2012年1月の地平線通信

■1月の地平線通信・388号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月18日。2012年最初の地平線通信を送り出します。昼のニュースで、イタリア中部ジリオ島沖の地中海で座礁、横倒しになった大型豪華客船のことが報じられていた。「コスタ・コンコルディア号」なんと112000トン。事故のさ中、船長がいち早く救命ボートに移り、脱出した模様を伝える治安当局とのなまなましいイタリア語のやりとりが音声公開されたのだ。「いま、どこにいるんだ?」「実は船が沈みそうなので離れた。自分はボートで救助を指揮している……」「客を置き去りにして逃げるのか! 早く船に戻れ!」驚くべき会話である。なんだよ、自分だけ外に出てどんな指揮をとれるんだよ。

◆おとといだったか、夜のニュースではまだ傾いた状態だった巨大船が朝になったら完全に横倒しになっていた映像には、ほんとうにたまげた。氷山が近くにないだけで、船体としては、まさにタイタニックじゃないか。

◆以前に書いたことと重なるが、横浜生まれの私は、子ども時代から横浜港の大型船を見に行くことが楽しみだった。大桟橋は、高台の市営住宅から歩いて行ける距離なのである。うみの向こうへのあこがれは、そこでの船、それも大型船を見ることによってどんどんふくれていった、と思う。

◆だから新聞記者4年目になって故郷の横浜支局を命じられ、県警キャップの仕事を終えた2年目に「海クラ」担当となったのは嬉しかった。正しくは「海事記者倶楽部」。横浜税関の中にある港専門記者のたまりで、港と船の専門記者になったのである。いろいろな仕事がある中で心華やいだのは、豪華客船の入港だった。

◆当時、アメリカからの太平洋航路客船としてウィルソン号、クリーブランド号、フーバー号の3隻が活躍していた。私には豪華客船と見えたが、15000トン台で、スピードも出ず、次第に出番は少なくなっていった。航空航路の急速な発展がもちろん背景にある。後にウィルソン号の3倍を誇る45000トンの「キャンベラ号」(1960年進水)があらわれた時は、だから興奮した。丸ビルの高さの巨体はまさに見上げるほどだった。そう。巨大船はビルのようなのだ。

◆客船の衰退は、日本の発展と衰退にも微妙に関わる。間もなく公開される「ALWAYS 三丁目の夕日'64」という映画が話題になっている。「昭和39年──日本にオリンピックがやってきた! 三丁目のみんなは今日も元気です」という宣伝の言葉。「戦後19年目にして見事な復興を遂げ、オリンピックの開催国となった日本は、高度経済成長の真っただ中にあり、活気にあふれていました」と続く。

◆その1964年に新聞記者になった私は、「え?そうだったろうか」との感じを抱く。レスリング会場である駒沢競技場に毎日通った私には途中、「空を道路がふさいてしまった場所」が強烈な印象として残っている。六本木交差点周辺のことだが、あのようにコンクリートで固めてしまった町づくりに違和感を抱いたのだ。その後もコンクリート・ジャングルがあちこちに出来上がり、それが地方にどんどん広がっていったのは、見る通りだ。

◆「原発運転 最長60年」(朝日、読売)「原発寿命最大60年」(東京)の見出しが、きょう18日朝の新聞各紙の一面トップを飾っている。40年で廃炉を原則とし、1回の延長を認める方針を17日、政府が決めたという。原発はすぐにでもやめたい。が、廃炉にするにしても、どう閉じるか、気の遠くなる技術レベルが求められるだろう。東京オリンピックを発展の証明とする中で、いつの間にか原発という、深刻な事態を私たちは抱え込んでいた、という事実こそいま皆が理解するべきことなのだ、と思う。

◆きのう夜、滝野沢優子さんからメールをもらった。「双葉砕石工業の事件、東京でも伝わってますか? 高濃度に汚染された砕石を出荷してたのですが、採石場というのが、私がよく給餌に行く浪江町南津島(DASH村のあるところ)です」。そういえば、滝野沢さんの案内でその近くを通ったことがあったっけ。「数百メートル手前の牧場に、毎週のように行きますが、ここの雨樋で150マイクロシーベルトでした。その隣家では300……」

◆被災者が移り住んだばかりの「新築」マンションのコンクリートでさえすでに汚染されていたという強烈な事実。何もわかっていない。何もわかっていないまま、私たちは発展してきたのだな、と自分に言い聞かせる年のはじめである。。(江本嘉伸)


先月の報告会から

80,700キロの助走

伊東心

2011年12月23日 17:30〜20:00 新宿区スポーツセンター

■通信の裏表紙に描かれた画伯のイラストを見たとき「ん?」と思った。伊東心さんを女性だと勝手に思いこんでいたからだ。そして会場に着いて、また「ん?」となった。癖のありそうな顔に描かれたイラストとは別人の、真面目でおとなしそうな伊東さんがそこにいた。力の抜けた様子に、自信があるんだな、という印象を受けた。

◆伊東さんの自転車世界一周は2回に分かれている。前半は2005年12月に地元福岡からスタート。まずは日本の国土から外国を見るというセレモニーをしてからの出発にしよう、と対馬に渡り縦断。そこから韓国プサンへ。中国、アジア、中東、ヨーロッパ、ユーラシア大陸西端であるポルトガルのロカ岬を経て、西アフリカ。その後、北米をNYからロスまでトータル45533キロを3年2か月かけて走破。日本に一時帰国した後、2009年7月より後半スタート。アラスカから北米、中米、南米を縦断。2011年6月に帰国して最後に日本を縦断。計80700キロ。ちょうど2000日の旅だった。

◆伊東さんの自転車世界一周の旅は、面白い経験を積み、外国を紹介できる先生になる。という目的のための手段に過ぎない、と言う。過去の地平線報告者で報告内容が手段であったという話は聞いたことがない。いったいこの人は何を話すのか、嫌でも興味をそそられる。

◆伊東さんは中学生ぐらいから先生になりたいという憧れを持っていた。16歳のとき高校のサマースクールでイギリスに語学留学。外国って面白い。異文化って楽しい。と思うようになった。大学の国際文化学部に進学後、19歳から念願の中学高校の英語教師の資格取得を始める。それと同時にバックパッカーとしての旅も始めた。大学の休みを使って2か月。1年に計4か月旅しても「こんなことで先生になったときに生徒に何か伝えられるのか」という思いが募る。もっと旅を深めようと大学3、4年は休学して、ユーゴ、スーダン、アフガニスタン、と戦場ジャーナリストのようにきな臭い場所に足を運ぶ。しかしそこから何を得ているのかが分からない。ますます先生になる理想から遠ざかっていく、気がした。

◆22歳のときに世界一周中だったサイクリスト、シールエミコさんとスティーブさんにパキスタンで出会い、自転車世界一周こそが自分にゆらぎない自信が持てる方法ではないか、と思い旅に出ようと決めた。先生になる前に社会人として組織で働く経験を積もう、と卒業後は旅行会社に就 職。サハラ・中近東の担当になり、アラブ世界にいるか日本にいるかの生活が始まる。旅行会社での3年間はお金はもちろん、旅に必要な多くのことも学んだ。

◆その間に旅立ちのためのスポンサーを見 つけ、新聞、雑誌の連載記事の契約も取り、自転車を200ピースの部品に分解しても組み立てられる知識も身につけて、27歳でついに旅立つ。

◆世界をどんな風に回ろうかと考えたときに気になったのがチベット。2008年に中国でオリンピックがあるときに何か関係がこじれれば行けなくなる可能性があるかも、との読みから、ユーラシアを先に回るべきだと判断する。その世界を視野に入れた驚くべき未来予測は当たり、歴史は伊東さんの読みのとおりに……。中国とチベットの関係については知っている人は知っている。だからといって中国のオリンピック開催後何が起こるかを、自分に引き寄せてここまで予想した日本人がどれほどいただろう。話を聞いて正直驚いた。

◆中国人に化け、冬の崑崙、天山山脈を越える。気温はマイナス20度。過酷な環境であるはずなのに伊東さんは「寒いほうが走りやすい」とどこまでもクール。冷静な分析に誇張はない。高地を走るうちに体は鍛えられ、平地に降りてくると随分ラクに走れるようになったそうだ。続くイスラムの国々は旅行会社の仕事で通った大好きな落ち着く土地。イランでは家族同様に18日間居候させてもらったことも。

◆ヨーロッパを経て、アフリカを西アフリカのマリからスタート。熱帯性のマラリアにかかり砂漠で昏睡。もう少し病院に着くのが遅ければ命の危険もある状態に追い込まれる。サハラでは砂漠に突っ込むも自転車が重すぎて挫折。自転車の重量は荷物もあわせると65キロ。砂漠地帯で水を大量に持つと80キロにもなる。

◆アフリカ走行後に走った北米では、NYのハーレムに潜入し、オバマ大統領誕生の瞬間のハーレムの熱気を味わう。かつて戦場にもぐりこんでいた経験がここで生きている。そのまま北米横断するも前半終了の間際に相棒の自転車をロスで盗まれてしまうトラブルに遭う。

◆後半の北中南米は北の果て北極海のプルドーベイまで走り、南下。北米、中米を抜け、パナマからコロンビア間はヨットに自転車を乗せて渡り、2011年5月に南米最南端を目指す。旅行会社の仕事や海外に憧れてテレビや図鑑などで調べていたので、おおよその世界遺産は頭に入っている。それでもペルーのマチュピチュを見たときは「百聞は一見にしかず」と改めて思った。

◆旅行業界のアンケート調査で20代の若者が旅行に行かなくなっている理由は、テレビやインターネットで見てしっている、からだと言う。しかし実際に見ないと分からないものはある。世界一周海外編の最後は冬のパタゴニア。ここでちょっと気になる写真が……。「同行していた恋人です」。とのこと。え、どこから? ともう少し聞いてみたいが、さらりと話は変わり、南米最南端のフエゴ島の途中、アイスバーンで走行不能となった時点で旅は終わった。

◆その後、伊東さんは日本を縦断、ついに地元福岡への帰還。2000日の長い旅だった。伊東さんの「先生になりたい」という夢はそれを心に描いた中学生の頃から一度もぶれない。すべてがその基本の上にあり、自転車世界一周というスケールの大きな冒険も、ただ回るだけなら自己満足のきわみで、それをどう次の世代に伝えていくのかが大事である、という。

◆先生になるためには、たとえ日常からかけ離れた旅をしようとも、感覚まで日常から離れてしまってはいけない。だからスポンサーは社会と自分をつなぐ糸であり、感情をコントロールするアンカーだ。プロの旅行業者として、海外にいても動じない普通の感覚で、無茶はしないし、無理も、あんまり我慢もしない。それが安全な旅につながる。プロのサイクリストとしては完璧な服装。ヘルメットはかならず着用。サイドミラーもつける。

◆話の中に何度も出てくる「プロ」という言葉。それはゴールである「先生になる」から逆算して、そのために必要なものを割り出して確実に解決していく伊東さんにふさわしいものかもしれない。世界を回るのなら文章を書きたい。その思いを2004年に地平線会議でたまたま隣り合わせたシェルパ斉藤さんに熱く語ると「君は書かなくていいよ」とサラリといわれてしまう。

◆理由は「書きたいから書くのならブログでも日記でもいい、私たち書き手は読み手がいるから書く。伝えたいことがあるから書くんだ」ということで24歳だった伊東さんは衝撃を受けた。この話には好きなことしか書いていない48歳のこちらもドキドキする。

◆以後、伊東さんは文章の勉強を始め、新聞、フリーペーパーに連載記事を書く。84回も続いた西日本新聞の記事はブログでも読める。人の出会いを中心にまとめたいい話が満載なので、ぜひごらんあれ。そのブログでは、旅のきっかけを作ってくれた師匠であるシールエミコさんとスティーブさんとの再会も綴られている。

◆しかしこれだけの内容がありながら、話を聞き終えたときにどうしようもない違和感が残った。僕が感じた違和感は感情をまったく出さない冷静な語り口で、最後まで伊東心さんの「心」が見えないからだった。そう、聞きたかったのはデーターや事実の分析ではなく、気持ちの部分だ。ロスで自転車が盗まれてしまった、という話も、マラリアで倒れて後一日病院に来るのが遅れていたら生存率は50%だと宣告されたことも、過ぎ去った一事件としてサラリと流されてしまうと共感するのが難しい。

◆もっと心から驚いたことはなかったのか? 心から怒ったことは、笑ったことは、泣いたことは、感動したことはなかったのか。納得できずに2次会で「すべては想定内だったのか」と聞くと、「マラリアの蚊を防ぎきれなかったこと以外は想定内でした」と神のような返事。世界のすべてが想定内であるはずがない。もしそう感じるなら、それは自分の価値観の中に力ずくで世界を押し込めたのだと僕は思う。

◆本当に面白いのは想像を超えたものであり、自分の小さな価値観など何度でもズタズタになったほうがいいし、そうならないと新しいものが取り込めないのでは。経験が大事、と言いながら、学歴と知識しか持ち合わせていない先生はいる。でも伊東さんは未来の生徒たちに伝えるべき稀有な体験をすでに得ている。ただ気持ちが届かないと、それは情報にすぎない。ネット世代に育った生徒は「そんなのテレビで見て知ってるよ」と容赦なく言うだろう……。残す試練は教員試験。あと一息で夢はかなう。ガンバレ、未来の先生「伊東心」。(体験で語れる先生が増えればいいな、と思っている坪井伸吾


『地平線カレンダー2012』、今年もコスタリカの森がテーマです!

 恒例の「地平線カレンダー」、みなさんの熱い声に押されて、ただいま鋭意制作中です。大好評即完売だった昨年に引き続いて、エコツーリズム先進国であるコスタリカの豊かな森をテーマに選びました。

★判型は例年と同じA5判、全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。送料は6部まで80円。12部まで160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。葉書での申し込みも受け付けます(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)

★お支払いは郵便振替で、カレンダーの到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「地平線カレンダー2012代金+送料」とご記入ください。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。次回の地平線報告会の受付でもお支払いいただけます。


報告者のひとこと

心の熱を言葉に乗せて、教師の道を歩みます!!

明けましておめでとうございます。先の報告会では、一年の締めの壇上に立つ機会を頂きましたこと、また多くのご来場を頂けましたこと、心より御礼申し上げます。旅行家としての根を地平線会議に持つ私にとって、この上なく光栄な時間でした。

◆報告会を前に、江本さんから大切なアドバイスを頂いていました。「地平線会議は講演会ではなく報告会。上手に話そうとはせず、自分らしさを伝えろ」と。壇上では、旅のエピソードを紹介しつつ、旅の真の目的である『教師になるための修行』その取り組みについて語らせて頂きました。緊張は少なく、いつものトーンで話ができたのですが、返って、燃やし続けてきた『心の熱』を表に出すことができなかった気がします。あの話をしておくべきだった! もっと情熱的に伝えられたはずだ! そんな思いをいくつも残しました。発信者としての未熟さを痛感すると共に、そのような気付きを得られた有り難い舞台であったことに感謝しております。

◆ここでは、壇上で紹介できなかった話題をひとつ取り上げたいと思います。インターネット時代の旅について。何を今さら?という声も聞こえてきそうですが、インターネット(以降、ネットと略)の黎明期から旅を重ねてきた私なりの考察です。私が初めて海外を訪れた1995年夏、すでにネットは存在していましたが、まだ大多数にとってそれは未知なる物でした。大学に入学した97年には、windows95が普及しており、ネットは一般的なものに。

◆大学入学後すぐにバックパッカー旅を始めた私は、旅先でEmailを活用し始めました。99?2001年の長旅では、MSN等のポータルサイトで日本のニュースを読み漁り、浦島太郎になることなく帰国しました。2005年以降の自転車世界一周旅では、ブログで旅の記録を発信しつつ、mixiやFacebook等(SNS)で友人知人とコンタクトを取り、Skypeを利用して無料で国際電話。

◆2007年頃からは、Youtube等の動画サイトでニュースやテレビ番組を視るようになり、いよいよ日本と旅先のタイムラグは無くなりました。海外に居ても、自転車冒険旅行の路上にあっても、日本社会や家族・友人と繋がっている。「今どこ?元気にしてる?」「今、サハラ砂漠南縁のトンブクトゥ。最近、砂嵐が続いてて喉が痛いのよ」なんて会話が成り立ってしまう現実に違和感を覚えつつも、いつしかそれが当たり前になっていました。

◆旅先でネットを使うには? 当初はネットカフェのパソコンを使うのが普通でしたが、2008年頃からは、安価なノートパソコンやiPhoneなどの携帯端末も普及し始め、同時に無線ラン(wifi)が使える宿や施設も一般的になりました。今では旅行者の大半がネット端末を持ち運び、wifiでネットを利用しています。私も2006年からノートパソコンを携行しており、旅先でのライター活動に活用してきました。パソコンで旅行記の原稿を描き、デジカメの写真を添えてメールで日本の新聞社に送り、掲載された記事はネットから確認する。旅行家としての発信活動は、同時にライターとしての仕事でもありました。月数万円程度の収入でしたが、旅行中の身には大きな助けとなりました。

◆ネットにより、日本から遠く離れた旅先でも日本にいる時と大差ない情報を得られる今日。然したる苦労もなく渡航先の情報が得られる。最新のニュースを知ることができる。離れた家族や友人と頻繁に連絡が取れる。旅の時間は、ネット化以前のそれと大きく様変わりしました。より海外が身近な場所となり、より安全に旅をできるようになったとも言えます。

◆しかし、見方によっては、旅が形骸化しているとも言えないでしょうか? 旅先では、『自分探しの旅』をしているという若者に多く出会います。10代後半の私もそうでした。異国での様々な体験を通して、自分自身を見つめ、自分の道を探す。そういう旅を求めて海外に飛び出したものの、旅先での行動のほとんどが受動的で、自分で方法を考え・探し・求める姿勢に乏しい人が増えている印象を受けます。

◆ペルーで実際に交わした会話。「ワスカラン国立公園行きました?」「はい、自転車でですけど」「行く価値ありますか?」情報や感想ならまだしも、判断まで求めるのは如何なものか……。ネットに頼ることに慣れ、自分で考える力、判断する力が乏しい若者が多く見受けられます。もちろん、ネットに溢れる情報と適度な距離を保ち、真剣に自分探しに挑んでいる若者にも出会いますが、多いという印象は受けません……。

◆とはいえ、嘆いてみせた私もネット時代の旅人です。ネット化は世の中全体の変化。旅に大きな変化をもたらしたのも当然です。問題は、それとどう付き合うか。幸い、私の旅はネット化の恩恵を受けつつ、悪い影響はあまり受けなかったと感じています。溢れる情報を比較検証して知識を準備したつもりになっても、いつもそれを超える感動や衝撃がありました。知る→考える→行動する→驚く→考える→知る。これは、ネット化以前に身につけた旅の楽しみ方だと思います。或いは、敬愛する冒険家・旅行家の先輩方から受け継いだ、『旅の哲学』『実践の喜び』なのかも知れません。

◆私の自転車世界一周・2千日間・8万kmの旅は、夢と掲げた教師になる前の長い長い助走でした。ここからが本当の勝負! インターネット時代の生徒たちに、実践の喜びを伝えてゆきたい! 心に宿す熱意をしっかり言葉に乗せて、近い将来、必ずや教壇に立ちたいと思います。(伊東心


地平線ポストから

「ハイチの宴」━━ 2010年1月12日が何の日か覚えている人はどれだけいるだろうか

■3・11東日本大震災の当日、私は6年ぶりのブラジルのカーニバルで大騒ぎしていた。カーニバル本番は北東部の水の都レシーフェを攻略、週末に行われる優勝パレード取材のためリオに戻ってきたところで、当初は何がおきたのかもよく把握できないまま。パレード会場で以前から顔見知りになっていた現地マスコミの報道カメラマンたちから「お前、こんなところで何やってんだ。早く帰らなくていいのか?」などといわれて、初めて事態の深刻さをうっすらと認識したくらいであった。

◆その後の一か月半は、悲惨な映像があふれる現地報道にただ恐れおののく日々となった。日本ではご法度の凄惨な写真が連日のように新聞紙面を埋め、海岸に流れ着いた折り重なる犠牲者の映像がテレビ画面に流される。たぶん、通常の日本人の数十倍はそうしたエグイ場面を見てしまったことだろう。津波見物に行ってそのまま流された被害者もけっこういたし、被災地での盗難や火事場泥棒の被害も実はかなり多かったようである。

◆とはいえ、ブラジル人からいくら同情されても、ボリビア人からフクシマは大丈夫かと心配されても、こちらはほぼまったく当事者意識が持てない。ほとんど非国民のようだが、実際に絆だのつながりだの言われても、はるか遠い国の話にしか聞こえない。4月中旬に南米から戻って、4泊5日の超短期一時帰国ですぐグレートジャーニーの裏方のためフィリピン方面へ出撃となった。当初は予定していなかった台湾の仕切りまで担当することとなり、日本に帰国したのは6月。結局その間の情報と言えばほとんどが横文字ばかりで、被災者も現地で活動するボランティアも避難する人々も含め、リアルタイムで肉声を聞く機会はなかった。とくに原発絡みの報道は、海外メディアからもすぐに大本営発表と見透かされて信用度はゼロ。握手の手をひっこめられたり、床屋で髪の毛を力いっぱい洗われたり、日本人というだけでエンガチョ扱いされる現実に戸惑う日々だった。

◆自分の中でどう消化すればよいのか、落とし所が見いだせない中で思い出したのは、2年前の地平線報告会でのとある出来事だった。2010年1月12日が何の日か覚えている人はどれだけいるだろうか。カリブ海の島国ハイチを襲ったM7の直下型大地震で、31万6000人の犠牲者が出た日だ。医薬品をかき集めて現地入りする直前に、顔を出した報告会で耳にしたのは「ハイチって、そういえばなんかあったよねえ」とか、「カリブ海行くんですか、いいな?」という不埒きわまる発言だった。どうしてくれようと思ったが、今さら考えてみれば要は自分との関係性やら距離感の問題で、縁もゆかりもない遠い海の向こうの話にしか過ぎない。2周年目の1月12日も、日本のメディアではベタ記事ぐらいしか報道がなかったようなので、この場を借りて現状をお伝えしておきたい。

◆約55万人、45%、6942人、約1万3000団体、3.5ドル……。それぞれ、いまでもテント生活を強いられている被災者数、撤去されたがれきの割合、コレラによる死亡者数、現地で登録されている海外NGOの数、そしてハイチ人労働者の1日の日当である。つまり、地震による惨状はほとんど改善されないまま被災者は放置され、衛生状態は悪化する一方、莫大な復興援助資金に世界中から集まったNGOが群がり、海外資本にとっては激安の労働力が提供される天国、ハイチ人民にとっては地獄の責め苦のような状況が2年たっても続いているということである。

◆史上最悪のインチキ選挙で昨年5月に選出された元ミュージシャンのマーテリー大統領は、独裁政権時代に暗躍した殺人部隊トントン・マクート出身で、統治能力ゼロがゆえにアメリカによって任命された存在。クリントン元米国大統領が代表を務めるIHRC(暫定ハイチ復興委員会)と、USAID(アメリカ国際開発局)が援助資金を管理運営していたが、実際は復興を請け負ったアメリカの会社や援助団体が予算の9割以上を吸い上げるシステムとなっていた。このIHRCも、首相すら選出できないハイチ政府の政治混乱に乗じてやりたい放題しまくったあげくに、昨年10月には期限切れとなりその後を引き継ぐ組織すら作られていない。

◆加えて、この惨状をハゲタカ資本が見逃すわけはない。メキシコと違って国境を接していない島国のハイチは、不法移民や環境汚染などの問題もなく、アメリカにとってはひときわ美味しい存在である。アパレル企業を中心としたさまざまな業種がどさくさ紛れに進出し、先進国の20分の1という人件費と劣悪な環境で最大限の利益を貪る舞台となった。リーバイス、ギャップ、バナナ・リパブリック、Kマートなど、おなじみの衣料メーカーが奴隷工場を経営しているわけだ。国全体が蟹工船状態のハイチは、まさに震災ビジネスの残酷さ、えげつなさの象徴でもある。

◆3・11後、もしくはフクシマ後の日本と単純に比較はできないにしても、理不尽な状況をどう克服していくのか、問われているのは同じだろう。「もう」なのか「まだ」なのか、関係性や距離感に関してはさらなる分析が必要だ。そういえば、世界最悪の貧民街と称されるハイチのシテ・ソレイユ(太陽の街)で偶然再会した旧友ガブリエルは、遠い日本から心配して来てくれたのだからと、食事に誘ってくれた。テントの外に置かれた段ボール箱のテーブルにレンガの椅子で、奥さんと3人でひとかけらのパンとゆで卵1個を分け合って食べた。どうしても3人で一緒に食べたいんだよ、という彼の誘いを断り切れなかった。あの言葉がどこから出てきたのか、今でも思い出しては悩んでいる。(カーニバル評論家 ZZz-全

島々の地に立って、直感的に思ったことは、「無人島になってしまうのではないか?」という思いでした

■娘の夏帆(なつほ)が今年25歳になります。最重度の障害を持って生まれ、一昨年には口からものを食べられなくなり、胃に穴を開けてチューブで栄養を摂る「胃ろう」手術を受けました。昨年秋には急性呼吸不全になり、ヒヤリとしましたが、元気になってくれ、震災後の宮城の島に行ってきました。震災以降、南の島に行く予定をいくつかとりやめて、じっと考えていました。被災した島に行かずして、ほかの島に行くことは、やはりできない、と。

◆しかし、海を渡って島に行くということは、いざという時には島と運命を共にしなければならない、ということでもあります。島行きを計画したものの呼吸不全で入院したりした子を置いてまで、島に行く意味があるのか? というよりも、母親である私に何かあったら……娘は悲惨な境遇になってしまう……

◆そんなギリギリの思いのなかで宮城県・浦戸諸島に向かいました。この島々は22年前に一度訪れています。最重度の子を抱えながら、思い切って仕事を再開し、取材に行った島々でした。あの頃も不安をいっぱいに旅立った自分を思い出します。仙台から塩釜へ、そして港まで歩いて海抜ゼロメートルの海を見た時、ふっ切れた思いがしました。覚悟というほどのものではないけれど、私の仕事は島に行くことであり、その島が津波に遭うならば、私も一緒に流される。それが島に行くということ。

◆22年前に撮った写真のなかで人が写っているものをプリントして配達することにしました。浦戸諸島には、桂島、野々島、寒風沢(さぶさわ)島、朴(ほう)島と有人島があります。民宿は食事の用意ができないとのことで、素泊まりをお願いしました。島のなかにはもともと商店などありません。4つの島を歩くつもりで荷物を最小限にして、半分位の荷物を港のコインロッカーにあずけ、水とパンを買いました。一人で持てる量などたかが知れています。

◆自分は何者として、島に渡るのか? ボランティアとしては体力と滞在日数が非力です。観光客というには、島の状況が厳しすぎる。「取材の人」では、上から目線で見るようでイヤでした。39年間島々を歩いてきた「友人として」島をたずねることができないか? 船は静かな海を進みます。浦戸諸島は入江のなかにある穏やかな海に囲まれ、海苔や牡蠣の養殖を中心とした漁業の島です。

◆まず、野々島で船を降りたところでおばちゃんに話しかけられました。私が22年前に撮った写真を配達に来たと言うと、以前に泊った民宿まで案内してくれました。家が残っているか……ドキドキしました。津波は家の1階のものをさらって行ったけれど、家と2階に置いたものは無事だったそうです。

◆浦戸諸島では、地震の直後青年団がすぐに動き、一人暮らしの老人をトラックでピックアップし、高台に避難しました。人的被害はほとんどなかったのです。案内してくれたおばちゃんの家はすっかり流され、仮設住宅にいます。私のほうからはそれ以上の質問はできません。おばちゃんと元民宿のおじさんの写真を撮りました。

◆それから、渡し船で隣の島に渡りました。渡し船の船頭さんは寒風沢島の人ですが、家をすべて流されたそうです。船頭さんに船の前に立ってもらい写真を撮りました。最も被害の大きかった寒風沢島の風景は異様です。海に面して横長に広がる集落の半分は、ほぼすべての家が残り、集落の半分は、ほぼ全部が流されました。家々の後ろの丘を越え津波が押し寄せたのですが、津波は高い山を越えなかったので、高い山に集落の半分は守られたのです。その運命の分かれ道は地形であると思えました。

◆私は島のなかを歩きまわり、それを納得しました。静まり返った家々の路地を歩きながらシャッター音を響かすのも、はばかられる思いでした。震災から8か月の時期、家が残った人と流された人との間に微妙な気持ちの差が生まれ始めていると聞きました。家が残っても、地震によって家はダメージを受け、津波で多くの家財を流されました。それでも、ひとつの島のなかで、家を完全に失った人たちは「被害者」であり、家のある人は「よかったよね」という「分別」ができ始めているというのです。

◆4つの島々は親戚関係も多く、一人の女性が「嫁ぎ先は家が残ったのだけれど、実家は流されたので、私はどっちの顔をしたらいいのかわからなくて」と語りました。被災した「かわいそう」に序列がつけられ始めているのです。島は島として結束しなければならないはずなのに、土台のある人と土台を失った人が、どこまで力を合わせることができるのか、難しいところです。

◆この島々の地に立って、直感的に思ったことは、「無人島になってしまうのではないか?」という思いでした。最も沖合に位置する朴島の人口は十数人と聞きました。牡蠣の加工機械が壊れ、この島の漁師さんは、陸地に最も近い桂島へ通って仕事をしているとのことです。桂島の民宿の御主人とじっくり話しました。素泊まりのはずでしたが採りたての牡蠣料理でもてなしてくれました。

◆私は、「島は将来無人島になってしまうのではないか? 陸地に最も近い桂島は人口も多いので、大丈夫かもしれないけれど、もともと高齢化しているほかの島々は持ちこたえられるだろうか? 行政は、沖合の島々まで手厚くする余裕はないのではないか? 今、島を守るならば島の人たち自身が結束しなければならないと思う。割り切って、島を仕事の場として陸地に居を移し、島の海に働きに通うという考え方もあるかもしれない。個人として力のある人はそれができるだろうけれど、ほとんどの人はふるさとの島を捨ててゆくことはできないと思う」と、日本の島々を見てきた体験から語りました。

◆そして、島には3人のリーダーが必要であることも伝えました。親の代からリーダーであった地元密着型のリーダーと、一度島から出て物事を客観的に見ることができるリーダーと、そして、人の輪をつないでいくことが得意なリーダーが必要なのです。そのリーダーは立場が違うので「気が合う」とは限りません。気が合わない人とも力を合わせてゆく力量がなければ、島は結束の力を出すことができないでしょう。

◆島から塩釜に戻り、街を歩くと、家が半壊したという主婦から、「塩釜は、それでも被害が少なかったほうなのです。沖の島々が津波を受けてくれたんですね」と、聞きました。浦戸諸島が消波ブロックの役目をして、本州の陸地を守ったという結果になったそうです。日本のキワに位置する島々はいつだって、矢面に立つのです。島を守らなければ、日本を守ることはできないのだろうと思います。

◆22年前の写真を配達する島旅が終わり、今回撮った写真も送りました。しばらくすると御礼状がいくつか届きました。寒風沢島の渡し船のおじさんからは、葉書が届きました。「前略 写真有りがとうごさいます 震災前の全部流され 初めての写真です 大事にします」とありました。写真を撮る旅は続きます。(河田真智子

自分が好きなように動け、それが人のためになれば、健康的だし幸せなこと。はじめての長期休暇中です

■1か月ぶりに埼玉の家に帰ってきました。2月まで3週間のんびりして、また東北へ行く予定です。今後の動きを決めるためにも一度現場を離れて、自分と東北の現状を見直そうと思います。年末からの半月の間にも、様々な動きがありました。12月30日・31日に行なった初めての被災地ツアー、沖縄から視察に来た小中学校の先生方との出会い、仲間とこつこつ進めている被災された方の状況確認、輪が広がっていく南三陸町ボランティア協議会。ほか、ストーブがきかないほど広い校舎の防寒対策、RQの3日間研修、様々な問い合わせ対応など。アメリカの8歳の男の子から、東北の男の子にプレゼントをしたいので誰か紹介してもらいたい、という申し出もありました。

◆最近はやっと自分らしさを出せるようになってきました。大人数のボランティア受け入れが終わり、自分が本当に気になっていることに取り組めるようになった感じです。地元の方や仲間と一緒に、自治会の動きがよくなかったり支援が行っていない小規模仮設住宅を訪問してお話しを聞いたり、地道に動いています。住人の憩いの場、交流のためにあるはずの談話室が未だに使われていない仮設住宅で1月中旬に水墨画教室をやったのですが、談話室の水道管が凍って水が出ない、ストーブの灯油がない(未使用のまま)、ということもありました。

◆家の半数が残り半数が流された地区では、住人の間で気持ちのすれ違いが見られることもあります。口論も見かけました。気になることは多々ありますが、何でもかんでも私たちがやるのではなく、住人の方のお手伝いという立場をいつも意識しています。そのために状況をよく知り、住人の方と仲良くなろうと、じみーに動いてるわけです。人の感情まで踏み込むと大変ですが、それも含めて楽しみながら関わらせてもらっています。

◆お宅におじゃますると、今はワカメの旬なので、採れたての大きい茶色いやつをお土産にくださったりします。さっとお湯にくぐらせると、ぱっと緑色に。すりおろし生姜とお醤油をかけて、シャキシャキいただきます。茎もコリコリでおいしい! 

◆面白かったのは、国土地理院発行の地形図(2万5千分の1)を使い始めてから、沿岸部の道や地形が頭に入りやすくなったこと。等高線がじゃまだという人もいますが、山好きな私にとってはこっちの方が馴染みやすいのです。なんと「わかめ養殖場」「かき・ほや養殖場」など海の中の養殖施設まで書いてあったりして、震災前はこんな感じだったのかと、暇があれば地形図を見ています。海岸線だけでなく内陸までリアス式っぽいナミナミの等高線で、川の多さにもびっくり。海、山、川が揃った三陸の豊かな自然を再認識できました。自分が好きなように動け、それが人のためになれば、とっても健康的だし幸せなことです。

◆「無理して長期ボランティアをしているのでは」と心配されることもあるのですが、改めて、私はボランティアという意識で東北に行っているわけではなく、人生の一部として好きで行っているんだなあ、と最近よく思います。長期ボラの中には真剣になるあまり体調や心のバランスを崩す人も見受けられて、心配なのは事実ですが。今は埼玉のあたたかい家でほっとしている自分がいて、被災地とのギャップを怖いほど感じます。ここにいると、そんなに頑張らなくてもいいんじゃないかと思ったりもします。でも被災地で人と話すと、まだ心の支えを必要としていることを強く感じる。この感覚の違いも受け入れつつ、今後の動きについてゆっくり考えてみます。(新垣亜美

瓦礫から拾い集めた廃材を使った念願のカフェ。よくぞ作った!友よ。

■昨年の暮れに久しぶりに大槌町に移り住んだ友人を訪ねた。池袋から高速バスに揺られること9時間、朝方に吉里吉里一丁目のバス停に降り立つ。海を背に辺りを見渡すと、家々の土台を残しまっさらになった一帯のなかに、煙突から煙が立ち上る一軒の店がある。入り口の看板には『Cafe&Bar Ape』の文字が(アペ=アイヌ語で火という意)。

◆「みんなが集まれる場所を作りたい」。友人一家は津波で流されてしまった実家跡に、瓦礫から拾い集めた廃材を使って念願のこの店を完成させていた。外装の半分は半透明のビニールシートであるものの、光が差し込む店内には木製のキッチンカウンター。並べられたテーブル達の真ん中で、薪ストーブのやさしい火が揺れている。よくぞ作った! 友よ。

◆「ようこそー!」彼の母親が笑顔で迎え、珈琲を淹れてくれた。一口啜ると心底ほっとする。火を眺めていると、昨年のいろいろなことが浮かんできた。夏の炎天下に、この場所で皆で瓦礫を掻き出した日々が今では懐かしい。この場所で生まれた『歩きましょう』という唄を、巡り会うたくさんの場面で幾度も唄った。“時代を乗り越えながら、人と共にある唄”というものの底力を初めて痛感した一年だった。

◆時折、地元のおじさんやボランティアの人達が昼休みにやってくる。美味しい料理は音楽同様、人の心を癒やすことだろう。ひとりひとりの客人を大切にもてなしている友人は、どこか誇らしげで楽しそうだった。

◆日々一歩ずつ、緩やかであっても風景は変わり始めている。人が集まり、絆が生まれる。そんな希望の光が差し込むこの町の風景を、心のなかで大切に温めながら、今年も皆と手を取り合って生きてゆきたいと思う。

★『Cafe&Bar Ape』am11:00ーpm11:00
岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里2-6-18

音楽やワークショップなど、イベント続々企画中&募集中。煮干しラーメン、日替わりランチ、自家焙煎珈琲。どれも絶品です。皆さん、お近くにお越しの際は是非とも宜しくお願いします!(車谷建太

3月10日に「走れ!仙石線」のイベントをやりまーす!

■今日(1月15日)、宮城県東松島市、仙石線の野蒜(のびる)駅で仙石線の一日も早い開通を目指す集まりがあり、私も参加しました。アウトドア義援隊が去年のゴールデンウィーク以降、お手伝いをさせていただいている東名(とうな)地区、野蒜地区では、2011年3月11日の東日本大震災以降、仙台と石巻を結ぶ仙石線が不通となったままです。内陸側に約500m移設して再開させる計画はあるものの、開通は早くて5年後。東名・野蒜地区では現在、通勤や通学の足が失われ、住みたい場所に住めなかったり、行きたい学校に通えなかったりという状況です。

◆いずれ内陸側に通すとしても、仮でいいので従来走っていた場所に一刻も早く走らせてほしいというのが沿線住民の願いで、今日の集まりは、仙石線開通に向けてのイベントの打ち合わせでした。まさに今、将来の夢に向かって歩んで行こうとしている子どもたちにとって、5年という時間は長すぎるのです。人生が変わってしまう時間です。

◆イベントの発案者は、自身も被災者であり、東名地区でグループホーム(NPO法人 のんび?りすみちゃんの家)を運営する伊藤壽美子さんです。「東日本大震災以降、子どもたちに不便な生活を強いている上に、学校に通うことでも我慢をさせている現実が、大人として申し訳ない」と、壽美子さんは話していました。現在、仙石線不通区間では代行バスが走っていますが、本数がみるみる減らされてきています。いずれはなくなってしまうのではないか、そんな不安も、住民たちは抱えています。電車なくして町の復興はありえません。仙石線不通地域沿線の方々がおっしゃるのは、ただ、普通の暮らしを取り戻したいという思いだけです。

◆仙石線の一日も早い開通を願うイベントを、3月10日に開催します。ひとりでも多くの方に参加していただければと思います。3月10日、ぜひ東松島に足を延ばしてください。大震災から1年経った被災地の現状を見てください。復興を願う人々への応援、声援を、よろしくお願いします。(岩野祥子

★第1回 「走れ!仙石線」 日時:2012年3月10日(土)11時 集合場所:野蒜駅 ・参加無料 ・野蒜駅と東名駅を人と自分たちの夢を書いた「夢ハンカチ」でつなぎ、風船を飛ばします。・当日は、歩きやすい靴でお集まりください。・「夢ハンカチ」を当日までに準備しておきたいので、参加していただける方は事前にご連絡ください。【連絡先】NPO法人 のんび?りすみちゃんの家  mail:

犬の死骸をカラスに交じって猫が食べていました。威嚇するダチョウに足で横蹴りされた人も。20km圏内は究極のサバイバル状況です
━━滝野沢優子の福島日日レポート━━

■12月19、20、22、23、25、26、27日と福島第一原発20km圏内へ、ペットレスキュー目的での公益立ち入りをしてきました。9か月も経って、ようやくです。どうして今まで許可してくれなかったのか本当に不思議です。もっと早かったらもっと多くの命が助かったのに。

◆今までは動物愛護団体の申請は受け付けてもらえず、20km圏内で給餌・レスキューするには、[1]深夜や早朝を狙ってゲリラ的に侵入したり、[2]理解ある住民の方の一時帰宅に同行させてもらったり、[3]事業主などの公益立ち入りに同行したりと、さまざまな方法を駆使してましたが、[1]は警察に見つからないようにコソコソしなくてはならないし、見つかったら始末書です。私も一度書かされました。[2]は一時帰宅なので住民の方の用事が優先で時間がないうえ住居とかけ離れた場所へは行きにくいし、[3]は名目上は別な目的なので、餌やりなどをしている現場を警察に見られるとマズイ。いずれも給餌や保護を堂々とすることはできませんでした。

◆それが今回は1日5時間以内という制限はあるものの、警察にビクビクする必要もなく白昼堂々と20km圏内のあちこちを動けるとあって、かなり広範囲に移動して給餌・保護をすることができました。震災以降20km圏内には何度も入っていますが、当初と比べて放浪する犬も猫もめっきり少なくなりました。救助されたものもいるし、死んだものも多いのでしょう。あちこちで猫らしき骨を見かけます。食べられたのか餓死したのか。路上には車にはねられて死んだ犬の死骸があり、それをカラスに交じって猫が食べていました。20km圏内は究極のサバイバル状況です。

◆放浪牛はあちこちにいます。震災後に産まれた子牛を連れてファミリーで幸せそうに過ごしているのを見ると、肉牛として出荷されてしまうよりよかったのかも、と思えてしまいます。また、浪江のエム牧場では、殺処分をせずに研究対象で活かす方向で家畜を収容しています。その一方、新しく造られた柵の中に囲われてしまっている牛もいましたが、殺処分されないことを願います。

◆でっかいブタやダチョウにも遭遇しました。ダチョウは大熊町にあったダチョウ牧場から脱走したもの。何羽かいて、どいつも何かもらえると思って寄ってきます。中にはこちらを威嚇するヤツもいました。足で横蹴りされた人もいます。私も襲われかけましたが、車の中に逃げ込んで危うく難を逃れました。これらの家畜もなんとか殺処分されずに生き延びてほしいところですが、どうなるんでしょうか。

◆また、意外かもしれませんが20km圏内は思った以上に通行車両が多く、人の姿もあちこちで目にします。東電関係者、工事関係者、公益立ち入り、住民の一時帰宅、警察などです。国道6号線では道路工事で交互通行の信号待ちなどもあるし、朝と夕方の出勤時間帯は検問で出口渋滞もあります。そうした関係者やJビレッジの人たちが利用するため、検問手前に最近できたコンビニも大賑わいです。

◆ところで、20km圏内だからと言って全域が放射線量が高いわけではなく、楢葉町や南相馬市ほか、1μシーベルト以下のところ(郡山市内より低い!)も多く、原発から北西方向の区域を除き、4月に警戒区域の見直しが行われる際には解除になりそうな感じです。とはいえ、やはり高線量の場所はびっくりするような数値で、第一原発の南2kmほどの大熊町では、車の中でも70μシーベルト! そこで大林組の方々が除染作業(草刈り)しているので、またまたびっくり。第一原発の鉄塔がすぐ間近に見えるそんな場所に、猫や犬もまだ残されていましたが保護には至らず。作業員の方にフードを託してきましたが。

◆それでも、スクリーニングの結果は毎回まったく問題ありませんでした。最近は大熊あたりに入っても除染が必要な数値がでることはないそうです。ちなみに、防護服は着ても着なくてもスクリーニングの結果はまったく同じでした。まあ、パフォーマンスということでしょう。マスクくらいはしたほうがいいですが。

◆今回の動物保護は16団体によって332頭の犬猫が保護され、一定の成果を上げました。私が保護した猫も無事に飼い主さんが見つかりました。もう諦めかけていたそうですが、よかった。動物保護目的の20km圏内への公益立ち入りは、今後も継続されることが決まりましたが、いつ再開されるのかは未定です。12月27日からすでに半月以上が経過し、あちこちに大量に置いてきた餌も尽きかけているかと思うと、いてもたってもいられない気持です。

◆警戒区域のレスキューのほかにも仮設住宅でのペット環境の問題や、ペット不可となった飯舘村の仮設住宅問題、葛尾村、浪江の津島地区、川内村などの給餌&保護など、福島の被災地での動物保護活動は原発事故とともにあり、まったく先が見えずボランティアたちが手探りで進めている状況です。原発同様に難しい問題も山積みで、収束するまでにかなり長い時間がかかりそうです。

◆そんなわけで、2012年になってもペットレスキューを続けています。当初はここまでやるつもりはまったくなく、「福島県民だし、1BOX車もあるし、搬送の手伝いくらいはできるし、夏くらいにはひと段落するだろう」と楽観していたのに、とんでもなかったです。とりあえずは春までの命をつなぐべく、がんばっぺ。それまでは旅もお預けかなあ。まあ、いいか。(滝野沢優子 福島県天栄村)

ツアーで田野畑と三陸沖に行ってきました

■ツアーの呼び名は『三陸鉄道・浄土ヶ浜遊覧船・八戸朝市、港町に再び鳴り響く…鉄道の音・船の気船・朝の喧騒、がんばろう東北「絆」でつなぐ三陸路2日間』と実に長いタイトル。

◆行程表は盛岡着、バスで田野畑村(津波被害をうけた三陸沿岸の漁村)へ。津波体験語り部ガイドと被害地を視察。高さ2百米もの断崖が続く景勝地「北山崎」も見物、宮古で新鮮な海鮮丼の昼食、浄土ヶ浜(震災後、津波の影響を受けずに一隻だけ残った船で)宮古湾遊覧。宮古駅から手旗信号で一部区間の運行を再開した三陸鉄道、バスで宮古から盛岡駅?東京です。

◆日程は師走の中旬、忘れずにやってきた寒波の激しい16、17日でした。重装備の厚着で大宮駅から乗車し、早速御近所さんに「このツアーをどこでお知りになりましたか」「新聞で見つけました」「私も新聞で」みなさん福島や三陸沿岸が気がかりだったと言います。参加者は満席の44名、親たちが東北出身者も多いようです。男性も多くここでも多数派は60才代でした。

◆盛岡からのバスはまず車内で盛岡駅弁の昼食。途中道の駅でトイレ休憩、道の駅“たのはた”で若々しい地元NPOのガイドさんが待っていてここから沿岸の島の越駅に着きました。広々としてなにもありません。駅舎も人家も。きれいに片づいています。「全部村の人達でやりました。ここには自衛隊をはじめNPOなども入っていません」とガイドさんの説明。隣の田野畑駅は駅舎だけがポツンと残って周りが広々としています。すぐ手前の人家は流され駅を境に山側に人家が見えます。ここで中年のガイドさんと合流し、私達も二班に分れて動きました。新しいガイドさんの自己紹介は「あの日私もここまできて助かりました」と。

◆昔の陸中田野畑村は、海岸に向う30近い渓谷で細断され平野部分はわずか16%。集落は段丘の上や小さな入江に点在していました。戦後は開拓や酪農も始まり思惟大橋も架かり第三セクターの三陸鉄道が走り、今では海岸線の方が活発になったと言います。

◆右・左にトンネルがある羅賀の浜も海水浴にはもってこいの場所、鉄筋高層の羅賀荘にも大勢の人達が働いていました。ここも広々と片付いています。ホテルも激しくやられ従業員は職場を失いました。ここで二班が合流しここから陸中海岸国立公園の北山崎に向う途中、番屋街を通りましたが跡形もありません。浪音だけの机浜でした。

◆八戸で一泊した翌朝、朝市を見学しました。私は一足先に集合場所に戻り目の前の大橋を渡りました。両側に歩道がある立派な橋です。向こうからきた女性にあいさつし「この川はなに川ですか」「新井田川です。あの日この川の水がどんどん引いたのです。恐ろしかったですよ」この悠々たる流れが逆流する。そんなことが起きるのか。バスの姿が見えたのであわててお別れしましたが、本当に驚きました。

◆宮古に着いて一隻だけになった陸中丸で浄土浜をめぐりました。あの日観光客を降した直後強い揺れを感じた船長は、接岸せずに波まかせで二夜をすごして入港、船は助かったのだそうです。機転のきく船長さんと握手して下船、宮古から小本駅までの三陸鉄道にのりました。ふと向いの来客に「地元の方ですか」「はい、家内も家もながされました。私は気を失ったあと自力で逃げ九死に一生でしたが、声がでません。今日は病院の帰り、ようやくここまでになりました。六十才まで学校の用務員をしていました。はい、仮設ぐらしです」偶然この目の前の男性が…。駆け足ツアーの旅でしたがまさに歩く、見る、きく。ここからの始まりを確信しました。(金井重


十二月詠
 あの日の川水

金井 重

 みぎひだり トンネル前の 羅賀の海
   鉄路まきあげし 波の青さよ

 シンボルの 24棟 番屋街
   波の音のみの 机浜すぐ

 白雪を ふんで大橋 渡りけり
   あの日川水 ぐんぐん引きしと

 波まかせ 二夜ただよい 帰りつく
   気骨の船長 おだやかなメタボ

 三陸の ことこと走る 鉄道の
   客は被災者 静かに座して

 今世紀 初の卯年の 11年
   絆できずく なでしこジャパン

 わくわくと 惑星「ケプラー 22b」
   あなたの名前よ これからよろしく

 就活と 終活はやる 御時世よ
   今日も出歩く 終活もあり

 後期、好機、光輝、好奇の 今日はどれ
   お出かけにかぶる 高齢者帽子

 雨上り 血洗い池の 生き生きと
   鯉も口ひげ ピンと伸ばして


月山山麓で相次いで起きる誘拐、餓死、襲撃……。鷹匠の2012年雪山報告

■昨年暮れから今年にかけてここ月山山麓ではまたしても大雪に見舞われ、もう積雪も2メートル半を越え、毎日雪下ろしに追われている。台所も風呂も凍ってしまい、石油ストーブで雪を溶かして水を作る日々だ。こうした雪との格闘以外にも私の周りでは誘拐、餓死、襲撃、といった事件が相次いで起きている。

◆勿論生き物のことだが、昨年秋の某日、東京から訪ねてきた青年と居間で話をしていた時、突然窓の外で中型の鳥が地面に向かって急降下する姿が見えた。すぐに窓辺に駆けつけてみると、なんとオオタカが放し飼いにしていたニワトリのヒヨコを捕まえているところだった。オオタカは私たちに気づくとすぐにヒヨコをつかんだまま飛び去り、私たちもすぐに後を追いかけて探したのだが、とうとう見つけることはできなかった。ヒヨコをさらっていったオオタカはおそらく近くの林の下で羽毛をむしり、さぞややわらかくおいしい肉にありついていることだろう。

◆また別のある日、鶴岡市郊外に住む人から夜中に電話をもらったのだが、自宅の物置小屋の中にタカが入り込んで出ていかないとのこと。あまり大きくないタカで少し弱っている様子だという。翌朝急いで訪ねていくと、確かに物置小屋の片隅で1羽のタカがしゃがみこむようにしてうずくまっている。そこで長いたも網を静かにのばしてタカの上からかぶせたのだがピクリとも動く気配がない。「これは!」と思ったら案の定、すでに死んでいて、胸をさわってみるとげっそりとやせおとろえた状態だった。その年に巣立ったオオタカの幼鳥で獲物がうまくとれずに餓死したものに違いない。オオタカは狩りの能力にすぐれ、鷹狩でも武将たちの間で最も好まれた精悍なタカなのだが、自然の厳しさに勝てない個体もいるのだ。

◆それからこれは数年前のことだが、宮城県の蔵王の近くに住む知人を訪ねた時のこと。私と同年齢くらいのSさんはハトが好きで伝書鳩のレースにも何度も参加しているのだが、この世界も奥が深く、本場ドイツでは長距離レースに優勝したハトには1000万ほどの値もつくという。Sさんも海外から高価なハトを輸入したりして飼育しているのだが、その日初めて訪ねて来た私に自慢のハトを禽舎から出して飛ばせて見せてくれた。15羽ほどのハトは家の回りを旋回し、徐々に高度を上げ晴れ渡った大空を軽やかに飛び回っていたのだが、それから間もなくして周囲の小高い山から1羽のオオタカが突然姿を現わした。

◆それまで整然と群れをつくって旋回していたハトは一瞬にしてパニック状態となり、散りじりに逃げまどう。オオタカは1羽のハトに狙いを定めると猛然と追撃を始めた。狙われたハトも必死にスピードをあげて逃げる。ハトが逃げ切るかと思った時、オオタカは一段とスピードをあげて肉薄し、その瞬間羽毛が空中に飛び散り、ハトは地面に叩き付けられていた。オオタカに蹴落とされたのだ。こうしてタカに攻撃されたハトはたとえ命は助かったとしても、もうレースには使えないとのこと。私は野性のオオタカの迫力あるハンティングを間近で見られた喜びと、私に見せようとしたために大切なハトがオオタカに襲われたことに大変複雑な気持ちになったのであった。こうして数々のドラマを繰り返しながら季節はめぐり、今年はまたどんな野性の情景を目撃することになるのだろうか。(松原英俊

シベリアに行ってきまーす!

■ス・ノーヴィム・ゴーダム!(ロシア語で新年おめでとう!)一向に音沙汰なく大変失礼しました杉原まゆです。江本さん、私は2月から1、2年ほどシベリアに語学留学することにしました。ロシア人と山旅をするうち、一度シベリアに住んでみたくなったのです。現地から招待状のコピーが届いてやっとビザ申請できました。これでやっと現実味を帯びてきました。出国は1月27日です。ホームステイ先もまだ未定ですが、アカデムガラドク内となる見込みです。ノボシビルスクの中心地から約40kmに位置していて、静かな所のようです。行ったこともないのでどんな所か想像もつきません。

◆ところで先日、山形からたまたま電話がありました。「俺よりも貧乏な」彫刻家を応援しているとか。積雪が2メートルあり、雪下ろし隊を心待ちにしているようですよ。以前も大雪で梁の一部が壊れて応急処置を施したが、また心配だなぁ、と。雪につぶされたおじさんが鷹についばまれ、鳥葬の最期とならなければいいのですが。

◆観光名所のないノボシビルスクには、口では「会いに行くよ!」と行っても実際に来る人は皆無でないかと思っています。江本さんはシベリア鉄道でロシア人やナナイ人、ブリヤート人などなどと共に酒を酌み交わしながらノボシへいらして下さい。(杉原まゆ 横浜市)


[先月の発送請負人]

 通信12月号は12月14日に印刷し、15日に発送しました。作業に参じてくれたのは、以下の方々です。
    森井祐介 車谷建太 関根皓博 村田忠彦 江本嘉伸 杉山貴章 久島弘 日野和子
 いつもながら、ありがとうございました。日野さんは、久しぶりでした。労作『きむたかの翼 沖縄の中高生の舞台 「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」構想からの軌跡』(上江洲安吉+「きむたかの翼」編集委員会)の編集で忙しかったらしい。完成させて地平線会議に1部贈ってくれました。

◆そう、日野さん、私たちを琉球に引きあわせてくれた妹尾和子さんのことです。10月1日結婚され、目下栃木県茂木から遠距離通勤の日々だそうです。おめでとう!


最多訪問国オブ・ザ・イヤー・カンボジアで迎えた2012年

■辺境案内人でチャリダーの安東です。新年はカンボジアで迎えました。昨年の海外滞在地を順に並べると、タンザニア、オランダ、ベトナム、韓国、モンゴル、カンボジア、ネパール、チベット、ネパール、雲南、インドネシア、四川、パプアニューギニア、スイス、フランス、イタリア、函館、デンマーク、グリーンランド、四国、チベット、雲南、マレーシア、ネパール、ラオス、カンボジア、タイ、雲南、カンボジアとなり、最多訪問国オブ・ザ・イヤーはカンボジアに決定です!

◆カンボジアといえばアンコールワット。150年前にフランスの探検家ムーオがジャングルの奥地に遺跡を発見したころと違って、今では五つ星リゾートホテルがたくさんあり世界中からの観光客で大賑わい。現地の子供たちはポストカードを売ろうと観光客にまとわりつき、でも売れなくたって悲壮感はなく、そのへんを元気に転げまわってる。お姉さんの売り子は、お兄さん、かっこいいね?、買って!と日本語で商売熱心で、半年前にぼくが来たことを覚えていたりする。おみやげなんて興味ないのに、かっこいいね?と言われるとつい買ってしまうぼく。どうするんだ、この象の刺繍のショール。オレはバカなんじゃないか?とつくづく思う。2012年は顔を洗って出直してきたほうがよさそうだ。

◆そんなカンボジアも観光地をちょっと離れると、格段にローカル度が増す。カンボジア最高峰に登るために、自転車で山にアプローチすると、とんでもない田舎で道路の主役は牛車だし、そもそもどこが最高峰かわからないし、英語なんて通じず路頭に迷うし、思い通りにいかないのがなかなかいい感じ。麓の村人の助けを借り、なんとか頂上にも到達できた。日本人で3人目くらいかもね?。みんなお金はないけど、村には子供がたくさんいる。日本の逆じゃないか。この国の地雷のイメージは過去のもの、カンボジアのほうが未来は明るい。

◆でもまだいってないところがたくさんある。今年は冒険にも出かけなくちゃね。(安東浩正、サンチャゴより)

あらかると・2012年の賀状から

■またまた事後報告なのですが、長い新婚旅行に出発してしまいました!チベットを通ると、ヤク、羊、ヤギ、馬などが……。モンゴルがとても恋しく思えました。今はバターの匂いのチベットからお香の香りのネパールへ、めくるめく日々続きます。(村松裕子 「謹賀新年」の書き初めを手にチョモランマBCから)

■2012年は昨年自粛したドイツ・ライン川カヌー行をやります。支流のネッカー川(古城街道沿い)を西進、ハイデルベルグを過ぎてライン川本流に入り中流域を北上し、ローレライを眺めてケルンまで、全航程300キロほどのコースを考えています。(鎌倉市永久カヌーイスト 吉岡嶺二

■暮れも賀曽利隆君とサッカーです。私はまだ走れないのですが、年明けには復帰予定!いつのまにか最年長となってしまいました。ことしは何とか国立で試合をするゾ。昨年は補欠にも入れなかった。(年賀状のカラー写真も自粛、今年は「欲しがりません!」の生活を宣言した不死鳥 三輪主彦 孫描く素晴らしい龍のイラストとともに)

■昨年は6月に新グレートジャーニー「海洋ルート」の航海が終了しました。インドネシアから沖縄の石垣島まで4700キロ、2年の予定が4年かかってしまいました。2月12日(日)16時からフジテレビ系列で4年間のドキュメントを放映する予定です。今年は脳みそを働かせたいと思っています。(関野吉晴

■地平線の仲間たちが天災・人災に立ち向かっている様子に感動する1年でしたが、戦いはまだまだ続きますね。8月上旬、地元の友人の車で勿来からJヴィレッジまで海岸沿いに北上しました。笑いがこみ上げるほど悲しい風景が続いておりました。チベット・アムドで自殺した僧侶、知っている人かも、心配です。(中村吉広

■ひきこもりの小生には地平線会議は「語る地球儀」そのものです。廻し、目を回して、目を凝らして見ています。永いおつきあいいただき、ほんとに有難く思います。「絆」を編集するご苦労、今後ともよろしくお願いいたします。(那覇「金細工またよし」又吉健次郎

■今年2012年、いよいよ北極点やります。(北海道 荻田泰永

■今年も地平線会議の活躍を期待しています。体調をくずされないように。(たかしょー 杉山貴章

■今シーズンも10月中旬より何とか北極入りすることができました。間もなく新年を迎えますが、2012年も変わらず活動を続けたいと思います。(2011年12月29日カナダ北極・レゾリュートにて。山崎哲秀

■一足早いですが地平線会議400回おめでとうございます。通信も、すごいことですね。ミズマシ1回で息切れした私としてはオドロキのロングランです。江本さんもあと50年は軽くロングランしてください。(大西夏奈子

■お久しぶりです。上智大学探検部の井口です。朝日新聞社に入社してからあっという間の1年でした。福岡にいて思うことは、九州全体が東日本大震災から「遠い」ということです。3日間だけ大槌町にも取材に行かせてもらい、考えること勉強することの多さを実感した年でした。未熟者ですが、今年もよろしくお願いします!!(福岡 井口恵理

『きょうというひ』━━雪が降ると開きたい絵本━━

■New Year has come! 高山は雪の年明けでした。寒さも厳しく、道路がカチカチツルツル? 春が待ち遠しい季節です。昨年は、「どうしたらいいの?」とうろうろしている間に終わってしまいました。今年は、実際に身体を動かす行動がとれたらいいなと考えています。そして、気になる放射線量のこと。高山市内でも測定が始まりました。値は低く、継続的に測定するようですが、森や畑はどうなんだろう。

◆大切な大地は、魔法のようにいろいろなものを育んでくれます。去年は、初めて里芋を植えました。春に植えたまま、ほったらかし。晩秋に掘ってびっくり。種イモがこぶし大に成長して、そのまわりに、ピンポン玉サイズの芋がころころ。ジャガイモの種イモは、新しく生まれる芋たちのために、元の形がすっかり無くなってしまうのに。「おいしい」と「知る」の二つの満足を得ました。

◆もうひとつの初挑戦は大豆。こちらものびのび、メチャクチャおいしい枝豆になりました! 枝豆としてだけでは食べきれず、最後は、硬い殻の中の大豆を収穫。お味噌に生まれ変わらせたいです。

◆そんな楽しい畑も今は雪の下。カエルも冬眠しています。雪が降ると開きたい絵本があります。『きょうというひ』。雪の中、女の子がロウソクを灯すお話です。女の子は「きょうというひ」のために編んだセーターやぼうしやマフラーを身につけます。ロウソクが入るくらいの小さな雪の家をたくさん作ります。小さな家の中でロウソクの灯りがゆれています。

◆「きえないように きえないように そらを みあげて いのります / きょうというひの ちいさな いのりが きえないように きえないように」。「きょうというひ」はいつなのか、何の日なのか。遠くで同じように祈っているのは誰なのか、いったいそこはどこなのか。わからないことだらけだけれど、そんなことはどうでもいい、とにかくいっしょに祈りたくなります。雪の日、温まる物語です。でもでもでも、この一年、かなわないことが多すぎました…。なのに、新しい年はやってきて、人は生活を続けざるを得ない。だからこそ、何があっても大丈夫と思いたい。普段通りの生活が「きえないように」、守っていくにはどうしたらいいのでしょう。「想像力」と「行動力」かしらん? これからが、冬本番。雪の中で、今年の農業計画を立て始めましょう。(ロマンチストな努力家 中畑朋子「去年に続いて絵本話になりました」)

累積走行37万6284km!!

■昨年の11月、犬吠崎でこれまでの累積走行37万6284kmがやってきた。地球と月の平均距離から双方の半径を引いた距離だ。毎年たった1万kmをノルマに走っていただけで、ここまできちゃったんだから自転車といえどもばかにできない。もっとも関東がほぼ半分の17万kmを、千葉と茨城がそのまたほとんどを占めちゃってはいるけれど。住んでいるのだからこれは仕方ない。なお海外はそのうちの、ほぼ3分の1かな。意外と健闘しているのが仙台と実家にはさまれた福島で、仙台在住時にはよく走った。残念なのは陸前浜街道。帰省のときには何度も往復したんだけど、次に走れるのはいつのことやら。

◆それでこれからだけど、せっかく月にきたんだから、アポロ着陸の地でも順繰りにたどっていくか。それと名物クレーター、ティコやコペルニクスにも寄ってと。峠からの風景も楽しみに、アルプス山脈やアルタイの壁も突っきるぞ。最高峰も4000m台ならば登れるかも。そして裏にも回ってと。2周するとすれば全行程は2万km、するってえと月面離脱は2013年の中秋ごろかな。ふわっと離れるのは、たぶんみなさんが来年の十五夜を眺めているころだろう。それから地球に向ってまた37万6284kmだから……、88歳ごろの帰還予定です。(自転車ののぐち

父甚蔵の目標は、今年も「健康に気をつけて100歳まで元気に生きる」です!

■明けましておめでとうございます。昨年は東日本を始め、各地で大変な目に遭われた方々がいらっしゃる中、当地指宿は台風の上陸も無く、平穏な年でした。数日前からの予報通り、小雨で始まったお正月。前日鹿児島市から帰って来た兄夫婦、甥夫婦、6人と犬2匹ゆっくり起床。おせち、お雑煮を頂いたのはお昼前でした。おとそを頂きながら、父甚蔵の今年の目標は昨年と同じで、健康に気をつけて100歳まで元気に生きる、でした。今年4月には3人目のひ孫が生まれるのを楽しみにしています。

◆穏やかな日には近くを30分程散歩。内モンゴル、チベットに行った人とは思えないほどの寒がりで(若い時からだったとか)、ほとんど家の中で過ごします。視力が落ちたと言いながらも、朝から新聞に始まり、文字を追いかけている毎日です(うたた寝も多いです)。私も父の宣言に併せて、健康と身の廻りに気を配りながら、父娘仲良くやっていきます。江本さんもどうぞ、ご自愛くださいね。いらっしゃるのを楽しみにしています。(野元菊子 鹿児島県指宿市)

比嘉小学校の閉校式は3月22日です

■明けましておめでとうございます。沖縄はこの10年間で最悪の日照不足が続いています。今日も1日どんよりした天気で、やんちゃ盛りのこやぎたちもあまり外で遊べずかわいそうですが、みんな元気にやっています。地平線の三輪さんや向後さんの年賀状に「学校」のこと書き添えていただいてあって、皆さん気にしてくれているんだと思って、ちょっと近況を書きますね。

◆とうとう比嘉小学校の閉校式は3月22日であと2か月ちょっとで学校がなくなります。閉校記念事業の打ち合わせ会議に呼ばれたりしますがはっきりいって気が重く、閉校式なんて出るもんかなんて思ったりします(たぶん出ますけど)。旦那は「閉校によせて」の作文を依頼されていて締切をとっくに過ぎているのにいまだに一行も書いていません(結局は書くんでしょうけど)。

◆でも時々対岸の平安座島を眺めながら思います。こんな過疎の島々には学校はまとめて一校で十分なのかもな、とも。冬休みには島の子供たちが毎日遊びに来て、えさをあげたり大やぎに乗ったりしてました。先日は畑の横に置いてある大きな土管を「秘密基地」にして遊んでました。学校がなくなっても、休みの日や夕方に子供たちが遊ぶ声が島から消えないことを祈るばかりです。

◆学校に頼まれて毎週月曜日に三線を教えに行って三年目。3月の閉校まで頑張って子供たちに精一杯教えたいと思います(でもしばしば三線教室がレスリングサークルになってしまうのだ、とほほ)。

◆きたる1月23日がこちらの正月、つまり旧正月です。シルミチューでの年頭御願には私たちも毎年三線を弾きますが、島の子供たちも三線を弾いたり踊りを舞ったりします。この日は平日でも日曜日でも、学校ぐるみで児童と先生が参加します。6月のハーリー大会も、7月の豊年祭もそうです。子供たちがいるから行事も盛り上がります。学校の理解あってこそです。この素晴らしい伝統が、学校が統合されても続いて欲しいなと切に思います(たぶん無理でしょうが)。ではまたなんかあったら連絡しますね。(浜比嘉島 外間晴美


[通信費をありがとうございました]

 先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて支払ってくれた方もいます。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。通信費の振込先はこの通信の最終ページにあります。
高松修治/岩淵清(10000円)「通信費と残りはかんぱでお願いします」/宮崎拓/長澤法隆/荒川紀子/安藤巌乙/米満玲(4000円)/荒川昭/中島恭子


マタギサミット、今年はやります!!

■東北芸術工科大学教授の田口洋美さんからの賀状には「震災、放射能、東北はさんざんです。野性動物汚染、狩猟の後退、とんでもない事態です」と書き添えられていた。田口さんはマタギサミットを長年主催していることで知られるが、昨年だけは3.11の影響で延期となった。きのう17日夜、「ことしはやります」と、以下のようなメールが届いたので地平線の皆さんにもお知らせしておきます。(E)

皆様、大変御無沙汰を致しております。
 『ブナ林と狩人の会 : マタギサミット』の幹事、田口洋美です。

 今年で『ブナ林と狩人の会 : マタギサミット』も23回目となりました。昨年は、東日本大震災と長野県北部地震のため、9月に猟師さんたちだけで小さな集まりを秋田県由利本荘市の「フォレスタ鳥海」で実施しました。あまりにも被害が大きく、その後の対応に苦慮致しましたが、猟師さんたちの要望からそのような会の開催の仕方になりましたことをお伝え致します。

◆さて、本年ですが6月30日-7月1日に昨年予定しながら延期となりました岩手県遠野市での開催が決定致しました。会の内容の詳細につきましては、これから岩手県猟友会、遠野市と詰めて参りますが、今年の会は被災地を支援することを目的に大きな会を予定しております。そこで事前に開催日をお知らせし、皆様に御予定を空けて頂くため、お知らせする次第です。

◆昨年の被災以来、東北の狩猟は大きな危機的状況にあります。特に、東北地方太平洋岸に暮らしておられた猟師さんの被災、津波による銃砲の流出問題、さらに野生動物の放射能汚染問題と複数の問題が一挙に押し寄せております。このような状況下でより良い野生動物の保護管理を進めてゆくための施策、手法上の新たな開発が求められています。これから、関係各位の御意見を伺いつつ、会の内容を詰めてゆきますが、皆様の御支援と御鞭撻を賜りたいと思います。詳細が決まり次第、改めて御連絡を致しますが、開催日は決定致しましたのでどうか御予定をお空け下さいますよう、お願い申しあげます。(田口洋美 東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科)

世界の登山界では寒い国のロシア、ポーランドを含む東ヨーロッパが元気ですね
──2003年以来13か国27回目の海外講演で中村保さんが感じたこと

■明けましておめでとうございます。2012年は良い年でありますように。12月6日に東ヨーロッパから帰国しました。たいへん思い出に残る旅でした。プラハでの講演は2003年以来13か国27回目の海外講演になります。一昨年秋以来一年間苦しんだ「眩暈、ふらつき」はすっかり治りました。人間の体は不思議です。ブルガリア、チェコでの様子を簡単にご報告します。

◆[プラハ国際アルピニズム・フェスティバル?チェコ(12月1-4日)]18年の歴史をもつチェコ・プラハの国際アルピニズム・フェスティバルの規模はヨーロッパ最大(世界最大かも)で、毎年3,000人以上が参集します。日本人が招聘されたのは小生が初めてです。今回のフェスティバルはネパール山岳2011年を記念してネパールのAsian Trekking (P) Ltd.(Ang Tshering Sherpaさんの会社)が協賛しました。その関係で小生の親しい友人Ang Tsheringさん、ネパール山岳協会会長、ネパール外務省高官を含め5名がネパールから参加しました。

◆プラハ市のNational Houseが会場で大がかりな展示、アウトドア用品会社の出店、オーストリア・チロルの大きなブースなどじつに充実しています。講演のためのホールは一階だけで550席の椅子(最大800席可能)があります。 大スクリーンの映像は鮮明です。今年も多くのアルピニストが招待されていました。アメリカのMark Richey (今年のサセル・カンリ II峰 7518m初登頂を紹介、美しい映像、1985年のインド日本隊の記録を修正)、ヨーロッパ大陸で最も著名な登山家の一人、オーストリアのPeter Harbeler(1978年にメスナーと一緒に初のエベレスト無酸素登頂)、スペインのEdurne Pasaban(女性初のヒマラヤ8000m峰14座完登)など多彩な顔ぶれでした。Markさん夫妻とは10月の国際山岳連盟(UIAA)年次総会(今年はカトマンズにて開催、小生は招待講演をした)で会ったばかりです。

◆ネパールについては、エコ・リサーチとレスキュー・プログラム、2012年春に計画されている3か月間でカンチェンジュンガからネパール最西端まで踏破するネパール東西横断トレッキング(The Great Himalaya Trail)が紹介されました。連日たくさんの聴衆がホールを埋めていました。若者も多かったです。小生の講演には400人ほど集まってくれました。テーマは「To the Final Frontier-Alps of Tibet and Beyond」で1時間半のスライドショウの後に東チベットの許可問題などたくさんの質問を受けました。

◆チェコの山岳誌“lide & HORY”(人と山)で紹介されます。関心の大きさを再認識しました。そして、幸いなことに英語/チェコ語の超一級の女性の通訳に恵まれ、その素晴らしさに感服しました。講演の終わりの挨拶で「東チベット奥地への許可取得は極めて厄介だが、もっと難しいのは家内の許可です。いつも今度が最後だと言って出かけて行くので信用してくれません」と話したらナイス・エンディングだと言って褒められました。

◆[バンスコ国際フィルム・フェスティバル?ブルガリア(11月23-27日)]秋のポーランドでの世界探検家フェスティバルが縁でブルガリアのバンスコに招待されました。バンスコは首都ソフィアの南170km、海抜925mに位置し、東ヨーロッパ随一のスキー・リゾートです。地元の人によると10数年前にはホテル僅か3軒でした。今はホテル、リゾート・マンションが200軒も建っています。背後のピリン山塊はユネスコ世界自然遺産になっています。2012年2月にはアルパインスキー・ワールドカップ・バンスコ2012が開催されます。

◆小生は今年のフェティバルのメイン・ゲストの栄誉に浴しました。今までのメイン・ゲストはReinhold Messner, Krzysztof Wielicki, Walter Bonatti, Kurt Diembergerなどです。開会式には賑やかにブルガリアの民謡、民族舞踊などが披露されました。ゲスト8名の国(日本、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ポーランド、マケドニア)の国旗が踊りと共にはためき、歓迎の意を表してくれました。感激しました。ドイツからのゲストの登山家の祖父は1930年代にヨーロッパアルプスの山岳ムービーを初めて撮ったヨーロッパの写真家で1937年に来日し、原節子のデビュー作の映画を撮った由です。

◆200人ほどの聴衆を前に、講演のテーマはプラハのフェスティバルと同じですが、小生を紹介する主催者の挨拶でPeter Atanasovさんは英文ジャーナルJapanese Alpine News(注・中村保さんが編集する日本山岳会発行の英文年報。中村さん以前にはなかった)に触れ、内容がクライミングだけに特化せず、広範なテーマを取上げており、自分たちの手本にしたいと持ち上げてくれました。編集者冥利に尽きます。これとは別に中学生の地理の勉強のために2009年秋の踏査行のスライドショーを行いました。近在の中学生と大人が150人ほど来てくれました。

◆日本人にはブルガリアはヨーグルトと琴欧州で馴染みですが、「薔薇(ローズ)」が有名な国です。バンスコでは海外で初めて日本語女性通訳に助けられました(注・中村さんは通常英語で講演をする)。ソフィア大学の日本学科で勉強し、日本の外務省海外留学生招聘制度の試験に合格し3年前に大阪大学に一年留学しています。現在はソフィア大学大学院修士課程で日本学を勉強しています。たいへん意欲的で優秀な女性です。

◆両国で本当に心暖かいもてなしを受けました。新しい友人が増え世界がさらに広がりました。現在の世界の登山界では寒い国のロシア、ポーランドを含み東ヨーロッパが元気ですね。(中村保


[あとがき]

■東京では乾燥注意報が連続34日連続となった。乾燥注意報が現在の基準で出されるようになった1967年以降で、3位タイの長さだそうだ(最長は73年から74年にかけての65日)。空気の乾燥は私の場合、鼻が「モンゴル状態」になるのですぐわかる。湿度が低いモンゴルでは鼻の中が乾ききって鼻づまりが進行し、時には少量の出血をともなう固まりが飛び出すのだ。

◆アスファルトの道路も乾燥しきっている。年に1度のプロのシャンプーで暮れに見違えるほどきれいになったばかりの麦丸は、モップよろしく道路を掃除しながら歩いているのであっという間に薄汚い灰色毛になってしまった。

◆今月も「水増し号」を同時発行することとした。内容は地平線の誇る若き才媛2人にまかせているので目下は知らないが、どうも麦丸のことも出るらしい。不思議です。編集長の知らない号が別に出るなんて。

◆今月はいろいろ欲張って締め切り遅れ、森井さんに迷惑をかけました。いつもありがとうございます。(江本嘉伸

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

サヨナラの理由(わけ)

  • 1月27日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

◆3・11から約一年。日本のエネルギー政策に大打撃を与えた原発事故は「収束」どころか未だ現状把握すらできていません。「脱原発は自明の理。でも原発は一旦導入すると、経済的にも社会的にもやめる方が難しい」と言うのはノンフィクション作家で地平線会議発起人の一人でもある森田靖郎さん(66)。

私達は原発と別れる理由をしっかり認識してこれからの困難に向き合うべきだと語ります。「戦後の日本のカタチは、ある三人の人物の生き方が礎になっていると思うんだ。善し悪しではなく、この三人の、その時代に適っていた考え方が結果的に今の日本を作り、その中に原発導入もあった。日本人はこの選択がヤバイと気づく機会もあったはずだけど……」と森田さん。「原発をキチンとやめるためには、今まで以上に金、人材、技術が必要になる。感情的な反原発ムードで、原子力の研究自体が衰退することが実は一番危ない」。

今月は森田さんと一緒に戦後の日本が乗っかってきた“仕掛け”ついて考えます。原発選択にも繋がったこの仕掛けとは? 三人のキーパーソンとは誰か? 初披露の森田仮説をお楽しみに。


地平線通信 388号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2012年1月18日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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