帰国してます。帰京早々に桃井さんの報告だったので、これは行かねばと6ヶ月ぶりに地平線会議に顔をだしました。今回もなかなか得るものあり、毎回勉強させてもらいに地平線に来ているようなものです。やっぱり写真には物語がないとダメですよね。最近は自分の記録写真ばかり。高校写真部の時はもっと考えて撮ってたなあ、と初心を思い出しました。

◆今回のシベリアでの撮影も苦労と不幸の連続でした。間宮海峡で氷が割れて落ちたときにはカメラ2台共に海中の藻屑と化し、撮影済フィルムは帰国直前にサハリンで盗まれるは、といったトラブル続き。撮影済フィルムは命の次に大切なもの。自転車ごと盗まれたのですが、翌日犯人を逮捕。なんとスベータという名の16歳の女の子。自転車など戻ってきたのですが、肝心のフィルムだけがない。彼女には何の価値もないから捨てちゃったんですね。お金や自転車なら働けば何とかなりますが、フィルムだけはどうしようもない。失った写真は全体の4分の1ですが、雑誌連載でできるだけ写真は必要なのでかなりショックでした。

◆それはそうと今回の極東シベリアの旅をレポート。サハリンを12月に出発、間宮海峡を渡って大陸に入り、寒極オイミヤコンで零下50度の中を走り、凍結したコリマ川を北上して北極海に出た後、チュコト半島に入ってからいよいよ旅が面白くなってきました。そこは木の一本もないツンドラに大雪原が広がるばかり。荒野というにはあまりにシュールな世界。自分の存在が奇跡のようです。海沿いには進めず内陸部の山岳地帯を越えましたが、そこに冬道があったのです!この冬道はやっぱりどんな地図にも載ってないわけで、その存在も現地の一部ドライバーしか知らないルートでした。通行できる車両は六輪駆動のロシア製大型トラックのみです。あるいはいざとなれば担いで運べる自転車。ジープや自動二輪ではおそらく無理であろう道なき道です。

◆しかしちょっと風が吹くとせっかくのトラックのトレースもすぐに雪に埋もれてしまいます。おかげでなかなか進みません。ブリザードなんてくると道が消え去ってしまいます。5月中旬にチュコト半島のエグベキノットの小さな港町でベーリング海にたどりつくことが出来ました。最終目標のユーラシア大陸最東端デジネフ岬まであと400キロに迫ったのですが、春が来て氷雪が溶け始めてそれ以上の前進は難しく、海に達したことで終了としました。でも最初からたどりつく可能性は低いと見ていたので、それはそれでいいのです。チュコト半島は飛行機でないと訪れることは出来ないとされるところ。実はここまで来られるとも思っていなかったのです。陸路で自力で通過したのは南ルートをとった関野さんと今回の北ルートの安東くらいでしょう。

◆でもそんな生命のかけらも感じられないような雪の世界でも人は住んでいるんですね。安東の旅は何も段取りの組まれてない行き当たりばったりなので、出会いはいつも新鮮です。トナカイ遊牧民のチュクチ族はいつだってぼくを歓迎してくれます。遊牧キャンプがあるたびに「泊まって行け!」とお世話になります。見渡すと平原には何百匹というトナカイ。ちょうど出産シーズンで、生まれたばかりのトナカイの赤ちゃんがヨチヨチ歩きで一生懸命母親について回る姿が、背景のツンドラに溶け込んでいます。氷点下の世界でも出会いはいつも温かい。ここの食卓ではトナカイの肉が主役です。お土産に心臓一個丸ごともらったりしました。

◆今回もいろんなものを食べました。凍結したコリマ河沿いにはエベンキ族などの漁師が住んでいます。凍らせた大ナマズの生肝臓はご馳走です。食いすぎて腹を壊しました。ヤクート族は肉といえば馬肉。馬のモツ煮がぐつぐつと鍋の中で煮えています。ここがうまいんだ、とよそってくれたのは舌の部分。いつだってどんな民族だって、客人には一番おいしいところをよそってくれます。

◆しかし今回の旅はキツカッタ。冬道の状況が余りに悪かった。いつになく早く帰りたいと思ったくらい。「なんで俺はこんなことをしてるんだ〜バカヤロー」と、深雪の中で幾度叫んだことか。いつももう今回きりでやめようと思う。もうボーケンなんてたくさんだ!と。帰ってきて幾つものマスコミの取材で最後に必ず聞かれることは「次はどこに行くんですか?」ぼくは人々に夢とロマンとファンタジーを売るボーケン野郎というピエロでもあるので、ニコニコして「それは内緒です」と答えます。でも本心を言いますと、「とんでもない帰ってきたばかりだ。おれはヘトヘトでもうどこにも行きたくないんだ!」。でもそれじゃロマンも何もないので、地平線の皆さんにだけそっとお教えしました。このことは内緒ですよ。でもそのうちまた行きたくなるんだろうなあ。できあがったトナカイ遊牧民の写真を見ていると、なにか予感のようなものがよぎります。ボーケン家もタンケン家もロマンがないと生きていけないバクみたいなものなのかもしれません。

◆それにしても俺のフィルムを捨て去ったスベータめ!失ったポジの画像が記憶の中で交差する。
  ちくしょう!おれの青春をかえせ〜。
(炎のサイクリスト安東浩正)

<地平線はみだし情報>
■卒業できず、決まっていたM物産に入れなかった山田淳さん、某外資系企業に就職内定。


■朝日村便り  難波賢一さんから…2005.7.6…山形県朝日村

 6月25、26日山形県朝日村で開かれたマタギサミットには、地平線会議の熊沢正子、飯野昭司、網谷由美子、服部文祥らもそれぞれの関心から顔をそろえた。中でも、地元朝日村の住人となった難波賢一・裕子夫妻がウルトラ元気な長男、賢風(まさかぜ)君(5才)とともに久々にあらわれたのは、新鮮な驚き、かつ喜びだった。
 難波さんに近況を書いてもらった。(E)

 朝日村に帰農してきて丸2年、少しは百姓仕事も覚えた。約40年ぶりに村に住んでみると年寄りは名前と顔が比較的一致するが、若い人はほとんどわからない。ま、それは当たり前か。少しだけ浦島太郎の気分です。ちなみに私は村では若者に分類されていて色々な雑役に酷使(?)されています。50代も後半戦に入ったというのに。百姓仕事として稲作り少々と山葡萄と山菜と野菜などを作っています。そしてたまに山林の見回り。いまは山葡萄の栽培に力を入れています。

◆村の周りの山は荒れているというか原生林化しており、それはそれで面白い。植林された杉林は今や誰も手入れをしないので藤が繁茂して、杉も苦しそうだ。雑木林も伐採の手が入らないのでかつてよりずっと巨木化している。そのため日当たりが無くなり、自然の、栽培でない山菜の生え具合は昔より悪くなっているような気がする。また去年までは、カシノナガキクイムシという害虫のためにミズナラヲの枯死している姿が無残だったが、今年はあまり目立たない。日本の自然の回復力もたいしたものだ。

◆農薬はかつてより少なくなってきたのか蛍や泥鰌等も10年前に帰省していたころよりは大分多くなってきたような気がする。

◆熊の出没はいまやもう当たり前だが、猿もすごい。数十頭ぐらいの群れ(それもひとつではなく2〜3グループある)が、むらの周辺を回遊していて、時々人家近くの柿ノ木に登って柿などをあさったり、畑作物を荒らしたりしている。私も遭遇した事があるが集団でサルに囲まれると少しぎょっとする。ほかの動物、カモシカ、狐、ムジナ、イタチなども私が子供のころよりずっと人家近くに出没するようになってきている。子供のころにはいなかったのがハクビシンだ。ペットが野生化したものだ。川原近くの崖などに生息していて畑を荒らしているようだ。マタギサミットで田口氏も言っていたが動物の生息域が人間のそれを圧迫し始めているといえるかもしれない。

◆さて暇な時は名もない山々に登る事が楽しい。特にブッシュの隠れる積雪期がよい。山スキーを利用するケースが多いが、玄関前でスキーを履いて出かけるのはとても気分がいい。鶴岡の山岳会(鷹匠の松原氏も会員です)に一応所属しているがほとんどが単独行である。月山、鳥海山、飯豊連峰、朝日連峰と山スキーのエリアは広大だ。つい最近では朝日連峰最北端の以東岳で山スキーをやった。また、これからの暑い季節は沢登りがいい。人のあまり入らない原始性あふれたおいしい沢はたくさんある。しかし身近なところにパートナーが見当たらないのでおいそれと行くわけにも行かない。単独で行こうとするにはスケールがデカすぎるし、小さな沢でも抜けてからが大変そうなところばかり。若いころに比べたら体力にも自信がない。というわけで躊躇していたのだが今年は何とかしようと思っています。また三崎海岸、山寺などのフリークライミングエリアもあります。そんなわけで県内の山々を中心に遊んでいます。

◆それにつけても今年は豪雪であった。家の前の畑で瞬間的に3メートルに達していたと思う。移住してきて最初の冬は早朝の雪除けは運動に最適と思っていたが今年の場合は苦役のような気がした。だから今年の春は本当に待ちどうしかった。今は滴るような緑の洪水であの白一色の世界があった事など想像もつかないくらいだ。

 というわけで、遅ればせながら引越しの挨拶に代えさせていただきます。
(難波賢一、7月6日メール)


■走リーマン、坪井伸吾さん
 いよいよ頑張って最終ステージヘ

 6月21日午前11時15分、ケータイ電話が鳴った。画面に「通知不可能」と出たので誰だかわかった。アメリカ大陸を走って横断中の坪井伸吾さんからだ。「ロッキーを越えて、デンバーまで来ました!」と元気そう。もう1800キロ。毎日50〜60キロの距離を走り続けている、というから大したものだ。「水など荷物が重いので、肩が痛いけど」と言っていた。背負っている荷物は12、3キロになるそうだ。

◆野宿を重ねていたが、「いまは若いクマが多いから、野宿はやめたほうがいい」とアドバイスされ、モーテル泊が多いらしい。「自分でもよくもっているなあ、と思う」と、不敵に笑った。7月9日、仕事で奈良に移動中に、また「通知不可能」電話。車内なのでとれなかったが、帰京して状況判明。坪井君の行動は、ブログ(http://blog.goo.ne.jp/shingotsuboi/)に随時記録されているので、是非見てください。

◆「61日目 7月9日 Cenate,KS(カンサス州のこと)インディアナポリスをゴールにする」との見出し。「一日約50キロのペースで前進。あと2日でモンタナ州へ。デニス台風というのが接近しているらしいが、中心風速が秒速70キロ。すごい。こちらは天気がよくなり、竜巻には遭わずにトルネード地域を抜けられそう。ビザの期限まであと1ヶ月を切り、今までのペースから計算すると、インディアナポリスを目標にする」。なるほど。帰国便を8月4日に押さえてあるので、インディアナポリスが走り旅のゴールとなるらしい。

◆7月11日午前11時過ぎ再び「通知不可能」マークが。地平線通信発送ぎりぎりの日に最新情報を知らせてくれるとは、偉いぞ、坪井!「いまカンサス州のはずれ、ヒアワチャ(先住民の地名か)というところに着きました2700キロです。さすがに疲れてきました」と言いながら元気な声。カリフォルニア、ネバダ、コロラド、ネブラスカ、カンサスと走ってきて、間もなくミズーリへ。「景色が変わりました。今まで空の青と小麦畑の黄色の2色だったのが、木々が出てきて、アップダウンもあって、そう北海道みたいな感じになってきました」

◆とは言え、時に40度にもなる暑さだ。5リットルの水と食料を背負い、毎日50キロ走るのはしんどいだろう。食料も簡単に買えるわけではなく、店さがしもタイヘンらしい。この日の宿のあるじは、親切なナバホ族の人で、車で買い物に連れていってくれたそうだ。「車に乗るなんて1か月ぶりでした。でも、総じてアメリカ人は親切で好きになりましたよ」

◆通りかかった車によく乗ってけ、と言われる。走って横断してるんだ、と言うと皆感動して飲み水や励ましの言葉をくれる。先日はコーヒーを振舞ってくれた農作業の人が後から追っかけてきて、ハンバーガーを差し入れしてくれたそうだ。「報道されている限りではアメリカはやりたい放題の国、という印象があるけれど、もっと親切な人たちでは、と感じた」。それと、これまで何度もアメリカに来ているのに、こんなに日本人に会わない旅ははじめてだそうだ。「2か月走ってきて、出会った日本人はまだひとりだけです。デンバーのユースホステルで会った、留学の下見に来ていた早大の学生でした」観光地のアメリカばかり自分も見ていたのかも、と付け加えた。7月いっぱい走りつづけても横断5000キロは難しい。インディアナポリスまでは3500キロだ。そこからニューヨークまでは時間切れでバスになる。(E本)


■風間深志さん、ついに「イリザロフ」から解放される

 パリダカの骨折事故で昨年1月以来、延々と「イリザロフ」(骨をつなぐために足の外側から骨を貫通して固定する金属の輪)とともにあった風間深志さん、6月8日ついにイリザロフから解き放たれ、2本の杖(クラッチという)のみの行動ができるようになった。7、8月は地球元気村の仕事がぎっしりで、岡山県、富山県、和歌山県と飛び回る日程。

 「秋には富士山に登りたい」と、ねらっている。


■リヤカーマン、永瀬忠志さん、
「地球2周目」にスタート、30年ぶりの日本縦断中。

 昨年、南米大陸縦断に続く沖縄一周で地球4万キロを歩きとおした永瀬忠志さんがなんと「地球2周目」への挑戦を開始した。最初のステージは、ご本人が「歩き旅の原点」としている「日本縦断」。6月20日、大阪を発ち、22日北海道宗谷岬をスタートした。

◆永瀬さんは、ちょうど30年前の1975年、19才の夏に70日間かけてリヤカーで日本を縦断した。これが14年後のアフリカ横断とサハラ砂漠縦断リヤカー行の原点となる。今回は日本列島の背骨にあたる中央部3200キロを30年前と同じルートをなぞり、その変容ぶりを体感しつつ、かってお世話になった人たちを訪ねながら歩く予定という。

◆本人はケータイを持っていないので、日々の行動は公衆電話がある場所から家族への連絡で知るしかない。大阪の紀意子夫人への連絡では順調に北海道を歩き通し(16日かかった)、7月8日、室蘭から船で青森入りした。青森では標高1000mもある笠松峠を越えて八甲田山山域を歩き、11日には秋田県に入った様子だ。毎日40キロ以上歩き続けており、リヤカーマン健在だ。ゴールは佐多岬。どこかで、出会った人は一報してください。(E本)

写真葉書『リヤカーマン』発売さる!
 旅のスタートの直前、永瀬さんが旅の先々で撮った写真を題材にした絵葉書「post card collection『リヤカーマン』」が発売された。永瀬さんの写真と短い文章、それにご存知自筆リヤカーマン絵が書き込まれた30枚の不思議なはがき。是非購入して応援しよう。インターネットでも本屋でも購入できるが、急ぐ方は発売先の東大阪市の「遊タイム出版」へ。電話は06-6782-7700。定価1050円+送料380円。

■ブラジルへ出発…
 後田聡子(のちださとこ)さん…2005.6.28

 明日6月29日から2年間、ブラジルはペルナンブコ州レシーフェ市に赴任いたします。JICAの日系社会青年ボランティアで、職種は日系日本語学校教師です。青年海外協力隊との違いは、相手国からの要請ではなく、現地(中南米)の日系人団体の要請に基づいて赴任することです。要するに、日系社会の発展のお役に立つのが目標です。

◆日系社会といっても、馴染みがない方が多いと思います。ブラジルへの最初の移民は1908年の笠戸丸からです。もうすぐ100年。やせた土地やジャングルを切り開き、マラリアなどで多くの犠牲を出しながらも必死に農業などに取り組み、現在はブラジルだけで約150万人の日系人が生活しています。(そのうちの約30万人が日本にデカセギにきているといいます)私たちは日本語や日本文化の伝承がこれからも続くよう、お手伝いに行くのです。

◆昨年暮れからJICAの試験を受け、今年2月に合格通知をいただきました。任地レシーフェを地図帳でわくわくしながら探しました。ブラジルの東北部に位置し、海沿いのリゾート地として名をはせています。また、リオとサルバードルとともに三大カーニバルの一つとしても有名です。一年中夏。たまに鮫注意報が出ます。

◆クラス指導の経験も日本語教師で生活した経験もなく、考え出すと何もかもが不安でなりません(海外で暮らすことへの不安はないかんじ)。3月に3週間、4月から2ヶ月間、JICA横浜にて日本語ポルトガル語研修どを受講しました。テクニック、語学はおいおい何とかついてくると信じています。現地の先生や学習者に教わりながら、生きてゆきます。

◆ただ赴任にあたり、このような心構えで臨みたいというのを考えましたので、勝手に宣言したいと思います。〈「聞く」こと−人の話を聞くとき、つい意識を飛ばして、自分の意見を考えていたり、自分の知識をひけらかそうとしていることが多々あります。反省中。虚心で聞き、その人の心に寄り添える人になりたいです〉〈すべてを前向きに受け止める−けっこう完璧主義で、思ったように物事が進まないと、一人でイライラしてしまいます。ま、死ぬことはないし。なるべく大らかに、良いところをひろって、状況を楽しみたいです〉 まあまあ、自分を客観的に眺める視点を大切にしたいということです。初心忘るるべからずですよー。みなさまにも、いろいろとご相談させていただくと思います。この1ヶ月、自分にたくさん愉快な友達がいることがわかり、感動してました。みんなすばらしいー。ラッキーです。メールとか、お餞別とかありがとうございました。これからもよろしくお願いします 2年後、笑顔で再会できますように、お互いの無事と幸運を祈ります
(後田聡子 6月28日メール)


ついに出版!
「マングローブと人間」
岩波書店

 ご無沙汰しています。ようやく『マングローブと人間』(岩波書店)を刊行することができました。著者のヴァヌチさんから本書をいただいたのが1989年、翻訳をして出版までに15年以上かかったことになります。若かったヴァヌチさんも今や84歳(と同時に私たちも年をとった)。なにやら『浦島太郎』の話になってしまいそう。“ゆっくり人間”の私たちですが、少々ゆっくりしすぎたな、と反省しております。

 とはいえ、とても示唆に富んだ内容です。お暇な折に“ゆっくり”と読んでいただけたら幸いです。

(7月2日 向後元彦・向後紀代美・鶴田幸一)

★注・マルタ・ヴァヌチさんはイタリアの海洋生物学者、詩人、哲学者。本書の刊行は、マングローブと長く取り組んでいる向後チームの貴重な成果のひとつ、と言えるだろう。




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

犬に引かれて北極圏

7月22日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)


旅先のカナダで見た犬ゾリの草レース。それが本多有香さんの人生を変えました。岩手大学を出て一端は就職したものの、「メチャクチャカッコ良かった」犬ゾリへの思いはつのるばかり。仕事をやめ、カナダに渡った有香さんは予備知識もほとんど無いまま、マッシャー(犬ゾリつかい)に弟子入りし、犬を育て、ソリを扱うすべを学びはじめます。

今年2月、「セーラム・ラン」というプロジェクトに、日本人としてはじめて参加。13人のマッシャーチームの一員として、ネナナ〜ノーム1200kmを走りました。「次は犬達と私だけで長距離の旅へ」という有香さん。

来年の「ユーコン・クエスト」1600kmを目標にベース作りの最中です。今月は本多有香さんに犬ゾリの魅力を語って頂きます。花火が好きという彼女と極北の出会いは?! お楽しみに。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付で!
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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