2018年7月の地平線通信

7月の地平線通信・471号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月11日。東京は33度を上回る暑さ。西日本を襲った記録的な大雨で、自衛隊や警察、消防などはこの日も、広島県や岡山県を中心に不明者の捜索を続けている。これまでに死者、不明者は12府県で200人を上回った。

◆5日、宇都宮の原典子さんの訃報が飛び込んだ。鉄人ランナー、原健次さんの奥様で健次さんの死後も手作りケーキを送り続けてくれた地平線の“恩人”。

◆能海寛の生誕150年を記念する講演会とパネルディスカッションに参加することが1年前から決まっている。地平線会議からの供花など丸山純さんに託して、予定通り島根に向かおうとした。羽田のANAの発券カウンターにたどり着くと係の女性はあちこちキーを叩いて首を傾げている。え?飛ばないかも……?! (以下、あとがきに)

◆10月14日、地平線会議40年の祭りをやることにしている。その内容について真っ先に相談したのが、長野淳子さんだった。1996年7月13日、地平線報告会200回を記念して「地平線の旅人たち」というイベントをやった。10月に予約している青山の「東京ウィメンズプラザ」が会場だ。その第3部の「女の行動学」の冒頭、淳子さんの脚本、演出で寸劇をやった。禿げちゃびん頭の私が会社をやめてアフリカ旅に行くという娘を怒鳴りつける筋書き。ガンと闘うことをやめ、大好きな自宅で画伯と静かな時間を過ごす淳子さんに今回も一役買ってほしかったのだ。

◆返信は3月11日、東日本大震災7年の日に届いた。《江本さん みなさん 長野淳子です。完全に記憶から抜け落ちていた22年前のあの日のことが玉手箱の煙とともによみがえってきました。若くて元気だったんだなあ。で、今はよろよろ状態でなんとか生きているのでお役にたてる自信は全くないのですが、江本さんから「40周年に向けてなにか考えといて」と言われ、ぼんやりと頭に浮かんだアイディアだけでもお伝えしようと思います」

◆[1]寸劇 22年前の禿げ茶瓶も今や後期高齢者。旅への情熱は冷めることがないが海馬の働きが弱ってきて「ここはどこ?」となることもしばしば。昔の旅仲間から届く手紙は「ただいま○○山徘徊中」とか。「旅に生き旅に死ぬ」ことを夢見ていた禿げ茶瓶であったが管理監視社会の現代日本では野垂れ死ぬ自由はない! そこに救いの手を差し伸べたのが「野宿野郎」たち。野垂れ死に上等!を掲げて禿げ茶瓶に最期の花道を飾らせようとするのだが……。てな感じです。

◆人はどう生きてどう死ぬのか。私自身が大病院のシステムの中で「自分がどうしたいのか」しばしば分からなくなってしまうことがあります。また、今は亡き私の父が認知症で徘徊を繰り返したときに私が警察から「保護責任者なんだから」と散々叱られて思わず父に「今の世の中に野垂れ死ぬ自由なんかないだからね!」と怒鳴ってしまったことがありました。父はどう終わりたかったのかなあ。なんてことを考えているうちに浮かんできたプロットです》

◆メールは「[2]パネルディスカッション」と、続く。《地平線はすごい人たちの集まりなのですごい人たちになった原体験を聞きたいと私はずっと思っていました。「初恋を語るように旅の話をしよう」(仮)。それが誰かとの出会いであったり何かの本や映画や絵画や実際の体験でもなんでもありだと思います。何かしら今の自分につながる「あれ」があるんじゃないかな?》以下なお続くのだが、いまはここまでに。淳子さんの文章力は素晴らしかった。この機会に、彼女のもの書きとしての資質と気魄を感じてもらえれば、と思う。

◆6月23日。淳子さんの通夜は激しい雨に見舞われた。それをものともしないで多くの人が列をつくった。翌24日のお別れの会は晴れた。私は花ではなく、緑の小枝を捧げた。高尾の森から仲間たちがいただいてきた檜の小枝だった。2日にわたって静かに映像が流れていた。中でも「愛のマラソンランナー」の映画は実に懐かしかった。亮之介、淳子の結婚式でお披露目された2人主演の映画。2人とはこんなに昔からの知り合いのだったのだ。そして、ついでに流れた写真の一部に私だけがジン、ときた。ツリー・クライミングを楽しむ淳子さん、デカ犬とチビ犬とたわむれる淳子さん。障子貼りをする2人。わんこたちは、大事な私の家族たち、ゴールデンレトリーバーのくるみとマルチーズの雪丸(麦丸の先代)ではないか。私たちの山の家に遊びに来た時の懐かしい写真だった。

◆きょう11日は、モンゴルの有名なナーダム祭りの日だ。明日までの2日間、相撲、競馬、弓矢、と三つの競技が繰り広げられる。そしてまさに、その今日、亮之介は1人で還暦を迎えた。この「地平線通信471号」を、凛として生きた長野淳子さんに天から亮之介画伯を叱咤激励し続けて、とお願いする旅立ちの通信とします。(江本嘉伸


先月の報告会から

チベットの磁力・魅力・魔力

星泉

2018年6月22日 新宿区スポーツセンター

■「チベットの磁力・魅力・魔力」この果てしないタイトルを網羅して語ることのできる稀有な存在、星泉さんは東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の先生である。進行役の落合さんの紹介によると星さんのお父上・星達雄氏は多田等観(20世紀初頭ラサに滞在。ダライ・ラマ13世の寵愛をうけた僧侶)との親交が深く、お母上は著名なチベット語学者・星実千代さん。何だか、硬い真面目なイメージだけれども、柔らかな外見のその口からは「変態!」「ヤバい!」といった言葉がポンポン飛び出す。「面白いと思ったら、すぐ人に伝えたいんです!」と仰るとおり、チベットの文学や映画の面白さ、『チベット牧畜文化辞典』ができるまでをたっぷり語っていただいた。

◆スクリーンに映し出されたタイトルに添えられたイラスト(1300年前に活躍したチベットの大臣ガル・トンツェン)はAA研が手がけた冊子『セルニャ』や『チベット牧畜文化辞典』のイラストでもおなじみの漫画家・蔵西さん作。イケメン大臣にうっとりしていると、星さんが自己紹介としてチベットの原体験から話し始めた。

◆チベット語研究者であるお母さんは星さんが小さい頃、毎晩、チベットの民話を話してくれたそうだ。おばけの話や手がものすご〜く長い魔女の話。そんな話が大好きだった星さん。当時チベット人が星家に集まり大宴会。大声で楽しそうに笑うチベット人たち。お坊さんに遊んでもらったりと、チベット的なものに囲まれていた。ある日、書斎に飾られた美しい女性の写真に気づき、「あの人は誰?」とお母さんに尋ねると「お姫様よ。お母さんのお友だちなの」と言われ、「私のお母さんはお姫様とお友だちなのだわ!!」と嬉しい気持ちいっぱいの夢見る少女だった。

◆高校時代にはお父さんがカトマンズに赴任したので長い休みはカトマンズで過ごし、そこでもまたチベット的なものに囲まれることになる。大学3年の春休みに友人とインド旅行を計画、お母さんの友人を訪ねるようにいわれ訪ねてみたら、なんとあの「お姫様」だった。彼女は実際にはお姫様ではなくインド国営ラジオ局のアナウンサーだった。彼女の実家でチベットのお正月を過ごし、その翌年はお母さんの名代で伝統的な結婚式に参加。その素晴らしさに感動したのが運の尽きで、親と同業なんて絶対に嫌だ!と思っていたのに……と語る星さん。サラブレットは至極当然チベット世界への道に進んだのだった。

◆大学院時代の長い休みには、その家に滞在してメモを片手に人の後をくっついてまわり、「今、こう言った! この時の状況は?」と言葉の採集に励んだそうだ。言葉が生み出されてくる背景(この人がこう言ったのは何故?)を解き明かすことは刺激的で面白いんです。でもその裏にはチベット人の心の奥底を探りたいという思いがあったのかもしれません。星さんのグループが訳す小説の登場人物が活き活きと描かれているのはこういうことだったのか!と腑に落ちたような気がした。

◆チベット人は自分のことを話す時と第三者のことを話す時とで文末表現を区別する。単純に自分と他人で区別するわけではなくその時のシチュエーションや感情にもよるのだが、星さん流にいうと「内ウチ」と「外ソト」の表現になる。「ぼくは僧侶だ。触るな!」と「外ソト」の表現で言う子どものお坊さん、来日時に3回しか行ってないのに「このデパート、最高!」と「内ウチ」の表現でいう女子。極めつけは「このおじいちゃん(あかちゃんの時に)私のおっぱいを吸ってたのよ。」が「内ウチ」の表現だった! 「チベット語の研究をしているのだけれども、それを何で使うのかという物語に興味があるのです。ちょっと変態かもしれません」と笑う星さんは出会うべくしてチベット文学に出会ってしまった。

チベット文学と映画

人がトンドゥプジャという作家がいいよと紹介してくれて『霜にうたれた花』という作品を一緒に読み始めた。2000年にやってきた留学生もトンドゥプジャが大好きで、彼の「青春の滝」という詩を朗々とよみあげ、そのことに衝撃をうけた。そして、2003年の産休中に読んだ『テースル家秘録』。「ああ! やっぱり文学って面白い!」と思ったけれども、この感動をシェアできる人がいないことに気づいた。そこで『テースル家秘録』を読む会を作り仲間を募った。面白いことを人に伝えたい!と最初に言っていたその通りの人である。

◆2006年にトンドゥプジャを読みたいと思った4人が集まり、それが冊子『セルニャ』を作っているチベット文学研究会になっていく。2008年に『火鍋子』(中国文学紹介雑誌)で翻訳作品の連載を開始し、2012年に作品集『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』として出版。2011年は星先生にとって特別な年で「ペマ・ツェテンの乱」と名付けているそうだが、このペマ・ツェテンという作家であり、映画監督でもある人物が星さんに大きな影響をもたらしていく。

◆2010年秋の東京フィルメックスでの最優秀作品賞は彼が監督した『オールド・ドッグ』。この作品の翻訳監修を担当したことが縁で、「オレの映画、他にもあるけど上映してもいいよ」と言われ、急遽上映会を開催。その時にもらった小説が案外面白い!と思っていたら、翌年「日本語に翻訳してよ!」とメールが。出版が決まり、来日イベントも決まっていった。ここから先は異常な私です……と笑う星さん。

◆どうせなら、映画祭もやろう! 字幕を付ける、フィルムをデジタル化するなど諸々、大学を拝み倒して「ペマ・ツェテン映画祭」は大成功。このとき、映画といえばパンフレットがあるよね!で『セルニャ』第1号。現在までに第5号まで発行されていて、チベットの文学、映画、牧畜などいろいろ紹介している。

◆チベット文学研究会は『雪を待つ』(ラシャムジャ)『ハバ犬を育てる話』(タクプンジャ)『黒狐の谷』(ツェラン・トンドゥプ)等をアグレッシブに翻訳出版しつづけていて、日本での出版がチベットでもニュースで流れ、喜ばれているようだ。

◆チベットはもともと口承文芸が発達していて、歌や語り、宗教歌、民話、英雄叙事詩などを楽しむ文化が長くつづいていたが、インドから文字文化が入ってきて特に13世紀頃から翻訳を通して自分たちの文学に昇華させていった。口承文学と書写文学が相互に影響して発達してきたが、宗教の影響が強いことも特徴としてきた。でも、1949年に中華人民共和国が建国され東から人民解放軍がやってきて、1959年3月にラサで蜂起があり、ダライ・ラマ14世がインドに亡命。

◆そして1966年〜76年の文化大革命で仏教も口承文学も禁止されてしまった。でも、そんな状況下でも活版印刷されたチベット語の小さな本を懐に隠してそっと読むことが流行っていた。また、強要された漢語教育により、漢語に翻訳された外国文学も読めるようになり、後に作家になるような若者がこんな形で文学に触れていたのだ。

◆1980年代はチベット文学ルネッサンスといわれる時代らしい。「東の雄」のトンドゥプジャ、「西の雄」のランドゥン・ペンジョル。今では彼らの影響を受けた作家たちが多勢活躍している。女性の作家や邦訳もあるザシダワのように中国語で書く作家も多い。また、グローバルに英語で書く作家もいるという。星さんは今は、ツェワン・イシェ・ベンパという作家にハマっているそうだ。英語の著作らしいが日本語訳も出るといいなあ……。ジャムヤン・ノルブという文筆家もそうだが、外国に出て勉強した人が様々な言語で書いているのがチベット文学の現状だそうだ。

◆文学の背景の紹介の最後にトンドゥプジャの「ああ、青海湖よ」という詩をよんでくれた。「湖面は凍り 鳥たちは悲しむ 氷に閉じ込められてしまったが それでも金の魚たちはその下で動きまわる」金の魚というのはセルニャのことです。「金魚坂」というお店で読書会をしていたので、冊子名を『セルニャ』にしたけれども、金の魚への敬意も込められています。言葉の後ろに隠されたストーリーに思いを馳せる星さんは、ちょっと恥ずかしそうにそう言った。

『チベット牧畜文化辞典』への道のり

■映画や文学の翻訳作業をしていると、調べても調べてもわからない事柄があることに気づいた。牧畜民や農民の話、半農半牧の人の話、わからないことは辞書にも載っていないのです。何故かというと……チベットは何事も仏教中心。フツーの暮らしなんかは辞書に載らない。じゃあ、翻訳の時にどうするかというと、著者本人にきくしかない! 必然的にものすごくたくさんの質問をすることになる。英米文学などは沢山の種類の辞書があるから、著者に質問することはほとんどないらしいけれどもチベット語はそうはいかない。それなら、自分たちでもっと近づいてみよう! と、またもや変態的追求心が湧いてしまった。研究職に就いているものとしては辞書を作るということが近づき方のひとつだと思った。そして、いよいよ辞書を作るプロジェクトがスタート。

◆自然保護区に指定された三江源ともいわれる長江、黄河、メコンの源流域はチベット人の居住域。下流域での災害や水不足の原因が水源域での牧畜だという仮説によって、2000年代に三江源移民政策が実施され、20万人以上の人々が牧畜をやめて街の集中居住区に移住させられた。映された居住区の写真は同じ形の建物が整然と並んでいて、それまでの牧畜生活を想像することは難しい。草原とも家畜とも切り離されてしまい、元牧畜民が長い間培ってきた豊かな文化基盤が揺らいでしまうことになった。

◆生活とともに培われてきた文化が失われていくような変化が急激に起こって、現地の人々も危機感を持っている。チベット語を守ろう! といった大きな活動をすると政府から目をつけられて規制されてしまうので、彼ら自身で語彙集や写真にチベット語を添えた小さな辞書などを作ってはいた。そんな状況下で、彼らの文化をもっとクリアに知りたいと思う外国人にできることは何だろう。

◆そうだ! 文化の記録のお手伝いをしよう。それをもとに辞書を作ったら、そこからまた、彼らなりのものをつくりだすんじゃないかと思った。きっかけは「もっと知りたい!」だけれども、現地の人も必要としているなら外国人と一緒になって進めてもいいんじゃないかということでとスタートをきった。

◆三江源の中にあって、7割の人が移住させられた牧畜地域の一つであるツェコ県メシュル鎮(青海省の西寧から南下した辺り)の牧畜民のお宅で調査させてもらうことになった。当時、日本で勉強していたチベット人留学生の故郷だ。緑の美しい草原の写真が映された。西アジアの遊牧民の調査をしている人によると、ここは緑が多すぎるのだそうだ。遊牧民は緑を求めて移動するが、ここは緑も水も豊富だから遊牧ではなく移牧。今は、夏と冬に一回ずつの移動する。高度だけでなく風などの影響も考慮した場所に移動するのだそうだ。高度は3500m弱

◆街の中心から車で1時間+徒歩30分のこの牧畜民の家で調査は始まった。言語学、宗教学、文化人類学、宗教人類学、帯広畜産大のミルクの研究者など、気鋭の専門家のチームで、聞き取り・質問・メモ・録音・録画等、全員で分担協力しあって、言葉の採集と調査が行われた。調べることは山ほどあり、教えてくれる人もいる。ある密教行者は薬草に詳しく自作の押し花辞典を持っているので、あれもこれもききたくなってしまうが薬草辞典を作る目的ではないことに気づく。人を巻き込んで調べることがおもしろくてついヒートアップしてしまう。

◆家畜の頭数や管理の仕方をインタビューしたり、燃料にする糞の加工も体験してみると、初めてわかったことがあった。嬉しそうに素手で糞を掴む調査メンバー。チベット語に「出掛けの糞」という言葉がある。糞集め(女性の仕事)は朝、家畜が草原に出て行った後にするのだが、寒い地域なので、柔らかくて暖かい糞は、もう本当に嬉しい糞さまと感じる。「出掛けの糞」という言葉は切実な言葉なのだということが、実際に体験してみて初めてわかったことだ。乳搾りも女性の仕事でメンバーの男性がトライしても全く搾れない。でも、牧畜民には男性が乳搾りをしているというだけで、おかしくてしょうがないようだ。

◆調査してみると、ヤクの名称がものすごく細かく分類されていることがわかった。実は「ヤク」というのは去勢したオスで荷役としての家畜のことだ。種オス、種オスを去勢したもの、出産したメス、妊娠中のメス、乳がでなくなったメス、高齢のものなど状態によって様々な呼称がある。子どもは総称はノル(宝の意)だが、これもまた年齢と性別で分かれた呼称がある。毛色、角や尾の有無や形、また「よく逃げる奴」「頑固」「大食い」「ぼっち」「邪魔する奴」等、性格でもわけられている。まるで、クラスメートにつけるニックネームのようだが広い草原で自分のヤクを判別するために進化したらしい。

◆最初は判別できなかった星さんも言葉があるとわかるようになってきたという。同じに見えていたヤクたちが言葉の力によって一頭一頭違って見えてくるのだ。これらは全て牧畜文化辞典に反映したそうだ。「ちょっとヤバい辞典ですね」と星さんは淡々と語る。ヤバくてすごいぞ! 牧畜文化辞典!

◆さて、つぎに調査した膨大な言葉を辞典という形にしていく作業がはじまる。まず調査した事柄をデータベース化していく。画像を軽くして、ファイル名、いつ、だれが、どこでといったタグ付けをして分類。「葉の形に成形した糞」といった単語も画像とともに両方の単語のページにおさめられるような丁寧なタグ付けもしたそうだ。このようにして4年間で集めた単語は3980。中国語、英語の表記も付けて紹介したい単語は3500近く。今年の3月にパイロット版として世に出したが、パイロット版としたのは、この辞典はこれからも育てていく辞典だから。

◆チベット人の若者へのiPhone普及率は高く、若い人の最先端の文化と牧畜文化を結びつけたらどうなるんだろう!おもしろい!とオンライン版とiPhone、iPad用のアプリも作成。チベット語、日本語、中国語、英語で検索可能。日本語ではカテゴリー検索もできる。例えば、バターの項ではバターの写真や解説、作り方も知ることができる。また、音声ボタンで単語の発音も聞くことができるという優れものだ。チベット人も絶賛していて、やはり、仏教重視で自分たちの身の回りの文化が失われる危機意識を彼ら自身が持っているのだろうと思った。もう少し準備が整ったらチベット本土でも公開できるそうだ。

映画『チベット牧畜人の一日』

■このプロジェクトの当初から、辞典では表現できない事柄があることは解っていた。背景にその暮らしがあった人には理解できても、そうでない人には難しい。移住したり他の国にいったり、そういうチベットの子どもたちにも理解できるように映像も作りたいと考えていた。そこで、チベット文化に造詣の深いチベット人の映画監督、カシャムジャさんに依頼して『チベット牧畜民の一日』というさまざまな手仕事を紹介するドキュメンタリーを作った。

◆「乳搾り」「バター作り」といった手仕事の手元を映すことを意識したものです。街暮らしをしている人が将来、牧畜生活に戻ることもあり得る。手仕事も実際には機械化されていくだろうけれども、それでも残したい。チベット人というのは何もないところでも生きていける力が優れていると思う。何もないところから何かを生み出す彼ら牧畜民の発想や柔軟さに敬服している。もしかしたら、何にもなくなっちゃった時代に戻ることだってないとはいえないですものね。星さんは無常の中を軽やかにスキップしているかのように見えた。

★後日談

報告会で少しだけ紹介された、ソンタルジャ監督の新作『阿拉姜色』が6月25日に閉幕した上海国際映画祭で審査員大賞と最優秀脚本賞を受賞。脚本は作家のザシダワとソンタルジャ。日本でもぜひ公開してほしい!(田中明美 ゾモ普及協会デザイン担当)


報告者のひとこと

牧畜民の言葉の森を探索する

■森の中に分け入っていくのが好きだ。わけも分からずうろつきまわっているちょっと不安な時間がいい。森の中を歩きまわり、目で見て、触り、匂いをかぎ、何を見ても疑問がわき、森をよく知る人と言葉を交わす。頭はずっと興奮している。不安と背中合わせの喜び。探索するという行為に特有の感覚かもしれない。

  目下、私が探索中なのはチベット牧畜民の言葉の森だ。チベット語を長く研究してきたつもりだが、私が知っていたのはごく狭い範囲。牧畜民については、長い間ぼんやりとしたイメージしか持っていなかった。チベット研究者としてどうかとは思うが、興味のないことには冷淡な性格なので仕方がない。

  そんな私にスイッチが入ったのは、物語好きが高じてチベット文学の森に分け入ってしばらくしてからのことだった。チベットには面白い物語がたくさんある。特に現代文学が気に入って、仲間と翻訳も始めたのだが、肝心なところでぼやけるということが多々あった。風景や日常の描写がすっと理解できない。特にわからなかったのが牧畜民の暮らしだった。私の中では長らく、「ろくに知らないまま翻訳するなんて不安」というぼんやりとした思いが渦巻いていた。翻訳に取り組んでいくうちに、その思いが少しずつ怒りのようなものに変わっていった。

 「普通の単語が辞書に載っていない!」「辞書に載っている単語も説明がわからなすぎる!」イライラが高まるのは、次のステージに移行するエネルギーの充填が完了した証拠だ。準備は万端。森に分け入っていこう。牧畜民の暮らしという森に。

 私の探索はこんな風にしてはじまった。仲間を募って「森」に赴いてみると、そこは私が読んだわずかな小説から知り得たことよりも遥かに広く、木々が鬱蒼と生い茂る知恵の森だった。彼らが家畜とともに暮らす中で長い時間をかけて培ってきた牧畜民の生業にまつわる知識体系は、土地神様や仏教の信仰と絡み合うように共存し、ひとつの世界をなしている。森に踏み込まなければそれを肌身で実感することもなかっただろう。今は彼らの言葉の森を辞書の上で再現すべく努力を続けている。

 この探索を始めたことで、様々な方とご縁がつながったのは予想外の収穫だった。地平線報告会に招いてくださった江本さん、熱心に耳を傾けてくださったみなさん、ありがとうございました! 現地の人と作った映像作品『チベット牧畜民の一日』は、いつかご覧に入れたいと思っています。(星泉


ゼミ生が星泉さん報告会で考えたこと

■私たちは、チベットという地域、言語、文化について予習して6月の報告会に臨みました。予習では、チベットには長い歴史があり、独自の文化が深く根付いていて、世界への影響力も大きいと知りました。星さんの「チベットの磁力・魅力・魔力」を拝聴して、よりチベットへの理解が深まりました。「言葉があると現実がよりクリアに見えてくる」と星さんがおっしゃった言葉が印象に残ったもの、「チベット牧畜文化辞典」の開発の経緯について興味を持ったもの、チベット映画や文学に興味を持ったもの、「チベット問題」や「文化大革命」という社会的あるいは近代史的な背景が厳然と存在することに刺激を受けたものなど、様々に認識を新たにしたゼミ生が多くいました。以下に、主だった感想を切り取ってまとめてみました。

◆現地取材での会話を引き合いに出しながらチベット語についてお話しいただきました。「言葉には必ず背景がある」と考え、さらに「文末表現」をどのように使い分けているか注意深く観察するため、言葉を放った時の情景と同時に文末表現をメモに獅オて、現地の様々な人に密着取材を行なっていました。この分析の方法は言語学者ならではと感じました。観察している間は、「心の底で何を考えているのか?」を探っており、どのような状況で発していたかを記憶していたそうで、その結果「外」と「内」の言い方があると気づけたという、その注意深さに感心し、どうしてそこまで熱心に取材ができるのだろうと疑問でした。

◆しかし「言葉があると現実がクリアに見える」と聞いて、物事や環境を言葉にすることによって状況把握ができたり、人々の認知の統一ができるたりする「言葉の持つ力」というものに惹かれ、チベット語研究の面白さに気づきました。チベット文学についてのお話では、中国政府の言語統制との関連について注目しながら報告を聞きました。

◆予習では、教育水準の向上が目的とは言いいつつも、チベット自治区で中国語を普及させることで「中国化」をさらに進め、チベット語を無用な状態にすることでチベット文化を抑圧している中国政府の政策を知りました。長い中国支配の下で、チベット語を教える教師が減ってチベット語を学ぶ機会すら減っているのです。

◆実際に話を聞いて、文化や言葉が急速に失われていることが印象に残りました。私たち日本人が日本語を守ろうなんて考えることはまずないにも関わらず、世界では母語を守ろうとしている地域が当たり前のようにあるという現実に、深く考えさせられるものがありました。

◆「チベット牧畜文化辞典」が興味深かったです。チベットの牧畜文化が衰退していく中でチベット人の間に危機感があると知り、少しでもチベットの文化を後世に残すために模索した結果、チベット放牧文化辞典のアプリを作ったことは画期的です。チベットの牧畜文化が衰退していく中で、スマホ世代の若者にはとても使いやすいツールです。現地の子どもたちにチベットの文化を残すために必要なコンテンツだと思います。

◆さまざまな分野を得意とする研究者でチームを組んで事典を構築していく。このことは私たち社会学部が目指すべき課題でもあると強く感じました。ヤクを見分けるためにヤクの特徴からそれぞれに名前をつけて区別しているとおしゃっていました。チベット人はこのように遊牧に関しても多くの知識を持っていて、生きるための技術は日本人より優れているのではないかと思いました。日本では、自ら食材を山や川に調達しに行く必要もなければ、料理ができなくてもコンビニやスーパーでお惣菜を買ってくるだけで、お金さえあれば食に困ることはありません。しかし、日本人が山の中で一週間生活することになったら、ほとんどの人は食料を調達することができず、生き抜くことは不可能だと思います。

◆さらに、文化大革命後にチベット文学が発展していったと聞き、規制されて公に物事を行うことができない状況になると市民は影で行動するという流れを改めて知ることができました。また、チベット文学の発展の歴史についても興味深かったです。チベット文学は口承文学で民謡や宗教歌として残っていたものの、書写文学として形を成していなかったものが、皮肉なことに中国文化が入り込んでくることで文字が発展してチベット文学は書写文学となり、広く読まれるようになったことを知りました。

◆正直なところ、多くのゼミ生達は、今回の地平線報告会を聞くまで、チベットについてほとんど知りませんでした。異国の地のことを知るには、自分から関心を持たないといけないということを実感しましたし、少しでもチベットについて知ることが出来てとても良い機会になったと思います。(法政大学社会学部・澤柿ゼミ


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、そのほかに、4月から呼びかけしている「1万円カンパ」に多くの方々から協力をいただいています。地平線への応援として深く感謝いたします。「1万円カンパ」にご協力くださった方々については、秋にまとめてこの通信で公表させていただきます。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。江本の住所、メールアドレスは最終ページに。なお、通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。口座は、みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸です。

■藤本亘/奥田啓司/佐藤洸(4,000円 長いこと「地平線通信」をお送りいただきましてまことにありがとうございます。毎号、壮大ともいえる寄稿者皆様のご活躍ぶりに魅了されてきました。さて、お願いがあります。小生、最近心身はもに少々衰えまして書物を十分によみこなせなくなっています。つきましては貴重な「地平線通信」を今号限りとしてご送付を止めていただきたいのです。つきましては今までの通信費として十分ではないかもしれませんが、2年分を郵便振替で送らせていただきました。よろしくお受け取りください。末筆ながら「地平線会議」のゆるぎない歩みと編集長のご健勝をお祈りさせていただきます)/今福徹(10,000円 いつも通信、有難うございます)/豊田和司(いつもありがとうございます。1年分の通信費です。7月8日、江本さんに島根県浜田市での能海寛のシンポジウムでお会いするのを楽しみにしておりましたが、父の訃報で叶いませんでした)/長瀬まさえ(5,000円)/川本正道(10,000円 6月29日 通信費5年分です。よろしくお願いします)/三森茂充(2,000円 7月2日 初めて振込みます。よろしくお願いします)/島田利嗣(10,000円  いつも楽しい、驚かされる皆さまの活動報告を楽しんでいます。5年分の通信費です)/田中明美/横内宏美/阿佐昭子/新野彰典/西口陽子/山崎祐和


さようなら・じゅんこさん

淳子さん、あなたのはじけるような笑顔を忘れないよ

淳子さん、

 まだ私は信じられないよ。

 淳子さんともう会えないなんて。声が聞けないなんて。

 淳子さん、淳子さんと初めて会ったのは、よく覚えていないけど、たぶんアチックフォーラムの上映会か、森の中の演劇祭か、だよね。地平線の宮沢りえとか言われるほどの美人さんでした。考えてみたら30年も前になるんだね。あの頃はよくキャンプにも行ったよね。

 高尾の森にも通ったよね。映画もたくさん見たよね、飯田橋のギンレイホール。芝居も行ったね、はまったよね水族館劇場。そして三線教室に誘ってくれたのも淳子さん。私は淳子さんに追い付きたいと必死に練習したよ。

 13年前、その三線の新人賞を受けに沖縄に行って、その時に訪ねた浜比嘉島で数日過ごしたのが縁でいま私は浜比嘉島に暮らしているんだ。旦那の昇との縁も淳子さんが結んでくれたようなものだよ。私は遠慮して海岸にテント張るつもりだったのに、淳子さんが「わあー素敵なお庭だねえ、ここに寝たいなあ」と昇のうちのパッションフルーツの棚の下に荷物を置いて座り込んだんだよね。そのアッケラカンとした図々しさは爽やかで、今でも語り草だよ。毎日淳子さんとパッションフルーツの棚の下で三線弾いてると島の人達が取っ替え引っ替え遊びに来たよね。

 みんな美人で気さくで人懐こい淳子さんが大好きで、「淳子は次はいつ来るんだ?」っていまだによく言われるよ。一度会った人はみんな淳子さんのファンになるんだね。

 やぎ小屋の中に敷いたわらの上で子やぎを抱いて寝そべっていた姿も忘れられない。ほんとに誰に対しても飾り気のない、優しくてはじける笑顔の人でした。

 去年の七月に淳子さんに会いにいこうと決めたとき、抗がん剤治療でつらいはずなのに「いつでも会いに来てね、何泊でもうちに泊まっていいからね」その時も今年の三月に行ったときも。長野家にはたくさんの友人が集まって、迷惑にも大宴会となったよね。笑いの輪に加わりながらも自分の病状も冷静にありのままみんなに話す淳子さん。凛とした強い人でした。それはいつも最愛の伴侶亮之介さんがそばにいたおかげだね。

 私が帰るときに、「絶対にまた会おうね!」と言ってぎゅうっとハグして別れたよね。

 もうハグすることはできないけど、私は淳子さんが死んじゃったなんて思わないよ。いつでも淳子さんを感じて生きていくよ。森の中で、海を眺めて、空を見上げて、いつでも淳子さんに語りかけるよ。淳子さん、本当にかけがえのない友達。というかほんとにお姉さんみたいに思っていた。そして憧れの女性だった。

 今日の淳子さんを送る大事な日に、駆けつけることができなくてほんとにごめんなさい。でもきっとたくさんの人に見送られて旅立つことができるはずだよね。

 

 ありがとう淳子さん、私はこれからも淳子ねえねえの背中を追いかけて生きていきます。見守っていてね。私は、私たちは、あなたのはじけるような笑顔を忘れないよ。

 忘れない。絶対に忘れない。ありがとう。またいつか天国で会おうね。(浜比嘉島住人 外間晴美 6月24日、お別れの会で友人が代読した)

屋久島の日々、そして長野淳子さんのこと……

■7月7日の午前7時前、ベッドの中で携帯が鳴った。江本さんからの着信だ。岡山で、大雨のため新幹線の中に閉じ込められているという。「たまには、屋久島での生活のことを書きなさい」早朝、しかもそんな状況の中でも地平線通信の編集をされていることに、寝ぼけながらも驚いた。江本さんの熱意に、何か書かないとと焦った。……ということで、久々に近況を報告させていただきます。

◆屋久島に住んで5年半、島の小学校での勤務は4年半になろうとしている。外間晴美さんのいる沖縄・浜比嘉島の比嘉小学校(現在は廃校)での授業を見て「教員になりたい」と思ってから7年。毎日のように、今いる場所が、自分が本当に来たかった場所なのだと実感している。関東は6月中に早すぎる梅雨明けを迎えたが、屋久島はまだ梅雨の真っ只中。それでも一日中雨が降っていることは意外と少ない。梅雨ならではの低い雲がかかった山々、青灰色の波が打ち寄せる海、蒸し暑くなるほど勢いを増していく草木、どれもこれも美しい。

◆学校では、休み時間になると、雨にかまわず外へ遊びに飛び出していく子ども達を止めるのが大変だ。教室の横の側溝には綺麗な山水が流れ込んでいて、みんなエビ採りに夢中になっている。学校の横を流れる川でカヌーに乗ったり、ウミガメの卵を孵化させたり、子どもたちは自然の中で元気いっぱいに過ごしている。

◆私もさぞ自然を満喫しているのだろうと思われるだろうが、実は最近は、ピアノ、合唱、書道などの「習い事」に忙しい。始めたきっかけは、子ども達にきちんとしたものを教えたい、楽しい授業がしたいという思いだった。でもよく考えると、日々成長していく子ども達に接していて、「自分も今より少しでも何かをできるようになりたい」という想いが芽生えてきたのだろうなと思う。「頑張れ!」と言う立場の自分だって頑張らないと、と。夏休みには、昨年に続いて奄美大島へ三味線を習いに行く。何かを上手にできるようになっていく事は、大人になっても嬉しい。素敵な気持ちを思い出させてくれる子ども達に感謝しながら、具体的にできることを、1つずつ増やしていきたい。

◆好きな場所で好きな仕事をして暮らしていられることを、本当に幸せに思う。でも時々、車の後部座席に荷物を詰めて島に来た日のことを思い出す。母は、実家の埼玉から、鹿児島行きのカーフェリーが出る有明港まで車に同乗してくれた。急に家を出るような形になり、母の気持ちを考えると、勝手なことばかりして親不孝したなと思う。夏休みには長めに帰省する。実家では、できるだけのことをしたい。そして、いつまで島暮らしを続けられるか分からないけれど、今を大切に、たくさんのものを吸収していきたい。

◆長野淳子さんの訃報を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。悲しみと同時に、淳子さんが最期まで見せてくれた強さや優しさが、自分の中でどんどん大きくなってくるのを感じた。淳子さんとは、3月に電話で話をしたのが最後になってしまった。高尾の山仕事でもご一緒させていただいたので様々な思い出があるが、いちばん心に残っているのは、9年前の長野さんの個展の時のことだ。夜に仲間が集まり、長野さんの仕事やそれまでの軌跡の紹介があって、20代の淳子さんの写真や映像もあったと記憶している。淳子さんは、会の最後に「こんな夫を持って、幸せです」と、満面の笑顔で挨拶をされていた。父を突然亡くした直後だった私は、人の命には終わりがあるけれど、淳子さんのように幸せに生きられたらそれで満足だな、と強く思った。淳子さん、淳子さんが教えてくれたことをずっと忘れません。心からご冥福をお祈りします。(新垣亜美 屋久島住人)

淳子さんを送った怒涛の6日間顛末

■18年前に父を亡くしたとき、型通りに次々と進めていく葬儀社のやり方に反発を覚えながらも、ここで頑張っても仕方がない、かえってこうして全部お任せで押し流されていくほうが遺族としては楽だとも感じた。ところが、いま目の前にいるこの人はさっきから、どうしたら淳子さんらしい式になるかを一緒に考えましょう、と繰り返す。「この人」とは、是枝嗣人さん。最後まで在宅緩和ケアでお世話になったクリニックで紹介された二つの葬儀社のうち、立派なパンフレットのあるほうではなく、ウェブサイトのコピーしか用意してなかった葬儀社の社長さんである。なんとなくピンとくるものがあって、亮之介はあえてこちらに電話を入れたのだそうだ。おかげで、われわれは怒濤のような6日間を過ごすことになった。

◆淳子さんはどんな色の花が好きでしたかと是枝さんが聞く。亮之介が紫ですねと答えるが、そのうち紫一色ではなく、雑多な山野草もちりばめたほうが淳子さんの好みだろうという意見が出る。すると、まだお坊さんを呼ぶかどうかは決まっていないけど、献花のときに山から採ってきた桧の小枝を捧げる人もいれば淳子さんらしさが打ち出せるよね、ということになり、さらに山の木を祭壇の周囲に置けば野生的な空間が演出できるなどと、話がどんどん進んでいく。結局、山田和也さんらの五反舎のメンバーが23日のお通夜の当日に高尾の現場に行って、桧を切ってくることになった。

◆やれやれ、それは大変だな、ご苦労さまと思っていたら、祭壇の左の空間にスクリーンを設置して、そこでスライドショーをやったらどうかと是枝さんが提案する。みなが一斉に私のほうを見る。はい、わかりました。私が明後日(大学の授業があるので明日は来れない)、淳子さんの古いアルバムの写真をスキャンしてスライドを用意します。数がかなり多くないと、参列者は同じ画像を何度も見ることになると是枝さんが言うので、五反舎のみなさんが最近の写真を提供してくれることになった。会場に流すBGMは、亮之介が淳子さんのお気に入りのプレイリストからCDに焼いて渡すことになる。

◆さらに祭壇の右側にはメモリアルコーナーを作りましょうと、是枝さんが言い出す。淳子さんの山仕事用のヘルメットはまだ高尾の山に置いてあるとか、得意だったチェーンソーも飾ろうとか、愛用の辞書も置かねばとか、愛読書は何かとか、わいわいと盛り上がってしまった。この日、6月19日、是枝さんは4時間以上にわたって長野家にいた。翌日も4時間、その後も2時間ずつ来てくれたそうだ。

◆20日の夜に亮之介から電話があり、せっかくだから会葬御礼の葉書もイラストを入れてカラーで印刷したらどうかと、是枝さんに提案されたという。調べてみると、いつもお願いしている京都の印刷会社に21日の夜中に入稿できれば、23日のお通夜の午前中に届く。じゃ、やるか。

◆21日の朝、亮之介がメールで送ってきた原稿を、ダミーを作って流し込んでみる。思っていたよりずっと文字数が多い。タイトルは「ありがとう。」に、その下に二人の連名を入れることがすぐに決まった。このあたりは、いつもの阿吽の呼吸だ。でも、どうにも原稿に居心地悪さを感じる。是枝さんから送られてきた見本にとらわれすぎている。なによりも、淳子さんが最後まで気にしていた「庭」についての言及がない。さすがに気が引けたが、ダメ出しする。呆れた顔で苦笑する淳子さんの姿が目に浮かぶが、仕方がない。お互いにいつも、こうやってダメ出しをしあってきたのだから。書き直してきた原稿にはすべての要素が盛り込まれていた。

◆昼から長野家に行くと、亮之介が会葬御礼の表紙を描き終えたところだった。なんという構図、なんという色使い。素晴らしい! こんな精神状況なのに、こんなに短時間でここまでのレベルの絵を仕上げてしまうとは、恐ろしい才能だ。

◆さきほどキーボードで書いた中面の原稿を亮之介が手書きで写し始めたので、そのあいだにアルバムをスキャンしていく。といっても、アルバム写真複写専用の「新兵器」を用意してあるので、それほどひどい手間にはならない。水着姿のサービスショットも含めて、100枚ぐらいを複写した。

◆少女時代の淳子さんのモノクロ写真を見ていると、とても親近感が湧いてくる。私は三鷹市で育ったが、写っている小金井市の風景がそっくりで、まるで自分のアルバムを見ているような気になる。下町や山の手とも違う、武蔵野台地ならではの自然や家並み。もうちょっと家が近ければ、一緒に淳子さんと遊ぶことがあったかもしれない。

◆打ち合わせにやってきた是枝さんにイラストを見せると、さすがにその出来栄えに驚いていて、ちょっと痛快だった。

◆帰宅して大慌てで表紙と中面をスキャンし、印刷用に整える。下書きの鉛筆を消しゴムでよく消していなかったので、文字が鮮明にならない。色味の調整も微妙で、けっこう時間を費やしてしまった。食事もそこそこに作業を続け、10時過ぎにやっとデータを印刷会社に送る。これは会葬御礼で、23日の午前中に届かないと大変なことになりますと伝言を入れると、スタッフ一同、全力で頑張りますという返事が午前1時に返ってきた。

◆お通夜当日の23日、亮之介と電話中に会葬御礼が届いた。さっそく開封してもらうが、色味も雰囲気もばっちりだという。ずっと緊張していたので、へなへなと足の力が抜けた。

◆長野家では久島弘さんが指揮をして、地平線や五反舎のメンバーたちが配布物を二つ折りにしたり、封筒に入れたりする作業が着々と進められていた。亮之介と私は式場に向かう直前まで、スライドの順番を直したり、BGM用のCD焼き作業をやる。

◆式場に着いてみると、すべてが予定通り整えられていた。五反舎のみなさんが山から採ってきた桧がいい香りを放ち、会場を引き締めている。武田君が全体を仕切ってくれているので、それぞれが安心して持ち場に没頭できた。いちいちお名前を挙げることができなくて申し訳ないが、あらためて「淳子さんの周囲につどう仲間たち」の実力と包容力を思い知らされた。深く感謝します。

◆そして、是枝さん。最後に亮之介が静かに二人だけの時間をもてるよう、気配りしてくださり、ありがとうございました。なるほど、これが是枝さんが考えるところの葬送文化の原点なのだと、はっきりわかりました。

◆怒濤という言葉以外に形容のしようがない6日間だった。葬儀に出たというより、イベントを手がけたという思いのほうが強い。是枝さんのおかげで、淳子さんならどうしたがるかを常に考え、突き進んでしまった。はたしてこれでよかったのだろうか? ちょっと口をとがらせて困ったような顔をしながら、「ま、いいんじゃない」と微笑んでくれそうな気がしている。(丸山純

アオザイを着たじゅんこ

  じゅんこと最初に海外に遊んだのは86年。インドに縁の深い写真家の松本栄一さんからアドバイスを受け、北インドを中心に一ヶ月強程の旅でした。じゅんこは初めての海外だったけど、市場で早速仕立てたパンジャビドレスに身を包み、ひょうひょうとインドの雑踏を歩きます。海千山千のインド商人を相手にジャパングリッシュで粘り、思ったように交渉が纏まると嬉しそうに笑いました。

 ブダガヤではお腹を壊し、《何かお腹に優しい、カレー以外のものを食べたい》と宿のあんちゃんに頼むと、やっぱりカレーが出てきて脱力。僕が日本寺に頼み込んで手に入れたうどんで体力を回復しました。バラナシでは洗濯物を荒らしたサルとにらみ合っていたな。最後に滞在したデリーでは薄紫色の奇麗なシルクのサリーを仕立てました。

 「砂漠に緑を」の向後元彦さんのお招きで2人でベトナムに行ったのは95年。ハノイ郊外の農村でホームステイした数日間は印象的です。昭和30年代のような風景と生活の中で、言葉の通じない家族たちと笑顔だけで会話をしていた。ある日、近隣の村人の家で犬肉をごちそうになる機会がありました。ベトナムでは珍しくないけど、日本人にはちょいと抵抗があるお肉です。蒸す、焼く、煮ると、犬尽くしの料理が意外においしく、舌鼓を打ったまでは良かった。

 でもその晩は体が火照って、暑くて暑くて眠れません。毛穴からぽっぽと蒸気が出るような感じを少しでも緩和しようとハッカを体に塗ったところ、今度は皮膚が過剰にスースーし、狭いベッドの上で2人で悶々と眠れぬ夜を過ごしました。犬の肉は体を温めるとあとで知りました。ハノイはさわやかな街で、女学生の白いアオザイがまぶしかった。じゅんこはここで涼しげなブルーのアオザイを仕立てました。

 亡くなる2週間程前に、じゅんこが《サリーとアオザイを出して》と言います。《お別れのときに着たい》と言うのです。僕は《縁起でもない》と渋りながらも、行李から民族衣装を取り出しました。数日後、丸山純、令子夫妻と、神谷夏美、恵子夫妻がお見舞いに来てくださった折、じゅんこが、《令子さんと恵子さんに、どちらの衣装がいいか選んで欲しい》と言います。令子さんは涙を浮かべながらアオザイを選びました。《サリーも奇麗だけど、色味がはっきりしたアオザイの方が顔が引き立つよ》。

 じゅんこはどこかで覚悟をしていたのでしょう。亡くなる直前まで彼女の死を否定し続けていた僕は、アオザイを整えながらも、《これを着る事はゼッタイないはず》と思い込んでいました。

 6月18日の月曜日23時8分に自宅で穏やかに息を引き取ったじゅんこは、希望通りアオザイをまとい、棺からあふれそうなほどの花に囲まれ、大勢の友達に見送られて旅立ちました。出棺の際、喪主挨拶をする僕の右肩に、ピンクの光が見えたと言う友人がいました。亡くなる前に《これからは天にいるからね》とメッセージをくれた彼女を探して空を仰いでいた僕を、じゅんこは肩の上で《ここだよ》といたずらっぽく笑っていたのだと信じてます。

 葬儀に参列してくださった皆さま、お花を手向けてくださった皆さま、本当にありがとうございました。(長野亮之介


会葬御礼

当日配られた手描きの会葬御礼


原典子さんとのおわかれ
7月8日夜、能海寛生誕150周年の講演を終えた私に丸山純さんからメールが届いた。原典子さんのお通夜の様子を伝える内容だった。あの健脚の原健次さんがいなくなってから7年、典子さんが私たち地平線会議に寄せてくださった心がどれほど深いものであったか、を思いつつこの通信に転載させていただく。(江本

■さきほど、原典子さんのお通夜から戻ってきました。結局、長野画伯と湘南新宿ラインで一緒に宇都宮まで行き、葬儀社が用意していたバスで会場に入りました。落合さんは今回も東武電車で来て、先に路線バスで会場に到着していました。

◆花で盛大に飾られた祭壇に、いつもの典子さんが笑っています。江本さんと私、そして「地平線会議一同」のお花も並んでいました。お顔はとても安らかで、闘病の跡もなく、軽くほほえみを浮かべていました。

◆式は仏式で、原健次さんが亡くなってから月命日に欠かさずお参りに行っていたという、地元の観専寺(真宗大谷派)のご住職が司りました。江本さんが能海寛のシンポジウムに出席しているその日に、大谷派のお通夜に出ることになったというのも、不思議なご縁ですね。大谷派のお通夜は初めてでしたが、木魚は使わず、お弟子がカキーンと拍子木を打ちます。お経の節回しは語りっぽく、あまり音楽的ではありません。普通ならお経が終わるとすぐに「ご住職退場」となるのに、焼香が終わるまでずっと待っていて、最後に典子さんの思い出をしみじみと語ってくれたのが強く印象に残りました。

◆参列者は200人を超えていたのではないかと思います。オカリナや絵手紙、お菓子作りなどを通じて、地元にしっかりと根を下ろした幅広い交友関係がうかがえました。

◆最後に長女の由紀子さんの挨拶があり、定期健診でがんが見つかってからの治療や暮らしぶりについて、声を詰まらせながら報告してくれました。4月に再入院したあと、抗がん剤に体がもう耐えられないと判断し、退院して自宅で過ごすことを選ばれたそうです。

◆そこでお開きとなり、由紀子さんと次女の京子さん、長男の健三さんが出口で見送るなか、参列者たちが次々と挨拶をして帰っていきました。東京だと、焼香を済ませた人から順に精進落としの席へと誘導されますが、ここではみんな自分の席に戻ります。そして、式が終わったら、自分の車で一斉に引き上げていく。「通夜ぶるまい」の席が別室に設けてありましたが、そこは親族のみなさんだけの場のようです。この地域ならではの伝統なのでしょうか。東京のお通夜しか知らないので、驚きました。車社会の地方都市では、これなら酒を飲ませないで帰ってもらえますから、合理的なのかもしれません。

◆4月の訪問時に撮った写真を由紀子さんたちに見ていただくと、「この頃が一番元気だったんですよ」と懐かしそうに見入っていました。画伯が進呈した絵も、ずっと部屋に飾ってあったそうです。駅まで帰るバスがすぐに出るというので慌てて飛び乗ってしまい、あのときお世話になった典子さんのお姉さんにご挨拶できなかったのが心残りです。

◆このまま帰るのではあまりに忍びないので、典子さんに勧められたことのある東口駅前の超有名店「みんみん」に入りました。メニューは焼き餃子と水餃子とご飯、生ビール、ハイボールだけ、ひと皿に大ぶりの餃子6個で230円と、激安です。味はかなりあっさり目なので、いくらでも食べられます。

◆帰りの列車のなかでふと、清原台のあのお宅にはもう典子さんはいなくて、原さんの膨大な本や漫画、写真があのまま残されているのだということに気づき、呆然としてしまいました。まだまだ信じられない気持ちです。(後略)(丸山純


地平線ポストから

新たなる挑戦 ━━ 1000kmのヒマラヤキャラバン

■暑い日が続きますが、皆様いかがお過ごしですか。昨年11月、カムチャツカでの遠征を報告させて頂いた早稲田大学探検部の井上一星です。隊員6名、40日間の遠征では、裾野の広いツンドラを舞台に、クマに怯え、大量の蚊に襲われながらも、なんとか未踏峰を登りました。そんな遠征からもうすぐ一年。大学四年生になった私は、新たな計画を進めております。

◆「ネパール最北端・最高峰の初登頂」──その響きに惹かれて、遠征の誘いを受けました。ネパール極西・フムラ郡にある、解禁されて間もない山群。人里離れた場所にあり、入った登山隊もまだわずか。主峰も未踏なのですが、なにより私達が注目したのは、中国国境沿いに位置する6025mのピーク。地形図で確認すると、ネパール国境沿い、最も北にある6000m峰です。少々こじつけがましいですが、「ネパール最北端の最高峰」と、私達はそう呼んでいます。

◆遠征の発案者は、映像作家で探検部OBの庄司康治さん。ヒマラヤをメインフィールドに村や文化、野生動物や自然についての映像・番組制作に携わっており、過去に地平線報告会で報告を行った(注:1999年3月、233回報告会「氷上のキャラバン」)こともあります。そんな彼から、今年に入って現役部員と共に遠征をしようと提案があったのです。またとない機会だと思い、私は隊に合流しました。現役隊員9人と、庄司さん。隊長は三年生の部員です。

◆会議を重ねるに連れ、遠征の規模は徐々に大きくなりました。首都カトマンズから目標のピークまで、距離にして1000km。「せっかくなら、歩いて行かないか」。誰かが言うと、隊員みんなが賛成しました。憧れの地、ヒマラヤ。その大山脈を西へと貫くロング・キャラバン。期間は4ヶ月にまで伸びました。9月のモンスーンの中出発し、乾季、冬季へと移りゆく自然を歩きます。アタックは12月、極寒のヒマラヤに耐えねばなりません。「さあ準備だ」と意気込んだものの、何から手を付ければ良いのやら。現役隊員9人で、頭を抱えました。

◆食糧・装備・渉外・輸送。どれをとっても、普段の活動とは全くスケールが違います。120日、10人、3食。食事を運ぶポーターが必要で、そのポーターの食事を運ぶポーターも必要……。「一体何トンあれば足りるんだ?」と、食糧担当が嘆きました。気候や地形も大問題。9月のカトマンズは30℃超えの炎天下、一方12月のフムラ郡は氷点下20℃。加えて、1000kmの中には盆地、岩地、山道、砂漠、氷河……。「一体何リットルのザックで行くの?」と、装備担当も嘆きます。渉外・輸送も桁違いです。エージェントに問い合わせると、数千万円の見積もりが出ました。

◆「なんとか計画を実現しなければ!」日本山岳会の図書室に通い、経験者から意見を聞きました。早大山岳部OBで登山家の、大谷映芳さん。登山家・写真家でかつ美容師の稲葉香さん。その他、たくさんの方にお世話になりました。「1グラムでも軽く、1円でも安くするために。道中の村で何が買えるか、どんな装備が必要か」。無知な私達の質問にも、みなさん丁寧に答えてくださいました。

◆1000kmの道中は、なにも辛いことばかりではありません。開発の進んだ都市部から、徐々に文明を離れていく。人が歩を進める速度で、ゆっくりとそれを体感すること。ネパールの雄大な自然と多様な文化を、しっかりと吸収するべくルートを選びました。私が一番楽しみなのは、アッパームスタンを通る際に訪れる予定の、未踏の大氷原です。情報は少ないものの、地形図で見るそれは、まるで城塞のように、四方を氷の城壁で守られているのです。さながら、氷のテーブルマウンテン。その特異性について、まだ確認中ではありますが、トリブバン大学との共同調査の話も進んでいます。

◆そんなこんなで、遠征出発まで残り2ヶ月。やっと実現が見えてきたところです。まだまだ仕事が山積みなので、出発前には、改めて皆様に「いってきます」を伝えられればと思います。どうぞ応援の程、よろしくお願いいたします。

追伸:遠征について、今後以下のページより情報配信を実施予定です。どうぞご確認ください。https://wasedatanken.com/himalaya(早稲田大学探検部四年 井上一星

カヌー「マイス」でヤップ島へ2度目の航海

■どんなに穏やかな状態が続いても、それが一転するのが海だということを感じたのが今回の航海だった。出航は6月26日。日本を24日に発ち、翌日残っていた作業をカヌー(アリンガノ・マイス)の上でした後、パラオからヤップ本島を目指した。クルーはキャプテン・セサリオの子供達4人を含む総勢16名。2年前の航海で一緒だったディランは9歳になった。サイパンからセサリオの兄のトニーも参加している。出航後、2016年の航海で初めに立ち寄ったングルーまでの8日間は時折海面が鏡のようになるくらい穏やかな日々が続いた。

◆しかし、“good wether is bad weather”という言葉通り、マイスの動きはにぶい。ようやく到着した僕達を海上で出迎えてくれたのは、前回と同じように島に住むジョージと彼の息子のジョハネスだった。島ではヤシガニやウミガメを捕らえ、翌朝調理した。先の航海では臭いがきつくて美味いと思えなかったウミガメだったが、トニーの下拵えが良く、捕らえたヤシガニを食べることができないほど腹一杯食べることができた。

◆ングルーに2日滞在後、最終目的地を目指した。が、出航前に吹きはじめた南西の風が次第に強くなり、うねりも大きくなっていった。そして、真夜中を過ぎた頃、海が時化だした。自分のシフトが終わり、寝床に入り込むが、デッキを叩く波がハンモックで横になる僕に降りかかり、ほとんど眠ることができない。身体はすぶ濡れだ。やがてデッキの上でサタワル語が飛び交い、セイルを上げ下げし、ロープを張り直す音が聞こえはじめた。

◆それに合わせてデッキを走るドタドタというサンダルの音も聞こえる。「サポートに行かないといけない」という気持ちとは裏腹にひどくなってきた船酔いでまともに身体を動かすことができない。申し訳なさと情けなさを抱えながら、薄眼を開け、波を被りながら、デッキの上の作業が無事終わることを祈った。

◆長かった夜が明け、まだ動かない身体に鞭を打ちデッキに上がると堪らずデッキ後方に走り込み、前の晩に食べたものを海に吐いた。最後の夜まで全く船酔いの症状がなく、身体が海に慣れたのかと思っていたが、単に揺れが小さかっただけのようだ。マイスが前後左右に大きく揺れる中、胃の中身を吐き終わった僕が見たのは至る所で白波が立つ荒れた海だった。そんな中でミクロネシアの離島出身者は時折笑顔と歓声を上げながら作業を続けている。

◆前方には大きな島が横たわっていた。時化の中、チャンネルに入ると波も治り、9時前に入港。最後の最後に海の荒々しい一面を垣間見た航海になった。今回の航海は前回と同じメンバーが5人参加している。前回の記憶がフラッシュバックする中、お互いの成長や変化を感じながら新しいクルー達と協力し、大袈裟かもしれないがお互いに命を預けあって同じカヌーで旅することは何ものにも代え難い経験だと思った。これは1回目の航海では分からなかったことだ。

◆「水平線に囲まれたときに自分が何を感じるか知りたい」という想いからはじまったマイスとの関係だが、今回の航海で海に囲まれたときにはっきり感じたのは「安堵」だった。マイスは次にパラオからハワイを目指すという。ハワイはマイスが生まれた場所だ。時期は2020年。その航海への参加の可能性をこれから探っていきたい。(光菅修

ランタン谷のチーズ貯蔵庫建設のために志の一灯を!

■一昨年の今頃、高尾山麓のミュージアムの庭でひょうたんのかたちの皮に包まれたチーズ、カチョカヴァッロを御馳走になりました。大地震で壊滅的な被害を受けたネパール・ランタン谷。そこのゴタルー(牧畜民)たちと長年、家族のように付き合ってきた貞兼綾子さんが彼らの支援に立ち上がったその行動力は見事なものでした。そして、ミッションを終え帰国の途につく貞兼さんにゴタルーから頂いた心尽くしのお餞別がこのチーズなのでした。それは濃厚で骨太な味でした。もしかしたら燻製の香りだったのかもしれませんが、私にはランタン谷の草の香りがふっと鼻をかすめた気がしました。ゾモファンドの取り組みに生半可に関わってはいけないとの思いを新たにした時間でした。

◆貞兼さんのの支援の成果を報告する場として、7月1日、JICA市ヶ谷ビル2F国際会議場で「大地震から3年、村人は自立に向けて歩みはじめた─ランタンプラン2015〜2018─」という報告会が開かれました。現時点での専門家の研究の到達点を確認するとともに、喫緊の課題である「チーズ貯蔵庫」とワークショップ用の「センターハウス」建設に必要な480万ルピーをいかにして今月末までに集めきるかお知恵拝借の場でありました。並々ならぬ情熱のもと、研究を進めてこられた事が痛いほど伝わって来て胸が熱くなりました。納得のいく研究成果が得られるまで、私は見守りたいと考えます。

◆さて肝心のお金の問題ですが、あまりにも時間がありません。NGOへの緊急融資の制度があればと思い、あれこれ調べて見たのですが、残念そのようなものは皆無でした。やはり最後は長者の万灯より貧者の一灯に勝るものはないのかもしれません。私も今一度お財布を逆さまにして郵便局に駆けつけようと思います。皆様もご支援をよろしくお願いいたします。(中嶋敦子

【カンパの窓口】
  郵便振替
   口座記号番号:02720-7-102137
   加入者名:ランタンプラン

《あるみ考》
行ってらっしゃいと言って送ってあげる人になる

■たいへんごぶさたしております。先日、何年ぶりかでエモ邸におじゃまして、ほんの1〜2時間でしたが、本当に久しぶりに江本さんとお話しする時間がとれました。ムリヤリ押しかけてよかったです。会って話す事は心を通わせられる深度が違う。独身の頃、超超親しみを込めて「おじいちゃん」と呼んでいたのに、ウチに子が産まれてからは、我が子を孫のようにかわいがってくれていて、今や名実ともにおじいちゃんです。

◆そんなおじいちゃんに、もう何年も会っていないなんて、祖父不幸者だし、いつまでもピンピンしてるとは限らないよ〜と何年も冗談を言っている場合でもない! 私達夫婦の「人生の顧問」にはもっと敬意をはらわないといけない!とか言っているうちにまた歳月が過ぎていきました。そんな中、むぎまる亡き後の江本さんの落胆振りは、遠く離れた田舎の私にも言葉の端々から伝わってしまっている。全然隠しきれていないその喪失感がイタイほど分かるし他人事ではいられない。私達の「人生の顧問」にさしでがましいけれど、私がどうにかできる問題でもないけれど、「気持ちが解る」ということだけは伝えたかったのです。ココロの穴は自分でしか埋められないから。

◆このところの重なる訃報にもまた、大事な事をたくさん問いかけられています。息子の事があってから、私は「いのち」について深く考えるようになりました。大切な人の魂がまた次のいのちにつながるのだとしたら、「出会えて良かった!また会おう!」と言えるかどうか。相手の大事な旅立ちにそう言ってあげられる人間になりたい。いってらっしゃいと言って送ってあげる人になるって決めました。

◆それは結局、自分自身を大切にすることであり、相手を信じることであり、だから「今」を完璧に生きるという事なのだと気づきました。過去にとらわれず、未来への憂いもない。どんな過去であれそれがあっての「今」なのだから、否定する必要も留まる必要もない。過去のすべてに感謝して、今を完璧に過ごす。その延長上に未来があるのだから。今をないがしろに過ごした未来に何を求められるのだろうか。未来は今目の前にいる人、事、モノと向き合った結果でしかないのだなぁと思います。

◆この1年、未だかつてやったことのないマーケティングの勉強を始めました。自分の人生にマーケティングがやってくるとはこれっぽっちも思っていませんでした。マーケティングって、お金儲けの事だと思う人もいるかもしれません。私は思っていました。でも学校教育では教えてくれないお金の本質を知っていくと、とっても面白いし深い。お金は価値の交換でしかなく、対価をちゃんと受け取ることは、相手への敬意につながる。

◆お金は人の間を流れるものである以上、それは人間関係をもろに反映していて目に見える形で現れてくる。それがひいては、自分自身の問題にぶち当たる。結局マーケティングって、最後は人間関係とコミュニケーションだということが解りました。相手をどれだけ喜ばせられるか。それに尽きるんだなと思います。そこから全てが始まる。

◆今後AIが世の中心になるとしたらますます必要になってくるのがコミュニケーションだから、これができる人が生き残っていくのだろうと思います。相手を尊重して、自分のできることをする。それには自分をどれだけ大切にしているかということになります。芸術畑の人間は、自分を表現する事を磨き続けています。それをどれだけ相手に伝えるかに命をかけています。でもその前に、それは相手に必要なのかとか、それで喜んでくれるのかとか、いわれてみれば当たり前の行為を忘れがちです。マーケティングの基本ですが、そこを突き詰めていくと、結局また自分自身の問題に戻ってくるのです。

◆私がいのちについて考えるようになったのも、マーケティングを勉強するようになったのも、すべて必然の流れだなと思えます。どんな切り口から入っても、最終的に行き着くところは、「今」の自分をどれだけ愛せているかということなのです。内側を満たさない限り外側は満ちてこない。コップの外側に水が溢れるには、内側が満ちていてこそなのです。

◆今年四十路に入ります。人生ってめっちゃくちゃ面白いです。20代エンジン全開で息巻いて生きていたあの頃、明日死んでも後悔しない人生にするっ!と日本を飛び出してから、今もその想いは変わりませんが、少し次元は上昇して、もっと人間として深みが出ているハズだと願っています。今この歳でこういう事を知った上で生きて行く先に、ワクワクしています。(木のおもちゃ作家 多胡歩未 木津川畔住人)


先月号の発送請負人

■地平線通信470号(2018年6月号)は、6月13日に印刷、封入、宛名貼り作業をし、翌14日、新宿局に託しました。作業に参加してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 兵頭渉 落合大祐 久島弘 中嶋敦子 伊藤里香 高世泉 前田庄司 白根全 光菅修 江本嘉伸 武田力 松澤亮 杉山貴章


今月の窓

ルンバが食器の上を回り続け……

■平成30年6月18日月曜日午前7時58分。出勤前、畳の上で靴下を履いていると、「ひゅう〜」と長く大きめの風の音が聞こえたような気がした。直後、壁が前右後左にぐるんぐるんと揺れ始め、主観的にはスローモーションで部屋の中に物がぶちまけられていった。なすすべもない中、後回しにしていたことが脳裏をよぎる。「ああ〜、なんで防災バッグをちゃんとしておかなかったんだろう」。時すでに遅し。

◆本棚が倒れ、食器棚から食器がなだれ落ち、その拍子にスイッチに当たったのか、ルンバが割れた食器の上をギュイギュイーンと回り続けている。止めようとするが、慌てて何度もボタンを押してしまうので、なかなか止まってくれない。「もー!!!」。冷蔵庫の扉や引き出しがほぼ開いてしまっていたため、庫内の食品がひっくり返っているのを見ないふりして押し閉めた。

◆市内の実家に電話をしたが、やはり固定もケータイも繋がらず。中途半端な防災バッグに貴重品とか入れて、スクーターで廻り道して親と家の無事をとりあえず確認してから、職場である地元の市役所へ向かった。街を走っていてもさほど風景に変わりはなく、車も人も普通に移動している。悪い夢でも見たような気分で職場に着くと、すでに関係方面への状況確認が始まっていた。

◆私の住む街は人口約28万2千人、世帯数は約12万5千世帯。電気一時停電(昼前に全面復旧)、ガス62,000戸停止(完全復旧までに約1週間)、水道断水なし、電車運休(JR、阪急線は翌日再開)。通勤時間帯のため、駅は人であふれているらしい。多くの職員から移動困難のLINEが届く。避難所担当の職員が抜け、本来業務よりも災害対応業務が優先される。火災発生なし。避難所75か所全開設、避難者723人、死者1人、救急搬送数、救助数……刻々と更新される情報。大阪府北部を震源とする地震は、本市で最大震度6弱、マグニチュード6.1だったとのこと。上空からヘリコプターの大きな音がずっと聞こえていて、うっとうしい。隣の市では登校中の児童がブロック塀の下敷きになったとか。

◆夕方、一旦家の確認に帰らせてもらった。街並みはやはりいつもとあまり変わりなく、道行く人たちも笑い合ったりしている。しかし、路地の方に目をやると、屋根瓦が崩れていたり、ブロック塀が傾いていたりする。5階の玄関ドアを開けると、散乱した物が上り口を塞いでいる。底が厚めのスリッパを履いて、よけたり跨いだりしながら進む。洗面台や流しも落ちてきた物で塞がれていて、水は流せない。

◆ベランダでは、植木鉢が割れて、土ごと放り出されたひまわりがぐったりと横たわっている。別の鉢に押し込み、水をあげた。地震は現実だったのだ、とまた思った。以降、今日に至るまで、寝るスペースだけ確保した部屋に戻るたび、思う。

◆職場では対応が続く。要援護者の安否確認、建物・道路等被害状況の確認、物資の搬出、ブルーシートやカセットコンロの貸出。支援も入ってきた。災害ボランティアセンター開設、片付け支援、協定企業からの物資提供、自衛隊の入浴支援、銭湯等の無料開放・無料利用、シャンプーの無料提供、義援金……。避難所に避難している人にアンケートを実施し、避難所を訪問。余震への不安により避難されている人が最も多いため、人数も夜から早朝にかけてが多い。

◆時間が経ってくるにつれ、避難所には「家主さんにもう住めないから出ていってほしい」と言われている人たちが残されてきていて、また、被災建物応急危険度判定の結果、赤(危険)や黄色(要注意)の表示紙が貼られる、古くからの家や集合住宅に住み続けている人もいることから、住まいの確保が課題となっている。

◆中には、家は片付いているけれども、子どもが入りたがらず、引っ越しを余儀なくされている世帯などもあり、こころのケアも重要視される。一見被害は小さいように見える今回の地震。大きな被害を受けた人とそうではない人が地域にまじりあっている。潜在していたものごとが、この地震をきっかけに、現れてきている面もあるように感じる。建物被害は現在全壊2件、半壊は当初の予想を上回り28件、一部損壊は2,285件であるが、罹災証明を求める人は後を絶たない。小中学校のプールのブロック塀は、26校で撤去された。

◆余震のあった夜には一時避難者も増えたが、7月4日には避難所数18か所、避難者数約70人ほどになっていた。しかし、7月5日未明の大雨警報(土砂災害)や早朝の大雨警報(浸水害)の発表に伴い、1,274世帯2,556人に避難指示、9,324世帯21,318人に避難勧告が発令され、翌6日朝には避難所28か所に234人が避難していた。山の方では土砂崩れにより、道路が数か所通行止めになった。

◆地震に続き、水害への体制強化のため、再び夜間の職場待機となった折、江本さんが岡山駅で「新幹線ホテル」に閉じ込められていることを知った。講演のため、島根県に向かう道中だったそうだ。その後ネットニュースで、梅雨前線の停滞による西日本を中心とした記録的豪雨の様子を見た。愕然とした。街全体が水没し、土砂が家屋を押しつぶしている。これを書いている時点で126人が亡くなり、少なくとも79人の安否が分かっていない。豪雨による死者数としては平成最悪という。

◆昨日までのいつもの暮らしが、突然断ち切られる。抗えない不条理に、明日が必ずしも今日の続きではないことをまた思い知らされる。支援の手は豪雨の被災地に移っていくだろうから、気持ちを引き締め直して、公私ともに、日常を取り戻していきたい。(中島ねこ 今度こそ物を減らしたい大阪住人)


あとがき

■(フロント原稿新幹線の続き)島根への飛行機が飛ばないので、品川に出て、すぐ次の「のぞみ」に飛び乗った。島根の友人に電話して様子を伝える。「では、広島まで迎えに行くけ」。でも、そうはうまくいかなかった。新幹線は、岡山までたどり着いたところで完全に止まってしまった。テレビはないが、ネットのニュースで次第に西日本一帯の豪雨被害の様子が見えてきた。能海のフォーラムどころではないかも、と初めて不安になる。

◆地平線通信471号を作る仕事も待ったなし、だ。何人かに電話、メールして通信の原稿を頼む。こういう時、「電源」が自由に使えるのがいかにありがたいことか。ホテルを探そう、と荷物を抱えて外へ出ると激しい雨。最初のホテルは2万円だったが、「すみません、本日は満室です」。以後、ホテルの電話リストを手に10ほどのホテルに電話しまくったが、どこもダメだった。

◆やむなく駅に戻り、コンビニでおにぎりとパンを買う。ちょうど「0時過ぎには新幹線ホテルをご利用願えます」とアナウウンスがあり、覚悟を決める。朝になって、ホーム反対側の掃除された車両に移る。一両まるごと生活の場となるので確かに汚れは目立つのだ。

◆2日目、夜になって新幹線は動き出し広島駅まで。近くのホテルを山仲間のおかげで確保できた。3日目、島根県から迎えに来てくれたタクシーでぎりぎりこの日の開会に間に合った。講演のタイトルは「能海寛が日本の若者に伝えたかったこと」。地平線会議のこともこの1年の画伯のイラストを紹介しながら初めて触れることができた。ふぅ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

光と影のミッション

  • 7月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「僕が写真家だから、生かされたんだと思います」というのは阿部幹雄さん(65)。'81年、28才の時にミニャ・コンガ(7556m)北東稜初登頂を目指す北海道山岳連盟隊に参加。登頂目前で遭難が起こり、先頭集団9名のうち8名が命を落としました。一人生き残った意味を自問し続ける阿部さんでしたが、写真記録から亡き盟友達の遺体を20年後に特定することができ、下山させることができました。

小学生の頃、当時世間を賑わせたマナスル初登頂や南極探検に心躍らせたという阿部さん。郷里愛媛から北大スキー部に進み、チョー・オユーからのスキー滑降を夢みる山男でした。

事故後は垂平の旅も視野に入れ報道カメラマンとして世界各地の“未知の領域”を歩き、シャッターを押してきました。千島列島、極東ロシア、北極圏などを経て、'07年からは3年連続で南極越冬隊にも参加。

ミニャ・コンガ出発前に《どんなにカッコ悪くても生きて帰ってこい》と言ってくれた先輩が南極で拓いたルートを辿る偶然にも巡り合った。「夢はゼッタイあきらめちゃいけない。思いこんだら叶う」という阿部さんに、写真家として歩んできた探検のおはなしをして頂きます!


地平線通信 471号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年7月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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