2016年4月の地平線通信

4月の地平線通信・444号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月13日。曇り。荒木町の桜は、まだ幾分残っていて、はらはらと風に花びらが舞っていた。きのう、新宿ゴールデン街の昼間の火事には驚いた。消防車が何台もサイレン鳴らして飛んで行ったが、我が家からは歩いてでも行ける距離にあるこの一角、外国人観光客への人気アンケートによれば、渋谷のスクランブル交差点、浅草の仲見世をしのいで断然1位なのだそうだ。あの「狭さ」がなんとも言えない魅力なのだという。

◆でも、狭いからこそ、火がついたらあっという間に燃え広がってしまう。心配になって渋谷典子さんに電話してみた。通称「てんこ」さん、2014年12月、「時代の渦を写す!」のテーマで報告者となっていただいた写真家だ。ゴールデン街の「あかるい花園一番街」の一角に夫君が33年間経営する「Buoy」 がある。「現場はうちの店の奥の方なので、大丈夫でした」と、元気な声だったので安心した。夜もいつものように営業できたようだ。今日になって66才の男が放火で逮捕された。

◆地平線報告会には、当日の報告者とは直接関係なくとも結構いろいろなお知らせ、冊子、パンフ類が配られる。渋谷典子さんは3月の報告会で絵葉書スタイルの不思議なカレンダーを参加者に配ってくれた。「グランドキャバレー 白ばら」とのタイトル。酒田市にある「東北・北海道最後のグランドキャバレー『白ばら』」が去年の大晦日に57年の幕を閉じた、という。酒田出身の渋谷さんは、2014年夏から撮影を開始、シャッターを押し続けた。その成果はカレンダーともなり、地平線の会場で配られたのはその一部である。「最終日は、名残を惜しむ客200人が駆けつけ、全員で『白ばら最高!』と叫び、幕が降りた」と、写真誌『日本カメラ 4月号』の口絵ページで渋谷さんは当日の写真とともに書いている。

◆探検、冒険、旅などとくくっては来たものの、実は地平線会議が追い求めてきたものは、既成の言葉では括れない世界なのではないか。あえて言うとすれば、人間として、惹かれるものすべてが対象になる、まさに地平線の世界。2014年暮れの渋谷さんの報告会は、新宿、竹の子族、そして、三船敏郎、高倉健、ビートたけしら俳優たちの撮影現場を知らせてくれる異色の報告会だった。グランドキャバレーの閉館という事実に着目してカメラを構えた渋谷さんをすごい、と思う。

◆どんな人がどんなテーマで登場するか予想もつかない毎月の報告会。ところで、上のタイトル部分に注目。記号わかりますか? 亮之介画伯がひねり出した「遡行図記号」を駆使しての題字。つまり、沢登りのルート図に模したのだ。私はほとんど読めないが、少しは沢登りもやったので、大体の見当はつく。迫力ある報告会になることは間違いなし。豪快な報告者の登場にご期待を。

◆3月20日の日曜日、ゾモ普及協会の仲間たちと鎌倉のあやさんのお宅にお邪魔した。あやさん、ランタン谷支援の陣頭に立って行動しているチベット学者、貞兼綾子さん。チベット名は、デチェン・ドルカー。ゾモTシャツを1000枚以上売りあげた成果としてとりあえず100万円をお渡しする目的での訪問。Tシャツを買ってくれた皆さんにもこの場を借りて報告とお礼を言います。

◆草深い庵、と言ったら失礼かどうか、素晴らしい風情のあるお住まい。あちこちにヒマワリの種入りのガラスびんが置かれていて、ヤマガラが安心して食事している。庭先には「ゴロゾー」が現れるとのことで、あとで薬をあげなけりゃ」とあやさん。ゴロゾーはタヌキの名で、通りを隔てた山から下りて遣ってくるのだそうだ。「最近皮膚病になっちまったんで、その薬を」とあやさん。ドッグフードに混ぜて与えるその薬、シンガポールから取り寄せたものだという。居心地の良さにすっかり長居しているうち、突然一匹のタヌキが現れた。これがゴロゾーだった。ほかにゴン、グンの子ダヌキもいるらしい。どうやって移動するのか、動物カメラマンである夫君が追跡、行動範囲をある程度突き止めたそうだ。鎌倉の穏やかな昼下がり。あやさんの真髄を垣間見たひとときだった。

◆北極では地平線で報告してくれた阿部雅龍、荻田泰永君の2人がそれぞれ単独で動いている。3月26日、阿部君は海に落ちたらしい。無事だったが、「マジで死ぬかと思いました。生きてて良かったです」と。テントとコンロをその際になくしたので、一晩はソリの袋の中で濡れたまま震えて寝、次の日の昼にヘリコプターをチャーターして救援要請をして、病院に搬送された、とのこと。

◆「手足指は全て凍傷になっていますが(海に落ちましたからね)、切除する程の事ではありません。これも幸運です。装備も無くした物があるし、身体もボロボロですが、まだ歩くのを諦めた訳ではありません。生きてさえいればこっちのもんです。諦めさえしなければ這い上がれる」(メール内容は応援事務局のお知らせから一部転載)。2人とも自分の力だけを頼りに歩き続ける素朴な挑戦。かっての河野兵市のような無念に終わったケースもある。無事帰ってきてほしい。(江本嘉伸


先月の報告会から

道中渡世旅明暮(みちなかわたりよたびのあけくれ)

三輪主彦

2016年3月28日 新宿コズミックセンター

■「みなさん、こんばんはー」「こんばんはー!」。わきあいあい、元気なあいさつから始まった443回目の報告会。報告者は、「地平線会議」世話人で、発足の1979年、第1回目の報告者でもある、三輪主彦さんだ。「地平線会議」きってのランナーであり、走歴は50年以上。長く「走り旅」を楽しんできた三輪さんだが、1983年、J.シャピロ著『ウルトラマラソン』の中で「ジャーニー・ラン」という記述を見つけてからは、この言葉を使うようになった。

◆この本によれば、「ジャーニー・ランナー」は自分たち独自の世界を好む「種族」であり、三種の神器は「ひま」「金」「ロードマップ」。「ちょっといってくらあ」といった風に、ふらりと旅に出かけてしまうのだ。早くても時速7、8キロ。ときには歩いているくらいの速度で、ゆっくり、長く、気の向くまま、走る。「ジャーニー・ランは自由で勝手なもの。だれが速いとかトップとか、そんなものは関係ない」と、三輪さんは言う。

◆ところで、月曜だというのに会場は開始時間には満席状態で、菅原博さんや下島伸介さん、坪井伸吾さん、渡辺哲さんなど、たくさんのジャーニー・ランナーが集結していた。三輪さんの教師時代に生徒だった方たちも駆けつけ、各分野のエキスパート、古参・地平線メンバーも勢ぞろい。ときに愛あふれるツッコミを入れられ、三輪さんがたじたじになる場面もあった。

◆そんな中、「写真を用意しました」とまず映されたのは、原発事故によりいまは見ることのできない富岡のローソク岩。それから、福島第一、第二原子力発電所の見える航空写真だった(ここで三輪さんが写真に添えた文字について、「火力発電所の位置が違いますよ〜」と東北にバイクで通いつづける賀曽利隆さんからツッコミが!)。航空写真で色が異なって見える部分には「双葉断層」があり、第一原発はこのそばに建てられている。1994年に走った三輪さんは「当時も知っていたのだから、もっと言わなければいけなかった」。

◆そのときの記録を読むと、「自分の足でないと、急坂を確認できない」と書いてある(かっこいい!)。ランナーは走るだけで満足しがちのため、ずっと「ただ走るだけではいかん。記録を残さねば」という思いがあったのだ。ちなみに、ジャーニー・ランについての最初の本は、「先を越された!」と口惜しいが、江本嘉伸さんの『鏡の国のランニング』(1988年、窓社)なのだとか。チベットやモンゴルなど、地球のあちこちで走りまくるこの本の中には、なぜか「三輪主彦との戦い」という章もある。江本さんと三輪さんは長年のライバル・ランナー同士。この日も「皇居一周ではどっちが勝ったか」なんて言い始め……。あれ、「だれが速いとか関係ない」んじゃなかったの?

◆ 少しさかのぼって1984年、女子マラソンが初めて正式種目となったロサンゼルスオリンピック。三輪さんには、優勝したベノイト選手ではなく、熱中症でふらふらになりながらも競技場を走ってゴールしたアンデルセン選手の姿が印象的だった。感動する人もいる中、「無理やり走らせるのはよくない」と強く思ったという。ちなみに、テレビを観ていた場所はカナダの山の中で、このときにおもしろい出会いがあった。

◆家族でトレッキングをしていると、ランニングスタイルのおじさん数人が現れたのだ。「何してんの?」「50歳の誕生日だから50キロ走ってる」。「60歳の時は60キロ走るの?」子どもたちが聞くと、「当たり前だ」。「面白い人たちがいるんだな。山の中を走るのも面白そうだな」と思った三輪さん、この頃から日本中を走り始めた。それから大きかったというのが、日本のジャーニー・ランの草分け、田中義巳さんとの出会い。田中さんの企画で東海道550キロを走り、「長い距離を走る」という面白さがわかったのだ。

◆1999年には日本縦断ジャーニー・ランもおこなった。九州最南端・佐多岬を目指したが、当時(〜2012年まで)は岩崎産業が所有する土地で、車かバスでしか行けなかった。そのため人力移動の旅人たちは、夜中や早朝にこっそり侵入してきたのだが、三輪さんは到着が昼になったので「待ってられるか」と海岸線を歩き、気の毒に思った地元の人にこっそり崖を上る道を教えてもらい、なんとか岬まで辿り着くことができた。

◆「夏だったけど、寒くてずっと歯をがちがちさせながら走っていたら、歯が折れちゃった」というのは、北海道を走ったとき。最北端・宗谷岬で、Tシャツに短パン姿でほほ笑む原健次さんと一緒に撮った写真が映し出される。三輪さんは、「原さんはほんとうにすごかった」(この日、会場に原典子さんから「原健次が生きていたら、ぜったい会場にいたはずです」というメッセージとともにクッキーが届き、全員でごちそうになりました)。

◆寒くて三輪さんは、妻の三輪倫子さんに防寒着を頼んだ。旭川の町の中を走っていたところ、向こうから女の人がにこやかにやってきたので、挨拶してすれ違う。すると、「あんた! なにしてんの!」。「見たことある人だなと思ったら、奥さんでした……」。会場からは「えー」の声。「長い距離を走ってると、わけわかんなくなっちゃう」との言葉に、ジャーニー・ランの過酷さが伝わってくる。そして、はるばる持ってきてくれる倫子さんのやさしさや、「あんた!」と叱られるところに、ご夫妻の関係も伝わってくるような。

◆ところで、「たいていのジャーニー・ランナーは、『寅さん』に憧れがある」と三輪さん。「リリーさんの家」が奄美大島の加計呂麻島にあり、島旅のエキスパート河田真智子さんの案内で、向後夫妻と一緒に行ったことがあるのだ。ほかにも中山嘉太郎さんと一緒に走っている写真や、海宝道義さんの「しまなみ海道100キロウルトラ遠足」の写真がつづく。それから会場に集ったランナーたちの中で、何人もが参加しているという、日本で現在最長(270キロ/36時間)のウルトラマラソン「桜道国際ネイチャーラン」の写真が。雨が降る中、三輪さんは公衆トイレで仮眠、大きなごみ箱に入って休憩しながら走った。ランナーにごみ箱は大人気で、入ろうとしたら先客がいたこともあったという。様々な場所、そして人たちが現れ、縦横無尽に話がすすんでいった。

◆最近は、暗渠の川を歩く「ぶらりばクラブ」を結成、都内の暗渠の川60パーセントほどを歩いたそうだ。川は必ず蛇行するため、うろうろ走るのも気持ちいい。おすすめなのは、谷中にある昔の川のあと「へび道」。それから川沿いにブルーテントが立ち並ぶ、隅田川だ。「そういえば、都立戸山高校の教師時代には戸山公園もテント村があった」と三輪さん。毎日そこを走って通勤していたので、テント村の人たちに親しくしてもらい、学校に行くのが楽しかったという。

◆ ここから、「だんだん、神がかってくる」と、最近の「パワーを感じる場所」でのジャーニー・ランについての話に。2002年に熊野の大峰奥駆道を走り、2012年はオーストラリアの「ウルル」(エアーズロック)へ行き、聖地をめぐるトレイルを走った。2015年には(心臓手術のあとだというのに!)、4000メートルのラダックへ。「いろんなところに神様がいるな」と感じたのだという。70歳になった記念には、区切り打ちで「四国遍路」を開始。遍路の道中はお大師さまとの「同行二人」というが、夫妻で歩いているので「三人旅」をしているそうだ。

◆たくさんの写真は自動で次々かわるように用意してあって、壮大なBGM付き。でもすぐ写真を止めるので、曲も止まってはまた始まって、なんだかちょっとおかしい。走っている動画を流せば、「わざとらしいですねー」「ここにカメラが置いてあります」と「自撮り」の解説をしたり、カメラを取りに走って戻ってくる姿までを見せて、「通常のジャーニー・ランナーに比べて、二倍は走ってるんです」なんて言ったりする三輪さん。とにかく会場からは、笑いが絶えない。

◆西行の500回忌にあたる年、そぞろ神に憑りつかれ、家を引き払い、「おくのほそ道」の旅に出たという松尾芭蕉。そろそろ佳境ということで、「芭蕉先生こそが、ジャーニー・ランの先達だ!」という三輪さんの足で獲得した新説が発表される。署名に「はせお」を使っているところも「馳男」とも漢字にできて、ランナーっぽい! とのこと。芭蕉先生の足跡を辿り、「おくのほそ道」最難所といわれる山刀伐峠を越えてみると、とんでもない脚力があり、鍛えたランナーでもきつい行程を移動してることがわかり、「先達」との確信を持ったという。

◆それから句に対する想いもわかってきた、と。暗(くらがり)峠は、奈良から大阪に抜ける道だが、芭蕉先生は病を患いながらも(翌月には亡くなる)、句を詠むため、9月9日「重陽(菊)の節句」に合わせて40キロの道を歩いて峠を越え、「菊の香に くらがり登る 節句かな」という句をつくったのだ。三輪さんは、峠道の国道(「酷道」でもある)308号線を走ってみて、わずかではあるが芭蕉先生をより感じられたという。

◆歴史を調べ、史実を追いながら、興味の向くところ、自分の足でどこへでもゆく三輪さん。ほかにもいま、「神社って面白い」らしい。日本一えらい伊勢神宮の天照大神と三輪神社の神さまが「同一の身」であるという説があり、これから「ヒミコとヤマトヒメの旅」をしてゆくとのこと。「それを500回目の報告会で、もう一度しゃべる!」と宣言して、報告をおえた。するとすかさず、「500回はみんな狙ってるんだから」と江本さん。二人は永遠のライバル! いまだ、息の合った戦いは健在なのかも。

◆「報告会ってもっとぴりぴりしてるものだと想像していたけど、ゆるゆるでうれしい」との感想は、大阪から駆け付けて、実は定例の報告会には初めて参加したのだという遊上陽子さん(た、たぶん、今回は三輪さんだからで、いつもは違うと思いますー)。昨年末に出版された三輪さんの本『ちょっとそこまで走り旅』(創文企画)のお祝いもかね、最後に河田真智子さんと、戸山高校の元生徒の方々からお花が贈呈される。「三輪先生がいるから、いまのわたしがいる」とは、代表して前田規子さんの言葉。「でも三輪先生を支えているのは本人ではなく、奥さまです」と付け加えられると、会場からは「そーだ!」の声が。最後まで、わきあいあい。「われらが先達、三輪先生」の好奇心に連れられて、いろんな人に出会って、いろんな場所に少しだけ飛んで行けたような。なんだか、あったかい気持ちになった、報告会だった。(加藤千晶


報告者のひとこと

言い忘れたこと!

 半ボケ状態なので、言いたいことを忘れないように十分に準備をして臨んだにもかかわらず、福島第二原発の位置を間違えたり、日本最南端と最西端を取り違えたりした(実はわざと間違えてウケ狙った高等テクニックだった。ちょっと苦しいいいわけだな)。当日は言いたいことは言ったつもりだった。しかし今になると「富岡のロウソク岩」を例に福島の原発の危うい地質構造をもう少し詳しく話すべきだったと思う。

◆原発銀座の若狭湾の真名井神社まで天橋立から走ったら「波せき地蔵」が立っていた。海抜40m、1300年前の大地震の津波が押し寄せた場所だという。四国の衛星画像を見てほしい。ほぼ東西に直線状の筋が見える。私はここを走った。佐多岬半島に出ると道がすばらしくなった。伊方原発があった。直線状の筋は日本最大の横ずれ断層、中央構造線だ。原発は直上に造れないが、断層の幅は数キロある。そんな所に原発を作るなんて狂気の佐田だ。だから佐田岬半島と言うのか?

◆冗談はさておき、日本中を走ってどの原発も危ういところにあることを知った。人が住まない所に原発を造ったという。人が住まないのは住めない理由があったからだ。たいてい大災害が繰り返す地だ。そんなことを走って各地を訪れて初めて知った。

◆3.11のあと私は慚愧に堪えなかった。慙愧(ざんき)とは政治家の使う「残念だ」という意味ではない。知っていたのに知らせなかったという恥の気持ちだ。次に同じ悲劇が起きないように、危うい原発は再稼働させないようにしなければ。そのことを声を大にするべきだった。それが言い忘れたことだ。500回記念大集会にはもう一度話をさせていただきたい。それまでわが身が持つか。あるいは原発が持つか。いろいろ心配がある。ボケてはいられない。(三輪主彦


4月の報告者のすごさについてひとこと

■こんどの宮城公博さんの報告会楽しみにしてます。著書も発売と同時にその日に一気に読んじゃった。山とか冒険やってない人にも、わかりやすく楽しめそう。ただ、表現力がありすぎるがゆえに、もしかしたら本のおもしろさが行動の凄さを見えにくくしちゃってないかな、とも思った。じっさい宮城公博さんのやっていることはスゴイ! 以前から「岳人」などで紀行や登攀レポートを拝見していたけれど、彼の記録を前にすると自分としては「わたしはクライミングも冒険も厳しい状況に身を置いたこともまだありません」となってしまう。客観的に見るとそのくらいスゴイ記録。ただ登攀にしても冒険にしても取り組むジャンルが多岐にわたっているために、たとえば山野井さんと同じくらい、みたいな誰かとの比較は難しいかな。ついでにお行儀の良くなった昨今の若手にしちゃ、なかなか反骨精神に富んでいる。よくある若気の至りで勘違いで突っ走ってるんじゃなくて、一般大衆が見落としている騙されているところを鋭く指摘したりもしている。新しいタイプですね。いずれにしても報告会、どんな展開になるのか楽しみにしてます!!(田中幹也


地平線ポストから

厳冬津軽の山、またも、4戦全滅!

■今冬もダメだった。今シーズンのトライも全滅に終わった。舞台は厳冬期津軽の山である。順を追って年明けより説明したい。

◆まず1月初旬にめざしたのは、津軽半島の背骨をなす津軽山地の縦走。青森市の西隣からはじまり津軽海峡を望む竜飛岬に至る標高数百メートルの山が連なる小さな山脈。太宰治の小説『津軽』にも登場する竜飛岬は、厳冬には風速40メートルの烈風で雪は積もることなく飛ばされる。そんな過酷な自然条件の津軽山地を歩いてみたいと思った。ところが出だしからつまずいた。

◆最初のピークの大倉岳(677m)に立った時点で、なんとなくやる気が失せた。コンディションはそう悪くない。雪不足とはとてもいえないけれど、ラッセル地獄というほどでもない。沈鬱な空に覆われときおり降雪を見たが、厳冬津軽ではふつうどころかそこそこマシなくらいの天候だ。ルートの大半が樹林帯ゆえに、烈風もそれなりには避けられる。

◆やる気が失せた理由は、うまく説明できない。でもこういうことはよくある。なんとなく気乗りしないと感じるのは、ひとつの直観だと捉えている。直観というと気まぐれとか思いつきともいわれそうだ。でもこれまでの経験によって培ってきたいくつかの公式のなかから、最良と思われる方法を瞬時に算出しているのだ。大局的な意味での判断である。

◆直観にまさる判断基準はないというのがこれまでの経験値であった。気乗りしないという言葉を、そうきわめて自分に都合よくなるように解釈してみる。けっきょく高尾山よりひとまわり高いくらいの最初のピークを1つ踏んだだけで下山した。

◆せっかく津軽まで来たのだからと、なかば惰性で津軽富士へ転身。しかしというか予想どおりというか、志気が高まらない。8合目においてホワイトアウトと強風を理由に下山する。年明け早々2連チャンで敗退となった。

◆つぎに2月上旬は、八甲田山に向かった。これまた初日からつまずいた。歩きだして3時間ほどでつまずいた。ホワイトアウトのなかを、足を一歩前に出したら空中だった。そのまま転倒して右足を打撲。地形的な関係がさいわいして、3メートルほど落ちただけで済んだ。なんとか歩けた。ちかくにテントを張って、翌日は吹雪によるホワイトアウトで停滞。

◆テントのなかでこんなことを思った。厳しい状況のなかで、かならずしも強い者ばかりが生き残るとはかぎらない。時と場合によっては、もしかしたら弱い者のほうが有利になるかもしれない。攻めの強さは、裏を返せば防御の弱さ。弱さは長所になることもある。逆に強さがウィークポイントになってしまうこともある。今の弱気の自分にきわめて都合のいいような冒険哲学を湿雪でなかば濡れたノートに綴ってみた。

◆ゆっくり歩くぶんには問題なかったので、3日目には山を降りた。ケガしたと思い込んでいた右足は、青あざが残っているくらいでケガというほどのものではなかった。それでも知らず知らずのうちに精神の葛藤があったのだろうか。麓の温泉に入ったら、これまでの疲れが一気に出たかのようにもう再度入山しようとは思わなかった。けっきょく山の姿すら見ずに終わった。

◆そして3月上旬は、津軽富士と八甲田山を再訪。移動をふくめて4日間で、2つの頂にも立った。厳冬にあれだけ時間を費やしながら毎回敗退したのが嘘のようなコンディションだった。完全に締まった春の雪質。厳冬のうんざりするようなラッセルもない。冬のあいだあれだけ苦しめられた烈風もない。とりわけ八甲田山においては雪質の良さのおかげで、夏よりも遥かに速いスピードで走るように登って降りてくる。トレランのようなペース。ルンルン旅行の気分。

◆昨冬同時期にがむしゃらにラッセルしながら3時間半費やしたところが、今冬は歩きスマホしながら15分ほどだった。雪山とは条件しだいでこうも変わる。悪天候による強風やホワイトアウトが行動時間を大きく左右する。雪が少なければつまらないと嘆いてみたり、雪が多ければしんどくてやってらんねえとこれまた嘆いてみたりする。いずれにしても冬の時季はもう終わったなという感じだった。やった気がしないとも味気ないともいえる。

◆冬の津軽の山は標高が低く傾斜は緩いので、ひとたび天候が安定して雪質が良くなれば登山としての難しさは消える。コンディションしだいで修行のような登山から一気にルンルン旅行になるのが、冬の津軽の山なのだ。というわけで冬に登ったとはいえない。けっきょく今冬も全滅。4シーズンにわたる厳冬期津軽の山は、12戦12敗となった。

◆厳冬の津軽に通いつめているうちに、あの独特の重苦しい冬の空気がスパイスのような効き目に感じるようになってしまった。平和すぎる街に降りてきて、はやくも手応えのあるつぎなる計画を模索しはじめている。今シーズンもさしたる成果もないままにさしたるドラマもないままに、いくつかのチャンスとともに冬が終わる。「あのとき突っこむべきだったのか……」。過ぎ去ったチャンスを悔いているときから、つぎなるチャンスは芽生えはじめている。ひとつの終わりは、あらたなるはじまり。3月上旬、早朝の津軽富士から眺めた雪に覆われた白神山地がやたらと印象的なほど脳裏に焼きついている。厳冬津軽の山、まだまだつづきそうだ。(田中幹也

15回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」行

■何とも早いもので東日本大震災の発生から5年目の3月11日を迎えました。さー、カソリの「鵜ノ子岬→尻屋崎」の出発です。東日本大震災の直後に始めた「鵜ノ子岬→尻屋崎」ですが、今回で第15回目を数えます。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬。「鵜ノ子岬→尻屋崎」をバイクで走ることによって、大津波で甚大な被害を受けた東北太平洋岸の全域を見ようと始めたのですが、5年間ではいわきとか石巻、女川、気仙沼、宮古、八戸……といったようにピンポイントでもまわっているので、大震災以降、東北の太平洋岸を訪れた回数は50回以上になります。

◆今回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」の相棒はスズキの650ccバイク、V

−ストローム650XTです。東京から首都高経由で常磐道に入り、12時、いわき勿来ICに到着。国道289号→国道6号で福島・茨城県境の鵜ノ子岬に立ちました。鵜ノ子岬にはヤマハのセローに乗った渡辺哲さんが来てくれました。渡辺さんとはこれから3日間、一緒に走るのです。渡辺さんは昨年の9月5日に避難解除された楢葉町の町民なのですが、いまだに実家には戻れず、いわき市内に住んでいます。

◆大震災直後の第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、第1泊目は勿来漁港での野宿でした。その時も渡辺さんは駆けつけてきてくれました。東電の福島第1原発の爆発事故で強制避難させられた渡辺さんには、何とカンビールとバタピー、チーズ、アーモンド&マカデミアナッツを差し入れてもらったのです。あの時の渡辺さんの明るさ、前向きな姿勢にはおおいに元気づけられました。

◆ペンライトを頼りに『ツーリングマップル東北』を見ながら浜通りの被災状況をいろいろと聞き、話がおおいに盛り上がっているところに赤色灯を点滅させたパトカーの登場。「これからバイクで下北半島の尻屋崎まで行くんですよ」と事情を話すと、2人の警官は「気をつけて!」と言葉をかけてくれて、調べられることもなく走り去っていきました。夜が更け、渡辺さんが帰ったところで、岸壁前の漁港施設の屋根の下でシュラフに入って眠ったのでした。

◆カソリのV

−ストローム650XTと渡辺さんのセロー、2台のバイクで北へ。国道6号沿いの高層の災害公営住宅はすでに完成しています。いわき市内ではすでに全棟の災害公営住宅が完成しているとのことです。常磐バイパスの4車線化工事もほぼ完成に近づいています。県道239号で常磐共同火力の火力発電所の脇を通り、竜宮岬を通っていきましたが、このルートがいわき市内では最後までつづいた通行止区間。海岸線では急ピッチで堤防の工事が進められています。

◆小名浜に到着すると、人気スポットの「いわき・ら・ら・ミュウ」へ。ここでは古山里美さんと落ち合いました。古山さんは神奈川県に住んでいますが、大震災後、宮城県の登米市を拠点にして南三陸町でのボランティア活動にたずさわりました。それ以降は精力的に東北各地の被災地を見てまわっているのです。さっそく3人で「いわき・ら・ら・ミュウ」内の「まさ常」という店で昼食。ぼくは「どんこ煮膳」を食べました。ドンコといえば三陸を連想させる魚。ここには1階と2階に何軒かのレストランが入っています。

◆「いわき・ら・ら・ミュウ」の前が新しくできた小名浜の大規模な魚市場。しかし風評被害の影響をモロに受け、いまだに本格的な操業ができないままなので、以前のような活気にあふれた魚市場の光景はまだ見られません。元の魚市場はすでに取り壊されていました。小名浜からは3人旅。堤防工事が進む中之作漁港でバイクを止めましたが、渡辺さんはすでに完成した堤防を見ながら、「福島にはいままで、こんなに高い堤防はどこにもなかった。みんな驚いていますよ」という。同じ東北でも仙台以北は大津波に何度となく襲われていますが、仙台以南は津波に襲われたことはほとんどなく、それだけに高い堤防は必要ない世界でした。

◆中之作から江名を通り豊間へ。豊間はいわき市内では津波で一番大きな被害を受けたところです。豊間の風景はすっかり変わり、大堤防が造られ、盛り土工事がつづいています。塩屋崎の灯台を目の前にする豊間漁港に到着。ここが慰霊祭の会場です。14時46分、東日本大震災の発生時刻には消防車のサイレンが鳴り響き、1分間の黙とう。僧侶の読経のあと参列者全員が献花しました。

◆いわき市長の挨拶がありましたが、豊間では今月から宅地の引渡しが始まり、来年の12月までには全宅地の引渡しが終わるということです。豊間の新しい集落の姿が見えるのはさらにその後のことになります。何とも長い復興への道のりです。豊間から塩屋崎を通り、隣りの薄磯に入っていきました。ここには豊間中学校の校舎があったのですが、すでに取り壊されていました。薄磯も盛り土の工事が盛んにおこなわれていて、以前とはまったく違う風景になっています。

◆新舞子海岸に出ると、県道382号を北上。堤防がかなりできています。夏井川を渡った先は工事中で迂回路を行き、夕方、四倉舞子温泉「よこ川荘」に到着。女将さんは「よく来てくれた」といって喜んでくれました。「よこ川荘」は津波で大きな被害を受け、その直後の様子を見た渡辺さんは、「カソリさん、よこ川荘はもう無理なようですよ」と連絡をくれたほど。ぼくが何度もよこ川荘に泊まっているのを知っていたからです。よこ川荘は奇跡の復活をとげました。女将さんは大広間の100畳もの畳を背負って運び出したという今では伝説の人。ビールや地酒を飲みながらの夕食のあとは、部屋での飲み会。『ツーリングマップル東北』を見ながらの飲み会は延々とつづくのでした。

◆今回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」は前後半の2度に分けています。前半では鵜ノ子岬から南三陸町の志津川までで、明日(4月1日)出発する後半では志津川から尻屋崎までを走ります。というのはゴールの尻屋崎は3月31日までは冬期閉鎖で、シンボルの灯台前まで行けないからです。それともうひとつの理由は、岩手県の宮古以北のあまりにも厳しい気候です。

◆そこで「鵜ノ子岬→尻屋崎」の前半戦を走り終えたところで、「洲崎→鵜ノ子岬」を始めました。洲崎は東京湾の出口で関東の太平洋岸最南の岬になります。鵜ノ子岬は関東の太平洋岸最北の岬です。千葉県で一番大きな被害を出した飯岡の海岸一帯には新しい堤防が完成し、津波の避難タワーもできていました。茨城県の大洗や那珂湊も大津波の被害を受けましたが、日曜日だったこともあり、車の長い列がまったく動かないほどの賑わいで津波の痕跡はかき消されていました。復興が遅々として進まなかった北茨城の大津漁港には新しい岸壁が完成し、鵜ノ子岬の平潟漁港もすっかり整備されていました。ということで今年からは「鵜ノ子岬→尻屋崎」同様、「洲崎→鵜ノ子岬」も毎年、継続して見ていこうと心に決めました。(賀曽利隆

夜の森の素晴らしい桜並木 浪江町の急激な変容

■4月8日(金)夜、賀曽利さんと福島県いわき市の四倉舞子温泉「よこ川荘」で合流。東日本大震災の被災地域を巡る「鵜ノ子岬〜尻屋崎」ツーリングに、福島・茨城県境の「鵜ノ子岬」まで同行させて頂きました。まずは富岡町の「夜の森」地区へ。ここは約2kmに渡り桜のトンネルが続く県内屈指の桜の名所です。震災前、この時期は多くの人で賑わっていたのですが、震災後はその一部が「帰還困難区域」となり立入りが制限されてしまったために、桜の並木道は分断されてしまいました。

◆丁度タイミング良く満開の桜が出迎えてくれました。こうして元気な花々を見ると心から嬉しく思いました。続いては「浪江町」です。ここでは大変驚きました。国道に通じる道は全てバリケードで封鎖され警備員が常駐し、物々しい雰囲気だったのですが、それらが撤去され立入りが可能となっていたのです。つい1か月前の3月12日にも賀曽利さんとこのエリアを走ったのですが、その時は浪江町の北側「南相馬市」からの道は全て封鎖されていた事を思うと、驚きです。

◆早速、町中心部の「浪江駅」周辺や、甚大な津波被害が出た「請戸地区」を見て回りました。町の至る所で除染作業や家屋の解体作業が行われていました。今まであまり目にしなかった光景です。一気に復旧作業が動き始めた感じを受けました。沿岸部の「請戸地区」は未だに津波で破壊された家屋や流失した建物の土台等が残されていました。昨年4月の「福島移動報告会」の際、特別に許可を取得しこのエリアを見ているのですが、それ程の変化は見て取れませんでした。震災から5年が経過し震災の爪痕がここまで残っているのは、福島のこのエリアだけでしょう。

◆浪江町の北西部は依然放射線量の高い「帰還困難区域」となっているため、そのエリアへの立入りは制限されたままですが、今回の封鎖解除により今後復旧作業が進んでいくことが期待されます。賀曽利さんは「5年を経て漸くバイクで来れたよ」としみじみおっしゃっていました。このように原発周辺エリアは状況が変わってきています。今後も現場に通い続け、状況の変移を見続けていきたいと思います。(渡辺哲 いわき市)


先月号の発送請負人

地平線通信434号は、3月9日に印刷、封入作業をし、翌10日、郵便局から発送しました。薄いページで行くつもりでしたが、何やかやあって、16ページとなりました。 作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。
  車谷建太 森井祐介 久島弘 前田庄司 武田力 江本嘉伸 杉山貴章 松澤亮
作業をを終えていつもの「北京」で餃子、ラーメンなどを味わいながら、あれこれ雑談が広がりました。先月に続いて今月もリニア中央新幹線についての勉強会の雰囲気になったのは、この問題をしっかり解説してくれる面々がそろっていたからです。


親子で来て、見て、走ったブータン

■3月3日〜8日までブータン王国へ滞在し、3月5日に開催された第3回ブータン国際マラソンに参加してきました。きっかけは、海宝道義さんとの出会いです。アメリカ横断マラソンを2回完走されて、その直後に地平線会議でも報告され(編注:1994年10月、「ウルトラの父アメリカを走る」のタイトルで180回報告会)、最近は「ウルトラマラソン界のレジェンド」と呼ばれている方。私たちの伊南川100キロウルトラ遠足の仕掛け人でもあります。その海宝さんが4年前にブータンで初めてマラソン大会を創り、その数カ月後、触発を受けたブータンオリンピック委員会(以下BOC)が独自にマラソン大会を実施していたのです。

◆海宝さんは、初めてブータンを訪れた時に、現地の山や渓谷、流れる川を眺めながら、なぜか伊南川とのつながりを考えてくれていたらしく、3回目となることし2016年3月に、私たち親子をブータンに連れていきたい!と言ってくれました。そんなわけで突然長年の夢が叶って、親子3人、初めてあのブータン王国へ行くチャンスに恵まれたわけです。

◆今回の訪問にはふたつの任務がありました。ひとつはBOCの開催するマラソン大会を見、参加すること。もうひとつは伊南とブータンの小学校の繋がりを創ることでした。ひとつ目の国際マラソンには私たち夫婦のほかに8歳の息子(健太郎)もエントリーさせてもらい、本人もスタートラインに立つのを楽しみにしていました。BOCの規定では参加資格は「18歳以上」となっていましたが、日本の旅行会社の津川さん(海宝さんがこれまで主催してきた国際大会を全てアレンジしてきた方)から、8歳の男児を何とか参加させて欲しいというお願いを何度もして頂きました。

◆「あとは現地で交渉しよう!」ということで、ブータンの大会受付会場で相談したら、あっさり却下。健太郎は、大会当日、津川さんが持参した日の丸をたなびかせながら、参加者の応援を楽しみ、津川さんとブータンガイドのSherubさん(海宝さんが初めての大会を実施した当時からお世話になっている現地ガイド)と現地のスーパーでサッカーボールを購入し、大会のゴール地点で出会ったブータンの子どもたちとサッカーを通して戯れていました。

◆そして、まともに練習もしていなかった私はフルマラソンの中間点を過ぎたあたりで、身体のあちこちに激痛が走りはじめ、大会関係者の車に乗せてもらってゴールすることができました(恥ずかしながらリタイヤです。夫も25キロまで頑張りましたが、完走はなりませんでした)。リタイヤした私たちと応援参加の健太郎も大会の閉会式には堂々と参加させて頂き、そこではBOC代表でもあり第5代国王の弟君でもあるPrince Jigyel Ugyen氏と伊南川からブータンへ来訪したことを会話させて頂き、一緒に写真まで撮らせてもらいました。

◆後で聞くと、ガイドのSherubさんは、Princeの側近に住所と電話番号とメールアドレスと名前を聴かれていたらしく、ドキドキしながら日本からの参加者の通訳をしていたようです。小学校同士の交流については、ブータンの首都から遠く離れた村にある小学校(Goenshari school)を訪問することが出来ました。国際マラソンのコース上にひっそりと建っている木造2階建ての校舎には、その日80名余りの生徒と校長先生の他に教員が3名いました。BOCがこの学校を推薦してくれたこともあり、校長先生は丁寧に校舎や教室を案内してくれました。

◆授業を見せてもらった後、校長室へ案内してもらい、伊南小学校の作品(習字や絵や作文など)を渡しながら伊南川との繋がりとこれからの交流を確認しました。校長室の机上に小さなパソコンがあったので、お互いのE-mailアドレスを交換しましたが、学校のある場所は通信環境が良くないので、町に出向いた時にメール確認が出来ると言われました。

◆が、帰国後、私からお礼のメールを送ると、校長先生からの返信がすぐに届いてびっくり! その後もメールを頂き、3回目のメールではブータンの遠足風景や子どもたちの伝統的な踊りの写真なども添付ファイルで送信してくれたのです! 本当に改めてインターネットの威力を実感しています。

◆ブータンでの驚きや感動を上げるときりがないのですが、海外経験の殆どない夫はチベット仏教の教えに深く感動していました。健太郎はブータンの感想を聴かれると「ご飯がパサパサだった!」と友だちや先生に即座に伝えていました。『お米のことしか覚えてないのかな〜』と内心がっかりしていましたが。8歳で見つけたブータンの人や風景との出逢い、そして国際マラソン大会の応援や現地の小学校訪問の経験を通して世界の中にある異文化を考えるようになったと思います。

◆私は何よりも久しぶりの海外の旅が嬉しくて仕方がありませんでした。アジアの国を訪ねるのは15年ぶりだったのです。ブータンで記憶として残っていることは、仏塔で見させていただいた人々の祈り、世界でも珍しく首都に信号のないティンプーの渋滞風景、世界で最も弱いと言われながらもオリンピック出場を目指して練習に取り組むサッカーのクラブチーム、建設に5、6年かかるといわれながら建て続けているホテルや住居、ティンプーから少し離れればどこまでも広がる棚田の風景、山の崖にそびえるように経つ寺院、原生林の森に咲くシャクナゲやヤマザクラなどの花々、町や村のどこに行っても飾られている国王と王妃の写真などなど。

◆そして食に興味がある私はブータンの世帯一辛いとも言われている伝統料理と唐辛子が大好きになりました。今回はツアー参加でブータンの人々の身近な暮らしに近づく時間は取れなかったのですが、次に訪問する機会があればブータンで生きる人々の暮らしをもっともっと近くで見せてもらいたいなと思っています。(もうすぐ春の福島・伊南から 酒井富美

カンボジアに行って、ほんとうによかった!!

■エモーンへ。お久しぶりです。静岡のクエです。3月20日、カンボジアから帰国しました。何度か書かせて頂いたように、青年海外協力隊の仕事です。帰国した今、つくづく参加してよかったと感じています。まず、一番は世界(視野)が広がったこと。2年前の私は、日々の忙しさに追われて頭の中に学校の世界しかありませんでした。でも今は、頭の中の地図は日本を飛び出して東南アジアまで広がっています。

◆日本で起きていることや学校で起きていることがすべてじゃない、世界の常識は違うかもしれないし、興味深い自然や文化、考え方がたくさんある。ということが、知識だけではなく実感として理解することができたと思います。もちろん、世界はもっと広いですよね。まだまだ広げなきゃ。活動期間中、旅行先で各国の人々と実際に関わる機会もありました。ぼんやりしていた世界地図が、具体的な人物やエピソードがあることで以前よりもはっきり見えてきた感じがします。

◆次に、外国人への恐れが減ったこと。私は、今まで外国人と接することが苦手でした。英語が苦手で、コミュニケーションをとること自体、ハードルが高かったです。しかし、カンボジアに来てから、クメール語で現地の人と会話できたり、旅行先でたどたどしいながらも英語が通じたり、笑顔やボディーランゲージでもコミュニケーションがとれるという経験を通して、自分がコミュニケーションを取ろうとするかどうかということが大切だということに気付きました。

◆旅行先でSIMカードを買うのに1時間付き合ってくれたインドネシア人のカップル、、空港のトランジットで楽しく会話できたバングラデシュ人の家族、私のたどたどしい英語をしっかり聞いてくれたベルギー人のボランティア、お互いの国の料理を持ち寄って食事会を開いた韓国人の友達……。国は違っても、その人の人柄や気持ちは相手に伝わることがわかり、外国人へのハードルが低くなりました。まだ「英語があまり話せない」という不安要素はありますが、「外国人」という偏見を持たずに「同じ人間」として困ったときには助け合い、楽しい時間をすごせたらと思います。

◆そして最後に、何と言っても、日本の良さを再発見したこと。日本について最初に感じたこと。「日本は……キレイ!!」街にゴミが落ちていない、電線が絡まっていない、ストリートチルドレンがいない、ポイ捨てする人がいない。コンビニであんなにたくさんの商品があっても、乱れず見やすく表示されていること。あまりの感動で、一緒に帰国した同期とはコンビニ内の整然としたドリンクコーナーで記念撮影しました(笑)。

◆現在勤めている中学校では、日本のキレイさについて話をする機会がありました。日本が美しいこと、ゴミを拾ったり、出さないようにしたりする行為がとても価値のあることだと伝えました。自分の体験を話すので、いつもより生徒たちに伝わった気がします。これからまた、いろんな面での日本のすばらしさを伝えていきたいです。

◆青年海外協力隊としての派遣期間は1年と9か月。無事に任期を終えて帰ってきた今、本当にあっという間だったなと思います。心配していたクメール語も、理科用語や授業で使う言葉だけは、大体わかるようになりました。ちょうど活動が軌道に乗ってきたときに「任期がもう少しあればもっとできたかも」という思いもしました。でも、この4月からは日本の教育に貢献する番です。カンボジアとのつながりを保ちながら、しっかり前を向いて日本で頑張りたいと思います。

◆出発前、エモーンにかけてもらった「2ランク上の意識で」というエール。時々思い出して、活動を振り返ったりしていました。カンボジアからのメールを何度か通信に載せていただき、ありがとうございました。カンボジアでも地平線通信を読むことができたことはとても刺激になりました。毎月ホームページへのアップが早くて驚きました。

◆また、私がカンボジアにいる間、日本の実家に送られていた地平線通信。なんと、母も通信を読むようになっていました。「今回、記事が載ってたよ」とメールで連絡が来たり、「エモーンさんは有名な登山家さんたちとお友達ですごいね」と言われたり、帰国後に本多有香さんのドキュメンタリー(NHKで放送されたもの)を一緒に見たりして…有香さん、かっこいいですね〜!!そして、わんこが超かわいい〜!!1600kmの過酷なレースで、有香さんと犬たちの気力、体力、信じる力を見せてもらいました。地平線通信を通じて、世界中で頑張っている人達を知ることができます。今後も家族で楽しみにしております!(静岡県・水口郁枝 理科教師)

グアテマラの写真家、屋須弘平を知っていますか?

■去年の秋、日本冒険フォーラムでもらった一枚のチラシ。「屋須弘平グアテマラ140年のロマン」。初めて見る名前です。「幕末から明治へと時代が移り変わる中、……天文学者を目指してメキシコに渡るも叶わず、移住したグアテマラで写真術を学び写真館を開設……異国の地に根を下ろし、カメラのレンズを通してグアテマラの人々と交流した」とあります。

◆私が中南米に関心を持ち始めたのは1970年代のこと。当時中南米に対する一般的な理解は、「開発途上国、貧富の差が激しい、政情不安」の三点セットで、実際頻繁にクーデターが起きていました。その100年前に自力で海を渡り、国交がなかったグアテマラで技術を覚えて写真を撮り、生涯をその地で生きた日本人がいたとは……。

◆平日の午後、静まり返った写真展の会場で、説明文の一つ一つに驚嘆しながら、心を込め時間をかけて撮影したと思われる肖像写真や死者の写真、陰影を精密に写し撮った美しい街並みや建築の写真など、何度か足を運んで見るごとに奥へ奥へと引き込まれていきました。とりわけ死んだ幼子が天使の像に抱かれて眠る写真は、本当に子供が天使になったかと思うほど美しく、見守る家族に涙はありません。グアテマラで洗礼を受け、生涯を敬虔なカトリック教徒として生きた屋須の写真には、肖像写真や家族写真にもぐっと人を引き込むものがあります。

◆1846年仙台藩藤沢(現一関市藤沢)の蘭医の長男として生まれ、子供の頃から外国に興味を抱いていた屋須弘平は、江戸に出て蘭医の修行をした後、横浜でフランス人医師から医学・天文学の他、フランス語とスペイン語を学びます。戊辰戦争で佐幕派の仙台藩の人間は官費では留学できないと悟り、自力で留学して天文学者になろうと渡航許可を申請、許可されます。

◆74年12月、日本が金星太陽面通過の観測適地だったことから、外国から観測隊が来ていました。横浜にはメキシコ隊が来たため、屋須に通訳の仕事が回ってきます。隊長は天文学者のF.D.コバルビアス。メキシコ隊のレベルの高さに驚いた屋須は、メキシコで天文学の研究をしたいと懇願。コバルビアスはそれを受け入れ、翌年2月メキシコに連れて帰ります。

◆横浜からスエズ運河を通ってのフランス船ボルガ号の旅は、寄港地ではホテルに泊まって町や遺跡などを観光して回る優雅なもの。半年パリに滞在した後11月メキシコ到着。早速コバルビアスに連れられてレルド・デ・テハダ大統領を表敬訪問。大統領の希望により着物姿で訪問したそうですが、書生の身で大統領にまで謁見するとは!

◆翌年から天文学を学び始めたものの、クーデターによる政変でコバルビアスは公使となってグアテマラに左遷。屋須も家族のお供でグアテマラへ行きます。しかしコバルビアスには屋須の面倒をみる余裕はなく、日本に帰る旅費をつくるため仕事を探し、公使館の前で写真館を経営していたドイツ人に雇ってもらいます。掃除などの業務をこなしながら写真術を覚えますが、研究熱心な屋須は朝から晩まで働き2年で独立。大統領や大司教の写真を撮るほどまでに認められ大繁盛しました。

◆仕事は順調でしたが、途絶えていた母親の消息がつかめたことから、89年日本に帰り東京で写真館を開きます。しかしすぐに高橋是清からペルーの銀山経営での通訳を頼まれます。気乗りがしなかったが断りきれずペルーへ。しかしペルーの鉱山はすでに廃坑となっていました。騙されたことを知った高橋と鉱山技師は直ちに帰国。屋須は残された鉱夫たちを日本に送り返した後、自分も帰るつもりでいましたが、殖産興業に逸る日本に失望し、自ずとグアテマラへ足が向きます。グアテマラでは友人たちが温かく迎え、終生ここで生きることになりました。

■再び写真館を開き、グアテマラ人のマリアと結婚。95年かつてのグアテマラの首都アンティグア(現在世界遺産)に移り住み、写真館を開設。マリアとの間に子供がいなかった屋須は、マリアの甥ホセ・ドミンゴ・ノリエガを養子に迎え写真術を教えます。1917年病気のため70歳で永眠。写真展の会場には、屋須が故郷藤沢町の甥に宛てた最後の手紙が展示されていましたが、そこには望郷の思いが切々と語られていました。自分の意志で海を渡り、挫折しても常に自力で解決し道を切り開いてきた屋須。その自負はあってもなお沸き上がってくる望郷の念。そこに綴られていたのはたくさんの日本の食べ物のことでした。

◆その後屋須のことは忘れられた時期がありましたが、1976年、グアテマラ大地震の際ノリエガ家の本棚が倒れ、その後から原板数百枚が見つかり、歴史的価値の高いものとして脚光を浴びます。グアテマラに渡って100年目に起きた地震。「私を忘れないで」という屋須の強い思いが大地を揺らしたようにも思えます。

◆2004年藤沢町の関係者がアンティグアを訪れ、屋須の遺品約160点を持ち帰り、藤沢で特別展を開催。2005年には横浜で外交関係樹立70年を記念して写真展が開催されました。今回で二度目の写真展ですが、日本に来ている写真はほんの少しです。アンティグアでは、周辺の村落の写真、農民や労働者、先住民の写真、祭りや行事など庶民の日常もたくさん写していると言います。紙焼きでいいからもっと多くの写真を見てみたいです。

◆来年は屋須の没後100年。国内で写真を撮っていないため、日本では殆ど知られていませんが、初期のグアテマラの写真家として、その力量は世界で高く評価されているようです。140年前にたった一人で海を渡り地平線を目指した先駆者を、もっと多くの方に記憶していただきたくて拙文をしたためました。(横浜市 大野説子


ペルーの先住民写真家マルティン・チャンビ写真展開催のお知らせ

■1月中旬、アフリカのモザンビークで某・世界一周クルーズに乗船した。船客にカーニバル講義をかましながらケープタウン、ナミビアを経由して大西洋を水上横断、リオのカーニバルへ突入。終了後の2月13日、次の寄港地ウルグアイのモンテビデオで下船し、その足でペルーのリマへ慌ただしく空中移動する。翌14日までリマ美術館MALIで開催されているペルーの先住民写真家マルティン・チャンビの大規模な写真展の最終日にぎりぎり滑り込み成功。そのためだけに南米大陸を横断したのであった。

◆昨年10月後半からスタートした写真展は、未発表作品を含む140点以上で構成された大規模な展示だった。来年には改装工事中の米国サンフランシスコ近代美術館SF-MoMAでの回顧展が決定している。重量3kg超の新しい写真集も見ごたえたっぷり。1932年にペルーを旅した大巨匠のFUJITA、そうあの藤田嗣治がクスコでチャンビのスタジオを訪れていた、なんてびっくりの史実も明らかになっている。

◆以前、上野の国立科学博物館を皮切りに全国7都市で開催され、大人気を博した「インカ帝国展」にごく一部の作品を無理やり押し込んだことがあったが、今回は借用したままだったプリントを返却する前にぜひもう一度、ってなわけで、広尾の在日ペルー大使館のホール「マチュピチュ」でチャンビ写真展を開催する運びとなった。4月19日(火)〜5月16日(月)まで、日曜・祝祭日は閉館。月曜日〜土曜日の11時から17時で、金曜日のみ20時までオープン。入場無料。当方は金・土は在廊の予定でおります。

◆先住民が先住民を記録した、写真史上でも稀有な存在であるチャンビの作品。この機会にぜひ触れていただきたし。JR恵比寿駅/東京メトロ日比谷線恵比寿駅から駒沢通り沿いに徒歩12分ほど、山種美術館の手前です。何とぞ、よしなに。ペルーの後、嵐の大地パタゴニアで巨大マスと闘っていたなんて話はまた次回。(ZZz

*在日ペルー共和国大使館
 150-0012  東京都渋谷区広尾2-3-1
 TEL:03-3406-4243
 Fax:03-3409-7589
 @JR恵比寿駅/東京メトロ日比谷線恵比寿駅より徒歩12分、
 A恵比寿駅より日赤医療センター行きバスで5分(3つ目バス停下車)
 ◆駒沢通り沿い、広尾高校裏交差点(山種美術館の手前)を右折
 https://www.google.com/maps/@35.6528909,139.7120432,17.46z?hl=ja-JP


通信費、カンパをありがとうございました

円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

江口由利子/古山里美/高城満丸/伊沢正名(10000円)/下島伸介(10000円)/中村易世/石田昭子(いつも楽しく読ませていただいています)/宮澤美渚子(10000円)/新野彰典(5000円)/西嶋錬太郎/高松修治


地平線の森

  拡 大 版

『FORTUNE宮城』

特定非営利活動法人とめタウンネット発行フリーペーパー
3月28日夜、報告会の最後に、紹介されて南三陸からやって来た編集長、河崎清美さんが立ち、『FORTUNE宮城11号』を参加者全員に配布し、挨拶した。紙媒体としてはこれが最終号となる。河崎さんを支えて編集に協力してきた塚田さんにこのフリーペーパーへの河崎編集長への思いを書いてもらった。(E)

■東日本大震災から1年余りが過ぎた2012年5月。人々の、被災地への関心が徐々に薄れつつあるなか、三陸沿岸の状況や新たな動きを現地から発信していこうと、フリーマガジン『FORTUNE宮城』は創刊された。刊行後は編集長の河崎清美さんが、宮城県登米市から行商のごとく冊子を抱えて東京に足を運び、報告会で配布していたので、地平線会議の周辺では、目を通してくださった方も少なくなかったと思う。

◆“宮城から見つける新しい未来”というキャッチフレーズ通り、『FORTUNE宮城』では、被災地で起こりつつある変化の兆しに目を向け、新たな取り組みを伝えてきた。少子高齢化、都市への人口流出に伴う過疎化、一次産業を主とした地場産業の衰退……。人口減少社会に突入した日本では、こうした現象はすでに全国の地方に共通する課題であり、三陸沿岸部は、震災によって問題の表出が前倒しされたに過ぎない。表面化した課題をどう改善するか……などと口でいうほど、解決策は容易に見つかるものではないけれど、問題を先送りせずに向き合う態度は、ピンチをチャンスへと変えてゆく。

◆新しいまちはどうあればよいか。自分事として考え、動き出した人々の行動力や価値観は、きっとこれからの時代に相応しい生き方を示唆している。『FORTUNE宮城』が地元に根ざしながらも外の人々との交流を深め、場を開いてきた人たちを紹介し、応援してきたのは、そんな思いからだった。海あり山あり、豊かな自然が残る三陸沿岸には、さまざまな魅力がある。地元の方々が“目の前に太平洋銀行があるから”というように、世界でも指折りの漁場がもたらす海の幸、お米をはじめとした農作物、山間部で盛んな畜産業と、オールマイティな食の豊かさ。今も少なからぬボランティアが現地に留まり、あるいは継続的に足を運んでいるのは、復興の行方が気がかりなだけでなく、まだ支援を必要としていた時期でさえ、お茶っこをすればボランティアにお漬物を差し出してくれるように、地域のつながりを大切にする東北の人々に惹かれたからだろう。

◆『FORTUNE宮城』が地域に根ざした人たちの活動を伝え続けることができたのは、2011年4月から現地に入り、11号の特集タイトルの通り、自身が“三陸沿岸部に関わり続けた”清美さんの、ガッツと根性ゆえにほかならない。新垣亜美さんや落合大祐さんをはじめ、地平線のメンバーも少なからず参加していたRQ市民災害救援センターを経て、フリーの現地コーディネーターとして地域支援に関わっていた際には“清美パトロール”といわれたように、地域をこまめに周り、見守りをしていた清美さんの、ウェット過ぎず、かといってドライでもない人との適切な距離感は、編集未経験ながらスタートした『FORTUNE宮城』の取材にも、充分に発揮された(実は純粋にお出かけが大好きという噂もあるけれど)。

◆最初の1年こそ助成金があったものの、その後の資金繰りは毎回綱渡り状態で、2年目には、サポーター制度をつくって支援を募った。震災から3年という節目の刊行を目指した8号や、特別編集した『三陸沿岸ガイドマップ』では、クラウドファンディングを通じて制作費を工面するなど、振り返れば多くの方々に支えられての冊子づくりだった。

◆紙媒体としては、2016年3月に発行した11号が最後になるけれど、いつか出身地・広島に帰ったとき、自分のまちで楽しく暮らせるように、東北というフィールドでこれからの生き方を模索している清美さんは、今も現地に腰を据えてパトロール中だ。今後はインターネット上で情報発信を継続するとのことなので、これからも近しい価値観を持つ人々をつなぎながら、農業、漁業、林業など第一次産業を基盤に生きる人たちの強さを伝えてくれるだろう。(塚田恭子


今月の窓

地平線報告会444回顛末

■地平線報告会が今月で444回を迎える。考えてみたらもう37年、この活動を続けているわけだ。いろいろ理由はあるが、ともかく1度も休むことなく、地平線通信を出し、報告会を続けてきたのは、この活動に意味があるからだろう。気負わず、自然体でこれからもやっていきたいが、最近来られるようになった方も多いので、この際「地平線444か月」を、足早に振り返ってみたい。

 最初の報告会 1979年9月28日の金曜日、東京・赤坂8丁目の「アジア会館」で最初の報告会が開かれた。報告者は、先月も登場した三輪主彦。テーマは「アナトリア高原から」。高校教師の三輪は、教壇から逃亡して公の金で海外暮らしを実践することの名人でこの時もトルコに8か月留学、帰国したところを「第1号報告者」にさせられた。初回報告会には99人が集まった。参加費は今と同じ500円。

 告知は、はがきと電話放送システム 報告会は、当初毎月担当ディレクターを決め、準備から当日の進行まで責任分担して進めた。お知らせは、はがき(当初はずっと手書きだった)と着信専用電話を利用する「地平線放送」の二本立て。ユニークな試みだった地平線放送については「地平線から 1979」に詳しい。

 8冊で力尽きた探検・冒険年報の発行 1979年8月、地平線会議を立ち上げた時、報告会は、探検・冒険年報の発行という活字仕事と、車の両輪だった。活字の仕事は膨大なエネルギーを要する。「すべて手弁当」を貫いてきた地平線会議にとって、年報『地平線から』の発行は、つくづく価値ある、しかししんどい仕事であった。毎年1冊を目標に『地平線から 1979』(80年11月に発刊記念大集会)『地平線から 1980』(81年7月に発刊記念大集会)『地平線から 1981』(82年7月に発刊記念大集会)『地平線から 1982』(83年7月に発刊記念大集会)『地平線から 1983』(84年7月に発刊記念大集会)と刊行し続けた。毎年、年報が出来上がるたびに大きな会場で「発刊記念大集会」を開いて、1年の成果を喜びあったものである。しかし、年々海外渡航者が増大する中で探検・冒険の情報を収集することは次第に困難になり、8号まで刊行したところで力尽きた。

 一方で、地平線報告会のほうは、3.11直後の節電、会場使用制限などの試練を超えて、今日に至るまで一度も中断することなく続いてきた。

 75号までは、はがき通信 1981年6月から2か月かけて北海道大学の学生3人組がアラスカのユーコン川3000キロを譲り受けた筏で下った。その一人、長野亮之介(当時23才)は82年3月「ユーコン河・中古イカダの旅」と題して29回地平線報告会で体験報告した。その時の予告は江本が手書きで書き、なんとイラストもカットもなし、だった。反省!

 84年12月、衝撃的なイラスト通信が地平線会議の仲間たちに届いた。62回目の地平線報告会、高野久恵の「台湾、ヤミ族とのふれあい」で、ヤミ族の人々が乗る美しい小舟が白黒のトーンを活かしたデザインを背景に描かれている。小舟のかたわらに小さく「Ryo」の文字。これが絵師・長野亮之介の葉書通信デビュー作となった。

 いまの大きさは86年から  86年1月の75号から今のB5版サイズに拡大された。以後、「地平線通信」はB5版10数ページの体裁が続いている。拡大したのは、報告会で発信される貴重な体験報告を参加できなかった人、通信を大事にしてくれている遠隔地の読者にもしっかり届けたい、との思いからだ。そして、何よりも報告者への敬意を込めた通信としたかったのだ。年報が刊行できなくなった今、折角の報告会をきちんと記録に残しておきたい、という気持ちは強く、報告会レポートは見開き2ページで記録するようにしている。報告会とは別に行動記録なども適宜含めるので、ページ数は自然に増えてしまった。ついでながら、毎号、巻末のイラストとともに、フロントページの長野亮之介画伯苦心の「題字」には、是非注目していてほしい。毎月読めていますか?

 266回は、アジア会館でやった アジア会館での地平線報告会は、01年12月28日の恵谷治氏による266回報告会まで続いた。なんと22年間である。ふるい仲間たちがアジア会館を今も懐かしく感じるのは、あの会館での初期の熱気を覚えているからだ。食堂のバングラカレーほか、アジアの味も忘れがたく。

 新宿区の公共施設の利用に だが改装されたアジア会館の利用は予算の関係で難しくなり、新宿区の牛込箪笥区民ホール、榎町地域センター、新宿区スポーツセンターなど近くの公共施設を借りることが普通になった。地平線会議は「新宿区荒木町」に一応本籍があるので何かとやりやすいのだ。

 意外な難問二次会場探し 毎回、二次会の場所探しには苦労した。当初はアジア会館近くに皆で気楽に入れるような飲食店がなかなか見つからなかったのだ。1981年10月、24回報告会でクライマーの故長谷川恒男さんに「アコンカグア南壁冬季単独登頂」のテーマで来てもらった際、帰りがけアジア会館近くのカフェで彼がひとりで飲んでいる姿をドア越しに見つけ、しまった、と慌てて合流させてもらったのは主催する側として今も苦い思い出だ。お礼は払えないが、打ち上げの場はしっかり持ちたい、と以後深く心するようになった。「餃子の北京」は、そのあらわれである。皆さん、これからもよろしく!(E


あとがき

■今週、3か月ぶりにロシア語上級が始まる予定だったが先週、上智大学からショックな電話が。「申し訳ありません。4人しか集まらないので今回は成立しないことに」。なんと、5人以上いないと開講しないルールなんだそうです。一時は15、6人ぐらいいた教室なのに、どうして?

◆どこかでも書いたが、大学でロシア語を専攻したのに、情けないほど身につかなかった。山岳部という場所で燃焼し尽くす日々だったので当時はそれでもよかった。新聞記者時代も、モスクワ勤務など全くお呼びのかからない仕事に明け暮れていたのだが、社会主義時代のモンゴルに通うようになって、それが一変した。

◆当時のモンゴルのリーダー、インテリたちはほぼ皆ロシア語を流暢に話したのである。通訳を通さずに意思疎通できることほど素晴らしいことはない。私は、モンゴルに入り込む手段として、結果的にロシア語の腕をかなり上げた、と思う。

◆数年前、たまたま自宅近くの上智大学で社会人向けの公開講座があると知り、申し込んだのが始まりだった。タチアナ先生のこの教室、日本語を徹底して使わないので私には大いに刺激になった。私はヒヤリングはかなりダメだが、毎回の授業の冒頭、めいめいのノーボスチ(ニュース)を話す場面では困ることがない。

◆「ノーボスチ」を追い求める人生である。地平線の仲間のおかげでノーボスチには事欠かない、とも言える。ロシア語については、今期はしばし休まれよ、ということと解釈しよう。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ゴルジュの楽園

  • 4月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F大会議室 に戻ります!!

「沢ヤの醍醐味はゴルジュ(切り立った崖に挟まれた狭い谷地形)への挑戦かな」と言うのは宮城公博さん(33)。20才で登山を始め、岩壁、冬山、冬壁と独学で国内外の山に挑み頭角を表します。「こどもの頃の冒険のようなドキドキする気持」を求め、前衛的な沢ヤ(登山ルートとして沢を登ってピークを目指すクライマー)の世界にのめり込みます。

技術的な困難さから道のルートもまだ残されている沢登りは「その分どっぷりと自然に浸れる」遊び場でした。「沢ヤは気取らない仲間が多いし、探検的要素も多くて自由度が高いんです」と宮城さん。神域とされている那智の滝にすら挑戦し、タイホされたことも。

今月は沢を初め冬山、岩など宮城さんのクライミング・ワールドの魅力を語って頂きます! 上梓したばかりの著書「外道クライマー」も傑作です。予習にオススメです!


地平線通信 444号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年4月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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