2014年3月の地平線通信

3月の地平線通信・419号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月12日。東京は、久々に春めいた天気になった。午後1時の気温は15℃。麦丸と外に出ると、マフラーや手袋を外して颯爽と歩く姿が目立つ。こうやって、春はあっという間に私たちに襲いかかり、じりじりと街路を灼く猛暑の季節が来るのだろう。

◆きのう11日は、「3.11」から3年という節目の日だったので、終日、テレビのキャスターは東北の被災地に出かけ、新聞は号外の扱いで、被災地のその後を伝えた。さまざまな現場から中継される中で、私にはやはり74人の児童と10人の先生が死亡、行方不明となった大川小学校の現場がとりわけ痛ましく感じられた。

◆あの日、児童たちは地震発生から6分後の午後2時52分には校庭に集められたが、学校側の指示が出ないまま結局50分もの間、その場に居続けて、湾口から新北上川を5キロ遡行して来た津波に呑み込まれたのである。冷静な判断がしにくかった事情はあるにせよ決断はあまりに、あまりに遅すぎた。助かったかもしれない我が子を奪われた親たちの無念がいかばかりか、推察できる。どうして、そんな事態になったのか。大川小学校事故調査委員会はこの3月1日「事故検証報告書」を提出したが、内容を不満とする親たちは10日、仙台地裁への提訴に踏み切ったのだった。

◆小学校そのものを保存してほしい、との声も少なからずある。震災から3年、いま、3.11の、いわゆる「震災遺構」はそのほとんどが取り壊されつつある。気仙沼の鹿折地区にあった乗り上げ船「第18共徳丸」はとっくに解体された。「目にするだけで、辛い。見たくない」という遺族の思いは強烈で、誰も反論できない。しかし、国の支援で保存が決まり、今や連日大人気の宮古市田老の田老観光ホテルの例もあるのだ。

◆先日、ドキュメンタリーの中で、広島の原爆ドームの保存を「身内がひどい目にあったから、当時は見たくなくて絶対反対した」という女性が「25年経った頃、ああ保存しておいて良かった、と思えるようになった」と、心情を明かしていた。私たちは時に感情を優先せざるを得ず、歴史的には順序を間違えがちな生き物であることは仕方がないことなのかもしれない。

◆地平線の友人たちがよく通った南三陸町志津川の中瀬では、地震発生時の14時46分、あの日住民たちが凄まじい津波に自分たちの家が呑み込まれてゆく情景を見た大雄寺の駐車場(小高いところにある)に三々五々集まった。3.11にはこの場所に毎年集まるそうだ。雪が降る寒い日でまさに3年前と同じだった、とのことだ。

◆夜は6時30分頃から1時間、仮設住宅の集会所でローソクを灯し、皆で語り合った。「去年三回忌はやっているので、今年はとくに集会は考えていなかったんですが、いや、簡素でもいいから集まろうや、とやることに。予想以上に多くの人が集まってくれて、やってよかった、と思ってます」。電話の向こうで佐藤徳郎区長。「今回、東京に寄らせてもらったのも、ほんとうに嬉しかった。またお会いしましょう」と付け加えた。

◆佐藤さんは島根県でのシンポジウムの帰り、日曜日の9日に荒木町の我が家に寄ってくれた。1年前、地平線報告会をやった時と同じように、RQなどでお世話になった仲間に加えて、我が地平線の宮本千晴(私と一緒に佐藤さんのビニールハウスのある土地も見ている)も参加、不慣れな手料理ながら屋久島から届いたタンカンの美味しさもあって顔なじみ同士、大いに盛り上がった。ことしはビニールハウスのほうれん草の出来が良く、値段もいいそうだ。

◆佐藤さんに限らず、3.11という大災害は、人と人を出会わせる現場でもあった。福島の原発災害を含めて3.11がなければ出会えなかった、という人たちが日本中にどれほど多くいることか。ビニールハウスと言えば、山梨県の「120年で初めての」大雪は今年の大きな出来事だった、と私は考えている。山々に囲まれたあの県がそんなに降雪の少ないことを、多くの人が初めて知っただろう。あちこちで雪につぶされたハウスの映像を見て、佐藤区長は「あれは、まずビニール部分を壊してしまえば、支えのパイプは持ちこたえるんですよ」と、言っていた。

◆話は、変わる。さきほど、久しぶりにカナダ・ホワイトホースにいる本多有香さんと話した。3月、アラスカの犬ぞりレースに出たはずなので結果を聞くと「若い犬だけだったのに頑張ってくれて22チーム中、9位でした。まずまずの成績です」と元気そうに報告してくれた。有香さんと犬たちの話は、実は来月にも本になる。そのことは、この通信の4ページで簡単に紹介した。本多有香と26頭の犬たち。これまた目が離せないが、来月には東京で会える、と期待しておく。(江本嘉伸


先月の報告会から

男泣き 希望岬

賀曽利隆

2013年2月22日  新宿区スポーツセンター

■バイク王・賀曽利隆氏、7回目(これ、確認します。もっとやったのでは?)の報告会の舞台は、1968年から通い続けるアフリカだ。2013年末から今年は、ケニアの首都ナイロビから南アフリカ(南ア)のケープタウンをめざすツーリング・ツアーを率いた。驚いたのは、街道沿いに綺麗なキャンプ場が整備されていたことだそう。道路も以前よりすっかり良くなっていた。タンザニアとザンビアを結ぶ道はかつてヘルラン(地獄道)と呼ばれたが、今や二車線のハイウェイ。また、1968年とは比較にならないほどイスラム教がアフリカ南部にまで普及し、キリスト教圏が押されているとのこと。食堂で出される肉に豚より牛が多いのは、その影響かもしれないという。

◆ゴールとなるケープタウンへの思い入れは、カソリさんにとって並の深さではない。最初のアフリカ縦断時から、ことごとく南アのビザに悩まされてきたのだ。何度大使館に通っても、断固拒否される。20歳のカソリさんは、出発地を変えざるを得なかった。それがずっと悔しさとして残っていた。「ケープタウンほど泣かされた町もない」と繰り返す。

◆現在は、日本のパスポートならビザ不要だ。しかしやはり南アは手ごわかった。今回は現地スタッフの一人にビザがおりない。南アは、著しい経済格差による出稼ぎ流入を防ぐため、アフリカ諸国の黒人の入国を厳しく規制しているのだ。もう一人のガイドはなんとか入国。そのガイドは大国とされるケニア出身で、タンザニアやマラウィなどの貧しい国では横柄に振る舞っていた。しかし南アの国境では小さくしゅんとしていたという。

26歳の旅、肌で感じたアパルトヘイト

◆「カソリの世界地図の中心はいつもアフリカ」。ミシュランの地図を広げ、ここに行った、まだここに行ってないと眺めるのが、この上ない至福の時だ。18歳でアフリカ全土を網羅するミシュランの地図と出会った感動は、今も忘れられない。当時は本当に情報がなかったから、丸善でそれを見つけたときの嬉しさはどんなだったか。

◆20歳で発った旅から戻り、なおアフリカに行きたいと決心したのが22歳。1973年、26歳で三度目の旅となる六大陸周遊に出た。「自分のひとつひとつの旅が作品だとしたら、この時のが最高傑作」というその旅で、周遊の半分以上をアフリカに捧げた。

◆この旅でも南アには泣かされ、ビザを待つ間になんとオーストラリアをヒッチハイクで一周してしまった。しかもビザを手にするや、バイクで再度オーストラリアを一周して(!)、念願の南アへ飛んだのだった。

◆ようやく踏み込んだ1973年の南アは、まさにアパルトヘイトの時代。当時の人口約2000万人、そのうち白人360万人、黒人1300万人、混血190万人、アジア(インド)人60万人だったが、すべては「ホワイト(白人)かノンホワイト(非白人)か」で分けられていた。

◆日本人は経済的結びつきが強いため、唯一例外的に「オーナブル・ホワイト(名誉白人)」として白人扱い。ビザがおりるのは観光客に来てもらいたかったからではない。あくまでビジネスのためだ。カソリさんは入国後まずヒッチハイクをしたが、黒人にも白人にも乗せてもらえて快調なすべり出し。アパルトヘイトの壁に直面したのは、ヨハネスバーグへ向かう列車の駅だった。

◆切符を買う窓口が白人用と非白人用に分かれている。カソリさんは、オーナブル・ホワイトだなんて冗談じゃないと非白人用に並び、3等切符を求めた。窓口の黒人のお姉さんに「どこから来たの?」と聞かれて何気なく「日本だよ」と答え、改札へ向かうと、その改札も、通路も、トイレも、白人用と非白人用に分かれているではないか。ふと見ると、自分が握っているのは1等切符である。窓口に飛んで戻ると、「だってあなた日本人でしょ。日本人がなんで3等に乗るの?」。唖然……。カソリさんは意地でも非白人で通すと決めて3等にかえてもらい、非白人用通路を通って乗り込んだ。「よーし、徹底的に3等で乗りまくってやるー!」

◆ヨハネスバーグ郊外の町では、教会に泊めてもらおうと思って通行人に場所を尋ねた。すると即、「ホワイト用か、ノンホワイト用か」。愕然とした。「駅も、トイレも、電車も、バスも、エレベーターも、レストランも、学校も、郵便局も、役所も……そしておまえもかという感じで神のもとでの人間の平等を説く教会までもが白人用と非白人用に分かれていた」のだ。

◆もちろん非白人用の教会へ向かった。黒人の神父さんは喜んで歓迎してくれた。神父さんが語った言葉は痛切だった。「差別ならまだ分かる、まだ許せる」。アパルトヘイトとはアフリカーンス語で「分離、区別」という意味だ。「差別じゃないんだ。人間との区別なんだ」。人間とサル、人間と野生動物、そういうふうに分けているのだ、と。

◆カソリさんはある時、駅で3等の窓口が大行列のためやむなく1等に並んだ。「おまえはこっちじゃない」と咎められたが、日本人だといった途端に「Sorry!」。ギュウギュウの3等車を横目にガラガラの1等車に座ると車掌が来て、案の定「おまえの乗るところじゃない」。が、日本人だというと手のひらを返したように、「悪かった」。

◆イギリスからの移民だというその車掌はアパルトヘイトについて、「まさかこんなにひどいとは思わなかった」と語った。金を貯めたらオーストラリアかカナダに移住するつもりだという。白人の間でも温度差があることを、カソリさんは知った。アパルトヘイトはヨハネスバーグ付近が特にひどいそうだが、インド人が経済を握る町ダーバンで聞いた話にも、胸が痛んだ。

◆「日本人は羨ましい、オーナブル・ホワイトだろう。我々インド人はいくら金を稼いだって一流に扱ってもらえない。どんなにがんばっても、肌の色でだめなんだ」。筆者はマハトマ・ガンディーを思い出した。ガンディーは弁護士として南アに渡り、列車で1等に着席したが、ただ肌の色ゆえに車両から投げ出されたという。アパルトヘイトの現状にショックを受けたガンディーは南アで人権運動を開始、それが後にインド独立の精神へとつながっていく。

◆南アが統治していた南西アフリカ(現ナミビア)でも、状況は同じだった。カソリさんがお腹をすかせてレストランに駆け込むと、白人達の視線を一斉に浴びた。すぐに一人が立ち上がり、胸倉を掴むようにして「出ていけ!」。結果が見えているので抵抗を感じながらもカソリさんは言う、「俺は日本人だ」。予想通り相手は一転、「Very sorry!お詫びに何でも食べてくれ、一緒に食事をしよう!」。根は悪くない、素朴な男だった。鉱山関係者で、日本は一番のお得意さん、車は日本車だという。カソリさんはその彼に、いつも首にパスポートをぶら下げておくよう忠告された。強烈な思い出だ。

◆そんな世界に現れたのが、ネルソン・マンデラ氏だった。1994年、28年間の投獄生活を終えてマンデラ氏が大統領に就任すると、南アは一気に変わった。それだけ民衆の支持があった。白人、黒人問わずの支持だった。ジンバブエ(旧南ローデシア)では、ムガベ大統領が白人を徹底的に排斥した。しかしマンデラ氏は民族融和を訴えた。その力が今日の南アを支え、ワールドカップが開催されるほどの発展に至ったとカソリさんは考える。まだまだ隔離されたような貧困エリアは残るが、それでも他のアフリカ諸国に比べたら水準が高いという。

「国境越えのカソリ」が行く!

◆さて、六大陸周遊では300回以上、国境を越えたカソリさん。ライダーにとって国境越えは峠越えと同じ意味合いだとか。あそこは越えられないと聞くと「矢も楯もたまらん」という「国境越えのカソリ」、難関突破の伝説は数知れない。たとえば南スーダンからウガンダへの国境。ヒッチハイクで入ったが途中で見つかってしまい、「戻れ!」と叱られた。

◆ここで喧嘩しないのがカソリ流だ。「そうかぁ、残念だなぁ」とすっとぼけて、係員が見えなくなったところでザアッと草原をつっきり別の道へ。通りがかったバスにそれっと飛び込み、市街へまっしぐら。首都に着くと何食わぬ顔でイミグレーションに赴き、「すみませーん、ケニアから来たんですけどイミグレなかったんですよね!」。エルゴン山北側のケニア国境にないことは踏査済みだ。係員も、それなら仕方ないとスタンプをポン。

◆北イエメンから南イエメンへの国境は、難攻不落が旅人の定説だった。ならばやってやると挑戦。北イエメン出国は、お茶など飲みつつ係員と仲良くなるカソリ流で成功した。南イエメン側では、「国境でビザをもらえると言われたんです!」の一点張り。結局、首都の内務省へ連行となり、ホテルに軟禁されたものの、親日国だったおかげでお縄は免れ、国外強制退去で許された、とのこと(強制退去も大変な事態だと思うが……)。

◆ギニア国境越えでは、大使館に通いつめて領事にも懇願したところ、トランジットビザが出されて意気揚々と入国。もうこっちのものと長居していたら見つかって、すごい剣幕で係員に車から引きずりおろされた。「あのときの形相の凄まじさ」と回想するカソリさん。いわば北朝鮮で捕まったようなものだという。しかし、取り調べに来た高官はカソリさんの話を聞いて嘘みたいに笑いだし、「そんなに行きたいなら」と一筆書いてスタンプをポン。その紙が印籠のごとく威力を発した。宿も食事も厚待遇、戦闘地帯の真っ只中をトラックで進み、トラックが動かなくなると戦車が呼ばれた。カソリさんは戦車でギニアからセネガルへの国境を突破、兵士達に祝福されたのだった。

◆西サハラでは、ちょうどスペインとモロッコが最後の戦闘を繰り広げていた頃。カソリさんは鳴り響く砲火の下、ヒッチハイクでモロッコへ向かった。モロッコは昔からビザ不要の国だ。ところが、うかつだった。「スパニッシュサハラから来た」と言ってしまった瞬間、係員の顔色がサッと変わった。「今なんて言った? あそこはモロッコサハラだ!」紛争地帯は敏感なのだ。翌日まで軟禁されたが、いい勉強になったという。

◆ちなみに、パスポートにイスラエルのスタンプがあると中東諸国に入国できないと知られるが、当時のカソリさんが取った行動とは。まず日本大使館に行き、「すみませーん、パスポート落としちゃいました〜!」。ちゃっかり新しいパスポートを得て、イスラエル入国。出国後に破棄したそうだ。

◆今回、筆者は「カソリック教徒」という言葉を覚え、その「ミサ」に初参加した。疾走するバイクのごとく猛烈な早口、淀みなく飛び出す無数の地名。怒涛のカソリ節に圧倒された。軽いトランス体験であった。驚異の記憶力は、12回のアフリカ行の始終地図を見つめ、脳と体で反芻してきた証だろう。各旅のルートはすべて色分けして記してあるという。アフリカ中を虹色に塗り尽くす絵はまさにカソリさんが生きた軌跡。のべ140万キロ、世界3500日・日本3500日の計7000日に及ぶ旅人生だ(その間ご夫人とお子さんは!?)。カソリさんの師、宮本常一先生は日本国内で4500日を旅したが、国内の日数で常一先生を追い抜くのが生涯の夢だそう。「これからも地球上を走り続けたい」と、アクセル全開の王者であった。(早大大学院生 福田晴子


報告者のひとこと

■今回の報告会は2部に分けて話そうと思っていました。前半の1部では「アフリカ縦断」(ナイロビ→ケープタウン編)の写真を見ていただきながら、「みなさんに一緒になって旅しているような気分になってもらえたら」という願いを込めました。後半の第2部ではこの46年間で12回のカソリの「アフリカ行」を話すつもりでした。しかし半世紀近くをかけた旅の一部始終を1時間で話すのは無理というもの。

◆そこで12回のアフリカ旅を振り返り、どれが自分の心に一番、強く刻み込まれているかを考えてみました。それが「六大陸周遊」(1973年〜74年)の「アフリカ編」でした。20代の大半をかけて世界をまわったカソリの世界地図の中心には、いつもアフリカがありました。このときもタイのバンコクを出発点にし、アジア→オーストラリア→アフリカ→ヨーロッパ→北アメリカ→南アメリカとまわり、最後はアメリカ西海岸のサンフランシスコから日本に帰ってきたのですが、旅の半分以上はアフリカでした。

◆さらに第2部の最後に、第3部的に46年間で世界を駆けまわった39回の旅のルート図を見ていただきました。現在までに旅した国が136ヵ国、旅した日数が約7000日、旅した距離が約140万キロであることを話しましたが、この旅した日数と旅した距離は日本を含んだもので、日本と世界は半々ぐらいになります。報告会の会場には宮本千晴さんが来てくださいました。「アフリカ一周」(1968年〜69年)から帰ったときに宮本千晴さんに出会ったことによって、ぼくは日本民俗学の最高峰、宮本常一先生にも出会うことができたのです。それ以降、国内では宮本先生のつくられた日本観光文化研究所を拠点に活動させてもらいました。もう少し時間があれば、そのあたりの日本とのからみを話したかったです。「30代編」を皮切りにして「40代編」、「50代編」、「60代編」とつづけているバイクでの「日本一周」ですが、次の大きな目標は「70代編日本一周」です。それを成しとげた暁には、ぜひとも4百何十回目かの報告会で、カソリの「日本を駆ける!」を話させてもらえたらと思っています。(賀曽利隆


速報!! 本多有香さん、本を書く!

■アラスカ、カナダでマッシャーとして暮らす本多有香さんが、本を書きました。学生時代、カナダへの旅で犬ぞりレースというものを知り、どうしても自分でやってみたくなり、せっかく就職した仕事を辞めて、身ひとつでカナダへ。そこでマッシャーの助手とも言うべき「ドッグハンドラー」になって、修行を重ねます。ついには、ホワイトホースの森の中に土地を借り、自分の犬舎を持ってカナダの永住権を取得、数々の試練の末、2012年、ユーコン・クエスト1600キロを日本女性として初めて完走しました。

◆有香さんの世界を伝えるものとしては地平線会議の仲間たちが写真家の佐藤日出夫さんの全面協力でつくった『うちのわんこは世界一』(1冊2500円。制作費を除く売り上げ金は有香さんに贈られる)がありますが、今回の本は、有香さんが構想し、書いた物語です。ここまでやるか、という、人間の生き方を考えさせられる本でもあります。タイトルは『犬と、走る』。4月25日、集英社インターナショナルから刊行される予定です。270ページ。予価1800円+税。

★4月の地平線報告会は、この本『犬と、走る』の刊行を記念して本多有香さんとカメラマンの佐藤日出夫さんに来てもらう予定です。場所は、榎町地域センターのホール。お2人の話を聞き、二次会を兼ねていつもの「北京」でお祝いの会を開くつもりです。(E

地平線ポストから

荻田泰永さん、北極点へスタート

■3月7日朝。私はいま北極冒険の聖地ともいえるレゾリュートにいます。2012年に一度挑戦して果たせなかった、北極点無補給単独徒歩の再挑戦を行なうために、現在最終準備を終えてスタート地点への移動を待っています。予定では、明朝のチャーターフライトでレゾリュートから1000km以上北上したカナダ最北端のディスカバリー岬へ飛び、そこから北極点に向けた800km50日間の単独行がはじまります。

◆北極点を目指す冒険は、ご存知の通りに凍結した北極海の海氷上を進んでいきます。水深4000mにもなる、表面が3mほど凍っているだけに過ぎない北極海は、海流や風の影響で海氷が常に動き回り、押し合うことで高さ10mの乱氷帯となり、また引き合えば大河のような割れ目(リード)となります。近年の海氷減少に伴って、北極海の氷は厚みを失い、薄くなることで以前よりも流動的になっています。流動的になると、乱氷帯やリードを多く発生させることとなります。現在の北極海は、かつて日本でも盛んだった80年代90年代の極地冒険の時代から比べても、明らかに難易度は増しています。

◆北極の冒険とは、言うなれば長距離の障害物競走です。登山のように標高が上がっていくことはありませんが、水平の海上を歩いて行く中に次々と行く手を塞ぐ障害物が現れてきます。その乱氷帯やリードと言った障害物が、いつ、どこに、どの程度の規模で発生するかは誰にも分かりません。毎年どころか、状況は毎日変化します。周囲が平坦な海氷上でキャンプをしていたのに、朝になったら周囲の氷が動いてバリバリに割れていた、ということもあるのが北極海なのです。

◆前回の挑戦では、最低気温はマイナス56℃。そんな中を、50日分の物資を搭載した100kg以上のソリを自分一人で運搬しながら10mの乱氷帯を越え、リードに行く手を阻まれれば迂回路を探し、不安定な海氷上でキャンプをしながら周囲の氷が朝まで穏やかでいてくれることを願って寝袋で眠りに就きます。周囲の海氷は常に押し合うことでグゥグゥギィギィと不気味に軋み、時折周囲でバキッ!という氷の破壊音が響けばその音で目が覚めます。常に緊張と不安の只中にあり、どこにも逃げ場のない50日間、常に一定のリスクの中に身を置くのが北極海での冒険です。

◆今回、私は近年発生しやすくなっている大きなリードを通過するために、二つの装備を持参しました。ひとつは、出現したリードを迂回することなく泳いで通過するための「ドライスーツ」です。いまやドライスーツは、北極点挑戦のために欠かせない必須装備のひとつとなっています。小さなリード(幅が100m程度まで)であれば、ドライスーツを着て水の中に入り、船型のソリを引きながら泳いで渡るか、対岸まで泳いだ後にロープで引いてソリを手元まで運びます。

◆もうひとつの装備は、折り畳み式の「フォールディングカヤック」です。大きなリードはドライスーツでは泳ぎきれません。直近の過去3年間、北極点を目指して挑戦したチームはいくつもありましたが、到達に成功したチームはひとつもありません。いずれも、巨大なリードに足止めを受けるなどして、それ以上進めなくなりリタイアを余儀なくされています。ドライスーツだけでは、幅が数kmにもなる巨大なリードを越えることはできません。今回、フォールディングカヤックを用意したのは、そのような巨大なリードを越えるためです。

◆さらに、スタート直後は海流や風の影響で東西方向に、つまり北上する私を通せんぼするかたちで発生する大きなリードも、北極点に近付くにしたがって南北方向にできやすくなります。ソリを引いて氷上を歩くよりも、カヤックでソリを引いてパドリングしたほうが確実に進行速度は上がります。南北に発生するリードを上手く捉まえられれば、これまでただの障害物として迷惑がられていたリードを、高速道路のように使える可能性があります。

◆すべての例を調べたわけではないですが、最も寒くなる時期の北極海で、フォールディングカヤックを用いて北極点挑戦を試みた例は過去にないはずです。果たして上手く機能するかどうか、実験的な意味合いもありますが、もしも今回持参した特注の「北極仕様フォールディングカヤック」が威力を発揮すれば、将来的なさらに高レベルの冒険に挑むことのできる武器となるかもしれません。

◆現在、レゾリュートには私含めて4隊の北極点挑戦チームが滞在しています。アイルランドの男女ペア(補給有り)アメリカ人2人組(無補給)ノルウェー人2人組(無補給)そして私(無補給)という構成です。世界でこの4隊7名が、今年の北極点挑戦に挑みます。天候次第ですが、無事にスタート地点へのチャーター機が飛べば、明朝(7日朝)レゾリュートを飛び立ち、50日間の冒険がはじまることとなります。順調に行けば、4月23日頃の北極点到達になるかもしれません。(カナダ・レゾリュートベイ 荻田泰永

★留守本部によると、当初の予定通りディスカバリー岬にランディング。「荻田はランディング地より2.4km前進し、現在 北緯 83°03.829 / 西経 77°26.116 にてキャンプをしている。気温は-36℃で天候は晴れ。体調は非常に良いとのこと」。

里海に支えられ助け合う漁村のくらし
宮城県南三陸町歌津町「泊浜契約会」のお話

■今日は3回目の3月11日。昨年夫を亡くしたこともあり、何の心の準備もなく突然訪れた多くの別れを思うと、涙がこぼれて仕方ありません。苦しい避難生活、終わりが見えない原発事故の処理、復興の名のもとに築かれる巨大防潮堤……。水産業もバランスを欠いた軋みがあちこちに。並べたらキリがないですが、ここでは健全な里海の上に築かれたコミュニティーについて紹介します。

◆震災後、「絆」という言葉がシンボリックに使われていますが、地元では「絆じゃなくて結い、結いっこだ」とよくいわれます。宮城県の歌津、古川、北上周辺には、江戸時代から続く「契約会」という互助組織が残っています。これも結いの一種です。その性質は集落によってさまざまですが、磯の恵みを経営基盤とし、震災時に大きな助け合いの力を発揮したのが、歌津の泊浜契約会です。

◆歌津には13の浜(集落)すべてに契約会が残りますが、お隣の志津川にはありません。また、歌津で最も古い伊里前契約会の構成員は地区400戸のうちの約80戸。一方、細長く突き出した歌津半島を占める泊浜地区では、125戸すべてが新旧6つの契約会のどれかに属し、その連合会である「泊浜契約会」が自治組織として機能しているのです。

◆ひとつの契約会は10〜30戸ほど。分家などで戸数が増えると新たな契約会が生まれます。最新の平成会はその名のとおり平成の誕生です。古くは木の伐採に始まる家普請、土葬の穴掘り、冠婚葬祭、農作業などを助け合い、ときには寺社参詣や湯治にも共に出かけました。泊浜に契約会が色濃く残るのは、9割が漁家の純漁村だからと地区のひとたちはいいます。しかし、よく聞いてみるとそれだけでもなさそうです。泊浜契約会には豊かな磯の共有財産があり、アワビを主とする水揚げが自治の経済基盤となっているのです。

◆歌津の13の契約会にはすべて、山(森林)や磯などの共有財産があります。森林の価値は今では低くなり、処分した地区も多いようです。一方、「保護区」や「禁漁区」とよばれる磯の共有財産は、地区によって規模は違うものの、無視できない収入をあげています。磯の環境がいい泊浜は別格で、保護区が年間600万円もの水揚げをもたらしているそうです。

◆保護区はもともと、アワビなどが自然繁殖する条件のいいエリアを禁漁にし、資源を守る目的で設定されました。やがて昭和50年代に種苗(人工養殖した稚貝)放流が始まると、各集落では地先の消波ブロックなどに種苗をまいてアワビ牧場を作り、新たな保護区にしました。そして計画的に水揚げをして集落自治に使ってきたのです。こうした例は全国各地でみられますが、最近は磯の環境悪化で漁師個々人に開放され、性格を変えつつあると聞きます。豊かな里海は、漁村コミュニティーの基盤でもあるのです。

◆泊浜の新たな保護区は、30年ほど前に長須賀海水浴場の整備で沈められた消波ブロック群でした。泊浜のひとびとは、稚貝が鳥に食べられないよう、ブロックのすき間にていねいに放流する手間をかけ、優秀な保護区に育てあげました。海に頼るところが大きい泊浜ならではかもしれません。その頃作られた泊浜契約会の規約には、契約会の活動として、(1)魚介や海藻の繁殖保護、(2)部落誓約書を作り繁殖保護を実行、(3)海水浴場の駐車場などの経営、(4)尾崎神社の祭礼の世話、(5)環境保全、の5つが記されています。(5)からは生活の基盤である海の環境への思いの強さを感じられます。(4)の尾崎神社は半島の先に祀られた、漁業と海運の神様です。漁村の精神世界にまつわるお話もありますが、それはまた別の機会に。

◆では、保護区の水揚げはどのように使われてきたのでしょうか。昔は婚礼のある家が許可の旗を揚げて婚礼資金にアワビをとったこともあるそうですが、今はその習慣はありません。水揚げの6%は漁協に納め、2%は種苗の費用、残りが集落の収入です。泊浜では自治会費はタダ。自治諸経費は保護区でまかないます。側溝の補修、他に先駆けた下水の合併浄化槽の整備など、大事な海への恩返しにも費用を費やしてきました。

◆そして8年前、泊浜契約会は大きな決断をします。30年間コツコツ貯めた6千万円をすべて取り崩し、「必ずや来る宮城沖地震」に備えて、150人収容の耐震構造の生活センターを新築したのです。今にしてみれば、じつにタイムリーな英断でした。契約会を核にした集落の結束は、高い防災力を生みました。震災当日、泊浜の地区内にいたのは人口600人のうち400人。125戸の半数が10mの津波で全壊したにもかかわらず、逃げ遅れの犠牲は1人。道路が寸断され泊浜は孤立しましたが、契約会の役員会の采配で秩序よく物事が運ばれました。被災した人たちはアワビで建てた生活センターに身を寄せ、凍えと飢えを免れ、その後110人が60日間ここで避難生活を送ったそうです。

◆今、地区内で家の再建が進み、泊浜を出ていくのは2、3戸にとどまるそうです。大打撃を受けた漁業もワカメを中心に養殖業が再開。ただ、カキ養殖は加工施設の再建がむずかしく手を引く漁家もあり、「10年後の浜の様子はずいぶん変わるだろうね」というつぶやきも聞こえます。保護区に関して気になるのが防潮堤です。長須賀海水浴場の砂浜にも幅30mの防潮堤が計画されています。保護区のブロックは目と鼻の先。地権者の生活など地域の事情を考えた末の決断ですが、保護区に影響がないことを祈るばかりです。(大浦佳代 海と漁の体験研究所)


■地平線はみだし情報

■第3回梅棹忠夫山と探検文学賞(山と溪谷社、信濃毎日新聞、そして長野県の書店チェーン「平安堂」の3社が共同で主催する賞。賞金は50万円)、高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』に決定。第1回は角幡唯介さんの『空白の五マイル』、第2回は、中村保さんの『最後の辺境 チベットのアルプス』そして第3回目の今回が『謎の独立国家ソマリランド』。高野氏は、早稲田の探検部OBで、四万十の山田高司さんの盟友。


■1月の報告者、千葉拓さんちの牡蠣が、3月11日を期して販売を開始しました!!以下のウェブサイトで購入できます。http://www.maruta-takuyo.co.jp/


スィッチをオンに!

■今日は2014年3月11日。災害教育って何だろう。何を大事だと思ってこの組織の立ち上げに関わったのだろう。常にもやもやした問いを抱えて3年が過ぎました。そんな折りに「switch」という映画を見ました。遺伝子工学の世界的権威・村上和雄博士の著書『switch』のドキュメンタリー映画です。私たちの遺伝子には、スイッチがある。才能が開花するとか、人が使命に突き動かされて行動するときは「遺伝子のスイッチがオン」になった状態。持って生まれたものではなく、自分や周りの環境、心の持ちようなど、いろんな変化に応じて遺伝子は身体のあちこちのスイッチをオン、オフする動的なものなのだそうです。

◆映画を観ながら、災害ボランティアに参加した人も、遺伝子のスイッチをオンにした人だろうと思いました。災害現場という環境の中で、ポジティブなスイッチがオンになって、自分の人生の目的を発見したり、次の一歩を踏み出したり。「災害教育」とはそういうことだと思いました。今、あのとき災害の現場でオンになったたくさんの遺伝子のスイッチは、現場から遠ざかるほどにオフになっています。「目覚めよ、スイッチ。常に私たちの傍らに荒ぶる自然は在る」と自分に言い聞かせつつ、私にできることをもうちょっと頑張ります。以下、ご案内。(八木和美 一般社団法人「RQ災害教育センター」事務局長)

■災害教育シンポジウム2014〜各地で動きだした災害教育

 日時:3月18日(火)14:00〜18:00(第1部 シンポジウム)
    18:30〜21:00(第2部 交流会)
 場所:東京・日能研西日暮里校 6階
 費用:1,500円(1部シンポジウム)会員1,000円
    2部交流会費:1,000円
 主催:一般社団法人RQ災害教育センター
 申込&詳細
 http://www.rq-center.jp/news/1339

◆今回のシンポジウムでは、企業や行政などで展開してきた被災地支援や復興支援、教育活動などの取り組みをご報告いただき、ノウハウや情報の共有、次の災害に備えるネットワークを登壇者・来場者の間でつくりたいと考えています。2部の交流会場では、手作り品のブース出展、南三陸町のワカメ、佐藤徳郎さんちのほうれん草など、おいしい東北の食材をご用意しています。出版ほやほやの広瀬敏通さんの著書『災害を生き抜く』(1,500円+税)も販売します。

<内 容>

第1部:基調講演 14:00〜16:00
 企業の立場から・東北グリーン復興に取り組む
   川廷 昌弘氏 (博報堂CSRグループ部長)
 公益財団の立場から・支援ネットワークをつくる
   黒澤 司氏(日本財団職員/DRT(Disaster Relief team)-JAPAN:技術系災害ボランティアネットワーク)
 行政の立場から・学校に防災教育・防災管理を取り入れる
   佐藤浩樹氏(文部科学省スポーツ・青少年局学校健康教育課安全教育調査官)
 大学の立場から・災害ボランティアに大学はどう関わるべきか
   渡辺 信也氏(東北福祉大学学生生活支援センター ボランティア支援課コーディネーター)
 学生の立場から・ボランティアとして被災地に入り、その学びを卒論に
   大学生(都留文科大学 大久保祐真さん ほか)
 パネルディスカッション 16:20〜18:00
   基調講演登壇者 + 高田 研氏(都留文科大学 教授)
   コーディネーター
   佐々木 豊志(一般社団法人RQ災害教育センター代表理事)

第2部:交流会 18:30〜21:00

甲冑旅人・山辺剣、四万十で山田高司さんと中村城へ同道す

■こんにちは。山辺です。僕はいま、愛媛県の宇和島にいます。2013年5月に大阪城から歩き始め、下関から九州へ。大分、宮崎を通り、鹿児島から奄美大島等の南西諸島を経由し沖縄へ。沖縄は与那国、波照間、大東島と、離島も回り、再び鹿児島から熊本、長崎を通り九州一周。

◆昨年12月に小倉から船で松山に渡り、四国一周に取りかかりました。そして今また愛媛県に戻り、あと少しで四国一周も終わるところです。この後はまた小倉に渡り、山陰から北海道を目指します。ゴールできるか分かりませんが、とにかく歩いてみます。

◆四国では高知県四万十市で無事、山田高司さんにお会い出来ました。所在がわからないので、地平線の久島さんにお尋ねしたところ、江本さんに連絡がいき、手筈を整えていただき翌日、お会いすることが叶いました。あらためて地平線の繋がりと、行動力を実感しました。ありがとうございました。

◆山田さんには四万十川と中村城を案内していただきました。川の自然や町の事。突然押し掛けた甲冑姿の僕に、詳しく説明してくれました。山田さんから直接、四万十の事を聞けるなんて、凄くラッキーですよね。そういえば、沖縄の大東島では、地平線の橋口優さんに会いました。あんな果ての果てまで繋がってる地平線てなんだ!と驚くばかりです。人間は動いているんですね。

◆こんないい出会いばかりなら楽しい旅になるのですが、通報され、警察に追われたり、公園を追い出され道端で寝たり、野犬の群に襲われ格闘したり。寒波、吹雪、猛暑、台風、ゲリラ豪雨。季節ごとにあらゆる災難に見舞われましたが、なんとか生きてます。東京にはいつ着くか未定ですが、地平線会議には出席しますので、どうかよろしくお願いします。(3月5日 山辺剣

震災復興情報誌「FORTUNE宮城」8号刊行を記念するトークイベントのお知らせ

■地平線報告会の会場で創刊号からお渡ししている震災復興情報誌「FORTUNE宮城」。1月の報告会場では「7号」を配布した。今回は、発行資金捻出のため、クラウドファンディングの「READYFOR?」を通じて、ひろく資金協力をアピール、地平線会議の仲間の協力もあり、目標とした50万円を越えることができた。8号は間もなく完成するが、この機会に河崎清美編集長が、この3年間で被災地に何が起きたか、その変遷を報告するトークイベントが企画された。

■開催概要■

 日時:2014年3月20日(木) 午後7時〜9時
 場所:カフェ・ラバンデリア(新宿区新宿2-12-9 広洋舎ビル1F)
   (http://cafelavanderia.blogspot.jp/search/label/MAP
 入場料:無料(ラバンデリアで1ドリンクオーダーをお願いします)
 申込方法:お名前、所属(個人として参加される方は無記入で結構です)、返信先のメールアドレスを書いて、件名を変更せず、 まで、返信をお願いします。
 定員:会場スペースの都合上、定員25名で締め切らせていただます。


【通信費とカンパをありがとうございました】

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。先月号でもお2人分記載漏れがありました。お詫びします。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。

■古山里美(通信2月号のタイトルイラストが素晴らしいです!!! ペンギンだ〜!!!ってことで、ペンギンLOVEの私にとっては、嬉しいかぎりです♪)/秋葉純子/大槻雅弘(5000円 2年分通信費 全国976点「一等三角点探訪記録手帳」を添えて。大槻さんが会長をつとめる「一等三角點研究会」の活動は京都新聞、日本経済新聞などで大きく紹介されている)/荒川紀子/渡辺京子/新保一晃/大堀智子/北村操(5000円 2年分+カンパ)/堀井昌子(5000円 2014年の通信費+カンパ)/河野典子(10000円 通信毎号楽しみにしています、とはがきで)/立石武志(6000円 賀曽利氏の報告会楽しみにしていましたが、急用で帰省します。残念です)/辻野由喜(10000円 ご無沙汰しています。地平線通信毎号一字一句大事に楽しんで、読んでいます。素晴らしい内容と思います。「山の日」制定、お陰様で実現目前です。前日本山岳会会長)/長塚進吉


「心奥に 火は絶やさざり 青あらし」━━カンボジアに、念願の海外ボランティアに行きます!!

■エモーンへ。2月19日、平成26年度第1次隊の合格通知が届き、大学生の頃から夢だった青年海外協力隊の仲間になることができました。派遣国はカンボジアです。ポーサット州にある小学校教員養成校で理科教育の支援をします。ポーサット州は、首都プノンペンからバスで4時間の場所にある緑豊かな街で、トンレ・サップという大きな湖に接しています。湖周辺では、水上の家に暮らしている人が約1万人もいるそうです。電気不安定って書いてあるけど……たぶん大丈夫。きっと素敵な出会い、経験が待っている! 今からドキドキしています。

◆私がまだ香川大学の学生だった頃に、「私の夢は、海外ボランティアに参加することです」とエモーンにメールを送ったこと、今でも覚えています。あの頃は、「ボランティア=人を助けること・良いこと」だと考えていました。誰かの役に立ちたい気持ちが強かったのだと思います。海外への憧れもありました。エモーンはあの時もメールで激励してくれましたね。夢が叶って本当にうれしいです!

◆同時にこんなことも覚えています。親友のウメ(注:香川大学の同期・山畑梓のこと)が「海外ボランティアは必ずしも喜ばれるものじゃない」と言っていたこと。その言葉は私にとって衝撃でした。ボランティアが迷惑な場合もある?今の自分の能力では、その夢を実現させるのはまだ早いのかな?と考えるようになりました。ウメ、大人の意見をありがとう。

◆やがて私は大学を卒業し、理科教育に5年間携わりました。そして、「静岡−カンボジア協力隊派遣プロジェクト」を知りました。静岡県の教育委員会がカンボジアの理数教育を支援するために教員を継続的に派遣するというものです。「理科教育」なら、今までの経験を生かせるかもしれない。チャンスが来た!!と感じました。すぐに両親を説得。「確かに前から言っていたけど……急すぎる!」とか「婚期が遅れる!」(笑)とか言われましたが、頑固な私に折れて、ボランティア参加の申請を許してくれました。校長先生も全面的に協力してくださいました。

◆申請から約3か月、書類審査や人物面接、技術面接などがありました。技術面接では、正確に答えられなかった質問もあり、自分の意識の甘さを感じました。それを見透かすように、エモーンはカンボジアの歴史に関わる本を貸してくださり、「せっかくカンボジアに行くのだから、他の人たちよりも2ランク上の意識でいなさい」と私を励ましてくれました。エモーンからお借りした本からは、ポルポト政権による国民の混乱や大量虐殺、教育への影響が読み取れました。

◆未だにカンボジアが他のASEAN諸国よりも中学校への進学率が低い現状が理解でき、ボランティアの意味を再確認できた気がします。カンボジアの事、理科教育の事、もっともっと勉強したい!と思えた3か月でした。

◆「理科教育」については、少し自信がついてきたところですが、カンボジアに行ってから、一番心配していることは、言語のことです。カンボジアの公用語はクメール語。クメールとはカンボジアの総人口の約90%を占めるクメール人という東南アジアの民族の言語です。模様のような記号のような、どこで区切って読んだらいいのかわからない、不思議な文字(今は)。まずはクメール語を読める、書ける、話せるようになって、コミュニケーションの精度を高くすることを目標としています。

◆そのための70日間の研修がいよいよ4月10日から始まります。もちろん、訓練所入所前の宿題もばっちりあります。宿題の部分が理解されているものとして訓練が始まるのです。「2ランク上!」を目指して、少しずつ勉強を始めました。訓練所は福島県二本松市にあります。合格通知には、訓練所への案内も同封されていました。研修と派遣を含めた約2年間は家族や友人とほとんど会えなくなってしまうということが現実味を帯びてきて、少し寂しい気もします。でも、ずっと胸にしまっていた夢の実現に向けて、今は前進するのみです!! カンボジアで少しでも理数教育が発展していくように、理科好きな子どもたちを増やせるようにしたい。エモーンやウメの言葉を忘れないようにして、人の役に立てる人になって帰ってきます!!

《追伸》エモーンが5年前にお菓子の箱に書いてくれた俳句は、「心奥に 火は絶やさざり 青あらし」です。2001年の地平線通信に「駆出し記者時代、縁あって知り合った老コラムニストがくれた一句だ」と紹介されていました(ネットで確認)。エモーンとの出会いも、この句との出会いも、カンボジアへのボランティアも、縁ですね〜。縁に感謝!!(静岡県 クエこと水口郁枝


【先月の発送請負人】

■地平線通信418号の印刷、封入作業は2月12日し、13日メール便で発送しました。たまたま時ならぬ「豪雪」と重なり、いつもよりだいぶ配達が遅れ、なかには「大雪のため配達不能」と書かれて戻ってきてしまった通信もありました。発送作業に参加してくれた方々は、以下の皆さんです。最後の方は「餃子の北京」からですが、今月も14名もの人が来てくれたこと、ほんとうに感謝です。こんな地味な仕事に、現役で頑張っている皆さんが馳せ参じるなんて、ほかの集まりではあまりない、と思います。心からありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 新垣亜美 伊藤里香 福田晴子 前田庄司 久島弘 加藤千晶 日野和子 埜口保男 石原玲 杉山貴章 江本嘉伸 野地耕治


山梨に思いもかけない大雪が降って

<その1>
犬たちは、雪の中に埋没、親はスノーシューで道づくり、息子は豪雪ヒッチハイクを敢行した

■あの日、僕はタイミングよく八ヶ岳山麓の自宅にいた。2月末に出す単行本『シェルパ斉藤の元祖ワンバーナークッキング』の校了直後で、ひさしぶりの完全オフ状態だったときに、記録的な豪雪がやってきた。その前の週に珍しく雪が積もり、その雪が融けきれないうちの豪雪だったから、庭の積雪は僕の胸の高さにまで達した。わが家の犬たちは、あの歌のとおり「犬は喜び、庭かけまわり」になったが、2階のウッドデッキから庭に飛び出た途端、姿が消えた。全身が埋もれるくらいの雪なんて、犬たちも僕たちも経験がない。なんせ120年前に観測を始めて以来最高の積雪である。それ以前は記録にないわけだから、もしかしたら千年に1度の豪雪かもしれない。

◆僕と妻はアウトドアウエアに着替えて、外へ出るためのルートづくりをはじめた。不謹慎に思えるかもしれないけど、これが楽しかった。スノーシューを履いて雪に埋もれた庭を歩いて道づくりを行なう。雪山に行かなくても自分の庭でラッセル体験ができるなんて傑作だ。それにまっさらな状態から自分たちの力で開拓していく充実感と達成感もある。

◆夢中になってラッセルを楽しんでいたら、車が通れなくなった道路を歩いて友人がやってきた。近所に住む登山家、花谷泰広くんだ。ピオレドール賞を受賞した気鋭の登山家だが、彼も子どものようにはしゃいでいる。アウトドアで遊ぶことが好きな輩にとっては、天から遊び場を授かった気分なのだろう。その後も近所の友人たちが歩いて遊びにやってきた。そしてみんなで力を合わせて除雪作業に勤しんだ……のではなく、僕らは2階のウッドデッキから雪面にダイブしたりして、キャッ、キャッと遊びまくった。

◆そんなわけで、ニュースでは山梨県の豪雪の深刻さを伝えていたし、被害を受けた農家が多かったことも事実だけど、わが家周辺はとくに騒ぎ立てるような状況ではなかった。自慢するわけではないが、僕は野営道具を背負って野を歩くバックパッカーであり、自分で家を作って田舎暮らしを楽しんでいる作家でもある(作家は『作る家』と書くから、僕は本物の作家なのである)。

◆雪に閉ざされて陸の孤島と化しても、食料の備蓄は1週間ぶんくらいあるし、薪ストーブ用の薪も、プロパンガスも、ボイラー用の灯油も確保してある。停電になったとしても、ソーラー発電システムがあるから、屋根に登ってソーラーパネルの雪を落とせば電気も使える。井戸のポンプが動かなかったとしても、山小屋のように雪を溶かして使えば水も確保できる。交通機関がマヒしても、歩けばどうにかなる。たとえ建物の損壊があっても、どうにかする知恵と道具とスキルも身につけている。記録的な豪雪とはいえ、雪国の住民たちが鼻でせせら笑うくらいの積雪なんだから対処できないはずがない、というのが僕の正直な気持ちだ。

◆ただし、まったく被害がなかったともいえない。妻は豪雪の翌日から友人と台湾旅行へ出かける予定だったが、成田空港までの交通手段が遮断されたためキャンセルせざるを得なくなり、キャンセル料という損害が生じた(その間、留守番を担当するはずだった僕はラッキーだったが)。そして鳥取に暮らす大学生の長男、一歩は東京までたどり着いているのに家に帰れない状態が続き、友人や知人宅を転々とする日々が続いた。

◆最初は予期せぬ放浪生活を楽しんでいたが、4日目になると「疲れた……。家に帰りたい」と、不満を漏らすようになった。そこで僕は提案した。「ヒッチハイクしてみたら」と。JR中央線は不通のままだし、高速バスも運休が続いている。国道20号線も通行止めだが、中央自動車道は4日ぶりに開通した。八王子インターあたりで『山梨』と書いた札を掲げて立っていれば、乗せてくれるドライバーが現われるだろう。「うん、わかった。やってみる」と、一歩は明るく答えてすぐに行動に移した。

◆八王子駅まで電車で行き、駅から1時間かけて八王子インターまで歩いて、ヒッチハイク開始。約30分待って止まったのは空車のタクシーである。「お金は持ってませんよ」と告げたら、年配のドライバーは「かまわないよ。でも会社にバレたらまずいから車載カメラには映らないように体を伏せてなさい」と言われ、一歩は後部座席に横たわった状態で甲府郊外の一宮御坂インターまで乗せてもらったという。その後は甲府市内に向かって歩き出し、途中でヒッチハイクに成功。3月で53歳になるのにいまだにヒッチハイクの旅をしている父親のDNAを受け継ぐ一歩は、ヒッチハイクで豪雪を乗り切ったのである。

◆以上が僕の豪雪報告だが、ひさしぶりに地平線通信を書いたついでに東日本大震災の復興関連の話も少しだけ記しておきたい。青森県八戸から福島県松川浦まで、被災地を結んで環境省が整備を進めている全長700kmの『みちのく潮風トレイル』である。僕はアドバイザーとして関わっており、昨年は6回ほど現地に足を運び、部分開通した八戸の蕪島神社から『あまちゃん』ブームに沸いた久慈市まで、さらに南下を続けて田野畑村までの区間を歩き、地元住民たちの勉強会に呼ばれて、ロングトレイルとはなんぞや、の講演を繰り返した。

◆今年も豪雪の1週間後に八戸に出かけて地元のシンポジウムで講演を行なった。これまで歩いた青森県や岩手県北部は比較的津波の被害が少なかった地域だ。ここから先は復興が進んでいない地域に入る。建設が進む巨大な防潮堤の是非、被災地にロングトレイルを設定する意味などが問われるだろう。全面開通までの道のりはまだまだ遠い。でもこのロングトレイルの整備が、被災地の復興に役立つと信じて、僕は今年も被災地に足繁く通うつもりでいる。

◆というわけで、ひさしぶりに近況報告を書いたので、最後に宣伝をさせてください。文中にも出て来るように『シェルパ斉藤の元祖ワンバーナークッキング』を出版しました。スーパーやコンビニで手に入る常温保存可能でパッキングしやすい食材を使った超簡単な50のレシピを紹介してますが、普通の料理本ではありません。僕は旅のマニュアル本だと思ってこの本を書きあげました。これまで出した著作のちょうど30作めにあたるメモリアルブックでもあります。ぜひ、ご購読を。(シェルパ斉藤/八ヶ岳山麓在住のバックパッカー)

<その2>
じっと私の目を見るお年寄りは、雪かきを待っている。
━━山梨の14.2大雪顛末

■雪の少ない山梨で2月は大雪が2回降りました。最初の8日の降雪で40cm以上、続く14日には1m以上も降りました。15日の積雪は1m20cmくらいありました。今まで甲府の最高積雪記録は49cmなので今回の雪の多さがいかに突出しているかわかります。以下知人に宛てたメールの文章を通じて「2014年2月大雪顛末」を報告します。

 メール[1]2月17日

◆2月14日の朝は少し雪が降っていましたが数センチなので笛吹市一宮町の自宅から石和町の会社(薬局です)まで6、7キロの道を走って行きました。それからも雪が降り止む気配はなく、昼には20cmくらい積もりました。午後になっても、尋常な雪の降り方ではない、しかもさらに雪が降り続く予報なので4時すぎに勤めの薬局を早仕舞いし、雪かきして薬局に泊まりました。

◆夜9時ごろと15日明け方3時ごろに雪かき、さらに明るくなった頃また雪かきしてなんとか車2台くらい置けるスペースを確保。周囲は白一色で、この日は隣の医院が休みになり薬局も臨時休業。午前中は雪かきして昼過ぎに我が家へ歩いて帰りました。途中旧国道20号線(現国道411線)に1台、その先の県道で1台トラックが一晩明かして立ち往生。県道から我が家に入る道もまったく雪かきしてなくて胸元くらいまでの雪をラッセルして家に戻りつきました。

◆翌16日は家の周辺の雪かきをして、次の17日に備え非常食とスコップを携帯して会社へ歩いて向かいました。家を出てすぐの県道で軽乗用車がスタックしていたので10人くらいと一緒に手伝って脱出させることに成功。更に同じ地区の早川さん(85才の母と同世代の独居老人女性)の家前が雪かきしてないので母に連絡し在宅だけど雪かきできないと言うのを確認して、一人通れる分だけ雪かきしました。

◆その先1kmくらい行くと近藤商店のおばさん(やはり母と同世代の独居女性)が、じっと私を見て目が合いました。実は薬局の患者さんで、そのもっと昔から顔見知りです。「家の出入口がない」とのこと、ここも雪かきしました。さらに石和町でもやはり薬局の患者さんで独居老人宅のことを思い出し、寄ってみると案の定雪かきしててありませんので雪かきし2時間くらいかけて薬局へ。薬局の駐車場の雪かきしたりしてこの日も薬局泊。

 メール[2]2月18日

◆17日になってテレビ報道で山梨は「陸の孤島」、埼玉の○○は「孤立状態」等と急に言い出しました。おかしいなあ、雪が降って3日も経過しているのに。ある人曰く「オリンピックの放映権(莫大な金額)が関係しているのでは?。おまけに金メダル銀メダルがあったから」と。うーん??? つまり、莫大なお金を払って放映権を取得しているテレビ局は、五輪報道を優先せざるを得ない。山梨の豪雪は、2の次。本当かどうか分かりませんが、確かにその影響はありそうです。私はまだ行き帰り歩いていますが、道幅が狭くなった上に朝の凍った道路、夜間は暗さが危ないです。今のところ畑にも行けない、庭も雪かきしていないので車で帰ることも出来ないです。20日(木曜日)あたりにしようと思っています。

 メール[3]2月21日

◆最近は報道でだいぶ知っていると思いますが孤立しているのは早川町ばかりでなくて、限界集落と言われる山間部はほとんど早川町と同じだと思います。清里に近い大泉に住む40代の知人さえも19日の電話で「テニスコート2面くらい雪かきしないと出られない」と言っていました。昨日20日は休みなのでやっと家の庭に通路を十文字のようにつけました。それまでは門から玄関までの幅50cmの通路でした。

◆今は庭に車が入れないので、門のところに置ける軽トラ通勤を本日21日から始めました。普段の車は薬局に置いてあります。大雪以来はじめて昨日スーパーに行きましたが、そこは予想を上回って商品が少なかったです。乾麺の棚は全く品物がなく、野菜や果物やパンやトイレットペーパーの棚は少なくなっていました。桃とぶどうの畑をどうにか昨日20日に見回りました。ぶどう園はつぶれていません、桃畑は眺めた感じ枝折れは仕方ないにしても被害は少なそうでした。

◆同じ地区でもつぶれたハウスぶどう園がありました。通勤途中のぶどうも棚が倒れ、ぶどうの木も大きく引き裂かれていました。大変な被害になりました。庭の雪は3月までありそうです、畑も作業が遅れますよね……。

 メール[4]2月24日

◆庭の雪を十文字に除いて通路のみ確保したと報告しましが、昨日23日父(88才です)母は何を思ったかスコップを持ち出して雪を除けはじめました。世間体を気にしてだと思います。雪を除くといっても今回は「捨て場」を確保しなければなりません。仕方なく私が軽トラで雪を運び川原に捨てること15台分、やっと車庫に軽トラを停めることが出来ました。』

◆山梨県は降雪量が少なく、地震や津波など深刻な自然災害も近年はほとんどなく、私たち県民は“平和ボケ”しているところがありました。そんな中での突然の豪雪。「県の初動体制が…悪い」と言う議論などありますが、私自身は多くを経験し、反省し、学んだもの多く、少しでも今後に活かしたいと思います。この大雪で「雪かきに行きます」と言ってくれた知人や、関西の方が野菜送ろうとしたけど、荷物がいっぱいで受け付けてもらえなかったよ、などなどありがたいことでした。さあて、現実に戻って遅れた畑仕事をやるかあ〜〜。(山梨県笛吹市 中山嘉太郎

<その3> スコップ背負って、マウンテンバイクで雪かきに

■雪国の人からしてみたら不謹慎かもしれないが、滅多に雪の降らない東京育ちなので、雪が積もるぐらいに降ると心が躍ってしまう。2週連続の積雪となった2月15日は自宅前の道路を何度も雪かきして飽きることがなかった。山梨だけでなく、都内の奥多摩、檜原でも通行止めが続いていると新聞が報じている。でも週明け、たまたま前週に檜原村に送っていた宅急便の「配達完了」連絡があった。トラックが入れるぐらいには道路が回復したらしい。

◆2月19日水曜日、職場の人たちには悪いが休みを取った。背中にはスコップ一丁。武蔵五日市駅から輪行してきたMTBでひとり檜原街道を走り出す。十里木から先「雪崩のため通行止め」と予告されていたが、警備員が2人座っているだけでどんどんクルマが入っている。凍結路が続く。倒木が1車線を塞いでいる。檜原村役場のある本宿に着くと、村のメインストリートは除雪が済んでいた。「払沢の滝入口」のバス折返場は警視庁山岳レスキュー部隊の車両で埋まっていた。この上にある時坂部落が孤立していて、なんとか今日中に解消させたいのだという。

◆バス停から村唯一の中学校、小学校へ向かう北秋川橋の歩道が雪に埋まっている。雪かきで困るのは排雪だが、橋の上なら川に落とせばよい。長靴に履き替え、さっそく作業開始。氷の塊を渓谷に落とすとバーンと大きな音がしてこちらのほうがびっくりする。私と同じようにスコップ抱えた男性がMTBで走ってくる。呼び止めると、介護の仕事だもんで、と言われる。

◆山の生活は大変だ。都会とは違う。でもその境界はどこだったのだろうか。電車を降りた五日市駅か、最後のコンビニがあった戸倉か、通行止めが始まった十里木か。たぶん境目などなく、都会と山とは連続的につながっている。だからみんなそれぞれにできる範囲で雪をかきに行けばよい。手足を動かしているあいだに、頭はそんなことを考えていた。(落合大祐

帰宅まで55時間かかった大雪 伝統の「地面出し競争」で17位 素晴らしかった「東北の伝承切り紙」展 ━━山形豪雪地帯レポート

■今年は雪のない正月で明けた静かな冬でしたが、2月上旬には本格的な地吹雪が吹き荒れ、ホワイトアウトの中を運転するという体験を味わいました。2月中旬に2週連続で東日本を襲った記録的な大雪は、雪の怖さと雪に慣れていない地域の雪害対策の脆弱さをまざまざと見せてくれたように思います。山梨県では除雪が遅れ数日間も孤立した集落があったようですが、こうした“これまでに経験したことのない”災害に対する各自治体や政府の対応の遅れも気になりました。

◆冬に雪が降るのはあたり前と思っているわたしたちは、こうした混乱ぶりをつい醒めた目で見てしまいます。しかし、2月中旬の大雪ではわたし自身もその“被害”を受けてしまいました……。14日の夜に写真集『Lhotse』『Qomolangma』の出版を記念した石川直樹さんのトークイベントがあったので、山形市内に車を置いて高速バスで仙台へ。その夜は予定どおり仙台市内に泊まりましたが、翌日は大雪の影響で山形〜仙台間の道路と鉄道がすべて止まり孤立状態に。その日のうちに復旧しそうになかったためホテルを探して2泊目。16日の昼にようやく鉄道が復旧し山形市へ戻りましたが、車は40センチ以上の雪にすっぽりと埋まっていました。自宅にたどり着いたのは出発から55時間後の16日夜。皮肉なことに酒田はほとんど雪が積もっていませんでした。

◆2月23日は「第5回肘折温泉地面出し競争」に参加。もともとは肘折小中学校の冬の運動会種目として30年近く続いてきた伝統のある競技ですが、5年前に学校が閉校になったため地元主催で続けられています。ルールは、4人の選手がスコップとスノーダンプを使って雪原をひたすら掘り、地面を出したタイムを競うという単純なもの。「ほっづこっつで雪ちょし隊」の網谷さんと大嶋さんに誘われて、現場監督として過去3回参加していますが、昨年は次回からシード権が導入されるという話を聞き、県内屈指の豪雪地からプロの? 雪掘人を補強。その結果まさかの3位に入賞し銅スコップを獲得しました。

◆チームの成長を見届けて監督としての役目は終えたと判断し、今回は昔の遊び仲間と新チーム「焚火研究会ホリターンズ」を結成して参戦。積雪深345センチ、過去最多の35チームで挑んだ結果は、雪ちょし隊が5位(10分33秒)、焚火研究会は17位(16分15秒)でした。優勝は準優勝2回の実績がある地元「LOVE SNOW」チーム。「今年は絶対に優勝する!」と宣言していたとおり、たった2人で7分49秒という驚異的な速さで地面を掘り出しました。大雪をものともせず遊びに変えてしまう豪雪地の人たちには尊敬の念を抱いてしまいます。※ この大会の模様は3月13日(木) 18:55〜19:25のNHK-Eテレ「Rの法則」で放映される予定。

◆今日(3月9日)は福島県立博物館で開催中の「東北の伝承切り紙」展を見に会津若松へ。「伝承切り紙」とはお正月に神棚に供える切り紙のことで、平面的な「切り透かし」や立体的な「御幣」「網飾り」を総称して「御飾り」と呼んでいるようです。東北以外にもあるそうですが、宮城、岩手、福島の御飾りはとりわけみごとだとか。つい最近その存在を知り、ネットで検索したら『東北の伝承切り紙』という本がヒット。福島県立博物館の展示も偶然知り、今日は著者による解説会があると聞いて、列車で片道6時間近くかけて行ってきました。写真で見る御飾りもすばらしいものでしたが、実物からは美しさと清々しさが感じられ、立体的に飾られた網飾りからは神々しさが伝わってきました。

◆解説会には宮城県南三陸町志津川にある「上山八幡宮」の宮司さんも来場し、少しだけ実演してくれました。上山八幡宮は以前は(取り壊しが決まった)あの防災庁舎の場所に建っていたそうですが、1960年のチリ地震津波の後に現在の高台に遷宮したのだとか。東日本大震災では神社の下にあったご自宅の2階まで津波が押し寄せたそうですが、2階で息子さんが切っていた御飾りの型紙は水が引いたらそのまま残っていたという不思議なことも……。

◆今回の津波で御飾りを伝えてきた神社や氏子の家も数多く流されたと聞きましたが、宮司さんがひとつ一つ丁寧に切り込んで作られる美しい造形は、一枚の紙が人と神をつなぐ「祈り」に変わったモノとして、その復活を待ち望んでいる人が多いに違いないと思います。今日は博物館の前で多くの人が雪の上にキャンドルを並べていましたが、3月11日には酒田と鶴岡でも「3年目のキャンドルライト」が開催されます。今も続いている震災を忘れないために、今年もキャンドルを灯しに行ってきます。

◆最後に残念なお知らせをひとつ。2000年1月に写真展と地平線報告会を開催した鶴岡市の「アマゾン民族館」と旧朝日村の「アマゾン自然館」が3月30日で閉館になります。世界でも屈指のアマゾンの資料を見られる期間は残りわずか。3月16日には閉館イベントもあります。見たい人はお急ぎください。(飯野昭司@山形県酒田市・会津若松からの帰りの車中にて)


あとがき

■都心にいるのに、滅多にビル街には行かない。しかし、3月1日の土曜日、大手町の読売新聞新社屋を見学に行った。昨年暮れ、地上33階、地下3階、高さ200メートルの新社屋が完成、一応OBであるので、この日「内覧会」というものに招待されたのだ。確かにすごい。高いし、きれいだ。

◆びっくりしたのは、3階で、いきなり「事業内保育所・よみかきの森保育園」というのを見たことだ。もちろん、まだ開所前で、「4月開業、定員23人程度」との説明だ。新聞社にもともかく保育所ができたのか、と感無量であった。32階のレセプション・ルームは東京タワーの大展望台(地上150メートル)より高いそうだ。小雨模様のこの日、どんより曇って、東京のすべてを見渡すには遠かったが、「高さ」というものの威力を、一瞬、感じた。高いところを人は、素晴らしい、と思い、権力の象徴とも看做すのだろう。

◆前にも書いたが、私がこの新聞社に入ったのは、東京オリンピックの年で当時は、銀座の今の「プランタン銀座」のある場所にまことにインク臭い、ふるびた建物だった。夜は、ねずみがチョロチョロしそうな路地裏で一杯やるのである。1972年になって大手町に移ったが、その時点ですでに人間くささが消えて私には面白くなかった。

◆無頼を気取るわけではなく、新聞社の仕事はともかく人臭いところでないと、と無骨に感じていたのだ。入社当時、お世話になった夕刊「読売寸評」の名コラムニスト、故細川忠雄さんが書いてくれた一句を、今号でクエこと、水口郁枝さんが紹介してくれた(9ページ)ことが、新社屋の素晴らしさより、私にはじーん、ときた。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

宙(そら)の原理

  • 3月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「自然現象のうち、ヒトがわかってるのは5%くらいじゃないかなあ」というのは気象予報士の猪熊隆之さん(44)。山岳気象予報のエキスパートとして、これまで50隊ほどの登山隊をサポートしてきました。「高尾山でもエベレストでも気象の原理は同じ。現地の実況を元に、物理的な推測を重ね、そこに経験値を加味します」。

子供の頃から天気予報ニュース、特に雪の予報が大好きだった猪熊さん。「日本の経緯度でこんなに雪が降る所は世界にも珍しいんですよ。それが不思議で面白い」。

中央大学山岳部で山と旅に開眼し、アルパインツアー社に入社しますが、骨髄炎という難病に罹ります。生きる為に選んだのが気象予報士という仕事でした。その後ゴッドハンドとも言うべき医者に出会い、奇跡的に病を克服します。

この4月から、タレントのイモトアヤコのエベレスト登山サポートのため、現地C2 6500mまで登る予定。実は現場でのサポートは初めてという猪熊さんに、今月は気象予報の魅力を語って頂きます。


地平線通信 419号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年3月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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