2014年1月の地平線通信

1月の地平線通信・417号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月15日。2014年年頭の地平線通信をお届けする。最初に、相模原市で犬の散歩に出たまま行方不明になっていた11才の少女が4日ぶり今日未明、茅ヶ崎市で無事保護された、とのニュース、ほんとうにほっ、とした。最近、しばしば起こる突然不明事件、辛い結果となることがあまりにも多かったから。この間、少女が何をしていたのか不明だが、それでもいい。

◆猛烈な寒波が襲来している。北海道の陸別町で氷点下25℃など今日も日本列島は冷え込んだ。東京都心も1.8℃、昼になっても2.8℃とほとんど上がらない。麦丸(今日はセーターを着せた)の散歩で道行く人々が9割方、手袋をつけていることを確認する。ああ、早く軽装、素手でジョギングできる日が来ればいいな……、身勝手さに呆れつつ思う。5か月前の去年8月14日、41℃という、史上最高気温が四万十市で記録されたばかりではないか。

◆あの時は皆、どうやって暑さから逃げるか、それだけを考えていた。日本列島の四季の変貌の激しさに感動しつつ、寒暖をコントロールしてくれる電力エネルギーというものの重さを考える。快適な時間を求めて、われわれはなんと自由にエネルギーを消費してきたことか。その問題が突然やることになった東京都知事選で問われようとしている。

◆借りた5000万円の性格を結局きちんと説明できなかった猪瀬直樹知事の辞任で23日に告示される都知事選。きのう14日、「脱原発」を掲げる細川護煕元首相が小泉元首相の全面支援を取り付けて公式に立候補を表明、この顔ぶれでの「脱原発」なら最強、というところだが、まだ予断は許されない。76才という年齢、16年前、借りた1億円の問題で辞任した経緯などじくじく掘り返される材料がいろいろある。この立候補がどんな波及効果を持つか、まだわからない。

◆2月になると、ソチ冬季五輪だ。世界選手権で驚異的な16勝をあげている17才の少女ジャンパー、高梨沙羅、41才で197メートルの大ジャンプをした葛西紀明、そして男女とも日本勢が有力メダル候補となっているフィギュア・スケートなど、日本は、私を筆頭ににわか「冬季スポーツ評論家」であふれるだろう。

◆冬季オリンピックと言えば、「虹と雪のバラード」だ。♪虹の地平を歩み出て 影たちが近づく 手を取り合って……♪「トア・エ・モア」がハモるあのメロディーは今もカラオケで感情をこめて歌える。1972年2月のSAPPORO。前年のプレ五輪含めふた冬続けてこの北の町にいて、初めてお邪魔した「すすきの」のバーでこの歌は一番人気だった。

◆尻餅ついてもその笑顔で会場を湧かせたフィギュア・スケートのジャネット・リン(米)の愛くるしい表情はほんとうに忘れがたい。敬虔深いクリスチャンである18才の少女は、その後5人の子の母となり、ことしは還暦となるはずだ。今では長野五輪のジャンプ陣の団体金メダルが記憶に新しいが、「日の丸飛行隊」の名がついた、1972年2月6日、宮の森ジャンプ競技場でのジャンプ陣の活躍も特筆に値した。札幌オリンピック4日目。70メートル級ジャンプに出場した笠谷幸生、金野昭次、青地清二が次々に飛び、金、銀、銅を獲得した、あの時の歓声。

◆食いしん坊なので、どんな思い出も「食」と結びついている。札幌で強烈に覚えているのは「保温弁当箱」との出会いである。長時間冷え込む雪の中にいる者にとって、あったかいご飯ほど元気づけられるものはない。ご飯、おかず、そしてみそ汁までジャーに入ったものが届けられるなんて思いもしなかった。冬季登山を何度も体験していたが、そこでの行動食は冷たくて当然、という感覚だったので、こんな贅沢していいのか? と、ただただ感激した。

◆12月の地平線報告会。サバイバル登山家・服部文祥とチュコットの狩人ミーシャとの出会いが報告された中に、何度も食の話が出ていた。詳しくはレポートを読んでほしいが、「保温弁当箱」など無縁の世界にやはり大事なことがあるのだ、とつくづく思う。ついでながら、NHKBSで服部君とミーシャのドキュメントに次いでおととい13日には「謎の山・未知の谷」という、関野吉晴探検隊の記録が放映された。ギアナ高地の中でも未踏のワチャマカリという山に登るのだが、そこで関野たちが遭遇した「大みみず」にぶったまげた。なんと1.5メートルもあるのだ。

◆3.11から間もなく3年。2014年は冒頭、南三陸町の若き漁師をお招きし、いま、海はどうなっているか、そして防潮堤の問題とは何か、を話してもらいます。ことしは、あらためて東北に目を!!(江本嘉伸


先月の報告会から

チュコトのサムライ

服部文祥

2013年12月27日  新宿区スポーツセンター

■12月、年の暮れの報告会。報告者は、1月にも登場した服部文祥さんだ。2013年は、服部さんで始まり、服部さんで終わる!今回の話は、NHKBSプレミアムの特別番組「地球アドベンチャー・冒険者たち」(「北極圏サバイバル・ツンドラの果ての湖へ 登山家・服部文祥」14年1月2日放送)の企画で行った北極圏での、偶然出会ったトナカイ遊牧民「ミーシャ」との旅。極東ロシアの北極圏(チュコト自治管理区)には、350万年前に隕石が落ちてできた隕石湖(エル・ギギトギン)があり、氷河期に深い所で環境に適応して生きていたイワナが、28年前に新種として発見された。そこで企画は、「(人力では)前人未到のツンドラの奥地を、遊牧民にツンドラでの生活技術を学んだ『サバイバル登山家』が徒歩で旅して、幻のイワナを釣る」というもの。ディレクターは、映画『プージェー』でおなじみの山田和也さん(服部さんが話しにくいだろうと、報告会は欠席。二次会に来られました)だった。

◆開始時刻に会場はいっぱい。「放送前のため、ここだけの話に」というお願いのあと、服部さんの報告が始まる。「何度も聴いた人もいるかもしれないけど……」。まずは「自分は何者か」の自己紹介から。今回の旅は、特にバックグラウンドが重要なのだ(詳しくは、ご著書や、290、351、405回の報告会レポートを!)。登山を始めたのは大学の時。本多勝一に憧れて「書きたい、表現したい」という俗な気持ちから、自分にとっての「現場の体験」を求めてのことだった。しかし登山は服部さんの身体に合っており、夏は藪漕ぎ、冬はラッセル。自然の中に隔絶される行為にのめり込む。

◆「ラッキーだった」と言うのは、「山登りで一旗あげたい」と危険な登山を続ける中、96年(26歳)にK2登山隊に参加、登頂できたこと。「K2のサミッター」となり、対外的(説明しやすい)にも(見栄っ張りなので)精神的にも、楽になったという。K2ではまた、現在の服部さんが在る上で欠かせない出会いもあった。パキスタン人のポーター達だ。山間部で自給自足する彼らの方が、自分よりかっこいい。経済格差を使って荷揚げを頼み、これで「山に本当に登った」と言えるのか。この時の疑問から、「自分の延長線上にあることをしたい。そこで深いことができる」と考えるようになった。

◆K2登頂後、白山書房から現在の「岳人」編集部へ転職すると、冬の黒部や剣岳のエキスパートである和田城志さんとの登山、テンカラ釣りの師匠、瀬畑雄三さんと沢に行くこともできた。同時に、自然に手を加えず自分の身体だけで岩壁を登る「フリークライミング」を始め、「山を本当に登る」ためにこの思想を登山で行ったのが「サバイバル登山」(詳しくは『サバイバル登山家』を)だ。装備は極力排し、食料は山の中で調達。なるべく長く、道のない山塊を旅してゆく。

◆山行中イワナを釣り、「意思を持って殺して食う」経験を重ね、その延長線上で「肉も自分で殺すべきだ」と気づく。22歳の時、フンザの肉屋(『サバイバル登山家』)が牛の頭を石で殴り殺した瞬間に目を逸らしてしまった体験から、「自分は肉を食う資格があるのか」と考えたことも土台としてあった。それで始めたのが「狩猟」であり、サバイバル登山からの発展「狩猟サバイバル」(詳しくは『狩猟サバイバル』を)だ。最終的には「狙う・追う・狩る・殺す・解体する・降ろす・料理する・喰う」のサイクルを全て自分一人でやりたい、と小菅村の狩猟チームに入り、現在8シーズン目となった(3シーズン目までのことは『狩猟サバイバル』に)。

◆「嫁さんがきれいで頭がいい。子供が3人とも元気なのはラッキーだ」、という家族と住む横浜の家では、3月から鶏を飼い始めた。1羽1羽性格が違い、産む卵も日や餌によって味が違う。今は鹿の雑肉を餌にしているため美味しいなど、飼わないと判らなかったことを発見する毎日だという。

◆狩猟を始めた頃、獣を殺す体験をしている人達の本を漁る中で、服部さんのスーパーヒーローとなったのが、ロシア極東の猟師「デルスー・ウザーラ」と、北極圏の最高の探検家「フリチョフ・ナンセン」。ナンセンは大学の教授で、1893年(31歳)に4年の計画で船での北極点通過を目指し、ルートが逸れたと判ると船を降り北極点に歩いて向かうという、当時誰もやろうと思わなかったことをした人物。途中、セイウチやシロクマを撃ち貯めて北極圏で越冬までしたその探検旅行が「人類史上最高の探検」だと、服部さんは考えている。

◆その二人のヒーローに所縁あるのが、極東ロシアの北極圏。じりじりとの今回の旅へと話が近づいてきた。ここまで、既に1時間経過。最初、「チュクチは(話すのに)そう時間はかからない」なんて言っていた服部さんも、ちょっと焦っている。急いで進もう。モスクワは国境地帯のため、海岸線から5キロは撮影できない。旅行中もスタッフがGPSを携帯し(服部さんは見ない)、国境警備隊に毎晩居場所の連絡が必須とされるなど、難しい場所だった。徒歩旅行は、予定していた南からのルートの許可が下りず、北ルートから向かうことに。

◆会場の白い壁に、現地のコーディネーターが用意してくれた、貼り合わせた地図(20万分の1)の写真が投影された。気を利かせて拡大コピーしてくれたようだが、拡大率が異なったため、距離を見るのに苦労したそうだ。次に取材チームの集合写真が映され、メンバー紹介。ディレクターの山田さんにカメラマンの佐々木さん。日本チームの受け入れ先となった、サンクトペテルブルク出身の口ばかりで胡散臭いアレキサンダー。同じくサンクト出身で「都会の若者」風の、通訳のパーシャとポーターのアレクセイ。パーシャは生肉をハンカチで持つインテリで、アレクセイはちょっとお馬鹿な体育会系。「50分歩いたら10分休むのがいいぞ」と、服部さんに登山を一から教えてくれたという。

◆そんなメンバーで、モスクワから飛行機に乗りペベックという鉱山の町へ。北東航路の中継地の小さな町は、永久凍土で覆われ物資は空輸に頼るため、物価がモスクワの3倍だった。トラックやキャタピラ車の手配、国境警備や警察の許可を取った後、まずはトラックで出発。遊牧民を探すため、キャタピラ車に乗り換えてツンドラ地帯に入って行く。半日進むと、荒野の中に人が立っている。写真の男性は、着古した洋服に長靴を履き、背中にはぼろぼろのザックを背負っている。ミーシャだ!

◆「何してるの?」と聞くと、「旅行してる」。「テント持ってる?」「うん」「食料は?」「あるよ」。背中の鉄砲を指し、これさえあれば大丈夫と言うミーシャを、服部さんは「むちゃくちゃかっこいい」と思った。「コンロは?」「たき火でいいよ」。出発前、アレキサンダーは「ツンドラの中たき火では死ぬ」と言っていたのに……。湖までの旅に誘うと、ミーシャは行くという。「連れてっていい?」聞くと、ロシア人達は反対、山田さんは快諾した。

◆近くにあったトナカイ遊牧民のキャンプ地へ。簡易テントが張られ、ぺベック市から借りているというキャタピラ車もあった。チュクチ族はソ連時代定住化政策で定住させられたが、ソ連崩壊後に遊牧へと戻った者が多い。現金収入がない彼らは、文化保護のため市から支援を受けているようだ。「チュクチ族は、いい意味で、プライドがめちゃくちゃ高い」と服部さん。ミーシャは36歳、読書好きのインテリで、黒澤映画も観ている親日だった。

◆このキャンプ地では、怪我した家畜のトナカイの解体を見ることができた。横からナイフを入れ(鹿は真ん中から)、毛皮が重要のためきれいに皮を剥がす以外、日本とあまり変わらない。肉の味は、「口惜しいけど、鹿よりかなり美味しい」そうだ。トナカイ遊牧の仕事も見た。半径4キロに点々と散ったトナカイ(3000頭)を、オオカミが襲ったり、野生のトナカイが来てメスを連れて行かないように、ぼーっと座って見ている。彼らに「なにしてんの?」と聞くと、一言「管理」。現地のやり方を知るため、「魚を釣って欲しい」と頼んでも、「ああ、魚は深い所にいるよ」なんてちゃんと答えてくれない、とぼけた面もあったという。

◆ミーシャの親戚のいるキャンプにも行き、そこではトナカイの毛でできた服を着させてもらった。「すごいな、かっけえな」、そう言ったらくれたという貴重な帽子(額の部分はトナカイ10頭分の額の皮で作ってある!)が、会場を回る。冬の準備である毛皮の処理は、トナカイの糞に漬けて油を取り、木の皮と一緒に煮込むという。どっしりふかふかの帽子は、独特の臭いがした。

◆放牧民の生活を知ったら、いよいよ徒歩旅行だ。湖での撮影に備えて機材と共にヘリコプターで先に向かう山田さんと別れ、ミーシャ、服部さん、カメラの佐々木さんが前を歩き、ロシア勢3人のサポート隊は後からつづく。ジェニアは遊牧民のミーシャを馬鹿にしており、アレクセイはなにも考えていない。インテリのパーシャは、都会から来た自分がミーシャに嫌われているのが判っている。3人3様の彼らはよく喋り、チャンスがあれば野生のトナカイを狩りたいミーシャは嫌がった

◆あと15分しかない! 2日のキャンプ地。「俺は魚を釣るから」と言うと、ミーシャは鉄砲を出して「俺は山に行くよ」。自分はこういう瞬間を求めていたのだと気付いて、服部さんは「ぞわぞわ」した。カワヒメマスを5本釣り上げて戻り、捌いていると、ミーシャもにやにやして戻ってきた。手には同じく5本のカワヒメマス。山には獲物がいなかったので、釣りに切り替えたらしい。ウハー(魚のスープ)にムニエル。佐々木さんと3人で10本を食べた。

◆川沿いに歩いて3日目、対岸にトナカイの群れがいる。「ミーシャ、あれ」「ちょっと遠い」「獲ろう」「キャンプを張ることになるぞ?」「いいいい。獲れたらキャンプ、獲れなかったら進もう」「それはグッドアイディアだ」。二人の会話は、片言のロシア語と片言の英語。だが、やることは決まっている。徒歩旅行では「歩いて、キャンプして、飯食って……」。狩りについても同じだ。群れは行ってしまったが、川向うの遥か遠い斜面に点々といるトナカイを見つけ、ミーシャが「にかっ」と笑った。今までの狩猟の経験から、ミーシャの頭の中で段取りができていることを、服部さんは理解したという。

◆「ターン」、遠くの銃声に気づき、服部さんと佐々木さんが川を渡ってミーシャを追うと、100キロはある4歳のメスが止まっていた。内臓を出しても60キロある。服部さんは、皮を剥いでぬるぬると滑るトナカイを担いで水温5度以下の川を渡り、(ミーシャと交代するつもりが、話が通じていなかった)さらに1キロ程歩いた。儀式なのか、ミーシャはトナカイの頭蓋骨をのこぎりで切り、脳みそを出して食べる。目玉もくり抜き、じゅるっと食べる。服部さんも食べた。

◆ロシア勢は、「日本人の前で獣を狩るな」とミーシャに圧力をかけていたそうだ。野蛮だと思われたくなかったらしい。そのため肉を渡そうとすると、ミーシャは「やるな」。「あいつらは判ってない。これが本当に生きるってことなんだ」と滔々と言った。「自分も同じだ、『本当に生きる』ことを求めてここにいる」。服部さんは、「『ミーシャを正当に評価できるのは自分だ』と思ったし、ミーシャも『自分が正しく評価されている』と感じてくれていると思った」。

◆10キロ程の肉を担ぎ先へ進むと、急激に寒くなり雪が降ってきた。1日停滞した、5日目のキャンプ中……。会場で服部さんは、体験がよみがえったのか、言葉が間に合わずもどかしいとでもいうように、早口に話していく。半日がかりで薪を集め熾したたき火を囲み、肉のスープを食べている時、3人のロシア人のいる離れたテントを指して、ミーシャがなにか言おうとして、うーんと考えた。彼らはテントから出ずに、乾燥食品を食べている。「あいつらさ、あいつらさ……」。「あっ」と気づいた顔をして、ミーシャは言った。「あいつらは、『ノーロマンチック』だ!」。

◆通常「ロマンチック」と言えばイルミネーション煌めく夜景、なのかもしれない。でも「たき火にあたってツンドラの風を受け、飯を食っている、俺たちこそがロマンチックなんだ」と、ミーシャは言っているのだ。この台詞を聞いただけで、ここに来た価値がある。それに「本当の野蛮とはなにか」と考えている、こんなやつがいるんだ、という喜び。それは服部さんにとって、まるで「恋に落ちた」かのような体験だった。

◆ここまでで、江本さんの「時間延長宣言」が2度出されている。でも、まだ用意した写真の半分しか来ていない。つづきはウエブならぬ「テレビで」なんて言いながら、駆け足で湖のことを。9日後、峠を越えて湖に着き、山田さんと合流。そうだ、企画の目玉は「幻の魚」なのだ。

◆例年より冬の到来が早くて湖が凍り始める中、軽量ゴムボートで漕ぎ出すと、水は透明度が高く生命感がないし、気温も−10℃と寒すぎてリールも竿も凍ってしまう。撮影用のカヌーはそばにいるものの、落ちたらやばい。カメラの佐々木さん以外は諦めて「頑張ってだめだった姿を撮ろう」と思っている中、運よく一匹釣りあげることができた。新種ではないが「これで番組になる」と喜び、食べるため内臓を開いてみると――。小さな魚が入っており、それがなんと新種のイワナ、スモールマウスチャーではないか。生きた魚ではなかったが、確かに釣ったのだ。NHKに「ネタバレ禁止」と言われていたそうなのに、「これがオチです」と服部さん。

◆吹雪になったためヘリコプターでペベックへ戻り、今回の旅は終った。とはいえミーシャと服部さんにとっては、「獲物を狩り食べて進んだ所でもう完結してしまっていた」という(みなさん、番組を観られただろうか。その言葉通り、90分の多くはミーシャとの旅で、釣りのシーンは僅かだった。服部さんの思いを柔軟に受け入れて番組にした、山田さんの度量たるや!)。

◆服部さんは、アルパインクライミングから外れた自分、「サバイバル登山」という行為に、自信が持てないこともあったという。「けれど今回ミーシャと出会い、共に旅をして、今までの自分のやってきたことは、間違っていなかったと思えた。ミーシャのような人間が、きっと世界中にいる。ならば、世界も、自分も信用できる。そう感じられたことが、ものすごい喜びだった」。

◆熱が伝わる。まるでミーシャへ、ミーシャのいるこの世界への、告白を聞いているようだ。二次会で「幸せな出会いがあって、逆に『もう満足』ってなりませんか?」と俗な質問をすると、服部さんは「いままでと同じく、淡々とやるだけ」と言い切った。服部さんは、どこまで「深化」するのだろう。楽しみです、と書いては、それを「正当に評価」できる人間であるのかと、己が問われるはめになる。なんと書いて終わっていいか、判らない。(この日は、「ロマンチック!」を合言葉に3次会野宿しちゃった・加藤千晶


報告者のひとこと

今この瞬間にも世界中にミーシャは生きていますよ

■結構いろいろしゃべっているうちに時間がなくなってしまってすいませんでした。頼まれてスライドトークショーをすると時間が余ってしまうことが多いのですが、地平線の場合は聞き手を信用して話せるためか、ついつい細かい深い事情や考えまで説明してしまい、時間が足りなくなるようです。

◆ただ海外に行けばいい時代は終わったというか、旅には金持ちののぞき見主義的な側面もあることを、旅する側が意識していないと無邪気すぎて破廉恥だと考えています。私は自分の中にそういう面を見いだして海外旅行を近年控えていたのですが、今回はミーシャと出会えて本当にいい旅ができました。ちょっと否定していた海外の旅ですが、あらためてその魅力を感じました。

◆またいい旅をするために、そして第2 、第3のミーシャと出会ったとき恥ずかしくないように、今後も自分の活動をちゃんと行おうと思っている次第です。みなさん、今この 瞬間にも世界中にミーシャは生きていますよ。(服部文祥


2014年新春の地平線ポストから

知れば知るほど知っていないことが増える世界で地平線会議が発し続ける役割

■「日本最高気温を記録した四万十市の冬はやっぱり暖かいの?」「いえ、住んでいる人間には普通に寒いです。沖縄の人が冬は寒がるのと同じです」と、ここ数年恒例の江本さんとの新年の電話挨拶。偶然にもこの日(1月5日)、 高知新聞は「海外旅行自由化50年」を特集していた。「日本の庶民にとっての文明開化(国際化)だった」と。「近年、海外を目指す若者は減少している」とも。

◆今年2014年で地平線会議は35歳になる。発足(1979年8月)の趣旨は「地球の隅々まで出かけるようになった日本人の記録を残そう」(江本)だった。以後、なんと多士済々の面々が歴史を刻んできたことか。地平線会議の35年の履歴書と私の成人以降の川と森の地球遍歴とはパラレル進行だった。35年のうち12年は海外、16年は四万十暮らし。足早に「地平線」前夜と「地平線」以後を考えてみた。

◆1964年・海外旅行自由化、東京五輪開催。72年・海外渡航者年間100万人超え。79年・地平線会議発足、「地球の歩き方」創刊。90年・海外渡航者年間1000万人超える。2012年・同1800万人超える。振り返ってみて、日本人の海外体験は地平線会議設立(「地球の歩き方」も同年創刊)の1979年頃を境に大きく大衆化したことがわかる。

◆プレ「地平線」は、戦後(第二次大戦、1945年終戦)、焼け野原から復興した日本の大学山岳部員の中にヒマラヤの高峰を目指す人たちが現れた時代。海外に自由に渡航できる前で、純粋に登山では無理でも、調査なら政府の許可が出ると各大学の山岳部員たちが探検部を創設し始めたのが60年前後。外国の辺境に行くことが大ニュースになる時代でスポンサーがついた。

◆こうして、戦後海外探検のエキスパートたちはプロ(マスコミ人、研究者、ライターなど)となり、ヒマラヤの高峰から世界の辺境までに足跡をのばした。渡航自由化10年後(70年代中期)になると、学生でもアルバイトして資金稼ぎすれば海外遠征できる時代になっていた。1ドル365円の固定相場から1ドル200円台前半の変動相場制になったことも大きい。

◆アプレ「地平線」時代。1960年前後生まれの私たちの大学入学の頃は、初期海外遠征先駆者の大先輩と海外遠征から帰ってきたばかりの身近な現役先輩まで多彩で活況を呈していた。1978年の「全国学生探検報告会」を取材した江本さんが主要な人たちに声をかけて翌年「地平線会議」誕生。その後、地球体験者は増え続けた。同年創刊の「地球の歩き方」はハワイやアメリカ西海岸の貧乏旅行者の情報で始まった(らしい)。

◆今や「地球の歩き方」はすっかりメジャーに。「地平線会議」は知る人ぞ知るが、メジャーではない、と思う。「人の行かないところに行って、人のやらないことをやる」少し(かなり?)変な人たちにして、いつまでも子供の目をした少数派の集まりなのだから当然、と、ひとりガッテンしている。「地球の歩き方」=誰でもマネできることが価値(大衆化する)、地平線会議=誰もがマネできなければできないほど価値(先鋭化する)、と目指す方向が180度違っていたのだろう。それが同年に始まったのは偶然か必然か分からないけれど、日本人の海外体験の多様化へのエポックメイキングな時期だったかもしれない。

◆「地平線会議」が次々若者も参加し35年も続いてきたのは、チープだけでなく、より創造的な地球体験をしたい人に新鮮な体験情報を発信し続けてきたからではないのか。これまでの蓄積と情報技術の進歩で35年前苦労して集めていた情報が簡単に入手できる時代。「もう新しいことはない」というのはたやすいけれど、「そうかな」。

◆最先端の宇宙物理学者による宇宙の案内書に「宇宙の95%は正体不明」とあった。過去50年で飛躍的に宇宙理解は進んでいるのに、この言葉だ。知れば知るほど知っていないことが増える良い例だろう。地球環境問題、民族国家間の紛争ひとつとっても人類は地球や他国とのつきあい方に回答を得ていないように、生身の地球体験の蓄積はまだ始まったばかりなのだと思えてならない。

◆やがて21世紀生まれの若者が顔を出すようになる時、地平線会議が魅力を発し続ける役割は多いはず! 地平線という言葉にふるいたつ若者は何時になってもいるだろうから。「地平線会議はその青少年たちに次にどんな夢をみせられるか」が課題なんだろうな。35年前、まだ「地平線」という名前がつく前の先輩たちの熱気に大いに影響受けたのがつい先日のような気がする。(山田高司 今は雌伏の四万十住人)


■ことしは97才になります。腰は曲がりましたが、娘・菊子と犬のさくらと共に楽しく過ごしております。皆様もお体を大切にお過ごしください。(鹿児島県開聞岳山麓住人 野元甚蔵


■介護福祉士に合格しました! 今年は地平線会議に顔出せたら、と思っています。(愛知県瀬戸市 鰐淵渉


旅人には平和と友情が必要なのだ

■年が明けて3.11から早3年、大震災を忘れて東京五輪、原発事故も忘れて再稼働と外国への売り込み。どうも日本人は忘れっぽくていけません。冷戦終結から四半世紀、各地で民族・宗教の対立が先鋭化し中東やアフリカがきな臭くなり日本列島の周辺も怪しい雲行きだからと今年は「戦争が出来る国」に衣替えでもしそうな勢い。

◆憎悪と貪欲が行きつく先は悲惨な世界だと分かっているのに慈悲と寛容を忘れた智慧で自然を支配し他民族を隷属させる技術ばかりを進歩させた結果、環境は破壊され暴力が横行し難民流民の大波が発生。それは苛酷で絶望的な悲劇でしかなく、感動的な発見の「旅」とは別物。やはり旅人には平和と友情が必要なのだと改めて思うのであります。(『チベット語になった坊ちゃん』著者 中村吉広

郷里の新年会で、友人たちから好戦的な言葉が飛び出した時にはぞっとしました

■日露戦争から110年。この国に再び暗雲がたれこめているように感じるのは私だけでしょうか。我が業界ながら、マス・メディアはすっかり使命を忘れ、強い者に尻尾を振っているのは情けないかぎりです。そのメディアの宣伝によって、反中、反韓の声が大きくなってきました。

◆郷里の新年会で、友人たちから好戦的な言葉が飛び出した時にはぞっとしました。個人として、抵抗しなければと思います。被災地支援を続けておられるかたからの年賀状には、膝を打ちました。「あけまして、あべだとう!」(すみません。勝手に引用してしまいました)。今年は、個の姿勢をしっかりと持つことを念頭に置きたいと思います。まずは、都知事選から。(山田和也 ドキュメンタリスト)


トークショーのお知らせ
『チベット高原横断サイクリングと聖山カイラス巡礼』

日時: 2014年2月11日(火・祝) 15時〜17時
会場: JICA地球ひろば600号室(新宿区市谷本村町10-5、JR市ヶ谷駅下車徒歩10分)
   http://www.jica.go.jp/hiroba/about/map.html
講師: 安東浩正(JACC日本国際自転車交流協会評議員)
 真冬のチベット高原を自転車で走破したときの体験から、現在のチベットの状況、聖なる山カイラスについてなどをお話します。
参加費: 一般1000円
問合せ: シルクロード雑学大学 042-573-7667


野生動物を食べる会

■ご無沙汰していて、申し訳ありません。なんとかやっています。年のはじめにふさわしい話ではありませんが、昨年12月、隣の西川町大井沢で「野生動物を食べる会」を企画し参加者とシカやクマ、リス、ハクビシン等を煮たり焼いたりして食べました。最近狩猟免許を取ったばかりの地元の男性、東京、横浜、秋田から動物好きな女性たち3人の顔ぶれでした。

◆予定になかったことは近くの雪の積もった山でナメコやムキタケを見つけたり、会場に借りたかやぶき屋根の古民家でトガリネズミを捕え、それも勿論いただきました。登山ガイドの仕事は思うようにいかず、これまで各地で収集したクマやキツネ、カモシカ、トラ等の毛皮や水晶、化石等を切り売りして生活しているところです。先日はオオカミの毛皮が売れ、これで2か月位は生きられそうです。あ、トラやオオカミはもちろん、古物商やリサイクル関係の人から入手した外国からのものですよ。(山形 松原英俊 鷹匠)


■「地平線通信毎月送っていただきありがとうございます。どうぞ健康でご活躍ください」(小林新 82年タンザニアで消息を絶った小林淳さん父)


地平線会議との御縁が想像以上に貴重であったことをじわじわ感じています

■あけましておめでとうございます。昨年は地平線会議と出会った記念すべき年であり、この御縁が想像以上に貴重であったことをじわじわ感じています。ネットやマスコミの波から距離を置く地平線会議は、いわば知る人ぞ知る老舗。人づてに聞き少し扉を開くと何やら気配がする、一歩踏み出すと大きなものの一部が覗く、首を伸ばすとさらに見上げる姿が現れ、進めば進むほど巨大さが明らかになり、いまだ全貌に至らずといったところです。宮本常一の旅の後継と見えたのは的外れでもないようですが、加えて、有名・無名問わず人を取り上げて育てんとする江本さんは、渋沢敬三に思えます。今年ももう一歩奥へと歩みたく、どうぞよろしくお願い致します。(福田晴子 大学院生)

名字が「杉山」から「岡」に変わって初めての正月……

■明けましておめでとうございます。結婚し、名字が「杉山」から「岡」に変わって初めての正月を迎えました。結婚報告、年賀状と立て続けに宛名を書き続けたおかげで、ようやく新しい名前にも慣れてきました。しかし婿養子ではないということを説明する煩わしさからはまだ解放されていません。

◆私の方が姓を変えることになった理由ですが、単純に妻が「岡」の姓を残したいという気持ちが、私が「杉山」を名乗り続けたいという気持ちよりも強かったからという以外にありません。杉山の姓は好きだし、親に対する後ろめたさも多少は感じました。もちろん、メリット・デメリットについての話し合いもしました。ただ、いずれも最初の意思を左右するほどのことはありませんでした。

◆私は、名前が変わるということを軽く考え過ぎなのかもしれませんし、現にそのような指摘を受けたこともあります。しかし、ただ漠然と夫姓を名乗るのが当たり前になっている今の風潮には反対です。それこそ名前が変わること(特に女性の)が軽く考えられている現れではないかとすら感じます。結婚する二人が、お互いの意思や環境を尊重し合った上で、もっと気楽に姓を選択できるようになればと思います。

◆うちは弟がすでに結婚していて杉山姓は残るし、仕事上も通称として杉山を名乗り続けられる環境なので、そういう点では恵まれていたのだと思います。あだ名も名字がかかっていないのでこれまでと変わりません。もしかしたら1年後、2年後には考え方が変わっているかもしれませんが、今のところは、なかなか悪くないもんだと感じています。そういうわけで、今後ともよろしくお願いします。(杉山貴章

1024日ぶり、自宅で過ごした年末年始

■今回の年末年始は東日本大震災後、1024日振りに楢葉町の自宅で過ごして参りました。 幸い自宅は地震による損傷は少なく、家屋の除染も済み、インフラも復旧していることから宿泊が可能となりました。戻ったのは町民の1割弱に留まったため、周囲はひっそりとしていましたが、様々な理由で戻りたくても戻れない方々の事を思えば、本当に幸せな事と感じました。正月恒例の箱根駅伝を見ていた時、本当に何事も無かったような気がしました。やはり自宅はホッとしますね。

◆今年は町としても大きな決断をしなければならない年となります。一つが「放射性廃棄物の中間貯蔵施設の受入れ」、そしてもう一つが「帰還時期の明示」についてです。共に今後の地域の行く末に大きな影響を及ぼす課題ですが、時期尚早とならないよう、住民との対話を十分行うことで結論を出して頂きたく思っております。

◆私個人の抱負ですが、ズバリ「今年こそ落ち着きたい……」です。と毎年思いつつも例年同様「ランニング&バイク」で常に駆け回る事となると思います。(福島県楢葉町住人 渡辺哲

2008年、津波と火災に襲われる前の浜通り、自転車旅でその店を撮っていた

■東証が年初来高値を更新して、安倍首相が上機嫌で挨拶していた頃、岡山から来た友人と私は福島にいた。年末年始はどこも休みで残念だという友人に、ならば福島の浜通りを見てほしいと誘ったのだ。富岡から空腹に気づいて引き返し、久ノ浜の仮設「浜風商店街」にある「からすや食堂」でカツ丼を頼む。

◆食堂の前の電気店「プラネットさとう」という名前に、あっと思った。2008年、津波と火災に襲われる前の旧道を自転車で通ったことがある。急いでiPadに保存された写真を見ると、あった。写っていた。さとうに駆け込み、スガハラ理容店のおばちゃんも揃って、みんなで写真に見入った。震災直後の写真はあっても、震災前の風景が残っていないのだとか。東京に帰ったら送る約束をする。まだ仮設に暮らしている人たちがいることを忘れてしまうのが怖い。(落合大祐


■冬の黒百合で山小屋コンサートをしています。今年で35年目です。(長岡竜介 ケーナ奏者)


■「福島 生きものの記録」2作目は3月完成予定です。(明石太郎 カメラマン)


直島で「10年後にここでまた会おう!」という約束をしたこと、覚えていますか???

■地平線の皆様、お久しぶりです。3年前、私は夢だった教師となり、中学校で理科を教えています。授業や生徒のことで頭がいっぱいの毎日。そんな中、地平線通信は「世界は広いぞ! 悩んでばかりではだめ!」とずっと私を励ましてくれました。新年、久しぶりにえもーんを訪ねると、とてもあたたかく迎えてくれました。麦丸も元気で嬉しかったです。

◆えもーん、大学生のとき、直島で「10年後にここでまた会おう!」という約束をしたこと、覚えていますか? あと4年ですよ!あの時、日付と俳句を書いてくれたお菓子の箱、大切にとってあります。今年は自分の行動範囲を広げ、人との出会いや体験から学ぶ年にしたいです。(くえ、こと水口郁枝 静岡)

サラブレッド育成牧場の青春

■昨年も地平線通信を毎号愛読、数回会場にも足を運びました。会場では原典子さんの手造りお菓子が振舞われるのも嬉しく、「あぁこんな風にそれぞれに自分のできることで貢献できるのはすばらしい」と感じながらいただいていました。今年は「馬年」。遠い昔、大学4年最後の春休みに北海道浦河にあるサラブレッド育成牧場でアルバイトしたことを思い出します。

◆お願いの電話をした時に「ものすごい寒いから、都会のお嬢さんには無理だ」といわれて奮起し、その冬は自分の部屋にストーブを置かず&薄着でささやかな耐寒訓練をして臨みました。競馬に出る前の訓練では、人が乗ることを嫌う若馬が二本足でそりかえって振り落とそうとするのを馴らしていきます。トレーナーがヘルメットの中にお守りをしのばせているのを見て、命がけの訓練だと感じたものです。

◆夕刻、「ポ?ゥ、ポウ、ポウ、ポ〜ゥ」と大声で呼びかけると、牧場のあちこちに散らばった馬たちの耳がピクリと立ち、ゴソゴソと動き出したと思ったら、きれいに一列になって厩舎に向かって駆けてくる姿が、背景の山々に映えて実に美しかったです。

◆その時の仲間と、お世話になった牧場を訪ねようという話がもちあがっています。何十年ぶりか……。当時馬の調教修行をしていた10代の若者が、今は場長になって仕切っているとのこと。実現したいです(三好直子 環境教育専門家)


■今年の目標。「必死で稼ぐ」「旅行!(自転車含む)」「農業を学ぶ」「野外音楽フェス」。北京の餃子、じゃなかった、地平線の発送や報告会もとても楽しみにしています。(石原玲 目下地平線受付専門士))


■甲斐駒ケ岳黒戸尾根冬季日帰り達成(田村聡 頂上の写真とともに)


一番シンプルな形で自然と対峙することが自分の形

■絶対、服部氏の話は聞いてみたいと思っていたので昨年末の地平線は外せなかった。自分と川とのかかわりの原点に近いのだ。大学で探検部に入る以前から釣りが好きだった。近くの多摩川の是政や秋川にはよく通った。秋川でよく逢う老釣り師と仲良くなったのが、それからの川とのかかわりに大きく影響したのだと思う。彼はいろんなことを教えてくれた。季節による魚の付く場所、棚の取り方、仕掛けの作り方、たき火の炊き方から藻場での川エビの取り方、そしてとった魚をその焚火で焼いて食べながらいろいろなことを教えてくれた。

◆高校で釣りクラブなどを立ち上げ海や川を皆と活動したが、今一つかみ合わなかった。100%に近い完璧な装備での釣りはなんだか物足りなかった。一番シンプルな形で自然と対峙することが自分の形であることを意識し始めていた。相模川を水とマッチだけ持って野宿しながら釣り下ったこともあった。

◆友人の紹介で知り合ったN君が、また自分と川とのかかわりに大きく影響した。彼は野生児であった、那須の蛇尾川源流を米と味噌だけ持って遡行したこともあった。頼るのは自分の釣りと彼の野生の勘で探す野草が唯一の食糧、小屋掛けしながら遡行した。釣りは散々だったが、浅瀬を小石で埋めてイワナを掻掘りしたりカエルを食べたりして源流から塩那スカイラインをたどって塩原にたどり着いた。

◆また、ゴムボートでの鬼怒川下り、これも小屋掛けと掻掘りで獲れる雑魚を食料に過ごした。カナダマッケンジーの川下りはそれほど気張って実行した計画ではなかった。いつもの通り国内の川を下るのと同じ、焚火と最低限の装備がすべてだった。食料も釣りがある、そんな旅だったのでカナダの川を下るのに3.6mの小さな折畳みカヤックで十分に間に合った。

◆最近、昔のような長期間のツアーができないのでリジットなボートで遊ぶことが多くなった。車で運びゲレンデでくるくる回るのもなんだかモルモットみたいで……と思ったところ天の恵みか悪魔の計らいかクリーキングなる川下りを知った。今まで危険だとして近づかなかった渓流での川下りだ。岩を縫う急流や滝を下るクリーク艇を手に入れ、講習を受けるようになって、またぞろ昔のサバイバル川下りが頭をもたげてきた。渓流の船釣りだ……だって、釣り人が入れないような渓流に入ってゆけるのだもの……!!

◆子供たちも全員、社会人になりました。少し自由な時間が多くなったような気がします。自分の原点に返った旅をまたおこなってみたいと思っています。これからは報告会になるべく参加して刺激を受けたいと思います。(河村安彦 伊南川川小屋あるじ)

アジアとヨーロッパをつなぐボスポラス海峡を漕いできた

■今年もよろしく。昨年、トルコ・イスタンブールのボスポラス海峡を漕いできた。アジアからヨーロッパへ渡ってゆく痛快な旅だった。オリンピック招致イベントとして、航路が一時閉鎖され、小型船とトライアスロン・スイマーに解放されるという情報を得、トルコ大使館を通して現地のカヌークラブを紹介してもらったのだ。

◆7月7日10時、ファーティフ・スルタン・メフメット大橋のアジア側から、大小60艇のレース艇の後に従ってスタートした。国際イベントなのに開会式もなく、スタート地点に大きなバルーンが浮かんでいるだけののどかな雰囲気。ホーンの合図で一斉にスタート、わが艇は後方最左翼からゆっくり漕ぎ出す。

◆バウを直角にヨーロッパに向けた途端、横波が攻めてきて、ぐいぐい流される。まさに高速海流。まるで激流の川下りだった。岩礁のような障害物はないが、大小の渦巻きがあちこちに、もぐら叩きのように出没する。ボスポラス大橋ヨーロッパ側まで6.5キロ、ほぼ1時間でゴールした。25年前、対馬から朝鮮海峡を渡って釜山に着いて、生まれ故郷の旧満州ハルビンに続く大地に立った時の感激が思い出された。

◆折からのデモでホテルまでの帰路は渋滞で難航した。あまり緊張感はなく、大統領派と反大統領派が呉越同舟のように代わる代わる拳を突き上げている、不思議なデモだった。今夏の目標は未定だが、ライフワークとして積み上げてある計画を一つずつ崩していくことにして候補の中で検討している。(吉岡嶺二 永久カヌーイスト)

痛みはありますが、生きてゆけることが有難くて。オリバーに助けられています…

■2014、明けましておめでとうございます。「余命半年」の宣告から丸13年が経ちました。手術の後遺症で昨年はリハビリの一年。下半身の麻痺、痺れ、関節節々に走る稲妻みたいな痛みにいまだに悩まされていますが、Wストーマ(人工膀胱と人工肛門)の方はようやく消化してくれるようになりました。以前なら食事中食べたものがそのままの形でパウチ(袋)に直行〜といった感じで食事もストレスでした。まだ寝込むこともしょっちゅうですがこんな身体でも生きてゆけることに有難さでいっぱいです。昨年うちの子になったマルチーズのオリバーくんですが私のそばを離れようとせず、じーーーっとハート光線を送ってきます^_^。しんどいときもオリバーがいたら笑顔になれます。江本さん、わんこはやっぱりいいですね〜・(シール・エミコ メルボルン発)


■地平線通信、いつもいつもしっかり読んでます。(山中湖 戸高優美


■地平線通信いつもありがとうございます。地平線には「続けること」の大切さ、難しさ、素晴らしさを感じています。(影山幸一・本吉宣子


■10年勤めた接骨院を退職し、年始から地元のデイサービスで機能訓練士として働いています。インドには当分行けそうもありません。トホホ。(浅野哲哉


知り合いが2人もいなくなって……

■ここホワイトホースで、12月のクリスマス前に2人も行方不明者が出て、最近結構騒がれています。新聞やラジオでよく報道されています。その前後に大雪が降り、一気にものすごく寒くなった訳で、状況はかなり絶望的です。残念な事に両方知り合いで、私はかなりショックを受けています。

◆一人はガーデン屋さんで働いていた時の同僚で、仕事は真面目だし時間も守るタイプながらアルコール依存症だったので、今回も酔っ払っての事ではないかと思われています。極寒地では、日常生活が少しの油断で怖いことになります。本当に命取りです。もう一人は、この夏にうちの近所のでかい屋敷と土地を買ったものの娘夫婦にそこを乗っ取られ、追い出された人です。多分自殺だと言われています。

◆追い出されて困った彼は、トレーラーやらスノーモービルやらといったたくさんの荷物を私の地主の土地に置いて、「後で取りにくる」と、自分はルームメイトと街で暮らし始めたのですが、突然いなくなりました。日照時間が減り憂鬱になりやすい時期ですが、ただでさえ珍しい行方不明なのに、2人も同じ頃に……。両方知り合いという私はみんなから「どんな黒魔術を使ったの?」と冗談で聞かれています。

◆こんな思いはしたくなかったです。ものすごく後味が悪いです。出てきて欲しいです。暗い話ですみませんでした。(本多有香 カナダ・ホワイトホース住人)

人はこんなにも残酷になれるのか……と恐怖を覚えました

■2014年の新年、私達夫婦はカンボジアの、アンコール遺跡の観光拠点の町シェムリアップにいました。町からアンコールワットへは約10km。ツアーやトゥクトゥク(座席付バイクタクシー)で訪れる観光客が多い中、私達はレンタルバイクを足としたため自由自在に遺跡見学ができ、改めてバイクの良さを実感!です。アンコールワットで拝んだ初日の出。遺跡の背後から後光のように昇る太陽に心が洗われるようでした。楽しい観光ばかりではなく、旅の最後はポルポト政権時の大量虐殺の地も訪問。人はこんなにも残酷になれるのか……と恐怖を覚えました。今年も正も負も含めて、たくさんのことに触れたいです。(旅する主婦ライダー 古山里美

「何か新しいことを始めるときは、山の神様に聞いてからやる」

■明けましておめでとうございます! 2014年は益救(やく)神社にて迎えました。益救神社は、私が住む安房集落から島の外周沿いに北へ車で30分、宮之浦という島で最も大きな町にあります。平安時代(927年)に書かれた延喜式(えんぎしき)神名帳にも載っている、由緒ある神社です。標高1936mと九州一の高さを誇る屋久島は、遣唐使船など南海航路を行く船の山あての島として古くから重んじられてきました。

◆大晦日の23時45分よりはじまった益救神太鼓の奉納演舞。山から降りてきた善の神が災いをもたらす神と激しい太鼓の打ち合いをし、最後にはごうごうと燃える大松明で参拝客のお祓いをしてくれました。山岳信仰の島らしい新年の幕開けです。

◆島には「何か新しいことを始めるときは、山の神様に聞いてからやる」という教えがあります。自分のことだけでなく、周りの人々や自然との調和を大事にしようという想いが込められているように思います。新月から始まった今年、新たな気持ちで自分を取り囲む世界に感謝してスタートを切れました。皆様にとって、実り豊かな1年になりますように。(屋久島住民 新垣亜美

糞の上にも春が来た

■食べることで命を奪い、ご馳走を汚いウンコに変えて生きている自分。そのウンコをトイレに流せば処理場で焼かれて灰になり、最後はコンクリートに固められる。そんな命を消費するだけの生活をなんとかしようと、私は糞土師になった。ウンコを自然に返せば獣や虫が食べ、菌類が食べて分解すれば無機養分になり、それは植物に食べられて命が蘇る。その一番の方法がノグソだ。

◆ウンコだ、ノグソだと呼ぶ糞土師は、ちょっと普通ではない一部の人には認められても、世間では偏見と差別にさらされる鼻摘み者だ。しかし、ノグソ生活40年にしてようやく、糞の上にも春の気配が訪れた。まだウンコを嫌がらない子供のうちに命とウンコの本質を理解させようと画策し、昨年暮れのクリスマスに絵本『うんこはごちそう』が出来上がった(農文協・1600円+税)。山口マオさん描くマオ猫が狂言回しとなり、ウンコと一緒にトイレに流されたマオ猫が、命の再生までの旅をする物語です。

◆もう一つ、ひょんなことで「自然と人間の共生」を理念とする「松下幸之助花の万博記念賞」を頂くことになった。共生の核心は、「ノグソは命の返し方」。まだ写真家だった頃のキノコやコケ、変形菌などの主要著書に『くう・ねる・のぐそ』を加えての選考になった。ノグソの本を入れたことで落とされると思っていたら予想に反し、「縁の下の力持ち的業績で社会に貢献され……」と受賞が決まり、松下記念賞の懐の深さに感心したり感謝したり……。

◆2月1日の大阪での授賞式ではキノコ(菌)とウンコ(人・動物)とコケ(植物)の映像を用いて講演します。ちょっと真面目で威厳のありそうな場で、ついにウンコ話ができる嬉しさ。更にその副賞を活用することで、基本的に旅費などの負担をお願いしていた糞土講演会を、今後はたとえ旅費なし、謝礼なしでも出掛けます。気軽に講演会を企画して下さい。

★2月1日の受賞講演会(リーガロイヤルホテル大阪、午後2時〜4時半)は入場無料ですが、事前の申し込みが必要です。この案内と講演会の申込は糞土師ホームページをご覧下さい。http://nogusophia.com(糞土師 伊沢正名

自転車世界一周から2年、念願の教師になりました

■新年おめでとうございます。福岡の伊東心です。自転車世界一周8万キロの旅の終了報告で壇上に立たせて頂いてから早2年。ようやく、その後のご報告ができます。旧年9月より、福岡市の中学校で英語科教師として働いています。

◆転機は妻の挑戦でした。5月の結婚式の翌々月、彼女は目標であったヨーロッパ横断・単独サイクリングへ。空港で新妻を見送った後、心に込み上げるものがありました。私の目標は教師になること。その長い長い 助走として挑んだ自転車世界一周、その輝きが褪せる前に、動くのは『今でしょ!?』と。長く勤めた添乗員の職を離れ、とんとん拍子で決まった臨時教師の任用。真っ黒に日焼けした妻が3ヶ月ぶりに帰った時には、もう教壇に立っていました。

◆意気揚々と乗り込んだ教育現場でしたが、毎日が試行錯誤と反省の連続です。痛感するのは、英語を教えることの難しさ。解り易い授業が作れず苦悩する日々……。しかし、不満足な教科指導に反して、それ以外の指導には大きな可能性を感じています。国際理解、将来設計、様々な特別授業に顔を出し、自分の体験談を紹介しています。

◆真っ直ぐにこちらへ 向かう生徒たちの熱い視線。それらが私を透過して、彼ら自身の未来を見つめることに繋がるよう、今後も積極的な発信に努めたいと思います。残るは最後の難関、教員採用試験。毎夏1度の超難関ですが、受かるまで何度でも挑み続けたいと思います。(福岡市 伊東心

写真集『生きる喜び』が林忠彦写真賞に推薦されました

■『河田真智子写真集 生きる喜び』の報告会(2013年9月)をさせていただきありがとうございました。地平線会議での報告は、自分自身の人生観を再確認する大切なものでした。この写真集が林忠彦写真賞に推薦されました。周南市美術博物館から推薦枠に入ったので応募せよと電話があり、びっくり。

◆プロの写真家たちのその年のトップを決める賞ですので、受賞はあり得ないのですが、推薦されたということは、「もしかして、私、プロ?」と喜んでいたのですが、推薦人が心当たり……。今は緊張感いっぱいです。「これからも写真を撮り続けなさい」という師の教えです。

◆娘の「生きるという旅」は、これからも続きます。夏帆の主治医から「早めの気管切開」(呼吸安定のため喉に穴を開ける)を、勧められ、検討中です。気管切開といっても、細かくは5種類あることがわかりました。「喉頭分離術」という難しい手術に挑戦したいと思い、病院探しから、奔走中です。よい報告ができるように頑張ります。(河田真智子

どんな人も大切に育てられた赤ちゃんが成長した姿に見えて…

■あけましておめでとうございます。年賀状は親子三人の写真にしました。こういう年賀状には賛否両論ありますが、今年だけはご容赦願いますという感じです。差出人名には親子三人の姓名をそれぞれ書いたのですが、案の定夫の姓に私の名前を付けて返信をくれた方々がいました。それが礼儀と思ってる人も多いのだろうけど、ほとんどの人にとってやはり夫婦別姓も女性側の姓にすることも全く想定外なんだなあと改めて思いました。

◆娘は生後三ヶ月半になり、首がすわり、きゃはきゃはと声を出して笑うようになりました。だんだん人間らしくなってきます。赤ちゃんは、お乳をあげておむつを替えてお風呂にいれて、いろいろお世話をしてあげなくては育ちません。子供の頃愛情を受けなかったと思っている人でも、誰かがお世話をしてくれてなければ大人になるまで無事に育っていないのです。街を歩くと、どんな人も大切に育てられた赤ちゃんが成長した姿に見えてきて、誰もが大切に思える今日この頃です。(竹村東代子


■今年は村松(直美)さんも加わり、何とか会社を継続しています。(山田淳 「山への一歩を踏み出す小冊子」がうたい文句のフリーペーパー『山歩みち』はもう14号)


いまは、刑務所に勤めていませんっ!

■12月の地平線報告会後の打ち上げで「刑務所に勤めているのぐちさん」と紹介されてちょっとたじろいだ。刑務所に勤務していたのは(注:職員としてです、おまちがえのないように)20年も前のことで、その後、精神科救急、消防での救急隊員養成を経て、いまの勤務先は千葉県がんセンターの緩和病棟です。ただ一貫して公務員であることには変わりありません。(定年が待ち遠しい、自転車の埜口保男

★12月報告会の二次会に駆けつけ、ことしも親友だった冒険家、故河野兵市さん(2001年5月、北極海から帰らず)の愛媛県の実家のミカンを参加者に配ってくれた。

今年は嫁に行くことも決まっております

■こんにちは。すっかりご無沙汰しております、鈴木博子です。私は相変わらず山へ行き、走ったり歩いたりしております。幸運なことに今ではお仕事でも山のガイドをさせていただき、楽しく充実した日々を過ごしております。トレイルランニングのほうも年に2?3回のレースに出て、毎年海外で新しい発見をさせていただいています。今年もいままでと変わらない日々を過ごしていけたら幸せです。ちなみに今年は嫁に行くことも決まっております。今後ともよろしくお願いします。(鈴木博子 トレイルランナー)


■毎月、地平線通信楽しく拝読しています。昨年1月に入籍。相手はアラスカのビーバー村で出会ったカヤッカーです。なかなか鮭Tのような活動はできないのですが……。(松本市 西牧結華 旧姓・倉石)


■あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。(大阪 永瀬忠志 リヤカー曵く独特なイラストが毎年ユニークだったが、今年はなぜか夫人?に言われてリヤカーをたてかけ、息子とタイヤをはずしている姿で登場)


【先月の発送請負人】

■地平線通信416号は、2013年12月11日に印刷・封入作業をし、12日にメール便で発送しました。作業に集結してくれた皆さんは、以下の方々です。暮れの多忙な中、13名もの仲間が駆けつけてくれたこと、感謝します。二次会はいつもの「餃子の北京」で忘年会を兼ねて賑やかに打ち上げました。
車谷建太 森井祐介 岡朝子 加藤千晶 久島弘 福田晴子 三五千恵子 安東浩正 長澤法隆 江本嘉伸 杉山貴章 八木和美 武田力
 そして、今月も、やや体調不良なのに、レイアウトほかに奮闘してくれた森井祐介さん、ありがとうございます。


歳晩と元日と

金井 重

サバイバル 登山の力と 聞く力
       会場に湧く 明日の活力

差入れの ケーキになごむ 会場に
       笑顔の交換 師走もぬくし

帰り道 初めての人と 会場の
       余韻につゝまれ 知己の如くに

電車のなか 「富士の山旅」 開きみつ
       編書も楽し 自然にひたれり
 (「富士の山旅」服部文祥編(河出文庫))

今年は「輪」よ 東京五輪に 富士山も
       ぞろぞろ数で 秘密法もとは

電車の席 今日もゆずられ 感謝して
       ゆらりどすんと 相手も微苦笑

風と波 はげしき元日 大島の
       初日をおがみ すべり出す今年

ごろごろと 溶岩流れし 三原山
       「ああ溶岩」の立て看板(タテカン)も嬉し

強風に ようやく出合う ああ溶岩
       どでんとふたつ ビューポイントに

★アア溶岩(aa lava)は、玄武岩質溶岩の表面の形態の一種。ガサガサで刺々しい状態になったもので、ハワイのキラウエア火山や、日本の三宅島、伊豆大島三原山などに多い。

上下左右 ビューポイントの 大風に
       立てずにふらふら 翻弄されたり

娘が生まれて

角幡唯介

 昨年の暮れに第一子となる長女が生まれた。子供ができるまで、私には子供ができるというのがどういうことか全然想像できなかったが、できてみるとやっぱりかわいい。あまりにありきたりな感想で書くのもはばかられるのだが、そうとしか形容のしようがないのでしょうがない。出産前は知り合いの編集者から「子供が生まれた時のブログ、楽しみにしてますよ」と言われても、「そんな(かっこう悪い)こと書きませんよ」などと返していたのに、いざ生まれてみると子供がどんなにかわいいかを切々と書いてしまっている自分がいた。

 もちろんブログを読んだ人からは「親バカ丸出しですね」という感想がいくつも寄せられた。ただ、私に言わせるとそれは間違っており、客観的かつ冷静に分析して、私の娘は親ではなく赤の他人が見ても純粋にかわいいだけである、ということを何度も強弁したのだが、世間的にみるとどうもそれが親バカというらしく、そんなことにも気づかず私はその後も「どうも上戸彩に似ているような気がする。上戸彩は別に好きではないけど、まあ、あれぐらいならまずまずかな」など何様発言を繰り返した挙句、それを証明するために娘を写したベストショットをメールで配信するなどという親バカというよりただのバカ行動をしばらく続けていた。

 子供ができたからだろうか、今年の北極圏の旅行は正直いって出発するのが少し億劫だった。今年はグリーンランドの最北の村であるシオラパルクに行き、将来予定している世界初の「厳冬期北極圏単独無目的放浪」のために冬の間の周辺の結氷状況や装備のテストなどをする予定で、今はその中継地点であるコペンハーゲンのホテルにいる。と、それはともかく、過去2回の北極圏の旅の時と比べてどうにも気持ちが乗ってこないのだ。

 最初はその原因は、今回は本番ではなく準備なので少し気持ちが弛んでいるのかと思っていたが、どうもそうではないような気がする。子供がかわいすぎて後ろ髪を引かれている、というのはあるのかもしれないが、でもその前から気持ちの変化が生じていたことにも自分なりに気づいている。

 今回のグリーンランド旅行は11月に出発する予定だったのだが、実は出産に立ち会うために延期して結局1月にずれ込んだという経緯があった。ところが立ち会うために延期を決めたとき、私の中ではそれを残念に思うより、出発を先延ばしできたことを喜ぶ気持ちがあったのだ。そしてその後に出産予定日が過ぎても子供が生まれず、さらに出発がずれこむ見込みになったときも、やはり心のどこかでホッとしている自分がいた。

 あまり書きたくないことだが、もしかしたら自分は日々の生活に充足しているのかもしれないと思うことが、結婚してから時々ある。それは悪いことではなくもちろんいいことなのだが、でも日常に充足することで、それが外に向かおうとする私の足を引っ張ることにつながるのではないかという懸念が半年ぐらい前からあって、そのことが私には少し怖くもあった。

 今までは日常に満たされないものがあった。仕事の面だとか、異性関係の面だとか、収入的なものだとか、そういうことがうまくいっている時でも、東京の生活の中心には妙にぽっかりと穴が空いていて、その穴を埋めることが逆に探検だとか冒険旅行に向かう原動力になっていた。物理的にではなく精神的に何かを渇望しており、その何かを私は自分の作品のなかで生きることの意味だとか経験だとかという言葉で補っていたのだが、それを求めて荒野に向かっているというところがあったのだ。

 だから学生時代から他の何かに夢中になっている時でも、私の頭の中には常に次の探検計画のことが靄のように残っていて、そこから逃れられないでいた。

 ところが子供が生まれてからというもの、私はグリーンランドで何をするかも考えていなかったし、山に行きたいとすら思わなかった。私は妻と子供の顔をみるために自宅から御茶ノ水の大学病院まで自転車をこぎ、ひたすら顔をほころばせていたのだ。そしてこれは私にとって大変な事態だったのだ。自分を20年近く閉じ込めてきた、次に何をするか、どこに行くかというある種の強迫観念から解き放たれた瞬間だったかもしれないからだ。

 コペンハーゲンからグリーンランドに向かうのは明日だ。極夜の闇と身を切るような冷たい風が、いつものように引き締まった感覚を自分に与えてくれると思うのだが。(コペンハーゲンで1月11日)


《通信費をありがとうございました》

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。

櫻井悦子(6000円 3年分)/岡朝子/横山喜久/津田三佐雄/井上忍/新堂睦子(10000円 14年の通信費2000円 寄付8000円 スタッフの皆さんに感謝感謝感謝!!!)/宮崎拓/川本正道(6000円 通信費3年分です。いつも通信楽しみにしています)/森美南子/キリハラエツオ


モンゴル・福島・地平線
━━馬にまつわる話

■午(うま)の年です。老人は昔語りが好きです。聞いてください。「小渕総理の馬を見にきませんか」とある日、馬元から言ってきました。2001年のこと。「馬元(オヤーチ)」とは、「家元」にちなみ私が命名したものです。2年前の1999年、当時の小渕総理がモンゴルを訪問した際、贈られた子馬が育ったので見に来い、というわけでした。

◆モンゴル人現地スタッフと運転手のバヤラーと1時間半ほどかけて馬元のところへかけつけました。馬群は放し飼いしてあり、今日はそのなかから選んだ馬を牧童が何人かで捕まえるのだといいます。いちども鞍をつけたことのない馬たちだそうで、ナーダム(モンゴル独立記念日に開かれるお祭りで、競馬、相撲、弓という男の三大武芸がおこなわれる。じつは相撲以外は女性も参加する)にそなえて出走する馬たちをつなぎ場に伝統の作法にのっとり、つなぐ(オヤーフ)日だったのです。

◆馬群が右へ左へ自由に駆け巡っている草原に二本の竿をたてその間に横に綱をはったものを何列も設けていました。馬をその綱につないでいくのです。親方と幹部の牧童、それに賓客が腰掛けて馬群を観察し、めがねにかなったあの馬、この馬と声をかけていました。するとオールガ(長い馬取り竿)をもった牧童が颯爽と駆けて行き、くだんの馬を追うというわけです。デールを着用して居並ぶ幹部、颯爽と疾駆する牧童、なんともイキな風景です。

◆ゲルに入り煮込み中の羊肉をわけてもらいながらお茶をすすっていると、「オブチさんの馬をつかまえるぞ」との呼び声。外に出てかけつけると、親方が「ヒョーイッ」といっておおきな荷物を私に投げつけてきました。まだ運動神経の残っていた頃なのでぱっと受け止めると、なんとそれはハミ(金属製の棒状の道具。騎手が持つ手綱と結びつける)でした。それを手にみんなの駈けて行く方向へともに走ると牧童が一頭のアズラガ(種馬、通常気が荒い)をオールガで押さえつけており、馬は後足を跳ね上げ暴れ回っていました。これが「ゴルバン・ヒシグ(三つの恵み、小渕恵三総理にちなむ)」でした。

◆やがて静かになると、ハミをかけろといいます。前足で土を掻いたりしている様子に内心おびえていましたが、ここは日本男児の名にかけて蹴られても首にハミをかけてやるぞとゴルバン・ヒシグに臨みました。優しい声をかけながら、もちろん馬に通じるようモンゴル語でいなしつつ、馬に位負けしない断固たる態度で首を押さえますと、二三度いやいやしましたが、結局おとなしくなり、ハミを無事かけました。

◆そして、図にのってモンゴルの作法を知っているぞとばかり、用意したブルーのハダック(布。儀式、プレゼントその他モンゴルの集まりに不意に必要となるので、ポケットにしのばせて出かけていました)を額をはさみ左右のハミに縛りつけました。とはいっても、手前はしっかり縛れたのですが向こう側は若干見劣りがする縛りかたで、内心しまったかと思いつつ、とりあえず終了しました。

◆するとつなぎ場につれて行き縛れというので、自分でつけたばかりの手綱を引いてつれて行きますと、ヒシグは殊勝にもついて来ます。縛り場でしばりつけ終わりますと、一人の年輩の方がゆっくりやってきて縛り方がちがうと言っていったんほどいて、縛り方を指南してくれました。そして、再度ほどいて自分ではじめからやるようにとのことで、えーえっと思いつつ、再度縛り終えました。

◆この時です、モンゴルのみんなから「おまえは、これで一人前のモンゴルの男になった」と言われました。モンゴルで経験したなかで最も嬉しかった瞬間です。心からモンゴルの大自然に自分を溶け込ませることができました。

◆福島の石城郡大野村玉山(現いわき市)で小学校3年生の冬から始めたウサギの飼養がうまくいき、しまいには籠2つの草を毎日刈らねばならないほどになりました。ウサギの毛皮と肉は当時意外に高く売れ、貴重なアルバイトでした。玉山の野良で私になにがあったかは同級生はいっさい知りませんし、弟と母がうすうす知っているといった感じでした。しかし、近所の草刈りにでているお姉さん、そしてすこしのお兄さんが知ってくれていて、今日はあっち今日はこっちと草情報をくれていました。

◆それを知っている隣では野良に放した馬を夕刻草刈り終了時につれて帰るようによく頼んできました。というより「つれてこー」との命令形でした。小学校では常に先頭に並ぶチビでしたので、馬を引くのはともかく乗るのはできません。しかし、毎日つれて帰るうちに情がうつり、乗りたくなるものです。

◆ある日、籠を腹につけて乗ることを決心し、仁井田川の土手に引いて行き、平行になった土手から飛び乗り一気に馬の背に座りました。日頃のつきあいで馬はおとなしく受け止めてくれたのですが、チビなので足がからだと直角になり、胴をしめつけることなどもちろんできません。でも馬はいつものならいで家路についてくれました。やがて乗って帰るのが楽しみになりました。しかし、疾駆することはできませんでした。

◆でも、馬に対する恐れの少なさはここにあったのだと思います。馬齢を重ねるにつれ、すべての経験が、そしてどんなつまらない経験でも、いつか不思議と必要になるので、神がプログラムしていたのではないかとさえ思ったりします。

◆瀋陽市付近の満族の村を江本さんと訪れたときのことです。江本さんが颯爽と馬に乗り、前傾姿勢のモンゴル式でたちどころにかっこよく疾駆しました。そしていま、「地平線」の巻頭を疾駆している姿を見るといつもあの姿とダブります。わたしの馬とはまた違う江本さんの馬、大勢の若駒と入り乱れながらの馬群なのかなと、そして自然に若駒が育っているのを見てなるほどと納得しています。午年、いい年になりそうですね。(花田麿公 元モンゴル大使 瀋陽総領事もつとめた)

屋久島病をとおくはなれて、いまこんな旅のさなかに……

■警察からの電話。「高齢者を保護しました。名前しか言えません。身元に心当たりありませんか?」。「『夫に殺される』と訴える高齢の女性を保護しました。あとの対応をお願いします」。消防からの電話。「体調が悪い、妻がいない、と一晩中電話がかかってきます。奥さんはどちらにいらっしゃいますか?」(→入院中)。事業所からの相談。「息子が介護を抱え込んでしまい、母親が衰弱しています」。「年金を家族が使ってしまい、利用料が支払われません」。民生委員からの通報。「最近姿が見えない人がいますが、大丈夫でしょうか」。本人からの訴え。「隣家から異臭がします。誰かが夜に侵入している跡があります」。「子どもが暴力をふるいます」。

◆世界に類を見ない速度で高齢化が進む日本。平成24年の統計によると、平均寿命は女性86.41歳で世界一、男性も79.94歳で世界第5位と順位を上げている。4人にひとりが高齢者。高齢者の25%が認知症とその予備軍。今後更に拍車がかかり、このままでは医療制度も介護保険制度も崩壊の危機。消費税増税しても、数年のトモシビ。増え続ける後期高齢者。ひとり暮らし。老老介護。認認介護。減り続ける介護者。長期入院は困難。施設もそのうちいっぱい。介護付き住宅での放置問題。健康寿命を延ばしましょう。介護予防に努めましょう。住み慣れた地域で暮らし続けられるよう、地域で助け合いましょう。サービスは本当に必要な人が受けましょう。元気な高齢者は支える側に回りましょう。生きがい作りは介護予防でもあります。

◆一昨年の7月、障害がある人が通う施設から、市役所の高齢者福祉部門に異動となって、1年半。あちこちぶつけながら、最長の回り道をしてなんとかたどり着くような仕事の仕方が続いた。わからないことだらけだけど年だけは食ってるので、給与的には周囲の職員より上だったりして、なんとも落ち着かない。自分がアホで役立たずと思えたり、人前で話すとしだいに震えて言葉が出なかったり、ちょっとした言葉に涙が止まらなくなったり、あるいは怒りっぽくなったりした。そんなときは庁舎の周りをぐるぐる歩くなどして気分転換を図るけど、帰宅してからひどく不安定になったりもした。

◆いわゆる適応障害。前の職場に未練を残して移ったため、「望まぬ転職」状態が余計堪えた。とにかく1年だけ自分なりの最大限でやってみて、あかんかったらやめよう、と思っていたが、その間決定的な出来事は起こらず、何とか続いている。後輩たちに助けられたのも大きかった。お役所の、上下関係をはじめとした時代劇ぶりにはいまだ目を見張ることが多々あるが(きっと日本の会社の多くも同じような体質なんだろうけれど、今まであまりに免疫がなかったんです)、それゆえ「目上」として助けられたことも否めない。同時に、徐々に通例に同調し、無難なふるまいを身につけていく自分を感じて、時に気もちが沈む。慣れたら楽vs慣れたら違和感を感じられなくなる。外から来た自分の唯一の特色までもあせてしまう気がする。

◆話を戻す。今や社会的に高齢者の増加は「問題」であり、長寿は「悩み」であるとも言える。ある日窓口で言われた。「例えば青酸カリを合法的に配ってくれるなら、喜んで受けとる。自分で死ねないからつらい」。そして言うまでもなく、高齢者の問題は、高齢者だけの問題ではない。人はひとりでは生きていない。国では、11の省庁が「横断的施策」を掲げて、取り組んでいる(らしい)。当然のことである。人は、縦割りにはできない。

◆どうぞ長生きを。でも、まわりの人に負担がかかるのはあまりよくないので、ぴんぴんころりを目指しましょう……。人に迷惑をかけないことが美徳、と叩き込まれてきた世代の心にのしかかる。「介護予防」も「後期高齢者」も言われる当人にとって気持ちのいい言葉ではないはずだが、政策や制度のなかで、あたりまえに飛び交っている。

◆幼い頃に、あるいは書物やメディアで、または地平線報告会や通信で、たびたび遭遇してきた、年長者の「尊厳」はどこにいってしまったのだろう。多くの人が、先を生きる人たちを敬わず、学ばなくなってしまったということか。多数派となった高齢者は、福祉の対象ですらなくなりつつある。

◆地平線会議諸先輩たちの弾けざまを長らく見てきたものだから、高齢者と呼ばれる人たちと仕事で接するようになってから、そのギャップに戸惑った。地平線で際立って見えるのは、「わき起こる『やりたいこと』を身体を使って実現していく生き方の強さ」である。たとえ倒れても起き上がり、また自らを進ませる。たとえ世間や家族から呆れられても(たとえです)、自分のやりたいことを貫き続ける。それが、なによりの介護予防ではないか!と思わずにはいられない。誰もが老いていき、全てはとどまらない。地平線会議は、関係する人たちは、これからどのような時を刻んでゆくのか……。こうして、地平線会議を今までとは異なる視点で眺めるようにもなってきている今日この頃です。

◆私たちはどこに向かっているんだろう? いわゆる団塊の世代が75歳を迎える2025年が高齢者政策のひとつの照準になっているが、その頃、日本は、わが町は、身近な肉親は、どうなっているのだろう。地方分権が進むなか、国や府から「地域の実情に合わせて、市ぃさん(関西的抑揚で)、よろしくね」と言われる一方で、公務員改革の名の下、その日に追われ、先行きの策を練るなら休日しかない現状はだれが伝えてくれるのか(←自分で言ってるけど)。

◆最後に、この場を借りまして、不義理をしてしまっているみなさま、ご心配おかけしてごめんなさい。屋久島病をとおくはなれて、いまはそんな旅のさなかにいます。今年は自分のペースを作り直し、もうちょっと彩りを加えられたらいいな。(屋久島病のねこ こと中島菊代 大阪)


あとがき

■各地からいろいろなメッセージをもらって、新しい年の地平線通信をまとめることができた。多彩な原稿が届き、書いてくれた皆さんにお礼を言います。一部入りきらなかったものはご容赦を。

◆山田高司君の原稿で考えさせられた。ほんとう、我らが地平線はメジャーにはならないなあ、と。ちいさくても存在感があることが大事なのでメジャーになることは必要ではない、と考えるが、若く、つましい暮らしをしている人には、少しはお金につながる仕事も必要だよね。

◆その上で中島菊代さんが久々に本気で書いてくれた文章には深く心を動かされた。これ、日頃からなんとなく多くの人が予感していることについての貴重な、滅多に書けない現場報告だから。

◆「旅には金持ちののぞき見主義的な側面もある」との服部君の指摘も大事なところをついている、と思う。かなり同感。ところで、角幡君、大丈夫? 娘かわいさで帰ってきてしまわないか。

◆暮れのある日、宇都宮の原典子さんのお仲間の農家で久々に餅つき。へっぴり腰で少しついただけだが、やはり断然おいしいです、搗いた餅は。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

あたりまえの海へ

  • 1月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「あのとき“たまたま生かされた”気がしてるんです。なんで生きてるのか、ずっと考えてる。今の《おまけの命》は、次の世代に何かを伝えるためかも…」というのは千葉拓さん(28)。宮城県南三陸町歌津の伊里前(イサトマエ)でカキ養殖を主体とする漁師をしています。高校卒業後、仙台で介護師として充実した生活を送っていた拓さんは、ある日「海に戻らねば」という思いに天啓のように打たれ、漁師の父に弟子入りしました。その3年後に東日本大震災、伊里前は壊滅状態でした。

今、地域の未来を考える上で、最大8m高にもなるスーパー堤防計画が立ちはだかっています。「オレ達は海を見ながら、海辺の自然の中で遊び、教えられ、叱られて、ここで生きる智恵を身につけてきました。そういうあたりまえの場が、今の計画では考えられていない気がするんです」と拓さん。

自分ができることをしようと、昨年末「山と海の子守歌」というグループを立ち上げました。まだまだ津波の爪痕が残る地元の浜を、子供が遊べる場にしようという活動です。今月は拓さんに、伊里前の海に生きることについて語って頂きます。


地平線通信 417号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/編集協力:福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年1月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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