2014年2月の地平線通信

2月の地平線通信・418号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月12日午前4時。ついつい、ソチのスノボ台、ジャンプ台につきあってしまった。滅多にないオリンピックだから、仕方なし。それにしても10代の若いアスリートたちの溌剌とした活躍にひきかえ、旧態依然としたメディアのつたない表現力には呆れてしまう。なぜなんだろう。みんな同じなのだ。

◆1月末、「大山」駅まで15分ほど歩いて、しまった、とっくに電車は行ってた後だと気づいた。電車はあと4時間以上待たないと来ない。仕方ない。歩くしかないか。指宿枕崎線の線路に沿って歩き出す。「西大山」に着くとカメラマンが何人か美しい山を背景に、電車が来るのを待ち構えていた。「本州最南端の駅」の標識に、ああ、と思う。

◆そのままさらに歩き、えんどう豆やニンジン畑を眺めつつ「薩摩川尻」「東開聞」と無人駅を通過し2時間半ほどでようやく登り口のある「開聞」駅付近にたどり着いた。

◆開聞岳。またまた、この山に来ている。もう8度目か。これまでもいろいろな登り方をしているが、今回はお世話になっている家から無造作に歩き出してみたのだ。結局、線路沿いに歩き続け、登り口に着いた時には、なんだか小さな山をひとつ登った気分になっている。

◆開聞岳は海からいきなりそびえ立つ、ほんとうに美しい山容の山だ。指宿あたりからは前山に隠されて見えず、山川駅近くまで行かないと姿を現さないのがいい。コンクリート道をしばらく歩き、「2合目」と書かれた標識から山道に入った。静かな、人のあまりいない冬の開聞。ただし今回だけは、町側からひっきりなしにスピーカーの雑音が聞こえるのが煩わしい。なんと市長、市議会選挙の真っ最中なのだ。

◆頂上まで樹林帯を螺旋状に登り続けてゆくと、突然視界が広がり、真っ青な海が広がった。毎度のことながら、嬉しい一瞬だ。ひとり南の山に登っていることは、なんと素晴らしいんだろう!富士山などと違ってジグザクの山道ではなく、まっすぐ進むといつの間にか頂上に達しているのも面白い。2時間半ほどで924メートルのてっぺんにたどり着いた。

◆山の日暮れは早いので、おにぎりを食べ、居合わせた単独行者にシャッターを押してもらって10分ほどで下ることにする。午後2時すぎ。下りにかかる時間は登りとあまり変わらないのが年寄登山者の絶対特性である。どうしても足元が何かにつっかかりやすいのだ。開聞岳は火山なので、礫岩が多く、特に下部の登山道はえぐれていて、そこに富士山の砂走りのような細かい礫岩が詰まっている。もうすぐ登山口、という所まで来て、いつもの左足首を軽くひねってしまった。

◆「開聞駅」には4時30分前に着いていないとまた電車を逃がしてしまう。足首がこんな状態でまた、あの長い道を歩くのもなあ、とやや必死になる。なんとか2合目に出て、アスファルト道路を小走りに進む。そのうち線路が見えて来た。しかし、往路はまっすぐ登ってしまったので、開聞駅がどこにあるのかわからない。ちょうど来た小型車を止めておばさんに聞いた。「開聞駅はどこですか?」

◆あとで冷静に考えると、いい年をしたおっさんがいためた足をかばいながら、夕暮れ時、それでも走ろうとする姿はかなり異様だったかもしれない。駅を教えてくれたおばさんは、直後に戻ってきて、「乗りなさい」と私を駅まで運んでくれたのだった。幸い、電車の到着までまだ20分ほどある。これで大丈夫、とほっとしていると、聞かれた。「どこまで行きなさる?」「大山駅です」「え?あそこに宿があるの?」「知り合いのお家にお世話になっていて……」

◆気がついたら、おばさんは私を乗せたままも大山駅方面に向っていた。わぁ、こんな贅沢させてもらっては、申し分けないです。ひそかに夜間帰宅も覚悟していたので、ほんとに恐縮した。でも、捨てておけなかったんだろうな。見かけは相応の老人なんだろうから。

◆結局、まっすぐ逗留先のお宅の玄関まで送り届けてくれた。なんという親切! ありがとうございました。「帰ってきましたか。よかった」と家のあるじが迎えてくれた。野元甚蔵さん。「チベット潜行1939」の作者として知られる方。3月で97才になるというのに、次女の菊子さんの世話で元気に過ごしておられる。

◆かれこれ20数年前からほぼ毎年のように、開聞岳の麓のこのお家にお邪魔している。今回は千葉からいらしていたご長女をまじえ、なごやかな冬の日々を過ごさせてもらった。野元甚蔵さん。私の目標とするひとりである。(江本嘉伸


先月の報告会から

あたりまえの海へ

千葉拓

2013年1月24日  新宿区スポーツセンター

■もしかして地平線会議初?パリッとしたスーツ姿で登場した若い報告者は、宮城県南三陸町の牡蠣養殖漁師、千葉拓さん。ご本人いわく、せっかく東京に出てくる機会だったので前日から牡蠣の営業をしてきたのだという。家業は震災後に再開したが、設備の関係で牡蠣は殻つきのままで出荷することになり、今は新しい販路探しに奔走している。

◆ここで突然、発砲スチロール箱いっぱいの新鮮な牡蠣が登場。とても立派で、殻が大人の手のひらサイズもある。「見るだけ!」という江本さんの声になんだかお預け気分だが、会場にふわっとひろがる磯の香りに三陸の海への想いを膨らませながら、拓さんのお話に耳を傾けた。

◆拓さんの生まれ故郷は、南三陸町歌津の伊里前集落。「イサトマエ」とは、アイヌ語で「鯨の集まるところ」という意味だそう。リアス式海岸の奥まったところにある豊かな漁場だ。江戸時代から続く契約会という相互扶助、結いの伝統が今も色濃く残る。家では少なくとも曾祖父の代から漁業を営んでいた。アワビを採って焚き火で焼いて食べたりと、拓さんは仲間と共にこの海で育つ。

◆親しんではいたが、海を生業にしようとは思ってはいなかった。早朝から一日中牡蠣の殻剥きをしている両親。ナイフで手を刺す怪我を見た事もあった。捨てられた殻からはいやなにおいがしていたし、結婚したら嫁も巻き込む事になる。だから「牡蠣だけはやんねえべな」、と思っていた。

◆高校卒業後は、友人からの勧めで仙台の老人ホームで介護職につく。誰かの人生の最期を共に過ごすのだから、1人1人とゆったり向き合いたかった。仕事が遅いと注意されたこともあったが、利用者に家族のように接したいという思いは貫いた。「あなたに介護してもらった人は幸せだと思う」と、江本さん。拓さん自身もやりがいを感じ、社会福祉士も目指していたという。

◆街での生活も3年が過ぎたとき、急に海に接したくなりサーフィンをはじめた。といっても、波にただようだけ。ボードに掴まっていたり、寝転んだり、座ったり……。そんな様子を見ていた彼女には「トドみたい」と言われたが、これが心地よかった。「海って、身をまかせたらいいんですよ」。そんなある日、波に乗ろうとして失敗して海に引きずりこまれてしまう。とんでもない大きな力に引きずり込まれ、目の中がチカチカした。何とか陸にあがったが、今まで海をなめていた、理解していなかったと気づかされた出来事だった。

◆ちょうど自給自足の生活に関心を持ちはじめ、星野道夫の世界にも惹かれていた頃。自然と接し生き方を考えていきたいという思いが募り、漁師になって生きる場所を海に求めていこうと決めた。そこに行かないといけない、という光を人生で初めて見た。実家に電話して弟子入りを頼むと、両親は「準備しておく」と言ってくれた。

◆「震災前3年間の漁師生活はどうでしたか?」という江本さんの問いに、拓さんは「やめたくはなかったが、苦しかった」と答えた。震災前は、牡蠣を剥き身にして漁協に出荷していた。朝3時半に起き、4時前には共同の作業場で剥き方をはじめる。いい値がつく朝8時の出荷までに30キロほどを用意した。15時頃まで同じ作業を続けたあとは、海で翌日に剥く牡蠣を引き揚げ、滅菌タンクに1晩つけておく。

◆9月末から3月まではこのサイクルで1日が終わる。海も筏も飽和状態で、牡蠣は種付けから2年しないと採れなかった。牡蠣のシーズンが終ると出稼ぎへ。福島沖でのシラス漁は夜に行なわれる。18時から朝の6時まで操業することもあった。機械で網を巻き上げるときに手を巻き込まれて骨折した人もいた。拓さんも指の爪を剥がしてしまう。そんな仕事が2ヶ月間休み無く続いた。

◆暮らしは楽ではなく、仕事も厳しかったが、それでもやめようとしなかったのは海で漁業がしたいという思いが「もっといい牡蠣を作りたい」という気持ちにつながっていたからだ。自分が生きるにはこの仕事しかないと思えていた。震災の前年には高校時代の同級生、良子さんと結婚し、実家を増築して2世帯での生活もスタートした。

◆漁師になって3年後の2011年3月11日。拓さんは朝から牡蠣処理場で父、母、従業員1名と共に牡蠣剥きをしていた。2日前に震度5弱の地震があり1mの津波が来たが、潮が引いているときだったので、いきなり満潮になったくらいの感覚で漁民もあまり危機感を感じていなかった。

◆朝7時前、左耳でキーンと耳鳴りがした。気のせいか、カモメの飛び方もいつもと違うように見える。日頃は悪い事は言わないようにしているが、牡蠣を剥く手を動かしながら、「もし大きい津波が来たらどうするか」と口に出した。親父は船を沖に出す。沖合の水深100mの所まで行けば、流れてきたロープがプロペラに絡まることもないので船は大丈夫だ。お袋と従業員は高台へ逃げる。自分は漁具を倉庫にしまってから、妻子を連れて逃げる……そんなシミュレーションをしていた。

◆操船に長けたベテランが海へ出て、万が一何かあっても若い者が跡を継ぐ。自然とそんなかんじ。その感覚がすごいなあ。昼食の後また牡蠣剥きをし、15時前、そろそろ翌日に剥く分を引き揚げに行くかとしていたときに大地震がきた。「本番だ!揺れが収まったら、さっき話したことをひたすらやっぺ」。

◆一家は冷静に動いた。父は素早く船を出し、拓さんは火事場の馬鹿力で漁具を運んで倉庫にしまう。そうして家に向かう途中、潮がものすごい沖まで引いているのが見えた。家に着きオロオロする妻に「逃げるぞ!」と声をかけると、妻はいったん中に戻り、ミルクとオムツを持ってきた。今考えると、金も持たずに子どもの物を持ってきてえらかったなあと思う。

◆車で逃げる最中、遠隔操作で閉まった水門に何かがぶつかるドスンという音が聞こえた。これが津波の第一波。ものすごい力だった。5mの津波が来る、と知らせる大津波警報が鳴り響く。避難所となっていたのは、海抜15mの伊里前小学校だった。そこから眺める海には変化が見えなかったので、しばらくすると下へ戻る人も出てきた。ここが生死を分けるポイントだったという。戻った人は帰ってこなかった。

◆拓さん自身も、車で子どものオムツを替えている妻に声をかけないまま、消防団の仲間について車を高台にあげるために町に降りた。そこで食堂のおじさんとおばさんが歩いているのが見え、気になったが声はかけなかった。家の様子を見たかったが、女房と子どもが心配してるかなと思い直し、行かずに車に乗りこんだ。そうして再び高台の小学校へあがると、集落はすでにものすごい煙に包まれて何も見えなくなっていた。

◆「来たぞー!」という叫び声。公民館の屋根がくずれていくのが見えた。空気に古い木のようなにおいと水蒸気が混じり、鼻にくる。「ここまで来るぞ!」という声がした。おろおろしている中学生たちに「上へ逃げろ!」と叫び、自らも妻子と共に小学校よりさらに15m高台にある中学校へ逃げた。水は小学校の校舎2mの高さまで来た。波に飲まれ、壁に押しつけられた車のハザードランプが光り、クラクションが鳴り響いている。その光景を見ながら、あのとき歩いていたおじさんとおばさんを止められなかったという、悔しいような、もどかしいような複雑な気持ちで漁師仲間によりかかった。海に向かってフェンスを叩いたのを覚えている。

◆引き波で、湾の上を走っていたバイパスに様々なものが引っかかり、防波堤が壊れていった。潮が水深7mくらいまで引くのと同時に、沖から映画のような津波が山となって押し寄せてきた。この第3波が、全てを飲み込んでいった。快晴だった空から、雪が降り始めた。そこに、先程のおじさんとおばさんが息を切らせて登ってきた。津波に足元をすくわれながらも走って逃げてきたのだという。心から安心した。どこかで冷静に、伝説の一場面にいる、これが語り継がれて大きな話になっていくんだろうな…と考えている自分がいたりもした。

◆幼い子どもがいたので、高台に残った民家に避難させてもらった。雪が舞う中、庭では漁師の先輩が「とにかく火ぃ焚け」と、薪を集めてドラム缶で火を起こしている。なぜ最初に火を焚くのかピンとこなかったが、「もうすぐ暗くなるしなあ」などと思っていた。家の中には多くの人が逃げ込んできており、すでに使える毛布はない。災害用の毛布を求め、寒風の中を歌津中学校へ向かう。学校の中はうす暗く、裏の幼稚園から逃げてきた子ども達が部屋の角でコウテイペンギンのようにぎゅうぎゅうに集まって3人で1つの毛布をかぶっていた。毛布はとてももらえる状況ではなかったが、ペットボトルの水を2本もらえた。

◆民家に戻ると、近所の家の人たちが毛布を持ってきてくれていた。外で火を囲みながら、軽トラのラジオに耳を傾ける。「親父は平気かな…」ふと言葉をこぼすと、先輩が沖を見てみろと言う。沖合に一列に並ぶ光があった。津波から逃れた漁船が、何かあったときにお互い助け合えるよう船団を組んで待機しているのだ。親父はきっとあの中にいる、大丈夫だべな、と自分に言い聞かせた。

◆この時のことを思い出すと、こみあげてくるものがある。“火が、妙に勇気を与えてくれる。”ああ、このためにこの人は火をつけてくれたんだな…。何もしゃべらず、ただ火を囲んでいるだけで、力強い炎が不安を取り除いてくれた。親父が帰ってきたら牡蠣再開すっか。余震が続く夜、前向きなことばかり考えていた。伊里前地区で船を残せたのは拓さんの家だけだった。他の家は潮が引くのに間に合わず、船を沖へ出せなかったのだという。

◆翌日、内陸の登米市にある奥さんの実家へ身を寄せた。電気も水も止まっており、裏の川から水を汲み、浴槽にためて生活用水に使った。今まで水道をひねれば出ていたものが出なくなった、そんな今でも川を見れば水はいらないくらい流れている。「全てを流したけど、まだ使って生きていいと言ってくれている」。ここまで川が大切と思った事は無かった。小学校の校歌にあった「水に無限の情けあり」の歌詞の意味がわかった。「自然災害でこてんぱんにされても、結局、自然が助けてくれるんだ。」

◆ガソリンが手に入るようになると、避難所になっていた中学校へ頻繁に様子を見に行った。父ともそこで再会できた。沸き水をバケツリレーで汲んだ。瓦礫を燃やして火は常にあった。そのうち、竹でコップを作る人がでてきた。名前を掘ったり絵を描いたり。大の大人がかわいらしくそんな事をして気を紛らわしている。自然のもので何かを作る知恵、山菜採りなどの自然のめぐみを受ける知恵、そして遊びの中で昔からその知恵を共有した仲間がいれば、団結してどんな災害も乗り越えられるのだと思った。

◆自然に生かされ、自然から与えられていることを震災から学んだし、つないでいきたい。今まで当たり前につながれてきたことだが、近代的なものが流され、本来のものがこれだと見えた。江本さんが言う。「その自然観が、大きなものでつぶされてしまうかもしれないということなんだね」。拓さんを育ててくれた伊里前湾に、巨大防潮堤の建設が計画されているのだ。

◆計画によると、防潮堤の高さは海抜8.7m。その巨大なコンクリートの壁を支える土台は幅40mにもなる。海岸だけでなく、湾に流れ込む伊里前川も河口から上流へ1.7kmは両岸を囲む。上流の末端部は海抜6.7m。2012年10月の勉強会で、県の河川担当者から初めて一般の人に計画の概要が知らされた。十分な環境アセスメントも行なわれない事業だという噂も耳にした。伊里前川では伝統的なシロウオ漁も行ない、海の恵みを与えられて生きてきた。この計画が実施されたらどうなるのか。震災前の写真が映される。河口部での春のアサリ採りの様子だ。子どもから大人まで、みんなが海に親しんでいた。灯籠流し、川沿いの桜並木とこいのぼり……川と共に過ごしてきた日々が目に浮かぶ。

◆もともと海にはチリ地震津波に対応した高さ4.7mの防潮堤があった。川もコンクリで護岸されていた。昔は石垣だったので、隙間に手を入れるとウナギがうじゃうじゃいたという話を父や祖父から聞いたことがある。震災後は、春になると防波堤のコンクリが壊されて出てきた石に「ふのり」が沢山つくようになった。潮が入ってくるようになったからだ。子ども達とむしって楽しんだ。「今でもまだ川にお世話になっている」。海に近い津波浸水地は災害危険区域となったため、住宅は作れないことが決定している。それなのに、何で防潮堤を作るのだろうか。

◆12月、隣接する志津川地区と合同で町に陳情書を提出した。「ふるさとの魅力や誇りを伝えていく町づくりのため、再考願います」。動ける若手3人と連盟をくみ、漁民関係者20名の署名を集めた。役場関係者などは署名できなかった。「この気持ちは無下にできねえべな」と町の特別会議では全会一致で採択してもらえたが、県は音沙汰なしだ。そんな状況が長く続くと、周りは「そろそろ決めないと」という空気になってくる。それでも拓さんは「もっとしっかり話し合わなければダメだ」と言い続けた。高台移転について話し合う「まちづくり協議会」で、やっとの思いで「将来まちづくり部会」を立ち上げたのは2013年6月のことだ。部会には父・正海さんが入り、拓さんは有志として参加している。部会の発足から約1年、これまでに住民間での話し合いは3回行なわれた。興味のない人にも話をし、最近はやっと意見や要望が出始めている。商店を営む人が「ここはゆずれない」と言えば、「じゃあここには防波堤を作ろう」。「こっちは漁民の作業場があるだけだから、防潮堤をセットバックして、もっと浜との接点を残せるんじゃないか。」「沿岸部をかさ上げして、山側から見た防潮堤の高さが低くなるようにすればいい」。まだ全貌は見えないが、第4回目の話し合いに向けて準備をしている。継続して話し合っていきたい。ただ、親族のつながりなどもあり、こういう場ではどうしても発言しにくいという人も多い。

◆「こういう問題は、地域の人だけではどうしようもない一面もある」と、江本さん。「それでも、やっぱり住人の合意が大事。高さが欲しい、高ければ当分は平気でしょ、という意見もある。思いを伝えてきたけれど、それが反対派として受け取られてしまうこともある」。県は高さ8.7mを少しも下げないと明言している。L1と呼ばれる100年に1度来る規模の津波に対応するためだ。今回のような大津波はL2に値し、この場合は防潮堤で防ぐ事はできないが、その分逃げる時間をかせげるという主張だ。

◆「結局は逃げることが大前提。避難道の確保、整備が最優先では」。このテーマは前回の部会でも話し合われた。伊里前はリアス式の地形のため、背後は急峻な山。年配者や子どもも逃げれるような道を作りたい。計画では、川の水門も無くなるという。しかし川の両岸に高い防潮堤が建ったら、津波が川を遡上し、かえって奥の集落まで導く形になってしまう。住人からは途中で遊水池を作るという意見もあったが、県はL1級の津波は途中で止まると主張する。でもL2が来たら、波が圧縮されて一気に川を遡上してくるはず。それなら防潮堤の高さを低くして、民家が無い所で水を逃がしたら……。県の計画に納得がいかず、今も頭の中を様々な思いがめぐる。

◆拓さんは、「もし結婚していなくて1人だったら、あのとき自分は流されていた。妻子に生かされたと思っている」という。そしてしきりに「想いばかり語って、つっぱしってしまう」と反省されていた。でもその姿は、何かに突き動かされて行動しているようにも見える。もしかしたら拓さんの背中を押しているのは、子どものころの自分か、大きくなった自分の子どもなのかもしれない。自然に育まれた豊かな心や生きる知恵は目には見えない。拓さんは、時間の流れを超えた自然からの大切なメッセージを代弁してくれているようだった。(新垣亜美


報告者のひとこと

■ふっと見上げると、東京の夜空がネオン街の光で臙脂色に染まっていた。その雲の切れ間に、貫くように光る星が一つ、鋭く輝いていた。「東京の夜にも星はあるんだ。東京に住んで居ても星と対話することが出来るんだ」。東京の目まぐるしさの中にある、悠久なる時間の流れ。その星の光は揺るぎなく、これから進む未来への指標に見えた。電車のホーム。交差点。出逢うことなく隣を通り過ぎて行く沢山の人たち。そんな時代の雑踏の中で出逢い、想いを共有することができた皆様との不思議なご縁。皆さんとこの時代、この世界であの時間を共有出来たことに感謝しております。もし、南三陸に来られた際は遊びに来てください。いつも歌津伊里前の海に居ますので。

◆最後に北京の餃子! 最高に美味かったです! また皆さんと一緒に食べたいです。本当にありがとうございました。では、また会う日まで。お元気で。(千葉拓


「火がね、勇気を与えてくれるんですよ」

■先日の千葉さんの報告会、牡蠣をご馳走さまでした。地平線会議では3.11以降、何度も東北の被災地をテーマに報告会を開いてこられましたが、新参の私自身は震災の体験者から、津波に追われた一日のことを直接聞いたのは、初めてでした。あの日、船で沖に待機しているはずの父親を思いながら、大丈夫べかね、大丈夫だ、と言い聞かせたという千葉さん。「この時の心境を思い出すとまだ……」と声を詰まらせていましたね。心の震えが私の胸にも刺さるようでした。

◆その声をふりしぼるようにしてひときわ強く、「火がね、勇気を与えてくれるんですよ」と。何もしゃべらなくてもいい、炎を見ているだけで、不安が取り除かれるのだと。印象深い言葉でした。思い出すたびに追体験して辛くなるにも関わらず、私たちに語ってくださって、ありがとうございました。

◆「絶対に牡蠣の仕事はやるまい」と思っていた千葉さんが故郷に戻ったのは、幼いころ海に親しんだ原体験があったからなのですね。今、世界中の農村・漁村で、若い働き手が都会に出てしまったことで過疎化や文化の継承に悩んでいると思います。どうすれば若者が居つくのか。このとき一つには、土地の自然・文化の中で子どもたちが温かく育まれ、五感を通した楽しい思い出がたくさんつくられることが大事なのだと思いました。

◆二つめには、一度外に出ること。育った地域を離れ、異質なものに触れることで原体験が目覚め、強い自己認識と確信を持って故郷に帰る。これが、自らの手でより良い故郷にしようという、未来への力強い原動力になるのだと思いました(沖縄の平田大一さんも、同様の道筋をたどっていらしたように思います)。だとすれば、防潮堤によって子どもたちにとって大切な自然の遊び場が失われてしまうことは、長期的にどんな影響をもたらすのか……。

◆しかし、良い悪いで一概に判断できることではないのでしょう。住民の意見が二分している状況は、沖縄の基地問題(あるいはリゾートホテル建設問題)にも似ていると思いました。なくて済むなら、なくていい。しかしあった方がいい、ないと立ち行かないという人も少なくないのが現状です。容易に結論が出るはずはありません。沖縄の場合、本土の人間の無関心が問題を深刻化させているといえます。しかし親類や友人同士ですら激しい争いになるため、島でヨソ者が軽々しく知ったような意見を言わないよう注意を受けたこともありました。住民同士でとことん話し合うしかないようなのです。

◆防潮堤に関して、東京の人間はどういう姿勢を取り得るか……と考えさせられました。愛する故郷の人々に「反対派」と敵視される事態は、千葉さんにとって不本意で苦しいことだと思います。地域の他の若者達も本気で話し合ってくれるといいですね。世界では、防潮堤の影響などに関する事例はあるのでしょうか。世界の漁村ではどうしているのでしょう。視察してまわり、比較することでヒントが掴めないでしょうか。

◆ネイティブ・アメリカンは七代先の子孫のことを考えるといわれます。住民の方々が長期的な視野で判断なされることを願っています。(福田晴子

「マンモス防潮堤が……、攻めてきた?」

■千葉拓さんが話し始めてまもなく、純朴で少しとぼけていてとてもいい性格だということがわかり、いっぺんで好きになりました。震災についての詳細な説明や防潮堤についての思いを伝える時でさえ、なんとなくほのぼのとした感じがしてしまうのが千葉さんの“味”なんでしょうね。だからといって、聞いている側が真剣にならないかというとそうではなく、だからこそ聞き入ってしまい、時間が経つのも忘れるほどでした。

◆恥ずかしながら、マンモス防潮堤の建設が問題になって議論されているとはまったく知りませんでした。そういった防潮堤を国が作る計画があるというのは知っていましたが、これが作られれば沿岸部の人たちは安心できるんだ、だから良い計画なんだ、とはなから信じていました。

◆ところが、肝心の地元の方たちはだれもがそう思っているわけではないということを初めて知りました。たいていのことについては、ひとつの意見とそれに反する意見を聞いて自分としてはどう思うのかを導き出すようにしていますが、防潮堤についてはまったく一方向からの意見しか取り入れておらず恥じ入るばかりです。

◆遅ればせながらインターネットでいろいろ調べてみると、南三陸町だけではなく、気仙沼市などでも住民の疑問が噴出しているということもわかりました。

◆10年ほど前に、仙台から車で海沿いを北の方向に旅したことがあります。いつものことですが、ガイドブックや情報誌を全く見ずに風の向くまま気の向くまま、綺麗な景色や気持ちが惹かれた道など、直感に導かれての気ままな旅でした。星が綺麗そうだからこっちに行ってみようと思って行った先で、無数のキラキラ光る目に囲まれてびっくりしたり(あとで調べるとそこは牡鹿半島でした)、複雑な海岸線の景色を眺めながら気仙沼まで行ったり(ということは、南三陸町の海も見たということですね)、海や岩や浜があってこその、心に残る旅でした。

◆この目でみたからこそ、それらすべてがマンモス防潮堤に遮られてしまう寂しさというのがとてもよくわかります。そこで漁業を営む人たちにとってみれば、景観の問題だけではなく生態系の変化にも敏感になるのは当たり前でしょう。やっと今マンモス防潮堤問題のスタート地点に立った私ですが、何をすればいいのか、何ができるかを考えてみたいと思います。(瀧本千穂子) 


地平線ポストから

彼の評判はブラジルでは散々でした
━━最後の日本兵、小野田寛郎さんとの1週間

■自転車での放浪中に小野田さんの牧場で一週間ほど滞在する機会に恵まれました。出身地(茨城県稲敷郡桜川村・現稲敷市)の助役から「ブラジルに行ったら娘のところでのんびりしてきなさい」といわれ、田舎ゆえに無視できぬ重鎮のことばにこれ幸いととびついたところ、そのご主人が小野田さんだったという縁からです。1982年9月のことでした。

◆牧場を訪ねると小野田さんは快く受け入れてくれました。けれども骨の髄まで染みついた軍人気質を残している方だけに、常に緊張を強いられる滞在となりました。そんな中で気を休められたのが牧場にいた奥さんの弟の存在です。彼は私より二回り近く年上でしたが、私の同級生たちをよく知っており、「ああ〇〇、あの洋品屋の娘、あれと同級か。××もか、あいつはうちの親戚だ、すし屋になったと聞いている」などと一緒に遊んだ友人たちの話に弾んだことを覚えています。

◆それはさておき、31年も密林で孤軍奮闘してきたにもかかわらず小野田さんの評判はブラジルでは散々でした。アウトドア体験者のはしくれとして少しは自然の厳しさを知っているつもりですが、そこにいつ出没するか判らない敵を相手に戦うなど極限をはるかに飛び越えた状態です。そんな環境下で長いこと生きぬいてきたにもかかわらず、ブラジルの日系人たちからは、「武装解除命令が出ていないのだから潜伏して戦闘を続けるのは当たりまえではないか、そんなことでなぜ評価されるのか」というのはまだ穏健なほうで、「部下を全滅させておきながら、よくおめおめと帰ってこられたものだ」と吐き捨てるような意見を、後々あちこちで聞かされることになります。

◆アマゾンの奥地に行くと、戦後40年近くもたっているというのに、なおも日本は負けていないと主張する移民も健在で、負けを事実と把握している方々とのトラブルが起きていたそうです。いわゆる「勝組負組」の争いですが、そのような風土がなおも息づくうえに、移民には戦闘経験をもつ多くの帝国軍人も多かったので、彼らにまみれては小野田さんの超人的な奮闘も形なしでした。

◆ひるがえって評判を集めていたのが奥さんでした。滞在中に地区の市長選挙が迫っていて、牧場に立候補者のひとりを推薦しに男がやってきました。去って行ったあとで「奴さん酒場で2人殺しているんだよな、眼が座ってんだろ」と聞かされ、まさか市長候補者が殺人者を雇うはずもあるまいと日本人的感覚でとらえ、それでは決まったようなものではないかと思っていると、「対抗馬にはまともに当人が殺しているのもいるよ」とアマゾンの現実を教えられ、殺人もまだ指導者としての肩書になる地区が残っていたのか、と感心したものです。

◆そんな地域ですから、小野田さんも彼も日常的にコルトの拳銃を腰にぶら下げて働いていましたし、それを握らせてももらいました。奥さんもまた牛泥棒の話をしてくれました。男手がすべて不在でひとり留守番をしていた夜、一区画の牛を何十頭も連れていったとか。そのとき彼女はライフルを抱えて物陰で震えていたといいますから、この時代にありながら西部劇さながらの状況です。牛を手に入れただけで満足したのか、賊は母屋までやってこなかったので難を逃れたと笑っていました。そんな環境に京都の華道師匠だった方が嫁いだわけですから、戦前堅気の人々がマッドグロッソの山奥でお花の先生が牧場主のカミさんとはみあげたものだと評価するのもうなづけるというものです。

◆映画『ランボー』の発言のように、前線の兵士が生死をかけて戦ってきた経験も合法的な殺戮も、戦場を知らぬ者たちからはうらやましい体験にとられ、評価されたらされたで、なぜあいつだけがと似たような体験の持ち主からも妬まれる、そんな環境を敏感に悟る元兵士は多いと聞きます。

◆私の祖父もまた日露戦争では第二騎兵旅団(奉天会戦で秋山好古揮下)の上等兵として従軍し凱旋したものの、その栄誉につきまとう村人たちに嫌気をさして、恩給を質に入れ一旗揚げるべく上京し奮闘、それなりの軌道に乗ったところで関東大震災にあいすべてが灰燼に帰したという経験の持ち主です。

◆いまとなっては推測でしかありませんが、そういった風評が小野田さんをブラジルに残留させなかったのではないでしょうか。勝っても負けても一部の上級将校以外には悲惨な将来しか与えない戦争の現実に、漢詩にある「一将功成万骨枯」の一行が沁みてきます。

◆小野田さんが語られたことのいくつかを紹介します。「戦争が終わっていたなんて思いもしなかった。ましてや日本が負けたなんて考えるはずがない」「アジア諸国が独立していまの姿があるのはだれのおかげだ? 日本が欧米相手に戦って解放したからではないか、それなのに日本を非難するとはなにごとだ。植民地のままのほうがよかったのか(東南アジアの反日運動に対して)」

◆「毒ガス訓練ってのがあってね、皮膚をさらしちゃいけないんだ。その装備と手順が大変でね、あの訓練がいちばん辛かったなあ」「体重までの重さは担げるからって、それだけの装備を担いでの行軍もあって、意外と行けたけどね」。日本陸海軍の戦術批判多数。特に沖縄戦の守備、配置(私にはよく理解できず)について。「そうか、山下将軍の道を行くのか。あの道は行ってみたいね(バンコク

−シンガポールも予定のルートと答えて……小野田さんは山下奉文大将を評価していた)。(自転車ゆえに豪快に食べる私と少食の小野田さんを比較して奥さんが)「あんたは31年も食うや食わずでジャングルさ迷っていたんだものね、胃袋も小さくなっているわよね」

◆太平洋戦争が完全なる歴史になってしまったような小野田さんの訃報でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★追記★

 小野田さんのことを書いているうちに30年前のブラジルを思い出してきました。

 私のブラジルは日系移民の親切さがかえって苦痛になり、当初の予定を放棄して逃げ出した土地となっています。あちこちの日系移民から歓迎され、どこでも宴会、なかなか進まず、別れには餞別付きで、3か月いながら出費ゼロ、この環境に海岸線を北上しつつベネズエラまで走るつもりもサンパウロでギブアップ、離脱ということになりました。そのサンパウロでは、ブレジネフの死去のニュースが伝わってきたことを覚えています。

 ここで移民の方のことばを少し。

 [1]あの焼け野原の日本がここまで発展するとは思わなかった(移民ならぬ棄民と自称する中国戦線からの復員兵)

 [2]親父はどうしてあんないい国を捨てて、こんな経済が破たんするような国にやってきたのか(同世代の2世、3世:当時ブラジルのインフレは年400%、のち90年代の10年間でほぼ3000%を記録する)

 [3]移民の成功を一攫千金どころか日本にまた帰れるかどうかという些細な尺度でみても、5人にひとりじゃないかなあ。5人中4人は日本に帰りたいと思いながら異国で朽ち果てていくんだ。それが移民の現実だよ(その人は日本観光がかなった)。

 [4]弓場農場へ行ったのか? あのおやじはとんでもない頑固者でな。借金は踏み倒す、差し押さえれば同胞を殺す気かってわめく、こまったやつで。いまじゃだれも相手せんだろ(たぶん地平線の方々もずいぶんとお世話になっていると思います)。

 行けなかったサンパウロからの北上路、いずれ静かに走ってきたいものです。(埜口保男

3年が経ち、夫がつないでくれた縁で、地平線会議にお菓子を送る楽しみが定着しました

■地平線報告会に私の作ったお菓子を時折りお届けするようになって2年以上たちました。2009年7月に夫原健次に誘われて地平線報告会なるものの存在を知り、「何だ!この集団は?」と、びっくりしたのを覚えています。その日は夫が報告者だったのです。自身が参加したトランス・ヨーロッパ・フットレース2009の報告会でした。会場には地平線会議のメンバーの方々が司会、映像と盛り立てて下さり、夫もたくさんの写真を駆使してレースの模様はもとよりその土地の様々な情報を皆さんにお伝えしようと心を砕いているのがよくわかりました。

◆この会が気の遠くなるような回数の報告会を催し、通信を発行し続けていることも知りました。何かを追及する様々な分野の方々が集い、体験を共有し共に考える。こんな純粋な気持ちを持ち続ける大人たちがいるんだ!という驚きでした。

◆私を地平線会議につないでくれた夫が2011年2月に突然帰らぬ人となり、大勢の地平線メンバーの方が葬儀に駆けつけて下さり、翌月の地平線通信3月号にはたくさんの追悼のことばを寄せてくださいました。昨年3月には江本さんと丸山さんのご尽力で「原健次の森を歩く」という素敵な本が生まれました。

◆昨年秋の河田真智子さんの報告会の時、久しぶりにお菓子を宅配便で送らせていただき、私も会場に行くことができました。河田さんのお嬢さんの成長記録と障害を持つとはどういうことかという重いテーマを母親としてまたジャーナリストとしての立場から語ってくださいました。休憩時間に私のお菓子が参加者に切り分けられ、皆さんの笑顔と語らいの場となりました。お菓子はあっという間になくなってしまいましたが、私のお菓子が地平線の皆さんに喜んでいただいていることを目の当たりにしてとても嬉しくなりました。

◆先日NHKのラジオ深夜便を聴いていたら、角幡唯介さんが登場されました。北極海を橇をひいて横断されたことを淡々と30分以上もインタビューに応えておられました。しかもアンコールに応えての再放送。次回は写真家石川直樹さんにエベレストのお話しをして頂きますという予告も。通信の中でたびたび目にするお名前が耳のすぐそばで聞こえています。きっと地平線はこのような強い意思をもった方々をお互いに認め育ててきたのだと思いました。

◆夫が繋いでくれた地平線。これからもたくさんの驚きと感動そして問題意識を持ち続けながら通信を心待ちにしています。フロント頁とあとがきを真っ先に読んでゆっくり中を開きます。報告会にもお菓子に身を変えて時々参加させていただきますね。(2月5日 宇都宮市在住 原典子

17歳の夏の日、地理で使った地図帳の「アフリカ」を開き、南のケープタウンと北のアレキサンドリアを結んでピーッと赤線を引き、「この線に沿ってアフリカ大陸を縦断しよう!」と思い立った「あの日」から、もう49年……

■「ナイロビ→ケープタウン」の「アフリカ縦断」から帰ってきました。バイクは我が愛車のスズキDR-Z400S。横浜港からケニアのモンバサ港に送り、ナイロビで引き取りました。このDRはすごいバイクで、2002年の「ユーラシア横断」(ウラジオストック→ロカ岬15970キロ)、2004年の「サハラ縦断」(チュニス→アクラ6763キロ)、2006年の「シルクロード横断」(天津→イスタンブール13171キロ)、2008年の「アンデス縦断」(リマ→ブエノスアイレス12574キロ)を走ってきました。2010年の「林道日本一周」では313本の林道を走破し、ダート距離の合計は2283キロになりました。

◆そんなDRを走らせての「アフリカ縦断」では赤道直下のナイロビを出発するとナマンガの国境を越えてタンザニアに入り、アフリカの最高峰キリマンジャロを見ながら走りました。青空を背にしたキリマンジャロの雪はまぶしいほど光り輝いていました。タンザニアの首都ダルエスサラームとザンビアの首都ルサカを結ぶ幹線道路沿いのミクミナショナルパークでは、キリンやシマウマ、バッファロー、ガゼルを見ながら走りました。キリンの群れと出会ったときは、思わずバイクを止めてしまいました。

◆マラウィでは海のように広いマラウィ湖畔を走りました。ザンビア・ジンバブウェ国境の世界最大の大滝、ビクトリア・フォールスでは、水しぶきを浴びてずぶ濡れになって歩きながら、あまりの大きさに「おー、これぞアフリカ!」と声を上げたほどです。ボツアナでは「カズングラ→ナタ」間の幹線道路沿いで何度もゾウを見ました。その数は20頭以上。ナミビアのナミブ砂漠では朝日を浴びて真っ赤に輝く砂丘に登り、地平線の果てまでも一直線に伸びる高速ダートをアクセル全開で走りました。

◆オレンジ川を渡って南アフリカに入り、ドラケンスバーグ山脈を越えてアフリカ最南端のアグラス岬に立ちました。目の前の海に線が引かれている訳ではありませんが、向かって右側は大西洋、左側がインド洋になります。まるで自分の手のひらに地球をのせ、転がしているかのような壮大な気分を楽しむのでした。

◆そしてナイロビから8000キロ、喜望峰のつけ根のケープタウンに到着したのです。喜望峰突端の断崖の下に立ったときは、しばらくは動けませんでした。17歳の夏の日、地理で使った地図帳の「アフリカ」を開き、南のケープタウンと北のアレキサンドリアを結んでピーッと赤線を引き、「この線に沿ってアフリカ大陸を縦断しよう!」と思い立った「あの日」が無性になつかしく思い出されるのでした。

◆高校時代のクラスメート4人とアフリカ大陸をバイクで縦断しようと思い立ったのは1965年夏のことでした。ぼくたち4人は学校(都立大泉高校)に近い西武池袋線大泉学園駅前の喫茶店「カトレア」に集まり、3時間も4時間もかけて次のような「アフリカ縦断計画」をまとめたのです。ケープタウンを出発点にし、東アフリカを経由して地中海のアレキサンドリアに出る。さらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコをアフリカの最終地点にする。ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。

◆全コースをバイクで走破する。出発は3年後の春とし、2年間で計画を達成する。計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。西アジア横断の資金はヨーロッパでバイトをして稼ぐ。

◆以上のことをまとめると、ぼくたちは「カトレアの誓い」だといって「アフリカ縦断」の実現を目指したのでした。それから3年後の1968年4月12日、横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗って「アフリカ縦断」に旅立ちました。4人のメンバーが1人落ち、また1人落ちて2人になったのは何とも寂しいことでした。

◆こうして20歳のときに旅立った「アフリカ縦断」は2年間をかけての「アフリカ一周」になり、日本に帰ってきたときは22歳になっていました。「22歳のカソリ」は「これからはトコトン、世界を駆けるゾ!」と固く決心しました。その22歳の決心通りに、とでもいいましょうか、その後、「世界一周」、「六大陸周遊」とたてつづけに大陸から大陸を駆ける旅に出ました。カソリの世界地図の中心にはいつもアフリカがあったのです。

◆1971年から72年の「世界一周」では「ポートスーダン→ドアラ」のルートでアフリカを横断し、「ラゴス→アルジェ」のルートで日本人ライダーとしては初となる「サハラ縦断」を成し遂げました。サハラにはすっかり心をひかれ、その後、別な2ルートでサハラを縦断しました。1973年から74年の「六大陸周遊」の「アフリカ編」は特筆もので、このときはバイク&ヒッチハイクでアフリカ大陸を縦横無尽に駆けめぐりました。車が1日2、3台というような道も歩きに歩いてヒッチハイクしたのです。

◆今回の「アフリカ縦断」は12度目の「アフリカ行」になります。この原稿を書きながら、手元には12回のアフリカ行のルートを記したノートがあります。色別に分けたルートでアフリカ大陸は埋め尽くされていますが、「まだだな。まだまだ」という気持ちが強くあります。今回の「アフリカ縦断」でボツワナに入りましたが、ぼくにとっては初めての国。これで足を踏み入れていない国(アフリカ大陸内)は赤道ギニアとギニアビサウの2ヵ国になりました。これらの2ヵ国にはぜひとも行ってみたいのです。今回の「ナイロビ→ケープタウン」は「アフリカ縦断」の前編といったところで、後編の「ナイロビ→アレキサンドリア」をぜひとも近いうちに実現させたいと強く強く願っています。(賀曽利隆

クリスマス寒波に異例の大雪というコンディションの富士山。ラッセルとホワイトアウトで恐るべし冬の津軽の山。そして、ことしの冬もやって来た、カナダ中央平原……

■今冬もやっぱりダメかな……。厳冬カナダへ入国して、きょうで1週間、はやくも気分は低迷している。沈鬱な気分になっている理由はいくつかある。話が少々長くなる。さらに富士山だの津軽の山だの話が少々飛ぶ。まずは1年前までさかのぼり順に説明したい。2013年冬のカナダ中央平原では、厳しい寒気と強風で酷い顔面凍傷を負う。その影響で一時的に目が見えなくなった。

◆目が見えなくなったのは凍傷そのものが原因ではなく、頬の腫れでまわりの肉が圧されて視界を妨げた。危惧していた眼球そのものへのダメージはない、と帰国後の専門医の診断でわかった。それでも一時的に目が見えなくなったという経験は、精神面において大きなハンディとなる。PTSD(心的外傷後ストレス障害)というほどではないかもしれないけれど、寒気や強風に対して以前にくらべると精神面は格段に低下するだろう。もちろん一度凍傷を負った患部は肉体的に弱くなる。

◆精神も肉体も鍛えるほど強くなるってほんとうかな。そう言っている人は、かなり低い次元で満足している気がする。井の中の蛙だ。なにごとも過剰な負荷をかければ最終的には壊れてゆくか。この調子だと来冬はもうダメかな。絶望感につつまれながら季節は春夏秋と過ぎた。

◆12月、クリスマス寒波に異例の大雪というコンディションのなか富士山へ。山麓から歩きはじめて初日は1合目にすら届かず。翌日もひたすらラッセル。深いところは胸くらいまで潜る。すさまじい強風のなかを8合目まで達する。一晩中バタバタするテントでほとんど眠れぬまま夜明けを迎える。翌日はおさまることのない強風の中、ダメもとで山頂をめざす。

◆9合目から上はツルツルのアイスバーン。そして突風のなか耐風姿勢の合い間に前進。マニュアル的にいうならば「途中で引き返す勇気が必要!」とでもなるのかな。それでもなんとか山頂に立つ。自分でも予想外の展開。たとえば行動する前は、あれこれシミュレーションする。天気図などのデータをはじめ、自分の過去の経験と照合する。ある程度の経験を積むとこれらを瞬時に計算して成否がうっすら見えたりする。偏差値みたいなもの。やっぱり自分には無理かな。ところがそう断定したところで、実際にやってみないとわからないケースも多い。頭のなかで考えるよりもまずは行動、のほうが可能性は明らかに広がる。

◆なにはともあれクリスマス前の富士山で気分はすこし明るくなった。年末は再び富士山へ。これまたすさまじい強風で5合目から耐風姿勢の連続。さすがに8合目で断念。年が明けると、津軽の山へ。日本海に面した冬の津軽の気象条件は厳しい。麓の町ですら冬の北アルプスの稜線なみの風雪が舞う。

◆バスを降りたすぐそばからワカンを履いても太ももまで潜った。バスの運転手からはよくこんな荒れた日に山へ行くなあ、という視線だった。自分でもよくこんなホワイトアウトの中を運転できるなあ、と感心した。そういうコンディションである。とにかくひたすらラッセル。その日の後半は1時間もがいて300メートル足らずしか進めない。冬の津軽の山は一度悪天候に見舞われるとなかなか回復しない。というよりもむしろ稀に訪れる晴天の日に登ったら反則じゃないかとも思えてしまう。風雪吹き荒れているのがふつう。

◆翌日も風雪のなかをひたすらラッセル。稜線に出ると有視界5〜10メートルのホワイトアウト。赤布を立てながらすすむ。30本の赤布をあっというまに使い切る。現在地も方向もわからず。わたしは誰ここはどこ(古いか?)。けっきょく赤布が尽きたところが最高到達点となった。後で地形図と行動時間からの逆算で、だいたい9.5合目くらいのようだ。

◆恐るべし冬の津軽の山。できないから逆にハマるのだろうか。不思議と冬の津軽に魅かれてしまった。日本の山もまだまだ奥が深い。クリスマスから年始にかけての山行で、いつもネガティブな自分にしてはめずらしくポジティブな気分になれた。しかし集中的に行動したツケがまわってきた。もともと痛めているヒザがさらに悪化。ついでに腰も悪化。ヘルニアの可能性もある。スポーツ外科医からそう言われたときには、すでにカナダ出発1週間前となっていた。

◆カナダ出発前の1週間は完全レストに努めた。悪化はなかったけれど良くもならなかった。動かずにじっと過ごしたおかげで気分がだいぶ沈んだ。総合的に見たらかえって悪化したのだ。ヒザ、腰、顔面凍傷、それというのを忘れたけれど5年前に足指凍傷で先端一部を切断している。というハンディをかかえてカナダ中央平原にやって来たのは1月下旬。

◆今冬のカナダはナイアガラの滝が凍るほど冷えこんでいる。入国早々、今冬はやっぱりダメかなという気分。そして偵察がてら凍結した川をスキーで歩いてみた結果、気分は冬の日本海の空のように沈鬱になった。身体的にも精神的にも、今冬はやっぱりダメかとあらためて思った。そこまで見込みうすいのになぜ潔く断念しないのかと突っ込まれそうだ。しがみついているだけじゃないのかと揶揄されるかもしれない。

◆果たしてそうだろうか。経験を積んだところで、やってみないとわからないことは多い。そもそも今現在認識していることなど、宇宙という壮大な規模で見るならば微々たるもの。誰も気づかない隠れた可能性がどこかに潜んでいるかもしれない。もちろんさらなる悪化の可能性も同時にどこかに潜伏しているだろう。

◆やはり明日のことは憶測の域を出ない。なによりも先行きの不安を思い煩いながら過ごす時間も、あとになってふり返ってみると思い出に変わってしまったりする。だから2月いっぱいまでこの地で粘り、旅立ちのタイミングを待ってみたい。大量の鎮痛剤を飲みながら……。(田中幹也 厳冬のカナダから)

寒波襲来であちこち大雪にビックリ

ビニールハウスのほうれん草を守るため、軽トラで“野宿”しました

■2月8日夜は、私の住む南三陸町中瀬地区は35センチほどの雪が降りました。平成3年2月18日、19日に60センチ積もったことがあって、その時の経験から40センチか50センチなら大丈夫か、と思いましたが、3.11で農地も失った後、新たに開いた土地に建てたばかりのビニールハウスがつぶされたら、と万一を考え、ひと晩、軽トラの中で過ごすことにしました。

◆ほうれん草の出荷が続いている大事な時期です。ビニールハウスは7棟ありますが、ことしは生育が良く、いい出来映えなのでなんとしても守りたかった。お茶、コーヒーを小さな魔法びんに入れ、夜食のおにぎりも用意しました。それでも喉が渇いて、途中下まで降りて自販機でお茶を補給しました。

◆寝る時は、軽トラの運転席でムリムリ横になって仮眠しました。夜になって冷え込みましたが、その時はエンジンをかける。15分ほどすると今度は車内は暑くなってしまうので1時間に15分だけエンジンをかけるのがちょうどいい。

◆夜11時から午前2時にかけての降りは半端じゃなかった。ビニールハウスに積もった雪を4回ほど落としました。アルミ製のレーキ(園芸用の草かき器具)にアルミのパイプをつなぎ、さらにひもをつけて屋根の上に放り投げて積もった雪を落とすんです。

◆ほうれん草は、1年を通して切らしてはいけないんです。ビニールハウスごとに出荷の時期をずらせて通年出荷できるようにしています。いまのハウスのはあと1か月は出荷できます。結局朝7時まで雪番をやりました。さすがに翌日は休みましたが。(佐藤徳郎 南三陸町中瀬区長 電話で。文責・E)

内股に何かぽしゃとふれる感触があり、その直後チー、と鋭い悲鳴が聞こえた

■いま(2月9日)テレビのニュースでは東京が大寒波に見舞われ、積雪25センチ記録的な大雪になっていることが報じられている。車のスリップ事故が相次ぎ、転倒して怪我をする人が続出しているそうだ。だが、月山の懐深い、積雪3〜4メートルが当たり前の豪雪地に住む私にとっては鼻でせせら笑いたくなる話だ。

◆ことしはまだ2メートル半と例年に較べて雪は少ないのだが、何度も寒波が襲来し、台所の水道は1月はじめから凍り付き、トイレの水も止まったままだ。風呂にも入れず、食事だけはストーブで雪を溶かしてつくっているが、まるで20台後半からの10数年、山小屋暮らしをしていた時に逆戻りしたみたいだ。ただ、毎日のことでさほど痛痒は感じない。こんな土地に住む者にとっては1月から2月の厳冬期は毎日が雪との格闘でよほど褌を締めてかからないと暮らせない。だが、こんな厳しい自然だからこそ出会える喜びもある。

◆先日、屋根の上で雪かきをしていた時のこと。足の内股に何かぽしゃとふれる感触があり、その直後チー、と鋭い悲鳴が聞こえた。振り向くと飛び去ってゆくタカのうしろ姿がわずかに見えたのだが、まだ事情が呑み込めない。周囲を見回してみると、立っている近くの雪の上には数枚の小鳥の羽が散乱していた。どうやらスズメの羽のようだ。その痕跡を見るに及んですべての事情が理解できた。

◆タカに追われたスズメが私の股の間に逃げ込み、同じくタカも私の股の間をくぐり抜けてスズメを襲ったのだ。スズメを捕えて飛び去ったタカは、背中の色やムクドリ、ヒヨドリ並みの大きさからハイタカに違いない。小鳥を捕えるのがうまく、かってタカ狩りに使われたタカだ。『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』との諺があるが、まさにこれと同じような体験が自身の身に起きるとは……。厳しい自然、厳しい生活の中で遭遇した小さな野生のドラマ。そんな出来事にささやかな喜びを覚えながら豪雪の下、タカとともに生きてます。(松原英俊 鷹匠 山形県田麦俣住人)

雪の少ない佐渡から

■ソチ五輪の開会式を観ていた。「東京は今夜にかけて大雪になる……」という緊迫したニュースが時折入る。窓の外に目をやれば田んぼの薄氷の上にうっすらと雪が積もり始めていた。(夜10センチの積雪に)。ここ佐渡は豪雪地帯の新潟にありながら降雪は少ない。ところが今朝は寒波による水道管破裂が所々で起きており、「時間断水も予想される」と、たびたび市からの広報が出されている。珍しいことだ。

◆東京を離れ、この地での暮らしも10年になる。つい先日、60歳を迎えた。地平線会議にかかわり、台湾蘭嶼島の旅を報告したのは1984年、ちょうど30年前に遡る。当時、保育士をしていた頃、やっと取れた1週間の休暇での一人旅だった。主に障がいを持つ子とかかわっていた私は、日々起こるいろいろな課題に向き合っていた。言葉を発することや気持ちを伝えることの不得手な子ども達と接し、その目の動き、体や指先のわずかな動きを捉え、その思いを知りかかわろうと必死な頃だった。

◆日常の仕事を離れ、未知の地への旅へ……。不安でいっぱいだったが、島の人々は見ず知らずの私に、全身で丁寧に教えてくれた。その繰り返しで目的地に辿り着くことができた。ここち良い空気間の中で、言葉に頼らないコミュニケーションの素晴らしさを知った。そのことが、その後の私の仕事にどんなに役立ったことか。私は旅で大きなヒントをもらったのだ。蘭嶼島には、その後も通い続けた。

◆現在、地域の民生委員をしている。佐渡は高齢化率38%。独り暮らしの高齢者の比率が断然多い。元気に身の回りのことができる人は年々少なくなり、病気をかかえ、身体の自由が利かない、支援の必要な人が増えるばかりだ。先月号の通信で中島菊代さんがお書きになっていた高齢化社会の現状をひしひし、と感じる日々。かつては成長していく子どもとのかかわりを、そして今は高齢者との関わりがほとんどである。

◆私自身、父の介護をし、料理教室の仕事もする。今そんな日々をおくっている。予想外のことが次々と押し寄せてくる。そのつど受け止め、整理し、リセットしながら動く。そうしながら進む。それって、もしかして旅の過程と同じ? そう思うときがある。佐渡を離れることは以前より難しくなっているけれど……。(2月8日 佐渡島住人 高野久恵

高尾山だって雪山に

■青梅線も五日市線も動いていないが、中央線はセーフ。「よし、いける」と、ザックを背負って家を出る。めざすは高尾山だ。一昨年秋からほぼ週に一度、単独で山を歩くようになった。主なフィールドは奥多摩だが、「もっと高く」「もっと長く」とだんだん欲が出てきて、昨夏は八ヶ岳や北アにも足をのばした。

◆でも、雪山に行けるほどの力はない。ところが大雪となれば、「誰でも登れる高尾山」だって立派な「雪山」に変身する。その機会を逃す手はない。運休しているケーブルカー駅の横から、琵琶滝を通る6号路を歩いて山頂へ。さらに奥の城山まで進む。

◆半月ほど前に来たときは霜柱が融けてグチャグチャにぬかるんでいた道が、分厚い雪に覆われて美しくなり、かすれたような色合いだった景色が、雪の白、針葉樹林の黒、空の青と、めりはりをつけて輝いている。城山から小仏峠を経て旧甲州道へと下る。さて、あとは小仏の停留所からバスに乗って……と思ったら、バスは運休。ところどころ除雪されていない道路は山道以上に歩きにくく、滑らないように、転ばないようにと緊張するせいか、内腿の筋肉がたちまち痛くなってくるのだった。(熊沢正子

この冬は小雪で終わるのかなと思っていたら、2,3日前から降り出した雪で、会津は一気にいつもの冬景色に

■お電話頂いた時は村の親子スキー教室に参加していました。先週まで「今年は雪がすくねぇなぁ。」という言葉があちこちから聴こえていて。私もこちらに移住してのべ14年の中で最も雪が少ない冬だと実感していました。昨年までは寒中には、毎朝起きると太ももあたりまでの雪があり、ひざ丈までの長くつでも雪が入る日が数日ありました。

◆が、この冬は一度もその長くつを履いていない程少ない雪でした。雪が少ない代わりに気温は例年より低く、私は新調した洗濯機につながる水道管を見事に破裂させてしまいました。電熱線を1箇所だけ入れ忘れていたのです(^^ゞ。このままこの冬は小雪で終わるのかなと思っていたら、2,3日前から降り出した雪で一気にいつもの冬景色に。

◆今日も午前中のスキー場では、リフトに乗っている間にウエアは真っ白になり、ゲレンデのパウダースノーもあっという間に積もっていきました。3日前から最高気温も氷点下です。立春を過ぎてからこちらもかなり冷え込んでいます。

◆まだまだ雪国の冬は続きそうです。(辺り一面真っ白な南会津伊南から。2月9日 酒井富美


【先月の発送請負人】

 地平線通信417号は、1月15日の水曜日に印刷、封入を終え、16日メール便で発送しました。16ページの本編に加え、赤いカラーの不思議な付録「負馬」が同封されました。午年にちなんで発想した加藤ちあきんぐ編集長の趣向で長野亮之介画伯のどーん、と見開きイラストがすごかった。
 印刷・発送・封入作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。なんと15人!! 手数が必要だったのでありがたかったです。
車谷建太 松澤亮 加藤千晶 森井祐介 岡朝子 海宝道義 関根皓博 関根五千子 尾方康子 伊藤里香 福田晴子 前田庄司 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章
 作業の後、会場の調理室で海宝道義さんがひさしぶりにおいしいご馳走を振る舞ってくれました。豪華なメニューをあげておきます。
 ・イワナごはん・タイの塩釜・寄島(岡山県)のかき・きのこ汁・オープンサンド
 ・海宝流特製の燻製 メープルサーモン、にじます2種、生ハム・赤かぶの漬物
 ・プリン・コーヒー  海宝さん、ありがとうございました。


人生で初めて帰宅困難者になってしまった。都心に勤め、郊外に住むということは、交通インフラにかなり依存しているのだ、と言うことが改めてわかった

■8日の夕方、ぼくは新宿にいた。雪が降り続くなか、駅前では都知事選の演説が響いていた。19時頃、ぼくは用事が済んだので、自宅のある埼玉方面に帰ろうと新宿駅に入った。埼京線のホームで待っていると、「雪の影響で列車の運行が止まっている」というアナウンスが。あと10分早ければぎりぎり列車も動いたのに、と思いながら他のルートを検討した。

◆状況はどんどん悪くなり、山手線までストップ。しかし地下鉄は動いていたので、新宿駅から上野駅まで移動。上野から埼玉方面に帰宅することも検討したが、ここでも鉄道はストップ。帰宅困難になってしまい途方に暮れた。結局、谷中にある古民家の共同住居友人宅「漢塾」に一晩泊めてもらうことに。上野から、雪道を歩いて谷中に向かう。22時頃着くと、漢塾にはすでに3人の旅人がいた。

◆寒さと雪でくたくたになっていたところ、塾長の丸山寛さんが「ごはん食べた?」と、温かいすいとんを出してくれた。温かい食べ物を身体の中に入れると、寒さで固まっていた身体がふーっと緩んだ。ほっとした。みんなで川の字になって寝た。寝ていると猫のマサオが布団の中に入ってきて、とても温かかった。都心で帰宅困難になり、雪と寒さ、夜の深まりに焦りを感じた。そんな状況で宿と飯を恵んでもらった。久しぶりに漢塾で、にぎやかなひと時を過ごせた。

◆東日本大震災の時は、自宅と職場が近かったので困らなかった。今回の雪では、人生で初めて帰宅困難者になってしまった。都心に勤め、郊外に住むということは、交通インフラにかなり依存しているのだ、と言うことが改めてわかった。冷えきった身体で漢塾へと雪道を歩きながら、危機管理を考えておかないと、と思った。たっぷりの温かいすいとん、仲間とのたのしい対話、布団の中に入ってきた猫のぬくもり。最悪は雪空の都心で装備も無いまま野宿だったことを考えると、人との繋がりにホッとした大雪の夜だった。(山本豊人

在京テレビ局の、オノボリさん的ハシャギっぷりが鬱陶しい2日間だった

■今回も、大雪そのものより、『トーキョー中華思想』に染まった在京テレビ局の、オノボリさん的ハシャギっぷりが鬱陶しい2日間だった。私は部屋で逼塞していたかったが、室温6℃はさすがにツラく、ダウンを重ね着し、耐寒ブーツの左右に使い捨てカイロ(節約のため、クリップシーラーで1コを2つに分割)を仕込んで外出し、行きつけの駅前カフェに避難。窓の外に見えるプラットホームを眺めながら、ポツリポツリと仕事に励んだ。

◆そのホームも、日の暮れる頃には電車が止まり、全くの無人に。帰り道のアーケード街は、「荒天により、午後6時で閉店します」の紙が貼られたシャッターが目立ち、閑散としていた。帰宅後も、ポリ袋を靴カバーにした耐寒ブーツの室内履きで、快適に過ごす。何のことはない、最初からこうすれば良かったんだ。

◆「悪い天気というものはない。悪い服装があるだけだ」。去年、そんな言葉を新聞で見た。現地の天候をボヤいた記者に地元っ子が答えたとかで、ドイツではそう言うらしい。私も本日、その、理にかなった名言に納得した。モノゴトは全て相対関係で成り立っている。感情のみで捕らえるのではなく、常に客観的な視点が必要だ。……でも、ちょっと待て。ドイツの男は、やっぱり断言するのだろうか。「悪いヨメというものはいない。悪い亭主がいるだけだ」と。記者は、そこを突っ込むべきだった。てなことを考えつつ、ドンゴロス流用の布団寝袋に潜り込む。[註:以上はノンフィクションですが、登場する人物、団体に対して一切の他意はありません。誤解されませぬよう。ミスターX


【通信費とカンパをありがとうございました】

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です

 井倉里枝(5000円 引っ越しました。旅のあいだ、ずいぶん人に泊めて頂いたので、私も泊まってもらえる所に住みたいと、小さくて古いですが一戸建て。大阪で宿泊に困ったら、どうぞ! それから……友達とゴハン屋さんをしようと思って、目下物件探し中。糠漬け常備のふつうのゴハン屋さん……春開店を目指してますが、どうなるかなぁ? あ、先週モモの家に、野糞のうんこ先生がやって来て、大盛り上がりでした〜)/福原安栄(いつも地平線通信の全ページを愛読しております。ありがとうございます)/中島恭子/上延智子/戸高雅史/米山良子(6000円 地平線通信を愛読しております。今春で通信費切れになると思いますので、3年分を振り込みますので、よろしくお願い申し上げます)/中村保(10000円 江本さんの若い人を育てようとする情熱に敬服します。ジャーナリスト魂ですね!)


除雪用のスコップとハンドラッセルが活躍した土曜授業参観日

■気象レーダーの画像を気にしながら仕事を終えて、不測の事態に備えて24時間営業のガソリンスタンドで給油。午前2時。チラチラと雪が降ってきた。翌朝起きると、それほどでもない。ほぼ年1回しか出番がないのだが、うちには除雪用のスコップとハンドラッセルが常備してある。マンションの前の道路に薄く積もった雪をどかし、MTBにまたがって、土曜授業参観に行く。

◆風向きのためか、路地に入ると吹きだまりのようになっていて、ブレーキングの練習になる。1クラスしかない4年生、30人が音楽室で将来の夢をスピーチする「1/2成人式」。先生から言われたのだろう、ほとんどの子が「育ててくれてありがとう」と親に対する感謝を述べるのが、鼻につく。10歳の小学生がこんな素直なわけはない。うちの子は自分のことしか話さなくて、ほっとした。

◆降雪のため休み時間には外に出ないように、と全校放送があったのに、校庭には雪合戦する6年生の姿が。これにもほっとした。帰宅するとマンション前は朝よりも積もっている。これは大変だ。再びハンドラッセルを持ち出して、1時間格闘する。我が家の守備範囲ではないが、近くの都知事選候補者ポスター掲示板の前も歩きやすくしておく。ようやく昼食を取って、スロープスタイル、17歳の角野友基の決勝進出をドキドキしながら見守っているうちに、外は吹雪になってきた。日が暮れる前にまた見に行くと、道路はすっかり雪原に。またハンドラッセル持ち出して。ああ、キリがない。(豊島区駒込 落合大祐

長野亮之介作品「馬」!!

■江本さんこんにちは! いつもありがとうございます。千葉拓さんのお話、感動しました。まっすぐで誠実ピュアで。「なんと立派なかたなのか……」と、素晴らしいかただと感動しました。

◆「公共」は 市民の側にあるのが正当だと ぼくも おもいます。だけども 正しいことを たった一人から声を出すのは 大変なことだと思いました。戦争反対とか原発反対も どれほど正義正論であったとしても「一人」きりで 訴えるのは、とても勇気が要ると思います。千葉さんのお話 聴いていて、ぼくは 自分の人生の卑小が、恥ずかしくなりました。

◆あと 長野さん作の「馬」が、素晴らしかったです。(緒方敏明

★「長野さんの馬」とは、1月号別冊「負馬」の取材で競馬場に行った画伯が拾い集めた馬券と投票券を接着剤で塗り固めてつくった40センチ四方の人馬の像。素晴らしい出来上がりで、1月の報告会の会場で披露された。騎手を含め「負馬」の大イラストとほぼ同じイメージ。(E)

「旅の作文集」とタイトルされた3冊の冊子が送られて来た。以下、私信だが、地平線通信で紹介するなら許されると思う。

地平線会議 江本嘉伸様

 私は、今から30年前の1984年に、地平線会議で報告させていただいた者です。冒険・探検には程遠く、単に旅と山歩きが好きなだけのごく普通の人間です。ペルーアンデスのトレッキング・ツアーで、助手をしていた白根全さんにお世話になり、その紹介で地平線会議の報告会にお誘いを受け、下手なスライドを映しながらお話しさせていただきました。

◆地平線会議のことは、いつも頭の片隅に置きながら、その後は近づく機会がありませんでしたが、最近思いがけないところで耳にする機会がありました。52年ぶりに参加した学校のクラス会で、クラスメートから「地平線会議のサイトであなたのことを見つけたわよ」と言われ、覗いてみるうちに、図々しくもこの冊子を江本さんに送ってみようかと思ってしまったのです。

◆「旅の作文集」は、私が横浜朝日カルチャーセンターの文章教室に通っていた時に書いた作文を、折あって小冊子にまとめたものです。講師から出された課題にしたがって、バラバラに書いたものをテーマ別にまとめてみただけのものですが、こうしてまとめることによって、自分の人生を振り返ることにもなり、なんの才能も無い平凡な人間が、よくこんなに自由に生きてこれたものだと、改めてこれまでお付き合いいただいたすべての方たちに、感謝の気持ちでいっぱいです。

◆地平線会議には、報告会で報告した多くの冒険家・探検家・辺境の地を旅した旅人たちから、手作り・出版物を問わず、たくさんのものが送られてくると思います。ご迷惑かもしれませんが、迷い込んできた72歳の老旅人の想い出話を、一瞬でも開いてみていただけたら幸いです。(2014年1月29日 大野説子

★大野さんは、1984年5月25日、第55回地平線報告会で「砂漠から氷の世界へ パタゴニアの旅」のテーマで報告した。

雪上車旅の思い出、アルペンスキー、ニセコのあなぐらのような宿

■2月8日の記録的大雪の前日は久々の東京出張で、本当なら1泊して翌日関西に戻る予定だったが、翌日の昼に京都で用事があったため、急きょ予定を変更し、金曜のうちに新幹線で帰途についた。私のように移動を金曜に繰り上げた人たちも多かったのだろう。小さな子どもを連れた家族の姿もちらほらあった。

◆19時過ぎに品川駅に着いたが、以降の新幹線指定席はすべて満席。ホームは人であふれていたので、座って帰るなら東京駅から乗るしかないと東京駅へ戻り、30分ほど並んでようやく自由席を確保できたのだった。やれやれ、江本さんのハンバーグシチューを食べ損ねてしまったよ。それにしても人間の手には負えない自然現象相手のことで、事前に手を打たせてもらえるチャンスを得られたのは幸いだった。

◆「南極の自然は厳しいでしょ。怖くなかった?」と聞かれることがある。もちろん、とても厳しい。でも怖くはなかった。というのは、あらがえない自然にあらがうつもりがないから。ヤバければヤバくなくなる時までじっと待つ。南極ではそれが当たり前だ。後に北極に出かけたとき、北極でもそれが当たり前だった。そういう態度で自然と付き合う限りは、自然環境が厳しくても怖いということはない。

◆とはいえ怖かったこともあった。それは、数日間の調査旅行に出かけた折、何日までに昭和基地に戻らなければならないというデッドラインをどうしてもはずせなかったときだ。よりによってそういうときに限って悪天候に見舞われた。普段なら停滞を決める状況の中、行動せざるをえなかった。

◆「こういうのがいちばん嫌だよな」と思いながら、視程が確保できない中、雪上車で氷上(道は海の上)を走った。そういうときどうするかというと、運転席の扉を開け、氷上に残された雪上車の踏み跡を見ながら走る。前じゃなく下を見ながら走ることになる。もちろん、天候悪化のスピード予測、基地までの距離、夕暮れまでの時間、もろもろの材料を総合的に判断して、帰れる公算が高いから行動する決断をしたわけだが、雪上車が故障しないことについては神頼みだった。

◆雪上車は扱い方を間違えるとわりに簡単に故障する。オーバーヒートは必ず経験することで、一旦オーバーヒートすると復旧に時間がかかるので、こういうときにそうなれば本当にヤバイ。なのでこのときは、急ぎたい気持ちをじっとこらえ、ゆっくり、じっくり、確実に車を走らせた。

◆南極で暮らした後で日本で暮らすと、「日本は気候がマイルドで、たとえ外に放り出されても簡単には死なないから安心だ」なんて思っていた。先月末、久しぶりに冬のニセコへ行ったとき、そんなことないと考えなおした。そのときはひどい吹雪で、新千歳からニセコへバスで向かう途中、ホワイトアウト状態だった。「日本は安全……なんてことは全くない。ここでもし放り出されれば生き延びるには知恵がいる。関西と雪国とでは状況が違う」そう考えながら、人間はあくまで自分視点でしか物を考えないのだと思った。

◆それにしても、久々に白い世界に身を置き、アルペンスキーを履き、ポールをくぐってみたら、「自分の場所に帰ってきた」ような気持ちになった。学生時代は年の半分を競技スキーに費やしていたから。ニセコへは、新谷暁生さんに会いに行ったのだが、あなぐらのような新谷さんの宿の窓から降りしきる雪を眺めるのは、何とも言えず心が落ち着き、いつまでもこうしていたいという気になるのだった。

◆冬眠する熊のように新谷さんの宿、ウッドペッカーズに居つきたい、そんなことを思いながら、新谷さんのために担いで行った奈良吉野の酒「やたがらす」を一緒に飲んだ。至福の時だった。毎朝5時に起きて、ニセコを訪れる人たちのために「ニセコ雪崩情報」を出し続けている新谷さん。

◆「俺、休みがないんだよなあ。疲れたなあ」そう言いながらも雪崩情報を休むことはないし、また、ウッドペッカーズを訪れる人たちとの時間もとても大切にする。「俺、朝早いから、寝るわ。でも1時間寝たら起きてくるかもしんないからさ。そうしたらまた一緒に飲もうや」。本当に名残惜しそうに寝床に向かう新谷さんなのだった。雪が好きで、雪と向き合いながら生きてきた新谷さんの姿に、冬のウッドペッカーズで触れることができ、とてもうれしかった。この旅で、私の中の雪好きな気持ちを思い出せたこともとてもよかった。

◆それにしても新谷さんの雪崩事故防止に取り組む姿勢はすさまじい。容易にまねできることではないが、新谷さんの生き様から学ぶことはとても多い。新谷さんについてご存じない方は、ぜひ新谷暁生さんの著書を読んでみてください。新谷暁生著『北の山河抄』(東京新聞出版局)ほか。(奈良の住人 岩野祥子


地平線はみだし情報

さぁさぁ、お立ち会い! 遠目山越し笠のうち……。清貧彫刻家・陶芸家、緒方敏明さんをめぐる謎の動き「四六乃窯+OGATA」がひそかに進行しておるらしい。近く明らかにされるであろうが、皆の者、ご注目


10日間の宮城再訪、思った以上にショックが大きかった

■拓さんの報告会から3日後、久々に東北へ足を運ぶことができた。南三陸町志津川へ入ると、以前は復興商店街とガソリンスタンド、コンビニがあるだけだった土地に、新しく大型のドラッグストアやコメリ、南三陸ポータルセンター(観光協会が運営する交流施設)、地元のお菓子屋さんができていた。他にはほとんど建物がなく、道路沿いに電柱が林立するだけで、少し奥にある海まですっきりと見えている。ただ今回は、所々に台形の盛土が目立っていた。旧市街地には「盛土の高さ 海抜10.6m」と書かれた赤いバーが、はるか頭上に設置されていた。震災遺構として保存が再検討されている防災センターは3階建てだが、その2階の半分までの高さが土で埋められることになる計画だ。いったいここは、どんな町になるのだろうか。

◆昨年地平線報告会でもお話しいただいた佐藤徳郎区長のビニールハウスにおじゃました。再建したハウスの中で、ほうれん草とつぼみ菜が寒さに負けず青々と元気に育っていた。出荷を再開して約1年。ようやく土やハウスのクセが分かってきて、上手く育てられるようになったという。ずっと自然と向き合って生きてきた人はたくましい。住宅の方はというと、中瀬町住民が集団移転する高台の「西地区」はやっと着工したばかり。土地の造成だけで2年はかかる計画だ。津波浸水地となった中瀬町の住宅跡地は、坪単価約4万円で買い取られることになった。高台移転地の売価は坪あたり約5万円なので差額を支払うようだ。それなら個人で土地を整備して家を建てた方が安いし、早くできると話す人もいる。実際、同じ南三陸町内でも、志津川地区より比較的土地がある歌津地区や戸倉地区で、高台にぽつんぽつんと新しい一軒家が増えているのが目立った。長引く仮設暮らしが目に見え、個人で動く人が次々と出てきている。

◆朝8時過ぎ、拓さんの作業場がある歌津へ向かう。赤い鳥居のすぐ横に、教えてもらったとおりにコンテナと白いドーム型のテントがあった。お母さんの和恵さんが笑顔で迎えてくれた。お父さんの正海さんは、気仙沼へアルバイトに出かけているという。護岸工事で海に潜っているダイバーに船が近づかないよう見張る「警戒船」に乗っているとのこと。まだ牡蠣の出荷ができないので、このアルバイト代が千葉家2世帯の生活費になっている。

◆和恵さんから家業再建までのお話しを伺う。数人で漁業組合を作ろうとしていたが、つい先日仲間達が土木の仕事に移ったため個人になり、様々な補助を受けられなくなってしまったこと。町有地を借りられなくて、作業場探しに苦労したこと。厳しい放射能検査はクリアしているが、汚染水の風評被害で牡蠣の値が安く漁協にはとても卸せないこと。紫外線滅菌装置を置くために来るはずだったテントが先日の台風でフィリピンへまわってしまい、まだ出荷作業ができないこと……。次から次へと課題が立ちはだかる。町の魅力である海産物の生産を続けると決めた人でさえ、こんな苦労を強いられていることに驚いた。

◆そのうちエンジン音が聞こえ、拓さんが乗る船が海上を走っていくのが見えた。間もなく軽トラックいっぱいに牡蠣を積んで、拓さんが帰ってきた。水色の作業用つなぎにオレンジ色のヤッケを着て、すっかり海の人だ。採れたての牡蠣にはフジツボや貝、ぐにょぐにょした海藻などがびっしりとくっついている。和恵さんがハンマーを使ってそれらを落とす磨き方を見せてくれた。震災前はむき身にしていたが、震災後は設備の関係で殻つきで出荷することになるため、慣れない殻磨きの作業には手がかかる。新しい販路も探さなければならない。事業だけでも忙しい状況だが、拓さんはもうすぐ里山再生活動もはじめるという。この自然を子ども達に残したいという強い意志が伝わって来る。この場所に8.7mの壁が建つ……。実際に現地に立ってイメージしてみると、ものすごい恐怖感を覚えた。

◆見聞きした範囲のことだが、地元では防潮堤について関心が薄い方が多い印象だった。無関心という訳ではなく、みんな目の前のこと、自分のことで精一杯。防潮堤や大規模な盛土の計画に対して不安を持っていても、発言したり行動を起こす余裕はないのが実情のようだ。南三陸町役場の方は「春からは4年目ではなく、新しい1年のスタート」と言った。夏には町内数か所で災害公営住宅がオープンし、慣れない集合住宅で生活の仕方が変わる人々へのケアも必要になる。それと同時に、伝統的な暮らしをどう残すかも大きな課題になっていくだろう。少子高齢化など震災前からの課題も加速している今、復興は過去に「戻る」のではなく、新しく「作る」ことをしなければ将来はない。たった10日間の宮城再訪は、思った以上にショックが大きかった。自分の地で頑張ることで応援したいと思っていたけれど、やっぱり東北にも具体的に何かしたいと強く思った。(新垣亜美


あとがき

■今日2月12日は植村直己さんがマッキンリーに逝って30年になる日だ。それにあわせていつもの「植村直己冒険賞」の発表がある予定だったが、事情で3月18日に延期された。まぁ、こういうのは、ゆっくりでいいが。

◆毎度話題となる開会式の聖火リレーの最終走者。今回は誰?と注目されたが、ホッケーのウラジスラフ・トレチャクと並んだイリーナ・ロドニナの姿を見て、私は懐かしかった。1972年2月の札幌、フィギュア・ペアで金メダルを獲ったのは、このロドニナだった。あの夜、競技場から引き上げる時、なぜかロドニナが目の前をひとりで歩いているのに驚いた。こんなスター選手がなぜ? と思いつつ、万一、道に迷ったならガイドしよう、としばらく雪道をロドニナの後を遠慮気味について歩いた。

◆あの時、22才だった彼女はその後、インスブルック、レークプラシッド、と冬季五輪で3連覇。テニスのシャラポワや棒高跳びのイシンバエバに較べて日本では知名度は高くないが、パートナーとの破局など恋物語の主役としても氷上の舞姫の話題を提供し続けた。いま、64才になっても溌剌として見え、なごやかな気持ちになった。

◆大雪で各地の様子を教えてもらった。たまに、こういうスタイルを試みます。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

男泣き喜望岬!

  • 2月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「南ア(南アフリカ)」には泣かされっぱなしなんだよ!」と言うのはバイクジャーナリストの賀曽利隆さん(66)。アフリカに憧れ、高三の時、帝国書院の地図帳のアフリカ大陸に縦の一本線を引きました。アレキサンドリア(エジプト)とケープタウン(南ア)を結ぶその線を辿る夢を追い、'68年、20才でアフリカ大陸一周6万kmをバイクで走破。走れども尽きぬアフリカの魅力に憑かれ、以来46年間で12回、様々なアプローチでアフリカに挑んできました。

「'73年の六大陸周遊の時はどうしてもケープタウンからスタートしたかったけど、ついに南アのビザがとれなくて泣いたねー」と賀曽利さん。別ルートでようやく入れば、激しいアパルトヘイトに直面します。ホワイトvsノンホワイトの差別に、アジア人はまず外見で引っかかりますが、名誉白人待遇の日本人とわかると態度が一変。すぐわかるように首からパスポートをさげておけと言われたことも。

昨年12月からの12回目の旅はナイロビ(ケニア)からケープタウンへのルートでしたが、サポートのケニア人ガイドに南アのビザが出ませんでした。アパルトヘイトの南アですが、また別の問題も生じているようです。

今月は我等が“冒険王”賀曽利さんに、46年間、そしてこれからも通い続けるアフリカの魅力と現状を語って頂きます。盛り沢山!


地平線通信 418号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年2月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section