2014年6月の地平線通信

6月の地平線通信・422号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月11日。今日から新しい「ヒルズ」が開業する、という。「六本木」「表参道」といった「ヒルズ」族に新たに加わるのは、「虎の門ヒルズ」。52階建て、高さ247メートル、だそうだ。自宅からは歩いて行ける距離だが、これまでの「ヒルズ」族と同じく、当分行かないだろう。高くてもてはやされるのは、山だけでいい。

◆朝早く、屋久島の新垣亜美さんからシャクナゲの美しい写真が届いた。永田岳を背景に実に鮮やかな赤、白、ピンク。ほんとに見事だ。屋久島で私が登った山は永田岳だけなので、ありがたい。「今年は、20年に1度という、シャクナゲの当たり年」なんだそうである。ついでに「フロントがんばってください」だって。高層ビルの氾濫はともかく、一瞬にして山の空気、山の色を送ってもらえる時代をありがたい、と思う。

◆横浜という都会育ちのせいか、幼い頃愛知県の田舎に「疎開(そんな時代もあったのだ)」して知った田舎の風景が好きで、こんもりした森、畑、川といった風景にひかれる。6月最初の週末、「コウノトリ但馬空港」に降り立った時も、あたりの田園風景に心がなごんだ。ここには植村直己冒険館があり、今回は冒険賞の授賞式に参加するのが目的だった。受賞者は田中幹也である。

◆兵庫県で面積が一番大きい市として知られる豊岡市は、2005年(平成17年)4月1日に、周辺の城崎郡城崎町、竹野町、日高町、出石郡出石町、但東町と合併して今の規模になった。地平線会議が初めて植村直己冒険館に乗り込んだのは1999年7月、日高町だったころだ。

◆「7月の地平線報告会を突然、兵庫県日高町で開くことにしました。実は、地平線会議発足20周年を記念して写真展『地平線発』を日高町の町センターというところで開催します。7月23日から26日までの4日間ですが、それにあわせて報告会も日高町でやろう、ということに……」(1999年7月の地平線通信のフロント)。

◆ちょうど夏の祭りとぶつかって宿が取れない状況だったこともあり、冒険館の構内の緑の草地(結構広いんです)で野宿することとした。「歩いて、自転車で、バイクで、リヤカーで、スケボーで……好きなスタイルで来て下さい」と書いた。以来、冒険館とは不思議な縁が続いている。実は、板橋(植村さんが住んでいた場所)にも植村直己冒険館はあるのだが、なぜか遠い豊岡とばかり親しくさせてもらっているのは、やはり大自然の力、そして冒険賞の存在、何よりも人の熱の違いではないか。

◆少し辛い話をはさむ。5月31日午後、森井祐介さんの見舞いで新宿内の病院にいたとき、電話をもらった。「スパイダーが交通事故で亡くなりました……」。瞬間、絶句した。スパイダーとは、飄々とした風貌でRQボランティアなら誰でも知っている教育者、「蜘蛛仙人」のことだ。本名、八幡明彦、51才。昨年歌津で会った時は、いつものように自転車を漕いで行動していた。被災地で車を運転できないことの不便はいかばかりか、と思うが、反面いかにも仙人らしいな、と納得した。

◆それがやはり免許を取ったのだ。はじめは原付二輪を、次いで普通自動車免許を。でも、東北の被災地の道の運転は初心者には簡単ではなかったのだろう。何十年やっていても運転の下手な私には、とりわけ身に沁みる。世の中には、運転が向く人間と向かない人間がいるのだ。3日は現地で「スパイダーをおくる会」「偲ぶ会」が多くの子どもたちが参加して営まれ、5日、6日には都内の教会での「通夜の祈り」「葬送式」があり大勢の同志に見送られて旅立った。その顛末は、この通信の5ページにある。

◆地平線報告会に報告者として来てほしかったので、何度か地平線通信を渡したこともある。学生時代からの盟友の「教話」を教会で聞いて、あらためて「惜しい人をなくした……」と痛感した。3.11を契機にさまざまな人が動いた。多くはすでに被災地を去ったが、スパイダーのように、その地に足をつけ、活動を続けてきた者もいる。仲間たちの厚志は、「八幡明彦記念基金」としてボランティアたちの支援に使わせて頂く、とご家族から話があった。

◆豊岡に話を戻す。さきほど、関野吉晴から電話をもらった。「今月17日に移送が決まりました」。おお、よかった! 移送とは、昨年国立科学博物館で展示された、あの関野チームがつくった「縄文号」と「パクール号」のことだ。あの素晴らしい舟がどこに落ち着くのかずっと気になっていたが、結局、植村直己冒険館が引き受けるそうだ。「よかったです。すぐには展示できないと思うけれど、やっと決まって」と関野さん。この件、ひそかに冒険館から聞いていたが、本決まりになってよかった。

◆関野吉晴と教え子たちの素晴らしくも美しい労作が、あの豊岡の冒険館に保存される。しみじみこれも、不思議な縁である。(江本嘉伸


先月の報告会から

冒険の先っぽ

田中幹也

2013年5月23日  榎町地域センター

■第421回地平線報告会、報告者は田中幹也さん。幹也さんが地平線で話すのは4度目だ。1997年3月「情報の枷を逃れて」。2000年6月「冒険は何時頬を濡らす?」。2006年6月「冒険の陰と光」。過去の報告会のタイトルも、通信に描かれた悩んでいるようなイラストも、他の行動者とは異色で、いつも惹きつけられていた。残念ながら過去の報告会には参加できなかったので、本気の話を伺うのは初めてだ。

◆それにしても97年に地平線で話してからでも17年。さらに以前の本格的にクライミングを始めた86年から含めると何年になるのか、活動歴は途切れることなく続いている。山や冒険の世界の人間でなくても、経歴を見れば唸らずにはいられない。ところが幹也さん本人は「大衆」に受け入れられた時点で、もはや冒険は成り立たない、と、宣言している。なぜ敢えて、そんな宣言をしなければならないのか、と不思議に思いつつ一番前で話を聞かせてもらった。

◆話に先立って、江本さんより幹也さんが今年度の植村直己冒険賞受賞者に決まった経緯が語られる。受賞者に選ばれたとき本人がカナダの平原にいて、連絡がつけられなかったこと。幹也さん自身が受賞を受けるかどうか悩んだこと。続けて植村さんは故郷豊岡では神様であり、中学生が400人も話を聞きに来るのだから、授賞式では、そのへんを理解して話してね。と、江本さんからのリクエストがあり、いよいよ幹也さんの話が始まる。

◆前半は過去20年間のカナダの旅について。「カナダ」というと、そもそもなぜいまさらカナダなのか? なるほど一般的にはカナダのイメージはあんまり特徴のない旅行しやすい国。ただそれは観光地の話であって、日本の27倍の面積を誇るカナダは、土地の大半にはいまだに道すらない雄大な自然がある。そのカナダで幹也さんが自転車、カヤック、徒歩、スキーで旅したエリアは大きく分けると4か所。ノースウエスト準州。ロッキー山脈。東部ラブラドル半島。中央平原とウィニペグ湖。いずれも厳冬期だ。

◆冬を選んでいくのは、厳しいのでやりがいがある、プラス冬は人がいないので、許可を取らなくても気分で自由に動けるから(夏場だとたき火にも制限があるという)。自然環境以外の大きな理由は厳しい自然の中に住んでいる人たちが穏やかで優しいから。結局、カナダには20年通うことになったが、それは結果で、最初はそんなつもりはなかった。行けばいくほど魅力にはまり、18冬、のべ5年間通ってしまった。

◆地域ごとに準備されたスライドで、まずは2006年から通っているカナダ中央平原のウィニペグ湖。四国ほどのスケールがある凍った水の上を、食糧、テントを積んだソリを引きながら歩く。スライドには風を遮るものはおよそ見当たらない、美しくも恐ろしい氷の世界が映し出される。続けてスライドはアラスカに隣接したノースウエスト準州。針葉樹林の林の中をまっすぐ伸びる行きかう車もない雪の道。村から村までは数百キロはある。幹也さんはこの道を一人、市販の特に改造も施していない自転車で走っていく。道路上にいるかぎりは誰かに助けてもらえるのでさほど大変でもない、とサラリと流すが、そこには今までの経験の積み重ねが詰まっている。

◆次はカナダディアン・ロッキーだが、ロッキーはカナダの中では暖かいほうだ。問題は大量の積雪。写真で見ると確かに自転車は雪だるま状態で、これでどうやって進めるのか、と思ってしまう。日本と違うのは、自転車の旅人がいると風のうわさで聞いた除雪車が助けに来てくれた話だ。幹也さんは詳しく語らなかったが、笑って助けてくれたのではないか、という気がする。

◆理解できなくても本気さを認めることはできる。日本人は理解を超えた人を見つけたら、その人を自分が理解できる範囲内に収めようと必死で干渉してくる。それが優しさだと思い込んでいるから、幹也さんみたいに独創的な人には生きづらいだろう。理解を超えたものを、そのまま受け入れるには揺るがない自己が必要なのだが、海外、特に気候の厳しい環境に住む人たちは不思議なくらい自然にそれがあり、いい意味で放っておいてくれる。幹也さんがカナダ人の優しさについて語る時に見せる、ホッとした表情はそういうことではないだろうか。

◆カナディアン・ロッキー2年目はスキーで挑戦。3週間分の食糧プラス装備で60キロにもなり、雪が深いので、スキーを履いても場所によっては腰ぐらいまで埋まってしまう。一度足が潜ると、次の一歩を踏み出すのが大変で、1時間で200メートルぐらいしか進めないことも。スキーはこういう形で酷使するとビンディング部分が壊れてくる。深雪の中でスキーが使えなくなると脱出不可能になるので、保険としてワカンを持参した。

◆装備としてはGPSは使用せず、地図とコンパスだけで判断(日本ほど地形は複雑ではない)。警戒心の強い野生動物と出会うことはほとんどないが、クマの足跡を見つけたときは辿ってみることも。クマは歩きやすいところを歩くので、ルートファインディングの手間が省けるのだそうだ。驚くべきは、幹也さん、このときが初スキーだった。装備にしても、食糧は現地スーパーで購入したりして、気負うことなく自然体だ。それで結果を出している以上、マニュアル第一の装備原理主義者には反論の余地はない。

◆ここで会場に来ていた関口裕樹さん(26)に江本さんが話を振る。関口さんはこの冬、厳冬期の凍りついたカナダマッケンジー川を徒歩で旅してきたばかり。尊敬する人は幹也さんと語る。妥協を許さない姿勢は憧れの幹也さんと同じで、6月からは今度は真逆の世界一暑いという真夏のデスバレー(北米)を自転車で旅する予定だ。常に辛口の幹也さんも後輩であり、同志と認める関口さんを見つめる眼差しは優しかった。

◆一通り、カナダの話を終わって、話は日本に飛ぶ。画面には高層ビルの屋上に立つ幹也さん。日本ではクライミングの仲間と一緒に高層ビルの窓ふきの仕事をやっている。続いて本の編集作業『目で見る日本登山史』(山と渓谷社)。ここで幹也さんがあるページの拡大コピーを写す。そこには江本さんの名が。1962年3月19日〜20日、北穂高岳、滝谷出合〜第一尾根、江本嘉伸、星達雄(東京外語大山岳部)。自分の登山が日本登山史の1ページに加えられていたとは江本さん自身も知らなかった事実。この写真をきっかけに江本さんも話に加わる。「目で見る日本登山史」は純粋に困難さ、独創性、を判断基準にして評価された本物の登山史で、世間一般で有名な人が出てこなかったり、逆に無名だけれど凄い人が大勢でてきたりもする。それが幹也さんの考えと一致していて、やりがいがあるという。

◆ここは幹也さんの世間への不満と直結している核心部分なのだが、残念ながら幹也さんも認める江本さんの記録がどう凄いのか、部外者である自分にはわからない。おそらく、どれだけ丁寧に説明してもらっても、幹也さんが凄いというから凄いんだろう、という形でしか分からないと思う。でもどのジャンルにおいても最先端とは、もともとそういうものではないのか……。

◆さて幹也さんの日本での資金稼ぎだが、夏の富士山測候所への荷揚げ、テレビの山関係の取材のガイド、山岳ガイド、クライミングの講習会、etc。これらを組み合わせると冬場の遠征資金はなんとかなる。仕事は好きではないからテキトーにやっている。山に人と行っても面白くない、話の合間にネガティブ発言がどんどん出る。ところが幹也さんにガイドしてもらったお客さんにインタビューすると、見てないようで安全確保はしっかりしている、所作が無駄なく美しく、ロープさばきが速い。安心感がある。と評判は抜群だ。

◆江本さんが話に加わってから、装備の中の食材部分に話が移る。幹也さんの行動食は主にインスタントラーメンとオートミール。ラーメンはかさばるのでバラバラにして小さくする。水分のあるチョコ類は凍って食べられなくなるので持たない。食事は朝と夜の2回。行動中は水分も取らないので、テント内では人より多めの水分を取っている。ハードな一日が終わり、たっぷり砂糖の入った紅茶を飲んで日記をつけていると、メラメラと辛口ネタが湧き上がり、つきることなく文章が書けるのだそうだ。状況を想像すると悟った文章が出てきそうな気がするが、そうならないのが幹也さんが幹也さんである所以なのだろう。

◆後半、植村直己賞に選ばれて辞退しようか迷った理由が語られた。「冒険は大衆から理解されないからなりたつ。賞に選ばれるのは自分が落ちてきたからだ」。確かに冒険賞と名がつくのなら、それは世間受けする冠をかぶったモノではなく、もっと真摯に冒険を追及している人間に与えられるべきだ。しかしそれを理解するには同じレベルに立たないと理解できない。江本さんはそれを受けて本気のメディアは100部でしかできないと表現した。今回の植村賞が異色なのは、審査が結果より過程を重視、幹也さんが長年にわたり可能性を追い続けている姿を評価したこと。その評価姿勢に幹也さんも賞を受け入れることにした。

◆受賞は自分だけではなく、過程に重きを置いている人の代表として選ばれた、と思っている。きっと、ひたすらまっすぐに可能性を追求して20代でなくなっていったクライマー仲間たちを含めての受賞なのだと思う。

◆最後に幹也さんの文献をいろいろ読んで見つけた、幹也さんが自分を厳しく律していくために必要な毒舌のわけ。一人旅で一番おそろしいのは、自分に酔ってしまって他人の目が気にならなくなってしまうこと。自分の考えや行為が周囲から受けいれられていたならば、自分は動き出しただろうか。ぶつかるものが多いほど得るものも多い。周囲の目というものが自分を支えてきた。(こんなに疲れるレポートは書いたことがない。一応ランナー、坪井伸吾


報告者のひとこと

最近、報告会にやってくる人たちは、すっかり上品でおとなしい人たちばかりになってしまったのだろうか

■伝えたいことが果たしてうまく伝わったのだろうか? 報告を終えたと同時にそうおもった。なぜなら自分の発する辛辣な言葉や考えに対して、あからさまに嫌悪感をいだく人を当日の会場で見かけなかったから。たかだか趣味のためにそこまでリスクを犯す価値があるのだろうか、といった保守的なチンチクリンからの反論めいた意見も予測していたが皆無だった。拍子抜けした。

◆喜怒哀楽のうちどれかの反応があれば、商品としての価値はさておき、すくなくとも表現としては成功したといえる。反対意見は熟思する機会を与えてくれる。それによって、以前にも増して自分を貫くようになるのかもしれない。あるいは新たなる視座に気づかされるのかもしれない。反対意見は、つねに何らかの進展がある。ぶつかるほどに得るものは多い。

◆でも無反応というのは、祭りのあとの寂しさにも似ている。いや自分の発表に祭りのような華やかさはないので、お通夜のあとの沈黙といったほうがいいかもしれない。2次会でも3次会でもアルコールがいくら入っても、荒波も立たず誰ともぶつかることなく静かに終わってしまった。

◆最近の地平線会議の報告会にやってくる人たちは、すっかり上品でおとなしい人たちばかりになってしまったのだろうか。わるくいえば覇気がなく老成した人たちの集まりになってしまったのだろうか。あるいは自分自身の角(かど)が年齢とともに取れてしまったのだろうか。自分のなかの勢いが衰えて、毒にも薬にもならないもはやおしまいの人間へと堕落しはじめているのだろうか。自分のなかで何かが変わったのか。何を失ったのかしばらく考えてみたい。(田中幹也


地平線ポストから

気温差100℃への挑戦

■僕にとっては初めてとなる地平線会議の報告会、僕自身も徒歩や自転車で厳冬季北極圏を冒険しているが僕の冒険への原動力の1つが今回の報告者田中幹也さんへの憧れであり、そういった意味でも今回の報告会は楽しみにしていた。

◆報告会では1枚1枚の写真をスライドさせながら解説していく幹也さん、大げさに語る訳でもオーバーアクションをする訳でもなく本当に淡々と語っていたがその淡々とした語りに僕はどんどん引き込まれていった。きっと僕だけでなくあの時会場にいた全員が幹也さんの一語一語に引き込まれていたんじゃないだろうか(夜勤明けで寝て無くて報告会開始前まで猛烈に眠かったが幹也さんの話を聞いていたら眠気が一気に吹き飛びました。笑)。

◆印象的だったのは幹也さんの従来の常識に囚われない冒険論。厳冬のロッキー山脈を自転車で走ってしまい、そしてそんな過酷な冒険をしているのに夕食は具無しのインスタントラーメン2つだけだったり。サプリメントだビタミン剤だカロリー計算だと言った言葉が常識になり、一般的になった現在の冒険界だがそんな言葉を一気に吹き飛ばしてくれそうな幹也さんの痛快な言葉。

◆しかし本来冒険には常識もマニュアルも無いのではないだろうか? それがいつしか僕も含め冒険家達がありもしない常識に縛られていき、結果的に冒険から独創性や自由が無くなっていっているように思う。だからこそ常識に囚われず独創的な幹也さんの冒険の話は本当に魅力的で、何より聞いてる人間をワクワクさせてくれる。

◆そして後半には江本さんと幹也さん御二人から御紹介を頂き、僕も飛び入りで今までの冒険の経歴と現在計画している「自転車 真夏の砂漠デスバレー縦断 〜気温差100℃への挑戦〜」について御話させて頂きました。このデスバレーの冒険はタイトルのとおり、真夏の砂漠アメリカのデスバレーを自転車で縦断するという計画で、サブテーマとして「気温差100℃への挑戦」という事を掲げている。僕は近年マイナス50℃にもなる厳冬季北極圏で冒険を続けてきているが、今度の舞台真夏のデスバレーは1913年7月10日に56.7℃いう世界最高気温を記録している世界一熱い砂漠でその気温差は100℃以上にもなり、この気温差に挑戦したいと思っている。

◆ラスベガスを出発してデスバレーへ向かいルートの総距離は約1000キロ、出発は来月6月25日で帰国は7月21日になる予定である。距離と期間は自転車冒険としてはかなり短い方かも知れないけど僕自身最近は踏破距離の長さにはあまり興味は無く、それよりも密度の濃い冒険がしたいと思っているのでデスバレーという自然環境や気温差100℃への挑戦というのはまさに僕が求めている冒険であり、とてもやりがいを感じている。デスバレーへの出発を約1ヵ月後に控えた今、幹也さんの話を聞けてたくさんの良い刺激を頂けた。きっと次回も厳しい冒険になるだろうが僕が大好きな「自転車なんて漕げば進む、壊れたら押せばいい」という幹也さんの言葉を胸に進んで行きたいと思う。(関口裕樹 26才)

アドベンチャーレースを紹介します

■田中幹也さんの報告は、じわじわと引き込まれるものでした。幹也さんのおっとりとした語り口や、質問がでると「いやぁ、その辺りは適当に……、どうにかなってました」と実直に答えている姿が非常に魅力的でした。飾り気がなく、とても素直で素敵な人だなぁと感じてました。特に、食事は驚嘆することばかり。「そのメニューであんなに動けるの?!」と何度も思いました。

◆私は、アドベンチャーレーサーです。アドベンチャーレース(以下、AR)とは、山、川、海などの各地の自然をフィールドに、多種目なアウトドア競技をこなしながら、ゴールを目指すレースです。主な種目は、オリエンテーリングを伴うトレッキング、マウンテンバイク、シーカヤック、ラフティング、ロープワークなど。3名〜4名(男女含む)のチーム戦で行われます。国内では1日〜3日間、海外では10日前後のレースもあります。夜間行動もあります。また、国内では「チームチャレンジ」といって、チームで一つの課題をクリアしていくセクションもあります。これが、また堪らなく楽しいのです。

◆まだ2年目の初心者の分際ですが、ARの魅力について少々。まず、様々なアウトドアスポーツのスペシャリストの方と一緒にレースに出たり練習したりできることが楽しいです。色んな技術や素敵な考え方をもっている方々との出会いは刺激的で、私の人生を大きく変えてくれています。

◆次に、予期せぬことも楽しんでいける懐の深さがあること。「あれ、ここにポイントあるはずだけどないよ〜」とか、「あれ、尾根を一本間違えた! 本当はあっちの尾根だったぁ〜」と大急ぎで戻るとか、チームでクリアしていくのがまた面白いのです。一人では心が挫けてしまいそうな山の登りでも、仲間がいることで最後まで頑張れることが純粋に楽しくて嬉しいのです。

◆ゴール後、「苦しかったけど、本当に頑張ってよかったな。楽しかったな」と思えるようなレースをしたいと常に思っています。苦しい時やきつい時は遠慮なく言いますし、チームメンバーも察してくれます。そうすると、私を押してくれたり牽引してくれたりします。その結果、チームの進むスピードが上がるので目標達成に近づくことができます。「チームにとって一番良いのは」という視点で考えることができることも、ARの魅力なのです。(杉田明日香 28才)

「さえずりの谷」の主、逝く

■八幡明彦さんは5月31日12時すぎ、宮城県南三陸町歌津寄木の国道45号線をワゴン車で走行中、対向してきた12tトラックと正面衝突して救急搬送されたが、間もなく全身打撲で死亡した。現場は見通しのよい直線路で、志津川署の発表によれば八幡さんがセンターラインを対向車線へはみ出したのが事故の原因という。

◆ビオトープ管理士でクモ研究者の八幡さんは2011年6月、RQ市民災害救援センターに現地ボランティアとして参加。主に南三陸町歌津で活動し、「スパイダー」のニックネームで知られた。同年8月に歌津「さえずりの谷」で行われた子どもキャンプがきっかけで、RQの現地活動終了後も南三陸に移住し、「歌津てんぐのヤマ学校」を主宰して小中学生を対象とした自然教育に力を注いでいた。事故が起きた31日も午前中に子どもたちと観察会を行った帰りだった。

◆6月3日、歌津吉野沢で行われた「スパイダーを偲ぶ会」には200人を超える歌津の子どもたちや地元の人々が詰めかけた。雨の東京芝公園、聖アンデレ教会で5日夕に行われた通夜と6日の葬送式には南三陸の人々やRQの仲間のほか、「3.11」以前の彼を知る旧友たちが数百人も集まった。その顔ぶれは彼の目まぐるしい人生を象徴するように変化に富んでいた。

◆享年51歳。京大生の頃から弱き者のための活動に全力で取り組み、大きな挫折にも出会った。子どもたちの前での底抜けの笑顔は、どん底を経験した人のそれではなかったか。熱い人を悼む。(落合大祐

追悼 ほんとうの仙人になってしまったスパイダー

■RQの現地本部だった鱒淵小の台所が一息つけるようになって、ぼくが外へ活動にでられるようになった頃から、歌津でスパイダーと会話をするようになってました。それまではぼくもいそがしく、ときおり姿を見かけても忍者の出来損ないのような姿からなにをしているのかはなかなか想像が付きにくく。「ま、いろいろいるからな」と、あまり詮索せずに横目で伺うていどでした。

◆調理がらみの活動で歌津へひさびさに向かって、むこうで何日か過ごしているうちに夜間に谷からあがってくるスパイダーと飲んでだらだら話をしてるうちに仲良くなったのを憶えています。手持ちのすべてを使いまわす、自分でやれるかぎりは可能なかぎりつくる(たまにはズルもする)といったDIY的な体質や、修験や神仙への憧れといった東アジア的な思想観で共通のものがあったのかなと。

◆モノホンの仙人になってしまったいまではわかんないけど、そんなふうにおもってます。合掌。(たいしょー 丸山寛 RQで長期間キッチンを担当)

自分に課せられた使命

■東日本大震災から3年3か月。町の全域が「避難指示解除準備区域」に指定されている我が故郷の福島県楢葉町は、「来春の2015年4月以降の帰還を目指す」という帰町宣言が5月29日に発表されました。長引く避難生活の先が見えてきた感があり、一つの節目となる発表であったと思います。

◆震災後、あっという間の3年間でした。2011年4月22日には「警戒区域」に指定され、自宅への立入りが一切出来なくなりました。その前日に持ち出せるだけ家財を詰め込んだ車で家を出る際、「次に家に来れるのはいつになるのか……」と失望と不安を感じたことを強く思い出します。検問所から自宅まではほんの数百mの距離なのに、「なんでこの先に行けないのか……」、本当に悔しい思いでした。強盗に家を荒らされたのもその時期でした。

◆震災から1年6か月が経過した、2012年8月10日には警戒区域から「避難指示解除準備区域」へ変更となり、ようやく日中の自宅への行き来が出来るようになりました。この時は本当に嬉しかったです。地震により家屋の損傷はあったものの、片付けや修繕作業を少しずつ進めることが出来ました。また、2014年の正月には特例宿泊が認められ、2年9か月振りに自宅で正月を迎えることができました。周囲で戻ってきた家族は1〜2軒程度で、ひっそりとしていましたが、久々の自宅での正月はやはり気持ち的にのんびりとできました。

◆この度の帰町宣言を受け、6月1日には不通となっていた常磐線の広野駅〜竜田駅間が再開通しました。我が家から田んぼ越しに線路が見えるのですが、久々に走る電車を見て、胸が一杯になる気持ちでした。今後、帰町に向けた取り組みが加速されていくことと思いますが、3年以上の時間が経過して、避難先での生活基盤が整いつつある中、帰町の意識が薄らいできているとの声も一部あります。

◆商業施設、学校、仕事や病院等の社会基盤の準備がこれからですので、町に戻って生活を立て直すことが現実は難しい部分があるのも事実です。そして何より1F(福島第一原発)の安全性確保、汚染水対策、除染対策等、万全の体制が整っている状況ではありません。今後の楢葉町は原発の廃炉作業に拘る最前基地的な役割を担うようになると思います。

◆正直なところ、震災前の地域コニュニティーを取り戻すのは困難であるとは思います。でも、私自身は故郷に戻り、これからの福島県の浜通りを再建していく、その一助として様々な仕事に携わっていくことが、自身に課せられた使命のように感じています。(渡辺哲

アマゾンいのち

■アマゾンや旅のコミックエッセイを描いている、河村太郎と申します。地平線会議のことは、朝日小学生新聞の今井尚さんから、以前から聞いておりましたが、昨年まで北海道に住んでいましたので、やっと参加できた次第です。

◆私は、20代から普通のバックパッカー旅行で、アジア、アフリカ、南米などを周りました。中でもペルーのアマゾンの村で経験したことは、それまでの旅行での体験よりもはるかに刺激的で、何より楽しくて仕方がありませんでした。これまでに7度南米に行き(一回だいたい二か月から半年の期間です)、そのうちの多くの時間をアマゾン地域で過ごしています。

◆アマゾンでは、動物は狩の対象であり、愛玩動物としてもよく飼われています。そのおかげで、実際に動物に触ったり食べたりすることができます。動物を知るには触ったり、一緒に遊んでみたりすることはとても大事だと思いますが、アフリカではそれができません。それは、アフリカの動物は厳しく管理されているのと、大型で危険だからです。アマゾンの動物は変わり者が多いことも魅力のひとつです。

◆はじめはとにかくアマゾンの動物の写真が撮りたいという一心でしたが、それが長く村に滞在するにつれて、自然と知り合いも増え、彼らと話し、生活することも目的のひとつとなりました。ペルーアマゾン地域は治安がいいことや、スペイン語ひとつで会話できる点も、私がアマゾンに行く理由です。

◆今、私が目標として取り組んでいるのは、テレビで見るアマゾンの、何十年も変わらないイメージ先行の姿でなく、本当のアマゾンをたくさんの人たちに知ってもらいたいということです。私が行く村は、血統的には先住民ですが、(裸で原始的な生活を送っている、みたいな)テレビに登場する先住民とは異なって、実際は服も着ているし、テレビも見るし、ビールも好きだし、普通の人々です。なのに、テレビで紹介するのは、昔の暮らしのスタイルが強調されている先住民のことばかりで、そこが私にはひっかかります。“普通の人々”の生活や文化にしても、日本人からしたら面白いことはたくさんあり、それを紹介できたらいいなと思っています。

◆なぜコミックエッセイという形を選んだかと言えば、文章がうまくないことと、多くの人が気楽に読めるからです。また、アマゾンの話だけでなく、アジアやアフリカなどの話も、私が描くのは、だいたい旅の小さなくだらない話ですが、そんなのを読んで、「自分もこんな旅をしてみたいな」なんて、若い人たちが思ってくれたらいい、と思って描いています。(河村太郎 39才)

『犬と、走る』増刷間近か!

■4月25日の地平線報告会で出版をお祝いした、カナダ在住のマッシャー(犬ぞり師)本多有香さん初の著書『犬と、走る』。「週刊プレイボーイ」の見開き記事を皮切りに、朝日、読売、毎日各紙をはじめ全国地方紙、朝日小学生新聞、雑誌にてインタビュー記事や書評が続々掲載されています。6月半ばには「岳人」「山と溪谷」「望星」でも紹介予定で、反響も大きく、増刷間近と思われます!

◆さて、刊行にあわせた来日で1週間休みをとったため、清掃の仕事を干されてしまった本多さん。深夜のワックスがけなど短時間の仕事しか得られず、「暇が多くて先行き不安です」ともらしていました。しかし

「いつもなんとかなるからなんとかなるっす!」という根拠のない前向きな言葉のとおり、次第に状況が好転。またフルタイムで働けるようになり、昇格もしたそうです。

◆もうすぐ夏用ドッグフード(51ドル×50袋、全部で約1トン)をまとめ買いする時期。さらに秋からはかつてアラスカで使っていた「カリブークリークゴールド」という質の良い餌に変える計画をたてているとか。目下の課題は、貴重な餌を狙い食べ散らかしに来るネズミ対策! わなを仕掛けて格闘するものの、敵は林の奥にわんさかいるので手強そうです……。

◆もろもろの用事でこれまでほぼ毎年日本に来ていた本多さんですが、このあとの来日が何年後になるかはまだわからないとのこと。26匹の犬たちもそれぞれの個性を発揮し元気に成長中で、本多さんの頭のなかには次なるレース挑戦の青写真がいっぱいに広がっているに違いありません!(大西夏奈子


【通信費とカンパをありがとうございました】

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください(先月も2人の方の名の記載漏れあり)。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。

★岩野祥子(4000円) 白鹿公美 中村易世 奥田啓司 水落公明(3000円 いつも地平線通信をお送りいただきありがとうございます。運動不足解消を兼ねて、ハイキング気分で筑波山を登り下りしてきましたが、翌日足がパンパンにはって湿布のお世話に。1000円はカンパということで!!)  和田美津子  滝村英之  北村昌之(いつもお世話になっています) 後藤正(4000円) 山中俊幸(10000円。少なくとも5年間は通信を読めますように!) 庭野愛子 小林祐一 斉藤孝昭(10000円 5年分) 阿佐昭子(5000円 ご無沙汰しております。報告会にも参加できず、残念。爆発寸前です。通信費13年と14年分と、ちょっぴりカンパです)。


マカルー登頂日記 石川直樹

ヒマラヤのマカルーという山に登ってきた。標高は8463 メートル、世界第5位の標高を誇る高峰である。

昨年秋、アマダブラムに行った際、そのアプローチの段階で、マカルーを間近に眺めた。あのとき湧き出した「この山に登りたい!」という気持ちが今回の登山の出発点にある。

そして、偶然も重なった。もう何度も参加しているヒマラヤン・エクスペリエンス隊(通称HIMEX隊)が、初めてマカルーに隊を出すというのだ。これは参加するしかない、と思い、今春マカルーに行ってきた。エベレストはご存じのように閉山してしまったが、隣のマカルーは平穏そのものだった。以下に登頂日からその後のことについて書いた日記を掲載する。

 ★    ★    ★    ★

2014年5月24日、マカルーの最終第4キャンプ。その日は17時頃に寝袋に入り、20時30分頃に起きた。仮眠程度の睡眠をとった。

22時頃、ヘッドランプを頭に装着して、最終キャンプのテントから出た。サミットプッシュの相棒は30歳のシェルパ、パサン君である。外にいたパサンと歩き出す。

フレンチ・クーロワールの入口までは暗かったせいもあるが、迷路のようにも思えた。雪があるところはいいが、ガリッガリの固い氷の場所もあり、急斜面をトラバースする際は、だいぶ気を遣った。クーロワールの手前になだらかな雪の斜面があり、だらだらとした登りが続く。そこが案外、つらかった。が、ぼくはここで仲間のレネとジェイコブとセルゲイを追い抜かし、他の隊の登山者も追い越して、HIMEX隊の先頭に立った。

この頃から、シェルパのパサン君が遅れ気味になる。フレンチ・クーロワールの入口はわかりやすかった。突然岩場になり垂直な通路が現れたので、暗くてもここからクーロワールがはじまることはすぐにわかった。他の隊の数人がすでにクーロワールに取り付いている。その後を追うのだが、時々上から小さな石を落としてくる。上から「ローック」と大声がしたので見上げると、こぶし大の石がぼくの横を通り過ぎていた。(こんなところで石おとすなよ……。死んじゃうじゃねえか……)と悪態を心の中でつきながら、この隊の直後は危険だと判断し、ペースを落とした。とにかくもろい岩場で、あっちこっちが崩れかけている。

クーロワールのフィックスロープは、張り方が非常に雑で、「ないよりマシ」という程度のものだった。このあたりからフィックスのない場所が多くなっていく。

クーロワールを出て、稜線に出た。空には無数の星が瞬いている。稜線に出てからほんの数十分歩いたところで、向こうに尖った岩場が見えた。早くにマカルーに登頂した人々が「ここが頂上かと思ったらニセ頂上で、最後はそれの連続だったよ」と聞かされていたので、あれもニセ頂上の一つだろう、と思っていた。まだまだ頂への道は遠い、と。

稜線上にもフィックスはなく、足元は氷の斜面だったので、気が抜けなかった。この頃になると、シェルパのパサン君はだいぶ遅れるようになり、ぼくは一人で登っていた。パサン君は8000メートル以上に登った経験がない。最高標高はエベレストのサウスコルとローツェのC4である。経験がないのでやむをえないが、他のメンバーに付いたシェルパはきちんと二人一緒になって登ってくるのに、うちのシェルパはどうなってんだ、と多少落胆しつつ、その岩場の下でパサン君を待った。

パサン君が来る前に、仲間のセルゲイが来て、ハイジがやってきた。セルゲイについているシェルパのタシが、「あれが頂上だよ」と言う。「え、マジで? あれ本当に頂上?」ぼくは聞き返す。タシはマカルーに登ったことがないのに、なぜあれが頂上であると言い切れるのか、本当かよ、と思った。しかし、あれは本当の頂上だった。稜線に出てからあっという間に着いてしまった。

セルゲイとタシ、ハイジとペンバの四人が、ぼくより先に頂上直下の岩場に取り付いた。ようやくパサン君がやってくる。「おれのアイゼン、全然効かないんだ。危ないよ」と彼は言う。確かに爪がだいぶ削れて丸くなっており、最後の稜線の青氷の上を行くときは注意を要しただろう。

セルゲイ、ハイジらに続いて、ぼくたちも岩場に取り付いたものの、あたりは真っ暗だ。このまま頂上に立っても写真が撮れないと思い、せまい頂上まで行かずに、手前の雪庇近くで、日の出を待つことにした。

ここまで6時間。5月25日の朝4時になるかならないかの時間だった。気温はマイナス25度くらいだろうか。登っていればその寒さをほとんど感じないが、動かずにじっとしていると、つま先が痛くなってくる。ぼくは固く引き締まった雪を登山靴で何度も蹴り上げて、寒さを和らげる努力をした。

パサン君はおもむろにタバコを取りだし、「寒いからタバコ吸ってもいい?」とぼくに聞く。「いや、タバコ吸っても暖かくならないでしょ」とか「え、ここでタバコ吸う?」とか「タバコとマッチが胸ポケットに入ってるって、あんた……」とか色々思うことがあったが、「もちろんいいよ」と答えた。この8400メートルの日の出待ちの状態という極限状態で、わざわざ「タバコ吸ってもいい?」とぼくに断りを入れてくるパサン君は、心底いい奴だ、と思った。ここまでだいぶ遅れ、クーロワールから先はほとんど一人で登ってきたけれど、それを帳消しにする、パサン君のエクストリーム喫煙であった。

 

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」

寺山修司の歌が頭に浮かぶ。パサン君はシルエットになり、その後ろの水平線がオレンジ色になっているのが見えた。霧なんてなかったが、パサン君がマッチを擦った途端に水平線がオレンジ色になった気がしたのだ。日の出は近い。

パサン君は世界最高所での喫煙記録を作ったんじゃないだろうか。最後まで見ていなかったが、きっと吸い殻はポイ捨てしたのだろう。あの崖っぷちから捨てられたタバコの吸い殻はチベット側に落ちたのか、それともネパール側に落ちたのか……そんなどうでもいいことを考えた。雪庇の上には、パサン君のヤニまじりの痰の跡があった。

寒すぎる。「もうこれ以上じっとしていられない」と思った時、後ろから光が差し始めた。太陽が昇ってきたのである。

頂上までよじ登って、パサン君と握手をした。ぼくは持っていたフジのGF670という中判カメラで四方を撮影したのだが、寒さで露出計が壊れ、動きがおかしかった。もう一つもってきたマミヤ7llもなんとか動いてくれたので、マミヤ7llでも四方を撮影した。さらにリコーのシータの電源を入れて、頂上で360度の写真を撮ったのだが、これは後で確認するとなぜか撮れていなかった。超低温のせいだろう。フィルムカメラで四方を撮影できたのはよかったが、登頂証明となる自分自身が写った写真がないなあ……と思って困惑していると、仲間の一人がiPhoneで写真を撮ってくれた。8463メートルの頂上に携帯電話をもってくる彼もすごいが、そこで難なく動いたiPhoneもすごい。その仲間が撮ってくれた写真が自分の登頂記録となった。

赤いダウンのワンピースを着ているのが自分で、首にマミヤ7llをかけている。その手前にいるのが、一緒に登ってきたシェルパ族のパサン君である。とがった頂がすぐ左にあるのだが、それがきちんと写っていなくて残念だ。その代わり、右側にエベレストとローツェが双耳峰のように写っているのがわかるだろうか。エベレストとローツェのほうがマカルーよりも高いはずなのに、頂上から眺めた二つの山は、なぜか自分が立っている場所よりも低く見えた。

結局、頂上には一時間以上滞在したことになる。そして、急いで下山した。ぼくとセルゲイとハイジだけが、その日のうちに一気に標高5700メートルのABCまで戻った。ビリー、レネ、ジェイコブはC2泊。ガイドのスーザンは、詳細を省くが、なんと肺水腫になり、シェルパたちに手伝われて、夜中、ABCまで無理矢理下山した。一番元気だったスーザンだが、C3あたりから調子が悪くなり、嘔吐を繰り返していた。それでもガイドの意地で登頂し、下山は本当に苦労したようだ。

ABCに降りたその日から大雪になり、数日間閉じ込められたものの、6月はじめには日本に帰国した。帰国してからも、しばらくは全身が痛かった。筋肉痛などではなく、もっとその奥にある筋というか、芯になるような部分がどこもかしこも痛いのだ。しかし、それも治りつつある。こうして高所の記憶は徐々に薄れていくのである。

鎧武者日本歩き旅、ついに3年目へ

3.11の被災地救援に駆けつけ、RQで長くボランティア活動をした山辺剣さん(通称「べっち」)が依然、鎧武者姿で歩き旅を続けている。最新の状況が8日夜、メールで届いた。(E)

■山辺です。僕はいま、石川県の七尾市にいます。旅に出てからはや2年。やっと南半分を歩き終えました。九州、四国を経て、3月21日に山口県下関市を出発。島根や鳥取など、日本海側を歩き、約2か月で北陸まで来ました。本州は割と道路状況がいいので、一日に歩ける距離が伸びました。このペースだと、夏には北海道に上陸出来そうです。

◆そのまま北海道でバイトしながら越冬。雪解けと共に南下を始めようと考えています。かなり資金が減っているので、働かないとキビシイです。これまで予定通りに進めた事がない旅なので、どうなるかわかりませんが、無事に生きて帰ろうと思います。(6月8日 山辺剣)

★べっちは、5月8日、豊岡市の植村直己冒険館に現れたらしい。その時のことを冒険館のウェブサイトが、鎧姿の写真とともに次のように掲載している。

[“ひとり大名「鎧武者」”という肩書の書かれた名刺を差し出された山辺 剣(やまべ けん)さん。歴史好きの山辺さんは以前、山梨県で行われた戦国イベントに参加、甲冑(かっちゅう)の魅力にとりつかれ、大阪城などに通って本物の甲冑を研究、ホームセンターなどで材料を集め、硬質紙や金具を使って自作の甲冑を完成させました。

◆もともと旅が好きだった山辺さんは25才頃には海外を自転車で回った経験もあり、自作の甲冑を日本中の城で着たい!と思い立ち、旅に出ることに……。2012年5月8日、台車に甲冑一式と旅の装備約30キロを乗せて(写真上)自宅を出発。大阪城を出陣の地とし、旅が始まりました。兵庫の自宅を出発、姫路〜山口〜下関、九州〜沖縄へ。数々の離島を回り、九州〜四国を経て日本海側を通り上中です(以下略)]


今月の窓

〜山の雑誌『岳人』の役割を考える〜

 商標権譲渡という形で「岳人」の発行母体が9月号からモンベルに移る。実は昨年12月のツンドラの旅報告の時には、「休刊」することが決まっていた。バラしてしまおうかと思ったのだが、主題とずれるので黙っていた。私はモンベル「岳人」にも編集スタッフとして加わることになっている。

 登山用品メーカーが伝統ある山岳雑誌の発行母体になることについては賛否両論あるようだ。耳に入ってくるのは「否」のほうが多い。メーカー(商売人)に登山の本質を伝えることなどできるか? というところが、多くの人が不安に思うところなのだろう。

 「登山の本質」という、わかったようでわからないことを発信し続けることが「岳人」の役割だと私も考えている。他のメディアにそれをできるものは見当たらない。

「人命は何よりも優先する」というのは登山においては当てはまらない。登山者は想定されるリスクを受け入れてもなお、そこに価値のある何かがあると信じて山に向かう。時に命の危険があるとわかっていて、登山者が山に行く自由を許されているのは、自由意思で山に向かい、自力で下山してくるという大前提があるからだ。

 遭難死した登山者のザックの中から私の執筆したルートガイド記事が出てきたことがある。私が「岳人」で紹介した山スキーのルートで雪崩事故があったこともある。もちろん私にお咎めはないし、責任を感じたこともない。自由意思で山に入った登山者に敬意を払うなら、責任があると考えること自体、失礼な話だ。

 登山は自由である。なにをどう考えて山に登るかも自由だ。だから個人の意見としてひとりの登山愛好家が「命が一番大事」だと思っているのはかまわない。近年、遭難した登山者を助けるためのヘリコプターが問題になっている。足の骨を折ってしまったらヘリコプターに乗りたいと考えるのも、それぞれの自由である。だが山岳メディアが「命最優先」を登山の本質のように伝えることは登山文化を壊すことになる。

 本来登山者側が救助ヘリコプターの是非に関して、何かを言うことは許されない。自力下山が大前提であり、救助ヘリコプターは本来登山には存在しない要素だからだ。

社会が遭難者を助けるのは、国が国民を助けるというレベルの問題で、実は登山の問題ではないのである。だが山岳雑誌の中でさえ、救助されるのを恥だと思う必要はないという論調がみられるようになってしまった。

 死にたくないのは当たり前。「よりよく生きる」ためにフィールドに向かうということでは、登山者は平均的な人間より生きることに関して欲張りだと言ってもいい。

「安全第一」では登山は成り立たない。危険、というよりは、山が人間の思い通りにならないフィールドだからこそ登山も探検も面白いのだ。クライミングでは過度の安全のためにボルトを設置することは許されていない。ボルトは煎じつめればクライミングにおいて妥協の産物であり、なければないほうがいいというコンセンサスができあがっている。だが、登山は違う。チャレンジからレジャーまでいろいろな人がいろいろな思いで山に入るからだ。繰り返しになるが登山においては、安全は最優先ではない。安全を優先したら山に道路を作ったり、ロープウェイをかけたり、登山禁止にすることさえ筋が通ってしまう。安全優先主義は、登山を壊すのだ。

 これからも登山者の自主自立、自分の命を賭してもチャレンジすることの価値に関して、「岳人」で主張し続けていきたいと思う。そういうわけで、しばらくはモンベル「岳人」も温かく見守ってください。(服部文祥

田中幹也さんの植村直己冒険賞受賞式

「植村直己冒険賞」の授賞式が6月7日午後、兵庫県豊岡市の日高文化体育館で行われ、会場は日高西中、日高東中の生徒など750人で満席となった。中貝宗治市長の挨拶、選考委員の西木正明さんの講評の後、受賞者の田中幹也さんに冒険賞メダルと盾、副賞として賞金100万円の目録が授与された。記念講演は「厳冬季カナダを生き抜く―雪と氷の2万2千キロ踏破―」とのテーマで地平線会議の江本が聞き役となるかたちで行われた。会場には田中さんの上司、駆けつけた東京の「スカイブルーサービス」の加藤孝幸社長が紹介され、高層ビルの窓ガラス拭きの仕事が語られる珍しい場面もあった。(E


【先月号の発送請負人】

★先月の「あとがき」で書きましたが、地平線通信421号は、通信のレイアウト担当の森井祐介さんが心臓のバイパス手術を受けたため、「水増し号」編集長として実績を持つ加藤千晶さんを軸に新人の福田晴子さんにも助っ人を頼み、10ページの通信を完成させました。作業に馳せ参じてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。いつも印刷に汗かいてくれる車谷、松崎両兄にも特別感謝です。
 加藤千晶 松澤亮 車谷建太 福田晴子 江本嘉伸 前田庄司 落合大祐 石原玲 大西夏奈子 村松直美 杉山貴章 日野和子 武田力(最後の2人は「北京」から)


あとがき

■今号も、加藤千晶さん、福田晴子さんにレイアウトをお願いして422回目の地平線通信を発行することができた。力を尽くしてくれた2人に感謝する。本来のレイアウト担当局長の森井祐介さんは、10時間に及んだ心臓バイパス大手術を無事終え、今月3日退院した。見たところは、かなりお元気なのだが、まだまだ長いリバビリ期間が続くので、ムリはできない。安心してご養生を、とお願いします。

◆この国会で2016年以降毎年「8月11日」を「山の日」とする「国民の祝日」改正法案が通った。感無量でしたね。「日本に山の日を!」は、2002年、私が事務局長をつとめた「国際山岳年」日本委員会が提起したスローガンだったから。地平線の人にはほとんど話していないが、2002年を軸とした前後5年は、私にとっては嵐のような日々でした。その中核となる仕事が山の日の制定を訴えた「富士山からのメッセージ」でした。

◆英訳したそのメッセージをフランスのシャンベリーでの「総括会合」に持って行き、各国代表の前で読み上げたものです。「mountainは、日本語ではYAMAと言います。この言葉を覚えてください」などと。その後、私自身は後方支援の立場でしたが、山岳団体が再び動き出し、政治家たちを巻き込み、短時間で法案成立に漕ぎ着けました。妙な感じです。あれほど苦労したものがあっという間に通ってしまったのだから。皆さん、覚えていてくださいね。「山の日」という祝日ができたことを。

◆間もなく、ワールドカップ。7月の地平線報告会は事情あって18日の第3金曜日に行います。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ATK(アタック)48・北極ヘビー・ローテーション

  • 6月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「北極歩きは毎日が山頂(エベレスト)へのアタックみたいなもの。BCで一息つくことができないから、毎日しんどいんです」というのは北極冒険家の荻田泰永さん(36)。'00年に初めて北極圏を訪れて一目惚れ。以来毎年北極圏でハードな旅を重ねてきました。

'12年に日本人初の北極点単独無補給徒歩到達を目指しますが、予想外の広いリード(氷の割れ目)に阻まれ、17日目で撤退しました。近年の北極は気象の変化で海氷が減少しています。

二度目の挑戦となった今年'14年3月の旅では数10mのリードはドライスーツを着て泳いでクリア。しかし乱氷帯とブリザードで日程を消耗します。途中から食料を10〜15%ずつ節約しますが、行動48日目で撤退判断。

あと17日の行程予測でしたが、食料は12日分しかありませんでした。「ゴールはハナクソほじりながら余裕でしたい」という荻田さんに、今年の旅の模様と北極最新事情を語って頂きます。


地平線通信 422号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:加藤千晶 福田晴子/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年6月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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