2011年4月の地平線通信

■3月の地平線通信・378号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月13日。午前9時の東京の気温は12.7℃、晴れ。ソメイヨシノがかなり散ってしまい、春が駆け足で通り過ぎるのを感じる。こんな穏やかな朝なのに、さきほども10時08分、北関東に「5弱」の余震があって、一瞬緊張した。2011年3月11日14時46分に起きた東日本大震災。この出来事によって、日本は別の顔を持つ国に変わろうとしているかもしれない。地平線会議のひとりひとりにとっても、大きな重い現実が目の前にある。

◆この地平線通信をできるだけ「日々の息づかい」をこめて出したい、と考えるため、発行当日に起きた何らかのニュース、あるいは天気模様をここフロントページで書くことが多い。先月、3月号の地平線通信の冒頭では、何気なくこう書いた。「3月9日。東京は雲が多いが、晴れ。昼前、青森県から福島県の太平洋岸にかけて震度5弱の地震が発生、沿岸に津波注意報が出た」

◆そうだった。あれは予兆だったのだ。思い返せば、そのわずか2日後だった。マグニチュード9.0というあの強烈な地震とそれに続いて海辺の市町村を飲み込んだ大津波が発生したのは。あれから1か月、すべてがそれ以前の世界と変わって見える。多くの日本人同様、早く元に戻ってほしい、との願望を抱く一方で、それだけでは済まない事態かもしれない、という慄きのような感情が存在する。

◆あの日、私自身は四谷の自宅で締め切りを過ぎた山の会の会報原稿に追われているさ中、「5強」の揺れに遭遇した。足腰がまだしっかりしていると思う自分でも、正直、怖かった。犬を抱えて外に出ると、電線がびゅんびゅん鳴ってしなり、人々はビルの谷間から上を見上げていた。高所からの落下物を警戒してなのだが、みんな顔がこわばっていた。

◆こんな場所でも怖かったのに、「震度7」や「6強」に見舞われた震源地近くの東北、北関東の幼い子どもや老いた親のいる家庭、保育園や幼稚園、自力で動けない患者の多い病院や介護施設、などで皆さんが感じた恐怖はどれほどのものだったか……。

◆そして、信じられない大津波の猛威。まさか、というナマの映像が日本だけでなく世界に流れ、その一部が知られたが、それでも私たちは、真に起きたことの100分の1ぐらいしか知らないのだろう、と思う。津波に車ごと突っ込むかたちとなり、飲み込まれたが、窓を破って脱出した、とか、畳にかじりついて漂流して救出された、とか生還の話はどれも1冊の本になりそうな迫力に満ちている。しかし、多くが帰って来ることができなかった。偶然、その地に居合わせていたら私自身そのひとりであったろう。

◆自然の力に対して、人間は何という無力か。地震も津波も遠くにいる者にはその恐ろしさは想像するしかないが、それ以上に想像の力を超えて不気味なことが、原発による放射能汚染だ。きのう12日、福島第一原発の事故の危険度が、ついに「最悪のレベル7」という数字に達している、ということが国から発表された。これは、チェルノブィリ原発事故と同レベルという。え? はじめはスリーマイルよりはるかに軽微、という認識じゃなかったのか。あまりにすごい事実が次々に突きつけられるので何でも受け入れてしまいそうだが、とんでもないことである。

◆今回の震災の後、地平線会議は「RQ市民災害救援センター」の活動をはじっこで支えつつ、3つの行動を起こした。そのひとつは、地平線会議のウェブサイトで3月17日、「地平線通信 3.11NEWS」というブログを始めたこと。せめて日々の動き、発言を記録し続けよう、という趣旨だ。

◆2つ目はこの「地平線通信378号」だ。各地の仲間に呼びかけてさまざまな立場、角度から「3.11」を書いてもらった。多くの人の協力を得てなんと34ページに達したが、それでも全部は載せ切れなかったことをお詫びする。3つ目は22日の「東日本大震災特別報告会」の開催だ。イラスト予告に登場する賀曽利隆、広瀬敏通、谷口けい各氏のほか、滝野澤優子、西牟田靖、佐藤安紀子、新垣亜美さんら今回の震災にあたって何らかの行動を起こした地平線の仲間たちを中心に4時間のパネルディスカッションとするつもりだ。

◆日本人の民衆レベルの探検、冒険の記録を残そう、と地平線会議を創設して32年になる。これまで383回の報告会を開いてきたが、アマゾンのジャングルでもサハラ砂漠でも、ヒマラヤの壁でも、自然と生きる人々から、あるいは挑戦する人間の後姿から人はどう生きるか、いのちの問題を常に私たちは学んできた、と思う。その意味で今回の震災がつきつける問題は、地平線会議のひとりひとりが問われている事柄だと言える。22日(午後2時からです!!)、多くの方とそんな視点から話せれば、と願う。(江本嘉伸


先月の報告会から

網に絡まる龍の行方

森田靖郎

2011年3月25日 新宿区スポーツセンター

■東日本大震災発生から2週間後、地平線会議が始まって32年間で初めて、節電の影響で報告会が16時半に繰り上げて開始された。開始時間の変更を事前に案内した「地平線通信葉書号外」には、「平日の遅い午後では仕事を持つ人にはムリかもしれませんが、参加者が少ないのは覚悟の上です」と書き添えてあった。しかし空がまだ明るいうちにも関わらず、会場には地平線会議創設メンバーの皆さんや、会社を休んで来た人、初参加の中学生・高校生まで、幅広い層が集まった。冒頭では代表世話人の江本さんが、地平線会議の仲間である新垣亜美さんから着信したばかりのメールを読み上げた。その時亜美ちゃんは、被災地支援のため東京から宮城へ向かう車にいた。

◆作家の森田靖郎さんは、阪神淡路大震災で実家や親戚の家が被災し、当時東京から神戸へ駆けつけ、瓦礫の下から叔父さんを助け出して東京の病院まで車で運んだ。「これから話すことは震災とは関係がない内容なので申し訳ない。でも皆さんにとって、意味がある日にしたいです」と、お話が始まった。震災直後のいま、刻々と状況が変わる原発事故の報道を見守りながら、これまでにないほど国家の存在を意識せずにいられない。「国家とは何か?」を突き詰めて報告会は進み、森田さんの「国家犯には裏と表がある」というお話に注目した。

◆「2011年はものすごい幕開けだった」。チュニジアを発端としたジャスミン革命が周辺各国へ飛び火し続け、民主化運動の波を巻き起こしている。「9のつく年(ナインシンドローム)と違って、1がつく年は“これから時代を作る”という気運が込められている」。

◆「だが日本は体感不安に陥っており、気運が感じられない。現実を直視せず、見えないものにおびえる。やはり中国の存在が大きい。GDP2位の座を抜かれ、尖閣問題を体験し、日本は中国を巨視しすぎているのではないか?」。森田さんは、巨龍の実態を知れば怖がることはないと話す。そもそも中国は、各地の盗賊団を秦の始皇帝がまとめ上げたことで始まった国。ならずもの国家だという人がいたが、そう考えれば恐れるに値しないという。

◆アマゴ釣りの仲間である石川県の住職に招かれ、ある冬、森田さんは中国伝来の寺の施餓鬼(せがき)の法要に立ち会った。中国人の墓が並ぶ横に、77歳で亡くなった日本人の真新しい墓があった。住職はその日本人の中国人妻を思い出し、「中国の女房は強い……」と語った。病の夫を背負って冬の海岸を歩いたり、夜中に失禁した夫を寒空の下へ裸のまま追い出したりしていたという。

◆春になり、森田さんは替え玉バラバラ殺人事件という言葉に誘われて取材に向かった。場所は大阪西成区某所。日本で唯一暴動が起こる場所ともいわれ、そこだけ時間が止まっているような一角だ。社会保障で生きている日雇い労働者やホームレスの溜まり場に、彼らの労働証明となる印紙を発行する役を担う組関係の事務所が38ある。この地で和風スナック兼売春宿を営むインリナという中国人女性こそが、森田さんが寺で見た墓の未亡人だった。

◆彼女は3人の日本人男性の殺害容疑で指名手配されて逃亡中だった。1人はインリナと婚姻関係にあったが77歳で死亡。残る2人はスナックの常連客。男性達を一瞬で魅了してしまう妖艶なインリナは、組関係者と組んで日雇い労働者達を相手に、偽装結婚と偽装認知の裏ビジネスをしていた。世捨て人となった日雇い労働者達の戸籍を利用して来日希望の中国人の架空の夫にしたり、一人っ子政策の影響で戸籍が無い黒孩子(ヘイハイズ)の架空の里親にして、日本国籍を取得することを斡旋し巨額を稼ぐ裏国家犯だ。数年後、彼女は東京で逮捕され、現在も大阪で裁判が続く。

◆犯罪の動機について検察は財産犯だと主張したが、森田さんの見方は最初から異なり、ビザの更新手続きがどうしても欲しくて犯行に及んだという仮説をたて、事件の本質はそこにあるのではないかと『犯罪有理』(毎日新聞社)を書いた。後に、インリナ自身の供述で森田さんの仮説が証明された。事件の証拠がほとんど無く検察側は苦戦し、はじめから財産目当ての犯行と断定して並べあげた事実は不確実でもろかった。「事実をどんどん積み重ねるほど、真実から遠ざかることもある」と森田さんは語る。

◆一方、暴かれにくいのが国家犯。「これこそ中国の正体ではないか?」と森田さん。「GDPを中国に抜かれたと日本は騒いでいるが、個人消費など本当の経済力はまだ日本には及ばない。中国がいま求めるのは、世界に誇れるブランド力」。中国でベストセラーの出世ノウハウ本『厚黒学』。これは孟子の性悪説に基づく思想で、厚かましく腹黒い方法で上へのし上がることが真の成功道だと説く内容だ。近年、中国は「走出去」という海外戦略を打ち出し、日本向けに外貨導入を積極的に行っている。

◆国家犯でも日本人が要注意なのが産業スパイ。池袋チャイナタウンには、かつて横浜や神戸に定着した老華僑とは異なる新華僑が進出している。日本人社会に溶け込む老華僑と違って、新華僑は主にビジネス目的で来日した中国人だ。新しい時代のチャイナタウンは派手な門構えもなく一見それとわかりにくいが、内部では膨大なコンピューターネットワークを築き、中国人集合拠点として日本各地に存在して情報を集めている。日本企業を買収する政府機関の中国投資有限責任公司(CIC)の裏には、産業スパイの存在がある。東京の中国大使館も情報機関としての役目をもち、優秀な留学生達がスカウトされ、数千人が暗躍している。

◆ネットワーク空間で世界情勢が激しく動く時代。NYのプリンストン大学で「インターネットは自由の道具か、弾圧の武器か」という公聴会に森田さんは招かれた。アメリカの民主党議員は、「アメリカは中国のサイバー攻撃を年間4万7千件受けた。これは“Computer Wars”である。その防衛策に6000億ドルを投じている」と話した。森田さん曰く「サイバー攻撃を始めたのはコソボ紛争時代のアメリカで、中国はそのマニュアルをコピーしただけ。飼い犬に手を噛まれたようなもの」。

◆今年3月の全人代で採択された新5ヵ年計画(2011?15)には、超エリート集団によるサイバー部隊の結成が盛り込まれた。第1の目的は、国内の民族問題や農民問題をいち早く察知すること。第2に、自国が攻撃される前に大国の核施設をサイバー攻撃する技術を得ること。第3に、主に日本に対しての産業スパイを発達させること。

◆一方、他国からのサイバー攻撃を防御するため、600億円の予算を投じて中国全域にグレートファイヤーウォールと呼ばれる防御網を張っており、4億人以上のネットユーザーを24時間監視する30万人のネットポリスがいる。森田さんも被害にあい、ネットポリスによってメールを盗み見され、大事な取材パートナーを失った。

◆2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波。受賞のきっかけとなった08憲章をネット上で公表し、国から削除されるまで瞬く間に国内外へ広がった。「三権分立など我々が小学校で習うような基本的な内容だが、一党独裁を終結すべきと書いた部分が中国政府を刺激した」と森田さん。劉は即刻、国家政権転覆扇動罪という最も重い罪で拘束された。

◆森田さんが劉と出会ったのは22年前、天安門事件で揺れる北京の反体制派の拠点となっていたバーだった。6月4日運命の日、学生らの流血被害を最小限にくい止めるため、一部の学生を広場から逃がすことに成功した「黄雀作戦」に尽力した劉は、そのまま当局に捕らえられ労働改造所(ラオカイ)送りとなった。1年半経ち釈放後、国外へ出ることもできたのに、劉は何度捕まっても中国にとどまり人権運動を止めなかった。

◆劉のノーベル平和賞受賞に世界がわく中で、中国は不快感を示した。海外では亡命者達による祝賀会が催され、魏京生に再会できると森田さんも参加した。魏京生は、1978年に北京で壁新聞を作り小平の改革路線を批判し、中国民主化運動のきっかけを生んで民主化のシンボルと称された人物。北京オリンピック誘致運動でアメリカに出国させられたが、ノーベル平和賞は彼が受賞すると誰もが思っていた。

◆ノーベル平和賞を受賞した劉と、受賞しなかった魏の違いは何か? 祝賀会では皆が揃って「時代」だといった。中国が超大国に成長したこと、その間も人権問題が未解決のままであること。情報の表現手段も変わった。魏は手作りの壁新聞で民主化を訴えたが、劉はインターネットを介して世界中の数億人へ短期間に発信した。しかし魏は、「国内にとどまったかどうかの違いだ」と話した。魏が出国した直後、アメリカで彼と会い「出国は間違っていた」と直接聞いている森田さんも同じ意見だった。森田さん自身、これまで生身で挑んだ取材を通じて中国の真実を伝えるルポを数多く発表している。しかし「外から何を言ってもだめだ。国内から発言することにこそ強いインパクトがある」という。国内から発言することの怖さと強さとプレッシャー。劉はいまも身柄を拘束されている。そして「平和とは何か?」を森田さんは投げかけた。

◆「平和とは、人生のファイナルアンサーだと思っている。人生のあとがきみたいなもの」。ちなみにトウ小平は「人も国も、発展するほど謙虚でなければならない」と平和に対する考えを残していった。森田さんは続けた。「平和とは、僕らの来た道を振り返り、往く道を見つけるための道しるべではないか。暗闇の海を航行する船は、灯台の明かりを見つけて安心して進み続ける。山のケルンと同じで、平和とは往く道を示す先人の知恵ではないか」。

◆「ユダヤ人には伝統があり、アメリカ人には故国があり、イタリア人には教会があり、日本人には四季と四海がある、中国人には何があるのか?」森田さんが問うと、ある老華僑はこう答えた。「孫文が生み出し蒋介石が実践した、“怨みに報いるに徳をもってなす”という徳という宇宙観がある」。もし劉ならこういうだろうと森田さんは思う、「中国には天子がいる」。中国で天罰とは国を治めるトップへ天が下す罰である。人民を泣かせる政治を行うと、天命を革(あらた)めるとしてトップは座を譲らねばならない。いまの共産党の国家犯は誰にも止めようがないが、唯一、天が罰することができる、と。

◆2時間休憩がないまま聞き手を一気にひきこんで進んだ報告会の締めは、ケーナ演奏。緊迫した空気のなかに素朴な花が咲いたようなボリビアの曲「カンバの娘」。ボリビア人が故郷に残した家族を思い、演奏する曲なのだという。今回の震災で工場が潰れて解雇となってしまい、国へ帰らなければならなくなったボリビアの友人達に、森田さんが捧げた。

◆阪神淡路大震災直後、叔父さんを乗せて東京に向かう車中から、崩れた阪神高速が見えた。一命をとりとめた森田さんの叔父さんは、「人間の作ったものはもろいなあ」といった。その言葉を、原発事故を見ながら森田さんは思い出したそうだ。「それを回復させるのも人間、その現場にいま僕らは立っています。僕らは、いま人類の歴史を作っているのかもしれません」(大西夏奈子


報告者のひとこと

「帰らざる河に、立ち止まった3・11の衝撃」

■国難のご時世にもかかわらず多くの方にお集まりいただき、感謝の一言に尽きます。報告会から数日後、私は被災地を訪れました。職場と住まいを失ったボリビアからの出稼ぎたちの帰国を見送るためです。その時、原発事故で自主避難の一家のお話を聞きました。「東京の人が使う電力なら、どうして東京に作らないのか。送電に3割もロスするのに、なぜ福島に原発を?」「……」返す言葉もありません。

◆広島、長崎の被爆国という自負から生まれた安全神話に、「地方で電気を作り、都会で使う」福島発の電力に甘受し、「帰らざる河」を渡った私たち日本人に後戻りはありません。原発社会のリセット(刷新)しか選択肢はないのです。

◆県外の車をチェックしている自警団に被災地を回る私は何度も検問にあいました。福島第一原発の村を訪れるのは16年ぶりです。「原発村のルポ」を頼まれ、原発モラトリアム(反対でも賛成でもないあいまい)派に、PA(パブリック・アクセプタンス)つまり原発は是か非かを問う働きかけ役を引き受けました。というのは、東京電力・福島第二原発1号炉をめぐって地元住民が設置許可の取り消しを求める裁判を起こし、裁判所は「原発の設置には国の裁量権(総理大臣の決定権)がある」と、住民の意向に配慮する必要がないと判決を下していたからです。「まず反対派だった地元の人に会いたい」と、あの時初めて原発村を訪れました。

◆「陸前浜街道(国道6号線)を来たならわかるでしょ」反対派で町議会議員は、高台を指差し「東電の社員寮や独身寮は高い丘で、しかも風上に建っている。プルトニウムは低いところに集まるという危険を知っているからです」と話しました。東電は当時、根拠がないと否定していました。

◆建設を請け負った日立製作所、石川島播磨重工の技術者が「原子炉の安全はつまるところ溶接技術で決まる」と、「世界一」を誇っていました。事実、原発先進国のアメリカからやってきたGEのQC(品質管理のエンジニア)は複雑に入り組んだ形状の原子炉格納容器の溶接の跡を見て驚きの声をあげました。その補修率はアメリカの平均4パーセントに対し、日本の技術は0・3パーセントでした。

◆アメリカGE製のBWR(沸騰水型軽水炉)は応力腐食による事故歴もあり当初から問題視されていました。世界一の日本独自の蘇生法をもってしても寿命20年をはるかに超えた老朽化した原子炉のひび割れは、いつ事故が起きるかは想定内だったと思われます。その当時、福井、福島、島根の「原発村」で、交付金で沃化カリウム錠を購入しているという噂があり、福島県では27万錠、原発所在地の県立病院で密かに保管されているという事実を掴みました。27万錠というと2万7000人に対して5日分の計算でした。ヒューマン・クレジット(成長信仰)の保険のつもりだったのでしょうか。

◆それからひと月後、1・17阪神・淡路大震災に私の故郷は、見舞われました。震災のドサクサに紛れて、機能を失った神戸港から中国人密航者が多数上陸しているという噂を追って取材し、『密航列島』(朝日新聞社)を執筆しました。「これを書いて、神戸を救えるのか」と何度も立ち止まりながら、最後の一人の密航者にたどり着き「火事場泥棒というんだ、人間として最低だな」と、蛇頭を怒鳴りつけました。

◆「国家とは何でしょうか……」中国の国家が暴力と権力の独占体であることは報告会で話した通りです。日本もその例外ではないのです。あの判決後、原発地元住民は国家の前で無力です。「国家犯」を3つの「黒」のキーワードでまとめた新刊書を執筆中です。同時に、『地震・原発・密航列島』の緊急出版に取り組み始めています。ありがとうございました。(森田靖郎


[2011年3月は、1ヶ月に2度「地平線通信」を出しました]

■3月は、東日本大震災の発生のため、2度地平線通信を出しました。「地平線通信376号」は9日に通常のかたちで16ページ版として刊行。印刷、発送に汗かいてくれた方々は以下の11名でした。

森井祐介 車谷建太 村田忠彦 関根皓博 松澤亮 満州 新垣亜美 杉山貴章 江本嘉伸  落合大祐 妹尾和子 

◆11日の大震災の後、節電の影響で会場の夜間使用時間が短縮されたため、急遽19日に「地平線通信葉書号外通算377号」を出し、開会時間の変更などをお知らせしました。制作、印刷を森井祐介さんがひとりで引き受けてくれ、住所シートを印刷してくれた加藤千晶さん、さらに松澤亮君、横内宏美さんが駆けつけてくれ、江本事務所で宛名貼りなどの作業を終えました。皆さん、ありがとうございました。


3・11 地平線通信発

今月17日にここで花見するんだ。亡くなったみんなの供養と、これから元気出して、復興してくためにねよ

■市内8000世帯のうち7割以上が津波に飲み込まれてしまった陸前高田市に行った。4月2日、最初に行った時には茫然と立ち尽くしてしまった。学校や病院、市庁舎など堅牢な建物を除いて、がれきの原になっていたからだ。町全体を見渡せる大きな橋の上に立っていると、30歳前後の土地の人が声をかけてきた。「生きているうちに、こんな地獄のような光景を見るとは思いませんでした。ここには瓦屋根の多い、普通の街並みが広がっていたんですよ」

◆今日(5日)、そのがれきの中で、避難所に入らず、かろうじて残った屋根の下で暮らす老夫婦に出会った。「何か必要なものはありませんか」と尋ねた。武蔵野美術大学の学生や卒業生からワゴン車2台分の食料、衣類、医薬品、介護用品、日用品と義捐金を託されていた。それらが足りないところもあるが、今では多くの所では十分出回っていて、その佐藤直志さん夫婦も、「ものは十分足りている。あなたたちのように来てくれて話を聞いてくれるのが一番うれしい」と言う。

◆昔使っていた井戸を復活させ、手押しのポンプをつけた。「水さえあれば、電気、水道がなくても生きていけます」と言う。電気はない。灯油ランプの灯りをともして早く寝る。「真っ暗なので星がとてもきれいだ。今回の震災まで、星を見て何か感じることはなかったけれど、こんなに美しいということに初めて気がついたよ」とつぶやきように語る。

◆消防団員の息子が自分だけ逃げれば助かったのに、遅れた人間を助けようとして津波に飲み込まれてしまった。野球帽のつばで見えにくいが、うっすらと涙を浮かべながら、「仕事を全うしようとして亡くなった息子を誇りに思う」と語ってくれた。ほとんどの財産をなくし、息子まで失くしても気丈に生きる佐藤さんを慕って、数人の仲間が、かろうじて残った屋根の下、あるいはテントで暮らしている。

◆「病気にはならないですか」と尋ねると、「津波にやられてから、ここにいる人間は誰も病気をしないんだ。避難所にいる人たちは周囲の人との付き合いなどで精神的にも疲れるし、病人が出ているそうだけどね。」「全国の人に助けられて、自分たちでも努力しなければいけないと思っているんだ。ゼロからの出発だけど、息子の分までも生きなければいけないんだ。津波が襲った次の日、次男夫婦に女の赤ちゃんが生まれた。息子の生まれかわりだって言っているんだ。この子が大きくなった時、じいちゃんが頑張って震災を乗り切って復興したんだって、言われるように長生きして頑張ろうと思っているんだ。」

◆「何もいらねー。人とのつながり、絆があれば生きていける。希望が持てる。」と繰り返す直志さんの前にがれきの山が広がっている。しかし、時間はかかるかもしれないけれど、少しずつ整理されていく期待が持てた。一度は絶望感と悲しみに襲われた佐藤直志さんのやる気が持続するよう祈る。

◆直志さんの次男、茂さんの奥さんの由美さんは津波が通り過ぎた直後に産気づいた。津波から生き延びた病院に入院し、翌日、帝王切開で女の子が生まれた。直志さんの孫4人は、すべて男の子。待望の女の子だったので、大喜びだった。

◆望美という希望を含めた名前を付けて、市役所に行った。市役所も壊滅状態で仮設の建物だ。誕生届けに行ったのだが、今は死亡届けを受理するだけで精一杯で、誕生届けは後にしてくれと言われてしまった。どこの避難所に行っても、赤ん坊は少ない。私に支援物資を託してくれた人の多くは女性が多かったので生理用品と赤ん坊用の飲み物、おむつ、衣類が多かった。直志さんがベビー用品は支援物資の中でも希少なのでほしがっているというので届けた。とても喜んでくれた。

◆佐藤直志さんと減農薬、醤油やサケの搾りかすを肥料にしておいしく、安全な米を作っていた菅野茂さんは宴会委員長だという。「今月の17日にここで花見するんだ。亡くなったみんなの供養と、これから元気出して、復興してくためにねよ。俺たちのために一年に一度の行事を自粛したら、みんなに申し訳ねえからな。俺たちが花見をすれば全国の人も花見するだろう。」近くの町で桜のつぼみが、開き始めたという情報が入った。

◆「自衛隊が来たときに、もう物資はいいから、40歳くらいの嫁さん送ってくれって言ったんだ。ここいらは独りもん多いからな。復興するにも張り合いがいるからな」冗談好きな菅野さんは奥さんに震災以前に先立たれ、家も何もすべて流された。和太鼓を仲間とやっていて、アメリカのディズニーランドでも演奏したことがある。半分の太鼓が流されたが、しかし、全国的に有名な、大きな音のする太鼓は見つかった。練習だと言って和尚の娘に笛を吹いてもらい、太鼓を叩いた。8月の村祭りが楽しみだという。

◆「何年か経ったらまたここに来ておくれ。どのように変わっているか見てもらいたいん。孫にランドセルと勉強机を買ってやるまでは、と思ってきたけど、何にもなくなっちまって、生まれたばかりの孫にも、復興の姿を見せるまでは頑張んばろうと思う」

◆この地を切り開いた先人のようにゼロからこの町をまた作っていく。「いつまでも支援物資に頼ってらんねぇ。」丘の上には早くもじゃがいもの種芋が植えられていた。減反で使われていない土地を借りて米づくりも始めるという。2ヵ月後、縄文号、パクール号の航海が終わったら、またやって来ようと思う。(陸前高田にて 関野吉晴

現場で学ぶ「災害教育」を今こそやろう

■濃縮された時間が此処には流れている。日常とは比べることも困難なほど、次々と事態は変わり、今朝の出来事は遠い過去となり、昨日は幾日も前のように感じられる。私の若き日に味わったことのある戦場や非常事態下に見られる異常な緊張と高揚が感じられた。ポンポンと飛び込んでくる新展開の事態にはマニュアルなど意味が無い。「臨機応変」の即断即決での処理能力が本領を発揮してくる。普段の仕事では『打合せと違う』などとスタッフからは評判の悪いアバウトな方法がこの場では最も役立つ。

◆野外教育やキャンプは本来、非常時に備えるトレーニングから始まったことを考えると、私たちが此処で働けるのは当然の役割だし、日々、そのために腕を磨いてきたと言っても過言ではない。少なくとも一般の生活者よりはこうした事態への感性は鋭いはずだ。

◆RQ市民災害救援センターとは、3月11日の震災勃発を受けて13日に急遽結成した救援活動のネットワークだが、毎週のように参加団体が広がり、現在はおよそ100を優に越える団体で構成している。私はこのネットワークの最初の行動者であり、呼びかけ人であり、現在は「総本部長」という市民組織に似つかわしくない名称の役職だ。簡単に言えば調整役である。

◆RQ(レスキューの略)本隊は宮城県の仙台以北の女川から北は大船渡までの130kmの沿岸被災地のおおよそ150箇所を越える避難所や避難地を網羅的にカバーして、震災直後から緊急支援としての物資配布を約200トンほど行ってきた。本隊の他に岩手県遠野市をベースに釜石市周辺、福島県いわき市、郡山市などの避難所支援も別働隊が行っている。

◆仙台は交通やインフラが機能していて活動拠点になり易いために、多くのNGO、NPO、政府機関が集中している。そこで、RQは支援の手が極めて薄いエリアに手を伸ばして活動してきた。現在は全体として第2フェーズの活動にシフトしており、「モノから人」の支援を強めている。幼児からお年寄りまでの被災者ごとのニーズに沿った支援プログラムを組んでおり、避難生活全般に関わる支援を行っている。さらには瓦礫の片付け、泥掻きなど、幾らいても手が足りないほどにボランティアの需要が高い。

◆ところで、こうした活動に伴って感じていることを地平線の仲間に伝えたい。「ボランティアは迷惑」か。阪神でも中越でも、そして今回も自治体やメディアの多くが「緊急時の邪魔になるのでボランティアは現地には近づかないように」と流してきた。実際には過去の災害でも今回も緊急時段階での行政の機能は麻痺しており、混乱下、被災住民も役場職員もごちゃ混ぜのサバイバル的な避難所運営が行われる。

◆物資も情報も統括的な流れなど無いばかりか、ライフラインすら壊れていて何も情報が無いまま生き残り生活を送っている。こうした事態の中では機動力、組織力に優れ、自立した体制を持って活動できる専門性の高いチームの存在はきわめて効果的だ。そしてその指揮下、調整下で活動する一般ボランティアも無秩序ではなく、信じがたいほどに有機体の一部のように統一した動きで活動している。もちろん例外はあるし、だらしない人もいることは事実だ。

◆しかし、迷惑なボランティアはホンの一握りであり、それをもって被災者が祈るような気持ちで待つ支援を阻害することなど在ってはならない。私はボランティアとして有効に活動する人であればたとえ犯罪者だろうが問題などないと考えている。中越川口町でのボラセンではだれが潜りこんでいるか分からないからと、警察からボランティア名簿の提出を求められたが私は断った。ボランティアの背景も履歴も災害時には関係ないことだ。

◆現場で学ぶ「災害教育」を今こそやろう。現場の持つ教育力はきわめて大きい。逆に言えば現場に立たない「見識」を私は信用しない。地上の陸地面積の0.04%しかない日本に世界で発生するM6以上の大地震の25%近くが集中している現実と、現実の災害を自分ゴトとしない国民性との乖離を解決するには、災害現場を教場とする「災害教育」がとても有効だ。現場ではない平時に行う防災教育との違いはここにある。現場のリアリティのない知識や情報は無駄ではないが効果は薄いことを知っておくべきだ。災害教育は一線のボランティアだけでなく、児童生徒の修学旅行や大人のエコツアーなどでも出来るし、被災地で被災者や現場ボランティアから話しを聞く体験は、日本人として誰もがやって欲しいことだ。

◆災害ボランティアは自己責任で自己完結を原則とする。ボランティアの語源は志願者だ。他人に強制されて行動するわけではない。だからこそ、すべての災害ボランティアは自立して自己責任で行動し、連帯する。それゆえに清々しい関係性が現場では生まれる。RQのような災害ボランティア団体がボランティア個々人に責任を持とうとすれば、可能性としてはRQは成り立たなくなる。これは平時の常識や秩序とは異なるレベルの話しだ。互いに抗議や訴訟の無い関係だからこそ、即席、現場合わせの体制で効果的な仕事が出来るということを理解して欲しいし、それが出来ない人は参加を考えないでもらいたい。

◆緊急支援活動といっても、つまりは人と人、心と心の関係をどう作り上げるかという、人間の生きることそのままの行為に過ぎない。私たちは机上のゲームをしているのではなく、生身の体とすすけた顔とかすれた声で、顔と顔をつき合わせて活動している。此処で大事なことは温かい笑顔であり、心の通う会話だ。それが仕事を成し遂げるうえでどれほど効果的であることか。生き延びた人々は、涙をいやと言うほど流すことだろうし、ささくれた雰囲気の中で荒げたいさかいもちょくちょく起きる。せめて第三者の私たちは笑って活動したい。(広瀬敏通

広瀬敏通:1979?80年にカンボジア難民救援のNGOを現地で運営し、その後、政府調整員として活動。帰国後の1982年に当時の仲間たちで「国際緊急援助隊」を結成した。これは現在、政府組織になっている。阪神・淡路大震災はじめ国内外の災害地で救援活動を行ってきたが今回は所属の日本エコツーリズムセンターで活動を開始し、それがRQ市民災害救援センターに改称して現在に至る。

現地ボランティアに行くのを足踏みしている方に言いたいのは、「配慮は必要、でも遠慮は無用」ということです
━━登米の新垣から地平線の皆さんへ

■こんにちは。ちょっとだけ放送室に隠れて、これを書いています。携帯は机に置いてきました。今日の午前中も、電話応対やボランティアからの連絡・報告・相談であっというまに過ぎていきました。自分の時間を作るのがヘタで、なかなか地平線に原稿を書けなくてすみません。しかも通信環境が良くなくて、パソコンでの検索やメール作成に時間がかかります。でもいまは、やりたいことがいっぱいなので、大変ですがやる気は充分にあります。元気ですので、ご心配なく! 

◆以下、最近の電話問いあわせやボランティア対応のちょっとした例です。「うちの大学の学生が、避難所で足湯をしてあげたいと言ってます。いい場所ありますか?」「さつまいも1トン持って行きます」「息子の通ってる高校の子らがボランティアしたがってるんだけど」「絵本の読み聞かせをしたいのですが」「新拠点用に携帯用意して」「事務用品いつくるの?」「消防団がテント欲しがってます」「薪ストーブ作ったけど、いりませんか?」「今、被災地には何を送ったらいいですか?」「明日の泥かき作業に出すバスは何時発?」「テレビの取材に行かせてください」

◆(地元の方から)「お風呂作れませんか?」「炊き出しできる場所、まだ見つかりませんか?」(ボランティアから)「スリッパが足りないです」「女子トイレも俺が掃除するの?」「キッチン担当希望者がいなくてこまってます」「物資搬入口に止まってる車、どかしてほしい」「支援物資で送った本を、子どもが読んでる姿を写真でとって送って」「道に迷いました?」「倉庫の空き具合を毎日東京に教えて」「隣の避難所で間仕切りほしいって言ってます」「うちの病院の医師がそちらへ行きたがっていますが、きちんと活躍できるの?」…。

◆雑務から渉外まで、とにかく目の前のことをこなすのにめいっぱいです。もちろん全てに対応するのではなく、相手方で解決できるものはお願いしています。いますぐ改善したいのは、夜ミーティング。チーム別、全体と合わせて1時間半から2時間。活動が多岐にわたってきて長くなりがちなので、もっと効率よくやりたいです。司会進行が苦手な私は、毎日緊張の連続です。

◆でも忙しい分、私は幸せなんだろうな。短期のボランティアで、不完全燃焼(もちろん被災者ありきのボランティアだけど)で帰っていく方もいると聞いたので。今本当にいちばんやりたいのは、通信です。現地での活動報告を東京本部やボランティア間でも共有したいです。先日、めずらしくMLに書きこみをしたら、「現地の様子がわかると頑張れる、ありがとう」という反応がいくつかありました。やっぱり大事です、情報!

◆以下は、その文章にちょっと手を加えたものです。地平線の皆さんにも気持ちを知ってほしいので転載しますね。ここに出てくる「総務」というのは、登米現地本部に集まった人たちをつなぐ裏方的な役割で、私はいつの間にかその仕事が専門となっています。■登米にきて2週間がたち、人と人のつながりの素晴らしさを感じています。私はボランティア活動に参加するのが初めてということもあり、総務に入ったばかりのころは、自分たちがボランティアを指揮しないといけないのかと思って焦ってました。今は全く逆の気持ちです。ボランティアの方たちは、みんな何かしたい強い気持ちを持っています。できること・やりたいことが明確な方もいれば、何ができるかわからないけれど、とにかく誰かの役に立ちたいという方もたくさんいます。

◆だから私たち総務が、大きな流れ(目指すところ&実務的なところ)を整え、サポートさえすれば、活動は自然と被災者のニーズにそったものになっていきます。本当に、ボランティアはすごいエネルギーの塊です! たとえば美容師の林さんは、ハサミなどカット道具ひとそろえを持って登米にやってきました。移動美容室をひらいて、この2日で50名もの方のヘアカットをしました。

◆もしかしたらお節介かもしれないし、自己満足かもしれない。でもボランティア1人1人の思いがこの活動の原動力になっていることは、絶対に絶対にまちがいありません。現地ボランティアに行くのを足踏みしている方に言いたいのは、「配慮は必要、でも遠慮は無用」ということです。足りないところは補い合って、それぞれが得意分野を活かして活動できる。そんなしくみ作り・雰囲気作りを頑張っていきたいと思っています。ボランティアが活き活きと力を発揮して、被災地に活気を送り込めたらいいな! ちなみにこれは、私が周りの方にたくさん助けられているからこそ、感じられたことです。私はパソコンも発電機も保険もデザインも料理も詳しくないけれど、声をかけあえば誰かが手をかしてくれて、いつもなんとか形になります。色んな個性が集まるボランティア活動ってすごい環境ですね。 完璧な人より、でこぼこがあった方が、その凹凸でたくさんの人とつながって大きなことができる。「思い」の大切さに気づいてから、ボランティアが感じたことを書き残す「ボランティアノート」を作りました。これをバトンにして、入れ替わるボランティアの思い=活動の原動力をつないでいきたいと思っています。ほかにも「思い」が目に見える工夫を、毎日なにかしらするようにしています。あと、地元ボランティアの方たちは、積極的に活動することで立ち直ろうとしています。そういう方たちが活躍できる場も、もっともっと提供していきたいです。

◆今日もご近所の方が、手作りのおにぎりやバナナケーキ、お団子を差し入れしてくれました。近所の方は、お家のお風呂にも入れてくれます。復興には何年かかるかわかりませんが、ここのやさしい人たちの故郷に、私も色んな形でずっと関わっていこうと思います。22日の地平線には行く予定です。よろしくお願いします。(新垣亜美

ある漁師は「自宅が出航して行った」と語った

■3月27日から4日間、大津波の現場に足を運んだ。自分が被災地に出かけても役に立たない。しかし現場体験から、学生たちにボランティア参加を呼び掛けられるかもしれない。それで、3月13日にいち早く立ち上がった「RQ市民災害救援センター」の緊急救援車両に乗せてもらうことにしたのである。

◆自分が見せてもらったのは、宮城県の南三陸町、志津川湾から北へ、本吉、気仙沼、唐桑、そして岩手県に入ってすぐの陸前高田あたりまでである。大きな湾から小さな入り江まで、文字通り津々浦々のすべてが津波の直撃を受け、壊滅あるいは消滅してしまった。37戸の集落のうち残ったのは4戸だけという例もある。三陸一帯は沈降、隆起、浸食地形というリアス式海岸だから、深い入り江の良港が多い。細かな湾や入り江の奥には川が流れ込んでいて、平地があってそこに人が住み、たくさんの小さな集落をつくって農業や漁業を営んできた。

◆そんな集落にある川を、津波は数キロ上流まで駆け上がり、畑と道と建物を徹底的に浚い出した。ある漁師は「自宅が出航して行った」と語った。まるごと港から引き波で外へ持っていかれたからだ。時には寄せる波より、引く波の力のほうが強い。電柱や木が、ところにより山側に引き倒されたり、あるいは逆に海側に向かって倒されたりしている。まさしく根こそぎである。

◆集落が丸ごと津波にさらわれ更地のようになってしまったところと、逆に荒涼としたガレキ原になっているところと、両方がある。津波に洗われなかった家々は、外見上ほとんど無傷で残った。もちろん壁が落ちたり、塀が倒れた家もあるのだが、ガレキと紙一重で残ったわずかな家々との対比が際立っている。したがって地震だけだったら、今回の大災害は津波による被害の1%以下に過ぎなかったに違いない。あるいは0.1%か。つまり地震はきっかけに過ぎない。震災というより、むしろ巨大津波災害なのである。

◆見渡す限りのガレキ原には動くものがない。ブリキのおもちゃを金槌で叩き丸めたような、金属の殻となったクルマがそこら中に積み重なり、転がっている。また無傷のように思える車両があちこちにひっくり返り、あるいはボロボロになったビルの屋上に引っかかったりしている。大きな二階家が他の家に乗り上げ、窓がすべて飛んだ屋内からカーテンが揺れている。波ではがされた道路のアスファルトは、乱雑に積み上げた黒いマットレス状態だ。コンクリートの電柱が3つ折りにへし折られている。戦争の空爆といえども、ここまで徹底的な破壊は難しい。

◆土盛りの上に敷かれた鉄道は、鉄橋もろとも底を抜かれて消え、枕木付きのレールが宙にぶら下がっている。4両連結の電車がかき消えてしまった、というのが無理なく納得できる。はぎ取られたガードレールは、まるで紙テープのように、壊れたコンクリートの堤防などに巻き付いたままだ。高台にある神社の境内に生き残った大きな杉の木の、海に面した幹の太い枝が根元からもぎ取られている。津波に正面から激突されたのであろう。どこを見てもうなるしかない。

◆何万トン、何億トンという高速の潮流が町や村を直撃した。水底に巻き込まれ、瞬時に押し潰されたもの。もみくちゃに転がされ、あるいはばらばらに解体されてしまったもの。それらと、水流の上の方で振り回され浮き流されたものとが、水が去った跡に重なって残されてある。砂泥の中に埋もれ、あるいは泥まみれのものと、きれいに洗われたままに見えるものとが、無造作に積み上げられているようだ。家がばらけた柱や壁、屋根、床などの木材に、泥まみれの衣類やビニール・プラスティック、漁網などがまとわりつき、垂れ下がっている。近づいてみると、あらゆる身の回り品、ついさっきまで使っていたモノ、植栽、紙、クルマや自転車、ありとあらゆるものが泥や砂まみれになり、あるいは半ば埋もれたまま、折り重なっている。これがとほうもないガレキ原の実態である。人も、犬や猫も、家畜も住んでいた。消防隊の人たちが一列になって、棒を立てて持ち、進んでいる。

◆鳥肌が立ち、背筋が寒かった。夜はマイナス6度以上に下がる気候のせいもあるのだろう、匂いは特に感じない。海は穏やかで、カモメがたくさん舞っている。しかし余震があったとき海を見ていたら、手前から沖に向かい、どんどん海の色が茶色に濁ってゆくのがはっきり見て取れた。震度2?3の余震は毎日ひっきりなしである。それも一様に、どどどっという地鳴りを伴うから、つい腰が浮く。

◆宮城県登米(とめ)市にあるRQの現地本部では、60人ほどの若者が入れ替わり立ち代わり働いている。夜はまだマイナス10度。朝は6時に起き食事、7時半に打ち合わせ、8時には物資を抱えた車が出る。男子学生が首にタオルを巻き、洗面器に張った氷を割った。その水をざぶっと頭にかけ、ごしごしこすっている。エライと褒めたらにっこり笑った。(小林天心 日本エコツーリズムセンター顧問 亜細亜大学教授)


■地平線はみだし情報  角幡唯介さん、『空白の五マイル−チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で、開高健ノンフィクション賞に続いて第42回大宅壮一ノンフィクション賞受賞!


4月の最初の4日間

4月1日(金)
未明に東京を出て、7時前に、RQ現地本部のある宮城県登米市の鱒渕小学校に着いた。朝ミーティングに間に合った。新垣亜美さんの「おはようございます!」から始まり、天気、各チームの状況、そして広報チームから写真撮影のご注意。きのうは避難所になっている学校で、ボランティアがパシャパシャ写真を撮る様子が散見されたらしい。初日のきょうは新垣さんたち総務チームを手伝うことにして、まずは部屋の片付けから。いつのものか誰に聞いてもわからない掲示物をはがし、きのう届いたというホワイトボードを窓際に貼る。先週持ち込まれたWi-Fiのパスワードがわからず、ネットに接続できないという。東京の関係者に聞き出し、再度設定してつなげられるようにする。これで登米でも4台のPCでWebやメイルにアクセスできるようになった。

4月2日(土)
 6時、余震で目が覚める。東京で感じるのとは違う、突き上げるような揺れ。体育館の屋根がミシミシ音を立てる。きょうは志津川へ配達に回る。峠までは舗装にときどき歪みが見られるものの、それ以外には地震があったことを思わせるものは何もない。それが沢筋に沿って坂を下りていくと一変した。道の両側に、茶色の風景が広がっていた。泥に侵食された川沿いの田畑に、車が、舟が転がり、家屋の破片が散らばっている。まるで撮影終了後の映画のセットに迷い込んだようだった。フィクションのような光景を受け入れることができない。自分がドライバーじゃなかったら、もっとショックを受けていただろう。かつてびっしりと家が並んでいたと思われる市街地は、まるで爆撃されたかのように何もない。建物の土台だけが残っている。屋根や事務所が津波で吹き飛ばされたガソリンスタンドでは、手押しポンプでの給油が再開され、5台ほどのクルマが順番を待っていた。道路脇では電柱が次々に建てられ、早いところでは電線も張られている。復興への取り組みは確実に進んでいる。自衛隊員が交互通行の整理を行っている水尻橋を渡り、45号線を南下して配達先の黒崎へ。伝票に書かれた人物はあいにく留守だった。

4月3日(日)
 きょうは内勤。午前中に南三陸市中瀬地区の人々、124人が、バス2台と自家用車とで次々と到着した。マスコミもついてきたが、窓から外を眺めるぐらいしか余裕がない。「ガソリン給油券」を作ったり、使っていないクルマを近くの生活改善センターに移動したり。モンベルの人たちがやってきて、前線基地に持っていくからと、大量の物資を積み出すのを手伝う。そもそもこの物資はモンベルさんから届いたものなので互いに苦笑する。夜のミーティングでは、最低限、午前午後の2往復して、モノだけでなく、サービスを届けてほしいと(現地本部長の)佐々木豊志さんに檄を飛ばされる。話し相手になったり、肩を揉んだりして、リラックスしてもらうことも立派なサービスだ。一方でトラブルの報告もある。山上の住宅地に新築の家が並ぶ地区では過剰な要求が多発している。買い物に行けるのに、無料でもらえるうちにもらっておこうということらしい。自立の妨げにならないかどうか、慎重に判断する必要がある。かと思えば、避難所ではほぼ全員に食事が行き渡っているのに、1家族だけ何も食べていないという「村八分」の例があるという。こうした家族に直接支援するのには知恵がいる。学校の制服が流された家庭も多く、新学期の始まりとともにリクエストが急増しそうだ。学校と連携して支援できればよいが、こちらにはそこまで調整能力がない。そもそも連絡のつかない学校が大半だ。

4月4日(月)
 寒さに震えながら目が覚めた。きょう夕方には登米を出るが、それまでに歌津へ2往復しないとならない。同行は地元の女子学生。行くのは初めてだという。私もまだ2回目だ。本吉まで20分、さらに小泉のひどいエリアを抜けて歌津まで20分。途中で雪が降って来た。積もらなければいいが。最初の目的地は館ヶ浜の三浦さんの家。途中で道を尋ねるついでに、困っていることはありませんか、と聞くと、そういえばおとといボランティアさんが来て、きょうあたりまた来ると言っていた、と。ファイルには確かに記録があったが、判定はD(支援の必要なし)。家に上げてもらい、改めて詳しく話を聞く。30代の若い夫婦が出て来た。昼間はこのように明るいが、夜は電気がない。小学生の子どもたちに勉強もさせられない。水も出ない。子どもは元気だが、アトピーを患っていて、薬が入手できないので、明日からしばらく疎開する。きょう中に物資を提供してもらえば近所に配れるが、明日からはリーダー役不在になってしまう、と。午後にまた来れば間に合いますよね、と言うと、とたんに彼らの表情が明るくなった。物資は避難所には来るが、その周囲には行き届かない。ここでも避難所にいる人たちと自宅避難をしている人たちとの亀裂は深刻だ。積み込んで戻って来たのは夕方だった。実は、と彼は教えてくれた。「支援物資」を渡しておいて、あとで請求書を送ってくるのではないかとみんな脅えているのだという。おととい訪ねたボランティアはこの不安が見抜けなかったのではないかと想像する。帰りは志津川回りで戻る。電柱の数がおとといより増えているような気がする。地元で見慣れたチェーン店が津波で全壊しているのを見て、同行の学生さんは目を覆っていた。おととい鹿折で被災したセブンイレブンを見たときの私と同じ感覚だろう。すぐ身近にあったものが、紙一重の差で失われてしまう。電気が来なくなった若い夫婦の家でも、子供たちは地震前、我が家と同じようにテレビでポケモンを見ていただろう。彼らがたまたま被災しただけで、そもそもはあまり我が家と変わりなかったのだ。暗くなる前に急いで戻った。峠を上がって行くと、丘の上の家に明かりが点いていた。感激した。(落合大祐

被災現場に行くだけがボランティアではありません
──天童ボランティア裏方報告

■モンベルさんが山形県天童市の倉庫に「アウトドア義援隊本部」を開いたのが3月19日。当初私はガソリンがなくて動けず、24日マイナス4度、降雪の中5時間並んでガソリンを確保、25日からボランティア参加となった。はじめ山形の自宅から通いで仕分けボランティアをしていたが、28日から泊まりこみに。アウトドア義援隊本部の一日を紹介すると──。

◆ボランティアの主な仕事は全国から届く物資の仕分け。日帰りボランティアさんは9:30から17:30くらいで仕分け作業。泊まりボランティアは朝食を6時頃とり、その後トラックに荷積みして準備ができ次第、登米や被災地に向け出発。当初はトラックで登米に届けるのがメインで出かける人数は数人だったが、その後あるだけの車で被災地に直接物資を届けたり、被災家屋の片付けボランティアをするようになり、出かける人数が10?12人に。

◆ガソリン事情がよくなって一般車両が増えたために、最近は渋滞にまきこまれて帰りが10時近くになる車もあり、どんどんハードに。泊まりスタッフの多くが外に出てしまうため、中を守る側もハードになった。私は食事担当なので、朝は5時から準備。片づけが終われば荷積みや仕分けを手伝い、途中抜けて昼食や夕食の準備。後片付けと翌日の準備が終わるのはこのところはずっと23時過ぎで18時間労働。ボランティアのみなさんのためのボランティア。被災地に行くだけがボランティアではありません。

◆中を守っているとなかなか持ち場を離れられないが、4月2日、一度だけ現地に行かせていただいた。被災地を丹念に巡って情報収集していたカメラマンさんとモンベルの真崎社長、地元のボランティアあわせて6人で石巻市湊地区へ。海からかなり遠い場所でも、田んぼに真っ黒な泥が堆積。市内に入ると、家の中から使えなくなったものを出す人々。避難所の学校グラウンドには一見被害のなさそうな車がたくさんあったが、窓が曇っている車は水没車で走行不能なのだった。

◆進むにつれ、道路脇の家の損壊がひどくなり、大きな船がどかっと転がっていたり、車がとんでもないところに乗っていたり。まだ道路の瓦礫が撤去されていないエリアで自宅で不便な生活をしているおばあさんのお宅に片付けに伺う。瓦礫を乗り越え、かいくぐり、最後は門扉のかわりに車がつっこんだ出入り口をボンネットの上を歩いて敷地に入った。一階の天井付近まで津波が襲ったようで、一階は壊滅状態。恐ろしい量の物が室内に堆積しており、その全てが水を吸って重く、砂や泥にまみれていた。

◆大量の布団、毛布、割れたガラス。箪笥は重すぎて引き出しをバールでこじあけ濡れた衣類を出してからでないと動かせない。折り重なった畳の山の下には流し台が転がっていた。大きなものをあらかた片付けると、あちらこちらから鮭の頭がぞろぞろ出てきて12個は拾った。道路ばたにもたくさん魚が転がっていて、ヘドロのような汚泥とともに異臭のもととなっていた。

◆地震から既に2週間経過していたのに、家の中のものは濡れたままだったのに驚く。外では汚泥が乾き、それはそれで風が吹くたびに砂塵となって襲い、目が痛かった。人海戦術でどんどん物を出し、最後はヘドロのような汚泥をスコップでさらって一段落。しかし、これは6人がかりで行ったからできたことで、一人二人ではただ途方に暮れるしかないだろう。

◆二階は大丈夫だからと、電気もガスも水道も使えない、支援物資もなかなか届かない自宅で暮らすおぱあさん。当初一人暮らしと思われていたが、片付け作業をしていると、二階からもう一人顔をのぞかせた方が。おばあさんがおっしゃるには、軽い障害があり、奇声を発することがあるので迷惑になるといけないから避難所には行けないのだと。

◆ほかにもさまざまな理由で自宅を離れられない方が少なくないだろう。家が残っている方たちは「全て失った方に較べれば恵まれている」と言って、遠慮がちだ。支援物資も片付けの手伝いも、申し出ても「自分よりもっと大変な人のために」とおっしゃる。でも、ライフラインは断絶し、食料も燃料もないのは一緒。行政からの情報も避難所の方たちより届きにくい。

◆大きな避難所では物資が行き渡り、それが報道されると支援物資があまり届かなくなる。しかし、届いていないところには情報も物資もほとんど届いていない現実。ボランティアの手も、物資もまだまだ必要というのが、現地に行った人に共通する思いです。(山形市 網谷由美子

緊急状態が過ぎた後、もっと辛いときがやってきます

■大学時代の5年間を岩手県で過ごしました。教育学部だったので友人たちは県内で教鞭を取っていますが、久慈市のM君や陸前高田市のK君は無事でほっとしました。宮城県石巻市役所に勤める学友のI君も無事でした。でも、彼らは自宅を失ったのに、公務員ゆえ、自分の生活・家族のことよりも、生徒や市民のために、避難所に寝泊りしながら公務に当たっています。

◆だが緊急状態が過ぎた後、もっと辛いときがやってきます。国が目指す復興、自治体が目指す復興、市民が望む復興とが一致するはずがなく軋みを生むからです。「それが怖い」と語る心優しい公務員I君は、その板ばさみで傷つかないか……。

◆さて、私たちは、阪神大震災を忘れたように、いつか今回の震災も忘れます。問題が全解決したならそれもいいでしょう。だが……。

◆神戸市では、復興住宅という名の高層マンションで、孤独な生活を強いられる高齢者が次々と自殺や孤独死しています。震災前は濃厚な近所付き合いをしていた高齢者は、ボランティアに大切にされた最初の1年が過ぎた後、ボランティアからも同じ被災者の神戸市民からも「復興」という名の下、忘れ去られたのです。

◆その何人かを訪ねたとき、久しぶりの訪問者に「こんなんでよければ」とヤクルト一本をお土産にもたせてくれるほど、高齢者は人との出会いに飢えていました。東北ではどうなるのか? 支援希望者にお願いです。今、多くの被災者が集落ごとに都道府県に避難しています。私たちの身近にいるのです。遠くへの支援も大切ですが、身近での支援もまた大切です。どうぞ、人に言われてではなく、自分で考えて自分なりの息の長い支援を決めてくださるようお願いいたします。(樫田秀樹

床下のヘドロに手を突っ込むと、電話や仏具、お供え物、日本酒瓶などが……

■「おじいさんの位牌を探していただきたいんです。両親やおばあさんの位牌は見つかったんですが、おじいさんのだけ見つからなくて」。畳搬出の依頼があり向かった旅館で、ご主人にそう頼まれました。案内された6畳の部屋は、泥まみれの家具や畳が折り重なり、仏壇の前の床は底が抜け、床下は流れ込んだ真っ黒な泥が一杯に詰まっています。日の差し込まない真っ暗な部屋に懐中電灯片手に家具を乗り越えて入り込み、まずは仏壇の周りを探しました。

◆倒れかけた仏壇と壁の隙間から、遺影などの写真を取り出すことに成功しましたが、位牌だけは見つかりません。床下のヘドロに手を突っ込むと、電話や仏具、お供え物、日本酒瓶などが次々と出てきます。それでも位牌はありません。その間に、班の他のメンバーが家具や畳を外に出していきます。部屋の中は頭の高さまで水に満たされた跡があり、泥と一緒に撹乱された荷物は引っ張り出すだけでも一筋縄ではいきません。

◆泥まみれで苦闘すること数十分、一番下に埋もれていた襖をどかすと、位牌はそこにありました。「見つかってよかった。本当にありがとうございます。おじいさんだけ見つからなくて、夢にまで出てきたんです」。ご主人の涙を見たとき、なんとか少しは役に立てたのかなという実感が沸いてきました。

◆石巻市で大規模なボランティアセンター(石巻市災害VC)が確立し、県外ボランティアの受け入れを開始したと聞いたのが3月27日。電話で問い合わせたところ、多くの派遣依頼に対して人手がまったく足りていないので1?2日でもいいから参加して欲しいとの返事で、週末を利用して現地に向かうことを決めました。夜行バスで仙台に向かい、実際に活動に参加したのは土日の2日間だけです。受付を済ませるとすぐバスに乗せられて移動し、降りた場所で5?10人ずつの班に分かれて、依頼のあった家に向かいます。

◆主な仕事は屋内に入り込んだ泥の撤去や、畳や家具の搬出など。初日は石巻市北上町の農家に行き、10人がかりでひたすら泥の掻き出しをしました。北上川の河口から5キロほど上流にあるこの辺りは畑が多く、畑の土と一緒になった津波が家を飲み込んでいったそうです。翌日に派遣されたのは石巻駅から海側に1キロほど離れた、旧北上川沿いの市街地。川の堤防を乗り越えてきた波に襲われた地域で、船がビルの2階部分に突き刺さったままになっているなど、衝撃的な光景を目の当たりにしました。

◆この日は4軒ほどの家を回って、畳や家具、瓦礫の搬出をやりました。先の位牌捜索はそのうちの1軒でのことです。別の家では、テーブルの上に女性の大きな写真が置かれていました。行方不明の奥さんの写真だそうです。傾いた家の前で、「この家どうしたらいいかな。一人になっちゃったけど、ここに住んでいかなきゃならないから」。旦那さんのつぶやきに、言葉が出ませんでした。

◆すべてを飲み込んでいった津波の被害に対してたった2日間で何ができたかというと、作業としては何もできなかったに等しいというのが正直なところです。しかしその程度の些細な力でも、現地の方の悲しみや途方に暮れる気持ちをほんの少しにしろ紛らわせてあげられていたらと願って止みません。被災者の方々は絶望的な気持ちの中で日常を取り戻そうと必死になっています。今は少しずつ復興に向けて切り替わろうとしてる大切な時期なんだと強く感じました。(杉山貴章

自分で決めたミッションは、一人でも多くの人に笑顔を、だった

■4月1日、岩手県宮古の被災地から帰った。YMCA盛岡のボランティア基盤立ち上げの際「屈強な山ヤ求む」とのことで3月22日、山仲間3人と駆けつけたのだ。宮古では、半壊した泥まみれの家屋を目の前にして何も手がつけられないでいる人達と会話することから始めて、一緒に片付けをした。電気がないので作業できる時間は限られていたり、もう水につかったんだから捨てるしかない物を、「ばあちゃんの嫁入り道具だったんだよ」って言うじいちゃんの話を聞いて一緒に運び出したり、そこにいるだけで倒壊の危険があってあぶない家に、何度も帰ってしまうじいちゃんばあちゃんを説得したり、毎日、全身ヘドロまみれで、洗っても風呂に入っても、臭い自分がいた。

◆自衛隊と消防隊は、本当に素晴らしい仕事をしていると、目の当たりにして実感。私なんかに出来ることはホントに小さいなぁ、と。でも、自分で決めたミッションは、一人でも多くの人に笑顔を、だったので、地元の人が自分達の力でこの街を復興させようという動きになるお手伝いを出来たかなと思ってる。

◆毎朝地元の魚菜市場(普通に営業していた)に寄って、色んな話をしながら東京では手に入らない美味しいモノ(納豆も山ほどあった!! 新鮮なほうれんそうも!)を買うことで地元にお金を落とすことにした。それと同時に地元の人・被災した人達と話をする。避難所には何か所も行ったけれど、足りないものと被災地でのニーズは日々刻々と変わっていて、それを把握して行動するのは、地元の人と自衛隊が最も早いなと感じた。大きな市(宮古、釜石、大船渡など)は、町に力があって、復興へ向けて頑張れるなーって実感。小さな町(大槌など)は、本当に、壊滅、だなとしか言えません。

◆陸前高田は、何も言葉になりません。現実のものとは今でも思えません。岩手県内しか見ていないけれど、物流的にはもう回っていて、地域にもよると思うけど、被災地は自分達で復興する力がある、日本ってスゴイ、って思った。やっぱり、土地の人たちが、自分達でこの町を復興させよう・させたい、って思うことが 最大の再生力なんだと感じた。(谷口けい

ミネラルウォーターがうず高く積み上げられたYouTubeの画像をみてワナワナと怒りに震えた

■横須賀の青木(生田目)明美です。仕事と子育て奮闘しながらも被災地に自分が出来る事で何かをしたいと日々思っていた。

◆そんな時、いわき出身で横須賀在住、4才と2才の子を持つママ友が原発の風評被害で物資が届かない故郷いわきにトラックで支援物資を持っていくと言うので、支援物資の募集、仕分けや積み込みなど手伝った。段ボール170箱以上の水、食糧、衛生用品などをいわきの老人ホームやボランティアの拠点に届けることが出来た。物資募集の際には地平線311(注:地平線会議のウェブサイトに今回の震災直後設けたブログ)でも告知して頂き、地平線メンバーからも多数の物資提供を頂いた。

◆そして地平線311の「いわき支援最終報告」で「本当かどうかは未確認ですが、現地ではいわきの競輪場には物資がうなっているのに、出して貰えないという話がまことしやかに流れており、本当に競輪場で物資が滞っているのか、あまりに何も届かないので、そういう噂が流れているだけなのかは、わかりませんが本当に困っている人たちの所に物資が届いていないというのだけは事実です」と書いたら、古山里美さんが4/4付朝日新聞に「いわき 平競輪場に物資山積み」という記事が載っていたから「どうも本当じゃない?」と教えてくれた。(その記事の写真にはカップ麺の箱が山積みになっていた)

◆その後、地平線311にコメントして下さった新井由己さんの添付YouTubeの画像をみて本当にワナワナと怒りに震えた。無くて無くて本当に困っているミネラルウォーターがうず高く積み上げられ、すぐに食べられるような食糧や、ものすごい量の物資の映像が次から次へと6分にわたり見られる。

◆いわき市のホームページには、私たちが必死になっていわきに送る物資を集めている時に「水も食糧も充分にあります」と書いてあった。でも実際に現地に行ったら、地震から3週間たってもおにぎり一個で命を繋いでいる在宅避難の人達がいた。市営の保育所なのにミルクを溶く水も無いとSOSが来た。「充分な水と食糧」があるいわきなのにだ(避難所向けの水や食料は避難所格差があるにしろ概ね渡っているようだ)。

◆競輪場の映像を本当に困っている人達が見たら、一揆・打ち壊しが起こっても不思議はない。役場の人員も足りないんだろうし、国もあまりに被災地が広大きすぎて、手が回らないんだろうけど、もっと早く配布を民間委託する決断をするべきだったのではないか。3週間は長すぎる。日本じゃなかったら、とっくのとうに略奪が起こっている。一刻も早く困っている人のもとへ届けてほしいと心から願う。

◆今回、支援物資募集にあたり、多くの人から「何かしたいと思っていた」「どこに届くのか、はっきりしていたから物資を出した」と言われた。みんな何かしたいと思っていて、自分の出した物資やお金がちゃんと役に立ってほしいと思っている。人々のつながりが希薄になっている日本で、子供たちの未来はどうなんだろうと心配していたが、日本も捨てたもんじゃないと思えた。がんばろう日本!

◆PS.初めて停電を経験した、わが子二人は暗闇に慣れていないなとつくづく思った。私は東京出身だが、東京でも昔はなんとなく薄暗かったものだ。最近は夜でもLEDなどですこぶる明るいから夜は暗いという意識が薄い。時世が少し落ち着いたら野宿ならぬ野塾で夜の暗さを教えるとしよう。(青木明美

本当は自分の気持ちを落ちつかせるためにやっていたのかもしれない

■地震が発生した時は車を運転中で、何気なくスイッチを入れたラジオから突然緊急地震警報が聞こえてきた。すぐに大きな揺れを感じスピードを緩めて路肩に車を寄せたが、揺れはなかなかおさまらない。外を見ると電線は激しく波うち、周辺の建物からは不安そうな表情の人がバラバラと出てきた。

◆ラジオでは「震度7、震源は宮城沖……」と伝えている。信号が消えた道路を急いで職場に戻る。庄内は震度5弱だったが、築40年以上の建物はかなり揺れたという。職場も停電になっていたため、携帯電話のワンセグをつけると、太平洋沿岸に大津波警報が発令されたとのアナウンスが繰り返されている。しばらくして職場の電気が復旧すると、圧倒的な破壊力で建物も車もすべて押し流し海から数キロ離れた内陸部に迫っていく津波の姿がテレビに映し出されていた。

◆逃げ遅れた車が波にのまれる瞬間や美しい農地がみるみるうちに瓦礫を含んだ泥水に覆われていく様子は、この瞬間に日本で起こっている現実の出来事とはとても思えず、テレビの前にただ呆然と立ち尽くした。

◆山形県のほぼ半分をカバーする火力発電所が停止したため、県内のほとんどの地域は地震発生と同時に停電になり、自宅の電気が復旧したのは翌日の夕方。それでも、地震と津波に襲われた地域に比べれば山形県内の被害は少なく、家屋倒壊と怪我人(後に1名死亡)が若干出た程度。地震の後は仙台からの物流が完全にストップしたため、スーパーやコンビニから食料品やトイレットペーパーなどがまたたくまに消え、わずかに開いているガソリンスタンドには客が殺到した。

◆スーパーには食料品や日用品がかなり戻ってきたが、地震から3週間以上経った今でも近くのコンビニの棚にはほとんど商品がない状態が続いている。ガソリンは先週末から平常に戻りつつあるが、その前までは2時間、3時間待ちは当たり前で、前夜から無人の車を置いて場所取りする人も出るほどの異常事態だった。仕事関係では、工事現場に資材が届かず重機を動かす燃料も確保できないため、年度末で完成直前の工事がストップ。国の補正予算を受けて早期発注するはずだった工事も入札の直前にほとんどが取り消しとなった。

◆わたしが過去に経験した最大の地震は1964年の新潟地震。酒田は震度5(現在の震度階に当てはめれば震度5強?6相当)で、建物倒壊や地割れによる圧死者も出た大きな地震だった。当時まだ5歳だったが、生まれたばかりの弟を「いずめこ」(赤ちゃんを入れる藁で編んだかご)に入れて運ぶ様子や、強い余震で家が倒壊しそうになるたびに「あぁー、つぶれる」と悲痛な声で叫んでいた祖母の声が今も耳に残っている。幸いにもわが家はつぶれずに済んだが、浴室のタイルははがれ落ち、部屋の柱も傾いて建具とのあいだに大きな隙間ができた。

◆自分の人生では(記憶のなかの)この地震を超える経験をすることはもうないだろうと思っていたが、今回の地震から数日間は心が騒いでしかたがなかった。直接的な被害を受けなかったにも関わらず、軽いPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状になったのだろうか。不安な気持ちが治まってきたら、今度は「何かをしなければ」という思いが突きあげてきた。阪神淡路大震災や中越地震の時は日本中からボランティアがかけつけたが、自分はそこまでしようとは思わなかったのに……。しかし、今回は明らかに何かが違う。

◆そんななかで、地平線会議が日本エコツーリズムセンター(エコセン)の活動を支援すると知り、とりあえずボランティアへの支援金とテントやシュラフ、食料などを詰め込んだ段ボールを送った。エコセンとモンベルのアウトドア義援隊の現地本部が天童市にできると聞き、残り少ないガソリンを気にしながらも天童へ通い続け、全国から送られてくる支援物資の仕分け作業を手伝った。

◆被災地の人たちのために少しでも役にたちたいという気持ちはもちろんあったが、本当は自分の気持ちを落ちつかせるためにやっていたのかもしれない。全国各地から集まってきたボランティアも同じように「何かをしたい」という気持ちを抱いているのが黙っていても伝わってきた。アウトドア義援隊の現地本部はもうすぐ閉じることになりそうだが、同じ志を持つ人たちと一緒に仕事をできたのは幸せだったと思う。

◆過去に例のない規模の地震と津波災害に加えて、東京電力の原発事故は日に日に危険度を増し放射能を拡散し続けている。「原発は安全」と言い続けてきた国や電力会社の責任は大きいが、電気の快適さを享受してきた世代の我々も無関係とは言えないだろう。今後数十年あるいはそれ以上にわたって、日本は世界(そして地球)に対する罪を背負って生きていかなければならないと思うと、次の世代に言い訳する言葉もない。核兵器による唯一の被曝国である日本が、再び世界でも例のない原子力の被害者<加害者になってしまったのは残念でならないが、今はただ一日も早く沈静化することを祈るだけだ。(飯野昭司 山形県酒田市)

毎年、バイクで走ってきた東北の太平洋岸。そこはいま、巨大津波で徹底的に痛めつけられたエリアに重なり……

■このたびの「東北大震災」で被災されたみなさまにお見舞い申し上げます。亡くなられた多数の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。3月11日(金)14時26分に発生した「東日本大震災」は、想像を絶する甚大な被害をもたらしました。我が家は神奈川県西部の伊勢原市にありますが、これがマグニチュード9.0という世界最大級の地震のすごさなのでしょう、震源地から何百キロも離れているというのに、びっくりするような揺れで「震度5強」でした。震源地近くの「震度7」の揺れの激しさはどれほどのものだったでしょうか、もう想像もつきません……。

◆地震発生から4日目に、「地平線会議」の仲間で、ウルトラマラソンのランナーでもある福島県在住の渡辺哲さんから電話をもらいました。いわき市内の避難所からの電話でした。渡辺さんは楢葉町の福島第2原子力発電所の近くに住んでいます。渡辺家は今回の巨大津波に飲み込まれる一歩手前だったとのことですが、猛烈な揺れで家の中はメチャクチャ。それでも渡辺さんは、家族のみなさんが全員無事だったと言って喜んでいました。

◆巨大津波に追い討ちをかけるように、今度は原発事故。そのためいわき市内の避難所に強制的に移され、渡辺さんはそこから電話をくれたのです。「すぐにでも家に帰りたいですよ。車ではまったく動けないような状態なんで、バイクなら移動できます。そんなバイクの機動力を使って何とかしたいんです」という渡辺さんの声は熱を帯びていました。ぼくはそこに東北人特有の粘り強さ、人生に対する前向きな姿勢、そしてひたむきさ、明るさを感じるのでした。

◆それにしても「東日本大震災」のすさまじい被害状況には、もう声もありません。女川や志津川(南三陸町)や陸前高田といった三陸のリアス式海岸の町々がきれいさっぱり消え去っている光景には、思わず我が目を疑いました。

◆ぼくは東北の太平洋岸が大好きで、毎年、バイクで走っています。昨年も「いわき→八戸」をバイクで走りました。それは今回の大地震にともなう巨大津波で徹底的に痛めつけられたエリアに重なります。福島県いわき市の舞子浜の舞子温泉「よこ川荘」に泊まり、相馬市の松川浦の食堂「旭亭」で名物の「あさり御飯」を食べました。

◆宮城県石巻市の牡鹿半島の鮎川では「鯨の刺身」を、志津川(南三陸町)の食堂「しお彩」では「まぐろ丼」を食べ、気仙沼市の唐桑半島突端の国民宿舎「からくわ荘」に泊まりました。岩手県の陸前高田市では高田松原を歩き、風光明媚な広田半島の広田崎や黒崎に立ち、海岸の民宿「吉田」に泊まりました。宿のご主人、奥さんにはほんとうによくしてもらいました。そして大船渡から釜石、宮古、久慈と北上し、八戸に向かっていったのです。それだけに、各地のあまりの惨状には涙が出るほどの思いです。「なんで、なんで……」といいたくなります。

◆三陸のリアス式海岸では、いたるところで見上げるような防潮堤を見ました。まるで城砦を見るかのような頑丈な造りでした。岩手県の綾里(大船渡市)や両石(釜石市)、田老(宮古市)などの防潮堤はとくにすごいもので、まさかあの見上げるような防潮堤を津波が越えるだなんて……、想像すらできませんでした。それが今回の巨大津波は軽々と城砦のような防潮堤を乗り越え、町々を飲み込んでしまったのです。綾里漁港を襲った今回の津波は高さ23mとのことです。津波の国内の最高記録としては、明治29年(1896年)の明治三陸地震津波で綾里を襲った38.2mが記録されています。今回の大津波はそれ以上の規模だったので、もし大規模な防潮堤がなかったなら、40m以上の高さになっていたといいます。

◆ニュースの映像にはまったく登場していませんが、松島湾には桂島や野々島、寒風沢島といった有人島が浮かんでいます。島民全部を合わせれば数千人という人口です。ほとんどの島が平坦なのものすごく心配です。牡鹿半島の西岸には田代島、網地島の2島があります。この2島の被害も甚大だと思われます。網地島の北端にはベーリング海峡発見のベーリング像が建っていますが、この大津波ではひとたまりもなかったことでしょう。牡鹿半島の東岸には出島があります。女川から船で渡る島ですが、女川の町自体が壊滅的な被害を受けているので、出島の被害の大きさも甚大なものだと思われます。

◆我々日本人が汗水たらして築き上げてきた日本。その日本が一瞬にして崩れ去ってしまった……、そんな思いが強くします。悪夢であってほしいとも思います。今回の地震、津波は我々日本人が初めて経験するような大きさ。多くの人命が失われ、桁外れの、とてつもない数の家が失われました。道路も鉄道も港も町も村も失われました。その中で立ち上がっていくのは大変なことだと思います。今、我々日本人は戦後最大の国難に直面しています。しかし我々日本人は戦後の焼け野原の中から這い上がり、立ち上がった歴史を持っています。今こそもう一度、日本人がひとつになって、一丸となって立ち向かっていけば、きっとこの国難を乗り越えて見事に復興できるものと確信しています。(賀曽利隆

地震・津波・原発、モンゴル

■父は相馬の生まれ、私はいわき市の四ツ倉で育ちました。昭和19年12月、米軍のB29爆撃機による連日連夜の絨毯爆撃で火の海となった東京を逃れ、当時石城郡大野村といっていた四ツ倉に疎開し、村の小学校の1年生に編入されて6年の卒業まで過ごしたのです。いとこたちはいわき、小名浜に住んでいます。今度の地震と津波でその相馬と小名浜がやられ、四ツ倉は原発の30キロ圏に入りました。東京生まれの私にふる里といえるのは大野村です。豊かな福島は地震、津波、原発で漁業も農業もほとんど壊滅してしまいました。

◆話を聞けば親族、友人のみんなは幸運にも災いを免れていますが、隣は1階がつぶれた、塀が全壊した、屋根瓦が落ちた、冷蔵庫が横に飛んだ、ガラスが割れて足の踏み場もない、新町なので山が近くそこに逃れて助かった、水がこない。ガスがない、電気がつかない、避難所から昨日出たばかり、風呂は地震以来入っていない。野菜が食べられない、というような話ばかりです。

◆浜通りは地震情報がある割には報道が現地に入っていませんので、例えば四ツ倉が6メートルの津波でやられ、小名浜では津波が7メートルあったなどの話を聞いて驚き、首都圏にいる大野小学校同級生3人と支援を開始しようとしています。

◆他方自分はといえばそんな親族を尻目に、ウランバートル時代の部下(注:花田さんは元モンゴル大使。館員にモンゴル人もいた)が子供二人かかえて仙台の避難所にいるのがわかり、自宅への収容を算段していました。日本人でもまいっているのに、まして外国人、相当のストレスのなかにいたようです。はじめはモンゴル人のつながりでも消息がつかめませんでした。そもそも電話が通じませんでした。

◆あとから聞くと、携帯のバッテリーが切れ、救済センターではじめて充電できたそうです。13日にやっと連絡がつきました。しかし、空路、鉄道、道路すべてだめ、一部開通しても個人車はだめ。どうしようもありません。そうこうするうち、仙台から埼玉行きのバスが出て幸運にも乗車できたので、埼玉の友人宅に親子三人やっかいになることになったとの連絡が入りました。

◆3月25日の便で上の子をモンゴルに帰国させ、以後拙宅にくるオプションも含めて考えるとのことでしたが、結局家族全員帰国しました。私は2月いっぱいモンゴル人青年5人の力を借りてモンゴルに数千冊の本を送るボランティア活動をしていたのですが、そのうちの1人も18日帰国しました。モンゴル航空は日本便を増便して支援物資を運び、その帰りの便でモンゴル国民を帰国させたようです。入国管理局も空港で再入国査証を発給するなど便宜を図っているようです。

◆諸外国からの支援の多さと規模に友人は世界にあまねくと心強く思いました。聞くところによると、モンゴルは当初250人規模の捜索隊の派遣を申し出たそうです。彼らはアフリカやイラクでPKO勤務についた厳しい環境のなかで救援活動のできるベテランだそうです。地震初期に連絡のつかない地区に入り瓦礫の下から人命救助をしたかった、と。

◆テレビを見てどうしてこの画面上の地区に人命救助隊が入らないのか疑問を持つとともに、もどかしさがありました。72時間以内に手分けして捜索していればとの悔しさがあります。4月になって自衛隊、米軍大動員しての海陸の捜索にむなしさを感じたのは私だけではないと思います。でも、250人の受け入れは断られ、13人だけのレスキュー隊になりました。中国もしかり、15人に減らされました。

◆災害のとき、外国の専門家の手を借りる方が、壊滅状態の消防や地元組織を再編成するよりいいのではないかと思います。大勢の救助隊を断った理由について全く理解できません。日本側で付き添って現地に入るのが大変だからではないと信じたいです。モンゴルレスキュー隊は3月15日成田着、16日宮城県入りし、岩沼市、名取市、仙台空港を3日捜索しました、モンゴル市民からの毛布、セーター、マフラー、帽子、手袋など防寒具衣類11トン分が16日深夜、宮城県登米市の災害対策本部着、石巻、南三陸、気仙沼の罹災者に配布されました。

◆日本政府の応対がパンク状態であったことを知り、モンゴル政府が直接宮城県災害対策本部と連絡をとり、自国経費で現地までの発送手配をした成果でしょう。外国による災害支援の手本ともなるべきスマートさでした。人口274万人のモンゴルからはこのほか政府から100万米ドル(約8100万円)の義援金と2500枚の毛布、市民からの義援金18億トゥグリク(1億2500万円)が寄贈されました。企業、団体、市民から広範な募金活動がなされたそうです。

◆日本のテレビ番組で紹介された例では、モンゴルの孤児院の児童が1食ぬいて義援金をだした、とのことです。そのときのコメントで「それに引き替え日本の自民党など野党議員の活動が見えない。何しているのでしょう」と言っていたのが印象深く感じられました。いったん帰国したモンゴル人の後日談です。私と贈本のボランティア活動をしてくれた5人のモンゴル青年が4月7日、再来日して私に言ったのです。「花田さん、福島の故郷に支援に行きましょう」。ほんとうにありがたいことでした。

◆最後に被災者の方々の早急な立ち直りを心より願うばかりです。そして東北の、辛抱強く日本を支えてこられた犠牲者の方々のご冥福を祈ります。合掌。(花田麿公

私の知人、友人、教え子が大勢東北にいて、その多くと連絡がとれていない

■地震が起こったのはちょうど仙台近郊に住んでいる次女が上京してきた日だった。夫と三人、中野の私の実家に着いて「おばあちゃん、こんにちは」と言ったとたん、ぐらっとゆれたのだ。もう数分遅かったらエレベーターに閉じ込められるとこだった。海外旅行中、何度かトイレの鍵が開かなくなって以来、閉所恐怖症になっている私は本当にラッキーだったと今も思う。

◆古いマンションなので壁にひびわれが走ったり、タイルがはがれて落ちてきたりしたが、なぜか、机の上のガラス器は落ちなかった。今までの地震とは原因が違うのかなと考えた。その日は家(川崎市)に帰れないことがわかり、近所のコンビニに食料を買いに出たら青梅街道は新宿から荻窪方面に向かって歩く人々で歩道はいっぱいだった。小学生の頃から住んでいた所なのに、はじめてみる異様な光景だった。コンビニにはお弁当がひとつ残っているだけ、カップラーメンが山積みになっていた。

◆翌日から次女は我が家に。新幹線も東北道も不通。帰れないだけでなく、連れ合いとも連絡がとれなくなり、どんなに心配したことか……。動物が大好きな娘は19歳の高齢な猫のちよちゃんと二匹の犬もどうしているかと案じていた。山形空港経由で帰ることにしたが二週間後しか予約がとれなかった。キャンセルが出て、二十日に帰れることになったが、今度は家の近くから出ている羽田行きのバスが運行中止になってしまった。

◆と書いていくときりがないので、この辺でカット。とりあえず、スーツケースとボストンに食べ物をいっぱい詰めて、娘は朝五時起きで長女に送られ、夜暗くなってから、家にたどりついた。携帯も電話も通じなかったので、それがわかったのも数日後だった。幸い海辺ではないので家族も動物も津波の被害もなく無事だった。

◆しかし、私の知人、友人、教え子が大勢東北にいて、その多くと連絡がとれていない。2日前に電話が通じて話した仙台の友人たちによると、いまだガスが通じず、七輪や枯れ枝を拾ってきて、料理しているとのこと。スーパーの行列があまりすごいので、よもぎや野草をとってきて料理しているとかの話もきいた。水が止まっているところでは、給水所一箇所では足りず、1日が飲食物の獲得で終わってしまうのだとか。公衆電話も図書館も閉まっていて気晴らしもできない。でも命があるだけでもありがたいとのこと。あのおしゃれな都市が信じられないことになっていることがわかった。

◆いったい私に何ができるだろうかと模索する日々。長年の非常勤暮らしからはじめて正規採用にしてもらえたありがたい東北地方。歴史上はじめて女子学生を受け入れてくれたのも東北大学。災い転じて福となす。世界に誇れる地域モデルをこれからみんなで築いていけたらいいなあ。

◆地平線会議のみなさんにはミャンマー(ビルマ)のイラワジ河口をサイクロンが襲ったとき、自発的に寄付をしていただいた。本当にありがたいこと。感謝の気持ちを新たにした。普段から電気もガスも水道もない村々。逆に私達が学ぶことも多い。(向後紀代美

カヌーで立ち寄っていった港町の全てが、今回の激震の被災地になってしまった

■鎌倉?青森、点々と続く港町をたどっていく旅だった。途中立ち寄っていった町の全てが、今回の激震の被災地になってしまった。その中での二つの町での体験を、拙著『奥の細道カヌー膝栗毛』から再録させて頂きたい。

◆【風が強くなってきた。突然大波がふくれ上がり、持ち上げられた頂上から勢いをつけて滑り降りていく。闇夜の盲航海では恐怖ばかりが先に立つ。このまま帰れなくなるのだろうか。前方に大熊町の原発港が近づいてきた。自家製の出来上がったばかりの電気の灯りが、これでもかと言わんばかりに照りつけてくる。なんとかこの先の請戸漁港まで頑張って、最後の手段には頼るまいと意地を張っていたのだが万事休す。19時40分、緊急避難だ。

◆原発港の警戒態勢はものものしい。陸上のゲートはこうこうとライトが輝き、24時間体制のガードマンががっちりと固めている。一方海からの入口も真昼のように明るいが、こんな時間に入り込む不届き者がいるわけはないから、監視体制も手ぬかりがあった。事務所に断りに出掛けていって、相手の方が驚いた。わが家にも身元問い合わせの電話がされた後、一晩テントを張ってもよろしいと許可がおりた。事情がわかれば親切な東北の里人である。珍客入来とばかりテント前に集まってきて、話に花が咲いたのである。(84.9.8福島県大熊町)】

◆【「ウチで休んでけ」、船大工の棟梁が声をかけてくれた。遠慮なくのこのこと付いていった。「臼井祥と命名」長押からぶら下がった祝書を背に、まだ一歳にもならないサッちゃんを膝の中に抱え入れて、棟梁はご機嫌である。まずは見ず知らずの旅人を連れて帰ってきたいきさつを奥さんとお嫁さんには説明し紹介してくれた。

◆おかしなチビ舟が入港してくるのを見て、造船所の仲間がいそいそと集まってきた。黒ずくめのウェットスーツを着込んで、もしかしたらヤクザか密漁に来たのかも、仲間の想像はそんな話になった。(中略)その後は寒そうに着替えているのを見て可哀想に思ったのだという。晩飯と風呂は臼井さんの所で引き受けて、泊まりは隣の親父さんの所にしようと分担も決めたのだそうだ。

◆臼井さんの娘さんのひとりははとバスのガイド、もうひとりは赤羽警察署のお巡りさんと一緒になって、東京にいるのだそうだ。娘さん達が東京の人の世話になっているから、旅人には親切にしたいのだという。地方へ来るとこうした暖かい触れ合いが、まだまだ本当に残っているのである。(85.4.29陸前高田町・泊集落)】

◆各地でお世話になった方々は、どうされているのだろうか。今は「どうかご無事で」と祈ることしかできないのが悔しい。いつかもう一度、復興した町を訪ねていくことを願っている。(カヌーイスト 吉岡嶺二 鎌倉)


フォーラム「冒険の伝説・未来」予定通り開催!!

 先月同封したチラシでお伝えしたように、兵庫県豊岡市の植村直己冒険館主催の「日本冒険フォーラム」が5月15日の日曜日、東京・御茶ノ水の明治大学アカデミーホールで開かれます。東日本大震災の後ですが、だからこそ今、私たちひとりひとりに挑戦する心が求められている、と予定通り開催することとなりました。先日、豊岡市に飛んでいろいろ打ち合わせてきましたが市長も冒険館も植村直己冒険賞15回を記念するこの試みに静かな、しかし大いなる闘志を燃やしています。

 会場は、1000人収容の素晴らしいホールです。参加は無料ですが、申し込み制で希望者には入場整理券が送られることになっています。地平線会議はこの企画に全面協力するかたちで準備を進めてきましたので、まだ多少枠を頂いています。ご希望の方は早めに江本あて申し込みください(この通信の最後のページにメールアドレス、ファクス番号があります)。出演者がいずれも魅力的であるせいか、反響はかなり大きい、と聞いていますので参加希望の方はお急ぎください。(E)

◆   ◆    ◆    ◆

フォーラムの内容は、次の通りです。

 1)開催日 2011年5月15日(日曜日)

 2)テーマ 「冒険の伝説・未来」

 3)会 場 明治大学アカデミーコモン3F アカデミーホール

 4)時 間 13:15〜17:00 (12:00受付開始)

 5)コーディネーター
     江本嘉伸(地平線会議代表世話人)

 6)内 容
 ★プレゼンテーション
  植村の育った町から
  「コウノトリ悠然と舞うふるさと」
   中貝宗治 (兵庫県豊岡市長)
  「我が友 ドングリは生きている」

   廣江研(植村直己と山岳部同期)

 ★パネルディスカッション
  「踏み出した者たち」
 パネリスト
  天野和明(明治大学出身登山家)
  永瀬忠志(冒険家・植村直己冒険賞受賞者)
  服部文祥(サバイバル登山家)
  松原英俊(鷹匠)
 ゲスト
  市毛良枝(女優・登山家)


《浜へ戻ることができなかった浜のとうさん、かあさん。誰と話しても泣けて泣けて困ります

■私の3.11は東銀座の事務所の4階。ちょうど来ていた大学生と入口の扉を開けて柱にしがみついていました。天井からサ?キュレイターが落ちてきて頭を直撃。激痛でしたが、震動の大きさと、ただごとではない気配に痛みも気になりませんでした。

◆さて、魚です。漁村です。大槌町の大津波には言葉を失いました。あの美しかった大槌町があとかたもないなんて! 気仙沼、女川、石巻とつづくリアス式海岸の狭い入り江に襲いかかってきた大津波は、“目玉焼きのように”ふくれあがり、より大きな波となって一挙に町を呑み込んだそうです。女川町は、津波が一番高かったといわれていますが、「地震が来たら津波!」というのがこの町の人にしみこんでいるので、みんな高台へ向かったそうです。ところが。津波がなかなか来なかったので、戻りかけた人たちがいた、そこへ大津波が来てしまった! 目の前で大勢の人たちが呑み込まれたそうです。

◆そして質の違う悲しみが福島県を覆っています。家族が流されたのに、見つけにもいけない放射能汚染地域の浜のかあさんたち。漁師のなかでも役職者が大勢亡くなっています。責任者として船のロープを結びなおしに行ったり、逃げ遅れた人がいないか声をかけているうちに、呑み込まれてしまった人たち。三陸のように、津波直後に捜索したら助けられたかもしれないのに、家族も仲間も浜へ戻ることができなかった相馬、浪江、いわきの浜のとうさん、かあさん。誰と話しても泣けて泣けて困ります。

◆しかも福島の苦境は現在進行形でつづいています。これから漁ができるのか。福島の魚は売れるのか、食べてもらえるのか。先の見えない中で、避難・退避ばかりがつづき、誰がどこにいるのかもわからなくなっているのですから、故郷喪失どころか福島県解体という状況です。

◆こうした「政府と東京電力にとっての想定外」の状況が「現実」に起こっているのに、あまりにも政府・東電関係者の発言は「痛みがなさすぎます」。想像力を超えてしまったとはいえ、また事態が大きすぎるためにどうしてよいのかわからないのでしょうが、福島県人ひとりひとりが戦っている見えない敵=放射能に対して、危機感と人間力の感度が低すぎます。

◆そして、汚染物質の海洋投棄は、海への冒涜にほかなりません。海は、人類の長い歴史のなかでずっと陸域からのゴミ捨て場となってきました。それを20世紀になって克服しようとし、世界共通のルールをつくり(国連海洋法条約)、世界中で守ることで人間と地球上の動植物を守ろうというのが、人類の努力でした。海という存在が、かけがえのない「いのちの故郷」だからです。

◆それを、一企業のために日本国政府の名において汚してしまう事態なのに、政府の言葉も行動も私には軽すぎるように思えてなりません。この原発問題は、局面があまりにも広く、日々さまざまな事態がおこっているため、誰が責任者であっても難しい問題なのはわかりますが、海辺の人と海そのもの、魚たちにより大きな影響があることを今一度、国中で認識し、世界中の智恵を集めて対処してもらいたいと思います。

◆最後に、これからの三陸復興ですが、ここは大いに考えどころあり、です。今回の大震災と大津波。東北の漁村では多くのかけがえのない命が失われ、生活基盤が崩壊する事態ですが、震災前であっても漁村は「魚価の低迷」「後継者不足」「過疎化」で困窮状態でした。そのことを忘れては復興できません。復旧では、意味がありません。

◆現在の日本の漁村は、マネージメントと構想力の不足、従来の仕組みを変えられないという旧弊のなかで、身動きできない状況です。三陸ではエリアによって違いはありましたが、大方同様です。船が多すぎる、魚を獲りすぎているとわかっているのに、その現状を誰も変えることができませんでした。しかも値段は自分たちで付けられずスーパー主導。いくら魚をとってももうからない、真綿で首をしめられてるようなもんだ……と漁師たちがよく嘆いていました。

◆菅首相が先週、従来の漁村のあり方にこだわらない方向性を打ち出した、という記事を読み、この方向性には私は賛成です。大船渡の市長さんからの要望で、高台に住宅を建て、沿岸域の漁業エリアへ仕事に行く、という町づくり。もちろん、漁業のあり方自体も変えたいという要望でしょう。日本は戦後、海辺をすべてコンクリートで固めてきました。防波堤であり、漁港です。漁港は全国に3000か所。使われていない漁港も数多くあります。漁師が50年前の100万人から、いまや20万人なのですから当然です。

◆これからは、今回破壊された漁港を元に戻すのではなく、被害を受けた29市町村を別々に復興するのではなく、三陸全体をひとつのエリアとしての地域づくりを打ち出してゆくべきです。東北が再生するために、私も微力ながら力を尽くしたいと願っています。それが、18年間海とサカナから多くのことを学ばせてもらった者の責務だと思っています。

◆とにかくできることをと「浜のかあさん義援金」を募り始めました。女川、石巻、いわきのかあさんたちに迅速に手渡していく生活支援金です。やりとりのなかで、地域が復興に向けて話し合いを始めたという声も聞こえてきました。今日、初めての義援金を女川町へ送りました。4月中には鮎川浜にクジラ汁を届けたいと計画中です。想像力を駆使して、海と魚とともに生きてきた人たちを励ましたいと願っています。(佐藤安紀子 「浜のかあさん」応援団)

1986年、トルコで見た『MELTDOWN』の大きな文字、そしてガンからの生還

■あの日の午後、ゆーらりゆーらりと船酔いしそうな揺れがきたのは、病院へオヤジの様子を見に行き、近所の喫茶店で一休みしている時でした。揺れ具合から、「震源は関西から遙か彼方か‥‥。でも、半端じゃない規模だ」と直感しました。そこで、お茶を切り上げて家に戻り、TVのスイッチを入れたのですが、映し出されたヘリの空撮画像に息を呑みました。水田の上を猛り狂って突き進む黒い濁流は、津波のイメージを凌駕し、『ナウシカ』の大海嘯とダブって見えました。その後に続々届く映像も、あまりにも圧倒的かつ非現実的で、何か神話のワンシーンに立ち会っている錯覚を覚え、その無慈悲ぶりに打ちのめされました。

◆が、引き続いて起こった原発災害は、正真正銘の人災です。中曽根、正力、東電を筆頭に、原発推進派の政治家や監督官庁、業界、御用学者たちが、みたび日本を被曝国にしたのです。もっとも、テレビに映る原子力安全・保安院の審議官や東電幹部の、まるでヒトゴトのような表情を見ていると、彼らに、その自覚や罪の意識があるとは思えませんが。「全責任は私にある。私がピットに潜り、体を張って放射能水の流出を食い止めよう」そう云って中曽根が手を上げるのを、私は今も心待ちにしているのですけれど。

◆もちろん、莫大な税収や助成金と引き替えに子々孫々に至る安全・安心を売り飛ばした、原発お膝元の自治体や誘致賛成派も同罪です。一方、それを割高な電気代など、高いツケで買った我々大都市居住者は、疫病神を辺境に押し付け、本来は原発抜きの限られた電力を工夫して遣り繰りする努力を怠りました。共に、しょせんは金で売り買いされた安全・安心です。それが破綻した時に責任の擦り合いになるのは、当然の帰結でしょう。

◆02年だったか、浜岡原発の地元で反核イベントが開かれ、私も参加しました。その折、浜松で古い友人に会ったのですが、彼から「イベントに息子を誘ったが、『クーラーを使いたいから、原発は賛成』と断られたよ」と聞かされました。私は思慮浅い息子に呆れ、そんな風に子供を育てながら、苦笑いで済ます友人にも驚きました。ウチの母なら、すかさず、「原発とクーラーはイコールなの?」と突っ込むに違いありません。

◆事故後のテレビは、気色の悪いAC広告や、情に擦り寄るウワッツラだけの現地レポートを垂れ流していますが、何の反省も感じられない姿に、この国はホトボリが醒めればまた同じ道を行くのではないか、と暗澹たる気持ちです。

◆1986年、トルコのカッパドキアにいた私は、天然のタケノコ岩をくり抜いたホテルで寝起きし、村の青空市場で買ってきた野菜を「雨で濡れているから、洗わなくていいや」と、そのまま料理して食べていました。その村で、日本人旅行者の夫婦から、「ソ連で核ミサイルの事故があったらしい」「この長雨も、その影響だ」とのウワサを聞いて不安を覚えたのですが、それ以上の事は判りませんでした。

◆約2週間後に移動を再開した私は、一帯の中心地カイセリに出ました。その街の大通りで、キオスクにぶら下がっているタイムだかニューズウイークだかの表紙を見た瞬間、目がテンになったのです。たった一行、『MELTDOWN』の大きな文字。「これだったのか!」「ついにやったか‥」と呆然とし、膝がガクガク震えました。

◆実は、チェルノブィリ原発事故直後に南から吹いていた風は、ほどなく北に転じ、トルコに長く放射性物質を降らせたのです。いくつかのデータによると、汚染は北欧や東欧を上回り、後に日本に輸入されたヘーゼルナッツから上限以上の放射線が検出され、トルコに送り返されています。あの長雨は放射性物質を核にした雨水ではないか。…被曝したかも知れないな。その不安を、私はずっと抱いていました。

◆昨年の秋口あたりから何となく体調がヘンになり、2月中旬には悪寒が耐え難くなりました。3月に入って掛かり付けの医院を訪ねたところ、エコー検査で甲状腺にばっちりと腫瘍が映りました。医師も「悪性の疑い濃厚」だと云います。発病場所こそ意外でしたが、思い当たるフシのある私は、「来るものが来たか」と覚悟を決めました。

◆この病院通いの間も待合室に小型ラジオを持ち込み、被災地や原発事故の続報に耳を傾けました。文字通りの内憂外患です。そして日を追って悪化する原子炉の状態に、「近い将来、オレと同じ不安を抱いて多くの人々が生きることになるのか」と、絶望的な気分になりました。

◆甲状腺の腫瘍は、その後、神戸の専門病院で詳しい検査を受けました。そして3月末、「多分、良性でしょう」との診断結果をもらいました。まさに逆転満塁ホームラン。本当に、命拾いした、という実感です。ちなみに腫瘍の原因は、「昆布の食べ過ぎによるヨード過剰」だとか。ダシ取りの研究や、既に子供ではない身ながら、「放射線封じに効くかも」との思いでセッセと食べてきた私にとって、これは少なからずガックリくる通告でした。

◆その一連の体験も含め、一つ訂正があります。お買い上げ戴いた拙著に私は、「帯に短しタスキに長い物に巻かれる」等々のビンボー人生訓を書き付けてきました。が、これは誤りでした。決して『長い物』に巻かれてはいけません。それが昆布であれ、TVから流れる茹でガエル狙いの安全連呼であれ。モノゴト、中庸が大切。これが私の教訓です。(3週間の漂流後に奇跡的に救助され、飼い主と再会を果たしたワンちゃんの姿に貰い泣きの、久島弘

原発だけはそれよりマシな事例が浮かばなかった。予想ができないから、余計に怖いのだ

■3月11日、福島県天栄村の自宅で被災。震度6強のすごい揺れの中、ガスの元栓を閉め、食器棚の扉を閉め、パソコンやプリンター、FAXなどを棚やテーブルからおろし、TVを押さえつつテーブルの下で揺れが収まるのを待っていた。かなり冷静に対処できて自分でも意外だった。

◆外へ出てみると庭が地割れし、前の道路が陥没し、裏の池の法面が崩壊。2階の部屋は本棚や家具が全部倒れててすごいことになっていたけれど、それをデジカメでいちいち撮って、「そうだ、ブログにアップしよう」なんて考えたほど暢気だった(繋がらなかったけれど)。夕方には電源も回復し、TVで津波の映像や東京の帰宅難民を見たけれど、「地震はウチの回りだけじゃなかったんだ」と思っただけ。

◆その夜は夫が宿直勤務で一人だったのに、余震が続く中でもしっかり熟睡。お隣の奥さんが「怖くて一睡もできなかった」と言うのを聞いて、私って神経が太いのかなと思った。そのときは「地震はすでに終わったんだし、津波の被害もなかったから、あとは片付ければいいだけ」と楽観していたのだ。

◆ところが、翌日、原発が爆発したのを知り、初めて震災が我が身にも及んでいることを実感した。放射能汚染は目に見えず正体不明なだけに、地震や津波以上に恐ろしい感じがした。「もしかして、今、すごい状況になってる? 世紀末か? ヤバイかも?」我が家は原発から70。十分安全? いや、危ない? いろんな情報が飛び交う中、原発はどんどん悪い状況になっていく。

◆そんなときに、滋賀に住む友人から「すぐにでも避難したほうがいい。爆発したら福島から出られないように道路が封鎖される」と信憑性たっぷりの電話があった。それで、本気で逃げようと車に必要なものを積み込むところまで行ったのだが、夫婦で話し合った結果、夫の仕事もあるし、どこかでガソリンが尽きたらアウトだし、いまのところは早急に避難しないでしばらく様子を見ることになった。でも楽観はできないし。

◆その後、腰痛を理由に有休を取った夫と2人、しばらくはTV、ラジオで原発の動向を注視する日々。ほかにすることもたくさんあるのに精神的な余裕がなくて、ニュースを見聞きする以外のことができない。村の有線放送からは「放射線汚染の恐れがあるので、不要不急の外出は避けてください」「外へ出るときは肌を出さないように」などとのお達し。まるで戒厳令のよう。

◆数日は車のガソリンも極力使わないようにして過ごした。地震の翌日にガソリンを満タンにできていたので「何かあったらすぐに逃げられる」という気持の余裕があったけれど、そうでなければもっと不安だったと思う。

◆3月29日頃になって、スーパーやコンビニにもようやく商品が並び始め、31日にはガソリンも流通しはじめ、ようやく普通の生活に戻りつつあるけれど、自宅での被災生活の間、食糧が買えないのも、断水なのも、それほど大変だとはあまり思わなかった。むしろ、旅している間のほうが停電も断水もしょっちゅうだったし、トイレがなかったり、言葉や常識も通じなくて情報もなくて苦労したことも多かった。それに比べれば全然マシ! などと楽しむ余裕もあったのだけど、原発だけはそれよりマシな事例が浮かばなかった。予想ができないから、余計に怖いのだ。

◆現在も原発は予断を許さない状況だけれど、万が一、原発がヤバくなったらここだけじゃなくて多くのエリアに被害が及ぶだろう、と半ば開き直りの境地になったので、今しばらくは福島で経過を見届けようと思い始めた今日このごろです。(滝野沢優子 福島県天栄村)

新聞記者として原発問題に関心を持たなかった自分を反省する

■渋谷の中古マンション13階のわが家は、大揺れに揺れた。手作りの本棚が傾き、解体、本が家中に散乱した。妻はいち早くヘルメットを冠り、入口のドアを開け、避難路を確保してくれたが、小生は使用中だったパソコンが机から落ちれば故障してしまうと心配で、システムを終了、電源を切り、手で抱えていた。目前の風景が現実だとは思えず、白昼夢のようで、格別の恐怖感がなかったのは、感受性が鈍ったせいか。エレベーターが止まり、郵便を取りに行くのに、186段の階段を降りて上り、息が切れた。

◆取りあえずメールで連絡のつく友人知人や親類にお見舞いメールを送ったが、死者や家を失った人はなく、安心した。放射能問題を除けば、今は何とか平和に生活できている。亡くなられた人たち、家を失い寒気に耐え食糧もない被災地の人たちのことを思うと、まるで天国だ。申し訳ない気がする。

◆報道によると、諸外国の日本を見る目は地震当初、同情と、ストイックで毅然としている日本人の忍耐強さへの賞賛が目立ったというが、時日の経過につれて、政府や東電の原発対策のもたつきへの厳しい批判が増えているようだ。原発復旧の第一線で、生命を賭して働いている人たちへの感謝とともに、原発の危険性を甘く見ていた当時の政府、東電首脳の責任を問いたい。新聞記者として原発問題に関心を持たなかった自分を反省する。(森脇逸男 元新聞記者)

大災害やテロが起こると、検証する心の余裕などは簡単に吹き飛んでしまう

■1週間かけた仕事場の地震対策を昼前に終えた後、揺れに見舞われた。トイレの壁がゆっくりと左右に動く。慌てることなく、靴を履き、外に出る。乗用車のタイヤが微妙に浮き上がったり、電線がなわとびのようにぶらぶら揺れたりしている。恐怖感はまるでない。あたりの建物がどうなるか、自分のいる場所になにか倒れてこないか、全神経を集中し観察していて、極めて冷静だった。非常事態ゆえに普段、使わないでいる生存本能が突然発揮されたということなんだろうか。

◆地震対策をしっかりやったおかげで仕事場は問題なかった。それでも仕事はやめて自宅に戻った。僕はともかく赤子を抱えた妻のことが怖がっていないか心配だったからだ。夜、原発が爆発する映像をネット上で見た。何が何だか深刻さを受け止められない。モンゴルにいる山本千夏さんがすごく心配しているコメントを寄せてくれたのに、根拠もなく「大丈夫でしょう」とのんきなコメントを返した。

◆普段の僕ならなんでもまずは疑ってかかる。このときの僕の心境はいつもと違っていた。思考停止した僕の頭をぼんやりと支配したのはなぜかこの国の安全神話だった。国を揺るがすほどの大災害やテロが起こると、検証する心の余裕などは簡単に吹き飛んでしまう。マスコミによって流布されるプロパガンダにそのとき僕の心は支配されていた。(西牟田靖

追伸:やはりじっとしていられず、4月6日から8日まで福島県南相馬市など原発から20キロ圏内の市町村に行ってきました。ガイガー・カウンターをウクライナから450ドル(約4万円)で買って携行したんですが、かなりの数値が出ました。詳しくは後日報告します。

いつもより暗いけど、何か問題ある?

■東北や北関東には何度もツーリングに行き、楽しい思い出がいっぱいだ、何かしたい。そうしたら、地平線会議ではRQ市民災害救援センターを支援するというお知らせがきた。これも何かの縁だと、私もここを主に支援することにした。しかし、提供物資の基準が難しい。穴開き靴下に継ぎ当てをして履き、くたびれたTシャツも下着として活用する私の常識は捨て去らなければ、と、特に衣類は「お世話になった方に差し上げる」という気持ちで厳選したが、数を増やすため、少し基準の甘いところもあったかも。

◆でも、RQならイマイチのものでも、ゴミにせず臨機応変に何かしらに使ってくれることと思う。地平線通信3.11NEWSも参考に。新垣さんのレポートでは、ブラジャーが足りないとか。あぁ、私、パンツはないと生きていけないけど、非常時はブラジャーがなくても大丈夫と思っているので、ここでも私との意識のズレ(胸の大きさの問題!?)が……。

◆がらりと原発の話に変わるが、この先も原発ありの国でいいのか? いったいいくらの設備投資で想定外の災害に100%対応する原発施設ができるのだろうか。関西電力は原発の安全対策に500億?1千億円を上積みするそうだ。この資金が今の被災者の救済費用にまわったら、と思うとやるせない。でも、原発を作ったのは、電力会社というより、電気を大量消費する私たちだと思っている。今の節電状態を日常とする日本になって欲しい。いつもより店内が暗いけど、何か問題があるか?

◆家庭での節電は初めはめんどうくさいけど、そのうち日常動作だ、と平均家庭の約半分の電気量で暮らして不自由を感じない私はそう言いたい。エレベーターを使う車椅子の人や電気医療機器で命をつなぐ人など弱者が困るから、計画停電より、節電。そして、もう原発はいらない!(節約主婦ライダー 古山里美

静岡県の地震プレート上に建てられている浜岡原発を止めましょう

■この災害で被害を受けられた方に、かける言葉がみつかりません。何気ない日常生活が、かけがえのないものであることを思い出させてくださった方々に申し訳ない気持ちです。3月11日。学校の職員室で地震を感じました。震度4。体育の授業中で生徒は体育館で待機。その後、夜のラジオを聞くまでほとんど何も知りませんでした。東北の友人たちにメール。すぐに安否が確認できた人。1週間ほど連絡のつかなかった人。とにかく寄付金を! スーパーで、職場有志で、福祉協議会に委託して。色々な場所で。

◆そして、福島の原発人災。二重の災害に堪える方々の姿に胸が痛みました。被曝を避けるため、津波被災地への支援に滞りがでていることに、怒りと悲しみを覚えました。被爆国が原発被曝するなんて、ばかげています。全国の原子力発電所を止めたい! 火力発電所をしっかり動かせば、電力供給はまかなえると聞きました。

◆とりあえず、静岡県の地震プレート上に建てられている浜岡原発を止めましょう。東海地震がきたら、福島と同じことになります。停止を求める署名用紙を作成して、友人知人に依頼しました。個人の手から手へ用紙が渡っていき、10日間で1481名の署名が集まりました! 皆、何かがおかしいという気持ちをもっていること、何か行動したいと思っていることがよくわかりました。明日4月4日、中部電力へ提出します。亡くなられた方々のためにも、安全で平和な国にしなくてはならないと思います。(高山市 中畑朋子

震災復興は「生きる責任」で

■これまで経験したこともない激しい揺れに庭へ飛び出すと、家全体がきしみ、土蔵の壁が落ちて土煙りが上がった。少し余震が落ち着き家に入ると、大量の壁土が床に散乱し、土蔵の扉が傾いていた。

◆我が家の居間の真ん中には土蔵の扉が鎮座し、蔵の中を改造して寝室や写真の仕事部屋などにしていたのだ。江戸時代の職人技を残す土蔵は私の自慢だったが、扉倒壊の危険を避けるには重い扉の土を崩し、骨組みだけを残して撤去するしかなかった。そして電気も水道も止り、周りの家々ではトイレに流す水にも苦労していたが、これに関しては毎日野糞の私には何の問題もなかった。当分の間土蔵は使えなくなったが、食べて出す事さえきちんと出来れば、ある程度の不自由は苦にならない。

◆震災は自然の成り行きと諦めもつくが、問題は原発事故のとんでもない人災だ。しかもそれは、少しの利便性のために大量の電気を食う自販機が立ち並ぶような社会を作ってしまった、我々一人ひとりの無自覚が招いたものでもある。物質的豊かさや快適さばかりを追い求めながら、原発反対は虫がよすぎる。生きる責任を訴える糞土師の主張こそ、復興計画の基本に据える必要があるはずだ。

◆実は寝室の私の枕元には、箪笥の上にあったブリキ製の重たい衣装箱が落ちていた。もしも就寝中の地震だったらどうなっていたことか。3・11を命日と思い、死んだ気になって糞土師活動に駆け巡ることこそ、私のすべき復興支援だ。先に375号で旅費の提供をお願いしていた講演会は、手弁当に切り換えます。遠距離ではちょっと厳しいけれども、遠慮なくお申し付け下さい。(糞土師 伊沢正名

救助された時「俺、泣いちまったよぉーーっ」と、彼は言っていました

■3月11日、この日私は自宅におり、地震だと分かってから全く止まない横揺れが2分も続き、震度は弱かったものの、もの凄い恐怖を感じました。時間が経つにつれて地震・津波の被害が大規模であるとわかり、日を追うごとに死者・行方不明者の数が増し……。カナダの旅を通して知り合いになった10年来の仲間が、福島県や宮城県に多くいます。携帯メールも通じず安否を心配していたところ、その一人、宮城県岩沼市在住の仲間から、震災から6日ぶりに電話が入って無事であることが分かった時は、泣いてしまいました。

◆彼の家族は幸いにも皆さん無事でした。津波だとわかった際は必死で近くにあったアパートの2階に逃げたが、彼の後ろから逃げてきた人が目の前で流されていき、それでも3人を何とか助けたそうです。そして、その避難したアパートの数名の住人と共に毛布にくるまって一晩過ごし、翌日、自衛隊に救助されました。救助された時「俺、泣いちまったよぉーーっ」と、彼は言っていました。

◆彼の勤務しているガス会社は仙台空港敷地内にあり、ご存知の通り全滅。震災後10日目にまた電話で話すことができたのですが、会社から「しばらく休め」と言われていた彼は、1週間ぶりに仕事に復帰し、復旧工事にあたっているようでした。他の社員は震災から休みなしで働いており、「もうみんな限界にきている」と言っていました。

◆「じゃ、仕事に戻るから」と急ぎ電話を切られた後、彼らの心配ばかりしていて何にも役に立てていない自分に情けなさを感じ、子育てなど、今自分にできることをしっかりやろう、と思い直しています。この災害、原発問題は、今後の人間のあり方・生き方を問うているように思えます。(長野市 伊藤栄里子

名取の住民から

■私の故郷は、仙台湾に面した港町の宮城県名取市閖上(ゆりあげ)というところにある。何もない町だが、海の近くに住んでいることを何となく自慢に思って暮らしていた。私(27)は4年前に就職し自宅を離れ栃木県に住んでおり、今回の震災まで父(70)が祖母(97)の在宅介護をしながら2人で暮らしていた。故郷の姿が一変した3月11日からのこと、父と私の体験をもとに報告します。大学で向後紀代美先生に教えていただいた縁で地平線会議のことを知り、今回書かせていただきました。(相沢寛人

父の手記:激しい水しぶきをあげて、シュッシュッシュッ、と川を押し上がって……
■3月11日午後2時46分、強い揺れを感じた。物が落ちてくる、倒れてくるのに危険を感じ、身構えて揺れが収まるのを待った。15秒位も続いたか、揺れもおさまり家中を見てまわると、タンスが1か所倒れたが、書棚、食器棚はつかえ棒が外れた程度でテレビも台に乗ったままのようだった。ラジオ、携帯電話、免許証、財布をポケットに入れて外に出ると、前の家の鬼瓦が落ち、自宅の小屋のサッシ戸が外れて地面にガラスが散乱していた。道路に人影はない。散らばったガラスを寄せて車が出られるようにして再度道路に出て見ると、隣家の前の側溝の割れ目から岩石の溶けたような色の水が噴き出していた。そのうちに近所の井戸からも激しい勢いで水が噴きあがってくる。液状化現象だと気付いた。

◆ラジオでは、8?10mの津波が押し寄せる恐れがあるので高台に避難するよう繰り返し呼びかけている。これは津波は必ず来る、と私は思った。隣家のおばさんに避難するよう声をかけ、車で避難所の閖上中学校に向かう。自宅で介護している母は今日はデイサービスに行っている。1人ですぐに中学校へ向かった。自宅は港から約300m、中学校は港から約1キロのところにある。私は車を中学校の駐車場に停め、校舎に入った。

◆続々と避難者が車でやってきていた。校舎の3階まで避難して5、6分経ったか、廊下の窓を開けて外を見ていると、中学校の北側200m程先にある名取川に津波が押し寄せて来たのが見えた。水煙と激しい水しぶきをあげて、シュッシュッシュッ、とものすごい音をたてて、恐ろしいほどのスピードで川を押しあがって行く。辺りは泥水のしぶきに包まれて薄暗くなり気味が悪かった。

◆川を離れた地上でも押し寄せてくる津波が見えてきた。海に近い公民館にいったん集合、そこでは危ない、と気づいて高みにある中学校へ歩いて避難してくる人たちがいる。その人たちは後ろに迫る津波に気付いていないようだった。海が家々の陰になって見えなくなっているのだ。津波がすぐ間近に来ているのがこちらからは見える。「急いで校舎に入れ」「津波がすぐそこだぞー」と、皆で手を振り大声で叫んだ。しかし、ついに校舎まで津波が押し寄せた。

◆家のガレキ、車、船、屋根など津波に流されて来ている。その中に人の姿が3名程見えた。ガレキにしがみつき流されているもの。体だけ浮いているもの。屋根の上に乗って流されているもの。つかまっていた屋根が学校の昇降口にひっかかって止まり、助かった人もいた。水にのまれる女性と一瞬目が合った時の言いようのない感情。生き地獄を見ているようでした。

◆そのまま、中学校で一夜を過ごすことになった。夜になると町の数か所で火災が発生し、次々と町中に延焼していきました。電気がないため、町を覆った火災が唯一の灯りだった。暖房もなく毛布も少ないため、ほとんどの人が寒さとショックで眠れず、また眠らないように声を掛け合い一夜を明かした。

◆翌日、中学校付近はまだ水が引いていなかった。車の往来ができるところまで皆で歩き、内陸の避難所へバスで移された。震災翌日から、避難所での生活が始まった。避難所では、震災のショックからか、夜うなされている人もいる。私は体が健康な状態ではないために、震災から2週間後に、避難所から息子の住むアパートへ身を寄せ、現在に至ります。(相沢秀雄

私の手記:家は基礎だけが残っている状態だった
■私が初めて現地を訪れることができたのは、震災の約1週間後の19日でした。まず避難所を訪れ、父の無事を確認しました。そして親族の安否不明者の捜索のために、遺体安置所を父と共に訪れました。ボーリング場がまだ身元が判明していない遺体の安置所になっており、場内一面に棺が並べられておりました。場内は異様に薄暗く冷んやりしていました。身体の特徴書きだけでは全くわからず、遺体の顔をひとつひとつ覗いていきます。身元不明遺体は高齢者が多かったように思いました。父はゆっくりと覗きこみながら周っていました。知人、友人が多数いたようでした。

◆その後、父を避難所に置き、私は自宅へ向いました。父も車を流され、震災後一度も自宅に行けていないとのことでした。自宅へ向かう途中、道路が車両の立ち入りができない状態になったため、車を止め歩いて行きました。海のほうに近づくにつれ、段々と残っている建物が少なくなり、ガレキ等も少なくなっていきます。

◆車から約30分ほど歩いたころ、自宅のあった場所に着きました。周囲は家も道もなくなっておりましたので、川や橋、他わずかに残った目印から自宅の位置を予想し探しました。家の基礎だけが残っている状態。玄関の石段で我が家だとわかりました。持って帰れるものを持っていくつもりでしたが、何ひとつ我が家には残っていませんでした。

◆私の家だけではありません。近所は家一軒残っておらず、ガレキや残骸もほとんどありませんでした。内陸まで流されていったのだと思いました。1日で町は一変してしまいました。少し歩いて海の方にいくと、砂浜であったところが海になっていました。地盤が落ちている、そう思いました。

◆またいつ津波が来るとも限らないし、前よりも海が近くなっている。自宅がなくなったのはショックですが、町自体がなくなってしまったことがずっとショックでした。またこの場所に人が住めるのだろうかと考えてしまいます。震災後約1カ月が経ちます。今は、父が一時的に私のアパートに身を寄せ暮らしております。たくさんの親族、知人、友人が亡くなった中、私たち命の残ったものは精一杯これからを考え生きていかなくてはなりません。

手術直前、震災発生。麻酔だけで中止に

■今年2月2日、さいたま市より仙台に転居し、仙台駅横のマンションに入居した。夫がヘルニア手術のため3月10日(木)青葉区にある東北公済病院に入院。手術当日の3月11日、早昼を食べ、広瀬通りを20分歩いて病院へ。夫はお昼から絶食。2時30分全身麻酔のため手術室へ向かう。私は病室で待機。

◆2時46分地震発生。ぐらぐら揺れてこれは大変と思い、夫の貴重品を私のバッグに入れて廊下に出る。ナース室前で経験したことのない大きな揺れになった。建物がギシギシ鳴り、非常を知らせるブザーが鳴り響く。非常ドアが閉まりかけてゆらゆらしている。私は看護師さん二人とうずくまっていた。斜め前方の階段口の所で年配の女性が「南無妙法蓮華経……」と唱え続けている。私は「止まれ!止まれ!!」と叫んでいた。

◆そんな中、先生が手術着のまま私のところへ来て「手術は中止しました。麻酔が早く覚めますよ」と知らせてくださる。その後も大きな余震が波のように押し寄せて膝が震えた。エレベーターが止まっているので、3階から4階へ夫は看護師さんの肩を借りて病室へ戻ってきた。本人は地震を全く知らず!! 看護師さん5人ぐらいが覆いかぶさって「小村さん、小村さん」と叫んでいるのを遠くに聞いて「死ぬのかなー」と思ったと言う。

◆停電した。断水の中余震があるのでホールで待機する。揺れが来るたび「もう沢山」と思う。夜はホールのベンチで夫の上着をかけて寝たが、非常事態の中、一晩中廊下がざわざわして、余震もあり、殆んど眠れなかった。

◆12日(土)おかゆ一袋、さんまの缶詰1缶、水500ccが患者用。おかゆと魚を半分分けてもらう。マンションの様子が見たくて家に向かう。昨日歩いた道のビルの壁やガラスが大量に崩れて落下していた。あの時地震が来たらと思うとぞっとする。

◆マンションは停電でエレベーターが動かず23階まで自力昇降となる。家の中は地震知らずと言ってよいほど何も倒れず、壊れず、びっくりした。隣家との間の壁が二か所亀裂が入っている。一方は1本、他方は3本。前日五穀米を多めに炊いていたのが幸いして、お握り6個を作った。懐中電灯、乾電池、水、お菓子を持って降りる。重くて膝が痛くなりそうだった。

◆病院の夕食はアルファー米と缶詰、水はパパのみ。自転車を病院へ持ってきた。13日(日)病院の1階と2階が老人介護施設の入所者の避難場所になった。車いすの人。人、人。2階は床にマットを敷いて寝ている人が殆んど。ポータブルトイレが沢山用意してある。

◆社長がバナナ3本と野菜ジュース2本を自宅から持ってきて、そのまま自転車で会社へ向かった。社員数名と連絡が取れず、家族に不明者が大勢いる模様。手術の予定が立たないので、朝食後退院した。家は電気水道は点いたがエレベーターはまだ動かず、夫も自力で登り、ヘルニアが出てしまった。私は2日で4回上り下りして、筋肉痛になった。午後やっとエレベーター開通。仙台駅前のビルは壁が落下したり、水が屋上から流れ出たり、しばらくは無人のゴーストタウンだった。夫の会社は津波の末端で、被害を免れたが、会社の前の道路には仙台港から流れてきた車が山となっていた。

◆手術は25日に無事終え、早くも仕事復帰しています。(小村寿子

我が家の大激震

■揺れが始まった瞬間、これは大きいと直感して、家に電話をかけた。我が家は杉並区のマンションの5階。そのとき中学1年の長女がひとりでいた。私は墨田区のビルの4階の会社から。「大丈夫、テーブルの下にいるから」 今のこどもは小学生のときから、地震がくると机の下に潜る訓練をしている。1時間くらい電話をつなぎっぱなしで、家の中の状況を聞き、少し揺れがおさまってからは玄関のドアが開くかどうか確認させ、窓から外の様子を見させた。家の中は家具が倒れることもなく、棚の上に置いたものが落ちたくらいで、大きな被害はなかった。

◆地震のあった週の月曜日、7日午前3時にケータイが鳴った。発信は「公衆電話」とある。「いま○○駅にいるんだけど。いまからお父さんのところへ行くから」。……と言ってもまだ電車も動いていないし、電車があっても1時間以上かかるところだ。

◆昨年7月に離婚し、ふたりの娘は元妻と一緒に暮らしていた。少し前から長女は「お父さんと一緒に住みたい」と言っていたが、出張の多い私は中学生の娘をおいて出かけるわけにはいかないので、せめて高校生になるまでは待つように言っていた。

◆結局娘は始発が動くまで駅で待って、私の最寄り駅まで辿り着いたのが午前7時だった。9日から一泊で出張があったので、8日に休暇をとって、出張中の食事の準備をしたり、風呂の沸かし方などを教え込んで無事に出張から帰った翌日が地震だった。

◆夕方になって会社の車を借りて家へ向かったが、歩く方が早いくらいの速度で、帰宅したのは10時間後の午前3時だった。その間娘は出張中に教えたことが役にたったのか、ひとりで食事を済ませて寝ていた。余震がつづくなか心細かったと思うが、帰宅したときに目を覚まして「大丈夫だったよ」のひとことでほっとした。娘は4月からこちらの中学に転校することになった。(武田力

いきなり地面がバイクごと横に移動した?郵便配達中の巨大地震

■そのとき僕はバイクで郵便配達していた。いきなり地面がバイクごと横に移動したのでこれはヤバイと「エンジン」を止めた。波長の大きな揺れの中で周囲の民家を見渡す。自分の真横とその隣が倒れたら、ここは即下敷きだと判断。道路両側の家の高さを確認し、民家からできる限り遠い道路の真ん中に逃げる。すると足元からアスファルトが溶けるような感触が伝わってくる。地面が液状化を起こせば鉄筋の住宅でも倒れるかも、と思う。そこで始めて、帰宅途中の小学生男子が僕のバイクの側に立っているのに気づいた。

◆「そこはダメだ。こっちへ」と叫びかけて、これは本当にそれほどの地震なのか、迷う。怯えた目で僕を見る男の子。やっぱりまずい。「こっちへ!」と言おうとしたところで揺れは収まる。男の子に「すごかったね」と話しかけられ「そうやな。気をつけて帰りや」と答えるが、その子を見殺しにしたような罪悪感にとらわれる。結果として彼は無事で、僕も大騒ぎして恥をかかずに済んだ。でもそれは結果が、たまたま幸運だっただけ。自分の気持ちにブレーキをかけたものが、つまらないプライドなら、それは非常時の足かせになる。

◆さてと、どうすればいいのか。このまま仕事を続けていいのか。周りを見渡すと、路上の同業者も判断つきかねる顔で、かたまっている。まだ揺れは来るか、と考えるが分からない。ただあの波長の長さからすると、地震の震源はここではない。にもかかわらずこれだけ揺れるなら、それは相当な巨大地震。東北はこの間大きな地震があったばかりだから、もしかして南海地震。和歌山の実家は大丈夫か? その前に子どもと嫁さんは?

◆子どもはおそらく学校にいる。それなら大丈夫だろう。問題は嫁さんのほうで、地下鉄やエレベーター内に閉じ込められている可能性があるかもしれない。しかし携帯はかけても繋がらない。仕方ないので仕事を再開。少し進むと古い民家の瓦が道に落ちて割れている。ここはバイクを止める場所なので、もう少し地震が遅ければ、この瓦は自分の上に落ちている。そこに別の配達員が現れ、地震は東北だと、お客さんが言っていた、と教えてくれる。この時点では、被害の大きさが想像できなかったので、実家方面が大丈夫だった、ことにホッとする。

◆さらに進むと、ドアを開け放した民家から女性が飛び出してきて、いきなり「大丈夫でしたか?」と聞かれる。相当興奮していて、話がとまらない。この人から津波が発生していると聞く。帰宅して、テレビをつけて唖然とした。ここでようやく嫁さんと電話がつながり無事を確認。子どもは学校で待機していると知り、慌てて迎えにいく。携帯のメールを何度も打ったと言われて見ると、確かに来ている。しかしこれはかなり時間を経過した後から、まとめて送られてきたようで、緊急時には機能していなかった。(坪井伸吾

「ヨウ素剤」が配布され始めると、現場の雰囲気は一変した……

■3.11、その時僕は箱崎にある本社オフィスの12Fに居た。揺れ続ける建物の中で気象庁のホームページにアクセスして震源の情報を得る頭に浮かんだのは、福島県第2原発そば楢葉町に住む友人の顔だった。11日の深夜にその友人から、家族全員無事であることの連絡を受ける。

◆13日、日曜1:00 AM、2日で集めた、水、食料、ランタンやストーブ、集められただけの防寒着と下着類など、積載できるだけの物資を車に詰め込み、僕はいわきの避難所へ向かった。高速道路は、東関東自動車道で佐原まで。その後は何度も迂回をしながら8時間かけて避難所のあるいわきへ。僕が訪れた翌日、避難所では希望者に、と「ヨウ素剤」が配布され始める。あくまで自治体が独断で始めた措置のようだけれど現場の雰囲気は一変したそうだ。

◆状況説明に来た東京電力社員に殴り掛かる住民。友人の言葉が重かった。「被災者は僕たちだけじゃ無いんだ、自治体も寝ずに働く職員も、みな被災者なのに」「まるで、彼らを敵のように扱う連中が多いよ。避難所で昼間から酒飲んで寝転がる大人達。震災以上に悲しい光景だった」

◆15日深夜、彼らは義理の兄夫婦の家族10人全員で東京の我が家へ。大人7人、幼児5人での集団生活を始めた。原発から20Km圏の彼ら、海水の入った田畑に放射能、農業を主体に生活していた彼らに帰る場所は今は無くなってしまっている。定期的な停電で少し暗くなった東京。これまでは明るい東京が当たり前に思っていたけれど、実はこれまでが、明るすぎたんじゃないだろうか。僕は今くらい、いやもう少し暗く夜らしい景色で暮らす方が人間らしいと思っている。(小松賢志=さとし 1969年生まれ、戸山高校での三輪さんの教え子)

震災と原発事故に恐れおののいている方々の地域の不公平さは、私たちはもっと敏感に常に心に

■あの突然の長い不穏なうねりにも似た地震のとき私は、埼玉県に近い東村山市にいました。仕事で遅くなりランチを食べていました。揺れがはじまるなり、頭上の3段がさねのシャンデリアがグルグル回り出し飾りの部品がかちゃかちゃとなりやまず、すぐレストランのテーブルの下に逃げ込みました。はじめての経験で一瞬なにが起きたのかよくわからないまま、それぞれ、都心で仕事をしている夫や息子、高田馬場の保育園でアルバイトをしている娘に携帯で連絡を送りましたが、返事もこないまま、メールも通話もできなくなりました。

◆電車は全て止まり、復旧の見込みもなく、住まいは西武新宿線の田無というところで、東村山から5つ新宿寄りの駅でしたので、青梅街道沿いに3時間かけて戻ってきましたが、そのときはすでに車は渋滞が始まっていました。家にもどって家族と連絡がとれない不安に襲われながら、テレビを見ると宮城、福島、岩手県の太平洋岸沿いでは果てしなく恐ろしい光景がひろがっていることに呆然としました。

◆その日の夜中、夫と息子は長い時間かけて都心から歩いて戻りました。保育園にいた娘は親たちが迎えにこられないので泊まることになりました。数時間だけでも家族の安否がわからないだけで、こんなに切なく不安になるというのに、被災地の方たちは自宅や仕事場を津波で失い、1週間たっても、2週間たっても家族の安否もわからず、ライフラインも閉ざされ、食料や物資の足りない中、寒さや不安と戦い悲惨な状況を受け止めなければならない現実を、暖かい部屋でテレビの放映をみている自分になんともいえない罪悪感がこみ上げます。

◆それだけではなく今度は重大な原発の事故です。想定外の事故の対処に命がけでおこなわれねばならない危険なものにたよっている自分たちの愚かさは、みんなの責任です。想定外の自然災害を危機管理として受け止めていなかった東電の犯した人災の責任はきちんととるべきです。

◆池袋に住んでいる友人の家に南相馬市から避難してきた家族がいます。原発事故で、避難するようにとの通告をうけて、2時間ぐらいで戻れると思ってお財布だけもってきたそうです。周りの住民の人たちもここまでの大事故になっているとは思っていなかったようです。

◆3月23日発行の我が町のタウン通信に南相馬市で生まれ育った太宰治文学賞受賞作家の志賀泉さんが『故郷は』という原稿を寄せています。福島原発から10キロと離れていない志賀さん出身の双葉高校は東電から多額の寄付を受けており、春の遠足では原発見学の広報センターで原子炉発電の仕組みや安全性を吹き込まれる映画をみるそうです。「見晴らし台からは、遠くに青い水平線と目と鼻の先に原発の建物が見えた。僕らはなんの疑問も抱いていなかったわけではない。危険性を認識しながら頼らざるを得ない、弱者の論理は僕らのものであった。『安全だ』といわれればそれを信じるしかないではないか。せいぜい、苦笑で応えることぐらいしか僕らには出来なかったのだ」(一部掲載)

◆震災と原発事故に恐れおののいている方々の地域の不公平さは、私たちはもっと敏感に常に心において置くべきだとおもいます。東北大震災から3週間たち、トイレットペーパーや、お米、パン、ガソリンは今では普通に流通するようになり、公民館や、地区会館は夜間の使用は自粛されていますが、昼間は使用できるようになり、テレビのコマーシャルも番組も戻りつつあります。各自治体ではランドセルや、紙おむつ、ホッカイロなどの物資を集め、芸能人、ジャニーズ事務所や企業、スポーツ選手による義援金の呼びかけが続けられています。

◆しかしだんだん日常に戻りつつある狭い自分たちの地域や心に、被災地で避難所生活の長期化や、日々深刻化している原発事故を命がけで修復してくれている方々の存在を常に心とどめて、生かされている私たちのこれからの役割を考えていかねばと思います。(西東京市 宇津裕子

ビル16階で、「まだ出てくるな! 早すぎる!」とお腹に指導を続けた

■地震の時は、大手町のオフィスビル16階で、日本語を教えていました。人生初の大揺れに、生徒と机の下で震えていました。私は妊娠5か月です。緊張からお腹がカチカチに張ってしまい、その点でもうろたえました。体力的に、歩いて帰ることは無理だったので、旦那がこっちまで2時間半歩いて来てくれました。感謝感謝。2人で毛布を借り、会議室でテレビを見ながら床で休みました。

◆ところが時間が経つにつれ、お腹は子宮の形が浮き出るんじゃないかと思うほど、固くなりました。そして、どうしたことか、胎動が始まったのでした。それまで、曖昧な感覚しかなかったのに、この地震の夜はぐるんぐるんと強烈なアピール。訳も分からず流産かと動揺し、「まだ出てくるな!早すぎる!」とお腹に指導を続けました。余震は何回もあるし、ニュースは恐ろしいし、突っ張ったお腹の中で赤ちゃんはやたら動くし、疲れ果てました。

◆翌日、家に帰り、ようやく落ち着きました。地震で目が覚めたか、胎動は日々、勢いを増しています。元気が一番です。この半月、悲しすぎるニュースと余震の連続で体調を崩しがちでした。ただただ募金、寄付、節電。最近は、この水を、この食べ物を私が口にして、赤ちゃんに本当に影響はないのか、と不安に駆られています。我儘は言えませんが、万全を期したい、と思います。(黒澤=後田=聡子

「なんてこった!」だが命さえあれば……

■あの大地震のわずか5日前。私は三陸海岸の大船渡市から10数キロ内陸に入った北上高地の山中でイヌワシやクマタカの生態調査に従事していた。前日までの吹雪まじりの天候とはうってかわり、この日は雲一つない晴天に恵まれワシタカの出現を期待して周囲の山々に注意深く目を配っていた。朝の冷え込みもゆるみ気温が上がりはじめた10時すぎ、それは突然のように西の山の稜線上に姿を現した。ゆっくりと稜線上を大きな翼を広げて帆翔する姿はイヌワシよりもさらに大きい。

◆「オオワシだ!!」すぐに双眼鏡でとらえたオオワシは上空を旋回しながら徐々に私の方に近づいてきている。羽を広げると2m40cmもある巨大なワシがぬけるような青空をバックに純白の肩と尾を輝かせながら私の上を悠悠と飛翔している。信じられないような美しい光景だ。そして数分間私の頭上を旋回してやがて東の尾根かげに飛び去ったのだが、あの僥幸は何かの前兆だったのだろうか……。

◆3月11日、その日は朝から不幸な出来事の連続だった。朝自宅を車で出かけた私は途中の雪道でスリップしてしまい、バスと接触事故を起してしまったのだ(なんてこった)。そのあと町のスーパーで買い物をして車に戻ってみると、車の下に大量の油が流れているのに気が付いた。「もしや……。」あわててボンネットを開けてみると案の定、朝出がけにオイルを入れてきたのだが、その時フタを閉め忘れたためオイルが噴出して、ボンネットの中がオイルまみれになっていたのだ(なんてこった)。

◆最悪の気分でさらに車を走らせていた午後2時すぎ。信号待ちで止まっていた私の車が突然左右に揺れ動き踊り出した。車の踊りは激しくなる一方で私は直前のオイル噴出のこともあり、今にも車が爆発炎上するんじゃないかと激しい恐怖にかられた。しかし前方に目をやると、道路わきの樹木や電線が激しく揺れているのに気が付き、ここでようやく大きな地震が来たのを知ったのだった。

◆自宅に戻ってみると幸い築100年以上の古い家は停電ぐらいですんだのだが、一緒に猛禽調査をしている仲間2人の家(南三陸町志津川)が津波で流され、着のみ着のままで小学校に避難しているという。一人は父母と経営している民宿を失い、もう一人は昨年の秋新築したばかりの家を流された。残ったものは命だけ。だが命さえあれば……。そう強く信じてやまない。(山形 松原英俊 鷹匠)

待機していると西から爆発音が届き、コスモ石油のタンク大炎上……

■仙台時代に住んでいたあたりが、津波の到達末端ラインでした。ひょっとするとアパートの跡地も、浸っていたかもしれません。しかし好んで走った仙台湾の、貞山堀(仙台空港の淵を走る堀)沿いの利府?岩沼サイクリングロードは壊滅です。

◆その日の私は卒業式の準備中で、リハーサルを終え、開始を待っていたときでした。むろん式は中止。学生たちはすぐさま徴集され、そのまま消防の配備に入ったもようです。こちらはそのまま待機していると西から爆発音が届き、コスモ石油のタンク大炎上(10kmぐらいの距離)。振り返ったときは消えかかったころでしたが、森を越えて赤黒く静まる大火焔は、さながらむかしの怪獣映画の特撮のよう。

◆ようやく解放されたのが0時過ぎ。路上は車だらけで、サイレンを鳴らす緊急車輌と道を開けようとする車との譲り合いがかえってあだになり、隙間がますますせまくなって、完全にスタック状態。そこは自転車の機動力、信号も機能しない密集道路のおかげで、縫っては担ぎでも、いつもより速く着きました。

◆けれどもマンションのエレベーターは停止。やむなく18階まで自転車を担いで上り、ドアを開けて愕然。本棚ぐらいは覚悟していたけど、まさか冷蔵庫まで倒れていたとは。ピコピコ鳴る冷蔵庫ドアの開放警告音が、私が帰り着くまで鳴っていたのでした。コンピュータも机から2m近くすっとび、バスタブに張りっ放しにしておいた水も揺れで干上がり、ありとあらゆる物がフライング。あの時間にこのマンションにいた人は、生きた心地がしなかったでしょう。

◆朝、周囲を歩いてまたびっくり。これが液状化かと改めて認識。道路の隙間からドロが噴出し、アスファルトは双方からの圧力で盛り上がっている。車道は問題ないが、歩道はことごとく波打ち、自転車では走りにくい。そしてマンションは20cm以上突きあがっていた、と思ったら、歩道が沈んでいた。

◆後日試したところ、東京まで自転車で行けたけど、車道は波打つ、アスファルトは盛り上がっている、飛び出したドロが乾燥して飛び交う浦安のさまは、さながらサハラの町のようでした。

◆それでも日本はすごい。なぜ略奪がおきないのだろう。この忍耐強さに復興は早いと確信しています。(埜口保男

展示会場転じて帰宅困難者仮眠所に

■3/10、11、12の3日間は、国道15号線沿い、京急蒲田駅前に立地する「大田区産業プラザ」という大型展示ホール(400m2)で『地図展INおおた』なる大規模展示会を大田観光協会が日本地図センター・国土地理院などと共催して行っていた。

◆私は協会側から企画・実施・場内対応の要員として当日も現場詰めであった。震災時、高天井の無柱会場は激しく揺れたが幸い展示品の落下もなく、施設防災センターの指示で屋外退避。この時、退室しない頑固者と押し問答を経験。余震の中再開、何とか19時まで展示を全う。この時点で私ほか会場関係者帰宅不能者は館内籠城の覚悟を決め、寝場所を展示場奥に確保。買出や食事に出た。

◆外出時「区施設トイレ⇒」の張り紙が玄関に出されていた。施設前の国道一号線は都心から川崎方面への行列。三陸の情報は携帯ニュースで取得。食事を終え施設に戻ると張り紙は「帰宅困難者仮眠場所」に変わり、顔見知りの施設の男女職員が防災服姿で毛布を配っている。彼らは元来帰宅困難職員であったはずである。

◆ここは都心から約15?20キロ、夕方から歩き出し3?5時間後で休養を取りたくなる地点。注意して見ていると休憩とトイレの目的で立ち寄りつつ、いざ入口で毛布を出されると、一気に気力が萎えそのまま仮眠所として照明を弱めた会議室や展示場に倒れこむ人が多い。

◆疲労困憊なのか周囲への関心を示す者は皆無。まして展示品が掲示された会場と気付く者も無い。私も展示会関係者も救援で徹夜、最終的には450名程の帰宅困難者の仮眠所となった。

◆明けて12日、午前4時半過ぎから京浜急行線が動き出す。ただし、どの電車も満員で乗車不能。5時過ぎから非常食として「サンリツのリッツ(水無しでは食べられない)」を配り、毛布を真空パック(16年前)していた大量のゴミとなったアルミ袋を回収。7時半展示場の真ん中で、頭の上にロング缶を3本並べて爆睡していたツワモノが目覚めるのを待って、行政の救援活動は終了。

◆午前10時から通常通り地図展最終3日目となる。人気の講師が来場不能で講演会は中止。しかし、来場者は予想外に多く見学も熱心であった。今思えば、展示会最終日は三陸の危機とはやはり隔絶していたのであろうか。(北村敏 大田区立郷土博物館学芸員)

帰宅困難者への夜中の炊き出し

■その時、スーパーのレジの、5人目に並んでいました。カゴを床の邪魔にならないところに置いてすぐに建物の外へ。多くの人がすでに路上にいました。建物も電信柱も倒れるのではないかと思うほどの揺れがいったんおさまったところで、我が家へ飛んで帰る。家が倒れていない事と女房の無事は確認したが、余震がおさまらないので、しばらくは外に。近所の独居老人宅数か所を見てまわり、無事を確認し、避難路確保の為、出入口を開けておくように指導した。

◆瓦の落ちた家、大谷石の崩れた家などが有り、通行の妨げにならないように男手を集めて片付ける。家に破損の有った方々は、地元の信頼出来る工務店などを紹介し、サギにあわないよう気をつけるように呼びかけました(その後区内で建築サギが多発しました)。スーパーに戻るとカゴに入れておいた品々は棚にもどされ、その後のお客様が買っていたようです。山ほどあったパンはまったくありませんでした。

◆夕方から青梅街道の徒歩帰宅者がふえ始め、21:00には1分で100名以上が片側の歩道を通過するようになったので、桃井第一小学校にかけつけました。救援所を開こう、と考えたのです。が、日頃の訓練で駆けつけることになっているスタッフのほとんどが集まらず、そのかわり先生達が帰れずに全員残っていたのでなんとかスムーズに救援所は開設出来ました。22:00頃には帰宅困難者が20名ほど集まっていたので受付シートに記入してもらい、22:30には五目御飯と暖かいお茶と防災用クラッカーを炊き出ししました。

◆帰宅困難者で受付けた方々以外にも、炊き出しやペットボトルの水を配りました。その時点でコンビニエンスストアにそのまま食べられるものや水は残っていなかったからです。翌12日AM1:00、先生方に受付仕事を引継ぎ一時帰宅。AM5:00再び救援所に行くと、帰宅困難者は50名程になっていました。AM6:30、ドライカレーとみそ汁とお茶を全員に炊き出しし、AM9:00帰宅し、以後町会メンバーと防犯パトロールを強化しました。(宮寺修一 高尾山毎日登山家 「いまだにパソコン、ファックス、モバイルホーンなしのアナログ生活」)

サンフランシスコで聞いた一報、気になる風評被害の行方

■『ふみちゃん、日本が地震だよ、大津波だよ、東北だよ。』その時、私はサンフンシスコに移住した友人宅にいました。友人の旦那がパソコンで日本のNHKを見せてくれたその瞬間、あの大津波の映像が目に入り、何度も繰り返される津波の映像を前に唖然としていました。

◆その日は、米国も夜を徹して日本の映像を流していてテレビにくぎづけになっていました。正気に戻り「そうだ、家に連絡をしなければ」と。気づいた時には全くつながらない状態でしたが、瞬間的に親戚と携帯メールで連絡が取れ、家族はみな無事だとわかりました。結局、帰国予定のフライトはキャンセルになり、2日後に何とか成田へ。その後、東京の親戚宅で2日滞在した後、ようやく動きだした東北新幹線に乗り帰宅しました。

◆戻ってみると、南会津は地震による家屋の影響はなかったのですが、ガソリン灯油の規制と原発問題、避難者の受け入れで村の雰囲気は変わっていました。風評被害というのはこれから切実に実感すると思いますが、我が家(民宿)も確実に影響はありそうです。帰宅後、地元のおにぎり作りボランティアに5日間出て、昨日(4月1日)は春から勤める小学校に顔を出しました。

◆職場には、地震で家が倒壊した人や、津波と原発の影響で家族が職員住宅に避難している人、友人の子どもを春から引き取る同僚もいました。今の自分にできることはないか?と考えているばかりですが、この土地で暮らしていくということを選んでいる以上、正確な情報を入手しながら発信していきたいと思っています。被災地に直接出向いていくことはできなくても、心の中で復興に向けて応援しています。(残雪のある冷たい伊南川を眺めながら・酒井富美

ホワイトホースでも義援金を集めるイベントを日系人会で4月3日に開催しました

■アラスカの友人から大地震があったとの電話を貰って、岩手大学出身の私はドキリとしました。かなりの数の友人が東北に散らばって住んでいるからです。アラスカやカナダの友人・知人から次々に「家族や友人は大丈夫か?」と連絡が入ります。キリスト教徒の友人は毎週皆で日本の為に祈り始めたと連絡をくれました。

◆私は真っ先に盛岡の親友にメールしたのに一向に返信が無いまま時は立ち、ようやく届いたメールには、私もよく遊びに行った彼女の相馬の実家が流されて壊滅した事とか、石巻のおじさんは安否不明だとか、盛岡でさえ水と食料を求めて歩き回る日々だという事が淡々と書いてあるのです。「連日このニュースをやってるからテレビを見においで」と友人が家に呼んでくれて、CNNニュースを見て愕然としました。

◆瓦礫の山と津波の映像、毛布に包まれ運び出されるたくさんの遺体、年老いた自分の親を探す人、避難所で寒そうにしている人々。いつもは鼻につく『アメリカが如何に活躍したか』という話を聞いても、今回はそれどころかありがたくって仕方がありません。どうにかしたいけど何も出来ない私。誰もがそう思っていたので、ここホワイトホースでも義援金を集めるイベントを日系人会で4月3日に開催しました。

◆日系人は皆できる限りの事を惜しみなくし、本当にたくさんの人が集まり、みんないっぱい寄付し、大盛況でした。被災地の方に頑張って欲しい、皆の思いはただそれだけなのです。ありきたりですが、世界は一つだと心から感じたイベントでした。どうか、頑張ってください!(カナダ・ホワイトホース 本多有香

間近にした4つの災害

■近年、4つの大災害を間近にした。ひとつは、いうまでもなく、現在進行中の東日本大震災である。 そのとき、ぼくは東京中野区のMMマンションの地下室にいた。保管していた山の文献をさがすためだった。突如襲った、あのいつおわるかわからない激しい揺れを忘れることができない。

◆ちかくでは2年前の2009年5月2?3日、ミャンマー南部を襲ったサイクロン・ナルギスである。現地NGO・FREDA(マングローブ植林支援を10年以上ともにしている相棒)から送られてきた写真にショックをうけた。水に溺れたおびただしい死体である。男も、女も、子どもも、水牛も……。死者・不明者は13万人。

◆3つめは2008年5月12日の四川省大地震(マグニチュード8.0、直下型では世界最大級)。そのときは雲南省で梅里雪山(6740m)を眺めていた。隣接する四川省で死者・不明者9万人の大惨事があったというのに。

◆4つめは、7年前の2004年12月26日、史上最大のスマトラ島沖地震(マグニチュード9.1)。ビルマ・イラワジ河口のマングローブ地域にいた。震源地から1500kmも離れていたが、不思議な自然現象を体験する。巨大なハンモック、もしくはトランポリンにのったような、ゆるやかな、しかし、きわめて大きな揺れだった。ちかくの小島にいた三輪主彦はツナミの来襲におびえた、という。そのツナミはインド洋沿岸各国におよび、死者・不明者は22万人以上となった。

◆ぼくは、いま、災害の状態を死者・不明者の数で示した。だが、いくら想像力をはたらかしても、数字は実感をともなわない。ぼくには数千、数万という数字よりも、学生時代(62年)、カトマンズの大通りでみた行き倒れの死体が脳裏にせまってくる。おなじく学生時代(64年)、ボルネオで聞いた話もわすれられない。スパイの疑いをかけられた中国人が生き埋めにされた。家族がその土の上を踏まされた。内蔵が破裂する音が土中から聞こえた、という(ぼくはその話をその中国人の息子から聞いたのだ)。

◆状況はちがっても、大惨事の背景には同じような背景がある。ぼくらはそれを忘れてはならない。(向後元彦

いまは、かたときも子どもたちと離れたくない心境だ 
━━三浦半島で体感した津波の恐怖

■「ここは100年に一度、大きな津波が来ます」青空保育に通う息子たちのお泊まり会で、YMCA三浦ふれあいの村に来ていた。14:30からの入村式で指導員の方からそう注意を受け、さあ目の前の浜に繰り出そうとしたまさにその時、三浦半島全体がぐわんぐわんと揺れ始めた。

◆2歳の娘は、藤沢の自宅に足の悪い義母とともに残してきていた。携帯電話はつながらない。まもなく夫からメールが入った。娘たちが心配でたまたま早めに会社を出て、ちょうど藤沢駅に着いたところだったそうだ。すぐにタクシーを拾って、無事ダイニングテーブルの下に避難していた義母と娘に会えたとのこと。その夫は、前日まで仙台出張で、前々日の前震を経験していた。なんと運の強い人だろう。

◆私はとっさに、子どもたちを連れて敷地内にある高台に避難しようとしたが、指導員の方に、他の団体も合わせて人数を確認するからと呼び戻されてしまった。停電しているらしく、本部かどこかと無線でやりとりしている。目の高さに海がある場所で、今こうしている間にも津波が来るのではとひやひやする。入村式の前だったら、自己責任で行動できたのにと歯がゆい気持ちになる。

◆そして不運なことに、ここに来るまでに記念写真をたくさん撮った携帯のバッテリーが切れてしまう。山に行く時なら必ず持つ、電池式充電器と携帯ラジオを置いてきたことを悔やんだ。

◆ようやく高台に全員で避難し、指導員の方に、「ここは海抜20mはあるから大丈夫です」と言われるが、私の脳裏にははっきりとした津波のイメージがあり、ここも危ないかもしれないと不安になる。せめて水が来た時につかまって耐えられるよう、電灯の鉄の棒のそばで息子をしっかりと抱きしめ祈り続けた。

◆下の管理棟に車を停めた母たちが、車を取りに行きたいと申し出るが止められる。自己責任で取りに行こうとするが、他の団体の指導者に、「呼び戻してください!失礼じゃないか!」と怒られてしまい、避難所に不穏な空気が流れる。鳴り響く防災放送は、大津波警報が発令されたことを知らせている。あとで知ったが、予想された津波の高さは3mで、2階まで浸水する高さということだ。

◆日が傾いて寒くなってきたところで、タイミング悪く耐震補強工事のため閉鎖されていた高台の管理棟が避難所として解放されることになった。海の見えるテラスに移動すると、海が白波立っているのがわかる。

◆「今のうちに車でもっと高い武山方面に逃げた方がいいのではないか」と指導員の方に提案してみるが、きっと渋滞で車が動かないと止められる。避難してきた付近の住民の方が持っていたラジオで、15時40分頃に第一波が到達することを告げていた。生まれて初めて、「津波が、来ます」という防災放送を聞いた。

◆あとで調べてみると、横須賀の第1波が15時52分で0.9m、最大波が17時16分で1.6mだったそうだ。三浦市は16時13分、避難勧告よりも緊急度の高い避難指示を沿岸の1万175世帯に出し、2081人が学校などに避難したということだ。ふれあいの村も避難所の一つで、続々とお年寄りと子供を中心に人が集まってきた。一方で、あたりに広がる三浦丘陵では、三浦大根の収穫を急ぐ農家の方たちが黙々と作業を続けている。

◆結局、機を見てこっそり車を取りに行った母たちによると、なぜか海に向かう車とたくさんすれ違ったそうで、どこにでも野次馬はいるのだなとあきれる。避難してきた人の中にも海岸に見に行ったという人がいて、やはりかなり海がひいて、満潮の時とは比べものにならないくらい潮が上がったと言っていた。

◆日が落ちるとあっというまに冷え込んで、個人行動が許されずヤキモキした場面もあったが、温かい炊き出し(豚汁とわかめご飯)と寝袋の提供を施設から受けることができ、幼い子を持つ母親にとっては心底ありがたかった。ただ耐震に問題があるかもしれない建物で一夜を明かすのはとても不安で、夜中に、あの恐ろしい「ウィンウィン!ウィンウィン!」という携帯の緊急地震速報が鳴ったときには、みな一斉に飛び起きて、子どもたちを起こして建物の外へ飛び出した。

◆楽しみにしていたお泊まり会がこんなことになり、子どもたちの心に深い影を落としたのではないかと今でも心配だ。今回、不幸中の幸いで、全員が乗れる数だけ車を出していた。というのも、青空自主保育で不幸があり、翌日のお葬式に出席するため朝食を食べたら、すぐに車で帰る予定だったのだ。

◆明け方に停電が解除され、夜が明けたらきっと大渋滞するに違いないという母たちの判断で、134号は通行止めだからと止める指導員の方を説得して、意を決して暗いうちに全員で藤沢へ向けて出発した。途中、神奈川県に緊急地震速報が発令され焦ったが、間違いだった。慌てて、ガソリンを満タンにして、コンビニで食料や水を買い込んだ。

◆藤沢に近づくにつれ、犬の散歩をしている人やジョギングしている人がいて唖然とした。三浦と藤沢でこれほどまで危機感にギャップがあるとは。ようやく家にたどり着いて娘と無事再会、そこで見たテレビの映像は、まるで被災地に感応していたかのように私のイメージと一致していた。

◆おそらく、父親と祖母が生放送のニュースを見続けていたのだろう、娘は私がニュースを見ようとすると、「怖いー、怖いー」と泣くようになっていた。おかげで、私と息子はいまだに編集されていない恐ろしい映像を目にしていない。

◆話は変わって、あの日以来走っていない。雪崩が友人を奪ったときに会社が遠く感じられたように、今は走ることがとても遠く感じられる。息子の命を守らなければ、もう娘に会えないかも、と思った恐怖が忘れられず、かたときも子どもたちと離れたくない心境だ。ましてや、余震も、原発問題も、復興も、まだ何も終わっていない。特に原発問題に関しては、私たちが無意識に選んできた生活が、自然や子供たちを脅かすことになるなんて……。根本的にすべてを見直さなければ、と感じている。(大久保由美子 登山家 ランナー)

自分が変わること

■「そのとき」は、川崎市の自宅の一室に家族3人でいた。初めは小さな揺れだったが、次第に強くなり7階建ての集合住宅が激しく揺れだすと、建物が崩れるかもしれないと恐怖を感じた。生後2ヶ月の次男に覆いかぶさっている妻からその子を奪いとり、「外に出よう!」と叫んで、赤ん坊を抱きながら裸足で外へ飛びだした。

◆建物から離れて周囲を眺めると、団地全体が大きく揺れていた。長い長い揺れだった。外へ出てきた人が、付近にも何人かいた。妻と目を合わせて笑顔を作ろうとするが、顔が引きつっていて笑えない。震度5弱程度の揺れで建物が崩れることはなかったが、京都で睡眠中に経験した阪神大震災のときよりも恐ろしかった。

◆室内に戻ると、本や小物が床に散乱して、大きな冷蔵庫が10cm以上動いていた。余震が続くなか、テレビで巨大津波の信じ難い映像を見ながらも、保育園にいた4歳の長男の無事を確認したときにはホッとした。

◆翌日からは、福島原子力発電所で次から次へ起こる事故に右往左往した。一人身だったらそこまで心配しなかっただろうが、いまは乳幼児2人の親である。1号機の爆発以後は、避難装備や非常食を買いに走り、放射性物質の実用知識をネットで探しまくった。ヨウ素剤など必要ないと思っていても、妻が心配し始めるとお守りだと自分に言い聞かせて知人の医者に頼んだり(当然入手できず)、水道水の汚染が発表されるや否や、店頭からなくなる前にとミネラルウォーターを買い回った。いま振り返ると見苦しく、被災地の人々に申し訳ないと思うが、そのときは家族を守ることに必死だった。

◆そんななか、海外の友人・知人からいくつもの電話とメールをもらった。梅里雪山のチャシ村長やラサの友人が、家族全員でチベットへ避難してこいと言ってくれたときには、そこまでは・・と思いながらも嬉しかった。インドのラダークやアルナーチャルの知人たちは、チベット仏教の寺にいって日本のために祈ってくれていた。取材に同行した中国やインドの人たちのほとんどがお見舞いの連絡をしてくれたことは、予期しなかったが本当にありがたく、勇気づけられた。

◆かつて梅里雪山のツアーに参加したお客さんのなかに、福島県いわき市在住の75歳前後の方がいた。地震後20日目にメールを送ると、その日のうちにメールが返ってきて、震災の経験をまとめた文章と写真を送ってくださった。ご自身は大きな被害を免れたので、被災した親戚・知人へ地震直後から水を配って回ったという。親戚のなかには亡くなった方もいるそうだ。添付の写真は、テレビ画面で何度も見た惨状そのままだった。被災地が一気に身近になった。

◆また、救急救命医の友人が、地震後すぐに被災地へ向かって医療活動をおこなったことも知った。それまで、原発事故の展開次第では家族をつれて西へ避難しなければならないと考えていたが、現地に多くの人が残されているのに逃げることだけを考えていてはいけないと思い始めた。

◆大津波に飲み込まれてゆく車や家の映像が、ときおり頭のなかで蘇る。最初に見たとき、あの車や家のなかに人間がいるのかどうかは、わからなかった。だが現実には、あの画面のなかに無数の人がいて、冷たく油臭い濁流に命を断ち切られていったのだ。即死ではなかっただろう。ある人は溺れ、ある人は冷水に凍りつき、ある人は体を叩きつけられて、おびただしい数の悲鳴を上げながら徐々に息絶えていったのだ。その無数の最期の叫びを、私たちは聞きとっただろうか。残された私たちに何ができるのか。

◆余震や原発の不安はまだ続くが、地震から4週間たって生活は落ち着いてきた。放射能や停電で多少不便になるとしても、何も考えなければこのまま元の生活へ戻ってゆけるかもしれない。だが、この大震災を経験した私たちは、そこから何を学び、これからどう生きるべきなのか。拙速かもしれないが、いま思うことを2つ書きとめて、震災後の世界を歩きだす手がかりにしたい。

◆1つは、放射能汚染が現実となったいま、己の生活がどうやって成りたっているのかを、より具体的に知らなければならないということ。水道水の汚染が始まったとき、地域の浄水場やその水源地を慌てて調べた。また、よく利用するスーパーの食材は、どこのどのような農場から来るのか知らなかった。電気やガス、情報ラインはどのようにつながっているのか、調べたことはない。それらを知ることは、カワカブ(梅里雪山)で「聖山とは生命の源である」と理解した私が、自らにとっての「生命の源」を1つ1つ確認する作業である。最終的には、原子力発電を含むエネルギー大量消費社会をどう変えてゆくのか、自分なりの答えを見つけねばならない。

◆もう1つは、地震や津波という巨大な自然の力とどう向き合うか、改めて考えること。最近、目にとまる文章があった。「火や水を神として崇め、自然との和合に心配りした昔の人々の敬虔な智恵が、いまほど眩しいときはない」(前田耕作、読売新聞2011年4月3日書評欄) 今回の大津波の前に、人工の堤防の多くは無力だった。津波に対して「明らかに有効だった対策は高地移転だけ」と、ある新聞記事はいう。科学や人工物ではなく、過去の災害の教訓から「此処より下に家を建てるな」と刻んだ石碑や、「津波てんでんこ」の言い伝えが、人の命を救った。生と死を明確に分けたそのような教訓もまた、「敬虔な智恵」である。

◆チベットの人々は、多大な恵みを与えるがときに洪水や旱魃をもたらす魔の山を、聖山として崇め、人智を超える自然の力との「和合に心配り」してきた。それは、自然のなかに八百万の神をみる日本人も同じだっただろう。

◆科学知識が生活をより快適に安全にしてくれることは確かだが、それとともに科学では解明できていない生命や宇宙の不思議さに思いを馳せたいと思ってきた。聖山や八百万の神の意味をもう一度問い直して、現代の日本でも通用する「自然との和合」の仕方や「敬虔な智恵」を掘り起こすことはできないだろうか。荒ぶる神との共存の仕方を、チベットだけでなく日本でもこれから探ってゆこう。それを、実際の暮らしのなかに取り入れてゆきたい。

◆3月11日を境に、自分がどう変わるかが問われている。(小林尚礼


原健次さん・疾走す

並外れた博識と、とぼけた生真面目さの妙がとても印象的でした。あの味の出し方は原さんならではでした

■三重県大杉谷の山中でやっと電波を拾って受信したら訃報でした。驚きとショックを受けています。あの飄々とした鉄人の原さんが65歳で他界! 3年前の「四万十川ドラゴンラン」で原さんの並外れた博識と、とぼけた生真面目さの妙がとても印象的でした。あの味の出し方は原さんならではでした。

◆四万十の山田高司さんの企画した四万十川源流から歩きはじめ、林道に下りたら自転車で中流域までくだり、さらにカヌーで海まで漕ぎ下る「四万十川ドラゴンラン」。196kmのロングランの、初回に原さんは江本さんと一緒に参加していたんですね。私がご一緒したのは2回目のドラゴンラン。なぜ、翌年も参加したのかと思ったら、初回は左手を骨折しながら参加していて、途中リタイヤしたそうで、リベンジだったんでしょう。

◆わたしのすぐ前を漕いでいた原さんが船底をこするような浅瀬でいきなり沈をして、アッと思うまもなく私は急な流れですり抜けてしまい、振り返ったら原さんは立ち上がっていたシーンをよく覚えています。あ、大丈夫だった・・という安堵と鉄人も沈をするんだというへんな感想をもった出来事でした。今年6月3?5日の「はちきん四万十川ドラゴンラン」は原さんを偲んで下ることになってしまいました。ご冥福をお祈りします。合掌。(広瀬敏通

★この原稿は3月号用に書いてもらったのに、編集長の手違いで落としてしまったものです。フロントで「途中リタイアした原さんが、翌年も四万十ドラゴンランに参加、リベンジを果たしたことは、今号の通信で広瀬敏通さんが書いてくれている。」と明記しながら、申し訳ない積み忘れ、お許しを。(E)

健次のこと

■2月17日未明、さようならも言わず健次が突然いなくなり、大勢の方々に見送られた葬儀告別式の後、自宅の壁全面に本棚のある洋間に四十九日までの祭壇を用意しました。その本棚はたくさんの蔵書を取り出しやすく、見やすくそして美しく収められるように自分で手作りしたものでした。本の前やちょっとした隙間には大切なコレクションが並べられ、お気に入りの物に囲まれてきっと喜んでくれているはずでした。私も微笑んでいる遺影に語りかけながらも、まだ夢と現実の世界を行ったり来たりしていました。

◆3月11日午後、隣の居間で健次の遺影に向き合いながら頂いたお手紙を読んでいる時に大きな揺れが始まりました。収まるどころかもっともっと激しく揺れだし、慌てて飾り棚を押さえましたがその間にも物の落ちる音、割れる音が家じゅうから聞こえ、これも夢の続きを見ているのかもしれないと思いました。

◆今まで見ていた光景が一変していました。本やコレクションが部屋一面の海と化していたのです。お骨箱が本の間に倒れていました。遺影や位牌、まわりに飾られたお花は見えません。部屋には一歩も入れない状態でしたが本の上を這ってお骨箱だけは取り出しました。玄関のドアも靴箱が移動し物が散乱して出られません。台所も。健次の書斎も。戸棚も倒れています。

◆窓から通りに飛び出すとすでに大勢の方が出ていました。近所の大谷石やブロック塀がバタバタ倒れ、屋根瓦ががれきとなっていました。震度6強。とりあえず割れた窓ガラスを片づけ玄関を通れるようにしているうちにだんだん暗くなってきました。余震も収まらず電気も止まったまま。車の中で暖を取りながら健次と愛犬のルー(ボストンテリア 雌4才)と一緒に長い不安な夜を過ごしました。

◆その後の津波や原発の情報には心が痛みます。健次が生きていたら原発事故をどう思ったでしょう。いつもその危険性は感じていましたし、なにより電気を無駄に使いすぎることを怒っていましたから。ペットボトルもしかり。便利さの代償の大きいことも。

◆その後子ども達や甥っ子たちが次々来ては少しずつ元の様子を取り戻してきましたが、2階のベランダの書庫はまだ手つかずのままです。ここには少年時代から集めた本や宝物、そして健次自身が手作りしたたくさんのスクラップブックが整然と飾られた健次ワールドがありました。

◆とうてい元のようには戻せそうにはありませんがみんなで再現したいと思っています。きっとどこかで「その本はそこじゃない!!」「もっときちんと!」とか叫んでいるかもしれませんが。

◆健次が倒れた時、額から流れる血をなめてくれたルーも地震の後しばらくは散歩から帰っても玄関の前で足を踏ん張って家の中に入りたがりませんでした。きっとルーにとってもつらい記憶なのでしょう。四十九日も終わり、今年の手帳を開いてみました。そこには年末までの予定がたくさん書き込まれていました。家族の写真も最後のページに。健次の植えたプランターのチューリップがぐんぐん伸びて来ました。私もオカリナを取り出して見ようかなと思っています。(原 典子

原健次さんの訃報にショックを受けた翌日……

■3月10日、地平線通信を受けとってウルトラじいじこと原健次さんが突然亡くなったことを知り、びっくりしました。初めてお会いしたのは四万十ドラゴンランの第1回目のとき。「防波堤を走って躓いてころんだんだよ」と、さほど痛そうな素振りもみせず赤黒く痛々しく腫れた手のまま、「大丈夫、大丈夫」といって、私たちに植物の名前や効能を伝授してくださったこと。翌年のリベンジの再会では、大きくうねる四万十川の河口から、さらにうねる海原に出て陸にゴールする間、私は「こわ?い、こわ?い」と叫びながら、前をいく原さんの姿を見失わないようにカヌーを漕いでいました。陸に上がって「海はこわい」と原さんぼそっと言われた時に、「原さんでも怖いことがあるんだ」と妙に安堵したことを思い出します。また四万十川で再会するような気がする「ウルトラじいじ」。心からご冥福をお祈りします。

◆そんな感想を含めて江本さんにご連絡しよう、と思っていた矢先の翌11日午後、あの揺れが来ました。引っ越して間もないのですが、ここは直前に感知するとインターホンでアナウンスされる仕組みになっているようです。いきなり「地震です!エレベーターが止まります」とアナウンスがありました。でも、揺れるまでには少々の時間差があり、はじめは「誤作動かなぁ」とのんびり思っていました。その直後、建物のきしむ音が聞こえだし……。地震で「怖い」と思ったのは初めてでした。

◆夕方の飲み会に出掛ける準備をしていた時なのですが、その後は、電車も止まり、飲み会もキャンセルになり、空が急に黒い雲に覆われてきました(東京湾での石油タンク火災の黒煙でした)。だけど、揺れがおさまった後のわが家にひとりでいると、さっきの出来事はまぼろしだったのではないかと思えるほど何も変化はありません。テレビは津波を実況中継しているのだけど、映像を通じて見ている「あちら側」は、明らかに「ここ」とは違う世界のようで。

◆夕方になって手持ちぶさたで外に出てみると、商店街も何事もなかったかのように普通に営業しています。会話も「揺れましたねぇ」と、のんびり。ただ、たくさんの人が飯田橋から早稲田方向に向かってもくもくと歩いていました。同僚と話しながら歩いている姿はなんとなく楽しげにも見えて、トイレットペーパーとキャベツを買って、夕方の空を見上げて佇んでいる私ってなんだか孤独だな?と思っていました。(八木和美 法政大学研究生 「RQ市民災害救援センター」東京本部でボランティア中)


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信以後、通信費(年2000円)を支払ってくださった方々は以下の皆さんです。万一、記載漏れがありましたらご一報ください。
辻野由喜 鰐淵渉 堀井昌子 名本光男 藤木安子 西嶋錬太郎 奥田啓司


三月詠
 避難所から(さいたまスーパーアリーナ)

金井 重

連帯の よせがき並ぶ 明るさよ
 ボランティアの 動きも生き生き

待機する ボランティアも 街の人も
 広場のパフォーマーたちに 手拍子の渦

腕章なしは 入れずも 帰途のバス
 保育の女性と 話しはずみぬ

腕章が 双葉の人かと 我に問う
 彼は社にもどり 我と出合いし女性(ひと)

原発から 三キロ圏の うぬまさん
 残しきし牛が なによりつらいと

避難所を ここも危険と 移動して
 六カ所目の人ら いつ戻れるのか

牛との日々の 忙わしさも これが生き甲斐
 つまりし声に 胸しめつけらる

よしきとたくや ここで出合いし クラスメート
 ポツリポツリ また明日移動と

原発で 働く父と 日々の電話
 大丈夫ですと 健気なよしき

フクシマが 世界語となる 切なさよ
 うみ・やま共に よみがえれ日本

★さいたまスーパーアリーナには東電福島第一原発事故で福島県双葉町からの1200名など、合わせて2000名が一時避難しました。双葉町役場も一時移転しました。

[あとがき]

■短い時間で制作、発行する割には、大部の地平線通信となりました。現場で被災し亡くなった方々、すべてを失った人々、救出と支援に立ち上がり行動している医師や自衛隊、消防隊員、ボランティアの皆さんたちの苦労を考えれば、どんなことも苦になりませんが、スピードを加速させながらの作業だったので体力仕事ではありました。

◆何にも増して、多忙な現場―子育ても含めてです―で走りながら原稿を書いてくれた皆さんに心からお礼を申し上げます。地平線ならでは、の多彩な受けとめ方が、全ページを通じて表現されていれば、ありがたいことであります。

◆1979年夏、私たちの活動をスターとさせた時、このような「震災特集地平線通信」を出すなんてこれっぽっちも考えられませんでした。勿論、史上空前の規模の地震、巨大津波の発生があっては当然のことなのですが、なんというか、アウトドア好きな地平線の仲間たちが一斉に独自ルートでボランティア行動に入ったこともこの通信をつくる後押しをしてくれました。ただし、広瀬敏通さんが言う通り、これからです。今後も是非現場に向かう志を持ち続けてほしい、と思います。来月もその次の月もこのテーマからは逃げないつもりです。

◆今回もレイアウトと印刷を一手に引き受けてくれる森井祐介さんには大きな仕事をしてもらいました。ありがとうございました。22日のパネルディスカッション、平日の午後となりましたが、可能な方は是非おこしください。あ、もうひとつ。5月15日の「日本冒険フォーラム」にも是非! 少しサプライズがありますよ。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

サンイチイチ(311)を生きる

  • 4月22日(金) 14:00〜18:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

あの日、消えるはずがない日常が一瞬で消え、有るのがあたりまえの空気や水さえ、何か得体の知れないモノに変わりました。すべての日本人が、「生きる」ということの意味をあらたえて考えざるを得ない日々が続いています。

この30年、地球上のあらゆる場所で生きる旅人たちの姿をみつめて来た地平線会議ですが、21世紀の日本に起こったこの状況の中、旅人達どう行動しているのか注目しています。

今月ば3・11緊急報告会と題しました。東北の道を知り尽くすバイクジャーナリスト賀曽利隆さん、震災後いち早く支援体制を作り、中心となって現地のボランティア活動を牽引する広瀬敏通さん、先鋭的なクライマーで、現地支援に入った谷口けいさん、以上の3名の他、様々な方に登場して頂き、東日本大震災への多角的なアプローチと報告をして頂きます。お聞き逃しなく!

なお今月は午後2時の開始となります。ご了承ください。


地平線通信 378号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/編集協力:横内宏美 八木和美
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年4月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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