2017年3月の地平線通信

3月の地平線通信・455号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月8日。國際婦人デーだ。朝の気温は零度。寒の戻りというやつだ。麦丸と散歩に出ると、垣根越しに紅梅の花が見事に開花していた。桜は、今や世界が注目する日本の花だが、どうして梅もいい。そうだ、新宿御苑の梅はそろそろ盛りかもしれない。この通信を出し終えたら行ってみよう。

◆歩きながら麦丸がコホッ、コホッと咳をする。以前書いたが、5月に11才になる麦丸は1年前に心臓の病気が見つかった。この犬種にありがちな病気というが、手術はこの年齢では危険が伴うらしい。1日2回、数種類の薬を飲むのが日課だ。不憫ではあるが、普段は元気いっぱいなのでこの元気をうまく維持させてやりたい、と考えている。

◆カナダの犬ぞりレース、ユーコン・クエストに出走した本多有香さん、犬1頭を病気で失う事故で中間地点のドーソンでリタイアした。心臓に問題があったらしく、一種の突然死のようだ。「ファイヤーフライという子の心臓が大きくて、ドーソンの直前で突然死んでしまいました。レース前の検診では、雑音が聞こえるけれど大したことはないと言われていました。アイディタロッドも走っていたし(アイディタロッドではETKというデータをとる検査もしています)、心臓の大きさはエコーなどを使って調べないと分からないので、みつけられなかったのです」と本人は伝えてきた。犬の死がどんなに有香さんにとってショックだったかわかるので冷静なメールに少し安心した。犬も人間同様、いつ何があるかわからない生き物だ。

◆太郎、熊助、ワンダ、くるみ、雪丸、そしていまの麦丸、と子供時代から何頭かの犬たちと付き合ってきた。でかいのも小さいのも、どの犬も可愛く、個性的で、忘れがたい。最近はその世界に源次郎という猫が入り込んできた。普段は母親(ヒトです)と3階にいるが、しばしば2階の私たちのテリトリーにもやってくる。ある日、外でガラガラガラ、と鍋か何かが転がり落ちる大きな音がした。下のレストランの店員が「何だ?! 猫らしいそ!」と叫んでいる。まさか? と窓を開けるとベランダにいるはずの源次郎がいない。電線の束を伝って地上に飛び降りたのだ。脱走である。

◆外に飛び出して路地裏、近くのガレージというガレージの車の下を探すが、いない。遠く信州上田城の境内で拾われてきた猫だ。飲屋街がひしめき、狭い路地(地元では「隙間」と呼ぶ)が縦横に走る荒木町では迷子になるしかない。内田百間の「ノラや」を思い浮かべてそれでも必死で探した。母親は所用で信州にいる。1時間ほどして万策尽きた、と座り込んでいると意外に近くで「ミャー」という声がする。なんと電線を伝ってベランダに帰ってきたのだ。こんな混沌とした街でもう自分の家を覚えたのか、と心底ほっ、とし、図体は大きいがやわらかい猫をぎゅっと抱きしめた。犬派の私が一気に「猫も派」に傾いた瞬間だった。

◆3日からきのう7日まで京橋の小さな画廊で長野亮之介画伯の1年半ぶりの個展が開かれた。2017年の地平線カレンダーは『叢猫戯画』というテーマだったが、この個展も猫がテーマ。彫刻家の緒方敏明がカレンダーを絶賛して「2017年は酉年ではなく、猫年」と言い放ったように、我が地平線界隈はにわかに猫族が闊歩しているようなのだ。あ、ギャラリーの名も「メゾンドネコ」でしたね。

◆さまざまな猫の風景を描いた画伯の絵はさすがに面白く、どれも買い占めたい出来だった。そして、会場の細長い机にず丸山純氏がひねり出し、画伯が描き並べた「四文字猫語」という展示が実に面白かった。このギャラリーに来られない仲間にも見せたい、と思わずこの通信で取り上げさせてもらった(11ページ)。「高田猫場」とか「公私混猫」とかじっくり読んでみてください。できれば、そっとどの「四文字」が傑作だったか教えてほしい。

◆しかし、犬たちも頑張らなければならない。地平線会議には「地平線犬倶楽部」という伝統ある組織が存在している。会長はあの滝野沢優子さん。世界中の犬たちを撮り続け『犬眼レンズで旅する世界』(情報センター出版局)などの著書を持つヒトだ。3.11以後、一貫して生き物の救済活動を通して福島の問題を突きつけているその会長にこの通信の“目玉”である「今月の窓」を書いてもらった。そしたら……。15ページを読んでください。(江本嘉伸


先月の報告会から

むきだしモンゴル

大西夏奈子

2017年2月24日 新宿区スポーツセンター

■「明けましておめでとうございまーす!」和やかな雰囲気で登場したのは大西夏奈子さんだ。現在はフリーで編集者とライターをやりながらモンゴルに通っている。夏奈子さんが着ているモンゴル民族衣装のデールは20歳のころに作ったものだといい、パッと目を惹くピンク色だ。水色のデールをまとった8歳の我が娘も並んで立たせてもらい、憧れのモンゴルの先輩の横で娘のほっぺたは最高潮に赤く染まっていた。なぜ冒頭の挨拶なのかというと、モンゴルは(中国などとはまた違う)旧暦で、今年は2月27日が元日なのだ。報告会のあった日、モンゴルの人々はごちそうの準備で大忙しだという。

◆そもそもなぜ夏奈子さんがモンゴルにかかわるようになったのか。夏奈子さんは広島生まれ、江戸川区の南葛西育ち。23区にもかかわらず何もない埋め立て地で育ち、幼少時代は童話作家になるのが夢だった。その後、成長して東京外国語大学モンゴル語科に入学。なぜモンゴルを選んだのか20年近く謎だったが、日本語教師をしているお母さんから最近種明かしが。「将来モンゴルで日本語教えたいな〜ロマンだなあ〜」と生まれた時からお母さんが耳元でささやき続けたためすっかり刷り込まれてしまったらしい。

◆夏奈子さんが初めてモンゴルを訪れたのは大学1年生だった2000年。首都ウランバートルの街を一望できる丘から見た風景写真では、街なかにまだ小さな草原が点在しているのがわかる。モンゴルに対して日本から多くの援助をするなど、先人たちが国家間をよく繋げてくれた恩恵を受け、夏奈子さんが訪れた当時のモンゴルは日本ブームが起こっていた。「日本人ですか」とよく声をかけられ、その一人がターニャという女の子。友達になって文通する中で、毎回手紙に「来年の夏に田舎に行こう」と書いてあった。いろいろなことがアバウトで日時も目的地もよくわからなかったけれど、とにかくビザを取って翌年またモンゴルに行った。

◆この頃のモンゴルで印象的だったのがマンホールチルドレンだ。外国人とわかるとお金を求めて声をかけてきて、断ると石を投げてくる。こっちも負けじと投げ返す。しかし何千人もいたマンホールチルドレンは今、忽然と姿を消してしまった。政府やNPOなどが保護して社会復帰できたという説、臓器売買や売春のために中国やロシアへ連れて行かれたという説などが噂でささやかれているが、実態はよくわからない。

◆翌夏ターニャの家族と一緒に、ゴビアルタイ県ジャルガラン村で遊牧生活を送る親戚のゲルをめぐる旅をした。バンのような車一台で定員オーバーしての、途中2泊というきつい旅で、悪路が続きまるでロデオのようだった。モンゴル人たちが小石をおへそにセロテープで貼っていたのが車に酔わないおまじないだと言われ、夏奈子さんも半信半疑で真似をしたら実際酔わなかったという。他にも変わったしきたりが山ほどあった。ターニャのお祖母さんが突然車を降りて服を脱ぎ、草原で3回でんぐり返しをしたのだが、自分が生まれた地点でそうすると次の一年健康でいられるという。生活の中にたくさんしきたりが根づいているのが夏奈子さんにはとても面白く、今でも好きでそういう伝承を収集している。

◆ゴビの方に行くにつれ、風景は砂漠になる。ターニャの家族の里帰りは、銀細工の名手だったお祖父さんの墓参りが目的だった。モンゴルは前年にも訪れていたが、ひょうきんだったり優しかったり涙もろかったりする、他人との間に壁を作らずむき出しで接してくれる人たちとの触れ合いがたくさんあったこの年のモンゴルが、夏奈子さんにとっては本当の始まりだった。

◆10歳から地元で和太鼓をやっていた。9.11の半年後の2002年5月、ニューヨークの人を太鼓で励まそうというイベントに参加し、そのままカナダのトロントに移動して9か月間滞在した。高校生の時にクラスで話題になっていた母校先輩の関野吉晴さんが、色々な国でたくさんの人と会って直に話す様子をうらやましいなあと思っていた。トロントにはエスニックタウンが200以上あり、それぞれの民族が元の文化を守ったままタウンを形成していて、そこに行けば色々な人に出会えると思ったのだ。電車でカナダを旅したときはジャスパーでクライマーの田中幹也さんと出会い、「日本に帰ったらここに行くといいよ」と手帳に“地平線会議”と書いてもらった。

◆トロントではゲイパレード、ローマ法王を前に喜びで失神する南米の友人、チベット難民と中国人のプライドをかけた殴り合いなどを目の当たりにし、民族や宗教について深く考えさせられたりギャップを感じたりする日々を過ごした。通っていた語学学校で自分の国の文化について話す授業があり、ふと思い立って広島のお祖母さんに国際電話をかけ初めて原爆の話を聞き、翌日学校でその話をしたところ、ヨーロッパ、南米、韓国、台湾の生徒たちはその事実を知らなかった。夏奈子さんは驚くと同時にこちらから発信することの大切さがよく分かったという。

◆社会人になって出版社に入り、広島・長崎のことを日本語と英語で世界に発信するという企画の担当者になった。その本をPRする際、夏奈子さんは被爆3世ということを前面に出して新聞やテレビで発言し、それを機に核についても考えるようになった。若い人に受け取って欲しいという意図だったが、実際は70、80代の人たちからの反響ばかりが届いた。発信しても関心を持って受け取ってもらえないと意味がないということが身に染みた。

◆広島にある日米共同の放射線影響研究所では、被爆者と2世を対象に追跡の健康調査を今も行っている。ここでは検診の際に被爆者から採取した血液が保存され、人が原爆に遭うとどうなるかをずっと追いかけている。このデータがICRP(国際放射線防護委員会)の参考値にされ、被ばく線量限度の基準値ができるきっかけの一つにもなった。そして2011年3月11日。現代の日本人が核を現在進行形であり自分にかかわることであると認識した、時代が変わった瞬間だった。

◆2011年5月、毎日新聞にスクープ記事が。日本とアメリカがモンゴルに核の最終処分場を作ろうとしているというのだ。広島とモンゴルがこんな風につながってしまったということが大きな衝撃だった。モンゴルでもすぐ報道され、デモが起き、モンゴル政府はこの計画を実行しないと宣言した。日本がやろうとしていたのは包括的燃料サービスといって、原発を輸出し、モンゴルのウランを使って核を作りさらにそこで出たゴミをモンゴルが引き取るというパッケージだった。

◆そのころ夏奈子さんは日経新聞の出版社で派遣社員をしていて、記事をクリッピングする業務をしながら、モンゴルの話題が急に増え始めたのが目に見えるように分かったという。「経済成長率世界ナンバーワン」といった報道があった一方、「デフォルトになるかも」という報道もあり、いったい何が起きているのか気になって仕方がなかった。ところが他の近隣諸国とは違いモンゴルについては情報がなく、ニュースも流れてこない。とにかく知りたくて現地に行こうと決意した。

◆2012年末、11年半ぶりにモンゴルに行った。久しぶりのモンゴルは建設ラッシュで、これから国が昇っていくぞというエネルギーで溢れ、人々がギラギラしていた。否応なく興奮させられたがその興奮がなんなのかが理屈では分からず、とにかく彼らとかかわってみようと思った。ただ、情報は入ってこないのでモンゴルの人と付き合って知るしかない。東京でモンゴル人らしき人を見かけたら、こんにちはと話しかけて友達になる。人口300万余りのモンゴル人全員と知り合う勢いで、モンゴルでも声をかけていく。こうして今も色々な立場、階層、年代、職業の人と知り合っていっているところだ。

◆ここで遊牧民の話に。首都のウランバートルを出ると草原が延々と広がる。関野さんから「ぜひプージェの家族に会ってきてほしい」と言われ、3年前会いに行ったら、映画の中では2歳ほどだったいとこのバーサンが大きく成長していた。かつてプージェがバーサンを温かく守っていたのと同じように、今は兄のバーサンが弟バーサのことを温かく守っていて、プージェの魂が脈々と受け継がれているかのようだ。お祖母さんのスレンさんもニコニコ元気で暮らしている。

◆目指していたゲルにたどり着けなくて困っていた時は、そばを通りかかったモンゴル人夫婦が自分の親戚の遊牧民のゲルに案内してくれた。その人たちは新婚でこの日は引越しの予定だったが、それをキャンセルして付き合ってくれたという。モンゴルの人は愛想笑いをしないのでとっつきにくい印象があるが、実際は困っている人がいるとすぐ手を差し伸べてくれる温かい人たちなのである。他にも、草原の遊牧民の暮らしぶりやモンゴルならではのユニークなしきたりを紹介してくれた。

◆首都ウランバートルでは、ある時一人で北朝鮮レストランに入った。先入観も影響しているのかもしれないが、怖いという印象だった。まず店に入ったらカラオケセットがオンになり軍歌が流れてくる。店員の女性は白いブラウスに黒のスカートという出で立ちで、眉が太く決して笑わない。ウランバートルには北朝鮮から数千人の出稼ぎ労働者が来て工事現場の仕事に従事しているそうだ。モンゴルも北朝鮮も社会主義同士だったこともあり、また朝鮮戦争のときにモンゴルが北朝鮮の子どもを引き取って育てていたなど、深い繋がりがあり親密な関係にある。

◆ここからは相撲の話。日本でモンゴルと言えばまず相撲なのではないだろうか。白鵬関は、日本では外国人ということで叩かれ、モンゴルでは日本人と結婚して日本に魂を売ったと言われたりした。今は母国でさすがに英雄の扱いだが、数年前まではそういう悪口もよく聞かれた。日本ではヒールだった朝青龍は、モンゴルでは誰もが尊敬する英雄である。

◆夏奈子さんは昨年7月にわんぱく相撲を観る機会があった。モンゴル人通訳が来なかったため急きょ通訳を頼まれたのが縁で、モンゴルチームと3日間一緒にいることに。モンゴル代表のうち、前年の白鵬杯で優勝したソソルフ君は子供力士界の有名人だ。細い体で粘って大きな相手を投げ飛ばすので、白鵬は自分の過去の姿に重ねたであろうと夏奈子さんは思う。白鵬も来日当初は痩せていて、無理やり食べて体を大きくした。白鵬が開催する白鵬杯では、現役力士のカラオケ大会などの楽しい企画もあり、子供たちは力士の楽しそうな姿を間近に見て将来の夢を膨らませる。このような活動を一生懸命やっている白鵬に夏奈子さんは心を打たれたそうだ。近年の相撲界はモンゴル人力士が数多くいることで悪い声も聞かれるようになったが、モンゴル力士が日本の大相撲にパワーを与え、日本の大相撲がモンゴルの子どもや若者に夢を与えていると思っているという。

◆夏奈子さんはほんの数か月前の年末年始にモンゴルを訪れた。モンゴルでは12月31日がクリスマス。広場には大きなクリスマスツリーが飾られ、水色、黄色、ピンク、緑など様々な色のサンタクロースがいる。「冬のおじいさん」と呼ばれ、ロシアのスタイルだという。31日深夜には広場でカウントダウンを待ち、−30度の極寒の中でみんな踊りながら体を温める。それから電車に乗ってバカハンガイという初日の出スポットへ。太陽が顔を出す瞬間、人々が一斉に「オーハイ!オーハイ!」と叫ぶ。そしてミルクを大地と空に撒き、お祈りをするのだ。

◆最近のニュースと言えば、ウランバートル郊外にできた新空港だ。北東アジアのハブになるという鳴り物入りの新空港は日本のサポートもあって完成したが、どうやら今年開港できなそうということが判明。空港からウランバートル市街までを繋ぐ50kmの道路がまだできていないのだ。道路はモンゴルが作る予定だったが、お金が足りず舗装することができなかった。

◆次にモンゴルの最近の経済について、夏奈子さんがGDP成長率を分かりやすいグラフにしてくれた。モンゴルには世界最大級の鉱山が数多く存在する。鉱山開発に投資する海外からのお金が集まり、2011年に成長率が17.3%になった。世界1、2位を争う成長率は海外から注目され、日本でも投資セミナーが開講されるなど湧いていた。この時モンゴル政府はさらに伸びると楽観ムードになって、2012年に資源ナショナリズムに方向転換した。しかしその後の中国経済の衰退、資源の値段の急落、加えて政府がルールをコロコロ変えるせいで投資家の不安を煽り、投資が減ってしまった。政治家の賄賂など他の要因も相まって2016年の成長率はおそらくゼロであろうという発表が先日IMFから出された。

◆モンゴルの大気汚染は場所によっては北京より何倍もひどく、人が亡くなるレベルだという。主な原因は、郊外に広がる密集したゲル地区だ。市の中心部のマンションは暖房設備も含めたインフラが整っているが、郊外にゲルを持ってきて住み着いた人たちは寒くなると石炭を燃やす。さらに貧しい人はタイヤやプラスチックなどのゴミも燃やし、それらが煤煙になって市内に充満する。市民たちの大きなデモがあり、政府は対策としてこの1年間はゲル地区に勝手に住み着いてはいけないという法律を作った。人口約318万人のうち、ウランバートルには約半数、そのおよそ半数がゲル地区に集中している。

◆ゾドいう雪害も起きている。前年夏の降水量が少ないと草が十分に成長しない。そして冬季低温により一度溶けた雪が氷になると、舌を使って草を食む牛から先に飢えて死んでいく。ほかの家畜も草を食べる能力が低い順番で死んでいくのだ。数年おきに起きるものだが、今年は昨年に続いて2年連続になった。申年はひどいゾドが来るという言い伝えがある。家畜を失った遊牧民は生活に困窮してウランバートルに仕事を求め、ゲル地区に住み着いてしまうが、今年は国がそれを禁じたためそれもできない。

◆物議を醸しているのがダライ・ラマの問題だ。11月に来日し、その足でモンゴルを訪れたことに、政治的な目的があるのではないかと中国が非常に立腹。予定していた外交会議を中止したり、モンゴルから中国に石炭を輸出する際に高い関税をかけたり圧力をかけてきたのだ。チベット仏教の活仏のジェプツンダンバ・ホトクト10世がモンゴルで転生し、そのための訪問だったことをダライ・ラマも認めた。10世はモンゴルのどこかにいるまだほんの2、3歳の子供だ。中国政府が別に擁立して「二人」になったパンチェン・ラマのこともあるので、10世の行く末を夏奈子さんは心配している。

◆モンゴルは社会主義時代にロシアの衛星国だったので、今もロシアと深い関係にある。エネルギーの分野を例に取ると、モンゴルでは国を5つのパートに分けてそれぞれで発電・電力供給している。ウランバートルがある中央のパートは一番人が多く集まり経済も動いているところで、火力と少しの再生可能エネルギーで発電しているが、非常に不安定だ。そこでロシアが余った電力を買ってくれたり足りない分を売ってくれることで、安定的に電力供給できている。つまり国の中枢の電力をロシアに握られているということでもある。水力発電をおこなえば安定的な電力供給ができるはずだが、実現に向けて動き出そうとするとロシアから圧力がかかり先に進むことができなくなるのだと、複数のエネルギー関係者が話していたという。

◆ロシアと中国に挟まれたモンゴルはどちらの国とも良好な関係を築きながら、第3の隣国である日本との関係も深めていこうとしている。夏奈子さん自身も「日モ」がいい関係でいることはとても大切だと思っている。国家間の政治的なかかわりは花田さんたちの尽力のおかげで深まったが、個人レベルの関係はまだまだだと感じている。日本にいるとモンゴルの情報がほとんど入ってこない。日本のニュースは向こうで流れることもあるが、個人レベルでももっと話題を共有しあい、理解し合いたいと思っている。

◆夏奈子さんが日本で出会ったモンゴル人たちは、日本とモンゴルの懸け橋になりたいとか、将来モンゴルの政治家になって国を救いたいとか、真剣に熱く語る。じゃあ自分は何ができるかを考え、日本でもっとモンゴルの話題を発信し、モンゴルでは日本の話題を発信して、お互いの価値観や意識のギャップを埋めたいと思うようになった。その一つとして『モンゴリアン・エコノミー』という経済誌に毎月寄稿が始まった。この雑誌はモンゴルのビジネスマンや政府・外交関係者がよく読むということで、去年モンゴル雑誌賞を獲得した。最初に記事を書いたのは去年の11月で、モンゴルの新首相が訪日した時のレポートだった。ここで一番言いたかったのは、日本とモンゴルが拉致問題解決のための連携を約束したということ。モンゴルのマスコミの人と話すとこの問題が全然知られていないのを感じていたので、もっとそれを知ってもらえればと、そこにやりがいを感じるという。

  ★   ★   ★   ★   ★

■ここからは元駐モンゴル大使の花田麿公さん、地平線世話人の江本嘉伸さん、そして大西夏奈子さんによる鼎談だ。江本さんが読売新聞の記者としてモンゴルを最初に訪れたのは1987年5月で、その時に大使館の一等書記官をしていらしたのが花田さんだ。江本さんに会った時は2度目の勤務だったこともあり、仕事は割と軌道に乗っていたそうだ。お二人の出会いの様子を花田さんに聞いた。

 花田:日本から読売の方が来るということで僕がどこかに行っていたのを呼び戻された。対応しろと言うことで。僕は待つのが嫌いなので昼休みにバーッと探しに行った。「あなたですか、来たのは」と言ってホテルの食堂に乗り込んで話し込んだらなぜか馬が合った。トランプさんの言うところのケミストリーと言うような、あんな感じになった。

 江本:花田さんは日本とモンゴルの関係を樹立した功労者だと思います。西側の外交関係の構図は、まずアメリカ主導で関係を作り、そこに日本が入っていくというパターンが普通だった。モンゴルの場合は日本が先だった。北京からウランバートルまで寝台列車に乗っているとき、アメリカ人の美しい女性と同室になった。その人がアメリカ大使館を開設するために派遣された外交官だった。日本の大使館はとっくにあるのに、アメリカのはこれからという段階だった。
 それ以前から日本は経済的なものも含めて第一のパワフルな国だった。花田さんたちが相当がんばったがモンゴルにはまだ問題があったようだった。その辺どうだったんでしょうね。

 花田:モンゴルの特徴を考えたら答えが出ると思うんですけど、私はこういう風に捉えています。一つには、有史以来中国と対決してきた遊牧の国であるということ。二つ目に、中国とロシアに挟まれている唯一の国であること。この二つの大国に挟まれて消えたり飲みこまれたりしていった国ばかりの中で、唯一今も存在している。これはやっぱり偉大なことなんです。三番目に、人口の少なさだ。日本の4倍ぐらいの国土を持っているが人口は少ない。ただモンゴルより人口が少ない国は世界200か国のうちに57か国もある。ポルトガルがスペインと世界を二分していた時のリスボンの人口は10万だったが、それで大国とやり合えるのだからモンゴルも現在の人口で十分です。そして四つ目。モンゴルには他の国にないものがある。チンギスハーンです。チンギスハーンがあるからモンゴル人はプライドがあるしこれからもやっていけるでしょう。彼らは普通の国のようになるわけにはいかない民族だし。
 マレーシアのペナンなどいろんなところに在勤したが、モンゴルの方がずっと深いものがある。口承の文化です。だから今夏奈子さんがそれを集めていると聞いてびっくりした。

 江本:ソ連に封じ込められていたチンギス・ハーンを民主化が“解放”した。

 花田:地平線の方に言う言葉ではないと思うが、旅と旅行というのは別のものだと考えている。旅する人は自分の人生を考えると同時に旅の中で地球と宇宙のことを考える哲学的な人でなくちゃいかんな、と思う。ならば夏奈子さんはどちらなのかと意地が悪い目で今日見ていたが明らかに旅行者じゃないということがわかった、それがすごく嬉しかった。それから、僕らの言葉は皆さんに届かないが彼女の言葉は届く。だからこういう人が日本モンゴル関係に一人出てきた、ということなのだろう。さっきの答えですけど、今までにこういう人がいればもっと日本とモンゴルのすれ違いが防げたのではないかと思う。すれ違いの原因は、日本は中国を超えてモンゴルには行きづらい。国家としては愛(う)いやつだと言って面倒を見るが、それはつまり飼い殺しだよね、言葉は悪いけれど。だけど民間の人がモンゴルに行くというのは、ましてや住むというのはなかなか難しい。なにしろ寒い。
 国家の開発銀行があれば大きな投資が自国でできるようになる。それがないからモンゴルは国民一人当たり20億ドルという再来年までに払わなければいけない借金を外国に背負っている。日本はいくら借金があると言っても日銀が日銀に借りている借金で、一人当たりはモンゴルの1/20ほどだろう。モンゴルはまさに破産国のようなものになってしまった。日本は、国家としては助けるのに国民が行って投資するということはほとんどない。開発銀行というのは国の要のところだから本当は美味しいところだ。その開発銀行を作るというので相談に乗り、最終段階まで話が進んだにもかかわらず、4、5年前にやめたって。あそこに駐在するのは寒いから嫌だというのだ。日本がお膳立てしてすべて投資して最後の段階まで整えたのに、結局韓国の人が総裁になってしまった。だからそこらへんなんですよね。おそらく地平線の人なら喜んで行くのだろうが、既定路線で来た普通の会社員の中には行く人がいない。僕も外務省にいるということは既定路線なんだろうと思っていたが、モンゴルを選んだ時点で人生脱線していると人から言われました。だから夏奈子さんのような人がもっとこくさん出てくれるといい、と今日つくづく思いました。

 江本:花田さんは並みの外交官じゃないです。当時は社会主義国だからもちろん日本語教育というものが一切なかった。遅くまで仕事をして帰宅した後、当時小学生だった次男坊に深夜まであらゆる科目を教えてた。それから不思議な趣味があって、ウランバートルの小さな狭い部屋で模型の列車を走らせてるんですよ。毎日忙しいのに。

 花田:あれはドイツのメルクリンという模型です。日本の模型は高かったんですよ。ところが日本の模型界の権威からあんたのは模型ではなく玩具だと言われた。

 江本:花田さんはモンゴル語が達者でモンゴルのテレビにしょっちゅう出ては市場経済になった後の色々なことをアドバイスしていたような、モンゴルではかなり有名な人でした。
 花田さんにもう一つ質問。あれほど鳴り物入りでベルリンの壁が崩壊し、ソ連が崩壊し、モンゴル人がワッとなって民主化し、新しいリーダーになった。なのに経済的にはうまくいってない面がある。体勢が変わって発展していくというのは、こんなものなんでしょうかね。

 花田:それはモンゴルだけの問題ではないと思うんだけど、一つには国際的な援助がある。モンゴル政府の人がよく言うのは、モンゴルはあの時池におぼれた、それをつまみ出して陸にあげてくれたのは結局日本だけだった。そうこうするうちにやっとモンゴルが元気になったら中国も含めみんなまとわりついてきた。そうなったときモンゴル人は日本にもっと応援してもらいたかった、日本とだけやりたかったのに、もうその時になったら見えないほど後ろの方に日本が立っていた。じゃあお金もくれないのかというとそうじゃなくてお金はくれる。でも後ろの方に立って眺めている。つまり経済援助はしてくれるけど貿易は伸びない、投資もしてくれない。投資をしない奴はゼロだ!とか言って怒っていた。

 江本:夏奈子さん、あなたから質問は?

 夏奈子:質問ではないんですが、プージェの翻訳をやった外語のモンゴル科の一つ先輩の三羽宏子さんと花田さんが2006年に報告会をやった時に、初めて花田さんを目の前で見て、その時に外交官のイメージがガラッと崩れて、大らかで大きくて海のような方だなと思いました。地平線通信のようにモンゴルのことを書かせてもらえるところが本当に少なくて、モンゴルのことをやってもお金が入ってくるどころか出て行くばかりなんですが、そういう記事を書くたびに花田さんがメールをくださるのが勇気になっています。花田さんが、外交は国と国のことだけど、人と人のことでもあるんだよとおっしゃっていたのが印象に残っていて、個人同士の付き合いなら自分にもできると思っていろんな人と友達になるってことを続けようと思っています。モンゴルで2000年に日本ブームだったインパクトが強すぎて、今どんどん日本のプレゼンスが下がってきているが、それをまた上げられたらいいなと思っています。

 江本:最後に花田さん、もうひと言。

 花田:地平線でも書かせていただきましたが、サンフランシスコ平和条約には日本の周りの韓国、北朝鮮、中国、モンゴル、ロシアが入っていないんですよ。どこもアメリカと調印していない。そのあと日本政府がモンゴルやロシア、中国などとは個別に別の条約を締結したけど、北東アジアがじくじくしてるのは本当の意味での和解はしていないから。それは我々より上の世代の責任だけど、日本は侍の国なんだから間違ったことを言ったらごめんなさいと、お金ではなく一回謝ればそれで終わりなんですよ。しかしモンゴルとはそれをやったから戦争のわだかまりのないいい関係を築けたんです。国だって結局人の感情なんだから、怖い態度で謝りましたよ?と言うような感じでは許されないんです。だからお金ではなく、謝ること。事実を日本人が知って潔く謝った先には、許しの世界以外何ももい。それは人間の感情のことだから個人レベルでそうならないといけない。今アジアの人は日本人のことを嫌なんです。孤立無援。地平線会議のような外国に対して心の広い人の集まりならいいけど、普通はだめですよ。まずはそれを突破するにはどうしたらいいかと考えたときに、最初に一粒の種がぽとんと落ちて植わったのが、夏奈子さん。だから彼女のことは応援したい

  ★     ★    ★    ★

 発想がいちいち面白いモンゴルと、目の付け所がいちいち面白い夏奈子ちゃん。実は出会うべくして出会った、とても相性のいいもの同士なんだと思いました。(瀧本千穂子


報告者のひとこと

パワフルなモンゴル人、私もむきだしの心でぶつかっていかないと……

■地平線会議は、遠くのはるか先を歩いていらっしゃるスゴイ方たちが、後ろのほうを歩くひよっこに優しいです……。報告会の前も当日も後も、みなさんの温かさがとことん身にしみました。本当にありがとうございました。

◆花田麿公さんも、びっくりするほど気さくに接してくださいますが、実際私にとっては雲の上の存在です。その花田さんに今回無理をお願いしてお越しいただき、生のお話を伺えてすごく嬉しかったです。社会主義時代のモンゴルに命がけで飛びこみ、身と心ひとつで国と国をつないでこられた花田さん。海のようなおおらかさと大陸的な骨太さがあふれ、その言葉の節々に息をのむような重みと凄みがあり、モンゴルの方々から深く愛されている花田さんを心から尊敬しています。花田さんと江本さんの貴重なツーショットも、いつかまた見たいです。

◆私のモンゴルとのおつきあいは始まったばかりですが、モンゴル人のぶっ飛びな発想には驚かされることが多く、それが楽しくてたまりません。気質や考えかたが日本人とは正反対のように私には思えて、見た目が似ているぶん摩訶不思議です。ゲルのなかにも草原世界にも自分だけのプライベート空間を保つ仕切りがないからなのかはわかりませんが、心にも壁がないです。パワフルなモンゴル人に、私のほうもむきだしの心でぶつかっていかないといけません。

◆モンゴル人のほうから驚かれることもあります。むかし私がまだ耳にピアス穴をあけていなかったとき、何人ものモンゴル人に「女の子なのにピアスしてないなんてあり得ない!」と目を丸くされ、美容院に連れていかれ、耳に穴をあけられました(消毒はツバで)。魔よけの意味があるそうです。モンゴル人とつきあっていると、痛い目にあいぐったりすることもありますが、あはははと笑い転げてしまうことのほうがいっぱいあって、もっともっと知りたくなります。

◆地球上には住所を持たない遊牧民も、インターネット上のFacebookには固定の連絡先があり、私が東京にいても毎日誰かから連絡がきます。昨晩はプージェのイトコのバーサンが「楽しいお正月をすごしましたか?」と、水色のデールを着て撮った写真を送ってくれました。そういえばこの前東京で知り合ったモンゴル人のナラちゃんはプージェとバーサンの幼なじみで、子どものころ一緒に遊牧していたそうです。偶然出会った点と点があちこちでつながっていきます。この世界のせまさもモンゴルの醍醐味だなあと思います。(大西夏奈子


恐るべし大西夏奈子さん

■老害であると知りつつ、地平線の大西夏奈子さんの報告会に出させていただきました。正直とてもおもしろかった。大西さんの人となりが報告に正直に反映して、さもありなん、さもありなん、ああ、そうだったのかというようにお話を終始エンジョイさせていただきました。

◆モンゴルの統計局は今現在の人口を世界人口とともに常に表示していす。3月3日午後10時50分の時点で世界の人口は7,380,713,800人で,モンゴルは3,134,990人です。つまり世界約74億人で、モンゴルは313万5000人というところでしょう。大西さんはそのモンゴル人一人一人に会いたいと述べられました。仮に大西さんの寿命が100年とすると一年に1万3500人に会わねばならず一日約37人に会わねばなりません。モンゴルにいれば数字上はあるいは可能かも知れませんが、辺鄙なところにいる人を考えるとムリだと思います。

◆しかしながら大西さんのその心意気にいたく感動しました。こんにちは、おはようございますと知らない人に声をかける行為に新鮮さを感じました。なぜだろうと考えているうちに、大西さんの空恐ろしいまでの大きさ、深さに思いいたりました。

◆報告会が開かれた2月24日は、日本とモンゴルが外交関係を樹立した1972年2月24日からちょうど45年目にあたりました。人間だったらサファイア婚式でした。当時モンゴルのことを知っている日本人はほとんどいませんし、知っていても振り向かない、興味がないという相手でした。そんな中、戦後の日本外交は少しでも友達を世界に増やしたくて、付き合いのなかった国とのお付き合いを模索し、そしてモンゴルについては私の個人的な強烈な関心もあって(と勝手に主張しています)、日本はモンゴルとのお付き合いの道を開きました。今日の関係を見るともちろん関係者の皆さまの努力によりとても良好な二国間関係にあるといえます。

◆しかし、モンゴル人が日本人が好きだとよく引用される世論調査は15年前のものです。いま調査すればどうなのでしょう。ちょうど10年前に経験したことがもとで大西さんがまぶしくなったのです。10年前、日本モンゴル両国で外交関係35周年の記念事業が展開されました。みなさん善意のように見え、熱心で、前向きで事業は成功したのですが、私はかんじんの事務局長をしながら、何か違和感を覚え、二つの国の友好とはこんなことなのかと思いました。

◆たぶん、モンゴルのいなかの牧民の人も私の違和感を共有してくれたのではないかと思います。その事業の中で、お金を儲けようとした人がいました。自分の属する団体の羽振りを好く見せようとする人がいました。自分が中心だと誇示するため他の人を排除しようとする人がいました。そしてほとんどの人がモンゴルの人々に対して上から目線で見ていました。これでもう心は切れそうでした。

◆決定的だったのは、ウランバートルの第四発電所でモンゴルの人々とある雪害のひどい冬、日本政府側にいた私とともに、冬の暖房と電気を確保するため戦ってくれた友人が、ウランバートルでモンゴルの人たちと苦楽をともにした人々がここには居場所がないというものでした。私たちの集まりが欲しいというものでした。そして私は、日本の周辺の隣近所とのつきあいとは何だろうとこの10年悩んできました。

◆そんなとき大西さんの報告が地平線通信に載りだし、そしてあの晩ついに一粒の種が大地におりたのを確認できました。モンゴルの人たちと普通に普通の話をして、そんななかに普通の人間としての共感や反発を感じてはじめて真の信頼関係を築いていけるのだと思います。大西さんの世界もそのように見えました。お金で繋がってない関係がなんとも気持ちよく感じました。そして、他方で「エコノミスト」誌でご自分の意見を述べる塲を確保されておられます。恐るべし大西さん。(花田麿公 元モンゴル大使)


わたしはりょこうしゃなのか たび人なのか……

■わたしが今回のほうこく会を聞いて心にのこったのは、まず夏奈子ちゃんのお話しで、初日の出を見る時は、オーハイと言いながらミルクをいろいろなところにまくというところです。なぜかと言うと、オーハイということばには「今年もいい年になりますように」などのいみがあるのかなと、わたしもそうぞうできて楽しかったからです。

◆つぎに、花田さんのお話しで、りょこうしゃとたび人のちがいを教わったことです。ここでは、わたしはモンゴルに行くけど、わたしはりょこうしゃなのかたび人なのかをすごく考えさせられました。そして夏奈子ちゃんがりょこうしゃでないというのがわかって、わたしもよかったと思いました。

◆江本さんの話をノートに書きわすれたから書けないので、もうしわけないですがこれでわたしのかんそうはいじょうです。(瀧本柚妃 8才)


地平線ポストから

どうしてトナカイを9頭も飼うのか

2月末、新宿でアラスカからの珍客と久々に会った。吉川謙二。火星の永久凍土の探検に情熱を燃やすなどその行動スケールの大きさでは地平線屈指の冒険学者だ。知的好奇心がおもむくまま、行動範囲は限りなく広く、ベーリング海峡を小さなヨットで目指し、猛吹雪のシベリアの森林を四駆で走って立ち往生し、“マッドサイエンティスト”とも呼ばれる。1992年9月に「南極点探検隊」と94年1月18日、「67日間 起きる歩く食べる寝る南極探検隊」のテーマで171回目の地平線報告会で話してもらった(準備段階の1992年2月も報告者となっている)。冒険探検年報『地平線から 第8巻』に「二つの単独行 北磁極徒歩往復とアマゾン河遡行計画」を書くなど地平線会議の記録にも随所に足跡を残している。新宿の鰻屋(鰻資源の枯渇を心配して9人で2人分しか鰻重を取らなかった)に集まった南極仲間などふるい友人たちとの団欒で吉川君、「トナカイを残してきているのでできるだけ早く帰らなければ」と言う。え? トナカイ? 9頭も? びっくりこけた地平線通信編集長はもちろん、アラスカから原稿送るべし、と命じた。トナカイの世話を1週間ロシア人青年に頼んできた、とか。以下、現職、アラスカ大学水環境センター教授の世にも貴重なトナカイ報告である。(E)

■アラスカでトナカイを飼い始めて2年あまり、ここで生まれた子鹿たちも2歳と1歳が混ざるようになった。来月にはまた、子鹿が生まれ、乳離れまで忙しい3ヶ月がやってくる。子鹿の死亡率はかなり高く、目が離せない。子鹿を狙うカラスや猛禽類、狼、山猫、まもなく熊も目覚めてやってくる。これらを追っ払わなければならない。また、雪がとけると牧草地の整備、飲み水用の溜め池の水質管理など休む暇はない。

◆なあんて、偉そうに聞こえるが、牧草はビール片手にトラクターを行ったり来たりするだけで、飲みすぎると思わぬぬかるみにはまったりする。ため池はボーフラ対策として50〜100匹のニジマスを放流する。ニジマスは近くの湖で釣ってきたやつを生きたまま持ってくるのだけど、バケツで持ち帰る時すぐ弱るので、釣ってからはスピードが勝負だ。夕暮れ時に釣りに出かけ、最初の1匹が釣れてから30分で最初のが弱り出すので、その時点で釣れた分だけ持って引き上げる。もちろん針は返しのないスレばりだ。

◆ 蚊対策として去年はトンボとツバメが住み着くようにしたのだけど、ツバメが蚊を食べるよりもトンボを食べてるのを見て、ちょっと再考の余地があるなと考えている。私はツバメよりトンボの方が好きだ。というのもツバメは空高く飛んだり、どこか出かけたりだけど、トンボはいつも 私の周りで蚊を取ってくれるからだ。どちらにせよ両者とも活動開始時期が5月下旬から6月からなので、4、5月は蚊の天国となる。

◆そんなわけで、最近は外へ出歩く事もすっかり減った。アラスカ航空ではゴールドメンバーVIPでいつもファーストクラスに乗せてくれたのが、今では最後尾のトイレの横のエコノミーだ。まあ、短い人生いろいろな生活パターンがあったほうが楽しい。外国にばっかり行っていた頃は、気にならなかったが、今はそう簡単に留守にできない。出るときは誰かに動物の世話を頼まなければならないからだ。去年の暮れまで道もなかった人里離れた電気も水もないアラスカの森の中なので、ある程度そういうのに慣れていて、何週間も人に会わなくても平気な人間を探すのは結構大変だ。今回1週間日本に来た時に頼んだのは、ロシアの大学院生だ。彼はチュコトカで仕事をしていて、そういうことに慣れている。

◆ところで、なぜトナカイを飼ってるのか? その理由を書かなければなるまい。人は移動するとき、いろいろな方法を使う。それは、その時代で利用できる最大限有利な方法で、効率的な、実行可能な戦略で移動する。19世紀であれば、極地へは船で出かけ、越冬して、スキーなり犬ぞりで移動するのが一般的な科学調査の手法であったりしたけど、現在はそのような事はまずしない。では、19世紀的なやり方が完全に絶滅してしまったのか? それは間違いであろう。

◆例を永久凍土の調査で考えてみよう。凍土の調査も様々であるが、簡単(?)なものに現地で地中の温度を測るとして、 穴を掘る道具と温度計が必要になる。どうやってボーリングの道具や大量の温度センサーのケーブルを運ぶか? 高山の永久凍土観測は今でも昔と変わらず、一部ヤクや馬利用以外歩いて持ち上げるしかない。しかし水平移動何千キロにも及ぶ極地でそれをやったら、やりたいことの1割もできずに人生が終わることになる。それで、今まで船や車、スノーモビル、犬ぞり、カイトスキーなど距離を稼ぐ方法を利用してきた。

◆そして 最後に行き着いたのがトナカイだった。何よりサステンナブルな点が素晴らしい。植村直己さんの北極圏12000kmの犬ぞりもかなり自給自足だが、基本的にトナカイ以外の移動手段は外部からの餌や燃料の補給が必要だ。これが故にチュコトカからスカンジナビアまでの少数民族は長年トナカイと暮らし移動手段として利用できたのであろう。

◆北米大陸の北方民族間ではこの習慣はなく、野生のカリブーを狩猟していただけだったが、約100年前にアラスカでユーラシア型のトナカイ飼育が紹介された。当初は軌道にのりかけたが、運搬中の大量死とか評判はイマイチで現在でも放牧している北方民は北西アラスカとカナダマッケンジーデルタエリアに限られる。そこで、

 1 トナカイの移動手段としての有用性を再評価する
 2 実際にどのくらいの距離をどのくらいの重さを引っ張っていけるのかテストする
 3 調教されていないトナカイをソリ引きまで持っていくには、どのくらい大変なのか?

◆これらの命題を考察するには、やはりトナカイ牧場をはじめるしかないであろう。トナカイは犬のように飼い主が喜ぶことを喜びとは思わない。その上かなりのバカである。馬のような大きなトナカイでも脳みそは小指ほどだし、教えたところで右左どころか名前もわからない。始めた頃は途方にくれたが、 カブトムシだと思ってソリをひっぱらせている。

◆そんなわけで数年後トナカイソリでアラスカの村々を回り、犬ぞりと勝負できる日を楽しみにしている。さっきも書いたが、トナカイだと移動中トナカイ用の食料を運ぶ必要がない。思い切った荷物の軽量化はできるであろう。今の問題は、トナカイは走り出したらとても早いが、持久力がないこと。これは草食動物の性なのかもしれないがここをクリアしないと犬には勝てない!

◆最後にこの一連のプロジェクトの延長として、シベリアの旅が提議されるであろう。シベリア奥地の移動は、戦車のようなキャタピラートラックはたまたヘリコプター(Mi−8)かスノーモビル(ブラン)かトナカイソリしか現実不可能であろう。前者は大量の燃料が必要なのとその燃料の入手、品質管理にかなりの疑問がある。しかし、トナカイは、ユーラシアの北極圏ではほぼどこでも入手可能である。あとは、現地のコンタクトの確保、トナカイの良し悪しの見極める眼力、民族ごとに違ったソリの扱い方の熟知が必要になる。

◆そう言った意味でも、トナカイを自分で飼い、トナカイ北方民族の人々と交流を深め、シベリア奥地の準備をするのは、一見遠回りだが、牧場経営なしではうまくいかないと思う。あとはいつ実行できるか?? 人生は短く、行くべき距離は長いのだけど、焦っても上手くいかない。ただ、トナカイがもう少し利口だったら、今頃シベリアか?はたまた、犬ぞりレースのあとで犬より早く走り抜けているかもしれない(まあ、それはないかな)。(吉川謙二 アラスカ・フェアバンクス住人)

喜寿の記念に冬の剱岳へ。80歳まで登り続けたい

■はじめて書かせてもらいます。地平線通信は私にとって別世界、毎号皆様方の活動にただ驚き、その生き方に感心するばかりです。1月の「風神雷神アイルランドを行く!!」の報告者、杉田明日香さんも凄いの一言ですが、報告会レポートを書かれた19歳の下川知恵さんも立派ですね。「今月の窓」の和田城志さんもまだまだご活躍で楽しみです。

◆私はこのところ5年続けて剱岳早月尾根に法政の仲間と登っています。18歳で冬の早月尾根に登って以来、19歳で剱岳の頂上で4泊、その後も節目ごとに冬の剱岳の頂きを目指してきました。還暦の時は登れましたが、古希70歳の時は悪天で登れず、でした。

◆次は喜寿77歳ということで、昨年暮の12月29日に馬場島へ行きました。初日は富山から伊折へ入り、そこから3〜4時間かけて馬場島小屋へ。ここは年末年始だけ開いていますが、小屋というより民宿に近く、皆さん親切です。2日目は馬場島から2200m地点の早月小屋へ。標高差1400mくらいですが、日大山岳部が先行していたので、ひどいラッセルもなく到着できました。

◆3日目となる大晦日の31日、ガイドパーティー、日大山岳部をまじえ、30名くらいが頂上へ向かいました。午前中は曇天でしたが、11時ごろから風が出てきました。2800m地点付近から引き返すパーティーもありましたが、私たちは頂上へ。風雪の厳しい中、午後1時に着き、仲間5人で握手し下山、夕刻に早月小屋へ戻りました。往復12時間のアルバイトで、正確には77歳と360日での登頂。4日目に馬場島へ下山、5日目に伊折経由で富山へ。帰京して78歳になりました。

◆近年はガイド登山が増えて、毎年4〜5パーティーが入山しています。懇意にしている山本篤ガイドのチームは9人でした。山本さんのほか奥田仁一さん、三戸呂拓也さんと3人のガイドがひとり3人ずつ、3つのパーティーを組んで頂上へ向かいました。冬の剱は初めてという女性、年輩者の皆さんがあの寒さが厳しい風雪の中、登頂したのですから、さすがにガイドです。その力強さに感心しました。日大隊8人も文登研(国立登山研修所)の教習どおりのザイルワークで、時間はかかりますが安全第一でリーダーの統率も良く、久し振りに見た大学山岳部の姿でした。

◆早月尾根から行く冬の剱岳は、好天に恵まれれば本当に楽しく登れますが、一度悪天になれば手も足も出ない山になり、年末に登れた私等は運の良いパーティーだったと思います。きたる今年の冬も法政の仲間10人前後で剱岳へ、80歳まで通ってみたい気持ちです。地平線通信、これからも楽しみにしています。(村井龍一 法政大山岳部OB 日本山岳会元副会長)

ウサギ、キツネ、オオカミを食いつなぎ、絶望の極夜探検からの帰還

極夜のカナダ北極圏で行動していた探検家、角幡唯介さんからの壮絶な「極夜探検終了のお知らせ」を以下に紹介する。私を含めて関係者にメールされた内容だが、地平線通信に収録することは角幡君も了承してくれるものと判断し、転載させてもらう。角幡君、了とされよ。(E)

■新年、あけましておめでとうございます。角幡です。この4年間準備をすすめてきた極夜の探検が終了し、昨日、シオラパルクの村に戻ってきました。皆さんには心配をおかけしました。計画では北極海を目指してカナダに渡り、4月に帰村する予定でしたが、中間地点に設置していたデポがすべて野生動物に食い荒されており、残念ながら予定より一か月ほど早い帰村となりました。

◆ただ、計画した通りにはいきませんでしたが、80日間の暗黒界の放浪はとんでもなく得難い経験になったと思います。最初の氷河での猛烈なブリザード、荒れ狂う海水を浴びてベーリング海のカニ漁船の船員みたいに氷漬けになった夜、地吹雪でテントが埋没する恐怖と闘いながらの必死の7時間ぶっ通しの除雪作業、冬至の新月期間という究極の暗黒空間における視界ゼロの無茶なナビゲーション、その末に発見した小屋への正解ルート、そしてデポが完全に破壊されたときの絶望。

◆極夜世界。そこには絶望しかありませんでした。その後、なんとか旅を維持するため月明かりを頼りに大型動物の狩りに挑みましたが、しかし、昔のイヌイットでも困難を極めた暗闇のなかでの狩猟が私なんかの半端者にうまくいくわけもなく、最後は犬を食べることを前提に村への撤退を決意しました。その後の思わぬ展開、そして厳冬期のブリザード荒れ狂う地獄のような氷床越え。ウサギ、キツネ、オオカミを食いつなぎ、気がつくと2か月分しかない食料で80日間も極夜界を放浪していました。あまりの無茶苦茶な展開の末に見た地吹雪のなかの太陽は巨大な火の玉となってギラギラと燃えており、思わず感極まりました。最後はマジで結構やばかったです。やっぱり、ああいうところに一人で出かけてはいけませんね。

◆今回の極夜の計画は2015年のデポ設置の段階からやることなすことうまくいかず、まったく計画通りにいきませんでした。ほとんど呪われた企画だったといっていいと思います。しかし、デポが破壊されていたことで、ある意味、計画以上に極夜を深いところまで探検できたとも思います。ツアンポー以来のすごい旅だったなというのが率直な実感です。やっぱり旅は計画通りいかないほうが面白い。その意味での物語性は最高でした。今はさっさと日本に帰って家族と一緒に野沢温泉にでも行きたいなと思ってます。

◆今のところ帰国は3月初旬を予定しておりますが、せっかく4月末まで仕事をキャンセルしているので、執筆再開は4月になってからにしようかと思ってます。まあ3月一杯は家族とスキーをしたり、本を読んだりしてゴロゴロするつもりです。極夜の間は、もう二度と極地にはこないぞと思っていましたが、今は次の探検の企画で頭がいっぱいです。(角幡唯介 2月25日)


ゾモ普及協会からのお知らせ

■『新編 西蔵漂泊』の刊行を記念する3月20日(月・祝)の二つのイベント(「講演会」と「記念する会」)の会場では、密かに準備を進めていたゾモTシャツの「新色」がいよいよ新登場します! 要望の多かった濃い色(ネイビーとバーガンディー)の生地に、まっ白のゾモ子をあしらいました。これまでとは、がらっと違うイメージです。夏のTシャツシーズンに向けて、ぜひどうぞ!(各色S・M・L) また、どの会場に持っていっても必ず売り切れになってしまう、大人気の「ゾモトートバッグ」も並びます。お楽しみに!


パン・菓子工房oui オープンデーを開催しました

■皆さん、ありがとうございます! 終了3日前にクラウドファンディング100%達成、事務所でみんなで歓声をあげてしまいました。そして2月25日大安、工房ouiのはじまりの日のイベントを行いました。竹テントをたて、工房スタッフとアドバイザーの先生とで特別に作った約300個のパンを完売。ご近所のみなさんを中心にたくさんの方にお祝いしていただきました、多くの方々の力を借りてついに工房がスタートを切ることができ、感無量です。東京で、3/11の日比谷公園で行われる東日本大震災メモリアルイベント「ピースオンアース」のWEのブースで販売します。よかったらどうぞお立ち寄りください。(塩本美紀


『新編 西蔵漂泊』が3月1日に刊行されました

 江本嘉伸さんの『新編 西蔵漂泊──チベットに潜入した十人の日本人』(ヤマケイ文庫)が、3月1日に発売になりました。この出版を記念して3月20日(月・祝)に、地平線会議が裏方を担当して「出版を記念する会」を開催します。17時半から四ツ谷駅前の「主婦会館プラザエフ」で。また同日14時からカワチェン主催の「講演会」(14時から「新宿歴史博物館」講堂で)も企画されています。詳しくはwww.chiheisen.net/seizoをご覧ください。(丸山純


謎の四文字猫語━━【叢猫戯画展】から

■3月3日、東京・京橋の小さなギャラリー「メゾンドネコ」で風変わりな個展が開かれた。我らが地平線イラストレーターの1年半ぶりの作品展【叢猫戯画──長野亮之介・猫絵展】だ。狭い階段を登ると畳8畳ほどの狭く細長いギャラリーは、猫絵でいっぱい。忙しいのによくぞ描いたと思うが、ひときわ異彩を放っていたのが細長い机に広げられた布に描かれた「四文字猫語」の数々。字は画伯のものだが、ひねり出したのは、地平線カレンダー共同制作者の丸山純さんだ。このギャラリーは会期が5日と決まっていて、画伯の個展は7日に終了してしまったが、この際、丸山君が創り出した四文字猫語が面白いので一挙公開してしまう。まあ、よくも思いつくものだ。猫という字の発音「びょー」または「みょー」がいいのかもしれないですね。以下、丸山さん解説つきで。(E)

 「叢猫戯画」というタイトルは、おわかりの通り「鳥獣戯画」をもじったもの。で、これがうまくハマったので、調子に乗って次々と既成の四文字熟語のうちの一文字を「猫」に置き換えて、「四文字猫語」を作ってみました。ドキリとするもの、苦笑させられるもの、猫好きなら深くうなずいてしまうもの、裏の意味を考えさせられるもの……。元の熟語とはまったく別の意味が生まれてくるのが楽しくて、いくらでも時間がつぶれてしまいます。なかには「びょう」ではなく「ねこ」と読んだほうが、おもしろいものもありますね。元の熟語、当ててみてください(けっこう難しい……)。

(画伯が描いた「叢猫戯画〈巻物版〉」は、以下のブログに写真が載っています。http://moheji-do.com/giga/2017/03/06/猫絵展会場風景その1/

唯猫独尊・変幻猫在・楽有猫有・一心猫乱・
前途猫洋・以心伝猫・清風故猫・竹馬之猫・
落花流猫・一攫千猫・一挙両猫・一石二猫・
家給猫足・喜色満猫・七転八猫・狂喜乱猫・
驚天猫地・阿鼻叫猫・温故知猫・脚下照猫・
猫科玉条・呵々大猫・三面六猫・自由闊猫・
無猫息災・虚心猫懐・才色兼猫・聖猫君主・
博学多猫・明猫皓歯・悪逆無猫・一猫当千・
空前絶猫・残酷非猫・悪猫苦闘・全知全猫・
不眠不猫・良妻賢猫・四猫八苦・五猫満足・
高田猫場・色即是猫・真実一猫・天涯孤猫・
前途多猫・天声猫語・威風堂猫・富国強猫・
大安吉猫・相思相猫・美酒佳猫・豊年満猫・
極楽猫土・自由奔猫・猫跡未踏・猫力絶倫・
博覧強猫・百発百猫・和魂猫才・猫魂不滅・
輪廻転猫・栄猫盛衰・諸猫無常・呉越同猫・
大義猫分・大猫不敵・一宿一猫・千載猫遇・
一期猫会・人生猫路・盛者必猫・油断大猫・
悠猫自適・平穏無猫・猫力本願・自由猫等・
猫意自在・八方美猫・明朗闊猫・気宇猫大・
家内猫全・公私混猫・猫令暮改・猫者必衰


35年前の新聞記事

■2月24日(金)の地平線会議の報告会、大西夏奈子さんの「むきだしモンゴル!」はじつにおもしろく聞かせてもらいました。大西さんの前向きな姿勢、モンゴルへの熱い気持ちには胸を打たれました。人間、やっぱり「熱」ですよね。ぼく的には花田磨公さんにお会いできて、花田さんの母校が福島県いわき市の「大野第1小学校」だということがわかったことがすごくうれしかったです。

◆以前、花田さんが通信に書いてくださった故郷のお話の中で「大野」が強く心に残り、いわき市に行くたびに四倉から県道41号で大野を走り抜けていました。大野には大野第1小学校と大野第2小学校があるので、花田さんはどっちの「大野小」なのかずっと気になっていたのです。これで胸のつかえがとれたような気分です。

◆翌2月25日(土)はモンベル品川店の2Fサロンで「風間親子で挑んだダカール・ラリー2017」と題して、風間さん親子の報告会がありました。会場を埋めつくした参加者のみなさんの熱気がすごかったですよ。1月2日にスタートし、1月14日にゴールした南米大陸を舞台にした「ダカール・ラリー」で、風間深志さんの3男の晋之介さんが見事、8800キロを走りきって完走したのです。風間さんは監督という立場での参戦でした。親子での「ダカール・ラリー」走破を成し遂げ、風間さんの顔に安堵の色が浮かんでいたのが印象的でした。

◆報告会の最中に風間さんは1枚のコピーを取り出し、みなさんに見せました。それは今から35年前の第4回「パリ・ダカールラリー」の新聞記事。1982年2月5日の「読売新聞」の夕刊で、一面、ブチ抜きの大きな記事なのです。「道なきサハラ越え1万キロ」、「疾走!日本のオート男」、「世界一過酷なレース」、「サッチャー首相子息不明騒ぎで脚光」、「ルートはどっちだ!」、「恐怖の闇、砂のアリ地獄」といった大見出し、小見出しが新聞一面に踊っているのです。

◆「巻き込まれた少年や婦人記者を含め、4人が死に、40人が重傷を負って空、陸路ヨーロッパに運び戻されたという。サッチャー英首相の子息遭難騒ぎで、一躍名をはせたパリ・ダカール1万キロラリー。世界でもっとも過酷なレースといわれるサハラ越えのこのラリーに日本から参加した2人のオートバイ男が帰国した」という書き出しで始まるこの記事には、「江本嘉伸記者」の署名があるのです。そう、我らの地平線会議の江本嘉伸さんの書かれた記事、2人のオートバイ男とというのは風間深志さんと私、賀曽利隆なのです。

◆この読売新聞の記事をあらためて読んでみると、過ぎ去った35年が走馬灯のように頭をよぎり胸がジーンとしてきます。そのすぐあとのことですが、1982年2月26日に「地平線会議」の報告会でカソリ&風間で「パリ・ダカ」の話をしました。そのときの地平線通信が残っています。当時はハガキで、「地平線通信 第28号」になります。「こんにちは。梅がポッカリ咲いていますがまだ寒いですね。ことし1月1日、パリのコンコルド広場を約400台の自動車、オートバイ、トラック、サイドカーなどが次々にスタートしました。セネガルの首都ダカールまで、1万キロに及ぶ大ラリーのはじまりです。オートバイ131台の中に2人の日本人がいました。地平線会議世話人の賀曽利隆さん(34)と友人の風間深志さん(31)。私たちの名をとって『チーム・ホライゾン』がエントリー名です(後略)」とハガキいっぱいに書かれています。

◆青山のアジア会館でおこなわれた2月26日の報告会は大盛況で、部屋に入れなかった人がかなりでたほど。しばらくは語り草になっていました。

◆南米大陸を舞台にする「ダカール・ラリー」の前身が、このサハラ越えの「パリ・ダカールラリー」なのです。風間晋之介さん、完走おめでとう。お父さんの風間深志さんは報告会の最後を締めくくるかのように、「来年は監督としてではなく、一選手として走りたい!」といってました。(賀曽利隆


[通信費、カンパをありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。

 当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで江本宛て添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページに。

戸高雅史 3000円/2月8日 土谷知惠子(郵送いつもありがとうございます。楽しみにしています)/大塚喜美 2000円(通信が届くのを楽しみにしています。今年もよろしく)/堀井昌子(5000円 通信費2000円とカンパ3000円です)/前島啓伸(6000円 通信費3年分です。いつも楽しみにしています)/竹澤廣介/石原玲/西嶋練太郎(3000円 2017年通信費+α)/神尾重則(10000円 この知的で痴的な世にあって、 地平線通信の独自でクオリティーの高い文明批評を応援しています)


自主的アフリカ勉強会
「アフリカジャンボ」

■2003年冬、東京目黒区の街角にある掲示板に「アフリカを知ろう」と書かれたポスターを見つけた。それは区民にアフリカの勉強会を企画してほしい、という呼びかけだった。目黒にはアフリカの大使館が複数あるのに、区民がアフリカと接する機会は少ないので、その場を作りたいというのが主旨だが、区にアフリカに詳しい職員がいないという正直な理由には笑った。

◆この企画に応募してくるのはどんな人間だろう。想像すると企画そのものより、そちらの方が気になり、思い切って応募してみることにした。ただアフリカをバイクで走っただけの自分が選ばれるとは考えていなかった。説明会当日、会場に集まったのは募集定員とちょうど同じ数の6名。見たところ40代前半は自分だけで、他の人は定年退職組のようだ。紳士淑女の中には一人、金のネックレスにジージャンの強面な人もいた。

◆アフリカのことは何も知りません、という担当女性職員が、ちょうどいい人数ですね。予算5万円で4回、「アフリカを知ろう」というイベントをやってください、よろしくお願いします、と、ゆるい一言ですべてを決定した。最初の顔あわせの後、強面のFさんが、家まで送るよ、と声をかけてきた。ベンツを運転しながら、Fさんは「私の妻はボツワナでサファリに出かけ、ゾウに体当たりされて死んだんです。私がアフリカに通うようになったのはそれからです。他の人たちと私ではアフリカに対する思いが違うんです」とボソリと語った。

◆4回のイベントを企画するために僕らは何度か集まった。Fさんはそのたびに難しい顔で不平を言い、話がなかなかまとまらない。Fさんはアフリカへの思い……、というより奥さんとの思い出を共有したくて、この場に来ている。そのためには核心である奥さんの事故を自分で話す必要があった。Fさんが自分から話さない以上、僕も勝手に話せない。

◆初対面の世代も違う人間が、意見をぶつけあって作った4回の「アフリカを知ろう」講座は苦労があったけれど手ごたえもあった。すべてが終了する頃には、全員がこのまま解散するのはさみしいという気持ちになり、区を離れて自分たちで勉強会を立ち上げようと、「アフリカジャンボ」という企画が始まった。

◆「アフリカジャンボ」の運営にまず必要だったのが講演者の確保だ。僕は旅人やバイク乗りの仲間に、商社マンだったTさんは昔の仲間に頼んだ。70半ばだったTさんの人脈の中には元大使もいて、講演していただいた時はお客さんも豪華だった。司会兼会長だった僕は、無礼がないように挨拶するのに冷や汗をかいた。

◆Fさんが集まりに来なくなったのは、会が発足してから1年ぐらいたったころだった。しばらくして、娘さんから届いた年賀状に亡くなったと記されていた。理由は誰も知らないが、自殺だった気がする。Fさんは困った人だったが、僕には優しかった。できることなら生前に会員に本音を話して打ち解けて欲しかった。

◆あるとき、会員の一人が申請すれば区から活動助成金がもらえる、という話をみつけてきた。経費はそれまで自腹だったので、喜んで年間5万円の助成金を頂いた。ところが計算してみると、僕らは年間5万円もお金を使っていなかった。お金を頂いたからには、区に報告義務がある。結果、講演者が見つけられない時は、活動を振り返る、だとか、喫茶店での打ち合わせを、会議だとか、称す、せこいごまかしが始まり、やがて理由を作るために活動しなければいけない状況に陥った。

◆陥ってはじめて、なるほど、と、思った。スケールは小さいが、テレビを見ながら鼻で笑っていた公金横領を僕らもやっていた。メンバー高齢化が進み、個人的にも忙しくて活動できなくなり、「アフリカジャンボ」はなんとなく消えていった。今記録を見ると活動は7年。自主講演会は35回となっている。最後は力尽きたものの、嫌な消え方ではなかったので、会員の気持ちの中ではいい思い出として残っていると思う。

◆何かを維持していくことは難しい。そして続けて行くには後継者が必要だ。なんだかタブーになっているけど地平線会議のこれからは?(坪井伸吾


先月号の発送請負人

■地平線通信454号(2017年2月号)は、さる2月8日印刷、封入作業をし、翌9日郵便局に渡しました。駆けつけてくれたのは以下の皆さんです。印刷、ページ揃え、封入、宛名シール貼り付け、と素朴な作業にこれだけの精鋭が駆けつけてくれたこと、ありがたいです。とくに、阿部雅龍君は通信で予告したように、いよいよ人力車日本縦断にスタートする直前の参加。白瀬矗の足跡をたどる南極大陸行を見据えた挑戦、応援しよう!!
  森井祐介 車谷建太 兵頭渉 前田庄司 白根全 武田力 石原玲 阿部雅龍 中嶋敦子 光菅修 江本嘉伸 杉山貴章 松沢亮


地平線の森

生きて死んでいく心構え

自由に生きていいんだよ

お金にしばられずに生きる“奇跡の村”へようこそ

森本喜久男+高世 仁(聞き手) 旬報社 1400円+税

■「日本の若者たちは、時代の大きな転換点にあって、悩んでいるように見える。そんな彼らに、僕の得たものを少しでも伝えて、力づけたいんだ」。末期がんで余命宣告を受けた30年来の旧友、森本喜久男がこう語るのを聞いて、ああ、彼の若者へのメッセージを本にしてやろう。その場で決意してできたのがこの本である。 

◆長い戦乱がようやく終わった90年代半ばのカンボジアで、森本はある貴重な伝統が絶滅に瀕しているのを知る。それは、精緻な染め、織りの技術を駆使した絹絣(きぬがすり)づくり。森本は、たった一人で、その伝統を復興しようと決めた。友人たちに呆れられ、挫折を繰り返しながらも、各地に生き残っていた布づくりの名人を集めて工房を立ち上げ、さらに、荒野を切り拓いて絹絣の村まで作ってしまう。養蚕から織りまでの全工程が手作業、染め材は自然染料のみ。いま、ここで織られる絹絣は世界一と言われるまでになった。

◆森本は、中学の卒業式を鑑別所で迎えた「はぐれもの」で、日雇い労働に従事しながら反体制運動に没頭する青年期を過ごした。もちろん大学など出ていない。そんな一人の「バカ」が、奇跡を成し遂げた苦闘の顛末は実におもしろい。困難を乗り越える覚悟、失敗や挫折への向き合い方、情熱を持ち続ける方法など、森本流の人生の知恵は、ぜひ日本の若者に伝えたいと思う。

◆そして、70人が住む森本の村を訪れ、そのありようを見たとき、もう一つのテーマを本に盛り込もうと考えた。それは「お金にしばられない生き方」である。お金がすべてと信じこまされ、生き死にの意味を喪失した現代文明へのアンチテーゼをそこに見たからだ。

◆村には、織物に直接関係するものだけで15もの工程があり、その他、カイコの餌の桑や染め材の樹の世話、木工、掃除など多くの職種がある。村人はそれぞれ好きな仕事を選ぶ。足の悪い人は坐ってやる仕事を、聾唖者は会話のいらない作業をすればよい。みなに適性に応じた持ち場があり、誰もはじきだされない。作業の種類と熟練度によって給料が決まっているが、ノルマはない。ベテランの優秀な織り手が、歳だから楽をしたいと、安い単純な作業に移るのも自由だ。ここには「しばり」というものがない。

◆気の合った同士がおしゃべりしながら作業の手を動かす。子どもが駆け回り、イヌやネコ、アヒルも闊歩する。お母さんたちは、そばに赤ちゃんを置き、時折りおっぱいをやったりおやつを食べさせている。こんなゆったりとした空気が流れる工房から、なぜ世界最高といわれる品質の布ができるのか。そう聞くと森本はこう言った。「家に置いてきた子どもを心配しながら働くより、子どもの面倒をみることで、実働時間は短くともリラックスして働ける。それが逆に集中力を生んで質のよいものができる」。

◆日本から訪れた人の中には、いまの自分たちの暮らしぶり、働き方と比べながら考え込むものもいるという。宿泊施設のビジターズノートには、こんな感想が書かれていた。「世の中にこのような村があることを知ることが出来て良かったです。自分の忘れていたもの、生活の原点に再び出会うことができました」。さらに、帰国してから、村に学んで生き方や働き方を変えた人たちがいる。村に学んで自分の会社を子連れOKに変えた経営者がいる。

◆子どもができて退職した女性スタッフに、赤ちゃんをおんぶして事務をしたらよいと持ちかけ、仕事に復帰させた。すると赤ちゃんがつまづいたりしないよう、みなが片付けるようになり、事務所の雰囲気が明るくなったという。また、ある美容院チェーンのオーナーは、子連れのお母さんが働けるようにと、美容室の隣に、美容師が交代で自分と仲間の子どもたちの面倒を見る部屋を作った。訪問者を介して村が日本のいくつかの「点」を変えているのだ。

◆この村を、森本は「貧しい村」という。村では多額のお金を稼ぐことができない。だが一方で、家賃はタダ、鶏を飼い畑で野菜を作る。足りないものがあれば、互いに助けあう。電気は通っておらずコンビニもないから、そもそも多額の現金はいらない。結果、給料を取りにくるのを忘れる人がいるという。まるで、おとぎ話。森本自身、貯金はないが、不安を感じることなく村で暮らしているという。村人が働くのはお金のためではなく、人と人の関係にお金が介在していない。これは、はたして「貧しい」暮らしなのか? 訪問者のカルチャーショックの根っこはここにありそうだ。

◆森本はカンボジアで、日本では得られなかったものを学んだという。それは生きて死んでいく心構えだ。この地では死は日常で、隣近所で死にゆく人を看取る。臨終間近になると、布団に寝た年寄りの枕元には棺桶が置かれ、周りでは葬式の準備をはじめる。年寄りたちは「自分の番が回ってきた」と淡々と死んでいくという。森本は、一時帰国したさい、進行がんが見つかって医師に手術を勧められたが、積極的な治療をすべて断った。人も自然の一部として生き死にすればよいというのだ。

◆「死ぬのは怖くない?」。旧友の特権で森本に遠慮なく聞いてみた。「全然。なまものには賞味期限があるのさ」と冗談のように言って、森本はアッハッハと笑う。アンチエイジングの指南があふれ、死を恐怖する日本から来た私には、まぶしいような笑顔である。まことに無礼で不遜ではあるが、森本がこの村で「自分の順番が回ってきた」と言いながら亡くなっていく様を見たくなった。旧友のよしみで許してくれるだろうか。(高世仁


今月の窓

犬派の私にも、猫ブームがキター!

■昨年9月、車にバイクを積んで取材に行く途中、栃木県矢板市の国道4号線の中央分離帯に白い猫が動けないでいるのを発見した。このあたりはいつも交通量が多く、大型トラックが猛スピードで走っている。事故に遭ったのか、車が怖くて動けないのかわからないけれど、このままでは車に轢かれて死んでしまう。とっさに路肩に車を寄せ、バスタオルとバッグを使って猫を保護した。

◆衰弱のため後ろ足がヨロヨロして動けなくなっていただけのようで、ガリガリに痩せてはいたけれど、怪我はなく、命に別状はなさそう。近くのコンビニで猫缶を買って与えると、バクバク食べた。うーん、保護したのはいいけれど、これから伊勢志摩まで行くのにどうしよう。衰弱しているから再び路上に放すわけにもいかないし。

◆まあ、でも取材は1人だし、宿泊先も知り合いのゲストハウスだし、車で往復するからなんとかなるかな。具合が悪くなるようだったら、旅先の動物病院に診せればいいし。ホームセンターで猫に必要な道具を一式揃えて、そのまま一緒に旅をした。若い雄猫で未去勢だけど、人馴れしているので飼い猫かもしれない。警察や愛護センターに連絡し、飼い主が現れなければ里親募集しよう。

◆猫は旅の間、モリモリ食べて普通に歩けるようになり、そのまま福島の家に連れ帰った。名前は「ヨン様」にした。私は韓流ファンでもないし、猫もイケ猫ではなく、どちらかというとブサかわ系だ。国道4(ヨン)号線で保護したから「ヨン様」。その1ヶ月後、今度は原発被災地・葛尾(かつらお)村の雌猫「シュガーちゃん」も我が家にやってきた。本当は、TNR(Trap=捕獲して、Newter=中性化〈不妊手術をし〉、Return=元の場所に戻す)するつもりだった。

◆村には猫仲間もいて、ご飯をあげてくれる村人もいたし、復興事業の作業員さんたちにも可愛がられていたし、私たちも定期的に給餌に通っている。健康状態がよく、外猫ながら生きていける環境ならば、基本的に戻すことにしているのだが、「ヨン様」と会わせたら初対面なのに、とても仲良くなってしまった。子猫(里子に出た)と引き離されたばかりで傷心状態の「シュガーちゃん」に、再び悲しい別れを経験させるのはあまりにかわいそうということで、一緒に里親募集することにした。

◆あれから5か月。2匹はまだ我が家に居る。「シュガーちゃん」はシャム系の美猫だしおとなしくていい子なのだが、「ヨン様」が元気すぎて、里親希望者に敬遠されてしまうのだ。保護した当初は後ろ足が立たなかったのに、今ではものすごいジャンプ技を披露してくれるし、体重も倍になった。助けたお礼なのか知らないが、とにかくストーカーのように私に付きまとい、ときどきダミ声で絶叫しながら駆け回る。里子に出てもこの調子では、出戻りしそうだ。このまま飼うことになるのかなあ。ボランティア仲間からは、「そのうち、絶対にいいご縁があるから」と言われているが……。実際、里親を見つけるまでに1年、2年とかかることも珍しくないそうで、長期戦も覚悟せねばと思っている。

◆ご存じの方もいると思うが、私はずっと犬派だった。世界の犬の本も出したし、「地平線犬倶楽部」(ずっと活動停止状態だけど)の会長(部長?)だった気がする。それなのに、猫? 昨今の猫ブームに乗じたわけじゃないけれど、出会ってしまったのだから仕方がない。いずれにしても、旅ができなくなるから、と今までずっと、自分ではペットを飼わなかった。原発事故後に関わり始めた動物保護活動でも、保護した犬猫はシェルターに預かってもらったり、保護活動している仲間に託し、一時的に預かることはしても、自分で引き取ることは控えていた。

◆「取材で長期留守にするから」「介護で千葉の実家と福島を往復しなくちゃならないし、実家には犬(これも保護犬)もいるから猫は無理」などネガティブな理由ばかり考えていたからだが、保護して数か月一緒に暮らしてみると、猫たちは実家の犬ともうまくやっているし(犬は迷惑そうだけど)、車での移動も問題なし。バイト先のペンションに連れていってもまったく物怖じせず、猫好きのお客さんに喜ばれている。また、先日は夫婦で3泊4日不在にしたが、その間は近くに住むボランティア仲間が猫の世話に来てくれた。なあんだ、猫を飼うのは絶対に無理だと思ってたけど、意外に大丈夫な感じ。

◆「地平線会議」に関わるみなさんの中にも、「旅ができなくなるから」という理由でペットを飼わない人が少なからずいるかと思うけれど、犬猫との生活はとってもオモシロイ。癒される。長期預かりや、最近はペットシッターも増えているからまったく旅ができなくなるわけじゃないし、私のように里親を見つけるまでと考えれば(見つからないかも?)、ほ〜ら、飼いたくなってきたでしょう? ということで、我が家の「ヨン様」&「シュガーちゃん」、里親さま絶賛募集中!(滝野沢優子

[P.S.]3月12日(日)、千葉県流山市・JR南流山駅近くの「しろいぬカフェ」の譲渡会にも参加予定。原発被災地での動物保護活動は6年経った今でも続けていて、仲間と「かつらお動物見守り隊」を結成、主に葛尾村と浪江町へ通ったり、写真展や里親会を開催したりしています。


あとがき

■『新編 西蔵漂泊』がようやく刊行され、ほっとしたところです。23年前に手にした皆さんに新味はないかもしれませんが、チベットに潜入した10人の物語が一冊の文庫本にまとめられたことは良かった、と思います。自分の著書だからではなく、こういう10人の旅人がいた事実を少しでも広く知っていてほしい、という意味からです。

◆今回いろいろな資料を読み直してあらためて自分の持っている紙資料の意味を考えさせられました。今ではかなりの情報が簡単にパソコンで入手できますが、西川一三さんや野元甚蔵さんが私の取材ノートに書いてくれた走り書きなどは、写真におさめるだけでは伝わらない、と感じます。それだけ整理する努力が要求されるわけですが……。

◆2月末、紙資料で埋まったわがあばら家に仲間たちが来てくれ、一気に片付けてくれました。恥ずかしいことでしたが、恥をさらす勇気も必要なのでした。2日にわたって来てくれた皆さん(7人も!)にただただ感謝です。もちろん、早速元に戻りつつありますが、みんなが集まれる場という最低限の条件は維持します。みんな、ありがとう!!

◆2月の通信で「獲物山」を紹介した際、著者の服部文祥さんの旧姓を「村上」としてしまいました。正しくは「村田」です。本人によれば、「村上文祥というのは、有名な囲碁打ちです。私の名前はそこからとられています」と。そうだった。私が囲碁を覚えた頃、アマ最強の囲碁打ちの名だったのでした。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

登山を文化にしたい!

  • 3月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「日本人の二人に一人が山を楽しむ世の中を作りたいんです」と言うのは山岳ガイドの花谷(はなたに)泰広さん(40)。'13年に山岳界のアカデミー賞ともいわれるピオレドール賞を受賞した気鋭の登山家です。20才の時に信大山岳部OBが組織した登山プロジェクトに参加し、ヒマラヤの七千m級の未踏峰に登頂を果たしたのが登山の魅力に目覚めたきっかけでした。

ヒマラヤに憧れる若者達にチャンスを与えるシステムを作ろうと、自ら立ち上げた「ヒマラヤキャンプ」を率い、毎年のように登山プロジェクトを企画。昨年は未踏峰ロールワリン・カン(6664m)に挑み、メンバー6名全員を登頂させるという成果をなしとげました。

この4月からは国内での新たな試みが始まります。〈日本三大急登〉の一つ、黒戸尾根の七合目にある七丈小屋の経営をはじめるのです。「日本の登山を文化にしたい」という思いのもと、エネルギッシュに行動を続ける花谷さんに、その熱く壮大な夢を語って頂きます。乞御期待!


地平線通信 455号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年3月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section