2015年2月の地平線通信

2月の地平線通信・430号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月14日。東京の気温は、4℃。今もつい2週間前のことが信じられない。1月31日昼前、サイレント・モードにしてテーブルに置いたガラケーがふるえた。発信名を見て、白寿のお祝いの日取りが固まったのかな? と、受信マークを押す。菊子さんの父上の野元甚蔵さんは3月22日に満98才になる。数えで99才なので、ご家族は3月か5月の連休あたりに白寿のお祝いを、と考え、私にはそのことを伝えてくれていた。しかし、電話の向こうからの言葉は、思いがけないものだった。「父が亡くなりました……」。

◆風邪で入院したのが1週間前。なんとインフルエンザとわかり、一時隔離状態に。家族もほぼ会えない状態で一度は持ち直したものの持病の呼吸器障害が悪化し、1月31日午前9時36分、呼吸不全で逝去された……。男2人、娘2人の4人の子どもたちが最期には間に合った、ことがせめて、だった。

◆現代史の中で特別な役割のあった人だ。気を取り直しておもだった新聞に訃報を伝え、翌2月1日、薩摩半島の南端の指宿市山川(やまがわ)の、懐かしい野元さんの家に駆けつけた。妻の幸子さんの遺影が微笑む居間で、野元さんは、実に穏やかないい顔をされて眠っていた。そのお顔を見た瞬間、どっと熱いものがほとばしった。訪れるたび、いつも2人だけになると野元さんはしげしげと私の顔を見つめて、嬉しそうに言ったものだ。「こうして江本さんと何度も何度もお会いできるのも、つくづく縁ですねえ」。その声と柔和な笑顔が、もうない。

◆町の斎場で営まれた通夜には300人を越える人が詰めかけた。人口が多いとはいえない土地柄でこれだけの人々が来てくれたのは、故人の人徳であろう。ダライ・ラマ法王日本代表部からのものを含め花や、果物などで会場はいっぱいとなった。野元甚蔵さんは、09年、10年の2回にわたり、報告者として地平線会議の場に登場してくれている。滅多に遠出しない人が92才、93才の高齢を押して遠路東京まで来てくださったことを私たちは忘れない。その思いで「地平線会議」の名で生花を飾らせていただいた。

◆頼まれた「弔辞」は、つい長くなってしまった。その中で、野元さんのおかげで、自分が山川というこの地の素晴らしさを知ったこと、東京の、地平線会議というネットワークの若い人たちが野元甚蔵さんのことをけして忘れないだろう、ということ、そして何よりも野元さんがこの本を書き上げてくれたことの意味がどれほど大きかったか、ということなど著書『チベット潜行 1939』(悠々社刊 2001年)を手に、思いを語らせてもらった。

◆初めてお目にかかったのは、1991年1月20日、東京・三田の仏教伝道協会センタービル会議室でだった。チベット研究会に招かれ、「潜入記 戦前の鎖国チベットへ」というタイトルで講演をされたのだ。背広にネクタイを締め、マイク片手に姿勢を正して語る姿は、いかにも校長先生か町の教育委員、といった雰囲気。穏やかでいまと変わらぬ、控えめな話しぶりだった。

◆明治、大正、昭和にかけてチベットに潜入した10人の日本人のことを調べていた私は、パーティーになってから野元さんをつかまえた。野元さんはどんな質問にも答えてくれ、是非続きを鹿児島で、とお願いしたらそういうことだったら構いませんよ、と言ってくださった。以来四半世紀、薩摩半島の南端にある野元甚蔵さんの山川に私は通い続けている。

◆取材の仕事が終ってからも、そこへ行くのがただ楽しくて毎年、必ずお宅にお邪魔するようになっていた。ご家族みんなが受け入れてくださり、とりわけ夏休み、孫たちとの交流が楽しかった。太平洋からいきなりそびえる美しい開聞岳に何度も登り、美しい熱帯魚が泳ぐ海に潜り(次男・龍二さんの三男、小学生の沖君=ふかし=が良き先生だった)、野元さんと集落の銭湯(なかなか入れない熱い湯だった)にご一緒し、野趣溢れる流しソーメンを皆で食べに行ったりした。近くの砂蒸し温泉で砂に埋まって開聞岳の夕暮れを楽しむ贅沢は毎度のことだった。野元甚蔵さん家族として地区の運動会に出たことだってある。

◆長男啓一さんの3人の娘さんたちとも友だちになり、愛知県のお宅に何度もお邪魔した。まさに第2の故郷、家族を得た気分だった。野元さんご家族のあたたかさは、甚蔵さんの人柄だが、幸子夫人(20年前に亡くなられた)の遺伝子も大きい、と感じている。野元4兄妹はそろって達筆で毎年いただく賀状の字の美しさにはほれぼれするが、これは小学校教師だった幸子さんの成果であるらしい。書道家でもある妹思いの長女・蓉子さんは「筆を持たされて字の決まりごとはしっかり覚えるまで練習させられましたよ」と、振り返る。

◆今にして思えば、初めてお会いしたあの時、野元さんはいまの私と同年齢だった。野元さん、心から、ありがとうございました。あなたの生きた時間をゆっくり追わせてもらいます。(江本嘉伸


先月の報告会から

キューバの呪い

白根全

2015年1月23日  榎町地域センター

■2014年12月17日、1961年以来54年ぶりに、アメリカがキューバとの国交回復を宣言した。この報道の瞬間に決定した今回の登壇者は、1989年からキューバに29回渡航している白根全氏だ。キューバの魔力に憑りつかれ、キューリとバナナを見ても「キューバ」を連想してしまう「キューバの呪い」にはまったという全さん。症状の一つに、「キューバを知らずして世界を語るべからず」と言いたくなることがあるという。

◆キューバを知るにはまず、「歴史」の把握が欠かせない。1492年にコロンブスが第一回目の航海でカリブ海の島々を「発見」。キューバにはさっそくサトウキビが持ち込まれ、ひたすらスペインのための「砂糖工場」となる。こき使われた先住民は、外来の病原菌などによってほぼ全滅。かわりの労働力に、奴隷貿易でアフリカから黒人が連れて来られた。

◆19世紀末になり、キューバが誇る詩人ホセ・マルティの指揮で独立闘争が起きるが、米国がこれに介入。1902年に独立したものの、米国の傀儡政権に支配された。首都ハバナは米国マフィアが牛耳る賭博、麻薬、売春の温床となり、独裁者バチスタがその上前で私腹を肥やしていた。

◆この腐敗に「許せん」と立ち上がったのが、若き弁護士、フィデル・カストロである。1953年、カストロはカーニバルのどさくさに紛れて武装蜂起を試みた。あえなく失敗して処刑されかけるが、裁判の際の自己弁護がかの有名な「歴史は私に無罪を宣告するであろう」という演説だ。全さんによると世に三大自己弁護がある。ネルソン・マンデラによるアパルトヘイトへの抗議、マハトマ・ガンディーによる英国のインド植民地支配の不当性の訴え、そしてこの時のカストロである。

◆恩赦を得たカストロはメキシコに亡命後、チェ・ゲバラに出会い、チェを含む82人の同志と再び打倒バチスタに向かった。返り討ちに遭いわずか12人しか生き残らなかったが、「これで勝った」と喜んだというのが「カストロのキャラそのもの」だ。ゲリラ戦の末、1959年、ついにバチスタは国外逃亡し、革命が成功した。砂糖成金たちはこぞってマイアミに亡命。今日に続く反カストロ勢力を形成する。米国はキューバとの国交を断絶した。

◆カストロが革命後に国内で最初にしたことは、農村の識字率向上だ。加えて、村々に電気を行き渡らせ、配給制度、無償の医療・教育制度を整えた。米国に経済封鎖を受けたキューバは、ソ連からの支援によってこうした社会保障を維持した。ところが、1991年にソ連崩壊。物資もエネルギーも断たれたキューバは、非常事態に追い込まれる。「この頃、キューバは半年でつぶれるだろうと世界中に言われていた。本当に町中で痩せた人が目立つような、そんな時代でした」。全さんが当時撮影した、「なんとか食わなきゃ」と車のタイヤをボートにして釣りに行く人々の写真がリアルである。

◆非常事態を生き延びるために政府が取った方策の一つが、中国からの自転車の大量輸入であった(江本氏は「そのころ北京から自転車がなくなった」と証言)。自転車はガソリンなしで動くし、健康に良く、排気ガスが出ないから環境にもいいというわけだ。また、テレビでは『おしん』が放映された。「あの日本ですらこんな時代があったんだから我慢してがんばれという宣伝」だ。視聴率はなんと98.5%。「みんな涙を浮かべながらマジになって見て、『おしん』の放映時間は町を歩いてる人がいないぐらい」だったという。

◆さらに、自給自足を目指して有機農業を導入。ベランダなどを利用し、都市部でほぼ自給できるまで広まった。とはいえ、経済は困窮を極めていた。亡命者は急増。国内に残った人も、1993年の夏、革命後初めての反政府暴動を起こす。全さんはその現場に居合わせた。石を投げ合ったり、外国人が泊まるホテルのガラスをぶち割ったりするのを目撃したという。不満が頂点に達したきっかけは、全さんが感じたところでは、停電で扇風機も使えない暑さだったとか。

◆政府はやむを得ず外貨所持を自由化し、次いで個人営業を認可。途端に、外国人にもらう数ドルのチップの価値が公務員の月給を超えた。「1989年には国営企業で働く従業員が94%だったが、2000年には80%弱にまで減る。なんとか平等を目指していたはずのキューバが、ずんずんと格差社会になっていく」。それでも政府は個人営業に制限を設け、なんとか格差を食い止めようとやりくりした。米国は、あくまで社会主義体制を維持するキューバと徹底的に対立した。

◆米国を敵に回したキューバは、世界各国への国際協力によって安全保障を築いてきた。たとえば、医療水準の高いキューバから途上国に医師を派遣したり、医学留学生を国費で受け入れたり、チェルノブイリで被爆した子どもを招待して治療するなどの支援を続けている。特に、ベネズエラのチャベス大統領は「カストロの弟子みたいな存在」で、関係が深かった。カストロはベネズエラの無医村に医師を派遣し、チャベスは原油を提供した。

◆こうして、経済封鎖に苦しめられながらも、医療や教育が無償で子どもが飢えない体制を貫いてきたキューバ。さて、米国はなぜ今、国交回復に踏み込んだのか。キューバを取り巻く情勢を見ると、米国では従来、「ヒゲのカストロがお隠れになるまで待ちの状態、カストロさえいなくなれば後は別に敵対する必要はない」という姿勢だった。しかし「アラブの春」に続き、CIAの工作のもと、SNSを使った「ハバナの春」が画策されていたことが2014年に発覚。同じ頃、カナダとバチカンの仲介による国交正常化交渉も秘密裡に進められていた。「キューバをつぶせ」という転覆活動と、「経済的にうまく利用しよう」という根回しが、同時に動いていたという。

◆一方、ロシアのプーチンは2014年夏にキューバを訪問。キューバの対外債務の9割方(約3兆1000億円)を帳消しにするかわり、キューバの軍事基地を再使用するという協定を結んだ。軍事偵察衛星打ち上げのモニターなど、キューバの地理はロシアにとって依然として利用価値があるのだ。中国の習近平もその2週間後にキューバを訪問し、港や鉄道への全額投資を申し出た。アメリカに対抗し、南米に経済的影響力を及ぼす拠点としてキューバを利用しようという狙いだ。

◆生臭い三つ巴の中での国交回復。今後キューバはどうなるのか。全さんによると、一つには、米国に亡命した元キューバ人が祖国に戻り、「この土地は俺のものだ」と主張し始めることが考えられる。すると、「キューバ政府がなんといおうと、とにかく半額でもいいから売ってやるというやつが必ず出て来る」ことになり、混乱が予想される。

◆また、キューバ人は「カリブ海のユダヤ人」といわれるほど商才に長け、コカコーラやケロッグなどの米国企業の経営者にはキューバ系が多いという。米国資本や観光客が増えれば、「否応なしに格差が広がる」。キューバではペソとCUC(外貨兌換券)の二重通貨制を取っているが、2015年2月からCUCの高額紙幣(40ドル相当)の流通が開始する。「どれだけの国民がこの変化についていけるのか」。スライドには、配給で提供されるバースデーケーキを囲んで無邪気に笑う人々が映し出された。

◆対外的には、米国のすぐ隣で帝国主義に抗って生き続けてきたキューバは、南米や世界の途上国の精神的・物理的な希望となってきた。南米の多くの国ではこの先5年は左派政権が続く見込みだが、もしキューバが米国にすり寄れば、周辺国から顰蹙を買う可能性もあるという。

◆さらに、全さんが特に気にするのは、黒人の立場だ。革命後のキューバは、人種差別を撤廃してきた。「それがこの先、黒人が初めて差別されるという経験をしていくのではないか」。米国では白人警官が無抵抗の黒人を殺害するような事件が起きている。もしそうした攻撃に晒されれば、「黒人が自分達を守る手段として社会主義を支持する」こともあり得ると全さんは考える。

◆キューバがこれまで体制を維持できたのは、カストロの絶大なカリスマの威力が大きい。「わりとユーモアたっぷりな愛すべきキャラ」だ。ただ一度、2000年に米国フォーブス誌がカストロを「個人資産を蓄えている世界の独裁者の長者番付」に挙げた時は、「頭から湯気出して激怒した」。「証明できたら俺はその場で辞任する」と怒鳴りまくった。それだけ清貧の人でもある。

◆2008年からは弟ラウルが政権を引き継いだが、「やっぱりカストロじゃなきゃ、というのはどうしようもなくある」と全さんは見る。「ネルソン・マンデラが亡くなった後、20世紀を生き抜いてきた巨人と名の付く政治家の最後の一人」だ。プーチンも習近平もカストロに会って目を潤ませていたという。日本の政治家でも「ガチガチな右の人が、カストロと握手するために何時間でも待った」。「そのぐらいとんでもない存在」である。

◆しかし、キューバにカストロの銅像は一つもない。「抜群の政治センス」により、個人崇拝を憲法で禁止しているのだ。チェ・ゲバラの銅像が一つあるだけ。カストロは体制維持の担当、英雄のアイコンはチェ、という役割分担だという。そのチェはボリビアで革命闘争に倒れたのだが、1997年に遺体が発掘され、キューバに返還された。恵谷治さんとともに追悼式を訪れた全さんが見たのは、小学生からお年寄りまで何万人という人がお別れに詰めかけ、棺を見送る姿だった。招集されたのではなく、自発的に並んでいたという。「それだけ慕われていたんですね」。

◆また、裏通りで撮ったキューバ人家族の写真を見ながら全さん曰く、「キューバの素敵なところは、子どもがみんな幸せそうだな、と」。他の南米諸国と決定的に違うのは、ストリートチルドレンもホームレスもいないこと。GDPが一人年間300ドルなどと言われるが、その数値には表れない教育や医療の恩恵も含めて正当に評価する必要があるはず、と全さんは指摘する。しかし、2014年に再訪すると、裏通りのキューバ人の家は半壊し、家族の半数はそれぞれ外国に亡命していた。コミュニティの維持すら難しくなっている現実もある。

◆これらを踏まえて全さんは、「充分ではないにしろ貧富の差を最低限に抑える努力をしてきたキューバは、これから先も世界のモデルとなり得る」、「儲かればオッケーという話になりがちな中で、それが全部ではないんだぞ、と身を持って示していてくれるキューバがどうしても気になる、というのが結局はキューバの呪いなわけですね」と語る。

◆「キューバ革命という存在、アメリカのすぐそばで革命を起こし、それをえんえんと維持し続け、アメリカに対抗し続けられてきたことを世界史の中でどう位置づけるべきなのか」。米国との国交回復がもたらす変化に注目し続ける必要があるという。

◆キューバは切り口によって見え方がまったく異なる国だ。語り手の目線が問われるだけに、話すのがつらくてしょうがないと漏らしていた全さん。最後に、「超レアもの」というカストロとヘミングウェイのツーショット生写真を「私の宝物」として紹介した。この時ばかりは楽しそうであった。(福田晴子 修論を出し終え、ホッとしたら風邪ひき)


報告者のひとこと

ますますキューバに呪われたような気がしてきた

■CIAが関与したカストロ暗殺計画は合計638回にも及び、もちろんそのすべては失敗や未遂に終わっている。「世界でもっとも生命を狙われた人物」として、2011年ギネスブックに掲載されたほどに憎まれた存在でありながら、そのカリスマ性はいまだ衰えることはない。引退してもなお、世界中に熱狂的なファンを持つ元・独裁者である。

◆キューバ革命政権をいち早く承認したのも、フィデルが革命成立後最初に訪れた国も実は米国だった。ホワイトハウスを訪問するが、アイゼンハワー大統領は「ゴルフの約束」を理由に会見をキャンセル。代わりに会談したニクソン副大統領を、「あの野郎、俺にコーヒー一杯出さなかった!」と罵り倒す。予約していたニューヨーク・ヒルトンは、一行の中に黒人がいることを理由に宿泊を拒絶。引っ越した先の黒人街ハーレムのホテルを夜中に訪ねてきたのは、誰あろうマルコムXであったことは、ほとんど知られていない。米国史上もっとも過激なブラック・カリスマとフィデルがその場で何を話したか、全貌が明らかになることはないだろう。フィデルにまつわる神話は、斯の如く尽きることはない。

◆米国による長年の経済封鎖を困窮の言い訳に使ってきたキューバも、経済的破綻が現実のものとなりつつあり、国交正常化という選択も時間の問題だった気はする。何か遠い世界の話に思えるが、キューバを日本に、米国を中国に、そして反カストロ勢力の拠点フロリダ半島を朝鮮半島に置き換えてみると、生臭いパワーポリティクスの現実が少しは見えてくるかも知れない。

◆昨年春から公式の場には姿を見せず、もうお隠れになっているのでは、などと噂されていたのはいつものこと。米国に擦り寄ったかに見せながら、社会主義体制の維持やグアンタナモ基地の返還、経済封鎖による損失の補償など、突然ハードルを上げて見せる。そのすぐ後の最大限の効果を狙ったタイミングで健在を示し、さらに神話に磨きをかけているようだ。「私の考えは借り物ではない。私は自分自身の独裁者であり、国民の奴隷である」とは、オリバー・ストーン監督のインタビューに応えた一言。こんな独裁者に政治されたかったとしみじみ思うのは、我らが現政権のあまりなひどさ故か。

◆なお、恒例のブックガイドは関連本が幅1メートルを越えているため、今回は省略。最後に、直前でポジスキャンを泣きついたインフル丸山氏に伏して感謝! (ZZz@カーニバルのエクアドル)

全さんの報告を聞いて蘇った

■1月の報告会に参加して、「キューバの呪い」と題する白根全さんのお話と、スクリーンに映し出される市井の人たちの写真を見ながら、44年前に初めてキューバに行った時以来の、様々な思いが頭をよぎった。私が最初にキューバに行ったのは、1971年のサトウキビ刈り奉仕隊に参加してのことだ。伝えられているようにアメリカとの国交が回復すれば、キューバにも大きな変化が起こるだろう。ここで、今や歴史の彼方に忘れられつつあるキビ刈りボランティアについて記しておきたい。本文でいう「カストロ」は、現在の国家評議会議長のラウル・カストロではなく、すべて兄の「フィデル・カストロ」です。

◆キューバは1963年に決定した経済政策で、70年の砂糖生産量を1,000万トンにする大きな目標を掲げていた。68年からは国民に大動員をかけたものの、達成は無理な状況だった。70年といえばゲバラがボリビアで斃れて間もない頃だ。キューバ革命に共鳴する外国人旅行者の中に、サトウキビ畑で汗を流す人が現れていた。これにカストロは目を付けた。

◆外国から大勢のボランティアに来てもらえば、キューバ国民ももっと働くようになるだろうと考え、世界に向かって支援を呼びかけたのである。呼応して集まったのは、欧米や日本、韓国などの若者である。国交のないアメリカからも、帰国して逮捕されるのを覚悟で参加した人がいた。外国人部隊は日本、韓国、カナダは国ごとで、西欧は全部一緒だったと思う。逮捕を覚悟で来てくれたアメリカ人は特別尊敬された。ただし、外国人ボランティアが一堂に会したのは、キビ刈り終了後の7.26の革命記念日の集会だけだった。

◆日本人部隊について詳しく話すと、日本キューバ文化交流研究所の呼びかけで、70年に50人、71年に35人、最後の72年に25人と、計3回、延べ110人の学生や労働者がキューバに渡った。1回目の参加者は全共闘系の学生が多かったが、次第に仕事を辞めて参加する人の割合が高くなっていった。ボランティアと言っても参加費が必要で往復の渡航費を含めて1人46万円。当時としてはかなり高かった。

◆短大で図書館学を学んだ私は当時29才、味の素という会社で8年仕事をしていた。待遇は悪くなかったが、冷房の効き過ぎで体調を崩したのをきっかけに、気候がいいところで、思い切り力仕事をしたい、という気持ちが強くなっていた。キューバ革命に共感したこともあり、思い切って会社を辞め、サトウキビ刈りを志願した。母親は大泣きして行くな、と止めたが決心は変わらなかった。

◆日本の部隊は「Hasta la Victoria Siempre(勝利の日まで永遠に、の意味。アフリカに行くチェがカストロに宛てた手紙の有名な最後の言葉)」という名称で、キューバ中部の広大なサトウキビ畑の中に作られたキャンプで、ほぼ同年齢のキューバ人と一緒に生活した。道具はマチェーテと呼ばれる刀のような刃物1本のみ。これを振り下ろして葉を切り落とし、幹を倒す。後に沖縄の与那国島でサトウキビ刈りをやったことがあるが、そこではカマで葉を払い、斧で幹を倒すやり方だった。

◆畑では、日本人とキューバ人がペアになって働いた。最初は背の高い順に並んで刈り、追い越されると順番を変わる。よく風が通るように仕事が早い人が風上に着くのだ。

◆食事は普通のキューバ食。朝はコチコチのフランスパンを特別甘いミルクコーヒーにつけて食べる。昼と夜はご飯とスープにおかず1種ときゅうり二切れ程度のサラダ。キューバ人も日本人も同じだ。といってもキャンプ内の話。キャンプでは蛋白源として肉、魚、豆類があったが、当時のキューバの食事は、肉はたまに配給があるだけ。政府は魚を食べるよう促していたが、キューバ人は好まなかったし、野菜もあまり食べようとしなかった。ともかく肉が出るとご機嫌だった。

◆キャンプでは私たちは同じ時間働き、同じ日程をこなした。昼休みはまずは昼寝。疲れてなければスペイン語を習ったり、日本語を教えたり、歌を歌ったり、楽器を奏でたり。休みの日にはキャンプに楽団が来て踊ったり、運動会や様々な催しを企画して交流した。月2回はキャンプの外に出かけ、工場、農場、学校、病院、保育所等を見学したり、観光や海水浴などをして過ごした。灼熱の太陽が照り付ける中、経験したことのない激しい労働に音を上げる人もいたが、若き日にこのような体験ができたことに、高齢者となった参加者は今、無条件で感謝し、いまも集まっては杯を交わしている。

◆では、キューバにとってこのサトウキビ刈り隊の成果はどうだったのか。結局砂糖生産の目標は達成できなかったが、キューバ側は生産高よりも、キューバ革命を理解してもらうことに重きを置いていたように思う。と同時に外国からのボランティアは、キューバ国民を鼓舞するのには大いに役立った。この後も、休日に学生や労働者がボランティアで生産に参加する形態は長く続いた。農業ばかりでなく建設労働にも隊を組んで参加し、短期間に驚くほど多くの学校、病院、集合住宅等が建設されていった。

◆サトウキビ刈りボランティアは、終了後の見学・観光旅行も含めて、70年と72年は3か月、71年は6か月だった。私が参加した71年は何故かカストロの気まぐれで、残りたい人は残っていいと言われ、仕事を辞めて参加した私は、半年は国営農場で働き、最後の半年は、司書の仕事を知っていたためサンタクララ市郊外にあるLV中央大学の図書館で働くことができた。おかげで図書館の同僚と月に一度日曜日にボランティアに参加し、キビの植え付けや草取りの他、住宅建設にも参加した。素人ばかりで大丈夫なのかと思うような仕事ぶりだったが、歌いながら、お喋りしながら、皆楽しそうに働いていた。

◆図書館では外国人の私を特別扱いせず、本物の銃に実弾を入れて、民兵として夜警にも立たせてくれた。ふだん賑やかな同僚たちが、民兵の時は少しは話をしても、絶えず四方に注意深く目をやり、ピリッと緊張した面持ちで立っていた。少しでも物音がしたり、動くものがあると素早く確かめた。アメリカからのスパイが入りかねない、キューバの置かれている厳しさを垣間見ることができた。

◆いろいろな経験をさせてもらったが、ともかくこの時代のキューバには、溢れんばかりの希望があった。どこに行っても好奇心旺盛な子供たちに取り囲まれた。人々は少ない物資を融通しあって暮らしていた。日本はすでに「一億総中流」と言われた時代。物の充足に虚しさを感じ始めていた私は、「人はたったこれだけの物で、かくも楽しく幸せに暮らせるのか」と目を開かせてもらった。この時期のキューバは、おそらくは近代社会において、世界に類のないほどの平等を達成した時期だったのではないだろうか。

◆その後のキューバは、冷戦構造の中、アメリカに対峙する社会主義国としてソ連から破格の援助を得て、途上国としては抜きんでた底辺の豊かさを実現した。革命直後から力を入れていた教育と医療はほぼ先進国並みだ。しかし、ソ連邦崩壊後、経済は壊滅的状態になり、アメリカの封鎖が続いて国民は塗炭の苦しみを味わった。

◆03年9月、32年ぶりにキューバを再訪した私は、経済崩壊により変わり果てたハバナの姿に、強烈なショックを受けた。あの頃、光り輝いていたハバナの町は、薄汚れて廃墟のようだった。人々の表情も、心なしか疲れて見えた。しかし子供だけは少しも変わらず、屈託なく明るい。一時暴動も起こり、亡命する人も多く出たが、それでも持ちこたえてきたのは何故なのか。決して強権的に国民を押さえつけてきたのではない。多くの国民は身を粉にして働くクリーンなトップを信頼し、粘り強さと我慢強さでこれに堪えた。ではどうしてそんなに我慢できるのか?

◆03年にキューバを再訪した時に訪ねた友人の話。「人間、生きていく上でそんなにたくさんのものは必要ないだろう。僕の暮らしは、日本に比べたらすごく貧しいかもしれないが、必要なものはみんな揃っているよ。確かに子供が中学、高校の頃は、あと一間欲しいと思った。でも、子供はすぐに大きくなって家を出ていく。ほんのちょっとの辛抱さ。今は妻と二人。たまに子供が帰ってきても泊まる部屋はあるし、僕はこれで十分だ」。

◆団地サイズの2LDKの家に、小さなテレビと玩具のようなオーディオ製品。酷暑のキューバで扇風機が回っている。これがカストロ議長より給料の高い大学教授の話である。そう。キューバでは「足るを知る」人たちが助け合って暮らしていたのだ。平等か、豊かさか。半世紀以上にわたってこの人類永遠のテーマに向き合ってきたキューバには、今後もずっとこの問いを続けながら国づくりを進めてほしい。キューバ人から、あのサトウキビ畑の青空のように澄み切った笑顔がなくならないように。

◆最後に、私が地平線会議に初めて顔を出したのは1980年5月、楠原彰さんのアフリカの話(「アフリカのリズムとにおい」)を聞きに行った時でした。その後82年にペルーアンデスのトレッキングで白根全さんにお世話になり、ツアーの後一人でパタゴニアまで旅しました。帰国して全さんのご紹介により、84年の報告会でその話をさせていただきました。その後すっかりご無沙汰しておりましたが、昨年友人から、地平線会議がその後もずっと続いている話を聞き、すごく感動して夏頃からまた参加させていただいています。30年分年を取りましたが、おかげさまで縮こまっていた世界が少しずつ広がっていくのを感じています。ずっと続けてこられた皆様に心より敬意を表します。(大野説子 1984年5月「パタゴニアの旅」報告者)


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含ませてくださった方もいます。皆さんの支援はそのまま紙代、印刷費など通信制作に活かされています。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

■土谷千恵子(本年もよろしくお願いします)/菅原強(4000円)/北川文夫/平本達彦・規子/吉竹俊之/福原安栄/岩淵清(10000円 通信費とカンパです。冒険館には一度行きたいです。丸山さんの説明はわかりやすいですね)/大塚善美(本年も健筆をお祈りします)/戸高雅史(3000円)/池田祐司(4000円 いつもありがとうございます)/石原玲/西嶋錬太郎/横山喜久/古山里美/中島恭子/森本孝/白鹿公美/田部井淳子(10000円 エベレストから40年になりました)/野元啓一(10000円 拝読の度に配信し続けるパワーと投稿者の熱意に感動しております)


東北のカソリから

4年目、通算11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」バイク行を前に

■まもなく「東日本大震災」から4年目の3月11日がやってきます。それに合わせて「鵜ノ子岬→尻屋崎」のバイク旅に旅立ちます。出発点の鵜ノ子岬は福島・茨城県境の岬で、東北太平洋岸の最南端になります。岩山が海に落ちる岬の北側には福島県の勿来漁港、南側には茨城県の平潟漁港があります。「奥州三関」の勿来関で知られる勿来は「東日本大震災」の特異地帯で、大津波の被害をそれほどは受けることはありませんでした。ところが岬をはさんだ茨城県側の平潟漁港は大きな被害を受けたのです。

◆ゴールの尻屋崎は青森県下北半島の北東端の岬で、ここが東北太平洋岸の最北端になります。「鵜ノ子岬→尻屋崎」というのは、東北の太平洋岸の全域を見てまわるバイク旅なのです。昨年も3月、6月、8月の3度走り、今回が11度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。なぜ東北の太平洋岸にそれほどまでにこだわるかというと、ぼくにとっては日本でも一番といっていいほどのフィールドだったからで、震災前の10数年間でも何度、足を運んだかしれません。

◆その東北太平洋岸が大津波の被害をモロに受け、壊滅的な状況になっている衝撃のシーンを見ると、いたたまれない気持ちでした。意を決して第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発したのは震災から2ヵ月後の5月10日でした。このときは、ほんとうに福島県から青森県までバイクで走れるのだろうか、道は通じているのだろうか、ガソリンは手に入るのだろうか、宿泊施設は残っているのだろうか、食事は…といった不安を抱えての旅立ちでした。

◆東京から常磐道東北に入り、いわき勿来ICに着いたのは夜の8時でした。勿来の町中を走り抜けていきましたが、大地震、大津波の影響はまったく見られませんでした。常磐線の勿来駅に立ち寄ってみると、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号を南へ。国道沿いのコンビニで弁当を買って鵜ノ子岬に立ったのですが、そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれました。

◆渡辺哲さんは福島県の楢葉町に住んでいます。いや、住んでいたといった方がいいでしょう。楢葉町のみなさんは全員、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で強制的に退去させられました。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響をモロに受けた渡辺さんですが、三重苦、四重苦を吹き飛ばすかのように、いつも通りの元気さ、明るさでした。

◆鵜ノ子岬を出発し、北へ、北へとバイクを走らせたのですが、福島第1原発の事故の影響で浜通りを貫く国道6号は通行止め。4時間も5時間もかけて大迂回をしなくてはなりませんでした。宮城県に入ると、町の全域がやられた閖上地区は立入禁止でした。多数の犠牲者を出した石巻で見たシーンは強烈なものでした。学校の校庭に無数の墓標が立ち並び、花が供えられていました。

◆女川の惨状は目を覆うばかりで、町全体が瓦礫に埋まり、足の踏み場もないような状態でした。それでも幹線道路は走れました。気仙沼の海岸地帯には無数の乗り上げ船。その中をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害状況には声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯には押し寄せた海水がそのまま残り、一大湿地帯のような状態でした。

◆さらに大船渡、釜石、鵜住居、大槌、山田、宮古、田老、野田と、大津波で壊滅的な被害を受けた陸中海岸の町々を走り抜けていきました。久慈を過ぎると大津波による被害は目に見えて減っていきました。青森県に入ると海沿いの県道1号を走ったのですが、県道沿いの海岸の家々がまったく無傷で残っているのには驚かされました。被害が出たのは八戸漁港から三沢漁港あたりまでで、その北の白糠漁港はいつものような活況を呈していました。

◆こうして10日あまりをかけて尻屋崎にたどり着いたのです。福島第1原発事故の立入禁止エリアはありましたが、幹線道路はほとんど復旧し、まったく問題なく走れたのが一番の驚きでした。

◆大震災から1年目の3月11日に出発した「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、尻屋崎まであと100キロという地点で猛吹雪に見舞われ、尻屋崎を断念しました。東北の太平洋岸、とくに宮古以北の北東北は、この季節はまだ真冬同然。大津波で助かったのに、朝を迎えられずに凍死した人たちが多くいたというのがよくわかるような寒さでした。

◆大震災2年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では遅々として進まない復興にいらだちをおぼえるほどでしたが、3年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では各地で本格的に始まった復興工事の現場を見ることができました。東北太平洋岸の全域にあった大量の瓦礫の山の撤去作業が終わり、完全に消え去ったのはすごいことだと思いました。被災者のみなさんにとっては、この瓦礫の山がどれだけ苦痛だったことか。膨大な車の残骸もほとんどなくなっていました。

◆鵜ノ子岬から尻屋崎までの何百キロという途轍もなく長い距離の間、すべてが工事現場といっても過言ではないのです。これは日本史上空前の大工事。その中にあって復興の格差を強く感じました。原発事故に襲われた福島県の復興の遅れは目立っています。宮城県、岩手県でも復興の進む被災地とそうでない被災地がより鮮明になっています。同じ被災地でも、復興の遅れる町と復興の進む漁港のように、復興の格差がはっきりと見られるようになっています。

◆大震災4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、3月11日の夜はいわき市の四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まります。地平線会議の有志の皆さんと福島の被災地をめぐった時、お世話になった宿です。当日は復興工事の長期滞在者のみなさんで満室だとのことですが、女将さんは大広間を用意してくれるといいます。渡辺哲さんが来てくれますが、一献傾けながら渡辺家の、楢葉町の、そして浜通りの現状を聞くのが今から大きな楽しみです。

◆そしてその10日前の3月1日には、浜通りの大動脈になる常磐道が全線開通します。浜通りのみなさんがどれだけ期待したことか。これでいわきから相馬へ、大迂回する必要もなくなります。4年目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」におおいなる期待を抱いてまもなく出発します。(賀曽利隆


追悼 野元甚蔵さん

野元甚蔵さんのために、たった1日発行したタブロイド紙『蔵日新聞』のこと

蔵日新聞

■1月末の週末、昨年末に旅立ったチベットの友人を偲び北京を訪れていたところ、江本さんからの電話が何度も鳴った。野元甚蔵さんの訃報だった。中国にいたからかもしれないが、若かりし頃の野元さんの軍服姿が目に浮かんだ。

◆私が野元甚蔵という人物を初めて知ったのは、『山と溪谷』に連載していた江本さんの「西蔵漂泊」というドキュメントだった(後に上下巻として出版)。1917年生まれの野元さんは1939年、22歳という若さで陸軍の諜報員としてチベットを目指した。モンゴル人学僧になりすまし、アンチン・ホトクトの一行に紛れ込んで潜行。ノムタイというモンゴル名(ノムは「経典、本」)も持っていた。

◆中共侵攻前のチベットに滞在し、即位したばかりの4歳のダライ・ラマ14世が輿に担がれて夏の宮殿、ノルブリンカへお入りになるところを当時のラサの町で見ていたという歴史の目撃者であり、私にとっては本の中、歴史の中の遠い人だった。1980年11月にダライ・ラマ14世が鹿児島を訪れた際には法王様はご自分の幼少期や当時のチベットを知る日本人にたいそうお喜びになり、プラチナの指輪とチベットの硬貨、ご著書を贈られたという。

◆それからずいぶん月日が経って、2001年、日本人がチベットに足を踏み入れて100年という年に、江本さんから、「日本人チベット行百年記念フォーラム」という催しをやろう、と提案された。半世紀以上前にチベットに滞在し2001年の時点でご健在なのは西川一三氏と野元甚蔵氏のお二人のみ。すでに、80歳を過ぎているご高齢のお二人はそれぞれが懇意にされている江本さんを間に壇上で素晴らしいトークを繰り広げてくださった。

◆北国の岩手に住む西川さんは厳しいチベットを、南国の鹿児島に住む野元さんは優しいチベットを話してくださり、国策に翻弄されてのチベット行ではありながら、こうも対照的なものなのかとたいへん興味深い催しだった。この時の記録は『チベットと日本の百年』(新宿書房)という一冊にまとめられた。しかし西川さんは2008年に、そして野元さんは先日旅立たれ、当時を語ってくれる人は、とうとういなくなってしまった。

◆2004年に米寿を迎えられた野元さんは7月2日、ダライ・ラマ法王の誕生日祝賀会出席のため鹿児島から次女の菊子さんとともに上京された。私たちも日本山岳会の会議室を借りてご家族といっしょに米寿のお祝いした。「日本・チベット近代関係史の貴重な証言者のさらなる長寿を願って地平線会議、チベット・フォーラム実行委員会有志たちによって『野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会』」と当時の記録にはある。祝う会には千葉に住む長女の中橋蓉子さん一家も参加、終始なごやかな雰囲気の中で進められた。

◆作家の渡辺一枝さんが「祝う会」を代表して歓迎の挨拶、出席者28人がひとりひとり紹介された。この後、野元さんご本人から挨拶と野菜の栽培や犬の散歩に追われる多忙な日々が独特のおだやかな口調で語られた。江本さんが撮影したチベット人の暮らし、文化の貴重な写真を盛り込んだビデオの一部を鑑賞した後、コーヒー・タイムに。ケーキのほか、渡辺さん持参のチベットの味“トマ”や“ツァンパ”、他の参加者たちからも手作り菓子の“カプセ”、バター茶、とれたての狭山茶など多彩な飲食文化が披露された。

◆しばしの歓談の後、65年前の野元さんのチベット体験を自由な質問形式で聞く会のハイライトへ。野元さんは、著書『チベット潜行 1939』(2001年、悠々社)を手に、当時のチベット体験を克明に語った。前橋在住の矢島仲子さん(矢島保治郎氏長女)からは、こんなメッセージが寄せられた。「今回は離れたところからお祝いを申し上げます。チベット・フォーラムでお目にかかったアンパンをくださった千葉の娘さんも参加されるのですね? なんだかアンパンのこと、とても懐かしい思い出です」(編注:蓉子さんは当時、パン屋さんでパン作りの仕事をしていた。地平線会議にも何度かアンパンを届けてくださった)。

◆多田明子さん(多田等観氏三女)からは「米寿、おめでとうございます。鹿児島から来られるのですからお元気なんですね、ほんとによかった。近況ですが、花巻市博物館が4月に開館して、6月26日から7月19日まで「多田等観展」が開かれています。初日に腰痛をおして行ってきました。等観の誕生日(7月1日)をはさんで開いてくださったのです。立派な博物館でした」というメッセージが寄せられていた。花巻博物館はその後、「チベットの歴史と学習会」でお世話になり、今となっては野元さんが一役買っていてくださったのだな……としみじみとする。

◆その時の様子を私たちは『蔵日新聞』という、この日のみ発行した、「野元甚蔵さんのための新聞」に記録した。落合大祐さんが日本山岳会にプリンターを持ち込み、撮った写真をその場でパソコンに取り込んで加工し、そのプリンターで参加者の分を印刷してくれた。題字下に内蒙古時代の弁髪姿の野元さんの横顔を、下段には野元さんの著書の広告をレイアウトするなどなかなかの内容となった(この新聞、江本さんによれば、今回の告別式でも展示されたそうです)。

◆2009年(92歳)、2010年(93歳)と2年つづけて地平線会議でも報告をしてくださったことは記憶に新しい。おそらく最高齢の報告者なのではないだろうか。70年前のチベットを生き生きと、そしてご自分の人生を飄々と語ってくださった。人生に起こるさまざまなことを上手に受容してこられた人の穏やかさに感銘を受けた。私がお元気な野元さんにお目にかかれたのはこの時が最後となってしまった。また、いつかチベットの空の上でお目にかかれたら……、と思う。(田中明美

娘から尊敬され続けた父親という存在がまぶしく感じられました。

■野元甚蔵さんとお会いしたのは、1998年の夏、島根での「能海寛チベット壮途100年記念フォーラム」の場でした。私もパネラーとして参加しました。「歴史上の人物」となられる方と同じ時と空気を共にする、そんな緊張感がありました。 そんな中にあって、印象に残っているのは、宿でのお風呂です。

◆男組、女組と部屋割りを決められ、「女の人から先にお風呂入ってくださーい」と江本さんの声がしました。一人ずつ入ると時間がかかるので、数人ずつ、野元さんの娘である、蓉子さんと菊子さんと一緒になりました。二人は嬉しそうにお父さんのことを話しています。タオルを忘れた私に、蓉子さんが「どうぞ」と、タオルを貸してくださり、それをいただきました。それだけの記憶ですが、二人の娘さんが、父親に深く愛されていること、そして娘たちがお父さんを大好きであることが伝わってきました。娘から尊敬され続けた父親という存在がまぶしく感じられました。(河田真智子

野元さんから「真実一路」の言葉を頂きました

■2010年5月の野元さんの報告会で報告レポートを担当させて頂いていた僕は、お話が始まるや否やその物語に釘付けになりました。太平洋戦争前夜の70年前、当時殆んど情報のないチベットへと自らの国籍を隠して潜入調査するといった現代ではあり得ない状況下で22歳の野元青年は未知の世界に降り立ちます。

◆会場に集まる聴衆にとって想像することすら難しい程果てしなく遠い世界の筈なのに、野元さんのゆっくりとした優しい語り口のなかには当時のままの驚きや興奮が込められていて、お話に身を委ねていると、心優しい家族と共に過ごした時間やヤクが点在する雄大な農耕風景が不思議な色と輝きを持って浮かび上がってくるのでした。

◆身元を知られてはならないという厳しい緊張感のなかで、ひたむきに語学を学び、人々の暮らしに心を通わせる実直な青年の生き生きとした姿がそこにはありました。その物語の主人公に直に目の前で語って頂いている格別な迫力と興奮が今もなお心に鮮明に焼き付いております。時間が許すのであればずーっと聴いていたい、何時になく分かち合う喜びが身に沁みた貴重な報告会でした。

◆二次会で野元さんは「あなた達のような若者とお話しするのが楽しい」と嬉しそうに語っておられました。その折に“真実一路”というアドバイスを頂きました。「真面目に自分に恥じない人生を歩みなさい」。野元さんの歩んだ道のりへの想いが込められたこの言葉を大切に、今の時代に続く自分の道のりを歩んでゆきたいと願っております。(車谷建太

こんなにいつまでも若々しく、素敵な方がいらっしゃるんだ、と……

■『チベット潜行1939』を興奮して読んだわたしにとって、野元さんは(ご本人はいやがられるだろうけど……)「本(歴史)の中のすごい人」でした。それで「その方が目の前で喋ってくださっている!」と、報告会では、ほんとうにどきどきしたのです。あのとき、野元さんは、大切な思い出をそっとひも解いてゆくかのように、一言一言、とても真剣にお話しくださいました。野元さんの語られるお話しは、つい最近体験したことみたいに鮮明で、まるで隣に「野元青年」が現れたかのよう。本の中と現実が繋がり、ああこの方は、ずっとかわらず誠実に生きて、いまここでお話くださっているのだなあ。

◆二次会の「北京」でも、誰とでも気さくに丁寧にお話しくださり、こんなにいつまでも若々しく、素敵な方がいらっしゃるんだなあ。そう、強く思ったことを覚えています。野元さんのお話を聴けたこと、お目にかかれたこと、ずっと忘れません。(加藤千晶 2009年5月報告会「ノムタイがチベットで見たこと」レポート執筆)

野元啓一さんからの手紙

私信だが、地平線会議、地平線通信のことも深く思ってくださっている内容なので、ご本人の了解を得て全文紹介させていただく。(E)

謹啓 立春を過ぎて、今冬最大の寒気が列島を包み込んで、各地で風雪被害が心配な昨今でございます。

 江本様には、公私共々、ご多忙中にもかかわらず、亡父甚蔵の葬儀に馳せ参じ賜りまして、誠に有難うございました。おかげさまで、何ひとつ悔いのない葬儀を終えることが叶い、私達兄妹姉妹はもとより、親族一同、心より御礼申し上げます。

その節は雑事に紛れまして、十分なおもてなしができなかったご無礼をお詫び申し上げます。

 江本様の存在なくしては、父の想いは世に出せなかったこと、地平線会議、地平線通信を介して、幾多の人々と心行くまで交流させていただきましたこと等、今頃は亡母幸子と楽しげに語り合っている事と存じます。

 また、弔辞で語られた中でも、若者達にも大勢のファンがいて、父の死を心から悼んで下さっていることは勿体なく、ありがたいことと実感致しております。

 訃報配信のご配慮(注)のおかげさまで、思いもよらぬ方々からも数多くの弔意をいただきましたことも、重ねて御礼申し上げます。

 父亡きあと、色々処理すべき課題が残存しておりますが、難題に直面し、窮する場面ではご相談させていただくこともあるやも知れません。その節は何卒よろしくお願い申し上げます。

 ともあれ、日々東奔西走の貴方様には、無理をなさらず、いつまでも現役でご活躍願いたいと存じます。どうかご自愛くださいませ。

 もうひとつお願いです。父亡きあともいつでも私達家族の中に融け込んでいただけますよう、心から望んでおりますことを決してお忘れなきよう追伸させていただきます。

 終りに故人の生前に賜りましたご交誼、ご厚情に厚く御礼申し上げ、今後もご交際をいただきますようお願い申し上げます。

平成27年2月10日 野元啓一

注:野元甚蔵さんの訃報は、南日本新聞、産経新聞、東京新聞各紙の社会面で伝えられた。啓一さんは、愛知県在住のご長男。

キューバ・シー、ヤンキー・ノー

■もう50年以上前、1960年代の地方都市金沢にも“うたごえ運動”が広まり当時学生だったオンチの私でさえ大声で歌っていました。「原爆ゆるすまじ」「沖縄を返せ」など左翼系の歌が多く、キューバ革命の歌もありました。よく分からずに「キューバ・シー、ヤンキー・ノー」と歌っていたように思います。昨今のアメリカとキューバの国交回復報道。キューバ・シーの私、うれしかったです。

◆通信429号の1月例会案内、画伯のインパクトの強いイラストと呼び込み記事に惹かれ膝半月板手術10日目の身でしたが金沢から東京に出かけました。とても勉強になりました。全さんより10以上歳上の私、2月上旬に突然立ちくらみ症状。平衡感覚を保つ三半規管の障害です。半月板の時と同じく原因不明、加齢による劣化でしょうか。

◆“歳月は年々重くのしかかって、旅の苦労や不自由に耐えられなくなる時が、いつかは必ずやってくるにちがいない”、続けられなくなったらそれまでの見聞を人生の終りまで慰めにしたいと言った19世紀末のロシア人探検家プルジェワルスキー(『中央アジアの探検』下巻)。全さんの話を聞きながらプルジェや全さんほど濃い旅は出来ないが、私も「いつかは耐えられなくなるその日が来るまで」旅を続けたいと思いました。とりあえず今年は世界一周の航空券で80日間世界一周にトライ、途中で必ずキューバに立ち寄るつもりです。貪欲なアメリカ資本に毒される前の世界稀なシー(好)国に。(金沢 西嶋練太郎


先月の発送請負人

■地平線通信429号、1月14日に印刷、封入し、15日発送しました。印刷、発送のベテランの何人かが参加できず、新年早々森井祐介さんの頑張りに助けられました。「昨年の地平線最大のニュースは、森井さんの復活でしたね」と賀状に書いてくれた世話人がいましたが、その通りです。昨年5月11日、森井さんは10時間に及ぶ心臓バイパス手術を受け、見事元気で生還されました。レイアウト、印刷と森井さんなしには発行できない現在の地平線通信であることを痛感します。  作業に参じてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。
落合大祐 森井祐介 伊藤里香 松澤亮 福田晴子 前田庄司 江本嘉伸 白根全 日野和子
3か月不休で修士論文を書いていた福田晴子さん、なんとか終わりました……、と駆けつけてくれました。おめでとう。「旅学の考察――宮本常一を中心とした「あるくみるきく」旅と社会教育の系譜――」が、修論のタイトル。地平線会議のことも詳細に書いてくれています。


地平線会議から、大事なお知らせです

特別移動報告会──福島・浜通りを行く──

曽利隆さんが書いているように、東北は順調に復興が進んでいるように見えるところもある反面、まったく時間が止まってしまったかのように見える地域もあります。先月の通信で滝野沢優子さんが近況をレポートしてくれた福島は、とくに問題です。東京電力福島第一原発の爆発という、日本がかって体験したことのない深刻な出来事から4年。地平線会議は、これからが正念場、と考え、次ぎのような「移動報告会」を企画しました。

以下に、目下考えている行動計画をあげておきます。何人ぐらいの皆さんが参加されるかによって、チャーターするバス(45人、27人、23人乗り)の大きさによって、経費負担の割合が変わりますので、参加希望者は早めに手をあげてください。申し込み先は
  メールで pea03131@nifty.ne.jp
  あるいは、ファクスで 03-3359-7907
  (いずれも江本)にご一報を。

締め切りを2月末日としますが、できるだけ早めにお願いします(すでに参加を表明された方も大丈夫ですが、念のためよろしく)。

ちょうど桜の季節。4月18、19日は富岡の夜ノ森の桜が見ごろ(例年なら)のはず。夜ノ森は浜通り随一の桜並木だそうです。

●走行予定ルート─────────────

 国道6号線→大熊町→1F付近→双葉町→浪江町→南相馬市→小高地区→県道12号→飯舘村→福島駅→東北道→磐越道→いわき駅

●日程──────────────────

≪4/18(土)≫
[集合場所]
 ■常磐線・いわき駅(11:00)
[探索コース]
[1]薄磯・豊間地区 豊間中学校跡
  (津波被害地の復興状況を見る)
[2]四ッ倉町・道の駅─昼食─久之浜地区復興商店街
[3]楢葉町・常磐線木戸駅〜天神岬〜波倉地区
  (福島第二原発付近)
  (除染による土砂等の仮置場状況を見る)
[4]富岡町・常磐線富岡駅跡 夜ノ森地区
  (無人の街並みなど「帰還困難区域」、「居住制限区域」の現状を見る)

●帰路ルート
 ■常磐富岡IC→いわき四倉IC→蟹洗温泉(18:00)

太平洋に面する蟹洗温泉は、3.11で多くの人々が津波に呑まれた場所。約3mの津波で施設の1階部分がぶち抜かれ、温泉施設、ボイラー施設等に甚大な被害を受けた。2013年7月16日に営業再開(震災から約2年4ケ月振りの再開)。

≪4/19(日)≫
[出発]
  ■いわき蟹洗温泉(9:00)
[1]大熊町、双葉町⇒福島第一原発前を通過
  開通した国道6号線での通り抜けのみ。停車、立入り不可。線量はかなり高い。
[2]浪江町請戸地区
  ⇒津波被害地の復興状況の視察
  (浪江役場から許可証が取れれば、臨時通行書で特別立入りする予定です)
[3]南相馬市/道の駅─昼食─(12:00)
[4]南相馬市/小高地区
  ⇒常磐線/小高駅周辺の視察(放置自転車等)
[5]飯舘村/役場周辺
  ⇒全村避難地区の現状を視察(除染による土砂等の仮置場状況)

[解散]
■福島駅(16:00)
■いわき駅(18:00)

★経費
  宿代 10000円(夕食・朝食など飲食 代を含む)
  バス代 5000円〜10000円

最終案は、来月の通信で

行動者宣言

自分らしく生きるために、フリーになりました

■1月末をもってモンベルを退職しました。有給消化を含むと、フリーになって2週間経ったところです。初めてちゃんと退職しましたが、退職するって大変ですね。退職挨拶、各種手続きなどなど、まずは退職というイベントにしっかり翻弄されました。今はだいぶ落ちついて、フリー生活のいろはのいを味わいつつあります。

◆さて、ようやく退職に踏み切ったのは、日々会社に行きながら、時間がもったいないと思う度合が捨て置けなくなってきたことと、講演活動や執筆活動がやりにくくなったためです。表現活動をやりにくくなった時期と、自分のやるべきことを意識し始めた時期とがほぼ重なります。特別なアクションを起こしたわけではなく、講演活動を丁寧に続ける中で自身の役割に気づき、そのことに自分のエネルギーを純粋に注ぎたいという気持ちになりました。

◆自分にとって明らかによくないとわかっている状況に自分自身を置き続けることは、自分を偽ることです。「明日死んでも後悔しないか?」という問いに、「後悔しない」と答えられなくなった時点で、生き方を見直さねばなりません。

◆日本の将来、地球の未来に希望を感じることが難しいご時世です。とはいえ、夢や希望がない中で将来を考えることは非常に難しいと思います。環境問題を取り扱う本をまとめて何冊か読んだとき、「このままでは地球に未来はない」というメッセージと、「こういう選択ができればまだまだ大丈夫」というメッセージとでは、がんばろうと思う気持ちに大きな開きがありました。そのときに思ったのは、メッセージというものは、ポジティブな形で出していかないと人を動かすことはできないということです。

◆私が目指したいことは、今がどんな時代であっても、人々が未来に対して夢と希望を持って、明るく楽しく生きていくことです。そうでなければ、人類の時代は短くなるでしょう。地球の歴史の中に人類が存在する期間は有限です。その長さが伸びようが短くなろうが、地球にとっては痛くもかゆくもない。地球はこれまでもこれからも、地球の一生を地球尺度で送っていくだけのことです。

◆私たちは人類そのものだから、自分たちの尺度で自分たちの未来について考え、「地球を守ろう」という言葉が出てくるわけです。わたしも人類のひとりとして、人類なんてさっさと滅びてしまえとは思わないわけで、せっかくなら少しでも長く、この星の上で暮らせたらいいねと思っています。

◆南極の話をいろんな人にします。そうすると、聞いている人の中に、目の輝きが変わっていく人がいます。希望を見出すんです。もちろん南極の話だけをしているわけではありません。南極を通して地球の話をし、自分自身の内面の変化や生き方について、考えていることを伝えます。そうすることで、誰かの心をゆさゆさっと揺さぶることができているようです。あまりにも地道な作業ですが、それをしたい。それをしていくことで、人類の未来が多少なりとも明るくなると信じています。

◆今、力を入れている防災士の活動は、明るく楽しい人類の未来の地域版です。防災士は、減災と社会の防災力向上のために、災害時の被害拡大の軽減、災害後の被災者支援、平常時の防災意識の啓発や自助・共助活動の訓練などを行います。東日本大震災およびその後のこの国の状況を眺めていて、せっかくあのような教訓があったにも関わらず、人々の生き抜く力は育っていないと感じます。

◆米はもらってここにあるけど炊飯器がないからご飯が食べられません、という東日本大震災でのひとこま。危ないから川で遊んではいけません、たき火は禁止、都市部近郊では海に近づくのも一苦労(漁協権を守るための鍵付きフェンス、海につながる道路に設置された通行時間制限のある門、有料駐車場)。そういう環境で、生き抜く力を育てましょうと言っても無理があります。

◆けれど、311がトリガーとなって、この列島に災害は起きやすくなったと思います。世界規模の異常気象も、いまさらわざわざ異常とつけなくてもいいんじゃない?という気がするくらいです。過去に例を見ない災害は、これからはすべて想定内として考えていかなくてはなりません。自然現象はコントロールできないけれど、人は変えられます。

◆たき火をしたことがない子どもと1回でいいからたき火をすること。鍋でごはんを炊いたことがないお母さんとご飯を炊くこと。これまた地道な活動ですが、それもしたい。こういった小さな経験を積み上げていくことで、地域の防災力、人々の生き抜く力を高めていけると思っています。同じ目的で、自分で食べ物を作れる人、採れる人も増やしたい。1次産業ですね。4月から半年間は農業も学ぶ予定です。自分がその世界に入ってみてから何ができるかを考えたいと思います。

◆と、野望は大きいですが、今はまだ、防災士の仲間と子どもキャンプを企画していたり、積極的に南極講演をやらせてもらえるように動いていこうとしていたり、といった程度です。社会を動かすには草の根には限界があることも感じてはいるので、ドカンと動きたいときに力を貸してくれるそれなりの人たちとの付き合い、ネットワークも構築していこうと思っています。まずは自分スタイルで、できるところから形にしていきます。(フリーランスになった、岩野祥子


今月の窓

遺伝子が決める? 「出かけたい心」

 遠い国から陰惨なニュースが続きます。「そういうところだからこそ取材に行く」というフリージャーナリストの論理と、「個人が危険を犯すと、国家のリスクに結びつく」という論理がせめぎあうわけですね。ひとつの事件についていろんな見方が噴出しているこのごろですが、この「窓」で書いてきたテーマ、「出かける男、残る女」という物差しを当てはめてみるとどうなるのでしょうか。

 殺されたGさんが人質として画面に現れたころ、彼の家庭には赤ちゃんが生まれたばかり、という情報も流れました。さらに、彼の前の結婚では「中東に取材に行く・行かない」が夫婦の摩擦になって離婚に至ったのだ、という報道も。

 「悲惨な社会の実相を知らせるって立派だけど、自身の父親役は棚上げしてたってわけ?」「妻さんも働いていたんでしょ?上の子だってまだ小さいのに。丸投げして行っちゃったんだ」等々の声も聞こえてきます。まあ、基本的には夫婦の合意の上での行動だったのだからこの点に関して第三者があれこれ言う筋合いではありませんが、これ以下、あくまで一般論ですが、男性のほうが「世界を救うことの前には、個人の生活は二の次である」と見る傾向が強く、対してこれも一般論ですが、女性のほうは「それより先に、私生活で役割を果たしなさいよ」と家族に対する具体的な責任を重視します。

 これは、妊娠出産授乳を女性(♀)が受け持つ哺乳類としてはある程度合理的ではありますが、それが過度に社会道徳に反映されると、「雄飛し、正義に殉ずる男(のロマン)」と「子を育み家を守る女(のたしなみ)」となるわけで、長く儒教的な考え方が強かった日本の場合、この「社会道徳」が西欧諸国よりも強いのでしょう。だからこそ、「自分で考えて自分で稼ぐ」ようになった現代の女性たちは「なんで私はいつも留守番?」という疑問・不満をぬぐいきれない。夫婦・家族・教育・就業の様態が変化したのですから、その思いは当然のことです。

 さて、以上のような「男女差」に加えて、最近はどうもヒトにはひとりひとり、生得的な行動パターンがあるらしいと言われるようになりました。その行動パターンの一つ、人間の「新奇性追求」に関連する遺伝子が20世紀末に発見されています。脳内で、ドーパミンという積極的な行動を促す神経伝達物質をスムーズに受け取る遺伝子を持つ人とそうでない遺伝子を持つ人があり、当然、「受け取りやすい人」は「新しいもの」「珍しいもの」「知らないもの」に心惹かれて積極的に打って出る、ということです。まあ、冒険心に満ちている、というわけですね。(そのかわり、行動リスクも高く、唯我独尊、飽きっぽい、という「こまったちゃん的側面」もあるのだそう……思い当たる人、いません?)。

 しかも、この遺伝子には民族的に偏りがあり、ある調査では、アングロサクソンでは「受け取りやすい人=冒険心に満ちた人」は全体の50%を占める(ちなみにやや受け取りやすい人は47%)のに対し、日本人・韓国人・中国人ではこの率がなんと2%と78%なんだそう。数字を見る限りでは、アングロサクソン各位が「行け行けどんどん」なのに対し、われらは「やめとけよ、やっぱりここは慎重に」と態度決定してしまうことになります。

 残念ながら、民族差それぞれに男女差まではデータを見つけることができませんでした。でも、多くのイギリス女性が19〜20世紀に単独でアジアやアフリカを旅してその記録を出版、「トラベルライター」という職業を確立させたという歴史的事実(『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードもその一人です)を見ても、あちらでは女性もおおいにドーパミンが躍動しているように見受けられます。

 となると、日本女性の場合、この慎重な民族的傾向に加えて、社会倫理的な「枠」組が機能して、男女平均で2%と数少ない「ドーパミンを受け取りやすい人」のうち、実際の行動に踏み出す人はさらに少数派になってしまいます。

 遺伝子以外に考えておきたいのは、夫婦、恋人にはしばしば「トロフィー心理」が働くと言う事実です。「うちの妻は美人だろ?」というのが(これまでの)男性の発想なら(実際、出世した結果得た美人の妻を社会学などで「トロフィー・ワイフ」と呼ぶことがあります)、女性の側には「うちの夫はなかなか有能でしょ?(それは私が魅力的だからよ)」という「トロフィー・ハズバンド」を誇る心理が働くことも。その「有能」の中身は「よく稼ぐ」「勇敢である=冒険をいとわない」という要素も当然、ありますとも。

 「子育てを分担してくれるやさしい夫」もいいけれど、「それだけでは物足りない」「人さまに自慢できるトロフィーでもあってほしい」という、女性の心のこの複雑さ!

 見渡せば、ドーバー海峡を初めて泳ぎきった女性も日本人でした。女性隊で初めてヒマラヤに登頂したマナスル隊も日本人でした。女性で公式マラソンレースを初めて走りきったのも(米国籍ながら)日本女性でした。黄金のピッケル賞だって日本女性がゲットしています。いやいや、そんな超アスリートを見ずとも、今日、山に行ってごらんなさい。ハイキングコースから難ルートまで、お嬢さん、マダム、グランマがどこにも。

 哺乳類的宿命、民族遺伝子的宿命、儒教社会倫理。さらには夫婦の家庭内政治力学の中で、時にトロフィー心理も乗り越えて、日本の女性はなかなか奮闘してはいる、と見えます。(北村節子


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

おトナリのイスラーム

  • 2月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「パキスタンの岩砂漠ばかりの大地に立つと、日本みたいな八百万の神なんて考えられない。単純で厳しい乾燥アジア地域の環境で生き抜くための指針としてのイスラームが腑に落ちる気がするんだ」と言うのは丸山純さん。パキスタン北部のチトラルに住む少数民族カラーシャの村に'78年から通い続ける民族学研究家です。

イスラームの国パキスタンにあって、カラーシャは例外的な非イスラーム教徒。緑豊かな谷に暮らす多神教の人々です。「隣人のイスラームとは互いに共存の道を探ってきた人たち。オレのイスラーム理解は、カラーシャの視点からなんだ」と丸山さん。

イスラームの聖典クルアーンやハディースは、生きる上の“道徳”や“倫理規範”の意味合いも強く、その解釈によって信仰の形態にはかなり多様性があります。パキスタンにはイスラーム神秘主義のスーフィズムもあり、一方パキスタン・タリバン運動やアルカイーダ等の過激思想の一派がテロを重ねて国家の存立を揺るがせています。

今月は丸山さんに、隣人のイスラームを理解する基礎知識を語って頂きます。教義、精神、宗派、地域、紛争のほか連邦部族地域と過激派、イギリスのパキスタン人コミュニティのこと、イスラームと音楽の関係など多岐に渡ります。

また、丸山さんの蔵書から、お薦めのイスラム関連本50冊(?)も大公開。お見逃しなく!


地平線通信 430号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年2月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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