2009年11月の地平線通信

■11月の地平線通信・360号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月1日、朝からどんより重い雲がおおっている。雨の予報、それもかなりの、だ。松山を出た車は、しばらくは穏やかな秋の空気の中を走り、そのうち道は次第に山あいに入り、木の葉の色づきが目立ってきた。途中何組も何人ものお遍路さんたちとすれ違う。傘をかぶり、杖をつき「同行二人」の白い装束姿。ザックを背負い、ジーンズ姿の単独行の人も案外多い。あるいは逆回りの人もいる。

◆1時間あまり走って途中の休憩所へ。ここではあゆの塩焼きを食べる。焼きたてのほやほや、という感じで、大きいのが400円。ほくほくしておいしかった。やがて、雨が降ってきた。面河(おもご)渓谷にさしかかる頃は、見事な紅葉が山を覆っていた。石鎚スカイラインに入ると、雨足は強まった。山の姿はまったく見えない。石鎚スカイラインは標高1492mの石鎚山の登山基地・土小屋まで走るスカイラインだ。一気に高度を稼ぎ、いよいよここから歩く。

◆山岳部OB、OGたちで組織する山岳会の小さな山行である。会長が松山在住なので地元在住の山男、山女たちにサポートされて今回は四国最高峰、石鎚山へとなった。山岳信仰(修験道)の山として知られ、日本七霊山のひとつでもあるこの山は、頂上の切り立った岩峰の姿が有名なのだが、きょうは雨にけぶって影もかたちも見えない。時折、激しく降りしきる雨に雨具を新しくしてきてよかった、と思う。雨にやられた夏の南アの教訓だ。

◆頂上直下には3か所鎖場がある。巻き道で楽に行けるのだが、最後の「三の鎖」(67mある)だけ直登してみた。途中ほぼ垂直の箇所があり、濡れた岩場に足を滑らせた瞬間、思わず太い鎖にかじりつく。やれやれ。こんなところでムリしたらあかんぜよ。正午過ぎ、無事山頂、天狗岳(1982m)にたどり着く。結構切り立った狭い岩場である。天気は悪かったが、そのほうが印象に残る面もある。

◆松山は、18才の頃、山岳部新人仲間だったKの故郷だ。山岳部は途中でやめ、卒業後はNHKのディレクターとして活躍していたが、働き盛りの43才で「3か月から2年の寿命」とガン宣告された。その時の衝撃がいかに深いものだったか。しかし、Kは治療を重ねながら仕事に復帰、家族や難病と闘う人をテーマとするいくつものヒューマンな作品を残した。結局8年の闘病の末、「命いっぱい生きた日々」などの著書を残して逝った。あれからもう17年になる。当時何度か見舞いに行ったので、切なくも懐かしい町である。ご家族と久々にお会いした。

◆11月4日、シール・エミコさんが久々にブログに書き込みをした。《昨夜、無事帰国いたしました。大好きなオーストラリアの大自然から、人から、た〜くさんのGreatエナジーを充電させてもらいました

☆ 「こんな状況で行くのはどうかな〜?」と思ったりもしましたが、看護婦の友人の「勇気あるわね!(よしよし!)」の一言で(やはり、)思いきってよかったなあ、と思いました》

◆エミコさんはスティーブと出会ったケアンズに行きたい、という夢を実現するために先月はじめオーストラリアに飛んだ。話を聞いて、是非行ったほうがいい、と私も応援した。10月末、ケアンズからくれた電話では行ってよかった、という思いに溢れていた。ブログは《明日から治療入院です。ベストを尽くします♪》と結ばれている。辛い治療と聞く。友として心から誇らしく思う、エミコである。

◆11月7日朝10時過ぎ、この通信制作の合い間に麦丸を日課の散歩に連れ出す。いつものようにイヤホーンを耳にテレビ音声に変えるとあれっ? 聞きなれた声だぞ。エンジン音の間から「何という色だぁ!」と叫んでいるのは、たごっちではないか。散歩を切り上げ、テレビをつけるとなんと「NHKアーカイブ・天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」だと。ついにたごっち、今年は親父になっただけでなく、アーカイブ入りかあ、と驚く。

◆たごっちこと、エア・フォトグラファーの多胡光純が颯爽と登場したのは5年前、牛込箪笥区民ホールでの300回記念集会「その先の地平線」の舞台だった。あの重い機器を背負って現れ、会場を沸かせたたごっちはこの日、木のおもちゃ作家、前田歩未と遭遇、二人には今年夏、娘が誕生した。

◆あれから66回の報告会を重ねて、今月21日、「地平線会議30周年記念大集会」を同じ牛込箪笥区民ホールで開く。題して「躍る大地平線」。長野亮之介作の渾身の見開きプログラム(8、9ページ)を見てほしい。そしてその日に合わせて完成予定の『地平線・月世見画報』も!!己のことを言うようでおかしいのだが、地平線会議は、30年を経てもいっこうに衰えないのが何とも不思議である。(江本嘉伸


先月の報告会から

ロックを越えろ!

吉岡嶺二

2009年10月23日 新宿区スポーツセンター

■皆さんは、カヌーあるいはカヤックの経験がありますか? パドルの片側だけでこぐタイプをカヌーと呼び、両側でこぐタイプをカヤックと呼ぶ。海や川をのんびりと進むイメージがあるかもしれないが、これが思いのほか、体力と頭を使う。ガニ股にした足を踏ん張り、強い流れをいなすために体を傾け、パドルを握る。水の流れを読みながら、艇の角度を調整。沈(チン。沈没)すると、水を抜いて乗り直す。手間がかかる以上に、冷たい水で体は冷えるし、「あああ、沈しちゃった…。」と自分にがっかり、心にもダメージを負う。まあ、沈して、上手くなると励まされるけど。

◆こう初心者の心境を書き連ねるのも、今夏、カヤックに心を奪われ、時間とお金を遣り繰りしては、川に通っているからだ。そんな私にとって、今回の吉岡嶺二さんのご登場は、神ならぬ江本さんのお計らいのようだった。

◆今回の報告は、足かけ4年に及ぶヨーロッパ縦断2,000キロのカヌー旅(実質3年。3年目はお孫さんのお世話のため旅立たず)が中心だ。〔1〕2006年:パリ→アムステルダム(北上)〔2〕2007年:パリ→リヨン(南下)〔3〕2009年:リヨン→サンルイ・ド・ローヌ経由→マルセイユ(南下)と、全行程57日間に及ぶ。『ナビカルテ』というフランスの川の地図を片手にしての、自然河川、運河の気まま旅だ。

◆まずは、今日の話のメイン、ロックの説明から始まった。ロックの仕組みを、自作された模型の写真と共にご説明頂く。本当によくわかったのだが、えーと、これを文章化する難しさよ。ロックは、フランス語でエクルーズ。日本語で閘門(こうもん)と呼び、水門の一つである。河川や運河の高低差がある箇所に、間隔をあけて2つの門を設置する。この2つの門を、タイミングをずらして開閉し、水位を調整する。水位につられて、船舶も上がったり、下がったりして続く水路に安全に乗り出せるのだ。高低差の激しい所では、幾つもの閘門が続く。

◆2006年6月、フランス・パリへ。ヨーロッパ縦断の一漕ぎ目、セーヌ川を行く。と言っても、パリ中心35キロは、遊覧船や貨物船が多く危険なため、小型船は通行禁止。ブローニュの森まで、地下鉄で運んで、ようやくスタート。ロックを越える旅の始まりだ。

◆ヨーロッパの水路は、ほとんどナポレオンの時代に出来たもので、老朽化が激しい。高さ平均3mというロックに囲まれた「閘室(こうしつ)」から撮った写真は、ぬるぬるしたコンクリートの壁の圧迫感を伝えている。暗くて、わりと狭くて、これが決壊したら溺れちゃう、という怖さもある。

◆しかし水路には、行き先表示があって分かりやすいし、ロックキーパー(関守)が花を飾って旅人を迎えたり、開門待ちの時には、他の船の人たちと交流したり、楽しみはたくさんある。カヌーだけのためにロックを開けてくれることは、まずない。大概、他の船と一緒にロックを通らせてもらう。水路には流れがなく、谷底になるので、風も少ない。

◆水鳥の卵を見たり、スイレンの群生を抜けたり。報告を聞きながら、のんびりした気持ちになった。一人旅なのに、人と触れ合う写真が多いのが印象的だ。実は、ロックを越えずに、カヌーを陸に上げて運ぶ方が多い。カヌーの底にコロを2つ付け、ひいて歩く。日に30キロ歩いたこともある。軽量化のためヨーロッパでは自炊はしないと決めて、テントだけ持って行った。それでも荷物は重く、カヌーだけで20キロを超える。

◆ひときわ目を引いたのが、殺風景な護岸コンクリートの壁のはしごに、笑顔でつかまっているおじさんの写真。吉岡さんがベルギーで撮影した1枚だが、意外な登場の仕方に「忍者か!」と心の中で呟いてしまった。このおじさんが、エチエンヌさん。古書店を営むご主人で、カヌーイスト。一人旅をする吉岡さんに声をかけ、自宅に泊めてくれた。翌日は山奥の川に案内してくれる。すっかり仲良し、翌年の旅を共にすることに。

◆ベルギーを抜け、オランダに入る。オランダの川地図を持っていなかったから、アムステルダムへの水路が分からない。警備艇に尋ねると、親切に運河を案内してくれた上、地図もコピーしてくれた。プレゼントに100羽の折鶴を持っていった吉岡さん、この警備艇にも1羽を置いてきた。東京駅のモデルとなったアムステルダム駅の裏が、北海に面するマリーナ。ここで、テントもカヌーもたたんで、日本へ送り返した。

◆2007年6月。パリではエチエンヌさんの友人が待っていて、出航を見送ってくれた。水旅がさかんな土地柄、パステルカラーの船を花で飾り、住居にしている人たちもいる。写真で見ると、メルヘンの世界だ。エチエンヌさん夫婦がパリから来てくれて、ブルゴーニュ運河を共に漕ぐ。奥さんは荷物を積んで、車で伴走してくれる。途中の長さ3.3キロの真っ暗な運河トンネルも、2人なら心強い。日本の歌、ベルギーの歌、交互に大声で歌いながら45分かけて抜ける。

◆2009年6月。リヨンからローヌ川を下る。報告会では、アヴィニヨン橋を見上げて歌った歌を披露してくれる。アルルではゴッホの絵のモデルになった景色や粉ひきの風車小屋を見たいと思っていた。そんな日に限って、出かけている最中に、テントから予備の時計・食料、カメラの充電池を盗まれてしまった。貴重品が盗られず、カヌーが無事だったのが不幸中の幸い。あれこれを乗り越えて、河口の町サンルイ・ド・ローヌまで行けば、ヨーロッパ縦断達成だ。吉岡さんはここで河口から地中海を少し漕ぎ進み、有名な港町マルセイユをゴールとした。

◆吉岡さんの報告会は、1985年11月の「海抜60センチからの奥の細道」以来4回目。今回は「カナル・カヤック」という新しいジャンルへの挑戦だった。進行役の丸山純さんが冒頭で言われたように、これは、地平線に関わる各人にとっても刺激的なことだったのでは? 会社勤めしながら、長く大きな旅を楽しむ。そういう生き方を実践しつつ新たな地平を切り開く、という点で。少なくともあちこち遠くに行きたくて会社を辞めてしまった私は、吉岡さんの話を聞いてしっかり遊ぶためにも、ちゃんと働こうと襟を正した次第である。

◆もともと水泳部、ボート部と水が大好きだった鎌倉在住の吉岡さん、カヌーで家の前の海を漕いでみようと思い立ったことからすべては始まった。行ける所まで、と思ううち、伊豆半島を回り、それが海岸沿いに東海道、奥の細道、北海道、と会場で配られたレジュメ「わがカヌー人生」の通り、止まることなく漕ぎ進んできた。

◆日本を周った後、世界の大きな河をカヌーで行きたいと考える。アマゾンやナイルのような荒々しい河は避けて、アメリカとカナダの国境を流れるセントローレンス川に漕ぎ出す。ヨーロッパ文化がアメリカに入った流れでもあるし、先住民の毛皮交易に利用されていた、という点でも興味深かった、とのこと。息子さんがトロント在住で行きやすかったのも大きい。

◆休憩を挟んで、そのセントローレンス川1,200キロのお話に。キングストンからガスペ(「地の果て」という意味)まで、2夏35日で到達した。ちなみに、この時のカヌーが重かったので、ヨーロッパの時には軽いものに変えたそうだ。

◆カナダでも、多くの人と触れ合い、誰彼となく家に招かれている様子。公園に温水シャワーが併設されているのに感動したり、教会の尖塔が見えると町がある印と豆知識を得たりしつつ進む。河口まで400キロある地点でも、引き潮の影響を受ける。どんどん水が引き、カヌーが座礁してしまった。

◆移動しようと、荷物を中州に移しているうちに、水が増してきて、カヌーは流された! さらに、中州に移した荷物も流された! 哀れ吉岡さんは、パドル一つの身軽な姿で近くの製紙工場に助けを求めた。すると警備艇が出動し、カヌーもバラバラになった荷物も探してくれた。無事に失くしものと再会できたのは良かったが、この顛末が「ケベック・ジャーナル」という新聞に掲載され、思わぬ展開に。記事のおかげで、行く先々で、「お前のこと知ってるぞ」と歓迎してもらったのだ。

◆1夏目の旅を終えたリムスキーという港町に戻り、2夏目スタート。カヌーに乗ったまま、ドーナツやはちみつ、オレンジという食事をとる。朝に食べたオレンジの皮を大事に取っておき、昼に「セントローレンスサラダ」と称して食べた。貴重なものですからね、と力説。カヌー旅の食事情は甘くないようだ。アザラシなどもいるガスペ半島の最東端をまわり、ガスペのマリーナでゴール!

◆ここまで、予定時間どおりにお話もゴール。さすがに会社勤めだった方は、時間管理もばっちりです。長く旅を続けながらも、行き着く先々で名所旧跡をしっかり観光したいという気持ちを保っているのが新鮮だった。なお、会場には、独協大学探検部OBで、カヌーイストの河村安彦氏の姿も。河村さんは地平線1980年、1987年大集会の報告者。吉岡さんよりも大分?お若い、カヌーのご師匠さんだそうだ。質疑応答は活発に続いた。

◆私は、会場でも、二次会でも「どういうトレーニングをされているんですか?」とカヌー上達の秘訣を伺おうと試みたのだが、「実践に勝るものなし」というご宣託が返ってくるばかり。寒くなってきました。皆さん。私はこの週末、また川でジタバタしてきます。来年の川旅デビューを目指して!(後田聡子


報告者のひとこと

「永久カヌーイスト」の肩書きをプレッシャーに

■久々に温故知新の夕べを過ごさせて頂き、有り難うございました。京都嵐山渡月橋にゴールインしたときの朝日新聞の小さな記事が、地平線会議のスクラップ帖に貼られたことから、報告会への案内を頂きアジア会館に足を運ぶことになった。三輪さんの第一回報告が、自分が鎌倉の浜を漕ぎ出した日の36日前だったというのも巡り合わせだったのだろうか。以来30年、地平線会議の歩みに付かず離れずに漕ぎ続けてきた我が旅についてお話させて頂いた。

◆来年からの宣言もしてしまった。先ずはロンドンからグランドユニオン運河を行く計画で、ほんの一部だけだが下見をしてきた。産業革命を支えた道だというが、今はレジャールートとして保持されている。水路に並行してトゥパスという細い道が水面に近い高さで続いているからフランスの運河よりも楽しそうだ。年齢相応の旅にもってこいだと高を括っていくしかない。期待は高さ30メートルを超える水道橋。いつかまた、そんな報告ができたら嬉しい。

◆その先は全く未定だが、豆のつるのようにきっと何かを見つけ出せるだろう。江本さんから頂いた永久カヌーイストという肩書きをプレッシャーにしておこう。(吉岡嶺二


地平線ポストから

障害者なればこそ、積極的な旅に出る!
━━オーストラリア自転車横断報告━━

■地平線会議の皆さん、折に触れては(地平線会議に)お世話になっていますバイク冒険家の風間です。今回のご報告は、この8月から10月にかけて、同じく体に障害を持つ三名の者たちと共に行って来た「オーストラリア大陸・自転車横断5000km」のお話です。

◆普段はこよなくバイクを愛する私ですが、まさかこのような歳(59才)になってから自転車なんぞを漕ぎ、長々と国外の旅をしようなどと思ってもみなかった事なのですが、5年前のパリ・ダカ出場で大怪我を負って以来(モロッコでトラックと正面衝突、左下肢複雑開放骨折となり後遺症)、状況は少なからず変化を自分にもたらし、旅に「若干の困難さ」を求める志向癖と、『足が悪いからこそ、足を使いたくなった』(本音)という「自虐」志向(よく言えばチャレンジ精神、悪く言えばマゾヒズム?)も手伝って、何と、今回は自分でも信じられない自転車の旅と成ってしまった次第。

◆旅の目的はWHO承認活動「運動器の10年」世界運動に呼応したオーストラリアでのキャンペーン活動。聞き慣れない言葉だと思いますが「運動器」とは=骨・関節・筋肉・じん帯・腱・神経など、身体を支えたり動かしたりする器官の名称。これまで私は、当たり前のように手足を動かして来た。それが上記のパリ・ダカ参戦中の怪我で状況が一変。気づかず見過ごして来たものがいかに大切だったかを思い知らされました。運動器の治療に留まらず、日常生活の質まで考えよう!という同キャンペーンを知ったのは、まさに縁でした。微力ながらこの活動を推進する日本委員会とタッグを組んで、世界の外傷医療の現状を視察し、同時に「運動器の大切さ」をアピールしながら、世界一周をしようと決めた。

◆その第一弾が地平線で報告させてもらった2007年のユーラシア大陸横断だった。これは私の怪我後の復帰第一弾、ロシアのウラジオストックからポルトガルのロカ岬までの約18000km(10ヶ国)をスクーターで走破。世界の外傷医療の先進国と言われているロシアやドイツ、フランスの外傷医療専門の病院を訪問し、日本の医療システムの問題点を実感する事ができた。

◆第二弾は2008年(10月〜翌1月)。母なる大地アフリカの縦断です。全走行21000km、4WDのRVとトラックに医療物資を積んで、エジプトからスーダン、エチオピア、タンザニアなど10カ国を通過して喜望峰を目指した。アフリカの最大の問題点は率直なところ貧困にあると実感。医療設備を問う以前に、施設も交通機関も、通信網も根底から不足している現状を肌身で感じながら、一方で、人間自身の持っている「明るさ」と「強さ」には目を見張るばかりでした。

◆そして、第三弾がこのオーストラリアの自転車横断というわけです。が、「言うは易し、行うは難し」。面積は実に日本の22倍、対する人口は日本の五分の一(2100万人)と言う広い広いオーストラリアの現実は、一日平均走行100km以上。“ひーこら”言いつつ走った西のパースから東のシドニーまでの全距離は5150km。日数にして53日間の苦しくも楽しい旅の毎日でした。最初は「果たして俺の膝は保つのだろうか?」(皿がない)と、内心ビビりながらのスタートでしたが、そこはいつもの(冒険家の)心得で、三日慎重、七日の把握、十日目で慣れて、二週間で勝負に出るペースで乗り切った次第。他の三人もそれぞれの障害を根性で越えてよく頑張りました。

◆三人を紹介すると、一人は19年前のバイク事故(なんと)で右足を失って、現在は左足のみで全日本(健常者と同じクラス)のアルペンスキーやゴルフの選抜選手として活躍している元・ソルトレイク、長野オリンピックのスキー代表選手だった田中テツちゃん(38才・北海道)。そして、やはり中学、高校、大学時代はスキーの選手として大活躍しながら、20才の時に発覚した骨肉腫と現在も格闘する元気いっぱいの紅一点、元・中学体育教師の今利サキちゃん(25才・神奈川)。そして、もう一人は8年前、大手自動車工場での勤務中に不慮の事故に遭い、脊髄損傷の重体となって現在も左足麻痺の状態が続く中を参加した山崎マサくん(47才・大阪)と言う三人だったのですが、とにかく三人はいつも明るく、そして強かった。

◆旅では、地平線の彼方にまでつづく青い空と、その空に白く浮かぶ、様々の形をした雲に感動を覚え(最近、そうなんです、空の雲に魅力を感じるのです)ながら、広大な西オーストラリア・ナラボー平原の過酷な自然を体験し、干ばつと闘う南オーストラリアの大穀倉地帯の厳しい現実を見、そして、世界のどこよりも美しかったグレート・オーシャン・ロードからの南氷洋。更には、今年の2月、あの大規模な森林火災(NSW)の焼け跡からの人々の力強い復興の姿なども見ることが出来たのでした。一方で、我々四人の使命は各地でキャンペーンの資料やバッジの配布をしながら、障害を乗り越えて目標に向って頑張る事の意味、そして何よりも「障害」とは一体何だろうか?を同行の医師(今回、五人の先生がリレーで走った)とペダルを踏みながら考えることだった。

◆結果は、大自然にあって、人間は“元気”でいることが最も素晴らしいということ。障害を持つ障害者なればこそ、ことさら自身の人生にポジティブに取り組む姿勢を大切に生きなければならないこと。そう実感してゴール地・シドニーの土を踏んだのでした。(風間深志

最北端でのもうひとつの試み
━━地平線会議は王立地理学協会になりえるか?

■今年一月の通信で間宮海峡発見200周年のことを書きましたが、それを記念して稚内市主催で冒険家フォーラムが開かれたので、出席してきました。日本最北端宗谷岬がある稚内は旅人にはゆかりの地です。登山家が頂上を目指すように、旅人は端っこを目指す。自動二輪や自転車、徒歩やリヤカーで日本縦断する者にとって、宗谷は旅の出発点でありゴールでもある。今回もリヤカーで2年半かかって日本一周し、明日宗谷に到着して旅が終わる、という青年に出会った。最北端にはいつもドラマがある。

◆稚内の横田市長は、そんな冒険家にエールを送ってきた。地平線にとって忘れてはならない河野兵市さん。日本人初の北極点徒歩単独到達を成したが、北極海に落ちて亡くなったのは7年前。計画通りなら今頃、宗谷海峡を渡って日本に着く頃だ。

◆稚内で寒冷地訓練を行った河野さんにもここはゆかりの地。市長は河野さんの愛媛の慰霊碑も訪れている。安東も冬季極東シベリア自転車縦断のときは、稚内から船でサハリンに出発し、船で稚内に帰ってきた。稚内でたくさんの人にお世話になった。

◆秋空のある晴れた日、宗谷海峡の向こうにサハリンがはっきりと望めた。最北端には樺太を見つめる間宮林蔵の像がある。林蔵のように日本の端からさらに飛び出していった5人が、今回のフォーラムに集まった。林蔵や白瀬矗などの探検家を子供に伝える絵本作家の関谷敏隆氏、遠泳で間宮海峡や宗谷海峡を横断した五十嵐憲氏、犬橇で横断した阿部勇氏、林蔵の軌跡をたどりデレンを発見した高橋大輔氏、自転車で海峡を横断した不肖安東の5名なり。

◆稚内と南極も深いつながりがある。南極といえば地平線にとっては岩野祥子さん。でも世間一般ではタロとジロだろう。ハスキー種の樺太犬であるタロとジロにはサブローという兄弟もいて、稚内の市場で500円で観測隊に買われ、ここで極地訓練される。かつては北海道には普通にいた樺太犬。もとよりアイヌやニブヒが犬橇のために使っており、タロジロのずっと以前に南極点に挑んだ白瀬矗が使ったのも樺太犬である。

◆しかし気がつくとどこにもいなくなっている! 阿部勇さんは、樺太犬保存会を設立、純血種の残るサハリンから樺太犬をもらいうける。その際に、凍結した間宮海峡の樺太犬による犬橇横断をなしとげたというわけだ。犬橇は植村直己さんが北極点到達に用い、最近の地平線でも山崎哲さん、本多有香さんの報告があるが、グリーンランドやアラスカといった遠い世界。でも日本でも少数民族の文化の中に犬橇があったのだ。

◆高橋大輔氏は英国王立地理学協会、米国探検家クラブの会員であり、ロビンソンクルーソーの実在を証明した探検家として世界に知られる。探検という行為は、行動の後に報告を持って一般に知らせないと完結しない。王立地理学協会のホールは歴代の名だたる探検家の報告の殿堂だ。活字での報告も重要で、発行部数1000万部のナショナルジオグラフィックはこれ以上はない報告の場であり、高橋さんはナショジオの遠征隊隊長としてクルーソーの住居跡を発見したのだった。

◆そして次に林蔵の軌跡を追っていた。林蔵が大陸でたどりついたデレンという地がまだ謎のままであり、安東も「熱気球による間宮海峡横断計画」において、デレン探索も計画していたので、高橋氏による今回のデレン探険の報告は大変興味深く、デレンがほぼ特定されたといっていい高橋さんの手腕には敬服するばかりだ。

◆そんな高橋さんから日本には王立地理学協会のような探検家のネットワークがないので設立してはどうかという提案がフォーラムでなされた。日本には地平線会議があるではないかと安東は意見するが、そうはいっても地平線が王立地理学協会になり得るだろうか?

◆地平線会議には数百年の歴史も、女王陛下のバックアップも、膨大なサポーターもない。殿堂と化すには歴史と後ろ盾が足りないか…。しかし地平線は規模は小さくとも、王立地理学協会のような報告の場やナショジオとまでいかなくとも、地平線通信といった活字報告の場を持っている。関野吉晴さんや賀曽利隆さんなど、現役で活躍する人があふれているが、高橋さんのような本物の探検家がネットワークの外にいるのも事実なり。

◆そんな地平線も誕生30周年で今月は大集会イベントですね。不肖安東、残念ながらその日は日本にいない。11月はヒマラヤのトレッキング最盛期なのでずっと山奥にいる。大集会のときはたぶんナムチェバザールで、シェルパとダンスを踊っているでしょう。

◆それにしても今年はボルネオのジャングルに始まり、グリーンランドからパタゴニアまで、いろんなところに顧客を案内してきました。サハラ砂漠で野宿していると、星が落ちてくるようで、星の王子様のように宇宙まで旅してきた気分にもなりました。けれどアドベンチャーのほうでは、気球による間宮海峡横断計画がロシアの飛行許可の目処が立たず保留中。なにしろ海峡の南部は大韓航空が撃墜されたところ。勝手に飛べば撃たれちゃいます。ロシアはいまだに政治的秘境なのだ。海峡発見200周年には間に合わないが、ぼちぼちチャンスを伺いながら進めていくことにしよう。

◆さあ、次の10年で地平線はどうなるだろう? 探険といっても今の時代は地理的な発見だけでなく、本来は地理誌のナショナルジオグラフィックの内容からも多様性の時代にあることがわかる。地平線の報告者も、探険や冒険だけにとどまらない次代に多様化しつつあるのも時代の流れ。地平線が真なる探検家の殿堂となるのか? 旅のサークルになるのか? その答えは、地平線に集まってくる皆さんの行動次第なのかもしれないですね。(辺境案内人安東浩正、10月29日ポカラより)

演技派モトとの尺取虫方式親子自転車旅顛末

■一昨年に他界した祖父は演技のうまい人だった。いくら体調が思わしくなくてヨロヨロ歩いていても、旅や釣りの前日になると、ころっと体調万全になる。当日にはシャカシャカせわしなく歩き回っている。だから「あの『苦しい、もうダメだ』というのは演技だ」と家族はみんな思っていた。しまいには持病の心臓が悪くなって救急車を自分で呼んだ時にも、入院支度をして家の前で救急車を手を挙げて停めて、救急隊員に叱られていた。要領が良すぎるのか悪すぎるのか、私には到底理解できなかった。その血を受け継いだとしか思えないのが、うちの息子ども3人兄弟の真ん中、モトだ。

◆いま6年生になるモトと私は、おととし以来東京から太平洋岸の海岸線を西へ進む自転車旅を続けている。シーカヤックの吉岡嶺二さんからヒントを得た「尺取り虫方式」なので、昨年伊勢湾を渡って三重県に入ってからは学校の休み期間を利用しないと難しくなってきた。

◆夏休み終わり間近の8月26日、尾鷲から旅を再開。朝早くに尾鷲に着いたのに雨で、出発できたのは午後になってからだった。熊野古道の案内に沿って小雨の町中を抜ける。細い道沿いには旧家や商店が並んでいて、クルマが主役になる前の街道の雰囲気がそのまま残されている。熊野古道は八鬼山を越えて三木里へ至るが、MTBの轍で世界遺産を破壊するのははばかられるので、私たちはアスファルトの道を行く。そうは言っても峠越えは変わらない。

◆県道778号線「中井浦九鬼線」は1992年に新国道のトンネルが貫通するまで尾鷲市街から海沿いの九鬼、三木里へ向かう唯一の車道だった道。切り立った断崖のリアス式海岸が海岸線沿いに道をつけることを阻み、山越えを余儀なくされる。この道が通るまでは、沿岸の各漁村を通う巡航船が物資輸送の要だったという。

◆道なりに行けばいいから、とモトに先に走るように促し、尾鷲湾沿いの道を気分よく走って行ったのもつかのま、大曽根浦駅を過ぎると、上り坂が始まる。いつもなら最初ぐらいは調子良くがんばろうとするが、きょうはダメだった。勢いをつけた私に追い越されたモトは、とたんに諦めて自転車を降りてしまった。何でそんなに苦しいのか、モトの自転車をよく見ればギアが高いままだ。もちろん、本人はわかっててやっているのだ。ギアを落として漕いで行きなさい、と怒り半分で言ったものの、「だって坂はヤダもん」と、しばらく漕いではまたサドルから下りてしまった。しかたないので私も降りて一緒に歩く。

◆低い峠を越えるとしばらくは快走。小さな行野浦の漁村を過ぎるとセンターラインが消えて、とたんに道幅が狭まった。「通行注意/落石」の標識とゲート。道の両側から覆い被さる鬱蒼とした林。通り過ぎるクルマは皆無。おまけに急な上り坂。

◆二人とも自転車を降りて押すしかない。私のほうが歩くペースが速く、次第にモトを待つ時間が多くなってくる。理想は互いが見失わないよう、カーブごとに待つのがよいのだが、進んでは振り返りを繰り返すつづら折り。次第に面倒くさく、ずいぶん先に進んだところでモトがついてこないのに気付いて、上って来た坂道を下りて戻る。

◆「もうヤダ。帰ろう」とモト。来たか。立ち止まって「こんな上り坂があるなんて聞いてなかったし」とブツクサ言い続けている。「あと少しだから」とか「上り坂の先は下りなんだから」とか、2年前には効いた励ましの言葉が最近は効かなくなってきている。とにかく歩かないと、先に進まないよ。

◆ヘアピンカーブの連続で、はるか上方に白いガードレールが見える。モトは目ざとくそれを見つけて、「あそこまで登るの!えー!」と大げさに喚く。

◆林の向こうに尾鷲湾の対岸が見える。路面が乾いてきて、ときどき薄日が射すのが救い。モトはなんとか歩いてついてきたが、何でこんなに苦しい旅に付き合わされているんだろうと自問自答しているふうで、ときどき肩を振るわせて癇癪を起こしている。もう呆れてしばらく放っておく。どうしてこんな子どもに育ってしまったのか。

◆ヘアピンカーブの連続を過ぎると、そこからはほぼ等高線沿いの道。ペダルを漕いで走って行けるようになった。道は樹々に覆われて薄暗く、県道のサインを頼りに走る。なかなか快適な「自転車専用路」だ。ときどき眼下に熊野灘が見える。

◆尾鷲から2時間弱、ひょっこりといった感じで、新しい国道311号線に出た。行野浦から約10キロ。標高はまだ約200メートルある。後続車を気にしながら、2車線の舗装路を熊野灘へ向かって一気に下る。モトはどこかで聞いたようなCMソングを歌いながら先に走って行く。さっきの「もうヤダ」はいったい何だったのか。この「演技力」は彼の人生にどれだけの損得をもたらすのか、そしてそれに振り回されているこの父親…。30年前、地平線会議ができたころの自分(小学3年生だった!)はこんなガキではなかったはずだ。

◆ほどなく、九鬼浦が見えてきた。九鬼は熊野水軍の港町として知られる。先はまだ長い。きょうはどこまで走れるだろうか。(チベットだけじゃない落合大祐

剣岳二つ目の小屋での仕事を終えて

■ご無沙汰してます! 北アルプスの山小屋アルバイトを終え、久々の我が家です。7月から9月末までの予定だったのですが、縁あって違う小屋で10月中旬まで働いてきました。剣岳周辺に雪が降り始める9月末、小屋閉め要員の男性スタッフ数名を残して最初の小屋(2475m)を後にしました。

◆でも紅葉もきれいだし、まだ山にいたい気分だったので、3日ほど歩いてから下山しようとクレバスばきばきの秋の雪渓を下り、そこにあった山小屋でひと休憩。標高1780m、雨風&雪崩避けの石垣に囲まれた、定員30名ほどの小さな小屋です。周囲には岩峰がせまり、夏はクライマー、秋は写真愛好家が集まる、まさに「山好きのための山小屋」といった感じ。ちょうど人手が足りなくオーナー1人で切り盛りしていたので、タイミング良く働くことになったのです。

◆思いがけず延長した山小屋生活は楽しかった! 水が止まったり遭難騒動などハプニングもありましたが、シーズン終わりの小さな小屋なので、ゆっくり山と人に関われました。屋根の上に布団を干して、その上で昼寝をするのが最高に気持ち良かった〜。どんなに朝早く出発するお客さんでも見送るというポリシーのオーナーは、2時(夏は12時だそう)から起きて頑張っていることもありました。山小屋のサービスや設備にはオーナーの色がよく出るので、相性のいい小屋のリピーターになるお客さんも多いです。

◆そして小屋閉め作業。部屋の畳をあげ、さらに天井に太い柱でつっかえ棒をします。冬は雪の中にすっかり埋まってしまう小屋なので、こうしておかないと屋根が落ちてしまうのです。他にも水ホースの回収、屋外トイレの解体、沢にかけた橋の撤収、洗濯、食料品の在庫チェック、緊急で小屋を使う登山者のための非常食用意…など。ボランティアの4人も含め、6人で4日間かかる大仕事でした。下山はヘリで。初雪に覆われた立山を空から眺め、深い雪の中で耐える小さな小屋を想像し、改めて自然の大きさを感じながら短い山小屋生活を終えたのでした。

◆3ヶ月ぶりの街は、一方的に与えられる情報やモノが多くて、選んだり判断するのに正直ちょっと疲れます。食べ物も洋服もテレビ番組も、色々あればあったで面白いけれど、なくても意外と不自由しなかった。電気、ガス、水道にも言えることです。透明なトタン屋根から入る太陽の光の明るさは、電気とそう変わりありません。「自分に本当に必要なもの」が見えにくい世の中だなあ、と思います。逆を言えば、山が持つシンプルな奥深さが、私は好きなんだろうなあ。

◆そう実感できたのは、やはり実際に山の生活を経験したからです。地平線会議でもそう。30年ものあいだ積み重ねてきた記録はもちろん貴重ですが、私にとっては、色んな方々との「生の出会いの場」としての価値がとても大きいのです。これからも実体験とそこで感じることを大切にしながら、道を選んで行きたいと思います。ではでは! 今後ともよろしくお願いします♪(新垣亜美

あの壮快な瞬間は今年は訪れませんでした

■すっかり「ハセツネCUP」の名前でお馴染みになった奥多摩一周71.5kmの「日本山岳耐久レース」に今年も参加してきました。昨今のマラソンブームはトレイルランニングにも影響を及ぼしているようで、一般参加枠の定員1000人(定員は2000人なのですが、今年から一部ポイント制が導入されたため1000人分はポイント枠でした)のエントリー枠が2時間弱で締め切られるという盛況ぶり。かく言う私も去年の同レースで初めてトレランを経験したというにわかランナーの一人です。

◆台風通過後で地面はところどころぬかるんでいましたが、天気は上々でトレラン日和と言ってもよかったかもしれません。にも関わらず、実は私は前夜にアメリカ出張から帰宅したばかりというコンディション。スタート後5時間ほどで時差ボケによる猛烈な眠気と頭痛に襲われ、転んで足首を捻挫して、おまけに胃もやられてと散々な目に遭いました。

◆第一関門にすら到達していないのに心身ともにボロボロで苦しいやら情けないやら。もうリタイアしようと何度も思いましたが、その度に頭に浮かぶのは、去年経験したレース後半の壮快な下り。夜が明けてから急に力がみなぎり、山道を嬉々として駆け下りた瞬間が忘れられず、もう一度あの感覚をと思って今年もエントリーしたのでした。そのためには何としても後半まで我慢しなければと、吐き気で補給もままならない体を何とか奮い立たせながら歩きました。

◆2000人の参加者ともなればコースのあちこちで渋滞が発生し、夜間でもヘッドランプの明かりが連なっているのが当たり前の光景となります。それでも私のような20時間オーバーのペースでは一人になることも多く、必然的に自分の内面と向き合う時間も生まれます。恥も外聞もなくただ必死にストックにしがみついている瞬間こそが一番自然な自分の姿なのかも、などと考えてしまうのは意識が朦朧としているからでしょう。

◆さて結果を言うと、当初の目当てであったあの壮快な瞬間は今年は訪れませんでした。とにかく始終苦しいままでリタイアの文字が常に頭にありました。それでも最後の金毘羅尾根あたりは意地になって走り、30分程度ながら去年よりも速い21時間15分でのゴールとなりました。今年は決して楽しかったとは言えないレースでしたが、その中でもひとかけらの意地を見せられたことは大きな収穫だったかなと思います。ちなみに鈴木博子さんは10時間18分05秒で、堂々女子2位だったそうです。(杉山貴章

あの暗闇歩きが地平線会議と出会って得た一番の収穫だったような気さえする

■2003年10月25日深夜の真っ暗な山道をいまでも時々思い出す。新月の夜で、月明かりすらない漆黒の闇の中に疲れ果てたランナーたちの死屍累々……。奥多摩の山岳耐久レース本番の光景だ。その夏に江本さんにそそのかされていなければなかっただろうその経験は、その後の自分を何度も励ましてくれた。30周年の機会に振り返ってみると、その経験が地平線会議と出会って得た一番の収穫だったような気さえする。

◆たぶん、自分の精神がそんなに強くないのを知っているからなのだと思うが、私は昔からわりと体を鍛えたがった。翌春に就職を控えたその秋にレースに出場したのも、社会の荒波に揉まれたときに踏ん張れる脚力をつけておきたいと内心で思っていたからに他ならない。実際、トレーニングで付いた強い筋肉は不安や弱気なココロを吹き飛ばしてくれたし、あの日あの暗闇の中で、とにかく歩き続けていけばいつかはゴールに辿り着けるのだという単純なことに思い至った。

◆私が地平線会議を知ったのは9年前、21歳の時だ。その頃、ちょうど進路を決めなくてはいけない時期に差し掛かり、私は自分の生き方をいますぐに決めなくてはならないのではないかと焦り、もう好き勝手にやってはいけないのではないかという不安に怯えていた。結果、私は地平線会議の大人たちの中に、とにかく何をやって生きていってもいいんだという具体例を発見し、ここに確かにこんな大人がいるじゃないかという格好の口実を得たのだった。新たな人種との遭遇だった。

◆それから自分の人生のおよそ3分の1、それも迷い揺れ動いた10年近くの時間を共に過ごしてきたのかと思うと驚くやら嘆息するやらだが、いまも変わらないのは、迷ったり悩んだりしたときにやってきて原点に立ち返れる場であることだ。画家の奈良美智さんが、「なにかで迷ったら、20歳のときに自分が理想としていた大人を思い出せばいい。そうすればすぐに解決する」というようなことを言っていて、なるほどと思ったことがあるのだが、地平線会議の中に入ると、あの頃カッコイイと思った大人の姿を思い出す。

◆では、はたして自分はこの10年ほどの間にその理想に向かってどこかにたどり着けたのだろうかと考えると、小さなゴールを積み重ねてきたような気もするし、通り過ぎてみてそこは一つの関門に過ぎなかったことを知っただけのような気もする。「理想の大人」は遥かかなたに見える地平線のようなものだった。

◆ところでこの夏、少し時間に余裕が出来たので、私はもう一度なまった体を鍛え直し、いつからか酒の席で吹聴してきた「近いうちにホノルルマラソン出場」の公約を果たそうかなどと密かに考え始めていた。そんな7月の日食前後のある朝、奇妙な夢を見て目が覚めた。男の赤ちゃんを抱いている夢だった。その顔はダンナのミニチュア版そのもので、赤ん坊のくせに生意気な口調までそっくり。朝食の話題にのせて夫婦でただひたすら苦笑した。鈍感な私は、そのときすでにお腹に宿っていた小さな命が見せた夢なのだということに、ちっとも気がつかなかった。だからその後、ジョギングもウィンドサーフィンもしたし、しばらく前からやっていた別府温泉八十八湯めぐりも順調にこなし続けていた。いま思うと、あんなに激しく動いたのに、しぶとくお腹に留まっていてくれた我が子に感謝、感激するばかりだ。

◆そんな訳で、もろもろの計画は破綻した。世の中には、妊娠8ヶ月でフルマラソンを完走した強者もいるらしいが、気づかぬうちにやり過ぎてしまう自分の性格も考えて、ちょうどよい休養期間なのだと思ってゆっくり過ごすことにした。マラソン大会出場はお預けだ。あの夏から秋に付けた筋肉の代わりに今度は着々と脂肪を着込んでいく毎日だし、しばらくは海外旅行も一人旅も望めないだろうことに思い至って、愕然としたりもした。でもなんだか未知の山頂を目指しているような、わくわくする道のりではある。

◆いちおうの予定日は3月31日だ。その日の痛みを思うとちょっと恐い気もするけれど、あのレースを走りきったことを思えばなんとかなるだろうとも思っている。ちなみにお腹の子が夢の通りに男の子なのかどうかはまだ判らない。どちらにしても生意気な子供に育ち、そのうちフラッと一人旅に出てしまうのではないかと、いまから覚悟している。(大分住人 菊地由美子

地平線に後押ししてもらった1年半。福岡へ引っ越しました

■こんにちは。タイから帰国後1年半、今度は福岡で暮らすことになりました。また高い山からは遠ざかってしまったものの、送っていただく地平線通信とバックナンバーを見て、九州の遊び方を考えたいと思います。まだ越してきたばかりではありますが、福岡を生活の場にしていると、今後の人生プランに大きな影響をもたらしそうです。

◆海も山も近くて、新鮮でおいしい食べものが安く豊富にあり、いろいろな場面で歴史を感じることができ、街の活気は東南アジアを思わせる土地がら。日々の暮らしの満足度が高いと次に何を求めていくのか、今後が楽しみです。また、東京よりも福岡の若い人たちは表情が明るく元気に見えます。この夏新宿で見せて頂いた「肝高の阿麻和利」を演じた中高生のようなパワーに出会えたらいいな、と願っています。

◆思えばこの1年半は、地平線に帰国後の生活に馴染む後押しをしてもらったように思います。本多有香さんのお話と田中千恵さんの著書『ウィ・ラ・モラ』に刺激を受けて、南国のおおらかモードから厳しい北国の世界へごく自然に思いをシフトしてカナダへ行くことができたり、服部文祥さんの著書と講演から屠畜に興味を持ってアンテナを張っていたら、おもしろい本や映画に出会えて「食」を考えるうえで大切なことを教えられたり、エモカレーをごちそうになってコトコト長時間煮込む料理を数年ぶりに再開してみたり、先日の吉岡嶺二さんのお話では、仕事と遊びを両立されたお姿に感銘を受けたり。

◆個人的にタイでの3年間はリスクを伴う行動をとれず、地平線的会話のできる知人もいない環境にいましたが、東京に戻り地平線会議などにお邪魔して、体を張って本気で遊ぶ大人の方々の空気に触れる大切さを身に沁みて感じた次第です。遅ればせながら、地平線30周年おめでとうございます。今月の大集会に伺えなくて残念ですが、盛会をお祈りしつつ風の便りを楽しみにしたいと思います。(福岡新住人 加計千穂 立教大学山岳部OG)

自転車が著しい勢いで増えている
━━二輪世界の驚くべき変容ぶり

■「趣味は何ですか」「アマ、ですが競輪です」「やめなさい、そんなもの」「あの、走るほうなのですが」アマ、と付け加えてもこれだ。たいがいの人からは競輪場通いと勘違いされるし、運よくツーリングをイメージしてもらえても、なんとなく暗いイメージに話すのが躊躇されたものだが、このところの爆発的なブームで、趣味は自転車と、堂々と話せるようになった。

◆加えて行政も自転車を普及させようとしているようで、河川敷を利用した各地のサイクリングロードが、驚くべき速度で整備されだした。そこで安全なサイクリングを推奨するために、このところ帰省ついでに回り道しながら、利根川水系のサイクリングロードを調べている。

◆まずは利根川本流。両岸とはいかずとも、どちらかをたどっていけば軽快な道が、渋川から銚子の河口近くまで続いている。そしてわが故郷、霞ヶ浦一周は、中央部の霞ヶ浦大橋経由で90km、きれいにぐるり回れば120kmで周回が可能になった。北浦も80km周回コースだし、霞ヶ浦に注ぐ川では、つくばりんりんロードと恋瀬川サイクリングロードで70km、両北端20kmを結べば筑波連山も一周できる。

◆一方、関宿で南下すれば江戸川で、安食分岐なら印旛沼経由花見川でも、東京湾まで下れるし、一部歩道を走ることになるが、このふたつは湾岸沿いに結べる。その他渡良瀬川や鬼怒川といった支流でも走っているから、総計すれば利根川水系だけでも、1000km近くまで伸びるかもしれない。ドイツのドナウ・サイクリングロードで、ゴールまで500kmの数字を見たとき、日本の自転車事情を憂いだけれど、どうやらわが国も自転車の重要性に目覚めてくれたようだ。

◆それにしても華やかになったもの。芸術的センスが著しく欠如した私でさえ、次々と登場する派手なレーサージャージや、ひとめで高級車とわかるロードバイクにはうっとりとしてくる。もはや自転車は、かつての暗いイメージから脱却して、経済的、環境的、健康的側面を表面に出せる、トレンディーな新興スポーツに様変わりした。

◆そのおかげで久々に入門書を依頼され(『自転車で地球を旅する、実践的サイクリング』:ラピュータ刊)、書いてみたものの、読者層の大激変には悩まされたね。汗臭かった、大学のサイクリング部や、社会人の一念発起長距離ツーリング派などどこかへ行ってしまい、いまじゃゆとりいっぱいの団塊の世代と、ファッションで時代を引っ張る女性が主流だ。こうなると彼らに照準を合わせなければならないが、その立場からの経験がないから困った。新しき開拓者、女性陣を含めて、海外サイクリングの問い合わせも、かつての大学生からこの世代に変わっている。これじゃあ、ストイックな姿など書いても受けそうにない。20代男の特権だった海外サイクリングは、いまや大きくゆらいで、団塊と女性に乗っ取られてしまったのか。この分だとそのうち、振袖でも走れる二輪車入門編とか、80歳からの自転車世界一周なんて本が書けないかと依頼されそうな気もする。

◆ところで、自転車通勤のおかげで毎月600kmをコンスタントに消化中。5月の異動だから、これまでの半年だけで3600kmも走れたおかげで、ノルマの年間10000kmも、今年は10月中にゆうゆうと達成。どうやら2011年の暮れには、これまでの累計走行距離が月面に届きそう(月までの平均距離−地球半径−月半径で計算)です。

◆木枯らしを浴びて軽快に利根川を下りたい人がいたら、いつでもご案内いたします。休日なら2300円のホリデーパス+少しで、高崎から銚子まで楽しめますよ。(生涯自転車男 埜口保男

ニュージーランドではなんと1985年から氷河が発達し続けているそうです
━━仕事はこなしつつ、ムリをしてもとにかく旅に出ちゃおう!

■今年の夏休みは、だいぶ遅れて10月初旬からの2週間、初めてニュージーランドの山へ行って来ました。「Steep Ice Course」という氷の壁を登る講習会を受講するためでした。去年訪れたペルーの美しい氷壁が忘れられず、過去一連の山旅の延長にあの氷の壁を登るにはどうしたらいいかと考えて、今年1月からアイスクライミングをはじめました。怖がりな私なので、とにかく基礎固めをしておかないと難しいところに行けそうになく、その準備なんです。

◆私が海外の山に初めて出かけたのはちょうど20年前でした。ニュージーランドへ飛ぶ機内で、けっこう遠くまできちゃったなあとぼんやり思ったりしたのですが、時間が経つのはあっという間。普段はふつうの会社員として日々の通勤電車に揺られる生活をしている私にとって、年々加速していく時間感覚は恐ろしいものがあります。

◆お正月を迎え、気づくと半年が過ぎ、そうこうしているうちに年末の準備。内勤の事務仕事というのは、1か月のサイクルで仕事のパターンがあり、四半期、1年とサイクルを追いかけるように仕事をするので、印象に残るような瞬間というのはそうないのです。ハプニングが頻発しても困るしね。20代後半から同じ会社に勤めているけれど、その仕事サイクルを繰り返しているうちに、気付いたら、もう40歳を超えちゃったって感じ。まわりの女性もみな同感だといいます。

◆勤めはじめた当初は、早くここから脱却し自由の身になって世界中を駆け巡るんだという妄想を抱いていたけれど、いつからか自分自身の中で折り合いをつけるようになっていました。最近の10年はヒマラヤ近辺の高所登山から始まり、夏休みを毎年海外の山登りに費やしているのだけど、これは過去を思い出すのにとても便利です。登山そのものが日々のハプニングに満ちているので、鮮明に記憶されるのですね。

◆もっともっと年を重ね人生を振り返るときにも、重宝するはず。もちろん、毎年のように出かけていくのは休暇やお金の調整が必要で、そこまでして行かなくてもいいかなあと思う時もあったけれど、思い切って行っておいてよかった。だから、年食った分ちょっと年上目線で地平線会議に集う若い女子に言いたいのは、ムリをしてもとにかく旅に出ちゃおう!ということ。地平線会議的であることとは、とにかく自分の足で経験を積み重ねるしかないわけで、それが長老たちのすごい経験を超える唯一の方法だからね。

◆ところで、講習会目的のニュージーランドの山でしたが、行ってみると山自体の素晴らしさに驚きました。日本の北アルプス程度の標高なのに、大きな氷河を持つスケール感はヒマラヤに通じるものを感じます。しかも、なんと1985年から氷河が発達し続けているそうで、後退が心配されるヒマラヤの氷河とは反対。美しく厳しいアルパインルートの宝庫でもありました。

◆そう、ペルーに続きニュージーランドにもまた戻って登りたいルートがいっぱいです。あと十年。これからも行動し続け、さらなる大人の余裕で悠々と美しい氷壁などを登れるといいなあと考えています。(恩田真砂美

地平線犬倶楽部、復活、か?

地平線犬倶楽部ロゴ

 みなさん、すっかりご無沙汰しています。「地平線犬倶楽部」の会長、滝野沢優子です。「倶楽部」なのになぜ「会長」なのか? 「部長」ではあんまり偉くなさそうだから? 自分で名乗っておきながらよくわかりません。まあ、いいか。ちなみに、私は会長ですが実は傀儡です。影の会長は衆知のとおり江本氏です。ハッ、これじゃまるで、鳩山首相と小沢幹事長みたい!

 脱線しました。

 ところで、「地平線犬倶楽部」とは一体、何? という方も多いでしょう。はっきり言ってこれも自分でもよくわかっていませんが、発足したのは1996年。「地平線報告会200回記念大集会」のときに「地球犬学」というテーマで発表したついでに、犬好きである私と、地平線会議代表世話人の江本氏が結成したものと記憶しています。倶楽部としての活動は、その大集会での発表とオリジナルTシャツを製作・販売したことくらい。近年、個人名で世界の犬の本を出版はしたものの、「地平線犬倶楽部」としては活動停止状態が10年以上も続いていて恐縮です。

 そろそろ何かしなくてはヤバい! と焦燥感を募らせているところへ、復活の絶好の機会である今回の300回記念大集会。これを機に何かやれ、と江本氏に尻を叩かれてようやく重い腰を上げることとなりました。といっても前回のように発表する準備などできないので、とりあえずはオリジナルTシャツ販売をすることにします。長野画伯のイラストのおかげで前回のTシャツは評判がよくてすぐに完売したので、今回は少し多めに作ることになりそうです。もしかしてTシャツ以外のものもできるかも? 現在、新しい地平線犬倶楽部のロゴを画伯に依頼しています。楽しみですねー!

 というわけで、地平線犬倶楽部、復活宣言です。Tシャツ販売以降の活動は未定ですが、みなさん、叱咤激励のほど、ヨロシクお願いします。(滝野沢優子

あれから1年、浜比嘉島に呼ばれて……

■「ちへいせん・あしびなー」からちょうど1年後、いずれゆっくり訪れたいと思っていた浜比嘉島へ再上陸する機会がやってきた。「土地に呼ばれる」という表現を、私自身はあまり好まない。呼ばれるのではなくて、自分が望んでいるのだ。望んでいると、タイミングが合えば踏み出せる。ただ、そのタイミングを自分で察知できたとき、「呼ばれる」と言うのかも……と今回思ったりもした。もちろん、自分が何を望んでいるのか、その自覚も大切で、それが案外難しいことなのかもしれない。

◆そんな流れに乗って慌しく決まった沖縄行きだったが、天気予報をチェックすると、台風が進路をカクッと変えて沖縄に接近しているではあーりませんか! うーん、ぜんぜんお呼びでないかも(笑)。結局2泊3日のうち2日間は雨。特に2日目は風雨が強まり、めったにできない「沖縄台風体験」をしてしまった。

◆台風一過、差し込む日差しが嬉しい最終日、民宿ゆがふの郷で朝食をたっぷりいただいたあとは、外間家で甘い果物をつまみながらのコーヒータイム。昨年子犬だったポニョは美犬に成長していたが、まだまだやんちゃ盛り。かまってもらうポニョにお父さんのゴンがすねてしまう一幕が可笑しかった。

◆その後、「浜比嘉ひとりたんけん」に出かけた。汗ばむほどの陽気が、昨年を思い出させる。台風で落とされた葉っぱとかたつむりで歩きにくい階段を上り、比嘉公園へ。風に吹かれながら集落やアマミチュー、そして広がる(待ちわびた)青い海を気分良く眺めた。途中から外間晴美さんと(家から抜け出してきた)ポニョが合流してくれ、あやふやな記憶を補ってもらいながら歩いた。

◆清ら海ファームに続く小道では、なぎ倒された背の高い草むらをかきわけ、ぬかるんだ地面に足を浸し、まさにたんけん気分で進んだ。大ウナギの井戸では、勢い余ったポニョが腹打ちダイブ! 何が起こったか理解できないままの慌てぶりに、大笑いした。

◆ひょんなことから与那国馬にも乗せてもらい、短いながらも一挙に巻き返した感じがした、浜比嘉島滞在だった。でもやっぱり今回も慌しかったかな。次回はカヤックでのんびり無人島に行きたい……(野望)。年内に刊行予定の「あしびなー報告書」を読み返しながら、その日を待つことにしよう。

◆話は変わって、この旅のもうひとつの目的は「肝高の阿麻和利」を観ること。ステージでは「ダイナミック琉球」も演ってくれ、ご一緒したダイナミックダンサーズとともに、大集会に向けてボルテージを上げた。改めて、「ちへいせん・あしびなー」がいろんなきっかけになっているとも感じた、沖縄行きであった。(中島菊代

地平線会議発足のころ

■地平線会議とかかわりをもつことになったのは、青山一丁目のアジア会館玄関に貼り出されていた第1回報告会、三輪主彦さんのトルコ留学体験記「アナトリア高原から」の案内でした。そのころ私は、ネパールへの再訪のためにアジア会館でネパール語のレッスンを受けていたので、玄関前の掲示が目に入ってきたのでした。おもしろそうだな、聴きたいな、とは思ったものの、ちょうどその日はネパール語のレッスンがあり、残念ながら聴くことかなわず、確か三輪さんの話が終わったころに会場に顔を出して、半年後に失職します、何かお手伝いをさせていただけないだろうかと申し出をしたのでした。

◆地平線会議での最初の仕事は、報告会案内の「手書きの版下づくり」と「発送」でした。賀曽利隆さんが書いてくださった案内文をはがきに清書して印刷、刷り上ってきたはがきを、200人くらい(?)のメンバーに発送する作業です。作業場は、神田にあった近畿日本ツーリスト別館の「日本観光文化研究所(観文研)」。観文研が発行している冊子「あるく みる きく」の編集作業が行われているテーブルの隅で、愉しそうに和気藹々と進められている編集作業を横目で見ながら「はがき通信」の宛名の糊付けをしていたものでした。

◆この「はがき通信」にかかわっていたのは、主として賀曽利さん、丸山純さんだったように思います。報告会の中心になっていたのは宮本千晴さんや三輪さんでした。誰の発案だったか、報告会の予告版を電話で流したこともありました。つまり、ある電話番号にかけると、次回報告のさわりの部分が聞けるというものでしたが、これには予想以上に電話がかかってきてパンク、一度で終わったように記憶しています。

◆やがて江本嘉伸さんがチョモランマ登山から帰ってきて、四谷界隈の喫茶店「オハラII」で頻繁に会議がもたれるようになりました。報告会とは別に、地球を這いずり回った人たちの記録を残そうというためのものだったと思います。地平線会議の活動の進化ともいえましょうか。江本さんのお宅のダイニングがこの企画会議の会場になったこともありました。新宿の飲み屋街の一角にあるマンションにお伺いして、「おお、いい場所にあるな」と思ったものでした。ポーランドの女性登山家の名前をつけられた大型犬といっしょにご家族でお住まいでした。

◆第1回報告会のちょうど1年後の1980年10月、私はネパールに旅立ちました。伊藤幸司さんに安い航空券の買い方や写真撮影のレクチャーを受け、「現地で滞在をしなきゃ何もわからないよ」というみんなの言葉に背中を押されて、ネパールでの半年間の生活を夢見て旅立ったのでした。

◆帰国後は旅行手配事務、医療事務者向けの雑誌の編集、西堀榮三郎先生のお手伝い、日本整形外科学会の広報誌編集といろんな仕事を体験してきましたが、仕事を選ぶときの基本にはいつも地平線会議の先輩たちから学んだ姿勢があったように思います。

◆そして昨年の10月、日本整形外科学会を退職して郷里の倉敷に帰ってきました。仕事への未練もあったのですが、40代はじめに関節リウマチを発症し、だんだんに仕事がつらくなってきていたのが退職を決意した理由です。郷里に帰ってからは、体調のいいときには吉備路や吉備高原自転車道を自転車で走っています。どうしてこんなに自然がきれいなの? と、知らなかった郷里のよさをしみじみ味わっています。

◆いま地平線会議と私をつなぐ唯一のものは「通信」です。江本さんの巻頭言から古いメンバーの動向を知るのが楽しみであり、若い人たちの活動には目を見張らされるものがあります。いつのまにか地平線会議は大地平線会議へと発展しましたが、地平線会議発足時の趣旨は変わらずに受け継がれています。先日、江本さんからお電話をいただき、30年前のことなどを思い出して書いてみました。30周年、ほんとうにおめでとうございます。(2009年10月25日 那須美智

遊行期をどう旅するの?
━━加藤千晶さんへのお返事

 一枚のファクスが届きました。女は何才まで野宿ができるか、というテーマの持主加藤千晶さんからです。先月(9月25日)三輪先生の報告会でしげさんが会場から「旅する人は死ぬまで旅するのよ。林住期の旅は易しい、遊行期をどう旅するか」と言っていましたので、という前書きで質問が六つ並んでいます。順不同ですがまずは返事です。

<その1> 林住期の旅は簡単か

 そもそも林住期、インドでは人生を四住期に分けています。日本流にすると、(1)学生期、社会に出る20才前後まで。(2)家住期、現役時代。60才の定年まで。(3)林住期、定年でポンとお役御免になる60才から70代まで。インドでは漸く家業を子供に譲り、アシュラム(お寺の夜坊)に滞在しますから、誰でも“我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか”と考えるようです。さすがインドですね。アシュラムには夫婦できてる人、姉妹、ひとりの人、外国人も結構います。林の中、平屋のコテージ風室内は、ベッドが二つ、シャワーとトイレだけ。日中は瞑想の時間たっぷり、食事は板敷大広間、リピーターも大勢です。私の同室者はドイツ人、彼女は北部のアシュラムからインドをあちこち旅行して、ここ南のアシュラムに辿り着いたところ。若いけどとても敬虔。時にはリーダー付日本人グループが一泊してさーっと帰るのにも出会いました。さて日本では団塊の世代が定年になり、林住期人口も増えました。なにしろ60〜70代は体力・知力ピンピンです。ここで旅に出れば正に人生後期の通過儀礼。そして世俗の金や地位、名誉からも自由になれば、ますます知力は冴え健康になるでしょう。

<その2> 遊行期をどう旅するのか

 林住期の次、四住期のラスト。80代から死ぬまでが遊行期です。学生期、家住期、林行期わかりますよね。でも遊行期は難かしい。良寛さんが浮かんだっけ。それでも遊行期になればわかるかなと思っていましたが、そうは問屋が卸しません。そもそも80代に入ると体が明らかに変化します。先ず目、これがパッチリ目を開けて、なんてこともままならず、眼鏡は万能ぢゃあないのです。これだけぢゃあない、一事が万事よ。その代り特別の修行をしなくとも、金や名誉や地位にはとっくに関心が消え失せています。そして縄文土器や埴輪に親しみがまし、ルーツにこだわり、自然に日本の旅に回帰した所です。4月の高千穂では天孫族に破れた国津神・鬼八の鎮魂の神楽に感動し、神活の風や気を深呼吸しました。また6月の水俣では、ヘドロ埋立地の石の地蔵さんに合掌し、この聖地で海風の中で、石の地蔵さんを彫ることができたらと思い込み、ハッと聖地の旅こそ遊行の旅なのだと気づきました。

<その3> 聖地とはどこですか

 五体投地で聖地を目ざすチベットの巡礼者、ペルーのチャビン村では地下神殿の神様、BC一千年のプレ・インカのランソン像。メキシコではジャングルの中のシビルチャルトーンなどマヤの神様を礼拝しました。砂漠、高地、サバンナどこにでも、ひとりでに合掌してしまう聖地があり、大地と幾世代にもわたる関わりの中で、伝承されてきた人々の祈りとくらしがあります。小さな町でも教会のお祭りに出合えれば本当に楽しい。水俣も正に聖地です。不知火海と太陽と祖父母・親・子三代にわたるくらしの中で、人々の生命の歴史と祈りが受け継がれているのを感じました。

<その4> 旅に倦きることはないの? 今の旅の苦しさは、10年後の私は旅を楽しんでいるでしょうか。

 ウーン、あなたの10年後ですか。以前ある女性雑誌で“あなたの5年後”という取材をうけたことがありました。「旅をしながら人生を考える。これからもこういう旅をくり返していると思います。70才までは。」と言ってるんです。しかも人と交流しながらと。今すでに80代ですよ。われながらおかしいですね。当時は林住期。今は道草食いながら自分のための旅です。今月(10月)は法蔵さんと行く吉野山の旅で、柳沢安闍梨のゴマ祈祷と滝行を体験してきました。この吉野行に合わせてかねてアクセスが悪いと聞かされていた、天河大弁財天社に寄り道して、天の川温泉も忘れず、大弁財天社の朝拝にも出席しました。この寄り道道草が楽しい。12月は広島です。30年ぶりになります。広島平和映画祭では見たい映画もありますし、民族映画を撮り続けている制作者の講演も。そして広島まで行ったら周防大島の文化交流センターです。この道草の組合せから旅が始まります。今月の天河では、バスの分岐点から天河大弁財天までは、若い人なら歩ける距離。私は吉野に備え1日3本だけのバスを待ちます。吉野では西行庵まで往復し、金峯山寺蔵王堂の脇道から下り四百段の石段を降りて滝に打たれ、この石段を昇って戻りました。道中のこの体力の組合せも大切。好き勝手な旅とは言いながら、倦きるなどの閑はないわね。以前中東のバスターミナルで、杖をついた日本のお爺さんバックパッカーに、しげさんと声をかけられたことがあります。ウーン中東のどこだったか思い出せない。昔のことは直に忘れます。そして10年先5年先なんてわからないよ。明日のことだって…。では取っておきの一首。

 あなたなら  惚けてもきっと  徘徊ね
 ニヤリと今日も  駅への道を    しげ


山と溪谷12月号に地平線会議特集記事

■今月発売(15日)の『山と溪谷12月号』で「地平線会議30年」という特集記事が載ります。8ページにわたる読み物で、江本がおもなところを書き、金井重さん、坪井伸吾君にコラムを書いてもらいました。大事なことは366回の報告会がすべて掲載されることです(各ページ下に羅列します)。膨大なものなので、年別にテーマと報告者名が入るだけですが、それでもなかなか壮観です。30年の歩みをすべて書くことは難しいのですが、誕生のいきさつなど概要はわかると思います。皆さんひとりひとりには贈呈できないのでできれば買って読んでください。(E)


地平線会議からの大事なお知らせ

■『地平線・月世見画報』完成! 

 申し込みを受け付けます。1979年9月の第1回から、今度の367回目の30周年記念大集会まで、地平線通信に30年にわたって掲載されてきた地平線報告会の案内を、1冊の本に集大成しました。懐かしいガリ版刷りのハガキはもちろん、長野画伯をはじめとする絵描きたちが毎月創意を凝らしてきた名作イラスト&似顔絵の数々が、いま蘇ります! 地平線会議の30年の足跡が、まさにここに刻まれているといってもいいでしょう。

◆A5判・本文288ページ(厚さ約1.7cm)。申し込みは、ハガキに「氏名・郵便番号・住所(建物名も)・電話番号・部数」をご記入のうえ、「地平線・月世見画報制作室」(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方)まで。地平線会議のウェブサイトからもお申し込みいただけます。頒布価格:1冊1000円。送料:1冊160円(2冊までなら1冊ずつ送付したほうが安くなります。3冊以上は後日お知らせします)。混乱を避けるため、代金は本が届いてから郵便振替で振り込んでください。限定500部ですので、お申し込みはお早めに(お届けは11月25日以降になります)。

◆なお、11月21日の大集会当日に限り「出来立てほやほや特別価格」としますので大集会で買う予定の方は申し込みをしないで下さい。


[通信費をありがとうございました]

■先月号の通信以後、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は次の通りです。中には数年分、まとめて払ってくれた方もいます。万一記載漏れがありましたらご連絡ください。

嶋洋太郎/永田真知子/藤本亘/大塚覚/島田利嗣/宮崎直美/大嶋亮太/川井良子/横山喜久/中村易世/金井重/長谷川昌美

1万円カンパ御礼

■「地平線30周年」を記念するイベントの実行、関連する印刷物制作のために「1万円カンパ」をお願いしています。これまでにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、心からお礼申し上げます。なお、カンパはことしいっぱいで終了する予定です。

■1万円カンパ振込み先:◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとしています。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。<-p>

■1万円カンパ振込み先:

◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとしています。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。

<09年11月7日現在カンパ協力人リスト>
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子 酒井富美 シール・エミコ 平本達彦 神長幹雄 岩野祥子 藤木安子 広瀬敏通 山本千夏 村松直美 神尾重則 香川澄雄 白根全 尾上昇 笠島克彦 吉岡嶺二 藤本慶光 長谷川昌美

[先月号の発送請負人と発送風景]

■森井祐介 関根皓博 江本嘉伸 米満玲 白根全 落合大祐 武田力 妹尾和子

台風の襲来で集まりにくい日、いつもの半分ほどの人数で頑張った。森井さんが早めにひとりで印刷にとりかかってくれ、印刷機の調子もよかったので、印刷そのものはスピーディーに終了。しかし、折り機が故障中で14ページの通信を丁寧に皆で手折りするのに時間がかかった。この日のうちに発送するためにはヤマト宅急便に20時までに渡す必要があるが間に合わず、20時50分頃までかかった。結局、森井さんが重い封筒の束をカートにくくりつけ近くの自宅まで運び、翌8日昼前、ヤマトに渡して作業は終了。


<あとがきの前に>
パソコンができたばかりに、楽しくもタイヘンな思いもしてきた地平線通信の制作・発行

■私が高校2年の時、三輪さんが担任だった。三輪さんが都立高校の地学教師だったことは地平線でも知られているが、どんな教師だったかを知る人は少ないだろう。ひとことでいえば、教科書に沿った授業は全くなかった。生徒からは人気があり、卒業後も部活動のOB、OGとして来る教え子たちが、夕方になると三輪さんのところに集まってきた。

◆その中から何人かが地平線会議にも送り込まれたが、今でもしぶとく残っているのは私だけだ。それは、なんといっても地平線通信の制作があったからだ。パソコンができるというだけで(当時はパソコンやワープロでレイアウトをするには“技術”が必要だった)、1989年の116号を任されてから、森井さんにバトンタッチする2005年の307号まで、途中何度も抜けているがそれでも150号くらいは作ってきたと思う。今は地平線通信の制作から発送まで10〜20人くらいの手をかけてやっているが、原稿依頼、編集、レイアウト、印刷(地平線仲間がやっている「光プリンター」という印刷会社に頼んでいた)、発送(名簿管理も)をひとりでやったこともある(大変だったけど)。

◆そんな大変な思いをしてまで何が面白いのかというと、やはり世界各地から地平線ポストに届く便りを誰よりも早く目にすることができたからだろう。しかも独占して。当時はハガキや手紙だったので、読みながら打ち込んで、知らない地名があれば地図で調べて……。時間のかかる作業だが、聞いたこともない辺鄙な地の情報が毎月毎月くるのだ。地平線通信が届くときにはもうすべて知っているという優越感みたいなものもあったし、自分がやらないと通信が途切れてしまうかもしれないという使命感もあった。

◆それにしてもこんなに大変な作業を30年間360回もよく続けてきたものだと思う。そう思って周りを見回すと、30年前も今も、地平線にはモノズキな人たちが集まっていることだけは、変わりがないようだ。(武田力


[あとがき]

■今月は、ともかくも21日に牛込箪笥区民ホールへ参集ください、と申し上げます。内容は、地平線会議30年のエッセンスを盛り込んだ面白いものとしました。「躍る大地平線」のプログラムをじっくり読んでみてくれればわかりますが、かなり気合が入った内容です。

◆もうひとつ。ひそかに特訓を重ねている「地平線オールスターダンサーズ」が、一体何をやるのか、これは見ものですよ、ほんとに。

◆丸山純君が今回も孤軍奮闘してつくった『地平線・月世見画報』、これも是非手にしてください。30年の歴史がビジュアルなかたちでここに埋まっています。

◆21日に同時に刊行する予定だった「ちへいせん・あしびなー報告書」も素晴らしい出来上がりとなりそうです。これは、制作中にさらに欲が出てきて、目下子どもたちの写真展報告書との合本のかたちで進めています。そのため少し刊行を遅らせ12月とさせてもらいます。カラフルな美しい本になる予定です。ご期待ください。では、21日に!(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

躍る大地平線――地平線会議30周年記念大集会

  • 11月21日(土)
  • 開場 12:30 開演 21:00 参加費 ¥1000
  • 会場:新宿区牛込箪笥区民ホール
      新宿区箪笥町15 03-3260-3421
      大江戸線「牛込神楽坂」A1出口 0分
  • 総合司会 セノオカズコ&ノチダサトコ

ねてより予告してきました“地平線会議30周年記念大集会”、題して『躍る大地平線』を、いよいよ今月21日に開催します。

 30年といえば人間の一世代。1979年9月28日の第1回報告会以来、一度も休まず続けてきた地平線会議の運営メンバーも、ふと見渡すとずいぶん世代が替わりました。でもナゼか“地平線的”テイストの顔ぶれが集まっているようです。

 地平線会議は、もともと風に吹かれて地球をさまよう行動者たちの集まり。旅のジャンルも様々で方法論もそれぞれですから、会として何かを伝え継いできたわけではないのですが。30年に渡って重ねた「場」の蓄積が、独特の磁力を生んで、チヘイセンテキナヒトを引きつけるのでしょうか。

 さて、そんな仲間達が作り出すお祭りが、今回の大集会です。タイトルに「躍る」の言葉があります。「踊る」と同源の言葉です。「踊り」と「舞い」は日本の芸能の基本動作ですが、“舞い”が個的、特殊技能的なのに対し、“踊り”は集団的で、誰でも参加できる大衆性があるそうですよ。そして踊りで重要な身体部位は足です(舞いは“手”)。足で地球体験を重ねてきた地平線会議にぴったり。今回の大集会のトリは地平線史上初のメンバー有志によるダンスチームです。歴代報告者のアノ人もコノ人も踊ります。お見逃しなく!

 メインパートのシンポジウムの大テーマは「変容」と「継承」です。地平線会議が歩んできたこの30年で一番大きく変化したのは旅の情報の受、発信手段でしょう。これを受けて“地平線的な旅”はどうなって、今どこにいるのでしょうか。

 またこうした情報の飽和時代に“記録する”という行為の意味は変わったのか?そんなことを考えるきっかけになるような話を聞きたくて、プログラムを考えました。

 30年は一世代といいましたが、人間の年令ならまだ青年期。次のステップに躍りだすための密度の濃い7時間を、いっしょにつくって楽しみましょうねー<ナンチャッテ実行委員長:ながのりょーのすけ

イントロ…地平線会議有志による華麗なダンス!サワリ

オープニング…30周年記念出版物、グッズの大紹介!

12:50 PART1 自然に生きる、野性を食う

松原英俊(鷹匠)+服部文祥(サバイバル登山家)+関野吉晴(グレート・ジャーニー、冒険家、医師)

主体的な「食」を探求する3人の野生児が語る、現代における“動物としてのヒト”の生き方と、その具体的な方法論。

14:00 PART2 縄文号ができるまで

黒潮カヌープロジェクトスタッフ(佐藤洋平、前田次郎)+関野吉晴

縄文的思考法(?)を駆使し、ローテクでいかに海を渡るか?野心的な計画にとりくんだ若者たちは何を見たのか?!

15:00 品行方正楽団 第一部 「パライソ」

長岡竜介(ケーナ)+長岡典子(ピアノ)+白根全(チャンチキ)+大西夏奈子(ボンボ)+車谷建太(三味線)+長野淳子(三線)+張替鷹介(バイオリン)+長野亮之介(太鼓)

地平線通信300回大集会で生れた幻の無国籍音楽バンド、パワーアップして復活!

15:40 PART3 あれから30年−ぼくらの旅の現在地

 岡村隆(地平線発起人)+樫田秀樹(ライター)+白根全(カーニバル評論家)+山田淳(山岳ガイド)+広瀬敏通(ホールアース自然学校代表)+青木明美(旅人)

この30年で“地平線的な旅”はどう変化して、今、どうなっているのか?

17:20 PART4 記録すること、続けること

 司会:江本嘉伸(地平線代表世話人)+岸本実千代(旅人)

地平線会議発足時からの大テーマ“記録”をめぐるリレートーク!次々と飛びだすゲスト人脈の広さは当日のオ・タ・ノ・シ・ミ

18:40 品行方正楽団 第二部「ミラグロ」

19:20 ダイナミック地平線

 地平線オールスターダンサーズ

満を持して放つ、地平線の旅人ダンスチームによるグランドフィナーレダンス!!!

19:30 FINISH

20:30頃から 二次会

居酒屋「竹ちゃん」4階大広間
神楽坂6-38(会場から徒歩5分)
電話 03-5229-6721
会費 3000円(予定)
幹事 大西ジミーカナコ

恒例!地平線オークション ここでやります!一味ちがうお宝オークションです!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信360号/2009年11月7日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/編集協力:後田聡子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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