2009年12月の地平線通信

■12月の地平線通信・361号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月9日。2009年最後の通信を「地平線会議30周年記念大集会」の特別レポートとしてお届けする。11月21日、新宿区牛込箪笥区民ホールで開かれた大集会「躍る大地平線」には全国各地から266名が馳せ参じ、2次会、3次会を含め大いに盛り上がった。会場で見守ってくれた皆さん、遠くから声援を送ってくれた仲間たちに、地平線会議を代表して心からお礼を申し上げます。

◆オープニングとフィナーレで観客席を沸かせた、初登場の地平線ダンサーズによる「ダイナミック琉球」の踊りを含め、大集会で話された内容とその反響については28ページに及ぶこの通信のあちこちに書かれているのでじっくり読んでほしい。ここでは私が進行役をつとめたPART4「記録すること、続けること」に関連して少し補足しておきたい。

◆まず、大集会当日会場に届いた『地平線 月世見画報』を皆さん、是非入手してください。1979年9月の第1回から今回の大集会にいたるまで367回の地平線報告会の報告者と告知内容がすべて収録され、報告会の文字予告に過ぎなかったはがき1枚の地平線通信が次第にイラスト中心の告知に変容してゆく様子がわかる、まさに「記録し、続けてきた」証しの一冊なのだ。

◆記録しておく、ということがどうして大事なのか、自分のテーマのひとつである、明治から昭和にかけてチベットに潜入した10人の日本人について調べた当時のことを思い出す。彼らが書き残した本やノートなどの記録だけでなく、新聞を含め時代が残した数々の出版物、私的な日記、書簡類、ノートの何気ない走り書きが100年後の私にどんなに助けとなったか。小さな記録がひとつの時代の理解にこんなにも役立つことに、感動したのである。

◆勿論、後世のために資料を残す目的で地平線会議を展開しているつもりはないが、本気で語り、書き継ぐものは、自ずと現代史の資料ともなってゆくだろう、という予感があるのである。ついでに言えば、この地平線通信、最近ページ数が増え、文字量が多くて読みにくい、との批判も時に聞くが、それは確信犯でやっていることだとわかってほしい。

◆私たちの大集会と同じ11月21日、南の浜比嘉島では比嘉地区の「うふあしび(うふは「大きい」意)」が3日間の予定で始まった。1年前「ちへいせん・あしびなー」をやった時からできれば見ておきたい、と興味津々の行事だったので、大集会の翌日、沖縄に飛んだ。

◆12年に1度の丑(うし)年に行われるという「うふあしび」は「慣例大踊り」とも呼ばれる。沖縄言葉が禁止された時代にその呼称が定着したらしい。もともと死者を埋葬場所まで運んだ葬具「龕(がん)」の修復、修理を12年ごとに行うことに発している、という。火葬が普通になった現在、龕は使われていないので、行事の由来を理解しよう、と事前に中学生たちを招いて勉強会が開かれ、琉球新報には「継承へ由来を学ぶ 12年に一度ウフアシビ」という記事(11月18日付け)が出ていた。

◆11月23日午後3時過ぎ、懐かしい比嘉公民館でプログラムが始まった。棒術、琉球舞踊、獅子舞など12の演目が次々に比嘉の芸術家たちによって演じられ、最後に組踊り「伏山敵討」となった。本の受け売りだが、組踊りは、歌、踊り、伴奏、せりふ、所作を組み合わせた歌舞劇である。琉球王朝時代の国劇といわれ、1719年首里城の前庭で中国からの使者(冊封使)の前で初めて披露されたといわれる。

◆勧善懲悪、それも敵討ちのストーリーがほとんどで、「伏山敵討」も、慈悲深い按司(あじ=地方の支配者の称号)であった父を殺された若者が、山に篭った勇猛な父の配下とともに修行し、ついに敵を倒すという筋書き。お年寄りたちは涙をぬぐって見入っていた。

◆感心したのは、比嘉区の人の芸達者ぶり、とくに主役の若者を23才の比嘉の青年が見事に演じきったことに驚いた。普通のせりふではない、歌うように独特の節回しで語るのである。それも1時間20分。あとで聞くと、彼は昨年のちへいせん・あしびなーの幕開けで「かきやで風節」を演じてくれた山根清雄さんのお孫さんだった。思わず、今度東京へいらっしゃい、と誘ってしまった。

◆3か月練習したそうだが、前回の時のビデオ記録が大いに役に立った、という。そういえば我が地平線ダンサーズも「ダイナミック琉球」の踊りを学ぶのにDVDに助けられたのだった。記録というのは、活字だけではない。写真も映像も貴重なのだ。

◆「記録すること、続けること」。それを支えるのは、一種の使命感かもしれない。そのひそやかな決意とともに地平線会議は次の30年に入っている。(江本嘉伸


地平線会議・30周年記念大集会
躍る大地平線ロゴ
特別レポート
2009,11,21(土曜)12:30〜19:30★新宿区牛込箪笥ホール
イントロ=地平線有志による華麗なダンス
オープニング=30周年記念出版物、グッズの紹介
PART1 自然に生きる、野生を食う
PART2 縄文号ができるまで
品行方正楽団第1部 「パライソ」
PART3 あれから30年=ぼくらの旅の現在地
PART4 記録すること、続けること
品行方正楽団第2部 「ミラグロ」
「ダイナッミック琉球」<地平線オールスターダンサーズ>

躍る大地平線・あらまし編

■11月21日、晴れ! 出足が鈍る雨降りの心配がなくて嬉しい。

◆スタッフの会場集合時刻は午前8時40分。荷物を運び入れ、全員で準備の打ち合わせをしたら、あとは各持ち場で黙々と作業。その後のリハーサルまで、時間は瞬く間に過ぎていった。

◆受付で入場料を払い、手作り感のあるプログラムやチケットを受け取る。販売コーナーには完成ほやほやの「地平線 月世見画報」や年報「地平線から」等出版物の他、躍る大地平線のロゴ・キャラ入りTシャツ、地平線犬倶楽部Tシャツ(滝野沢優子さん特製)、エコバッグ(これも滝野沢さん作)と心躍るグッズも並んだ。

◆開始時刻の少し前、突然のかけ声とともに、お揃いの雲のTシャツを着た人たちが現れ、舞台や舞台下で踊り、去っていった。

◆踊り手の1人でもある長野亮之介実行委員長が弾む息で開会の挨拶をし、地平線会議30周年記念大集会「躍る大地平線」が幕を開けた。司会の妹尾和子さん、後田聡子さんが(やはり雲のTシャツ姿で)丸山純さんを呼んだ。

◆写真をスクリーンに映しながら、まずは地平線会議・報告会について説明の後、会場の外側スペースに展示されている数々の写真について解説。昨年10月下旬に浜比嘉島で開催された「ちへいせん・あしびなー」のプログラムのひとつに、比嘉小学校の子どもたちを対象にした丸山さんの「デジカメ教室」があった。その成果として、今年の春に地元で写真展「わたしたちの宝もの」が開かれた。今回の展示は、そのダイジェストだ。あとでそこに立つと、子どもたちが浜比嘉島の風を運んでくれているような気がした。

◆次に話は、赤い表紙がかっこいい、地平線通信全予告面集「地平線 月世見画報」へ。長野画伯を交え、歴代出版物(年報「地平線から」「DAS」「大雲海」)とともに紹介された。

◆12時50分、「変容と継承」を大きなテーマに、いよいよメインパートがスタート! 各パートのどれもが「このテーマだけで大集会ができるのでは?」と思わせるほど濃厚であった(次頁からのレポートをお楽しみに!!)。

◆前半(PART1・PART2)及び後半(PART3・PART4)が繰り広げられたあとには、品行方正楽団による演奏が更なる色味を加えた。お祭りなどで人を集めるためのお囃子「寄せ太鼓」、ひと味違う「コンドルは飛んでゆく」、アルゼンチンのクリスマスミサ曲「巡礼/東方の三賢者」はピアノとケーナでしっとりと、沖縄調の「愛より青い海」で第1部「パライソ」をしめくくった。第2部「ミラグロ」では、「じょんから」、北米先住民アーティストの「リトルリチュアル」、長岡竜介さんとのり子さんのオリジナル曲「光あふれて」、ボリビアの「道化師の踊り」、そして最後は歌いながらの「満月の夕(ゆうべ)」。さまざまな国の楽器が奏でる音色が、小さな旅へといざなった。

◆一旦下りた幕の前で、地平線オールスターダンサーズに「ダイナミック琉球」(というタイトルの踊り。ちへいせん・あしびなーでうるま市の子どもたちが踊りを披露してくれたのが、知るきっかけとなった)を根気よ〜く教えてくれた師匠である藏當慎也さんと具志堅真未さんが、江本さんから紹介された。その2人も加わり、総勢26名が今度は衣装を身につけて踊りに躍り、フィナーレを飾った。ちへいせん・あしびなーの旅土産が多くの人に手渡され、やがて踊ることとなった。これもまた、旅の報告のひとつのかたちであったような気がしてならない。もしかしたら、この大集会という場で、ダンサーたちは報告者だったのかもしれない、と。

◆司会者の閉会の言葉で、7時間に及ぶ30周年記念大集会は幕を閉じた。参加者数は266名に上った。そしてなんと、2次会にも100名の人たちがなだれ込み、オークションや歓談で大いに盛り上がった。場を共有することの嬉しさと大事さを改めて感じさせてもくれた、大集会であった。(中島菊代


大集会レポート

PART1
自然に生きる、野性を食う

松原英俊、服部文祥、関野吉晴

■狩る人や採る人がいて、解体する人や集荷する人がいて、運ぶ人と売る人がいて、その先にやっと登場する私たち「食べる人(買う人)」。分業化され、いまや大部分が人の手に委ねられてしまった「食」を私たちはどこまで自分たちの手に取り戻せるのか……。30周年記念大集会のトップバッターとなった松原英俊さん、服部文祥さん、関野吉晴さんの三人は、ヒトが動物として生まれてきてからずっと行ってきた「食」という根源的な営みにきちんと向き合っている人たちのように思える。シンポジウムは長野亮之介さんを聞き手に、まずは松原さんと服部さんの二人でスタートした。

◆タカやワシといった猛禽類を使って狩りをする鷹匠の中でも、松原さんはクマタカを相棒としている。松原さんにとって生き物を使った狩りは、「どんな冒険にもかなわぬ震える喜び」。オオタカを使う狩りのように人里で獲物を狙うよりも、山奥にまで入って狩りをしたいというのがクマタカを選んだ理由という。

◆だが、松原さんにしてみれば、なにも山奥でするのばかりが狩りではなく、狩りは日常そのものだ。月山の麓にある自宅には、キツネやハクビシンなどの動物がしばしば迷い込み、ある時には台所の流しの裏に入り込んだイタチを上から仕留め、ある時には食器棚に逃げ込んだアナグマを餌でおびきだして捕まえる。もちろん、それらはもれなく食卓にあがる。

◆それらの「食材」のなかでも松原さんのオススメはアナグマで、「豚汁より良いダシが出る」とか。ちなみにマタギ衆が選ぶ美味しい動物ランキング1位はクマ、2位うさぎ、3位アナグマだそう。嬉々として語り、たびたび会場を沸かせる松原さんの「食」談義だったが、なかでも会場が大きくどよめいたのは「ねずみの刺身も食べたことがある」との発言だった。

◆片や、食料や装備をできるだけ持たずに山に入る「サバイバル登山」を実践する服部さんは、狩猟を始めて今年で4シーズン目。今より若かったころの服部さんは、アルパインクライミングを追及してK2にも登頂した。だが、たくさんのポーターを金で雇って行う登山スタイルに疑問を感じたことがきっかけで、「自分の登山の純度を高めたい」と思うようになった。そうでなければ、他でもない自分が登る意味はどこにあるのだろうか、ヘリコプターを使って誰が行っても同じなのではないか、と。

◆装備から離れ、自分の手足だけで登るフリークライミングをするうち、今度は食料のことなども気になりだした。「交通機関を使って乾燥食を持っていくのはいいのか? 自分が自分の登山の“ホスト”になる瞬間はいつ来るのか」と。2005年から銃を使った狩りを習い始めた。昨年は冬のサバイバル登山に取り入れ、狩った鹿を食料にした。銃を使った狩りはもしかしたら楽な近道ではないかとも思うが、獲物を自分の手で殺して食うことで「生き物に対する感情も手に入る」気がしているそうだ。

◆松原さんとの話の途中で服部さんが挟んだ疑問は、住宅街にも出没して害獣扱いされているハクビシンの味だ。松原さんの回答は、「けっこう美味い。ネコに近い味」。会場は再びギョッ!うーん…、松原さん、そもそもネコの味って想像できませんっ! そんなこちらの困惑をよそに松原さんは、東京・代々木で下宿していたときにも、車に轢かれたイヌやネコを拾ってきて食べていたというエピソードを紹介。「野良猫は食べたらいいんじゃないかな。自転車やバイクで旅している人なんかは道で轢かれた動物を食べるべきだね」。イヌ・ネコがペットとしての地位を築き上げたかに見えた昨今、卒倒しかけた人も会場にいたかも……。

◆ここから、関野さんが加わった。関野さんはグレートジャーニー以前の20年間、南米に通い続けた。いっそのこと日本には帰らずに先住民になってもいいというつもりで通い始めたが、日本の友人や編集者に記録することを勧められるうち、「実行者から観察者に変わってしまった」と話す。関野さんが敬愛するペルーのマチゲンガ族は、完璧な縄文生活ができる人たちだ。ナイフ一本で弓矢はおろか、家も服も酒も作る。彼らに憧れ、彼らに習って狩りの練習もしたが、やはりそのウデは及ばない。自称“東京生まれ東京育ちのシティボーイ”の関野さんは(白い米への恋しさもあって?)、「彼らにはなれない」と思ったそう。

◆だが、「余計なことをせずに弓矢だけを一年やればあるいは獲物を獲れるかもしれない」と関野さん。それを聞いて服部さんが鋭く反応する。「遺伝的には僕らにもできますか?」。服部さんは、人間が基本的にやってきたことは自分にもできる気がしているという。だとしたらいつの間に差がついてしまったのだろうと思う。彼らは私たちにはない自然に生きる者としての「強さ」を持っている。私は自分の手で自然から食べ物を調達することもままならない。もしかしたら私はただ、怠惰に生きているだけだったのか?

◆服部さんはかつて、自分の育ってきた環境をこんな風に振り返っている。「生きることに関してはなにひとつ足りないものなく育ってきた。いま思えば、そんな小ぎれいで暖かく食べ物があふれた生活にどこかでやましさを感じていたのだと思う。自分がズルをしているような気がした」(2月7日朝日新聞「オピニオン」欄)。私たちは自分の手を汚すことなく、食べ物がやってきた道のりに思いを馳せることなくとも思う存分に食べることができる。もはや生きるものを殺した上で自分の「生」が成り立っていることにも無自覚だ。三人は誰よりもそのことに敏感で、格闘してきた人たちのように思える。ズルをしないで、苦労して、自分の手で……。話を聞いて、結局はそのことが自分という動物の命の根っこを深く強くするのではないかなどと考えた。(菊地由美子

PART2
縄文号ができるまで

関野吉晴、佐藤洋平、前田次郎、二宮陽香、高林聡子

■「ワッショイ、ワッショイ!」9月のある日、新宿歴史博物館で私はスクリーンの中の武蔵野美術大学(以下ムサビ)の人たちの姿を興味深く眺めていた。映画「僕らのカヌーが出来るまで」、砂鉄を溶かすため掛け声をかけながら大きなふいごを足で踏み、空気を吹き送る場面である。

◆11月21日14時00分、「縄文号が出来るまで」が幕を開けた!  進行役の江本嘉伸さん、隣には関野吉晴さん、クルーの佐藤洋平さんと前田次郎さん、映画を制作した木田沙都紀さん、縄作り担当の二宮陽香(はるか)さんが並ぶ。……一人足りない。食作りの高林さんだ。関野さんが場所を間違えて教えてしまい、時間に間に合わなかったのだ。「違う駅名を言っちゃったんです……」と申し訳なさそうに笑うその表情に、会場に笑いが起こる。

◆去年の春から始まった新グレートジャーニー海の旅。黒潮が九州にぶつかった一万年より近い時代、彼らの生き方は「必要なものは自然から取ってきて自分達で作ったものを使う」というものだった。関野さんは客席に問う。「今自分で自然から作ったものを持っている人はいますか?」好きな人の為にセーターを編んだという人がいても、その毛糸を羊の毛を刈って紡いだ人は少ないだろう。

◆船を作るのに必要な斧やナタ、ノミ等を作るのだが、その工程には驚いた。5kgの鉄を作るのに120kgもの砂鉄が必要で、鉄の塊を作るのに必要な炭300kg、それには3tもの松の木が必要であった。実際にやることで「気づき」がある。関野さん彼が学生時代にアマゾン川を下ったのは達成感を得る為だった。しかし冒険は達成感で終わる。「それでどうであったか」という事こそ大切なのだ。これまで単独、または少人数で旅をしてきた関野さんだが、今回は自らが教えるムサビの学生達に声をかけた。自然から素材をとって作るという行為を通して気づく事をして欲しいという思いからである。

◆さて、12月は忙しい月だ。大掃除の際、雑誌を結ぶのに何気なく使うその紐。それをもし自分で作るとしたら? いらない布を割く? 別れた彼女に貰ったセーターを解き毛糸で縛る? しかし自然から作らないといけないとしたら? 正にこの事に取り組んだのが縄班の人達である。縄はカヌーの舵を結ぶ部分や帆を引っ張るために使用される。素材の候補に挙がったのは縄文時代から生えている棕櫚(シュロ)、葛、麦、アカソ、シナなどで、強度を確かめ縄にするものを選定する。最終的に棕櫚が適していると分かるまでには、様々な試行錯誤があった。二宮さんの班の担当は麦。自然に近い状態の麦を譲り受け、実験をする。実験? そう、実験の仕方すら手探りなのだ。それぞれ水に浸す時間を分け、更にそれを叩いたものと叩かないものに分けてよりあわせる。結局麦はなっていく段階で崩れてしまい、縄には適さないと判断した。当然の事なのだが、商品として私達の目に触れるものは数多くの実験を通過し商品化される。今回はその事を体感する事が出来た。

◆ここからは佐藤さんによる写真を交えての説明だ。砂鉄を100人がかりで集め、26時間かけて30キロの(けら)という不純物の多い鉄の固まりを作る(これが冒頭に書いたシーンである)。その後刀鍛冶の方により不純物が除かれ、5キロの鉄鋼から道具鉄器が出来上がった。いよいよ船造りだ。

◆と、ここで食班の高林聡子さんが会場に到着。慌ただしくも着席した途端マイクを渡された彼女だが、慌てる事なく話を始められた。航海中の非常食を、自然の中からとって作る。海水からは塩を、トチの実やドングリ、校内の渋柿等から食べ物を作り、最終的にはドングリクッキーを作り航海に持って行ってもらった。

◆マイクは再び佐藤さんに戻され、インドネシアはスラウェシ島での船造りだ。だが肝心の大木が見当らない。石鹸等の原料となる油ヤシの植林が原因の一つだ。熱帯雨林の減少を体感することとなった。高さ50m、太さ1.7mの巨木を見つけ、作った工具で伐り倒す。丸木船の縄文号とは別に、何層にも組み合わせた構造のパクール号も作った。帆として使うのは、ラヌという植物の若葉を編んだ生地だ。実は丸木船は、木の中心部が腐っていた。これは取り除き、別の木を組み合わせて木釘で止める。かくして二隻の船が出来上がった!

◆前田さんは、砂鉄から始まりやっと船が出来た時の喜びは格別だった、と語る。2隻の船に乗るのはインドネシア人6人と日本人4人。船上での一日は夜明け前に始まり、風と波をみて帆を広げる。寝起きからトイレ、食事までが船の上、移動手段というよりむしろ家だ。釣りをしたり干物を作ったりし、雨が降れば垢を落す。そして夕焼けとともに碇を下ろし就寝。4か月の楽しい生活でフィリピンにたどり着いた。大学で物作りを学ぶ彼には、職人として物作りを続けてきた人達の言葉が心に残った。また、インドネシアの現状が自分たちの生活と密接に関わっているという事、自分の思いが至らなかったことに気付かされる。佐藤さんは、ある土地から生き物をとってくるという経験から船が生き物であると感じるようになり、彼らの世界観に近づけたと思う、と話した。

◆私はこの報告以来何度も冒険の「達成感」と「気づき」について考えている。実は今回語られなかった苦労も沢山あった。是非映画も観て多くの方に彼らの活動を知って頂きたい。http://bokuranocanoe.org(日大芸術学部・宮川竜一

PART3
あれから30年−ぼくらの旅の現在地

岡村隆、広瀬敏通、樫田秀樹、白根全、青木明美、山田淳

■part1、2が『起、承』なら、続くは『転』だ。そんな、聞き手も巻き込んで考えよう、との狙いも窺えるpart3のテーマ。縦軸が「日本人の旅は、どこから来たか、どこに居るか、どこへ行くのか」(司会・岡村隆さん)なら、横軸は「旅の『啓蒙』など果たして可能か」(白根全さん口癖)だろう。素直なタテに対し、ヨコの議論はどこまでも平行線の予感がする。僅か80分で、その縦横の糸から1枚の布を織り上げるなど至難のワザ。でも、『地平線30年』とあっては避けて通れない。「尻切れトンボになるのは止むを得ないが…」岡村さんの挨拶にも、そんなジレンマが滲んでいた。どんな旅をし、自分はどう変わったか。5人の登場人物が、自己紹介を兼ね、6分の持ち時間で語り始めた。

◆広瀬敏通さんは、英語も通じないインド南部の小さな村でのボランティア活動を皮切りに、全く違う習慣を持つ人々の間で暮らした経験から、「日本では『違い』を排除して争いを避けたがる。しかし、『違い』こそが人間を豊かにする」と締め括った。彼が27年前に開いた『ホールアース自然学校』は、現在、全国に3000近くあるといわれる同種の試みの第1号。その名称は、1960年代末に編纂され、彼にも大きな影響を与えたオルタナティブ生活の情報大全、『ホールアースカタログ』に因んでいる。

◆20代はオートバイ野郎だったが、「移動は終わった時だけ達成感があった」というのは樫田秀樹さん。26歳からソマリアの砂漠の難民キャンプでボランティア活動に携わったものの、そこも決して善男善女の世界ではなく、難民に揉まれて疲れ切った。30代に入って日本とも繋がりの深いアジアの熱帯雨林に向かい、1回だけのつもりだったサラワクをフィールドに、スタディツアーを催行している。

◆白根全さんも、「50ccバイクでのサハラ砂漠横断など馬鹿なことを色々やってきた」が、やはり達成感の後は空虚になった。その後、カーニバルにのめり込み、今では「評論家は世界でたった2人だけ」の1人だ。

◆「青木明美」さんは、旧姓『生田目』にピンと来る人が多いはず。豪快な生き様を地平線通信誌上で公開し、読者を絶句せしめた彼女も、「30歳くらいの時に廻った国が100か国ほどになり、今度は人の旅の手伝いを」と、添乗員に転身した。

◆79年地平線会議が発足した当時は4か月の赤ん坊だった山田淳さんは、大学時代に世界5大陸サミッターの最年少記録を作ったが、実は喘息持ちだったという。「そんな自分でもここまで出来た。登山は決して選ばれた人だけが成し得るものではない」との思いから、勤めを辞め、現在は登山ガイドをしている。

◆自己紹介が一巡。テーマは「日本人の旅は変わったのか」に移り、先ず広瀬さんが、「笑顔と挨拶がキナ臭い土地を旅する最大の武器なのに、最近、それが薄れている」と憂えた。「変わらないこと」を挙げたのは樫田さん。サラワクへ引率した市民団体の人々でさえ、「あなた達を助けてあげる」との思い込みから逃れられず、「金よりも写真が一番のお礼」と説明しても、1割もやってくれないという。

◆白根さんは「若い世代が旅をしなくなった」と指摘。ピースボートで船室から一歩も出ない参加者。あるいは日本で稼ぎ、物価の安い国で暮らしながら何もしない、いわゆる『外籠り』現象などに触れた。その全さんのコメント、「『数の増加は質の低下を招く』は、旅の世界でも同じ」に異議を唱えたのが山田さんだ。「質の高いものだけ残ればよいのか。数が増えたからこそジャッキアップされるものがあり、そんな時代だから私も登れた」と訴えた。

◆では、旅の『エリート』は、一般人の旅に対して何が出来るのか。岡村さんの、小乗仏教と大乗仏教になぞらえた問いに返ってきたのは、切実な当事者の声だった。「今は誰でも秘境と云われる場所に行けるが、参加者の希望と体力にギャップがある。『冥土への土産』の意気込みで来る人も多く、こちらも「応えないと」と思ってしまう」(青木) 「関野さんのいう『気付き』が、自分の暮らしや内面を豊かにしてくれる。それをやりたいが、出来ない。農家ツアーだって、業者を守るために政治家が作った旅館業法、道路運送法、食品衛生法の違反となる」(広瀬) 「旅行の企画者は現地に行った事がないケースも」(山田) 「現地を訪ねた時は感動しても、帰国後2、3ヶ月過ぎればタダの人」(樫田)等々…。

◆旅の感動は自立度に比例するから、その「お膳立て」は二律背反だ。それをどうアウフヘーベンするのか。しかも、旅に関わる諸問題も、全ては現代社会の縮図であるらしい。5名それぞれの立場の発言で、収束に向かうどころか、ますます議論は広がってゆく。が、ここで無念の時間切れ。最後のテーマ「どこへ行くのか」を、『40周年』、もしくは『50周年』大集会での「どこから来たか」へ自動送りにして、パート3は無事終了した。(久島弘

PART4
記録すること、続けること

進行:江本嘉伸、岸本実千代

■PART4が始まった。司会の江本さんと岸本実千代さんが並んで座り、まるでこれから報道番組が始まるようだ。80分間、次々とインタビューが続くらしい。表情アップを映すためのスクリーンも用意されている。どなたが指名されるのか……楽しみ〜。

◆最初に指名を受けたのは、四万十楽舎責任者山田高司さん。世界中の河を下り、砂漠に木を植えてきた人だ。19歳の時、学生探検会議で出会った江本さんに誘われ、地平線会議設立の打ち合わせに参加する。集まっている人たちが、みんなばらばらの話をしていたのが印象深かった、とのこと。

◆森と川と海しかない四万十川流域で育ち、今でも鹿や猪をさばいている。15歳の僕だったら、松原さんや関野さんを弟子に出来るくらいだ! 僕の技は「継続」しかない。来年もドラゴンレースを開催します。是非ご参加ください!

◆次に登場したのは、環境教育家でエコプラス主宰の高野孝子さん。活動の拠点ヤップ島へ学生を連れて行く大学の先生でもある。エコプラスの季刊誌は、海外の方々にも活動を伝えたいとの思いから、英語での表記もしている。記録する側であったが、来年公開の映画「ガイアシンフォニー第7番」に出演されているとのこと! テーマは「残す勇気 変える勇気」だそうだ。記録される側になった高野さん。早く観たいものである。

◆そして加藤千晶さん。高校の時から野宿を始め、雑誌「野宿野郎」を出している。大集会のスタッフでもある。野宿の記録報告が、旅雑誌では取り上げられていなかったし、トイレで初めて寝た時の心地よさを誰かに伝えたいと思って始めたとのこと。地平線会議にやってきたら、女の人が多くてうれしい!と女子らしい感想がもれた。

◆沖縄浜比嘉島の外間昇・晴美夫妻からのメッセージが届く。「大集会が行われている21日から、浜比嘉でも12年ぶりの祭りが開催されています。私達も心をひとつにしてがんばっています。」はるみちゃーん!あなたの三線が聴こえてくるようです。

◆オートバイライダー賀曽利隆さん! 記録することで思い出すのは「1981地平線から」を40部買って、自分で売り歩いたこと。しかも売値を安くしたりして。報告会はその年報を出すために、賀曽利さんが提案して始まったものだった。年報は魂の本と思っている。当時の中心メンバーは年齢が似通っていることもあり、お互い譲ったら負けという雰囲気があった。30年の流れは、賀曽利さんの中にこうやって記録されている。

◆地平線犬倶楽部(200回記念大集会時発足)主宰の滝野沢優子さん。ライダーである。犬が大好き。各国の野良犬を写真に撮って本も出した。野良犬といってもゆるい関係で誰かが世話をしているらしい。みなさん犬倶楽部に入りませんか? と賀曽利さんや関野さん、丸山さんに声をかけたけど……関野さん「犬は敵! 自転車で走っていると追いかけてくるし、荷物にも噛み付く。のどを狙ってくる。近寄ってきたら軽登山靴で蹴り上げるようにしてる。でも旅から戻ったら娘が犬を飼っていた……」丸山さん「パキスタンの山奥で近寄って怖い思いをした。犬に出会うと両手で石を掴むようにしている。でも今は犬を飼っている……」結果、御三方とも犬倶楽部入会は辞退されました。

◆金井重さんの長い長い話。地平線の方々は昭和の高等遊民ねぇ。一人一人がサムライよ。連合軍でないのが素敵ね。むっつり、ニコニコ、おしゃべり、いろいろな人がいるわ。高度成長の時期、皆には急ぐなと言いつつ、せっかちな自分はがんがん働いていたんですね。書いても忘れてしまうのよ。でも、短歌と俳句があるから旅ができたのよ。しげ節、きょうも快調! 

◆「あいらんだあ」を主宰されていた河田真智子さんからお花のプレゼント! 娘の夏帆さんの入院中、無理を押して会場へいらしてくださいました。「地平線の30周年。時間を重み感じます。「あいらんだあ」は昨年30周年で終わりにしました。これからこそが本気。続けていくことの気高さを思います。人と人との信頼関係はそこから始まります」。続けて来られた方だからこそ発することのできる大切なメッセージをいただきました。

◆カフィリスタンの研究者であり、地平線のために一銭にもならないことを続けてきてくれた人と、丸山純さんの紹介があった。直接参加できない人にも伝えることができればと思い、20年近くも前にパソコン通信「地平線HARAPPA」を始めた。「地平線データブックDAS」は全国の人がデータ入力し作った。リアルな場を盛り上げるのは簡単だけれど、バーチャルな場を盛り上げるのは大変なこと。『地平線・月世見画報』は、盛り上げるエネルギーがなくて独りで作った。

◆顔を突き合わせた報告会を続け、30年で人が広がったと思う。以前だったら参加していないような方もいらっしゃっている。報告会というリアルな場、バーチャルなネット、通信の3点の繋がり。この3つが揃っているから成り立っている。外間さんからのメッセージの中に「この間、小学生に『丸山さんは今度いつ来るの?』と尋ねられました」とあった。浜比嘉の小学生に写真の楽しさを伝えた素晴しい先生である。

◆大集会の司会者妹尾和子さん登場。沖縄便の機内誌の編集者。沖縄への旅は100回を越えた。昨年の「あしびなー」では、モノを創りあげることの大切さと難しさを実感した。「沖縄の方々は、偉い人やすごい人が来るイベントということでは心が動かない。知っている誰かがやるということで心が動く」のだそうだ。「あしびなー」では、その気持ちを感じましたよ。地平線会議は違いを楽しむ人たち、こだわっている人たちの集まりだと思っているとのこと。沖縄へ通う妹尾さんもそうですよねぇ!

◆続いて、安東浩正さん、中村保さんやシールエミコさんからのメッセージを実千代さんが読み上げる。「世界はまだまだ謎とロマンに溢れている」「『記録することの大切さ』これは地平線会議の賜物ですね」。行動し続けている人の、率直でキラキラするような言葉だ。

◆最後に、江本さんから力強いお話があった。長くやろうという思いで続けたわけではなかったけれど、結果的に30年続いた。私たちは持続するに値する大事な「場」を構築しているのだろう。「会」ではない「場」である。30年前に較べて我々自身が惹かれるものが変わってきたから、報告内容はゆるやかに変わってきている。しかしパイオニアワークの気持ちは持ち続けている。30年たっていささかも思いは変わっていない。誰かに引きずりおろされるまで続けていきたいと思っている。江本さん、「場」の継続をよろしくお願いします! 

◆地平線通信レイアウト担当の森井祐介さんへのお礼の言葉で終了となった。毎月、たくさんの言葉を記録する最終作業をしていただいている。本当にありがとうございます。通信を含め、これからもたくさんの人たちの話が聞きたい。記録することは、記憶することでもある。PART4は、行動し続ける人達を、その姿形も含め、丸ごと記憶しておくための場であったように思った。これからも、この「場」を大切にしていきたい。(高山住人 中畑朋子


話した・観た・躍った

スピーカーたち

びっくりした、おどろいた、かんげきした、たのしかった、きぼうがでてきた。

■地平線会議30周年記念大集会に参加しての感想は、言葉にするのは、もったいないような、心震え、心洗われるものでした。31年前、1998年、私は東京農大探検部の1年生だった。 全国探検部報告会が年末に法政大学であったと記憶している。その時、後に地平線会議の世話人代表になる江本さん(当時読売新聞記者)とニアミスしている。縄文時代のような狩猟採取が子どもの遊びで、江戸時代のような暮らしの残る日本の辺境、高知県の南西端から上京した私には、都心に行くのも冒険みたいなもので、先輩に金魚のフンのようについていった。

◆会議では、探検部の先輩達が江本さんと話しているのを、遠巻きに見ていたと思う。翌年の夏休み前、探検部のチーフリーダーの私に江本さんから電話があり、面白い集まりがあるので来いという。新宿の喫茶店に集まった人たちは、探検部界では名の知れた人たちで、一番若造の私は隅で、じっと観察していた。自己主張の強い人たちが多く、江本さんの「日本人の地球体験記録を残したい。」との趣旨から離れ、人の話は聞かず、自分の体験談や主張をする人ばかり。話はあっちへ飛びこっちへ走る。これは、ラテン系と言われる高知の飲み会に似ていた。しかし、この人たちは呑まずにそれをやっている。

◆「なんなんだ。この集まりは。」と思ったが、8月に地平線会議と名前がついて、9月から体験者の報告会と通信発送が始まった。この8月、私は探検部の仲間と日本最大激流の黒部川全流航下に挑んでいた。1981年の南米3大河川カヌー行の練習だった。

◆その後、30年間のうち、20年近くは青い地球の川を旅して木を植えていた。帰国すると訪ねる故郷が地平線会議だった。その故郷が、30年たって、歌って躍ってお祭りもできる集落に継続され変容していて、私は言葉にならない喜びを感じた。

◆継続力は技の極致であり、第2の天性だ。私の生まれ育った故郷は限界集落だけれど、第二の人生の故郷、地平線会議は、ますます、活性化していきそうだ。嬉しいことこの上ない。(山田高司

地平線会議という謎の存在

■驚いた。月々の報告会もユニークだったが、それだけなら(30年も続くこと自体、異常だが)江本さん、丸山さん、長野画伯ら牽引車の力の卓抜さによるとも言えるし、浜比嘉島のあしびなーも凄かったが、そこには間違いなく地元力のような浜比嘉島のオーラも感じられた。ところがこの30周年記念「躍る大地平線」はこれまでのさまざまな活動や興奮がすべて伏線であったような驚きをもたらしてくれた。『地平線っていったい何なんだ?!』

◆ぼくは今までに多くの分野でさまざまな組織、運動、団体にかかわってきたし、自分でも人並み以上に多くの団体を立ち上げてきた。だから、組織を作るとか、運動を起こすということについてある程度の持論を持っている。会社、社団、NPO、NGO、任意団体、地縁団体、業界団体などなど、それぞれのメリットやデメリットも分かっていたつもりだ。だが、地平線はそのどれでもない。それなのにこの瞬発力、求心力、若者たちに広がる影響力、そして30年も息切れせずにきた持久力。帰路、一人で夜道を歩きながら地平線の謎の力について考え続けた。地平線の対極にあるような名ばかり立派だが、すでに死に体の多くの団体についても考えた。

◆ぼくらの社会は本来、地平線のような水平型のフラットなつながりで力を合わせて暮らしやすい環境を作ってきた。これは結いやユイマールで知られているが、現在でも世界各地の少数民族の共同体に名残を見ることができる。でも現代人の多くが所属している会社もNPOなどの市民団体も果てはコミューン運動でも、利害が発生しているし声の大きい人が出張っている。地平線の存在はそれ自体が文化人類学的な関心の対象になりうるのではないだろうか。だれか、真面目に研究する者はいないか。(広瀬敏通

久々なのに、温かく迎えてくださった皆さん、ありがとう

■いやあ、久々の地平線の雰囲気。2次会まで含めて堪能させていただきました。それにしても、地平線の報告会をさせていただいてからもう8年も経っているのが不思議で、それなのに違和感が無かったのがまた不思議。久々なのに、温かく迎えてくださった皆さん、ありがとうございました。何人かの方に、「あの頃、就職するって聞いて、登山ガイド続ければいいのに、って思っていました。今日山の世界に戻ってくるって聞いてほっとしました」と言ってもらえて、本当に嬉しい気持ちで一杯です。是非また一緒に山に行きましょう。

◆パネルディスカッションは時間の限界もあり、自分の伝えたいことが完全に伝わったか自信がありませんが、とにかく、山でも旅でも多くの人が行かないことには始まらん、というのがメッセージ。そのためにも、これから出来るだけ多くの人に山・旅の楽しさを伝えられるよう活動して行こうと思います。今後の活動は、ホームページを作りましたので、そちらをご覧下さい(www.a-yamada.com)。それにしても、あれだけ濃いイベントを見ることはもうないだろうなあ。あるとすると、また地平線の●●周年、とか? そんなイベントで話す機会をいただけて、感謝、感謝、です。(山田淳

主流に翻弄されず、本物を見つめ体当たりで生きる核がぶれていない地平線会議

■地平線会議に初めて顔を出した時、私は20代半ばだった。大貫てる(映子)ちゃんと一緒にアマゾン川下りの報告をしたこともある。20周年記念集会には、ミクロネシア離島のラバラバを着て、犬を食べた話しをした。そしてたぶん、それ以来ご無沙汰だった。ちょうど10年前の秋から5年間、私は渡英し、昨年、たまたまある会で江本さんと再会してからまた通信を送っていただくようになった。

◆30周年大集会。お知らせを見ると、お、何だか進化しているゾ、と感じた。久しぶりの人たちの名前を見つけて、彼らに会いに行ってみようと出かけた。「変わってないなあ」。牛込箪笥区民ホールの暗がりで、その場の空気に私はしみじみ思っていた。

◆主流に翻弄されず、本物を見つめ体当たりで生きる核がぶれていない地平線会議は、表面的にはともかく芯は変容していないのだろう。何人かの10数年ぶりの人たちがいた。白髪にびっくりした人もいて、確実な時の流れを実感し、自分の立ち位置と役割も改めて考えた。

◆品行方正楽団に感激した。特に寄せ太鼓。「すべての生命を謳歌しようではないか」という大きくかつ安らぐような気持ちにさせてくれた。そして松原英俊さんにとうとうお目にかかって、話も聞けた。

◆30年続くというのは大変なことだ。江本さんの温かさとしつこさ(いい意味です)が、たくさんの人たちをつないできた。40年大集会はどんな企画になるんだろう。(高野孝子

その時、長野と服部は

■亮之介さんと事前にいろいろ考えていたんですが、我々の計画はあっという間に瓦解しました。見ていた方々はご覧の通りです。鷹匠・松原英俊の殺生観、ひいては死生観に迫るにはどうしたらいいのか。ケモノの大小で殺すときに気持ちが違うのか、そのあたりから切り込むのが、当初の計画でした。亮之介さんが松原さんに大型獣を殺すかどうか聞いたのはその伏線です。とどめは人が刺すのか、鷹が刺すのかを私が聞いたのも同じです。

◆しかし松原さんは、我々の常識をはるかに超えていました。鷹匠は鷹の餌のニワトリ、日々出没するイタチやアナグマなどのケモノを日常的に処理しています。獣殺しでいちいちナイーブになっている我々とはちょっと違う世界に住んでいました。

◆私は出発した瞬間に目的地にたどり着けないことを覚りました。亮之介さんも同じだったと思います。しかたなく我が家の屋根裏に入り込んでくるハクビシンの味でも聞いてみようと思ったら、出てきた言葉が「ネズミの刺身」です。小さな爆弾がポンと会場で爆発する音が聞こえました。そして、ハクビシンの味は「猫味」です。立場を忘れて笑いましたね。

◆ケモノを狩る行為をくり返していくと、世界の見方が変わっていきます。簡単に言えば、世界をまず「食べられるものと食べられないもの」にわけるようになっていきます。松原さんにとってネズミも猫もハクビシンも、まず食べられるものであり、その先で見た目は愛らしい小動物なのです。乱暴な言い方をすると人間も食べられるものです。

◆殺しを体験すると、人とケモノの垣根がなくなっていきます。私は鹿を殺して思います。鹿を殺してよくて、人を殺してはいけない理由は、少なくとも自然の掟には見あたらない。我々とケモノに違いはない、と。

◆関野さんには野生と自意識について迫ることで私の自己表現欲にひそむ醜いものに光を当てたかったのですが、それは次回の宿題のようです。(服部文祥

「地平線会議は、不滅!」です

  会場で読み上げられたメッセージ

■30年、おめでとうございます。30年という時間の重み、実感します。昨年島の会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を満期解散した者として、継続の大切さを感じます。私は、30年の島歩きを続けて、島とのつきあいの土台を作ったと思っています。30年を経て、島を語ってゆくことができる、これからこそが本気です。

◆「ぐるーぷ・あいらんだあ」は、私一人で始めました。30年と決めて始めた時には、30年という時間は遥かかなた、想像もつかない時間でした。30年たってみて、「続けてゆくことの気高さ」を思います。人と人の信頼関係はそこから生まれます。

◆「地平線会議」は、「会議」の名があるごとく、誰かが一人で始めたものではありません。だから、受け継がれてゆかなくてはなりません。

◆私の娘は今入院中でステロイド治療が始まりました。明日の地平線会議に参加したいけれど、参加できないかもしれません。誰かが「人生の事情で」参加できなくても、誰かが、それをカバーして続いてゆく、それが「会議」の素晴らしさであり、記録し続けることの意義であると思います。

 したがって! 「地平線会議は、不滅!」です。(河田真智子

未来はなんと不思議でスリルに富んだものなのだろう

■30年という長きにわたって続いてきた地平線会議。どこにそんな持続するエネルギーがあったのか。どんな男たち女たちがこの年月の持続を可能にしてきたのか。学びとるべきものは山のように高く、感じるものは海のように深い。

◆こんな記念すべき大会にもかかわらず、私が話したことは誰からも嫌われている生き物との壮絶とも言える体験談だった。時代はさかのぼること35年前、当時大学4年生だった私は代々木駅からほど近い、そこだけがまわりからとり残されたような平屋のおんぼろ下宿の三畳一間を借りて自炊生活を送っていた。そして新聞配達の途中で車にはねられたネコを拾ってきて下宿の台所で調理して食ったり、山から捕まえてきたアオダイショウやシマヘビ、ジムグリ等7匹のヘビを部屋の中で放し飼いにしたりと、少し風変わりな学生生活を送っていたのだが、生き物が好きな人間にとってそれはごく自然な行為でさして驚くにはあたらない。

◆そしてヒマさえあれば、鳥や獣を観察する山行を繰り返していたのだが、その時の夏も山へ行くための食料として2匹の大きなサバを買い、頭と内臓を取って塩焼きにして山に持っていったのだが、事件は私が留守にしていた部屋の中で静かに進行していた。そんなこととはつゆ知らず、薬師岳から雲の平への北アルプス最深部の一週間の山行から下宿に戻り、部屋の戸を開けて私が見たものは驚くべき光景だった。

◆なんと200匹近くもの大量のウジが三畳の部屋の床全体をおおいつくすようにして、モゾモゾ、モゾモゾとうごめいているではないか。私が部屋の隅に残していったサバの頭や内臓に何匹ものハエが卵を産みつけ、それが孵化していたのだ。あまりの凄惨さにしばらくの間声もなく呆然と立ち尽くすしかなかったが、その時のウジの海の中で泳ぎまわる7匹のヘビの姿は今もありありと私の脳裏に焼きついている。

◆こんな学生生活を送った男が、渾身の思いをこめて最後の鷹匠といわれたクマタカ使いに弟子入りをした。そして、その後に続く人生も予想だにしていないハプニングと事件の連続だったのだが、未来はなんと不思議でスリルに富んだものなのだろうか。(松原英俊

古い6冊の年報『地平線から』

■「躍る大地平線」のフィナーレは圧巻だった。品行方正楽団のすばらしい演奏のあとは、地平線オールスターダンサーズの美男美女によるフィナーレダンス。「おー、これぞ、30年!」。演奏するみなさん、踊るみなさんの熱気が伝わり、思わず胸を熱くした。これぞ、一度も絶やすことなくつづけてきた地平線会議の30年のまさに証だ。それを見ながらあらためて30年前を思い起こすのだった。

◆大集会の直前、江本さんに電話をもらった。「なあ、カソリ、何か地平線オークション用に頼む」といわれた。で、バイクの冬用ジャケットが頭に浮かび、すぐさまそれを用意した。そのあと、「たしかあったはずだ」と部屋中あちこちひっくりかえし、ついに見つけ出した。それはダンボールに入った年報『地平線から』の1981年版、6冊。そのうちの1冊を持って家を出た。新品の汚れひとつない『地平線から・1981』には冬用のジャケットと同じように、自分の汗と涙がしみ込んでいる。

◆我々は日本の冒険探検年報をつくるために、それを一番の目的として地平線会議を立ち上げた。ぼくは毎月1度の集会を担当したが、それというのも、年報を出しやすく、また出来上がった年報を売りやすくするという大きなねらいがあった。我々は完成した年報を売りさばく販路を持っていなかったのだ。そこで主要なメンバーは20冊、30冊と買取り、まるで行商人のように、いつも年報を持ち歩いては売りさばいていた。だが『地平線から・1981』の定価は2000円。けっして安くはない。顔見知りの人、とくに若い人たちだと、「いいよ、いいよ1割、安くしておくから」といって1800円で売ることが多かった。

◆2000円で買取り、1800円で売るのはけっこう辛いもの。とくに3人の子持ちにとっては…。だが、「(こうすることが)来年の年報のためなんだ」という気持ちでがんばれたように思う。我が家にあった『地平線から・1981』の6冊というのは、それほどまでに涙ぐましい努力をして、それでもなおかつ売れなかった分なのである。

◆地平線会議を立ち上げた頃の我々の基本は、「今、おもしろがっている人が一生懸命にやる。それを次々に伝えていこう」というものだった。今回の「躍る大地平線」に参加させてもらって、30年間、それをしっかりと継続してやってこれたことにぼくは感動した。これならもう30年、大丈夫か。ねー、江本さん。(賀曽利隆

どこかでもう一度「ぼくらの旅の現在地」を

■地平線会議30周年大集会はさすがに大集会で、人が多かったせいか顔だけ見かけながら言葉も交わさなかった仲間が多かった。河田真智子、高野孝子……ほかにも大勢いたような。ま、こちらも出番があったりして気持ちがせわしなかったせいもあるだろう。

◆その出番のパネルディスカッション「あれから30年―ぼくらの旅の現在地」だが、最初から覚悟していた以上に時間が足りなかったというのが実感だった。テーマと登場人物の顔ぶれからすれば、正直、最低でもあの3倍は時間が必要だった気がするし、事実、パネラーからも聴衆からも同じことを言われてしまった。

◆このところ、低調になったといわれる日本人の旅。とくに若い世代の間で人生や社会における「旅」の価値が相対的に低くなっているような全体状況と、その中にあって自分の旅を求め続ける地平線の仲間たち。その位置関係と「地平線的人種」の「存在の意味」などを、私としては30年という時間軸を絡めて、もう少し本気で議論してみたかったから、本当に残念なのだ。

◆もしそれができていれば、たとえば白根全が旅の現場の定点観測からシニカルに説く「日本人劣化論」などの日本人=日本社会論にも切り込めたろうし、自然学校やエコツアーなどの「装置」を使って一般向けの「教育・啓蒙」を実践している広瀬敏通さんや樫田秀樹の「実感と展望」も、共通の課題として引き出せたろう。30歳の山田淳君の真っ直ぐな理想と情熱も、その方法論とともに、みんなに「原点」を振り返らせて再出発を促したかもしれないし、いまは子育てで旅に出られない青木明美さんの「旅への思い」も、旅をしている人々に自身を客観視する新たな視点を提供できたかもしれない。

◆「旅と自分の人生」だけにとどまらぬ「旅と旅人と世の中あるいは歴史」のかかわり――。それについては、ともかく語るべきこと、聞くべきことは無限にあると思われるから、できることならもう一度、どこかで続きをやりたいものだ。もちろん、それにしても……と躊躇する思いはある。私たちは自分の旅以外に、世の「旅」に対して、あるいは「世の中」や「歴史」に対して何ができるのだろう。そして何をすべきで、何をすべきでないのだろうか……と。30年では答えなど出ないのだろうが、考え続けることだけは止めたくない。あらためて振り返れば、地平線会議は決して、単なる同好の士の集まりとして始まったのではなかったのだから。(岡村隆

世界の「ごくわずかを知り、ゆっくりびっくりする」ことが、地平線の彼方につながる

■躍る大地平線集会、皆さま大変お疲れさまでございました。実は何を隠そう、我が貧困砲声爆弾、じゃなかった品行方正楽団は泣く子も黙る超硬派体育会系バンド、というよりも、超過激SM楽団なのです。ちょっとでもミスると、たちどころにボコられてしまいます。ぢゅんこ女王様が冷たい目線で「絞めちまいな」などとおっしゃられると、団長のカナコンダ嬢は大蛇アナコンダのように赤い舌ベロをチロチロ。もう、それだけで鷹介などは目が潤んできちゃいます。ご両親には、本当に申し訳が立たないというものです。

◆当日も一回目の演奏が終わったとたん、楽屋で「お前ら、やる気あんのか〜!」とバンマスりゃうのしゅけ氏から罵声が飛び、建太とあーしはフルボッコされました。ステージでは予算の都合でモニタースピーカーなし、カナコンダ嬢のボンボがよく聞こえず、リズムを外さないようにするのが精一杯だったのですが、そんな言い訳は通じません。

◆そのおかげか、すぐ後のシンポジウムはメロメロでした。まあ、それぞれの立ち位置が違いすぎて、ずれてしまうのはしょうがないのでしょうが、激論を交わすどころか消化不良のままあえなく終了でした。

◆ひとこと付け加えたかったのは「すべての道はどこかへ通ず」ということ。世界の「ごくわずかを知り、ゆっくりびっくりする」ことが、地平線の彼方につながるように思うのです。それこそが個の深化であり、精神の糧となり得るものだと、あーしはいまだに信じております。てなわけで、命短し、よい旅を!(白根全

品行方正楽団の超パワーアップに驚いた!

■大集会おつかれさまでした。なんで私がしゃべったのといまだに?ですが「旅にも冒険にも探検にも行けなくても地平線会議に首を突っ込みたい代表」ってことでお許しください(笑)。

◆30周年記念大集会で驚いたことを2つ…ひとつめは品行方正楽団が超パワーアップというかレベルアップしていました。おぉ!!と感動しました。ふたつめは箪笥区民ホールのトイレにベビーシート(オムツ替え台)が設置されていました! 5年前(300か月記念フォーラム)は生後5カ月の息子をつれて電車での参加でした。ベビーカーでの乗り継ぎやら駅の階段やらで11月なのに汗だくのお出かけだったのを思い出します。やっとたどりついた東京のピカピカの新宿の箪笥区民ホールにベビーシートは無く、廊下の長椅子で乳をやったりオムツ替えをしていた横を大きな大きなラフカイとウルフィーが通りがかって、息子と一緒におっかなびっくりなでなでしたのでした(そのラフカイも星になったのですねぇ)。

◆いつも思いますが大集会のためにがんばったみなさん本当にありがとうございました。みなさんのおかげで楽しい時間をすごせました。

◆夏帆さん、エミコさん、地平線パワー全開で祈っています。(青木明美

■「地平線会議30周年記念大集会」、おめでとうございます!!!!!

  会場で読み上げられたメッセージ

 今日、この場に参加できないのが本当に…、本当に残念です。(;;)涙

 今、入院先の病院でこれを書いていますが、こちらの状況はこの場にふさわしくないので省略させていただきます。

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 皆さん! 30年分 もりあがって下さい (笑)
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★追伸:江本さんが大切にされてる「記録することの大切さ」。地平線会議は、正にそのたまものですね!!

 2009.11.16  シール・エミコ(^−^)

極秘! 丸山家のわんこ事情、そして「バーチャル空間論」

■自分のアドリブ能力の低さにはいつもヘキエキさせられているが、今回の大集会では、江本さんが司会をした「Part 4」で2度も指名されたのに、どちらもうまく受け答えできなくて、いまも苦い後悔を引きずっている。

◆まず、滝野澤さんが出ていた「地平線犬倶楽部」のコーナー。天下のカソリ、世界のセキノに続いて、今年になって犬を飼い始めたというだけの理由で、いきなり私にもマイクが回ってきてしまった。このワンコ(イングリッシュ・コッカー・スパニエル♀、名前はクー)について語り出したら、賀曽利さんをはるかに上回る親馬鹿モード丸出しで延々と話し続けて、ヒンシュクを買うのは目に見えている。とっさに関野さんの話を引き継いで、パキスタンの怖い牧童犬の話なんぞをしてしまった。せっかく犬倶楽部を盛り上げようと頑張ってくれている滝野澤さんにはたいへん失礼なことをしたなと、大反省している。

◆私も令子も以前犬を飼っていたことがあるが、昔のことだから、当然どちらも庭犬だった。ひょんな経緯で(長くなるので略)今年の1月にクーがわが家にやってくることになったときも、犬と人間のあいだには一線を引くべきだと二人とも固く信じていたのだが、庭の草花を食い荒らす、道行く人や犬に吠える、黒い犬には蚊がわんさか寄ってくるなどの数々の理由でなかなか外に出すことができないでいるうちに、家のなかで犬を飼うことの不思議な面白さ、江本さんの言うところの「獣と一緒に暮らす面白さ」にすっかりハマってしまった。

◆いつも犬と一緒にいると、さまざまな言葉をしゃべっているのがわかる。こちらの日本語も、そこそこ通じる。犬には感情はあるけれども思考はないとよく言われるが、ない脳味噌をしぼって必死で考えようとしているのが、なんともいじらしい。このズレたコミュニケーションが、面白くてたまらないのだ。これまでの人生でほとんど口にしたことのない「こらっ!」と「だめ!」を、今年は1日に何十回も発する羽目になった(もちろん「カワイイ!」も)。

◆夜な夜な麦丸君が江本さんの布団に潜り込んでくると聞いて、さすがにそこまではできないぞと思っていたのに、大集会の直前から、恥ずかしながら親子3匹、川の字になって眠るようになってしまっている……などという話をすればよかったと、いまさらながら思う。でも、鋭い目付きで語り合う鷹匠と鉄砲撃ちの話を聞いたあとでは、犬と一緒の布団で寝ていますなんて、とても言えないよな……。

◆もう1回は、「Part 4」のメインテーマである「記録すること、続けること」を受けてのご指名だったが、前置きを手早く述べ、さてこれから本論と思ったところで、もう時間ですとなってしまった。パソコン通信、のちにインターネットを通じて、地平線会議が地方在住のメンバーたちと双方向でつながる道具を手に入れ、以後は東京を離れた報告会の実施や人海戦術を駆使した出版物の制作ができるようになったというような話をしたが、もっと強調したかったのは、世代も価値観も方法論もスキルも異なる人たちが、そうやってバーチャルでつながっていくことの危うさと難しさである。

◆バーチャルな空間であるからこそ、ちょっとした書き込みひとつで、まるで生きもののように場の空気は動いていく。行間を読み、場を維持していく努力を参加者一人ひとりが続けることが求められる。でも、それは、不毛なことではないのだろうか? そんな疑問からリアルな場に力を注ごうとすると、今度は活動の広がりや人と人とのつながりが薄れていく。会員制をとらない、どこまでも範囲が広がってしまう地平線会議だからこそ、リアルとバーチャルのさじ加減が難しい。

◆今回の受付に並べられた年報『地平線から』のバックナンバーを見ているうちに、紙のメディアに記録して残していくことの重さをひしひしと感じた。その重さに、これからの地平線会議は耐えていけるのだろうか。30周年を機に、そのあたりを私たち一人ひとりがじっくりと考えていくべきなのではないかという感慨を持った。(丸山純

松原さんにグレゴリーをねらわれて

■あっという間の楽しい一日でした。報告会も勿論ですが、スタッフの人達の動きを身近に見られたのも、ダイナミック琉球を踊れたのも、嬉しかった。

◆報告会の間はずっと、「30年」という時間を考えていました。つねに変化をしていなければ、でもその中に変わることのない核がなければ、今ここにはなかったのだろうし。今目の前にある「熱」の正体って、何なのだろうかと思った。改めて、すごいなあと思いました。こういう場があるということに、私は力を貰っています。

◆で、ええっと、話は変わるのですが、私は鷹匠の松原さんが大好きです。二次会が終わって移動する時、松原さんが私のザックを見て「グレゴリーですね」と仰るので、私は「身の丈以上の物を持ってごめんなさい」って思った。松原さんは、「山でグレゴリーを背負っている人を見たら」って云った。「遭難しないかなって思う。そうしたら貰えるのに」って云った。だから、私が遭難したら、私のザックは松原さんの物です。プレゼントはしたいのだけれど、危険なところには行かないようにしなければ。

◆って、三次会の後、安全そうな近くの公園で野宿をしたら、翌朝のラジオ体操にも、自分でかけた目覚ましにも気付かずに、爆睡してしまいました。あんなに気持ちよく寝られたのは久しぶりです。それもこれも大集会の、皆さまのおかげです。有難うございました。(貰った力を使う場所を誤る『野宿野郎』加藤千晶

《『月世見画報』めくりながら、わが人生の歴史を考えた》

■「躍る大地平線」、すばらしかったです。ダンサーズのみなさんは合宿までしたそうだし、品行方正楽団も(約1名怪しげな方もいましたが)相当な練習を重ねたものと推測されます。それに比べて当方は地方在住を理由に、Tシャツ&エコバック作成しか貢献できなくて申し訳なかったです。

◆「月世見画報」もまさに地平線会議の歴史を集大成したともいうべき一冊、秀逸です。長野画伯以外にもけっこう多くの人がイラストを描かれていたんですね。なんと、江本さんも描き手だったとは知りませんでしたが、私の報告時に当たらなかったのはラッキー♪(アンラッキー???)

◆後日、パラパラとめくりながら地平線会議の歴史を振り返っていましたが、私が地平線会議で最初に報告させていただいたのは激動期の東欧をツーリングしたとき。ちょうど20年前だったのですね。あっという間のようですが、地平線会議が30周年ということはその3分の2に関わってきたということで、我が人生もそれなりに歴史を作ってきているんだなあ、と感慨もひとしおでした。

◆感慨といえば、今回、何年も会っていなかった懐かしい人とも出会えた一方、近年がんばって活動している人と初めて対面できて、いい刺激になりました。メールや通信で近況を知っていても実際に会うとやっぱり印象が強いですね。これからも、機会を作って報告会やイベントにどんどん参加していきたいと思ってますので、よろしくお願いします!!(滝野沢優子

《生きているうちは、好きなことをやり続けよう》

■地平線会議が始まった30年前、私は、その数年後の真夏のサハラをバイクで走ろうと、アルバイトでの資金稼ぎと大学の単位をためるのに多忙な毎日でした。30年たった今、いろいろな経験をしてきましたが、先日の集会で話してみて分かったのは、自分は相変わらずの口下手だし、人前に出るのも苦手と30年前と何も変わっていないことです。

◆ただ、やはり地平線会議にくると元気が出ます。30年前はとてつもない「オジサン」に見えていた50歳に今自分がなっても、気持ちは昔のまんまで、当時、50歳の人は今や80代。それでも行動している人がいる。元気が出ます。生きているうちは、好きなことをやり続けようとの思いを強くしてくれた集会でした。(樫田秀樹

ケーナを始めたのもちょうど30年前です

■江本さんこんばんわ。30周年大集会、大盛況でしたね。品行方正楽団の演奏はいかがでしたか。9人目のメンバー・息子の祥太郎(3才)がステージではお騒がせしました。

◆初夏の頃より私のスタジオに集まり、楽しくリハーサルを重ねて来ました。長野画伯をはじめ、地平線の皆さんと演奏をご一緒させて頂き、とても楽しいひとときでした。

◆私がケーナを初めたのが、偶然にもちょうど30年前です。ケーナはアンデス山岳地帯生まれのナチュラルな笛ですし、構造も自然のままでシンプル。そんな楽器が、地平線の皆さんとの縁を結んでくれたのかもしれません。

◆年末年始には、28年間続けている冬山コンサートが、北八ヶ岳の黒百合ヒュッテであります。春には松本市の全小学校を巡るツアーなど、各地で演奏しています。品行方正楽団へもぜひお座敷をかけてくださいね。(ケーナ奏者・長岡竜介

漂海民バジョ 地球上でもっとも争いごとを嫌う人たち

■インドネシアから日本に航海して来る途中で出会った漂海民バジョに興味をもった。地球上でもっとも争いごとを嫌う人たちではないかと思ったからだ。11月の上中旬、地平線会議30周年大集会の直前に一人で当地に再訪した。

◆大国に挟まれた小さな国が生き延びるには高度の外交力が必要だ。中国とインドの間にシッキムという小さな王国があった。34年前、インドに合併されてしまった。隣の王様を頂くブータンはシッキムの例を他山の石として、同じ目に遭わないように対策を立てている。中国がチベットを呑み込んでしまった時も、同じチベット民族でチベット仏教を国教としているブータンはインドと緊密な外交関係を結び、中国への併合を免れている。

◆バジョという民族はフィリピン、マレーシア、インドネシアの広大な海域に幅広く広がって生きている。西スラウェシなど海が深いところには進出しなかったが、珊瑚礁があればどこにでも進出した。彼らは希にみる平和的な民族で、人を殺す武器を持たない。自分たちの身を守るためにも持たない。そのためスールー海では海賊の格好の餌食になっている。彼らは他民族を支配したこともない。いつも強い民族や王国に従属してきた。

◆オランダの植民地になる前、スラウェシ島にはゴア王国が栄えていた。バジョたちは王国に従属し、海上遠方まで出かけていき、ナマコ、フカヒレ、ベッコウ亀を捕ってきた。王が過酷な命令を出す時、他の民族だったら抵抗したり、蜂起、反乱したりするが、バジョたちは違う。さっさと逃げてしまうのだ。

◆彼らの家は船だ。いつでも、どこへでも行けるというのが強みだ。しかし彼らは自分自身で自分自身を守る術を持たないので、常に保護者が必要だ。しかし保護者が強圧的で気に食わなければすたこらさっさと逃げてしまえばいい。そのため保護者も手荒なまねはできない。

◆ほとんどのバジョは家を持つようになった。私が再訪した人たちは家を持たず、船で暮らす。王国のなくなった現在、仲良くなったアルマナテイさんの保護者は仲買人だ。市場より安めだが、確実に獲物を買い上げてくれる。船の燃料や米などがなくなった時は金を貸してくれる。アルマナティさんは今回私がいたときに採れた魚をすべて仲買人のバルパパンさんに売った。しかし借金分を差し引くと利益はゼロだった。悪徳仲買人に出会うととんでもない目に会うが、アルマナテイさんは今の暮らしに満足している。(関野吉晴


観客席で考えた

「地平線会議」という名称のすごさ

■「地・平・線・会・議」という名称のすごさを改めて感じさせられた1日でした。読んで、聞いて、書いて、これほど想像力をかきたててくれるブランドはちょっとない。他の名前だったら、ここまで来られたかどうか。

◆身の回りの感覚範囲を超えて世界を理解しようとする知的欲求のことを、加藤周一さんは「文化的衝動」と呼んでいます。皆さんのお話を聞きながら、次のようなことを考えました。[1]縄文的生活に対する憧れと畏敬。[2]旅の質に高低というより、それは「志」のレベルではないか。[3]「純度の高い」山登りや自然の中の生活なんて、もはや自己満足の程度の差でしかないみたいだ。[4]アホらしい教育ママ的過保護とヒステリーが全日本を覆っている。若い人たちが海外に出ないのではなく、出させようとしていない。面白い事は危険視、おいしいところは味見などして不味くする。旅行業者はママ代わり、旅行業法はママのマニュアルか? 等々、去年見た「イントゥ・ザ・ワイルド」という映画なんかも思い出しました。

◆地平線会議で日本人の「鎖国遺伝子」を打破せよ、なーんて。文化的衝動をぜんぶ解き放ってね。気分的には冒険と言うより「アソベンチャー」くらいの余裕があっていいでしょう。(小林天心 亜細亜大学教授)

のっけからパート1でノックアウト

■みなさん、すっかりお客様モードで楽しませていただきました恩田真砂美です。5年前の大集会よりさらに洗練された運営。どれだけの時間と労力がかかっただろうと、ただただ「すごい…」のひとこと。地平線会議のゆるやかな居心地の良さは、なによりスタッフによっているのだと思います。でも居心地の良さに気を抜けないのは密かに潜んでいる刺激。これは面と向かって襲いかかってくるようなものではないけれど、強烈ですね。

◆私はのっけからパート1でノックアウト。旅にはそれぞれの個性や指向があるけれど、本物ってなに?と迫られた感じ。何をやったか、ではなくて、徹して味わいつくすということの凄み。また、地平線は自分の歴史を振り返るような場でもあり、昔からの仲間やお世話になった方々と再会。当日のマストアイテム長野亮之介画伯の「月世見画報」と、滝野沢優子会長の犬クラブエコバッグも無事ゲット。ゆるやかで刺激的な一日をありがとうございました!(恩田真砂美

躍りまくった地平線に感動

■フツーの人にはあまり縁のない冒険の世界。私もこれまで冒険の意味・意義がよく理解できずにいたのですが、今回参加して少し分かった気がします。「冒険というのは達成感を得るだけだから、私は冒険家じゃない」という発言や、冒険にも気づきや自然・環境への配慮やメッセージ的なものなど、時代とともに求める/求められるものが変わってきているという話もありました。

◆でも、「挑戦すること」は生きてくうえで必要なことで、冒険を成し遂げてきた人たちは、新しいことに挑戦する勇気を与えてくれる。誰もやったことないことをやる、絶対に不可能と思われたことをやる。その勇気と行動力はやはり記録され伝えられていくべきものなんだぁと思いました。

◆そして、何よりも「行動者の集まり」というだけあって、ほんとにすごい行動力で、この素晴らしい集まりを支えているエネルギーにすごく感動しました。参加してすっごく良かった!!(中垣真紀子 日本エコツーリズム・センター事務局)

いつまでも、全力で、真剣に遊んでいたい!!!と決意した地平線30周年だった

■地平線30周年記念パーティー、とっても楽しかったです。会場に充満した熱気とパワーをしっかり吸収して、ホクホクしながら家路につきました。私は、モノをつくることで社会と結びついていきたいな、どこかに属するのではなく、自分でおもしろいと思えることを生み出していきたいな、と思いながら、これまでやってきました。

◆そして時々はそんな自分に迷ったりもするのですが、みなさんのお話を聞いて、子どものように無邪気で真剣な表情を見て、ああ、私も大丈夫、と思うことができました。来年は私も30歳。これまでに体験したことの中から、自分が生涯携わっていくことを選び、形にしていく年代です。いつまでも、全力で、真剣に遊んでいたい!!!と決意した地平線30周年でした。ではでは、簡単ですが、このへんで。江本さん、スタッフのみなさん、素敵な時間をありがとうございました。(木田沙都紀 ムサビ卒業生)

「男はつらいよ」シリーズと同じ、マンネリだからこそ安心して楽しめる

■降りる駅を間違ってしまい遅刻。以下の雑感は、開始1時間より後の催しについてのもの

☆トークについて。意見を交わすことで生まれる化学反応を期待していたが遠慮がちな感じ。喧嘩するぐらいの熱気を帯びた展開を期待したのだけど

☆15年通っているが最近とみにマンネリだと感じる。大集会もそう。会場は違えど雰囲気は通常の会と同じ。とはいえ「地平線」のマンネリが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。映画「男はつらいよ」シリーズと同じで、マンネリだからこそ安心して楽しめる

☆江本さんの最後の挨拶で、マンネリは今後も続くことがわかった。開き直る江本さんに、正直少しウンザリしつつも「そうこなくちゃ」と僕は心の中でうなずいた

☆日本のスタンダードな価値観とはかけ離れた人々の価値観に触れられるこの会は僕が言うまでもなく貴重な存在。報告者の言葉に毎回、自分の固定観念が揺さぶられる(もちろん僕の報告は除く)。自分の価値観を転換するぐらいのインパクトを受ける報告が今もたまにある

☆踊りは新鮮で上手だったが、マンネリでないだけに、なぜ地平線でそれをやるのか必然性を感じず。浜比嘉に行っていれば、より楽しめたのかもしれない。訪沖しなかったことにすこし後悔

☆二次会のオークションは資金不足のために競り負け続けた。「地平線から」創刊号が手に入らなかったのは残念だけどロシアパンとイモを入手できたのはラッキー。数日中に夫婦で完食しました。(西牟田靖

一世代30年

■地平線会議を立ち上げた人たちには、私が探検部の学生だった頃に顔を合わせた事があるので、40年来の知己ともいえる人が多い。そして30年前、地平線が産声をあげた頃に、留守番電話利用の地平線放送などのことを聞いて、その実行力に感心していた。ただ、当時の私は学生時代にさんざん「組織論」などを聞かされてうんざりしていたので、なるべく一人で行動したかった。後で考えれば、地平線は組織ではなく、集まりだったのだが。

◆地平線に頻繁に顔を出すようになったのは、関野吉晴さんのグレートジャーニー応援団の事務局を1993年に引き受けてからだ。現場でサポート、現地の情報提供etc、さまざまな形で協力してくれた人の多くが地平線に出入りしていたからだ。

◆関野さんは人類の歴史を語る時、一世代30年が目安という。地平線も誕生以来少しずつ変化してきたと思うが、一つの節目を迎えて、これからどのように変わっていくのかを楽しみにしている。(野地耕治・グレートジャーニー事務局)

エミからのメール

■所用で最後(フィナーレ)までいることができませんでしたが、オープニングから18時過ぎ(重さんのお話)までトータル5時間半、ずーっと皆さんの話を聞きいってました。とっても充実した内容でした。

◆日頃、なかなか報告会には行けず、通信で記事を読んでいる読者の一人となっていますが、いつも思うのが、探検家・冒険家・登山家などなど、様々なジャンルの報告者の方々は、私的には、ワイルドな風貌(いわゆる「山男系」)を想像しながらレポートを読んでいたのですが、皆さん穏和な雰囲気で、また、話も楽しくわかりやすく(猫の肉の味は想像できませんでしたが)、ユニークでとにかくどのパートも興味深い内容で飽きることなく時間が過ぎてました。

◆中でも鷹匠の松原さんの話は、笑わせるつもりではないのでしょうが、本当に面白かったです。それから賀曽利さんや重さんのトークは、軽快でユーモア満載で楽しいですね〜。「あの話術」を身に付けたいくらいです。

◆エミからも「想像の世界で楽しんだよ」ってメールも来ました。スティーブとは、久々に電話で少し話す機会がありましたが、30周年記念大会のこと気にしてました。そして、30年間続けてきている江本さんのことも「スゴイヨネ〜」と尊敬していましたよ〜。江本さんもこれで少しは「一段落」ですか?(藤木安子

30年の「変容」と「継承」を実感

■今回、30周年という記念すべき会に初めて参加させていただきました。あまり予備知識もないままお邪魔させていただいたのですが、パート1の鷹匠・松原英俊さんの「慶応ボーイ時代に下宿で蛇7匹を放し飼いにしていた」というお話から、フィナーレの沖縄の熱気あふれるダンスまで約7時間、本当に楽しませていただきました。会場内では、よちよち歩きのお子様から、大先輩にあたる年代の方々までいらっしゃいましたが、みなさんが家族のように和気あいあいと声をかけあっていらっしゃったのがとても印象的でした。

◆私も大学時代から徐々に旅の魅力にはまり、26〜27歳にかけて半年ほど、キューバから南米、ヨーロッパなどバックパッカーでまわりました。仕事を始めてからは、なかなか長期の旅には出られませんが、今回の「大集会」にお邪魔して、久しぶりに「旅」に対してのお話をいろいろとうかがえて、大変刺激を受けました。何人かの方がおっしゃっていた、「旅に対する考え方が30年の間に変わってきた」というお話を特に興味深く感じました。まさにテーマ通り、「変容」と「継承」を実感させていただき、とても有意義な、そして楽しい時間を過ごさせていただきました。

◆このような会が30年も続いてきたことに驚いたとともに、節目に出会たことを本当にありがたく、また、嬉しく思っております。 またぜひ参加させていただき、皆様のお話をうかがえるのを楽しみにしています。2次会まで温かく迎えていただきまして、どうもありがとうございました。寒い日が続きますが、皆様お体にお気をつけてお過ごしくださいませ。(山本奈朱香 新聞記者)

家族3人で参加した大集会

■大集会、家族3人で参加させてもらって楽しかったです。どこまでが関係者なのかよく分からないとはいえ、いきなりダイナミック琉球に嫁さん&子どもが参加してもいいのだろうか、と思っていたのですが、違和感なく受け入れてもらえて本当にありがとうございます。会場でしげさんに「家族で参加なんて画期的なことよ」と褒められて、いい気分でもありました。

◆嫁さんは前々からどうしても鷹匠の話が聞きたいしダイナミックのリハもあるから、後から子どもを連れてきてね、と言われ、おまけに子どもの学芸会までぶつかり、自分が参加できたのは4時半以降となり、聞き逃した部分が残念です。撮影は落合さんの助手の山本君のさらに助手、あんまり役に立てず、申し訳ありません。ダイナミック琉球は素晴らしかったです。何度見ても自分でできるとは思えないけれど、迷惑かけても参加したしたほうがよかったのかな、という悔しさもありますね。

◆2次会のセリ人、車谷くんがカッコよかった。みんながそれぞれに酔っ払っているなかで、ちゃんとセリを成立させたのはすごいです。おかげさまで僕も賀曽利隆さんのジャケットをゲットできました。とにかくただただ感謝。(坪井伸吾

40周年、50周年が今から楽しみです

■30周年記念大集会の成功おめでとうございます。30年、1度も途切れることなく継続されてきたということに改めて感心しています。地平線会議に初めて参加させていただいたのは、1986年の広島三朗さんの時。参加している人達の雰囲気にとても惹かれるものがありました。

◆あれから20数年、雰囲気は大分変わりましたが、魅力はそのままです。今回の大集会に限らず、常々感じていることですが、毎月の報告会でも裏方としてもくもくとサポートされている方々にいつもある種の感動をおぼえます。皆さん、誰に強要されるわけでも、頼まれるわけでもなく、すすんで動く、動きたくなる、そんな気持ちにさせる魅力が地平線会議にあるからこそ、そして江本さんのカリスマ性が、そこにうまくかみ合って、今まで途切れずに続いてきたのだと思います。これからの40周年、50周年が今から楽しみです。(三上智津子

サプライズは見事な花束とともにやって来た

■どんな「サプライズ」を用意するか考えるのが大集会の楽しみのひとつでもある。しかし本当の奇跡や偶然は、そうした演出とは無縁に起きるものだ。2004年の300回記念フォーラムでは、冒頭に手品をやってもらった。今回は「ダイナミック地平線」もさることながら、パート4「記録すること、続けること」がサプライズ・パート。山田高司さん、高野孝子さんと「お楽しみ」ゲストの話が続く中で、誰も予期しなかった本当のサプライズ!が河田真智子さんからの花束贈呈だった。

◆昨年、30年を機に島旅集団「ぐるーぷ・あいらんだあ」を解散した河田さんからは「30年という時間の重みを実感します」とのメッセージが寄せられていた。予定では岸本実千代さんがそのメッセージを読むだけだったのが、ロビーから花束を抱えたご本人が登場。娘の夏帆さんが先週急に発熱して入院しており、付き添いで大変な最中を病院から駆けつけてくれたのだ。

◆これから病院に戻るのに風邪のウイルスを持ち帰ってはいけないから、とそれまで客席に入らず、ロビーのテレビモニタでステージの様子を眺めていた河田さん。あいらんだあ30年間の志を、その花束と共に地平線会議に分けてもらったような気がした。(落合大祐

服部文祥さんの話はそのような生活もおもしろそうだけど危険で難しそうだなと思いました

■大地平かいぎ、いろいろなことを知りました。鷹匠には2種類あるということは初めて知りました。服部文祥さんの話はそのような生活もおもしろそうだけど危険で難しそうだなと思いました。品行方正楽団の音楽は音色がきれいで迫力があってすごいなと思いました。あと10年先の40周年記念の集会もやってほしいなと思いました。その時はまた行きたいです。いろいろな人の話をまた聞きたいです。(40周年記念大集会スタッフ・落合望人 小6)

《布オムツと箒−鷹匠の話から自分たちの子育てを考えた》

■行動する旅人たちのネットワーク「地平線会議」に、「旅」をしたことのない私が参加するのはいつも躊躇われるのですが、30周年記念大集会だけは、乳幼児を置いてでも駆けつけなければ、特にPART1の「自然に生きる、野性を食う」はなんとしてもその場で体験しなくてはと思い、参加させていただきました。

◆期待どおり、いやそれ以上のおもしろさで、目の前のことをこなしていくだけで精一杯の育児ライフにどっぷり浸かった脳みそが、久しぶりに「考える」という活動をしようと、ギシギシ動き始める音が聞こえた気がしました。鷹匠の松原さん、秀逸でしたね! もっとお年を召した寡黙な方を想像していました。

◆「主体的な『食』」という意味では、今年で3年目になる青空自主保育会の活動で、鎌倉の里山や谷戸の田畑、湘南の海の恵みを、一年を通して子供と一緒に味わい尽くしているので、“動物としてのヒト”とまではいかなくても、“採集民としてのヒト”くらいにはなれつつあるかなと思っています。お味噌や梅干し、漬け物や干し柿などの保存食づくりにも、だいぶ慣れてきました。

◆でも、紙オムツや洗濯機、電子レンジや冷蔵庫などの文明の利器をフル回転させても、たった2人の乳幼児ですら満足に子育てできていないのが現状で、ほんの2世代前まで、みんなが布おむつを手で洗い、薪で炊事をしながら、5〜10人の子供たちを育てていたということが信じられない気持ちです。

◆ただ、人間必要に迫られればなんでもできると思っているのも事実です。すでにあるものを最大限に利用するのは、人間の本能だということは、赤ちゃんを育てていてもよくわかります。非電化工房(http://www.hidenka.net/)の藤村靖之氏も、「貧しい昔に 戻るのではなく 新しい豊かさを 愉しめるように……」と言っているように、その本能に抗うには、まさに愉しむしかないのでしょうね。それは、すべてを凌駕する「好き」という気持ちに忠実に従う松原さんの生き方にも通じる哲学のような気がします。

◆私の周りには、布オムツはもちろんのこと、掃除機ではなく箒とちり取りが常識、さらにはソーラークッキングを実行する強者までいます。私ももっと精進しなくては!と、身近な問題に引き寄せて考える湘南ママでした。(大久保由美子

あのあいさつが聞けただけでも、参加した甲斐がありました

■江本さんの地平線への熱い思いがこもったごあいさつでした。あのあいさつが聞けただけでも、参加した甲斐がありましたよ。こうした思いを持った人が集い、あの日の集会になったのですね。演奏も、踊りも、実にたいへんなもので、驚いていました。みんな、参加することに大いに意義を感じていたんでしょう。楽しそうで、そして一瞬一瞬を惜しんでいるのもわかりました。ほんとうに、お疲れ様でした。といっても、くれぐれも一休みなどなさらないように。どっと疲れが本格的に出てしまいますから。要注意。(佐藤安紀子

会場で「クルミちゃんのパパ」に結婚を報告した

■カナダ・ユーコン準州でカヌーの仕事を手伝っていた2004年の夏、アラスカを自転車で旅した前年の日記をまとめた自作の本を、川に出る間際の野田知佑(のだともすけ)さんに渡した。文章を書く仕事がしたい、とだけ思いながら、何をしていいか分からぬまま、とりあえず毎日書きためたものだった。

◆1週間後、川を上がる野田さんを迎えに行ったとき「本が書きたいなら、旅を記録することだ。印象や思いはいつでも書けるけど、事実は一度忘れてしまったら書きようがないから」と言われた。その冬帰国し、鳥取県にある社員5人の小さな釣り雑誌社に就職した。釣り取材は、船の出られない日は休みなので、今度は人の旅の話を書こうと、旅を記録する「旅と冒険」という安直な名の雑誌を趣味で作った。

◆コピーとホッチキスの粗悪な手作り。その1部を、東京で活動しているらしい地平線会議代表世話人の江本様あてに送りつけた。数ヵ月後、突然、振替口座にカンパが振り込まれていた。見ず知らずの小さな活動にお金を振り込むなんて、どんな人だろう。いつか東京に行ったら絶対に会いに行こう、そう思っていた。

◆2008年、東京の子ども新聞社に転職が決まった。引っ越し後まもなく、都内の音楽会で、出版社を通して6年前に知り合った女性に再会した。チェンバロ弾きで、およそキャンプなどとは縁のなさそうな彼女から、地平線会議の名を聞くことになるとは思いもよらなかった。聞けば彼女の母が江本さんの犬散歩仲間で、彼女は江本さんのことを「クルミちゃんのパパ」と呼んでいた。かくして地平線会議に時々顔を出すようになった。

◆地平線会議はそれまで本の中の存在だった人に次々出会え、なんだか今もうまく消化できないままになっている。東京は次から次へと人に出会うことができる街。振り返る暇なく、人に会っては文章を書く生活が現実のものとなった。地平線30周年、躍る大地平線。僕は今ちょうど30歳。自分ももう30年くらい旅やら書くことやらを続けたら関野吉晴さんのように穏やかで力強い人に近づくことができるのだろうか−そんなことを考えながら、会場の隅でこっそり江本さんに、先日彼女と結婚したことをご報告した。(子ども新聞記者・今井尚(しょう))

★小さな文字の注:「くるみ」は、ゴールデン・レトリーバーの雌。四谷界隈の犬散歩で元気なモカと仲良しになり、ピアノを教えているモカ・ママは当方を「くるみぱぱ」と呼んでいた。時折、やはり音楽を専門とする娘さんがモカを連れて現れた。くるみは、マルチーズの雪丸とペアでともに犬仲間の人気者だったが、05年6月、相次いで死んだ(その後、現在の麦丸が来た)。ある日、娘さん(柏木彩子さん)に場違いだろうとは思いつつ地平線会議のことを話したら、時折顔を出すようになった。一方で『旅と冒険』という雑誌を自力で出していたことで注目していた今井という青年もその頃、鳥取から上京し、地平線会議に現れるようになった。その二人が、地平線会議30年を祝って結ばれた、という。大いにめでたい。おめでとう!(E)

荒木町−青春の時に思いを馳せて

■「躍る大地平線」の前日、荒木町の地平線会議事務局に初めて足を運んだ。懐かしかった。ちょうど30年前、高校を卒業した僕は荒木町の新聞販売所に住み込んで、このあたりを新聞抱えて走り回っていた。思えば、あれが僕にとって人生初の冒険だった。高校卒業間際に家業が倒産したため、夜逃げして故郷を捨て、裸一貫で自活の道を歩み出した。親の援助もなく新聞配達の住み込みをするしかない身の不幸を恨みつつも、これからは自分の力で生きていくんだ、何をしてもいいんだ、何ものにも束縛されないんだと、真の自由を実感して燃えていた。いまの自分の出発点でもあったあの時代に、地平線会議が産声をあげていたのかと思うと感慨深くなる。

◆その10年後。就職せずにフリーランスのライターとなった僕は小学館の雑誌ビーパルに「東海自然歩道を旅する紀行文を連載しないか」と声をかけられた。ネパール帰りだし、歩く旅を書くわけだから 『シェルパ斉藤』がいいと名づけられて、89年10月に東京の高尾山から東海自然歩道を歩き出して、バックパッカー&作家としてのスタートを切った。

◆それから20年。僕は各地を旅して連載を続け、25冊の著作を重ねた。『シェルパ斉藤』としてのデビュー20周年である09年の秋が、地平線会議30周年であることにもつながりを感じてしまう。

◆「躍る大地平線」には前半しか出席できなかったが、会場に集結した諸先輩方と、次世代の若い旅人たちの姿を目にして胸が熱くなった。継続していくことの大切さと重み、そして未来へ続くエネルギーも感じた。地平線会議の報告者は、偉業を達成した人々やニュース性がある人々だとは限らない。行動の内容よりも、彼らの生きざまや人間性に僕は魅力を感じている。常に数歩先を進んでいる地平線会議を目標に、自分も行動していきたい。今後もよろしくお願いします。(斉藤政喜

脳にインプットしたことを常にアウトプットすること

■この知的かつ痴的な世にあって、想像力というグローブと行動力というシューズを操り、地球というリングを縦横無尽に駆け巡る旅人がいる。いわずと知れた江本嘉伸さんがタクトを振る地平線会議である。あくまでも柔らかい指揮の軌跡は光彩を放ち、多士済々のメンバーが紡ぎだすさまざまの文様はあざやかに浮かび上がる。

◆力強いファイティングポーズと研ぎ澄まされたファイティングスピリッツ。蝶のように舞い、蜂のように刺すアクションは、自然体で微笑ましい。そして、軽妙なステップを踏みながら繰り出されるパンチには、旅人の矜持があふれている。地平線会議30年の歴史と遺産に裏打ちされたテクニックとフットワークは比類を見ない。

◆亀田興毅と内藤大輔のタイトルマッチ。世界戦に相応しい緊張感のある一戦は、明らかに亀田が凌駕していた。「バッシングに耐えながら頂に立つと、そこには晴れ晴れとした風景が見えた」。毀誉褒貶の渦中、新チャンピオンの心境の吐露に偽りはあるまい。

◆一方、事業仕分けという劇場政治。「なにゆえ2位ではダメなの!?」と叫ぶ政治家の発言には耳を疑った。なんという薄志、なんという想像力の欠如。最先端の科学技術のみならずあらゆる分野において、頂を目指して歩みつづけなければあっという間に2流3流に転落する。チャンピオンへの意志もたぬアスリートなどいるはずもない。

◆躍る大地平線では「あれから30年―ぼくらの旅の現在地」のクロストークも興味深く伺った。私たちはこの世に生をえた瞬間から死への旅立ちをはじめる。砂時計の一粒の砂が落下するに連れて、時は確実に死に向かって刻まれてゆく。ヒトの一生とは、砂洲に描かれる風紋。一時の記憶を流砂に留めてやがて消えてゆく運命にある。たとえ消え行こうとも、それにもかかわらず風紋を描く旅を続けることの他に、私たちがもつ術はありはしまい。

◆分子生物学の進歩は、DNAというすべての生き物に共通の言葉を用いて、さまざまの分野で多くの新しい知見を生み出した。関野先生がアプローチされている文化人類学の分野でも、人類の移動(グレートジャーニー)を考える上での多くの発見がもたらされた。

◆私のミトコンドリアDNAのタイプは、遠い母親のルーツがバイカル湖にあることを示唆している。いつかこの湖畔に佇むことがあったとき、その地平の先にはいったい何が見えるだろうか。旅とは想像することでもある。

◆想像力を掻き立てる旅は心を愉しくする。そんなとき、身を労することに厭いは生じない。貝原益軒が養生訓で喝破するように、「心愉しく、身を労する」ことは、老いるに連れて若さを際立たせることにも繋がる。この逆説を演じる旅人は、江本さんをはじめとして地平線会議には多くおられる。そうした人たちに共通しているのは、脳にインプットしたことを常にアウトプットすることである。「見て、聞いて、覚えた」ことを「考え、行動し、表現する」という実践は、認知症にならないための処方箋の一つとなる。

◆先ごろ中央アジアから持ち帰った秘蔵のワインが手元にある。12世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤーム(詩集「ルバイヤート」が有名)の名前を冠したものだ。このワインをグラスに、久保田早紀の「異邦人」が流れてくると、心はシルクロードの世界にワープする。そして、ラスピラズリ色の空と砂漠がふれあう地平線が浮かんでくる。地平線会議のメンバーの皆さんの「地平線への新たなる旅立ち」にオマル・ハイヤームで乾杯!!(神尾重則 医師 313回報告者)

地平線のその先へと導くような音楽やダンス!

■久々の地平線会議、更に今回は30周年! 到着前から僕の気持ちは高ぶる一方でした。当日はそんな思いを満たして有り余るくらいの充実した濃い内容に大満足! 年輪を重ねた行動者の話に心を打たれ、若き行動者の話からは眠りかけた思いを蘇らせるような衝撃を得る。地平線のその先へと導くような音楽やダンスにその身を委ね、あたかも今僕も旅人になったかの、本当にアッという間の7時間。参加できてとても嬉しかったです。(愛知県 鰐淵渉


スタッフノート

会場の至るところで『わっしょい!わっしょい!』のかけ声が聴こえた

◆祭りのあと。あの興奮が未だ胸に鮮烈に焼きついております。いやはや、初めに長野さんが言っていた通り、まさに皆で御輿を担いだ大集会でありました。

◆僕にとって初参加だった品行方正楽団。個々の好きな曲を持ち寄り、半年程前から長岡邸のスタジオで練習を開始。回を重ねる毎に(練習後、円卓を囲む毎に)、それぞれの音と心がひとつになってゆくようで、まるでどこかの民族の大家族みたいでした(笑)。

◆「ダイナミック琉球」の話を聞いた当初は「本当にできるかな?」と思っていましたが、皆さんの熱意に背中を押され、気が付いたら皆で踊る楽しさにどっぷり浸かっていました。本番前夜の皆の気合いの入った真剣な眼差しには、成功を見据えた確信が宿っていました。

◆オークションの準備では、全国各地から次々と集まってくる出品物を前に江本さんから「本気で遊ぶってのは、大変だね」と笑いながら出たその言葉が、いまでも胸に残っていて印象的でした。

◆当日はリハーサルの段階からマイクの音響設定が難しく、限られた時間のなかでの進行でしたが、祭りが始まってしまえば“あとは波に身を任せて、その瞬間を目一杯楽しむのみ”。実際はいっぱいいっぱいのキリモミ状態だったのですが、随所でたくさんの方々にフォローして頂きながらも、終始、会場の至るところで『わっしょい!わっしょい!』と威勢の良いかけ声が聴こえてくるようで、それが何よりもたまらなく嬉しかったです。

◆土台を支える人達の力強い躍動のなか、舞台上では一人一人が夢中になって輝き、観衆の皆さんからは温かい拍手を頂きました。ひとつひとつを振り返ってみれば反省点もありますが、大事なことはあれだけの人々が一丸となれる“皆の想い”と“一体感”だったのではないでしょうか。

◆極めてニュートラルな何もないところから、皆で価値を見出しながら手を抜かずに育まれてきた地平線会議。僕は今回の大集会に参加できて、地平線会議と出会えた事を心から幸せに思いました。このような場所があってこそ、人は共に学び、成長してゆけるのだとさえ感じました。皆さん、本当にありがとうございました。

◆やはりいつの時代にも、祭りには唄と躍りが必要ですよね。次回の大集会も、大いに盛り上がりましょう!! (車谷建太

会場の写真展示、『月世見画報』、そして盛大な2次会!

■大集会、思いのほか緊張したのか(?)、かたい司会で失礼しました。皆さんに助けていただき、無事に終えることができてよかったです。当日、準備に時間がかかりそうなパートの前でアナウンスできたらと思いつつ、いずれのパートの準備もスムーズで、話す隙というか機会がなかったことが2点あります。ひとつは、今回の大集会のキャラクター「龍」について。生みの親の長野亮之介さんによれば、「『地平線』は天と大地の境界であり、天と大地をつなぐ幻獣が龍である」というのがコンセプト。ちなみに龍に決定するにあたっては、辰年生まれの地平線メンバーふたりの強い推薦がありました。私もその場に同席していたのですが、「俺、戌年なんだけど……」という亮之介さんの意見は、簡単に却下されていました(地平線犬倶楽部、危うし!?)。ふたつめは、参加チケットについて。山辺剣&竹村東代子両氏の力作チケットは、30という数字の「0」の部分に穴をあけてリボンを通すと栞になるように作られています。今さらですが、皆さん、大事に使ってくださいね! そして最後にお礼を。今回、「ダイナミック琉球」を踊る機会をいただき、ありがとうございました。伊豆の家での合宿を含め、練習も本番も楽しかったです。昨年、浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」で「肝高の阿麻和利」メンバーとして踊ってくれた、当時高校生だった具志堅真未ちゃん、その日、高校生の送迎など裏方をしてくれていた藏當慎也くん。今回、そのふたりと一緒に踊れたこと、そして、「ダイナミック琉球」の作詞者である平田大一さんの曲づくりが浜比嘉島の海に浸かりながら行われるということにも、浜比嘉島から続く不思議な縁を感じています。(妹尾和子

長旅が終わった時みたいに、幸せで寂しい気持ちになった

■私の初・地平線は、10年程前の発送手伝い。それ以来、働き手だと思っているが、記念集会にまともに関わったことはない。何故かといえば、大勢で何かするのが大変に苦手だから。でもダンスは好き。ひそかに「私のお姉さん」くらい思っているカコ(妹尾和子)さんに誘ってもらい、今回はダイナミックから参加してみた。珍しいことね、と自分で思った。

◆ダンスで皆と動きが揃うのは嬉しいのに、一緒に準備運動したり、輪になって打ち合わせしたりというのはやっぱり……。何となし、あさっての方向を見て過ごしてしまった。だが、そこはクールで心の広い大人の集まり。考えていたより、うんと気楽だった。衣装も、基本は同じで、あとは自由で。誰もが、自分の出来ることを、見返りを求めずに行うのが清々しかった。

◆大集会の帰りの電車で、長旅が終わった時みたいに、幸せで寂しい気持ちになった。皆さまのおかげで、私のコチコチ頭も少しは変わったかも。深く感謝申し上げます。(後田聡子

ベテランの方々とフェアーに付き合っていける心地好さ

■楽しみにしていた大集会が終わり、日常の毎日に戻ってみて地平線の良さをひしひしと実感しています。生き生きしていたみんなの顔を思い浮かべながら。いろんな感動がよみがえってきます。行動者たちの貴重なお話はもちろんのこと、受け持った役割に徹して一生懸命に働く人々の顔。みんな生き生きとしていて、地平線への愛情を感じることが出来ました。

◆自分に出来る範囲での距離感を持ちながら接していても、周囲の人がフォローしあいながら付き合っていける地平線。なんて素敵なんだろうと、つくづく思います。多くの人が大切にしている場であることを実感しました。そして30年と言う、時間の重層的な厚みのなかでも、ベテランの方々とフェアーに付き合っていける心地好さ。改めて地平線のすばらしさを実感した会でした。

◆品行方正楽団の演奏、世界中からの音楽を集め、目を閉じるとまるで世界中を飛び回ってるかのような地平線らしいセレクトでした。特に「満月の夕」は本家を凌ぐよさで、楽団のみなさんが曲を大切に、そして丁寧に歌い上げていて、まるで小さな子どもを抱いているような優しさに満ちていました。

◆そしてダイナミック琉球の踊り、みなさんの生命力に満ちた動きとエネルギーは観席にまで伝わってきました。一人ひとりの顔が、本当に良かった。スポットライトの中、汗をかいて踊るダンサーズはきらきらとしていました。個人個人が輝いていて、その光は地平線を照らしていました。

◆二次会でもいろんな方が楽しそうにしながら、「こんな集まりはどこにもないよなー」と言っているのを耳にし、30年もの間、集まる人々にこういう気持ちを抱かせてきて、今なお広がっている地平線に、懐の深さを感じました。僅かながらも、この大集会に関わることができて本当に良かったです。ありがとうございました。(山本豊人

地平線のみなさんの本番での強さを実感

■地平線のみなさんの、現場、本番における強さを実感でき、それだけでも見ている価値があったなと思っている、あみやです。舞台袖にいた飯野さんや、受付・販売で出たり入ったりしていた方たちと違って全編特等席で見ることができたのは、タイムキーパーの特典でした。話し手がゲストに注目したり、スライドに注目していて時間表示を見てくれない時に少し焦りましたが、そんなときは両隣の山田さん、菊地さんがいっしょになってアピールしてくださって、助かりました。ありがとうございました。

◆ほんの少しオーバーした江本さんのところも、一度5分前にアイコンタクトが取れて「うん、時間わかってるよ」というのがわかり、そして話の内容が大事な話でしたので、後はもう江本さんにお任せし、うるさく表示しませんでした。

◆品行方正楽団とダイナミック琉球のパートは何もしていません。ラストのダイナミック琉球は確かに1回くらいアンコールがあってもよかったかなと思いました。でも、もう感動してうるうるになって、涙ぬぐってるうちに終わってました。(山形 網谷由美子

会場中が、もっと聞きたいオーラを発信していた

■今回の大集会が大成功だったのは、400通近くにもなるスタッフのメーリング リストや20名以上も集まった打ち合わせ会議、数回にわたる会場の下見等々(残念ながら私はメーリングリストしか参加できませんでしたが)で、事前の準備や指示がきちんとされていて、また古くからの人も最近入ったばかりの人もスタッフみんながすすんで仕事に当たっていたからなんだとつくづく思いました。「Part4」ではアシスタントという立場で初めて会場を見渡せる場所に立たせていただき、会場中が、本当にとても楽しそうで、もっと聞きたいオーラを発信しているのを感じ、圧倒されてしまいました。おそらく、「会場の聞き手のパワー」というのもまた、地平線会議が30年も続けてこれた大きな要因になっているのでしょうね。

◆2次会のオークションも、出品してくださった人、落札してくださった人、大いに盛り上げてくれた人、そして長い時間飲食お預け状態で、前で進行してくれた若い3人の競り人など、多くの人たちのおかげで大盛況となり、売上げは91,200円となりました。ありがとうございました。次の大集会でもスタッフのひとりとして参加できることを楽しみにしています。(岸本実千代

地平線で、こんなにじっくり話を聞いたのは、何年ぶりだろう?

■昨日遅く、高山へ戻りました。今日、お勤めモードに戻るのに時間がかかって困りました。実はまだ戻りきってはいないのですが。当日までなにもせず、すっかり用意されたところにポンと行って、ほんの少しお手伝いができたという感じです。大集会は1996年以来、13年ぶりでした。みなさん、細かいところによく気がついて、ほんとにすばらし〜い!

◆今回は、記録役ということもあって、ずっと会場内で話を聞かせてもらいました。地平線で、こんなにじっくり話を聞いたのは、何年ぶりだろう? どのパートも、時間があっという間で、「ああ、もっと聞きた〜い」というお話ばかり。会場の方々はみなそう感じていたと思います。休憩も少なくて、写真展も、「あとでじっくり」と考えていたら終わってしまいました……当日参加の私でもこんなのだから、準備をされた方々にとっては、瞬きしてたら終わっていた一日……という感覚かもしれませんね。今回初めて、お顔とお名前が一致した方も多く、次回お会いしたらやっと声をかけることができそうです。楽しませてもらいました。ありがとう!!(中畑朋子

自分の脳内に世界地図が広がった衝撃

■私が品行方正楽団の演奏を初めて聞いたのは竹早山荘でのことです。西洋音楽理論をもとに音楽を学んできた私にとってそれは衝撃でした。和太鼓とケーナとピアノが合奏をしている! すぐさま自分の脳内に世界地図が広がったことを記憶しています。その後すぐ「自分も参加したい」と申し出、今回メンバーに加えてもらうこととなりました。

◆今回演奏するにあたって、なにより「演奏者自身が楽しむ」気持ちを忘れないようにしました。自分も参加したい、と思ったのは竹早山荘での演奏からそれを感じたからだと考えるからです。今回それがうまくいったかどうかはわかりませんが、聴きに来て下さった方々に「なんか楽しそうなことやってんなぁ」と思っていただけたことを祈るばかりです。

◆最後に、聴きに来て下さった方々、サポートしてくださったみなさま、楽団メンバー、特に長岡さんの暖かいご指導と典子さんの料理に御礼を申し上げます。(張替鷹介


《2次会レポート》

いっぱいに広がる笑顔・笑顔・笑顔の海!!

■たくさんの人が共に駆け抜けた大集会は、あっという間に過ぎ去りました。私の心に焼きついているのが、オークションも最高潮に盛り上がる2次会の夜22時頃。宴会場の後側に立ってふと見て驚いた、部屋いっぱいに広がる笑顔・笑顔・笑顔の海!!でした。地平線会議創設時からの御大も、大集会準備に奮闘した人も、報告会でおなじみの顔も、久しぶりの顔も、前日に新聞記事を見て来たという初参加の人も、大騒ぎの宴の場で見事に品物をさばいていくセリ人の車谷君(頭上ではシールエミコさんから託されたという、大きなアヒルの帽子がゆれ続けていました♪)と郁ちゃんも、誰もが同じだだっ広い畳の上で満面に笑っていました。

◆5年前の「300回記念集会」ではアジア会館で前夜祭がありましたが、今回は2次会をやろう、オークションもそこでやろう!ということになり、あわててスタッフが新宿区近辺の料理屋&施設を片っ端からあたるも、条件を満たす場所がない〜! 2次会顧問の江本さんのお達しで、会場の最重要条件は「80人以上入れて仕切りがいっさいない店」。さあどうしよう。

◆もはや当日晴れることを祈って、公園で屋外実施するしかないのかなあとめげかけたとき、奇跡的に収容人数100人の居酒屋「竹ちゃん」が見つかりました。そして実際に100人参加の宴となりました。全員が互いに顔を合わせ、オークションに白熱したり談笑したり、いつまでも無邪気に楽しそうな光景を目の前にしたら、江本さんがこだわり続けた「壁や仕切りなしの店」には心底納得でした。そうかあ〜! 地平線会議は30年間、好奇心ではちきれそうな人たちがこんなふうにひたすら大笑いしてきたのかなあ〜?

◆アルコール量に関わらず誰もがおおいに酔っぱらっていたように見えた祭りの後の宴。温かいなあ、迫力あるのに優しいなあ、でもヤルナラホンキデイケヨ!!という地平線の底に流れている緊張感もビリビリ感じながら。30年分の色んな思いがごった混ぜの場を眺めて、ただただカラッと気持ち良い空気の中でした。

◆深夜0時になると会場を移してカソリ隊長率いる3次会がスタート。お店が閉まる翌朝5時まで続いたもようです。閉店時間がなければ、いつまでも宴は続いていたのかもしれないですね!「さらにその先の地平線」の途中、大集会成功バンザーイ!!(大西夏奈子

【オークションリスト】 

百人が参加した二次会では恒例の「地平線大オークション」が行われ、大いに盛り上がった。出品されたのは、以下の品々。提供者に深く感謝申し上げます。

■インドネシアのなた・サイン&記念撮影付(関野吉晴)■来年発売予定・山形の新お米「つや姫」2kg(飯野昭司)■アマゾン源流野生コットンの手書き泥染め風呂敷(白根全)■−20℃でも走れ、氷で30m滑っても無傷のバイク用冬用ジャケット(賀曽利隆)■年報『地平線から』1979、1980、1981年の3冊セット(賀曽利隆・丸山純)■初めての南米で購入、旅で使用していたショール(金井重)■西表島の海に潜って取ったクモガイとタカラガイ(松原英俊)■若き日の鷹匠が登場する立花隆著『青春漂流』+フランス人シェフからのシャンパン(松原英俊)■もう手に入らないと思われていた幻の『地平線データブックDAS1988〜1995』(花岡正明)■離島振興に力を尽くした宮本常一推奨の佐渡島のおけさ柿(高野久恵)■海宝さんお手製、酒飲みにはたまらない一品・鮭の燻製(海宝道義)■北海道の超有名店のライ麦パン+じゃがいも(掛須美奈子)■アフガニスタン・ラピスラズリ(瑠璃)の柄付、アフガンの砲弾(対ソ連)で作った折りたたみナイフ(丸山純)■ブルキファナンの藍染布+アフリカ旅での愛用カバン(山田高司)■カナダバフィン島に行ったときに、主に白熊との白兵戦になった場合の武器として、当時の日本の登山用品店で手に入る最も軽量なピッケル+ベアスプレー+信号弾+チタニウム製アイススクリュー(安東浩正)■ヒマラヤカレンダー+エベレストビール(安東浩正)■山形ローカルフーズセット(網谷由美子)■夜も寝ずに作った作品、陶製手紙付「天国のスプーン」(緒方敏明)■エモTシャツ+文章集+モンゴルカシミア手袋+モンゴルフェルト製スリッパ(江本嘉伸)■貝のブレスレット+手作りバターナイフ+食器洗い用の木灰+島唐辛子など浜比嘉セット3個(外間昇・晴美)■ギャオ(アイスランド語で裂け目の意)から吹き出た石、それに付着した地衣類(原健次)■ペルーの世界一長いアカシアのトゲ(原健次)■中身の靴は獣の血を吸っている、サバイバル福袋ザック(服部文祥)■めったに手に入らない画伯の原画「躍る大地平線」キャラ原画、額付(長野亮之介)★合計91,200円★全額、大集会運営、報告書制作の資金に活用させていただきます。ありがとうございました。(地平線会議)
(◆2次会では、参加者に海宝道義さん提供の紐のついた袋がが配られた。)


ダイナミックノート

ダイナミック琉球は、悪魔までも魅了してしまった

■ダイナミック琉球のチョイ前だっただろうか、幕を開閉する紐を握りながら舞台の袖でスタンバイしていたら、上のほうから何かが聞こえてきた。はて、いったいだれだと天井を探ったら、梁に悪魔が腰かけていやがる。そして甘い声でささやいた。この記念大会を生かすも潰すも、お前しだいだぞー、上演の最中に幕を締めちまえばおもしろいことになるぞー。いいか、俺がヤマ場で合図するからなー、一気に引けよー。

◆ところがダイナミック琉球は、悪魔までも魅了してしまったらしい、みとれて合図のないままにステージが終わってしまった。地団駄踏む悪魔は悔しまぎれに、ひと息遅れてから地平線に襲いかかってきた。おかげで強烈なボーンアウト〔燃えつき〕に、スタッフが悩まされているという。この俺も、この400字の原稿に1週間もかかる始末。この解決策は唯一、400回大会もダイナミックで締めくくれー。(ステージ幕開閉担当 埜口保男

見事、期待を裏切って

■3回の成人式を数年前に終えた私が、旦那の一言でやる気になりました。「カンフー体操を何年もやっているから、ダイナミック琉球に参加したら」の一声。最初の練習に参加後、蔵當慎也さんや、智美さん真未さん姉妹のDVD (落合さん撮影)みながら一人特訓。久々に打ち込める事があってうれしく、又覚えられなくて気持ちが落ち込んだりしたが、止めたいと気持ちにならなかった。空手バージョンが好きで練習もしましたが筋を痛め断念。一生懸命の楽しい4か月でした。

◆お願いした衣装も長野さん、皆さん方の尽力で素晴らしい出来上がりでテンションも高くなりました(本人は衣装で誤魔化す計算あり)。野次馬達の予想では途中で息切れし、ダウンするんではないか……結果何とか見事踊り切りました。母が今の私と同年輩の頃の夏、家族で椿山荘を訪れた折、盆踊り大会で母が何と賞を貰ったことを思い出しました。やっぱり遺伝ダァー。でもでも楽しかった。そしてありがとう。(関根五千子

こんないい気持ちになったのは久しぶりでした。こんな嬉しかったのも久しぶりでした

■たまたま南極の集まりが重なり、Part1からPart3を見逃してしまったのは残念でしたが、とても思い出に残る集会でした。とりわけダイナミック琉球に参加できたことが宝物みたいな思い出です。

◆10月以降、予定のない週末にはDVDを見ながら家で練習しました。わりと早い時期に衣装を仕上げたので、希望が形となって近くにあり励みになりました。凹んだり喜んだりしながら少しずつ踊れるところを増やして、11/14-15の関西合宿の前の週にようやく一通りさらうことができました。

◆関西合宿では、実千代さんが分からないところを特訓してくれました。休憩時には、ねこさん、lunaさんが沖縄を訪れた際、大阪の(おばはんでなく)おやじになりきって居酒屋で間奏部分を教わっている(踊らせている?)動画を見ました。昼ごはんの時には、ギョーザを頼んだついでについビールで乾杯しちゃったりしました。そんな感じで楽しくかつ真剣に練習しました。初めて全身を鏡に映して踊ってみると妄想との違いに凹みましたが、鏡から離れて鏡に映る自分を小さくしたらやる気が戻ってきました。

◆大集会の前日の練習で、初めて本物の慎也くんと真未ちゃんに会ったときには感動しました。生で教えてもらえる空間に立って、慎也くんと真未ちゃんの、短い時間であっても一緒にいい舞台を作るんだというまっすぐな気持ちに出合って、みんなでひとつのものを作り上げていく意識が持てました。オーパレーレと声出しをする意図と同じく、みんなの気持ちをひとつにすることが、今回のダイナミック琉球でとても大切なことなんだと感じました。そして余計に楽しみになり、楽しくなり、わくわくしました。

◆当日は本番まで、心地よい緊張感が続きました。途中抜けてしまったので、リハーサルにもオープニングにも参加できず、移動の電車で曲を聴きながら頭の中で踊っていたら、度忘れしてしまう部分があって焦りました。本番前に1度通して踊ったら、ちゃんと身体が覚えていて安心しました。おかげで本番は楽しく堂々と踊ることができました。全然緊張なんてしなくて、喜びの方が大きかったです。視界の片隅に入ってくるみんなも、すごく堂々としていて、かっこいいぞと思いました。慎也くんと真未ちゃんと同じ舞台に立てたのも、むちゃくちゃ嬉しかったです。

◆こんないい気持ちになったのは久しぶりでした。こんな嬉しかったのも久しぶりでした。みんなありがとう。また一緒に踊ろうね♪(岩野祥子

念願だったダイナミック琉球をあの30周年の大集会で踊れたことに感謝

■会計担当も会場の中を見てきた方がいいよ…とすすめられるがまま、その言葉に甘え、ローテ時間以外はすっかり素直に会場入りしてしまいました。結果…受付のことはほとんど横内さん、本所さん、森井さんたちにおまかせしてしまったこととなり、実に申し訳ない限りでした。

◆皆さんのご配慮のおかげで、今まで参加した大集会の中でイチバンいろいろな話が聞けて充実かつ最高に楽しかったです。終盤、入場料や物販等、途中経過での〆作業。もうそんなに数が動かないだろう〜と思って在庫数など数えて、張り切って途中経過を出してたけど思いのほか、その後の売れ行きがよくってマイナスカウントが追いつかず終ってから再度在庫確認をしなおさねば…という嬉しい誤算があったり(笑)。

◆会場を去るその瞬間まで一緒にお金を数えてくださった受付、物販メンバーの皆さん、そして迷わず巻き込んでしまった北川さん。二次会会場でも最後の確認を一緒にしてくださった武田さん。本当にありがとうございました。

◆そしてそして…何よりず〜っと念願だった「ダイナミック琉球」をあの30周年の大集会という地平 線の大切な場で踊る! ということを許していただけた地平線の仲間たちに大感謝です♪ ふ〜。あの大集会21日のことを胸に日々の仕事もなんとか乗り切れそう(笑)。とはいえ今もなお夢の途中のような...*^^*本当にありがとうございました。(村松直美

「私を見て!」

■躍る大地平線の大舞台で人前で踊るなんて1年前の私は思いもしませんでした。「ダイナミック琉球」を踊った事は私にとって大きな意味がありました。もし踊っていなければ私はこのイベントには参加しなかったかもしれない。

◆この踊りと私の出会いは去年の10月に沖縄での「地平線あしびなー」でした。1スタッフとして参加していた私は他の皆がテキパキ動く中での自分の余りのふがいなさに落ち込んでいました。プログラムはどんどん進み地元の高校生たちによる踊りが始まった時の衝撃。彼女たちのきらきらした瞳は「私を見て!」と自信と喜びに溢れています。光の洪水のようにステージから客席まで輝きを放っている彼女たちの踊りを私は正視できませんでした。

◆沖縄から帰ってまもなく東京公演のお知らせがありましたが行かなかった。ところがある日の報告会2次会の席でのこと。偶然私の目の前に座っていたヒロコさんが「ダイナミック琉球を踊りましょう」と言うのです。「自分が踊る?!」その発想は私が閉じこもっていた壁を簡単に吹き飛ばしてくれました。「そうか!自分が踊ればいいんだ!」

◆この数カ月は職場の倒産、転職を含めた様々な出会いと別れや葛藤があったのですが、練習を始めてからはいつも心の底に「躍」の文字があり不思議と心の支えになっていました。「踊れるようになった時、何か1つ自分の中にゆるぎないものが生まれるのではないか」

◆8月には再び訪れた「阿麻和利の公演」をもちろん見に行き気持ちを高めました。裁縫が苦手なくせにミシンを壊しながら3日3晩ほとんど徹夜で衣装もひどい出来栄えながら自作しました。そして本番! 実際には練習不足で完璧なできとはいえなかった。でも踊る事の楽しさそのものが上回り根拠のない度胸が自分の内側に満ち溢れ会場をしっかり見渡しながら踊る事ができました。そして心の中から発していた言葉はまさに図々しくも「私を見て!」でした。(米満玲

「ダイナミック琉球」が、なぜ地平線会議に入りこめたか

■「名もなき民の 声なき歌を 道に立つ人よ 風に解き放て」──大集会のダンスチームで踊った『ダイナミック琉球』の歌詞の一部ですが、個人的にこの部分がすごく地平線会議的だと感じてとても気に入っています。名もなき人々の行動の記録を残そうという趣旨から始まった地平線会議の30周年、それを記念する場で踊らせていただいたことを感謝しています。

◆もともとは単純にみんなで踊りたいという気持ちからスタートした企画でした。しかし僕は、みんなと必死になって練習する中で、沖縄で積み上げられてきた子供達の活動をいま身を持って記録しているのではないかと勝手に感じるようになりました。地平線会議の場になぜこうもしっくりとダンスが入り込むことができたのか。大集会を終えた今もその意味を考えています。(杉山貴章

こんなカッコイイ踊りをダンス経験ナシの私が踊れるんだろか〜

■第1回の練習で、ダイナミック琉球の踊りを改めて見て(昨年のあしびなーでも見ている)、うぅ、こんなカッコイイ踊りをダンス経験ナシの私が踊れるんだろか〜、と不安を抱きつつも、その後、DVDで自主練、何度かの合同練習、さらに伊豆のカコ(妹尾和子)さん宅での合宿にも参加し、我ながら“けっこういいかも?”レベルにまで上達したみたいだ。

◆そして本番が迫る中、15日の夜、信じがたい訃報が飛び込んだ。大分県のバイク仲間、私にとってはちょっと年の離れた兄といった大きな存在であるKさんが癌で亡くなったのだ。その晩はどうしても涙が止まらなかったが、その後の日々を、笑顔で乗り切れたのは、ダイナミック琉球のおかげだった。笑顔で踊って、Kさんの冥福をお祈りするんだという気持ちになれた。話は変わるが、ダイナミックは冬の暖房費節約になるぞよ。ちょっと部屋が寒いなと思ったら、2〜3回踊れば体は温まり、暖房いらずなのだ。(節約主婦ライダー もんがぁ〜さとみ

来年も是非、ご一緒できると嬉しい

■ダイナミック琉球を教えさせて頂きました、藏當慎也です。今回、地平線会議30周年ということで皆さんより是非、『ダイナミック琉球』を踊りたいとの声が上がり本当に嬉しかったです! ありがとうございました。あまり教えに行くことが出来ずに少ない練習だったためDVDを見ながら凄い頑張って覚えて頂き大盛況で終えることが出来たのも皆さんの頑張りのお陰です! ありがとうございました。

◆今回、関わらせて頂き本当に楽しくて、嬉しかったです! また来年も是非、ご一緒できると嬉しいなと思っています。今後とも、よろしくお願いします! 『ダイナミック琉球』是非、踊り続けて下さい。またお会いできるのを楽しみにしています! 楽しい時間をありがとうございました!(藏當慎也

この活動の素晴らしさを実感しました!

■地平線会議30周年に参加させて頂き、皆様のおかげですごく充実した楽しい時間を過ごさせて頂きました。ダイナミックダンサーズの皆さんとは踊りを通して心が通い合えた気がします! 一緒に練習出来る機会が少ないにも関わらず、本番の舞台で大成功できたのは、ダンサーズの皆さん一人一人が一生懸命頑張った素晴らしい結果ですね!練習用のDVDを何十回、もしかすると何百回と見た方もいるのではないでしょうか!

◆私たちも共に頑張ってきた皆さんと本番の舞台で一緒に踊らさせて頂き、すごく楽しくて感動しました。是非また一緒に踊りたいですね♪ 去年初めて、この地平線会議の活動を知ったのですが、そのときより更にこの活動の素晴らしさを実感しました! 是非これからも頑張って下さい。今回はお呼び頂き、本当にありがとうございました。(具志堅真未


月世見ノ−ト

『地平線・月世見画報』の発行

 「地平線会議の30周年を記念する成果のひとつは、『地平線・月世見画報』の発刊である。『月世見画報』とは何か。文字通り、「月々世界を見」てきた地平線報告会の予告集大成だ。

 手にとると、まずこれまでの地平線会議の刊行物にはなかった、濃い紅色の表紙が意表をつく。月と雲をあしらったデザインの下に「地平線通信 全予告面集 1979.9.28〜2009.11.21」とある。ページを繰ると、最初の葉書通信から今回の大集会当日のプログラムまでまさに30年、367回の地平線報告会の内容が素晴らしい長野亮之介を中心とする絵師の作品とともに記録されている。報告者ひとりひとりの味のあるイラストをご覧あれ。思わず、くすり笑ってしまうものばかりなのだ。

 イラストだけでなく、含蓄に溢れた文章も楽しい。どのページを広げても、思わず見入り、読みふけってしまう不思議な一冊なのである。

 滅多に手に入らない作品集である。地平線会議に関心のある方は是非、一冊を購入しておいてほしい(部数が限られているので、早晩入手できなくなります)。自信とともにお薦めする。

 この一冊が目指したものをできるだけ理解してほしいので、制作した丸山純君に「メイキング・オブ」を書いてもらった。(江本嘉伸

「月世見画報」はページをめくるのが本当に楽しいです

■威勢のいい集会でした。自分の中の野生をくすぐられるような。鷹匠の松原さんの、最初はとつとつとした次第に熱がこもる「狩り」の話に大笑いし、サバイバル登山家服部さんの「行為の中での純度をあげる。人生の純度をあげる。生活の中での純度をあげる」という話に感心し、お年をめした上品な女性(シゲさん)が出てきたと思ったらはじまる豪快な世界放浪談にあっけにとられ……次々に登場する自分のこだわりに徹した人たちが実に魅力的でした。

◆入り口にずらりとならぶ記録集もすばらしく、集会のサブテーマのひとつにもあった『記録すること、続けること』の迫力そのものでした(報告会の発表者の予告も集めると新しい価値を生み出しますね。当日発行の「月世見画報」はページをめくるのが本当に楽しいです)。今回「あしびなー」という言葉が「あそび場」という意味と知りましたが、30年間の地平線はまさに旅人や旅に魅かれる人のかけがえのない真剣勝負の「あしびなー」であったのでしょう。その自由闊達な空気を存分に味わいました。(三好直子「懐かしい未来ネットワーク」「日本ネイチャーゲーム協会」などで環境教育活動)

雪の季節を前に『月世見画報』を少しずつ読む日々

■江本さん、地平線会議の皆さん。先日は久しぶりに地平線のエネルギーに触れることができ光栄でした。今回は二歳半になった息子を連れて大集会に参加しました。当日、会場に到着してすぐに「月世見画報」を手にとり、購入しました。『こんなに素晴らしい本を、こんな値段で頂いてもいいのだろう……』と思いながら……開演直前だったこともあり、「月世見」はすぐに鞄の中に入れて、オープニングを見るために会場に入りました。

◆地平線ダイナミックの踊りを見て喜ぶ息子と一緒に大きな拍手をしながら、感動を共にしました。大集会は途中で帰ることになりましたが、あの場に集まった方々のエネルギーに触れることができたことに感謝しています。伊南に戻り、改めて『月世見画報』を少しずつ読ませてもらっています。ちょうど10年前、2000年の9月23,24日に当時伊南村だったこの土地で、地平線報告会を開催させてもらったことをP195で見つけ、色々なことを思い巡らせています……。

◆地平線会議30年の歴史に触れることができたことに対する感謝、自分の人生において地平線から受けた多種多様な影響、何かの縁で今ここ(伊南)で暮らしているということ……。そして、今も地平線会議の方々に世話になりっぱなしだということ。(先日、10月31日〜11月1日は三輪主彦さんの講師で無事トレイルランニングを伊南川周辺で実施出来ました!)

◆本当に、地平線会議との出逢いは人生の宝物になっていると思います。久しぶりに再会できた方との会話もありがたかったです。またいつか地平線報告会に参加できることを楽しみにしています。もうすぐ雪の季節がはじまります。(南会津の伊南から 酒井富美

初期の活動を知らない私に新鮮な『月世見画報』

■「こんな人もいたんだ!」ページをめくるたびに、初めて知る世界が次々と飛び込んでくる。地平線会議30周年を記念して作られた地平線通信全予告画集『月世見画報』は、初期の活動を知らない私にはとても新鮮です。地平線の魅力は、単なる冒険・探検の記録ではなく、報告者という人の「生き方」が伝わってくる所だと思います。ひたすらに真剣で、でもどこか遊び心がある人たちがぞろぞろ…。いつも刺激を受けています。

◆実は、予告面の製作風景を生で見たことがあります。浜比嘉島ハーリー大会に向けた沖縄合宿中、締切りに追われて焦る長野さんを(笑)。報告者のキャラクターが、目の前でイラストとコピーという形になり、通信のタイトルには、前日に見た月光に輝く夜の海がさっそく描かれていました。30年間、地平線会議はその時々の一瞬を焼き付け、次に繋いできたんですね。「続ける」ことのすごさを改めて感じた今回の大集会でした。(新垣亜美

『地平線・月世見画報』をコテージのお客用に

■婚前旅行を兼ねた浜比嘉参加から1年。今年、4月26日に四万十楽舎で四万十川結婚式をしました。そして、9月には家族が一人増えました。地平線30周年大集会にも、参加したかったのですが、今は子育ての毎日です。

◆『地平線・月世見画報』は、地平線会議の30年の歴史が1冊になっている、とてもお得で貴重なので、すぐに2冊を購入し自分用とコテージの宿泊のお客さん用にしています。今までも宿のお客さんに、地平線会議や地平線メンバーの話などをすることがあったのですがこの1冊があれば、なおいいですね。次回の集会には3人で行きます。(四万十川べり住人 宮崎 聖&直美&釉(娘)

『DAS』や『大雲海』、今回の『月世見画報』など纏めたデーターブックは貴重

■30周年記念大集会に出席(私は単なる入場者に過ぎないのですが)できてよかったです。どのPARTも見ごたえ聞きごたえありましたが、時にPART1・PART3・PART4はもっと時間が欲しかったですね。最後のダンスは心に迫ってくるものがありました。合同練習もほとんどなく(と聞きましたが)てもあの迫力。これが地平線なのだなと熱くなりました。

◆地平線会議は底力のある会だとつくづく思います。それは報告者の方々が皆本物だからなのでしょうね。奢った人はなく淡々としているのに情熱とやさしさのある方々ばかり。広い世界のあちらこちらを、それぞれの分野で見せてくださり、語ってくださる報告会は至福の時間と空間です。私のようなただのおばさんを拒まず、入場させていただける報告会に感謝しております。

◆毎月の通信と時・時の『DAS』や『大雲海』、今回の『月世見画報』など纏めたデーターブックは貴重と思います。(横山喜久

『月世見画報』ができるまで

■『月世見画報』のアイデアが浮かんだのは、5月に開催された長野亮之介“画伯”の個展「百顔繚乱展」のときだった。会場が狭いので、画伯が25年間にもわたって描き続けてきた地平線通信のイラストは、あまり多く展示できない。そこで、『大雲海』や地平線通信の版下データから最終ページのイラスト部分だけを切り出してA4サイズの紙にプリントし、クリアファイルに入れて自由に見てもらえるようにした。

◆こうして集大成したものを眺めてみると、画伯の絵の切り口の斬新さや技法の変遷などがじつによくわかって、興味深い。しかしそれ以上に、地平線会議が歩んできた年月が一望のもとに見渡すことができ、不思議な感動が湧いてくる。その感動をぜひ、30周年の大集会でみなさんと分かち合いたいと思ったのが、『月世見画報』へとつながったわけだ。

◆まず苦労したのは、判型とレイアウトである。A5判の1ページに1点ずつイラストを入れると、ページ数が増えて印刷コストも膨らんでしまう。4点だと絵が小さくなって迫力に欠けるし、テキストが読めない。いろいろ試行錯誤してみたが、やはり2点ずつ入れるというところに落ち着いた。そのほか、つまらないタイプミスなどが出ないようにデータベースと連携したり、手触りがよくて印刷がビシッと決まる用紙を選んだり、行方不明の原画が見つかって再スキャンができたらすぐに差し換えられるようにしておくなど(これは結局裏目に出たが)、いろいろ工夫もしている。

◆さらに、ページ数があまりにも膨らんだ『大雲海』には掲載できなかった年報『地平線から』各号の出版案内チラシや、地平線通信本紙に載らなかったために落ちてしまった「写真展『地平線発』」のチラシや葉書など、地平線会議の30年を語るのに欠かせない印刷物をあちこち手を尽くして探して収録したのも、今回こだわった点である。また、これまでつい忘れがちだった初期の頃の大集会の出演者たちの名前を、はるか遠い記憶をたどってなるべく収録するようにするのにも多くの時間とエネルギーを費やした。

◆地平線会議の30年は、毎月開催してきた地平線報告会の歴史であり、その予告ページを連ねるということは、地平線会議を支え、通り過ぎていった数多くの人たちを次から次へと紹介していくことでもある。どのページを開いてみても、それぞれの報告者が積み重ねてきた人生や、世界のあちこちで繰り広げてきた地球体験がぎっしりと濃縮されていて、その迫力に圧倒されてしまう。人、人、人……。『大雲海』では他のページのテキストに紛れてしまったが、この『月世見画報』では、地平線会議が個性的な「人間」の集団にほかならないことを、まざまざと感じとることができる。

◆地平線会議の30年をコンパクトにまとめた本には違いないが、それぞれのイラストに目を凝らせば、どこまでも世界が広がっていく。そんな奥行きと深みのある本ができたのも、長野画伯をはじめとする地平線の絵師たちが、毎月欠かさず斬新なアイデアを考え、面白い絵を描いてきてくれたからだ。その努力に敬意と感謝を捧げつつ、地平線会議を続けてきた意味を考えてみたいと思う。(丸山純


写真展ノ−ト

写真展「わたしたちの宝もの――比嘉小12名の児童が撮った浜比嘉島のいま」を大集会会場で再現

■今年の3月3日から4月5日にかけて、地平線会議の主催で開催した写真展「わたしたちの宝もの」。3600名を超す来場者があり、大きな反響を呼びましたが、沖縄まではとても行けなくて残念、ぜひ見てみたいものだ、という声が多く寄せられていました。そこで、今回の30周年大集会のために、各自のベストショット12点の大判プリントを東京に送っていただき、こちらでプリントした他の優秀作品や子どもたち自身の感想とともに、会場後方のホワイエで見ていただけるようにしたわけです。

◆展示するスペースが限られ、当日の施工時間もあまりなかったことから、あの点数を展示するだけでせいいっぱいでしたが、あらためて9か月ぶりに作品に対面してみると、昨秋のデジカメ教室で初めて作品がプリントされて出てきたときの驚きと感動が、なまなましく蘇ってくるような気がします。美しい島の風景や活写された日常のひとコマを見て、なぜ地平線の連中がここまで浜比嘉にハマってしまったのか、今回の大集会でダンスまで披露することになってしまったのかなども、感じていただけたのではないでしょうか。

◆展示にご協力くださった比嘉小教頭の森田政則先生と担任の金城睦男先生、そして作品を撮った12人のフォトグラファーたちに、心よりお礼申し上げます。(丸山純

《浜比嘉の子供たちの写真、キマっていましたね》

■当日、会場で皆さんを迎えた浜比嘉の子供たちの写真。キマっていましたね。フワリと南の島の光と風が舞い降りたようで。でも、最初、箱から現れた作品と壁を見た時、私は少し不安になりました。センスのない傷だらけの壁面に、写真の点数も僅か。これじゃ、『あやはし館』での迫力満点の展示に負けちゃうぞ、と。

◆しかし、そんな私をよそに、丸山純棟梁と北川文夫さん、この日のために個展開催中の関西から一時帰京した緒方敏明さんの3名は、互いにアイデアを出しつつ、展示方法をテキパキと詰めてゆきます。そう。心配しているヒマはないのです。私も写真の配列順など考え、ようやく作業の完了した壁を見てビックリ。作品が壁面を圧倒しているではありませんか。懸念は全くの杞憂でした。

◆それから約9時間後。フィナーレ「ダイナミック地平線」の琉球サウンドに送られて、人々の目を和ませた島の光景は、再び特製ツギハギ箱に納められ、浜比嘉へと帰ってゆきました。(久島弘

「写真展 わたしたちの宝もの」に感動

◆「躍る大地平線」では照明を手伝うことになり、舞台袖から楽しませていただきました。内容のすばらしさは言うまでもありませんが、7時間にも及ぶプログラムがほぼ時間どおりに進行したことは驚きです。

◆嬉しかったのは、会場で「写真展 わたしたちの宝もの」を観られたこと。ロビーの壁面形状を活かした展示、さりげなく椅子の上に置かれたパネルがいい感じでした。昨年の「あしびなー」にも3月に開催された写真展にも行けなかったので、ようやく浜比嘉に会えた気がします。

◆大人だったら構えてしまうテーマを、浜比嘉の子どもたちは素直で自由な感覚で撮っていますね。自分で選んだベストショットには構図や撮影の工夫もあり、それぞれの思いやこだわりが伝わってきます。

◆「あしびなー」は浜比嘉の人たちの記憶に残るイベントだったと思いますが、もうひとつの記録としてこの写真を残したことも大きな成果ですね。浜比嘉の子どもたちが大人になってからこの写真を見たときに何を感じるのだろうか…ふとそんなことを考えました。

◆フィナーレの「ダイナミック琉球」の余韻に浸っている頃、写真展の撤収はいつのまにか終わり、久島さんが修復した壁の痕だけが残っていました。丸山さんはじめ写真展担当の皆さん、お疲れさまでした。

◆『月世見画報』の感想も書きたかったけれど、それはまた別の機会に。「あしびなー」と「写真展」の報告書も楽しみにしています(でも無理はしないでくださいね>丸山さん)(飯野昭司 山形県酒田市)

★「モンテディオ山形」J1残留が決まりました!


<大集会のまとめ>

感謝感激雨あられ

■裏方なのにやたら表舞台に出まくってしまった《なんちゃって実行委員長》です。「躍る大地平線」の参加者、スタッフの皆様、お疲れ様でした。

◆今回は実行委員長役以外に『月世見画報』の制作アシスト、ダイナミック琉球のダンスメンバー、品行方正楽団員、パート1の司会進行役を兼ねており、ああどうしよう……って、本番2日前の夜はいろいろ気になってほとんど眠れませんでした。でも前日夜にダンスの最終リハで2時間半踊って汗を流したらスッキリ。なるようになるさと開き直ってぐっすり眠れたので、本番当日のコンディションはばっちりでした。

◆スタッフの皆も、昨年の「ちへいせんあしびなー」イベントで恐怖の準備合宿を経験している仲間が大半だった為、あまり役に立たない《なんちゃって実行委員長》のフォローの仕方がわかっているようです。当日は実行委員長が舞台ではしゃいでいる間もプログラムは滞りなく進行し、感謝感激雨あられでした。おかげさまで皆が担いだおみこしの上で楽しく躍らせていただきました。今まで何度か地平線イベントの実行委員長を務めましたが、今迄で一番、本番当日を楽しめました。

◆メインのシンポジウムプログラムはテーマが深く、豪華メンバーをそろえたのに時間が足りなくなってちょっともったいなかったですが、でも、殆ど時間を押さなかったのが奇跡的です。スムースに行き過ぎて地平線らしくないという贅沢な意見も耳にしました。思ったより『画報』が売れなかったのがかなり残念ですが、もろもろ、今後の課題(?)ですね。

◆先月の通信でも宣言しましたが、地平線会議のイベントはお祭りだと思っています。シンポジウムの部分は不断の積み重ねがあるのですから、どうやってもそれなりのクォリティは保っています。いつもはできない歌舞音曲部門がクローズアップされた今回のお祭りはなかなか画期的だったと思います。スタッフの人材もそろっていることだし、次回のイベントの実行委員長もきっと楽しいですよ。前日ぐっすり眠る為にも、是非次回の実行委員長も「踊る」ことをお勧めします。(長野亮之介

自分で考え、自分で動いた

■実行委員長の補佐として、統括係を拝命して考えたことはふたつありました。ひとつは、できるだけ多くの人を巻き込んで、見る側ではなく作る側としての楽しみを味わってもらうこと、もうひとつは、大集会の本番を、地平線会議としては一番苦手な、時間通りに進行する、ということでした。

◆50名を越えるスタッフに支えられて「自分で考え自分で動く」を合い言葉に、2か月前から本格的な準備が始まりました。ふだんはバラバラな人たちが、いざというときに集結するのは、地平線会議の得意技ですが、これだけの人数がまとまってひとつのものを作り上げたこと、そして時間通りに進行できたことは奇跡に近いんじゃないかと思っています。

◆それは、ひとりひとりが自分の役割だけでなく、全体を見て動いてくれたおかげだろうと、いまスタッフのリストを見ながら考えています。この大集会に関われてよかった、とすべてのスタッフが感じてくれれば、本当の意味で大成功だったといえるでしょう。(武田力

【躍る大地平線実行委員会スタッフ】
【実行委員長】長野亮之介【統括】武田力/関根晧博【受付】米満玲/本所稚佳江/加藤千晶/岩野祥子/長野淳子/久島弘/緒方敏明/坪井敬子【販売】古山里美/森井祐介/関根五千子/新垣亜美/鈴木博子/滝野澤優子/中畑朋子/城山幸子【会計】村松直美/横内宏美/塚田恭子/中山郁子【誘導・案内】村田忠彦/林隆史【販売ポップ制作】久島弘/緒方敏明【案内看板制作】落合大祐/杉山貴章/山辺剣【写真展示】丸山純/久島弘/緒方敏明/北川文夫【入場券制作】山辺剣/竹村東代子【清掃】関根五千子/新垣亜美【車輌・運搬】関根晧博/緒方敏明/古山里美【楽屋番】後田聡子/武田力【総合司会】妹尾和子/後田聡子【照明・音響】落合大祐/松澤亮/飯野昭司/埜口保男【ゲネプロ監督】杉山貴章/長野亮之介【タイムキーパー】網谷由美子/菊地由美子/山田淳【映像】落合大祐/杉山貴章【写真撮影】関根晧博/張替純二/白根全/山田高司【ビデオ撮影】落合大祐/山本豊人/坪井伸吾【記録】中島菊代/菊地由美子/宮川竜一/久島弘/中畑朋子【メディア対応】江本嘉伸/丸山純【二次会】大西夏奈子/山辺剣/後田聡子/新垣亜美/掛須美奈子/張替鷹介【オークション】車谷建太/加藤千晶/中山郁子/岸本佳則/岸本実千代


アンケートから

■語る内容が多すぎて、いくら時間を必要とするのか想像が足りないほどのイベントでした。記録することの本質は「伝えること」にあると思います。文字のない文化では語りによって忘れられたくないこと、忘れるべきでないこと、そして伝えたいことが継承されています。七人を介せば世界中の誰とでもつながることができると何かで読みました。多くのスペシャリストのいる場である地平線会議が末永くありますように。高校時代に三輪先生にその存在を教えてもらってから、たまに遊びに来ています。今後ともよろしく。(亀山峻伍

■久し振りに顔を出すことができて、嬉しかったです。地平線に関わりだして、20数年。私にもいろいろな事がありましたが、今日、こうして、この大集会の会場に居られることが奇跡の様です。以前の様に毎月というわけにはいきませんが、できるだけ、―何とか年に数回は、月例報告会に参加できるような状況になればいいなぁと望んでいます。

◆Part2の縄文号のお話がおもしろかったです。船を作るまでの過程をもっと詳しくお聞きしたかったです(本当なら、乗りたいです。私もムサ美OGなので…)。(三五(北沢)千恵子

■30周年記念大集会躍る大地平線にくることができて、本当によかったです。是非、是非40周年、50周年と続いていってほしいと思います。 品行方正楽団第二部、「光あふれて」の曲の時、ピアノのうしろで横になっていた子供が印象にのこりました。子供が安心しきって眠る姿、そういった空間は素敵ですね。長い時間の会でしたが、楽しかったです。さいごの踊りもBravo!!(H.N

■今回初めての参加です。たとえ名が知れていなくとも自分の情熱のままにコツコツと行動してゆく人達がいるという事がすごくはげみになりました。勇気をもらえました。今、自転車で日本を一周しています。この会をきっかけに、この旅の意味、そしてこれからの自分を考えてみようと思います。今日はありがとうございます。(鈴木雅矩

■みなさん、特に江本さんが変わってないな〜と思いました。来てよかったです。(堀田(柏木)志津子

■地平線会議30周年の記念すべき会議に参加できたこと嬉しく思いました。中学生の息子がいます。そうしたくないのに、知らず知らずに型にはめようとしている自分がいます。地平線の人々の空気を感じさせてやりたい、と思いました。自分の可能性や道を、これからさぐり求めている若者に、こんな場や人がいることを、おしえたい。人間の強さや、弱さや、暖かさや、そして、つながっていることを、感じる場であってほしいです。とても貴重な会議だと思います。 沖縄の子供たちの写真、スゴイですネ。びっくりしました。ありがとうございました。(三澤輝江子

■皆様、おつかれさまでした! いつもの報告会とはちょっと違った感じで、“大集会”でしたね。特にPART1、2、興味深かったです。世の中の流れもそっちの方向にむかっている気がします(今日のコトバで「ズルしない」)。(札幌住人 掛須美奈子


地平線月世見画報
地平線通信全予告面集 1979.9.28〜2009.11.21

■A5判・本文288ページ(厚さ約1.6cm)。1ページに2点ずつ地平線通信に掲載された案内を収録しています。

◆頒布価格:1冊1000円。送料:2冊まで160円、4冊まで320円。6冊まで480円。

◆申し込みは、ハガキに「氏名・郵便番号・住所(建物名も)・電話番号・部数」をご記入のうえ、「地平線・月世見画報制作室」(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方)まで。地平線会議のウェブサイトからもお申し込みいただけます。

◆お支払い方法:本が届いてから、郵便振替「00120-1-730508」、加入者名「地平線会議・プロダクトハウス」へお願いします。お手数ですが、通信欄に「月世見画報代金」とご記入ください。

◆限定500部ですので、お申し込みはお早めに。


[通信費をありがとうございました]

■地平線会議は会ではないので会費はありませんが、通信費は頂いています。先月号の通信以後、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は次の通りです。中には数年分、まとめて払ってくれた方もいます。万一記載漏れがありましたらご連絡ください。

 大矢芳和/菅沼 進/寺沢玲子/香川澄雄/麻田豊/小林進一/野口英夫/古川佳子/岸本実千代/ 斎藤孝昭/櫻井恭比古/城山幸子/三澤輝江子/村松直美/遊上陽子/横内宏美/木田沙都紀

1万円カンパ御礼

■「地平線30周年」を記念するイベントの実行、関連する印刷物制作のために1月以来「1万円カンパ」をお願いしてきました。これまでにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、心からお礼申し上げます。先月の通信で記載すべき何人かの方の名が落ちていましたこと、お詫びいたします。なお、カンパは12月31日で終了する予定です。

■1万円カンパ振込み先:

◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとしています。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。

09年12月7日現在カンパ協力人リスト。
斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子 酒井富美 シール・エミコ 平本達彦 神長幹雄 岩野祥子 藤木安子 広瀬敏通 山本千夏 村松直美 神尾重則 香川澄雄 白根全 尾上昇 橘高広 笠島克彦 吉岡嶺二 藤本慶光 長谷川昌美 村田忠彦 海宝道義 麻田豊 ウルドゥー語劇団 川島好子 稲見亜矢子 遊上陽子 坪井敬子 宮崎聖・直美

[先月の発送請負人]

11月号の地平線通信の発送に駆けつけてくれた皆さんは、以下の通りです。ありがとうございました。

■武田力 松澤亮 森井祐介 村田忠彦 加藤千晶 米満玲 杉山貴章 新垣亜美 塚田恭子 妹尾和子 江本嘉伸 林隆史 坪井敬子 坪井友子 坪井伸吾 埜口保男 満州 中山郁子(以上18名)


[あとがき]

■北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州と、大集会には、文字通り全国から人が集まった。直前に新聞、雑誌で報道されたことで初めてという参加者もいた。そういう人達の声を記録することも地平線通信の仕事だ。その結果、今号は長い作業となり、いつもの数倍の負担を森井祐介さんにかけることになった。大集会の最後にステージで紹介され、拍手を浴びた森井さんだが、またまた重労働を押し付けてしまった。

◆大集会にメッセージをくれたシール・エミコさんときのう8日、話すことができた。放射線治療後の後遺症の「宿酔」で体が異様にだるく、動けない状態が続いているという。少しでも免疫力を落とさないよう、食事、水に気をつけている日々。でも、大集会の様子が今月の28ページの通信でわかるよ、と伝えたら「楽しみです〜」と言ってくれた。

◆エミコさんのこと、時々、通信でお知らせします。スティーブと相談しつつ様子を見ながらですが、皆が静かに、本気の声援を送っているのがわかるので。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ハンディキャップチャリダーズ ゴーゴー豪州!

  • 12月25日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「障がいのあるなしに関係なく、とにかく元気でいることが、人間一番大事だって、つくづく思ったね」と豪州53日間の自転車旅をふりかえるのはバイク冒険家の風間深志さん(59)。'04年のパリ=ダカ・ラリー参戦時の事故で左足が不自由になりましたが、現在は運動器(身体を支える等の器官)の大切さをアピールするキャンペーンに呼応した世界一周の旅を段階的に実行しています。

ユーラシア大陸横断、アフリカ縦断に続く第三弾の旅として今年8〜10月にかけ、仲間3名と共に5150キロのオーストラリア横断を行いました。「自転車という機械のおかげで、健常者と互角に勝負できる。機械の本質がわかったし、ありがたさもわかったよ。障がい者こそスポーツをし、自分の運動機能を知るべきだね」という風間さん。

今月は苦楽を共にした3名の仲間(田中哲也、今利紗紀、山崎昌範)と共にオーストラリアの自転車旅の話をしていただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信361号/2009年12月9日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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