2018年12月の地平線通信

12月の地平線通信・476号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月12日。朝はかなり寒かったが午後になって都心の気温は9度。冬がゆっくり来たのであろう。ガリ版印刷された36ページの草臥れた冊子が私の書棚にはさまれている。「全国学生探検報告会 とき 1978年12月2、3、4日」。10月の「40年祭」で一瞬紹介したかもしれない。新聞社の社会部にいた私に学生代表から取材依頼があり、40年前の師走の3日間、法政大学に通った。山岳部活動で旧知の宮本千晴のほか、関西学院大学探検部出の森田靖郎、それにもちろん法政探検部OBの岡村隆もいた。

◆当時3日目に「セイロン島の密林仏教遺跡について」というテーマで法政の4年生が発表した。その資料に「1次隊 1973年7月〜10月 隊長 岡村隆以下6名」とあり、「2次隊 1975年7月〜10月」にも「顧問」として岡村隆の名がある。11月の地平線報告会でその岡村が「大発見の一里塚」としてスリランカの仏教遺跡探検の顛末を語ったことは私にはとりわけ感慨深いことだった。

◆地平線会議の誕生は1979年8月17日だが、法政大学でのあの3日間は私に静かに火をつけた大事な前夜だった。「40年祭」をことしやろうと決めたのは、そういう経緯もあったのだ。それにしてもほぼ半世紀にもなる時間を費やして青年たちと今も島に通う岡村隆、なんと格好いいのだろう。

◆以前書いたが、私は近くの大学で週一回ロシア語会話クラスに通っている。真剣に予習しないとついていけないので皆勤を旨としているのだが11月の教室は途中で退出した。アラスカから吉川謙二がやってきたからだ。“マッドサイエンティスト”の異名を持つ永久凍土の研究者。普段はフェアバンクスのアラスカ大学で教えている。地平線会議との縁はふるく、1992年9月以来、南極行ほかをテーマに何度か報告会をやってもらった。鉄製ヨット「ホキマイ号」で仲間とともにベーリング海を目指すなど控えめに言っても冒険賞を2、3回受賞してもいい実績を持つ。

◆昨年来た時、トナカイ牧場のことを知り、この通信に書いてもらったが、その後さらにパワーアップしたらしい。20秒ほどの動画を見せてもらってのけぞった。1頭だてのトナカイが走る様子を上空から撮った動画だが、なんと速いこと! おそらくドローンを駆使して撮影したのだろう、遠くに点のように見える吉川があっという間に近づき走り去る。引いているのはトナカイ1頭だ。「100メートル5秒です!」と学者は言い放った。

◆短い滞在の間、2度会う機会があった。現在「牧場」にいるトナカイは12頭。「毎年春に母親から1頭ずつ生まれます。うまくいけば来年は6頭増える予定」一番最初だけは買った。「相場はどんどん変わりますが、今はオス2500ドル、メス4000ドルぐらい。シベリアやスカンジナビアではその1割かな」犬と違って毎日給餌する必要はないが、水を与え、熊や狼から護るためにあるじが不在の間、誰に留守番を頼むかが大事ということだ。

◆地平線も40年ともなるとほんとうにいろいろな人が出てくる。吉川君には今回も特別レポートを書いてもらった(8、9ページ)。本心は、一度アイディタロッドなど本格的な犬ぞりレースにトナカイで出たいのだそうだが、「許されないでしょうね」。冒険探検年報『地平線から・第八巻』の254ページに「二つの単独行」という吉川青年の文章が載っているので参照ください。

◆ところで、白根全君の労作、その『第八巻』の表紙は感動的だ。南極海にただ一つで突入した小さなヨット「青海(おうみ)」をマストから撮った写真。「光と氷の国、南極へ」というヨットの航海者、片岡佳哉青年の文章がこの『第八巻』で吉川君の文章の隣に組まれている。こういう人はほんとに懐かしい。今も北海道で健在の片岡さんに『風趣狩伝』をお送りしたらすぐ返信があった。

◆「わざわざお送りくださり、恐縮です。あの薄い地平線通信が、厚くなって届いたという感じでした。それにしても、もう40年ですか。その間、途切れることなく活動を続けてきたこと、多くの人々に影響を与えてきたこと、素晴しいと敬服しております。なぜ人は旅に出るのか。外に出て得た知恵をどうすれば人々に理解してもらえ、役立たててもらえるのか。これらの答えを得るために、相変わらず私は試行錯誤を続けています」。

◆「30年前の航海の後始末が、まだ終わっていないのです。それらはあまりうまくいかず、以前に地平線通信で見たかもしれない『輝く青春、みじめな老後』という標語に近い生活を送っていますが、私なりに頑張っているつもりです。地平線会議の今後のさらなる発展、もしかすると時代とともに形態を変えながらの発展を、心より願っております」

◆続けていると見えてくるものが確実にある。淡々とペースを変えずに歩いていくしかないのだろう。いい新年を!!(江本嘉伸


先月の報告会から

大発見の一里塚

岡村隆

2018年11月23日 新宿区スポーツセンター

■1969年、東京・本郷では安田講堂が落城し学生運動が沈静化してきたころ、当時法政大学探検部の3年生であった岡村さんは、2人の仲間とともにスリランカのコロンボにいた。イギリスから独立したばかりで鎖国状態だったインド洋モルディブ諸島への民間人初入国を狙って玄関先で入国交渉をするためだった。モルディブへの入国許可を待っている間に、スリランカで何か探検ができないかと思い調べると、スリランカで一番大きな川・マハウェリ川の周辺には未知の遺跡がたくさん眠っているということを知った。

◆ジャングルの中を滔々と流れる大きな川、何百年もの間。人知れず眠っている密林の遺跡を想像した。探検部員としての血が騒いだ。モルディブ探検行の交渉中でもあったが、一行は日本から持ってきたゴムボートを浮かべ偵察に繰り出す。ボートは上流の激流で転覆し、岩にへばりついて命からがら助かったが、装備は全部流された。偵察は失敗に終わったものの、密林のイメージは頭から消えなかったそうだ。

◆それから4年後の1973年、最初のスリランカ遺跡調査探検として7人の隊員で遠征を行った。4か月間のジャングルでの調査で31箇所の仏教遺跡を発見した。この地域のジャングルには無数に遺跡が存在するが、現地政府や大学には調査のための予算も人員も無いために放置され、村の人たちによって盗掘や破壊が進んでいた。貴重な文化財が失われていく現状を目の当たりにし、誰かが何とかしなければいけない、また、学術調査の前段階である遺跡を発見し探査するという行為は専門家ではなく多くのアマチュアがやるべきだと岡村さんたちは思った。

◆その後の法政大の探検活動で1973年から2003年の間に7回、探検部員の減少と探検活動のレベル低下を危惧し、スリランカ遺跡調査の永続化のためにNPO法人を作ってからは2009年から2018年の間に6回、遠征をおこなってきた。最初の活動から45年間もの長い間スリランカ密林での遺跡調査が続いている一番の理由は、この現代において古典的な探検ができる喜びがあるからだと岡村さんは言う。

◆未知の地域へ赴いてそこを調べ、何かを探し出したり明らかにすること。辞書で調べたときに出る「探検」という言葉の意味だ。この言葉通りの探検をすることのいかに難しいことか。2018年、8月。今夏の探検の目的は、スリランカ南東部のヤラ自然保護区にあるタラグルヘラ山仏教遺跡と、その周辺の未知の遺跡の発見、調査であった。ヤラ自然保護区は13世紀までは古代シンハラ文明が栄え、その後は無人となった地域である。英国の統治時代に英人測量隊が見つけ、地図に残して以来、未確認のままになっていた遺跡だ。

◆タラグルヘラ山仏教遺跡の探査計画は2年前にも行われた。2016年、日本人19人、スリランカ人14人の30人を超える大所帯で行った遠征は、タラグルへラ山への到達もかなわず、周辺の遺跡を一つ調査しただけで終わった。失敗の原因は、ジャングルに広がる鉄条網のような有刺植物の下生え、村人ガイドの大迂回による時間の空費、学生たちのスキル不足等々であった。

◆リーダー層の経験者である社会人参加者は時間を空費している間に有給休暇のリミットが来てしまい途中帰国、残されたのは岡村さんと15人の学生だったが、学生たちは登山などの野外活動に慣れないビギナーが多かったため、安全優先の行動が求められ、機動力と士気の低下が隊全体に生じた。実は今年、2018年隊の学生参加者は1人を除き全員が前回の隊員である。

◆学生たちは各校の探検部で登山や野外技術を学び、遠征の前年、2018年の3月から毎月勉強会を開きスリランカの歴史、仏教、遺跡探査等を学んできた。勉強会では前回の収集情報と失敗体験をもとに作戦を立てていった。報告会のあとの二次会で岡村さんが学生隊員について「男子三日会わざれば刮目してこれを見よ、というけれど、彼らの成長は本物だった」と力強く仰っていたのを思い出す。

◆満を持して臨んだ今夏の探検であったが、今年もいざ、フィールドへ!というときに、思いがけない横槍が入った。自然保護局から突然新たな入域条件が出たのだ。安全と緊急時対応のためベースキャンプにはトラクター2台を常駐させ、移動も同時にせよ。移動には常にレンジャーを2名同行させ、1人ずつが同行する分隊行動は厳禁。

◆許可問題は探検活動に付きまとう最大の敵だ。自然保護局から出された以上の条件から、有給休暇を取って探査に来ていた社会人のベテラン3名は入域を断念、密林を目前にして引き返すことになった。残る隊員は学生5人と岡村さん、それとスリランカ考古局の4人、ポーター9人になってしまった。前回と同じ構図に岡村さんは戸惑ったが、今回の学生は経験量と団結力が違う。気を取り直し出発し、道なき道をトラクターで進んだ。5時間かけて水が手に入る河岸の中でもっともタラグルヘラ山に近い場所にベースキャンプを設営。

◆BCでは、作戦会議とドローン操縦の確認をした。野生の動物対策に火は絶やさずに焚き、装備も管理した。BCからタラグルヘラ山へは7キロ。歩き始めてみるとジャングルの地理的な特徴として小さな岩の丘が散在し、大きな山は少ないが、樹林の下にも日光が当たる場所にも五寸釘が生えたような細枝と鉄条網をぐるぐるまとめたようなブッシュが行く手をふさぎ、歩けたものではない。そのため薄い藪とゾウが作った獣道を選んで歩いた。

◆道なきルートを、ポーターは20キロ、隊員たちは10キロの荷持を背負い、行く手を阻む有刺低木のブッシュを避け獣道や藪の薄いルートを辿るため、直線では歩けずジグザグに歩くことになり、常にGPSで進路を確認しながら進んだ。BCからを歩き始めて1日目、古代の出家僧たちが住居や修行の場とした岩陰遺跡と、沐浴などに使った貯水池遺跡を発見。その後また岩陰遺跡、仏堂跡を発見した。遺跡を見つけると毎回、測量をして図面にとり記録として残した。この日はタラグルへラ山が岩丘から見える地点、近くの露岩でビバークした。次々と露岩の近くで遺跡を発見したのだが、ほとんどが崩壊していた。

◆2日目、密林をかき分けタラグルへラ山の山頂の巨岩に到着して調査すると、そのふもとには大規模な岩陰遺跡があった。床の組石や外壁煉瓦は崩壊している状態だった。岩陰から岩のふもとを南に回ると、頂上へ続く階段を発見。岩盤斜面を彫りこんで作った階段が全部で75段頂上に続いていた。頂上には仏塔の跡と、刻文があった。刻文は目で拾って写し解析すると、初期のブラーフミー文字であることが分かった。この文字は南アジアや東南アジアの諸言語文字の原型であり、書体からは使われていたのが紀元前3世紀から紀元1世紀のものだということも分かった。このことによって寺院建立の時代が特定できたのだ。

◆タラグルヘラ山仏教遺跡は東西250メートル、南北700メートルの大規模な範囲で広がっており、今回の探査では未踏査のまま残した区域も多いという。遺跡の全体像を解明するには日数をかけた寺域内の未踏部分の遺跡調査が必要であり、そのためには許可と水の問題が深刻になってくる。当初、隊員交代で第2次調査を予定していたため、学生は2人BCキーパーとして残り、3人が調査に赴いたが、1次隊が帰ってきた時点で考古局とレンジャーがポーターの体力不足、士気低下、水不足等で第2次隊の発足を反対。岡村さんは学生全員を連れて行こうと考古局側やポーターを説得したが結果は覆らず、隊員2名はタラグルへラ山には行けなかった。

◆一泊ビバークでの調査では成果が限られることや、水不足も考慮し、今回は発見と概況把握をもって良しとし、来年雨期明けの水の乏しくない時期に現場にベースキャンプを置いて調査しようということになった。留守番役を引き受けた2人は貴重な現場を見ることもできず、悔しくなかったのだろうか。2次会で2人に聞いたところ、現場で測量し調査をするのと同じくらいBCで荷物を見張ったり川水を沸かして大量の飲料水を作ったりするのも大事な仕事だから、悔しくはない。前回の失敗があるので我儘を言って隊の秩序は乱せないと言うのを聞いて衝撃を受けた。私はそんなふうに考えられるだろうか。

◆帰りに寄ったマルワーリヤ岩丘遺跡では、ジャングルで狩猟採集をして暮らすスリランカの先住民族、ヴェッダ族の岩絵のある岩陰を発見し、それによりヴェッダ族の活動範囲が南東部のヤラ地方にも広がっていたことや、これまで発見されていない絵柄もあることが分かった。これにはスリランカ考古局も大興奮だった模様だ。

 

■岡村さんは考古学者でもなんでもなく大学時代に見つけた探検のロマンを追ってきただけだ。今でこそ遺跡や考古学の知識はすごいが、探検をするという行為が先にあって、知識がついてきたのだ。その行為の大変さを考えると、胸が詰まる思いになる。

◆私が大学に入って探検部員になってもう少しで3年が経つ。探検部員になって、地平線会議と関わるようになってからすごい勢いで自分の人生が動いているのを感じる。大した理由もなく入ったはずなのに、「自分の探検活動を探すために頑張っている」自分がいる。去年の夏にカムチャツカ未踏峰遠征に行ってからはさらに自分の人生が変わってきたのを感じている。

◆帰って地平線報告会で報告をさせてもらったり、そのおかげで色々な人と話して探検のアイデアをもらう機会が増えたり、今はこうやって恐れ多くも報告会レポートを書かせてもらっている(レポートを書くに当たって何人かに「レポートを書くときに手が震える」など脅され、プレッシャーを感じた)。私はいまだに自分の探検活動ができていないが、探検をあきらめたくないと思っている。岡村さんが密林をイメージしたときに血が騒いだようなそんなフィールドを見つけたいし、45年間も続け、不思議と知識がついてくるような、人生を狂わせられちゃうような探検のテーマを見つけたいと思っている。今回の報告と自分の3年間を考えたときに、探検という行為は、人を長い時間、引きずり込み、延々と続いていくんだなぁと感じた。(野田正奈 明治大学3年 早稲田大学探検部員)


報告者のひとこと

地味すぎる「探検」をなぜ続けるのか

■私は、自分たちが45年もの間続けているスリランカでの活動を「探検」であると信じている。ジャングルの中をゾウやヒョウやクマに怯えながら歩いているが、その行為自体を目的とする「冒険」ではない。遺跡を見つけて測量したり、写真や拓本を持ち帰って分析したりもしているが、結果だけを求める「学術調査」でもない。考古学者ならぬ一介の臆病者がビクビクしながらジャングルを歩き、遺跡を探しては、その結果を持ち帰り、律儀に報告するのだが、探す遺跡が「未知」のものであることと、必ず後世にも残る形で報告するところがミソで、それゆえにこそ「探検」だと信じているのだ。

◆とはいえ、私たちが発見する遺跡は、部外者から見れば大半がとるに足らない小さな遺跡だ。映画『インディー・ジョーンズ』のような活劇もなく、アンコールワットのような巨大遺跡の発見があるわけでもない地味な探検は、それを続けることにどんな意味や面白さがあるのかと、不思議にも思われるだろう。しかし、私にとってそれはあるのだ。どんなに小さな、見栄えのしない遺跡でも、そのひとつひとつの調査の積み重ね、地道な作業の継続にこそ、自分にも結果の分からぬ「意味」があり、未知の対象への邁進という一点にこそ、何物にも勝る「面白さ」がある

◆今回の報告会で私が本当に伝えたかったのは、「探検とはそんなものだ」という思いであり、大発見とも言えぬ程度の遺跡の内容報告ではなかったはずなのだが、それが果たして伝わったかどうか……。「大発見への一里塚」という表題の「大発見」とは、私にとっては「未知」と同義の、追い求めるべき理念というか抽象概念であり、現場の地道な作業の前では謳い文句にすぎないのだが、それがなければ続かないのが探検であり、たとえ本当に大発見があったとしても、翌日からはまた地味な作業を続けるのが私の探検だということなども申し上げたかった。学生時代から思っているが、「探検」を語るのは、人生を語るのと同様、なかなか厄介である。

◆さて、何はともあれ、そんな中途半端な思いを残して、報告会は終わった。5回目の登場だというのに、さしたるストーリーもなく深い掘り下げもない平板な語り口に、退屈さや眠気を感じた人もあったかもしれないが、ごめんなさい。探検はまだ続くので、次に語らせてもらう機会がもしあれば、焦点を絞った、起承転結のはっきりとした話をしなければと、改めて当日の会場の様子を反芻している次第です。話を聞いてくださった皆さま、ありがとうございました。(岡村 隆


四国遍路:空海と不空

岡村さんの報告会に関連して

 10月10日四国88か所巡礼を大窪寺で終えた。夫婦とも70歳になった御礼に四国遍路を歩き始めた。1200kmの長丁場を4年半かけてコマ切れで歩いた。弘法大師空海ゆかりの88寺の大師堂が札所である。私の感じでは空海の色濃い寺とそれほどでもない寺もあった。「空海」を一番強く感じたのは室戸岬の御厨人窟(みくろど)だった。阿波国の23番薬王寺から3日かけて80km歩いたところでやっと室戸岬が見えた。岬の崖に空海が修行した洞窟がある。窟の中からみえる景色は上半分が空、残りの半分が海。それ以外は何もない。この洞窟で真魚(幼名)は空海となったと言われる。

■空海と恵果阿闍梨

 空海は留学生として遣唐使について行き唐の都長安で学んだ。四国での修行の間に天才的能力ですでに密教を学んでいた。空海は長安の青龍寺で、当時最高の僧であった恵果から密教の奥義をすべて授かった。恵果に出会った時に空海はすでに密教の高い段階に達していた。だからわずか数か月で数ある弟子たちをさしおいて恵果の後継者になれたのだ。

 青龍寺で恵果と空海が出会ったのは唐の玄宗皇帝・楊貴妃の少し後の時代。唐の時代は隆盛だった仏教はだんだんすたれ、青龍寺も跡かたがなくなった。今回西安の青龍寺に行ってきたが、昔日の青龍寺ではない。千年の都だった長安は西安と名を変えた。旧青龍寺遺跡は発掘されて新しく堂宇が再建されている。現青龍寺にお参りするのは80%以上が日本人だ。四国四県が贈った桜の林のなかに四国ゼロ番札所のモニュメントがあり、空海の記念塔が作られている。

■西安で不空三蔵に出会う

 Facebookで西安に行くことを呟いたら、岡村さんから「恵果の師、不空三蔵の足跡を探してくれないか!」とのツイートがあった。空海の師である恵果の名前は知っていたが、その師の不空という名前は初めて聞いた。岡村さんの指令に従い、地下鉄に乗って「不空三蔵」の寺「大興善寺」を訪れた。青龍寺は日本人の寺だが、大興善寺には大勢の中国人参詣者が訪れていた。中国で仏教はいったん途絶えたが、近年かなりの勢いを増している。不空・恵果の時代とは異なり金ぴかのお金持ち寺に見えた。

 境内の案内板に「不空」の名前があった。簡体字だが、不空が南インドの僧で、玄宗皇帝に好まれた高位の僧だったことは理解できた。日本に帰ってから司馬遼太郎「空海の風景」を読みなおした。不空のことがかなり詳しく記されていた。

 恵果は多くの弟子を飛び越えてインド僧の不空から金剛頂経の密教体系をすべて受け継いだ。そのあと恵果はすべての弟子をさしおいて日本人の空海に密教体系を譲り渡した。インドからもたらされた密教だが本国では既にすたれている。インド起源の密教が中国から日本に行くことに対して恵果はこだわらなかった。実際に恵果の没後、中国の密教はすたれていく。不空も恵果も、世界のどこかで密教が続いていけばそれでよいという壮大な世界観を持っていた。

■スリランカの仏教遺跡探検

 地平線会議で岡村さんの話を拝聴して、彼が「不空三蔵」にこだわった理由が分かった。スリランカのジャングルを探検し、多くの仏教遺跡を発見した話だった。詳しくはレポートにある通りだが、私はその中で1985年の釈迦三尊の摩崖仏の発見に注目した。現在のスリランカはいわゆる小乗仏教の国。しかし彼らが発見したのは古代シンハラ人が信仰した「大乗仏教」の遺跡である。歴史的にも貴重な発見でスリランカ政府も遺跡の保存に乗り出した。しかし8年後に彼が訪れた時、内戦によって仏像は破壊されていた。

 岡村さんは、空海の大師匠である不空はスリランカ僧と考えている。大興善寺には南インドの僧と書いてあったがスリランカも含まれている。不空の時代、南インドに仏教の拠点があったことは知られている。南伝仏教の拠点だった。

■日本仏教の源流

 空海以前に日本に伝来した仏教は、鳩摩羅什などの僧がインドやチベットから西域の砂漠を越え中国にもたらした(北伝仏教)ものだ。近代になって日本仏教の源流を求めて日本人僧侶たちは西域チベットを探検した。しかしある時期仏教の拠点であった南インドスリランカの仏教遺跡を探検した日本人は少ない。南インドは南伝仏教、いわゆる小乗仏教の出発点だったので、大乗仏教の日本人僧は興味を示さなかったのかもしれない。

 現代日本では、真言宗はもちろんかなりの宗派は空海・最澄から始まったといってもいい。ちなみに最澄も空海と同じ時期に中国にわたり、不空の弟子の順暁から密教の一部を学んでおり、南インドスリランカ系統である。

 日本仏教との関係を考えたとき伝播ルートは、スリランカルートが重要な意味を持っていることを岡村さんは言いたかったのだ。スリランカで日本仏教の源流を探りその遺跡を発見した探検家はほとんどない。この探検は日本仏教史だけではなく世界的探検史にも残るほど意義深い。

 西域のシルクロード遺跡探検はリヒトホーヘンから始まってヘディン、スタインにつながった。スリランカの仏教遺跡探検は、いま岡村隆から始まった。彼は多くの若者を参加させている。この中からヘディン、スタインに匹敵する探検家が輩出してくれるかもしれない。

■ちょっと蛇足

 「空海」という名は御厨人窟から見た空と海ではなく、不空の「空」に由来するのではないか、と我が家の奥様は強く主張する。岡村さんの話を聞いて、私も奥様の説に追従している。(三輪主彦


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」は別に記載しています。通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。

花田宏子 20,000円(含1万円カンパ。お久しぶりです。1年前、通勤時間の大幅短縮のため、思い切って、13年いた職場を異動しました。内視鏡の事業部からコンタクトレンズの小売業へ。周りは会計の道のプロばかりのシビアな業務、そんな中のど素人。39歳にしてまた下積みです。家では、小2娘、6歳息子、3歳娘と、もみくちゃの毎日です。一人時間といえば通勤電車の中かトイレの中。そこでむさぼるように地平線通信を読んでいます。何かを突き詰める人生にはやっぱりあこがれます)/小野寺斉 4,000円/菅原強 10,000円(滞納3年分含め、5年分送金します)/松尾清晴/広田凱子/橋口優/森永憲彦/長澤法隆(6,000円過去2年+1年)/西牧結華 5,000円(北海道に移住して3回目の冬を迎えました。エゾシカを探して銃を手に札幌近郊の山に足繁く通う夫とは対照的に私は仕事に追われる日々です。ただその仕事が、北海道の家づくりを紹介する雑誌やウェブマガジンの編集や物書きということで、取材や周りの人たちとの交流を通して、少しずつ北海道という場所の文化や歴史が心身に染み込んでいっているような気はします。いつも通信を読むばかりで能動的なことは何もできていない私ですが、地平線会議と出会って今年でもう15年近くになるでしょうか。そのきっかけをくれたのは長野亮之介さんで、その最愛の奥様の淳子さんが逝去されたことは私に取っても大きな出来事でした。この場を借りて慎んでご冥福をお祈りいたします)/新堂睦子10,000円(来年度分通信費+寄付。本当かはともかくチンギス・ハンのDNAを受け継ぐ男性がアジアには千人以上いるとか。江本さんは冒険家のスピリットを広く伝搬なさっていますね)


地平線ポストから

『+竹(プラスチク)』 人生最大の試練

■5月の報告会で南北アメリカ自転車旅について報告させていただいた青木麻耶です。あれから半年あまり。その後の大分での暮らしとニュージーランドへの旅の顛末について書いてみようと思う。ボリビアのアタカマ砂漠を8日間かけて自転車で進んでいた時、毎日過去の自分と向き合っては涙を流していた。「これがきっとわたしの人生最大の試練だ」とその時は思っていた。だが人生はそんなに甘くなかった。「パートナーシップ」という次なる試練が待ち受けていたのだ。

◆お互いのことをよく知らないまま一緒に暮らし始めたわたしたちは、ささいなことでよくぶつかり合う。大分に行って10日あまりした頃、10年ぶりにアトピーの症状が出た。一番ひどかった小学生時代よりもさらにひどく、顔や首だけでなく胸や背中など全身に広がり、あまりのかゆみに眠れない日々が続いた。人と会うのも億劫になり、家に引きこもる日々。まっぽん(注:パートナーの松本裕和さん)も作業場でもある家からはほとんど出ることがないので、24時間ほとんど一緒に過ごした。

◆家の半分は荷物部屋となっているため、生活空間は床の抜けた6畳一間。喧嘩をしても逃げ場がない。知らない土地で愚痴をこぼす相手もいなければ、ふらっと飲みに行ける店もない。ストレスは膨らむ一方で、心身ともに疲弊して行った。そんなある日、九州を自転車で旅しているというカップルが我が家に遊びにきた。彼らはニュージーランドのワーホリで出会ったらしく、ニュージーランドの素晴らしさについて熱く語ってくれた。

◆「実はわたしもワーホリのビザを取っていて、それが7月で切れるんだよね」、とわたしが話すと、絶対に行ったほうがいい!!と強力に後押しされた。「ニュージーランドで竹細工ができる可能性を探りに行く」という名目で旅立った、というと聞こえがいいが、早くこの生活から逃げ出したかったというのが本音だ。無計画なわたしは、有り金をはたいて片道切符を購入し、竹細工の道具一式と、南米を共にした相棒の自転車・ジミー君を詰め込んで、真冬のニュージーランドへと飛び立った。

◆北島には竹林もいくつかあり、そこで竹を切り出して竹細工を作り、お世話になった人にプレゼントしたり、マルシェで売る機会もあった。竹細工から広がるご縁やつながりもできた。一芸を身につけ、旅をしながらお金を稼ぐというのはずっと憧れていたことでもあった。のどかで平らな草原を、羊が草を食むのをのんびり眺めながら自転車で走ったらさぞかし気持ちがいいことだろう、と想像して行ったが、現実はずいぶんと違っていた。

◆とびきり大きな峠があるわけでもないが、100mぐらいのアップダウンが無限に続き、どれも斜度がえげつない。ギネスに認定された「世界一急な坂」があるというのも納得だ。おまけに道は狭いし、車はスレスレを高速でぶっ飛ばしてくるし、走っていてもぜんぜん楽しくない。ジミー君を連れて来たことを激しく後悔した。

◆それでも風速30mの暴風が吹き荒れるパタゴニアや、5000mを越えるアンデスの高地に比べればなんてことないはずなのに、なんでこんなに身体がだるいんだろう、わたしもずいぶん体力が落ちたものだ、と思っていた矢先、妊娠していることが発覚した。異国の地で予想外のことが起きるというのは想像以上に不安なもので、当初の予定を大幅に早め、泣く泣く帰国便をとった翌日、今度は流産してしまった。

◆わたしは一体なんのためにニュージーランドへやってきたのか。そしてなんのために日本へ帰ってきたのか。このタイミングで起きたことの意味について、自問自答し続けた。「ニュージーランドどうだった?」「何しに行ってたの?」と訊かれても、うまく答えることができなかった。帰国して3か月が経ち、ようやくその意味がわかりつつある。結局は逃げずに向き合え、ということだったのだろう。相手に求めすぎても辛くなるだけ。どうしたらお互いがより気持ちよく過ごして行けるか、自分のことばかりでなく相手を思いやる姿勢が欠けていたことを反省した。

◆12月4日、3週間に及ぶ竹細工ワークショップキャラバンを終えて大分の家に戻ってきた。わたしたちは「プラスチックから竹へ」というコンセプトの元、『+竹(プラスチク)』という屋号で活動している。全国各地で放置竹林が問題になっている昨今、自分たちが竹製品を作るだけでなく、竹を利用する人が増えて欲しいという願いから、竹林に入って竹を伐り、それをひごにしてからカゴを編むところまでのワークショップも展開している。

◆今回は徳島、静岡、三重、和歌山など8か所で開催し、のべ100人以上が参加してくれた。自転車旅を通して手仕事やものづくりの面白さに目覚め、ひょんなことからものづくりをする立場、教える立場になっていることの不思議。つくづくありがたいことだなあと思う。そしてハードスケジュールの中、今回は大きな喧嘩もなく、無事に乗り切ることができた。

◆これからもぶつかりあいながらも、少しずつお互いを認め合い、尊重できるようになっていければいいなと思う。まだまだ試練は続く。(青木麻耶 大分)

『地平線通信』は精神の食べ物

■前略 江本様。ようやく、『風趣狩伝』を読了致しました。ありがとうございました。「遅れて来た地平線通信読者」である小生は、少なくとも、最後の二年分は読んでいるはずなのに、ごめんなさい、これほど素晴らしい内容だとは気づきませんでした。なぜだろうか? まず、本文が面白すぎて、フロントは読み飛ばしていたという側面はあると思います。次に、スポーツネタが多いので、その部分も読み飛ばしていたという事実もあると思います(私は芸能・スポーツにほとんど関心がありません)。

◆三番目に、横書きでは受け付けなかったごちそうが、縦書きになったとたんにするすると飲み込めたという事情もあるかと思います(横書きを縦書きに改めた丸山氏の慧眼には恐れ入るばかりです)。私は、フロント集も含めた地平線通信全体が、瀕死の現代文明が生き延びるための「精神の食べ物」だという気がしています。それにしても江本さん、お若いですね。西堀榮三郎さんから、「元気に長生きしたいと思うたら、一年に一度だけ、死ぬような何かをやってみるんや。マラソンでも断食でも。あとは何もせんでもええのや」と言われて100キロマラソンを始められたとか(P.11)。

◆また、2007、8年に四万十ドラゴンランに参加されて、「カヌーを操るのが気に入ってついには太平洋でサーフィンに挑戦したほどだ」(P.277)などなど。初めてお会いしたのは、2002年の100キロマラソンの直後でしたね。私はもうすぐ60歳になりますが、2年後に100キロ走る自信はとてもありません。貞兼綾子さんは、江本さんのことを「エモノトモシャ」(主婦の友社のもじり?)と呼ばれているそうですが、今後私は「スージー江本」と呼ばせていただきます(スージー=スーパーじいちゃんの略)。

◆体力だけでなく、知力の若さの秘密は、「必然の出会い」だろうと推察します。そのために「おや?と思った時にすぐ動くフットワーク、先方に失礼と思われない程度の積極性、そして多分おもしろい本や資料を発見する能力、その資料を読みこなすインプットの習慣がそうした出会いを引き寄せるような気がする」(P.65)、これは、座右の銘とさせていただきます。

◆さて、岡山駅に一昼夜停車した新幹線から「やっと動き出した」とお電話をいただいた時(注1)、父の葬儀がちょうど終わったところでした。前日通夜が始まると、参列者の携帯が一斉に鳴り始めました。避難勧告はマナーモードにしていても鳴るのだと知りました。葬儀の朝お坊様から電話があり、境内が池になって鯉が泳いでいる。水が引くまで車を出せないとのこと。

◆なんとか葬儀を済ませ焼き場に行くと、がけ崩れでひどいことになっており、ユンボが2台出動して駐車場に何とか1台車が通れるスペースを作っておりました。お骨を持って帰ろうとすると、今通って来たトンネルががけ崩れで不通とのこと。どうにかタクシーを手配し、旧道を通ってやっと式場にたどり着いたところでした。翌日の能海寛の講演会(島根県浜田市波佐の能海寛の故郷で開かれた)はとても楽しみにしておりましたが、行けそうにありませんと申し上げました。

◆しかし、父の死に際して最もショクだったのは、西日本土砂災害の最中に行われたということではなく、6時18分に亡くなった父の葬儀一切の段取りが、式場の担当の人に問われるままに、レストランのメニューを選ぶみたいにして、10時前には全て完了していたという事実です。奇しくも、地平線通信471号に丸山純氏が「淳子さんを送った怒涛の6日間顛末」の冒頭に書かれていたようなことです。そこからの反撃が素晴らしい。愛犬麦丸君も含め、地平線会議には、大切に悼まれ記憶される「豊かな死」があるように思います。

◆小生の初めての著作(?)詩集『あんぱん』に、第18回中四国詩人賞をいただけることになり、9月岡山市で授賞式がありました。受賞の言葉で、ネタバレをした上で、「なぜ詩を書くのか? 詩には死がある。従って生があるのだ」とエラソーに言いました。元ネタは、原真の『頂上の旗』(注2)です。「なぜ山に登るのか。答えは極めて簡単だ。山には死がある。従って生があるのだ」。これになぞらえて、こう言い換えることができるのではないでしょうか。「地平線会議には豊かな死がある。従って豊かな生があるのだ」と。(豊田和司 広島県山岳連盟 詩人)

注1:2018年7月8日、島根県浜田市で「能海寛生誕150周年記念フォーラム」が開催された際、豪雨で新幹線が止まり、基調講演を引き受けた江本は岡山駅で一晩を過ごした。広島の豊田さんは島根の会場まで出かける予定だった。
注2:医師、先鋭的な登山家、高所登山の独自の理論で知られた原真(はら・まこと 2009年73才で没)の代表作。悠々社刊。

1万円カンパ、ありがとうございました

■12月から郵送料が1通ごとに8円ほど値上げされます。1万円カンパはほんとうにありがたいのてす。1万円カンパは来年春まで続け全協力者氏名をあらためて掲載いたします。振込先は、みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸

森美南子 成川隆顕(江本さんをはじめとする地平線の皆さまに多摩川沿いの狛江から声援を送ります。途中からの読者ですが、『風趣狩伝』の末尾の全報告会リストその他の全記録に目を通して積み重ねの凄さに圧倒されます。個性豊かな行動者、書き手が多く、いろいろあってこその地平線会議。474号の通信で「さあ、もう少し頑張らねば」と気力をみせた江本さん。『より深い志』にわずかですが、カンパをお届けしました) 江川潮(近くに銀行がなく遅れました。すっかり冬になりましたね。寒さにお気をつけてください)


■吉川謙二のアラスカ特別レポート■
100メートル5秒の疾走! アラスカ・トナカイ牧場は、いま

江本様 先日は2晩に渡り、楽しいひと時を本当にありがとうございました。折角のロシア語授業も早退させてしまい、恐縮です。お約束した近況を書いてみました。プロジェクトの核心部は去年のトナカイレポート(地平線通信2017年3月号)をどうか参考にしてください。

◆    ◆    ◆   ◆

 去年からの更新点としては、この一年かなり多くのヘルパーが登場して、トナカイの編成、写真撮影の向上などいろいろな分野で前進があった。

――技術編:ドローン縦横無尽

何と言っても最近のドローンや360度カメラの日進月歩は、凄まじく恐ろしいものがある。私がシベリアで使っていた初代ドローンの頃はみんな珍しがって、学校で飛ばしたら校庭が子供達で埋まり、着陸地点がなくなるほどだった。コントロールも結構難しく、子供に当たらないかヒヤヒヤしたものだった。

 あれからたったの6年で、今使っている小型ドローンは、タイガの森もスイスイとトナカイを追っかけていく。ただ最近トナカイソリがスピードアップして来たので、ドローンが捕捉できなくなって来た。まあ、これは次世代ドローンまで待つとしよう。これと並行して最近目が離せないのが某360度カメラ(ただし日本製ではなく中国製)。これは伸ばした棒が写らず、好きな方角をあとで切り出せる。

 またスタビライゼーション(姿勢復元システム)がついてるので、ドタバタしているソリの上でもまるでドローンが並行して完全な等スピードで追っかけているように見える。トナカイソリではカメラを4.5mの竿の先につけて、先頭のトナカイの前からとってみるとなんと迫力があることか! こんな機材が昔あったら、人力ソリだのリヤカー、ヨットなど凄い迫力で撮れたのになーと思う今日この頃。

――人海戦術編:留守番役の5つの条件

 トナカイファームの運営は、それほど難しくないと思う。簡単に言えば、要は1日夏は2回えさと水、冬は1回えさをやるだけ、30分で終わる仕事である。まあ、牧草を食わしてやろうとか綺麗な水をやるとか、虫をおっパらったりしてたらすぐ1日がおわるが……。うちではトナカイのほか番犬と馬がいる。こっちの方がもっと世話がかかる。

 問題はここに電気と水道が無いこと(最近道ができた!)である。もし、キャンプなどしたことのないシティーボーイに留守番を任せたら、動物の世話の前に自分の世話ができなくなる。

ここで留守番を任せる条件として、以下の5つが必須條件となる。

1、火がつけられる(最近焚き火をしたことのない若者がいる)

2、水の管理と節水(外はいつも氷点下、できるだけ食器は拭くだけ)

3、薪とストーブの管理(失敗したと思ったが熱効率を考え触媒2次燃焼式の薪ストーブ=操作が複雑)

4、電気の管理(ソーラーパネル、バッテリー、インバーターの理解)

5、人に2週間以上会わない、話さなくても大丈夫(話し相手になる知的生物は犬だけ!)

 この5つの素質が必要で、それが日常生活において不可欠になるからだ。

――孤独と質素に耐える、素晴らしき“トナカイ世話人”たち

 新しい世話人が来ると最初の3日は私と一緒に基本講習となる。結局全体の留守番での仕事量は、トナカイの世話10%、犬の世話15%、馬の世話15%、外敵からの監視15%、自分の世話45%っていうところだろうか?! だからかなりのアウトドアー派の孤独と質素な生活に耐えられる人間が理想的だ。

 今まで20〜70歳までのロシア人、ドイツ人、スイス人、スェーデン人、アメリカ人、メキシコ人、日本人の人たちが牧場の留守番をしてくれた。みんなとてもいい人で、とても責任感があり、人生を楽しんでいる人たちだ。ステレオタイプな言い方をするのを好まないが、特に感動的だったロシア人とメキシコ人の話をしよう!

 ロシア人は27歳、ロシアでもっとも優秀なモスクワ大学で永久凍土を研究している博士課程の学生、彼のフィールドは極東チュコトカ半島だ。今まで2回留守番を頼んだが、とにかく孤独に耐え、ジャガイモがあれば文句を言わない。雪で体を洗い、飄々と暮らしていた。メキシコ人も27歳、メキシコで最も優秀なメキシコ国立大学の哲学科の学生だ。大量の哲学書を持ち込み、ただでさえ暗いキャビンなのに眠そうにもならず、本を読んでは、細かい字で小さなメモ帳にびっしり何か書いていた。彼もまた、人に会わず、話さず20日間暮らし抜いた。2人に共通することは、何にでも興味を持つとか、好奇心なんて当たり前だけど、自分からは酒をのまないけれど、勧めたら断らないところだと思った。しかも、勧めたら、いくらでも飲むのでウオッカなんて私と一緒なら何本も飲んだ夜もあった。

――課題は、持久力

 そんなわけ初代チームが大人の体格となり、力がついたので、単独曳きのフォーメーションは完成できた。今冬はタンデム(2頭曳き)の完成が目標だ。よくスカンジナビアでは1頭曳きを見ると思うが、シベリアでは2頭、3頭、時には4頭も使う。去年トナカイが100m9秒台になってからソリのコントロールができないとか、カーブが曲がりきれないでソリだけ森に突っ込むといった問題が発生した。

 その後ソリはシベリアの伝統的ソリからノルウェー製のグラスファイバーの犬ぞりソリに変えたらコントロールしやすくなった。トレールもこの夏に木を切って、コーナーを緩くして(rを大きくして)、高速でも曲がり切れるよう改良した。ランナーが木から高密度ポリエチレンに変わったのとソリ重量が激減したので今は、100m5秒台で走れる。ただ、乗り損なったり、紐が足に絡まったまま走り出したり、高速で引きずられることも度々起きる。この辺は犬ぞりでは味わえない醍醐味だろう。ただもともとトナカイのような草食動物は敵から逃げるように生まれて来た動物なので、短距離は早いが、すぐ疲れる。今後最大の課題は持久力をどうやって手に入れるかである。(吉川謙二 アラスカ)

「1000kmのヒマラヤ隊 ――コテンパン帰還報告」

■お久しぶりです。早稲田大学探検部の井上です。昨年のカムチャツカでの遠征に続き、今年はネパール・ヒマラヤへと行ってきました。以前地平線通信にも書かせて頂きましたが、現役学生9名にOB1名、期間4ヶ月、距離1000kmの一大計画です。「ヒマラヤよ、俺達に学ばせてみやがれ!」とばかりに、夢と無謀さを詰め込んだような僕達の計画。応援してくれる以上に、ご心配なさっていた方も多かったのかもしれません。12月9日現在、ひとまずは、しっかりと「ヒマラヤにコテンパンにされた」上で全員無事に帰還したことをお知らせします。

◆日本を出たのは9月なので、予定より1ヶ月早い解散です。当初は[1]カトマンズから極西ネパールまで1000kmのキャラバン[2]ネパール最北の未踏峰にアタック[3]道中にある氷河の予察調査、を目標としていました。しかし「三兎追う者は一兎も得ず」ということでしょうか、どれも満足の行く結果は出せていません。土砂崩れの影響で出発地点がジョムソンに変更。高所障害、高熱、下痢、メンバーの衝突など……道中もトラブル続きで、泣く泣く氷河は諦めなんとか最終目的地のシミコット(極西ネパール最大の街)に到着したのが11月。それまでに、慢性的な体調不良でカトマンズへ戻った隊員が一人。また、頼りにしていたOBの庄司氏はお仕事等の都合あって離隊。

◆残された8人で、シミコットから未踏峰へ向け出発。往復2週間の行程、現地の馬方を雇い、食料を買い揃え、装備をダッフルバッグにつめました。結果は、ベースキャンプ予定地まであと一日の地点で撤退。例年よりも早い積雪で、ネパール人スタッフやカッツァル(ラバ)が限界でした。しかし、原因はそれだけではありません。「自分たちがどれほど経験不足だったか」「どれだけ人に頼っていたか、自分で動かなかったか」。撤退を決めた夜、隊員たちで焚き火を囲み、飛雪に隠れる山々を見つめながら話し合いました。

◆悔しい結果です。でも、シミコットへと戻る道、全員が曇りのない顔をしていました。生意気なことを言いますが、一瞬だけ「若さとプライド」から解放されたような、そんな気分だったのです。目標を諦めた訳ではありません。結果を受け止め、自分の血と肉とすること、それを決意したのだと思います。

◆さて、来年も行かなければな、と、密かに思っています。どうかもう少しだけ、見守っていてください!(早稲田大学探検部 1000kmのヒマラヤ隊 副隊長 井上一星

西ネパール…夢の彷徨 バラサーブレイクへの道

■夢のような日々の1か月が終わった。 今回、いつもと違うような感覚というのだろうか、なんだろな、夢の中をさ迷い、漂ってるようだった。もともと今回は、バラサーブが夢に出てきたのが始まりでそれを元にルートを考えた。バラサーブ、ネパール語で「隊長」の意味だが、私にとっては西ネパールの第一人者、故・大西保氏のことを指す。夢の中で大西さんは、私の店(美容院です)で地図を見て笑顔で話をしていた。声は聞こえず、出逢った頃の優しい笑顔と青い目。地図は2010年にバラサーブが作った西ネパールのもので、北西のフムラの国境ライン、ギリギリを指差していた。

◆その中でビビっときた無名の湖、地図見てここだと思った。そこを「バラサーブレイク」と勝手に名付ける。そこに何があるのか? 全くわからないが、無性に行きたくなった。バラサーブが以前に行っていた地域だ。「フムラを見ずして死ねるか!」(『登山時報』2010年5月No.423)の記事を書いていた頃、女性だけで未踏峰に登りに行こうという計画があった。その中でバラサーブが薦めてきた場所で私はドルポとムグに行ったあとだったから、今度は更に西へ、フムラだと思い候補にあげたが計画は流れた。あれから8年、フムラに行くタイミングが夢という形で現れた今、思いに火がついた。バラサーブ達が見てきたフムラを少しでも自分の足で歩みたい。

◆今回の目的地、やりたいこと、行きたいルートやポイントがいくつかあった。まずは、ネパール側からのカイラスの遠望を狙って北上し、2つの国境と、5500mの丘を登る。次に西へと移動し、夢に出てきたバラサーブレイクを探す。そして昔は7000mあったと思われていたナラカンカール峰を周遊してナムナニ峰(7694m)の展望を探す。後半はフムラ内部を横断し、プル(チベット人がお茶を飲む為の茶器)を生産していたハリジェ村へ、はたして今も生産しているのだろうか?!

◆最後は国境チマラ峠まで足を伸ばし極西部の山々を遠望する。これらを地図で確認しながら自分の感覚で歩みたい。地図は、数年前から少しずつカトマンズの地図屋さんに行き入手してきたが、最近はインターネットで無料でタウンロードできる。ネパール全土のGPS地図もあるという。地図を買いに行くところからワクワクしてたのに、なんだか拍子抜けだ。だから、従来からやってきた紙の地図で何度もルートを考えて、現場ではGPSでポイントを計り、地図におとしこんでいった。

◆生前、バラサーブが良く言っていた、「想像しろ、地図見てどこまで想像出来るか」だ。ルートだけではない、私は想像は、創造であり、自分で様々な事を造りあげるんだと思っていた。それはヘアーカットと同じような感覚だった(職業は美容師)。現場でどこまで作り上げれるか?! 私はこのライブ感が好きだ。

◆ガイドに私のやりたいことを伝える。「大西バラサーブの夢を見たんだ、そこに行きたい」、私はどんな反応をするだろう、なんて言うだろう? バカにされるかなぁとも思ったが、ガイドは、話を聞いてくれた。彼は、バラサーブと10回の遠征を重ねてきた。だから思い出話を良くしてくれた。スマホには当時の写真や動画もあり、11年前の私の映像も持ってきてくれて、とても懐かしく、昨日のように記憶が蘇る。歩いて6日目、彼が「昨日、バラサーブの夢を見たよ」と。「え?」その日から、私は彼が、バサラーブに見えてきた。

◆カイラスを展望する場所は、数か所考えていて、まずは2か所の国境と丘に登る。シミコットから歩いて8日目、国境を目指してBCを決めた。だだっぴろい高地、そこは約4900m。ここを拠点として、カイラスの展望を探そうと思っていた。地図を見て決めていたが、想像以上に山が大きく丘に登るには東側からだと長いと感じた。丘と行っても5000mは超えていて、名もなき山である。その丘は、バラサーブの記録から情報を得た場所でカイラスの展望は抜群だった。最初チラリと見えた時、ドキっとした。やっぱり存在感が別格だ。まだバラサーブと出会う前の15年前、慧海ルートを一人で辿り始めた最初の地でもある。こうしてまだヒマラヤに通い歩き続けている自分がいるのは私にとって感無量だ!

◆次に今回の一番の目的地バラサーブレイク。それはフムラ地域の北西にあたり、チベット国境ライン、ナラカンカール峰の近くの名もなき湖である。私にとっては夢に出てきた自分だけの聖地。地図でだいたいのBCは決めていたが行きながら考えようと思っていた。ガイドはそれでOKと出たが、寒すぎるので馬では無理だという。4280mの地点で一度雪が降り積もり、その後5000mの峠も超えてくれたから、ぎりぎりいけるかと思っていたがダメだった。しかし私の中ではある程度は想定内だったので、ガイドに二人でテント担いで行こうと提案する。

◆小さめの湖、5700mあたりをBCとし、ルートは現場で最終決める。BCまで思った以上に時間がかかった。できたらその日に、ナムナニ峰の展望探しに行こうと思っていたが、私の足では時間的に厳しい、更に天気が悪くすでにガスっていた。考えた末、ガイドだけ偵察に行く。地図でしっかりルートを説明し私が思うありったけの情報を伝えて、彼は地図もGPSも持たないで防寒だけしっかりして出発した。最初はカメラの望遠で追っていたが次第にガスの中に消えて行った。

◆BCで一人待つ時間は長く感じる。風が強くなってきた。テントの外を覗くと吹雪いている。私の夢の地探しに彼を付き合わせてしまった。待つのは心配だ。3時間後、望遠レンズ覗くと見えた。ほっとする。夕方ギリギリ帰ってきた。「湖あったよ、でも、天気が悪くて風も強くて、真っ白だ」と、偵察は完了していた。そして次の日、天気抜群! 偵察のおかげで狙っていた目的地全てに辿り着いた。

◆ナムナニの大展望には思っていた以上に近くて驚き、バラサーブレイクは、なんとも言えない気分になる。夢に出てきた場所、ここに何の意味があるのか、ないのか?! バラサーブにここまで来れるか試されたのか、と今は思ったりもする。ただ、今振り返ると、夢の中を漂っていたような感覚が残っていて、現実に歩いたのかな? 夢のようだった。すると、帰国後ガイトのメールからも夢の中で歩いたね、とメールがきた。あれ、同じ事思っている。やっぱり夢だったのか?

◆次に、フムラ内部を横断して、ハリジェ村へ。私は2つのルートを考えていた。最初、馬方が行った事があると言ってたので安心していたが、現場に来て実は行った事がないといきなり言う。なんだそれは!! 仕事欲しさの嘘だったのか?!と思ったが、天気が良かったらあの山を超えるルートに行くと言い切る。それは、バラサーブが行ったルートだった。当日は快晴、天気が味方してくれた。雪は少し見えるが大丈夫な範囲だろうと思った。そこは想像以上の大展望、やっぱりバラサーブルートは、面白いとまた実感する。

◆その山を越えたら1300mのガレ場下山、それは長く、ガイドとはぐれて私もバテてしまい、みんな疲れて機嫌が悪い。2週間ぶりの人里は、無事で超えた安心感と、旅が終わりに近づいている切ない気持ちが交差して複雑な気分だった。そして、この村での目的でもある、「プル」の生産を探す。チベット人がお茶を飲みツァンパをこねて食べる木の器。リミの谷、3つの村で生産から販売までの流通が成り立っていたが、5年前に終わったと聞いてとても残念な気持ちになる。やっぱり来るのが遅かったなぁ。

◆最後の目的地、国境でもあるチマラ峠は、日数が計画段階でもギリギリだった。でも、ここまで来て諦めるのはもったいないと考えなおして予備日をフルで使い行程を練り直す。一日の行程が長くなるけど行けると思った。でもまた馬が寒いから行けないと言われたので、ガイドとテントを担いて行く事にした。GPSで確認しながら行くが、ガイドが歩くのが速すぎて追いつかず、間違えてると思っても声は届かない。どうしょうか、とりあえず追いつくまで歩き続けて確認する。

◆そしてやっぱり間違えていた。でも、その間違えたおかげで他の知りたかった道が分かり一人感動する。しかし今日は時間切れ、とりあえず時間いっぱい歩きテントを張る。夜になり、地図で確認したらまた間違えた事に気づく。やってしまった、一本谷がずれていた。もう時間がないから明日の朝ダイレクトに登り、出来たら縦走して国境ラインまで行こうと決めて寝る。

◆しかし、その読みは甘かった、結構な雪があり、先に登ったガイドは危ないと判断して降りてきた。だからまたやり直しとなる。時間は限られている、これで間違えたもう無理だなぁと思っていたら、遠くにケルンが見えた。あ、きっと大丈夫だ! ぐ〜んと離れているガイドはもう見えない、GPSで確認したかったけど、また離れてしまうから確認せずにそのまま進んだ。登るほど風が強くなる。何度も間違えて見つけた峠は、まるでピークに登ったような感覚になり、とても嬉しかった。見たかった極西部の山々は想像と違っていた。そして、ここから更にもう一つの峠に出るルートに繋げたいと思った。また次に行く楽しみに残して最終目的地を終えた。

◆地図で何通りも考えても、現場では想像と違っている。まだまだ私の理解不足もあるが、地図にはないルートがいくつもあり、それは、古来の知恵が隠されてるようにいつも感じる。何よりもヒマラヤの民は地図を見ない。持たない。地図に意味があるのか? いらないんじゃないか?と思わせるほど山と一体化して歩いてる。地図を必死に見てる自分があほらしくなる。そんな私は、その隠されたかのような生の道を見るたびに、いつの時代か、タイムマシーンに乗ったようになり、妄想が先走る。

◆じ〜と山を見ていたらうっすら道のようなものが見えてくる。それを辿っていくと、山には小さなケルンがあったり、断崖絶壁のような所に瞑想地があったりする。また、谷の合間に結界のようにタルチョがはためいている場所もある。ここで何が行われていたのだろうか?! 祈りの世界。そして、峠に出るルートでは、そこだけ雪が付いていない。まわりには雪が沢山あるのに、これはどういう意味だろう、雪がつきにくいから峠越えルートになったのか。

◆また、1日の中で最後まで太陽の当たる場所に村やお寺、瞑想地がある。以前、Dolpoでもあった。今回は、ちょうど夕陽が山に落ちる頃、テントの外を覗いてみたら、絶妙なラインに最後の光が差し込み、瞑想地を照らしていた。私には、祈りと共に輝いているように見えた。このような生活の一部を垣間見るのが好きで、その土地で生きてく様、叡智を感じ、今日もあそこでは同じ光が、毎日差し込んでると想像すると不思議でたまらない。同じ時代を生きてるけど、別の時間が流れている。そんな光景を見ると、どのように生きるか?!を考えずにはいられない。

◆帰国して4日目、リウマチの病院に行った。普段は毎月行っていて2週間に一度自己注射をしている。生物学的療法で免疫抑制剤となる。今回の旅は約50日間。その間、ヒマラヤ山中では注射を持っていけないから1か月もつ点滴を打って行く。今、寛解中だが出発前の9月は、膝が毎週のように左右順番に腫れて痛かった。更に、右膝にはコブのような突起がいきなり出てきて、膝を付く事が出来ないほど痛かった、それは担当医も何か分からずだったが、またヒマラヤの魔法にかかったように現地では知らぬ間にコブは消えて、両膝の腫れも痛みも全く出なくて計画通りすべてを歩ききった。担当医からは「あなたは野生の動物だね、あ、褒め言葉だよ、治癒力だ」って、言われた。それはとても嬉しく、私はこれをヒマラヤ療法と勝手に呼んでる。

◆帰国後、次の目標は決まった。一番の夢はやはりドルポ越冬。やっぱり行きたい。何年も前から思っている。ただいま貯金ゼロだが、貯まるまで待ってる時間はない、時代は激流のように流れてる、消え行く時代を少しでも自分の目で見たい、感じたい。やるしかない。行くしかないのだ。(稲葉香 2017年12月「チベットのはしっこで縁を叫ぶ」報告者)

屋久島に来てくれた南三陸からの大切なお客

■先週まで半袖で寝ていたのに、急にぐっと冷え込んできた屋久島です。それでも沿道には、冬を代表する黄色いツワブキの花、ハイビスカス、巨大なポインセチアの真っ赤な花などが元気に咲き誇っていて、やっぱり南国なんだなあと感じます。そんな南の島に、10月末、はるばる東北からお客様が来られました。佐藤徳郎さんご夫婦です。

◆佐藤さんは、宮城県南三陸町志津川中瀬町で昨年まで区長をされていました。東日本大震災から7年、地域の方を見守り続け、ご自身は一年前に高台に新居を建てられました。再開したほうれん草農家の仕事も軌道に乗ってお忙しい中、時間を作ってご夫婦で遊びに来てくださいました。地平線通信の発送や報告会の受付をしてくれている伊藤里香さん達ボランティア仲間も一緒に、秋晴れの3泊4日を満喫しました。

◆屋久島に着いてすぐに小学校で6年生にお話をしていただき、翌日からは森歩き、滝めぐり、海で夕日、島料理、屋久杉の資料館見学など、楽しめるだけ楽しみました。私がたくさんお世話になっている方たちにも、会っていただけました。タンカン農家さんには畑を見学させてもらい、大工さんのお家では、夜に仲間を集めて佐藤さんのお話を聞き、そのあと地元の方も交えてあたたかい歓迎会が開かれました。

◆佐藤さんは「やっと来れた〜。」と笑っていました。私は、「来て欲しかったけれど、まさか本当に!?」というのが本音です。そして、はるばる来てもらえたことが、本当に本当に嬉しかったです。「朝花節」という奄美大島の島唄があります。集まり事のはじめに唄われるもので、出会いや再開の嬉しさが唄われています。歌詞は「このわるい道を、はるばる歩いて来てくださったあなたこそ、真心がある」とか「家に迎え入れてくださったあなたこそ、真心がある」など、訳し方はいくつかあります。人と人が会う、会えるということは、とても大変なことで、とてもとても幸せなことなんだと、改めて思った秋でした。(屋久島 新垣亜美)

日本もインドネシアも好き
日本への一時帰国を終えて

■「ついにこの飛行機に乗っかれば、またジャカルタでの生活が始まる」。12月8日17時半成田空港。実感が湧き上がってくるとともに、じっとりとした冷たい汗を背中に感じました。あ、わたし、インドネシアに戻りたくないんだな。はっきりと自覚したのは、出発ゲートをくぐり、別れた両親を振り返ったときのことです。

◆その3週間前、二か月滞在したジャカルタからは半ば逃げ帰るような気持ちで、はじめての一時帰国をしました。ひんやりした冬の空気と、何も変わっていない自宅の様子に心から安堵し、自分でも驚くほどあっという間に、日本のもとの生活に馴染みました。そもそもブランクと呼べるほどの期間ではなかったかもしれませんが、何よりも、こここそ自分が居る自然な場所だというしっくりした感覚がありました。

◆じつは先々月の地平線通信でもスペースを割いていただき、いま留学奨学生としてボルネオの村へ再び向かうことへの不安を吐露しました。結局その悩みをずっと膨らませ続けたわたしは、この帰国の頃には、大げさに聞こえるかもしれませんがかなり真剣に、自分のために奨学金を辞退しようかというところまで考えていました。そう考えたのは、自身の建前とのギャップを抱えながら村で暮らす後ろめたさだけでなく、わたしが支援を得ることになった国家規模の奨学制度が、奨学生に対し、将来国を担う若者として画一的な人物像を強いているように感じる点や、同年代の成員たちのどこか一様な雰囲気にずっと疑問を抱きながら、その一人として留学を続けていくことが感覚的に苦しいということがありました。同時にジャカルタの生活では、都市という環境にうまく適応できず、孤独感から半ば引きこもりのホームシックになっていました。

◆そんな状態から帰国した日本での滞在を満喫する中で、いつの間にかわたしにとって「ジャカルタ=戻るのが怖い場所」になってしまったようで、これまではいつでも楽しみで仕方なかったインドネシア行も、今回ばかりはほとんど逆の気持ちで飛行機に乗り込むことになってしまいました。くわえて変化を感じたのは両親の様子で、毎回恥ずかしいのでやめてくれというくらい、熱心にわたしを追いかけて手を振りながら見送ってくれる二人が、それこそ恒例ではあったけれど、一人娘のわたしが海外に出かけていくことにもそこそこ慣れてきた様子が垣間見えました。これまでより晴れ晴れと送り出してくれるようになった気がします。変な話ですが、これまで本気で引き止めてくれたのは両親くらいだったのになあと思ってしまう自分がいました。結局ジャカルタに到着するまでの8時間の飛行機の中では、映画を3本も立て続けに鑑賞することで精一杯でした。

◆しかしいざジャカルタへ来てみると、恐れていたよりはずっと大丈夫そうなかんじです。案外前向きな気持ちで、いちど苦手になった屋台の料理なんかも再び素直に楽しんでいます。なんだかんだやっぱりインドネシアは好きみたいだということも確かめられました。あの独特なタバコくさくて生臭いような、むわんとしたにおいを嗅ぐと反射的にわたしの嗅覚は喜んでしまうし、しょっちゅう停電したり水道水が臭かったり子ゴキブリがちょろっと姿を現しても許せて共々愛せるのは、ここだからだろうなと思っています。だけどやっぱりこれまでのように、好きなだけではいかないというか、今回の飛行機で確かに抱いた複雑な感情は忘れないだろうし、これからも付いてやってくるだろうなということも予感しています。

◆結局奨学金はどうしたかというと、「ロング・スレ村でビジネスを試みるという当初の計画は改めたい」という趣旨のことを採用取り消し覚悟で職員へ相談したところ、案外あっさりと受け入れられてしまいました。拍子抜けです。今後は「村人の生活と籐手工芸の生産現場を学ぶ」という方針のもと、ひとまずは後ろめたい気持ちなく、これまでのように堂々と村へ向かうことができる用意がととのいました。今月下旬か年明けにはロング・スレ村へ向かうことができそうです。このあとはもうすこし強い気持ちで、ふたたび頑張ってみようとおもいます。

◆わたしがこの頃思うことは、このご時世にあえて社会に生産性のない留学をしてみたいということです。周りを気にして「報告できる成果を用意しなくちゃ」と焦るたびに、自分にそう言い聞かせています。強いて言うなれば、村人の目を無理のないスピードで、じっくり養うことに集中してみたいなと考えています。そして、毎度辛気くさい報告になってしまい恐縮ですが、次回はもう少し明るい報告ができたらいいなあと思っています。 みなさん良いお年をお迎えください!(再びジャカルタから 下川知恵

改正入管法について思うこと

■1970年冬、私はバックパックの旅に出た。当時のその頃の背景は、1ドル360円の固定相場で1人1000ドルまでというドルの持ち出し制限があった。初任給は2〜4万円位。格安航空券というものは特別なものを除いて無かった。出発3か月後位だったと思う。円が変動相場制に移行し、1ドルが一気に240円位になり、精神的に大打撃を受けたことは悲しい思い出だ。個人は国の事情の影響を嫌でも受けるのですな。

◆そして72年、旅を続ける資金をどうしようかという悩みを抱えてドイツに居た。当時、ドイツは深刻な人手不足で、外国、主にトルコから大量の労働力を輸入していた。しかし日本人がドイツ国内で労働ビザを取ることは、不可能だった。ところが、神様の依怙贔屓的な幸運が幾つも重なり、ドイツ国内に居て労働ビザが取れた。

◆ドイツで1年間働くことになり、縁のあった就業先はベッド数が100床程の個人病院。ドイツ全体で病院の人出不足は深刻だった。国は3か月くらいの訓練期間で取れる看護婦(当時の呼称を使います)助手という職を新設したり、高校卒業後に入学できる看護学校を、高校2年終了で入学できるように制度変更したり(誕生月によっては20歳で看護婦資格が取れる)、韓国から大量の看護婦を受け入れたり。これは韓国の外貨獲得の為の国策事業でもあると聞いていた。余談で、看護婦助手という仕事は短期間で資格が取れ、給料も良く、看護婦のような重責もなく、とても良い仕事だと看護婦も看護婦助手本人達も認めていた。

◆さて、労働ビザを持って働くとは。ドイツ人と同一労働、同一賃金、その他権利義務も同一になるということ。因みにその時の月給は日本で同様の仕事をした場合のおそらく5倍以上だったと思う。何の資格もなくドイツ語のわからない私の仕事は何かというと(この当時の医療従事者の英語力はとても低かったので、意志の疎通にはお互いに努力しました)、看護婦と看護婦助手のお手伝いといったところ。具体的には、食事の配膳やシーツの取り換えを一緒にやるとか、患者の要望に応える(窓を開けてくれとか、水をくれとかいった事)とか。外科病院なので、手術前後を除くと、要望は多くなく、また、患者の自立心も強い。はっきり言って楽な仕事でした。

◆そんな中、私自身が盲腸炎で入院することになった。期間は2週間。通常より少し長めなのは、一人暮らしだから退院したら大変でしょうという温情から。手術と入院費用は全て健康保険で賄われ、帰りのタクシー代まで健保持ち。車の無い人には出る。ここで重要なのは、病欠は有給休暇とは別枠ということ。病気で有休は使わない。病欠は健保が補償し、有休付与は雇用者の義務ということ。でどうなったかというと、1か月のうち2週間病欠、あとの2週間でその月の土日の日数が休日となるので(私の場合、土日固定公休では無い為)、一体何日出勤したのか。シフトを作っている看護婦リーダーも解せない顔をしていたが、規則通りだとそうなる。

◆職場は楽しかったし、楽な仕事だし、無料の朝食付き、格安の昼食(ドイツでは昼食がメイン)が食べられるし、出勤することは全然いやではなかったんだけど……。それから有給休暇は私の場合、15日だったか20日だったか、記憶がはっきりしない。つまり、2週間(または3週間)。職種によって日数が決まっていて、私のような職種だと一番少ない。ストレスの大きい職種は多くなる。今はもっともっと多いはず。もちろんまとめて完全消化します。最近は2〜3週間ずつに分けて取る人もいるみたいです。

◆そこで、改正入管法のことです。内容わかりません(わかっている人がいるのかも? ですが)。労働ビザを持って日本で働く外国人労働者に、日本人と同一労働、同一賃金、その他の権利義務を補償できるんでしょうか? それより先に、日本人が有給休暇を病欠としてではなく、完全に消化しなくてはと言うのもありますが。日本に来る外国人労働者は幸せなのか? 将来、第二の徴用工問題にならないか? などなどを、私はドイツでの経験から、考え込んでしまうのです。(岡朝子 フリープランナー)

日本で最も火星に近い男・村上祐資さんが、国内初の模擬火星実験を始めます

 2016年6月に地平線報告会に登壇した「極地建築家」の村上祐資さん(地平線通信447号参照)。その後、アメリカ・ユタ州とカナダ・デボン島での計約160日にわたる模擬火星実験に参加し、さらに今年はアジア人のみのクルーを集め、隊長としてユタ州で実験を続けてきました。

 人類は2030年代にも有人火星探査を始めるといわれるなか、火星を想定した実験を地上で行うことで、様々な課題を洗い出そうとしているのです。

 こうした実験に参加してきた村上さんは、来年2月から日本での模擬実験を始めることにしました。火星を想定した模擬実験が日本で行われるのは初めてのことです。

 舞台は退役した南極観測船の初代「しらせ」。千葉県船橋市に係留されているこの船を「火星へ向かう宇宙船」と想定し、2週間にわたる実験「シラセ・エクスペディション」を行います。船内に宇宙船を想定した部屋を用意し、その中で6〜7名の火星へ向かうクルー(12月下旬に発表)が、さまざまなミッションをこなしながら過ごします。

 いま世界各地で模擬火星実験が行われていますが、シラセ・エクスペディションの特徴は、同じ船の中に地球側の管制室も作り、お互いのコミュニケーションにも注目している点です。地球と火星の間は、少なくとも往復6分の通信の遅れが発生します。今回の実験でも意図的に往復6分の通信の遅れを再現し、そのなかでどのように意思疎通を図るかを試します。現在、「模擬宇宙服」の制作など実験開始に向けた準備を進めています。

 ただ今回2019年は予備実験。2020年に世界各地から実験参加者を募集し2021年、22年にかけ本格的な実験を4回行う予定です。

 来年はアポロ11号が月面に着陸してから50年を迎えます。人類はいま、再び月やその先の火星を目指そうとしています。

 私もあまり考えたことがなかったのですが、月と火星はまったく別物です。ニール・アームストロング船長らは1969年7月16日に地球を離れ、38万キロ離れた月に足跡をつけたのは5日後の21日。2時間ほど月面を歩き、24日には地球に帰ってきました。往復で9日間の旅です。

 ところが火星は最も近づくタイミングでも約5500万キロ離れています。往復するには最低3年の時間がかかるといわれます。現在、一度に最も長く宇宙に滞在した宇宙飛行士は437日。現在の国際宇宙ステーションの「長期滞在」は長くてもおよそ半年で帰還するのが普通です。

 仮に、物理的に火星まで往復できる船と基地が作れたとしても、果たして人間がそれほど長い期間、閉ざされた環境で過ごすことができるのか。村上さんは、南極観測隊越冬隊の経験などから、難しいだろうとみています。

 3年という時間は、もはや「滞在」ではなく「暮らし」の時間です。宇宙が滞在から暮らしへシフトするには何が必要なのか、そのヒントを「しらせ」で見つけたいというのが願いです。

 ただ、この実験は宇宙のためだけに行うものではありません。人間が限られた仲間とともに暮らしていくことを考えることは、何も宇宙に限った話ではないからです。災害で自宅を失った人たち、あるいは辞めることなどできないと思いこむ会社員、いじめられても学校に通い続ける中高生も、壁のない閉鎖環境に生きているのかもしれません。そもそも、いまだ人間はこの星の外に暮らしの場を持っていません。この実験は私たちがこれからも限られた仲間とともにどう生きていくべきかを考える、だれにでも関わりのある取り組みだと思います。

 村上さんはこうした計画を進めるために今年10月、特定非営利活動法人フィールドアシスタントを設立しました。今後の活動は、来年5月から年2回の発行を予定するタブロイド紙「native」やそのウェブ版でお伝えする予定です。

 また現在、クラウドファンディングサイト

「A-port」(https://a-port.asahi.com/projects/shirase/)で実験の費用を募集しています。実験の詳細も記していますので、ぜひご覧いただければと思います。(今井尚)


先月号の発送請負人

■地平線通信475号は11月7日印刷、封入作業をし、8日郵便局に渡しました。今号は「40年祭」を特集したのでページ数はなんと28ページの大部になりました。レイアウト一手引き受けしてもらっている森井祐介さんに特別苦労してもらったほか、車谷建太君が早くから印刷に入ってくれ、本当に助かりました。地平線通信の制作はまさに手作りの家内工業。これだけの枚数を印刷するのはほんとうに大変でありました。作業のあと、「40年祭」のスタッフ打ち上げを兼ねたご苦労さま会をいつもとは違う四谷駅近くの「しんみち通り」にあるアジア家庭料理の店で。以下の18人の方々が参加しました(最後の数人は打ち上げのみ参加)。皆さん、ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 伊藤里香 高世泉 長野亮之介 白根全 久島弘 杉山貴章 前田庄司 武田力 加藤千晶 落合大祐 光菅修 江本嘉伸 丸山純 埜口保男 高世仁


今月の窓

惠谷治氏とケチュア語のコーラン

■某K通信社メキシコ支局長「船戸先生、実はチェ・ゲバラが処刑されたあと、両手首が切断され最終的にキューバに戻されたことはご存知でしたか?」、船戸氏「おおおぉ、そりゃ面白そうだな。惠谷、それ取材して本にしろや」、惠谷氏「おぉ、押忍っ!」Z「あああぁ、そっ、そのネタは私がずっと追いかけてて……もごもご…」、みたいな会話があったのは、グレートジャーニー本番中の96年初頭のこと。団塊の世代による熱い時代が過ぎ去って以降、ファッションとしてチェ・ゲバラが再びよみがえる前の空白期間の出来事だった。

◆それまで惠谷氏とは地平線年報制作などで大変お世話になっていたが、現場に同行したことは皆無である。ドクトル関野氏のGJ前半最大の難所、パナマ地峡踏破の裏方業務を惠谷氏からいきなり振られ、パナマ・コロンビア両サイドからの偵察と仕込みに取り組むことになったのが最初だった。現場での恵谷氏はといえば、深夜でもレイバンのサングラスをかけたまま新宿ゴールデン街を闊歩するあのスタイルは変わらない。ペルー海岸線を北上する関野氏の自転車行に同行したあと、早大探検部先輩の船戸与一巨匠の待つメキシコへ移動し、キューバ取材に取り掛かった。

◆冒頭のシーンはメキシコで待ち合わせた際のことだが、阿吽の呼吸で役割分担しながら猛烈な勢いで取材対象に肉薄するご両人の姿勢が凄すぎて、現場で足がすくむ思いが続いたことは言うまでもない。超裏技を駆使して仕込んだカストロ・インタビューが実現しかけた際、写真撮影担当を仰せつかった私はほぼ完全にテンパってしまった。結果的にはミッテラン仏大統領急逝によるドタキャンで幻のインタビューとなったが、あの緊迫した数日間は生涯忘れられない経験である。

◆探検部コンビの体育会系後ろ姿からうっすらと見えてきたものは、「事実(=客観)と意見(=主観)ははっきり峻別せよ」という透徹したテーゼだ。惠谷氏いわく「自分は客観的に正しい」というのは概念矛盾で破綻しているという。船戸氏も同様に「説得力のある意見は存在するが、正しい意見はない」と断言されていた。事実とするには誰もが認める証拠が前提であり、意見が説得力を持つためには根拠や理由が不可欠となる。取材相手に抽象的な質問をするのは無意味、というのも共通していた。船戸氏の描く壮大な冒険小説にも、惠谷氏の追う緻密なノンフィクションにも、その根底には確たる土台が築かれていたのを発見し、目からうろこがぼろぼろと落ちる思いがしてきた。

◆以降、惠谷氏からの依頼で、ラテンアメリカ行く先々でゲバラ関連の資料収集と撮影をこなすこととなった。97年6月29日、ボリビアでゲバラ部隊コマンドの埋葬場所が確認され、7柱の遺骨が発掘された。同年7月には30年ぶりに第2の祖国キューバに無言の帰国を果たし、10月に国葬が行われる運びとなった。もちろん惠谷氏から速攻で連絡が入り、取材許可の申請から足や宿の確保その他を仕込み現地取材に同行。その後、多忙な惠谷氏に代わって、ヒマな私はボリビアの処刑地や埋葬地の取材を行った。

◆帰国後に現地で入手した資料と写真を届けたまま忘れていたある日、惠谷氏の新著「1967年10月8日チェ・ゲバラ 死の残照」(毎日新聞社刊)を受領。実際にボリビア現地取材はしていないにも拘わらず、まるで現場を丁寧に歩き回ってきたかのごとき描写で、その立体感溢れる筆の運びには心底驚かされるものがあった。軍事のプロとして地形方位その他の基礎情報の把握から、戦略戦術の立案と展開の分析、敗退原因の解明に至るまで、あらゆる細部から立ち上る微粒子を捉える技は、やはり探検的な視線を感じさせられる。あとがきにもあるように、惠谷氏はチェの党派性よりもフィールドでの行動に関心があり、それは戦闘を除けば探検部の活動に似ているからだったという。

◆ご病気のことは耳にしていたが、5月連休の三原山火孔探査での元気なご様子を聞いていたので、訃報に触れたときはただ愕然とするだけだった。せいぜい、遺影にキューバ産の葉巻を手向けることぐらいしか出来なかったが、残された膨大な書籍や資料を各自必要とするものが回収せよとの岡村氏からの指令もあり、南半球に旅立つ前日に無理を言って書庫を開けていただいた。帰国後には、野地氏経由で追加の書籍が段ボール1箱。さらには、お貸ししたことすら忘れていたポジや紙焼き写真を、返却する気持ちがあったことお受け取りくださいとの添え書きとともに奥さまからご送付いただいた。

◆見れば日本語はもとより、英語西語仏語に至るまで、これぞと思しき箇所には赤線やマーカーが引かれ、徹底した資料の読み込み密度の高さにあらためて驚かされた。今更ながらチェの最後の日々は惠谷氏だからこそ結実した成果であり、基礎知識の欠落した興味本位だけの私には、到底成しえない仕事だった。そんな惠谷氏が子供のような表情を見せたことが一度あって、それはインカ帝国の公用語だったケチュア語のコーランがある、といううわさ話を伝えた際のこと。まだ入手のご要望に応えられてはいないが、いつの日かきっと約束は果たしますので、しばしのご猶予をお願いします。惠谷さん、各方面で大変お世話になり、本当にありがとうございました。(Zzz-カーニバル評論家)


あとがき

■きのう11日は「山の日」だった。えっ? 8月じゃないの? という人はまともだ。正確には「International Mountain Day」で、2002年の「国際山岳年」の後の2003年1月30日、国連で「世界山の日」として決議された。日本人の季節感からしたらとんでもないが、当時「国際山岳年日本委員会」事務局長だった私には国連から通知が届いたから正式な決定だったのだ。

◆その後ご承知のように日本で8月11日を「山の日」とすることが法律で決まり、世界山の日はあっという間に忘れさられた。日本の「山の日」、今年は鳥取の大山(だいせん)で中心イベントが行われ、大山をテーマとした『山の日マガジン2018』が刊行された。地平線会議にその冊子が送られてきたので22日の報告会で配布します。

◆年の瀬は、音楽だ。おととい12月10日夕、市ヶ谷駅に近いルーテル市ヶ谷センターホールでの長岡竜介ケーナコンサートを鑑賞した。10月の「地平線40年祭」に品行方正楽団の主軸として、のりこ夫人、ひとり息子の祥太郎君とともに活躍してくれたが、この日はパラグアイ出身のギタリスト、ペルー出身のチャランゴ奏者含めてプロばかり総勢6人。定番の「コンドルは飛んでゆく」やアンコールの「花祭り」を別にすると初めて聴く曲が多く“ほんもののフォルクローレ”の世界に浸らせてもらった感じだ。

◆長岡君たち、いまは小中校など教育現場で招かれることが多く、結構忙しいらしい。暮れには恒例の八ヶ岳黒百合ヒュッテに篭っての演奏。もう38年目という。素晴らしいことだ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ヘンキョーに一瞬を待ちながら

  • 12月22日(土) 13:30〜16:30 500円
  • 於:新宿歴史博物館 2F講堂
いつもと曜日時刻場所が違います。

「モンゴルで、狼が振り返る映像を撮るのに、3ヶ月待ったよ」。映画「白い馬」(椎名誠監督作品'95)の撮映エピソードを語るのはドキュメンタリーカメラマンの明石太郎さん。'70年代から、国内外の“辺境”で貴重な記録映像を撮り続けてきました。

秩父生まれ。製薬会社などのミクロの映像からキャリアをスタートし、「チェチェメニ号の航海(75)」、「北避に舞う(79)」等を手がけます。東北のマタギ猟を追った「又鬼(83)」でライフワークとなるテーマに出会いました。「動物と関わるヒトの営みは、残酷な場面も含めて生きることそのもの。それを赤裸々に伝えたい」と太郎さん。

「カメラマンは“取れ高”が勝負。欲しい“絵”が撮れるまでひたすら待つのは猟師や釣師と同じ。待つ間に相手の行動を読み、考え、工夫を凝らす。その時間が楽しいんだ〜!」

今月は明石さんに特別編集して頂いた代表作のダイジェスト版を上映しつつ、世界30ヶ国以上で経験された豊富な辺境撮映エピソードを語って頂きます。拡大3時間報告会をお楽しみに!

(いつもと日時、場所とも違います。ご注意を!)


地平線通信 476号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年9月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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