2015年9月の地平線通信

9月の地平線通信・437号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月16日。東京の正午の気温23℃。このところ秋らしい天気が続く。酷暑はすき去ったが、今度は大雨による豪雨災害が北関東で起きた。鬼怒川の堤防決壊では自衛隊ヘリによる救出劇、そして濁流に流される家々の映像が全国に中継された。

◆家をまるごと流す、奔流となった水の怖さは、TBSのドラマ「岸辺のアルバム」のオープニングの映像を思い出させる。1974年8月31日から9月1日にかけて、台風16号の接近で関東地方は豪雨に見舞われた。暴れ川の異名を持つ多摩川は、上流域の集中豪雨で増水し、狛江市で堤防が決壊、19戸の民家が濁流に飲まれたのである。その模様はテレビで中継されており、全国の人が目の当たりにすることとなった。

◆山田太一による「岸辺のアルバム」(1977年6月から9月、15回シリーズで放映された)は、冒頭この時の、民家が次々に無残に濁流に持って行かれる映像を流し、平凡な中流家庭の崩壊を象徴とするシーンとした。テーマ曲、ジャニス・イアンの「Will you dance?」の歌声(チベットやモンゴルの草原を走りながらどれほど聴いたことか!)とともに私には忘れられない情景なのである。

◆今回の豪雨被害では、何よりも15名と伝えられ続けた行方不明者がきのうになって全員無事とわかったことは特筆されるだろう。直前まで捜索活動に体を張っていた警察、消防関係者にとっては唖然呆然の話だが、ともかくあれだけの豪雨の威力で、犠牲者が意外に少なかったことはよかった。

◆そして、いよいよ大詰めの国会の安保法制審議。「憲法9条は島国の日本が世界に対して持ち得る唯一の武器ではないか」と考えている私には、納得しがたいが、とりあえず「9条」はまだ生き残るらしいから、戦略次第では「人を殺さない国」を実践し続けることはまだ可能だろう。つまるところ、人として、国家としての「単純なプライド」の問題となるのだろうが、その問題こそが人を殺す強烈なエネルギーに変貌する怪物なのである。

◆大撲秋場所3日目。偉大なる横綱、あの白鵬が休場し、横綱がついに1人となった。でも、番付表の横綱、大関を独占してきたモンゴル力士たちの頑張りでことし初場所以来ずっと「満員御礼」が続いていることは驚異的なことである。

◆少し前のことになるが、私は、初場所中日の日曜日、友人の好意で生まれて初めて「砂かぶり席」で十両以上の取り組みを観戦する機会を得てびっくりした。日本人関取たちがこれほど低調なのに、場内のその盛り上がりたるや本物なのである。相撲、見事に国際化したのだな、としみじみ感じた。

◆ついでながら、あの時は緊張した。メールが次々に来るのだった。「江本さん、しっかり見えてるよ」「ダメだよ、携帯ばかり見ていては」なんとテレビにばっちり我が阿保姿が中継されているらしかった。わざわざテレビ画面を撮って送ってくれる人もいて、意識すると一層ダメで、土俵の取り組み以上に自分がどう見えるのか気になり、つくづく自分の俗物性を痛感したのであった。翌朝の朝日新聞のスポーツ面にもしっかり目立つようにうつっていて……。皆さん、砂かぶりはやめましょうね。

◆相撲と言えば、1992年2月、はじめてツェベクニャムら6人のモンゴルの若者が日本にやってきた時のことは忘れられない。早速大島部屋を訪ねたが、日本語をひとことも話せず、私の片言のモンゴル語とロシア語でのやりとりだった。今では日本人以上に見事な日本語を話すのに、まさに初々しさそのもののモンゴル青年たちだった。

◆数か月経った1993年1月、ツェベクニャムに代々木のスケート場で再会した。日本の相撲に愛想をつかして、間もなくモンゴルに帰る、という。モンゴル大使館の親しい友人が一緒だったので率直に思いを語ってくれた。

◆「相撲そのものは好きです。いじめのような体罰が我慢できなかっただけで」たとえば、どんな体罰?と聞くと「いやなのは正座です。関取が風呂に入って出た時、お疲れ様でした、ときちんとした姿勢で言わなければならない。言ったんですが、姿勢がきちんとしていなかった、と4時間も正座させられた」。

◆ツェベクニャム、いったん帰国したがのち日本に帰って6人の青年の中で最後まで日本の力士の仕事をした、あの旭天鵬である。当時18才。平幕優勝の記録も残して引退、今場所から「大島親方」となった。

◆ゾモって何? ヘンな名前、もぞもぞする……。と言われる人もいるでしょう。でも、ヒマラヤに行ったことのある私などには、なんとも懐かしい響きがある動物の名だ。ヤクと牛の混血種。牛より大きく、強い。雄はゾ、ゾッキョと呼ばれ、農耕、運搬に力を発揮する。ゾモは乳量が豊かでランタン谷の美味しいチーズ作りの大事な原料となっている。

◆4月25日の大地震で谷の多くの親しい家族、友人を失ったチベット学者、貞兼綾子さんが考えた「ゾモファンド」。それを応援したい、と私たちがつくったゾモTシャツ。1頭でも多く、谷の人々にゾモを贈れるよう皆さん、ご協力ください。(江本嘉伸


先月の報告会から

ランタンの希望の灯

貞兼綾子

2015年8月28日  榎町地域センター

 今年4月25日にネパールを襲ったマグニチュード7.8の巨大地震。ネパール中西部(カトマンズ北西77キロ)を震源とするこの地震は、ネパール国内で9000人近くが死亡、50万戸が全壊する甚大な被害をもたらした。

 なかでも壊滅的な被害を受けた地域のひとつが、貞兼綾子さんと縁の深いランタン谷(村)だ。今回の地震では地すべりと雪崩で谷の大部分が土砂に埋まり、4つの集落のうち2つの集落は全戸倒壊。131世帯671人の住民のうち4分の1にあたる11世帯175人を失ったという。

 1975年以降、40年にわたって谷に通い続ける貞兼さんは、地震1か月後の5月21日から1か月間ネパールに滞在。カトマンズの仏教寺院イエローゴンパの避難所でテント暮らしをする村人を訪ね歩いて安否を確認し、若いリーダーたちと復興に向けた話し合いを重ねてきた。その大きな議題は、戻れない村にかわり新しいランタン村をどこに移すかということ。候補地は同じ谷筋を中心にいくつも挙がっているが、現在まで決定に至っていない。その理由について貞兼さんはこう言う。「候補に挙がった場所も日本の地質学者や氷河に詳しい人に聞くと、崩壊の危険性があるとわかって却下されている。いま日本でハザードマップを作っているが、ランタンの人たちはそれを何よりも期待している。(9月末ごろに)雨期が明けて政府が道路を作り出す前には村をどこに置くか決めるようです」。

 

 ところで、貞兼さんが魅せられたランタン谷ってどんなところなのだろうか。村の歴史はおよそ350年から400年。行政上は「タマン」という部族に分類される住民の中にはチベットから来た人も多いそう。カトマンズの真北、チベット国境近くに位置し、U字谷の底を流れる川の片岸の台地に村が置かれている。高度は3500〜4000m。ランタンの「ラン」はチベット語で「牛」、「タン」は「険しい道」で、「牛が険しい山道を登っていった」という意味だとか。かつて某登山家に「世界で最も美しい谷のひとつ」と賞賛されたことで有名で、ヒマラヤ山脈の山並みと高山植物を眺めながらのトレッキングは人気が高い。

 もともとはヤクやゾモ(ヤクと牛の交配種の雌。雄はゾ)などの牧畜や農業が中心の社会だったが、そうして観光化が進むとともに家畜や農地はホテルやロッジ、ティーハウスなどに姿を変えていった。「ミルクは1リットルの値段は20年も変わらない。なのにホテルやロッジの紅茶1杯はミルク1リットル分の何倍にもなる。やっていられない気持ちになるのも理解できる。そうやってどんどん家畜を手放し、お金により価値を置く傾向が強まっていた」。震災前には、夏の放牧の拠点であり、近年はトレッキングのベースにもなっていたキャンチェン周辺に34軒の施設が建っていたという。

 貞兼さんとランタン谷の付き合いを語る上で外せないのが、自身が代表を務めるボランティア団体・ランタンプランの活動だろうと思う。ランタンプランは86年、薪に替わるエネルギー源として小規模水力発電の導入などの支援を行うために発足した。それに先立つ75年にランタン谷が国立公園に指定されたのに絡み、環境保護の機運が高まった85年には薪を使う村民は丸ごと立ち退くようにと政府が指示。困った村長が貞兼さんに助けを求めたのがきっかけだ。

 ランタンプランは87年から93年の間、キャンチェンのロッジで氷河のわき水を使った小規模水力発電の試験運用を実施し、94年には村に公民館を建てて通電、夜間学級で識字教育も行った。その後99年から2006年にかけて村の全戸に配電するとともに、電気を使ったチーズやパン作りのための工房を建設、日本の職人に指導を仰いだ。送電線を張る際には谷の景観を守るために山沿いに通すことにも留意させた。それらのプロジェクトはようやく貞兼さんたちの手を離れ、安定した運営が可能になったところだったのだろう。ひと通りの歴史を話し終えると貞兼さんは、でも、と小さくつぶやいた。「そんなのもみんな氷河の下に埋まってしまった」。

 

 手元に残ったものもある。40年間に出会った人たちを収めた写真の数々だ。その一枚一枚をスライドに写して、貞兼さんは懐かしむように彼ら彼女らを紹介していった。それは途中から静かな弔いの言葉に変わっていった。

 たとえば仏教者の夫とチベットの北東部出身の妻。妻はもともと前夫とラサに巡礼に来ていたが、土地の女性に心を奪われてしまった前夫が逃げてしまい、ひとりぼっちになったところを仏教者の彼に助けられ、政情不安のチベットから一緒に国境を超えてランタン谷までやって来たのだという。そして、90歳近くになるまで息子夫婦とゴンパ地区に暮らしていたが、今回の壊滅的な被害の犠牲になった。いつか故郷のチベットに、と願いながら、叶わないまま異郷の地に果ててしまったのだ。

 ランタン公民館運動を担って来た有能な若者たち6人組は、30代終わりから40代半ばの働き盛りだったが、うち二人しか残らなかった。「これがわたしの両腕で、これがわたしのブレーンだった。こういういい人たちが亡くなって本当に悔しい」。

 イエローゴンパで撮った写真の中の人たちは、どの人も身近な人を亡くしていた。「彼女は夫を亡くした」「彼は妻を」「この夫婦は弟を」。積み重なっていく死の数が、ほんとうに小さな社会の中に多くの犠牲があったという事実を突きつける。

 そして、貞兼さんが「わたしのファミリー」と呼ぶ下宿先の家族写真。86年ごろに撮られたものだといい、後方に当時30代の父と母、前方に貞兼さんが「息子」と呼ぶ長男を含む4人の幼いきょうだいが行儀よく並んでいる。この家族も父と息子(長男)だけが生き延び、4人が亡き人になった。

 いま、貞兼さんのもとには家財一式とともに思い出の写真を失った友人(故人)の子どもらから、フェイスブック経由でリクエストが次々に舞い込む。それに応えてアルバムを総ざらいしては写真を送ってあげているそう。そのうちのひとつなのだろうか、フェイスブックに載せた古い写真の解説には、「残されたものが家族や隣人たちにどんなに愛されていたかを伝えられたら」と書き込んだ。

 

 ランタン村の復興に向けた動きはこれからが本番だ。まずは移転先を決めること。一軒の建築費が240万ルピー(約250万円)かかる家を116軒も新築しなくてはいけないこと。失った畑や、震災と春の大雪で死んでしまったヤク200頭やゾモを少しずつでも買い戻して生活を立て直すこと。

 厳しい状況だが、貞兼さんは残された若いリーダーたちに期待をかけている。1か月のネパール滞在中に「素晴らしいと思った」と話したことがあった。それは震災後に村人が一人残らず全員、同じ場所に避難したこと。そして集まった寄付を皆の前で平等に分けたこと。「震災前の村では考えられないくらい民主的なやり方が存在していて、わたしはここで一体なにを手伝えばいいんだろうかというくらいだった」。

 貞兼さんが願うのは、かつてのような牧畜と農業を中心にした慎ましく、平等な社会を取り戻すことだ。「富が集中する社会は何かがあったときに助け合うことができない。でも今回お前たちは(避難先の)カトマンズでうまくやったじゃないか」。そうハッパをかけ、アドバイスを続ける。

 ミルクを高く買って乳製品を作り、外国人トレッカーに買ってもらえば、ゴタルー(牧畜専従者)の支援になる。充分に暮らしていけると分かれば酪農をやる人がもっと増えるかもしれない。さまざまな支援を平等に分けるためには協同組合を作るのがいいだろう。そんなアイデアも進行しているそうだ。

 そして、貞兼さんは最後にこんな話をした。

「1か月が経ち、支援が70%に減った、3カ月もしたら皆忘れてしまうだろうと息子が言う。嫁の兄も自分たちはどこか外国にでも移住した方がいいのではないかと言ってきた。確かにあの光景を見た人は誰もが住めないと思ったかもしれない。わたしたちが差しのべられるものは大きくはないけれど、続けていくこと、忘れないでいること、支援しているというメッセージを送り続けることが大切だと思う」。

 これから谷の彼らがどういう未来を思い描いて、どういう村を作っていくのか、わたしも是非知りたいと思う。震災ですべてを失ったチベットの小さな谷に、牧畜を中心とした新しい平等な社会が実現できたなら、それは異国に住み、大きな震災を経験したわたしたちにとっても希望の灯になるのではないだろうか。(菊地由美子


報告者のひとこと

「ゾモ1頭の値段は、チャリースハジャール・ルピア」

 今晩、久しぶりにネパールのテンバと電話で小一時間話しました。テンバは、私がいつも’カトマンドゥの息子’と呼んでいるランタン村生まれの38歳。前々号地平線通信でも触れたと思うけれど、わがヒマラヤの谷の村の忘れがたい友人、リクチーの長男です。

 電話の主旨は、日本の研究者がようやくハザードマップを作成してくれたので、添付メールを受け取ったかどうかの確認でした。27頁にもなる本格的なもので、これから新しい村を作るのに、絶対不可欠。彼らが待ち望んでいたものでした。まだ若干の不備はあるものの、今秋現地調査を予定している研究者たちが現地で確認しながら、補正してくれるというおまけ付き(と言ってもよいと思います)。

 ハザードマップの話から、帰村への行程進捗状況、新しい村に建設されるモデル住宅のことや住宅資金のこと、そして「ゾモファンド」のこと。これは、結構議論になりました。ヒマラヤ地方でなぜ牧畜が衰退の傾向にあるのか?なぜランタンの牧畜専従者が近年減り続け、観光業に鞍替えしているのか?テンバの答えは明快でした。得られるキャッシュが労働に見合わないから。そこで、私はランタンの牧畜を魅力的な酪農に変えたいという持論をとうとうと語って聞かせたのでした。お電話から伝わるのは、多くの村人が観光地として再生したいという機運があって、そこにはわずかに残ったゴタルー(牧畜専従者)たちはますます縮小されてゆく危険性さえ伺われます。

 この小さな村の経済は、私の知る限りでは、70年代は牧畜と農業が半々、80年代末からはそこに観光業が参入。つまり牧畜は三分の一に縮小、ロッジ経営に乗り出すものが現れ始めました。そして2006年からこの4月25日の大地震までの10年間はほぼ100%なんらかの形で観光に依存する経済に移行していたと思います。

 観光地としての整備もできていないのに、チチ(母方のオバ=私のこと)はどのように牧畜を復活させようというのか!? テンバは半信半疑だったと思います。私も明快に答えました。

 [a]酪農の谷にする [b]新しい乳製品の開拓 [c]市場を拓く

 これは「ゾモファンド」の先に描く未来ですが、遠い先のことではなく、ゾモを増やしつつ実現すべきものだと考えます。来週半ばには、吉備高原吉田牧場の吉田全作さんをお尋ねして、具体的な組織作りから教わってくる予定です。吉田さんは、農家作りのチーズでは日本一といわれるチーズ職人。1999年からランタンプランに参画いただいてきました。来年の搾乳のシーズンに再び、吉田さんに現地で指導いただけるように、私もゾモ購入時期前に現地に飛ぶつもりです。

 しかしともかく、まずは「ゾモファンド」。地平線の友人たちのあっと驚くゾモTシャツのアイディア《ゾモ普及協会》。長野画伯のステキなデザインとともに、友情と協力の輪が限りなく広がってゆきそうな予感がします。

 

 さて、報告者のひとこと

「ゾモ1頭の値段はチャリースハジャール・ルピア」

 NRS.40,000 =JPY45,296」(これは9月11日の交換レート、約45000円)

8月28日の報告会で言い残した大切なことが幾つもありました。特にランタンワ(ランタン谷の村人)の民族的な位置づけについて。これはまた、別の機会にお話させてください。(貞兼綾子)


ゾモTシャツ賛歌>

ゾモTシャツ好評スタート!!

■8月28日の貞兼綾子さん地平線報告会で待望の「ゾモTシャツ」がお披露目された。長野亮之介画伯の描いた愛らしいゾモの姿、あっけんこと田中明美さんのおしゃれな包装デザイン(これは手にとってみなければわからないかも)、そしてサンド、ローズウッド、スレート、という3つの色質の良さもあって報告会に持ち込まれた最初の100着はほぼ完売となった。続いて200着を発注したが、これも今日までに完売。

◆人気の理由はいろいろあるだろうが、何よりもあやさんの思いに応えよう、という趣旨に多くの方が共鳴してくれたこと、そして私たちが「着たくなるTシャツ」作りを目指したからではないか、と思う。ランタン谷の人々を日本から支援しようというこの試み、まずは順調なスタートを切れたが、ゴールは、はるかはるか先だ。貞兼さんが 前ページで書いているように「ゾモ1頭は約45000円」。ゾモTシャツ1枚(2000円)売れば1000円はゾモ購買資金となるので、仮に300着売れたとして、6頭分を確保した計算になる。まあ、先は長いからゆっくり進みましょう。

◆なお、報告会で小学1年生瀧本柚妃さんが「子ども向けのはないんですか?」と質問していたが、実は間もなく可愛らしいキッズ用も出来上がってくる。ラベルにはカラフルなゾモたちが「がんばるゾモ」「ゾーモありがとう」なんて語りかけている素敵な作品だ。気軽に着れるスポーティーなTシャツも考えている。どうか長くおつきあいください。(ゾモ普及協会代表 江本嘉伸

★ゾモTシャツのオーダーはゾモ普及協会のサイトから。

まるで絵本を開いたような

……浜比嘉島からゾモTシャツ讃歌

1信:

 Tシャツ昨日届きました! すごく素敵な箱です。開けてびっくり。これはまるで小さな絵本を開いたようです。ネパール帽子をかぶりランタンぶら下げて目を閉じているゾモちゃんの顔がね、あの美しい谷に想いを馳せて静かに目を閉じているように見えるのです。

 箱の裏に付いてる「ランタン谷とゾモのお話」を読んだら、ゾモが草を食むあの風景が思い出され泣けてきましたよ。

 長い長い道のりとは思いますが応援団がどんどん広がっていってみんなが諦めないで一歩一歩ビスタリビスタリ(ゆっくり)進んでもらいたいです……。(9月4日 外間晴美

2信:

 こちら沖縄もすっかり朝晩は涼しくなりました。いよいよ畑仕事のシーズン到来です。うちのヤギ達は、2月に産まれた子ヤギ達もすっかり大きくなって、ミルクをもらっていたお母さんヤギのおっぱいも小さくなってきました。先日、今シーズン最後のチーズを作りました。また冬に子ヤギが産まれたらミルクを分けてもらってチーズ作りをしようと思います。

 さて、ゾモTの感想の続きです。あれからしばらくはもったいなくて眺めるだけでなかなか袋から出せずにいましたが、先日思い切ってふたりで試着会しました。

 思っていたよりゆったりとしたかんじで、素材もやわらか。よそいきの上等Tシャツにします。旦那が牧場に来ていかないように気を付けないと!(すぐに汚れちゃうから)またたたんで箱に入れちゃいました。

 でもやっぱり着ないとなあ、と思い直し、あしたのエイサー祭りに着ていこうかなと思っています。先日やぎ飼い仲間に見せびらかしたら「ぜひ欲しい!」というので、また追加注文しました。沖縄では一年中Tシャツを着る機会がありますので、大事に着ようと思います。

 ネパールはもうすぐトレッキングのベストシーズンに入ります。今年もネパールが世界中のトレッカーで賑わいますように。(9月12日)

ゾモTシャツ、これからも買い続けます

■美しい山々に囲まれた国ネパールは、山登りに興味がある者には少し特別な場所。だから、4月25日に発生した地震は、地震の国である日本に住む自分にとって、二重の意味で衝撃だった。プレモンスーンと言われる登山シーズン、現場にはクライマーや登山家たちがいて、震災後比較的早い時期からSNSなどを通じて状況を発信しはじめていた。

◆ランタン谷が壊滅的な被害を受けたらしいという情報を知ったのは、この谷に入っていたコリン・ヘイリーと大阪市大遠征隊による現場の情報。ランタン谷に深く関わってこられた貞兼綾子さんには、その被害の甚大さに言葉も思い浮かばず、寄付口座を知りすぐ銀行に向かうことぐらいしかできなかった。だから、今回の報告会は絶対に行き、綾子さんの言葉を直接聞きたかった。

◆現地調査の結果やカトマンズに避難する人々との話し合い、一枚一枚スキャンしている40年前からの写真とそれにまつわるひとりひとりのお話。牧畜できる環境を整えたいと「ゾモファンド」基金を設立した綾子さん。その気持ちに添って江本さんたち地平線会議有志が設立しTシャツ販売を通じて寄付をつのる「ゾモ普及協会」。長野さんのイラスト、田中明美さんによるパッケージを含めたデザインは、手に取った誰もが思わずハッピーになってしまう粋なもので、思わず複数枚購入。その後もネットで複数枚追加購入。そしてこれからも買い続けます。(恩田真砂美 2001年5月貞兼綾子報告会「ヒマラヤの顔」レポート執筆 「今年の夏休みは19日からネパールで山歩き」)

■夏の終わりの9月の初めにはいつも脳内にキヨシローの歌声が流れてきます。

  九月になったのに
  暑苦しい毎日さ
  相変わらず
  汗をかきながら
  相変わらず
  暮らしています
  相変わらずだよ

◆そんな9月に、Tシャツがやってきました!

◆小箱を開けば、絵本のようなランタン谷とゾモの物語。心のこもったパッケージ。いわゆるプリントTの域を超えてる肌触り。いわゆるプリントTの域を超えない価格。ほかにはちょっとないデザイン。思わず、夏よ、続け。

◆得意げなゾモが使者となって、ランタン谷との距離を縮めてくれた、今年の9月です。(大阪府 中島ねこ

ランタン谷の新たな出発のため、手間暇かけて届けてくださったTシャツ

■思いもかけないネパールでの地震。そして、ランタン村の恐ろしい出来事。驚きと悲しみの気持ちの中で、遠のいていた記憶が甦ってきた。1983年春、初めての海外旅行。私達探検部女子二人組は、カトマンズ、そして、ランタン谷へ旅立った。どのトレッキングコースを歩こうか迷っていた私達に、ランタン谷を勧めてくれたのは探検部の先輩。「素晴らしく美しいところで、人々も穏やかで安全。まだ旅行者も多くない。きっと気に入ると思うよ」。

◆その通りだった。樹林帯を抜け、いくつかの村を通り、たどり着いた先にランタン村があった。様々な思い出が溢れてくる。集落が見渡せる場所で、腰機で帯状の布を織っていた女性の動きに目が離せなくなったこと。日焼けして真っ黒の顔を「ラムロ〜」とほめてくれたおばあさんのこと。干していた靴下が無くなって大騒ぎしていたら、泣き顔の男の子と靴下を持ったお父さんがやってきたこと。真夜中に聞こえてきた祈祷師の声に、眠れなくなったこと。

◆キャンジンゴンパからランタン・リルンを見上げて過ごした至福の時間。トレッキングを終え、トリスリバザールまで下りてきたら、すっかり季節が変わって、シャクナゲの花が咲いていたなぁ。チベット系の人達が住み、カトマンズとは異なる文化圏。高山から上京し、東京で暮らしていた私は、まるで故郷に戻ってきたかのような安心感を覚えた。また、そこに暮らす人々の装いにも強い興味を持った。その後、染織を学び、JICA専門家としてカトマンズで布づくりの支援をする機会を得ることとなった。きっかけは、この旅から始まっていたのかもしれない。

◆先月、地平線会議発のゾモTシャツが出来上がった。亮之介さん作の絵はもちろんだけれど、そのラッピングが洒落ている。小箱に納まるように小さく折りたたんで透明袋に入れ、その上からタグをつけた麻ひもが結ばれている。私の携わる染め織りの仕事も、最後の一山となるのがアイロンかけやタグ付け、袋詰めなど、お客様に渡すための作業。Tシャツの箱を開けた時の、うれしい笑顔を思い浮かべ、手間暇かけて届けてくださっているのだと思う。Tシャツの普及のために、素敵に着こなしたい。

◆地震から5か月が経ち、忘れられていくように感じます。これからが、大事な時。亡くなられた方々のご冥福を祈り、村の新たな出発を応援していきたいと思います。(シェルパ族によく間違えられた、中畑朋子 飛騨高山住人)


長野亮之介画伯の2年ぶりの個展<けものけ展>、間もなく開催です!!

カバ 切り絵

 2年ぶりにまた、渋谷の画廊で小さな個展を開催させて頂きます。地平線会議の屋台骨を支える丸山純さんのアイデアで「けものけ展」というタイトルが決った時、最初に頭に浮かんだのは地平線通信に描き続けている報告者の似顔絵でした。これまで報告者の皆様をいろいろな動物や妖怪のようなものに喩えて描かせて頂いた。そもそも地平線報告会に登場する人々はどこか常識を外れている。日常的には出会わないそうした突拍子も無いキャラクターを表現するのに、けものけ(獣や物の怪)表現はハマりやすいのです。僕は第63回の報告会から通信のお知らせの絵を描いてきましたが、そのうち約60回分くらいがけものけ的でした。人外の存在に描かれても、三文絵描きの戯れと看過して下さった寛大な皆様には感謝するばかりです。今回の「けものけ展」ではそんな絵も含め、動物などを描いた絵を中心にいつもながら雑多な絵を選んでみました。ご多忙の中、お運び頂ければプロデューサーの丸山さんともども望外の喜びです。(長野亮之介

◆会期:2015年9月19日(土)〜27日(月)水曜日定休
◆場所:ギャラリーヒッポ 渋谷区神宮前2丁目21
    www.gallery-hippo.com/

そのブログがスタートしました。
 このブログ、丸山純さんの腕が冴えて素晴らしい出来栄えです。
 どうか以下をのぞいてください。
 http://moheji-do.com/kemonoke/

★ちょうど秋の連休中です。こんなにも長い年月、世のため、我らのため、破天荒に発想し、明るく描き続けている画伯の仕事を、できれば日本中から見に来てほしい、とお願いします。それだけの価値がある、と思うのです。その際、秋ビールの相手はいつでもしますよ。(E)

江本嘉伸講演会のお知らせ

「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」  西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える

 2015年1月、太平洋戦争を目前にチベットに潜入した、かっての農業青年が故郷の鹿児島で家族に見守られつつ天に旅立ちました。野元甚蔵(のもと・じんぞう)さん。享年97才。元陸軍特務機関モンゴル語研修生。その著書『チベット潜行 1939』に、チベット潜入のいきさつ、ダライ・ラマ14世が4才の時のラサ入りの情景、当時のチベットの農村の情景など貴重な体験が詳しく記録されています。

 2008年2月には「秘境西域八年の潜行」で知られる、あの西川一三(にしかわ・かずみ)さんが盛岡の病院で亡くなりました。享年89才。モンゴルからチベットまで自分の足ひとつで歩き通し、ラサではデプン大僧院で小坊主を勤め、インドでは乞食の暮らしを共にするなど破天荒な青春を生き抜き、帰国後も「人間、最後まで仕事」と、リタイアを拒否、終生頑固な人生を貫きました。

 生前、お二人と親しくしていただいた者として追悼の思いをこめて2人が生き抜いた時代を検証します。

◆日時:2015年10月4日(日)13時半〜16時半(開場13時)
◆場所:新宿区立新宿歴史博物館 講堂
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/guidance/91/
新宿区三栄町22番地(東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」または、都営新宿線「曙駅から」徒歩8分)
◆参加費(会場費、資料代含む):1,000円
◆講演者:江本嘉伸

カワチェンのWebサイトで申込み受け付け。定員に余裕がある場合は、当日参加も可能です。(下記、カワチェンイベントのページにて当日参加受付のあり/なしの情報を前日に掲載予定です。)

http://kawachen-event.shop-pro.jp/

終了後、「チベットレストラン&カフェ タシデレ」にて親睦会を行います。事前にカワチェンまでお問い合せください。

*二次会が一杯になるのをカワチェンもタシデレも心配しているようなので……。


地平線ポストから

地団駄を踏むような悔しさを持続させていることに、自分自身も驚いている

━━魔境、K2撤退の記

 世界第二位の標高を誇るK2への登山遠征から帰国した。頂上には立てなかったのだが、こてんぱんにやられた、という気持ちはない。天候さえ許せば、登頂の可能性は大いにあった。だからこそ、ぼくは本当に悔しい。悔しいという感情が心の底から湧き上がるのは、いつ以来だろう。

 7月末、ぼくは高所順応を終え、身体はいつでも頂上へ向かえる状態だった。サミットプッシュの日が決まるのをベースキャンプで待っていた。まさに「あとは登るだけ」という状態である。ぼくたちは好天の窓が開くのを、ひたすら待ち続けていた。

 登攀技術にどんなに長けていても、体力にどんなに秀でていても、天気が良くなければ、登れない。特にK2という山は、人間の無理はきかない。大ヒマラヤ山脈の一角、カラコルム山脈内にありながら、その形は独立峰と言ってもいいようなシルエットで、他の山とは少々異なる。

 美しい三角錐のような山容は、すなわち風の影響をもろに受け、少々の気象状況の変化が気温の大きな上昇下降へと繋がる。それに伴って、非常に雪崩も起きやすい。だからこそ、最も気候が安定し雪崩などに遭遇する可能性が低いときに頂上を狙わなくてはいけない。だから、ぼくたちはひたすら好天周期がやってくるのを待っていた。

 が、K2の天気を予想するのは難しかった。例えば世界最高峰エベレストであれば、高い確率で天気を予想することができる。エベレストのあるクンブー地方には、他にもローツェやアマダブラムといった有名な山がそびえ立ち、世界各国、各社から天気予報が供出され、それを複数集めて比較することが可能だ。

 しかし、K2は中国とインドとパキスタンの国境という、人里離れた地域にあり、一部の物好きな登山家以外は天気予報を必要としない。ぼくたちはスイスのメテオテストという天気予報サイトの情報を使用し、毎年エベレストで行っている通りの方法で天気を予想していたのだが、なかなか正確に割り出すことができなかった。

 科学が進歩した現代においても天気予報には限界があって、その土地の空や雲や気温などの日々の情報を合わせてはじめて正確に天気を割り出すことができる。つまり現地とメールや電話などで天気の移り変わりについてやりとりしたり、写真や映像などによって目で確認することなしに予報を行うと、そこにはどうしても限界が出てくる、ということだ。

 それでもぼくたちは天気を予想するしかない。小さな好天の窓が開く日も来ることは来るのだが、たった2日間ほどという見込みだった。ベースキャンプから頂上に行き、下山するまで4日間ほどはみなければいけない。2日間では短すぎる。だから、2日間の窓は見送らざるをえなかった。

 K2に登りにきているのはぼくたちだけではなかった。他にも今季のK2には何人もの登山家がきている。隣にベースキャンプを作っていたのは、世界的に有名な冒険家、マイク・ホーンで、彼はメルセデスベンツ社の支援を受け、スイスから車ではるばるパキスタンまでやってきて、K2に登る計画をたてていた。マイク・ホーンは、過去にもK2に挑戦したことがあって、これが四度目の登山となる。そのマイクの隊が、前述の小さな好天の窓を狙って、サミットプッシュに入った。当然、ぼくたちは固唾をのんで彼らの登攀に注目していた。しかし、結果はキャンプ3(標高7000メートル)より少し上で撤退だった。キャンプ3より上は雪が深すぎて、マイク他数人ではルートを開くことができなかったのだ。そればかりか、キャンプ3より下にぼくたちが設置した固定ロープがすべて氷の中に入って使えなかった、という。

 固定ロープの設置には、多大な労力がかかる。再設置も考えたが、ロープが氷に埋もれているということはそのロープを再利用することは困難だ。新しいロープだけではまったく足りない。だから、最初から張り直すという選択肢はない。ぼくたちはマイクからもたらされた情報に愕然とした。彼らは熟練したクライマーで、彼らが登れないと判断した深い雪を自分たちが抜けられるとも思えない。最後の頼みの綱だったロープも氷に埋まって使えないということであれば、手も足も出ないことになってしまう。

 こうした情報によって、ベースキャンプに重い空気が漂いはじめ、それに拍車をかけるように、巨大な雪崩がK2で起こった。これまでも雪崩は何度も起こっていた。K2でも、K2周辺の山でも、毎日頻繁に起きていた。が、今回の雪崩は、完全にぼくたちのルート上で引き起こされた。誰も巻き込まれなかったからよかったものの、登攀中であれば確実に死んでいる。マイク・ホーンのサミットプッシュの結果と彼らが見てきた情報、そしてこの雪崩が、今季のK2撤退を決定づける要因となった。

 次に好天がやってくるのは10日以上後の見込みで、それまでにロープはもっと深く埋まるだろうし、好天が10日後ということは10日間ものあいだ雪が断続的に降り続くということだ。そうすればトレースは消えて、登るのはもっと難しくなるだろう。

 K2から撤退。隊としての決断が下されたその瞬間、夢はついえた。自分の体力不足などによって先に進めなかったのならあきらめもつくが、今回に限って言えばそういうことではなかった。他の隊も撤退を決断し、今季のK2登頂者はゼロだった。

 ルート工作と順応のため、すでにぼくたちはK2の7000メートル強のところまで登っている。もちろん容易ではなかったが、登れない山という気はまったくしなかった。それだけになおさら悔しい。

 費用の問題などもあって、実現にこぎつけられるかはわからないのだが、来年以降、必ずまたK2に行きたい。と、こんなことを書いていると、再び無念の思いがこみ上げてくる。比較的あきらめのいいほうだと思っていたのだが、地団駄を踏むような悔しさを持続させていることに、自分自身も驚いている。愛しの魔境、K2。いつかあのてっぺんからカラコルムの山々を見渡したい。いつか必ず。(石川直樹

地球最南端の島で会ったヨットの冒険者

■地平線通信8月号の江本さんの巻頭言を読んでいて、私は後半の文章に目が釘づけになりました。忘却の彼方に消え入りそうになりながらも、決して忘れることはないであろう旅人・冒険家のお名前がそこにあったからです。

◆1983年4月6日、地球最南端の町、チリ・ナバリーノ島プエルト・ウィリアムスのペンションに、一人の日本人青年が私を訪ねてきました。それが日本から1年8か月かかってヨットで単独航海してきた片岡佳哉さんです。港に着いて、あの家に日本人が泊まっていると聞いて訪ねてきたようです。宿の食堂でお話しましたが、「もう何か月も全然人と話をしていなかったので、口が動かなくてうまく喋れません」という最初の一言で、ヨットでの一人旅の孤独と厳しさを知らされました。

◆翌日フランス人の青年3人がやはりヨットで到着したので、一緒にフランス人のヨットを訪ねました。それぞれ自分の興味で植物、動物、地質などを研究しながら旅をしているとのこと。ヨットも大きければ食事も豪勢で、優雅に旅を楽しんでいる風の彼らと違って、途中でアルバイトをして資金を稼ぎ、最も困難、いや単独では不可能と言われていた南極大陸への上陸を最終目的として、密かに挑み続けている様子の片岡青年は、私が南米旅行中に出会った旅人のなかで、最も印象に残る人でした

◆4月8日片岡青年はホーン岬に向かって出航し、フランス人はウスアイアへ、私はセスナ機でプンタ・アレーナスに戻りました。その後、片岡さんは南極に行けたのだろうかと、1年くらい経ってから札幌の住所にお手紙を出したところ、ご家族から転送された手紙を読んだ片岡さんから、まだアルバイトをしながら準備をしている、再度挑戦する、ときどきヨット関係の雑誌に原稿を送っているから読んでください、というお便りをいただきました。

◆あの時、のちに関野さんの壮大なグレートジャーニーの出発点ともなったナバリーノ島にその時私がいたのか、少し経緯を報告させてください。私には滅びつつある少数民族に関心を持つ友人がいて、ナバリーノ島のヤマナ族で、言語・文化・生活様式を伝える最後の人は、100歳近い老女一人だけということを、資料でつかんでいました。76年に彼はその老女を訪ねて島に行こうとしたのですが、交通手段が得られず断念。

◆研究者でもジャーナリストでもない私が、ふと訪ねてみようかという気になったのは、当時南米旅行者がバイブルのように持ち歩いていた『South American Handbook』という分厚いガイドブックに彼女のことが載っていて私のような旅行者でも訪ねやすかったからです。

◆ナバリーノ島は今も定期の交通手段がないようですが、当時の空路は積み荷と乗客の数が揃った時だけ運航するものでしたから予定が立たず、多くの旅行者が断念していたと思います。私は運よくナバリーノ島3泊で往復のチケットがとれました。

◆さて4月5日プエルト・ウィリアムスに着くと、航空会社から予約してもらったペンションのSra(セニョーラ)が迎えにきていました。私が名前を名乗るや否や「私、日本人見るの初めて」と、まるで珍獣でも見るかのように首を動かしながら、私の頭から足先まで眺めまわすユーモラスな人。本当に日本人は珍しかったのでしょう。

◆ペンションに荷を置き、さっそくヤマナ族のお婆さんに会えるだろうかと聞いたところ、生憎と昨日亡くなり、今朝お葬式があった、お墓に行ってごらんなさい、との話にがっくりしました。お墓には新しく土が盛られたところがあり、きれいな花の環が作られ、生花も供えられていました。詳しいことはわからないまま、「安らかにお眠りください」と祈って帰って来ました。

◆その日は博物館が休みでしたので、少しでも南に行きたいと、来た車に手を上げて乗せてもらいました。運転していた人は私がお婆さんの話をすると、古いヤマナ族の漁場に連れて行ってくれました。魚を捕るためにしかけた網があるからと、降りて説明してくれました。潮の満ち干を利用し、満ちたときに魚が網の中に入り、引くと魚が残るように作られていました。

◆4月6日は博物館を見学。私は友人からヤマナ族の話を聞いてはいても写真を見たことがなかったので、博物館の写真には目を疑いました。肌を塗りたくってまるでダンサーのよう。これがヤマナ族? 博物館の職員やペンションのSraから聞いた話だと、亡くなったお婆さんは、名前はスペイン語名Rosa Yagan、ヤマナ名Lakutaia le kipa。ヤマナ語を話し、ずっと裸で暮らし、ヤマナの伝統的生活様式を守って生きてきた最後の人で、推定年齢100歳。子も孫も先に死んでしまい、言語や文化を継承する人がいなくなって、晩年は政府の保護を受けて家、衣類、食料等を支給され、一人で暮らしていたそうです。

◆ロサさんが亡くなった直後だったせいか、島の人は皆ロサさんの死を知っていました。島には小さな放送局があって、ニュース、気象状況、音楽やローカルな話題を流していたので、ロサさんの死もラジオで伝えられていたのでしょう。片岡佳哉さんが私を訪ねて来られたのはこの日の夕方です。『ブルーウォーター・ストーリー』は早速アマゾンに注文しましたが、片岡さんのお話、ぜひ地平線報告会でお聞きしたいです。(大野説子 1984年5月、55回地平線報告会「砂漠から氷の世界へ パタゴニアの旅」報告者)


先月号の発送請負人

■地平線通信436号は、8月12日夕印刷、封入し、13日郵便局に託しました。お盆休み突入寸前の時期だったにも関わらず、13人もの以下の皆さんが集結してくれました。新垣さん、伊藤さんは、南三陸の仮設に暮らす子供達との「お泊まり会」に行っての帰り、大きな荷物とともに新幹線で駆けつけてくれました。作業の後、「北京」で美味しい中華料理を食しつつ、各自近況を。モンゴルの草原に行ってきた瀧本さん母娘は、手作りの美しい草原のアルバムを披露してくれ、青森ねぶた13年目の跳人(はねと)、たかしょーこと杉山貴章さんは、体力の衰えをいかに技術でカバーするか深遠な「跳ね方哲学」を語ってくれました。皆さん、ありがとうございました。
森井祐介 松澤亮 三好直子 瀧本千穂子 瀧本柚妃 江本嘉伸 前田庄司 加藤千晶 石原玲 杉山貴章 新垣亜美 伊藤里香 福田晴子


今年のベスト1、片岡佳哉さんの『ブルーウォーター・ストーリー』!

■先月の通信のフロントで紹介されていた『ブルーウォーター・ストーリー』、すぐに注文し一気に読みました。わたしが初めて参加した地平線報告会は「地平線会議10周年『地平線から 第八巻』発刊記念大集会」で、入口でうろうろしていた時に三輪さんから「これ運んで」と箱に入った年報を手渡されました。最初に表紙を見た時は何の写真かわからず、それが氷の浮かぶ南極海を航海している小型ヨットのマスト上から撮影されたものと知った時の衝撃!は忘れられません。年報には片岡さんの手記も掲載されていたのになぜかその記憶は薄れ、表紙の写真だけが脳裏に焼き付いています。

◆この本の裏表紙にも同じ写真が使われていますが、揺れるヨットの上から撮影した大荒れの海原、チリ多島海に崩れ落ちる氷河、そして神々しいほどに美しい南極海など数々の写真は、(江本さんが印刷に少し問題ありと表現した)不思議な色合いもあって眼が釘付けになりました。なかでも、南極大陸上陸直後の片岡さんとパラダイス湾にうかぶ青海号の写真をみると、こんな小さなヨットでよくぞ南極までとあらためて驚いてしまいます。

◆夢をみつけ、その夢を実現するために念入りに準備を重ね、あらゆる困難を乗り越えて自分が信じた道をひた進む。片岡さんが成し遂げた空前絶後の航海は、ヨットの世界を知らない自分にとっては想像することさえ困難ですが、冷静さと情熱が交錯した文章を読んでいると、時間や空間を超えて自分もその場にいるように感じました。本の扉に小さく「これは実話です。」と書かれていますが、実際に体験した人でなければこれほど濃密な表現はできませんね。こんな本には二度と出会えないかもしれないと思うほど印象に残った一冊で、今年読んだ本の中のベスト1です。

 

◆「ゾモT」も届きました。デザインも着心地もすてきですが、Tシャツが入っているとは思えない小さな美しいパッケージに感動しました。山形は立秋を過ぎてから残暑もなく秋に突入したのでTシャツ一枚ではさすがに寒くなりましたが、外出する時はなるべく着て見せびらかしたいと思っています。ただ、一か月前に月山頂上小屋に泊まった時にちょっとした段差でつまずき左足の中足骨を骨折したため、休日は家に引きこもりの状態ですが。目下の目標は、来月開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭までに杖なしで歩けるようになることです。(飯野昭司 山形県酒田市)


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費はありません。通信費とカンパが活動を支えてくさています。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります

永井マス子/田村玲子(10000円)/吉岡嶺二(3000円 9月14日から2週間の計画で念願のミシシッピーを漕いできます。中流域400キロほど、トムソーヤの縄張りです)/川本正道(10000円 毎月の通信の送付ありがとうございます)/近藤淳郎(10000円 いつも通信をありがとうございます。数年分まとめて払います)/波多美稚子(6000円 3年分お願いします)/永田真知子/谷脇百恵(10000円 ご無沙汰しています。初めて地平線会議に出席してから10年経ちました。参加出来たのは3回だけですが、私にとってとても貴重な経験でした。何ものでもない自分にとって地平線会議は眩しくて、時に遠くに感じたりしますが、通信を読むと「お台場ぐるぐるマラソン」に参加させてもらったあの当時のことを思い出します。いつもありがとうございます)/長瀬まさえ(3000円)/赤井英夫/小川真利枝/河田真智子/櫻井恭比古/野々山晃/野口英雄(4000円 2年分)/高松修治/岩野祥子


家族総出の片付け風景には明るさも

豪雨被害の現場からの報告

■週末の12日になって、常総市の若宮戸地区に入った。9日から降り続いた雨で鬼怒川の水が堤防を越えて流れ込み、冠水した地域だ。10日には5キロほど下流の三坂地区で堤防が決壊し、多数の行方不明者が出ている。泥色の水に埋め尽くされた関東鉄道石下駅付近の空撮を新聞で見て、それなりに覚悟して行ったものの、既に排水作業が功を奏して水が引いた後だった。

◆県道357号線は冠水して動けなくなったクルマのレッカー作業がようやく終わり、使えなくなった家具や畳を積んだ軽トラック、「災害復旧」のステッカーを貼ったダンプが用心しながら走っている。建物の壁面を見るかぎり、ほとんどの家で1階が完全に水没してしまっていたようだ。が、堤防決壊のような水流に洗われなかったためか、建物の中を覗かなければ水害に遭ったとは思えないほどだった。

◆どの家も家族総出で片付けをしていた。体操着姿の子供たちが手伝ったり走り回ったり、「被災地」という言葉が連想させる悲壮さはまったくない。学校の運動会や町内の祭りの準備をするのと同じように、みんなが手順を心得ているかのように淡々と家具を片付けたり、畳をはがしたりしていて、手伝う隙はほとんどないようだった。

◆玉小入口の交差点に立って、誘導灯を手に交通整理をした。ここは避難所になっている小学校と駅とを結ぶ道と県道との交差点だが、停電で信号機が消えてしまっていた。ちょうど昼食時で片付けの手を休めて避難所に戻るクルマが多かった。私の昼食を心配してくれるドライバーもいた。近所の人はPETボトルの麦茶を差し入れてくれた。

◆災害に将来を失った「被災者」が多数いるという感じではない。水が流れないトイレ、使えない電気、売れなくなってしまった商品に苦戦しつつも、いずれ元通りの生活を取り戻す希望が溢れている感じだった。堤防が決壊した三坂地区や下流で市役所のある水海道ではまだ行方不明者の捜索が続いており、たった数キロでも石下とはまったく状況が異なるだろうと思う。

◆また関東で氾濫したのは鬼怒川だけではない。常総市への途上でも境町の宮戸川や坂東市の飯沼川などで水が溢れ、田畑が水に浸かっているのを見た。まだしばらくは時間がかかるかもしれないが、いずれは元通りになるだろう。そのためにはもっと「手伝い」が必要だ。冠水による遠回りがなくなれば、都内から1時間半で行ける。(落合大祐

すべてが一瞬にして「ゴミ」扱いとなってしまう、もったいなさ

■9月10日の武子川の氾濫に見舞われた、鹿沼市下武子町にお手伝いに行ってきました。武子川は川幅7〜8mの、都内だったら暗渠(フタをされた構造)となってその存在すら気付かない小さな川。地元の方は「集中豪雨による浸水は経験したことあるけど、堤防越流による被害は経験がない……」とおっしゃっていました。昨年の、広島の土砂災害、都内を襲うゲリラ豪雨、そして、今回の一連の災害、異常降雨による災害に関して言えば、もう何処で、何時、何が起きても不思議はないという気がします。

◆それにしても「暴れだした水」の持つとてつもない力には驚かされます。過去何年も、雨、風から人を守ってきた存在を一瞬にして破壊し尽くしてしまうのですから。ここ数年頻繁に口にされる「異常気象」ですが、僕はそれがすでに「通常気象」になりつつあると思っています。それが、地球温暖化のためなのか、気象が持つゆらぎの範囲に属するのかそれはわかりません。

◆5月、6月、大地震に見舞われたネパールに行ってきました。RQのテントを被災地に運ぶ仕事です。そこで、折れた柱まで大事に積み上げてある現場を見たからでしょうか? 豪雨被害の片付けを手伝いながら思いました、なんて日本人は裕福なんだと。少し手をかければ使えるのに、数10cmほど水に浸かっただけの洗濯機、ピカピカ光ったラゲッジ、プラスチック衣装ケース、まだ使えそうなもので溢れたゴミ集積所を見て、なんとなく悲しくなりました。

◆たとえここ数年来の異常気象が、気象の変動の範囲以内だとしても、自分たちの生活が地球に与える影響に、もう少し気を使う必要があるのでは……。そんなことを考えながら、「今の人たちは、もったいないって言葉を知らないから」という言葉を思い出しました。東北で、ゴミ集積所への運搬を手伝っているとき、そのお宅のおじいさんが呟いた言葉です。(小石和男 RQボランティア)

(小石和男 信州安曇村生まれ。「中越地震をきっかけにボランティア活動を始めました。3.11では東松島に約1年通った後南三陸中瀬地区の瓦礫撤去で新垣亜美さんにお会いしてRQとの縁が。そして、江本さん、地平線会議の素晴らしい人たちに繋がることに」)

避難後初めて子どもたちも島に立ち入ることができたが

──口永良部島噴火から4か月──

■鹿児島県屋久島町の口永良部島の噴火から、もうすぐ4か月が経ちます。全島避難が続く中、8月には島民の一時帰島が3回あり、9月には避難後初めて子どもたちも島に立ち入りました。子どもが一時帰島することについては賛否があり、「危険だし、荷物の運び手にならない子どもを連れて行くわけにはいかない」「子どもたちも島の様子を知りたがっている」などの声があったようです。結果的には、行けてよかったと思っています。

◆飼い猫が生きていたことを喜んでいた子、大事なものを取ってこれた子。久々の我が家を掃除し、縁側でおやつを食べてのんびり過ごした子もいました。もしかしたら、土砂が流れ込んだ金岳小中学校の様子を見てショックを受けた子もいるかもしれません。でも良くもわるくも現実を見ることが、先に進むには大切なことでしょう。

◆午後から数時間という短時間の帰島は、断水し停電していた中での作業だったそう。台風対策で家の窓に木を打ち付けてあるので、真っ暗な部屋の中でヘッドランプをつけながら探し物をしたという方もいました。この帰島の際に、放牧していた牛をフェリーで屋久島に連れてきましたが、何と子牛が数頭生まれていて、急きょ軽トラの荷台にも載せて乗船したそうです。動物はたくましいですね〜。

◆学校の先生方は、島に帰るたびに資料や子どもたちの荷物、作品を運び出してきます。エラブの児童生徒は屋久島の学校で一緒に授業を受けていますが、8月の町議会で屋久島での仮設校舎建設が決定しました。その後、なんと計画は保留に。6千万円近い建設費をつかう仮設校舎の建設は教育長や県、国が勝手に進めていたことで、エラブ島民や屋久島島民は決定後にはじめて話を聞かされ、疑問視する声が飛び交っていました。

◆新聞に「口永良部島民の要望があって」という文言が掲載されたことで、エラブ島民の中にはいわれもない批判を受けたり噂を流されて傷ついている方もいました。教育長は「計画がしっかり固まってから説明したかった」と謝罪したそうですが、当事者が知らないところで話が進んでいるというこのパターン、怒りを通り越してもういい加減にしてほしいです。

◆仮設校舎建設が急に保留になったのは、火山活動が落ちついていて帰島の可能性があるからだとも言われています。この秋に開かれる火山噴火予知連絡会での報告次第で、帰島に向けて何らかの動きがあるかもしれません。先日も、ヘリコプターで新岳の噴火口に地震計が設置されたようです。仮設校舎の件でも帰島の件でも思うのは、帰島を待ちわびているエラブ島民の気持ちを周囲が(私も含めて)どれだけ理解できているのだろうかということです。学校で授業をしていても思います、少数の意見や気持ちを受け止めるのを後回しにしてしまっていないかと。一日の中で少しだけ立ち止まって、誰かの気持ちを考えてみる。そんな時間を大切にしたいです。(屋久島 新垣亜美

楢葉町、9月5日、ついに避難指示解除される!!

■2011年3月11日の東京電力福島第一発電所事故に伴う避難指示から4年半経過した2015年9月5日、故郷の福島県楢葉町の避難指示が解除された。昨年解除された田村市都路地区、川内村の一部地域に次ぎ、全町が避難対象となった市町村では初めての解除だ。

◆避難解除となった翌日(9月6日)に楢葉町へ戻って町内を回ってみた。除染による放射性廃棄物の黒袋の山が広がっている風景は変わらないが、心なしか見かける住民が増えたように感じた。そんな中、町役場に勤める同級生と再会。家族は北茨城に残し、本人は単身町内の自宅に戻り、毎日役場に通っているとの事だった。家族と過ごせるのは週末だけだが、「我々が率先して戻り、一人でも多くの住民が戻れる環境を整備したい」と語ってくれた。

◆9月19日(土)には町の温泉施設「しおかぜ荘」がリニューアルオープンする。震災前は毎週のように通っていた所で、待ちに待ったビックニュース! この場がキッカケとなり、まだ自宅に戻らなくとも、「温泉に入りに来た」という住民の方々が増えてくれることを願っている。

◆ただ避難指示が解除となったとはいえ、病院、商業施設、介護施設等、生活基盤となる施設の整備はこれからの状態のため、住めるものの、そこで生活するとなると課題が山積しているのが実情。特に即帰還を望む人の53%の人が65才以上の高齢者なので、病院の整備は不可欠だ。

◆小、中学校については今年3月に新校舎(中学校)が完成しているものの、学校再開は2017年4月の予定となっているため、子供を持つ家族が戻る決断をするのは困難。直近の住民アンケートでは楢葉町の学校に通わせたいと考えている親御さんは約7%に止まってることからも厳しい状況がわかる。

◆4年半もの時間が経過しているので、家屋の修繕を必要とする世帯も多いが、業者の手配がつかず、帰還を望んでいるのに出来ない方もいる。そして、放射線の不安を理由に帰還を拒む方が多いのも事実だ。家屋周辺の除染は行ったものの、スポット的に高線量な箇所がまだあるからだ。ただ、それらの箇所を全て除染し線量を下げることはほぼ不可能と思うので、どこで良しとするか、その線引きも難しい課題だ。

◆私は当面は「いわき市」での仮住まいを継続し、町の様々な設備の整備状況をみて自宅へ戻る時期を判断しよう、と家族と話している。いずれにしても、今回の避難指示解除は復興への大きな前進となったことは間違いない。しかし、震災前の地域コミュニティーを取戻すのは正直なところ不可能だろう。戻れる人から戻り、これから町を新生させる。そのために私も今後の浜通り、福島の復興の一助となる様々な活動に取り組んでいきたいと考えている。(渡辺哲 楢葉町住人)

「農業」がこんなに面白いものとは! 9月から「農」を「業」とする一歩を踏み出しました

■4月からの濃密な5か月を経て、9月から本当に農業がわたしの仕事になった。1月末に前職を辞めた後、たった半年でおもしろいくらい自分を取り巻く環境が変わった。南極での経験を人々に伝えることや、防災士としての活動など、「自分が社会の中で果たしていくべきと思うことを自由にできない違和感」を、違和感のまま放置して人生を過ごさないために、退職という形でリセットをかけたわけだけど、興味本位で飛び込んだ農業の世界がこれほどまでに多様でおもしろいとも思っていなかった。

◆サラリーマンを辞め、さて生活の糧をどうするか考えたとき、いい機会だから農業の技術を身につけたいと思った。4月から半年間の予定で通っていたのが、奈良県宇陀市にある山口農園という農園だ。この農園では、県の委託を受けて「オーガニックアグリスクールNARA」という職業訓練(農業科)を提供している。

◆通常、実家が農家でもないのに新規就農を目指すとなると、農業で生きていくという決意とともに、年に数十万円以上を払って、2年もしくは3年、農家や農業法人で研修を積み、農業技術や経営を学ぶことになる。4月から通った学校は、農を業としたいのか、農的暮らしに憧れているのか、農業以外の道も考えるべきか、などは、半年かけて考えていけばいい、というスタンスの職業訓練校であり、農業への決意があいまいなわたしにぴったりだった。

◆山口農園は、小松菜、水菜、ほうれん草などの葉物野菜をハウスで栽培している農業生産法人だ。野菜の生産以外にも、日本の農業の活性化を目指し、農業人の育成にも力を入れている。農園自体は有機農業を行っているが、わたしたち学生に対しては、慣行農法も自然農法も体験させてくれた。トマト農家・米農家・茶園での実習、果樹園や堆肥場の見学、販売実習など、園外実習の内容も豊富だった。月に2、3回は、外部から講師を招いて座学があり、野菜栽培の基礎知識や、ハーブ、アロマテラピー、農業経営、ハウス建築などについて幅広く学んだ。

◆地球の食を支配しようとしているモンサント社や、遺伝子組み換え作物、生物特許など、地球規模で起きている問題についてもはじめて本気で教わった。学校としての機能しかない所で学ぶのと違って、実際に農業生産を行っている組織の中で学んだことで、農業の現場について、いいことも悪いことも含め、見聞きし、実感できたことは大きかった。理想でもない、幻想でもない、現実の中に身を置くことで、「自分は本当に農を業としたいのか」ということに真剣に向き合えたと思う。

◆さて、本当なら9月末まで学生のはずだったけれど、わたしだけ8月末に一足早く卒業し、9月から「伊賀ベジタブルファーム株式会社」という農業生産法人で働き始めた。きっかけは、学校に授業に来てくれた講師から、「うちに来ないか」と誘われたこと。脱サラして農業を始め、最初は個人農園としてスタート。6年目に株式会社化、2年前に農業生産法人とは別に、卸の会社(農業総合商社)を立ち上げて、二つの会社を切り盛りしている。

◆当初、生産法人は順調に伸びてきていたが、現場を任せていた有能なスタッフが父親の急逝で抜けたことなどがあり、ひとりで切り盛りするのが苦しい状態になっている。社長は忙しすぎるし、生産現場には出られないし、体まで壊している状況。正直、初対面の印象は、「この人は脱サラして農業の世界に入ったのに、どうしてこんなことになっちゃったのだろう。何を目指しているのだろう」というものだった。

◆2回の講義と1回の園外実習の後、コンタクトしてきてくれたのは社長からだった。3時間じっくり話して、社長が目指そうとしているものも、社長の思いもよくわかった。性格も考え方も行動の仕方もだいぶ違うけど、目指したい方向性はかなり近い。社長の正直な態度と命をかけて農業と向き合っている姿にも心を動かされた。

◆実はこの時点ではまだ、わたしの中では農を業とする決意はできていなかった。ただ、南極や防災の活動を続けながら、それでも農業をやりたいなら、自分が経営者となるか、同じ志を共有できる仲間を見つけて共同経営するスタイルをとるしかないと思っていた。そんな折に、この社長は、「会社を好きにしていい。経営者として入らないか」と言ってきたわけだ。

◆生産技術すらない私に経営を任せたいというのも随分乱暴な話だけれど、おもしろい話だと思った。お互い賭けであることは間違いない。大変ではあるけれど、チャレンジしがいがあることだ。社長はわたしにないものをたくさん持っている。方向性さえ違わなければ、個性の違いはむしろ有効に働く気がする。

◆実は社長は、学年がひとつ上の京大の先輩で、スキー競技部の先輩を共通の知り合いとしている。農業の世界には、ユニークな人が随分多いのだけれど、相当賢い人や、相当できる人にしょっちゅう出会う。農業の現場に京大出身者がかなりの割合でいることは、とりわけうれしく頼もしいことだ。同窓のネットワークがすでに生きているし、さらに生かしていけそうな気配がある。

◆大学が同じで、世代も近いということは、社会に対する自分たちの役割の感じ方が似ているということだ。だからこそ、他の人にはなかなか理解されない人とも思いを共有できるし、この人おもしろいなと思えば、一緒に走ってみたくなる。かなりな博打を打つ感じではあるけれど、実は今、だいぶわくわくしている。まさか自分が本当に農業をできるとは思っていなかったこともあって、今はとにかく楽しみで仕方ない。(近く月ヶ瀬に移住予定の、岩野祥子

夢を一緒に見て、それが実現されるって、こんなに素晴らしいことなんだ━━月風かおりさん南極風書展開催!!

■2015年9月9日(水)〜13日(日)、世田谷美術館区民ギャラリーで、「JOINT EXHIBITION〜2015アルゼンチン国立南極総局芸術プログラム参加作家共同展〜 月風かおり『南極の風』× Andrea Juan ”Solar Storm” 」が開催された。

◆「どうしても南極に行きたいんです」という月風さんに初めて会ったのが2008年のこと。それ以降、南極関係者に次々に会いに行ったり、極地での芸術活動の意義について国立極地研究所の「南極シンポジウム」で発表したりと、南極に行くチャンスを求め、行動を続けてきた月風さんだ。昨年8月、国立極地研究所の副所長である本吉洋一氏が、アルゼンチンが芸術家向けに行っているプログラムに関する情報を月風さんにもたらした。そのチャンスを逃さなかったことが、夢の南極大陸への一歩につながった。

◆会期中の9月11日には、NHK BS1の朝のニュースで、およそ10分間にわたり、月風さんの活動が紹介された。同じ日に会場を訪れると「ニュースを観て来ました」という人や、6月の月風さんの地平線報告会に来ていた地平線関係者の姿があった。私はたまに月風さんに会って「必ず行けるよ」と応援してきただけだけど、人の夢を一緒に見て、それが実現されるって、こんなに素晴らしいことなんだって、初めて実感させてもらえた。

◆月風さんが墨で描いた南極の光景の中に居ればいるほど、離れがたい感覚になった。夢を追い続けるのも時間がかかるのも悪くない。一緒に夢を見る心地よさを、月風さんに教えてもらった。(岩野祥子

支えてくれた人のご縁に改めて感謝した日々

■『風書展』が無事に終わった。思えば去年の9月はまだアルゼンチンからの応募資料が届いたばかりだった。応募、審査、参加決定、南極入域、創作、発表と、まるで南極の嵐のように一年が過ぎた。おかげ様で、台風の日が初日ながら、また中日には、BS1での放映もあり、多くの方々が会場に足を運んで下さった。作品や多くの写真により、壮大な南極の空気を感じていただけたのではないかと思う。

◆今回の『風書展』で、最大の驚きは、私の南極行きを初期から応援してくださった方々が、奇跡的に同時間に会場に来られたことだ。2回の越冬を果した岩野祥子さん、国立極地研究所副所長本吉洋一先生、海上自衛隊元隊員の菅原茂さん、地平線会議代表世話人、江本嘉伸さんだ。まるで打ち合わせをしたかのように「感無量」を共有する瞬間だった。互いに多くは語らなくても心から喜んで下さった。

◆可能性が低いこと、難しいこと、ハードルが高いこと、それらがあったからこそ、私は動かされた。そしてそれを支える人のご縁に改めて感謝したいと思う。私たちは大作の前で写真を撮った。そして、それぞれの人が持つ熱い情熱に、爽やかな南極の風を届けることができたのではないか、という思いがいつまでも続いた。(月風かおり

人糞肥料への規制はいかなる根拠に基づくのか?

 7月の報告会で、いまや地平線報告会常連のひとりである小学1年の柚妃さんが「人間のうんちはどうするのですか? モンゴルでは家畜の糞は乾燥させて燃料にしていますけど」と報告者の加藤大吾さんに質問する場面があった。報告会レポートでそのことを知った糞土師から、早速以下のオピニオンが寄せられた。

■地平線通信8月号、加藤大吾さんの報告会レポートに、「日本では人間の糞尿を畑にまくことは法律で禁止されているそうだ。おしっこは問題ないとしても、うんちは医薬品を服用していれば残留成分が問題となる。不特定多数の訪問者が訪れる環境では、寄生虫の問題もあるそうだ」とありました。

◆実は5年前、日本菌学会大会のシンポジウムでスライド講演を依頼された折に、私も同様に言われました。その時の講演では、野糞跡掘り返し調査で明らかになった菌類の分解力の素晴らしさを発表しようとしたのですが、人間のウンコには食品や医薬品由来の化学物質も含まれ、野生動物のウンコとは違う汚染物質だ。人糞を肥料にすることすら法律で禁じられているのに、それを使った違法な調査など認められない、と全否定されたのです。

◆私が直前に酷い腰痛になったこともあって、結局その講演は中止になったのですが、この憎っくき法律の正体を調べてみました。最初は知り合いの法律事務所で尋ねてみました。すると「むしろそれは行政の問題だから、役所で聞いてほしい」と、タライ回しが始まりました。市役所の環境課に行くと、「ウンコのことは屎尿処理場で聞いてくれ」。処理場では、「それは衛生問題だから、保健所へ」。ようやく答えが出るかと期待して、猛暑の炎天下バイクを飛ばして保健所へと行くと、「そんな法律は知らない」。しつこく食い下がる私に、「肥料のことだから、肥飼料検査所で聞けばわかるのでは?」。延々と続くタライ回しに疲れはて、もう水戸まで行く気力もなく、電話で済ませることにしました。

◆まずは控え目に、「人糞を肥料にすることには規制があるのですか?」と尋ねると、「はい、あります。でも自分で使う分にはかまいません」。なるほど、さすが研究者の言うことに間違いはない。そして害があった場合は自己責任ということか、と納得。いよいよ本題に入りました。「やはり人糞には様々な化学物質などが含まれるため、害になるということですね」。

◆すると「いえ、そういうことではありません」??? 一瞬私はパニックに陥りました。そういえば、抗生物質をしこたま投与されてよっぽど危ない鶏糞でさえ堂々と肥料として流通していることを思えば、人糞の危険性など微々たるものです。いったい何が問題なのだ? そして次の一言に、私は笑ってしまいました。「肥料として販売や譲渡を目的とした場合は、特殊肥料として品質表示の決まりがあります」。

◆人糞肥料への規制とは、生産年月や原料(人ぷん尿)、主要成分などを表示しなさい、ということでした。真面目な良識人が「規制」の一言から様々な害悪を勝手に連想し、きちんと実体も調べずにデマを拡散してしまう危うさを感じています。人糞害悪説の被害者の一人として、そしてウンコの真実と素晴らしさを拡める闘士として黙ってはいられず、一言述べさせていただきました。

◆なお、拙書『うんこはごちそう』(農文協)は絵本仕立てながら、解説では屎尿処理の現状から生態系の中での重要性、さらには野糞調査のやり方まで、目からウンコの内容テンコモリです。是非ご一読下さい。(ウンコに全てを懸ける糞土師 伊沢正名

2015年地平線・夏の風景

草原の国に中・露の気になる動き

人口300万人となったモンゴルの明日

■今年1月に南ゴビ県で女の子が生まれた瞬間、モンゴルの人口がついに300万人を突破した。ニュースはFacebookを通じて国内外のモンゴル人の間をかけめぐり、みんな本当に嬉しそうで誇らしげだった。茨城県民とほぼ同じ数だが、国土は日本の4倍もある(人口密度は1平方キロメートルあたり約1.9人)。300万人目の赤ちゃんは「モンゴルらしい人」という意味の「モンゴルジン」と名づけられた。

◆人口の約70%が35歳以下という若い国でもある。そういえば20歳のモンゴル人留学生の女の子が言っていた。「日本に来て驚いたのは、おじいさんたちが外で元気にジョギングしていること。モンゴルのおじいさんは家で静かにお茶を飲みます」。とはいえモンゴル人の平均寿命が近年のびているので、ライフスタイルも変わっていくかもしれない。

◆現地の最新状況を知りたくて、8月のモンゴルに3週間滞在した。首都ウランバートルで今熱い話題なのが、アジア欧州会合(ASEM)開催問題だ。2016年7月に行なわれる第11回首脳会議のホスト国にモンゴルが名乗りをあげ、招致が決定。1年後には約50か国の首脳と関係者7000人、ジャーナリスト1000人がウランバートルを訪れるという。

◆こんなに大規模な国際会議を開催するのはモンゴルにとって初めての経験で、国の発展を熱望するエリート層は「世界にモンゴルの存在感を示す絶好のチャンス」と喜び、経済格差に苦しむ中流以下の層は「国にお金がないのになぜやるの」と怒っていた。目下の課題になっているのは、各国の賓客を受け入れるホテルをどうやって用意するのか?

◆ホテルの設備やホスピタリティーの質を世界スタンダードに引き上げるため、特別チームと特別ローンが組まれ、対策が進んでいる。さらに政府は50か国の首脳たちの宿泊施設として、50戸の新築ハウス(2階だて)を郊外のなだらかな山のふもとに建築中。SPはどこに泊まるのか、テロにあわないか、ひらけた場所なのでセキュリティが気になる。

◆昨年の夏、習近平国家主席とプーチン大統領が相次いでモンゴルを訪問し、協定をいくつも結んで中・露・モの距離をぐっと縮めた。中・露にとって豊かな地下資源が眠る隣国モンゴルは魅力的で、「ゴビの土地を中国人が買っているのが怖い」と心配する声も多い。法律の専門家によると「現状の土地法では外国人はモンゴルの土地を買えない。でも実際は中国人がモンゴル人と合弁会社を作ってじわじわと購入している」。

◆日本ではあまり聞き慣れない、中央アジア版EUのような上海協力機構(SCO)という組織がある。正式加盟国は中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、新たに承認されたばかりのインドとパキスタン。準加盟国がモンゴル、イラン、ベラルーシ、アフガニスタン。対話パートナー国としてアゼルバイジャン、アルメニア、ネパール、カンボジア、スリランカ、トルコ。ロシアと中国がリードをとり、ユーラシア大陸に着々と輪を広げている。設立当初の目的は経済協力だったが、現在軍事面でのつながりを強めていて、脅威を感じたアメリカがオブザーバー国になりたいと申請したものの却下された。

◆中・露と国境を接するモンゴルは冷戦後、どちらの大国にも偏らず、日本や欧米など「第3の隣国」とも友好関係を維持しながら多元的にバランスをとってきた。しかし中国経済の発展に比例して中国への依存度が増し、政治的なかかわりも深くなっている。自国に大きな産業があればいいのだけれど、なかなか難しく、期待された鉱山の稼働も資源ナショナリズムによって停滞している。

◆街の経済が不安定な状況にあるいっぽうで、草原に生きる遊牧民も困難に直面しているという。今年は降雨量が少なく、地域によっては草が伸びないガン(干ばつ)だった。そうなると今度の冬にはゾド(雪害と草不足で家畜が飢える被害)が襲う。さらに「申年の冬は厳しいゾドになる」という言い伝えもあり、一部の遊牧民は西から東、北から南へ、草を求めて大移動しているそうだ。家畜を現金に変えたくても買い手市場でタダ同然の値段しかつかない。

◆そんな話を聞いたので大丈夫なのかと気になって、遊牧民に会いに行った。4人乗りの中古プリウスに8人で相乗りして、昼過ぎにウランバートルを出発。日が沈んだ後は月明かりしかない暗闇のなかをひた走り、ゲルに着いたのは深夜1時。若い夫婦が出迎えてくれ、塩味ミルクティーを飲んでから全員で床に川の字になって寝た。夜は気温3度まで下がるのに、遊牧民たちは服をぱっと脱ぎ裸で布団に入る。「モンゴル人は体が熱いから寒くない!」らしい。

◆この家には昨年生まれたばかりの男の子、妻の両親、夏休みで遊びに来ている親戚の子どもたち、どこかからふらりと立ち寄って1か月居候しているおじさん、そして馬50頭、牛20頭、羊・山羊300頭がいた。3頭いる種馬は、「選ばれし者」のオーラを全身からギラギラみなぎらせているので一目でわかる。平和に草を食む群れの間を急発進して駆けまわったり、搾乳用の柵の周りでメス馬をやたらと気にしたり、メスのとりあいで他の種馬と熾烈に蹴りあったり……去勢された一般のオス馬たちとは比べ物にならない激しさ!

◆何より馬が好きだという旦那さんから「日本の馬はモンゴルの馬より大きいと聞いて興味があるんだけど、日本の種馬の値段を調べて知らせてほしい」と頼まれ、世界地図を一緒に眺めた子どもからは「日本は水の真ん中にあって溺れないの?」と真剣に心配された。こういう時間がいつも楽しい。

◆私が今回訪れたトゥブ県の草原は、草も青々と生えていたし、遊牧民も明るく笑っていてほっとした。冷えこむ冬を乗り越えて、輝く夏を迎えられるだろうか。これから1年間モンゴルから目が離せない。(大西夏奈子


今月の窓

北上川で川にカムバック&デビュー(橋の下を水がいっぱい流れた)

■この夏、北上川を源流から海まで、超軽量・コンパクトインフレータブルカヌー(アルパカラフト)で下った。辺境作家高野秀行君の「おもしろい川をやりましょう」との10年来の誘いをやっと受けての実現。ミャンマーのイラワジ(エーヤワディー)川下り計画を2人で構想したのが2005年。その後も幾つかの川遠征計画を、家庭、仕事、体調の複雑な事情で断っているうちに10年過ぎた。

◆北上川行は昨年暮れに東京高野宅で決めた。「今書いている納豆関連の取材で東北によく行くんですが東北の川ではどこが面白いですか?」「『銀河鉄道の夜』の舞台の北上川。夏の夜は南向きの川面から天の川が続いて見えるぞ」「行きましょう」てな会話がありまして。7月末、私のベース四万十川で一週間のプレ合宿をして、お盆最終日の8月16日東京を発った。

◆その日のうちに北上川源流の弓弭の泉に徒歩で行き、18日盛岡から全流下りを始めた。約束の天の川は20日の夜半、花巻のイギリス海岸近くの河川敷で見たのが最初で最後。しかも見たのは小便に起きた私だけで、まだこの先いくらでも見られるだろうと寝ている高野は起こさなかった。その後は冷夏と梅雨のような曇天の下の川下りとなった。

◆それでも、花巻で朝靄の川面で朝食中のサギと朝焼けの北上川をバックにコーヒーを飲み、民話のふるさと遠野から下って、水鳥の多さに見とれ、釣れた魚に舌鼓打っていたうちはよかった。その後は流れは緩くなり川は汚れが目立ち始め、増す寒さと早すぎる秋雨に打たれ最後3日間は苦行のようだった。

◆16日に始めた頃は気温30度を越す夏日だったが、後半は20度を超えない日もあり、28日に買い物に行った店の奥さんはなんとストーブを出したとのこと。その分、まだ震災から復興中の石巻の川中島の石ノ森萬画館に到着した30日は、2人で固く握手した。

◆悪天候のためか川沿いで人に会うことは稀だったが、街の近くでも川の両岸はヤナギ類やオニグルミなどが東南アジアの密林を連想させるほどに茂り、サギ類、カルガモ、トビ、カワウ、セキレイ、カワセミなどなどの水鳥が次々と現れて飽きなかった。冬は日本列島南部への渡り鳥のコースになるとのことで、鴨猟が盛んと聞いた。

◆これを教えてくれたのは、80歳を超える老漁師。若い頃山仕事中にやった、原始のままの夢のようなイワナ漁。現在は春のコイ、サクラマス漁に始まり、夏はアユ、秋はサケ、冬鳥撃ちの年中狩猟暮らし。専業漁師が消えて久しい四万十者には羨ましい。ただし、以前は沢山獲れ、中華料理屋に高く売れたモクズガニ(上海ガニに似ている)は、3.11以後、風評被害で売れなくなったそうだ。

◆夜は河川敷か河原にテントを張った。河原でテント張った時は焚き火して80年代コンゴ(旧ザイール)で流行っていたリンガラミュージックでアメリカ先住民みたいに踊った。かなり異様だがコンゴは高野との共通の話題なのだ。これまでの来し方の話でも盛り上がった。当時、探検部仲間は大学の壁を突き抜けたつきあいをしていた。探検部(高野は早大、私は農大)の後輩で今ではすっかり売れっ子作家の高野との腐れ縁は、今や屋久島の名物ガイド野々山富雄(駒大探検部OB)がきっかけだ。

◆野々山は私が1982年、南米3大河川(オリノコ、アマゾン、ラプラタ)カヌー縦断から帰国してすぐの農大探検部コンパでいきなり大声で歌っている元気な駒大探検部1年生として登場した。その後、1985年パンアフリカ河川(セネガル、ニジェール、シャリ、コンゴ、ナイル)行をニジェールで一時中断してパリに住んでいる頃、駒大探検部コンゴ怪獣ムベンベ調査隊でコンゴへの行き帰りに野々山たちはパリの私の下宿に泊まった。

◆1987年、野々山は今度は高野たちの早大探検部コンゴ・ムベンベ探検隊に参加。この頃、私はコンゴ共和国とザイール(現コンゴ民主共和国)の国境のウバンギ川(コンゴ川支流)を航行していて、なんと別々に3人ともコンゴにいたのだった。

◆その後、野々山は1990年農大探検部の長江源流川下り隊(私は5年ぶりに帰国し参加)にも参加。1992年から2年間、「緑のサヘル」のチャドでの植林プロジェクトに(本人いわく、「3食昼寝、ビールにオネーチャン付き」と)私にだまされて参加して、その後1995年、同NGOの日本縦断自転車キャンペーンに参加後、そのままゴールの屋久島に居着き山岳ガイドの草分けになった、というわけである。ちなみに、北上川下り中に野々山に第2子が生まれたことを彼のFacebookで知って北上から電話した。高野と2人の会話に野々山の話題は尽きない。

◆1991年、当時農大の先輩と立ち上げたアフリカでの植林NGO「 緑のサヘル」の仏文企画書の添削を高野にお願いした。1997年に5年間のチャド植林事業から独立して、ナイル川源流を3か月調査した時にも高野に同行してもらった。その後もいろいろ手伝ってもらううちに、彼の本業は少しずつ実を結び今に至っている。ナイル源流行は植林プロジェクトの予備調査で、誘い文句は「いずれ、治安が安定したらナイル下りをやる。一緒に行こう」だった。が、いまだ、ナイル川上流域(ウガンダ北部、南スーダン)の治安は世界最悪の一つで、約束は果たせていない。

◆長い時間が過ぎたことを、古代ローマ人だか中国人だかが「橋の下を水がいっぱい流れた」と言ったらしい。北上川のたくさんの橋をくぐるたびに、「水がいっぱい流れた」とつぶやいた。「僕の川デビュー、山田さんの川カムバックですね。次は世界の辺境の川を」と高野が言った。(山田高司 四万十川住人)


あとがき

■今月も盛りだくさんの内容で、誌面はぎちぎちに近い状態となりました。見出しのスペースが十分とれず、レイアウトの森井祐介さんにはかなり無理をしてもらいました。

◆11月22日の日曜日に御茶ノ水の明治大学ホールで予定されている植村直己冒険館主催の「日本冒険フォーラム2015」のチラシが今日できあがったので思い切って通信に同封しました。「極地」をテーマとするこのフォーラム、小生を中心に地平線会議がかなり協力するかたちとなりますので、考えた末、11月の地平線報告会を兼ねることにしました。

◆今年は4人の冒険者、ジャーナリストによる白熱のトークが展開されるでしょう。連休の中日です。遠路の方も今から参加を予定しておいてください。入場は無料です。詳細はチラシをご覧ください。

◆地平線通信436号(先月号)に、いくつか直しきれなかった箇所がありました。お詫びして訂正します。フロント原稿の「河野兵一」はもちろん「河野兵市」の間違い。天にいる河野君、すまん。

◆2ページの右段中ほど、「明日からモンゴルに行くという少女の〓さん」は、「明日からモンゴルに行くという少女」の訂正ミスでした。6ページの「馬で疾走した草原の夏 母娘2人のモンゴル旅」に登場する瀧本柚妃さんのことですが、「少女」とだけするつもりが、〓が残ってしまいました。柚妃ちゃん、書き手の今井尚さん、ごめんなさい。

◆5ページの上の段、坪井伸吾さんの「加藤大吾さんの話にボリビアのバイク屋さんを思い出した」という文章、書き手の名は「伸吾」と正しく表記しているのに「決定版30年史海外ツーリング」の紹介では坪井「慎吾」編集による……と誤記してしまいました。これも訂正します。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ただいまクジラとり修行中

  • 9月25日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

クジラを見つけて追いかけているときが一番楽しいですねー」と言うのは高沢進吾さん(48)。カナダ北極圏のエスキモーの村、ポイント・ホープに毎年欠かさず通い続けて23年になります。バックパッカーとして偶然訪れた同村でキニバック家と親交を結び、'07年からは伝統的なクジラ漁に同行を許されました。

漁期は4〜6月。海獣の皮で作ったウミアックという小舟に10名1チームでクジラを追います。「捕獲頭数制限があるけど、それ以下の毎年3頭くらいとれればいい方かな」と高沢さん。師匠でもあるキニバック家の「とーちゃん」は植村直己氏の著書に載っていた写真に写っていた少年でした。

今月は高沢さんにクジラ漁を初めポイント・ホープ村の暮らしを語っていただきます。貴重な写真はもちろん、迫力の動画は必見です! お楽しみに!


地平線通信 437号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年9月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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