2008年8月の地平線通信

■8月の地平線通信・345号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

は泳ぎをいつ覚えるのだろう。中には生涯かなづちという人もいるから一般論で言うのはムリがあるかもしれないが、私の場合、小学校3、4年の頃だった。横浜の海がまだ砂浜というものを持っていた時代、はじめは遠浅の海でぱしゃぱしゃやっていたが、ある日おとなに背の立たないところまで連れていかれ、投げ込まれた。溺れたくないから必死で犬かきをして浅いところに戻る。何度か繰り返すうち深いところでも数メートルは泳げるようになっていた。

◆少し自信がつくと、ひとりで自分の背が立たないところまで泳いでは引き返すことができるようになり、ある日、海の浅い、深いに関係なく自由に泳げるようになっていた。背が立たないところを泳げる、という感覚は少年にとって新しい世界が開かれたことを意味する。沖に向かって泳ぎだすと、前方は水平線だけの広大な世界。せいぜい数メートルの深さなのにそのうち大海原をひとり進むような気分にとらわれ、独特の妄想が湧き出してくる。突然、目の前に巨大な海竜がかま首をもたげるのではないか、という恐しい妄想だ。当時よく読んだ南洋一郎の冒険小説の中に南海の島に今も生き残る恐竜の話があり、そのことが怖いもの見たさで身体に染みついてしまっていたのだろう。マンモスや恐竜がかって地上を闊歩していた事実は、少年の空想癖を刺激する。怖い。でも遭遇してみたい。

◆近年になって恐竜もマンモスも空想しなくても出会えるようになった。コンピューター・グラフィックスが活躍するようになったからだ。「ジェラシック・パーク」のように、大画面で恐竜たちが大暴れしてくれる。わかりやすいが、あまりによくできていて人類の妄想力はこれで格段に落ちると思う。

◆8月8日開会した北京オリンピックで、開会式のこれでもか、という、絢爛豪華、大がかりな仕掛けにびっくりした。私は今もあの開会式を説明することができない。想像を超えた人海戦術とコンピューター・グラフィックスをうまく合成したものであるらしい。最後、花火が打ち上げられる場面でもすごい演出があった。スタジアムの上空を巨大な人間の足跡のかたちに花火が打ち上げられ、それがのっしのっし、と上空を闊歩する様がヘリコプター撮影で同時中継された。

◆きょう13日になって、実は中国のテレビ局によって全世界に中継されたあの場面はコンピューター・グラフィックスで事前につくられたものだ、ということが暴露された。ほんとうか? そこまでやるのか。世の中、よほど検証する力を持っていないとこれからも簡単に騙されるぞ、と中国の不気味な力を感じた。

◆今年も猛暑が続く。いろいろな事情が重なって東京を離れられないので7月末から思い切ってプールに通っている。ほぼ20年ぶりだ。近くの東京都体育館は「長水路」、つまり50mプールが開放されているのが嬉しい。しかも、以前はアスリートばかりだったのでしろうとは入りにくかったが、今では9つのコースが「低速」「中速」「高速」の3つに分けられている。これなら「低速」でゆっくり行ける。

◆初日は休み休みしながら、翌日からは休みなしに1500mをゆっくり泳ぐことにしている。自己流のクロールで100mに3分ぐらいかけるので45分ぐらい。メダリストとは遠い世界だが、あらためて「浮力」のありがたさを感じる。泳いでいる間はいくらでも行ける感じなのである。

◆が、世の中そんなに甘くはない。1週間ほどしてある日、家で急にぐったりしてしまった。あれ?力が入らないぞ。床に横になるとそのまま立てなくなった。久々に1500mを連日泳いだことに身体が悲鳴を上げたのだった。すべてほどほどが良し、という教訓をこの年齢でまたまた学んだわけである。2日ほど休むと、以後は疲れなくなった。

◆11日夜、後楽園ホールに行く。「風神ライカ」を応援するためだ。WBC女子世界ライト級の王座をかけてアメリカのアン・マリー・サクラートと戦う33才の女性ボクサー。取材でほれこんだカミさんに付き合っての観戦だったが、ライカのファイティング・スピリットに感動した。判定で敗れはしたが、10ラウンド中、一歩もひかず前へ前へ出てゆく。ああいう生き方はいい。

◆地平線会議の誕生日の8月17日は、今回のオリンピックで一番注目していた日だ。この日、野口みずきが女子マラソンを走る予定だったから。それが突然の欠場。うーむ。今、みずき選手の心を考えると激しく痛い。08年北京の最大の「事件」である(江本嘉伸


先月の報告会から

蒼天に幟を立てて

宮原巍(たかし)

2008年7月25日(金) 新宿スポーツセンター

■4月10日に、ネパールの憲法制定選挙に立候補した宮原巍さん。自ら2年前に立ちあげたネパール国家発展党(NRBP)を率いて戦ったけれども敗れてしまい、国政の第一党はネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)となった。ネパール国籍を取得してまでネパールのことを真剣に考え、行動している宮原さんて、どんな人なのだろう、と実は少々不思議な気持ちだった。他国で選挙に出るなんて、なんかミーハーというか、どこかぶっ飛んだ陽気な感じのおじさんを勝手にイメージしてしまっていたのだが、大間違いだった。

◆実際の宮原さんは、とても落ち着いていらして、マイクを持って語るのもなんとなく伏し目がちで、はきはき、というよりは、ゆっくり、という感じ。そして選挙に出るに至るきっかけや、気持ちを聞くにつれて、宮原さんにとっては、選挙への出馬もごく自然の流れなのだとわかった。突飛なことではなくて、ネパールを真剣に思う彼の信念の延長線上にあることなのだ、と。

◆20代のころから山が好きでネパールに魅せられた。その後ネパールの山の美しさから、「ネパールは観光だ!」と思い立つ。中国やインドと接しているネパールは、これからプロダクトの面ではとてもじゃないが太刀打ちできない。かわりに素晴らしいヒマラヤがあるではないか。

◆第4次南極地域観測隊員として南極へ行ってから人生観が変わったという。通信状況やら今とは全然違う当時を振り返る宮原さんはとても楽しそうだった。「リスクがあればあるほど楽しいじゃないですか」。エベレストの見える丘にホテルを建てようと思った時は、周囲の批判も覚悟していたが、反対は意外と少なかったようだ。ネパール政府からの補助金も得て、3年がかりで建設した。「正直、あのホテルは今でも商売になってません。高くてはお客が来ないからそこそこの料金なのに、高い、高いと言われててね、まあ一番高いところにあるのは確かなんだけど」。

◆そのホテル・エベレスト・ビューの全景については、たまたま今年初め、トレッキングでホテルにも泊まった地平線会議仲間の渡辺泰栄さんの素晴らしい写真が披露された。なるほど、エベレストがとても美しく見える、自然に溶け込んだ素敵なホテルだ。景観に負けないよう芸術作品を造るつもりで造ったそうだ。標高3885メートルという地で15の山々に囲まれているこのホテルは世界一高所にあるホテルとしてギネスブックに認定されている。

◆ホテルや旅行会社を運営する傍ら、1000日ほどかけてネパールをくまなく歩いた。その中でみた地方の貧しい農村の生活というのは、2500年前のお釈迦様が生まれた時と変わらないのでは? というほどの状況だったそうだ。そしてその一方カトマンズはすっかり都市化され、整備された環境でいわゆるお金持ち層が暮らしている。

◆ネパールに来る日本人はカトマンズしか知らないのにネパールはああだ、こうだ、とくだを巻く。宮原さんは、そうやってネパールを批判するだけじゃなくて、ネパールにこうあって欲しいと思うこと、主張したいことに向けて実際に行動したい、と思うようになった。その契機となったのが、1990年に王国ネパールが「民主化」したときだった。しかしその民主化の実際はひどいもので、政治家たちのためのものであり、国民のためのものとはかけ離れていた。1992年頃から政治の腐敗は急速に進み、内閣も10か月程で次々に交代、という状況を繰り返していて、安定はほど遠かった。

◆宮原さんはそんな状況を見るにつけ、自分の残りの人生があと10年として、このまま残りの10年も、やれホテルの稼働率やら組合の対策やらで頭を痛ませて終わってしまうのでは、本来自分が生きている意味がなくなってしまうのでは、と考えはじめた。しかし、いくら正論を唱えたとしてもお前日本人じゃないか、と言われては話ができない。思いきって国籍をとることにした。その後に政治的な発言をしたい、具体的にはネパールの国土開発プランを主張していきたい。そして政党を作ろう、と。

◆「思いつきのような気がするけれども、私にとっては、底流にあるのは、全て一つの延長線上にある気がするんですね。そもそもネパールに行った目的も、探検、冒険の精神みたいなものを何か具体化する、それから、その現状に触れて観光の仕事をする。政党を立ち上げて主張をする、全て延長線上にあると思っています」。

◆なんとか資金を作り、30代の若者たちと共同してマニフェストを作成し、立候補した。王様を日本のようにシンボルとして残し、国土を開発し、そして共和制でなくて議院内閣制を布くという、のが宮原さんの主張だ。マニフェストの英文の冊子を見せてもらったが、政治、経済、教育、外交、福祉と項目を立て、それぞれに詳しく主張が書かれており、ネパールの現状を理解していないと、とてもここまでは書けないものだと思う。国民性はすぐ変わるようなものではなく、政治形態はそれを十分に考慮した上で決めなければならない。国民性と歴史を考えずして共和制を布いている今の政府に宮原さんは不満そうだった。

◆残念ながら党から当選者は出なかったものの、ネパール国民の1000人に一人からは支持される結果に。マオイストは未だに暴力を行使しており、民主化とは、遠い状況である。加えて今カトマンズの環境汚染は甚だしく、大気汚染、森林伐採、汚水と問題が多い。「これらの問題と貧困、すべて政治の腐敗が問題なんです」。宮原さんはネパール人としてネパールを批判している。

◆最後になって、還暦を向かえて挑戦したエベレスト登山の話に。8700メートル地点、酸欠で目が見えなくなってしまい、頂を目前にして下山を余儀なくされたとのこと。宮原さんの著書『還暦のエベレスト』には、「山屋」であるという気持ちを捨て切れなかったこと、そしてもうひとつ思い続けたこととして、「経済活動と安泰のみが生きる目的ではない」と、書かれている。なんとかっこいいことを言うのか…と、読みながら思わず口元が緩んでにやりとしてしまった。

◆「地理的な冒険ではなく、人間との接点でネパールを選び、人間社会との接点の中で仕事をしながら、向こうの人たちのネットワークの中に自分自身が入って、そこで仕事をするということを目標にしてきた」という宮原さん。個人的な話になって恐縮だが、私は自分の人生にどうやって冒険的な要素を加えるべきか、ずっと考えている。普通にサラリーマンするでもなく、かといって突っ走って、およそ社会とはかけ離れたところに行っちゃうのも嫌だ。「社会の接点の中での冒険」、今は具体的には思いつかないが、宮原さんのこの言葉は私のなかで大きなヒントとなった。

◆宮原さんは、私がこれからの未来でやりたいことを今現在まさにやっている、まさに「!」な人なのだ。それはつまり、「人間社会の接点の中で冒険的なことをしたい」ということ。思い返せば、「はだしのゲン」だってそういうコンセプトでやってきた。社会のなかに埋没するんじゃなくて(←これは麻田豊先生がよく言う台詞です)、でももう社会には戻って来れなくなるようなのも嫌で、なんだろう、常に挑戦していたいのだろうか。

◆宮原さんが特定の国に特化して活動してきた点も私には大きな刺激だ。私も、(あまり声を大にして言えませんが)パキスタンに対して自分に何か出来る事はないか、と思っている。今は就職活動をしていて、必死に印パと関わりのある会社や、仕事を選んでいる(まだ内定はもらっていませんが…)。今の私にはパキスタンと今後もどうにかして関わりたい! という闇雲な気持ちしかなく、しかもパキスタンに対してあまり知識もちあわせていない。宮原さんの「ネパールは観光だ!」のように、「パキスタンは○○だ!」なんてとても言い切れない。

◆社会の接点の中で、冒険的なことをする、自分の人生を自分で問いかけながら、常に問題意識を忘れない、そして実際に行動する。自分が74歳になってもまだこんなバイタリティがあるかどうか。なにより宮原さんの行動は、本人もおっしゃっていた通り、一本の筋が通っている。点と点を無理やり結んだ感じなど一切ない。そこが本当にかっこいい。

◆ 最後に会場の黒板に書いてくれた、宮原さんが心の中に留めている言葉。《老驥は櫪に伏すも 走は千里にあり 烈士は募年いぬれど 壮心は己だ止まず》 宮原さん、この精神を忘れず、次の選挙がんばってください!(橋本 恵 07年3月報告者 ウルドゥー一座座員)

[報告者のひとこと]

■「350回の節目に当たる報告会であるから、宮原さんに頼んだ」という江本総元締めの殺し文句に乗ってつい引き受けたのがその私の報告会であった。話し下手の私のことであるから、当然会が終わったあと消化不良を起した感じが残った。私が言いたかったことの一つは、日本人がもう3〜400年ぐらい前に探検の精神が旺盛であったら、ことによるとアムール川以北、レナ川以東の東シベリヤは日本の領土になっていたかもしれないということである。何しろたった140年前に、ロシアの皇帝がアラスカを720万ドルでアメリカに売ってしまうという時代だってあったのである。最も当のアメリカでさえ議会で問題になり、時のジョンソン大統領は「そんな冷蔵庫を買って何になる」といってつるし上げられたという。ところで、その頃すでにアメリカには冷蔵庫ってあったのだろうか? それはともかく、若しあの頃に、「地平線会議」の面々が揃っていて北方探検に志していたならば、きっと地球の歴史は変わった。

◆もう一つ、私は選挙に負けたひがみで言うのではないが、今のネパールの政治は国のことも国民のことも何も考えていない。政治に携わっている人たちは、ただただ権力を如何に手中にするかという争いに明け暮れしている。そう思えて仕方が無い。そしてその一番の犠牲者は弱者、すなわち貧しい人たちである。これが政治を覗き見した私の実感である。たとえごまめの歯軋りだとしても、蟷螂の斧であっても、残った人生はそのことを言い続けることに使いたい。この間の報告会で「地平線会議」の人たちに話を聞いていただいたことで、そのあと勇気をもらったような印象も残った。有難うございました。(宮原 巍


地平線ポストから

 「ラサは町中が軍隊と公安であふれかえってます!」

━北京オリンピック開会直前、念願のチベットの首都にたどり着いた自転車旅人の緊急報告━

■8月6日、ようやくラサに到着できました。昨年12月に日本を出発しましたが、6月に一時帰国したのは、ビザの取得のためでした。3月にチベットで起きた騒動でチベットに入れない状態が続き、ビザの期限切れが迫ってきてしまったのです(オリンピックの影響で世界中で長期の中国ビザが取れない時に東京のとある旅行会社では6か月のビザが取れたのです)。いったん成都に戻って一度は成都からラサを結ぶ川蔵公路南路でラサ入りを目指したんですが甘孜チベット族自治州に入る手前で検問に引っかかり追い返されてしまいました。現在、四川省甘孜チベット族自治州は6月に甘孜県でデモがあったりしたので外国人立ち入り禁止なのです。

◆それでまた成都に戻ったんですが今度は風邪を引いてしまい更に10日間くらい成都に滞在しました。おかげで成都の「Simzゲストハウス」に合計51泊もしてしまいました。「Simz」で会ったラサから帰ってきたライダーによるとゴルムドからのルート(青蔵公路)が検問1つしかなく一番可能性が高そうだとの事なので列車で移動してゴルムド〜ラサ間を走ることに。

◆ゴルムドからは1200kmを1日の休養日入れて13日間でした。前半は毎日雨でウンザリしましたが後半は毎日晴れてチベットの青い空を楽しめました。途中、中国人サイクリストにも多数会って中国でも自転車旅行が流行っているようでした。彼らは検問が関係なくていいな〜なんて思いながら走ってました。

◆問題の検問は4つありましたが無事突破できました。最初のはライダーに教えてもらった検問所で、青海省の沱沱河(唐古拉山鎮)からラサ側に24キロの地点。だだっ広い草原に臨時の検問でパトカー2台とテント2張りがあり。事前に知っていたので朝6時30分に無事突破。公安さんはテントの中で寝ているようでした。ラサ市に入り羊八井からラサ中心部にかけて3つ検問所がありました。でも自転車は対象外のようでまったく呼び止められず通過できました。同じアジア顔なので中国人サイクリストと間違われたのでしょう。

◆5月上旬に到着する予定がいろいろな事があって3か月も遅れてしまいポタラ宮前に着いた時は嬉しさのあまり思わず叫びそうになっちゃいました。ラサは町中が軍隊と公安であふれかえってます。道には軍人を乗せたトラックが走ってるし町には銃を持った軍人が行進してるし建物の屋上では軍人が銃を構えてるしバルコル内にも公安の詰め所が出現したりジョカン前も軍の詰め所が出来たりすごい物騒になってます。特に夜11時を過ぎると町に軍人か公安しかいなくなり不気味な雰囲気です。それからオリンピックが開幕してポタラ宮広場の隅にオーロラビジョンが設置されたり町はオリンピック一色になろうとしているようです。

◆《以下編集長の質問に答えて》 <精神的にかなり緊張感あるラサ入りだった? 意外にあっけなかった?> 精神的にはラサ入りは意外にあっけなかったですね。途中、チベット自治区に入るまでが緊張しました。ラサが近くなったら開き直ってましたね。公安さん捕まえるなら捕まえてみろ! みたいに思ってましたよ。

◆<ゴルムドからの1200km、夜はどうしましたか? 野宿? あるいは?>1200kmのうち、野宿(テント泊)が6泊であとの6泊は宿です。野宿は人目のつかない所でやりました。ほこらの中とか鉄道のガード下とか河原とかですね。野宿してて公安に見つかり捕まるケースもあるようです。実際、野宿中に捕まった日本人サイクリストを知っています。宿はトラックストップのような所(住宿など)ですね。「無口で無愛想な中国人」を装ったらまったく問題なく泊まれました。日が暮れてから宿をとって部屋からトイレ以外は出なければ大丈夫でした。もっとも開放都市であるナクチュ鎮、ラサ市内では日本人と言っても全く問題ありませんでした。<自転車に積んだ荷物の重量はどのくらい?> 通常は前後のサイドバックと後ろのサイドバックの上にドライバックを載せてますが25キロくらいです。ゴルムド〜ラサ間は10日分の食料と水4Lを積んでたのでプラス10キロで最大35キロくらいになってたと思います。食料は朝は「方便飯」(アルファ米、オカズ、スープのセットで中国式インスタント定食のような物)昼は「圧縮干粮」(人民解放軍ビスケット、中国版カロリーメイト)夜、インスタント麺でした。

◆<外国人は?> 外国人観光客は日本人バックパッカーに一組会った他は西洋人のツアー客だけですね。西洋人のバックパッカーもいるかも知れませんが。その日本人バックパッカーはゴルムドから列車で来たようです。成都などからの列車は厳しいようですがゴルムドからならチケットが買えパーミットのチェックもないようです。ホテルはスノーランドホテルに泊まっています。チェックインの時にスタッフにパーミットの有無を問われて無いと言ったら電話で公安に確認してたようですが問題なく泊まれました。ただパーミットが無いと泊まれないホテルもあるようです。例えばユースホステル、キレーホテル、バナクショーホテルです。

◆<ところで、どうやって簡単にメールできるの?> 町のネット屋でできます。ADSLの回線らしく処理速度もなかなかのものです。料金は1時間3元(約45円)ですね。安くてよいです。

◆<これからの予定は?> 8月末までラサに滞在して西チベットのカイラスを目指す予定です。その後はさらに北上してカシュガルだと思います。しかし現在カイラス方面はオリンピックの影響で検問が厳しいようなのでオリンピック終了後に様子を見てルートを決めます。(田村暁生 チベットをメインにアジア横断を目指す清瀬市出身の27才)


《宮原さんと見た真昼の星!!》

■宮原さんの話の中にとつぜん私の名前が出てきてビックリしました。そういえば35年位前、あの写真、アマダブラム前衛峰の頂上直下で宮原さんが言われた言葉を思い出しました。「早く登ってきてごらん! 素晴らしいものが見えるよ。私も生まれて初めて見る真昼の星だ! きっと良いことがあるよ!」なんと信じられないことに、太陽のすぐ近くにお星様がきらきらと明るく光っていたのです。ピッケルで作った氷の器にみつ豆の缶詰をあけ、真昼のお星様に乾杯! 懐かしい思い出です。

◆それをきっかけに登山に目覚めた? 私は年に1、2回、1か月前後の休暇をもらい、当時はまだ一般的ではなかった海外の山々に登りに行くようになりました。会社員ではありましたが、幸いなことに勤務先(日本IBM)の粋な取り計らい、暗黙の了解があってこそでしたが。そんなある時、宮原さんが宗谷の乗組員(注:南極観測の設営要員)だったことを知り、「私も南極の山に登りに行きたいなあ…」と言ったところ、「南極はいろいろな制約があって簡単には行けないけど、北極グリーンランドなら行けるよ」、「ホント? 山登りもできる? じゃそこへ行くわ!」と即決。

◆グリーンランド西海岸は氷河が後退してできた平地に人も住んでいますが、東海岸は海から直接聳え立つ岩峰と氷河で平地はほとんどなく、また北極海流の影響による厳しい気候と不便な交通等により数少ない秘境のひとつにされているとのこと。行き先はもちろん東海岸です。宮原さんを隊長に物好き7名が集まり、私の会社には「グリーンランド学術調査隊」という大仰な計画書を作って休暇を申請しました。諸々の準備も整い出発を待つばかりになった時、突然、宮原さんが急用で行けなくなってしまいました。ちょうどホテル・ヒマラヤの計画がスタートしたばかりで、難しい問題をたくさんかかえた時期だったと記憶しています。

◆結局言いだしっぺの私が隊長となり、1965年の日大遠征隊(宮原さん隊長)以来、日本人では2隊目という、地図も情報もない場所への不安な出発。案の定トラブル続きでしたが何とか東海岸のアンマサリックという村に到着、船を借りて北上し、小さな湾に上陸しました。氷床が海にせり出し崩れて氷山となる様子を見に行ったり、岩峰に登ったり、海際にテントを張って何万年も前の氷のピチピチ鳴る音を子守唄に寝たりと至福の時を過ごしました。しかし帰りの航路が氷にびっしりと覆われてしまった為に船が迎えに来ることができません。人が住む場所からも遠く離れ、通信手段もなく途方にくれた時、たまたま狩に来たエスキモーのボートが私達を見つけ近付いてきました。

◆身振り手振りで事情を説明、ボートに全員は乗れないので2回に分けて彼らの部落まで連れて行ってもらいました。それからもいろいろありましたが、何とか予定通りの1か月後、全員無事に帰国することができました。さっそく宮原さんに報告に行ったところ、宮原さんは既に大体の状況は把握、忙しいさなか日本から私達をいろいろサポートしていてくださったことが分かり皆で感謝したことを、美しいグリーンランド東海岸の、氷河とそそり立つ岩峰そして氷山が浮ぶ、太古の氷河期を思わせる景色とともに、今、なつかしく想い出しています。

◆それにしても、私から見た宮原さんは‘いつも夢を追いかけているロマンチスト’で、政治家とはまったくの対極にあると思っていましたので、立候補したと聞いた時は何かの間違いだと思いました。そしてそれが本当だと分かった時も「なんで政治家なんて…」と少々がっかりした覚えがあります。どうも政治家というイメージが良くありません。しかし、今回、話を聞いて愛するネパールの為、国を思うからこそとの熱い思いが良く分かりました。

◆先の短い自分には地位や名誉はいらない、自分の為でなくネパールの人々のために、愛するネパールの国を救いたい! 私利私欲を捨てた、その一生懸命さが人の心を打ちます。若い頃から夢を追いかけ、その夢を実際に形にしてきた宮原さんの夢の集大成が、これなのだ! と感じました。ネパールに限らず政治家の力が絶大で、一般の人が現状を変えようといくら頑張っても、何もできないという国がたくさん有ります。しかし政治家になるには、その国の国民でなくてはなりません。日本国籍を捨て、ネパール国民になった宮原さんの決断とその心意気に、あの真昼のお星様も応援してくれると思います。きっと良いことがあります! 次回の選挙でぜひそれを実現させて欲しいと願っています。(三上智津子

追記:普段は、黙々と通信発送の仕事を手伝ってくれる三上さんのほんとうの顔が見える文章に、以下思わず補足質問。(E)

■<当時、エベレストビューに宿泊しました?> 「建設中でしたが、いくつか宿泊できる部屋もできていました。お湯も出ましたが、それにはポリタンと大きな籠を背負って、クムジュンの部落まで下り、水と薪を運んでくる必要があり、非常に貴重なものでした。(そうとは知らず、ジャージャーお湯を使って洗髪していたら、宮原さんが青くなってとんできました。)
■<これまでにどんな登山、山旅を?>「5大陸の山とグリーンランドです。アコンカグア、Mt.クック、マッターホルン、モンブラン、ケニア山、キリマンジャロ等にも登頂しましたが、今では簡単に行ける山ばかりです。ただ幸運なことに、当時、登山で海外へでるのはエキスパートが多かった為、第一線のクライマー達と友達になることができ、いろいろなところへ連れて行ってもらいました。特に山学同志会に女性は入会できなかったのですが、(非公式に)メンバーが順番に岩や沢に連れて行ってくれました。ジャヌーやカンチェンジュンガ遠征の時は、準備等のお手伝いもさせてもらいました。当時の山友達(飲み仲間)も3分の1は亡くなってしまいました。星野隆男、小川信之、今野和義、大木敬一、坂野俊孝、和田昌平、加藤保男、長谷川恒男、植村直巳、広島三朗、小松幸三、山田昇、小西政継、等々…。

<登山の世界では知らない者がない錚々たる顔ぶれ。「山学同志会」は、当時日本の登山をリードしていた先鋭的登攀集団=E>

「二人でうっとりとその雄大な飛翔に見とれた」

━━クマタカ生息地に案内された鷹匠・松原英俊の感動━━

■7月初め、一本の電話が自宅にかかってきた。青森県八戸市の郊外に住んでいるYさん(57才)からだったが、以前から悪かった病気がいよいよ悪化し、右足はほとんど感覚がなくなり、もういつ山を歩けなくなるか分からない状態だという。そのためまだなんとか歩けるうちに、自分の知っているクマタカの生息地を私に教えておきたいとのこと。

◆岩手県の北部の田舎で生まれ育った彼は、子供の時から鳥や動物に異常なほどの興味を持ち、山や川を駆けまわっては野鳥の飼育や観察、魚釣りに夢中になったという。そのため今では鳥獣は勿論、川魚や昆虫等あらゆる生き物の生態に学者もまっ青になるほど精通している。だが10年ほど前から仕事での無理がたたったのか体調を崩し、何度も手術や入院を繰り返し、今では足も腰も動かすのがやっとという有様だという。そんな体の状態でありながら希少なワシやタカと同様に鷹匠も残していかないとという彼の気持がわたしにはただただありがたかった。

◆夜の高速道路を突っ走り、Yさんの自宅に着くともうすでに山へ行く準備もととのえてあり、到着したその日の朝から二人の山歩きが始まった。クマタカの生息地に向かう途中の道端では、カラマツの木に作ったノスリの巣や車にはねられた仔ギツネやウサギ、トビの死体を観察し、車を降りて小さな渓谷に入るとそこから先はもう道のない山歩きになった。澄んだ清流の沢では何匹もイワナが泳ぎイタチがヤブの中に走り、足に魚をつかんだミサゴが上空を飛んだ。沢を渡渉し、尾根に登る斜面は急峻で笹や灌木につかまりながらの登山だったが、Yさんは杖をついているのにもかかわらず40年以上も山歩きをしてきた経験からか、休み休みしながらも私を先導してくれた。それはまるで何かに取り憑かれた執念のような歩きだった。

◆斜面の林の中では、オオルリやクロツグミの親が巣立ったばかりのヒナに私たちの接近を知らせ、カモシカも「フシュッ、フシュッ」と鋭い警戒の声をあげた。そしてようやく辿り着いた見通しのいい尾根上でクマタカが現れるのを待ち続け、昼近くなってようやく谷の奥から旋回上昇してきたクマタカを発見し、二人でうっとりとその雄大な飛翔に見とれた。「何度見てもいいなあ」。Yさんの憧れの人に出会ったかのような言葉は二人に共通するものがあった。その後もう一度だけ尾根上を旋回するクマタカを観察してから下山を始めたが、道のない急斜面の下りはかなり神経を使い、ザイルを使って下りなければならない危険な岩場もあった。

◆夕方の帰り道、Yさんが「ちょっと寄り道していこう」と立ち寄った先は、人家にほど近い小さな流れの沢。おもむろに竿を取り出し、近くのヤブからバッタを捕まえ流れの落ち込みに竿を出した。そして私が見ている間に28cm位のかなり大型のヤマメを釣り上げ、その後も小沢を登りながら1時間もしないうちに計6匹のヤマメを捕らえたのには驚いた。まさに沢の地形もヤマメの生態も熟知している名人の釣りである。彼に釣りやマツタケ採りで教えを請いにくる若者たちがいるというのもうなずける。

◆体中に山歩きの疲労が残っているはずなのに翌日も翌々日も、また別の山を歩いてクマタカを観察したのだが、さらに驚いたことに彼が今春偶然にも発見したイヌワシの営巣地に案内してくれるという。特別天然記念物のイヌワシは、今では日本全国に約500羽しか生息しておらず、その繁殖成功率も餌不足のせいか2割程度のもので最も絶滅が危惧されている生き物の一つである。

◆案内されていったイヌワシの生息地はこれまた沢の奥深く、そそり立つ断崖絶壁の高い岩山の中腹にその巣はあった。Yさんに教えられた場所を双眼鏡で覗くと、切り立つ崖の岩棚に枝を厚く積み上げた巣が見つかったが、ヒナはもう巣立ったのか巣の中にもその近くにもいないようだ。あるいはまだうまく飛べない幼鳥は巣立ちに失敗して滑落死してしまったのだろうか。二人の顔に不安がよぎる。周辺の岩棚や岩に生えている松の枝等どこかに止まっていないか二人で必死に捜す。

◆「いた!」。Yさんの声に、すぐに双眼鏡を向けてみると、おお!その鋭く尖った山頂の岩塔から一段下がった岩棚に黒褐色の幼鳥の姿が……。見事に巣立ちに成功し、飛行にも大分なれて高い山頂近くの岩棚にまで到達したのであろう。親が餌を運んでくるのを待っているのか上空を気にしながら岩棚にたたずんでいるその姿は、幼鳥とはいえ王者の風格をそなえ、その蒼穹に突きささるかのような岩と共に私の目に深く焼き付いた。

◆3日間にわたって歩きまわった北国の山野には、私の想像以上に濃密な生き物たちの確かな営みがあり、満身創痍の体で杖をつきながらまるでそれが遺言でもあるかのように沢を渡り、笹をかきわけ急な崖をよじ登った彼の後姿に私はただ打たれていた。(松原英俊 山形)


《見送る側》

■ WTN-J(ワールドツーリング・ネットワーク・ジャパン)略して「ワッツー」のスタッフを5年前からやっている。ワッツーとは、海外ツーリングの魅力を、もっと多くの人に知ってもらおうという会で、地平線会議や自転車のJACCをモデルに講演会やキャンプを主催している(http://www. wtn-j.com/)。僕自身のバイク世界一周(85〜96)はもう古すぎて情報としては意味がないが、ネットの時代となった今、ワッツーに集まる情報は、これから旅立つ人には役に立つと自負している。

◆僕は海外ツーリングは冒険ではなく、一つの旅のスタイルだと思っている。だから大学生から「初めての海外旅行はバイクで」なんて相談がきても、さほど不安も感じずに気軽に送りだしてきた。ところが5月に、ある大学生(Mクン)が、アマゾン川をイカダで下りたいので話を聞かせてほしい、と電話してきた時、なんともいえない怖さを感じた。イカダ下りは海外ツーリングとは、少し意味合いが違う。

◆92年、僕は現地で知り合った仲間2人と自作イカダでアマゾン川を5000キロ下り、帰国後、日記を「アマゾン漂流日記」という一冊の本にまとめた。Mクンはその本を読み僕に連絡してきた。もう本が出版されてから9年もたつが、読者から本気の相談を受けたのは初めてだった。彼の行動を決めるのは彼自身だし、できる範囲内での協力はしたい。ただアマゾンイカダ下りに関しては、苦い記憶がある。

◆10数年前、下宿にいきなり「アマゾンの話を聞かせて」とR大学探検部三人組みがやってきたことがある。意気込みに共感した僕はできる限りの情報を彼らに提供した。しかしその2か月後に2人が河口付近で行方不明となり、その結果R大探検部、彼らの親族、その他関係者すべてはマスコミの総攻撃を受ける騒ぎになってしまった。数日して2人は発見された。行方不明というのは、ただイカダからカヌーで村に買出しにいって、イカダ本体とはぐれてしまっただけのことだった。

◆でも「アマゾン」という言葉の持つ魔力に、乗せられやすい日本人はすべて踊らされてしまったのだ。騒ぎの最中、僕は何一つ彼らを助けることはできなかった。しかもその後、W大探検部がアマゾンイカダ下りの最中に軍に殺されるという事件が起こり、さらにW大はR大から情報を収集していたと後から知らされた。いくら軍の犯罪とはいえ、自分もこの負の連鎖には関係していると暗い気持ちになった。

◆という一連の事実をMクンに伝えた。彼がどう判断するにしろ、まずは事実を知っておいて欲しかった。さてもう僕にできることはないのだろうか。そうだ。いい人がいる。ちょうどいいタイミングで北極犬橇探検をしている山崎さんが帰国している。彼は18歳で単独アマゾン川イカダ下りに挑戦し、一週間後に転覆して死にかけ、それでも懲りずに翌年全域を下った人だ。メールをうつと「自然より政治や人間関係のトラブルのほうが危険じゃないですか。まあ行くというなら、止めませんが」と妙に慎重な返事がきた。

◆治安か……、どうなんだろう? 最近の南米帰りのライダーたちからは、政情不安や、強盗や偽警官の話も拍子抜けするぐらい聞かない。でもそれは偶然かも。じゃあそのヘンのことが分かる人は……白根全さん、かな。というわけで地平線2次会でMクンを白根さんにつないだ。白根さんからは政治や治安の話は出なかったとMクンは言ってたから、まあ大丈夫だろう。

◆しばらくして、山崎さんがスポンサー探しのために上京してきた。目黒でM君と待ち合わせて居酒屋に入る。メールの論調から説教するのでは、と思ったが、そんな気配もなく、資料を山ほど持ってきて、一人用のイカダについてMクンに説明してくれた。「ところでMさん、親は知ってるの?」話が一段落したところで山崎さんが遠慮がちにきりだすと、Mクンは視線を落とし「いえ、アマゾンの船旅に行く、と言ってます」と答えた。山崎さんは「この件は知ってた?」と僕に目で合図してから「そうだよね……。オレも言えなかったもん」と遠くを見て笑った。

◆他にできることは? 考えるまでもなかった。ちょうどいいタイミングでアマゾンの講演会をする。ただ子供の通っている学童保育の児童&父兄向けのお話なので、「アナタの知り合いの怪しい人たちは絶対呼んじゃダメだからね」と嫁さんから釘を刺されていた。でもMクンは見た目はフツーの学生だから大丈夫! そう嫁さんを説得して彼を呼んだ。お客の一人として、楽しそうに話を聞いていたMクンだが、どこかで自分のこととして考えたのか「なんだか怖くなってきました」と後で言った。彼の口からそんな言葉を聞いたのは始めてだった。

◆「いいの? Mクンを行かせて……。私は親の目線でしか彼のことを見れないよ」M君が帰ったあと嫁さんから言われる。唸るしかない。インド、ネパールだけ。嫌なことにMクンの海外旅行経験はR大探検部の最上級生とまるで同じだ。とはいえR大は、騒ぎを起こした時にはほぼ河口付近まで到達していた。あのミスさえなければ……。やっぱり止めたくない。最悪のおせっかいにならないことを祈ろう。Mクン、貸してやった南米関連の本、ちゃんと返しにこいよ。(坪井伸吾


[14年ぶりのメキシコでびっくり! なんと訪ねた世界遺産198か所]

目下、人生を賭けたテーマ、『犬が案内する世界遺産』取材中!

■江本さん、ご無沙汰しています。いつも通信をありがとうございます。ちゃんとすみずみまで目を通していますが、報告会や発送作業などは予定が合わずになかなか参加できずに申し訳ありません。

◆ところで、先日14年ぶりにメキシコへ行ってきました。前回は1年半かけてのバイク旅でしたが、今回は2週間だけなので中年バックパッカーとなって安宿に泊まり、屋台で食事したりの貧乏旅行でした。公共交通機関だよりの旅はバイクと比べて不自由なのは否めない反面、メキシコのバスはかなり快適だし、この時期は雨季で雨が多かったので「バイクじゃなくてよかった」なんて思ったりもしました。

◆日程が少ないうえ、航空運賃が思った以上に上がっていたので(燃料サーチャージ、バカになりません)、もったいなくて沈没もできず、毎日しっかりと観光にいそしんでいました。観光といってもまったくの遊びというわけでもなく、主たる目的は犬の写真を撮ること。仕事につながることをしっかり示さないと、同じく旅好きの我が夫が「オマエだけずるい」と仕事を辞めかねないのです(前歴あり)。独身時代と違って、この点がちょっと大変です。

◆メキシコにしたのは、ズバリ、世界遺産がたくさんあるから。とある企画で「犬が案内する世界遺産」というテーマでこれまで撮った写真を選んでいたところ、ラテンアメリカの写真がイマイチなことが判明し、撮り直したほうがいいかなあ、ポジフィルムだったから思う存分シャッターを切れなかったなあ、と昔の写真を整理しながら、フツフツとラテンアメリカへの思いが膨らんできたというわけでした。

◆思い返せば96〜97年にブラジルへ再訪したのを最後に、もう10年以上もラテンアメリカとはご無沙汰していたんですね。というわけで、今回はデジタル一眼2台とコンパクトフラッシュを26GB分持って、世界遺産の町を歩きながら犬と見れば追いかけて写真を撮っていました。いまや日本をはじめ、先進国では絶滅危惧種になってしまった「自由な犬たち」ですが、メキシコにはまだまだそんな犬がたくさんいてうれしくなりました。

◆世界遺産の遺跡などを見学していると、彼らが勝手に先導してくれることも少なくないのです。人間と違ってチップもいらないし、言葉が通じなくても心配ありません。ペトラ(ヨルダン)、ギョレメ(トルコ)、サマルカンド(ウズベキスタン)、デルフィ(ギリシャ)、スワネティ地方(グルジア)、ポンペイ(イタリア)などなど、そんな犬のガイドで回った世界遺産も数知れず、世界遺産と犬という組み合わせはけっこういいテーマではないか、と勝手に思っています。

◆ところで、今まで行った世界遺産をカウントしてみたら、なんと198か所。我ながら驚きです。中には私が行ったあとで指定されたり、それと知らずに行ったところもあり、「えっ、あれって世界遺産だったの?」なんてびっくりすることも少なからず。世界遺産、乱発気味かという気もしなくはないですね。

◆驚くといえば、メキシコ、かなり治安がよくなっていました。街中のあちこちにポリスがいるし、強盗やスリの話も聞きませんでした。タクシーに乗ってもぼられたことは一度もないし、みんな親切だし、こんなにマトモな国だったかなあ、と改めて見直しました。ただし、その分物価は上がっていました。今回も利用したメキシコシティの日本人宿「ペンション・アミーゴ」ドミトリーは朝食付き1泊US$6〜7とほとんど変わっていなかったけれど、コンビニ(セブンイレブンもあります)のサンドイッチやコーヒーは日本と同じ値段だし、ポテトチップスは一袋150円と日本より高いです。

◆スーパーマーケットの食材も決して安くないし、洋服や靴などは日本のほうが確実に安くて質もよいので、気軽に物は買えません。平均月収は日本人の4分の1から5分の1くらいなのに、不思議です。なんだかんだ言っても日本はデフレ気味なのかなあ、と思いました。でも、ガソリン代の高騰は車が必要な田舎暮らしには、やっぱりつらい!

◆この日本人宿「ペンション・アミーゴ」、老朽化していたものの相変わらず健在で旅人もたくさん泊まっていたのですが、かつての私がそうだったように20代後半から30代前半が中心で、自分が立派な中年になっていることを自覚させられました。昔の日記を読み直してみたら、その頃41歳だった人のことを「おじさん」などと書いていて、ががーん。ということは、私も若者たちから「おばさん」と思われていたということなんですね。

◆メキシコシティにはもうひとつ、「サンフェルナンド館」という別な日本人宿もできていました。こちらはドミトリー中心の「ペンション・アミーゴ」と違って新しくてキレイだし、個室中心のため1泊US$15するので短期旅行者が多いようです。そして、なんとあの(ボクシングの)亀田一家もしばらく滞在していたとのこと。現在は市内のアパートに移ってしまったそうですが、いったい他の旅行者とどんな会話をしていたのでしょうか。

◆P.S.8月は昭文社のバイク用地図「ツーリングマップル」の取材で2〜3週間ほど関西をバイクで走り回ってきます。そういえば、昨年はバイクで走っている最中、携帯電話が勝手に江本さんに無言電話をかけてしまい、心配をかけたんでしたっけ。(滝野沢優子 「地平線犬倶楽部」会長)


あそんでなやんでまなんで。

08年8月・屋久島滞在日記

■土/晴れ〈入島〉2か月ほど前から右の腰回りに痛みが。「坐骨神経痛の悪化」と診断された。いつものようにエコツアーにくっついていくのがいささか不安。お世話になるネイチャーガイド会社の代表は、「消炎剤や湿布でその場では抑え込んでも、またいつかぶり返すのでは?」とおっしゃる。痛みをちゃんと感じ、向き合いながら調整してゆくことが大事だと。お家にお邪魔して、ハガツオの刺身などごちそうになる。

◆日/晴れ〈白谷雲水峡&ナイトツアー〉8時30分、事務所を出る。ツアーにサポートとしてついていくが、実際には研修のような、賑やかしのような。いつものことながら、自分でも自分の立ち位置をつかみかねるまま、ガイドさんのキャパに甘えて歩く。ここ1週間ほど雨が降っておらず、コケがちりちりしている。事務所に戻ってトマトとなすと生ベーコンのパスタをいただき、夜はリピーターファミリーのテナガエビ穫りツアーへ。ライトを当てると小さなスジエビの目が光る。うじゃうじゃいて手ですくえるくらいだが、水に入ると足をツンツン突ついてきてちくちく痛い。お目当てのテナガエビを人数分網ですくって(わたしは1匹も穫れなかった)素揚げに。スジエビはかき揚げにして食べる。中学生くらいの姉弟も「おいしー!」と嬉し気。ライトを消すと、一日月の暗い夜空に星々が豪勢に輝いていた。

◆月/曇りのち晴れ〈調整日〉日差しは痛くても朝夕はタオルケット1枚では寒い。大阪の暑さとは質が違う。洗濯、買い出し。今日は自炊。昼はいわし丼、夜はきのうもらった自家製野菜でパスタと冷や奴。

◆火/晴れ〈沢登り〉7時50分、事務所を出る。参加者はファミリー5人。最初の流れがなかなか越えられず、1人ひそかに落ち込む。昼は川岸でうどん。薬味が盛りだくさんで、ツアーの中、「食」は大事な彩りだと思う。夜は居酒屋へ。首折れサバの刺身が美味。

◆水/晴れのち曇〈黒味岳〉6時、事務所を出る。日帰りでゆっくり行けるわりに、山頂からのパノラマがすばらしい山。お客さんは大人ばかりで、時にお互い気遣いながら、和やかな時間を過ごす。下りで腰のあたりが少し痛む。事務所に戻ったのは19時を過ぎてから。「明日の朝は早いから」とエビチリなどの夕飯をお弁当にして持たせてもらう。

◆木/曇のち雨〈縄文杉〉4時10分、事務所を出る。「地球の歩き方」が主催するボランティアツアーに参加の、主に20歳前後の若者たち20人が2班に分かれてトレッキング。前日に事務所で「現代のボランティア像とは?」という話になる。「利他性」のほか、「拡張性」「自己実現」などの要素が挙げられるとのこと。ちょうど持っていた手帳に気になる言葉が載っていた。「親切にしたり面倒をみることだけが優しさではなく、相手と無条件に溶け合い、自分も救われることが、相手に優しくすることになるんだ。(岡本太郎)」。

★ふと、エミコさんのことを思い出す。彼女はそんな人だな、と。サザンのラストコンサートに行けるようになったと聞いているが、もう来週だ。体調は大丈夫だろうか。同い年のわたしも学生の頃よくサザンを聴いた。特に「希望の轍」という曲が好きだが、考えてみれば、この歌もエミコさんを彷彿させる。♪夢を乗せて 走る車道 明日への旅 通り過ぎる街の色 思い出の日々…Let me run for today♪…

◆話を戻す。宿まで迎えにいき、屋久杉自然館でシャトルバスに乗り換える。今年は8月中シャトルバスで登山口まで送迎する仕組み。バス停で並んで待ち、観光バスにぎっしり乗り込んで出発。登山口に着く度今度は女性トイレに長蛇の列ができる。今年から山岳部のし尿処理のために募金の呼びかけが始まっているが、これだけたくさんの登山者を受け入れていながら、対策があまりに後手になっているのがなんだか腑に落ちない。トロッコ道を歩き出して程なく雨に。久しぶりの雨は激しくなり、すっかりびしょぬれ。それでも人々は向かう。縄文杉詣での足がとだえることは今後もないだろう。行きは足腰が少し痛んだが、帰りにはマシになっていた。終了後、今年初の秋刀魚をごちそうになる。脂がのっていて美味しい。ほんのり秋の気分に。帰りの空では、天の川が煙るように流れていた。

◆金/晴れ時々雨〈海〉明け方豪雨で目が覚める。ツアー同行は昨日で終了したが、腰はともかく、体は日々のリズムになじんできている。青空が出て来たので午前中シュノーケリングに。名前は分からないが、奇抜な色形の魚たちに、水中でぼーっとなる。防水カメラがほしい。あるいは、見釣り(注:鷹匠・松原英俊さんの沖縄の海での得意技)とかしてみたい…。昼には部屋に戻ってソーメンを食べ、あこがれの昼寝。夕焼けはダイナミック。夕食はまたパスタ。オリンピックの開会式を見ながら、眠ってしまう。

◆土/雨のち風〈マッサージ〉滞在も明日まで。午前中は気になっていたストーンマッサージを受けに。受けているうちに体の固いところがほぐれ、石との親和度が増す気がした。わたしは特に体の右側の緊張が強いらしい。そして午後からは部屋でこの文を書いている。明日には島を出る。今年の夏も終わってゆくなあ。(屋久島病のねこ、屋久島にて)


《「旅の話より、畑のことを話したい!」と言ったエミちゃんへ、北海道の農園カフェから》

■エミちゃん、立秋を過ぎましたが、そちらは相変わらず猛暑が続いているようですね。燃えるトタン屋根アパートを脱出し、今夏も私は北海道に避難しています。まだ5回目ですが、馴染みの場所も増えてきました。この週末を過ごす農園カフェも、その一つ。札幌駅から車で約20分という距離が信じられない、深い森の中に広がる別世界です。ランチやディナーに使われている野菜や豆、ハーブは、裏手の菜園で採れたもの。飼われている鶏や豚、山羊も、玉子やベーコン、山羊チーズとなって、石窯焼きの全粒粉パンと共に食卓に上ります。そして静かに流れるグールドのバッハ。…と書けば、「ああ、最近はやりの自然派田舎レストランね」と軽く返されそうです。でもここは、ちょっと違う。一言で云えば、店が時流を追ったのではなく、ようやく時代が追いついたカフェ、なのです。

◆3年前、その畑を眺めていた時、突然、胸元を指差され、「それって‥」と声を掛けられました。私は『地平線犬CLUB』のイラストTシャツを着ていたのですけれど、なんと彼、下島亘さんは、長野画伯夫妻の縁者だったのです。世間は狭い! この農園カフェの主人N夫妻は、70年代初め、東京郊外で野菜や鶏、豚などを自主生産する先鋭的でラジカルな市民グループの一員として活動し、それらの経験や人の繋がりを活かして、ここでも食&農に関する座学と実習のワークショップを開いています。下島さんも、その講師の一人だったのです。奇遇を驚きあった後、「ウチにも是非どうぞ」との誘いを受け、翌日には早速、お宅に押し掛けました。そこで私が見たのは、目を疑う光景でした。彼の農園は、採石場跡とおぼしき荒地にあったのです。

◆下島さんの説明も、驚くべきものでした。約20年前、近くを流れる尻別川の堤防を作るため、ここからダンプカー1万台分の土砂が北海道開発局の手で削り出されたのだそうです。これが普通の土地なら、少し頑張れば緑化は可能でしょう。そう考えて、前年の春から、下島さん一家もこの土地に入植したのです。しかし、ここは特殊な地層でした。一帯は、約10万年前に押し寄せた洞爺火砕流の堆積地で、ひとたび表土を剥がれると、その上を流れる雨水は土中の硫化物と反応して強い硫酸に変わります。そして地表を侵食し、新たな露出部分から更に硫酸が流れ出す。その悪循環で、薄気味悪いキノコ以外には草木1本生えぬ不毛状態が、延々と続いていたのです。入植当時、水路の鉄製品はたちまち腐食し、車のタイヤも一晩で緑に変色したといいます。お邪魔した時、家の横手の水溜りに色鮮やかなカボチャが1コ沈んでいましたが、それは前の住人の置き土産で、硫酸水のため、一種のピクルス状態で『保存』されているのだとか。「ここが緑化できれば、地球上どこだって緑化できる」 後にここを調査した専門家にも、そう宣告されました。

◆しかし、下島さんは逃げ出さなかった。農学部出身の知識を活かし、試行錯誤の中から、彼は2つの方法を実行に移していました。一つは、江戸時代の知恵だという、湛水して水生植物を茂らせ、その力を借りて地力を回復させる手法です。敷地の一角に小さな堤防を築き、山から引いた清水を溜めた『大湿原』は、既にオタマジャクシが泳ぐ、ささやかな楽園となっていました。

◆もう一つは、「お手盛り」法です。前述したように、ここ『硫酸山』では掘り返しは禁物です。そこで彼が考案したのが、地表にバケツ2杯分の堆肥の小山を点々と作り、草木の苗を植える方法でした。堆肥の養分を使い切る頃には、苗木も根付いて成長し、やがては小山同士が繋がって面になるはず。そんな解説を受けて、私も崖面への植樹を手伝いました。が、内心は半信半疑でした。でも、翌年に訪ねてみると、多くの苗木が日照りにも耐えて生き残っていたのです。

◆この堆肥、実は、件の堤防(硫酸土に盛り土を施した)の草を刈り取ったものです。「雑草の種入りだから」と農家に相手にされないのを、運送費を払って、下島さんが開発局から貰い受けているのだとか。その雑草ですら、月面そっくりの硫酸山では、いとおしく輝いて見えました。

◆湛水と、お手盛り移植。この2つがなければ、かくも短期間で硫酸山に緑は戻らなかったでしょう。しかし、それが可能だったのは、家族で現地に棲み着いたお蔭です。「緑化」という課題の中で暮らしを営み、常に地面や草木を観察し、ささいな変化も見逃さない。机上でプランを描く役人や、時折り訪ねてくるだけの研究者が、ここの緑化を成し得なかったのは当然です。

◆高台から眺める農園は、色々なことを考えさせてくれます。そして、傷めつけられた大地を癒すがごとく伸びる草木の、何と力強く、美しいことか。野菜の一つ一つまでもが目に眩しく、見ていて飽きないのです。「旅の話より、畑のことを話したい!」 その言葉を、過酷な自転車旅を終えたばかりのエミちゃんから聞いたときは、正直「?」でした。しかし、今は少し判るような気がします。

◆ロクな調査もせずに大地を殺いで放り出した、無責任で愚劣極まりない行政の尻拭いを、親子3人と1匹のファミリーが黙々と行っている。その事実を皆さんに知ってもらいたいと思います。そして、下島さん一家と共に、エミちゃん&スティーブと並んで高台に立ち、農場を眺めることができたら…。その日が必ず来ることを信じつつ、筆を置きます。[久島弘]


「不安な闘病生活、でもサザンが…」

■癌が再発し人生が一変しました。それも急に、激しく。まず8月に予定していた世界一周最終ステージは中断になりました。楽しかった田舎の自給自足生活もいまは町中の不安な闘病生活。正直いまは言葉に表せない心境ですが辛いことばかりではありません。というのは大好きなサザンのコンサートを仲間がプレゼントしてくれたのです。(江本さん、lunaさんはじめみなさんありがとうございます!! そういう意味では癌ちゃんに感謝です。笑!)。サザンはただのミーハーではなく、旅中11年唯一の日本語でした。今みたいにiPodやPCを持ってない時代、苦しいときも悲しいときも切ないときも嬉しいときもこの1本のテープが私を支えてくれました。今の私には最高の薬です。この先どんな運命がおとずれようと、生まれたことに感謝してしっかり受けとめていきたいと思います。みなさん、今ある人生を楽しみましょう!!〈祝30周年! 地平線会議&サザン〉\(^^)エミコ(8月11日)


ガン再発と戦うエミコさんに多くの人から励ましの便り、メールが寄せられている。2通のはがきを紹介する。

<その1>

■エミコさんのこと……。しばらくショックで、ちょっと考えないようにしていました。が、頭のどこかに何かがひっかかっていました。昨日、もう一度勇気を出して通信(注:6月号)を開き、エミコさんのメールを読みました。通信はいつもすばらしい活動の報告や大変だけど頑張っているというような内容、元気をもらっています。その中でのエミコさんのメールは、やはりショックでした。私はエミコさんから元気をいただいた者として、もちろん応援していますし、奇跡を信じています。きっと治療のつらさにも耐えて頑張れると……。でも今はエミコさんが不安やどうにもならない運命みたいなものに立ち向かわないといけない状況を、本人以外の人がどこまで理解してフォローしてあげられるのかなあ、と心配です。何が不安? 旅に出られないこと? 死ぬかもしれないこと? 楽しい時が止まるかもしれないこと? スティーブと会えなくなること? うまく言葉にできませんが、心の奥の不安はこんなことじゃないんだと思うんです。本人しかわからない奥の不安……。私もエミコさんのこと応援しています。奇跡を信じています。不安はなくならないでしょうが、少しでも心おだやかに過ごせますように。また、旅に出られますように。(2008年7月 下関市 河野典子  自身子宮ガンとの戦いを乗り越え子育てまっただ中)

<その2>

■江本さん、こんばんは。先日は地平線報告会にて勝手なことをしてしまい申し訳ありませんでした。だけど自分にはこういうことしか思いつきませんでした。ごめんなさい。おかげさまで江本さんが一言云ってくださったおかげで、16070円も集まりました。もちろんこれだけではエミコさんのために何の助けにもならないと額だと思います。だけど、ちりも積もれば山と成る。みなさまの気持ちだと思います。ありがとうございました。(自作の「アジのひらき」の絵葉書に銀行でエミコ基金に「チヘイセン0725」の名で振り込んだ利用明細を貼り付けて 緒方敏明 ほぼ毎月報告会に参加している久島弘の友人の彫刻家 7月の報告会で自作の象の彫刻の絵葉書を「エミコ基金のために」と提供した)


[追記:エミコさんの近況]
 畑に囲まれた家から病院通いに便利な、スティーブの知人の家に引越して1か月。病状の難しさからすぐに治療法が決まらず、家で気力、体力維持につとめる日々。8月に入って治療方針が決まり、9月はじめには入院する予定。けして簡単な治療ではないため、治療前に病気をしたり、体力を失わないよう、体調維持に努める毎日らしい。旧住所に送られた手紙は転送され届いているが、メールを含めいちいち返信できないのはご了解ください、とのことだ。
 「9月からはじまる治療は、かなりのリスクをともなうことが分かっています。治療期間中も、ぜひみなさんの“気”を送ってください」と、知人を通してブログで伝えている。入院を前にした「サザン」は、そういうエミコさんにとって気力をみなぎらせるための、ほとんど唯一といってもいい特効薬のようだ。(E)

■ちなみにエミコさんについては以下の基金が設けられている。

支援金振込先:みずほ銀行 四ツ橋支店(店番号563)
  口座番号:普通預金 1070975
  口座名義:シールエミコ支援基金
  応援メッセージ宛先 郵便、FAX、メールで受け付け。
  宛先:株式会社モンベル 広報部「シール・エミコ支援」係
   住所:〒550-0013 大阪市西区新町1丁目33-20
   FAX: 06-6531-5536(「シール・エミコ支援」係)
   メール:


《苦節4年、治癒に向かう腰に、サラワクの義父を思う》

■通信297号のフロントにも書きましたが、2003年秋から、半月坂損傷、股関節の関節遊離体、そして腰椎椎間板症と、三重苦の生活を送っていた。でも、お蔭様で、初めの二つは完治。だが、残る腰痛、これがしつこい。

◆本当に治るのか? そう思ったのは治療開始から4年も経った今春である。それまで私は、整形外科で、腰を機械で牽引する治療を続けていた。診察は3か月に1度。医師がX線写真を見ながら「腰を前に倒して、後ろに倒して、横にも。はい、よくなってます。牽引続けてまた3か月後に受診してください」と繰り返すだけ。私は再び3か月間に及ぶ1日10分の牽引だけのために通院した。

◆ところが、06年6月頃か、週に何度か行なうジョギングで、ある日突然のようにガクンとスピードが落ちた。脚がスッ、スッと前に出ない。腰が切れず、小幅でドタ、ドタのリズムのない走りになる。自宅から鎌倉までの15キロという短距離も無理になった。

◆加えて、07年の秋頃から、腰に痛みや疼きが走り始めた。歩く、走るなどの動きを伴う場合は痛みはないが、満員電車でのように、静止した状態で立っているとほんの数分で疼きや痛みが襲ってくる。

◆私は、医療従事者から言葉のかかるのが3か月に1度という治療体系に不安を覚えた。そして、思い切って今年春、接骨院を訪ねた。体を触った院長は「腰の痛みは、骨よりもむしろ、周囲の筋肉の硬直によるもの。樫田さんは、右の肩甲骨から左の太ももに通じる一連の筋肉が硬直しています。筋肉の硬いままの牽引は効果ないですよ。それを4年も続けていたんですね・・」と半ば同情してくれた。なるほど、だからジョギングで腰が切れなかったわけだ。

◆接骨院では、まず低周波電流を流して筋肉をほぐし、整復師がマッサージを行ない、筋肉が柔らかくなったところで牽引を行なう。そして、接骨院に通って3か月で、私は腰の切れが徐々に戻るのを感じている。何よりも、接骨院では、整復師が直接体に触りながら「ここが硬いので、こういうストレッチをした方がいい」と具体的アドバイスをくれるのに安心できるのだ。

◆諦めかけていた腰。今は「絶対に治す。そして、まず鎌倉、そして長距離を走る」との希望がさしてきた。それが嬉しい。と、こんな戯言を書いていると、どうしても義父のことを思わずにはいられない。妻の父ではない。私が20年近く通い続けるボルネオ島の熱帯林に住む先住民男性、マリアン=サギン氏のことである。

◆1989年、初めてボルネオ島のサラワク州の熱帯林の村を訪れ、1週間ほど滞在した頃、マリアンは突然「お前を息子にする」と宣言した。旅人へのリップサービスかと思ったら違った。マリアンは本当に私を彼の11番目の子どもとして迎えてくれたのだ。ちなみに、彼は私を「コレ」(カヤン語で『豹』)と名づけ、そして、サラワクのどこに行くのにも私は自己紹介でこの名前を使っている。

◆以後、私は、一緒に森を歩き、滝をいくつも越えての魚獲り、獣道を歩いてのイノシシや鹿獲り、野生の豆獲りなどに同行した。バケツをひっくり返したような豪雨の中を歩くのは、それまでの人生で溜まった嫌なもの全てが洗い流されるようで快感すら覚えた。トカゲのようなゴワゴワした皮膚をもち、すべての動植物を熟知し、焼畑では村一番働く義父は、まさに森とともに生きてきた。彼がくれた木彫りの人形は、私の自宅玄関を開けたところに置いてある。

◆ところが、その義父が数年前から膝の痛みに悩まされている。右膝に痛みが走り、水が溜まるのか、通常の3倍くらいに膨らんでいる。それでも、当初はまだ、長距離でなかったら森を歩いていたし、夕食後には村人と一緒に踊りも楽しんでいた。昨年3月、2年ぶりに現地を訪れると、義父の膝は悪化し、両脚は典型的なO脚に変化し、ゆっくりでしか歩けなかった。「コレ。膝が痛い。薬はないか」と尋ねられた。おそらくは人工膝関節への置換が理想と思うが、そんな治療はサラワクでは望むべくもない。

◆だが私は知っている。森の住民たちが、自分たちにやってくる老いや病気をそのまま受け入れている事実を。町の病院にいっても、結局は見放された老人がいた。だが、老人は絶望することなく、昨日までと同じ今日を過ごして村で亡くなった。いつものように家族や近隣の人と一緒にメシを食い、いつものように友人とゆったり語り、いつものように孫と語る。そうやって天に逝った。

◆でも、もし……と思うことがある。もしオレに何百万円かの余裕があれば、義父を来日させ手術を受けさせてやりたいと。ただ、それが果たして義父の幸せと直結するのかは何ともわからない。不運になっても不幸にはならない。サラワクの共同体社会がそれを保証する限り、私のこの思いはただのお節介なのだから。

◆ただ、私は息子である。結局は豊かなこの国で自分だけ快方に向かっている息子としては、この20年間にもらった恩を思えば、そんな「もし」を今毎日考えている…。(樫田秀樹


「大人になってからこういう場に出会えたのはとても幸せです」

━━地平線会議に出会って1年の夏に考えたこと━━

■地平線会議の報告会におじゃまするようになって1年ちょっとになります。はじめて参加したのは昨年6月、鷹匠の松原英俊さんの報告の回でした。その話の内容の大胆さに大いに笑い驚くと同時に、「たとえ法を犯してでも自然と一体となって生きるという自分の選択を続けていくつもり」と言い切られる潔さに、なんともいえない共感を覚えました。話に聞いていたとおりこれはおもしろい報告会だと確信し2次会にまで参加させていただいたところ、参加されている方々の話がまたそれぞれとても興味深く、初回にしてすっかり地平線会議という場所が深く私の中に刻み込まれました。

◆たまたま隣の席になった方とお話をしているとサラワクの森や先住民の暮らしを守る活動に関わっていたことのある方でした。仕事上もボルネオ島に思い入れのある私にはとても興味深い話でした。また別の2次会ではCM用ショットの撮り方について説明してくださったプロのカメラマンや、自転車でシベリアを横断してしまうという冒険家、恒例の野宿をしに行く「野宿野郎」メンバーなど、普段の生活でなかなか出会えないような独自の世界を持った方々に次々と出会い、そこに集まる人の幅の広さに驚きました。それ以来、都合のつく回には参加させていただくようになりました。

◆私が地平線会議に参加するようになったのは結婚と時期がほぼ重なっており、以前から報告会に関わっていた夫(注:西牟田靖)にさそわれておもしろそう、と思ったのがきっかけでした。結婚という話が浮上したかしないかの頃、「経済的には保証できるかまだ自信がないけど、楽しい人生になるのは間違いない、それだけは自信がある」と言われたのがかなり印象的だったのを覚えています。私にとっては案外それが結婚の決め手だったかもしれません。

◆大人になり人生を歩んでいくと、社会人としてある程度の自由が抑制されたり、家族を持つために多少の我慢をすることがあったり、何かに折り合いをつけていかなくてはいけない、という思いこみがどこかでありました。この1年というのは私のそうした思いこみが実感として塗り替えられていく時期でもありました。地平線会議の報告会での報告者のお話を聞いていると、何か壮大なことを思い描いてそれを目指してきたというより、自分のこだわりや好きなことを淡々と続けてきた結果、気づいたらそれが形になっていたというような生き方に触れることが多いように思います。どちらかというと自分の気持ちの納得を優先して突っ走っては壁にぶつかって方向転換をするような進み方をしてきた私には、地平線会議という場にわくわく感と同時に、僭越ながら何かとても共感できるものを抱くのです。

◆また、私にとっては結婚を通じて世界が狭まるどころかどんどんと広がっていくのを感じています。好奇心旺盛な2人が相乗効果により新たな場所を訪問する原動力となったり、延々と続く談義で考え方が熟成されたりして、日々の会話のなかからラインアップされる「次に出かけたいところ」からすでに2人で脳内旅行が始まります。国内なら大台ヶ原、投入堂、飛島、会津の栄螺堂、日程さえとれればエチオピア……!姉には「なおは楽しく自由に生きる道を選んだんだねぇ」と笑われましたが、まさに自分のありのままで楽しく過ごせるのはなんてすばらしいことかと思います。間違いなく楽しい人生の第一歩を踏み出したな、とうれしく毎日を過ごしています。

◆前回参加させていただいた宮原巍さんの回でなんと通算350回目の報告会になるとのこと。継続して活動をしてこられた方々への敬意を感じると同時に、魅力的なネットワークだからこそ30年間1回も欠けることなく、それも有志のメンバーで継続して運営してこられたのだろうなと思います。また、今回こうして初心者の私も仲間に取り込んでくださる江本さんの人間術も会の継続と広がりに大きく寄与しているのにちがいありません。大人になってからこういう場に出会えたのはとても幸せです。今後の報告会もとても楽しみにしています。(西牟田直緒子

★以下、質問に答える形の追伸:所属は、日本アセアンセンター観光部です。日本とアセアンの経済協力のためにつくられた団体で、観光部では日本からアセアンへの渡航者(及びアセアンに対する理解者)を増やすための活動をしています。この組織に入って5年目になりますが、一昨年はボルネオ島・スラウェシ島・ミンダナオ島を中心とした地域(アセアンのなかでも経済的に遅れをとっている地域)の観光事業を担当する機会に恵まれ、ぐんぐんとこの地域の魅力に引き込まれるきっかけとなりました。今後この地域を「赤道アジア」の名前で広くたくさんの人に知ってもらおうという動きができています。現在は上司がブルネイ人なので日々の雑談からイスラム教をはじめ、暮らしや習慣などについてますます楽しく学んでいます。

[理科が苦手な生徒の気持ちがわかる理科教師になりたいっ!]

■愛知県教員採用試験中、我が師匠エモーンから電話がかかっていた。私は試験が終わるとすぐに折り返し電話をした。久しぶりに聞くエモーンの声とかたわらにいるらしい麦丸の吠え声で先ほどまでの緊張が一気に解け、自然と笑顔になった。とても暑い日だった。

◆つい先日、大分県で教員採用試験の不正が見つかった。この夏に、教員採用試験を受ける私にとってかなりショックなニュースだった。私が目指しているのは中学校の理科教師である。すでに静岡、愛知、岡山の3県を受験した。競争率は4倍程度であり、新学習指導要領では小中学校の理数時間を増やす方針であるため、今後の理科の採用人数は増える可能性が高い。

◆今まさに理科は重要かつ狙い目な科目である。社会や音楽など、採用人数が特に少ない(3人程度)教科は競争率が50倍以上になることもある。何年か講師をして採用される人もいれば、何年も講師をしても採用されない人もいる。このことを考えると、大分県の汚職が今年見つかってよかったと思う。「公平な審査」に対してはどの県も厳しくなっているはずだから。

◆実は、大学3年生の夏まで先生になりたいという気持ちは全く無かった。理科に対しても苦手意識があり、教員の免許もとりあえず取っておこうくらいの気持ちだった。しかし、現在の私は、理科教師になることを目標としている。なぜか。私の気持ちを変えたのは多くの理科の先生との出会いであった。

◆大学3年の冬に、岡山の理科セミナー(理科教師が指導方法などを発表しあう)でカッコイイ理科先生たちに出会ったのである。カッコイイって顔とかじゃなくて…。とにかく授業が楽しい!見たことがない実験がいっぱい!理科が苦手な子(私)でもわかる!奥が深いところもで教えてくれる! ……など、私にとって本当にワクワクした時間だった。

◆その後も、月に1回は岡山の理科教師のサークルに参加し、個性的な理科の先生たちに出会った。行くたびに学ぶことがあり、先生方は常に生き生きしていた。こんな理科教師になりたい気持ちは強くなっていった。特に、理科が苦手な生徒の気持ちがわかる理科教師に! 中学生のころ、絶対教師だけにはならないって思っていたのに……人生は何が起こるかわからない。

◆今年の教員採用試験では、「教師に必要な資質は何か」という質問を何度かされた。私は「粘り強さ」だと答えていた。しかし、他の受験生や面接官の意見を聞くうちに、幅広い「知識」が必要であると感じた。自分の教科はもちろん、次々に出てくる教育問題に対応するためには、様々な事例や情報を集め、自分の知識を更新していかなければならない(その意味で私には地平線通信もとてつもない刺激に溢れている)。

◆つまり、教師という仕事は受かったら安心! というものではないことに気がついた。きっとどんな仕事についても、現状に満足せずに学び続けようという気持ちが大切なのだと思う。特に教師は、子どもから、保護者から、地域からしっかり見られている。責任を重く感じる時もあるが、今はとにかく挑戦してみたい。8月1日、無事に静岡県1次試験合格をホームページで確認した。2次試験は8月の後半。今年の夏はさらに2キロ痩せそうである。(水口郁枝 香川大学4年 「四万十ドラゴンラン」の江本の仲間)


[な、な、何という裏切りか! ━━真夏のむふふ便り]

江本さま、みなさまこんにちは。桃が美味しい季節の福島からです。みなさんにご報告ですが、9月末をもって会社を辞めることにしました。実働は8月末までで、9月上旬には現在の部屋を引き払う予定です。もうすぐですね。長かったようで短かった4年半の会社人生でした。いろいろ思うところはありますが、8月末までけっこう仕事が詰まっていて、余韻に浸る暇はなさそうです。◆もうひとつ。今度、某新聞社の男性と結婚することになりました。「あ〜いつはあいつは可愛い年下のぉ男の子♪」です。むふ。とりあえずプータローに逆戻りなので、彼の転勤先の大分市の部屋に転がりこむつもりです。また遠くなりますが、その後、結婚式の準備(むふふ)などで実家に戻ることもあるかと思いますので、その時は東京で遊んでやってください。それにしても、最近、引越し業者なぞを選んでいると、私はいつになったら都心に戻れるのやら、とトホホな気分にもなります。なんつーか、長めのディープな日本旅行をしている気分? (菊地由美子


[朝晩は日本より涼しいです━━初めてのベトナム]

■出張でベトナムへ来ています。カンザー・マングローブ・プロジェクトで初の海外報告会をやってからもう10年ですね。そのときに参加できなかった私は、初めてのベトナムです。こちらは昼間は暑いのですが(といっても30度から33度くらい)、朝晩は涼しくて、日本にいるよりはるかに過ごしやすいです。ベトナム人と日本人は顔が似ている人がけっこう多く、日本人スタッフか現地スタッフか見分けのつかない人がいます。スタッフは日本人、ベトナム人合わせて50人ほどいるので、直接仕事上関係のない人は顔も名前もよくわからず、毎朝事務所で顔を合わせたときに、「おはようございます」と言うか、ベトナム語で(覚えたばかりの)「シンチャオ」と言うか、かなり悩みます。

◆日本人スタッフは、「ベトナム人は働かない」と言っていますが、私と一緒に仕事をしているベトナム人作業員たちは、昼休みも返上して働いてくれるため、仕事が順調に進みすぎてしまいました。ベトナムで少しはのんびり仕事ができると思っていたら、日本にいるのと変わらない忙しさです。明日の午前中まで仕事をして、深夜の便で帰国します。(8月3日 武田力


[雨期真っ直中のエンジェルフォールはすごい!━━ブラジル一周ひとり旅から]

★ 1信: 今、シウダーボリーバルというベネズエラの街にいます。ついに、エンジェルフォールやりました。今、雨期真っ直中のエンジェルフォールはすごい! すごい! の一言です。滝は1本じゃ無くて7、8本落ちてます。滝を真下から臨むポイントでは、もう暴風雨状態で写真どころか目も開けられせん。カッパ着てるのに中までぐっしょりです。ここへ辿り付くのもかなりきついです。ボートでびしょ濡れになりながら4時間、その後ジャングルを虫に怯えながらずっこけそうになりながらひたすら歩きます。そこで、エンジェルフォールはその場に座り込む程の威圧感でいきなりその神秘的な姿をガガーンと現します。なんかなかなか興奮から抜けないでいます。(7月16日)

★2信: 時計回りの6時、サンパウロから始めたブラジル一周旅も、既に4時のボルトセグーロまで来てしまいました。サンパウロ一泊だけで、すぐパンタナールに入ってから現在まで、南米は冬? とは言い難い暑さと強い日差しで、手足はもう真っ黒です。アマゾンジャングルステイ後、マナウスから北上、ベネズエラ、ギアナ高地の熱帯雨林でやられた虫刺されが何日経っても痒さが新鮮によみがえる手強さで、一時は足にフジツボがたくさん付いたみたいになりました。

◆ それにしてもブラジルでかいです。移動にはもっぱらバスを利用していますが、その運行時間は、殆どが朝到着するように夜行ダイヤが組まれています。しかし、このバスチケットが外国人にはいちいちセントロから離れたポドビアレ(バスターミナル)へ買いに出向かなければならなかったりとやっかいです。そのポドビアレ行きのバスに乗る時も、次の街へのチケットを買う時も、なぜか必ず心配して世話してくれるローカルの人が次々と現れます。一様に、日本から独りで来てブラジルをあちこち旅しているのを驚かれ、見世物パンダになる事もしばしばです。

◆南米を旅する人の間では周知ですが、夜行バスはローカルの人も訳が分からないとなげくほどのスーパーエアコン効く過ぎの冷房車。枕とブランケットが夜行バスの必須アイテムです。旅友マリリン伝授、「行きの飛行機から毛布持っていくのよ!」とのメールで、初めてJALの毛布取ってきて命拾いしています。(オイルサーチャージ高過ぎだからいいかー)。

◆ところで、以前はどこへ行っても日本人旅行者に会ったものですが、最近は全然。ここブラジルでも全く会いません。歩き方の情報も何年も前からの街が殆どで、今ローカルや欧米の人たちの間で人気になっている国立公園やビーチなどは皆無です。情報ノートにも頼れなかった分、先々で会う欧米の旅人から貰った情報が、闇鍋ならぬ闇旅になり、どれも大当たりでした。そのひとつ、PRAIA DO FORTE はSALVADORの北へバスで1時間半のビーチですが、多くのバカンス客で賑わってます。ここには、6月から10月の間、南極から3、4千頭ものクジラが北上してくるそうで、自然動物保護プロジェクトの手厚い保護下にあります。私が乗った船からは、2頭が見事なジャンプをし、また海面上に尾を立てる姿を何回も見せてくれました。

◆パンタナールやアマゾンで見た多くの南米独特の動物と共に忘がたい感動です。危険な国が代名詞だったブラジルも今回かなりその印象を変えられました。何より、どんなに 言葉が通じなくても諦めずしゃべり続けてくれるブラジルの人達の人懐っこさ(単にしゃべり好き?)がとっても気に入ってます。(8月6日 藤原和枝


■白山神駈道へのお誘い■

地平線通信の読者である金沢市の西嶋錬太郎さんから、以下の案内が届いた。美濃禅定道(19km)〜加賀禅定道(18km)、計37kmを通し走破する試み。

■第三回荒行走破(逆駈け)実施要綱
 主  催:白山神駈道登山文化振興会
 実 施 日:2008年9月14日(日)
 受付場所:岐阜県郡上市白鳥町石徹白大杉駐車場 白山 美濃禅定道登山口
 受付日時:9月14日(日)午前0時30分
 出発時間:午前1時00分
 到着場所:石川県白山市一里野温泉 加賀禅定道ハライ谷登山口下の温泉
 荒行認定:全コースを24時間以内で歩き通した場合のみ
 参 加 費:1人1000円(当日、受付で支払い)
 出発場所への交通、到着場所からの交通:各自で行ってください。車回収のため実費で運転手の方1名に限り、出発場所への移動を手配します。人数に限りがあり先着順です。
 参加申し込み: 9月1日(月)必着
  〒920-1162 金沢市鈴見町郡家山50 西嶋錬太郎 TEL / FAX 076-263-8640
 Eメール 


【プロボクシングどオタク太鼓叩きから、夏のごあいさつ】

■ こんにちは。夏ですね! 暑いですね!! 祭りの季節ですね!!! というわけで、近況のご報告をまとめてさせていただきます。まず、ご報告が遅くなりましたが、出版社を退職しました(1年半前に…)。本が出たときは、地平線会議で紹介させていただいたり、読んでいただいたりと本当にありがたかったです。とても感謝しています。その後勤めた麻酔機器を扱う会社も退職しました(半月前に…)。

◆今は晴れて無職の身! 久しぶりの夏休み気分で白熊をいっぱい食べています(白熊アイス)。が、秋には新しい仕事を見つけるつもりです。それから住みかが変わりました。昨年末に衝動的に引っ越して、今は本郷に住んでいます(お世話になっている皆さま、きちんとご連絡をせずすみません。いただいたお手紙等は全部転送されてきているので大丈夫です)。菊坂付近にいるのですが、古い民家や老舗の旅館が並ぶ静かな坂道に、後楽園遊園地のジェットコースターの悲鳴がときおり響くユニークな街です。

◆そして! そう!! なんといっても!!! 後楽園といえば!!!! 中学生の時からプロボクシングどオタクの私にとって、後楽園の青いビルは憧れの聖地です。青いビルの半径1キロ以内に生活できるなんて感激です。街の人は人情味いっぱい、民家の軒先には鮮やかな花々がいっぱい、宮沢賢治や樋口一葉もかつてうろちょろしていた(たぶん)場所(というのは後で知りました)で、街の人との関係が深まっていくのが日々楽しいです。

◆とはいえ、東京大好きですがこのごろは広島や鹿児島・指宿の祖母宅へも頻繁に出かけています。二人の祖父が老衰で他界したので、祖母たちが元気なうちになるべく会いたいと思うようになりました。これまで全然家族孝行してこなかったなあと反省なのです。今さらながら、身近な人との絆を深めることが自分にとってのすごく新しい楽しみです。(大西夏奈子


こりゃ大変 80才になると顔も大事

元日本兵士 宮野さんとのキルギス行

 お早ようございます。7月号の地平線通信、驚きました。素晴らしいですね。ムサビの学生のなんて素敵なこと、届いた日? の夕刊(朝日18日)にも片リンがのっていました。地平線ではたっぷり読めてラッキー。日本やっぱりいいじゃあないの。そう思いました。暑さの折り 御健斗を。とにかく25日に出発します。ブータンです。CHN向後さんの意見に賛成です。報告者のひと言アーロンにも。(7月22日)

 成田から埼玉行の車内で、60代の主婦二人は「モンゴルからの帰りです。大草原を馬で走りました。日本で乗馬クラブに入ってます」日本人のライフスタイルも変りましたね。

 私はキルギスのからの帰りです。キリギリスのために海外なの、なんて言われながら……。

 ところが、キルギス。宿でも町でも日本人そっくりさんがいます。モンゴリアンです。と言ってもシルクロードの国、面積は日本の半分ですが、多くの人が往き交い、人種も言葉も様々。私達の運転手さんはロシア系キルギス人。ロシア語きり話せませんがどこでもスイスイ。宗主国は強い。今でも主要言語はキルギス語とロシア語です。

 シルクロードを走っている自転車の会の人達は、中央アジアに日本兵が抑留され強制労働に従事した事実? に接してきました。カザフスタンなど墓地もあり、日本兵の証言集もあります。キルギスは日本兵が建てた建物(サナトリウム)が残っていまも稼動していますが、日本兵の証言がありません。シルクロード雑学大学代表の長沢さんが手をつくし、元日本兵の宮野さん(農業)と再訪することになりました。

 今回は自転車でなく車で、宮野さんは81才なので、というお誘いをうけキルギス行となりました。それでも半日カラコムへ馬でトレッキングしたり、世界第二の高山湖、ソ連時代は外国人立入り禁止のイシク・クル湖で、宿の娘や地元の人達に混って泳ぎました。残念だったのは、元日本兵が造ったサナトリウムの泥浴が、50才以上は医師の診断書が必要ということで、見学だけになったこと。ミキサーで柔かな黒々とした泥を充分な厚さに裸の体にぬる、大胆な泥浴でした。終ったあとの身も心も軽やかな気分は最高だそうです。

 目的の国際交流、元日本兵士の証言も大成功でした。サナトリウムのあるタムガ村で、年配の村人たちと懇談のあと、中年の男性が当時の責任者カタパンの部下の息子ですというではありませんか、翌日再び父親と同居していた彼に、どんな日常生活の中で、父が日本兵に関するどんな話しをしていたのかを聞きました。

 戦後は定年まで測量士として働いた父親が、晩年いつも話していたのは、抑留されていた日本兵のこと、仕事の真面目さ、整理のよさ等々、長男の彼は父の最高の思い出だった話しを毎日聞いていたのです。彼は50代、地元の教師をしてます。亡き父の思い出を語る彼の表情の優しさに胸がジーンとしました。そしてサナトリュウムに働く看護士さんと、資料室の設置や、なにをどう保存するかなど、具体的な話しも進み、充実した現地交流でした。

 私たちがビシュケクを出発するとき、TV局や新聞社の記者が同行し、タムガまでの道程で宮野さんの記憶にある場所、場所で取材し、タムガでは翌日村人との懇談までを取材しています。私たちは他にも日本兵が働いた場所を探したり、ブルジエヴァルスキー博物館を見学したり、イシク・クル湖を一周して南湖岸の野外博物館まできたら宮野さんに「私はTVであなたを見た」という人も現れ、行く先々プラナの塔やアクベシム遺跡でも反響? がありました。

 帰国前日首都ビシュケクで、日本センターの「宮野さんに聞く会」にも多くの人が参加しました。帰りに新聞社の婦人記者が「TVの宮野さんの顔がとてもいい顔していた。それで今日は話しを聞きにきた」(こりゃ大変80才になると顔も大事)という和やかな友好の会であり、キリギスの旅でした。(08.7.1〜12)

  ぞろぞろと青い目黒い目人のむれ
        川を渡りて隣りはキリギス
     (直行便はありません。カザフスタンから陸路で)

  地平線へ ひとすじ続く天山北路
        牛の群れさけ絹の道ゆく
     (アルマトウからキルギスへ短かいけどまさにシルクロード)

  もと兵士は異国の取材のフラシュ浴び
        戦車に飛びこむポーズ二度三度

  おずおずと父はカタパンの副官と
        兵士の回顧談に奇縁の邂逅
     カタパン(ソ連軍人へ日本兵のニックネーム)

  ハゲ山の廃墟の工場音もなく
        たわわの杏子に鳥もよりこず
     (もと日本兵が働いた工場)

  カラコムへ一本の細き道ありて
        宙(そら)山をつつみ人馬をつつむ

  川に入り水のむ馬を待ちにけり
        馬の意にまかす風のやさしさ
     (農家の三才馬 泣く子と三才馬です)

  青く光るイシク・クル湖の冷たくも
        激しく襲う大波高し
     (一面の湖なのにこの高波はどこから)

  草丘のここにあすこに岩絵あり
        岩の間を野兎かける

  岩に坐し幻のイシク・クル湖よ
        三歳法師の姿はるかに

                金井 重


[週刊誌にグラビアが]

■先ほど週刊新潮の編集担当者から留守電にメッセージがあり、お盆開けの8/20売りの号のグラビアにブラジルの風景写真を掲載してもらえる模様です(巻頭か巻末かは不明)。詳細は観てのお楽しみですが、現在ブラジル放浪中の藤原さんも多分は絶景だったと絶賛する場所です。

◆白根さんの真似事みたいにアマゾンのカーニバルを撮影してきた方は編集者の反応がいまいちでしたが、知人のお店で写真の展示を8月いっぱいの予定で飾らせてもらっています。http://www.townpita.com/clients/1103131522/detail 毎日は顔出しできませんのと8/20から又、南米行きです。(8月6日 岸山ゴン


【賀曽利隆の「1年に3063の温泉入湯」、ついにギネスブックに認定される!!】

 人類史で誰も思いつかなかった、意表をついた課題を追求した、として日本の温泉冒険学会で高く評価された冒険王、賀曽利隆さんの「300日3000温泉入湯記録」が、ついにギネスブックの公式記録として認定され、このほど「認定証」が日本に届いた。

 「GUINNESS WORLD RECORDS」のマークとともに認定証には以下のように書かれている。

CERTIFICATE
The most hot spring visited
in one year is 3,063 by
Takashi Kasori (Japan)
between 1 November 2006
and 31 October 2007
GUINNESS WORLD RECORDS LTD

 消息通によると、 ロンドンのギネス本部では、はじめこの快挙の意味がわからなかったという。温泉がわずかしかないヨーロッパでは、日本にこんなに多数の温泉が存在するということ自体が驚異であったのであろう。この記録がギネスブックに載ることによって思いがけず、欧米人の日本の自然への理解が深まることは間違いない。さすがカソリ。そこまで考えての挑戦だったのだ。(E)


■森田靖郎さんの新著『悪夢』

(光文社 2300円)、好評発売中!

 訪米した中国国家主席・胡錦濤の前に飛び出した謎の中国人女性。彼女は北京政府を戦慄させるある告発ファイルの存在を叫んでいた。そのころ、新宿歌舞伎町では内臓器をすべてえぐり出された無惨な死体が発見される。その死体は中国から来た男のものだった…。運命的なつながりを持つ日中の「真実」を暴き出す迫力の政治・経済・犯罪小説》(本の帯から)


「地平線会議 in 浜比嘉」のプログラムが決定しました!!

■「地平線会議 in 浜比嘉」のプログラムが決定しました。昨年12月の第1回現地打ち合わせ以降、2か月おきに沖縄を訪れてシマンチュ(島の人=浜比嘉の島民。広く琉球人をも意味する)達と杯を重ねては、東京で再検討という形を重ねてきました。沖縄と都心では流れる時間が明らかに違い、現地では何もかもうまくいきそうな気分だったのに、帰京して考えると「あれ?」という繰り返しでした。内地から訪れる地平線の仲間達とシマンチュが、互いに刺激しあえるような場にしたいというシンプルな企画なのですが、ようやくその形が見えてきました。

◆二人の心強い仲間が現れたのが具体的なプログラム構成が進むきっかけとなりました。一人は演出家の平田大一(ひらただいいち)さん。八重山諸島の小浜島に生まれ、詩人・舞台演出家として沖縄のみならず全国区で活躍し始めている表現者です。浜比嘉島が属する勝連町には『阿麻和利』という歴史的な英雄の物語が伝えられてきました。琉球王朝からは逆賊とされていたこの地元の英雄に着目し、「現代版組踊」すなわちミュージカルに構成し、中高生による舞台として完成させたのが平田さんの大きな仕事の一つです。

◆「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」と言うこの舞台は、10年に渡り実に120回以上の公演が行われています。感動体験と、郷土文化へのプライドを次世代に継承したいという平田さんの思いは、芝居のタイトルに選んだ、「志高き生き方」という意味の“肝高”という言葉に滲み出ています。地平線会議の人脈から辿り着き、先日東京・広尾で上演された「平田大一・真夏の一人舞台」を見、お会いして趣旨をお話ししたところ、協力を快諾して頂きました。

◆前田一舟(まえだいちふね)さんも地元の協力者です。浜比嘉島を始め、周辺の海の文化を継承する施設「海の文化資料館」(うるま市運営)館長を勤め沖縄国際大学の非常勤講師も兼任している民族学研究者です。浜比嘉島には、1969年、民俗学者の故・宮本常一さんも訪れています。 前田さんはそのことを指摘し、地平線会議が浜比嘉島に来ることへの大いなる期待を表明してくれました。宮本常一さんがその時撮られた一枚の写真をテーマとしたプログラム案がこうして浮上したわけです。

◆お二人に共通するテーマである「継承」というキーワードは、地平線会がこの30年に渡って常に意識してきた言葉でもあります。「地平線会議 in 浜比嘉」のプログラムを構成するに辺り、各パートを、いわば団子のくしの様につなぐ言葉として「継承」と言う言葉が出たときに、ようやく流れが決まってきた感があります。

◆「地平線会議 in 浜比嘉」は「地平線会議拡大集会」という位置づけですが、要するに見知らぬ土地の空気の中で、異文化の人たちを巻き込んで面白がりたいと言うのが大きな動機です。日本には八百万の神様がいるそうですが、地元のそうした神様達に敬意をはらって、神様と酒を酌み交わす、いわばお祭りのようなモノだと私は思っています。まだまだこれから決めていくことがたくさんありますが、準備段階から“祭り”は始まっています。「おもしろがる」ことを第一義に、ラストスパートしたいと思いますので、みんなで神輿を担ぎましょう!(実行委員長:長野亮之介

【参加要綱】

■申し込み■宿の収容能力と食事対策があるので、原則として事前申し込みとする。希望者は  か03-3359-7907(同Fax)まで。
■アクセス■那覇から車で2時間足らず。島といっても、海中道路と浜比嘉大橋で本島と結ばれているので、陸路で行ける。勿論、那覇からのバスもあるが、浜比嘉島までは一度乗り換えが必要。
■宿■民宿、テント、野宿、そして島唯一のホテルがある。民宿は、10月末の期間中は地平線会議が予約しているが、33名分しかない。朝食つき3900円。 ホテルは、4人部屋だとひとり8400円。海を見渡すすばらしい風呂がある。
■参加費■宿代とは別に25日の夕食、26日の昼食代を含む参加費を考えている。3〜4000円のつもりだが未定。次号の通信で詳しく書く予定。
■オークション■面白いモノを是非用意しておいてほしい。参加しないが、モノをくださる、という人も歓迎。

【ちへいせん・あしびなー】プログラム

(時間設定 進行など変更あり)

<10月25日(土)>
会場:比嘉区公民館
◎総合司会:長野亮之介・妹尾和子
◆《開会式》 13:30
◆幕開けの踊り
 →島の子供達による“かぎやでふう節(ぶし)”
○地平線代表世話人挨拶
○実行委員長挨拶
○区長挨拶
◆《地平線報告会》13:50−16:10

<A>
【地平線モノ語り・地球の遊び場からのおみやげ】
 ◎進行:江本嘉伸
  ユニークな地平線の旅人たちに「旅の一品」を持ってきてもらい、それにまつわるエピソードを披露しつつ、異文化を伝える試み。どんな「モノ」を用意してくれるか、当日までは極秘。10人前後の旅人を想定している。

<B>
【一枚の写真からー継承するということ】
 ◎進行:三輪主彦
 1969年、浜比嘉島に立ち寄った宮本常一氏の写真記録を念頭に宮本常一の訪れた沖縄という場所、浜比嘉という文化について語る。
 「継承」をテーマとして。
金井重、賀曽利隆、上江洲均らを予定。飛び入りもあり。

★休憩20分
  車谷健太の三味線演奏後、次のプログラムへ。

◆《浜比嘉島に生きる》16:30−17:40
 ◎進行:前田一舟(あやはし館長)
 浜比嘉の海人(ウミンチュ)から前田さんが聞き出す浜比嘉島の暮らし。前段を受けて宮本常一さんと島の、知られざるエピソードなどもあれば。


★休憩30分(軽食)

◆《島から世界へ》 18:10−20:00
 ◎進行:妹尾和子
●「平田大一の世界」
 小浜島で生まれた平田さんが、全国レベルの表現手段を持ち、新しい琉球の文化継承を志すに至ったエピソードを話していただく。
 島から文化を発信する事、地平線会議的なものへのメッセージも。
 沖縄で大評判の子どもたちによる舞台「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」の内容もこの機会に紹介してもらう。

◆《比嘉パーランクー》 20:00-20:15
 ヒガンチュ(比嘉の島民)によるパーランクー披露。
 (パーランクーは、沖縄の盆踊りであるエイサーで使われる太鼓)

◆《恒例・地平線オークション》20:30-

  

 自由に飛び入り芸能やゆんたく宴会

<10月26日(日)>
会場:シルミチュー公園
◆《浜比嘉探検隊》9:30−11:30
○前田さんと沖縄国際大学の学生に案内してもらい、浜比嘉島探索

◆《栄養会+閉会式》正午
○栄養会
 →なにか美味しいものが……。
<浜比嘉側と要打ち合わせ>
○閉会式
   区長挨拶
   代表世話人「閉会の辞」

★  ★  ★  ★  ★

◇オプション
 《サバニ試乗会》午後
 希望者のみ、実費で。

<10月27日(月)>
会場:比嘉小学校
   時間未定
◆《南米、中国、アフリカの大河川カヌー旅、そして故郷四万十川(仮)》

◎講師:山田高司
  スライドを交え、壮大な地球体験の話。

<注:『あしびなー』は「遊びの庭」の意味。>

通信費をありがとうございました]

 その後通信費を支払ってくださった方のリストです。一部の方は、記録が遅れたことをお詫びします。通信費は年2000円ですが、今回も何年分か払ってくれた方がいます。ありがとうございました。

阿佐昭子/横内宏美/西嶋錬太郎/永田真知子/馬場健治/竹内祥泰/深澤敦子


■先月の発送請負人

三輪主彦 森井祐介 関根皓博 米満玲 村田忠彦 車谷建太 三上智津子 松澤亮 緒方敏明 井口恵理 江本嘉伸 竹村東代子 中山郁子 山辺剣安東浩正(以上15名。皆さん、いつもありがとう。終えた後の久々の「北京」の餃子もおいしかった)


[あとがき]

■毎年8月は夏休み特集的な通信をつくる。お願いした原稿もあるが、寄せられた原稿もあり、今号は20ページの大部となってしまった。皆さん、ありがとうございました。うまい、下手ではなく、どの原稿も書き手の個性に溢れていることが大事だ、と思う。

◆つい先ごろ「探険倶楽部AGAIN」という本が山と渓谷社から創刊された。私を含め地平線会議の面々が結構書いているので応援したい気持ちはあるが、巻頭の吉本隆明氏の文章には驚いた。山野井夫妻の極地の壁の登攀を追ったテレビ映像についての感想なのだが、この程度の文章で「特別寄稿」としていいのか、と思ったのだ。また、こういう文章を麗々しく巻頭に飾る編集側のセンスは何なのだろうか。一応、1200円の本なのだし。

◆自分も大したことは書いていないから他人の文章批判はしたくないのだが、吉本氏ほどの書き手が、と思うからこその感想である。つくづくものを書く仕事の怖さを感じる。

◆このページでの予告通り、22日は琉球・沖縄をテーマにした特別報告会です。普段話されることの少ない琉球文化の周辺が浮き彫りになれば、と大いに期待しています。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

島(シマ)ぬ引力

  • 8月22日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

戦後アメリカの統治下にあった沖縄が日本に“返還”されたのは '72年5月15日でした。それから36年。今ではあたり前のように日本の南端の一県とみなされている群島ですが、視点を変えれば東アジアの海上交易の十字路に位置する沖縄。常に他文化からの影響を受けつつ独自の精神世界を築いた一大文化圏の中心地とも。四世紀に渡った琉球王朝を源流とする沖縄文化に触れるとき、日本という国の“枠”について考えさせられます。

今月は沖縄に関りをもつ4人の方に、「シマ」とは何かについてフリートークをしていただきます。

沖縄33島すべてをバイクで走ったジャーナリストの賀曽利隆さん。沖縄に拠点のある国際マングローブ生態系協会(ISME)立ちあげに関った向後元彦さん。元地学教師でウルトラ・ランナーの三輪主彦さん。沖縄航空路JTAの機内誌「コーラルウェイ」編集者の妹尾和子さん。それぞれの沖縄がどんな風にリンクしていくのか、お楽しみに。進行は10月の「地平線 in 浜比嘉」実行委員長の長野亮之介です。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信345/2008年8月13日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 落合大祐/編集協力 柏木彩子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section