2011年11月の地平線通信

■11月の地平線通信・385号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月16日。東京は快晴。気温9度と冷え込んだ。きのう15日、ピョンヤンで開かれたサッカー、北朝鮮戦。この通信の編集作業で途中までしか見ていないが、一方的に攻め込まれて、16戦無敗を誇るザック・ジャパン、まったくいいところがなかった。結果は0-1で完敗。が、今回だけは試合内容がどうかより、北朝鮮という国家の一風景を、選手たちとわずか150人ながら日本人応援団が目のあたりにしたことが収穫だったのではないか。

◆5万人の北朝鮮応援団は学生たちが動員されたようで、若い女性たちが目立った。君が代の演奏に大ブーイング(という表現でいいのだろうか?)するなど官製応援団には違いないが、応援の仕方、ファッションなどに時代の匂いをはらんでいた、と感じた。日本人については警備員たちはトイレまでついて来たらしい。「万一に備えての警護」との北朝鮮側の説明に昔を思い出した。

◆1972年8月末から9月下旬まで南北赤十字会談の取材でピョンヤンにいたことがある。入国は新聞3社、通信社1社のみ、今以上に厳しい条件で、よくぞ私のようなものの入国を許したものだ、と今も思う。労働新聞の論評員がつきっきりで単独行動はいっさい許されなかったが、ある日、休憩時間に大同江ホテルをそっと抜け出して川べり散歩を試みた。釣り糸を垂れる市民の近くに行こうとして、5分ほど歩いたところで必死で走って来た党幹部につかまった。

◆「ピョンヤンにはいろいろな人がいる。あなたが日本人とわかれば、危害を加える人もいるかもしれない。入国を認めた以上、客人の安全を守るのが、私たちの仕事です」トイレ行き厳重警護をいぶかる日本人ファンに、あの時私が言われたことと同じせりふが投げられたかもしれない。

◆ピョンヤンには、確か「少年中央野営所」というのがあった。登山、海洋生活の二つが基本で要するに日本のスポーツ少年団似たようなものだったと思う。1957年、「金日成同志の指導で」建てられた、と聞いた。「二種類の野営生活があります。2週間の長期野営、2日だけの短期野営。お金はいっさい国家が出します」との説明だった。「子供たちには何も惜しんではならない、との首相同志の教えにより、子供たちは何ひとつ不自由ない生活を送っています」と、どこでも付け加えられた。

◆ピョンヤンに入るには一苦労だった。当時、日本と中国は国交回復していなかったので、まず香港に飛び、歩いて鉄橋を渡って中国に入国、その後広州から北京へ列車で出たのである。さらに北京から国際列車で鴨緑江を渡り北朝鮮に入ったのだが、途中、深夜、名も知らない駅に停車した時、禁止されていた窓をわずかに開けてみて驚いた。真っ暗闇の中、プラットホームには無数の人々がうごめいているのだった。市民の貧しさ、移動することの制約がいかに大きいか、垣間みた気がした。

◆1か月あまりの滞在の間、板門店、元山(ウォンサン)、開城(ケソン)などを訪れたが、終始、緊張していたと思う。どこでも金日成を讃えながらの歓迎の言葉が待っていて、ウソでないお礼の言葉を返すのがひと苦労だった。どんな官製のイベントにも真実はある。メモは何冊にもなり、ルポを書くつもりが、帰国直前、新聞社の韓国支局が追放される事件が起こり、とばっちりでなんと「いっさい書くな」となった。

◆帰路、再び鴨緑江を越えて北京に出た時、文革の最後の時期で往路はあれほど暗く感じたこの首都(現在の発展が信じられない貧しさだった)が明るく身近に感じたのを忘れられない。

◆仲間たちと地平線会議を立ち上げたのは、その7年後のことになる。自由に動けることのありがたさを常に確認すべし、と時々言い聞かせる。最近ではどこでも野営することが楽しいなんて元気者がいるが、ピョンヤンの「少年中央野営所」に野宿野郎が体験入所する日が来たら面白い。

◆その野宿編集長加藤千晶さん、大西夏奈子さんを中心に、今月は変わった地平線通信を、きょう同じ日に出します。つまり2号同時に刊行する。顛末はその「水増し号」に。ご覧なされい!(江本嘉伸


先月の報告会から

フクシマ回覧板(ライブ)

滝野沢優子 上條大輔 高世仁

2011年10月22日 14:00〜18:00 新宿区スポーツセンター

■3.11以来、津波、原発が主題となった感じの地平線報告会。4月に新社会人になったばかりの私にとってその内容はもっぱら通信のレポートが頼りだったが、10月は土曜日の午後とあって、参加できた。それも「福島回覧板!」と称する、4時間のロングバージョン。思わずレポートを引き受けてしまった。

◆報告者は、動物支援でおなじみの滝野沢優子さん、原発事故渦中の福島県南相馬市にお住いの上條大輔さん、そして4月にチェルノブイリで取材をされた高世仁さんのお三方だ。

◆トップバッターの滝野沢さんは、まず福島の地形の説明から始めた。「テストです。東電福島第1原発はどこの町にありますか?」といきなり聞かれて会場は一瞬絶句。答えは「双葉町と大熊町にまたがっている」、なのだが、原発事故以来頻繁に耳にする現場の地名、位置関係が相当曖昧だった事に気づく。

◆滝野沢さんは原発から70km地点の中通り天栄村在住。震災当日、震度6強の激しい揺れに家は「大規模半壊」住宅に。居住は可能だったが、原発事故の追い打ち。情報が錯綜する中、車に物資を詰め込み逃げる準備をした。しかし、ガソリンが確保できず、とりあえず様子を見る事に。そうするうちに「この状況を収束まで福島で見届けてやろう」と思い始めた。東京出身で、福島に移り住んで6年。原発の直接被害者ではない。「不謹慎かもしれないが、ひとりの地元民として冷静に福島を見れるんじゃないか」という考えに至った。

◆ここから震災以降の福島での日常が語られていく。震災の爪痕は今も色濃く残り、津波で壊滅的にやられたいわき市の出張セブンイレブンの店舗には、屋根のみが残る建物の下に物が並べられ、被災海岸近くの絶壁には工事中の小型クレーン車が宙ぶらりんになったまま。ショッキングな震災・津波被害の現状が次々と映される。

◆天栄村で貸し出される線量計で滝野沢さんは、家の周辺、そして被災地を測定、ほんの数百メートルで劇的に線量が増減していることがよくわかった。「福島民友」や「福島民報」など地方紙の記事も紹介された。東京周辺で手にする新聞とはまったく違う紙面で「除染」や「補償」に関する記事が断然多い。

◆放射能を避けて避難した先がさらに汚染がひどく再避難するケースもあるそうだ。逆に、同じ福島県内でも会津地方はほとんど汚染されていない。そういう現状を、大阪生まれ、香川県で学生時代を過ごした私を含め日本人はどれぐらい知っているだろうか。

◆報告は、動物たちの救護の問題に入り、避難区域になって人がいなくなった町の、目をそらせない現実が突きつけられる。無人の町や村で、動物たちは、餓死、共食い、野生化、などまさにサバイバルを強いられている。いたましい、様々な動物の死体。

◆飼犬などは大人しく家で待っているケースもあるが、保護する時はガリガリで皮がアバラにめり込むようである。保護した動物はシェルターで預かり、飼い主の元や里親に渡されていく。現場には色々な正義があり、良かれとボランティアが家畜を解いたり、保護するのだが、実は飼い主さんが定期的に家に帰宅した際に餌をあげていたりする。

◆そこに何も規定は無い。各々が正しいと思う行動をするしかないのだ。滝野沢さんはそこで餌をもらえ、生活できているのなら保護の必要はないと考えている。そして連れて行く際にはきちんと連絡用の紙を家に貼っていくことが重要だ、と。環境省も福島県も動いていはいるが、保護頭数は少なく、あまりに非効率という。ボランティアの活動がいかに重要か、ということがしみじみ理解できた。そして、「この子も里親の元で幸せになりました。」と一頭の犬の写真を見せながら語る滝野沢さんの横顔は本当にやさしそうだった。

◆続いて南相馬市から来られた福島県歴15年の上條さん。原発被害の当事者であり、震災直後から現在に至るまでが生々しく語られる。上條さんはNPO法人の経営者で、環境整備(木を伐採した後の山を片付けて木を植える等)と通所の障害児福祉施設を運営している。施設はご自身が荒地を5年かけて整備した。

◆自宅は原発から28km、会社は31km地点にある。地震当日は環境整備関係の仕事で山にいた。突然下から上がってくる山鳴りがし、「これは大きな地震が来る」とすぐに車に戻るとすごい揺れがきた。余震で道路が「波打ち」、家が崩れていき、車が左右に揺れる中、帰社した。

◆上條さんの決断は早かった。工学部出の社員からいち早くドイツなど海外情報を得、今回の原発事故の深刻さを確認した。海が迫っていたこと、山に大量の花粉が落ちていたことから「大変なことになる」と野性の勘を働かせ、2日目の夜にはマイクロバスに人間13人、犬9匹を乗せて福島を脱出、埼玉に避難した。さらに、ネット情報から誰よりも早く線量計を入手していたというからすごい。

◆日ごろの準備と判断の速さだった。上條さんは自分の社員と自身の目を信じている。福島でも原発の危機を感じていた人は少なくはなかっただろうが、脱出した人が少なかった。理由は、「ガソリンがない」。上條さんの施設には非常事態用に食糧、燃料、発電機を常備しており、何かあった時に自分たちだけで生き伸びられる「備え」があった。県外に出る道には途中でガス欠となった車が幾つも路駐されていたそうだ。

◆震災後の行政の対応は確固としたものがなかった。5月頃に31km地点で放射線量が3μSvであっても、30km外であるので避難の必要はないとか、年間放射線量20mSv では安全だとか、風向きがどうだとか、曖昧な返答ばかりであった。最近になってようやく会社も補償対象になった。

◆上條さんの精神は、「困っている人がいたら助けずにはいられない。自分にできるならば助けなければならない」。人にはそれぞれに技術・才能があってそれは何に使うための物か。上條さんには初対面の子供とすぐに仲良くなれる特技がある。だからそれを生かして人の役に立ちたい。

◆今、福島に留まらざるを得ない子供たちを週に一度でも県外の安全な場所で遊ばせる場所を作りたいと考え、活動されている。当面北海道に拠点を持ちたいそうだ。日本が正に「想定外」の混乱状況のなか、何が正しくてどう行動するべきか。信じられるものは「前例にない」しかし、それぞれの正義をもって動物を助け、人を助け、色々な活動をされている人の存在だ。豊かさに慣れた私たち、今一度何の飾りもない「素の自分」に何が出来、どうするべきなのか、考え、行動することが試されている、と思う。(山畑梓

   ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

■休憩を終えて報告会は後半へ。DVD「チェルノブイリの今、フクシマへの教訓」の小児甲状腺がんについてのパート視聴に続き、このDVDを制作した高世仁さんのお話。福島の原発事故の状況はチェルノブイリのデジャブのようだと高世さんは、まず強調する。

◆キエフ郊外でインタビューをした一人目のおばあさんは、娘を甲状腺がんで失っていた。本来小児甲状腺がんは非常に稀な病気だが、チェルノブイリ原発事故以降周辺地域では急増した。現在は子どもの時に被ばくした人の発病はあるが、小児甲状腺がんは減少している。事故直後に子ども達にヨウ素剤を飲ませていれば、甲状腺への放射性ヨウ素の吸収が防げただろう。しかし当時のソ連政府は国民がパニックに陥ることを恐れ、汚染状況を隠し、避難なども早急に対応しなかった。その結果、被害が拡大した。

◆福島でも事故当時同心円状に避難区域を設定したが、飯館など汚染地域をカバーできていなかった。これからさらに避難、移住、補償等、チェルノブイリで起こった問題はフクシマへの教訓になるだろう。 そして今後は汚染地域にいた人々、特に子ども達の健康チェックを行っていく必要があるという。

◆チェルノブイリで甲状腺がんを患った子どもの多くは、思春期を迎えると結婚や子どもを産むことへの不安に突き当たる。何万人、何千人に1人というと統計的で無機質な数字だ。しかし実際には一人の生きた人間がそこにいる。人が成長する中で抱く、大切な人と結婚し、子どもを産み、育てたいという希望に対し、原発事故は25年経った今も暗い影を落とし続けている。

◆放射線の影響は二種類ある、と高世さんはいう。1つは急性症状。強い放射線に当たると髪の毛が抜けたり、歯茎から血が出たりする。もう一方は弱い線量による被害。長い時間をかけて影響が現れ、主にがん発症率が高くなる。低線量の影響の場合、発症には至らない場合も多いため、そこにとどまるか、移住するかという選択の自由が生じてしまう。

◆移住を選択できるのは経済的余裕のある人や、他の地域に移っても仕事ができる技術を持った人に限られる。汚染地域で暮らさざるを得ないのは、社会的弱者が多い。社会福祉が手薄になった汚染地域でそうした人たちが暮らしていけば、放射線の影響だけでなく、必然的に病気の割合が高くなる。原発事故は格差の問題も内包している、と高世さん。

◆放射能汚染によるリスクと、故郷を離れるリスクがある。特にお年寄りの場合は長年住み慣れた環境から離れて暮らす事に大変なストレスを感じるという。ストレスの影響は放射能の影響以上に強い場合もある。チェルノブイリには今も立ち入り禁止区域に住み続ける老人達が多くいる。強制移住させられたが結果的にストレスから来る病気で亡くなった人もいるという。

◆最後は三人のゲストがそろい、個々の立場から話を進めていく。まず滝野沢さんの感想。滝野沢さんが暮らす天栄村は原発から約70km離れているので、『前線』である南相馬に比べて当事者ではない感覚があるという。しかし、だからこそ福島全体のことを客観的につかめ、今の状況はテレビやラジオ、ローカル新聞を通じてかなり理解しているそうだ。

◆上條さんはチェルノブイリのDVDを観て、「福島の今と未来が全て詰まっている」と感じたそうだ。ウクライナで障がいを持った子どもが生まれてくる率が高くなっているのも放射能の影響だと言われている。今後、福島でも同様に障がいを持った子どもが増えるのではないかという心配を伝えるため、知人に高世さんのDVDを配ったという。

◆NPOのリーダーの視点から、市町村長、県知事の行動にも意見が及ぶ。賛否両論あるものの、飯館村村長の判断は村を存続させるためには正しかったと隣の南相馬市民は評価しているそうだ。政府の指示に関係なく子どもと妊婦を避難させ、村の将来を担う人材の保護を行ったのだ。

◆放射能の健康被害については、研究者によって答えにひどく差があると高世さんはいう。チェルノブイリでは内部被ばくを恐れ子どもへの牛乳や野菜の摂取を控えた結果、カルシウムやビタミンの不足が問題になった。また野外で遊ばなくなった子どもは免疫力が低下したそうだ。放射能汚染への対応には総合的なバランス感覚が必要だと感じた。

◆チェルノブイリの人々はヨウ素を多く含む海草類の摂取量が極端に少なかったため、事故で拡散された放射性ヨウ素が甲状腺に多く吸収され被害が拡大した。日本人は海草類の摂取が平均的に多いので、その点ではまだ救いがあるという。

◆後に、後戻りできない放射能汚染時代に入ったからには、「明るく生きる」ということも精神衛生上必要なのではと高世さん。人生における価値観は人それぞれ異なる。リスクは承知の上で人生の最期を故郷で迎えたい人、何らかの都合で移住できない人、子どもの健康のために故郷を離れる人。政府は汚染地域に暮らす人々の多様な価値観を受け入れ、出来る限りサポートをしなければならないと感じた。(山本豊人


報告者のひとこと

まだまだ頑張って生きている命。一匹でも多く救いたい!

■あっという間に8か月が過ぎました。福島にはもうすぐ冬がやってきます。原発や大震災のニュースもずいぶんと少なくなり、落ち着いてきた印象ですが、状況は好転したわけではまったくなく、最近の福島では「除染」、「補償」などが大きなキーワードになっています。

◆私はといえば、相変わらず福島に留まりペットレスキューのボランティアなどをしています。去年までは犬の写真などを撮りに年に2度ほど海外へ出かけていたのですが、震災後はそんな気になれず、それどころか福島から出る回数も減りました。今の福島を見ておきたい。そんな思いが放浪癖を抑え込んでいるのでしょうか。

◆先日、江本さんにも言われて改めて自覚したのですが、私は地震の被災者(自宅が大規模半壊)ではありますが、津波や原発で被災したわけじゃなく(放射能汚染もあるものの避難するほどではない)、それでいて被災地近くに住んでいるからライブな福島を実感できるし、被災者との接触もあって彼らと気持も共有できる。福島ウォッチャーとしては絶好のポジションにいるのではないかと思うのです。

◆子供もいないしこれから生むこともないから、放射能汚染に対してもそれほど神経質にならなくてもいいし、いつでも福島を脱出できるという身軽な状況でもあります。

◆ところで、最近のペットレスキュー活動はちょっと進展がありました。葛尾村や飯館村、浪江の津島地区など、放射線量が高くて住民が避難してしまった場所に残された犬猫への給餌活動を効率よく行うために、団体の枠を越えたボランティアのネットワーク作りを進めています。それと同時に猫のTNR(去勢・避妊をしてからもとの場所に戻す)の計画もあります。シェルターで保護しなくても、生まれ育った環境の中で一代限りの生を全うしてもらおう、というわけです。

◆また、20km圏内からのレスキューも続けています。先日は浪江から子犬9匹と母犬などを連れ出してきました。そのとき人間が誰もいない「死の町」でテントを張って泊まりましたが、まだまだ頑張って生きている命が少なくないこともわかりました。みんな、ボランティアや心ある原発作業員、警察の方などが置いていく餌でなんとか命を繋いでいます。本来ならもっと行政が動くべき問題なのですが……。とにかく、今後もいろいろな方法を駆使して一匹でも多くの命を救っていきたいと思っています。(滝野沢優子

南相馬は紅葉が進み素晴らしい景色に━━みんな忘れないでください!

■皆さん、お元気でしょうか? 地平線会議で発表をさせて頂き、そして夜の懇親会で力をもらい信念を貫く事を再認識し意気揚々と新潟経由でその後南相馬に一度帰りました。南相馬では話題に上がったように避難区域が解除になり学校や保育園が始まりました! しかし市民の多くは相変わらず戻ってこない人がいてまた日中外で遊んでいる子供もおらず正直何の意味があったのか? と思っています。

◆休止している施設再開移転に向け隣市町村、相馬市(原発から約35キロ)新地町(約40キロ)の国道沿いの巷では空間線量が低いと聞いて行ってみました……しかし!なんとどちらも空間線量は高く!地上1cmでは1.3μを超す高さ! やっぱりという感じです。まぁこんなもんだろうと思っていましたが。

◆最近の福島市民は地域の復興の名のもと様々な活動をし、戻って来い的な動きからもう安心原発収束、身体に問題無いみたいな感じです。自分がおかしいのか? 他人がおかしいのか? わからなくなりそうです。今また除染問題や東電の補償問題次から次と様々な事が実際に起きている次第です。

◆ここ数日間で南相馬は紅葉が進み素晴らしい景色になり、この素晴らしい景色の陰には放射線が……と思うと悲しくなってきました。この問題を決して忘れないため、今後の日本の為、次につながる一歩の為に命の大切さを訴えていきます。また地平線会議呼んでください!みんな忘れないでください! 震災を、そして原発事故を! 僕の信念は負けません!(上條大輔

「柔軟な避難」を粘り強く要求した、飯舘村・菅野村長の戦い

飯舘村の菅野典雄村長は「放射能の害よりも避難の害の方が大きい場合だってある」と公言して物議をかもした。でも、これは的を射た指摘だったと思う。避難せよというのは簡単だが、避難は巨大なストレスを住民にもたらすのだ。

◆原発事故から1ヶ月が経った4月11日、飯舘村は、政府から突然の全村避難指示を受けた。菅野さんはこれに抵抗し、「柔軟な避難」を粘り強く要求した。避難は「精神的、肉体的、経済的、さらに子どもの教育までもリスクを負う。避難によって生活の安心を崩すリスクが考慮されていない」からだ。牛もいるし会社もある。補償もないまま村民を避難させるわけにはいかないと菅野さんは考えた。

◆実際、他の自治体では、避難の結果、亡くなった高齢者が出ており、家族は分断され、多くの人々が失業で収入と生きがいを奪われていた。菅野さんは、村民がばらばらにならないよう、車で1時間以内に避難場所をさがし、終末期含め107人の高齢者が入居する特養施設「いいたてホーム」や複数の工場を村に残す例外措置を認めさせた。

◆従業員は車で通うことにして550人の雇用を守る。牛の補償についても、交渉を重ね、成牛1頭100万円という高い金額で買い取らせることに成功。さらに、空き巣対策として、村を巡回する「いいたて全村見守り隊」を結成し、村民400人(多くは中高年)の臨時雇用を生み出した。

◆この間、交渉と対策に時間がとられ、避難が終わったのは、政府が指示した「1ヶ月以内」から大幅に遅れて6月下旬になる。菅野さんは「人殺し」とまで非難された。チェルノブイリ事故の汚染地では、住民は「町の発展をめざす」か「はやく移住したい」かに分かれ、毎回の選挙の争点になっている。事故から25年も経つのに、である。故郷からの避難・移住が、いかに難しい問題かがわかる。

◆菅野村長は「2年で村に帰る」という目標をかかげる。実現は難しいと思うが、このスローガンが村民を力づけていることも確かだ。今回の事態はまさに未曾有の出来事。唯一の「正解」があるわけではない。模索を続ける飯舘村の今後を見守りたい。(高世仁


地平線ポストから

浜比嘉島最後の幼・小・中合同運動会に行ってきました

■10月16日に浜比嘉島の比嘉中学校校庭で、島で開かれた、島で最後の幼・小・中合同運動会に行ってきました。当日朝に伊平屋島を出てお昼時に到着。幼稚園児と小学生が披露した比嘉区の伝承芸能パーランクーの演技ではジカタを務める外間夫妻の三線を聞けました。

◆中学生が演じた浜区のチョンダラーの芸能は地元のおじいの歌声が素晴しかった。職域リレーにはちゅら海ファームチームで参加。校歌に会わせて踊るダンスも踊りました。地域に密着した、こうした芸能の継承や文化活動が、学校統廃合によって廃れない事を祈るばかりです。

◆地平線あしびなーの時に比嘉小に務めていた大場先生がいらして熱心にビデオを撮っていました。「閉校の事を思うと昨日から泣きっ放しなの。でも記録ビデオを残したいので今日は泣かずに撮影してます」とのことでした。来年4月からは平安座島の学校に統合されるそうです。事情はともかく、笑顔と歓声に満ちた良い一日でした。(長野亮之介

ぶっつけ敢行、四国八十八ヶ所めぐり

■こんばんは。山辺です。いまさっき1週間ぶりにフロに入りました。なんでかというと四国八十八ヶ所めぐり、いわゆるお遍路さんをしているからです。今日で28日目。53番札所まで来ました。もうすでに3分の2をすぎ、最近は1日に40kmは歩いているので、今月中には結願出来そうです。

◆なんでまた、お遍路を始めたかというと、10月はじめ、義経の史跡を見に香川県屋島に行った時、山のてっぺんに屋島寺というお寺があったんです。その寺が八十八ヶ所めぐりのひとつで、ここで初めてお遍路さんをみた僕は「これや!」と思い、1週間後、一番札所を訪れたんです。何の下調べもなく来たからわからないことだらけ。とりあえず地図と衣装を買い、キャンプしながら歩き始めました。

◆食べ物探し、寝床探しに苦労してますが、何も知らないおかげで、新鮮で発見の毎日です。さらに「お接待」という風習にも助られています。お茶、お菓子、お金。バナナを一房くれた人もいました。最初はびっくりしたけど、今はとてもありがたいです。何も調べず来たせいで情報がなく不便ですが、地元の人に聞いたり、同じように歩いている遍路さんとの情報交換で進めている今回の旅こそ、旅の原点ではないか!!と一人悦に入って満喫しております。ジイさんしか歩いてないのが残念ですが(笑)。峠を越え、マムシに驚き、ムカデに咬まれ、ヘロヘロのペッコペコで寝床を探す、9割以上が辛く足が痛い毎日です。フロにも入れず、洗濯も出来ない僕は、きれいなドブネズミより汚い格好で歩いてます。だけど、札が集まる楽しみ、メシ食って眠れる嬉しさ、人と出会う喜びを感じながら、明日からも歩いて行こうと思います。この経験は生涯の良い思い出になる、と感じています。(山辺剣 11月13日夜)


[先月の発送請負人]

地平線通信384号の発送(11月12日)に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。白根君はペルーから直行の参加です。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 村田忠彦 三五千恵子 杉山貴章 白根全 久島弘 江本嘉伸


「片づける」ことは「なかったことにする」ことに通じているのだ。どうすればかつてあったものを記憶しつづけることができるのか━━福島、宮城の被災地を走って考える
宮本千晴

 10月半ばの土日、はじめて大震災の被災地を訪ねることができた。江本が誘ってくれ、道や村々を熟知する賀曽利や三輪や落合君、そして福島第一原発事故被災者でもあるウルトラランナーの渡辺哲さんたちが車に乗せて連れていってくれたからだ。わたしにとってはすべて初めて訪ねる土地になる。

 深夜に四谷を出発し、茨城県北端にある未明の平潟に着く。福島県に入り勿来港に出て夜が明ける。途中から雨になる。小名浜?塩屋崎?四倉?久之浜と、まだ破船や廃屋も残るいわき市の海沿いの道を北にたどって広野町の北端で止められる。第一原発から20キロ圏内の立ち入り制限地域の関、広大な東京電力広野火力発電所脇に作られたJ-Villageの側だ。グラウンドはびっしり二階建ての仮設アパートで埋まっている。原発事故処理で働く人たちの宿舎だという。

 引き返して雨霧に暗い下浅見川の浜を見て、宿のある四倉の仁井田まで南下し、また荒れる海を見た。津波を見に出た旅客たちが何人も流されたという海だ。ここが太平洋であることを実感する。そしてまた被災地復興の手だても土地ごとにみんな違うのだとも実感した。

 一階の畳上まで津波が来たという横川荘に泊まり、女将の旅館再開の話を聞いた。

 翌日は晴れた。四倉から国道399号線に出て、川内村?都路?葛尾村?飯舘村と、20キロ圏外、30キロ圏内の阿武隈山地の村々を通りすぎる。出てしばらくは田んぼに刈り取られた稲があった。杉の植林の多い急峻な山地を過ぎ、山々がゆるやかになって色づきはじめると、里に出てまた峠になる。村ごとに成り立ちやなりわい、山地の経営が違っていたんだなと想像させる村々である。家々が何事もなく立っている。しかし田畑にはまったく作物がない。人がいない。車さえ出会わない。

 飯館村に出るとノアザミの咲く道端にモニタリングスポットがあった。空間線量はこのところ10μsv/h前後となっている。田畑は荒れたままだ。ひょっこり、昔の賀曽利君を思わせるようなライダーが古いホンダに乗って現れた。ユーラシア大陸を北回りで走り抜けて北から日本に入ったというギリシャ人だ。心がなごむ。

 飯館の役場に行ってもっと驚いた。しゃれた役場前の広場に観光バスが停まっていて、視察に来た人たちが線量計の周りで写真を撮っているのだ。日曜日なのに役場が開けてある。周辺のちょっとしゃれたデザインの施設にはたくさんの車があって建物の中には大勢の人がいて何かをしている気配がある。

 ここは違う。そう思った。この施設群の資金はどこからか。センスはいいが安くて地元の材を使っているようだ。これはひょっとして自力ではないか。

 そうであった。後に南相馬の上條さんから飯館はまったく交付金は受けていなかった村であり、いま村民に村を捨てさせないためのさまざまな工夫と戦略があるのだと聞いた。ここには高世仁さんがチェルノブイリの周辺で撮ってきた、あえてふるさとを選んだ村民たちのしたたかな自然さ、に通じる本質的な何かへの洞察と覚悟がある。

 それから眠ってしまった。目が覚めると再び黄金色の田んぼのそばを走っており、やがて湖の中にまだ流れた家や車が散見される相馬市の松川浦に出た。それから北の新地町の海辺に行った。

 新地は名前のようにいつの時代か湿地を新しく干拓して水田にし、堤防を築き、港をつくり、多少の土を盛って新しく人が住み着いた土地だったのであろう。そういう新旧の町の歴史が一望できるかのように、新しい土地の地上にあったものはすべて壊され、なくなっていた。ぼうぼうと繁った草原のあちこちにコスモスの花が咲いており、そこに人の生活があったことを告げている。

 津波は残酷だ。ある高さで土地を区切り、仕事も財産も生死も分けた。それははまた人が住み着いた順番や事情を分ける線でもあった。新しくできたものが、最初からそこになかったかのように失われたことによって、その向こうに、集落を長くその高さ以上に維持しようとしてきた歴史、海の脅威に対する村の記憶が風景として見えることに気づく。

 しかしそうした制約はあるとき守りきれなくなる。新しい土地に出るしかない人は多い。そして出るからにはリスクを承知で覚悟していた人もまた多かったのであろう。谷地小屋の漁港には予想以上に多くの漁船が並んでいた。

 青空の下で白く無傷だ。よくもこれだけ助けたものだ。大勢の男たちが地震と同時に港に駆けつけ、もやい綱を叩き切って沖に向かった。話を聞かなくてもその情景が浮かんでくる。

 だが、ここには、小舟がない。漁具がない。小舟も漁具も家も、そして多分、家族の誰かを守ることができなかったのだろう。

 壊された防波堤を見た。台風の波くらいはなんとか耐える造りなのだろう。しかし基本的には薄いコンクリートの板を斜めに砂中に差し込み、後に砂を詰めただけのものだ。揺られて背後が液状化すれば、一押しで倒れてしまう。津波の被害にもまた人が負うべき責めがある。

 欲張って北に急ぐ。阿武隈川を渡り、仙台空港の下をくぐって、内陸の道端にまだ残る舟や建物の残骸を見ながら夕暮れの閖上(ゆりあげ)に着いた。

 何もない広さの中に、燃えない瓦礫を集め、盛り上げて、上から砂で覆って台形に固めた丘がいくつか見える。沖には鉄の塊のような丘もある。間に松の生えた草付きの小丘がある。その上から海の日和を見るために築いた丘なのだろう、日和山神社とある。登ると流された家々の土台の連なりがやっと見えてきた。

 被害の跡はすでにあらかた片づけられていた。そしてその跡を夏草が覆っていた。あたかも青々とした草原の広がりのようではないか。「片づける」ことは「なかったことにする」ことに通じているのだ。どうすればかつてあったものを記憶しつづけることができるのか。どうすれば災厄の恐ろしさを記憶しつづけることができるのか。

 ひとつ、われわれは死者の写真や映像を見ておかねばならなかったと思う。死者への礼、遺族への礼はもちろんある。それでももっとも忘れられない悲惨のイメージを日本人は共有すべきだったのだ。「なかったこと」にしないためには、繰り返さないためには。それが死者に対する最大の礼ではないのか。

 なぜ、見せなかったのか。これは人災以外、いやほとんど犯罪以外の何物でもない原発事故と同じ根を持つ。その醜悪な構造を共に作り上げ、よしとしたわれわれ自身の堕落・腐敗・硬直の結果だ。それに対するわれわれ一人一人の責務は「なぜ」を問いつづけ、見据えようとする決意ではないか。

明治、昭和の三陸津波、チリ津波と何度も襲われながら、なぜ町を山の中に移転できなかったのか
  ━━チベット人ジャーナリストの津波被災地取材同行記━━

■ダライ・ラマ法王は11月5日、石巻市で法要を行った。津波の被害を受けながら本堂が残った西光寺からは、がれきが片付けられ、建物の土台だけが残る門脇町が見える。震災前、ここは住宅のあいだに商店が混じるふつうの町だった。多くの仏教関係者、檀家に混じって一眼レフのカメラや三脚をつけたテレビカメラを持ったチベット人が4人。一見して日本人と間違えるのだが、彼らは法王の随行取材という名目で、チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサラから川崎市のTさんがほぼ自費で招いたジャーナリストたちだ。

◆法王は郡山市での講演の後、モンゴルへ旅立ったが、4人は東北の被災地を取材するために残ることになった。11月8日、私も4人に同行して岩手県の沿岸部を回った。

◆震災から8か月が経ち、釜石市も津波の被害を直接受けなかった場所には以前とまったく変わらない生活が戻っているように見える。が、市役所のある大町商店街は空き地と空きビルだけが残り、まったく人影がない。

◆解体予定の赤旗が掲げられたカラオケ屋の脇に残った街路樹に、小学校の家庭科の課題と思われるエプロンがひっかかっていた。一見何でもない光景の片隅に残った津波の痕跡を4人に説明しながら歩く。がれきが撤去され、街路が清掃された町並みからは、3月の被災直後の状況を思い出すのが難しくなってしまった。

◆テンジン・チェジョル・ラモは法王庁の公式カメラマン。32歳とまだ若いが、このプログラムへの参加は3回目で、4人のチームのまとめ役となっている。民間英文メディアの代表格、Phayulの編集長であるシェラップ・ウーセルも今回が2回目。昨年結婚したばかりだが、新妻が米国のグリーンカードを得てボストンに移住してしまい、毎晩Skypeでやりとりする日々。ジグメ・ツェリンとロプサン・チュダクの2人は情報外交局の職員で、それぞれTibet online TV、Tibet Netと映像やネットを使って対外発信を担当している亡命チベット政府の優秀な官僚たちだ。

◆ことごとく更地になってしまった大槌では、わずかに残ったビジネスホテルの建物に「祈」の旗が掲げられ、ボランティア基地として使われていた。地震の時、住んでいた人たちが津波から逃げる余裕はあったのか、どこに逃げたのか、子どもたちは無事だったのか、そんな質問に対して、岩手日報の写真集を開いて震災直後の空撮写真を見ながら答えた。

◆ジグメの息子たちはうちの子どもたちと同年代なので、そんな質問の気持ちがよくわかる。プレハブで再開した吉里吉里保育園の園庭で遊ぶ子どもたちを見つけ、悲惨な津波は報道で見たとおりだが、人々が復興のためにこんなに立ち上がっているとは知らなかった、と彼は話した。

◆田老の防潮堤の上からは、復興関連予算と再建計画とを待つ町が一望できる。明治、昭和の三陸津波、チリ津波と何度も襲われながら、なぜ町を山の中に移転できなかったのか。「たぶん町の人たちは森の木を切るのが嫌だったのだろう。でも今度は木を切って、移転するべきだ。切った分の木をここに植えればいい」とシェラップはチベット人らしい解説をしてみせた。

◆そのようになるかどうかは地元の人たちの意思次第だ。日本人はまさにそれを議論していると私は答えた。チベット本土では中国政府の宗教活動制限に抗議して、僧侶が焼身自殺する事件が相次いでいる。また10日の新華社電によれば、中国の新聞出版総署は「誤報」について罰則を盛り込んだ規定を定めたという。本土を追われた世界中に散らばったチベット人たちは今年4月の選挙でダライ・ラマ法王を継承する政治的リーダーとしてロブサン・サンゲを新首相に選び、新しい世代のチベット人たちが国づくりを進めている。

◆「くに」を持たないチベット人たちにとって、言論の自由と進歩的なメディアは国際的な支援を受け続けるための「武器」でもある。ほとんど独力、時間も費用も持ち出しで、彼らの来日プログラムを続けているTさんに敬意を表したい。(落合大祐

「がんばってる!会津」━━伊南川100kmウルトラ遠足(とおあし)報告

■10月22日、伊南川沿いで行われたウルトラ遠足に参加した。この川は尾瀬の燧ケ岳を源にして福島県南会津を北上している。福島県は海岸部から浜通り、主要都市のある中通り、内陸部の会津地方と3列に区分される。南会津は会津でもさらに奥にあり、秘境中の秘境と言われた時代も長かった。

◆数年前地元の酒井富美は地平線ランナーの鈴木博子を講師にして秘境ならではの紅葉を愛でながら走るトレイルランを企画した。参加人数が少なかったので、私はてこ入れを期待してウルトラ遠足の神様である海宝道義を誘った。この地が気に入った海宝さんは「ここで100km遠足をやろう!」。

◆2010年、海宝マジックが功を奏して374人が集まり、第一回大会が開かれた。わずか1年の準備でこれだけ大人数の大会が開けるとは、関係者ならわかるが奇跡的なことだった。そして今年3月、大震災、東電の原発事故でほとんどの行事が自粛、中止を決めた。私も「物見遊山の遠足なんてとてもできない!」という気分だった。

◆しかし3ヶ月経った6月、会津が原発の風評被害を受けているという話を聞き、「そんなバカな、放射線量は東京と同じなのに!」と反発心をもった。放射能風評を蹴散らすために、私は参加を決めた。しかし参加者は昨年よりも100人ほど減り、282人になった。一度およんだ風評は容易には取り除けないのだ。

◆地平線会議と伊南川は因縁が深い。2000年9月、酒井富美を中心に「地平線報告会in伊南村」が行われた。国の重要文化財である「大桃の舞台」を舞台に、川をテーマにして森田靖郎、賀曾利隆、山田高司らが地元のサンショウウオとりの名人、星寛さんたちと語り合った。報告会に江本と三輪は、群馬の鳩待峠から尾瀬ケ原をぬけ沼山峠から大桃に走って参加した。

◆翌年5月、記念植樹した「エモ桜」が咲くと聞き、前年のお礼を兼ねて大桃を訪ねた。江本、三輪に加え中山嘉太郎とスキーを履いて再び尾瀬を超えた。ボケが進んだのでどの程度咲いていたか記憶にない。しかし帰路は原健次さんに御池まで送ってもらったこと、中山さんと二人で3本のスキーを担いで尾瀬ケ原を戻ったことは鮮明に覚えている。

◆原さんとはトランスエゾ555kmで出会った。1週間終始トップを走っていた彼と並走することはなかったが、ランナー、本職の科学者、ヴィオラ奏者、さらに博物学・植物学などどれをとっても超一流だということが感じ取れた。

◆しまなみ海道100kmの前日に二人で鞆の浦を歩いた。何回も来ているので自信はあったが私以上に詳しく「畏れ入りました!」との思いをもった。昨年の大会では寒いなか最後のランナーまで迎えていた姿は忘れられない。3月の大震災、原発事故以後、私たちは何を考え、何をしたらいいかわからない状態が続いている。もし彼がいたらきっと我々に的確な指針を示してくれただろうに。

◆海宝さんがここで100kmウルトラ遠足をやると決めた時に、私は沼山峠から旧沼田街道を駆け下るコースを提案した。2度の尾瀬から沼山峠駆け下りの快感が忘れられなかったからだ。しかし国立公園内を集団で走ることはまかりならん!とのことで、ここを走行禁止の登りとし、燧ケ岳を正面に見るシャトルバス道を下りにした。

◆上り下りコースはできたが、距離がまだ足りないので桧枝岐から小繋トンネルを抜け木賊温泉を経由する道を加えた。それでも5km足りないのでゴールの伊南小学校を横手に見て下流に進み、青柳集落を抜け久川城跡を回ってゴールにもどるというコースにした。遅いランナーにとってゴール地点を通過し真っ暗な城跡に登るのは「なんでこんなに意地悪な!」という気がするだろう。しかし暗闇を抜けるとライトアップされた大銀杏が眼下に現れる。大感激するはずだというのが海宝さんの演出だった。コースづくりはまさにデザインの仕事、楽しい体験をさせてもらった。

◆さて出発。朝5時、暗く小雨の中、LED電気をつけてスタート。401号国道に出ると内川交差点まで土石流の跡、道路も半分が流され交互通行の所も多くあった。大桃の舞台は何とか免れていたが、周辺には土砂が積み重なっている。全壊した家屋、道路に流された民家、別荘など、先日訪れた福島海岸部の津波跡と変わらない。7月末の豪雨で大変な被害を受けていた。もし大震災、原発事故がなければ大災害と報道されるような状態だ。

◆そんな中では、キツイとか苦しいなどとても言えない。ただ淡々と走るのみ。国道は30km地点の七入から山道になり尾瀬沼山峠をへて大清水に抜ける。この急坂が一番の難所のはずだがまだ前半、足は上がる。1時間半で沼山峠の休憩所に到着。ここから御池まで舗装のシャトルバス道を一方的に下る。昨年は紅葉真っ盛りだったが、今年は枯葉が目立つ。御池ターミナルからは国道352号線を下る。県境付近で橋が流されたため御池より奥は通行止。紅葉見物の車は少なく走りやすい。53kmの昼食地点まで7.5時間、予想よりも早かった。

◆我が奥さんのご宣託は「練習の3倍の距離は走れる!」。8月からトレーニングを続けたが、20kmが最長距離だった。今回は60kmの桧枝岐まで走れればOKという気持ちだった。しかし予想の60km地点まで来たが、体中どこも痛くない。仕方なくなにか止める理由が見つかるまで走ることにする。上り坂は急になり足は上がらなくなった。65km地点で車が止まり「のりますか?」。「もうこれでいいか!」一瞬甘い誘いに惑わされそうになったが「河村エイドまでは行けるゾォ?」とカソリ教祖の天の声がきこえた。

◆木賊温泉付近は賀曾利軍団の勢力範囲だ。不思議に足は軽くなり、83kmの河村エイドまで走ることができた。すでに薄暗かったが、河村邸周辺の杉は倒れたので空が開け、庭を覆う土石流が白く浮かび上がって見えた。その土砂の上でふるい地平線仲間の河村安彦さん(1983年3月「3度目のマッケンジー・二人の河下り」報告者)が温かいトン汁サービスをしてくれる。エネルギーゼロの体には嬉しい充電だ。でも「こんな非常の時に、遊んでる人の世話なんかしなくてもいいのに」

◆雨も上がり90km地点で降る星に後押しされて、泥道をトボトボ歩いていると、おばあちゃんが「待って?」と追いついてきた。「塩入だから嫌かと思ったけど、やっぱり食べて!」と飴を持って走ってきたのだ。一緒に歩いていた女性は泣き顔になった。「そんなに親切にしてくれなくていいのに」と。楢葉町で原発、津波の二重被災をし、今もいわき市で避難生活をしている地平線仲間の渡辺哲君も昨年以上のタイムでゴールした。

◆私もそうだが、参加した皆さん、福島会津を応援する気持ちを持ってきただろう。走ってみたら、沿道には「がんばってる!会津!」の幟がいくつもはためいている。「がんばれ!」と言いに来たつもりだったが、「大丈夫だよ、がんばっているから」と言われたようだ。わけもわからず「がんばれ!」など余計なこと言わなくてよかった。

◆完走できたので「100kmぐらい簡単だ!」と豪語しているが、実際は何回も止めようという気分になった。そんな時に走友の小森さんの言葉を思い出した。「三輪さんはビリになるのが怖いんでしょう。僕なんかいつもどん尻だったから、こわいものはないですよ」。彼の住む和歌山県田辺市も今夏の台風で大被害を受けた。

◆会津・福島の応援に来たつもりだったが、逆にさまざまな声が聞こえ、後押しされて完走させてもらった。被災した塩竃の酒蔵の「浦霞」を飲むぐらいで、被災地にほとんど貢献していない私なのに! いま「100km走ったって?それが何なんだ?」と問われたら、何と答えよう。ますます混迷が深まり答えがわからなくなっている。(三輪主彦

落ちていた「小さな毛玉」入りの財布にフクシマの動物たちを思う

■土曜日の午後に報告会が開かれるのは、まことに有り難いことであります。8月は久し振りに会の末席を汚してグレートジャーニー・関野吉晴氏の「生きている姿」を目撃するだけでも出掛けた甲斐がありました。

◆10月は天栄村村民の滝野沢優子さんも登場してフクシマの現状を話し合うとの企画なので是非とも参加する予定を立てておりましたが、諸般の事情で今回は欠席です。事情と申しましてもご心配は無用、妻子とも元気で、特に3歳半を過ぎた娘が元気過ぎるのが外出の妨げになっているような状態です。お父さん子にしてしまった報いとも申せましょう。

◆滝野沢女史が報告に立つとなれば、動物達の話になるのでしょう。福島県や県獣医師会などでつくる県動物救護本部が4月に福島市郊外に施設を設置して原発災害の被害者たる犬を保健所が保護して25匹で始まり、その後は、環境省と県が区域内で捕獲活動を始めて9月末時点で犬173匹、猫52匹の計225匹が劣悪な環境で命をつないでいるとの報道もありますから女史が「動物の目から見た原発」を語る場には是非とも参加したかったのですが、残念です。

◆10日ほど前のことでございます。娘を迎えに保育所に自転車を走らせていた時に年季が入った免許証を拾って珍しく警察官が詰めていた最寄の交番に届けまして、目出度く持ち主のご夫人の手に戻ったという小さな出来事がありました。

◆拾って住所と氏名を確認した折、異物が邪魔で実に読みにくく、路面を転がっている間に紛れ込んだにしては念入りに押し込んであるクリーム色の毛玉が気になり、住所・氏名を確認してから詰め戻しまして直接ご本人に手渡せればと思い、娘を前籠に載せて当該地名の新興住宅地を走り回ったものの番地が散らばって住人も見当がつかないという恐ろしい事態に困り果て、管轄の交番は常に留守であるのを承知の上で藁をも縋る思いで駆け込んで、幸運が重なりその日の夜に持ち主に返還されて悪評高い「個人情報保護法」を笑い飛ばして告げ置いた拙宅の電話にお礼の一報が入りました。

◆交番で中身を確認する作業に「立ち会い」、丁寧に四つ折りになった千円札が8枚、失効済みの免許証数枚やら古びたレシートやメモ紙など大事な物は何でも詰め込む人物だと誰にでも分かる内容物。警官に「小さな毛玉」も封筒に入れたことを確認して帰宅したのでありました。

◆落とし主の御婦人の話によりますと、案の定、人毛も混じった小さな毛玉は最愛の座敷犬が死んでしまい、呆然自失のまま弔った後で我に返って必死で犬が暮らしたカーペットの表面から小型犬特有の細く短い毛を、文字通り掻き集めて小さな毛玉が1箇だけ作れたのだそうです。

◆要は、小生が偶然に拾ったあれこれ詰め込んだ免許証の中で取り返しがつかない「物」は、その小さな毛玉だったのであります。着の身着のまま、やっと財布だけ持って住処を追い出された福島の犬好き、猫好き、牛、豚、鶏飼いの皆さんの気持を思いつつ、大急ぎで高級和菓子を持ってお礼に訪れた御夫人の嬉しそうな顔を心に刻んだ次第でございます。

◆先は長い戦いが続くのは分かっていますが、政治的問題で戦いの苦しみや期間が長くなるのは勘弁して頂きたいものであります。この7箇月、日本政府は一体、何をしていたのでしょう? 槌音高く復興の熱気があちこちに沸き立っていなければならないというのに……。

◆少し前の話になりますが、津波災害から立ち直ろうとする現地の様子を伝える讀賣新聞の特集連載記事の9月1日付け紙面に小生(4才までいわき育ちです)の従兄弟が写真付きで取り上げられておりました。いわき市で機械的に汚染区域の同心円内に取り込まれた久ノ浜町で個人スーパーを経営する二代目。あの大津波で自宅・スーパーが全壊した後、人が変わったように店と町の復興に取り組んでおりまして、家族も親戚一同も密かに「悪いことばかりではねえなあ」と言い合っているとか……。(中村吉広 越谷市)

津波に消えたK先生のこと、福島のおいしい「食」のこと

■父が相馬で生まれ、親戚がいわきに群がっていることから、戦争中私は福島に疎開し、四ツ倉町立大野第一小学校を卒業しました。当時は石城(いわき)郡大野村立第一小学校といいました。

◆最近小学校の同級生三人で銀座へ行きました。一人は有名な某海軍大将の甥、玉山鉱泉の御曹司で生涯新宿のデパートに勤務し定年を迎えた男で、彼の大学ゆかりの銀座のレストランで食事しました。もう一人は女性で歌手のペギー葉山が村に疎開していた関係で姉とともに付き人をしたこともある人。長く銀座の会社に勤務したということもあって銀座での会食となったのでした。

◆横浜の在に住んでいると、モンゴルには行くが銀座には行かないものです。すっかり現役時代の銀座とは変わってしまっていました。福島の受けた震災の話にはそぐわない場所と食事と思いつつも、これまでに何度もした思い出話とともに聞いた情報はとてもつらいものでした。

◆浪江町の死亡者名簿を新聞で追ううちに小学校5年のとき習ったK先生の名があったそうです。先生は私たち1組の担任でした。2組の先生がやってきて1組の生徒がやった悪事の犯人を言えというのに誰も言わなかったら連帯責任といって物差しでぴしぴし頭を叩かれた「事件」がありました。あの時、叩かれた後、K先生のおなかで泣いたぬくもりがいまも残っています。90に近いご高齢でした。息子さんは医者になられて立派だよ、といわれてもなんの慰めにもなりません。いわきの海岸では3名の同級生が行方不明なのだそうです。

◆昭和19年12月7日連日連夜空襲の東京を逃れ小名浜の伯母の家で一泊大野に疎開したとき、大洪水の爪痕が残り、田んぼには砂が入っていました。そして、そう遠くない昔、津波があり、久ノ浜町をおそったという話もまた災害伝説としてしきりに語られていました。今も昔も洪水と津波は同じ頃にくるのかとあらためて感心しています。四ツ倉から久ノ浜にいたる途中に引き潮のときに渡る場所があり、そこで母娘が津波にさらわれたというものでした。しかし、今回の大津波被害でこの話は「くさった」そうです。今回は比較にならない悲惨なものだったことが伝わってきました。

◆そういえば昨年9月20日で一年の漁を終えたという豊間の漁師さんが最終漁でとったウニで焼いたいわき名物「貝焼き」(今は小さなはまぐりにつめて焼いているが昔はホッキ貝の大きな殻いっぱいにウニをつめて焼いていた。焼きあがり寸前にちょっと醤油をさして食べる。とくに久ノ浜の海岸でウニをその場でとって焼いたのは絶品)をいとこの手配で江本さんの古希の祝いに買いましたが、いとこによるとその漁師さんは連絡不能になっているそうです。

◆たぶんあそこらはだめだろうというのがいとこの言でした。でも彼の最後の最後の漁の貝焼きをわれらが江本さんが召し上がったとしたら、せめてもの慰め、江本さんに徳があるとモンゴル的に言いたいものです。福島のサンマは今年も小学校の同級生から送られてきて孫たちと分けておいしくいただきました。わたしは妻の出身地鹿児島の水を送るくらいしか応援できなかったのにありがたいことでした。

◆小学校を卒業し、福島から東京に出てからは果物、サツマイモなど野菜、魚がまずくてとてもかなわない。これは本当の食事ではない。いつの日かあのまっとうな食事を食べる日がくると心のどこかで思って生きてきました。しかし、そんな日がこないまま人生のたそがれに入りつつあります。

◆福島が被災して私のこの信仰は大きな打撃をうけました。同級生も言っていました。さしみはひらめだ。赤身の刺身などは夏のカツオだけである、それもニンニクのおろし醤油以外うけつけぬと言うではありませんか。まさに現在の私の嗜好であり、独特のものと思っていたのが見事いわきの嗜好であったことに気付かされました。

◆むかし若い頃ヒラメが手に入るというのであの貧しかった冷戦時代のモンゴルでなんとか大連のヒラメを正月に手に入れようと熱中し、必死に輸送の工夫をしたことを思いだします。これも福島オリジンの衝動だったことをこんど知りました。時期により異なる品種が次々出る桃と柿とりんご。天津という桃など芯までピンクでした。おおきな渋柿の「熟し」。他に比べるものがありません。これは日本一のおいしい柿だよと欺され買ってもあの「熟し」には比べようもない。

◆福島は本当に食の豊かな県でこれを県民が他県に宣伝するでもなくいつくしんでエンジョイして来たのだということを今度の災害で思い知らされました。その福島が風評被害にあっており、他県の心ない同胞よりきつい排斥の攻撃を受けているとのこと、心が痛んでなりません。

◆江本さんたちが四ツ倉に入ったそうです。なにか自宅の勝手口に偶然知人たちがたむろしているような変な気分ですが、支援をしてくださるそうで、ありがたくジーンときます。平時なら近くの新舞子の松林には松露があり、小湖では昔ボート遊びができたし、おいしいアミがとれるのですがと申し上げたいところですが残念です。それもこれも自然災害のみならず東電の人災というのですから。以下絶句。(花田麿公 元モンゴル大使)


[通信費をありがとうございました]

 先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円)を払ってくださった皆さんは以下の方々です。中には、数年分まとめて振り込んでくれた方もいます。万一、支払ったのにここに記載されなかった方、当方の手違いですので必ずお知らせください。
大嶋亮太 中村易世 貝畑和子(10000円) 藤本亘 山本和弥 高野久恵(5000円) 菅沼進


6年ぶりの日本の秋、本当にこの国の風情は素晴らしい!
──2000日間でついに自転車世界一周達成!!

■秋も日に日に深くなって参りました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。紅葉前線と共に日本列島を下って来た私、去る10月29日、終に地元福岡で自転車世界一周の旅のゴールテープを切りました。2005年12月に始まったこの旅では、4つの大陸と日本列島を駆け抜け、ちょうど2000日間での世界一周達成となりました。

◆総走行距離は、予定を大きくオーバーしての80,700km! 2005年にスポンサー様用に作成した企画書には『目標4万km』と書いていましたが。当時は「地球1周分走れれば、世界一周と言えるだろう」くらいにしか思ってなかったのです。まさか2周を越えようとは……。

◆ゴールの瞬間とその前後の様子は、地元のテレビ局に取材して頂きました。先日、その様子が放送され、テレビに映る自分を客観的に眺め、改めて旅が終わったことを思い知りました。まだ実家の部屋で目覚めたことに驚く朝もあるくらいなのですが……。少しずつ旅の達成感を抱き始めたところです。これから始まる新しい生活・挑戦への高揚感が心の表層を熱し、少しずつ湧いてきた達成感が心の芯を温めている、そんな感覚に包まれています。

◆“熱”と言えば、この数日、微熱もありました。気を抜くと一気に脱力してしまいそうで、ゴール後も努めて忙しく過ごしていましたが、上述のテレビ放送の後、気が緩んでしまったのか、急に気温が下がったからか、体調を崩していました。2?3日の静養は、旅を終えて初めてのゆったりとした時間でした。きっと、誰かが『休みなさい』と言ってくれていたのでしょう。

◆体調もいくらか回復し外に出てみると、九州の山々にも紅葉の色が見て取れるようになっていました。6年ぶりの日本の秋、本当にこの国の風情は素晴らしい! 世界一周の締めくくりに日本縦断をしましたが、その4か月間の旅は、美しい日本の風景と日本の心を再確認しながら。3.11東日本大震災によって大きく変わった日本を感じながら、この国に生まれ、育ち、これから生きていく幸せを感じながらの時間となりました。

◆10月上旬の四国では、自転車でお遍路をしてきました。8万kmを走破し、5千m超の峠道を越えてきた私には、険しいといわれる遍路道も、さしたる難所ではありませんでしたが、しかし、そこは巡礼路!気楽な旅の時間とはならず、日々、生かされていることへの感謝を確認する時間となりました。時間と予算の都合でちょうど中ほど43番札所に至ったところで、旅の舞台を九州へと移し、先述の通り福岡で世界一周の旅を終えたわけですが、四国には旅の宿題を残しています。一度では達成できなかったお遍路。でも、それも良いのではないでしょうか? 残るお遍路は、またいずれ、私が日本での生活を再建し、慌しい毎日の中で感謝の心を忘れかけてしまった時に、改めて走りに行ければと思っています。

◆自転車世界一周の旅は終わりましたが、それはひとつの通過点でしかありません。この旅で得たものを次の自分に繋げたい。次の誰かに繋げたい。ライフワークと掲げる『体験発信』の活動に力を注ぎつつ、職業としての最終目標に掲げる『教師』への高い高いハードルを越える努力をせねばなりません。前者はすでに動き始めています。今後、大阪での講演会を皮切りに、名古屋や東京でも壇上に立つ準備を進めています。これからです! これから! 江本さん、地平線会議の皆さん、これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。(伊東心


十月詠
霧の海

金井 重

ダム青し 激しき風に 逃げまどう
    村落のみし 水面は満々

あかあかと 荒海染めし 入日追う
    早足の雲 ついに被いり

城下町 袋小路の 昼下り
    馬蹄の音に 追われ惑いし

山の上 空いちめんに 霧の海
    泳ぎうかびて 霧に憩いり

しめ縄の ゆれてる下の 小さき祠
    荒神様に プリンがひとつ

それぞれの 鳥のにぎわい 森の朝
    五重塔の 端然と建つ

つり鐘へ 撞木を放つ とき放つ
    重き響きに ゆられひたりし

原発に 水害地震の この地球
    さあ正念場 七十億人

「夜と霧」 リクェスト多し 図書館に
    見えざる市民の 顔見し心地す

アルプス越え ナイアガラ潜り もうすぐだ
    月の世界が 近づいてきた


[あとがき]

■10個の1が並ぶ11年11月11日11時11分、気仙沼の鹿折(ししおり)にいた。3.11当時、大津波に加えて町が炎上し、その痛恨の風景は映像で伝えられた。RQの活動拠点のひとつ、唐桑半島に向かう途中だったが、いまなお巨体をさらす「乗り上げ船」を目のあたりにして言葉がなかった。

◆漁船「第18共徳丸」330トン。気仙沼漁港の北500メートル、JR鹿折唐桑駅近くまで流され、動けずにいる。気仙沼市ではモニュメントとして保存する計画と早期撤去を望む声の両方があるらしい。

◆福島第一原発はどの町にありますか?との滝野沢優子さんの基本的な質問に答えられる人は手をあげてください。何度か近くに行っているのにいろいろな町と村の名が浮かんで即答できなかった自分が恥ずかしい。気をつけなければいけない。レポートにあるように、正解は双葉町と大熊町。

◆突然の「水増し号」、私もさきほどはじめて見ました。いろいろなセンスがあって地平線は面白いですね。(江本嘉伸

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

オセッカイのぬくもり

  • 11月25日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「今年2月に沖縄のオバさんから受けたお世話が、私の転機になった気がするんですよ!」と言うのは新垣(しんがき)亜美さん。数年前に父親を亡くし、気が塞いでいた亜美さんにとって、最初は御節介とも思えた親身な気遣いが、実はとても心を励まされるものと気づきました。東日本大震災後、何かできることはないかと3/25から現地RQにボランティアに入ります。以来、主に宮城県南三陸町を中心に現在まで8ヶ月に渡る長期支援を続けています。

「被災者の方々とのつき合い方だけでなく、次々と来るボランティアの方達との意思疎通も重要。一人一人の個性とどう向き合うか、日々手探りです。教員を志していた私にとって、教室でやりたかったことがここにあるような気がして」と亜美さん。

これまで剣岳の山小屋に住み込みで働いた経験や、屋久島に通った離島旅の経験も現地での生活に生きています。

今月は現地での越冬を前に一時帰省中の新垣さんに被災地での生活や心境の変化、被災者の現況などについて話していただきます!


地平線通信 385号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年11月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section