2008年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・346号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

になった。残暑はあるけれど、空気がどんどん澄んでゆくのが嬉しい。ちょうど1年前になる。山梨の山の仕事場にいた時、電話が鳴った。「隣の○○です。たった今、熊を見たので驚いて連絡しました」。ええっ?クマ!? 聞くとドアを開けたら仔熊があわてて逃げ出した、とのこと。仔熊がひとりでいるわけはない。母熊が当然近くにいるはずだ。チビ犬の麦丸を抱いてそおっ、と外に出て周囲を見回った。逃げた、と聞いた方向をたどるが、ついに生き物には会えなかった。近くの山道は私の秘密のジョギングコース。熊はすぐ近くにいる、との教訓だった。

◆きょう9月17日朝、奥多摩で43才の男性が熊に襲われて重傷、との一報が飛び込んだ。山道をジョギング中に襲われたらしい。走っていて鹿に遭遇したこともあるので他人事でなく聞いた。やがてその男性があの山野井泰史さんとわかって驚愕する。そうか。あのあたりにも熊は出没するかもしれない。命に心配はない、と知ってほっ、とするが、顔をやられた、というから簡単な怪我ではないかもしれない。心配だ。ギャチュンカンの嵐の壁から妻の妙子さんともども驚異の生還をなしとげたスーパー・クライマーも野生の襲撃は防ぎようがなかったのだろう。

◆山野井君の様子を知りたくてあちこち電話するが、誰もつかまらない。するうち届きものがあった。ずしりと重い紙包みだ。「ちへいせん・あしびなー」のチラシが仕上がったのだ。ヤギがパーランクー(太鼓)を叩いて踊っているイラスト。いつもながら長野亮之介、うまいぞ。浜比嘉島の芸能の伝統をさりげなく取り込んだこういうセンスは、彼独特のものだ。制作にあたった丸山純ともどもこういう才能が30年近くずっと地平線の芯にいてくれることが、今更だが心底ありがたい。皆さんのもとに本日発送するので味わってください。

◆あ、ついでに宣言しておこう。浜比嘉プロジェクト、今後「ちへいせん・あしびなー(遊びの庭)」の名で呼ぶことにします。「地平線会議 in 浜比嘉島」は、サブタイトルとして使う。もうひとつ。丸山・長野コンビの恒例の地平線カレンダー、来年のは08年に続いて浜比嘉島テーマとして、10月25日の「あしびなー」開会までにつくってもらいます。乞うご期待。チラシできたよー、と浜比嘉の外間晴美さんに電話で伝えると「今、台風なの。強い雨で出られない」とのこと。そうだよな。沖縄の台風は半端じゃないのだ。

◆きょう17日は、もうひとつ気がかりなことがある。今頃、ガンの再発と戦うシール・エミコさんがいったん病院を出たはずなのだ。9月3日入院、8日から4日間、放射線治療を受けた。厳しい治療である。エミコさん自身の意向もあって、治療中2日間、病室を訪れた。見舞いというより、身内の心境で経過をそっと見守らせてもらったのだ。辛い状況の中でも、愛するスティーブに見守られて健気に笑顔をつくろうとするエミコがいじらしかった。しばらくは安静にして時折の通院が続く。

◆9月になってチンバザル青年が1か月の夏休みから帰ってきた。「ウランバートルは涼しかった」と日本の蒸し暑さが苦手の若者は言い、土産のアーロールをくれた。草原の香りがする乾燥チーズだ。再会した9月15日は、敬老の日だ。2001年のハッピー・マンデー以来、正しくは「9月の第3月曜」なのだが、ことしは15日がその日となった。母の日、父の日、子どもの日なんていうのは外国にもあるが、「年寄りの日」というのは、聞いたことがない。チンバザル青年にその意味を教え、おばあさんに電話して日本の習慣だ、と説明して長寿を祝いなさい、と話した。

◆わかった、とうなずいた彼は、そうだ、きょうは私がご馳走します、と言い出した。えっ? なんで? あなたは、きょうは敬われる立場だから。そんなわけで、モンゴルの青年に初めて「老人として」おごってもらう羽目になった。7才の子ども時代に出会い、トランプの「神経衰弱」や日本から持参した花札を教えて鍛えた。その成果があったのか、国費留学の試験に合格、28才になって4月から早稲田大学で学んでいる。

◆70才以上の年寄りが、今年はじめて2000万人を越えたという。「敬老」もいいが、介護する側の苦労を見据えた上の敬老でないと、やばい気がする 「PPK(ぴんぴんころり)」がすべての年寄りのあこがれだが、どうしたらその能力を得られるのかは、まだ誰も知らない。(江本嘉伸


先月の報告会から

島ぬ引力

車谷建太 賀曽利隆 向後元彦 三輪主彦 妹尾和子 長野淳子

2008年8月22日(金) 新宿スポーツセンター

 8月の報告会は10月に行われる「地平線会議 in 浜比嘉島」に先立って、「沖縄・琉球」がテーマ! 報告者はなんと総勢6人という豪華さで、すごいぞ、すごいぞ! と、大興奮。どこへ転がって行くか判らない、ジェットコースターのような2時間半だった。

◆今回の総合司会、そして「in 浜比嘉島」実行委員長の長野亮之介さんが監督となり(ややこしい!)、6月29日に、地平線会議を代表して「比嘉ハーリー」に参加した地平線チーム、その名も「地平線ダチョウスターズ」。 まずは、三味線弾きの車谷建太さんが、その奮闘を写真とともに報告する。

◆「ハーリー」は、琉球王朝時代に中国から伝わったという歴史を持つ、漁や海の安全を願って行うお祭りで、爬竜船(はりゅうせん)を8人程で漕いで、競うもの。海人(うみんちゅ)の誇りをかけた戦いなのだが、港では応援する人達も白熱、ひたすら盛り上がるのだという。

◆初心者の地平線チームは、島に着くや否や、外間昇さん晴美さんに迎えられ、レース前日の夕暮れまで猛練習に励んだ。が、「せーの」で櫂を合わせようとしても、なかなかコツがつかめない。しかしめげない面々はその夜、海宝さんが提供してくれた「宮古島100キロウルトラ遠足(とおあし)」のTシャツのロゴ「MIYAKO」を長野さんと元美術の先生・竹内祥泰さんを中心に「HAMAHIGA」へと器用に改造。そのお揃いTシャツを着て一致団結、予選に挑んだ。

◆本番「何かが解き放たれた!」というダチョウスターズは驚く程、息がぴったり。結果、地元の人に「ここまで漕げるのはすごい」と褒められる力走をして、34チーム中8チームしか出られない本戦への進出を果たす。トーナメント戦ではくじ運の悪い監督が優勝候補(で、やっぱり優勝)の高校生チームを引き当て敗退したが、「もっと漕ぎたかった!」と車谷さん。全員、すでに来年を心待ちにしている模様。

◆その興奮が伝わってくるレースの写真は迫力満点、なのだが、よく見ると皆が皆、苦しそうなのに揃って笑顔なのだ。そこで「これを見てください!」と車谷さんがアップにしたのは貧乏研究家・久島弘さんの顔。普段は「大事なカロリーがもったいない」と運動を嫌う、ひょろひょろの久島さんなのに、なんだ、この生命力あふれた笑顔は! 皆がざわめく中、「練習では貧血を起こしたが、本番は疲れなかった。ノッている時は驚くほど櫂が軽い」と、照れながら久島さん。そこに「実は漕いでなかったんじゃない?」と関根さんのヤジが飛ぶ。なんだかいつもより、わいわいがやがや、楽しい報告会。

◆続いて、冒険王・賀曽利隆さんが登場。20代にバイクで世界を回り、帰ると無性に日本という国に興味が出てきた賀曽利さん、30代では「日本一周」をテー マに旅をした。浜比嘉島を訪れたのも、日本一周がらみ。最初の一周では、沖縄の島を省略してしまい、本島だけしか巡らなかったことを反省し、島だけで回る日本一周を思い付いたのだという。そしてその過程で、沖縄にある33の有人島を訪れたのだが、その時「すごくよく覚えている」と言うのは、島に向かう度に立ち寄った那覇港の防波堤に書いてある「那覇はアジアの十字路」の文字。もしも外交能力に長けていた琉球が独立し、独自の文化を築いていけたなら、今頃、本当にアジアの十字路になっていたかもしれない。日本はもっと沖縄をアジアの中で生かさなければならないのではないか。世界と日本、両方を体で感じてきた、賀曽利さんの思いだ。

◆それから10月に「いかに浜比嘉島に行くか?」を熱っぽく語る、賀曽利さん。電車と船を乗り継いで、行きは太平洋側、帰りは日本海側を選び、ぐるり西日本を半周しようと計画中なのだという。「行き方にもこだわろう」と呼びかける様子は、いたずらを計画する少年のよう。最後に「そういうことで皆さん、浜比嘉で会いましょう!」と言うと、今にでも出発してしまいそうだ。いろいろな人が様々な方法で浜比嘉に集結する光景がふと頭に浮かび、今からわくわくしてしまう。

◆次の報告はマングローブ緑化を世界各地で進めている、向後元彦さん。向後さんはNGOの国際マングローブ生態系協会の設立に関わり、事務所を日本に作ると決まった時、瞬間的に「ならば沖縄に」と思い、その足で沖縄に向かったのだという。そこにあったのは、一つ目に、なんでもかんでも「東京集中はイヤダ」という考え。二つ目に、沖縄は日本の南端だが、マングロー ブ分布圏の北端で、開発途上国の北端でもある、と沖縄を捉える目線だった。日本の中からだけでなく、世界の中で沖縄を捉えること、その重要性を向後さんは言う。それから、世界各国のマングローブの興味深いお話が写真とともに次々と紹介された(のだけれど書ききれなくってごめんなさい)。

◆さて、ここですでに、30分近く時間が押している様子。どうするどうする。という所で、「皆さん、 こんにちは」と、三輪主彦さんが登場。「こんにちは」と答える皆さん。にわかに「地平線学校」が現れ、ここでは、三輪さんが一時取り組んでいた「沖縄の道」 というテーマを元に、沖縄を考え(るヒントを教えてくれ)た。

◆例えば、1927年と1977年の写真を見比べると、ヤンバル地域に横断道路がなくなっているのだが、これは米軍の基地ができたから。また、1978年7月29日と30日の同じ道路を撮った写真。1日にして車両の通行が右から左側通行に切り替わっているが、これは沖縄がアメリカから日本に返還され、国際法にのっとり日本の交通ルールに統一されたことを物語っている。「あの時、本土が合わせりゃいいのにって思った記憶があるよ」と、三輪さん。

◆03年に「ゆいレール」が走るまで、日本で唯一電車のない県と言われていた沖縄。沖縄は遅れているんじゃないか、と思う人がいるかもしれない。が、大正時代には首里と那覇を結ぶ電車が走っており、これは東京と比べても進んでいた、と三輪さんは言う。「道」が見ようによって、こんなにたくさんの事を教えてくれるとは。もっと聞きたいと思うも「もう15分ですね」、とあっさり終了。三輪さん、先生っぽいぞ(先生なんだけど)。

◆後半は、「今の沖縄を一番知っている人」と長野さんに紹介され、妹尾和子さんが進行役に。妹尾さんは、JTAの機内誌『Coral way』の編集者。丸々沖縄を取り上げる雑誌の為、「ネタは尽きないのか?」と心配されることもあるそうだが、沖縄は芸能やスポーツが盛ん。島が多く、島ごとにそれぞれの文化がある。「もちろん、尽きないんです!」と、誇らしそうだ(ついでながら報告会の最後に島旅作家の河田真智子さんが発言、その中で『Coral way』を単に機内誌ととらえてはいけない、沖縄を知る上で極めて内容の高い雑誌と指摘されたのが心に残りました)。

◆さて、妹尾さん、ここでクイズを出題。「[1]わーりたぽーり[2]おーりーとーりー[3]にーぶいかーぶい[4]めんそーれ、一つだけ意味が異なるのはどれ?」(答えは最後に)。次いで、沖縄にほれ込み長く三線を習っ ている長野淳子さんが、沖縄の古い暮らしが歌詞に残っていて面白い歌、と「ちんぬくじゅうしい」を演奏してくれた。今度はコンサート会場に変身した報告会。 うっとり、聴き入ってしまう。海中道路と浜比嘉大橋で結ばれるまでは船だけが頼りだっただけに浜比嘉島は芸能が独自に発達し、今に継承されているのだという。「ほかより静かで幻想的」、これが淳子さんの浜比嘉「エイサー」評だ(「in 浜比嘉島」で、地元の方たちに浜比嘉島の芸能を披露していただけるようなので、楽しみです!)。

◆息つく暇もなく次は、妹尾さんの友人『好きになっちゃった沖縄』のライター、塚田恭子さんと、アジャル・アディカリさんご夫婦が、特別ゲストとして登場。在日17年のネパール人、アジャルさんが沖縄(特に波照間島)に魅せられたのは11年前。お客さんが来たら全家族に紹介してもてなす所など、ネパールに似ており、故郷に帰ったような懐かしさを感じたという。

◆ウリ、 へちま、とっきん(グアバ)、そしてヤギ! 食材が似ているのも嬉しい。ネパー ルではヤギは血も食べる為に一発で首をはねるが、沖縄では血を抜く為、すぐには落とさない。「残酷だー」と驚いたそうだが、刺身で食べても、臭みがないのに、感心したそうだ。また、ネパールでは人が毎日同じように集まり同じ事を喋っているが、沖縄の人たちにも似た雰囲気を感じるという。喋るのだけが目的じゃなく、一緒に過ごす事で皆が皆の状態を把握しているんだよ、と言ったアジャルさんの言葉が印象的だった。

◆沖縄の人がお酒が入ると必ず歌うという「安里屋ユンタ」。 元歌は琉球王朝の歌で、さびの部分は一説にはインドネシアから伝わった言葉と言われている。淳子さんの演奏に合わせ、皆で合いの手を入れる練習をして、盛りだくさんの報告会は、終わった。前出の塚田さん曰く、沖縄が好きな人にはなぜか何度も何度も通ってしまう島が必ず一つはあるのだそうだ。地平線会議の人達にとって、そこが「浜比嘉島」となり、浜比嘉の人達も喜んでくれ、「また来たね」と迎えてくれるようになる、そんな「in 浜比嘉島」になったらどんなにステキだろう、と思う。

◆その為に何をしたらいいか判らないけれども、まずは沖縄の事、もっと勉強しなくっちゃ。こうも多方面の人達の報告を聴くと、地平線会議ってスゴイっ、と改めて思ってしまう。きっとさらにたくさんのスゴイ人と、10月に浜比嘉島では会えるんだろうな。あー、今から楽しみだ!(答えは[3]。意味は「眠い眠い」だそうです。あとは「いらっしゃい」。眠い眠い、加藤千晶

[報告者のひとこと・そして、キムタカ・浜比嘉島・車内12時間缶詰と120個のミニトマト]

■「島ぬ引力」と魅力的なタイトルのもと、開催された琉球・沖縄がテーマの報告会。賀曽利さん、向後さん、三輪さんそれぞれに興味深いお話で、もっともっとお聞きしたかったです。持ち時間があまりないことはわかっていましたが、沖縄がテーマの報告会ならば、「音楽」がないのはさびしいと思い、長野淳子さんにお願いして三線で唄ってもらいました。よかったですよね! 淳子さんは浜比嘉島の外間晴美さんの三線仲間でもあり、一昨年の外間夫妻の結婚披露宴でも三線演奏で盛り上げていました。

◆かつて琉球というひとつの国であった沖縄。自然や文化など心魅かれるものはたくさんありますが、私にとって沖縄の一番の魅力は「人」。相手に対する心の開き方やユーモアのセンス……。そして、見えないもの(先祖や神、魔物やマブイなど)を信じる姿勢のようなものでしょうか。一緒に友人の実家を訪ねたとき、「お線香あげさせてもらいます」と、ごく自然に仏壇に手を合わせた同行者。豊年祭の途中で突然の大雨に襲われても、まったく動じることなく神様への奉納の舞いを続けていた高校生。東京の住宅街を歩きながら、T字路を見て「ここに“石敢當”(いしがんとう:魔よけの札)を置きたいよね。何もないと魔物が家に入っちゃうよね」とつぶやいた友人。そんな沖縄の人たちの姿が、ふとしたときに思い出されます。

◆報告会のとき、沖縄の言葉のクイズ(「いらっしゃいませ」バリエーション)を出したのは、沖縄といっても有人島だけで50近くあり、島それぞれに特徴があること、那覇と石垣島では400キロも離れていて、ひとくくりにできないことを伝えたかったのでした。

◆さてさて、報告会の翌日の土曜日、私は沖縄へ飛びました。88回目の訪沖。うるま市勝連の中高生による舞台「肝高の阿麻和利」を観るのが目的です(仕事です。念のため)。10月に浜比嘉島の「ちへいせん・あしびなー」で講演してくれる平田大一さんが演出を担当しているこの舞台、素晴らしかった〜!! 県外からのリピーター(観客)が多いことも納得。浜比嘉島の民宿に泊まっていた女性2人連れも、関東から舞台を観に来ていました。

◆翌朝は外間家を訪問。庭のテーブルを囲み、コーヒーとサーターアンダーギーをいただきながら、外間夫妻と10月の集会についてあれこれおしゃべりしてきました。そして、後ろ髪ひかれつつ那覇へ向かい、友人が切り盛りしている「こぺんぎん食堂」で慌しく餃子を食べて空港へ。夏休みムードむんむんの飛行機が羽田に着陸すると、なんと外は雨でした。沖縄は夏空だったのに〜。そして、携帯電話の電源を入れると「伊豆は雨ダイジョウブ?」という内容の友人からメールを数通受信。大阪のねこさんからは「東海道線運転見合わせ」情報も。

◆ええ〜大雨なの!? これから伊豆の家まで帰るつもりなのに〜。この日を逃したら、また1週間帰れなくなり(注:妹尾さんは週末伊豆暮らし)、育てている野菜が気がかりなので、とにかく家をめざして新幹線へ。そして19時過ぎに熱海に到着。しかし、その先の伊東線は大雨で運転見合わせとのこと。国道も通行止め、東海道線も止まっていました。駅員に状況を尋ねる人、ホームに敷かれたブルーシートの上で本を読む人、配布された毛布に包まって寝ている人などいろいろ。でも怒りを爆発させるような人はなく、全体的には静かな雰囲気。私は開放されていた踊り子号の車内で本を読みながら、ときどきメールをしていました。まわりの人たちも同じような感じ。

◆そのうち、外で花火があがり始めました。熱海の花火大会の日だったのです。ホームに出て、どしゃぶりのなかでも花火はあがるんだーと驚きながら鑑賞。雨ですぐに消されちゃうから、余韻がなくてちょっとさびしい花火。見ているのは、少数派でした。いくつかのホテルに問い合わせてみましたが、花火大会の日でもあり、どこも満室。そのうち携帯の電池も切れました(当然、周辺のコンビニの充電器は売り切れ)。「こんなとき地平線の人たちならどうするのかな、歩いて帰るのかな」などと思いつつ、持っていた本は読み終えてしまい、うとうと。

◆結局、列車が動いたのは翌朝の9時過ぎ。12時間以上、熱海駅で過ごしたわけです。小さな幸せは、明け方に崎陽軒のシュウマイ弁当とお茶が配られたこと。その後、伊東での乗り継ぎに1時間かかり、帰宅したのは11時過ぎ。なんとも長い1日でした。帰宅後、さっそく庭の野菜を収穫。2本の枝から、120個ほどの真っ赤なミニトマトがとれました。これで雨のなか帰宅した甲斐があった、はず。(妹尾和子


ちへいせん・あしびなー

《さあ、担ごう、10月25-27日「あしびなー神輿」!!!》

━━地平線会議 in 浜比嘉島実行委員長 長野亮之介 前言━━

 「ちへいせん・あしびなー」のチラシが完成しました!制作担当は、地平線カレンダーのプロデュースでおなじみの丸山純さんです。浜比嘉からの「具体的に目に見えるモノを」という声に応えた仕事なのですが、作ってみるとやはり実感が湧きます。島での雑談から飛び出した「あしびなー(遊びの庭)」という言葉が独り立ちし、自己主張しているかのよう。開催地の浜比嘉島/比嘉区でも、夏から秋にかけて毎週のように続くお祭りが一段落し、「ちへいせん・あしびなー」に顔が向いてきました。我々スタッフもこれで自ら退路を断ち、もう前に進むしかないというか……。そうです、いよいよ来月ホントに「ちへいせん・あしびなー」をやりますよ!!

 「あしびなー」の地、浜比嘉島は、これまで行ってきた国内の地平線拡大集会の場として最遠ですが、参加表明者は予想より多くなってきました。世界中を旅している地平線会議の仲間にとって、沖縄は特殊な魅力を持っています。顔つき、言葉、衣食住、生活のリズムなど、どれをとっても、「違うのに同じ、同じなのに違う」という旅の肌感覚を複合的に感じさせる場所ではないでしょうか。素直に異国情緒を味わうもよし、また、歴史に思いを馳せ「クニ」の境界について考えるのもOK。日本国沖縄県は、旅人が蓄積してきた経験に応じて光を反射し返す「鏡」のような存在なのかも知れません。浜比嘉島は、沖縄本島まで橋が架かる(約6キロ)ほどの距離でありながら、長らく離島でした。ちょうど日本と沖縄の位置関係の縮図と言えるかも。その意味でも象徴的な土地だと思います。

 祭りの準備はこれからが正念場。前回も書きましたが、「ちへいせん・あしびなー」は参加者全員で担ぐ御神輿です。参加する方はすなわちスタッフです。同様に、今動いている私たちコア・スタッフも、当然ながら、当日はみんなと一緒にプログラムを楽しみます。誰ひとり「お金」で動いているわけではない、地平線会議ならではの「祭り」です。いつか島の人が「ちへいせん・あしびなー」の記憶を辿るとき、思わずニコッとするようなイベントにしましょうねー。(長野亮之介

ちへいせん・あしびなー参加要綱

【ちへいせん・あしびなー同時開催特別企画】

写真展『地平線発 in 浜比嘉』−新しい時代の旅人たちへ

■浜比嘉島で<ちへいせん・あしびなー>を開催するのにあわせ、写真展『地平線発』を開催します。これは、地平線報告会が200回を越えた1997年、NOVLIKA(当時)の影山幸一・本吉宣子夫妻が企画、地平線会議に集う旅人たちの写真、220余点を集め、東京はじめ各地で展示したものです。兵庫県豊岡市の植村直己冒険館に保存してもらっていますが、保存状態が良好で、今も一部は冒険館で展示されています。 今回写真展をやるのは、浜比嘉島に近いうるま市立海の文化資料館。スペースの都合で展示する写真は40数点になると思いますが、北極から南極まで地球を舞台にした多様な写真が含まれます。どうぞこの機会に見てください。

期間:08年10月1日〜31日(月曜、祝日は休館)
場所:沖縄県うるま市与那城屋平4
    海の駅あやはし館2階 うるま市立海の文化資料館
    TEL 098-978-8831
入館無料


【浜比嘉島からの手紙】

 10月の地平線会議 in 浜比嘉島を前に、島んちゅを代表して2人の方からお便りをいただいた。ありがたいことだ。島の子どもたちも待っててくれているではないか。大いなる思いを抱いて、行こうではないか。(E)

〈その1〉
「まっちょんどー!」

■「地平線会議 in 浜比嘉島」のことについては今年の6月頃知りました。江本嘉伸さんがわざわざ本校にいらっしゃってくれたのです。(その前に外間晴美さんから地平線通信を頂き、ちらっとは聞いていたんですけど…)。その時、子ども達との交流の機会を作ってはどうかということになり、私からも是非実現してほしいとお願いをした次第です。小さな島の子ども達に世界に目を向けさせ、大きな夢を持ってもらいたいと常々思っていた私にとって願ってもないことでした。

◆ちなみに本校学校経営のキーワードは「夢・誇り・自信」です。小さな島だからこそ大きな世界に目を向けさせたい。小さな島であっても世界に通じる浜比嘉の自然、伝統文化に誇りを持ってもらいたい。そしてしっかり自信をもって生きていって欲しいという本校職員の願いなのです。昨日FAXを頂き、山田高司さんが担当して下さるということを知り嬉しく思いました。どうぞよろしくお願いいたします。

◆本校のプロフィールを少し紹介します。正式名称はうるま市立比嘉小学校、児童数30名、幼稚園児5名、職員12名。昭和47年4月に浜小中学校から分離し、浜小学校として開校しました。その年の5月15日に名称を比嘉小学校に変更し現在に至っています。お気づきかと思いますが、5月15日は沖縄が日本に復帰した日です。平成9年2月浜比嘉大橋が架かり陸路で本島に行き来できるようになりましたが、過疎化が進み児童数は減少の一途をたどっています。今後、学校自体がどのような形になっていくのか、過渡期を迎えていることは事実です。

◆ところで子ども達についてですが、小規模校でややシャイな面があります。しかしながら市主催の学生ハーリー大会では小学生の部で2連覇を達成するなど、さすがウミンチュ(海人)のDNAをしっかり受け継いでいます。そんな子ども達が皆さんをまっちょんどー(待ってるよー)。隣の浜中学校の子ども達、職員も楽しみにしています。(うるま市立比嘉小学校 校長 下地邦敏

〈その2〉
地平線会議の皆さん めそーれ ばまひじゃへ

■江本様 ご無沙汰致しております、いよいよ来月は「地平線会議 in 浜比嘉島」ですね、胸がわくわくします。下手な文章ですが、寄稿させていただきます。私は都会に(東京)に20年住んで3年前ふるさと沖縄に戻って参りました。そして2年半前から女房の出身地の浜比嘉島に民宿を営むことになり、今年の4月から比嘉区の区長を務めることになりました。

◆比嘉区の現在の人口は男性118名、女性92名合計で200名の小さな集落です。浜比嘉島は平成9年までは交通機関として船が使われていましたが、それ以後は車で自由に行き来できるようになり本土の方も多く訪れるようになったとのこと、それでも浜比嘉島は自然豊かな島で、多くの伝統文化が伝えられています。特に三大行事としてハーリー、豊年祭、エイサーがあり、それらの行事はすべて旧暦で行われます。区長として無事終えることができて大変嬉しく思います。

◆次は地平線会議の成功に協力をし、取り組んでいきたいと思っています。地平線会議の皆さんの体験話などは、島の人たちは大変興味深いものになると思います。島の人たちとの交流を通じて沖縄の文化、特に浜比嘉島の文化を知ることができることを期待しています。地平線会議の皆さん めそーれ ばまひじゃへ(平識勇 比嘉区長)


地平線ポストから

〈「井本助産院、邪魔するなー!」と颯祐が叫び、佳桜(かお)ちゃん誕生!!〉

■江本さん。いつのまにか蝉の声も遠のき、虫の音が響く夜が少しずつ長くなってきました。今晩は仲秋の名月、3歳になる颯祐(そうすけ)とおだんごをつくり、さきほど煌々と輝くお月様をベランダで一緒に愛でました。もうじき、青空保育で週1回子どもたちがお手伝いしている田んぼの稲刈りも始まり、いよいよ秋が深まってくる気配です。

◆さて、ご報告が遅れましたが、8月28日午前10時42分、待望の第2子を出産しました。母の生まれ変わりではという予感のとおり、3575gの元気な女の子でした。娘は、佳桜(かお)と名付けました。母が生前、宇野千代ばりに桜を愛していたので、「桜」という字を使いたかったのです。母は「美代子」という名前だったのですが、携帯メールのアドレスも「miyozakura.0204」でした。余談ですが、迷惑メールに困っていた母に、「数字をつけるといいよ」と教えたのですが、母が選んだ数字は、奇しくも母の命日、つまり結婚記念日だということに亡くなってから気づいて、家族ともどもびっくりしました。

◆今回のお産は予定日を8日超過したのですが、「ん?もしかして陣痛?」と思ってから3時間、助産院にタクシーで到着してから40分という超スピード出産でした。陣痛が始まってから3日目の夜に生まれた颯祐(そうすけ)の時に比べると本当にあっという間で、お産によってこうも違うものかと驚いています。前回の時は、「8000m峰の無酸素登頂よりキツイ」というのが偽りのない感想でしたが(実際、すぐに横になれるように居間に布団を敷いている生活が半年も続き、1ヶ月程度で身体が回復したヒマラヤ登山よりずっと消耗が激しかった)、今回は、うしろから熊に追いかけられて、800mを全力疾走したという感じでした。なぜ「熊に追いかけられて」と付けたかというと、お産の進みが早かったせいか、最後の15分はあまりの痛みに颯祐の時以上にけだものと化してしまい、叫ぶは吠えるは、手は震えて涙も出てくるといった有様だったからです。それでも、陣痛の合間には、立ち会ってくれた颯祐に、「大丈夫だよー」と声をかけているのだから、陣痛とは不思議なものです。座位でいきんで、最後は四つんばいで産み落としました。

◆おもしろいのは、陣痛が来るたびに、颯祐はなぜか他の部屋に走って行って、「井本助産院、邪魔するなー!」と叫んでいたこと。一緒に何かと戦っているつもりだったのでしょうか。それでも意外と冷静で、痛みで涙がにじんでいる私の顔をのぞき込んで、「ママ泣いてる〜」と言ったり、赤ちゃんの頭が出てきた時に、「お顔出てるよ〜」と言ったり、いやー、男の子って頼もしいですね! 生まれたての赤ちゃんに、ハーモニカまで吹いてあげていました。東京の会社に出勤していた夫は、残念ながらタッチの差で出産には間に合いませんでしたが、10分後に到着し、颯祐と2人で臍の緒を切ってくれました。前回も自然出産だったのですが、病院だったため、夫が臍の緒を切ってから初めて赤ちゃんを素肌に抱いたのですが(カンガルーケアといいます)、今回は生まれてすぐに、臍の緒がつながったまま抱っこすることができました。私と赤ちゃんをつなぐ白い管を握ると、しばらくは脈動が感じられました。これからは、血液の変わりにおっぱいでしばらく一心同体です。

◆その晩、颯祐はお風呂に入っている時に、シャワーのホースを自分のお腹につけて、「赤ちゃんのおへそ〜」と言っていたそうです。わが子ながら、すごいセンス! 母親が取り乱した姿を見せるのはどうかと思っていましたが、立ち会わせて本当によかったと今は思っています。

◆これでますます、行動半径の狭い「暮らし」に専念する日々となってしまいそうですが、地平線通信が唯一世界に思いを馳せるツールですので、これからもどうぞ送り続けてくださいね! 湘南にお越しの際は、ぜひ赤ちゃんの顔を見にお立ち寄りください。(大久保由美子


[書くことは、書き続けること]

■8月号の「地平線通信」のあとがき、江本さんのひと言には、「う〜ん」と唸らされてしまいました。皆さんも読まれたことと思いますが、江本さんはかの吉本隆明氏の文章にかみついているのです。『探険倶楽部AGAIN』を読んでもいないのにコメントするのは申し訳ない気もしますが、「この程度の文章で」と怒っている江本さんのお顔を思い浮かべると、どうしてもひと言、いいたくなってしまいました。

◆江本さん、いいですねえ〜。いくらお歳(失礼!)をとっても熱き心を忘れないお方。人間、歳をとるとどうしても、このかみつく気持ちが薄らいでしまいます。牙もむかなくなってしまうものです。それと我々、地平線会議のメンバーには「書くこと」を生業としている者が自分を含めて何人もいますが、江本さんのお言葉は、そんな我々への痛烈なメッセージのようにも思えてなりません。

◆「書く仕事の怖さ」はまさに同感ですが、ぼくはそれを乗り越える道というのは、ただひたすらに自分の道を突き進むことではないかと思っています。自分で「よし!」と思えるものは、まわりから何といわれようとも平気でいられるし、それをさらにつづけていこうという気になるものです。「書く」ことは、「書き続けること」だとも思っています。江本さん、これからも、ときにはズバッと「辛口」をお願いしますよ。それに耐えられるよう、より心を熱くし、より牙を鋭くしようと思っている私、カソリです。(賀曽利隆


[ペルーの山で考えた。年を重ねていくこと、おまけに女であることは複雑で、自分の立ち位置を客観的に把握するのはむずかしい。]

■滝野沢優子さん、おひさしぶりです。ことし1月、雪の八幡平でお会いしたのがきのうのように思い出されます。先月の通信で滝野沢さんの文章を読んで、おお、と懐かしくなりました。18年前私もメキシコのペンションアミーゴに滞在したことがあるんです!

◆1990年ポポカテぺトル峰とオリサバ峰へ登ったときです。前年のネパール クスムカングル峰の遠征がちょっと大変だったので、大学5年生の春に自分だけで登れる山を選び年下の友達と行った、なつかしい場所です。お金がない貧乏旅行で全て手探り。地元の人しか乗らないローカルバスを乗りつぎ、ふもとの村で食料を調達しジープまで雇って登ったのだから、若さゆえの底力があったんすね(限りなく無謀に近い気もするけど……)。

◆スペイン語が話せず、身振り手振りで空港からペンションアミーゴに行き着いたときは、「あの」重い扉と城壁のような塀に守られてホッとしたものです。扉の内側には、旅行者か管理人かわからない人たちがいて、長期滞在者が放つ異質な時間の流れを、春からの就職が決まっていた私は羨ましく感じていました。

◆それ以来中南米から遠ざかっていたのですが、今夏、南米ペルーの山を登りました。地元で盛大にお祝いをするペルー独立記念日翌日の7月29日早朝、朝日を浴びて山々にシンと清らかな空気が張りつめる美しい時間に、ブランカ山群のチョピカルキ峰(6,354m)の頂上に立ちました。南米は日本から20時間近くかかり2週間の休みでは余裕がないので、時間がない分お金を払って効率的に登るしかありません。現地のエージェントにバスからホテル、登山中の食事やテントもまとめて手配をお願いしました。おまけに、今年からペルーの登山規制が変わりガイドの同行が義務づけられたため、ガイドも雇いましたよ。堕落といえばそれまでですが、何にプライオリティーを置くかの判断でもあります。

◆地元の村ワラスにはしっかりしたガイド組合があり、技術や意識の面でその質は高いと感じました。彼らにとって登山は乾季の4か月に限定された大きな現金収入源です。去年のモンゴル・フィティン峰登頂のときから地元のガイドを雇っての登山をしていますが、今では初めてのエリアを知る良い手段ではないかと思うようになりました。登山技術は一緒に登るまで技量が分からないため自分でリスクを判断する覚悟が必要ですが、一方で、同世代の地元の登山家と一緒に登るのはそれだけで楽しいうえに多く情報を得ることができ、地元の経済に貢献することになります。

◆なにより、登山中にひとつ釜の飯を食べた仲間への思いは特別で、彼らとその土地や山々に対する気持ちがいっそう強くなるようです。登山をスポーツとして捉えれば、ガイドが同行することで技術的な難易度は低くなりますが、前進キャンプをいくつか設置して登頂を狙う登山はそれなりにストレニュアスで、天候や体調など条件が揃わないとうまくはいきません。ガイドといっても、つれていってもらうというよりは、新しい仲間と登るという感覚に近い。そんな風に感じさせてくれる彼らは、さらに上手の商売人なのかもしれませんが。

◆今回は3年前中国の新疆ウイグル自治区のコスクラック峰(当時未踏だった7,000m峰)を一緒に登って敗退した33歳のスペイン人の友達と、26歳の地元ワラス出身のガイド君、ガイド見習い、キッチンやロバ使いなどのスタッフと行動しました。彼らと同じ目線で山を眺め、冗談を言っては笑わせあうような気楽さ。33歳の友達が登行スピードをあげて煽ってくれば、26歳のガイド君もしびれをきらして自分のペースを暴露。私も「若い男はこれだからなあ……」と思いつつ彼らの挑戦を受けて立ったりして。

◆自分自身の年齢に対する感覚は不思議なもので、一緒に行動する相手の年齢に近づくようです。同じ目線のつもりでも40歳をこえちゃった私、いつまでもそんなワケにはいきません。私の気持ちとは裏腹に「セニョーラ」が「セニョリータ」になることはついになく(あたりまえか)、そんなところに彼らのホンネが垣間見えるような……。

◆年を重ねていくこと、おまけに女であることはちょっと複雑で、自分の立ち位置を客観的に把握するのは結構むずかしい。けれども、強制的に自分を客観視しないとまわりに迷惑をかけちゃう、そんな年代になってしまったんですね。まさに、滝野沢さんが今年ペンションアミーゴで感じたことを、私も感じていたのだと思います。

◆帰路、ワラスからリマへのバスの中で山々を眺めながら「また絶対に登りにくる」と心に誓いました。それは、ペルーの山が予想をはるかに超えてすばらしかったことと、一緒に登ったメンバーと年齢や国の差を越えて共感し心震える瞬間があったから。これから年を重ねると、さらに若いメンバーと登る機会が増えるでしょうが、いつまでも心通じあう登山を続ける力をつけていたいと思います。

◆次回この土地に戻るときには、さらに美しいルートから山に登りたい。わーっと涙がでるような登山をして、その瞬間を仲間と共有してみたい、と思うようになりました。あと10年くらいそんな風に遊び続けるにはどうしたらいいのかを考え始めています。(恩田真砂美


[ペルーで、びっくり!!! あの元国家元首との対面]

■Eもとさま江 もしもし、ごきげんよう。ご無沙汰しておりますが、相変わらずペルーに長居したまま、切った張ったやっております。ところで先日、ちょっとびっくりの出来事に遭遇してしまいました。

◆ペルーと言えばマチュピチュにインカ帝国くらいしか馴染みがなさそうですが、日本人の97.65%(大幅に推定)が知っているのがフジモリ大統領(元、現・刑事被告人)でしょう。会ってしまいましたよ、刑務所で。いきなしご本人が出てきたんで、まぁ〜くりびつてんぎょっ!

◆ほんとにどっかの地下鉄工事現場の仕切りのおっさんという感じで、元・国家元首とはとても思えない、良く言えば気さくな人柄(悪く言うと、権力にしがみつこうとした哀れな元独裁者?)。しゃべられるとまずいことも多々ありで暗殺の恐れが常時あるので、警備の厳重な警察官専用の刑務所に勾留中ですが、鉄格子の中に閉じ込められているのかと思っていたら、実は所内をウロウロ。塀の中とはいえ油絵を描いたり所内の庭でバラを育てたり、のびのび暮しているみたいでしたね。本人談では、すべてが予定の行動、塀の中にいるのも想定内だそうな。ほんまかいね?

◆とにかくご本人はまだまだ現役バリバリ、やる気たっぷりでした。あっさりと政権を放り出しておいて、「あなたとは違うんです」なんて息巻いていたどこぞの首相とは大違い。毒気たっぷりとはいえないまでも、一度、権力の甘い蜜の味を知ってしまうと、忘れられなくなるということなのでしょうか? 差し入れにお寿司が〜とかのたまわっていたので、近々に再度表敬訪問の予定でしたが、膵臓に腫瘍が発見されたとかで結局キャンセルとなってしまいました。ご本人から黒い政治的野心などについて詳しく聞いてみたかったのですが、残念至極。てなわけで、ちょっとご報告でした。

◆ちなみに、当地での遺跡関連プロジェクトは進展多々ありですが、肝心の発掘調査の方はますます複雑怪奇な様相を呈して、遅々として進まず。今年は故・泉靖一氏以来の日本のアンデス考古学調査50周年ということで、関係者一同が集まりシンポジュームが催されたり、いろいろ賑やかです。先日はアンデス考古学の世界的権威であらせられる大貫良夫・某東大名誉教授と北部海岸の新発見遺跡に出かけてきましたが、まだまだ形成期(5000年以上前)の遺跡群が続々と見つかったりで目が離せません。

◆なお、当初の予定ではNYのブルックリン・カーニバル経由でもう日本に戻るはずでしたが、天野博物館の収蔵品の撮影を依頼されたりで、9月後半まではペルー潜伏となりそうです。もちろん沖縄方面は馳せ参じる予定ですので、何とぞよしなに。ではまた、再見匆々! (ZZZ-全@ペルー 9月9日)


[オリンピックはオリンピックでも……。−大江戸銭湯探検記−]

■北京オリンピック閉会式の翌日、北砂のオリンピック湯へ。銭湯おたくの仲間から、北京よりも北砂のオリンピックよ、なんていわれていたので、じゃあ行ってみるか、と小雨の中、亀戸駅から歩くこと30分、ありました、オリンピック湯。ここら辺は、まだ銭湯が現役で残っており、道路反対側には、丸八湯の煙突が見えます。ちなみに、都内の銭湯は現在865軒、東京オリンピック時には、2687軒もありました。

◆4時開店のオリンピック湯、さっそく裸になって(あたりまえだ)風呂場に。先客は常連とおぼしきお年寄り6名。壁絵はタイルで大波がどぶーんと寄せています。カラン(蛇口)24、有料(200円)のサウナあるも中は無人。浴槽は、薬湯、泡ぶくぶく湯、電気湯の3つ、まあ、ごく普通の銭湯です。

◆入口のフロント(今は番台とはいわない)で、40歳代の女将に「なんでオリンピック?」と聞いてみました。東京で開催することになっていたオリンピックが、戦争で中止になった時に命名したとのこと。オリンピックの選手の色紙とかポスターとか、それらしいものもなく、雰囲気もなく、ちょっとがっかり。でも、脱衣場での会話、「だめだねえ、日本のおとこ、星野は、よくなかったねえ」、「そう、ほんとにだらしないねえ、行く前にたいそうなこと喋っていたのにねえ」、「でも、おんなはよかった、立派だったねえ、レスリングもソフトも強かった」、一見さんの私、「オリンピックって、参加すれりゃあいいってもんじゃないよね」。オリンピック湯でのオリンピック談義でした。

◆そもそも銭湯おたくになったのは、66歳の時。高校同級生たちから、記念にアメリカのルート66をドライブしよう、と誘われたのですが、カネもヒマ(こちらは嘘)もないからと断ったのが発端でした。あちらが、アメリカの66なら、こちらは足立の66をと、地元足立区内の銭湯を1年かけて入ることを決意。区内銭湯58プラス葛飾、荒川区の銭湯を加え、目標66達成。それ以来、都内だけでなく、旅先の国内外の銭湯に入り続けているというわけ。記録も順調に伸び、現在177。(田口幸子 サロマ湖100kmを9回完走した遊び人ランナー ボランティア指圧師 フィリピン、カンボジア、ネパール、モンゴルなどの選挙国際監視団に参加)


[里帰りしたドイツで確認した、どうしょうもない「作る事が好きなんだ!」という思い!]

■2008年夏、3年ぶりにドイツで制作に励んできました。2年ぶりだねとノベルト(ボス)たちに言ったら、3年ぶりじゃないの!? と言われてしまいました。今回の滞在は5週間。突然実家に帰ってきて長居するムスメという感じだったでしょうか。ただ、3人の子ども達のうち上の二人は社会人、学生となって家を出ていて、ノベルト達はせいせいしているようで、実はちょっと寂しそうでした。

◆いつものように、ノベルトの仕事の邪魔にならないように、もしくは思いっきり邪魔をしながら、「かせきごっこ」(注:歩未おもちゃの作品名)の溝掘り行程を仕上げて大量に日本へ輸出しました。私が一人で溝掘り機を1週間も占拠したり、それでなくても所狭しと物が置いてある工房の中に、私の板材が山積みになっていたりと、申し訳ありませんの一言です。

◆ノベルトの工房はすごく忙しい事になっていて、そんな状況にも関わらず、私を野放しにしてくれるノベルトの大きさがまた相変わらずで頭が下がります。それに報いようと一所懸命お手伝いをしましたが、彼のハイペースにはついていくだけでバテバテで、私だけ21時には就寝です。ホントに昔ここで働いていたのかと自分で疑ってしまいました。

◆街の教会の2本のツノ(私が大好きだった風景!)は修復工事中だったけれど、遠くから見る分にはまぁそんなに落胆するほどでもなく、お友達の栗の木さんはむしろ昔より元気になっている感じだったし、お気に入りのブナ林は凛とたたずむ変わらぬ美しさでした。しかし何よりも感激したのはノベルトと自転車ツーリングをしている途中に通ったブナのトンネルです。

◆坂を下って林にさしかかると、すこーんと伸びたブナたちがずっと先までトンネルを作ってくれていて(しかもみんな長老!)そのままのスピードで通り抜けたら異次元空間が広がっていそうな、もしくは浮かび上がってトトロみたいに風になっちゃいそうな、もう感激しすぎて頭が噴火しそうでした。あまりの感動に目を瞑ってしまうところでした。この街はまだまだ知らないところだらけなのを知らされました。

◆ドイツ北西部に位置するこのミュンスターランドと呼ばれる地域は、自転車ツーリングにもってこいの地形らしく、チャリ好きなドイツ人ははるばるバイエルンからもチャリンコ抱えてやってくるそうです。古い古い農家が今もたくさん残っていて(もちろん人も住んでいる)牛や羊や豚やらが放牧されていて、メルヘンの世界そのものです。「走る牛」なんてのを初めて見てノベルトとげらげら笑ったり、彼の昔話なんかも聞きながら走ったり。

◆やるべきことやって、血を入れ替えて勝手にすっきり気分転換できた私は、新しい方向性を見出しました。実はここ1年ぐらい、自分の進むべき方向について悶々としておりました。先の事は考えても分からないから、今を一所懸命やろう。なるようになるさ。不安だからこそ、考えない方向でやり過ごしてきましたが、内にあったへんなこだわりやらなんやらが一掃されて、もっと突っ走ってみる気になりました。私の中にあるどうしょうもない「作る事が好きなんだ!」という思いに正直に生きていけばいいじゃないか、と思えるようになりました。

◆おもちゃだろうが、なんだろうが、いいと思ったら作ればいい。アウトプットし続けることで、だんだん分かってくるばずだから。今までは支離滅裂に走っていたけれど、これからは先を見ながら走れるような気がしています。これは、ジュエリーマイスターである友達、ガビーの効力なんだと思います。彼女はいつも、やってみなさいよ、って言います。それを実践している人だから、めちゃくちゃ説得力あります。

◆ノベルト始め、ドイツのみんなは50代に突入です。みんな軒並み老眼鏡なんかかけはじめちゃって、老化したね……って笑っちゃったけど、私にとっては偉大なるお手本です。世界のどこかにそんな人たちがいるってなんてステキ! この想いをどこかに還元するには、もっともっと深みのある人間にならなければならん! とつくづく思うのです。

◆気分すっきりついでに、arumitoyではクォーターの青い子をリニューアルさせました。ぶたさんの仲間入りです。制作中にぶたの鼻のパーツがてんこ盛りな様は、我ながら笑えます。ウェブもついでにリニューアルしてあるので、ぜひ見に来てください。www.arumitoy.netへ!

◆今年の夏、私は5週間不在だったとはいえ、我が家は清く正しくクーラーなしで乗り切りました。帰国直後は1日3回シャワーを浴びる日々でしたが、人間の体は暑さに慣れるようにできているんですね。クーラーにあたるとしんどくなるぐらいです。汗をだくだく流して仕事して、1日を終えると充実しています。非常に疲れるけれど……。この辺りは山も川も田んぼもあってしっかり土があるから、夜にはちゃんと気温も下がる。どんなに暑い日でも6時を過ぎるとラクになる。まともな自然がある場所では、都会では考えられない生活が当たり前にできるもんなんだと30歳を目前にして知りました。

◆自然に寄り添って、でもやりたいことやって、私が50歳になって老眼鏡をかける時、胸を張って「まだまだ!」と言っているヒトになるんです。ドイツのみんなみたいに!(多胡歩未 京都のはずれに住む木のおもちゃ作家)


《北アルプスの秘湯でのんびり入浴。が、突然捜索対象に...。》

■みなさんこんにちは。8月24日から31日までの8日間、夏季休暇を利用して北アルプスを単独縦走してきました。富山駅でバスに乗り折立口から入山し太郎平、雲ノ平、高天原、水晶岳、赤牛岳、奥黒部、五色が原を通り立山麓の雷鳥沢まで。旅のメインは秘湯・高天原温泉入浴です。その高天原温泉は、どの登山口からも普通の足であれば2日程の山奥にあり、帰路を考えると4日間の行程を要するため、そう気軽には行けない温泉です。

◆社会人4年目の溜まった垢を綺麗さっぱり洗い流そうと、温泉にでも浸かってゆっくりしようと考えたものの、そこいらの温泉宿に泊まるのもなぁと、体を使って温泉にも入れる秘湯・高天原を目指すこととなりました。

◆前日夜は富山駅で野宿し、6時のバスに乗り下立口へ行き太郎平まで登り野営。翌朝太郎平を出発し秘境雲ノ平を経由して高天原へ、15時半頃到着し早速温泉に20分程歩いていきます。温泉沢という川のほとりに温泉はありました。こんな山奥によく温泉を見つけたと感動するような場所です。川原の石で組んだ露天風呂で泉質は単純硫黄泉だそう、白く濁り熱めのお湯でした。山歩きで疲れた体の奥にしみこんで溶けてしまいそうな心地のよいお湯でした。

◆その後、温泉沢を登り、水晶岳、赤牛岳のロングトレールの読売新道を抜け奥黒部へ下り、五色が原に上がり立山に登り雷鳥沢へ行きました。そこから剱岳へ空身でピストンしましたが天候悪化のため前剣付近で引き返してきました。雷鳥沢でもゆっくりお湯に浸かり、社会人としての都会の垢を落とし、心も体もリフレッシュ。温泉三昧最高の山旅でした。

◆余談になりますが、今回、山行予定を一応両親に伝えて行きました。ところが母親は下山予定日を1日間違って下山しない息子を心配。私に連絡がつかず不安に駆られ山岳警備隊に捜索を依頼。下山予定日にヘリが飛ぶ結果となりました。何も知らない私は、立山麓から山肌に沿うようにして飛ぶヘリを見ながら、遭難者が出たのかと見ていました。予定の下山時に家族に連絡したら、大騒ぎになっていて自分自身が一番驚いたという始末です。その後警備隊の方の調査を受け今度は本当に無事下山しました。図らずも富山県警察山岳警備隊の迅速な捜索を知る事となりました。家に帰り、谷口凱夫著「アルプス交番勤務を命ず」等を読んで山岳警備隊の活躍を勉強しています。この出来事はある意味、今回の山行で一番体が凍りついた瞬間であったことは間違いありません。(旅したい工業デザイナー 山本豊人


[マッコウクジラが獲れた晩の美しい光景−黒潮カヌープロジェクトその後−]

「江本様、地平線会議の方へ」との書き出しでメールが届いた。「地平線通信宛のインドネシア滞在の原稿を書いたので、関野さんのパソコンを借りて送ります。ネット環境が不安定な為、遅れてすみませんでした。(8月11日、佐藤洋平)」とあったが、着信はなぜか8月号の通信発送当日の13日。そういうわけで1か月遅れの掲載となる。(E)

■地平線会議の皆様お元気ですか。武蔵野美大(卒)の佐藤洋平です。7月21日より、関野さんの「海のグレートジャーニー」に同行してインドネシアにいます。数日前までヌサ・トゥンガラ諸島、レンバタ島のラマレラ村に滞在していました。ここはマッコウクジラの捕鯨をしている世界で唯一の土地です。プレダンという10メートル程の木造船から、ラマファーという銛手が海に飛びこみ、クジラへ銛を直接突き刺します。滞在中にマッコウクジラが2頭、他ジュゴンやマンタなど沢山の漁の成果をみることができました。

◆話に聞くだけでは近代化とは無縁の土地のようですが、伝統的な帆船にエンジンが付き、2年前から電気も入り、昨年から携帯電話も通じるようになっています。急速に貨幣経済が浸透し、人の価値観も変わっていくようです。短い滞在期間でしたが目の前で一つの時代が通り過ぎていくような、自分達にはどうすることもできない大きな流れを感じることになりました。

◆それでも、マッコウクジラが獲れた晩の美しい光景は忘れるこができません。10隻ものプレダンを船小屋へと押し上げる男達、鯨の脳油の明かりで先を照らす子供。さそり座から南十字星にかけての濃い天の川と、その下の黒い海原。暗くて姿は見えないが、翌日の解体を待つ海中の巨大な鯨の存在。渡部さんと舟を押し上げるのを手伝いながら、人と自然の関係が凝縮したようなその全てに見とれていました。

◆今はスラウェシ島西部のマンダール地方に来ています。これから舟を造る木の視察や操船トレーニングなど、本格的に動きだす予定です。(武蔵野美大07年卒・佐藤洋平)


[09年2月のユーコン・クエスト出走を目指して、行ってきまーす!!]

■こんにちは! 早いもので、もう9月です。今月末にまたアラスカへ出国します。今回はユ−コン・クエストへの参戦を予定していますので、資金が相変わらず不安ですが、楽しんできたいと思っています!◆今年の夏も、警備員やら塾の講師をやってきました。水産界では(新潟では)有名な寺泊でカニを売ったりもしました。バイト経験の無い職種はもうかなり減ってきています。私は何をしてるんだろう、とたまに思いますが……。バイトするたびに出会う人は、みんな優しくって、なんだか私はたくさんの人に助けられて生きていることを実感します。感謝しつつ行ってきます!!

《追伸:以下、編集長の質問に答えて、経験したバイトの職種。思い出せたもののみ》。
「焼き肉屋の店員」「盛岡−北上間をJRのSLが走る時、踏み切りに立ってマニアを見張る仕事(日給よかった。1万円)」「数学・理科の塾講師」「交通量調査(車、歩行者 信号待ちの車のうち「3ナンバーは何台か」などの調査も)」「稲刈り」「携帯電話のラバー作り」「バンドの器材運び」「家庭教師(今では教え子が中学の理科の先生になりました)」「選挙の開票」「テレビのアンケート(テレビ岩手の会場から電話する)」「おばけトラック(運転席は普通で荷台だけ大きい)の運転手」「花火の打ち上げ」「トマトもぎ(オーストラリア・バンダバーグ)」「コンパニオン(座敷で着物着てお酌など。拘束時間長いです)」「通信販売」「コンサートの手伝い」「カメラ会社(コニカ)のイベントでパンダのぬいぐるみ着て子どもと一緒に写真におさまる役(時給安かったが、担当の人が……)」「ビラ配り」「ポスティング」「牛丼屋(22時から朝6の世界)」「居酒屋」「髭剃り売り(がまの油売りみたいな感じ)」「選挙のポスター貼り」「結婚式場のウエイトレス」(「アラスカの家でチェンソー使いは誰にもまけない」本多有香


[夜行バス15回なり。−ブラジル時計回り一周2か月ひとり旅顛末−]

■2か月で一周してやるぞ! ブラジル旅は、時間と宿代エコのため夜行バスが15回になり30か所を巡る事が出来た。バスは、一旦、荷物を預けてしまえば安心してリクライニングシートで眠れる。ここ何年かの旅は、勝手にイメージが出来るのを阻止するため殆ど何も調べないで出掛けている。今回も「時計回りに」と考えていただけだった。細かい事を知らない上ポルトガル語がしゃべれないのだから、行く先々でローカルの皆さんに訊きまくらなくてはならない。お陰で、ありがたい情報や温かい助けをたくさん受け、移動の度に道連れができた。

◆サンパウロをスタート、西へカンポグランジ→ボニートと進み、パンタナールのSantaCularaFazentaへ行くバスから一緒になったスーパーハンサム君は、サンパウロの大学で薬学を専攻しているという。彼の話では、子供の頃からクラスの1、2番は、たいてい日系の3世、4世だったとか。長じて医者や歯医者になる人が多く、皆、日系人には一目置いているという。祖国日本では、ゆとり甘やかし教育でレベル低下が著しいというのに。

◆大国ブラジルに鉄道は普及しておらず、長距離移動はもちろん、市中でももっぱらバスが頼り。その街中バスには料金を払わず、お菓子、メモ帳、おもちゃ、ボールペンなどの小物売りがひんぱんに乗ってくる。中には、運転手に気を遣って売り物のアイスキャンディーを渡していく人も。悲惨な身の上話(多分)を涙ながらに語り、集金して回る人もくる。乗客には、もらい泣きをする人がいるのだから、たいへんな苦労話なんだろう。長距離バスの切符を買う時は、いちいち名前を書き全員身分証が必要だ、北朝鮮みたいだなぁ……。

◆食事は、屋台のはしごか、5〜7ヘアル(1ヘアル=65〜70円 2008年夏)程で気軽に郷土料理も食べられる定食屋が嬉しい。ここでは、フォークとナイフを欧米とは逆に持つ。切りながら食べるのではなく、左手のナイフを壁にして料理を押し集め、スプーンのようにフォークの上に乗せて口へ運ぶ。慣れるとこっちの方がよっぽど良い。ブラジルを一人で一周しているというとかなり驚かれるのは、独りという事もそうだが、ブラジル一周が当のブラジル人達には一般的ではないからだ。会った殆どの人は、よくて州都へ行った事があるくらいだった。

◆日本よりはるかに格差のあるブラジル、その大半を占める一般庶民にしか会わなかったからだろうか。暑いから当然だが、女性の極端に大胆なミニマム服がカラフルで開放的だ。お腹と片肩がカットされている紫色、背中が無いのに長袖がついている黒、ヘビー級をひもで締めあげた煮豚風ピンク、TバックのWを敢えて見せるミニ腰巻など。何より惜しげなくブロンズに焼いた肌が彼女達の自慢だ。これにアクセサリーの範疇を超えるデカさ長さのイヤリングが付けばブラジルファッションの完成になるが、東洋系が同様にしても付いて行けないのは胸の主張が遠く及ばないからだ。

◆大きな瞳に天然クリンクリンヘヤーの子供たちと仲良くしたかったら、“ピカチュー、ポケモン、ドラゴンボール”と言えば良いと旅の中盤で気がついた。はにかんでいた子の目が輝いて、学名みたいな怪獣の名前がポンポン飛び出してくる。終いには知ってる振りして持ちこたえるのが上手くなってしまった。今や、世界的に日本代表はアニメなのだ。

◆今回回った30か所で、一番面白かったのはアマゾン河口の街ベレンだ。大河アマゾンから水揚げされてくる魚には、ピラニアはじめ日本なら20万円もしそうな銀色アロアナあり、鉛色でまさに鎧を着たかの大ナマズあり、赤いポイントが実に美しい巨大魚ピラルクあり。今日はどんなのが見られるやらと毎朝市場に通い、魚屋のおっさんに「今朝は、あっちを見ておいで」と言われる始末。

◆市場裏の漁船兼住居停泊地では漁を終えた漁師たちが、ビール飲んで陸のオットセイさながらゴロ寝中。カメラを向けると「俺も撮れ!」とばかりに刺青アッピールしてカメラの前に並んでくれる。その先には対岸の森で収穫されたアサーイ(アマゾナス名物、皮をすり潰してドロドロのジュースを作る木の実、濃い紫色だが癖がない)の陸揚げ場がある。ドングリ程の大きさの実が入った重い籠を乗せ、水面すれすれまで下がった小舟が早朝から何艘もやってくる。こぼれたアサーイの実が一面に広がっている辺りには、すり潰しジュースを作る店が並び、出来立てをビールジョッキほども振舞ってくれる。

◆マナウスから北上し、何かとハードな経験になったエンジェル・フォールでは、ジャングルのハンモック・キャンプで、ボコタからの文化人類学教授とインディオの血をひく弁護士の男性と一緒になった。警察や軍から身を守りながら行っているインディオ人権保護活動のことを話してくれた。また、ボア・ビスタの安宿で毎晩一緒にコーヒーを飲んだ大学教授(ブエノスアイレスから出張授業)からは、政府の役人を懐柔し、立ち入りが禁止されているインディオの居留地でコメ作りをしているIchikawaというしたたかな日本人の話を聴いた。広大なブラジルをざーっと表面だけかすめてきたのでは見えてこない現実だ。

◆終盤は北京オリンピックと重なったが、テレビではオリンピックそのものよりチベット問題に対する抗議活動の報道が目立った。日本で見慣れたものと大きく違っていたのは、ブラジルのカメラマンやリポーターが中国公安に全然めげない事だ。レンズを手のひらで覆われ制止を促されてもカメラを止めない。肩越しから脇の下から執拗に映しリポーターは食い下がる。それに比べ、日本って弱腰なんだなぁと痛感させられた。この粘りから学んだ成果! 帰国前日のサンパウロで、ついに私にも来たデジカメの引ったくりを見事撃退したのです。(藤原和枝 携行荷物8キロを主義とする主婦バックパッカー)


[ふたつの金メダル獲得と大相撲巡業で大興奮のモンゴル]

■サインバイノー? モンゴルはすっかり草原は黄金色に染まり、ウランバートルのポプラ並木も黄葉しています。8月下旬にはフブスグルなど山地では初雪が降りました。バタバタと気ままに旅を続けているうちに、気がついたらもう9月。「黄金の秋」に突入で、日中でもコートが手放せない日々です。

◆7月1日にモンゴル史上初めての死傷者が出る暴動という惨劇が起きた「非常事態宣言」も今は昔。いまだ、不正投票疑惑が指摘された選挙区の7議席分は空席なままで、新内閣が組閣され、通常国会が始まりました。憲法上は今の議席数でも国会成立可能なので、このままいくのかなぁ?そんな混乱中のモンゴルですが、今年の夏は、市場経済化始まって以来農業分野最大の作付け面積を記録し、大地は緑豊かなお花畑で埋め尽くされてました。歯に衣着せぬ物言いの田舎のモンゴル人曰く「モンゴルの不浄の元(人民革命党本部ビル)が燃えて浄化されたからじゃないか?」。去年の夏は共同経営者に裏切られて、身ぐるみはがされ、腎臓病を患い、高血圧でぶっ倒れ、と散々でしたが、私もまた、「不浄なものを排除」できたのか、今年の夏は「モンゴル満喫」をテーマに元気に旅を満喫できました。

◆今年は全ての旅に、愛犬ソートン(シェパード5歳)が同伴。彼にとっては、初めての長期馬旅となった山上湖ハギンハルノールを目指す5泊6日140kmの行程。藪道で馬にボコボコに蹴られたり、肉球を小枝や岩場でズタズタにしながらも、休息時間があれば、棒切れを持ってきては遊びたがる彼の体力と根性にびっくりしました。犬と一緒の旅は、目線が変わり、視界も広がり、新鮮な感動があるんだな、としみじみ。来年はソートン同行のフブスグルのタイガ馬旅を計画中です。マイクロチップ装着、狂犬病ワクチン接種後の血清検査の結果も良好で、旅犬・ソートンの準備が進んでいます。

◆さて、8月はモンゴルにとって、スポーツ史上に残る大イベントがてんこもりでした。北京五輪で、モンゴル国悲願の金メダル獲得! 柔道100kg級で鈴木選手を破って快進撃をしたトゥブシンバヤル選手が優勝した日の夜は、スフバートル広場に市民が集結。祝杯でへべれけに酔っ払った与野党党首や大統領の演説。中継しているアナウンサーも、誰もが酔っ払い、というモンゴルらしい大狂乱でした。夜中の3時まで嬌声を上げる「ハコノリ暴走」の若者たちでウランバートルの道は埋め尽くされてました。仕事の締切に追われて、そんな大ニュースを知らなかった私は、スフバートル広場で、「ドワーッ」と湧き上がる叫び声と、パンパンという祝砲だとは思わず、「すわ、また暴動か!」と肝を冷やしてました。

◆モンゴル初の金メダリストになったトゥブシンバヤル選手は国家功労スポーツ選手の勲章(日本の国民栄誉賞にあたる)や報奨金、スポンサーからのお祝いなどで、なんと総額300万米ドル相当をもらったそうです。すごいなー!! モンゴル巡業については、暴動はすぐに沈静化したにもかかわらず、朝青龍のASAグループの仕切りで朝青龍が買収した「国立サーカス劇場」を会場とすることになったことを不満に思ったのかは不明ですが、元小結の旭鷲山・バトバヤルがわざわざ日本に行って、「巡業予定期間にテロや暴動があるかもしれない」などと横槍を入れ、巡業部が延期を検討するなど開催が危ぶまれていました。

◆民主党所属議員として当選した彼としては、民主党の広告塔的発言も仕方がなかったのかな。8月25日に大相撲のモンゴル巡業参加の力士が到着した際は、国賓待遇。この日は、ボクシングでも金メダルを取っていたので、柔道に続き、広場で大集会。打ち上げ花火がバンバン打ち上げられてました。いつもはNHKの映像と日本語解説にかぶったモンゴル語解説だった「スモウ」が「モンゴルバショ」ではモンゴル人カメラマンによる撮影、モンゴル人解説者とアナウンサーによる実況。

◆さすがに精鋭のスモウファンがスタッフなので、TV中継の映像も実況内容もNHKばりの立派なもの。モンゴルで大人気の魁皇や高見盛、両横綱、モンゴル人力士が出るたびに、歓声が上がっていました。トーナメント選は初日は、モンゴル人力士が次々に勝ちあがり、白鵬が優勝。翌日は朝青龍が優勝し、総合優勝も朝青龍。「お約束どおり」という声もあり、目の肥えた相撲ファンは「興行的なやらせ」にがっかりとか。とはいえ、サーカス劇場の周りにはためく人気力士のノボリは見ものでしたし、6〜20万トゥグルグ(日本円だと6000円から2万円)のチケットもあっという間の完売で、満員御礼の大盛況でした。ネズミ年という物事を始めるのにふさわしい今年、モンゴルも新たな第一歩を踏みしめているんだな、と実感する夏でした。(ウランバートル発 山本千夏 9月4日)


【ブータンへ「GNH(国民総幸福量)」探検に行ってきました】

■キリギスから帰ってきたら、ブータンに行きませんかという電話が入っていました。ブータンは日本の九州ほどの国ですが、今やGNH(注:Gross National Happiness「国民総幸福量」。6月のミャン マー報告会レポート参照)の知名度が上がり、国際会議でも大勢の人の注目を集めているそうです。

◆バンコクで旅のメンバーと合流しました。今回はNGO代表の2人とそのメンバーと私で4人です。この数はブータンでは大事な数でした。なんと言っても三人寄れば文殊の知恵、と一人ですから、そして勿体ないほど贅沢な旅でした。

◆道路を走っていて土手の上に5〜6人集まっています。車を止めて土手に上がると、上半身裸のお坊さんが、筮竹は並べていませんが、虎の巻を脇に、どっしりと座ってクライアントと話をしています。その陽に焼けた真ん丸い腹を見ているうち、私もみて貰いたいとなりました。彼は開口一番「名前がカで始まる人は全部いい」と。そして「ウーン、口が悪いなー、しかし気持ちがいいからいい」。これを聞いて私のグループの男性たちですが、ウフフと声を押さえて笑います。年を聞いた彼は「25年は大丈夫だな」と言います。これは多すぎ、せめて10年にして下さい。それにしても口が悪いのを直しなさいとは言わない。角をためて牛を殺すことはしないですね。口は悪いけど気持ちはいいと太鼓判を押されると、とても人を憎むなんてことできませんよ。

◆さてさてこんな道草、20人のツアーでは無理でしょうね、4人だからできました。コミュニケーションの方法はいろいろですが、一人旅で相手の言葉ができない私が、なんとかやってきて、人と交じり合うことでさまざまな出会い、色々な発見に目覚めました。今回は日本語で話して日本語で返事がわかる。これはとても贅沢な旅でした。

◆国際空港のパロから車で、山道を登ったり下ったりしながら首都ディンプーに着いて、まず内務文化省の大臣と昼の会食をしました。大臣は「発電所を増設して電力を輸出し、国民の生活向上を目指す、環境を保持し伝統文化を守る」と、よどみがありません。このGNHのバックボーンはという質問には「仏教です。時間があればメモリアル・チョルテンにも行ってください」と言われてしまいました。

◆そのメモリアル・チョルテンは物日だったのでしょう、お坊さん達の音楽が鳴り響き、暑いなか大勢の人達の敬虔な祈りが続いてます。

◆ディンプーでは伝統医療の国立治療院で、金の鍼を持つと言われる若手の鍼灸師、そして次長、伝道技芸院の研修生達、さらに占星術のお坊さんと、さまざまな人達にお会いしました。最も印象的だったのが農民です。

◆ブナカへの道ドチュラ峠の僧院の前で日本人のツアーに出会いました。あなた達はと聞かれて「ブータンのGNHを探検してます」と言ったら、どっちの日本人も納得してました。

◆ブナカでは公立高校生と、そして大学生達と話し合いました。大学ではステージのある大きい室に、5〜60名の学生達が集まってきて、活発な話し合いになり、意見がひとつでないのが心強いと思いました。

◆どの町でもちょっと走れば一面の田畑です。美しい棚田を登り、ある時は農家が作ってくれた昼食を頂き、話し合ったりしました。どこでも米を煎ったあられとバター茶を出してくれます。細い坂道をハアハア上がってきて、ちょっとした広場の周辺、十件あまりの農民はみな畑に出て不在でしたが、雨季の前に泥土で壁塗りをしていた家の亭主と話をして、二階に上がりました。彼は裏庭で乾かした野草の選別をしていたかみさんを呼んで、お茶の用意をして貰っています。婿さんだそうです。末の娘に婿取りのケースもあるのでしょう。

◆ブナカの近郊では健康そのものといった亭主が赤米の昼食を給仕してくれました。彼は「子どもは高校に行っている、私の作るものはいつも村で一番だ」と胸を張ります。「高校を出たら帰ってきますか」「それはわからない、子どもにまかす。農業はつらいし街での評価は低いが、今私は働き盛り、なんでもできる、幸せだ。将来のことは分からないが、幸せとは今のことだろう」と。一生懸命働いている彼が将来も幸せであり、農業に未来があることを願わずにおれません。

◆パロでは主婦がお茶を出している間に畑仕事の娘が戻ってきました。一人だけの兄はインドの大学を出て、ディンプーで弁護士をしている。彼女は農業は大変だが大丈夫、やれるし楽しいと言います。そして一番幸せなとき、それは両親が幸せなときだと。彼女の家は二階に居間・客間・台所・トイレなど。庭の水道からパイプで二階まで水を引いています。結婚は恋愛か見合いかの質問には、もし好きな人が現れればそうするだろうし、親がすすめる人があればそうするでしょう、今はまだわからないと生き生きした頬を赤く染めました。

◆私達の父や母が育った時代そのままのような、優しくおだやかな人達と一緒の、なんと楽しいことか。

◆グローバリズムの中でなにをまもりなにを進めるのか、回り道をしてきた日本の私達は、いま彼ら彼女たちと同じスタートラインに立っています。心からの親しみをこめて、ゆっくり行きましょうと手を握りあいました。(金井 重


《エミには病気を治そうという強い意志とガンに負けない!という気力、そして、多くのみんなの思いがあるから、きっと、今回の治療はよい方向に行くよ!》

■8月16日(土)、サザンの「大感謝祭ライブ」初日、台風予報が出ている中、雨に降られることもなく、しかもコンサート中は、満月の月の入りと遠くには稲妻が見れたなんて! すっごい神秘的で感動的。サザンからパワーをたくさんもらえて、本当にヨカッタネ。

◆6月3日、エミから「先月の検査で細胞がガン化している可能性があると結果が出て精密検査続き……。」とメールをもらったときは、ビックリ。何事もないことを祈ったけど、その後「ガンが再発しました。」のメールは、本当に悔しかった。それからしばらくして、「エミコのガン再発を知り、地平線会議のメンバーのひとりがサザンのコンサートに招待しようと企画している。藤木さんもメンバーに」と声をかけてもらった。メンバーに誘っていただいたことが嬉しく、また、ビックリだった。実は、私も同じことを考えてはいたのだけど、8月はきっと入院しているに違いないと思っていたので諦めていたから。

◆その頃、エミからは「治療方法が見つからない。不安……」といったメールが届き、励ます言葉が見つからず、なんて返信していいかわからなかった。でも、この話を聞き、「コレだ!」って思った。バイクのときも自転車のときも、2001年1月初旬、ガンが見つかりパキスタンから帰国後の入院中も、いつも口ずさんでいたサザンは、エミにとって、ある種「応援歌」みたいなものだよね。

◆そして7月30日、「えへへ、サザン行けるでーーー (^O^)/先生の許可で治療を遅らせることにスティーブも賛成です☆サザン♪サザン♪サザン♪」のメールに私も心の中でガッツポーズ。今回、本来だったらたくさんの人に声をかけたいところだったけれど、本当に来れるかどうかもわからず、また、あまり事を大きくしてエミにいらぬ負担がかかってはなどとの様々な配慮から少人数で動くこととなり、私もそれには賛成だった。だって、たくさん人がきたら、エミはこの時とばかりに皆と会話してめーいっぱい楽しむんだけど、翌朝、結構、身体がきつい姿を(ガンを患っていたとき)私は何度も見てきたからね……。

◆エミと初めて会ったのはオーストラリア。誰もが怖気づく!? ナラボー平原のレール沿いという未舗装の道なき道を、男子ライダー数人引き連れ 600ccのオフロードバイクで走ってきた“つわもの”、実は小柄で人懐っこい目を輝かせていた“女の子”、エミと、滞在中のフリーマントルで出会った。再会はそれから3か月後。オーストラリアのど真ん中、エアーズロックに行く途中の交差点で信号待ちしていたとき。お互いソロツーリング(一人旅)だったが、このときだけは、一緒にエアーズロックに登り、ラリー観戦をし、夜は寒さの中、ひとつのテントで寝たことも。

◆3度目は日本。バイクから自転車に乗り替え、インドネシアなどを旅してきたエミが、ナ・ナント! 外国人の男性サイクリストを連れて! もぉ〜、エミったらやるなぁ。その外国人サイクリストが、スティーブだった。そして1991年5月、我が家からたくさんの荷物を自転車に積んで成田空港へ向かう2人を私の両親が見送った(ちなみに私は、会社へ出勤したため2人を見送ることはできなかった)。

◆6年後、一時帰国(1997年)。私が地平線会議に出会えたのもこのときだった。エミは、報告者として初めて報告会に出るため、そして私もアジア会館(当時の会場)へ行き、地平線報告会に初参加。「人前でなんて話せない! どうしよう」と、超緊張していたが、堂々と皆さんの前で旅の話をしていた。それからエミたちは再び世界一周の旅へ出たものの、2001年早々病に倒れ帰国。本当にショックで悔しくって信じられない気持ちでいっぱいだった。

◆エミとはかれこれ20年来の友達ではあるけれど、そのほとんどの期間、彼女は海外を旅してた。それでも、ずっと友達でいられたのはエミが旅の先々から心のこもった手紙を送ってくれたから。全ての手紙は今でも私の「宝物」になっている。

◆今回、お見舞いに行こうかギリギリまで悩みました。集中治療のためお見舞いは控えたほうがいいともちろん知っていましたが、ただ、エミとは直接話せなくても会えなくてもいい、少しでも近くに行って励ますことができればと思い、スティーブの了解を得て、行ってきました。9月なかばの連休(いつもエミたちが東京に来るときに利用している)、夜行バスに乗って。面会時間になり、エミの部屋に入ったらモンベルの黒い帽子とマスクをしたエミがいつもの笑顔で迎えてくれました。室内には応援メッセージや千羽鶴が届けられていました。少し痩せた感じはしましたが、思っていたよりも顔色が良く、内心、ホッとしました。エミには病気を治そうという強い意志とガンに負けない!という気力、そして、多くのみんなの思いがあるから、きっと、今回の治療はよい方向に行くことと思います。絶対に。エミ、人生のゴールは世界一周のゴールのまだまだ先にあるんだからねっ。(ヤコ・藤木安子


[通信費をありがとうございました]

 その後通信費(1年2000円)を払ってくださった方のリストです。数年分まとめて 払ってくれた人も含まれています。地平線会議は会組織ではないので会費はありませんが通信制作には経費が生じます。どうかご協力ください。

久保田賢次/荒川紀子/石原卓也/三枝彩子/藤木安子/三五康司/緒方敏明/ 橘高広/粟津聖子/池本元光/矢次智浩/永井マス子/塚田恭子


■先月の発送請負人

1.関根晧博、2.森井祐介、3.三輪主彦、4.大西夏奈子、5.江本嘉伸、6.安東浩正、7.橋本恵、8.三上智津子、9.車谷建太、10.緒方敏明、11.佐藤安紀子、12.米満玲、13.山辺剣、14.武田力、15.落合大祐、16.満州、17.松澤亮。以上17名 (数字は来てくれた順。毎月、森井、関根、三輪のベテラン3氏のトップは不動。レイアウト、用紙の準備、印刷、宅配便への連絡などなど、一番厄介な仕事をこなしてくれている)


[あとがき]

■今回もばたばたしながら通信の発送日を迎えました。最後の原稿をレイアウト担当の森井祐介さんに送信したのが17日午前1時過ぎ。3時に仮眠し、翌朝、自分の原稿にとりかかるいつものパターン。毎度言うことですが、皆さん、ほんものを書いてくれるので嬉しい。今回は遠く浜比嘉島からの便りまであって、なごやかな気持ちになった。下地先生、平識さん、ありがとうございました。

◆通信の読者全員にチラシを同封しました。「ちへいせん・あしびなー」に参加する人も、参加できない人も、大いに楽しんでください。私自身はチラシを手にとりつつ、しみじみ地平線会議30年の成果、ということを考えた。つくり手個人個人の才能もあるが、その後ろにあるものの大きさ、広がりのようなものを。たかだか30年とも言えるが、アクティブに推移する時間という意味では30年は50年より意味を持つかもしれない。

◆写真展の復刻開催も感無量だ。NOVLIKAの影山・本吉ご夫妻とこの件で久々に語らうことができた(本吉さんには特製エモカレーを食べてもらった)。11年前、お二人の情熱で立ち上がった写真展「地平線発」である。沖縄の海をのぞむ会場で写真を、周囲7キロの島で地平線報告会を、できたらお二人に見てもらいたい、と思う。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

地平線の彼岸(ひがん)へ

  • 9月26日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「四十九日の法要ってのは、死者公開裁判みたいなもの。参列者は弁護団だから、たいてい『故人はいい人だった』って言うでしょ。でもそうじゃない場合もある。そういう審判を七日おきに七回受けて結審することになってる。これは仏教の儀式だけど、案外人生の真理を突いてるんやないかな。人も、企業や国も、節目というのがあって、それまでの歩みを問われるような…」というのは作家の森田靖郎さん。今年30周年を迎えた地平線会議も、節目かもしれないと森田さんは言います。

「この30年はものすごい変化の時代だった。ひたすら欲望を肯定して突っ走ってきた人類が今、飽食と飢餓に同時に直面して立ち止まってる。そういう時代に誕生して寄り沿って歩んできた地平線会議も、次代を前に審判を受けている最中なのかも」。

今月は森田さんが山里の釣りをしながら体験した、新しい時代の価値観の産みの苦しみについて語って頂きます。フォルクローレ演奏もあるかも!!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信346/2008年9月17日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section