2019年12月の地平線通信

12月の地平線通信・488号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月11日。午後3時の気温14度、ひところに比べ、ぐっと暖かい。明日はさらに気温高めだそうだ。冬が秋に戻っている。1日は、青山学院大学にいた。駅伝の取材ではなく、「雪崩から身を守るために」という講演会を聞きに行ったのだ。東京会場は562席ある会場と聞いてさぞや空席が目立つだろう、でもその志こそ買うべし、との思いで会場に入って不見識を恥じた。驚いた。ほぼ8割の椅子が埋められているのだ。「おそらく黒船が襲来した、と思われるかも」と、地平線報告会の場で雪崩講演会のフライヤーを配布した法政大学の澤柿教伸さんは言っていたがまさにそんな感じであった。

◆登壇した各スピーカーたちの言葉にも力が入っていた。北海道で20年続けてきた雪崩事故防止研究会の自信が感じられた。私は研究会が手がけている「埋没体験」という試みを日本山岳会のベテランから強く勧められたことがある。「江本さん、あれは一度体験しておいたほうがいい。あの体験ほど雪崩を理解するのに役立つ実験はないし、あそこでしか出来ないから」。残念ながらまだ体験できていないが、実際、雪崩に埋まるのだから慎重の上にも慎重な準備と配慮がなされてのことらしい。

◆今回の企画については、10月号の地平線通信で阿部幹雄さんが詳しく書いているので是非読み直してほしい。きっかけは2017年3月、那須で起きた高校山岳部の雪崩遭難(高校山岳部員7人と教師1人が亡くなった)である。この悲惨な遭難は、私にとってほとんど自身の問題であった。2017年4月のこのフロントページにそのことを書いている。

◆3月25日の土曜日、春山訓練に入る高校山岳部の生徒たちに話をした。山岳部がどうして素晴らしいか、というのが私のテーマだった。コンクリートの世界を離れ、土を踏み、風の音を聞き、ありとあらゆる自然の声に耳をすますことのすばらしさ。自分の山岳部時代の写真、チョモランマや極地、通い続けたモンゴルの大自然の人と風景を見せながら語った。最後、思いがけず万雷の拍手が湧き起こり、それが長く続いた。私の気持ちは高校生たちに伝わったのだ、と嬉しかった。

◆1日おいた27日の月曜日、今度は北陸新幹線に乗った。大宮の次は長野、次には富山に着いて富山地鉄に乗り換える。目指す立山の国立登山研修所に着くと、顧問のWさんから高校生たちの講演へのお礼を言われた。栃木の教員だった彼から頼まれての講演だったのだ。「お礼を言った矢先の話ですみませんが……」と彼は口調を変えた。「たった今、その高校生の何人かが雪崩に埋まった、との情報が入りまして……」。ええっ!? 私は呆然とした。

◆結果的に、私は高校生たちを雪崩の山に追いやる側に立ったことになる。かといって何をすることもできなかった。この日の講演会で阿部幹雄さんはじめ、澤柿教伸さん、総合司会をした樋口和生さんら地平線会議にたびたび登場してくれている人たちが中核の仕事を果たしてくれていることがせめてうれしかった。本気の企てというのは、人の心をとらえるものだ。雪崩事故防止研究会の健闘を祈る。

◆フェイスブックというメディアはあまり活用できないでいる。しかし、吉川謙二のような地球のどこにいるかわからない行動者とつながるにはこの機能はありがたい。12月6日にはこんな書き込みがされた。「今晩はティルマンと一緒にヨットMischiefでパタゴニア南氷床を横断(1955-56)した、ホルヘ(87歳)の本の図表作り……。意外にも今までティルマンが辿ったルートが書かれた事はなかった! 60年の記憶を辿り、通った水域を確かめる」

◆ウィリアム・ハロルド・ティルマンはイギリスの探検家。ナンダ・デヴィー初登者。戦前、エベレスト登山隊長を務めた際、少人数、現地調達のライトエクスペディションを実践した。晩年高所登山をやめた後は、小さなヨットで極地の無人島に上陸し初登を行うという新たなスタイルを開いたことで知られる。吉川が「ホルヘ」と書いているのはチリ人、ホルヘ・クインテロスのことだ。エドモンド・ヒラリーと同じ養蜂業者で参加を希望してパタゴニア氷床の探検に加わった。そのホルヘが87才で健在で吉川と60年前の氷床横断の際の図表作りをするとは、びっくりだ!

◆「ヨットで北極海探査」という1994年3月27日付け読売新聞の社会面トップの記事が手元にある。書き手はもちろん、私だ。永久凍土の研究に取り組む北大大学院生の吉川(当時30才だった)が鉄製ヨット「ホキマイ号(マオリ語で「帰ってくる」の意味)」でベーリング海峡に出航前に宮崎県日南市の漁港で仲間たちと船体を改造している写真が大きく掲載されている。ああ、あんなに昔から吉川謙二は本気で頑張ってきたのだ。

◆吉川謙二と初めて会ったのはあの河野兵市(2001年5月17日、北極海で遭難死)と一緒だったから随分昔のことだ。当時探検冒険年報『地平線から』の編集にあたっていた白根全に紹介され吉祥寺でお茶を飲んだ。あの時からこの怪人学者の頭にはとてつもなくスケールの大きな生き方が描かれていたのだろう。その現在進行形のフィールドワークを「特別連載」の形でこの通信で読めるとはなんと素晴らしいのであろう。(江本嘉伸


先月の報告会から

山旅を“量”で残す

伊藤幸司

2019年11月29日 新宿区スポーツセンター

■1945年生まれの伊藤幸司さんは、早稲田大探検部出身で1968〜69年に第1次ナイル河全域踏査隊を組織している。高校・大学と写真部にも所属し、フリーのカメラマン、ライターとして世界各地を歩いてきた。

◆民俗学者・宮本常一先生を所長として1966年に設立された日本観光文化研究所(以下、観文研)では1970年から旅のグループ「AMKAS=あるくみるきくアメーバ集団」で探検学校という名のハードツアーを企画し、第1回ボルネオ(サバ)、第6回アフリカ(カメルーン)ではリーダーを務めた。1975年の第8回の東アフリカ(ケニア・タンザニア)でもリーダーとして宮本常一所長をアフリカに連れて行きバイクの荷台に乗せて走るということをやっている。観文研のあるくみるきく107号「特集宮本常一・東アフリカをあるく」に記録されている。

私が知る観文研

■ここで私も若き日に勤務していた観文研について説明しておきたい。もともと研究所は、近畿日本ツーリストがその収益の1部を社会に還元し、あわせて、「旅とは何か」「旅はどうあるべきか」を自由な立場から研究・実践してもらおうと設立した機関であり、23年間続いた。「探検」への志向は明確ではないまでも、偉大な旅人のひとりである宮本常一のもとに、国内をさまざまな視点をもってほっつき歩いている旅人間たちが集まっていた。

◆そしてその若く貧しい旅人間たちに対して、「ここで食おうとは思うな。なけなしの金をつぎこんで頑張っている多くの仲間が、こことのかかわりで、すこしでも永く、深く旅を続けられるようにしよう」という原則をもった。アメーバー集団の名付け親でもあり、東京農大探検部を創設し、学生探検家たちの全国的な組織づくりに奔走してきた向後元彦さんやその研究所のアメーバー的サロンの事務局を担当した宮本千晴さんの顔が報告会最前列に在った。

◆AMKASは、大学探検部の行動技術論を武器として「海外旅行」に切りこんでいく運動でもあった。同時に伊藤さんは一般化した技術論ではなく個別の体験を「あむかす旅のメモシリーズ」という行動者自身による手書きのガイドとして発行した。まだ1964年の「海外渡航の自由化」からさほど時を経ていない時代の話である。この魅力的なサロンでの様々な活動は多くの人々を巻き込み、1979年発足の「地平線会議」へとつながっていく。

◆主要な創設メンバーの1人である伊藤さんは当初、その頃は珍しかった留守番電話を使った地平線放送を発案。その音声が当日司会を担当していた丸山純氏の労作の地平線ウェブで今でも聴けることを今回初めて知った。また、地平線通信をハガキからB5版の冊子である今のスタイルにしたのも伊藤さんである。軌道に乗せたら「あとは若い人で」と風のように去っていくのも伊藤スタイルだとか。

23年続く山旅ガイド「糸の会」

◆前置きが長くなった。風のような伊藤幸司さんをなかなか捕まえられずに、報告会登場は2010年12月「宇宙にひとつだけの輝くゴミ」以来9年ぶり。タイトルは「山旅を“量”で残す」である。カルチャースクールの登山講座の講師から始まった伊藤さんの山旅ガイド歴は23年間続いている。もともと「山屋」だという意識はまったくなくて、むしろ気持ちは「探検学校」の延長だそうだ。

◆伊藤さんの主宰する「糸の会」は1995年から“がんばらない山歩きと発見写真旅”をうたっている。「がんばらない山歩き」は平地を「時速4kmで歩くエネルギーで登山道を歩き続けること」激しい運動によって心臓や筋肉を鍛えるのではなく、軽い運動によって、毛細血管での酸素の配達効率をアップするため「がんばらない」歩き方が極めて有効だそうだ。

◆実は私も糸の会の新米会員である(といってもまだ2回しか参加していない幽霊部員みたいなものであるが……)。月に4回は日帰りや1、2泊の山旅計画があり、日帰りは2人以上、泊りは3人以上の参加者があれば台風でも電車が動いていれば実施する(悪天候の山にも出かけることで得られる技術向上や状況判断力があるという)。23年で1000回を超える山行。そして一回の山行で膨大な量の写真を撮り、写真にキャプションというには長い文章を付けて山旅図鑑として糸の会ホームページに掲載。会員でなくとも誰でも検索して見られるようになっている。

◆その膨大な“量”を実感してもらうために2019年5月21〜23日の大台ケ原から大杉谷の2泊3日の山旅図鑑No.244を印刷して持っていらした。641頁厚さ8センチが会場を回る。自分で糸を使って綴じる技術にも驚いた。それを肩に担いで「もうこれはゴミですから」と笑顔の伊藤幸司さん。江本さんはそのゴミを大事そうにザックの中に入れて持ち帰った。

◆私が初参加した2018年5月26日の丹沢、大野山の山旅図鑑を今回初めて見た。新宿駅小田急線のホームで待ち合わせしてから目的地に着くまで初参加の私にずーっと「質より量が大事」という話をされたことを思い出した。たしかにどの写真にも撮影場所と時間が克明に記されている。これが重要で私も意識してたくさんの写真をスマホで撮ったのだが敢えて時刻場所設定をしていなかったら、これは記録になりませんと言われたのが衝撃的だったのでよく覚えている。

◆見たものについてリンクが貼り付けられている。例えば丹沢湖バス停で降りた出発場所にあった記念碑について。それを読みながら、この記念碑の前で「糸の会では準備体操はしません。しかし初参加なのでちょっと足の筋を伸ばしておきましょうか?」と言われたことを思い出した。足を伸ばして片足立ちする私に伊藤さんは「ハイ、いいでしょう。これはバランス感覚を見るのと同時にコーチである私に従順かどうかを見ているのです!」と笑顔で言ったのだった。

◆実はこの山行では私たちは道に迷って当初とは違うコースを歩くことになるのだが、11:27その迷って入ってしまったクヌギ林の写真には、クヌギの利用についてリンクを貼り考察する。リンクには書いていなかった「くぬぎ炭」に言及して、そういう価値を商品化する意図でクヌギの植林がされていたとしたら、おもしろそうと。実際この日の終盤に同じ山北町の向こう側で、私たちは文化活動としての炭焼き窯を見ることになった。

◆5月の丹沢で名物のヤマビルに全員が喰われたことも思い出深いが、13:28 突然始まったドタバタ場面にヤマビルについてのリンクが貼られていた。と、こんなふうな山旅図鑑だから行動記録は当然膨大になるのだった。行動記録の「質より量」。ネットのサーバー上に保存しておけば、検索エンジンが自動的に見出しをつけてくれる。「山旅図鑑」は令和のデスクトップ・パブリッシングだと言う。しかし、やはり量だけでないモノを見ておもしろがる眼=質だよなぁとも思う。その眼を養うためにはやはり量なんだろうか……。

◆“量”ということで言えばこんなエピソードがある。前述の「あむかす旅のメモシリーズ」の1987年最後の89巻は金井重さんの「おばんひとり旅 4年半で50カ国」であった。私は観文研に来た金井重さんにお茶を出すくらいで、重さんは毎日コツコツと手書きする。メモシリーズの最低条件は400字詰め原稿用紙50枚以上。伊藤さんが中味をチェックすることもない。「50枚以上あるものは読まなくとも大丈夫だという確信があった。評価をすればいろんな言い方があるかもしれないが、50枚以上書いた人には語りたいことがそれだけあったということ。量を書くということがすごく大事。」

◆それはその昔、山と溪谷社の編集者がAMKASに来て「400字400枚書けたら本にする」というのにぱっと書いたのが関野吉晴さんと賀曽利隆さんで、2人の原稿はそれぞれ単行本として結実した。自分は書こうとは思わなかったから敗北感はなかったが、その時、400枚書けるということは文章の巧稚や旅の中身がどうかということを超えて、そのボリュームに何か大きな価値があると、「質より量だ」と確信を得たそうだ。

旅の目カメラの目

■第2部で1982年5月伊藤幸司さん37歳の時に書いた「旅の目カメラの眼」(トラベルジャーナル新書)から朗読した。岡村隆さんがトラベルジャーナルに企画した旅行学入門シリーズ5巻として書かせてくれたと。かなりの量を読まれて、読んだところに付箋がついたその本を報告会のあとにお借りした。実におもしろくて夢中になって読んだ。副題に“世界”に触れる海外旅行写真術とついているが哲学書のようでもある。この通信が届けられるまでには、伊藤さんのホームページ 糸の会『山旅図鑑』で報告内容とこの本の朗読箇所をスキャンして掲載するそうだ。是非見てもらいたい。「まえがき旅を撮る写真と写真を撮る旅」から朗読のほんの一部を抜粋して紹介したい。

《旅が自由なのは心が解き放たれるためであり、旅がロマンチックなのは感性がよみがえるためであり、そして旅の日々が充実するのは「いま」とか「現在」を意識する瞬間が驚くほどふえるためである。人間は本来、たったの五秒ほどしか「現在」を感じないという。五秒前のことは過去であり、現在の五秒先は未来であるはずなのだ。それが、日常の繰り返しのなかで、人間は過去から学び、未来を見通すというような大それたことをやってしまう。五秒先はおろか、明日のことも、来年のことも、わかってしまうような人為的な時の流れに身をまかせようとしてしまう。ところが、旅に出て、その「時」の魔術からも解き放たれると、五秒後も、一歩先も未知の世界だということをあらためて知らされる。そして前進する一歩一歩が未知を既知に変えていくという、じつにシャープな「現在」感を味わうことになる。旅のそういう心地よい緊張感と、カメラマンの求めるシャッター・チャンスとが、じつは同一のものなのである。逆にいえば、心のカメラがつぎからつぎへとシャッター・チャンスを求めていくとき、旅はいい旅だといっていい。》

《ある光景にカメラを向けようとする原動力は、感激や感動である。出会った風景を美しいと思う。その感動は網膜上の映像によるのではない。脳細胞に伝えられ、私たちが「心」とよぶものにしみた風景なのである。それをカメラがそのままとらえてくれるはずはないのだ。カメラは単なる道具である。それは、本来立つはずのない自転車が、漕ぐことによって走り出すというのに似た道具である。だからまず、カメラを感動した風景の中へ運びこんでやることだ。するとカメラは、感動の断片を記録したうえで、新たな風景へと私たちをみちびいてくれるようになる。写真はフットワークだ、といった人がいる。一瞬一瞬の、あるいは一個一個の光景を追いかけていくうちに、感動はさらにふくらんで全身を包み込む。それを乱写というのかもしれない。乱写するすることによって、カメラははじめて「心」と直結する回路をもつことになる。(カメラに「心」の回路をつなぐより一部抜粋)》

◆私が写真をカメラでなくスマホで撮るようになったのはいつ頃からだろうか。スマホの方がトリミングしたり加工しやすく私にとっては自由度の高い写真が撮れる。またSNSで発信しやすく、スマホで写真を撮らない日はない。スマホになってよりこの言葉が実感できるというのは、おもしろいなぁと思う。次回、糸の会の山行に参加するのは2月の北八ヶ岳スノーハイク1泊2日である。初めての雪山でどんな出会いがあるだろう。今度は時間場所を設定してたくさん写真を撮ってこよう!!(高世泉


報告者のひとこと

「糸の会」は「あむかすたんけん学校」のシニア版

■テーマは「山旅図鑑」でしたが、私は登山家ではありません。ちょとしたはずみからAMKAS(あるくみるきくアメーバ集団)というふざけた名前の罠にひっかかって人生を狂わせたひとりです。

◆アフリカ遠征という学生時代のシゴトのひとつを終えたときに、アフリカ関係の記事を雑誌から拾い集めて、そのコピーをファイリングするという泥沼作業をやらせてもらえるチャンスがあったのです。いちおうバイト料が出ましたから「シゴト」でもありました。雑誌の編集部に行ってバックナンバーを借り出して、近畿日本ツーリストという会社の大型コピー機に張り付いて膨大なコピーを取り、それを、どんどん増えていくファイリングケースで整理していくというシゴトでした。1972年にアフリカ行きのチームメイトだった小川渉さんといっしょに『AMKAS資料目録アフリカ』という500部の本も出しました。

◆雑誌専門図書館としては大宅文庫がありますが、私たちは自分たちが関心をもった領域に絞って、雑誌記事の一定規模の収集を行うという、かなり「アタマのいい」シゴトをしたつもりでした。コピー代は見た目タダでしたし、私たちはバイト料以上のシゴトをしました。結果として「頒価600円」という報告書でひとまとめしましたから、プロジェクトとしては鼻高々……のはずでした。が、事務用のファイリングケースがどんどん増えて、雑誌の切り抜き記事に類するコピーだけでも、都心のビルの床面積をどんどん侵食していったのです。

◆今回「山旅図鑑」としてひとつの理想形を生み出した……と私がみなさんにアピールしたかったのは、あんなものはネット空間のどこかにささやかに置いておけば、最新技術の捜索・運搬ロボットさんがほぼ瞬時に持ってきてくれるのだということです。

◆昔の話にもどりますが、次に私が担当したのは「あむかす・旅のメモシリーズ」(1975〜1987)で、89冊刊行しました。「手書き」なので編集者による校正作業は必要なく、400字詰め原稿用紙で「50枚以上」という基準を満たしてくれさえすれば内容の審査も必要ない、という画期的なミニ出版(200部刊行)システムでした……よね。50ページ以上の「書籍」でしたから国会図書館に永久保存されている……はずです。

◆この「50枚以上書いたら本にします」というのは山と溪谷社で「現代の探検」という季刊誌をちょうど創刊した阿部正恒さんが「400枚書いたら本にするよ」と呼びかけたシカケのミニ版なんですが、その呼びかけに即時対応して400枚の処女作を世に出したのは賀曽利隆さんと関野吉晴さんでした。

◆そういう青春の得難い体験によって私の人生は(今の方向に)進んだのでしょうが、1995年、50歳のときに「糸の会」(伊藤の会)というのを始めたのは(いろいろな経緯があってせねばならない状況になったのですが)かつて1971年夏から翌年の年末までに集中的に7回実施し、1975年と76年に追加した「あむかす探検学校」の、シニア登山版でした。

◆半年ごとに計画を立ててしまって、なんでもかんでも出かけてみる、という単純なことから発見したものがいくつかあります。今回の報告会の準備中に引っ張り出した古い図面が、富士山の登山道が「標準的登山道」と繰り返し主張してきた「標準」の決定的な証拠を見せてくれました。私がこのところ考えてきた「登山道の歩き方」を強力に支えてくれるはずです。

◆その富士山登山道の古い図面のコピーとスキャンからの脱線話ですが、セブンイレブンで古いアルバムをスキャニングするすすめです。古いアルバムを処分できない理由のひとつは、写真をはがしてしまうと、たちまちアルバムという入れ物にある「時」と「場所」と「物語」から切り離されてしまうからです。そこでアルバムのページを、300dpiできちんとスキャンしてみていただきたいのです。ほとんどの写真アルバムには保護シートが貼られていて不安ですが、剥がさずに、そのままやってみてください。

◆そうするとページごとの写真と文字情報とが一緒に複写されます。もし必要なら、そのデータから中の写真1枚だけを切り出すと、それは写真1枚を300dpiでスキャンしたものと基本的に同じですから、1枚の写真として上質な写真用紙にプリントすることができますし、数倍の引き伸ばしにも耐えるはずです。

◆そうとわかれば、アルバムに整理されていないバラバラの写真も、バラバラのまま、A3サイズのコピー範囲にきれいに並べてスキャンしておけばいいのです。私の経験ではセブンイレブンのゼロックスがじつに使い勝手がいいのです。

◆今回、固有名詞が出てこない恐怖と脱線して止まらなくなる恐怖を抑えるために、かなり入念な準備をして台本もつくったので、それをホームページ(itonokai.com「山旅図鑑」)にアップします。(伊藤幸司


探検家伊藤幸司

 久しぶりに伊藤君の話を聞いた。自らの探検家としての半生をどう総括して見せるのだろうと楽しみだったが、彼にそれを語らせるには時間が短すぎ、目次だけ7割の章を並べたところで時間が尽きた。しかも本当は各章には副題がなければ意味が完結しないのに、副題抜きになってしまった。全貌は別の機会に、たぶん別の形で聞く、いや彼のブログを読むしかない。

 だから、失礼ながら、聞いていたほとんどの人には伊藤君が何を語っているのか分からなかったのではないかと思う。だが古い友人であるわたしには目次の各章の副題がちらちら見えるし、今回彼が何を話したかったかが分かる気がする。伊藤幸司は一貫して自分の「探険」の話をしていたのだ。主題は自分の来し方を探険の連続たらしめている「探求の方法」である。

 伊藤君は探検家らしいタイプの探検家ではない。才能や才覚に恵まれている訳でもない。金や生計に恵まれてもいない。にもかかわらずいつも探険家なのだ。人の真似をすることだけは自分に許さず、手応えを直感した独自の方法を徹底して追求することで仕事や生活を探険に変えてしまう。

 伊藤君がわれわれに語ろうとした各章は自慢話や苦労話ではなくて、その過程でなんとか手法を探り出し、それに固執し、追求しつづけることで見えた世界の報告書なのだ。その探求の経過と方法が、語られなかった副題である。見かけはかならずしも出来のよくない出版物や仕事なのだが、ほとんど素人に近いレベルから独自の方法を見つけ出し、自力だけでその結果にたどり着いた、その見えていない探求と努力の過程は「探険」としかいいようがない。

 伊藤君がなぜ独自の方法にこだわるのか。それはたぶん自分を凡人だと思っているからだろう。凡人だけれどもなんらかの優れた方法を頼りにすれば、結構優れた先人たちも気づかなかったことに気づき、まだ世間の人が見ていない世界が見えたりする。方法が独自であればその過程はいっそう辛く苦しくなりがちだ。しかし見え始めたときの喜びやたどり着いたときの達成感はかけがえなく大きい。探検の達成感だ。

 方法は天才的なひらめきや感性によるものではなく、凡人でもできる手法がいいと彼は考える。それなら誰でもやれる。伊藤幸司はいつも周辺の人、特に後進の人たちを気にかけているお人好しで優しく、よき先輩である。だから丸山君を捕まえて、夜を徹して話したりしてしまう。彼の念頭にはいつも平凡な一般人もみな「探検家」になれるはずだという希望と課題がある。そして鍵は歩いていく、やっていく「方法」にあると。みずから手探りで新しい方法を探求し、忍耐強く支えながら待っていてくれる仲間を巻き込んで実験をつづけている。出来のよしあしはさておき、「そこまでやるか〜!」という結果になる。

 報告会で伊藤君が上面をなで、目次の章立てだけ並べて見せた各章はそれぞれ鍵となった方法があった。わたしは本当はそれを整理して聞かせてほしかった。そうすれば彼の来し方が呆れるほど誠実に探険の連続であり、彼が語りたかったのは徹底して探険の方法論だったのだとみんな納得してくれたと思う。伊藤君にしか描けない、見せられない探険の世界なのだと。

 とはいえ、限りなくディテールであり、小奇麗にまとまらないのも伊藤幸司の世界だから、これはもう望む方に無理があるのかもしれない。(宮本千晴

PS. 糸の会のブログに全資料を載せるそうです。


伊藤幸司さんが「普通の人」ではない、ということ

■報告会当日の昼になって、いきなり今日の司会をやれと命じられたので、心の準備がまったくできていなかった。おまけに会場で、なんとスライドが前代未聞の700枚もあると聞いて、すっかり気が動転。どんどん進行しなきゃという焦りから、話そうと思っていたエピソードもほとんど紹介できずに終わってしまい、後悔ばかりが残った。

◆なかでも一番気になっているのが、伊藤幸司さんが「普通の人」ではないことがどこまで伝わっただろうか、という点だ。今回は脱線しないようにと綿密な台本を作り、その流れに沿ってスライドも用意された。おかげで、人脈の入り乱れる地平線会議設立に至る前史などもこれまでになくすんなり頭に入ってきたが、逆にああいう手堅くきちんとしたスタイルが伊藤幸司流なのだと思われてしまうと、ちょっと悔しい気がする。

◆報告会の冒頭でも触れたように、なにしろ昼過ぎにやってきた初対面の学生相手に、夕食・夜食をはさんで朝まで一方的にしゃべり続けることができる人である。伊藤さんは酒を飲まない。まったくのシラフで、世間話などに興じることもなく、日本人離れした30センチの至近距離からこちらの目を見つめ、ただひたすら旅の道具やノウハウについての持論をしゃべる。見ず知らずの学生にここまで本気で相手をしてくれる好意にも心底驚いたが、語るべき内容を自分の頭のなかに日ごろからこんなにも溜め込んでいることに驚嘆させられた。

◆伊藤さんはクールで、ベタベタした人間関係を好まない。親分肌ではなく、年若い学生も必ず「さん」付けで呼び、ですます調でていねいに話すので、ちょっと距離ができる。焚きつけるだけ焚きつけたら、あとは勝手にやってくれと突き放して、アフターフォローはしてくれないのだ。地平線会議の初期にあれだけ活躍し、みんなに強い影響を与えたのに、軌道に乗るやいなや、いつのまにか姿を消してしまった。

◆伊藤さんを突き動かしているのは、自分にとって「おもろい(という表現を昔よく使っていた)」かどうか、ということらしい。そのおもろいことの基準は、ほかの人がやらないことを自分が初めてやる、というところにあるようだ。映画用の長尺フィルムを切ってパトローネに詰めて撮影するのも、宮本常一先生を荷台に乗せてバイクでアフリカを走るのも、地平線会議という新しい運動体の創設にかかわったのも、留守番電話を使って2分半の番組を流す地平線放送を始めたのも、独自の登山理論を打ち立てて実践するのも、それが新しいことだったから。誰も確定できなかったナイル川の最長源頭を探しに出かけた学生時代から、ずっとそうなのだろう。

◆地平線会議が設立される直前、初めて書いた『あるくきくみる』の「東京特集号」の巻頭原稿をやっと脱稿した私に、この号のレイアウトをやってみないかと勧めて、写植の指定法などの組み版のワザをゼロから手ほどきしてくれたのも、編集を担当した伊藤さんだ。その後、ある企業の広報誌のスタッフに誘ってくれて、今度は私が編集者で、伊藤さんがライターとなった。そこで痛感させられたのが、伊藤さんはその企業の製品に惚れ込むことで原稿を書く、逆に惚れるところが見つからないとなかなか筆が進まないということだ。しかも、その惚れ込むポイントが常人のそれではなく、開発担当者自身があんぐり口を開けてしまうような、目立たない機能やデザインにもこだわってしまう。

◆もうひとつ驚かされたのは、徹底的なアマチュアリズムである。というより、プロフェッショナルであることを極力避けようとする。プロとして仕事をすると、どうしても効率優先で手際よくやろうとするし、100点満点や120点は最初から諦めて、コンスタントに80点をキープするようにしてしまいがちだ。ところが伊藤さんは膨大な手仕事が発生するのもまったくいとわずに、常に全力でゴールを目指し、しかもその試行錯誤の過程を隠さずに書いてしまう。読者のこともあまり念頭にないらしく、自分がおもろいと感じるところをそのまま伝えられれば十分と考える、編集者泣かせのライターだ。

◆Macintoshというコンピューターを手に入れれば面白く遊べる、と誘ってくれたのも伊藤さんだった。上記の広報誌編集の仕事のためだったが、私はたちまちこれが出版・印刷業界のあり方を根底から変えると悟り、いかに商業出版に耐えうるものを作るかという方向へと突き進んだ。ところが伊藤さんは最初こそプロ用ソフトを手にしてみたものの、デスクトップ・パブリッシング(DTP)の原点にこだわり、自分のデスクから民生用の機材やソフトを使って、どうやったら面白い表現活動を続けていけるかを模索してきた。その見事な成果がいま、驚異的な量のコンテンツの塊である「山旅図鑑」となって私たちの前に姿を見せている。たった1ページのウェブページを印刷しただけなのに、A4判で600ページを超える! 効率と時間優先のプロの発想ではけっして作れない、まさに伊藤幸司流のパブリッシングだと思う。

◆伊藤さんは観文研で宮本千晴さんから多くを学び、私はその精神や技法を伊藤さんを通じてわずかながら継承した。『地平線データブック・DAS』をはじめとする地平線会議の出版物を開いてみると、そこかしこにお二人の手口が見て取れる。それがとっても誇りに思えてくる、味わい深い報告会だった。[丸山純


地平線ポストから

浜比嘉の青い海へ

■晴美ちゃんが突然軽トラのブレーキを踏み、車外に出て車の前にかがみ込んだ。沖縄の湿原に生息するシリケンイモリが路上をヨチヨチと横断していたのだ。近年生息数が減り、準絶滅危惧種に指定されている両生類。「舗装道路になってからは轢きつぶされちゃうんだよね〜」そう言いながら、イモリを道ばたのヤブにそっと放る。鮮やかな赤い腹を一瞬見せて、イモリはヤブに消えた。

◆晴美ちゃんが毎日野良仕事に通う浜比嘉島のヤギ牧場《清(ちゅ)ら海ファーム》に続く小道は2年前に舗装された。島民が往来するメインの農道から脇に入り、牧場に続く200m程の行き止まりのでこぼこ道だった。以前ならイモリも石の隙間などに隠れて、車輪の下敷きになる難を逃れられた。

◆牧場の裏手から急な細い山道を這うように登ると、数年前に廃校になった比嘉小学校の校庭裏手に至る。高台にある校庭は津波が来た時の緊急避難場所であり、正門側に至る舗装道路は昔からある。しかし何故か避難路として新たにこの小道が舗装されたのだ。牧場から学校に至る山道は斜度のきついコンクリート製の階段になった。農道から望見すると、山の中腹に南米の階段ピラミッドが出現したようにも見える。観光資源と勘違いして牧場に入り込んで来る観光客も少なくない。「こんなきつい階段を、高齢のオバアやオジイがどうやって登るんだろうね」と晴美ちゃんがつぶやく。

◆11月の下旬、3年半振りに訪ねた浜比嘉島はこうして少し風景が変わっていた。牧場に隣接する一角を借りて与那国馬を飼育していたカマダ君は郷里に帰り、彼が住んでいた家の隣に新たに移住予定のトモちゃんが家屋の改修工事を1人でこつこつとやっていた。「地平線あしびなーがここで開催された時、わたし沖縄芸大の学生で那覇にいたんですよ。知ってたら来たかったなー」とトモちゃん。

◆長い付き合いになる友人の外間昇さん、晴美ちゃん夫妻の生活にも変化があった。1年前に大きな手術をした昇さんは病も癒えて元気そうだが、体力はまだ完全に戻っておらず力仕事はままならない。夫妻が飼育している30頭のヤギは毎日の放牧と見回りにたくさん時間を取られる。そこで忙しい時に臨時にヤギを囲い込むための牧柵を作ることになった。

◆晴美ちゃんや友人のフジタさんと一緒に、牧柵を立てるルートを決め、薮を草刈り機とチェンソーで伐り開く。それが終わると脚立に乗って鉄ハンマーで2mのパイプを打ち込んだ。八重山に台風がきていた影響で日々小雨がぱらつく曇り空だが、気温は連日25度以上の夏日が続く。水分を補給しながらの仕事はゆっくりペースになり、時折手を休めて空を眺める。昨年来、亡き妻じゅんこがいる天を見上げるのがクセになった。東京とひとつながりの空のはずなのに、ここにいると彼の地の冬空が異世界のように思える。作業4日目に約120mに渡ってパイプ42本を打ち終えた。まだ資材が届いていなくてフェンスは張れない。

◆翌日、帰京する日の朝は台風一過の快晴になった。晴美ちゃん曰く《龍神様が海から上がって来る場所》という浜辺で、じゅんこの散骨をすることにした。じゅんこが大好きだった浜比嘉島に散骨をするのは今回の訪問の目的の一つだったが、仕事と天候不順で決行できずにいた。どこでどうやるかもノープランだった。

◆外間夫妻の友人で数日前に紹介されたイトウ夫妻が、偶然この朝も訪ねてきたので一緒に浜辺に向かう。奄美大島出身のイトウさんは、お父上を《洗骨》の風習に倣って送っており、亡くなった人との“対話”を大切に考えている方だ。「亡くなった人をちゃんと思い続けていると、きっと良い方に導いてくれると僕は思うよ」と言うイトウさんが、司祭のように場を仕切ってくれた。昇さんがウチナーグチ(琉球方言)で慰霊の言葉をつぶやき、イトウさんが郷里に伝わる愛しい人に捧ぐ唄を静かに歌う。外間家の愛犬ゴンとポニョも見守る中、晴美ちゃんと並んで海に立った僕はコップに汲んだ海水に溶かしたひとつまみのお骨を、キラキラ輝く海に撒いた。

◆那覇行きのバスの停留所までイトウさんの車で送って頂く途中、車内に蝶が舞い込んできた。「あれー、じゅんこさんがお礼に来たねー」とイトウさん。蝶はしばらくひらひらと遊び、反対側の窓から出て行った。「走っている車に蝶が入って来るなんて初めてよ〜」とイトウさんの奥さんが驚いている。奄美では蝶を魂の化身とみなすそうだ。東北地方などでもそう考える地域があると聞いた。あとで知ったことだが、ギリシャ神話でも蝶を霊魂と同一視することがあるとか。

◆那覇に向かうバスの中から、またどんよりと曇り始めた空を眺める。今朝足を浸した輝く海の感触が、遠い昔の想い出のような気がした。雨が降ってもいいから首里城を見に行こう、と思いながら眠りに落ちた。(長野亮之介


凍った大地を追って

その2 アンデス高地で世界最高所天文台の建設

■ブルドーザーオペレーターが急崖から転がり落ちた。クリスマスを前に28歳の青年は彼女との休暇を楽しみにしていただろうに予想もしない最後となってしまった。安全管理がかなり進んだチリでもこの建設会社で7人目という。工事過程に無理や問題はなかった。この事故はオペレーターの操縦ミスとして処理された。まるで吉村昭の『高熱隧道』のような過酷な難工事がアンデス高地に展開する。

◆私がチリ北部のアンデス山中にある世界最高所になる天文台の建設の手伝いをするようになり、約2年がたった。作業員の事故死から落石、落雷、高地労働許可など多難を極める難事業をしてきた天文台建設と凍土調査。しかし、それもやっと出口が見えつつある。5000mを超える、低温、おまけにいつも強風の吹き荒れるアンデスでは、過酷な労働条件と薄い空気の中、作業員の半分は肉体的、精神的に参ってしまう。酸素は大体海沿いの街の半分になる。

◆私もここで作業する以上、チリ政府の規則通り、高所健康診断を受けて5500m以上の作業許可を得なければならない。一見簡単そうなトレッドミル、低酸素室、心電図の3つの健康診断と3時間の退屈な高地医学の講義(でも真面目に聞かないとそのあとのテストで85点以上の合格点がもらえない)が必須だ。今回は8人のボーリング屋と一緒に穴掘りする予定だったが、8人中7人がこの健康診断に落ちて、あてが外れ検査合格ドリラーをただ待っているところだ。

◆永久凍土というと北極や南極に話が行きがちだが、熱帯地方にもちゃんとある。あると言っても標高が高い山の上だけだ。しかも赤道直下のように降水量の多いところでは、露岩は氷河に覆われ、永久凍土が発達できない。キリマンジャロのように降水量が激変して、氷河がこの100年後退している山には山頂部分で永久凍土がある。

◆そんなわけで、この15年ぐらい熱帯地域でも乾燥地帯の高山への永久凍土用の温度計設置を行ってきた。結論から言えば、永久凍土はここでは標高5200m以上の高山に分布し、メキシコ、南ペルーから北部チリ、キリマンジャロ、ハワイにある。ハワイは4300mにも満たない低い山だが、氷期の残骸として存在している。これらの山に温度計を設置するのは容易ではない。というのも地面を掘る道具を持ち込まないといけないからだ。

◆ポータブルに設計した色々なボーリング機械を試作してきたが、一番の問題は空気が薄いことだ。海辺の大気の半分しか空気がない5500mではエンジンパワーも半分近くまで落ちる。そのため、ペルーでは、5kWの大きな発電機を10人ぐらいで5400mまで持ち上げたこともあった。今でもペルーに行くと、私が何か頼む前に、笑いながら「ノー」と先制される。

◆キリマンジャロだけでも山頂部に8箇所のボアホールがある。それでもこのような山々に温度計を設置でき、現在モニタリングできているのは熱帯の人たちが陽気なせいかもしれない。そんな中でもチリの天文台観測施設のボーリングは楽な方だ。なにせ山頂の5640mまで道があるのだ(作る予定なのだ)。ヘリコプターでは上がれない高度なので、陸路を作る必要がある。

◆今まで3〜5m程度のボーリングしか人力でできなかったのが、ここでは大きな機械を入れて、10〜20m規模で展開できる。いままでのちっぽけな観測を大きく塗り替えられるわけだ。しかし、まずは道路の建設から取り掛からなければならない。山頂へ道を作るのは容易ではない、たくさんのつづら折れ、重い望遠鏡を上げるため盛り土は禁物だ。おまけに標高5100m以上は氷が多く含まれる永久凍土帯だ。5000mに建設された「ALMA」と呼ばれる世界最大の電波望遠鏡建設とは600mあまりの違いだが、難易度がちょっと違う。

◆そんな中、また別な問題が発生! チリで暴動が起きて、夜間外出禁止令が出たのだ。スーパー、地下鉄の駅が焼かれ、連日の政府軍と民衆の衝突。放水、催涙弾の雨あられだ。当然工事が遅れだした。まるで今年掘る予定だったハワイのマウナケアが30m望遠鏡建設反対デモに巻き込まれ頓挫しているのと同じ状態だ。

◆まあ、戒厳令とか夜間外出禁止令は、地平線の人たちが旅する地域では、特別なことではないとは思う。私もたまたま1985年のエチオピア内戦、86年チリピノチェト暗殺未遂、89年ネパール民主化とか、最近では2014年ロシア、クリミア侵攻とかに遭遇しているが、今回のラテン的長期デモは、工事や物資の輸送に障害が多く出ている。ただ、暴動発生からひと月経ち、最近昼間30度を越すサンチアゴでは、デモはもっぱら涼しくなる5時過ぎからなので、作戦が立てやすい。

◆市民の中では、最近催涙弾の成分が変わったとの噂で持ちきりだ。前は目が痛くなって、涙が止まらなかったが、今は、目頭が熱くなって、笑いが止まらなくなるそうだ。(アラスカ大教授 吉川謙二


<論 考>

『ネット民主主義の向う側』]

 フィヨルドを越え北へ向かう列車は、天霧の森に吸い込まれ静寂に包まれる──。

 ビッフェでビール2、3本とサンドイッチで日本円にして6000円ほど、物価や税金が高いことに「国が貯蓄してくれている」と、この国で文句を聞きません。

 氷河が削ったフィヨルドの気候が生んだノルウェー人気質は、目に映る現実世界の奥にもうひとつの世界を見つめているのでしょうか。幸福度が世界一高い北欧で「幸福を測る尺度とは?」を求め、大陸伝いに鉄道と船を乗り継いで北の大地へと……。

 旅のきっかけは香港──天安門事件の時、紙爆弾といわれたファクス作戦が若者たちを動かしましたが、香港200万人デモを率いるのはSNSです。旅路の果て北の大地にも、香港のデジタル戦士たちの叫びは響きます。

 令和元年5月、『欲動の資本主義』を書きました。経済学を専攻しながらマルクスの『資本論』も手にもせず、70年安保のドサクサで卒論に何を書いたのか──、『欲動の資本主義』は50年目の卒論です。

 アメリカ文明の両輪は資本主義と民主主義です。モノ書きとして「自分が生きている時代だけは書き残す」、ケジメのつもりで資本主義と同時に“ネット民主主義≠取材してきました。中国の検閲を端に表現規制のグローバル化……、風雲急を告げる危機感から『中国の表現規制から見るネット監視社会』を緊急出版しました。

 ヒトは欲動によって生まれ、生き、死んでいくと……。フロイトは、食欲、性欲、金銭欲などを精神分析学によって“欲動”と表します。欲動にまかせる資本主義は、貧富、地域、人種など格差を生む──トランプ大統領の一国主義、中国の一党独裁そして安倍一強など独占的な支配欲が生み出されるのは、欲動の現れでしょうか……。

 国民が労働で稼ぎ出す生産より、投資で得る利益の方がはるかに上回る……不労所得がまかり通る資本主義。持てる者の資産は相続へ、世襲資本主義は再分配がされません。国家の老化に伴い高齢者の言い分が通っても、若者の声が届きにくいシルバー民主主義に世代間格差……巨大な格差を生む資本主義の矛盾をマルクスは、見抜いていました。

 資本主義、民主主義をフル稼働したアメリカ文明も賞味期限=文明末──文明の衝突に何が起きるか、地球上で起きている異変はアメリカ文明への逆襲か──。

 地震、台風、火山の噴火、大洪水など気候変動、テロ、恐慌そして戦争、人工知能(AI)の到来、仕事、病気、老後……、この世に心配の種は尽きません。現代人は心配性というより“心配症”です。「心配をやめるコツは心配をしつづけること」──北欧流の幸福観はどうやら“心配症”の尺度かもしれません。

 戦後、日本人の価値観で大きな比重を占めたのは“民主主義”と“能率”です。

 質から能率へ──アメリカ文明配給下、騒音と活気、情報の洪水のなかで生活実感から、“幸福とは”の概念はいつしか違った次元に──何を、そんなに急ぐのか。

 急速なITの普及、生活インフラのネット化による社会統治という“監視社会”“管理社会”の到来……“人間の格付けデータ階層社会”、サイバー攻撃や電脳戦争、第5世代移動通信システム=5Gの覇権争奪が国家間の緊張感を高めます。人間と科学が主従関係を争うネット空間は聖域を超え、神の領域へと……。情報と時短の渦に揉まれ、失ったものや退化したことにはまだ気づかない──ネット民主主義に、死す!

 ネット空間における自由と民主主義──ネット民主主義は、明日の社会を見据えると、21世紀の最も重要な課題です。

 ITの普及で、言葉や論理が中抜きにされ真意が伝わりにくい社会です。一方、可視化社会に、個人は丸裸にされつつあります。いちど検索すると、履歴が利用者の個人的生態系として残され、ユーザー向け情報が一方的に送り込まれる“エコチェンバー(共鳴室)現象”は、不都合な情報を遠ざける“確証バイアス”に取り憑かれ文化的、思想的な被膜=フィルターに閉じ込めます。多様な情報から隔離された“フィルターバブル”のグローバル化は秒単位で進行しています。

 トランプ大統領誕生には、フェイスブックから約5000万人の個人情報を取得し、データを分析、政治広告として個別に送り大統領選挙に大きな影響を与えた“ケンブリッジ・アナリティカ事件”があります。イギリスのEU離脱国民投票では、“ネット・ポピュリズム”が働きました。日本の「表現の不自由展・その後」(あいちトリエンナーレ)が開幕からわずか3日で、電凸(でんとつ)で中止されました。

 ネットで操作された世論=ネット・ポピュリズムが、民主主義を危うくしています。LINE、Twitter、FacebookなどSNSの浸透により、民主主義が国家権力や一部の資産家によって、独占される恐れがあります。

 GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)の時価総額は約350兆円、日本の国家予算に匹敵、個人情報はだれのものか──。

 フィルターバブルに覆われ、個人データがビジネス鉱脈に──欲しなくても情報が日常生活に氾濫、一方で片寄った情報がいつしか集合知を形成、さらにデータ分析から人生、人格まで格付けされる。気がつけばネットオタクから抜けられません。

 デジタル・アシスタントの向こう側のネット監視社会、言動や人間性を脅かす統制社会……。中国発の国家検閲、表現規制のグローバル化は、中国を他者化することで済まされない課題を突きつけました。

 “ネット民主主義に、生きる!”──“国家権力の監視”を監視できる市民社会「地球社会化のヒューマニズム」を──危機感から使命感へ。(森田靖郎)

森田靖郎──危機感から緊急出版!
 『中国の表現規制から見るネット監視社会』
  〜ネット民主主義の向こう側〜


ロヒンギャ難民たちのために 

■故郷を追われ彼らは、ナフ川を渡ってやってきた。ある者にとって、それは「死」への道となった。ここは、バングラディッシュのコックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプ。ナフ川を渡りたどり着いた70万人ものロヒンギャが、木と竹とUNHCRのシートでできた粗末な小屋で暮らしている。

◆2017年8月25日、ロヒンギャを自称する武装集団がラカイン州北西部の警察施設を襲撃した。それに対する行き過ぎた報復が「ロヒンギャ難民危機」の始まりだ。警察だけでなく、政府軍や仏教徒を中心とする一般市民もそれに乗じてラカイン西北部に住むムスリム(=ロヒンギャ)への迫害に加わった。ロヒンギャはラカインから追い出され、ある者は船でタイ、マレーシアへ。またある者は徒歩で隣国バングラディッシュへ逃れた。

◆この難民危機で有名になったコックスバザールの難民キャンプだが、それ以前から約20万人がキャンプで暮らしていた。1962年の国軍のクーデターに端を発する民族中心主義による迫害と、1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーの民主化運動を支持したことへの報復でミャンマーを離れた人々だ。今回、あまり聞かれなくなった彼らの「今」を知り、彼等の姿を写真で残したいと思い、「Mecins du Monde Japan」(国際協力NGO世界の医療団、以下MDM)と、カウンターパートである「PULSE Bangladesh」の協力でキャンプ訪問を実現することができた。

◆MDMとPULSE Bangladeshは、ロヒンギャで構成された14〜18歳の約40名のユースと、12名のユースエデュケーターを通じて保健衛生教育を行なっている。その活動に同行させていただくことで、迷路のように入り組んだ路地に分け入り、お宅にお邪魔し、様々な方とお話しする事ができた。実際ひとりで迷わず帰ってくることは難しいだろう。

◆キャンプ内の行動は非常に制限された。大型カメラでの写真撮影、すべての動画撮影、インタビューは禁止。難民への締め付けは次第に厳しくなっている。1年前、FacebookなどSNSを通じて彼らはキャンプ外の様々な人たちと情報交換ができた。それが今年の7月には音声通話だけになった。理由は「治安維持」だ。行く先々で「ミャンマーへ帰りたい」と言う声が聞こえてくるが、同時に彼らは「今のままでは帰れない」「帰っても何も変わらない」とも言う。

◆それを裏付けるレポートを「政府施設のために破壊された村」と題してBBCが報じた。彼らの「帰還」に向け、ミャンマー政府がロヒンギャの村を破壊した跡地に役所や軍施設と難民移住キャンプを造ったというのだ。日本とインドの援助が宛てられたとも報じている。つまり、ミャンマーへの帰還とは、鉄条網に囲まれ、軍に監視されながら「難民移住キャンプ」で暮らすことなのだ。

◆ユースエデュケーターの「夢」は「Citizenship(市民権)」「Humanrights(人権)」「Education(教育)」。ロヒンギャはミャンマーで、他のイスラム教徒とも分けて扱われてきた。彼らの「夢」は、ミャンマーでは叶わなかったものだ。

◆元首相キンニュンは著書『ミャンマー西門の難題』の「ロヒンギャについて私の見解」の項でこう記している。植民地化以降、あるものは「イギリス」が、あるものは「ファシスト人民自由連盟」が、そしてあるものは「不法」に、ミャンマーに「連れて」または「やって来た」のだから、彼らはベンガル人だと。キンニュンらにとっては、ロヒンギャが1824年のイギリス植民地化以前からミャンマーに住んでいたかが問題なのだ。しかしロヒンギャの住むラカイン州は、ラカイン王国のあった地であり、そこには多くのイスラム教徒が暮らしていたことは歴史的にも証明されている。ロヒンギャは自分たちを「ミャンマー人」だという。ロヒンギャ語には文字がない。だから、彼らはミャンマー語で筆記する。ユースエデュケーターは、MDMスタッフの送別会で「ミャンマー国歌」を誇らしげに歌った。

◆あるお宅で僕は歓待を受けた。彼は、僕の訪問を感謝し、喜び、部屋の狭さ、暑さを詫び、ティー、水、美味しいバナナパンケーキの「サヌィン」でもてなしてくれた。そのもてなしが、東北の仮設住宅の景色にリンクした。東北に通ったように、ここにもできるだけ通おうと僕は決めた。隣国の難民キャンプで、ミャンマー人としての誇りを持ち、ミャンマー人として生き、ただ祖国ミャンマー政府に、「ミャンマー人」と認めて欲しいと願う。そんなロヒンギャのことを一人でも多くの人に伝え、その生きた証を残すために。(小石和男


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です。1979年の地平線会議発足以来変わっていません)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。通信費振り込みの際、通信についての感想など付記してくれると嬉しいです。

太田忠行(6,000円 いつも地平線通信をお送りいただきありがとうございます。3年分をお送りします。)/三羽望 10,000円(今後、三羽八重子あてでおねがいします。望は娘ですが海外在住のため。通信楽しみにしています)/東亜古/恵谷眞保(10,000円)/原田鉱一郎/小林美子/市村やいこ/広田凱子/川村志の武(5,000円 2年分+カンパ)/西川栄明(10,000円 5年分)


なだれ講演会大盛況でした!

第2回宇都宮・東京講演会「雪崩から身を守るために」の報告

■那須山岳救助隊、青山学院大学山岳部、雪崩事故防止研究会の講演会無事終わりました。

 宇都宮の参加者は200名。東京の参加者は450名。熱気がほとばしりました。「地平線通信」で告知に協力をしていただきありがとうございました。東京会場参加者のアンケート抜粋をお伝えします。この講演会は毎年11月の 最終週末に開催します。

来年もぜひ、ご参加下さい。(雪崩事故防止研究会代表 阿部幹雄)

   ◆    ◆    ◆    ◆

参加者アンケート(青学会場)から抜粋

【参加された動機】

「部で行う雪山登山の安全性向上のため」(20代男性学生、千葉県) 「部として雪山に挑戦するため」(20代男性学生、東京都) 「母校で、大好きな山のレベルの高い講習が聞けるから」(20代女性、東京都)、「自身の安全のため」(30代女性、東京都)、「パウダーなどの雪を滑りたいから」(40代男性、千葉県)、「新しい知識を」(60代男性、埼玉県) 「バックカントリーにトライしたい」(40代男性、東京都)

【印象に残ったこと】

「雪崩の仕組みや気象条件など。事故を自分から守るということ」(50代女性、神奈川県)、「生きて還る」(40代男性、東京都)、「雪は天からの手紙、雪のでき方」(40代男性、山形県)、「雪崩の仕組み、図、映像」(20代女性、東京都)、「雪崩の怖さをひしひしと感じた」(50代女性、神奈川県)、「登山を競技にすべきでない。同感」(50代女性、埼玉県)、「来年からはぜひ、有料にして下さい」(40代女性)、「大田原高校の生き残った生徒のことば」(50代女性、東京都)、 「阿部さんの雪崩事故防止のための熱意に感激しました」(60代男性、東京都)

【感想・意見】

「本では難しい内容も話を聞くことで理解しやすかった」(40代男性、埼玉県)、「非常に内容の良いセミナーでした。今まで受けた雪崩の講習会の中で最も良かったです」(40代 男性、東京都)、「雪崩に対して多面的に学ぶことができて良かったです」(40代男性、神奈川県)、「チームで講義をしていただき、それぞれのお話の内容がフォローし合う形になり、分かりやすかったです」(50代女性、東京都)、「専門家によるとてもわかりやすい講習会で良かったです。継続して(開催を)お願いしたい」(50代男性、千葉県)、「心に響く講演でした。生きて還ることを強く認識しました」(50代男性、東京都)、「志の高い方々のレクチャー、たいへんありがとうございました」(40代女性、埼玉県)、「思いを持って活動されていらっしゃることが大変良く伝わって来ました」(40代女性、東京都)、「自分の安全に対する意識が変わったように思えます」(30代男性、東京都)、 「自分も雪崩事故で仲間を失っています。登山者が安全な山登りができるよう何かやりたいと思って います」(60代男性、東京都)、「参加のハードルが低いことが何よりもうれしい!!」(50代男性、埼玉県) 「来年もぜひ参加させていただきます。ネットで知識を得られる時代だからこそ、熟練者の講師より 学べるのは貴重です」(20代男性、神奈川県)、「きちんと学びたいです。参考図書を読みたいと思います」(50代男性、東京都)、「雪崩の怖さをひしひしと感じた」(50代女性、神奈川県)、「無料で今回受講しましたが、今後は有料でも受けたいです」(30代男性、東京都)、「とても素晴らしい企画と思います。無料とは信じられません。机上として素晴らしいですが、あとは登山者の実地訓練の繰り返しが重要と思いました」(50代女性、千葉県)、「(雪崩サーチ&レスキュー)実習を受けたい」(30代女性、東京都)、 「フィールド講習も参加したいです」(40代男性、千葉県)、 「来年も楽しみにしています」(50代女性、埼玉県)

★この講演会は毎年11月の最終週末に開催します。ぜひ、ご参加下さい。来年2020年は、以下の予定です。

■日時と会場■
  2020年11月28日(土)
  栃木県総合文化センター

  2020年11月29日(日)
  東京・青山学院大学本多記念国際会議場

※入場無料・事前登録不要・入退室自由

日本冒険フォーラム、11月17日に無事終了!

報告書作成のためのテープ起こし要員を募集します

■11月17日(日)、お茶の水の明治大学アカデミーコモンで、「2019日本冒険フォーラム」が開催されました。これまでの2回では植村直己さんに連なる「冒険」がコンセプトでしたが、今回はパネリストにパラアスリートの田口亜希さんが加わったこともあって、「新たな自分の発見」や「チャレンジ」などがテーマとなり、人生の意味を考えさせる味わい深いお話が飛び交いました。神長幹雄さん(司会)、小松由佳さん、角幡唯介さんといった地平線おなじみのメンバーもパネルディスカッションに登場。また、岡村隆さんの尽力で探検部の後輩やNPOの方々も来てくれて、地平線のメンバーともども会場内の案内や物品販売などに活躍してくれました。当日の映像上映は落合大祐さんが、写真撮影は白根全さんが担当してくれています。

◆このフォーラムの報告書制作を、今回もまた地平線会議で引き受けることになりました。昨日、植村直己冒険館から当日の録音と映像が届きましたので、まずテープ起こしから始めたいと思います。全体は大きく[1]中貝宗治・豊岡市長によるプレゼンテーション「豊岡の挑戦」(約20分)、[2]山極壽一・京都大学総長による基調講演「人類を進化させた冒険の精神」(約45分)、[3]パネルディスカッション(神長幹雄+市毛良枝+山極壽一+田口亜希+小松由佳+角幡唯介)「挑戦し続けるこころ」(約100分)の三つのパートに分かれていて、それぞれ録音(会場の音響システムからの録音なのでとてもクリアです)と映像(会場後方からの固定カメラ)があります。

◆テープ起こしを手伝ってくださる方を募集します。分担やデータの受け渡し方法などは、人数がひととおり出揃ったところで相談しましょう。締切は来年1月上旬の予定。冒険館の吉谷義奉館長からは、ささやかではあってもなんとか謝礼を差し上げたいと伺っています。世界的なゴリラ研究者である山極壽一さんのお話にも、著書などにも書かれていない、心揺さぶられるエピソードがたくさんありました。興味のある方は丸山までメールをください。() 丸山純

極限とメシの本を出しました

■江本さんほか地平線会議関係者の皆さん、こんにちは。過去に2度報告させて頂いたことがある西牟田靖です。

 11月に新刊を出しました。『極限メシ! あの人が生き抜くために食べたもの』(ポプラ新書)です。角幡唯介さんや服部文祥さんのほか、戦場看護師、シベリア抑留体験者、ヨット遭難体験者など6人にインタビューしました。また巻末には小説家の角田光代さんとの対談を載せました。今回は自分自身の体験や取材ではなく、他者との体験を通じて極限そして食事というものを考えました。

 12月20日にはこれに関連してイベントもやります。昨年秋、3年4か月ぶりにシリアで解放された安田純平さんがお相手です。人質として過ごす中でどんな食事を食べて希望をつないで生きてきたのかーといったことを伺う公開インタビューです。

場所は
  高円寺パンディット
   東京都杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2階
  入場料2000円、19時開場です。
  090-2588-9905(担当:奥野)

 ここ30年近く続いている中国の経済成長をテーマにしたルポ/解説書が3月に発売される予定ですが、こちらについてはまた後日お知らせさせてください。(西牟田靖

子犬が6匹も生まれました!

■江本さま 無事に子犬が生まれました。今朝2時くらいから次々に6匹誕生。安産でした。ここずっとー35度で心配だったのですが、昨日の夜くらいから少しずつ気温が上昇して、今はたったのー18度。気が楽になりました。まだ小さくてネズミみたいです。

◆江本さんも知っている“ペチュニア”の孫になります。本当は、私のアラスカ生活が落ち着いて、資金の目安が立つであろう来春に別の子と交配させるつもりでいました。でも若い子たちの自由恋愛を止められず……。色々厳しいですが、頑張って全員幸せにします。(本多有香 12月8日 アラスカ・ヒーリー発)

白根全さんの「カーニバルトーク」炸裂!

■代官山でのカーニバルトーク(4回シリーズ)に行ってきました。音楽の玉手箱を開けたような時間が待っていました。第一回目はブラジル編。出演は久保田麻琴氏と我らが白根全さん。最初のお話、リオのカーニバルからして知らない事ばかり。

◆次に紹介されたのがノルデスチ地方(北東部の意味だそう)。ご存知ですか、ブラジル最初の首都サルバドールがあるバイーア州やその隣のペルナンブーコ州の州都レシーフェ。「この世の果て」と呼ばれてきたこのあたりの土地が実はカーニバルとそれにまつわる音楽の宝庫だったのです。白根さん渾身の一枚の写真をバックに伝統を色濃く反映している古典的リズム・ロックだか何だかわからない混沌とした音楽までが次から次へと登場。陶酔してしまったのか訳が分からなくてただポーっとなってしまったのか不思議な感覚が漂っていました。

◆気が付くと久保田さんが楽しそうにリズムを取っている姿が見えました。頭のてっぺんからつま先まで音楽が詰まっているような方だなあ。実にしなやか。ルイス・ゴンザーガとシコ・サイエンスの名前だけやっとの思いで覚えました。レシーフェはポルトガルとオランダに占領されていた時代があって、オランダ占領時代に(信教の自由があったので)ユダヤ教徒が大勢移住してきたそうだ。

◆しかしポルトガルが台頭すると中には北米に逃げた人々もおり、それでニューアムステルダムが作られた(後にニューヨークとなった)のだとか。話はジャズにも及び、ブラジル人はジャズの殉教者コルトレーンよりチャーリー・パーカーの方が好きだよねとかなんとか。2回目も吸い寄せられる様に代官山に向かいました。江本さん、車谷君、山田高司さん、それに高野秀行さんご夫妻の顔も見られました。今回は久保田氏、白根さん、そしてピーター・バラカンさんがゲスト。三大カーニバルの聖地トリニダード・トバゴからお話スタート。この国のカーニバルは1か月近く続くそう。この間にスティールパンのコンテスト「パノラマ」が開催される。

◆カーニバルの衣装は豪華絢爛。紅白歌合戦の小林幸子さんを想像されたし。そしてお次はカリプソ。カリプソの歌詞は島々にニュースを広める役割を実は担っていたそう。4分の2拍子の曲が流れると、ああなんかほっとしますねえと久保田氏。私、ハリー・べラフォンテの「さらばジャマイカ」が大好きです。そういえば2回目の時、あるところから白根さんのお話が(ギアが全開となり?)止まらなくなってしまったのです。なんと26時間は話し続けたことがあり、今日もその自信がお有りとか。当日の主役ピーター・バラカンさんがはにかんだようなお顔で隣りに静かに座って居られたのです。

◆ヨーロッパ音楽・アフリカ起源の音楽・南米古来の音楽が混交して時に哀愁漂う(サウダージ?)なんとも奥深い世界を垣間見た思いでした。ほんとに知らない事ばかりでした。10日に3回目、最後の回、日程は未定の様子。下記URLからお店の情報をご確認下さい。http://haremame.com/中嶋敦子

■荒木町E本さま江

もしもし、ごきげんよう。昨晩(10日)の第3回目カーニバル・トーク、ゲストにドクトル関野氏をお迎えしての2時間半でしたが、もうヘロヘロのヨレヨレ。できれば無かったことにしていただきたし。一昨晩、久保田麻琴氏の思い付きで、急遽ペルー人歌手イルマ・オスノさんにカーニバル・ソングを歌ってもらえることになり、何とかフィニッシュできました。

◆が、あれもこれもととっ散らかったままで話しながら頭の中は真っ白、お運びいただいた皆さまには伏してお詫び申し上げますって、明日から年末までまた南半球に逃亡でござる。なお、4回目はカーニバル弟子のナオト・インティライミをゲストまでは決まっていますが、日程はまだ確定にならず。たぶん、1月後半になりそうです。まま悪しからず、皆さま佳い年末年始をおむかえくだされませ。何とぞ、よしなに。(Zzz-カーニバル評論家)


先月号の発送請負人

■地平線通信487号(2019年11月号)は11月13日に印刷、封入作業をし、14日、郵便局に渡しました。今月はいつもの榎町地域センターが空調工事のため使用できず、牛込箪笥区民センターという新しい場所でしたので印刷も封入仕事もだいぶ勝手が違いましたが、皆さん、柔軟に対応してくれ、うまく進行しました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。毎月、大事な印刷仕事をこなしてくれる車谷建太さんが不在のため、ベテランの関根皓博さん、それに最近印刷仕事もマスターしつつある中嶋敦子、兵頭渉さんらが頑張ってくれました。また、9月の印刷、封入仕事に駆けつけてくれたのに時間の関係で作業に至らなかった今井友樹さん(473回報告者)が今月も来てくれ、初めて作業に参加してくれました。ありがとうございました。
森井祐介 関根晧博 兵藤渉 中嶋敦子 伊藤里香 今井友樹 久島弘 武田力 落合大祐 白根全 松澤亮 光菅修 坪井伸吾 江本嘉伸
★お疲れ会は、彫刻家の緒方敏明さんが5月に個展を開催した「抱月」の近くの「紅樽坊」という中華料理店へ行きました。みなさん、おつかれさまでした。


今月の窓

犬との長い長い散歩

■旅も中盤を過ぎ、たとえ計画どおり縦断が完遂しなくても、試みとして何らかの意味は生まれたと実感を得はじめた頃、ちゃんと発表できるのは地平線会議だけだな、と考えていた。法律のグレーゾンに触れる部分が多く(というかずっとグレーゾーンを旅している)、すべてを赤裸々に原稿にすると狩猟免許や猟銃の所持許可が取り上げられてしまうかもしれないからである。

◆角幡(唯介)くんが「探検行為の計画(発想)は行為者の人格そのものである」と『北へ』の解説で看破している。今回、秋期北海道無銭縦断という発想は、人格とか経歴とか経験とか全然考えず、何がしたいのか自分と正面から向き合ったことで生まれたものである。「一丁の銃を肩にかけ、ただ荒野をどこまでも旅してみたい」と思ったのだ。

◆46歳のときに1500m?走で自己ベストを出し(4分26秒)、それが45歳以上の横浜市記録だった。40代中盤で自己ベストというのは単に若い頃登山をやっていて、本気で陸上競技をしていなかったからだが、それでも、体力的にはまだ行けるという変な自信になってしまった。それが、心身ともに充実しているときに、これまで積み上げてきたことをすべて発揮するような大きな旅と自分が向き合わなかった言い訳である。大きな計画が内包するリスクが怖くて、どこかで日々の雑事に逃げていた面もある。

◆48歳で膝が痛くなり、治らなかった。スピード練習をするたびに膝に血漿が溜まって腫れ上がった。身体を追い込めないので、自分が持っている最高のパフォーマンスを発揮できない。鍛えれば発揮できるはずの能力とは、鍛えることができないなら、ないのと同じである。能力を出すための準備ができないことが加齢なのだ。

◆体が動く時間がもう私の人生に残されていなかった。鹿を撃ち、死にゆく鹿を見ていると、実は自分もゆっくり死んでいるということに気づかされる。詳しい説明は省くが、死にゆく鹿と自分の生命力のベクトルは、傾斜が急か揺るいかの違いだけで、どちらも減退方向に向いているのだ。50歳を前にようやくそのことを実感し、死んでいる部分(機能不全)が増える前に、なりフリかまわず出かけるしかなかった。

◆おもえば40代になってから、登りたい山がどんどん減っていた。クライミング能力が伸びないので、新しいチャレンジができなくなったからだ。新しいチャレンジができないと新鮮な喜びがない。山に行けば、登山はそれなりに大変で、やりがいがあり、面白い。でも新鮮味が乏しければ、苦労や危険を凌駕する喜びが得られない。

◆それがゆっくり獲物にシフトしてきた最大の理由かもしれない。生き物の行動はランダムなので予想できず、いつも新鮮な刺激がある。対戦型のスポーツにドラマがあるのとおなじだ。もっと露悪的に自己分析すれば、私は自分の命をもてあそぶことが怖くなり、獲物の命をもてあそぶことで、ギリギリのところにいるような気分になっていたのかもしれない。

◆もう肉体を酷使するような山旅をやめる(引退の)潮時であることはわかっていた。だが、これまでの人生をずっとそんな身体表現で生きてきた積み重ねがあるので、簡単に手放すことができなかった。他の生き方も知らない。最後にもう一回だけ、とすがりついてしまう。そうやって登山者は「山に死ぬ」のかもしれない。

◆正直に告白すれば、角幡くんの極夜行への嫉妬がある。私は自分の行為の集大成への意識が低かった。そして気がついたら膝が痛い初老のオジさんになっていた。何をやってももう集大成といえる行為は遠い。「一丁の銃を肩にかけ、(犬とともに)ただ荒野をどこまでも旅してみたい」。それは、老後に人生を振り返った時、後悔しないための思い出作り、もしくは引退セレモニーだった。

◆最初に浮かんだフィールドはデルス・ウザーラの舞台であるシホテ・アリニ山脈だった。そのままアラスカ、カナダ、北極、スカンジナビアのイメージ画像が頭の中を流れていった。すべてのフィールドで、銃の所持、銃の使用規制、保護動物と獲物の知識など自由な狩猟行為(食料調達)が大きなハードルだった。さらに、ビザなどの入国に関する政治的な問題、言葉、ほかの食料に関する知識、犬の移動などが問題としてあった。

◆そもそもなじみのない土地には目標となるストーリーのようなものがなかった。海外のフィールドにいきなり思いつきで飛び込んで長期の旅を行なうのは現実的ではなかった(ノリで乗り込んで動物を殺すのにも抵抗があった)。海外の広大な野生環境は私の中で「自分のフィールド」として成熟していないのだ(それが良い悪いはともかく)。

◆『ゴールデンカムイ』、アイヌ新法成立、松浦武四郎など、百年ほどまえの北海道を意識させるトピックが巷をにぎわせていた。もし昔の北海道にいけるなら、銃と犬と荒野の旅ができるのに、と私は思った。そしてふとクライミングにおける「残置無視」という考え方が頭をよぎった。ある岩壁を登ることを純粋に楽しむために、先人が残したピトンやボルトをないものとして無視して登るという登攀スタイルである。同じように街(現代文明)を無視して北海道の山をハシゴしたら、それは昔の北海道といえまいか?

◆昨年の夏におこなった南会津と奥利根の継続サバイバル山行では、途中で国道をまたいだが、人工物を無視することで(作為的ではあるものの)国道に分断された山域を、ひとつの大きな山塊と捉えることができた。街を存在しないものとするとはどういうことか。街がない→人間の社会システムがない→貨幣経済に参加しない? それまでのサバイバル登山でも山の中ではなにも売っていないので経済活動に参加しなかった。お金がザックの奥で無駄な荷物になる瞬間というのは、自力感につながっている。ならば逆に現金もカードも持たなければ世界は荒野になるのではないのか?

◆ここ数年、北海道の山中にある避難小屋をベースに獲物三昧の「獲物山」もおこなっていた。その旅の間中、心の隅っこで、殺しだけの旅は美しくないと感じながらも、ニジマスも鹿もキノコも旨いので、その味に免じて? その心の引っかかりを深く考えないようにしていた。いま思えば、それも長期無銭旅行の準備だったのかもしれない。

◆期間は北海道の狩猟が解禁される10月1日から最長3か月。往路は格安、復路はオープンの航空チケットだけを持ち、財布もクレジットカードも持たずに、犬と一緒に、家から徒歩で歩き出す。長い長い犬の散歩だ。3か月あれば、宗谷岬から襟裳岬まで縦断して、そのまま知床岬まで行けると予想した。ただ放浪するのではなく、目標を設定することで旅は引き締まり、殺生の言い訳もできる。

◆とりあえず稚内から襟裳岬まで分水嶺沿いに5万分の1地形図を購入した(地図の存在ももちろん検討した)。30枚くらいになってしまった。できる限り分水嶺に近い道を繋いで山の中を歩くと1日の移動距離は10キロから15キロがせいぜいだと考えて、行程を区切ると襟裳岬までで、たっぷり3か月になっていた。実際には林道を歩くことが多いと予想されるので、1日に20キロ以上歩ける日もあるだろう。計画どおりなら北海道で50歳になる。オジさんの徒歩旅行なので欲張ることなく、まずは北海道できるだけ分水嶺縦断を目標にした。

◆鹿を撃ち、ニジマスを釣って旅するにしろ、米は必要である。3か月分の米を持つことは不可能。ということで、経路の途中にある避難小屋に食料をデポさせてもらうことにした。小屋を管理する自治体や山岳会に連絡して、デポの許可をもらい、家でデポを作って、9月の頭にレンタカーを借り、フェリーで北海道に渡って、三つの小屋に置いてきた。これで約10万円の出費。会社が私の給料から払っている住民税と健康保険料を休職中は私が払わなくてはならないので36万円。家の生活費3か月分が30万円強。飛行機のチケットなどもろもろでトータル100万円の出費である。

◆無銭旅行は金がかかる。こんなことになんの意味があるのか。でも、このままなにもしないで歳をとりたくない。でも、めんどくさいし、辛そうだし、寒そうだし、夜は長そうだし……。そのうえ今シーズンの北海道は、昨シーズン札幌で発生した、狩猟者の銃弾で森林管理署の職員が死亡するという事故のため、国有林内での狩猟に関する制限が厳しくなる、と出発の2週間ほど前に連絡が来た。膝も痛いし、1年延期もチラリと考えたが、自分の体力とこれからの人生、犬の脂の乗りなどを考えて、揺れ動く心を準備に費やした時間と費用で逃亡防止壁のように取り囲み、やはりいまやるしかないと自分に言い聞かせて、出発した。

◆現地でどうだったのか、に関しては2020年1月の報告会で報告する(皆さん、新年会も兼ねて会場でお会いしましょう)。私は遵法精神に溢れた模範的狩猟者のひとりだが、それでも知らずにグレーゾンに触れているかもしれない可能性がある部分は、原稿にできないので、地平線報告会でしかしゃべらない。本当にあったことを話すのはおそらく最初で最後である。

◆国家権力や人間社会の約束事を軽んじるつもりはまったくないが、野生動物のように自由に旅(移動)をすると、堅実に生きている人が聞いたらにわかに許しがたい行為を意図的におこなっていることもある。たとえば国有林内での焚火は禁止だと、私は今回の山旅中に森林管理署職員と口論になってはじめて知った。

◆北海道で沢登りをすれば、国有林内で必ず焚火をするし(北海道の国有林はとても広く、山岳地帯はほぼすべて国有林)、2003年の日高全山サバイバルでは、1か月間、毎日焚火をして、その記録を本にして発表までしている。いまさら焚火ダメはないだろうと驚いた。ちなみに焚火は、軽犯罪法、自然公園法、自然環境保全法、消防法、その他もろもろの法律で現在の日本では禁止状態にあるといっていい(先日の千葉の台風被害時、報道で見る限り、誰も焚火をしていなかったのは、そのため?)。

◆できるだけ分水嶺から離れないことを目指して、野を越え山を越え歩いた北海道縦断は、ハイキング、ヤブコギ、沢登り、雪山登り、とほぼすべての登山ジャンルを要求された。そこに食料調達と、身体の現状と、これまでの北海道の知識と、3年訓練した犬と、グレーゾンを気にせず行動する図太さを加わえると、その旅は、私がこれまでの経験と知識をフル動員する集大成であると言えた(膝の痛みも含めて)。山旅の発想と実践とは、やはりその人の人格そのものであるらしい。(服部文祥


あとがき

■12月5日、アフガニスタン・ジャララバードで起きた、理不尽な、あってはならない事件の衝撃がまだ続いている。医師、中村哲さん。この人だけはどんなことがあっても地球のどこかで生きていてほしい人だった。お前が身代わりになるなら、と言われたら思わず考えてしまうであろう、数少ない1人だった。

◆著書『天、共に在り』が第4回梅棹忠夫山と探検文学賞に選ばれたため、その授賞式でお会いし、話をさせていただいたことがある。淡々と語る口調が直裁で美しかった。座って指示するだけでなく、作業に必要な重機を操ることができる人だった。「百の診療所より一本の用水路」をが持論で、最大の元凶は2000年夏以来顕在化した大旱魃なのにメディアはそのことをきちんと伝えてこなかった、と厳しかった。

◆すでにおわかりの通り11月号通信のフロント原稿に出てくる「

○小平」の最初の字が印刷できず、昔よくやった漢字の切り貼り作業となりました。森井さん、ご苦労さまでした。(読者の中に数えてくれた方がいて切り貼りは8か所あったそうです)。11月の報告者、伊藤幸司さんの「山旅図鑑 no.244・大台ケ原〜大杉谷」を全641ページ印刷したもの、貴重な資料なので私が保管しています。「2019年5月21日〜23日」の3日間だけなのに、詰め込まれた写真、文章のぎっしりと重いこと。一目見たい、と思う方は声かけてください。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

北の森(ノース・ウッズ)にオオカミを追って

  • 12月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「20年通って、ようやく少し森のことがわかってきたかな」と言うのは写真家の大竹英洋さん(44)。米国ミネソタ州北端のスペリオル湖から北西へカナダ中央部にかけて広がる湖水地帯、通称ノース・ウッズの自然に魅せられ、通い続けてきました。

東京に生まれ育ち、漠然とジャーナリスティックな仕事に憧れていた大竹さんは、一橋大学生時代に星野道夫さんの写真を見て衝撃を受けます。次いでネイチャー・フォトグラファーのジム・ブランデンバーグの狼を撮った作品に感銘を受け、弟子入りを熱望しました。

確たるアテもなく、彼が住んでいると推測したノース・ウッズに飛び込んでいきます。無数の湖が連なる森林地帯を前に、旅の足としてのカヤックの存在を初めて知り、それまで全く経験がなかった水上の旅に漕ぎ出します。

8日後終点と定めていた湖で奇跡的な縁でジムに出会うのですが、弟子入りはかないません。しかしジムの友人で著名な探検家ウィル・スティーガーに知己を得たことで、大竹さんの写真家修業が始まったのです。

「そこに暮らしてきた人達にしか見えない自然の美しさを捉えたい」という大竹さん。近年は先住民のアニシナベ(オブジワ族)の人々とも交流を深めてきました。「究極の目標はオオカミを撮影すること。まだかなわないけど、その分モチベーションが持続してる。いつか自分がもっとちゃんと自然を見られるようになったらきっと撮れるのかも」。

今月は大竹さんが愛するノース・ウッズを語ります。なお、大竹さんの20年前の初の旅を綴った「そして、ぼくは旅に出た。〜はじまりの森 ノースウッズ」は第七回梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞しています。


地平線通信 488号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年12月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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