2006年12月の地平線通信

■12月の地平線通信・325号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙タイヤおじさんおばさんたちが、ネコの手クラブと称して、あちこちの農家の手伝いに出没している。地平線の仲間でも農家出身は多いが、一度世界に出て甘い汁を吸った連中はもう後継者にはならない。いや今の社会環境では生活が立ち行かないことがわかっているので戻りたくても戻れない。我々が手伝っている姿を見せれば、農家の後継ぎができると思ったが、そんな情緒だけで改善する状況ではない。

◆11月になって稚内のそばの牧場に手伝いに行った。77年宗谷岬から佐多岬まで2800kmを67日間かけて徒歩旅行をした田中雄次郎君の牧場だ。78年8月の『あるくみるきく』に彼の旅が載っている。かの宮本常一さんもおおいに気に入って『民俗学の旅』にも登場させてくれた。彼はその後、日本縦断の最初の泊り場のサロベツに戻り、奥さんと6人の子どもと共に健康な牛を育てることに腐心している。「広々とした大地で自然に浸って動物と過ごす幸せ」と甘い言葉に誘われて入植するとどんなことになるか彼らの生活を見ればよくわかる。牛は運動をさせず肉骨粉などの飼料を食わせれば乳量はおおくなる。しかし彼は、野山を歩き回り日光にあたった健康な牛は健康な乳を出すとかたくなに信じている。乳量は標準以下しか出ない。健康な肉牛はシモフリにはほど遠い。

◆牧草も広大な畑で、ひとりで刈り取っている。炎天下、食事も満足にとれないほどの長時間重労働だ。人を雇うなり、牧草を買うなりすれば、もっと楽にできるが、その才覚がないので、全部自分が背負ってしまう。見ていると非常にもどかしいが、彼のポリシーなのでしょうがない。この家の牛乳は草の匂いがする。チーズもおいしいが、それが商品として売れるかといえば、そうでもない。

◆数年前彼の家に行ったときは驚いた。もう冬になるというのに家の屋根はブルーシート一枚だった。温暖化の影響か、最近は北海道にも台風が来る。その風で屋根が飛ばされたが、補修する費用がないので、薪ストーブを燃やしながら、一家寄り添って二冬過ごした。いまは何とか屋根のある家に移ったが、「働けど働けどじっと手を見る」というヒマさえもない生活が、十年間ほとんど休みもなく続いている。長男、長女は昨春就職をして町に出た。「あとを継がせることはできないからなあ。しょうがないよ」。

◆昔炭坑があり、1000人以上住んだ集落だったがいまは彼ら3軒の家のみ。テレビ電波もなく、ラジオはロシア語、朝鮮語、中国語など国際的だが、肝心の日本語は聞き取れない。携帯電話も圏外、インターネットなどどこの話か、郵便屋さんは来るが新聞は来ない。経済効率から言えば、わずか数人のために投資する必要はないのだろう。私が行った時にも固定電話が不通になり、4日間も放っておかれた。東京で10分不通になったら大騒ぎだろうに。

◆忙しい中送ってもらうのも悪いので稚内の空港まで40km、荷物を背負って走り、温々とした東京の我が家に帰ってきた頃、夕張市が「破産した」とのニュースが流れた。寒くなる折、住民にとっては地獄の冬がやってくる。ゆとりある住民はどんどん逃げ出している地域リストラだ。いま北海道の地方は不景気のどん底だ。ある人は「東京の植民地だよ」という。都会の好景気は植民地からの収奪で成り立っていること分かっているのかなあ。

◆いわゆる勝ち組みはリストラに勝ち残った人、地域だ。リストラされた人や地域は負けの再生産でますます落ち込んでいく。地域の格差がこれほど大きくなっているとは思っていなかった。「美しい国」というのは東京都心のビル街のことではない。山や森、海、そして人々の心も含めた国なのだろう。どこに住んでいても、地元を愛せるような社会を作らなければダメだ。「負けを認めた人は復党させてあげますよ」という"やさしさ"をもった政権なら、「銀行救済にくらべれば!夕張市を復活させますから大丈夫」と言ってくれ。

◆農業は国の基本だというのに、ネコの手を貸している農家の方々の話は先行きが見えずさびしい。子どもたちのいじめの問題も、先行きのみえない今の社会に起因すると思う。私は、地平線のかなたに何かがあると期待に胸を躍らせながら後ろも見ずにただ先にすすんできた。今になってその後ろめたさをとり繕うためにネコの手などをはじめたが、もっと早く気づき、人に対する配慮をすべきだった。だれかが見ている、応援していると感じたら、彼らもがんばれる。いずれ何かがみえるという希望があれば、仕事にも、勉強にもはりあいが出てくる。いじわる社会、いじわる政治を変えて、ゆとりをもって親切さを大事にする風潮を教育しなけりゃいけない。

◆年初にもいじわる社会・政治に対して私は怒っていた。年末も相変わらずだ。来年は、怒りはすこし置いといて、ゆとりをもってネコの手を! と思う今日この頃!(ネコの手おじさん、こと三輪主彦)


先月の報告会から

「きづなで登る八千米」

大蔵喜福

2006年11月24日 榎町地域センター

 趣味と仕事を両立するために「山登りを続けていれば食える」。そう思ってやってきたと語る大蔵喜福(おおくら・よしとみ)さん。しかし、かつては山は仕事のネタ探しの場で、生業は編集、広告などの会社をやっていた。しかも最初の5年は得意な山のことは隠していたという。今では人を山に登らせる仕事が全体の3分の1を占め、ヒマラヤの8000m峰へ、5年間で5回の公募登山を主催、全員60歳以上、最高齢は71歳でチョー・オユー等に登った。8000m高齢登山者ベスト10のうち、6人までが大蔵さんと登っている。そこでは人が変わってゆくのが面白く、それを楽しみにやっているという。

◆日本ではかなり忘れられているが、アジア人が登った山として現地では誇りを持って記憶されているマナスル。そのマナスル登頂50周年の今年、二つの日本隊がマナスルに登頂した。その一つが大蔵さん率いる公募隊である。C1〜C2間で3名リタイヤしたものの、荘厳な風景の中を順調に登って行くスライドが続く。登頂後の下山もトントン拍子である。本当にこんな簡単に登れるものなのだろうか?それにはちゃんと秘密、というかそれを可能にした背景やノウハウの蓄積があった。

◆ベースキャンプ手前のサマ村までは、かつてはキャラバンで10日かかったが、今回はヘリ2往復で現地入り。現在ではヘリの方が安上がりなのだ。また、村から上部のキャンプも、昔は最多で9箇所設営されたが、現在はBCを含めて4箇所であり、C1とC3は同じテントが使い回される。そして他のメンバーがBC〜C1間で高度馴化を行っている間にシェルパやガイドがルート工作を進めて行くのだ。全員がBCを後にしてC1入りしてから、翌日にC2、ここからはずっと酸素を使用してC3、4日目には登頂し、その日に一気にC2まで下り、5日目にはBCまで下山。BCを出てから戻るまで実動5日間、シェルパ達もワンプッシュだけ。そもそも荷下げのためにもう一往復するほど装備を揚げていないのである。

◆このスピード登頂を可能にするには気象条件に恵まれる事も重要だが、それも運任せではなく、秋の最適なシーズンを選び、季節の変わり目のわずかに好天が続く時期を、気象データから予測して狙いを定め、日程を逆算して行動するのである。そのためには気象データの収集も重要で、昨年は「adventureweather.com」の数値予測を活用したが、これはかなり有効だった。

◆うまいものを食べて、家族的に楽しく登る。ということをモットーに、「人を喜ばせたい。快適に過ごして貰うためには、全てについて準備をしてゆく」という大蔵さんのベースキャンプと食事は、驚くほど充実している。食堂兼リビング、キッチン、倉庫、トイレの各テントの他、各メンバーに個室テントが用意され、雪解け水を集める簡易水道やソーラー発電、衛星電話やデータ通信、無線連絡用アンテナ等が設営されている。食堂兼リビングテントには、ダーツなど楽しく快適に過ごすための品々が用意してあり、また、隊員とシェルパ達が互いに憶えられる様に顔写真と名前も貼り出してある。

◆ちなみに衛星電話はキャンプだけでなく山頂まで持って行った。食事は、朝は納豆と豆腐、味噌汁から始まり、凝ったメニューの日本食が提供される。これら日本食の食材は1kgあたり1000円ぐらいで日本から空輸された物だ。そして、誕生日には立派なバースデーケーキまで焼かれる。これだけの食事を会話を楽しみながら食べるのだから、皆の食欲も増進し、ついに「限りある食料、限りなき食欲」という標語が必要になる程になった。平均年齢67歳、標高4900mのBCでの話である。

◆スライドの中に、ミウラBCの低酸素室で訓練している写真があったので、事前に日本国内でどのくらいの訓練をして行くのだろうと、2次会の席で質問してみた。意外にも、出発前に日本国内で集まったのは2、3回。しかも皆で山へ行ったのは1回だけ。実際に全員が初めて一堂に会したのは、空港だったという。では一体どこで、きづなを深めたのか?それは日本を出発してから山へ入るまでの期間だ。登山の開始までカトマンズに1週間、サマ村に10日間ほど滞在する。その間にけんかもし、文句を言い合える関係を築いてしまうのだ。そしてBCに入る頃には、個人テントよりも食堂兼リビングテントに集まって、お互いに会話することが一番の楽しみになっていたという。そこはさすがに高齢者、話のタネはたくさん持っている。

◆今回のマナスル隊を支えた現地スタッフは6人のシェルパ、2人のコック(日本人とシェルパのためにそれぞれ別なメニューのため)と1人のキッチンボーイ、そしてサーダー1人である。サーダーはシェルパの頭領で、この人が後方支援を取り仕切ってくれ、BCや下に日本人の留守番要員はいない。

◆現在の8000mの公募登山での登り方は、登山というよりも連れて行ってもらう旅行だが、シェルパのレベルが向上したことと、それに見合った金も支払われるようになったために可能になったことである。だいたいコックが月2000ドル、キッチンボーイが1900ドル、サーダー2400ドル、シェルパ2200ドル。この金額なら年間2つの登山隊と、プラスαでトレッキングのガイドでもすれば、ネパールとしては破格の高収入になる。

◆それに伴ってカーストによる差別も受けなくなったし、最近ではシェルパにもスポンサーが付いたり、客よりも良い装備を使っていたり、酒をおごってもらう事もあるそうだ。また、コックは日本料理店で修行を積み、年々腕を上げ、日本から持って行く食材のリクエストをする程になった。登山装備も現地の店で新品がそれなりの値段でちゃんと手に入る。このように山やシェルパ達を取り巻く環境は変わったが、村の風景は50年前とほとんど変わらない。電気が来て電線が通った程度で、寺の建物も、村の門も、ほとんど昔のままだ。

◆現在600人だという村の人口は50年間で200人しか増えていないし、村人は今もチベット文化を守っている。彼らにとってマナスルは神の宿る山で、50年以前は山を汚す、と大問題になって入山を許されず追い返された事もあったほどだが、現在ではそのようなトラブルはない。チベット語しか話さない村人たちの中で、例外は寺のヘッドラマ、最近になって出来た学校の先生、その奥さんで村の門外にあるロッジの経営者(チベット人だがこの村の出身ではない)の3人で、彼らだけがネパール語と英語も話せる。

◆村の物資もチベットから中国製品がやって来る。険しい谷でかろうじてつながっているだけで地方の中心地まで8日かかるネパールよりも、北部の山稜を越えれば1日半で街道筋にたどり着けるチベットの方が彼らにとっては近いのだろう。マナスルのスライドを中心に、公募登山とシェルパやヒマラヤの今を語って貰った報告会前半だった。

◆報告会後半では、大蔵さんがヒマラヤへ通い始め、さらにもう一つのライフワークであるマッキンリーでの風の調査を始めた軌跡と、その学術的でディープな内容が明らかにされた。大蔵さんは28歳の時にダウラギリ縦走でヒマラヤデビュー。それからヒマラヤへ通い始め、1983年、いきなり冬のエベレストへ行った。風が強い冬のエベレストに登るには? と  思案、強風をどう予測できるか、の勉強を始めた。

◆高層天気図を取ってデータを整理・研究した結果、BCで気温気圧値の相関関係から強風を予測するパターンを発見。その後、マッキンリーで友人が遭難したこと等で、エベレストでやってきた事をマッキンリーに応用し調査・研究活動を始め、1990年から自腹でマッキンリーに気温計、風向風速計、気圧計、などとデータロガーを設置してデータを取っている。初期の風速計では着雪などのためにうまく行かなかった事も多く、初めて通年の風速データが取れたのは5年目の事だった。

◆また、ソーラーシステムや風力発電による電力の確保も考えたが、環境条件的にどちらも無理で、乾電池の使用に落ち着いている。これらの機器から得られたデータと周辺の気象データ、理論的な計算値、風洞実験などから多くのことが解かってきた。例えば風速33mで人間は何もできなくなり、これはマッキンリーでは約44m、エベレストでは53mに相当する。冬のマッキンリーは気圧が低下し、ヒマラヤで言えば7000m相当になる。高所山稜付近の自由気流と地表温度の比較では、最低気温は地表の方が高くなる、などなど。このマッキンリーでの調査は、あと4〜5年は続けて強風の予測が出せるようにしたいと考えている。もうすでにレンジャーステーションにはディスプレーのための部屋が用意されているのだ。そして、出来れば山の風を割り出す方程式を作りたいのだが、それは難しいだろう。

◆2次会の席では、ぜひマッキンリーへ一緒に行きたい、という学生が名乗り出ていた。また、報告後の質問では、安東浩正さんとマナスルのゴミの現状、熱気球でエベレスト越えを狙った時の話、太平洋横断のための高山病対策などの話で盛り上がった。これぞ地平線!(松澤亮 洞穴探検家)

■言い足りなかったこと━━マナスル山麓の村サマ雑感■

 50年前(1956年)の5月9日に日本人が成し遂げたマナスル初登頂は、ネパールとの9月1日の国交樹立に大きく貢献し、また戦争で打ちひしがれた日本国民に大きな自信をうえつけ、さらにネパール人自身にも衝撃を与えた。欧米主導の国家的8000m峰初登頂競いに、敗戦わずかの日本が名乗りをあげた事にである。アジア人の仲間として誇れる歴史だというのである。このことを指摘した友人は「ネパールでは子供でも知っているのに、日本人は忘れている…?」と嘆いた。

◆それからの50年は双方の国に多岐、多様な変化と発展をもたらしたが、ここ10年来ネパールは不幸にも国内の武力闘争が激化し、平穏な信仰の国とは言い難くなった。経済も、在外同胞の仕送りがなければ成り立たないほどになった。武力闘争は、やっと今年の夏から秋にかけ和平への劇的な動きを見せたのだが、この渦のまっただ中でマナスル登山に興じていた私たちにとって、歴史の中に身をおいている実感は薄かった。われらが留まる中央ネパール北部のサマ村は余りにも辺境にあったからだ。

◆村のヘッド・ラマ、ウラ・ジグメ・ラマさんは村の子供たちに十分な教育を施したいと熱く語る。ロッジのラクシュミさんも「親が子どもの教育に対して理解が薄い」と嘆くが、彼等が最も望む教育行為そのものが、この村にたいして反作用に働く可能性も強い。村にはいまでも出入り口をかためるカンニ(厄よけの仏塔門)があり、その内側には人の生活があり、外には獣たちの世界とする自然崇拝がある。それは人が寄りかかって、思い助け合って生きる縦横のコミュニティーが村に存在することを意味する。物質文明と精神文明といったステレオタイプで軽々しく語れない営みである。

◆50年で村の人口は1.5倍となり、家庭に電気が来て豆電球が点く街灯もある、電話も二つ。しかし、様子は昔と殆ど変わっていない。建物も農地も。高度な成長は、ない。でも子供も青年も娘も老人までちゃんと数がそろっている。ここには出稼ぎの若者はいても、村を捨て去る人はいないらしい。孤高に生きることがどのようなことか?深く考え込んでしまった。(大蔵喜福)


日本初…紅葉飛行特別レポート

〈紅葉列島空の旅〉

 Air Photographerの多胡光純です。9月9日から11月3日まで60日に渡り紅葉前線にのり日本の空を南下する旅を妻の歩未とともにやってきました。紅葉を空から堪能する旅です。主な空旅の舞台は北海道では大雪山・美瑛、知床、津軽海峡を渡り下北では薬研渓谷・恐山、更に南下し十和田湖・奥入瀬渓谷、そして最後は最上峡と5つの空を旅しました。この旅の様子はNHKの「おはよう日本」やBS2、BShiなどで毎週末5回にわたり生中継され、11月27日には90分にわたり空撮いっぱいのドキュメンタリー番組にもなりました。全ての放送が終わったところで報告します。

<“安全管理者”との旅立ち>

 今年5月に僕は地平線おなじみの木のおもちゃ作家歩未さんと結婚しました。その一週間後にはTVのロケで中国は雲南に向かい、帰国するやモンゴルに向かいとロケが続きました。たいがいのロケは前後の準備やメンテナンスを含めると一月を要します。結婚したものの引っ越しすらままならない新婚生活。そんなところに今度は紅葉列島空の旅の企画が発動してしまったのです。60日にわたる旅。この旅にはフライト安全管理者として歩未さんを帯同してもらうことに決めました。「アルミトイ」さん(編注:歩未さんの仕事のブランド名)は遠隔操作のネット販売で不在の2か月を乗り切ります。

<ロケハンしながらシロクマで北海道へ>

 旅は5週にわたり各地の紅葉を空撮でとらえ、毎週末には生中継するという僕にとっては前代未聞のタイトなロケでした。日月火水で空撮&地上ロケ、木に映像編集or空撮予備、金にリハーサル、土曜日午前6時に生中継、その後ロケ地移動。通常4日間で空撮を請け負うようなことは僕はしません。それだけモーターパラグライダーの超低空撮影は難しく気象に左右されます。当初は「7日間で1ロケ地」という妥協に妥協を重ねた交渉案に「よし空撮に7日集中できるならヤッテミル価値はある、勝負だ!」と腰を上げたのです。いざロケ地に向け移動開始すると「おはよう日本」でも映像を扱おう、ハイビジョン中継でもやろうとプロデューサーは勇みます。そんな経緯を経て当初の予定の90分番組1本のみという契約が脹らんでいきました。映像の露出回数が増えることは嬉しい、けれど空撮が成立しなかったらどうするのだろうか。そんな不安を抱えながら、僕らは最も南に位置する最上峡から下見を開始し北海道へと向かいました。少しでも空撮時間を確保するため、予め離陸地点と撮影対象を確認するのです。移動は愛車のハイエースシロクマ君、それに2機のモーターパラグライダーと撮影機材にキャンプ道具満載です。もちろん京都発です。(地上ロケに時間をとられ実質空撮日は3日に減った。)

<紅葉空中実況中継>

 今回の旅で使うハイビジョンカメラには僕の声を拾えるようにマイクをつけました。生身の人間が紅葉を空から堪能する。その時々の感情をマイクで拾うのは面白いと思ったのです。当初は骨電動マイクをのど仏に付けたのだがうまくいかず改良しました。手探りでマイクフライトを敢行しました。上空であれこれ喋りを考えていると自分のイメージする滑空ラインを外れてしまうことにすぐに気がつきました。目にした景色に向かい自分の感情を直感で話し続けました。映像の勝負所ではカメラをホールドし、翼の挙動に全神経を集中させます。無呼吸状態です。そんなとき感情は高ぶり「名言」が繰り出されるようです。とても荒い空中中継ですが、自分らしくロケ中盤より好きになってきました。山肌にひしめく紅葉。木漏れ日に透ける紅葉。それは地に足つける人が見る紅葉です。今回どうやって空から紅葉を表現するか。ヘリの空撮と同じじゃヤル意味がない。自分が研究してきたパラならではの表現をしたいのです。風、光、そして大地の温度を読みその瞬間に描ける最高の滑空ラインを目の前に広がる紅葉の上に書き付けるのです。同じ条件は二度と来ません。同じ紅葉は二度と捉えることはできないのです。毎回そんな思いで紅葉空間へと超低空で翼を走らせました。

<紅葉と人の距離>

 いうまでもなく北海道の紅葉は大自然の中に存在しました。原野の中に紅葉を求めていくフライトでした。必然的に足を伸ばさなくてはならず、燃料を気にしながらシビアなライン取りが続きました。ありのままの見せつけてくる紅葉には形容する言葉を失いました。一方、津軽海峡を渡り本州に移ると、紅葉と人の距離が近いのです。紅葉に寄り添うように人の暮らしがあるのです。その先の尾根を超えたら、この渓谷のカーブを曲がったらどんな紅葉があるのだろうか。人の暮らしが近い分安心感があるのか、とても飛行ラインは柔らかく寄り道が多かった気がします。北海道と本州では紅葉はどう違うのかと聞かれますが、正直違いは分かりません。ただ紅葉を眺めるときに心の中に同居する思いで紅葉はいくらでもその印象を変えていくんです、そんな気がします。今回の旅路における僕の思いとしては、旅の先々で出会った人々との交流の一こま一こまが紅葉をより色づけてくれた、そんな気分なんです。それと同時に「きっとこの紅葉は誰の目にも触れることのないうちに輝き散っていく。その存在のためだけにある紅葉なんだ!」そんな紅葉に出会ったとき、滑空する時間は無限になり音の無い世界に入り込んだ気がしました。「こんな紅葉もあるんだ!」と唸りながら僕は未知なる紅葉空間へと深く深く翼を走らせました。

<映像の可能性を確認した旅>

 僕はモーターパラグライダーによる映像研究を独自路線で重ねてきました。その結果、超低空映像はいままでにない美を表現できると確信してました。しかし、映像は共同作業なのです。個人でスチールをやってきた僕にとって自己完結できない映像にはいつしか距離を置いてました。幾度かロケの機会をいただいたのですが、自分の役目は番組を構成するパーツであったのです。数秒、数十秒の映像がテレビには映し出されては流れ消えていきました。今後、ハイビジョンカメラを担ぎ命がけで飛ぶだけの価値は映像にあるのか、どうなんだ、というジレンマが常にまとわりついてました。しかし、今回の紅葉列島空の旅を通し僕は映像の可能性を大いに自分自身で確認したのです。90分にわたるハイビジョン番組では空撮映像が5分以上ノーカットで流れたシーンがいくつかあります。これは凄いことなんです。ブツブツと編集で切られるでもなく、超低空でしか撮らえることのできない紅葉美を見事に表現し切ったのです。消化不良だった映像表現に満腹感を覚えた瞬間でした。映像作品を作りたい! 映像作家の道があるんじゃないか! 映像作品には写真と同様きっと自分の全力を懸けるだけの意味があると思えたのです。そして、世界には自分のことを待っている空域がある、とも。もちろん、これからもパーツとしての映像もガシガシ撮ります。それは自分の目的達成のためにやるべき事であって、さらには自身の技術向上へとつながり可能性も発見できるのです。パーツから全ては始まります。紅葉列島空の旅が終わり、俄然映像表現に力が入ります。

<ところで、ついに新居に入居!>

 僕はロケ中2か月に渡り歩未さんを完全拘束しました。長期海外ロケが続く僕にとってこんなに沢山の時間を一緒に過ごせたのは式後初めてのことでした。嬉しいと同時に、自分が着陸するまでは気の抜けない孤独な時間を送っていたのだと思うと悪いなと思います。さらにこのロケは自分にとって大きなプロモーションになる予感がし、現場でディレクターに‘No’と言えないシーンがありました。そんな時、歩未さんは僕に替わりディレクターに‘No’と言ってくれたのです。悪者になるのは覚悟の上で。肉体はもちろん精神的にもタフなロケに帯同させてしまいました。ロケ終わり、今度は僕が歩未さんを助ける番です。自宅に戻るやアルミトイはクリスマスフェスタに向け制作を急ぎます。僕は結婚式後ほったからしにしていた免許証の書き換えや車のナンバー変更から始まり、アトリエの煙突掃除やら夏場近所を流れる木津川で使った折りたたみカヌーをかたしたり、新居の表札作ったりしてます。そんななか京都でのフライトエリアやトレーニングジムなどに目星がつき始めてきました。これも京都で過ごすまとまった時間が取れたいい兆候です。そして今月1日、ついに新居の借家に入居しました。まだ外壁は完成してませんが、内壁はできてます。水はまだ出ませんが、暖房は効きます。まだまだ埃いっぱいの部屋で、寝袋でやりすごしてます。こんな感じですが、紅葉列島を終えた僕らは元気にやってます。来年の予定は未定です。ただ分かっていることは空の旅で自分の道を開拓していきたいのです。夢は脹らみます。2007年は拠点となる京都から日本の空、世界の空へと旅立ち戻ってくるというリズムを僕らの形で作っていきたい、そんなことを思います。

<最後に>

 みなさまには毎週末早朝より生中継へ目を向けてくださりありがとうございました。寄せられるコメントからどれだけ力を頂いたことか。そして最上ロケが終わった後、消耗しきった僕らを暖かく介護してくれた飯野さん、網谷さんに心から感謝します。飯野さんにはロケ地探しの時にもお世話になりました。

「紅葉列島空の旅」撮影データ

総フライト数:16/フライト時間:1234分/シロクマ君移動距離:7600km。

<P.S>

 紅葉列島が終わり大学探検部の顧問を訪ねました。開口一番犬井教授は「おい多胡!美瑛を飛んで丘が綺麗なんて言っている場合じゃないだろ、あそこは核燃料地下処理場の日本第一候補なんだぞ。そこをコメントしないでどうする、それがお前の役目だろうが!」。 僕はハッとしました。 Air Photographerの道は十分に自分の人生を懸けるだけの価値がある、とことん追求するんだと改めて思う今です。(多胡光純 新幹線の中で)

[おひさしぶりですよね]

 えもとさん。おひさしぶりですよね。

 この半年、時間が2倍の速さで進んでると信じているあるみです。2ヶ月の新婚ロケ生活を終え、私は旅の余韻に浸る間もなく、クリスマスフェスタに燃えるオンナとなっております。

◆今回のロケについて、詳しくは語りませんが (非常に美容に悪いため…笑)ホントのところは、一緒に行って良かったと心から思います。よく考えてみたら、「木のおもちゃ」をやると思った時から、自分のことを何も考えずに過ごす日々なんてあるわけがなかった。自分の為に一生懸命でありました。それでもこの2ヶ月、アトリエに帰りたいとは思いませんでした。確かに、左様な理由からではなく、こんなロケ生活は辞めたい!とは何度も思いましたが…。

◆自分がこうやってやってきたからこそ、彼の苦労も頑張りもよく分かる。だから一緒にいられるし、いたいと思う。まさにこれからという時期に一緒にロケに出られた事は、私たちに関するありとあらゆる事に対して、非常に大きな意味があるはずだ。やり遂げてこそ得られるモノを得たかったのか、来てしまった以上、引くことができなかったのか、自分の限界に挑戦していたのか、良い奥さんになりたかったのか、大きな試練のようなものを感じていました。

◆それが何だったのかは今でも分かりません。でも、彼以外の人だったら、早々に手を引いていたに違いない…。あの時間が無かったら、私たちは今はもっと浅いところにいるのかも知れないなぁ。

◆そして私は、2か月放置したアトリエで、今日も明日も制作に追われています。ちなみに近況報告としましては、12月1日にアトリエ隣へ新居を移し、現在、水道と外壁、トイレ、お風呂なしの生活です。それらの工事がいつ終了するのか分かりませんが、私たちはその工事中の家で、寝袋生活しています。(しかし、エアコン完備!)ま、仕事場に3歩で着くのでよしとしましょうか…。(12月5日 恐ろしく楽しい新生活中のあるみ)。

★追記:フェスタのお知らせです。12月15日(金)〜23日(土)アトリエにて。今年もまた、グリューワインがお目見えします。そして、エアフォトグラファーの写真たちもビックサイズでどどん、と登場です。ワインで暖まりながらおもちゃ見て、写真見て、木の空間を楽しみましょ。


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〈スターライト号、浮上?〉

<熱気球太平洋横断計画顛末 その3>

 つい先日12月2日、よく晴れた冬空の下、太平洋を横断するべく密かに開発されたスターライト号の浮上テストが、栃木市の河川敷で行われた。なにしろ世界最大なので膨らますだけで一大イベントだ。準備はまだ暗闇の中、早朝5時に開始。多くの人が集まり、某代表世話人始め地平線の顔ぶれもちらほら。メディアも多い。みなさん何かに期待している雰囲気がありありだ。気球の立ち上げ作業は神田さんを中心に、気球界のベテラン勢が進めている。熱気球黎明期の30年前からやってる人達なので結構なオジサン達だが、準備している様子は子供みたい。よっぽど気球が好きなんだろうなあ。

◆ゴンドラにバーナーを取り付け下準備が整ったころ、河川敷の向こうから太陽光が差し始める。いよいよ浮上テスト開始だ。大きな扇風機で中に空気を送り込むと、気球はどんどん膨らむ。とにかくでかい!中は巨大ドームだ。次にバーナーを点火して暖かい空気を送ると、気球はついに立ち上がり始めた!生物のように表面が波打っている。まるで巨大宇宙クラゲのようだ。バケモノだ。

◆今回は8トンの鉄板を持ち上げる加重テスト。膨らんでもさらに4連バーナーが勢いよく焚かれ、外と中の温度差で浮力を得る。理論上は50度の温度差で浮上するはずだ。その時突然、ボンッと音がして、シューという空気の漏れる音が! そして急速に気球はしぼみ始めた。何が起こったか、その場にいた人はあっけにとられたに違いない。破裂したぞっ、急げ! 天井部のロープを気球を倒したい方向に引っ張らないと、木や車の上に落ちてしまう! 球皮はユラユラうねりながら地面に倒れてきた。まるで軟体生物のようだ。すでに数十人がそのロープに群がり、巨大な生物と綱引きしている。ありえない景色だ。地面に球皮が倒れてからも、中に暖かい空気がたくさん残り、巨大生物が地面をのた打ち回っているようだ。

◆浮上テストは見事に失敗である。原因はくだらないところにある。書くと長いので書かないが、1年前のテスト失敗と同じ原因である。進歩ないなあ。「あ〜あ、せっかく作ったのに…」というのが率直な感想。この補修作業にどれだけの人がたずさわってきたか…。物理的に気球がしぼんでゆくより、みんなの夢が沈んでいくようで、そっちのほうが残念。でもまあ、本番前に問題点が出たのはよかったことである。そのためのテストだったのだから。

◆でも今回のイベントも面白かった。気球製作を手伝った地平線の若者連中も、前の晩に渡良瀬遊水地にあるクラブハウスがいっぱいになるくらい集まり、鍋を囲んだ。ほとんどの人は朝まで騒ぎ、徹夜で作業に入った。なかなか楽しかったのじゃないかな。テスト翌日の日曜もいい天気で、普通の気球で空を散歩した。熱気球に乗る機会は簡単にはない。気球は大変にお金がかかり、通常は入会金数十万円払ってどこかのクラブに所属する必要があるが、気球製作にかかわった人は体験フライトに招待している。もっともぼくの気球じゃないので偉そうなことはいえないけれど。

◆そうそう、皆さんにお知らせせねば。アウトドア界おなじみのシェルパ斉藤さん。本人の地平線報告でも笑わせていただきましたが、先月の報告会も来られ、その時にぼくらの熱気球計画に対して、第3回シェルパファンドを頂戴しました。各メーカーからの斉藤さんへの試供アウトドアグッズを、使用後に八ヶ岳で奥さんが開くカフェで販売、それを旅人への援助に使おうという趣旨。第一回の受賞者は例のシール・エミコさん。

◆今回の計画、総予算的には二千万円くらいかな。さぞかし大きなスポンサーがあると思われるが、ところがどっこいそんなものはない。大蔵省の神田さんは借金し、安東も貧乏ながらかなり自己投資している。いろいろメーカーに現物提供をお願いしているが、それでもまだ装備が200万円分ほど足りない。例えば緊急時に落下場所を人工衛星でレスキューセンターに知らせるビーコン。ひとつあるが命綱なのでバックアップがほしい。一個8万円なので買えないかなあと思っていたので、ファンドはこれの購入資金にさせて頂きます。斉藤さん、ありがとうございます。

◆そういう状況なので、この冬の太平洋横断はテスト結果にかかわらず難しいと思っていた。一年延びてもやることはたくさんある。ジェット気流予測シミュレーションもたくさんできるしね。その前に、気球本体がなんとかならないとすべては始まらない。気球の設計に根本的問題があると計画はおじゃんになってしまうが、とりあえず今回の失敗の原因はわかっている。これまでは気球の設計的なことは神田さんに任せていたけど、これからは安東もかかわってゆくつもりだ。だって、心配なんだもん。早ければ年内に再テストする。また皆さん手伝ってね。悪いようにはしないつもりです。(12月5日 次のテスト前の晩は「やみ鍋」にしてみんなで騒ごうと思っている安東浩正)

サハリン発・[地平線通信が本当に楽しみです]

 江本さん こんにちは。いつも地平線通信を本当に楽しみにしています。どのくらい楽しみにしているかというと発送作業の翌日から朝昼晩必ず地平線のホームページを開いて、通信の最新号がアップされていないか確認しているくらい通信を楽しみにしています。海外にいて地平線会議に出席できないものにとっては、ネット上で見ることのできる通信が報告会の内容を知る唯一の手段です。この地平線通信をとても楽しみにしているという気持ちを江本さんに伝えようと以前から思っていたのですが、如何せん時間がなく、延び延びになっていました。11月中旬で9月から担当していた設備の仕事がひと段落し、以前に比べてほんの少しだけ時間が取れるようになったので今こうしてメールを打っています。

◆以前江本さんにメールを打ったのはサウジアラビアからでした。3月初旬にサウジから帰国したのですが、GW明けにサハリン行きの出張が決まりました。3月一杯は休暇を取り、ハワイ島に航海カヌー・マイス号建造のお手伝いに行っていたので、日本にいた期間は実質2か月半でした(笑)。6月20日にサハリンに到着し、予定では来年の1月末までこの地で働くことになっています。

◆今僕の働くサハリン南部アニバ湾は鮭や鱒の遡上や紅葉も終わり、少しずつ白銀の世界に移り変わっているところです。鮭の遡上が終わったくらいから、大柄のカラスを現場で見かけるようになりました。朝日を受けて、白い世界の上を飛ぶ彼らはワタリガラスなのでしょうか。彼らを見かけるようになってから、この土地にもワタリガラスの神話が息づいていることを思い出しました。ちなみに今朝(11月26日)は外気温が-4℃で、昨日は-8℃でした。最近は0℃でもとても暖かく感じるようになりました。もちろん作業着の下にインナーを着込んでいるのですが、人間の持つ順応性に少し驚いています。以前アフリカを旅していたときは平熱が常に37℃を超えるようになりましたが(通常は36℃前半)、そのときはマラリアと勘違いして薬を服用してしまい、その副作用で3日ほど体がまともに動きませんでした(笑)。

◆さて、今月号フロントページの河田さんの『強いられた旅』と『自由な旅』いう一節を読んで、僕はある雑誌に沢木耕太郎さんが寄稿していた『余儀のない旅』と『夢見た旅』についての文章を思い出しました。僕が今サハリンにいるのは言わば、『強いられた旅』、そして『余儀のない旅』です。自ら望んでこの地に来たわけではなく、むしろ引き剥がされるように日本を離れました。でも、『余儀のない旅』と感じる一方で今サハリンでこうして仕事をしていることは『夢見た旅』であることも実感しています。

◆僕がこれまでの旅の中で好きだったのは、どこか目的地に到達することよりも、その過程でいろいろな人に出会って、彼らの多様な価値観に触れることでした。それは今こうして思い返してみると自分の魂の欠損部を補うための行為だったような気がします。きっと僕は旅先で出会う人たちとの物語の中で、その物語に自己を投影し、少しずつ自分にとって足りなかった部分を補完してきたのだと思います。

◆今の僕の仕事は『余儀のない旅』ではあるけれども、そこにももちろんいろいろな物語があって、僕はそれを日々集めている気がします。警備員のロシア人のおじいさんと澄んだ青空を指差して「ハラショー」、「ハラショー」と挨拶を交わしたり、大きな声でフィリピン人ワーカー達に「How are you?」と声をかけて、「チョコレート!」と返されたり、エジプト人の兄さんに子供ができたことを知って、おめでとうと握手を交わしたり、お客さんのオーストラリア人の兄さんと近くの街に飲みに行ったら店が開いてなくて、くだを巻きながら帰ってきたり、ロシア人の女の子に「ドブラウートラ」と声をかけたら、日本語で「おはようございます」と返されたり、濁流の中を遡上する樺太鱒や鮭を見て、生きる上で待つことは大切なことなんだと再認識したり、そんな何気ない日々の出来事の中で少しずつ自分の中の欠損を埋めていっている気がします。

◆先日いつも陽気なコロンビア人ヘクテルさんが、ちょっと寂しそうな顔をしながら、「こんな仕事を続けていると、どうしても時々家族が恋しくなる。でも、それだって人生さ。Fuck’in Life !」って笑っていました。僕は彼からこんな世界でも、明るく過ごす術みたいなものを日々教えてもらっています。僕はここに来て「How are you ?」の答えが「I'mfine !」だけじゃないことを彼から教えてもらいました。きっと僕はこれからも、こうしていろいろな人のいろいろな物語にちょっとだけ触れながら生きていくのだなと思っています。そして、それが『余儀のない旅』の中で僕自身が見出すことができた『夢見た旅』なのだと思います。

◆長々と堅苦しいメールになってしまいましたが、江本さん、ホノルルマラソン頑張ってくださいね。帰国後は是非地平線会議だけでなく、発送作業にも顔を出したいと思っています。次号の通信も本当に楽しみにしています。それでは、また。(11月28日  光菅修 化学プラントを建設する会社に勤務中)

[闇夜にムササビの飛翔を見た!!]

 11月半ば、日没後、急に寒くなってきたなと思っていたら、夜、高尾山へ行こうという連絡が入ってきた。東京の西の外れにある標高600メートルばかりのこの山は、都民にとっては小学校遠足の定番としても親しみ深い。紅葉の土曜日とあって、日中登っていた幅広い年代の大勢が一斉に下山してくる午後四時半。人の流れを遡上する鮭のごとく、今回集まった五人は、急速に闇に包まれはじめた登山道に入った。足元に大都会東京に続く夜景が広がり始めるのとは対照的に大木に囲まれた山道はすっかり人気がなくなり静まり返ってくる。

◆そんな中、赤いセロハン紙を被せた懐中電灯片手に、足音を忍ばせながら一心に夜闇に目を凝らす異様な集団こそ、知る人ぞ知るムササビ・ウォッチャー達だ。ケービング(洞窟探検)の専門家であり、今回の隊長、松澤亮さんは、こうした小動物にも永く目を向けてきている。帝京科学大学理工学部アニマルサイエンス学科2年生、櫻堂由希子さん、同1年生の吉田真季子さんに加え、シールエミコさんとバラナシで出会い、最近地平線に参加するようになった中山郁子さんと私は、そもそもどうしてムササビが飛ぶのかも知らないずぶの素人だ。

◆薄手のジャケットから真冬のダウンに換え、足元から立つ大木をぼぉーと見上げていた初心者二人の目に、座布団の四隅に手を付けたかの物体が、3メートル程の木と木の間を空中移動する姿が入ってきた。いきなりのビギナーズ・ラックだ。数分後、その多分同じ個体が再び旋回飛行するのを目にした時は、またもや見逃したプロ三人に、最初のを鳥との見間違えじゃないかと疑われた分も含め、確信を持って初体験宣言ができた。

◆更に、多くの住処があるとされる頂上付近、薬王院境内に場所を変え、暗闇を徘徊するうち、現役学生の桜堂さん吉田さんが懐中電灯の先を、崖のフェンスのすぐ先に向け、慎重に木の上をたどる。見事、枝を移動するこげ茶色の小動物を照らし出したのには畏敬の驚き。長いふっくらした尾をたらし、両手で何かを食べながら、境内を通り過ぎる車を見たり、また枝をゆっくり移動するやや尖ったねずみのような顔つきのムササビを間近に見ることが出来たのだ。かすかな葉音からムササビの動きを察知した専門技は、野生動物を保護観察する目で関わってきた二人ならでは。また、これもかすかなその鳴き声を聞き分け、「この上!」と、すかさず、ライトを当てた先に別のムササビを見つけ出した松澤さんの鍛えられた聴力にも感服しきり。ひたすら闇に目を凝らす三人の労力に甘え、パンをかじる我らとは違い、ついに一切れも口に入れる事が無かった松澤さん。こんなベストメンバーにくっついて、スーパー楽勝で成果を手にした初心者二人は、いつまでも興奮覚めやらぬままがらがらの電車で家路に着いた。(藤原和枝)

[野宿党ついに結成!!!]

 江本さんこんにちは。この度、「野宿党」なるものが結成されたので、ここに訴えたいです。今のところ、この党の活動内容は、報告会の後、北京(編注:餃子のおいしいことで知られる2次会専用中華料理店)での2次会のそのまた後に「3次会と称して、野宿をする」というものです(だって、報告会の余韻に浸るには、2次会だけではまだまだ足りません!)。

◆そんなわけで、「ためしに第1回・3次会野宿」は10月の報告会(&北京)後に行われました。私が大きな荷物を持って、えっちらおっちら遅刻気味に報告会へとゆくと、藤原(和枝)さんが受付で「野宿道具持ってる人なんていないみたいよー」と教えてくださったので、ちょっと不安になりましたが、少しして山辺(剣、ことしになって登場した通信発送請負人)さんが同じく大きな荷物を持ってやってきたので、ほっとしました。

◆しかしこのままでは、2人で野宿ではないか。報告会後、我々2人は「北京で楽しく酔っ払っている人たちをどうにか丸め込んで野宿させる」作戦に出ましたが、なかなか上手くいきません。たとえば、久島さんをお誘いすると「僕は寝られるうちは屋根のあるところで寝たい。いつ屋根から追い出されるか判らないんだから」とおっしゃるのです。私は「追い出された時の為にも、時々は屋根のないところに親しんでおいた方がいいです」と丸め込みを試みましたが、逃げられてしまい、とても口惜しい。

◆口惜しがっていると、安東さんが「シュラフカバーを持っているので野宿する」と「野宿表明」してくださるではないですか。いつでも野宿道具を持っているなんて、さすが、安東さんです。安東さんはいい人です(野宿党の党首は安東さんに頼むことに決めました)。その後、ねぶた友達のじんべさんが来て野宿者は4人となり、鶴巻南公園(北京のそば)に行くと、ホームレスのおじさんが寝ていたり、若者がたむろっていたり、カップルのうち男性が酔いつぶれ女性が困っていたりで、そこは無法地帯でした。

◆マットやダンボール(←なぜか北京で埜口さんがくださいました)を敷いていると、落合さんもお菓子を持って覗きにきて「なぜ、わざわざこんなところで野宿をするのか」と、感心してくださいました(なぜ、野宿しないで帰っちゃったんですか、落合さん!)。それで、安東さんの「世界に1つだけの−40℃対応の寝袋」とテントの話や、落合さんの青森チャリ話やねぶた話などを聞いて、2時くらいに寝ました。

◆安東さんは早朝から気球の練習に行かねばと、1時間しか寝ないで、一人で3時に起きて出発されました(安東さんは12月2日の気球テストフライトの前日にもほとんど寝ずに飲まれていたのに、翌日ぴんぴんと朗らかに活動されており、ちょっとおかしいのではないか。「寝ないのも訓練のうち」とおっしゃっていましたが、すごい方です。でも、寝ないと野宿党の党首としてはいけないと思います!)。

◆残りの3人は、早朝5時に「トンボ」(長渕剛)をラジカセから大音量で流しつつ登場した「公園清掃おじさん軍団」に「なんかへんなのが寝てるよー」などとぶつくさ云われながらも、とっても眠いので「誰かが起きるまで……起こされるまで……」と互いにごろごろとし、どうにか6時まで粘って、「次回は別の公園で寝てみよう」などと云い合い、お家に帰りました。

◆ええっと、ついつい長くなっちゃった。つまり、我ら「野宿党」としましては、「報告会に行ったら、2次会は北京、3次会は野宿」と云われるくらい、この「3次会野宿」を定着させていきたい所存なのであります。そんな訳で、「第2回・3次会野宿」開催は12月の北京の後、です。江本さん、みなさま、ぜひ!(12月5日 野宿党・広報 加藤千晶)

オオカミ犬一家、八ヶ岳南麓へ移住

■思い返せば、八王子市の陣馬山麓での3年半の暮らしでは、本当にたくさんの出逢いと出来事がありました。犬のラフカイと自由に野山を走り回って暮らせる場所という単純な理由で高尾の山奥を選び、始まった山里での暮らし。毎日、裏山に登ってはイノシシに出会ったり、サルを追いかけたり…いつしかカナダ・バンクーバー島からやってきたオオカミ犬のウルフィーも加わり、2人&2匹の生活へと変わっていきました。その間、地平線会議との出逢いもあって、 たくさんの地平線仲間にも遊びに来ていただきました。夏のある日は、我が家へ続く山間の道路から「お〜い!」と雄叫びを上げながら三輪さんが走ってきたり、またある時は、携帯電話で「今、陣馬山のてっぺんにいるんだけど、これから行ってもいいかな?」と江本さんが駈けてきたり、みなさん野生動物と変わらぬ神出鬼没な出現ぶりでした。

◆さて、突然ですが、10月9日に僕たちは八ヶ岳南麓の山梨県北杜市へ移住しました。大きな空とでっかい山々に囲まれた、とっても素敵なところです。東に富士山、西に南アルプス、そして北には八ヶ岳と3000m級の山並みが、どっちを向いてもその雄姿をたたえています。もう山頂周辺は、真っ白に雪で染まり、この寄稿を書いている12月5日の真夜中の今は、満月に白銀の稜線が輝いています。そんな山の風景を満天の星とともに眺めつつ、まさか「いま北岳の山頂なんだけど…」なんて、電話がかかってきたりしないだろうな?と思ったりしています。

◆そんな八ヶ岳南麓の大きな自然の姿と同じように、ここにはおおらかな心で自由に生きている人たちがたくさんいます。旅ではなく、日々の暮らしの中で、地に足をつけて、力強く、自己の芯をしっかり持って、何かを創造していこうというここの人々との出逢いは、ぼくにとってまた新たな発見であり刺激です。大きな自然は、大きな心を育てるのでしょうか。それとも心が大きく育っていくと、人は今よりもさらに自分の可能性を広げることのできる大きさを抱く場所へと移動していくのでしょうか。ぼくにとって、高尾での暮らしもかなり旅の延長線上にあるものでしたが、ここへ来てみて日常の生活自体が旅そのものであり、旅と直結していることを実感しています。あえてどこかへ行かずとも、旅や冒険は、今ここに、ぼくが生きている瞬間にあるのだなと想います。(12月6日未明 田中勝之)


■今年の秋が、私たちにとってひとつの転換期だったようです。突然やってきた大波に乗っかって、住み慣れた陣馬の山小屋を離れ、八ヶ岳山麓の里山に暮らし始めました。引っ越しした時点では、実は次に住む場所の宛もない見切り発車で、正真正銘の放浪一家になってしまったのですが、想いは叶うものです。

◆ここ八ヶ岳と南アルプスの大らかな自然と心優しき友人知人たちに助けられ、ホームレス状態も1ヶ月半を過ぎたころ、ようやく新居が決まりました。昔蚕部屋として使われていた古い木造の建物で、自分たちの住む場所を好きなように創っていきたい私たちにとっては最高の出逢いでした。今はまだ土埃舞う2階の大部屋の窓からは富士山と南アルプスが望めます。頭のてっぺんから埃を被る日々がようやく落ちつき、今はトタン屋根の一角に設置した仮設の外キッチンで料理をして、大分きれいになった建物の1階で寝袋を広げている、ほとんどキャンプ生活の延長のような暮らしですが、これが本当に楽しいんですよね!

◆これから、どんな住まいにしていくのか想像するのも、それを実際に大工仕事をしながら形にしていくプロセスも、外の世界に旅に出るのと同じくらい、エキサイティングでわくわくする気持ちと喜びが溢れてきます。こういう暮らしが本当に好きだなあと思います。新しい住まいが出来上がるころ、この場所を拠点に、私たちはふたりで新しい仕事も始めようと考えています。内側にある想いや夢をひとつひとつ大切にして、創り上げる過程を楽しみながらやっていきたいと思います。

◆陣馬の小屋に何度も遊びに来てくれた地平線のみなさん、本当にありがとうございました。新しい住まいは、以前の小屋の3倍以上はあり、雑魚寝なら十数人はいけそうな広さです。江本御奉行様による人数制限もないと思いますので(笑)、みなさんまた気が向いたときにはぜひふらりと来て、ラフカイ&ウルフィーと遊んでやってくださいね。(同日同時間 冬を迎えた八ヶ岳より 菊地千恵)

[鷹匠参上! 山形県人三人が報告会集結]

 24日の報告会と同じ日に鷹匠の松原英俊さんと写真家の宮崎学さんの講演会が東京であり、地平線の大蔵喜福さんのを含めて一日に三人の講演を聞くという欲ばりプランで上京。一日早く上京するという松原さんと講演会の後、いっしょに報告会に行きましょうと約束。当日、松原さんの講演会の会場(東大駒場祭)に行くと「やっぱり来ちゃった」と声をかけてくる人が…。

◆忙しくて毎日残業、土日もほとんど休めないから行きたくても行けない、と言っていた酒田の飯野さんがそこにいた! かくして、東京の報告会に珍しく山形県人が三人もはせ参じたわけです。大蔵さんの報告の後、江本さんが松原さんを皆さんに紹介すると、松原さんは短い時間に二つのエピソードを話し、へたをすると非難を受けそうな内容の話なのに、絶妙の話術と人柄でみなを笑わせた。江本さんの心もぐっとつかんで、来年の報告者にぜひ!と、その場で依頼されたようです。(11月28日 山形市 網谷由美子)

「ブラジルで鷹匠の松原さんを見ました!」

■江本さん、こんにちは。お元気ですか。うちの日本語学校は、今週末に期末試験をするので、各クラスのテスト作りに追われています。他の先生が作ってきたテストを、私がチェックするのです。あはは。何様だ!ってかんじですけど、やっぱり、テストを作るのは難しいです。一緒にしてあげないと、ヘンテコなテストが出来上がる…。

◆実は世話人ニュース(注:地平線会議の世話人に送っているメールニュース)に、鷹匠の松原さんのことが載っていたので反応してしまいました。この間、NHKの番組を録画したビデオをもらって、その中に「課外授業ようこそ先輩」っていうのがありました。で、松原さんの回があって、私は、昨夜の上級クラスの授業で、生徒と一緒にその番組を見たんですよ。ちゃんと、ビデオを見た後のプリントも作って、鷹匠についてHP見て、熱弁をふるってしまった。

◆その松原さんが地平線にお見えだとは。うちの生徒たちは成人ですけど、雪景色やワラダ猟の様子に見入っていました。もし、今度、お話しすることがあったらお伝え下さい。ブラジルにも松原さんを知っている人が出来ましたよって。では、またご連絡します。年末年始は、アルゼンチンかチリかどっちかにいます。夏休みですから!江本さん、どうぞお元気でお過ごし下さい。tchau!(12月6日 ブラジル・レシフェ発 後田聡子

《注》 松原英俊さんは2000年1月、山形で行った「地平線会議出羽庄内ミレニアム集会」でイヌワシのコンロンと共にメイン報告者をつとめてくれた鷹匠。1950年青森に生まれ、子供の頃、鷹匠・沓沢朝次氏を追ったドキュメンタリー「老人と鷹」(故牛山純一氏の作品。1962年カンヌ映画祭でドキュメンタリー部門のグランプリを獲得)を見て強くひかれ、慶応大学卒業後、沓沢さんに弟子入り、鷹匠の道に入った。「ワラダ」というのはマタギの狩猟用具の一つ。親指位にたばねた藁を鍋敷かドウナツのように編んだもので、ウサギ狩に使う。冬、ノウサギに向って空中に投げてやるとヒューッという音でノウサギはタカに襲われたものと錯覚、あわてて雪穴にもぐり込んだところを手捕りする。(E)

[4畳半からの引越し、そして 子どもの誕生]

 江本さん、丸山さん、お元気ですか。今年初めの『梅里雪山 十七人の友を探して』出版の際には、応援をありがとうございました。おかげさまで本は、出版から2ヶ月あまりで3刷まで増刷されました。京都から始まって、全国5ヶ所を巡る写真展も多くの方にご来場いただいて成功でした。梅里雪山に10年以上関わってきたことが、ようやく報われる気がします。この10月には、遺族の方々とともに現地を訪ね、遺体捜索活動の記念碑を建立してきました。その様子を、今月発売の『山と溪谷』や『コヨーテ』に書きましたので機会があったらご覧ください。

◆今年は、プライベートでも様々なことがありました。最大なことは、本の出版とほぼ同時に、4年間つき合った彼女と入籍したことです。「本ができたら結婚しよう」と言い続けたことが実現しました。でも、本より早く子供ができてしまったという事情もあるのですが。それを機に、7年住んだ4畳半(家賃22,000円)のアパートを出て、川崎の団地に引越しました。築36年ですが、家の中で歩き回れるというのは快適ですね。

◆9月には、元気な男の子が誕生しました。妊娠・出産というのは真に大変なことと思いました。まず30歳過ぎてから妊娠するということ、そして2ヶ月以上続くつわりや、妊娠後期のおなかの張り、精神不安定……。写真展期間中の無理がたたったのか、彼女は予定10日前に破水してしまい、それから60時間の難産でした。痛みを耐え続けるにはあまりに長い時間です。女性から子供が出てくる瞬間というのは、男にとっては衝撃的であり、でも神秘的な光景です。

◆子供は「暁飛(あさひ)」と名づけました。これまで多くの夜明けに感動してきたこと、そして自分の飛び方を暁(さと)るようにとの願いをこめた名前です。生まれたときは3kgちょっとでしたが、2ヶ月で倍!になりました。もしこのペースで増えるとしたら1年で20kg増えますが、生まれて数ヶ月は一生で最も成長するときでしょうか。子供の寝顔を毎晩見ていると、自分が急に歳をとったような、「世代」という言葉が理解できるような気がしてきます。

◆次の作品は、我が子のためにも、梅里雪山をテーマに写真絵本を作ることを考えています。そして、来年からはチベットで新たな撮影取材を開始します。テーマはいくつかありますが、それをどう組み合わせるか、新たな計画を立てる楽しさを久しぶりに味わっています。帰る場所ができて、新たな力も得て、もう一歩前に踏み出せそうです。(12月6日 小林尚礼)

[観測船「しらせ」にて]

 前号の通信で南極観測船「しらせ」の出航にふれて少し紹介したが、最近地平線仲間になった永島祥子さん(31)(前モンベル広報部)が48次南極観測隊員として南極に向かっている。6年前の42次隊の時に次いで南極行は2度目。個人メールだが、貴重な体験になると思うのでご本人の了解を得て折にふれて現地の様子をお伝えする。(E)

★その1★

江本さん
 本当に瀬戸際になってメールしています。いよいよ今日、出発です。いろいろとやりすぎてしまうのか、こまごまとした事が結構あって、出発間際までバタバタしています。2回目の南極、1回目とは違うことばかりです。「2回目だから余裕だよね〜」と言われることが多いけどトンデモナイ!余裕はむしろ減ってしまったような気がします。

◆決まったのが遅くて準備期間が少なかったり、1回目と違って今は大切な家族がいるから(編注:永島さんはことし結婚したばかり)、自分以外のことにむしろ気がまわってしまったり、何でこうバタバタなのかと思っていたら、どうもそういうことのような気がします。それからありがたいことに、友達がたーくさんエールを送ってくれるから、返事をしてると一日があっという間です!

◆なんというか、一人で身軽だった6年前と今とで、家族がある点も違うし、付き合っている友達の数も違う。自分のことで精一杯でよかった6年前と違って、今はむしろ自分以外の人のことに時間を使ってしまう…ような気がします。

◆まあいろいろあるわけですけど、もうすぐ出発です。今日は夫は見送りには来ません。来たところで私はきっと耐えられない。朝、夫が出かけるまでの30分ですら、耐えられませんでした。子供のように泣きました。ちょっと複雑な南極行きです。行きたくて仕方のない人たちもたくさんいるから、本音はちょっと吐きづらいけど、正直、何もなければ今頃平和に日々の暮らしを送っていただろうな、と考えてしまいます。

◆ささいな夫婦喧嘩も、仕事の悩みも、特に大きな出来事のない平凡な日々の中では大問題になるけど、南極に1年半行って来い!なんていう大問題を目前に叩きつけられると、ささいなことはささいな出来事のまま流れていきました。社宅の掃除当番で近所の主婦の愚痴を聞くことすら、平和の証のような気持ちがしました。

◆人間は、自分にはないもの、自分からは奪われるものに、心惹かれるのですね。けれども、私はこれから、普通ではなかなか行けない所に行き、普通ではできない経験をするわけです。きっかけがどうであれ、最終的に「行く」と決めたのは自分なのでもう、ないものねだりは終わりにして、今日から出会う物事たちとしっかり向き合って来ようと思います。

◆ギリギリの時間の中で書いたので、まとまりのないメールになりました。また、メールします。行ってきます。永島祥子(11月28日)

★その2★

江本さん、こんにちは。
 フリーマントルの「しらせ」に着きました。そのまま食糧の積込みや免税品の配布作業に2日間従事して今日12月1日ようやく自由行動日になりました。こちらはまだ暑く、天気がいいと海に入る人が大勢います。今日は早速自転車を船からおろして海沿いの道を2時間くらい走ってきました。青い海、白い砂浜、そして暴力的な風(笑)。久しぶりにゆったりのんびり心も身体も羽を伸ばしています。06年12月1日 永島祥子@フリーマントル 絵葉書で。(なんと12月4日に届いた)

★その3★

江本さん、こんにちは。
 フリーマントルでの2日間の休養を済ませ、昨日いよいよ南極に向け出港しました。文明圏とは1年4ヶ月、おさらばです。しらせ側の意向により、メール送受信開始が出港後となったため、ご連絡が遅れました。昨日より、メールが開通いたしました。

◆出港後、さっそくさまざまな行事がありました。昨日は、観測隊員としらせ乗員との対面式のようなものや、救命胴衣着用法、不測事態への対処要領の説明、艦内生活についての説明などがありました。その他、艦内旅行と言って、しらせ乗員の方に、艦内を案内してもらうツアーも行われました。

◆今日は、朝から溺者が出たことを想定しての訓練がありました。救助訓練と言うより、迅速な人員確認のトレーニングです。午後からは、「しらせ大学」と言って、観測隊の研究者が、しらせ乗員に対して行う大学講座が始まりました。今年の「しらせ」はやる気満々で、「しらせ大学」を受講するために、晴海からフリーマントルの間に、「しらせ高校」というのを実施してきたそうです。そこで、何も知らない乗員に対して最低限の基礎知識を叩き込み、「しらせ大学」に備えたとのことでした。

◆実は私も地圏グループの代表として、最終日(あさって)の講師となっています。出港後、暇を見つけてはプレゼンテーションを作成していたので、それもあって、なかなか個人的なメールを書く時間がとれませんでした。おまけに、船の揺れがゆりかごのようなのです。容赦なく眠りを誘うのです。昨日は夜たっぷり時間があったはずなのに、吸い込まれるように眠りに落ちました。昨日は、時刻帯変更があったので、1時間時間を得しました。そのうえいつもより2時間も早く寝てしまったので、今日は目はぱっちりです。今日も、夜になったら怪しいですけどね…(笑)。

◆周りを見渡すと、船酔いの人たちが大分出てきています。「船の揺れがゆりかごのようで寝れてしょうがない」なんて言うと、「もう吐くものもなくなったので少し楽になった」と言っている人たちにしばかれます。あまり余計なことは言わないことにします。それではまた連絡します。(永島祥子 12月4日「しらせ」にて)


■植村直己冒険賞を受賞した永瀬忠志さんの新しい本「リヤカーマン」(毎日新聞社 1300円)刊行される!03年の南米大陸縦断と04−05年の日本列島再縦断、それに11月テレビ放映された南米リベンジ900キロがおもな内容。

■先月の発送請負人 三輪主彦 関根皓博 森井祐介 海宝道義 藤原和枝 長野淳子 尾方康子 土屋晋 山本千夏 村田忠彦 山辺剣 久島弘 安東浩正 松澤亮 江本嘉伸 田中幹也 長野亮之介 中山郁子
(海宝さんのうどんほかおいしいものつきだったので、なんと18名も! 尾方、土屋さんは海宝サーキットトレーニング塾の生徒)


[あとがき]

 今月もあちこちから楽しい便りを頂いた。お願いしたものもあるけど、思いがけない人からメールや葉書をもらうのは実に嬉しい。中にはぎりぎりの時間に飛び込んでくるものもある。皆、動きながら書いてくれるので、それも良し、と思う。1、2時間で大きな紙面を埋めることもある新聞記者の経験がそんな時に役立つ。レイアウト責任者の森井さんがそういう厄介をいまや即座にこなしてくれるのも楽しい。

◆こんな葉書も頂き、絶句する。「去る11月3日23時37分、夫、本庄健男は東チベットのカンリガルポ山群ライグ氷河付近で急死いたしました。夫はチベットの山々がこの上なく好きでした。55歳を過ぎてから何度となくこの地を訪れています。しかし残念ながら今年の訪問が最後となりました」武蔵村山の獣医師であった本庄さんには、大型犬くるみの病気の時など相談に乗ってもらったりした。それがチベットの山で…。ご冥福を祈る。

◆毎秒、毎分、毎時間、世界は動いている。2006年もいろいろなことがあった。23日、ことし最後の報告会の後は地平線打ち上げ特別忘年2次会としたい。あ、勿論「野宿党」結成祝いも兼ねて。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ネコの屋久詣で

  • 12月23日(曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「ある時、屋久島の森を歩いていたら、突然、目にする自然の中に自分の心がすーっと入っていくような感覚になったの。岩の気持ち、岩の気持ち、木の気持ちがわかるような気がした」というのは、詩人の“なかじまねこ”こと、中島菊代さん。5年前、何気なく訪れた屋久島に魅かれ、以来、通うこと28回。特定の場所に滞在するのではなく、毎回違う地域を訪れ、飽きることがありません。「もっともっと島のことを知りたくて」移住も考えたものの、事情でかなわず悶々としている時、冒頭の体験をしました。「それからかな、私にとって島は、詣でる場所になったような。」

屋久島に通い始めてから、詩や写真で気持ちを表現するようになったのも大きな変化でした。HPで発表した作品が、昨夏詩集として出版されています。(『きみの胸に火 灯しに行くよ』)

今月は大阪から中島さんをお迎えし、屋久島への思いを語って頂きます。プロの三味線奏者車谷(くるまたに)建太さんとのコラボレーションによる、詩の朗読も準備中。クリスマス・イブイブの一夜、「皆さんが暖かい気持ちを胸に抱いて会場を後にしていただけるような(中島さん)」報告会になるはずです。お楽しみに!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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