2006年6月の地平線通信

■6月の地平線通信・319号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙検家関野吉晴さんの「グレートジャーニー」に同行するようになってから、もう9年になります。テレビ取材のディレクターとして、1998年夏の極東シベリアの湿地帯横断に始まり、2002年にアフリカに着くまで、さらに去年からは「新グレートジャーニー」でヒマラヤ地方から日本を目指す旅に同行しています。それは、私たちの祖先が地球上に拡散していったダイナミックでドラマティックな旅の追体験でもあります。極東シベリアのツンドラを歩いている時、「ここは氷河期が終わった1万年前から全然変わっていないんだよね」と関野さんが発した言葉。足元の凍土をじっと見てしまいました。ここには初期人類が踏んでいった、そのままが残っている。そう感じました。

◆ゴビ砂漠でも、ヒマラヤでも、サハラ砂漠でも同じように、祖先の旅を追体験する瞬間があり、そんな時、祖先たちが地球の果てまで広がっていけたのは、探検心、冒険心を失わない精神力と未踏の地に歩んでいける体力があったからこそだとイメージしました。多分、その通りだったのでしょう。でも、それだけではなかったんじゃないかと最近は思うようになりました。人が人と出会うことによって引きおこされるエネルギーが、初期人類の旅を支えていたのではないかと。そのエネルギーとは、出会いを交流へと深めていく人間の優しさと、出会うことによってお互いを変化させていく力です。

◆そんな出会いのひとつをドキュメンタリー映画にしました。「puujee」というタイトルです。関野吉晴さんとモンゴル遊牧民の少女プージェーの出会いと交流を描いたものです。(ポレポレ東中野で7月7日まで上映中です。)6歳にして自在に馬を駆り、牛の群れを追う女の子プージェー。馬に乗ったその足は馬の腹にも届いていません。まるで牛の背に止まった蝿のようです。足をぶらぶらさせながらも巧みにバランスを取り、馬を完全にコントロールしています。写真撮影に夢中になり、知らず知らず少女の仕事の邪魔をしてしまった関野さんをプージェーは睨みつけます。その目は、仕事に責任と誇りを持つ者の目です。

◆関野さんは遊牧民の理想像をプージェーの中に見たに違いありません。関野さんはプージェーの家に通い続けます。突然訪ねてきた異邦人をプージェーの家族は何の先入観も持たないで迎えてくれます。1度目、2度目、3度目と訪問が増えるにしたがって互いの壁はどんどん低くなり、家族のようになっていきました。ある時などプージェーの母は馬を1頭関野さんにプレゼントしようとします。アフリカまで行くのなら、馬が役立つだろうから持っていけ、と言うのです。この時、プージェーの家は家畜泥棒に遭い大切な馬の半分以上を失っていました。モンゴル遊牧民にとって馬は乗馬用にとどまらず、その乳から作る乳製品は主食のひとつでもあります。ですから、馬を盗られるということはそのまま飢えを意味します。そんな苦境なのに、遠くまで旅をする関野さんに馬を持っていけと言う。そのような旅人に対する優しさは、世界中にまだまだ残っているようです。

◆ただし、出会いは時には思いもよらぬ方向に人を変化させてしまいます。プージェーは関野さんによって日本を知り、関野さんに同行していた通訳の女性に憧れるようになり、ついには日本語の通訳になる夢を持つに至ります。遊牧民の理想像に惹かれて通ってくる関野さんによって皮肉にも遊牧民ではない将来を選択するようになってしまったのです。不用意に接触してしまうと、その民族特有の文化を壊してしまうこともあるから、旅の道具である文明の利器、カメラやラジオさえ見せるべきではない、という考え方がかつてありました。しかし、そういう考え方はもう時代にそぐわなくなっています。グローバリズム旋風がもっと根本的に文化を変えつつあるのですから。

◆プージェーは日本語の通訳になった後、再び草原に戻ったかもしれません。その時にはプージェーは日本の行き詰まった社会に辟易として、かつては限界を感じていたモンゴルの草原の暮らしにこそ未来があると思ったかもしれません。時を経るに従って、人間の価値観は変化し成長しうるものだと思います。そのように、人類はお互いに変化させあって進化してきたのではないでしょうか。そして、人間にとって本当に必要なものが残った。人と人が出会い、変化させあって、あらたな価値観を育てていく。それが、人類がアフリカを旅立って南米の南端にまで広がっていった「グレートジャーニー」の現場で起こっていたドラマではなかっただろうか、そんな感慨を覚えていますが、どうでしょうか。(山田和也 映画「puujee」監督)


先月の報告会から

火おこしのススメ

大西琢也

2006.5.26 榎町地域センター

 大西琢也とは4年前彼の専門分野、野外教育の現場で知り合った。初めて会ったときから彼はまさしく夢追い続ける原始人。目の輝きが刺激的で、自然に対する心が深い。報告会にきた方々はわかると思うが、彼には人を惹きつける力がある。彼から出るエネルギー、オーラ、それとも彼の心の中にあるスピリッツがそうさせるのか、それは4年経った今でも表現することはできない。そんな大事な友人の話は、参加者全員が輪になって手をつなぎ時計まわりに「握り」を伝播する独特のパーフォーマンスから始まった。

◆初めて訪れた外国はバヌアツ共和国。彼がもともと専攻していた考古学の発掘のために行った。4000年〜5000年前の縄文土器があるということだった。仲間より一日早く現地入りし、一人村の中にテントを張ったタク青年がそこで出会ったのは、発掘の前夜、村の男たちの話し合いであった。「その内容はといえば…?」タクが会場のみんなに問いかけた。いろんな意見が飛び交い、答えは「土を掘り起こすことはいいことなのか?」ということだった。土地の人々にとって土の中を掘り起こすということは自分の体の中を掘り起こされるような感覚であったのだろう。昔のことを知りたいという、言わば日本人のエゴで発掘をしていいのだろうか…。タクはその思いと葛藤しながら発掘をした。結局土器は出てこなかった。

◆次にスクリーンには大海原に丸木舟が浮いている写真が。「何でも自分でやってみる」をモットーとするタク。バヌアツで見た丸木舟を作ってみたいということで立ち上げた企画“縄文丸木舟復元プロジェクト”の写真だ。丸木で舟を作り、縄文人が往復していた黒曜石の産地である神津島を目指すという試み。

◆自分たちで作った丸木舟で、仲間6人と沖にテストしに行った時のこと、海上保安庁の大きな船が近づいてきた。「君達、止まってください。その“木”を捨ててこちらの船に乗り移ってください」丸木舟を“木”と表現した海上保安官のことを彼は今でも鮮明に覚えているという。彼らは「嫌です」と返答し、実験を続けた。しかし、保安官はそのまま“木”に乗った6人の青年を放っておくことは出来ない。鋼鉄製の巡視艇は行ったり来たりし、スッタモンダの末、結局青年たちが折れ、大きな鉄舟に乗せられて帰ることになった。岸に到着した青年たちを迎え入れたのは大勢の報道人。新聞に載った内容は「無謀な『縄文人』、大人の判断を」というものであった。そうじゃないと否定したい気持ちを抱えながらタクは思ったという、自分の気持ちをしっかり持とうと。

◆23歳の時、日本山岳会の隊で、北米大陸最高峰マッキンリーに登った。「自然の中に入っていくと自分の命、心臓が動いていると感じることができる」「自分の歩みを止めてもいい、ただ誰にも助けはできない。自分自身で一歩を踏み出さないといけないのだ」と思ったという。自分が動くことの大切さを知ったこのときの体験を彼は人生において重要な出来事であったと言った。

◆さて、続いての話は日本海から太平洋まで21の3000m峰の単独連続踏破に挑戦した時のことだ。話の中で彼が強調したこと、それは“水の大切さ、水のありがたさ”であった。彼は数日間水に出会えず、葉っぱから滴る一滴の水も欲しいくらい干からびてしまった。やっとの思いで小屋に到着し、タンクに繋がるホースの中にわずかに残った水を飲んだときの感動はものすごかったそうだ。水が体に染み渡る幸福感。生き返る瞬間。言葉では表現できないようだった。

◆「今の子供たちは水は蛇口からでると思っている。川から流れている本来の水の姿を「水じゃない」と思っている。」本来の水の姿を子供たちに知って欲しいから子供たちとキャンプをしていきたいのだという。水のありがたさ、それを重みある言葉で表現できたのは水を本当に必要とした体験をもつタクの言葉であったからなのであろう。

◆5年前、九死に一生を得た体験、事故の話になった。多くは語りたくないことのはずなのに、彼は死んだかもしれない体験を乗り越えたから今話すことができるという言葉で説明した。「自分は好きなことをしていていいのか」という自責の念から「自分にできることはない?」「生かされている意味は?」と気持ちを切り替えた。長い年月をかけ、必死に悩み、そして乗り越えていった。彼の深みはこんな体験からも表れているのかもしれないと思った。

◆そしてここからが今現在彼が生きているためにやっているメインのこと、“火起こし”の話になった。「火はみんなの中に持っているもの。全てのものの中に隠されているもの」「火は子供だ。大切にしないと消えてしまうし、小さい弱い火に無謀に大木を与えても支えきれず消えてしまう」と語る。子供を対象に行っている野外活動の中で火起こしをするけど、そこで本当に教えたいのは火起こしではなく、「火は必要なもの」「火が欲しい」という気持ちだという。そして火が起きたときに感じた心、気持ちをその子の未来の人生に役立てて欲しいと思うのだという。??火を通して生き方を伝えたい??それが彼の願いであり、火起こしをする意味でもあったのだ。火が灯る時、火が目に入る瞬間があるという。それはまさしく人に“輝き”が灯ることのようにも思えた。

◆2年前、聖なる山、富士山の頂上で火を起こすことに挑戦した。5秒で火起こしをした記録を持つ彼が、なんと3時間半かかってしまった。「今まであんなに時間がかかったことはない」。手の皮が剥がれてくる、力も入らない、気力も失われてくる…。でもタクは決めた「火がつくまで帰らない」と。彼は気持ちを“火をつける”ことから“火をいただく”という思いに変えた。そして祈った。その時、神から贈られてきたように火が起きたという。

◆私は4年前から毎年夏、彼と数人の子どもたちと共に火起こしを山の中で行っている。火起こしの難しさもわかるし、手の痛みもわかるし、タクの火起こしの技術もわかる。だから、その3時間半という時間の重みが痛いほど伝わってきた。3時間半かかってタクがつけた火がどれだけ難しいもので、たくさんの葛藤と挫折の中で生まれた火だということが想像できた。自分の我ではなく、皆にささげると思ったときに神はささげてくれる。この時の出来事を彼は“人生観が変わった”と表現した。

◆しかし、人生そううまくはいかない。起こした火を下に降ろそうとランタンに火を灯し、下りかけた時突風に吹かれ、一瞬のうちに3時間半の結晶は消えてしまった。頂上からたった100m下ったところだった。“生きていて出会うものは全てメッセージ”と信じる彼は笑って言った「自分はまだ伝えることができないということだろうと思った。」と。

◆自分の生きている姿そのものを見てもらいたいから、やってきた経験や感動をそのまま感じてほしいから、火起こしを通して伝えていくのだという。最後に彼が締めくくった言葉、「土からもらって、土に返す。その中で生きていきたい」。火も土に帰るのだ。

◆彼はこれからもいろんな場所で火起こしを続けていくだろう。アフリカのキリマンジャロの標高5000m地点で、さらに人類発祥の地といわれるオルドバイ渓谷でマサイ族と火起こしをした。言葉が通じない中で火起こしこそが彼にとって言葉以上のコミュニーケーションなのだった。火起こしは彼にとって夢であり、ライフスタイルであり、生きる術であるのだ。

◆最後に、会場にきた人たちだけにはもう一つサプライズがあったのだが、それは会場にきた人たちだけが享受できた秘密ということで。今回来られなかった方は、またタクに直接会った時、何があったか聞いてみるといい。彼はきっと喜んで教えてくれる、やってくれるだろうと思う。だってそれは彼が生きている証だから。(山を走る鈴木博子)


[聖地、富士山へ]

 人生は初めの10年で決まる。冗談ではなく、僕はそう思います。昨年、「人生の総ざらい」なるものをしてみました。覚えているものをとにかく、書き出していく。これがまたすごいこと…。あれこれ出るわ出るわで、途中で5回はやめたくなったものです。うへぇ。一人の人生ってすごいです。書ききれるわけがありません。それでも、やっとこ続けてみたら面白いことが見えてきました。昔から「三つ子の魂、百までも」とか、「七つまでは神の子」と言いますが、これホント。自分が子供の頃に、見聞きしたこと、身体で覚えたこと、感じたことが人生の土台になっています。10歳ごろまでに経験したこと。あなたも思い出してみてください。きっと今につながる 「何か」がそこにありますよね?

◆僕の場合、大学を出たら考古学者!これが夢でした。しかし、就職活動に興味はなく、一人の行動者として、またプロの野外教育指導者として旗揚げ。現在はNPO法人という形で自然学校を運営し、子供たちの「根っこ」を育む野外教育を展開しています。活動の原点は5歳から始めた麓からの富士登山。「暗闇への畏怖」、「雲海と影富士」、「お日様の温もり」、などなど、こうして書いたり、話すだけで映像がフラッシュバックしてくるほどです。自分の足で一歩ずつ積み上げて、培った「世界観」。 僕は今でもそれに支えられて、生きています。これは本当に幸せなことだったなと、 つくづく思います。だって、今の子供たちは世界が狭すぎる。大人が創り上げた、妙につまらない人工的な空間で生きていくしかない。小さな映像や甘い誘惑に囚われてしまう。まるで家畜の世界。洗脳されて太らされて、行き着く先を想像できるのかな。これって哀しくありませんか。

◆そんな幻想から救い出したい。そのために、とりわけ生後10年は大切です。 「ひ・ふ・み、、、」と数えてみれば、1から10までで一巡り。子供たちがそこで、「ひ・と」になれるかどうか。「生まれた火種」に何をどれくらい、どうくべるのか。自立した炎になれるよう、手助けしたいものですね。僕はありがたいことに幼き頃から繰り返し富士山へ登ることで、ビジョンクエストができました。大人と子供の境界があいまいな世の中だからこそ、「通過儀礼」的な節目は重要になるでしょう。大人が「大人」になるために、子供が「大人」になるために、この夏、聖地である富士山へご一緒しませんか。人生、実践あるのみ。(火起こし野人より 6月8日)

■大西さんの富士山行は、
 ★第1ステージ 禊(みそぎ)年6月24日(土)〜25日(日)1泊2日
 ★第2ステージ 登拝(とはい)7月15日(土)〜17日(月・祝)2泊3日
 ★第3ステージ 祭(まつり)8月26日(土)〜27日(日)1泊2日、
と3つのステージに分けられるそうです。
参加費など詳細は NPO法人 森の遊学舎
 http://www.ugaku.com   へ。


地平線ポスト

地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。

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報告会余話

[その1 2次会で隣り合わせた衝撃の野宿の彼女] 

 朝晩はまだ肌寒い奥会津から5月26日の早朝出発!連休明けの桜がようやく散り、葉桜になったところから上京すると、何気ない都会の初夏を思わせる風や香りに刺激を感じます。少し早い夕方、瀬沼さんと神楽坂で待ち合わせをして一軒寄り道(?)をし、気分も良くなったところで都会の人混みをかき分け、毘沙門天や夜の明かりを眺めてワクワクしながら、会場へ向かいました。

◆報告者は10年来の友人である大西琢也君。出会った当時彼は大学生で、私はNPOのスタッフでした。確か?彼は火おこしを始めて間もなかった頃だったかと思います。年に一度くらいは、仕事や旅で再会しながらも、これまでの10年に彼が何を見て、聞いて、体験し、どんな気づきがあったのか?ということをまとめて聴くことはなく、色々な理由で報告会にはぜひ参加したくて出かけていきました。昨年の秋と冬には、私とパートナーの祝宴の場で二度も火おこしをやってもらったこともあって今回は二人で出かけました。

◆会場に到着すると、報告会は始まっていて…スライドはちょうど富士山の場面でした。私は見たこともない美しい山や島の写真を見ながら、これまでの体験で磨かれた彼自身の精神を見せてもらったような気がして嬉しかったです。報告会の終了後は、初めての「北京へ」!(後ずさりするパートナーのよしたつさんは周囲の人たちの誘いもあって一緒に北京へ)いや〜美味しかったです、餃子もエビも唐揚げも炒飯も、全部!

◆そして何よりも衝撃だったのは、隣に座った野宿人の彼女とアメリカを走って横断した坪井さんとの会話…です。私も久しぶりに違う世界の話を聞かせてもらいました。坪井さんは「いつでも走り出せるなら、また行ってみたいですね。」と、にこにこ笑顔で語り、野宿の彼女は「いつでもチャンスがあれば野宿しますね…」みたいな。私も驚きながら、笑いながら話を聞きましたが、もっとも衝撃だったのはパートナーだったと思います。「なんで、野宿するの?なぜ走るの?」と疑問と不思議で目を白黒させていました。そして勢い余って1冊500円の野宿本を2冊も買いました。

◆その本、今は会津高原尾瀬口の「ふるさと食堂」に置かれています。いやはや、地平線は多様です…元気になりました。いつでも、走りながら、野宿しながら奥会津までお越し下さい!(奥会津発 酒井富美)

★追伸:「野宿の彼女」の名前がわからなくってごめんなさい。

報告会余話

[その2 坊主頭ばかり見つめて…]

 終わったとき「来て、ほんとによかったなあ」とすごく思った、報告会でした。二次会で江本さんが「今日来れなかった人はもったいないよ」とにこにことおっしゃったのを聞いて、江本さんもそう思われたんだ、と嬉しくなり、「ほんとだほんとだ。もったいない」と思った私は、なにが「ほんと」で、どうして「もったいない」のか、「なんだか判らないけれどそう思った」と済まさず、たまには自分の言葉にできないものか、とここ半月考えたり考えなかったりで、考えていたのですが、結局うまくまとまらず、「行っても言葉に出来ない」くせに、「来ないと判らないんだいっ。だから来たほうがいいんだいっ。毎月行きたいな、報告会」とタイムリミット、匙を投げちゃいました。

◆とりあえず、1つだけなんとか判って言葉になるのは、報告会で「『いてもたってもいられない』心持に自分がちょっとなった、それが『よかった』」ということです。とても陳腐な感じです…。重度の「坊主頭フェチ」の私は、最初、大西さんの形よい坊主頭に気をとられ、お話は上の空で頭ばっかりを見つめていたのですが、知らず知らずの内、大西さんがまっすぐな感じで話すその姿勢と、そのお話に引き込まれてしまいました。

◆まだ報告会にお邪魔して3回目なのでほんとはなんともいえないのですが、前回までは、なんとなく他人事に、この機会にしか間近にお見かけできない「すごい人」をぼんやり見物するって感じだったんです。が、今回、そんなに自分と年が離れておらず、その人に対しての予備知識がない(ゴメンナサイ〜)方のお話に引き込まれる。「目の前の大西さんがすごい」と感じられるってのが、すごく嬉しいというか、身に染みるというか。かっこいい人だなあ。31歳の人とはこんなものなのだろうか。どう考えても、5年後に自分がこうなれるとは思わない。時の流れとは均等ではないのだ。ぼやぼやしてては、いかんなあ。

◆そんなことをつらつら思った私は、なんだか、「いてもたってもいられない」のでした。でも、そう思った、その後の行動が大事なのに…。なにをしていいのやら…。とりあえず、そんな時は、野宿だっ。野宿だっ。(と、あーあ、お茶を濁しちゃった…。)(衝撃の『野宿野郎』編集長 加藤千晶)

祝!第10回植村直己冒険賞授賞式

[植村直己スピリッツ健在なり!]

 行ってきました、植村直己冒険賞授賞式。受賞者のリヤカーマン永瀬忠志さんは、2月に記者会見で発表され3月に地平線でも報告していただいたので、みなさんすでにご存知と思いますが、式典は6月3日に植村さん生誕の地、兵庫県豊岡市で行われたのですね。今年の授賞式は第十回記念スペシャルで、歴代の受賞者がずらりとほぼ集まり豪華絢爛、安東もいちおう2年前の受賞者なので呼ばれていたのです。受賞者の中では最年少なんだって。他にも植村さんの奥さんの公子さんとか、早稲田探検部出身作家の西木正明さんとか、サル学の権威の河合雅雄先生とか、植村さんがマッキンリーに挑む最後の姿を撮ったテレ朝の大谷映芳さんとか、北極など植村さんの写真を撮り続けた安藤幹夫さんとか、あやしい探検隊の越谷さんなどなど関係者がいっぱいでした。地平線世話人の三輪さんも奥さんと来ていましたよ。奈良からシール・エミコも駆けつけましたが、筑紫哲也ニュース23のエミちゃんの特番見ました?あの番組内容だったら元気もらう人たくさんいたと思います。関西だけで放送された2時間の特番はさらに奥が深いです。エミちゃんから番組DVDを預かっているので、榎町の報告会に来られて見たい人には貸し出しますよ。

◆授賞式と記念講演は滞りなく終了し、夜の祝賀パーティーには広島の大学で授業があった関野吉晴さんが遅れて到着、これで役者はそろいました。でも一番すごいのは埜口保男さんかも。小学館ノンフィクション大賞を受賞し、通信で刑務所レポートを連載していた自転車世界2周の埜口さんですが、関東から新幹線で米原まできて、そこから1日で自転車で走り二次会の酒の席に到着しました。この距離を1日で走るには時速30キロをコンスタントに出さねばならないはず。安東の2倍のスピードです。かなわんなあ。

◆さて、翌日は子供たちお待ちかねの大イベントです。クライミングボードに熱気球にマウンテンバイクに川下りにウォーキングと、多彩なイベント。しかもそれぞれのジャンルで新たなる境地を開いてきた歴代受賞者がついているのですから、日本探検冒険史上かつてない大イベントと言っちゃっていいのではないでしょうか。尾崎隆さん、山野井夫妻、渡邉玉枝さんと、過去10回の中で最も受賞が多い登山のステージでは、特設クライミングウォールに子供がワラワラと群がっていました。子供ってのは本能的に壁があると攀じ登りたがるものなのでしょうか。こんなにクライミング好きだとは驚きです。大人になるほど、無関心になってゆくのかな。山野井さんも妙子さんも子供に声をかけながら、ずっとビレーしていました。

◆豊岡市を流れる円山川では、川原に石で囲ったいけすにアユが放たれ、手づかみで捕まえて塩焼きしたり、関野さんも古タイヤチューブのイカダに子供乗せて川を漕いでいました。ぼくは目撃してないですが、永瀬さんはリヤカーに市長を乗せて練り歩いていただとか。シルクロード・ランの中山嘉太郎さんは田園風景の中のウォーキングツアーを先導してたらしい。神田道夫さんの熱気球体験飛行も、子供たちが行列で待っていました。神田さんといえば地平線300回記念フォーラムで石川直樹さんの報告にもあった熱気球太平洋横断の立役者です。

◆安東は地元ボーイスカウトのみんなとマウンテンバイクを担当。公園に土を盛って作ったトライアル特設コースも、林道や遊歩道を組み合わせて作ったクロスカントリーのコースもよくできたもので、家族連れが走り回っていました。地元衆の手作り感あるイベントでもあり、対外的にはほとんど宣伝されてなく、もし大きく告知されていたら関西圏に近いのでどっと人が押し寄せ大変だったかもしれない。ちょうどよいくらいの賑わいでした。

◆植村直己さんの名は本当に世界的で、ロシアでも知っている人に度々会いましたが、シベリア奥地で狩猟生活しているヤクート人から、ナオミウエムラという言葉を聞いてびっくりしたこともあります。でも最近、日本でも植村直己を知らない人が多くなってきました。こういうイベントが日本各地でしょっちゅうあると、ガキンチョにはいいですね。都市の子供なんて、うちの娘もそうですが、自然と触れ合うことが本当に少ないですよ。植村スピリッツは自然の中にあり。なんとかしなければ。

◆豊岡市は自然も豊かです。一度ほぼ絶滅したコウノトリを、人工飼育し自然復帰させた所で有名ですが、まだ植村直己さんが子供のころは、そのへんにいくらでもコウノトリがいたのでしょう。壁や川や気球で目を輝かせているガキどもを見ていると、川辺で牛を追っている植村少年の姿が目に浮かぶようでした。(6月15日 娘が幼稚園に行っている間、タマゴッチの面倒を見る冒険サイクリスト・安東浩正。あっ“やんぐめめっち”がおなか空いて騒いでる。このあいだほっといたら、帰ってきた娘から、死んじゃうでしょ!って責められたもんなあ)

[ゴビ砂漠250キロを走って]

 江本さん、お元気ですか?今、ゴビ砂漠に来ています。実は、「ゴビマーチ」という、砂漠を走るレースに参加しました。2時間前にレースを終え、目下バスでウルムチ(中国、ウィグル自治区)に向っているところなんです。このレースは全長250キロのゴビ砂漠を、7日間かけて走破するもので、「Race of noreturn」と呼ばれています。92名の参加者(うち女性20人)は、食料、寝袋、衣類など全ての装備を背負い、自給自足しながらゴールを目指します。主催者側から支給される物は、水とテントのみ。7日間で6ステージ(一番長いステージは78キロ)、毎ステージの合計で成績がでます。私はこれまでにモロッコとエジプトのサハラ砂漠、ヨルダンのシリア砂漠を走ったことがありますが、今回のコースは、モンゴルに近いハミ盆地から天山山脈にまたがる地にあり、標高は2000mから3000mで気圧が低いのと夜間の気温が低いことで違った厳しさがありました(実は昨年、56度だったらしいのです。当然、砂漠ということで暑さ対策しかしてなかったランナーも多くいて夜の冷え込みがきつかったわけです)。

◆1日目は37キロで、6キロに及ぶ沼地があり、ランナーを苦しめました。足を踏み入れると、どんどん、膝まで埋まって足が抜けないのです。無理やり抜くと、こんどは靴が脱げる。靴を掘り出そうとすると、両手まで埋まってしまい、這って渡りました。この日は37キロだったのですが、この底なし沼のような所を終えたときには、走るだけのエネルギーも筋力も無くなっていました。

◆2日目は、37キロで割と平らなコースでしたが、風が強く、口をバンダナで覆って走りました。真っ白な天山山脈が姿を現した時には、その美しさに溜息がでました。3日目は39.7キロで、スタートしてすぐ、険しい岩を登り、標高2774.5mの峠を越えました。まだ、雪が残っていて、可愛い草花も咲き、心が和みました。

◆4日目、5日目は、2日間で78.1キロ。ローズマリーの咲く草原を駆け抜けたり、川をいくつも渡ったりしました。飛び越えたつもりが川で尻餅をついてしまって、びしょ濡れになってしまいました。後半、風が強くなり、雨も降ってきて、ウィンドブレーカーを着ました。最後に、砂丘を越えましたが、後ろに天山山脈がそびえ、目の前に立ち塞がる砂丘、その美しさにまた、感動です。

◆6日目は、53キロ。標高2888mまであがり、麓の村まで降り、川を膝まで浸かって渡り、渓谷を登っていきました。まるでロッククライミングのようで面白かったです。7日目は、13キロ。川に沿って、草や石ころを踏みしめながら、ゴールの村を目指しました。何度も転んで、傷だらけになりました。私の成績は、女性で、全てのステージが2位か3位だったのに、合計するとトップになっていました。なんだか、不思議な気がしました。きっと、ゴビの大自然と、一緒に7日間を過ごした大会スタッフ、世界いろんな国から参加のランナーのおかげで、すごく楽しめたからかもしれません。また、お会いできましたら、写真も見ていただきたいと思ってます。では、お会いするのを楽しみにしています。(6月3日 貝畑和子)

★貝畑さんは、1952年生まれ。02年にはアメリカ横断レース(女子1位)04年にはシベリア大陸横断走り旅(デンマーク、ロシアの男性ランナーと3人でバルト海沿いのサンクトペテルブルクから日本海沿いのウラジオストックまで10417キロを217日で完走)など、とんでもない走り旅をやっている岡山在住の女性。

[浜比嘉島の披露宴に行ってきました!!]

 この冬に結婚のため沖縄・浜比嘉島へ移住した外間(ほかま)晴美(旧姓杉田)さんの結婚披露宴が、6月10日その浜比嘉島で催され、たくさんの友人がかけつけました。浜比嘉島は那覇から車で北東に1時間半。沖縄本島とは海中道路と橋で繋がっています。「すべての願いがかなう島」と呼ばれ、シルミチユー神が住んでいる神秘的な島。もこもこした木々が生い茂る島内を歩いていると、精霊たちに守られている気分になります。小さな島とはいえ、浜地区と比嘉地区に分かれ、祭り行事も別々。披露宴翌日も浜地区のハーリー(木舟のレース)が開催されていました。しかも、新郎の外間昇さんは朝早くからレースに出場!

◆沖縄は梅雨の真只中。台風のような嵐の中、宴は地謡の「かぎやで風節」で始まりました。新郎新婦もサンシン(三線)を弾いて歌って楽しそう。どうやら、サンシンが二人の縁結びだったらしい…。外間さんのご家族やお友達も次々と芸を披露し、次第に「大芸能大会」になっていきました。お祝いのスピーチなんて、ほとんどなかったし必要なかった。二人のために島の方々は、夜な夜な集って練習をしていたとのこと。小さな頃から、歌や踊りが身近にある暮らしをされている人達の、美しい所作。そして、めったに見ることのできない比嘉地区のエイサーが宴を盛り上げました。エイサーの原型といわれている素晴らしい動きに目が離せませんでした。かっこいい!!(今年は8月8日満月の夜にエイサー大会との情報有り)

◆長野淳子ネーネー率いる内地サンシンバンドも大活躍。いい味出していました。サンシン演奏している人たちはほんと幸せそうです。新郎新婦二人での演奏のときは、「晴美ちゃんはこちらの人になったんだなぁ」としみじみ思いました。最後はみんなでカチャーシー(踊り)。やぎやアヒルと暮らしているお二人らしいあたたかい披露宴でした。参加できてよかった。

◆ちょっと余談。ちょうど二週間前の五月の終わり、フェアトレード団体のイベント「手仕事が結ぶネパールと高山」が開催されました。このイベントで私は、織りのワークショップを開き、シンポジウムのパネラーとしてネパールでの染織指導について話をしました。参加者の中に沖縄から3人の方が高山にいらしていました。フェアトレード製品を置いているカフェギャラリーのオーナー、国際協力を教えている大学教授と学生。カフェのオーナーと初めてお会いしたのはカトマンズだったし、これも何かの縁、と今度は私がカフェを訪ねてみる番でした。なんと、3人全員に会えてしまった!ミラクルミラクル。

◆外間夫妻のおかげでいろいろな方に出会い、再会できました。那覇では、「金細工・またよし」(編注:あるじの又吉さんについては「編集後記」を参照のこと)の「結び指輪」も手に入れたし、いろんな縁を結び合っていきたいものです。しかししかし、私の王子さまはいったいどこに?と思いながら、島を後にしました。その後、晴美さんから連絡があり、ハーリーでは外間さんのチームが優勝したそうです。幸せが勝利をもたらしたのですねぇ。(飛騨高山在住 あいかわらず夢見る染織家のナカハタトモコ 6月15日)

「ゴンとの友情」

 浜比嘉島の宴は楽しかった。中畑さんが書いてくれているように、芸能大会の「地力」に私は圧倒された。「地方(じかた)」の朗々たる声、小さな太鼓を打ちながら踊るパーランクーの芸を目のあたりにしながら、この人たちはただものではない、とただただ感じ入った。宴の準備で島の人たちも、当の外間夫妻も大忙しだったらしい。何もできない私は自分ができる唯一の仕事として「ゴン」の散歩をしっかりやることにした。

◆琉球犬の血をひくというゴンは1月に知り合って以来の仲良しだ。私を見て一瞬首をかしげたが、次の瞬間、猛烈に尻尾を振って喜んだ。おそらく雨で十分散歩できなかったのだろう。ぐいぐいロープを引いて何度もトイレでしゃがみこんだ。人間のお祝いなのだから生き物も幸せにしたい、と勝手な解釈でご飯もつくってあげた。人の結婚披露宴でわんこの食事や散歩にうつつを抜かすおやじに、遠くから参加した晴美さんの友人たちはたまげたであろう。

◆翌日も那覇に引き上げる前、時間をかけて散歩した。前にも一緒に行ったことのある美しい海岸を目指したのだが、途中で鎖が外れてゴンはそれっ!とばかりに走って行ってしまった。こりゃまずい、つかまらないままでは帰るわけにはいかないぞ(実際、体力あり余っている犬をつなぐのは時に厄介なことになる)。しかし、浜辺をしばし散歩し、頃合をみて「ゴン!」と呼ぶと、彼はすぐに帰ってきた。尻尾を振って嬉しそうだ。やれやれ。外間さんとはろくに話もできなかったが、ゴンとは短い時間にたっぷりつきあえたのが嬉しい5か月ぶりの島だった。ゴン、また会いに行きます。(江本嘉伸)

W杯サッカー地平線緊急レポート

[でかいオージーとぬかった猛暑対策

        ━━岸本夫妻のドイツ報告]

 6月10日から14日まで3泊5日でドイツへワールドカップの観戦に行って来ました。 皆さんご存じのように日本はオーストラリアに1対3で敗れました。現地で観戦して感じたことをいくつか報告します。

◆まずオーストラリア人は本当に大きい。選手だけでなく町で会うオーストラリアサポーターは皆大きかった。きっと彼らは日本人サポーターがあまりに貧弱な体格なので、負けるわけがないと感覚的に思ってしまったはずです。実際の試合でも予想通り後半から大きなフォワードの選手を次々に送り込み体力勝負に持ち込まれてしまいました。「最後は勝ちたい気持ちの強い方が勝つ」と訳知り顔で解説する人がいますが、身長で10センチ以上高く、体重で20キロも重い相手から90分間体当たりをされ、時に肘打ちや膝蹴りを食らわされては、その痛みと恐怖心を克服して試合に勝つためには精神力だけでは不可能です。ボールをゴール前に放り込むだけの相手の単純な分かり切った攻撃に対し、防ぐ手段は本当になかったのか、残念でなりません。

◆4年前の日韓大会に比べて涼しい気候のドイツ大会はコンディションに恵まれるはずというのは嘘でした。大会開始までは練習でも手袋をするなどテレビで見ていても寒そうでしたが、今や一気に夏になっています。冬のスポーツのためドイツのサッカー場は寒さ対策を前提に作られています。カイザースラウテルンのサッカー場も観客席と屋根の間は強化ガラスで覆われていてすきま風さえ入らないように作られています。屋根も芝生育成のために先端は太陽光を通すように透明にしています。従ってピッチ上は無風で日陰も全くありません。試合当日は35度になっていました。日本は暑さ対策を怠っていたのではないかと思います。実千代が発見したのですが、控え選手のベンチの屋根も透明のためオーストラリアは試合前に濡れた布を乗せ日陰を作っていたそうです。日本は試合が始まってから気づいて真似をしたらしい。川口がスローインに飛び出してしまい、同点にされた場面も暑さ対策を怠ったために脱水症状になり判断力が鈍っていたのではないかと思っています。

◆テレビでは集音マイクを経由するためどの様に聞こえていたか分かりませんが、応援の迫力がオーストラリアの方が圧倒的に勝っていました。日本代表の青いシャツを着ている人が約15,000人とするとオーストラリアの黄色いシャツを着ている人は約10,000人ぐらいでしょうか。人数では勝っているのですが日本のサポーターの半数は女性のため大きく威圧的な声を出すことが出来ません。しかも日本人は一カ所に集まってリーダーの指示に従って声を出すことは出来ますが、分散していると声がまとまらないし何を叫べば良いかも分からなくなってしまうのです。

◆逆転され試合終了の笛が鳴ったときには体中から力が抜け、この試合から与えてもらえるはずだった「勇気」や「誇り」とは正反対の言葉が頭の中を駆けめぐりました。隣の女の子たちが涙を流しているのを見て私も本当に泣きたい気持ちでした。彼女たちと別れて帰る時も言葉が浮かばず軽く肩を叩くことだけしか出来ません。暫く歩いて冷静になってから思ったのはこれでサッカーを嫌いにはならないで欲しいということでした。いずれにしても日本の初戦は予想されていた中で最も悪い結果になってしまいました。次は勝ってほしい。でもどうすれば勝てるのか分からない。それが気分を悲しくさせています。

◆ただし、日本の敗戦以外はとても楽しい観戦旅行でした。今回のドイツ大会は謹厳実直なドイツ人というイメージを変えていくためのきっかけにするのだということで、様々なプロジェクトが組まれています。その一つがサッカー場以外でもワールドカップを楽しめるように、町中に巨大なテレビを設置し1万人単位の人に無料で楽しんで貰おうという企画です。実千代と二人でドイツに到着した日の夕方からフランクフルトの中心部へ行き、まずレーマー広場でその日の勝利を祝って大騒ぎをしているイングランド・サポーターを見てきました。警官隊が遠巻きに見張り、その外側に騒動を期待するテレビカメラが何台も待ちかまえていましたが、何も起こりませんでした。

◆ファンフェスト会場では試合の中継が終わり、各国の代表シャツを着た人々が流れている音楽をそれぞれが楽しげに口ずさみながら帰っていきます。持ってきてはいたものの着るのをためらっていた日本代表シャツをそこで着ることに決めると仲間に加われた気がしました。

◆翌日、ホテルのシャトルバスで実千代が着ている代表シャツを見てアイルランド人の男性が話しかけて来ました。連れの女性は日本に都合3年住んでいた人で、上手な日本語で話してくれます。私も2度アイルランドへ行ったことがあり大好きな国なのでそのことを話すとさらに喜んでくれ、わずか15分ほどの間でしたが楽しい会話をすることが出来ました。

◆オーストラリア戦当日は、カイザースラウテルンの町中の駐車場でバスを降り、丘の上のスタジアムへ歩く途中のスーパーマーケットで買った、全く冷やしていないのに、おいしかったビールがその日唯一の楽しい記憶です。敗戦に打ちひしがれ、やけ酒だと言って帰りは2本買って実千代と二人で歩きながら飲みましたがやっぱり美味しかった。スーパードライではこうはいかないでしょう。(岸本佳則 地平線きってのサッカーフリーク兼解説者 6月15日)

W杯サッカー地平線緊急レポート

[コパ ド ムンドの熱狂

        ━━ブラジルからの報告]

 お元気ですか。ついに「コパ ド ムンド」が始まりましたね!ワールドカップ。コパが始まったら、ブラジルのゲームがある日は、会社も学校も全部休みです。大会前から大した気合の入りようで、洋服屋には、かならずブラジルTシャツが前面においてあります。そしてみんなそれを喜んで着る。テレビのニュースの半分以上はコパの話です。おかげで、日本の様子も見られて、私は嬉しいですけど。日本のことばかり言っていて、クロアチアやオーストラリアのニュースは少ないのはなぜでしょう?

◆注目のブラジル・クロアチア戦はブラジル時間の13日16時に開始。うちのマンションの受付の女性は、紺ジャケットの下はブラジルTシャツで、頭にはブラジルバンダナ。ふと道行く人を見れば、8割がたブラジルTシャツ。黄色と緑を主体に、デザインの限界に挑戦!という感じです。いったい何種類あるんでしょうね、これ。結構かわいいけど。

◆15:30にうちを出て、いつもお世話になっている日系人のお宅に出かけました。町中の車の運転がいつもよりかなり荒い。クラクション鳴らしっぱなしで、観戦ポイントへ急ぐ人続出です。ブラジル人に「段取り」という言葉は存在しない、と私はにらんでいます。直前にビールを買い、直前に出かけるのですよ。

◆試合が始まると、町が止まっているのがわかります。何も聞こえません。カカーのシュートが決まると、開け放した窓から歓声と爆竹が鳴り響きました。ベランダに出て外を見ると、あちこちの窓に爆竹の白い煙が漂い、ブラジル国旗、緑と黄色の垂れ幕と風船が風に揺れています。しかし、ご存知の通り、とくにロナウドの調子が悪く、1点しか取れず仕舞いでした。みんな勝っても文句を言っています。国民全員が解説者のようです。余裕のブラジル人は「日本にもまだチャンスはあるよ」と励ましてくれました。

◆日系人の反応が私には興味深いのです。高齢者だと日本派が多いのですが、年代が下がるにつれて、ブラジルへの思い入れが強くなり、でも日本も見捨てられないという複雑な心境になるようです。準一世のおばさんは「もう日本対ブラジルは見ません。胸が痛くなるから」とすでにゼーゼーしています。二世の大学生は「僕、ちょっと日本に行って手伝ってくる」というので「何を?」と聞くと、「僕が日本代表のストライカーやるよ、うん」と肯いていました。彼はブラジルのゲームが気に入らず、試合終了後、さっさと日本代表のユニフォームに着替えていました。そんな複雑さが彼らにはあり、日系人独特の魅力になっているのではないかと私は思います。

◆今日は、うちの学校に地元のテレビ局が撮影に来ました。日本でも、よくありますよね。日本対ブラジルの前に放送するそうで、いい宣伝になると喜んでいます。青年会は、テレビ局のスタジオで得意のよさこいソーランを踊るよう頼まれ、張り切っています。ただでさえ、ブラジル人には日本贔屓が多いのに、ワールドカップでそれに拍車がかかった感じです。どんなきっかけであれ、「日本ここにあり、レシフェ日本文化協会もここにあり」と認知してもらえれば嬉しい、みみっちい私でした。 (レシフェ発 後田聡子 6月16日)

[マルディ・グラよ、永遠なれ──絶望の街ニューオリンズより]

 さて、先月は南米ペルー某所の、電話線はおろか電気すらない山奥へ急遽出撃となり、カーニバル・レポートの続きが送稿不能となってしまった。伏してお詫び申し上げ奉り候でござる。

◆というわけで、話はハリケーン・カトリーナ被災後のニューオリンズである。マルディ・グラの行事に間に合わせるために突貫工事で修復した中心街フレンチ・クオーター界隈では、そこ彼処に観光客の姿が見受けられる。ジャンバラヤやガンボなど、地元の名物ケイジャン料理の有名レストラン前には、ガイドブックを手に並ぶ人も多い。

◆その賑わいを後にしばし北上すると、巨匠サッチモの名を冠したルイ・アームストロング公園が広がっている。公園の西南の一角はコンゴ・スクエアと呼ばれ、奴隷輸入港として栄えた時代には、黒人奴隷たちが日曜日だけここに集い音楽を演奏することを許されていた。南北戦争が終結した後、軍楽隊の中古楽器を手にした元奴隷たちがこの地でバンドを結成し演奏したのがジャズの産声だった。

◆ニューオリンズを中心とするルイジアナ=ミシシッピー・デルタ地帯は、ジャズをはじめブルース、ソウル、R&B、ロック、そしてファンクの故郷である。「ジューク・ジョイント」という居酒屋兼博打場兼売春宿兼ダンスホールが、その揺りかごとなった。幼き日のエルビス・プレスリーは、黒人の乳母に育てられ、ジューク・ジョイントから洩れてくるリズムを聴きながら成長した。クロスロードからメンフィスを経てシカゴへと続くブルース街道沿いに、B・B(ブルース・ボーイ)・キングをはじめとする、幾多の巨匠たちが腕を競っていた。

◆これらの音楽的要素がなかったら、現在世界中に広まっているポップ・ミュージックは存在しえなかったことは確かだ。ビートルズからヒップ・ホップまで、そのすべてが、である。奴隷貿易という人類史上最悪の過ちが生み出した、偉大なる救済とでもいえばよいのだろうか。だが、その聖地コンゴ・スクエアは堤防決壊時の洪水で水没し、公園も周辺の歩道もいまだ通行不能状態のまま放置されている。

◆ケイジャン料理のケイジャンとは、カナダ・ノヴァスコシアのアケイディア植民地に住んでいたフランス系移民が、イギリス軍に追われて南下しルイジアナに住み着いた史実に由来する。アケイディアからきた難民たちが、ケイジャンと呼ばれたのだ。アケイディアとは、ギリシャのペロポネソス半島中部の高原アルカディアからきた「理想郷」の代名詞。移民たちは新天地に理想郷の夢を託したのだろうが、その理想郷はいまだに瓦礫の地平線が広がる廃墟だ。とくに、公園東側の黒人居住区ナインス・ワード(第9地区)界隈はまったくの無人地帯で、家々は朽ちるにまかされている。

◆被災前後のあまりに杜撰な対応は、すでに厳しく指摘されてきた。巨大ハリケーン上陸へのお粗末な備えも避難時の混乱も、ほとんど人災としかいえないお粗末なものだった。その実態は、現大統領の母親がドーム球場の水も食料もトイレもない被災民を前に発した、「ここにいるたくさんの人々は、もともと恵まれていなかった連中よね。だから、ここは彼らにとっては格段に居心地がいいでしょう」という一言に集約されているだろう。

◆現時点で進行している復興事業も、同様に醜悪極まりないものだ。総額2000億ドルという異常に膨れ上がった復興予算は、現副大統領がCEOを勤めていたハリバートン社やその子会社KBR社が優先的に落札するシステムで、住民のニーズに応えたものからはかけ離れている。イラクで行なわれた恥ずべき行為が、自然災害を利用してアメリカ国内でも同様に行なわれているわけだ。

◆被災前の人口48万人のうち、68パーセントは黒人だった。まだ避難民は州外に離散したまま、戻ったのは4割前後といわれているが、戻れない元市民の大半は黒人層というのが現実なのである。戻っても仕事も無いままトレーラーハウスでその日暮らし、配給の食糧品で糊口をしのぐ日々が待っているだけだ。

◆週末に予定されているパレードのコースを歩いてみると、寒空に飾り付けの揺れる中心街は部分的に桟敷席も組んであり、一応の準備が整えてある。ビジネス街を外れると、比較的に被害の少なかった閑静な高級住宅街が広がる。この界隈は市内でも一番先に住民が日常生活を取り戻した地域で、レストランや店舗もいち早くビジネスを再開している。露骨なまでの違いに、気分は盛り下がる一方だ。

◆セカンドラインと呼ばれる独特のゆらぎ系ビートにのって、観客に色とりどりのビーズを投げながらパレードする本番でも、盛り上がりはほぼゼロのまま。これほどまでに哀しい祝祭は、長きカーニバル人生でも初めての体験だった。祝祭がハレ=非日常へ導く機能を果たすものである以上、ハリケーン被災後の異常な日常のなかでは、祝祭はまったく機能しなくなっているのだろう。

◆本来、カーニバルは政治とは無縁の人々が一時的に政治的手段を持つ方法であり、生きることの難しさを笑いのうちにやり過ごす仮面とされてきた。とくに、人種や階級、経済的に分化された社会にあって、下位に位置する人々が(しばしば暴力を伴いながら)年に一度、すべての価値を逆転させ、日常の鬱憤を晴らす行為として公認されてきた歴史を持つ。無化され機能不全に陥ったカーニバルは、絶望の街ニューオリンズをそのまま象徴していた。とはいえ、我がカーニバル・リストに不動の1ページを刻んだこともまた確かである。再びハリケーンの季節を迎える祝祭都市の復活を、心より祈りたい。(ZZZ-全・カーニバル評論家)

★「マルディ・グラ=太った(肉食の)火曜日の意。ニューオリンズをはじめ、ラテンアメリカ〜カリブ海地域のフランス文化圏でのカーニバルの総称」

小林尚礼さんの写真展

チベットの聖なる山 『梅里雪山の世界』

■ご無沙汰しています。5月は、雲南・四川にツアーの仕事で行っていました。東チベットの奥地でも、観光開発やオリンピックに向けて大きな歯車が動き出しています。毎回訪問するたびに、異邦人の期待や幻想が入りこむ余地などない現実を突きつけられます。都内のギャラリーで、梅里雪山の写真展を16日から開催します。(小林尚礼)

★チベットの聖なる山 『梅里雪山の世界』
★期間: 6月16日(金)〜6月30日(金)
  11:00〜19:00 ※日曜休館
★会場: 丸の内さえずり館
千代田区有楽町1-12-1 新有楽町ビル1F
TEL:03-3283-3536
http://www.m-nature.info/about/index.html

渡辺一枝さんの写真展

『花のチベット』

  光がこぼれて 花になる
    大地がうたうと 花が咲く
      風がわらうと 花は揺れる
                    渡辺一枝

★期間:6月28日(水)〜7月6日(木) 11:30〜19:00
★会場 セッションハウス・ガーデン
 (新宿区矢来町158)03-3266-0461
★無料。
 28日にトークショーあり。電話申し込み 1000円


地平線新刊情報

■登山家であり、編集者の服部文祥さんの初めての本が刊行!『サバイバル登山家』 服部文祥 著(みすず書房刊四六判・264頁 2400円+税)「生命体としてなまなましく生きたい」から、食料も燃料もテントも持たず、ケモノのように一人で奥深い山へ分け入る。南アルプスや日高山脈では岩魚や山菜で食いつなぎ、冬の黒部では豪雪と格闘し、大自然のなかで生き残る手応えをつかんでいく。「自然に対してフェアに」という真摯な登山思想と、ユニークな山行記が躍動する、鮮烈な山岳ノンフィクション。(釣り上げたばかりのナマ魚をかじっている作者の表紙写真がかっこいい!!)

■探検愛好新聞記者、角幡唯介さんの本が刊行、『川の吐息、海のため息−ルポ黒部川ダム排砂』(桂書房 1500円+税) 富山県の黒部川で毎年実施されているダム排砂問題を取り上げたもの。黒部川の関西電力・出し平ダムと国土交通省・宇奈月ダムは、全国で唯一、本格的な排砂ゲートを据え付けたダム。ねらいは良かったが、毎年一時期に一気にたまった土砂を流すため、海や川の漁業に深刻な被害を与えている。漁船に同乗したルポや、海や川の漁業者の被害の声を報告し、排砂事業が始まった経緯や、黒部川だけで排砂が実施されている理由、現在の排砂の運用の問題点を指摘している。


[編集後記]

 この通信が皆さんの手元に届く頃、日本サッカーの命運は決まっているだろう。クロアチア戦、どう見ても簡単ではないが、切り抜けることを祈ろう。

◆外間さんの披露宴に参加する前、一足先に沖縄入りしていた妹尾和子さんと那覇の「金細工工房・またよし」を訪ねた。又吉健次郎さんは1年前からの知り合いで地平線通信も大事に読んでくれている。何よりも高く評価してくれたのが長野画伯の力量だ。

◆1月訪問した時に亮之介画伯・丸山純制作になる「地平線カレンダー」をお持ちしたら、食い入るように見つめたままとなった。これはすごい、すごいと連発し、もう一部ありますか、あげたい人がいるので、と言う。それだけではない、又吉さんは自分のブログでこのカレンダーを紹介したのだ。

◆<今週、「地平線会議」の編集長 江本嘉伸氏にお会いして「地平線カレンダー」をいただきました。題して『アジア各地の音の風景を訪ねて』。このカレンダーを見た時、出不精でなまけ者の私は首里城下町の工房から、いきなりアジアの真っ只中にすえおかれてびっくり、異国情緒の四季と音楽に目をまわしてしまいました>(金細工またよし工房日記・1月21日 http://kanzeku.ti-da.net/)妹尾さんや外間さんのお陰で沖縄にも少しずつ地平線会議を知る人が増えつつあります。

◆最後に先月号の通信の訂正です。後田聡子さんの原稿、先々月とダブって掲載してしまいました。すいませんでした。また、「先月の報告会から」の日付が「06年4月24日」となっているのは「06年4月27日」の誤りでした。気をつけます。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内

[ローツェ・フェースで見たもの]

 昔話になる。1975年4月、エベレストのローツェ・フェースという氷の壁を登っていた。相棒のラクパドルジ青年とふたりだった。7600mのキャンプまでたどり着いたところで、ほとんど突然に高度障害が出た。食欲がまったくなく、寒気と吐き気がしたのだ。睡眠用に初めて酸素の助けを借りると身体があたたまってきた。翌朝、行動用の酸素ボンベをつけて歩き出す。身体が軽いのには驚いた。足が上がるのである。強かったラクパドルジが遅れだすほどだった。

◆サウスコルを見上げるあたりで、えっ?と思った。コルから落ちている蒼氷の急斜面が目の前にある(登攀ルートは手前を巻いてコルに出る)。あの蒼氷の急斜面をあの男はほんとにスキーで滑ったのか!?という驚きだった。スキーでエベレストから滑降するなんて登山の本質とは違う、何だかサーカスみたいではないか、と生意気にも当時の私は思っていた。しかし、この急峻な蒼氷を目の前にして心底、驚愕した。命を考えたらできることではない。何なのだろう、この強烈な意志は…。三浦雄一郎という冒険スキーヤーの本質にふれた瞬間だった。

◆三浦さんとはその後、いろいろな場面でお会いし、話す機会があったが一度地平線会議でも話してもらいたい、と考えていた。今回、時間の都合をつけてもらえ、それが実現することとなった。できれば奇跡の生還を果たした70年5月6日のスキー滑降の瞬間はじめ貴重な映像も見せてもらいたい。6月の地平線報告会は30日の田中幹也さんと連続の豪華版となる。(江本嘉伸)

(その1) 特別報告会(絵と文:長野亮之介)
特別報告会

冒険心は円熟するか?

  • 6月23日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:ミウラ・ベースキャンプ

「人間は年をとっても良いこともある」'03年5月22日、エベレストの頂上で、三浦雄一郎さんは言い放ちました。1932年生まれの今年73才。若い人達から見れば堂々の熟年ですが、'80年にはチベット川からのチョモランマ(エベレスト)頂を目指しています。

東京五輪の年に、スキー滑降世界新記録を樹立。大阪万博の年、八千mのサウスコルから滑降した冒険スキーヤーの三浦さん。半世紀を越えていまなお進化しつつある現役冒険家であり続けている「心」を、今回は特別に地平線会議のために話して頂きます。シシャパンマから帰ったばかりの熱い話になるはずです。

会場は一年前にオープンしたばかりの三浦さんの拠点「ミウラ・ベースキャンプ」にて。乞御期待!

会場の三浦ベースキャンプは収容が50名と限られています。このため、多数の人がつめかけた場合、入りきらないことがあることをあらかじめご了解ください。また、今回は同じ場所で質疑を兼ねて簡単な2次会形式の第2ステージを考えています。ひとり2000円程度(ビール+簡単な料理)かかりますがこれもご了解を。

(その2) 今月の地平線報告会(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

冒険の影と光

  • 6月30日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「僕の旅はいつも、旅先でのひきこもり時間が長いんですけど、今冬の旅は特別長かった。モチベーションがスッと引いてしまった。旅の節目を越えたっていうか‥。ブロッド・ベイというインディアン村でひたすら焚火をしてました」というのは田中幹也さん(40)。

この10年、厳冬期のカナディアン・ロッキーに通い、スキーや自転車による単独縦走を続けてきました。気鋭のクライマーから、水平の旅人に方向転換したときは、ある種の挫折感を感じた田中さんですが、今回はまた違う壁を感じたようです。「実は数年前から先が見えないまま通っていたのが、今回の経験で久々に次が見えてきた。開き直ったのがよかったのかなあ」。

今月は田中さんをお招きし、冒険にまつわる「壁」について話して頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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