2015年7月の地平線通信

7月の地平線通信・435号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月8日。午前9時の気温は22℃。どんよりしている。9号から11号と、この時期に台風が3つもやってきている。10時前、賀曽利隆から電話が。ややしんみりした口調だ。「懐かしい場所なんで思わず電話してしまいましたよ」。なんと登米市の鱒淵小の前からだった。

◆あの3.11が起きた後、日本エコツーリズムセンターの仲間たちと「RQ市民災害救援センター」という組織を立ち上げ、現地本部を南三陸町の隣、この鱒淵小の体育館に置いた。そこに新垣亜美さんがほぼ常駐することとなり、彼女が長くいてくれたおかげで、私をはじめ地平線会議の多くの同志が鱒淵小のお世話になった。

◆ボランティアたちにとって大事なのは、毎晩の食事後のミーティングだった。毎夕食後、日替わりの「進行役」が翌日の仕事について皆の分担を決める。そんなミーティング時間に賀曽利は何度か突然体育館に現れ、新垣さんたちボランティアを激励し、被災者の皆さんたちと交流した。

◆当時、鱒淵小の教室部分には佐藤徳郎区長以下南三陸町中瀬の皆さんがいた。亜美さんへの信頼が深かったことから佐藤さんとは私も親しくさせてもらい、後には地平線報告会の報告者になって頂いた。いまは、体育館は鍵で閉ざされ、ひっそりしている、と賀曽利君は言っていた。

◆「亜美さんによろしく、と伝えてくださいね」との賀曽利大明神の言葉で新垣さんに電話する。ちょうど昼休み時。研修で確か鹿児島市に来ているはずだ。「わあ、懐かしいです」としばしRQ鱒淵小の日々に話が弾んだ。

◆彼女は、屋久島に移住してからも、毎年夏冬の休みには中瀬の仮設住宅の子供たちの「お泊まり会」に参加している。「今年も8月8日頃に」と。こうなったら、と佐藤区長に電話した。なんだか電話会議をやってるみたいだ。久しぶり、と言っても4月半ばに上京された際、日本橋で宮本千晴さんと一緒に昼飯を食べている。ホウレンソウを出荷する佐藤さんのビニールハウスにも新垣さんと3人で行っているし、荒木町の我が家にも来てもらっているので、身近な人だ。

◆元気な声だったが「仮設暮らし」はまだまだ続くらしい。「計画は決まっても工事が実際には動いていないんですよ。高台を崩してもその土の捨て場所がなかったり……」。ここまで来てはっきりと遅れが見えてきた、と声が強くなった。まだ2年半は仮設暮らしは続くのではないか、と。なんと7年もあの狭い仮設住宅に動けず待つことになるかもしれないのだ……。

◆小さな文字盤に文字を打ち込んで連絡をとりあう人が多いが、直接話せる電話は、今となっては(恥ずかしながら、携帯なんて無用、と嘯いていた時期もあったが)私には情報収集の武器だ。発信するたび、さぞやまた、あの年寄りが……、と思われているだろうが、文字では微妙なニュアンスは伝わらない。息遣いそのものが大事なことだってある。

◆とんでもないところから電話が届く時代である。もう14年も前の話。2001年5月のある日、はあはあ、息をはずませた声が飛び込んできた。「はあ、江本さんですか、登ってきました、はあ、今降りてきたところです」なんと標高6400メートルのチョモランマの前進ベースキャンプから石川直樹君の声だった。当時23才。世界各国の若者が北極から南極まで自力移動する「pole to pole」の日本代表に選ばれた石川はその後、エネルギッシュに高い山に登り、熱気球で太平洋を飛び、写真展を開いてきた。

◆エベレストには10年後の'11年にネパール側からも登頂。'12年にはマナスル(8163m)、'13年にはローツェ(8516m)登頂と、ヒマラヤ8000メートル峰を眼下にしてきた。その行動については2013年7月の報告会で話してもらった。

◆ニュージーランドの登山家、ラッセル・ブライス率いる国際公募登山隊に参加してのヒマラヤで昨年2014年にはマカルー(8463m)の登頂に成功した。シェルパのサポートがあるにしてもたいした成果である。そして、なんと今度はパキスタンの世界第2の高峰K2(8611m)に挑戦していることをラッセルのメール通信で知った。K2といえば、8000メートル峰の中でも屈指の難しさが言われてきた高峰だ。そこにあの石川直樹が……、といささか感慨がある。いま37才。これからどう展開するのか。

◆この通信で短く書いたが、植村直己冒険館主催で4年前にやった「日本冒険フォーラム」の第2回目の試みを今年11月22日の日曜日に開く。植村直己の精神を長く語り伝えたい、というのが企画の趣旨だが、地平線会議をやってきた者として、いまこの一瞬の冒険とは何か、私たちはどんな行為に魅かれるのか、結構真剣に考えている。この時代を切る新たな冒険論が必要なのではないか、とも。(江本嘉伸


先月の報告会から

筆に含む南極の風

月風かおり

2015年6月26日  榎町地域センター

■2015年6月の報告者は月風かおりさん。風情のある名前にふさわしい、ほっそりした美しい女性だ。この人がいったいどんなことを話すのだろう……。会場内には期待感以上に不思議感が漂っていた。

◆南極に行きたい、そこで自分の表現を試みたい、と願っていた月風さんに願ってもない情報が舞い込んだのは2014年8月だった。ニュージーランドで隔年に開催されている南極に関する国際会議に参加中の国立極地研究所の副所長である本吉洋一教授から突然メールが舞い込んだのだ。会議会場の片隅で非常に興味深いポスターを見つけたという。それは、アルゼンチンの外務省下にある国立南極局が行うアートインレジデンス(南極に芸術家を送り込んで活動してもらうという企画)がもう10年にわたって続いているということを紹介するものだった。

◆メールには、残念ながらあなたが日本の「しらせ」に乗って南極に行くのは芸術枠のない現段階では非常に難しいが、自国のみならず他国の人まで南極に送るという国があるのでぜひ検討してください、と添えられていた。申込期限まで10日弱。頑張って苦手な英語で動機やプログラムを徹夜で書いた。何とか提出したものの、参加条件である「帰国後の自国展示会」の会場選びができておらず、申込期限を過ぎてからの抽選を例外的に待ってもらえたことなど、バタバタな中にも好意と幸運があり、なんとかプログラム参加できることに決まった。

◆10月に参加が決定してからの1か月半、慌ただしく準備をし、12月29日に日本を出発し、1月3日にブエノスアイレス到着。同行のグループは全員女性で、7人のアーティスト、2人のキュレーター(学芸員)、1人の通訳という構成だ。アーティストの内訳は、アルゼンチン人4人、日本人、オランダ人、コロンビア人がそれぞれ1人。

◆そしてついに南極大陸に移動する日がやってきた。輸送機の荷物の間に科学者、軍人、アーティストがひしめき合って乗り、ブエノスアイレスから5時間かけてリオガジェゴスにある空軍基地に行く。リオガジェゴスはウシュアイアという南米最南端の町から北に250kmのところにある町だ。ここパタゴニアは風が強く、飛行機が飛べなくなることがたびたびある。月風さんたち一行もここで2泊することになった。そして、リオガジェゴスから天候を見計らって南極マランビオ基地へ。間には大荒れするドレーク海峡があり、通常3時間の行程に5時間を要した。

◆マランビオ基地は露岩が多く雪が少ないので離発着に有利な地形になっている。ほとんどのアルゼンチンの機はまずここに到着して南極に6つある恒久基地に発つという。嵐が来たため一日延期して少し北に上がったエスペランサ基地に行く。昭和基地が島の北東にあるのに対し、エスペランサ基地は北西に位置し、南極半島の突端にある。マランビオ基地から90kmの距離を45分かけて雪上機で飛んだ。

◆基地には40数棟の建物があり、そのうち人が住んでいるのは13棟だ。その時は軍人、季節研究者(科学者)、そして月風さんたちアーティストがおり、夏休み中で本土に帰っている人も多かったため人口は50人ほどだった。居住棟以外には、気象棟、地学棟、医療棟、学校、博物館、ラジオ局、教会など、辺境とは思えない充実した設備が整っている。

◆基地内には驚くことに、図書館や暖房を完備した軍人の子供のための学校がある。1978年に大きな意味を持って設立されたという。現在アルゼンチンが南極地域の一部領土を主張しているが、それはイギリスが主張する領土と重なっている。1959年に南極条約ができ、それまで領土問題を争っていた国々がそれを機に主張を凍結した。アルゼンチンは南極条約には加盟しているが、来るべき将来南極の領土主権を主張するために、学校や病院を作って何年にもわたって人を住まわせてきたという「実績」を作っているのだ。しかし月風さんは政治的な問題は度外視して素直な気持ちで活動しようと思った。

◆エスペランサ基地の野外活動にはいくつか守らなければいけない決まりがある。まず一つ目は、外に出るときは各自必ず研究者を伴わなければいけないということだ。基地は東西150mの間に氷が解けてできたクレバスが数多くあり危険だからだ。もう一つは自分からペンギンに5m以上近づいてはいけないということだ。ただ、エスペランサ基地は営巣地の中にあるため、ペンギンの方からひょこひょこ来てくれることもあり、そういう時は至近距離で撮影できる。夏のエスペランサ基地には子育てをするアデリーペンギンやゼンツーペンギンが多数いる。その数なんと5km2に300万羽。研究者はペンギンの家族に番号をつけて管理している。

◆基地内の視察と野外活動をやりながらアーティストたちは活動の日を待つ。事前に提示しているプログラムに基づいてキュレーターがいつ誰がどこで何をするかをアレンジし、それに必要な準備も軍人と打ち合わせて考案してくれる。エスペランサ基地に入ったのが1月6日、そしてようやく月風さんのパフォーマンスにゴーサインが出たのは1月26日だった。当日は朝から準備をして雪上車に乗り込む。

◆南極大陸のイメージとかけ離れて月風さんの氷河上でのパフォーマンスは和服を着て行う。朝5時に起きて自分で着付けした。ほかのアーティストも手伝いのために同行する。移動中伴走していたスノーモービルが緩んだ雪に突っ込むというアクシデントがあり、1時間半かけて氷河上に降り立った。

◆ここからは月風さん1人だ。着物をはしょって筆を持ち、分厚い氷河の上の雪原に準備をしに行く。精神統一し、筆のところまで歩く。仲間が撮った写真には、凛としたたたずまいの月風さんが写っている。強い風が吹く南極にあって、月風さんだけが静寂に包まれている感じがする。書く文字はあらかじめ決めていた。「風(ふう)」「道(どう)」「開(かい)」の3文字だ。芸術の新しい風の道をここに開きたかった。つまり、自分がこの地でパフォーマンスをすることによって日本人の心意気を示し、新しい分野がここで開かれるということを見せたかったのだ。

◆間際まで温めていた墨と、氷河に広げた10mの白い布がある。そしていざ入筆し、「道」を書いているときに雲が一瞬にして切れ、日が照りだした。見事な表現の風景だった。月風さんにとって写真に入りきらないほどのスケールの大きい空間で書くということは夢だった。その夢をかなえるため、しらせに乗り日本隊として南極に行きたいと思っていた。しかし果たして日本隊でここまでのことができただろうかと考えると、アルゼンチン隊として南極に来たことが非常に恵まれた結果につながった、と強く感じたそうだ。

◆次は、毛筆とは一転して「インスタレーション」のパフォーマンスだ。現代アートの用語で、空間をも作品の一部にするというジャンルの芸術。終わってしまえば作品のように残ることがなく、現場で見ている人にしかわからないパフォーマンスだが、写真や映像でその様子を発表するのがインスタレーションの特徴だ。ポールを南極点に見立てて刺し、その周りに紐を引いてコンパスのように動いてサークルを作る。サークルは地球の輪郭で、輪郭の真ん中に軸がある。今自分は南極点にいるというイメージだ。

◆このとき吹雪でホワイトアウトになったことでかえって幻想的な雰囲気が生まれた。筆でサークルを描くというイメージで、しかし実際は草履で雪を削って自分の足で描いた。天候が変わって猛吹雪になり、周りでキュレーターたちがかたずをのんで見守っていた。もういちどサークルの中に入り、吹き降ろされてくるすべての風が南極点に集まるというイメージでポーズをした。これがひとつの作品の終わりだ。パフォーマンスの最初と最後に一礼するのを見て、周りの人たちは日本の精神世界を知ったと感動してくれた。お辞儀や手を合わせる動作、静と動の使い分けなどはいつも明るいラテンの人たちにとっては不思議なことなのだ。報告会の会場は静まり返り、やがて拍手が沸き起こり、しばしの休憩に入った。

◆後半は、月風さんが掲げる「風書(ふうしょ)」という芸術活動について、そして今まで旅した場所とどんな作品を作ったかという話に移る。風書というのは月風さんの造語である。旅が好きで旅をしながら風景や感動を墨で表したいということで2002年にスタートした「風」がテーマの活動だ。なぜ風の書というかといえば、大きく分けて二つの理由がある。

◆初めて風を意識したのは幼少期。10歳のころ当時住んでいた愛媛県新居浜市をきわめて大きな台風が通り過ぎた。夏休みの宿題をやっていたところ、突如屋根瓦が飛ばされ家が半壊した。普通の人なら怖がるところだが月風さんは興奮した。その頃家や街を壊すのは大魔神かゴジラだけだと思っていたのに、形がないものが家を壊したことでどうしてだろう?と興味を持った。台風が来るたびに風を確かめる!と喜んで家を飛び出す変わった子供時代だった。

◆そのころの体験から風に対して大きな興味を持ち始め、大人になって書道をやるようになってから「風」の字源を調べてみた。漢字は中国から伝来したが、風の元々の字は凡(せいふ)の中に鳥の字を配した鳳だった。昔中国では天空の鳥が風を起こすと信じられていたからだ。そして時代を経て説文解字(せつもんかいじ=最古の部首別漢字字典)ができたときに鳥が虫に変化した。その書物の中に「風吹いて虫生ず」、すなわち風が吹くことによって生き物が発生するという説明があり、虫の字に変わったのだ。

◆日本に風という字が伝来したのはその後である。以来日本人は目に見えないものを「風」で表してきた。最初に風が吹くことで風土ができ、風土ができることで風習が生まれる。風習が生まれるとそこに生きる人に作用して風貌、風格を作り出し、そして風紀が生まれる。日本人は風という字を駆使して目に見えないものを言葉として作り出してきた。そして、月風さんは風を追う。世界各地の風を感じに旅に出る。そこで風を使って風書を描くことを活動のメインに据えたのだ。

◆世界の辺境と言われるところを自分らしい方法で旅をして、そこで感じてきたものを帰国後に描くという芸術活動もしている。そこでこれまでの旅を「風景と出会う」と題して紐解いていく。月風さんの旅の手段はオートバイが多い。初めて旅したのは2002年の北米横断。そして2003年の旅はアラスカ半島を縦断して北極海までを賀曽利隆さんと旅した。北緯70度31分のところまで伸びているアメリカのパイプラインに沿って走るダルトンハイウェイを走行する旅だった。

◆2004年から2005年にかけてはアフリカのサハラ砂漠を賀曽利隆さんと縦断した。賀曽利さんと別れた後も他の仲間とモーリタニアルートのヌアディブからヌアクショットの砂漠を走り抜け12000キロ北上した。ネパールの旅は、道路が完備されてなく悪路の連続だった。ヒマラヤの中腹2500mぐらいからダウンヒルする自転車の旅だった。チベット横断の旅も賀曽利さんと行った。西安→敦煌→ラサ→カシュガルの合計6500kmをオートバイで横断した。

◆日本からオートバイを持ち込めなかったので、現地にある日本製のオートバイをかき集めそれを借りての旅だった。パキスタンに近い一触即発の非武装地帯も走った。2008年にチベット暴動が起こり、その翌年の横断だったので公安警察の検問が厳しく何度も引っかかった。

◆旅はいいことばかりではなく辺境に行くと数々のトラブルが起こる。様々な風習、風俗、習慣の違いに大いに惑わされることがある。それを「異風を知る」と名付けて紹介してくれた。アラスカ半島縦断中に遭遇した猛烈な蚊柱、チベット横断中に敦煌からラサまでの3000m以上を一気に1週間で登る行程で苦しんだ高山病、南米ギアナ高地のロライマ登山で襲ってきた吸血虫プリプリ。サハラ砂漠の一本道でテレビの突撃取材を受けたこともあった。

◆女人禁制のモスクの敷地に一歩立ち入ってしまい怒ったイスラム教徒に追いかけられたり、穴があいた燃料タンクの修理を頼んだのに、突然メッカに向けてお祈りを始めたモーリタニア人にびっくりしたり……。戸惑うことも多いけれど、特に宗教の違いには気を使わなければいけないと自省したりもした。

◆トラブルだけではない。月風さんが「旅はいつも最後には人に行きつく」とおっしゃるように、温かい出会いもたくさんある。5200mの峠をバイクで超えてドロドロのびしょびしょで凍えそうなときにテントに招き入れてくれたチベット人、採っていたブルーベリーを分けてくれたイヌイットの女性、校内見学を許してくれたばかりか即席の授業までやらせてくれたネパールの小学校の先生、ポタラ宮で五体投地のやり方を教えてくれたラサの巡礼者、一枚布でじょうずに子供を背負うやり方を教えてくれたマリのドゴン族のお母さん、ハマム(公衆サウナ)で裸で入り方をレクチャーしてくれたモロッコの女性たち……。

◆このようなさまざまな風景や人物に出会うことによって作品のイメージを高め、それを体に入れて作品に転化するのだ。現場書きと大作以外に毛筆を使った小さな墨絵の作品も描いている。白と黒の抑揚だけを使って一発で線を引ききるという、日本人の潔さが現れる作品だ。モチーフになるのは風景だけでなく、たとえばチベットの高山に生きる野良犬がいとおしく映ったときの情景なども題材になる。

◆最後に質問に答える形で月風さんがおっしゃった「不可能ということは考えたことがない。ダメ元でとりあえずやってみる。とりあえず一歩踏み出せば次に何かが掴める。私はそのように生きています。」という言葉が印象的だった。この言葉が凛とした美しさを裏打ちしているのだと思った。(瀧本千穂子 娘の柚妃と2013年6月以来今回の月風さんまで16回報告会に参加している)


報告者のひとこと

極地からの文化的発信

■報告会当日は土砂降りの雨だった。そのような日に足元を濡らして来て下さった皆様にまずお礼を申し上げます。私の南極行きは物凄い事のように見えるが、実は数々の数奇な扉があった。それは正に「人」との出会いに導かれている。日本人の女性隊員として、2回の越冬を果した岩野祥子さん、極地研の本吉洋一副所長、当時南極シンポジウム担当だった神山孝吉先生、お話を伺った多くの隊員、海上自衛隊の方々だ。

◆その中で、特に印象的だったことは、2008年に初めて極地研で南極シンポジウムに参加させていただいた時の神山教授のお言葉だ。「我々がそのような時代の到来を感じつつも、名乗り出る人がいないと駄目なのである」。南極大陸が現在南極条約の下、世界が協力して科学研究を行う特別な場所であることは誰もが承知しているが、半世紀を越え、南極に関っている方の一部に、極地を身近な場所にしてゆく時代の到来を予期する「風」が吹いていることを私は初めて知った。

◆そのような中で、私はアルゼンチン国立南極局が行う芸術プログラムに参加が決まった時は、喜びと同時に日本人としての役割も痛感した。しかし私はこれまでと同じ様に自分らしく活動しようと思った。それは私が追い求めてきた「風」に集約される風土や風光、風景などの自然と、その地に生きる人間に現れた風貌や風格を感じて作品に転化することである。

◆報告会では、南極行きの経緯、南極滞在中の基地施設の紹介、野外視察、自然、そして、切望していた大氷河上での書の揮毫を写真で、エスペランサ基地へ雪上機で到着する上空の様子と3日間閉ざされたブリザードは動画で報告した。

◆南極大陸は地球の果てにある大自然が残されている最後のフロンティアだ。将来、好奇心に満ちた様々な感性を持った人が訪れる時代が来るかもしれない。そしてこの地で活動する人間は科学者でも芸術家でもずっと命がけだろう。いつか詩人や音楽家が南極の風に出会ったらどんな素晴らしい作品が生み出されるだろうか。子供の頃に体験をした強大な台風の「風」、自然と人をはぐくむ大自然の驚異、「風」をテーマにこれからも地球の感動創作、『風書』を積み重ねてゆきたい。(月風かおり


風景になるひと
──月風かおり地平線報告会を聞いて

 月風さん自身が、大地に積極的に参加することによって、「行為が成って」ゆく。月風さんの風景への参加は、個的・私的な儀式のよう。白い衣装(和装)に 白い背景。すっきりと立つ月風さんのシルエットが とても神聖に感じました。だけれども、その一連の儀礼は、決して宗教などではなくて、「月風かおり」さんという まったくのひとりの個人のオリジナルな想いに基発する「結意」だ。

 個に焦点を合わせつつ、その全体の壮大に徐々に融和してゆくのは、それ(月風さんの行為の経緯)を観ているぼくたちの感性。鑑賞者の感性が 起発しているということ。つまり、月風さんの そのような行為は、現在日本のそこかしこの今此処に滞在する「都市に動かぬ個々」の眠れる希望を触発し解放する。やさしく ゆっくりと。

 そのような大役をさわやかに淡々と成して行く 南の果ての氷河に立つ(起つ)「ひとり(自己に起因する)」のパフォーマンス(行為)を 清らかであり 精悍であるとおもった。  一連の行為は、「月風かおりは、いま、たったこれから 風景に参加させていただきます」という自覚を真摯に表明している。そのような冒険家は 希有であると ぼくはおもった。

 南極での行為のみではなくて、今回の報告会では月風さんの人生の一連の旅も紹介されましたが、月風さんは、「風景に参加している自身」をつねに自覚しているようにおもう。あるいは、いまそのときどきを 「なんとか」体感しようと タイムラグの解消に いつも勤めているようにすら感じた。

 二次会の中華「北京」で月風さんと向き合って話していただいたときにも ぼくはそういうことを感じた。だから、たぶん、サハラであるとか 南極であるとかで スイッチが入るとかいうようなことではなくて、それは「常に」なのだとおもいます。現代社会における「現在此処」という自覚性の希薄に いつも敏感に直面しているのだとおもいます。

 目撃することでしか体感し得ないことがある。それは、つまり、常に「今」「此処」を大切にされて、月風さんは生きていらっしゃるのだなという感じです。「スゴい」って おもいました。

 宗教に成らず 政治にも成らず 世界中の人々が対峙対話しながら 少しずつ少しずつ 理解を疎通と信頼を育むことが可能なのは、たとえば 「月風さん」のような行為なのではないだろうか?

 初対面の風景に対峙するとき 風景に参加するときに 個人が成しえる 最大限の清潔な態度を みたような気がしました。

 おそらく 月風さんのパフォーマンスに共感共鳴するかたがたは 月風さんご自身の「常の態度・姿勢」そこに 射抜かれるのだと おもいます。

「自分自身」を行為の素材にしつつ なにをも支配しない  行為者でありながら 決して自己は突出しない  リアリティを 強要しない 誇示の無い開示  「本人性」を極力排除した使命感が そのある種の聖域を成している それこそが 行為における「真の匿名性」ではないだろうか

なにも コントロールしようとせずに 「風景」を みごとに紹介している

南極は 遠くて近い 彼方は「今 此処」に 同化してゆく 意識の自在が解放されるとき 「ライブな行為」は、宿命的に一回性であるがゆえに 想いは「語り継がれ」 口頭によって「伝説」は 育くまれてゆく。おそらく その経緯そのものが、市民による創作行為の基点であり、市民による文化のはじまり。

神話にまどわされず 伝説のひとを たったいま目前にしている。 各々による自覚のある物語 それが伝説

「親善とは なんだろうか?」 ということを 喧騒の都市に居ながらにして あらためて考えることができる。そういう 報告会だった。(緒方敏明 彫刻家)(緒方敏明 彫刻家)


先月号の発送請負人

■地平線通信434号は6月10日印刷、封入し、11日郵便局に渡しました。今回は、たかしょーこと杉山貴章さんと加藤千晶さんの宛名制作コンビの工夫で住所氏名を印刷した宛名シールに「料金後納」と「ゆうメール」の表示もあわせて印刷してあります。たかしょー君、ちあきさん、ご苦労様でした。10日の作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
   森井祐介 松澤亮 伊藤里香 石原玲 前田庄司 久島弘 武田力 江本嘉伸 加藤千晶 福田晴子 山本豊人

   
通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

滝村英之/小高みどり(20,000円 いつもありがとうございます。通信費が遅れてすみません。うち1万円は昔アムカスで行ったネパールへ、心ばかりですが)/斉藤宏子(10,000円 江本さんの声聞いてすっごく嬉しかったです)/村井龍一(10,000円「急行北陸」の名前、懐かしいですね。当時の大学山岳部には活気がありました。今年の正月、恒例の早月尾根に法政の仲間と。大学はどこも入山せず、中高年が40人ぐらいで悪天候で誰も早月から登れずでした。通信、いつも楽しく読ませていただいています)/和田美津子/林与志弘/川野好文/北村敏(20,000円 前号で通信費が赤字ということを初めて知りました。昨夏から多用で報告会欠席続きです。例会や福島ツアー出不足料を通信費カンパとさせていただきます)/田中明美・長田幸康/横内宏美(4,000円)/向後紀代美(10,000円)/馬杉裕子(10,000円 いつも通信ありがとうございます! 田舎暮らしでネットもあまりやらないので、この通信を毎回楽しみに、楽しく拝見させてもらっています。東京から離れ、今は箱根の西斜面で元気に暮らしています。家の裏山は人間にはほとんど会わない地図にも載らないような楽しい道ばかりで、最近は日光浴中の蛇を踏まないように注意しながら走っています)/伊藤栄里子(20,000円)/小林天心(10,000円)/高野政雄


地平線ポストから

地平線会議のみなさまへ
 ランタン谷の新しい村つくりのために私ができること
   〜綾さんの帰国報告〜

 6月22日に、心残りは多々ありましたが、一応のミッションを終えて無事帰国してきました。こんなに辛いネパール訪問は初めてでした。1か月の滞在のうち最初の1、2週間は私の心の立て直しに充てたと言ってもよいくらい。

 ネパール大震災から2か月を過ぎ、カトマンドゥで避難生活をしていた村人たちも、モンスーン明けを合言葉に少しずつ帰村の動きがみえてきました。

 先日テレビの番組を見ていたおりのこと。番組は3.11の1年目に制作されたもので、東北の老舗料亭の様子を伝えていました。伝統行事に伝統的なお料理を準備します。女将が「昔と同じです。何一つ変わっていません。同じであることがどんなに大切なことか」というようなお話をしていました。聞きながら、なぜか目頭が熱くなってきました。何一つ変わらないヒマラヤの風景、村人の生活でした。それがたった一度の大地震で四つの集落のうち二つが地図からも消えてしまった……。このことに思いが馳せてしまったからでしょう。


 普通一般的に復興支援といえば、力仕事や物資の配達などというものですが、ランタン村カトマンドゥコミュニティ(名称は新たに「Langtang Management & Reconstruction Committee」となりました)は違っていました。震災発生後の2週間のうちに、全住民をカトマンドゥにヘリ輸送し、カトマンドゥの西スワヤンブナートのチベット仏教寺院の庭に集め、テント村を組織。住民台帳を作り、ネパール国内外からの支援の窓口を一つに、金銭的な支援は公開の場で受け渡しを行ってきました。見事というほかありません。

 これらをリードしたのはカトマンドゥにベースを置くランタン村出身の30代の若者たち。わがカトマンドゥの息子テンバ( Temba Lama)はその代表に選ばれていました。息子は、支援物資を備蓄し、帰村の折には一人に付き2俵の穀物を持たせるのだと言っていました。

 ゆえに、私にできることは、テント地の手伝いではなくて、ランタン谷の新しい村つくりのためのソフトとハード。これはFacebookにも折々に報告しているように、何度も議論を重ねてきました。それこそ机上の空論を。彼らがいう「美しい村」に向けて、私の希望もこめて、社会的経済的に格差の少ない村を目指してもらいたいし、そのための支援は続けたいと考えています。

 農牧畜を中心とした宗教共同体としての社会がこの二十数年の間に徐々に歪められて、宗教行事や牧畜の形態も変質してきていました。全てとは言いませんが、格差を生み出した経済の歪みは観光化が助長してきたことは否めません。「新しい美しい村」はそういった外からの影響にも強いアイデンティティーを持ったものであることを願っています。

 震災直後からカトマンドゥの息子テンバとの交信を続けてきましたが、帰国後また再開しました。最近の電話では、お年寄りたちを優先的に帰村させているとか。まだ家は建っていませんが、放牧用の石室にシートを張って住むのだそうです。平地の暑さや湿気は耐え難いものになっていたのでしょう。帰国する当日、最後のお別れをしにテント村を訪ねたおりのことです。一人の老女が大きな荷物を背負って寺院の門のほうに向かっています。若者たちが、

 「おい ばあさん どこへ行くんだね?」と訊きます。

 「こう暑くてはたまらん。村へ帰るんだよ」

 若者は荷物を取り上げ、私は老女を抱きしめて「帰るときは、みんなでいっしょに帰ろうね」となだめました。

 国立公園内ランタン谷への道はまだ封鎖されたままです。帰村にはヘリコプターで送ります。ランタンプランからもチャーター2便の支援をすることにしました。


 全村民の3分の1近くを失いました。経済的社会的復興に加えて心の復興もあと何年もかかるのではないかと思います。

これまで多くの支援をいただいてきました。感謝を申し上げると共に引き続き見守っていただきたいと思います。(貞兼綾子・ランタンプラン代表)


おしらせ

公益社団法人日本雪氷学会主催の緊急公開シンポジウム「ネパール地震と雪氷災害ー現状把握と復興に向けて」で、貞兼綾子さんが基調講演をします。
◆日時:2015年7月18日(土)13:00〜17:00(12:30開場)◆場所:法政大学市ヶ谷キャンパス(55・58年館、531教室)◆参加費無料、申込も不要です。◆貞兼さんは、「ネパール・ランタン村の地震被害と復興に向けた歩み〜ランタンプラン活動報告」として基調講演を行う予定。


待ちに待った帰島
  ──口永良部島噴火避難その後

■今年の梅雨は特別雨が多く、屋久島ではもうひと月も太陽を見ていない。気持ちがすっきりしない日が続くが、約1か月前に隣の口永良部島から避難してきた方々の不安に比べれば……。5月29日に噴火して全島避難となった口永良部島(通称エラブ)は、屋久島の北西12キロにある小さな島だ。屋久島町に属し、屋久島と共に国立公園にも指定されている。照葉樹林の素晴らしさから『緑の火山島』とも呼ばれるのんびりした島だが、今もなお火山活動が治まらず、住人の帰島の目処はたっていない。全国的にはあまり知られていないという噴火後の経過を、まとめておきたい。

◆6月2日、島全域が落雷で停電した。地震計や監視カメラなどの観測機器のバッテリーは数日しか持たないということで、4日に電力会社が復旧作業を行なった。火山の観測ができないと帰島の判断がつかないので、住人は気をもんでいたという。6日、住人に対して町や気象庁からの1回目の説明会。引き続き噴火に警戒が必要な事や、公営住宅への入居の事等が伝えられた。12日、一時帰島に向けて道路などの調査が行なわれた。島に上陸した消防団の方が、避難の際に野に放った飼い犬と2週間ぶりに再会。屋久島へ連れて来る。犬の方が年上だという飼い主の男の子は、とても嬉しそうだった。

◆13日、安倍総理が屋久島の避難所を訪問。仮設住宅建設を加速化すると語った。18日、新岳が再噴火。一時帰島が見送られた。噴火の影響でまた停電し、22日に一部を除き復旧した。24日、仮設住宅27戸が着工。7月29日に完成予定で、8月から47人が入居するという。戸数の決定には、町外避難している方の希望調査に時間がかかったようだ。コミュ二ティ維持のため、談話室も設置できることになった。

◆町が用意した公営住宅と民間の借り上げ住宅には、この時点で20世帯33人が入居(民間住宅は掃除がされていないようだった。掃除ボランティアの希望者はたくさんいたはずなのに〜)。3か所あった避難所は2か所に集約された。避難所担当の役場職員は24時間3交代体制で勤務していたようで、避難住民は職員の負担も気遣っていたようだ。今は職員の夜の常駐はないという。避難所では咳が流行り、体調不良者が多かった。住人がばらけて生活するのに際し、住民電話連絡網が作成された。

◆29日、噴火から1か月の時点で、仮設住宅への入居を待つ18世帯29人が2つの避難所で暮らしている。仕事についた人もいるが、多くの人は避難期間が定まらない中で「とりあえず」の仕事を見つけるのに苦心している。そんな中、帰島に向けた調整役を43歳の男性が引き受けることになった。車を搬出する順番など、住人の要望を聞いて優先順位をつけるという。

◆この日行なわれた2回目の住民説明会では、「一時的な生活保護のような支援はもらえないか(今の所住宅被害が確認されていないので、国の被災者生活再建支援制度の対象にはならず、支援金は支給されない。町から見舞金、義援金は支給される。)」「噴火警戒レベルの設定に住民代表の参加を」などの意見がでたという。

◆7月2日、80歳の男性が自己判断で漁船をつかって島に上陸し、家畜の搬出や餌やりをしていたことが報道された。エラブには6月に数回渡ったという。「家畜も家族と同じ。行くしかなかった」というコメントに、住民の中からは共感の声と共に結束の乱れを懸念して自粛を求める声もあがっていた。

◆7月7日午前。梅雨の晴れ間をぬって、避難後はじめてエラブの一般住民が一時帰島した。各世帯の代表65名と町職員や関係者、計147名がフェリーや漁船で島に向かった。参加した住人によると、島の中心部である本村集落は火山灰の影響もなく、以前と全く変わらない様子だったという。しかし金岳小中学校は校舎内に土砂が入りこみ、1階にある教室や職員室は泥だらけ。膝上の高さまで泥水が来たあとがあった。

◆噴火がどう影響しているか分からないが、今年の異常な大雨のせいもあるだろう。教室内の写真を見せてもらったが、黒いべっとりとしたものが部屋中に広がる様子は東日本大震災の際に見た津波後の建物の中と同じようだった。何かが腐ったような土砂のにおい。校庭になぜか大量に死んでいたという鳥。カビてしまったランドセル。泥水に浸かった書類。話を聞くほどに、復旧までの道のりの厳しさを突きつけられる。

◆住居にはほとんど被害はなかったが、どこの家もカビがひどいらしい。カビのつららができていたとも聞いた。作業は班行動で、台風対策に雨戸を閉めたり、持ち出す服や日用品をまとめたり、食べ物の片付けをしたりと各々が忙しく動いた。短時間で目的を果たそうと、皆前日から計画をねっていたという。島に行けなかった単身世帯のお年寄りなどは、近隣住民に戸締りを頼んだ。

◆車はエンジンをかけっぱなしにしてバッテリーを充電するよう、同行したエンジニアから指示があったという。作業時間は2時間の予定だったが、火山性地震が多く観測されたため警報が鳴り、1時間で急きょ切り上げとなった。避難場所の番屋ヶ峰までの道は土砂崩れで通れなかったので、直接港に集合になったという。次の帰島はまだ未定だ。屋久島にいてもなかなかできる事はなくもどかしいが、いざというときに動けるように、様子を見守り続けていきたい。(屋久島 小学校教師 新垣亜美

雑草との戦い、築100年の古民家への引っ越し……

■やけに長い梅雨が続いておりますね。気のせいでしょうか? 暑かったり寒かったりよく分かりませんね。晴れの日が続くと田んぼの水が気になりますが。

◆田植えは無事終了しました。今年は手植えに挑戦しました。農家のお年寄りの腰が90度曲がっている意味も分かりました。正直、曲がります。でも大変なのは、田おこしでも代掻きでも田植えでもなく、果てしなく続く雑草との攻防戦です。私、今年は雑草の撲滅を目指しておりまして、鬼のように抜きまくっています。

◆水位を高く保つと雑草が生えにくい事もわかってきました。去年の教訓を生かして青稲のうちに撲滅を!とムキになっています。そのせいで、去年あんなに手をかけていた畑の方が放置されていて、それこそ野菜なのか雑草なのか分からないような畑と化してしまっていて、いつの間にか育っていた巨大オクラの大量消費に励むハメになっています。あちらを立てればこちらが立たず……。

◆ところで我が家、この夏、転居することに相成りました。ついに永住の地へ〜。遠く遠く、移動距離にしてなんと50m!! すみません。目の前です。築100年の古民家が見つかりまして(いや、100年間ずっとあったのですけど)そこをリノベーションすることになりました。ハヤリの。仕事場も住居も一括引越です。土台を固めて、新たなる出発を!! と意気込んでいるところです。今工事の真っ盛り。9月半ばには新店舗としてオープンさせる予定です。その時はまたお知らせさせていただきます。(京都 多胡歩未

甲冑旅人、目下北海道をのんびり歩き中

■山辺です。お久しぶりです。僕はいま北海道の旭川にいます。昨日は有名な「旭山動物園」に行きました。元気に動きまわる動物達を間近で見ることができ、凄く楽しかったです。去年の夏に函館に上陸し、冬はニセコでバイトしていました。そして今年の4月から旅を再開し、函館から2か月かけて旭川に到着。北海道はとても広い! 一周するのに、あと2か月ぐらいかかりそうです。景色も良く、食べ物も美味しく、人も優しくて、とても旅行しやすいです。夏の北海道を楽しもうと思います。それでは、失礼します。(山辺剣

土地を買ってしまいましたっ!! トラックも!

■まだ白夜が続いていますが、それでも次第に夜が増えてきたユーコンから近況報告です。ジャーン!! 土地を買いました。優しい人達から大金を借りてしまったので、これから返済を頑張ります。もう、2人から「売る気があったら買いたい」と連絡がきています。人気物件でした。いざとなったら売ってなんとかします。

◆で、ですね、実はちょっとずつ修理しながらなんとか頑張っていたトラックが、買った方が安い所まできてしまい、そちらも買いました(まだ払ってない)。こちらは前のボスから買ったので「この冬、うちで働いて返せ」と言われています。ツーリストを犬ぞりに乗せて湖をグルグル走る脳みそ不要の単純作業です。トラックの為だから頑張る予定です。

◆で、今季のレースは出場不可能だと思っています。が、私のレースでの活躍を楽しみにして頑張っている人がいる事を知って、なんとかしたいという気持ちが芽生えました。さあ、どうする借金大王?! というわけで、予定はさっぱりわからないままとりあえず仕事を3つ掛け持ちで稼げるところまで稼いでいる段階です。白夜に助けられてます。白夜ありがとう!(カナダ・ホワイトホース 本多有香


あやTシャツ作戦、進行中です!

ランタン谷の家族はじめ村人たちを支援する貞兼綾子さんを支援するためのTシャツ作り、目下ひそかに進行しています。来月8月28日には貞兼さんを迎えて地平線報告会をする予定で、その日にお披露目できれば、と考えています。どんなTシャツにしようか、アイデアはいろいろ出ていますが、イラストは、もちろん、長野亮之介画伯。いまからご期待、ご協力ください。(江本嘉伸


「日本冒険フォーラム」ことしは11月22日に!

4年前、兵庫県豊岡市の植村直己冒険館主催で御茶ノ水の明治大学でやった「日本冒険フォーラム」を今年もやります。今回は、11月22日(日)、4年前と同じく明治大学コモン3F アカデミーホールで。テーマは「極地」。植村直己さんが生前最も信頼していた文芸春秋社の湯川豊さんが「植村直己を語る」と題して基調講演するほか、大場満郎、岩野祥子、荻田泰永、武田剛(元朝日新聞記者)さんら極地の旅人が知られざる極地の世界について縦横に語り尽す計画です。市毛良枝さん(俳優・登山家)をゲストに、コーディネーターは江本がつとめます。詳しくは後日あらためてお伝えしますが、いまから予定しておいてください。(E


楢葉町の避難指示解除、1か月延期されました

■江本さん、昨晩は突然のお電話大変失礼致しました(6日夜、東北バイク旅の賀曽利隆といつもの「横川荘」で合流、気勢を上げ電話してきた)。ところで、本日発表になったのですが、楢葉町の避難指示解除時期が当初予定の8月上旬から9月上旬へ延期されました。町議会が時期尚早(医療機関、商業施設、学校設備等の不備)として異議申し立てをした結果のようです。個人的には戻れる人から帰ればよい、と思ってますので、解除時期は延ばす必要は無いと思っています。賛否は様々出ています。お盆休みの時に「一人ピースラン」として広島〜長崎間約430kmの走り旅に挑戦します。暑さで一気には走れないと思いますので、1日90km〜100kmのステージ形式で走る予定です!(いわき市 渡辺哲

「決定版30年史海外ツーリング」、間もなくお披露目します!!

■この数か月、空き時間のすべてをつぎ込んで作ってきた「決定版、30年史海外ツーリング読本、夢とバイクは国境を越える」がついにできた。30年史とは1985〜2015年のことで、5年ごとにその時代をもっとも色濃く反映していると思われるライダー23人に自分の体験談を書いてもらった。書き手の中にはもちろん地平線ではおなじみのあの人、この人も登場する。通してみると自由に走っているつもりのライダーも時代の影響からは逃れられないのだということが分かるしくみだ。

◆今回自分は、一書き手であり、書き手のまとめ役の編集長でもあった。編集作業を未経験ないきなり編集長となり、悩まされたのが、人の文をどこまで直していいかだった。誤字脱字はいいが、問題なのは意味が分かりにくい表現で、その部分を自分なりに直しすぎると、せっかく苦労して書いてもらった文章からその人の味が消えるだけでなく、文そのものがその人の文でなくなってしまう。読者のためには当然理解しやすくするべきだけれど、書き手の個性はなるべく生かしたい。そのへんの匙加減が編集の醍醐味なんだろう。

◆恐ろしかったのは人の文章を直す快感で、それはきっと修正できるほど自分の方が優秀であるという錯覚から来る優越感なのだと思う。まあ体験してみて、毎月かかさず出し続けている地平線通信の偉大さ、あんまり仕事してるみたいに見えない江本さんのすごさが少しは分かった気がする

◆話は脱線したけど、僕らの本はラピュータ出版より7月24日発売。定価1944円、豪華360ページの大作です。今月の報告会でも出来立てホヤホヤを販売しますよ。ぜひ手に取ってみてください。(世界一周ライダー、坪井伸吾


「窓」追記

ダークツーリズムと修学旅行

■434号で「ダークツーリズムというネーミングに違和感」と書いたのが気になって、少し調べてみた。するとこの言葉は1990年代にイギリスの観光学研究者が言い出したことらしかった。東浩紀さんは2013年に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』を、そのすぐ後『福島第一原発観光地化計画』を、ゲンロン社から出されている。後者の中で井出明さんという観光研究者が、ダークツーリズム事情を詳しく説明していた。

◆東さんは観光というコトバが持つ一般的意味合いが、能天気な物見遊山の印象を与えるから、福島原発観光地化計画という名称には、相当な反発があるだろうと考え、敢えてそうしたと書いている。その方が多くの人々の注目を引き寄せられるからと。「人類歴史の負の遺産観光」で福島は経済活性化も狙うべし。だから一般観光客を何としてでも引っ張ってきたいと。これには納得。

◆かって、嘉納治五郎は自分の高校生徒を日露戦争の戦跡観光に連れ出している。こちらは帝国意識高揚が目的だった。沖縄や広島。アメリカ南北戦争の遺跡巡りも人気が高い。アウシュヴィッツもなるべく多くの「観光客」に見せたい。能天気な観光客がそこで何を考えるのか。これを「スタディツアー」と銘打ち、はやくから真剣にやっている日本の旅行会社もある。修学旅行は小中学生向けだけではないのだ。

◆だが、英国産のダークツーリズムには納得できない。ダークと言えば日本ではダークビジネス、暗黒街など、犯罪イメージと不可分。ダークツーリズムにダークツーリストとくれば、これはもう犯罪者の観光団体そのものではないか。「名正しからざれば則ち言順ならず、言したがわざれば則ち事成らず」とは孔子。この場合の名は名分ではなく、そのまま名前と読めばいい。井出さんには少なくともイギリスの本(Dark Tourism)を訳出し、ネガティブツーリズムでもメモリアルツーリズムでも、わかりやすい名称を考えていただきたい。英国で使われたからと素直に輸入では情けない。できることなら日本語で。福沢諭吉もせっせと英語の日本語置き換えに励んだのだ。(小林天心


歩く人類学者・マチョ・イネ氏よ、永遠に

■6月某日、満州大作シリーズを完結させたすぐ後に、燃え尽きるように逝去された船戸与一巨匠を偲ぶ会の末席に参列させていただく。キューバより密輸した葉巻を遺影に手向け合掌。思えば船戸氏ほど、太巻きシガーと辺境が似合うハードコアな日本人作家はいなかった。

◆散会後、長倉洋海氏とキューバの話をしていて、2次会会場に向かう恵谷冶御大やドクトル関野氏ほか常連の姿を見失ったのをよいことに、さっさか離脱して帰宅。ふと目にしたネットの画面に、歩く人類学者マチョ・イネこと西江雅之氏の訃報を見つけた。

◆スワヒリ語で「4つ目の男」を意味する、瓶底眼鏡がトレードマークだったマチョ・イネ氏。日本でもっともたくさんの言語を話す(40ヶ国語以上だとか)学者としてよりも、大草原を闊歩するマサイ族の遊牧民に「お前は歩きすぎだ」と文句を言われたとか、年に2回しかお風呂に入らないとか、魚と穀物は口にせず肉と果物しか食べないとか、ほとんどその奇行の方が先に語られがちな言語人類学の泰斗、それより何より本当の天才奇才であらせられた方だった。

◆話は変わって、先般この夏ペルーのブランカ山群へ行きたいという向後ご夫妻に三輪先生を加え、青山の渋い行きつけカフェでお話する機会があった。その折りに、アンデス考古学や人類学の話題から、紀代美さんが学生時代にアンデス考古学の父とも言うべき泉靖一氏や石田英一郎氏の授業を履修していたとうかがって、うらやましいやら驚くやら。やはり、目の前にご本人が立ち、生の声が耳から脳へダイレクトに伝わり、表情や語り口を目にできるのは、映像や文章とは決定的に違う。情報は常に現場の力にはかなわない。

◆その意味でも、西江氏のお話を個人的に直接うかがう機会が持てたのは、今さらながら忘れがたい記憶だ。ややかん高い早口で、とてつもなく濃い内容のお話をマシンガンのようにしゃべられる方だった。思考する頭の中身が、口から外部に放出される速度が追いつかないという感じに、いつも軽やかに語られた。一昨年亡くなられた人類学の巨星、山口昌男氏と並び、もっとも直接的な影響を受けた存在であった。

◆「カーニバルは面白い、とにかく歩き見続けること、目を凝らすこと」──目の前を嵐のような速度で通り過ぎるお二人から、かろうじて掴み取れたのが共通したこの言葉だった。自分なりに拡大解釈すれば、つまりは「旅人であれ」ということだ。ささやかながらご両人に接近遭遇する機会を持てたことは、やはり対象が巨大なだけに、インパクトもまた大きく力強かった。脳髄をそのまま保存してスーパーコンピューターに移植できないものか、悪魔のようなことを夢想するほどに、その思想は強烈そのもの。

◆吉本隆明は山口昌男を最後まで理解できず、その悔しさゆえにチンピラ呼ばわりして終生けなし続けた、という伝説に思わず頷いてしまうのも、いまでは切なくやるせない思い出だ。喧嘩っ早さで名を馳せ、通り過ぎた後には論破された宿敵の屍累々といわれた山口氏だが、西江氏に「この数十年、ケンカをしなかったのはあなただけです」と語ったそうな。西江氏も嬉しい言葉だったと正直に記している。ご両人の不在は、とてつもなく大きく重い欠落感につながる。

◆文章でも、西江氏こそ日本のブルース・チャトウィンと勝手に位置付け、最大限に評価してきた存在だった。アフリカでのさりげない日常を綴ったエッセイ『花のある遠景』(みすず書房刊)は、チャトウィンの傑作 『 IN PATAGONIA 』 に先立つこと2年、紀行文学の頂点と呼ばれた同書をはるかに上回る珠玉の一冊だった。山口氏もチャトウィンのノマディズムに惹かれた一人だったそうで、その当たりにも運命的なものを感じさせられる。次作の『異郷の景色』(晶文社刊)とともに、人生の方向性を指し示してくれた2冊である。

◆西江氏の写真がまた独特の視線で世界を切り取る、素晴らしい感性を見せていた。生前の作品を集めた写真展が日本橋のギャラリーで開かれている、というのを聞きつけて、終了ぎりぎりに滑り込んだ。ギャラリーの壁全面を埋めたマチョ・イネ・ワールドの濃厚なこと。その息遣いは世界の広さと境界を軽々とクリアし、蒼穹を風とともに駆け巡る。ハイチ、パプアニューギニア、モロッコ、モーリシャス、そしてもちろんアフリカ。なかでもケニアのラム島の写真に、思わず生涯3度目の写真作品による金縛り状態になった。細い路地の向こうに立ちどまる2人の少女のややぶれた写真は、『旅人からの便り』(リブロポート刊)と題された本の表紙となっている。

◆それにつけても西江氏や山口氏、船戸氏はもとより、自分に取っては代え難い大きな存在が次々と旅立たれてしまい、残されたものの寂しさを痛感させられている。永遠のバンドマン忌野清志郎、ブルースの大巨匠B.B.キング、ワールドミュージックを民族音楽から解き放った中村とうよう、鬼才アル中作家の中島らも、その不在でテレビの堕落が止まらなくなったナンシー関、止めを刺すように去って行ったフリージャズの元祖オーネット・コールマン……。

◆現在のマジに崩壊しつつある日本に、この人がもしまだいてくれたら、と思い出す名前も多い。かくして、カスばかりが世にはばかり、知性も教養も今や嘲笑の対象でしかなくなりつつある現実が、彼らの透徹な目線にはどのように映るのか。地獄の底におとされても構わないから、なんとか聴き出す術はないか、妄想の絶えぬ日々を過ごす今日この頃である。さて、また明日から真冬の南半球へ旅立つぞ。では、さらば。( カーニバル評論家−ZZz


今月の窓

ないちゃーでもありうちなんちゅでもある私ができること

■旧暦5月4日の「ユッカヌヒー(4日の日。西暦6月19日にあたる)」を迎えると、沖縄各地の漁師町はハーリーシーズンに突入だ。ここ与勝半島はハーリーが盛んで、いろいろなチームが暗くなるまで繰り返し櫂を合わせ練習している。そして今年は2年ぶりに、我らが長野画伯率いるチーム「地平線ダチョウスターズ」が比嘉ハーリー大会にエントリーした。本番は7月12日。メンバーは3日前から浜比嘉島入りし合宿だ。

◆6月23日は沖縄では重要な日だった。慰霊の日。学校や官公庁は休日で、正午には頭を垂れて黙とうする人が多い。海の駅あやはし館に遊びに来ていた野球少年たちが「あと2分だよ」と大急ぎで走っていったと思ったら、正午の時報に合わせ海の方に整列をし帽子を取って黙とうしていた。

◆沖縄の梅雨明けは例年だと慰霊の日前後。毎年この日が近付くとテレビや新聞なども特集をやるので、沖縄がルーツでない私でさえこの梅雨のひどい雨の中を必死に逃げ惑った沖縄の人たちのことを思わないでいられない。「この世の地獄を集めたような」沖縄戦から今年は70年。沖縄の4人に1人が亡くなったという。

◆あのおじいも、あのおばあも、いつもにこにこしているけど実はあの地獄をくぐり抜け生き残った人たちだ。私が住む地域は激戦地ではなかったけど艦砲射撃を受け燃えてしまった家も多いと聞いた。慰霊塔に名前が刻まれている夫のおばさん(お父さんの姉)は鹿児島へ向かう疎開船が撃沈されて亡くなったそうだ。かわいくて評判の子だったという。慰霊の日は沖縄の人のほとんどが身内を悼む日でもある。

◆70年たっても基地はあり、戦闘機が飛びヘリコプターが頭をかすめ、地位協定で縛られいまだに植民地の扱いを受けている沖縄。沖縄にとって基地は、まるで大きな傷口がかさぶたになりそのかさぶたが取れずに皮膚の一部になってしまったかのようだ。ただ今年は例年とちょっと違う。翁長知事の誕生で人々が口を開き始めこぶしを上げ始めた気がする。先日慰霊祭で安倍総理が壇上に立つとあちこちから野次が飛んだが、沖縄の人はああいう目立った行動はなるべくしない、でもしないではいられなかったんだと思う。

◆私が沖縄の小さな島に嫁いで来て、もうすぐ10年になる。台風は怖いけど、ヤギたちはかわいいし、畑仕事は楽しいし、島の行事や伝統芸能にも関わり、婦人会活動にも参加して(というか今は婦人会会長をさせられてます)、島人たちとも信頼関係を築けていると思う。

◆沖縄に暮してみて初めて知るという事が数々ある。今まで知らなくてごめんなさい、と思うことがあまりにも多い。20代にバイクで日本一周をした時に感じたナイチャー(内地出身者)に対するよそよそしさ、目に見えない壁。沖縄にだけは自分は暮せないと思っていた。それが今や私は、何十年も前から島にいるような大きな顔をして(うちのだんな曰く)暮らしている。

◆あのよそよそしさはなんだったのだろう、と、今考えるとあのころの私はバイク一人旅でいい気になって沖縄の歴史など知らずに海岸に野宿したり神聖な御嶽にテントを張るなどし、無知でどうしようもない無謀なアホ女のナイチャーだった。今でもアホ女に変わりはないが私を受け入れてくれたこの島に恩返しと思ってなるべく地域行事や自治会の手伝いはするようにしている。私はこの島に足を向けては寝られないのだ。

◆島に来た頃よくおばあたちから言われた。「島はさみしいでしょう?」と。いえいえとんでもない、毎日が冒険、毎日が新鮮、エキサイティング!って感じだった。毎日のように島人がうちにビールや泡盛、刺身と三線をたずさえて来た。本土から来た私を見にだ。どんな奇特な女だろうと思われたはずね。「おまえたち、披露宴やれ!嫁さん島に紹介しないでどうするか」と引っ張っていかれて島のホテルで披露宴をすることになった。

◆ホテル浜比嘉リゾートでの披露宴は島人の口ききで「時間無制限、持込みOK」という今では考えられない待遇で、島の人たち総出の大芸能大会となりとっておきの伝統芸能を披露してくれた(地平線会議関係者も江本さんはじめたくさんの方にいらしていただきました)。その後も島の人たちは三線を弾く私を珍しがって「方言もわからんのによく唄えるな、意味わかってんのかー」と言いつつも伝統芸能やお祝いごとにいつも呼んでくれた。この人なつこくおせっかいな人たちが暮すこの島はなんだかネパールの山村のようでとってもいごこちがよかった。

◆島に嫁いで来てまもなく、海人と酒を飲んだ時に基地問題の話になったことがある。海人は基地は沖縄に必要だと言い、私はいつまでも基地に依存していいわけないと反論した。深刻な喧嘩になる前に他の話にすりかえたがこの問題はなかなか根深いと思った。だんなのお父さんは長年基地内のベーカリーで働いて家族を養ってきたわけだし、誰かしら親戚や身内が基地で働いているのだ。これは原発問題にも似ているかもしれない。

◆「しがらみ」のない私はずけずけとものを言い呆れられることもあるが、ないちゃーでもありうちなんちゅでもある私ができることは何でもしようと思っている。島に移ってきたないちゃーに声をかけて地域行事に引っ張り出したり、最近では比嘉公民館のフェイスブックを立ち上げて島の魅力を発信したりしている。アメリカ統治時代も本土復帰の時も、いつでも沖縄はないがしろにされその都度口下手なうちなんちゅはあきらめと我慢を繰り返してきた。

◆今、ようやく何かが動きだし、何かに本気で抗おうとする空気がある。うちなんちゅの誇りを取り戻す最後のチャンス、という覚悟が確実に広がっているのを感じる。まさに正念場。今は旅人ではなくうちなんちゅとして、沖縄の辿る道をしっかりと見つめていこうと思う。(浜比嘉島 外間晴美


あとがき

「モノクル」というイギリスの雑誌が「もっとも住みやすい都市ランキング」で東京が1位だったと発表したのだそうだ。巨大都市にもかかわらず、治安がよく静かであることが評価された、という。世界のあちこちを行く先々で毎日ジョギングした経験があり、その経験でいうと、東京は格段に安全度が抜群に高い気がする。草原の香りがするはずのウランバートルなどと比べ、今では空気も断然東京のほうが澄んでいる。

◆だからこそ、おどろおどろしく見える新国立競技場の設計図が気になる。きょう8日の朝刊の見出しは軒並み「総工費増大2520億円 有識者会議が了承」(毎日)「新国立」工費2520億円 承認 有識者会議」(読売)「五輪後 年20億円の赤字 新国立維持費1046億円に膨張」(東京)と批判的だ。

◆なぜ、こんな阿呆らしいことかまかり通るのか。誰も責任取らないで済むシステムのせいだろうか。例の「70年談話」どんな砲火を浴びるか、今から心配である。

◆2013年12月、416回地平線報告会で「チュコトのサムライ」のタイトルで報告してくれた服部文祥さんの「ツンドラ・サバイバル」が刊行された。ミーシャと文祥。言葉がわからない狩人同士が心を通じ合わせる物語。思わず、ロシア語教室で紹介してしまった。みすず書房刊。2400円+税。

◆それにしても、全さんの文章、うなりました。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

一粒から一馬力へ

  • 7月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「馬はカッコいいっすよ!」というのは、馬耕(ばこう)農業を実践している加藤大吾さん(42)。東京都新宿区で生まれ育ち、ラグビーとライフガードに熱中した青春期を過ごします。転機は何気なく入った自然教育系のNPOでした。

この世界に自分の場があると感じ、やがて独立して自分のNPOを斑尾高原で立ちあげます。軌道にのった所で土地の借用問題で挫折します。この経験から、自分の土地を入手することを決意。探し回った末に山梨の都留市に山林を求め開拓を始めました。

「森を拓いた土地に、わけもわからずスーパーで買ったタネをバラまいたら、なんと芽が出て結構な収穫になった。こりゃ農業すげえ!って目覚めたんです」。それからどんどん「生態系の中で暮らす」楽しさにハマりました。その中で、馬耕、馬搬など石油以外のエネルギーの重要さに気づいていきます。

今月は加藤さんに、ポスト311の時代の農的暮らしの実践について話して頂きます。乞ご期待!


地平線通信 435号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年7月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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