2020年10月の地平線通信

10月の地平線通信・498号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

10月14日。シベリアからの寒気団が南下しつつあり、日本列島はこれから冷え込むとの予報だ。東京の新型コロナウイルス感染者はこの日15時現在で新たに177人が確認され、全国の感染者数は90000人を数えた。死者は1638人。幸い、まだ少ない。

◆世界全体でこの日までにコロナで亡くなった人は108万人を超えた。感染者も増え続け、14日現在、世界中で3200万人が確認されている。最も感染者の確認が多いのは、アメリカで789万人(死者は21万6000人)次いでインドの718万人(死者は11万)、ブラジル(511万人が感染、死者15万人)で、この3か国だけで合計1500万人の感染が確認されている。

◆この1か月で最大のトピックは、11月3日に迫った米大統領選の真っ只中トランプ大統領自身が新型コロナ・ウィルスに罹り、入院を強いられたことだ。3日で入院を切り上げ、ただちに激戦区での遊説を開始したが、自分のタフネスを示すため絶叫するトランプとその支持者たちを見て、ただ大国アメリカの落日を感じるばかりだった。11月の通信で結果が書けるのかどうか。ドロ沼の状況が予想されて気がかりだ。

◆7日、オーストラリアからメールが届いた。?「江本さん、これからもお身体に気をつけて、何度も何度もこの日10月7日をお迎えくださいませ♪」。シール・エミコさんからだった。先月の通信で大腸が破れた、と伝えられ、心配していた矢先。「またもやご心配をおかけしてすみません。少しづつ回復に向かっております。毎日精いっぱい踏ん張ってます!」そして付け加えた。「地平線通信、有難うございます。私にとって唯一みなさんの活動がわかる情報源。元気の素です」誇張でもいい。あのエミコが不死鳥のように立ち上がった、と知って嬉しい。

◆そう、10月7日は私の80才の誕生日なのだった。古希の折には連れが車で太平洋の田子の浦の浜辺まで送ってくれ、元気な山の友と2人、海から富士山頂までテント担いで歩き通した。傘寿の今年はどうしたい? と聞かれ、真っ先に浮かんだのが「青春の穂高」だった。18才の昔から春夏秋冬通った山。とはいえ、猫の源次郎を上田の家に留守番させてのことで長い日程は取れず、上高地の散策という、年齢にふさわしい、しかし私には新鮮な試みを思いついた。台風が接近しているが、うまく行けば台風の前にたどり着けそうだ。

◆大糸線に沿って「島々」を通過するともう懐かしい懐かしい世界。マイカーが入れるのは沢渡(さわんど)まで。ここからタクシーで上高地までは30分ほどだ。釜トンネルを抜けるとあの大正池。上高地はすぐだ。幸い、雨は本降りにならず、水気をたっぷり湛えた森の匂いが嬉しい。人が少ない中でご存知河童橋はやや賑やかだった。雲が上がると吊り尾根が一瞬見えた。あぁ、あそこを何度も走ったっけ。

◆明神池まで散策し、帰りは梓川を渡って人通りの少ない対岸を行く。誰とも会わない森の散歩。道が木道に変わってしばらく進んだとき、後ろから1頭のサルがすぐわきをすり抜けて行った。おお、お猿さん、こんにちは!  と、少し得した気分。が、すぐ次にべつの1頭が私の横を抜けてゆき、ややあって今度は3頭ほどが。なんだ、家族で移動中なのか、と見ていると来るは来るは、数メートルの間隔で後から後からサルたちがやってくる。中には母ザルのお尻にしっかりかじりついた赤ちゃんザルも。

◆北アルプスで野生のサルの群には何度か遭遇している。ときには尾根から石を落とされてやばい瞬間もあった。それに較べて今日の群はなんと親和的なのだろう。「80才のお祝いに集合命令がかかったのよ」と自身も動物好きの連れは言う。実際そうではないかと思うほどサルたちは次から次と私たちのわきを通り抜けて行く。今年は山の食べ物が豊かなのか大人のサルはまるまると肥えていて、栄養満点の感じ。子ザルを含めて群は、なんと40頭を数えた。中には岸辺の木に攀じ登り、細い枝に全体重をかけて水面すれすれまでしならせ水を飲む達者なサルも。

◆誰もいない穂高の麓の森での贅沢な出会いに感謝した。15分ほどしてサルたちは一斉に右手の笹薮に消えていった。行く先は決まっているのだ。歩きやすい木道に私たちしかいなかったので安心して出てきたのだろう。自然公園財団上高地支部の所長に後で顛末を話すと、「そんな大群は珍しいが、原則私たちは叫んだり、木の棒で威嚇したりして追い散らすことにしています」とのことだった。上高地のサルたち、傘寿のお祝いをありがとう!(江本嘉伸

[ハガキ予約制で報告会やります]
◆久しぶりに地平線報告会をやります。ただし、定員が限られているのでハガキ申し込み制とします。音声か動画をのちに聞くことができるようにするので参加できなくてもご期待ください。詳しくは20ページに。

地平線ポストから

国府めぐりの「分割日本一周」

■『地平線通信』の2月号ではみなさんに、「これから10年計画で日本の国府をめぐります!」と宣言した。国府とは日本の旧分国の中心地。有言実行のカソリ、さっそく4月からスズキの150ccバイク、ジクサーを走らせて「国府めぐりの分割日本一周」を始めた。まずは「北海道一周」。蝦夷地の北海道は明治2年(1869年)、従来の七道(東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)にならって「北海道」と改称され、石狩、後志、渡島、胆振、日高、十勝、釧路、根室、北見、天塩の10か国に分国された。国境を徹底的に意識して北海道を一周したが、狩勝峠や石北峠、根北峠などの峠名はそれぞれの国名の合成。北海道にはその後、11か国目の千島国ができた。それにしても4月の北海道は寒かった。何度となく雪に降られた。

◆つづいて「東北一周」。東北は陸奥と出羽の2か国からなっているが、まずは陸奥の国府へ。仙台市には国分寺と国分尼寺がある。隣接する多賀城市の多賀城跡が陸奥の国府跡。現在も発掘調査がつづけられている。その近くに総社の陸奥総社宮がある。国府跡と国分寺跡、総社跡の3点セットを探し出し、見てまわるのが「国府めぐり」の基本。国分寺は男僧用の国分僧寺と女僧用の国分尼寺から成っている。現存する国分寺は1寺もないが、多くの国分寺跡には現行の国分寺がある。

◆総社は難しい。多くの総社は消えているが、陸奥総社宮のように現在でもしっかりと機能している総社もある。「六所神社」はまず間違いなくそれぞれの国の総社だ。名前が変わっている総社も多くある。最後に塩竃にある陸奥の一宮、塩竃神社を参拝して青森に向かった。

◆青森からは日本海側を南下し、出羽の国府めぐりをする。秋田市内の護国神社に隣接する一帯の秋田城跡が出羽の国府跡。ここでは国庁(今でいえば県庁)の一部が復元されている。雄物川の近くには欅の大木が茂る出羽総社神社がある。秋田から県境を越えて山形県に入ると、出羽の一宮、大物忌神社を参拝し、酒田郊外の城輪(きのわ)柵跡へ。ここも出羽の国府跡。秋田の国府が酒田に移った。このように国府は時代とともに移っているケースが多い。

◆ここでは復元された国庁を見る。この城輪柵跡というのは、日本海東北自動車道の終点、酒田みなとICのすぐ近くにある。今までに何度となく酒田みなとICを使っているが、気がつかなかった。国府めぐりをすると、新たな日本が見えてくる。最後は山形。市内の馬見ヶ崎川の河畔に出羽国分寺の薬師堂が建っている。出羽の国府が山形に置かれた時代もあったのだ。

◆「関東一周」では関東を1都6県で見るのではなく、旧国の8国で見てまわった。まずは千葉県。東京から千葉街道の国道14号で江戸川を渡ると市川市。JRは市川駅だが、京成の国府台(こうのだい)駅の近くが下総の国府跡になる。総社跡もある。すこし離れたところには国分寺跡と国分尼寺跡がある。市川から千葉を通り、市原に入ると、ここは上総の国府跡。JR八幡宿駅近くの飯香岡八幡宮は上総の総社。市原市役所を挟んで国分寺跡と国分尼寺跡がある。

◆市原から南へ。東京湾フェリーの出る金谷港を過ぎると、明鐘岬をトンネルで抜けるが、この岬が上総と安房を分けている。安房の国府は館山市と南房総市にまたがっている。館山の鶴谷八幡宮は安房の総社、館山の国道128号沿いには安房国分寺がある。国府跡は見つけにくいが、地名が教えてくれる。

◆館山市から南房総市に入ったところが「府中」。府中はまず間違いなく国府跡。宝珠院という寺があるが、このあたりが安房の国府跡だといわれている。総社の鶴谷八幡宮も元々は府中にあった。このあと安房の一宮の洲崎神社と安房神社を参拝。一宮もセットでまわっているので、上総の一宮の玉前神社、下総の一宮の香取神宮まで足を延ばす。こうして下総、上総、安房をめぐると「房総半島一周」になる。

◆関東8か国の「国府めぐり」では、相模の国府跡の大磯からは国道1号で箱根峠へ、上野の一宮の貫前神社からは国道254号で内山峠へ、上野の国府跡、総社跡、国分寺跡の前橋からは国道17号で三国峠へ、下野の国府跡、国分寺跡、総社跡の栃木市からは国道4号で福島県境へ、常陸の国府跡、総社跡、国分寺跡の石岡からは国道6号で福島県境まで行って折り返した。「関東境」まで行くことによって、関東の大きさをあらためて実感するのだった。

◆「関東編」を終えると、「中部・関西・四国一周」で中部地方の16か国、関西の16か国、四国の4か国をめぐった。そして9月には「中国一周」で中国地方の12か国をめぐった。あとは「九州一周」の12か国を残すのみ。10月には「九州一周」に出発する予定なので、10年がかりの「国府めぐり」は半年で終えられそうだ。しかし日本の旧国68か国の「国府めぐり」を終えても、この先、さらに旧国にこだわって日本をまわろうと思っている。日本はおもしろい。旧国にこだわって見てまわると、日本はよりおもしろくなる。(賀曽利隆

グレートヒマラヤトレイル断酒行

酒やめました

■昨年10月某日、突然膝に激痛。満足に歩けない。2年前に登山中の事故で痛めた傷がまだ完治していなかったのだ。3月からネパールヒマラヤの中腹を貫くトレッキングルートを30日以上歩くという計画があるため天を仰ぐ思い。私に限ってだが、これまで整形外科や整体では良い結果が出たことはない。残るはダイエットして膝にかかる負担を軽くすることぐらいしかない。11月3日、奇しくも文化の日に酒を断った。

新型コロナウイルス感染拡大

◆効果はてきめん、あっと言う間に体重は5キロ減。膝もテーピングでなんとか歩けるぐらいまで改善、いよいよ出発という3月初旬、新型コロナウイルス感染拡大の影響がネパールにまで及んできた。カトマンズ空港でのアライバル・ヴィザの発行が停止され、どんどんまずい雰囲気になってきた。在日ネパール大使館に問い合わせると、入国できるかどうかは入国管理官の判断次第だとのこと。予定を5日早めて慌てて出発。経由地のクアラルンプールのトランジットラウンジはピリピリした雰囲気。警戒の緩い日本とは違い、マスクをしていない人はもちろん皆無、ビニール手袋をした人が目につく。

◆まるで戦場取材に赴くような緊張感のなかカトマンズ便に搭乗、以前なら機内サービスのビールかワインをいただくのだが、ホットコーヒーで満足している自分に驚く。断酒は4か月以上続いている。密かに恐れていた、手が震えたり、小人の大名行列の幻覚を見たりすることもない(これは、正直とてもうれしかった)。長期間ヒマラヤを歩かなければならないというプレッシャーや新型コロナウイルス感染拡大による様々なトラブル。酒を飲む理由は一杯あるのに何故だろう。友人たちが、断酒について異口同音に「すごいね、意志が強いね」とほめてくれる心地良さが背中を押していたのかも知れない。

◆かつて機内で酒を頼むとき、2杯目の注文を念頭にキャビン・アテンダントに必要以上に良い人ぶっていた。そういった酒を手に入れたいという姑息な欲望からの解放かも知れない。しかし、長年の習慣はなかなか変わらない。宿舎のホテルに近づくと、街角の酒屋からホテルまでの距離を測っていたりする。それも、もう過去のことになりつつあった。飲酒のための習慣と少しずつ決別し、酒のない生活に入っていく感じは、中学1年生で初めて親元を離れて寄宿舎生活を始めた時の新鮮さと同質のような気がする。

断酒、もう一つの理由

◆「酒は人生の友」と思ってきたが、ある時そのことについて強い疑念を抱いた。仕事終わりに、キューっと飲む一杯のビール。それを美味しいと思う前に、アルコールが脳細胞を直接刺激するような感覚を認識したのだ。やったことはないけれど、覚醒剤を血管に注入するのはこんな感じではないだろうか? 友と思ってきたが、もしかしたら酒は悪者ではないか? そんな疑問が湧いてきた。そんな時、本所(妻)が一冊の本を見つけてくれた。町田康の『しらふで生きる』だ。

◆読み始めると、合点がいくことばかり。例えば、こういう一文「飲酒の苦しみ・負債はこのようにして増大し、得られる楽しみ・利益は少なくなっていく。飲んでも昔のように楽しくない。(中略)こういう状態を称して昔の人は、『人、酒を飲む、酒、酒を飲む、酒、人を飲む』と言った。ただ飲むために飲んでしまっているのだ」。ちょっと腑に落ちる部分がある。私もそのような悪循環にはまっていたからだ。

◆ストレス解消のために友人と酒を飲む→アルコールで気が大きくなりつまらないことを言ってしまう→反省→ストレスが溜まる→また飲む→またやらかすという負の連鎖にはまっていたのだ。かつて良き友であった酒くんは私に嫌気がさし何処かに消えてしまい、かわってそばにいるのは、友人の振りをした悪者ではないか……。というのも、酒を止めた動機のひとつ。

近くて遠い山:カンチェンジュンガ

◆今回は、世界3位の高峰カンチェンジュンガ主峰(8586m)を擁するカンチェンジュンガ山群を巡るトレイルの取材。メンバーはカメラマンの石井邦彦さん(東京農大探検部OB)と中島健郎さん(ピオレドールを2度受賞した世界的なクライマー)、そして「天国ジジイ」こと貫田宗男さん。昨年、グレートヒマラヤトレイルのマカルーとエベレストを一緒に歩いたメンバーだ。今回旅するカンチェンジュンガ(カンチェンヅーガ)は、チベット語で五つの宝物を秘めた大雪山、「五大宝蔵」を意味するというので、5つのピーク、「五大宝蔵」を迫力ある映像に収められる場所を求めて歩くことにした。

「五大宝蔵」を求めて

◆まず、カンチェンジュンガ山群の北側から。標高6000メートルの高さからドローンを高く上げて撮影したが、「五大宝蔵」のうちカンチェンジュンガ主峰、西峰(ヤルン・カン)、カンバチェンの3峰しか画角に入らない。次に南に向かった先で、新型コロナウイルス感染拡大によるロックダウンに遭い、思うようなルートから撮れない。深雪のラッセル、クレバス帯、ブルーアイスの氷壁、ナイフリッジなどヒマラヤの危険を凝縮したルートからカンチェンジュンガ山群の南側に聳えるボクタ・ピーク(6143m)に登頂。狙い通り、大きな山に遮られることなく、北側からは見えなかった南峰、中央峰が揃った「五大宝蔵」が眼前に並んでいる。

◆しかし、強風が吹きつけてくる。ドローンが飛ばせない。諦めかけた時、奇跡的に一瞬だけ風が止んだ。すぐにドローンを飛ばし撮影開始。撮れたのは、ボクタ・ピークの頂に自分たちを豆粒のように配したアングルから巨大な「五大宝蔵」カンチェンジュンガ山群に近づいていくダイナミックな映像。ヒマラヤの頂に立てたからこそ撮れた映像だった。

断酒行

◆で、断酒行は? カンチェンジュンガに行くために酒を止めたのか、酒を止めるためにカンチェンジュンガに行ったのかよく分からなくなってしまったが、今、冷蔵庫の一段を完全に占拠してしまったノンアルコールビールへの依存との闘いが始まっている。

ご案内

◆宣伝になりますが、カンチェンジュンガ山群に取材した番組が下記のように放送されます。コロナ禍を一時でも忘れていただけるのではないかと僭越ながら思っております。ご覧いただければ幸甚に存じます。(山田和也

[1]グレートヒマラヤトレイル(3)

  「ジャヌー 神のすむ大岩壁」
  NHK BSプレミアム/BS4K同時放送
  10月17日 午後6時から7時29分

[2] グレートヒマラヤトレイル(4)

  「カンチェンジュンガ“五大宝蔵”を求めて」
  NHK BSプレミアム/BS4K同時放送
  10月24日 午後6時から7時29分

1000張のテントが張られた雷鳥沢で考えたこと

■今年のシルバーウィーク、立山の雷鳥沢キャンプ場はテント数900張を越えた。正確には956張。キャンプ場による設置数目安が300張だから、過去最高クラスの混雑ぶりである。コロナ騒動による夏までの自粛のしわ寄せが4連休にやってきた。数々のカラフルなテントやライトアップされた画像はSNS映えすると話題になる。新型コロナウィルス感染予防対策のため、密を避けましょうはいったいどこへ。トイレは1時間待ち。まさにクレイジーッ!!

◆立山の雷鳥沢キャンプ場は、標高約2300メートル。室堂バスターミナルから徒歩45分。立山や剱岳の登山ベースでもある。北アルプスのなかでは人気のキャンプ場のうちのひとつでもある。9月初旬に10日間ほど(もちろんシルバーウィークを避けて)雷鳥沢キャンプ場で過ごした。このときのテントは数張から10張ていどだった。

◆ここ数年山へ行っても活動らしい活動はしていない。登攀をやっていたのは10代後半から20才過ぎくらいまで。厳冬カナダの寒気に身をさらしていたのは40代後半まで。いま50代のちょうど半ば。身体もいろいろ故障が酷くなってきている。その一方で身体能力の著しい低下と相まって、山とも自然とも楽しめるようになってきた。

◆せっかく山に行ったのに、山頂に立たないともったいない。成果のみを追い求める発想は、多くの日本人に見られる。せっかく山や自然のなかにいるのに、まわりの空気に触れて周囲の光景を満喫しないのはもったいない。カナダ人の多くはそんなふうに捉えるということを20年ちかいカナダ通いで知った。どちらが価値あるか。そういう話ともちがう。妥協するくらいなら自殺したほうがマシだという極端な考え方もわかる。一方でありのままの自分をしぜんに受け入れてまったり過ごすのもまたわかる。振り幅がひろいほうが、より多面的に楽しめる。

◆9月初旬の立山ではどんなふうに過ごしていたのか。登攀にとっくの昔に見切りをつけたとはいえ、簡単なルートは登っている。今回は、立山東面の岩稜のヴァリエーション・ルートを登ったし、称名川の支流の沢も遡行した。いずれもロープもヘルメットもなしの空身にちかい。部分的に走ったりするから朝の早い時間に行動を終える(ヘタレ登山者だと1日費やす(笑))。身体能力が著しく低下といっても、標準タイムの半分以下で行動している。朝のジョギングにちかい感覚。

◆ボルダーはほぼ毎日やった。立山界隈にはボルダーがたくさんある。岩の上に腰かけてまわりの景色に目をやる。やっぱり来てよかった。それでも大半の時間はまったり過ごす。ある日の1日。フライシートを叩く雨音で目がさめる。なぜかホッとする。二度寝ができる(笑)。雨が小降りになったら温泉へ。雷鳥沢キャンプ場のちかくに数か所の日帰り入浴できる温泉がある。9月ともなれば、早い時間帯だとたいてい貸し切り。うだうだしているうちに午後の遅い時間。いつの間にか雨はあがっている。

◆1か所に長く滞在して飽きないかとよく訊かれる。1か所に長く滞在するからこそ見えてくるものもたくさんある。山では秋から冬への移り変わりが早送りだ。葉の色は日毎に秋色を濃くする。ちいさな変化がとてつもなく大きなことに感じたりする。もしかしたら夏の繁忙期を過ぎた山小屋の従業員たちも似たようなことをおもっているのかもしれない。

◆ところで次はなにをやるの? そう訊かれて昔から、明確に答えられたことがない。十代のころからいまに至るまでやってきたことをふり返る。数年周期でやっていることも捉え方も徐々に変化している。予定調和的な流れから脱したいというおもいが、つねにあるのかもしれない。そのとき価値あるとおもったことを最優先する。そのときどうでもいいとおもったことはバッサリ切り捨てる。

◆昔と考え方が変わっていても、生きることができるのは過去でもなく未来でもなく今しかない。時間とお金とエネルギーを注ぎ込んでそこまでやってきたことを捨てるのはもったいないと考えるよりも、必要以上に過去にとらわれるほうがもったいない。だから次に何をやるのか、自分でも想像ができない。おそらく誰にもわからない。こんどは何々やってみたらどうですか。他人からそう勧められた時点で、やる気が失せる。先行きがうっすら見えてしまった時点で、魅力をかんじなくなってしまう。立山でまったり過ごしていた時間の大部分は、そんなことを考えていた。(田中幹也

自分の目標となる暮らしをされている島の人たちとの出会い

■5月の末に上五島に来て、あっという間に4か月が過ぎた。ここに来た経緯については7月の通信にも書いたが、コロナの影響で仕事がなくなり、知人が五島で経営しているカフェ&宿で働くことになったからだ。島に来た当初は我々も2週間の隔離生活を余儀なくされ、観光客もほとんどいなかったが、夏のシーズンには少しずつではあるが人がやってくるようになってきた。

◆島暮らしは想像以上に面白かった。まず、とにかく人が濃ゆい。わたしの住んでいた奈良尾地区は元々巻網漁が盛んな漁師町でオープンな人が多く、他所者のわたしを快く迎え入れてくれた。昔は島の中でも一番栄えていた奈良尾だが、今は人通りもまばらで、若い人はほとんど見かけない。でもその分地元のおじさんたちにかわいがってもらって、毎晩のようにご飯に呼んでもらったり、カラオケや麻雀をしたりしてたのしんだ。

◆働いていたカフェやそのオーナーのつながりを通してたくさんの人と出逢うこともできた。毎日コーヒーを飲みに来る常連のおじさんと他愛もない話をするのもたのしく、島の北部(今は奈良尾より栄えていて若者も多い)から来た人たちと仲良くなって、ウェイクボードや釣りをしたり、一緒に隣の島へあそびに行ったりもした。

◆釣りと言えば、わたしの中では何時間も釣り糸を垂らしては何も釣れなかったり、イカ釣りに行って海に落ちたという苦い記憶しかなかったのだけど、五島はさすが釣りのメッカ、本当によく釣れた。家の前の港からでもアジは入れ食いだし、大物のアオリイカやチヌ(クロダイ)も面白いほどよく釣れる。その分島の人たちは魚に関してはかなり贅沢で、ちょっとやそっとの魚では喜ばない。おかげさまでわたしもこの島を出たらもう他では刺身は食べられないのではないかというくらい、随分と舌が肥えてしまった。

◆五島に来てよかったことのひとつに、自分の目標となる暮らしをされている人たちとの出会いがある。上五島で30年以上お米や野菜のみならず、味噌や醤油、ハムや卵、焼酎や椿油に至るまで自給しながら介護施設を運営している「ひろんた村」の歌野さん。ポニーやヤギを飼い、塩炊きを生業とし、子どもキャンプや山村留学の受け入れをしている「くらしの学校えん」の小野さん。隣の福江島に住む宮崎さんは、医師でありながら在来馬や牛で田畑を耕やし、古民家を移築して毎日囲炉裏を焚く暮らしをしながら、伝統技術の継承に力を入れていて、息子さんは鍛冶職人と桶職人。いずれも自給自足をするために移住されてきた方たちで、お話を聞くだけでもとても刺激的だった。

◆特にひろんた村の歌野さん一家にはとてもお世話になっていて、先月からはじまった「自給学校」にも足繁く通っている。先月は醤油の仕込みと米焼酎作り、そして今月は椿油搾りがメイン。今まで難しそうだと思っていたお酒や油の自給も、実際にやってみると一気にハードルが下がり、自分でもできるかもと思えてくる。煮炊きは全て七輪でするのだけど、これがまたすこぶる良くて、炭の調理はフライパンや鍋が煤で真っ黒になることもなく、火力の調整も比較的簡単。お湯を沸かし、味噌汁や炒めものを作り、ご飯を炊き、解体したばかりの焼鳥や干物を焼いていただく。おいしいのはもちろんのこと、自給率90%の食卓にはおいしい以上の満足感や幸福感が溢れていた。自家製のビールや焼酎(フルーティーで感動のおいしさ)もよくすすむ。

◆この4か月間、大変なことやしんどいこともけっこうあったのに、振り返ってみて思い出すのはこうした楽しい記憶ばかり。その辺りは自転車旅とも似てるのかもしれない。仕事を終えてこれからどこに行くのか、何をするか、全く決まっていない。以前ならそれが不安だったけど、今はこの現状にワクワクしている。歳を重ねるごとにいろんなしがらみから解放されて(開き直ったとも言える)どんどん軽くなっている自分に気付いた。

◆コロナウィルスや日本各地で毎年のように起こっている、「100年に一度」の災害を思うと、衣食住+エネルギーの自給力を上げていくことや、そうした仲間内のネットワークを築いていくことは今後ますます重要になってくるだろう。わたしも今後は仲間と一緒に自給的な暮らしができる環境を整えていきたいと、今宵も妄想を膨らませている。(上五島にて 青木麻耶

リニア中央新幹線の問題に登山者はもっと関心を!

■私がリニアモーターカー(以下、リニア)について持っていたイメージは、小学校時代に聞いた「夢の超特急」そのものだった。JR東海が2007年4月に建設計画を発表したときも「早く開通しないかな」と思っていた位であった。ところが、JAC(日本山岳会)青年部時代の後輩である宗像充君からリニアの様々な問題点を聞かされて初めて事の重大さを知ることになる。それがキッカケで、私もリニア問題を調べるようになった。

◆リニアの問題点は多岐にわたるので、ここに全てを書くことはとてもできない。詳しくは、地平線通信にこの問題を提起し、投稿していらっしゃる、樫田秀樹さんの『“悪夢の超特急”リニア中央新幹線』(旬報社)や橋山禮治郎さんの『リニア新幹線巨大プロジェクトの「真実」』(集英社新書)などをお読みいただきたいと思う。ここでは、私の活動と、登山者にぜひ知っていただきたい実情についてお伝えする。

◆私がもっとも心を痛めたのが、南アルプス長大トンネルの両側に位置する長野県大鹿村と山梨県早川村の自然環境の破壊、災害リスクの増大、生活環境の悪化であった。大鹿村と言えば、学生時代に南アルプスを縦走したとき、何度か大鹿村の塩川に下山したときの美しい山村の風景が心に残っている。特に、秋の紅葉は素晴らしかった。「あの美しい村が一日最大1,700台以上のトラックが通過する一大工事現場に変貌し、トンネルの残土が、村内のあちこちに置かれるような場所になってしまう」と知ったときの衝撃は大きかった。

◆長大トンネルの建設に伴って地下水系がズタズタにされ、大井川をはじめとする減水が深刻化することが予想されている。南アルプスは、赤石沢などをはじめとして、大きな沢や谷が多く、それが多様な植生を育んでおり、原始性を留めた渓相や渓流魚の存在は、沢登りの大きな魅力のひとつである。赤石沢の取水堰堤建設にショックを受けた後だけに、それよりはるかに影響の大きいトンネル工事に、今の日本でこんなことが許されるのか、と驚き呆れかえってしまった。

◆「少しでも大鹿村の生活と自然環境を守るためにできることはないか」と考えて当時の国土交通大臣や国会議員に手紙とリニア問題について書かれた書籍を送ったり、インターネット上で私見を申し上げたものの、反応がない。国土交通省の対応は、JR東海のリニア計画を認めた時点と変わらず、国会議員も秘書に会うのがやっとでしかも「地元が動かないとどうしようもない」という。

◆大鹿村の村長宛てに何度かお手紙を送ったが、残念ながら村議会でも建設賛成派が勝利してしまった。公共事業の建設をめぐっては、どうしても建設反対の立場が弱くなる傾向にある。工事を請け負う会社が利益を得たり、残土置き場を高額でJR側に買い取ってもらうなどの経済的メリットを受ける者が少なからずいるためだ。また、飯田市を始め、下伊那地域の自治体は中間駅建設の経済効果を見込んで賛成の立場であり、大鹿村だけ反対しても建設を止められない、という諦めのような気持ちがあることもある。

◆現場を見ないと始まらない。20年以上ぶりに長野県大鹿村に足を運んだ。宗像君の案内で、トンネル工事現場や一時残土置き場予定地などを見学した。また、村内で残土置き場を受け入れる地権者と、反対する地権者との間で、埋めることのできない溝が生じていることも知った。私が残念に思うのは、南アルプスという日本が誇る大山脈の自然が痛めつけられようとしているのに、登山者の関心が非常に低いことだ。私ごときがSNSなどで訴えても関心を示してくださるのはごく一部の人のみだ。

◆環境大臣意見には「山梨県から長野県にまたがる地域の一部は、我が国を代表する優れた自然の風景地として南アルプス国立公園に指定されており、また、ユネスコエコパークとしての利用も見込まれることから、当該地域の自然環境を保全することは我が国の環境行政の使命でもある。また、本事業の供用時には現時点で約27万 kWと試算される大量のエネルギーを必要としているが、現在我が国が、あらゆる政策手段を講じて地球温暖化対策に取り組んでいる状況下、これほどのエネルギー需要が増加することは看過できない。(後略)」とある。

◆これほどの問題なのに国民的関心が低いのは、リニア問題について、地元新聞社を除き、主要メディアには取り上げられてこなかったことも大きい。ようやく大井川の減水問題で静岡県が工事の延期を求めていることから話題に上がるようになった。しかし、一部の問題のみ取り上げられており、また、減水問題でも「静岡県が反対しているので、リニア開業が遅れる」といった静岡県を悪者にするような報道が多い。国民的インフラで大きな問題を抱えた計画で、南アルプスという大自然が大きく損なわれることが予想され、大鹿村など山村の素朴な営みを続けてきた生活や文化、人間関係が破壊されようとしている今、本当にリニアはそうした多大な犠牲を払っても実現すべきなのか、私たち登山者はもっとこの問題と向き合わなければならないだろう。(猪熊隆之

川に寄り添って走りたい

〜ウィズ・コロナ時代のZERO to SUMMIT〜

■走ってもいいのだろうか……。こんなことは今まで考えたこともなかった。社会は果たしてぼくを許容してくれるだろうか。半信半疑のまま、走り始めた。新型コロナ流行の早い段階で10m感染デマが流布し、ランナーはウイルス以上の厄介者にされた。川ぞいを一人で走るぼくのスタイルは三密とは程遠いが、ランナーというだけで顔を背ける人も少なくない。ランニングの大会が軒並み中止に追い込まれるこの現実に、ぼくたちは適応しなくてはならなかった。

◆ランニング・プロジェクト“ZERO to SUMMIT”(ゼロサミ)の大阪篇を3月に予定していたが、夜行バスが運休し、大阪の友人に今は会わんとこうと言われてはお手上げ、延期の決断を下した。4月になっても小学校は休校のままで、身動きがとれない。6月に息子の入学式を見届けた頃からようやく社会が動き始めた。さぁどうする。今秋から開始予定だった海外の計画はしばらく凍結せざるをえない。47都道府県別の最高峰まで海から走るゼロサミ国内篇(2019年までに1都1府15県実施済)に今は専念しよう。まずは群馬篇(太平洋〜利根川〜日光白根山:330キロ)に狙いを定めた。

◆しかし、タイミングは最悪だった。7月に入って都内の新規感染者は急増、東京から来たランナーが喜ばれるイメージがまったくわかない。だけど誰にも迷惑はかけないはず。マスクをして入店、密集地には近づかない、周囲を不安がらせない──これらを念頭に置き、銚子から静かにスタートした。いつものように道中で出会った人に話しかけられない。アクリル板とマスク越しにコンビニ店員に話しかけるわけにもいかない。

◆それでもSNSを通して声をかけていただいた柏のFさん、高崎のEさん、沼田のTさんが応援に駆けつけてくださり、熱い歓迎を受けた。三人とも深い付き合いがあったわけではないのに、まるで家族のように接してくださる。結局会えなかったけど、前橋のMさんからの声援はゴールまでつづいた。日光白根山の山頂まで一人で走っている気はまったくしなかった。

◆群馬の次は北海道(日本海〜石狩川〜旭岳:280キロ)に行こう。今年の五輪マラソンが延期されたので、この8月が狙い目だ。しかし、出発直前に事件発生。現地まで車に同乗させていただく予定だった旭川出身の友人Aの家族が北海道帰省を断念したのだ。残念だが、自粛警察による帰省監視が強まりつつある中では当然の決断。ウイルスよりも人間におののくことになるとは思わなかった。帰りたいのに帰れない彼らのためにも現地の景色を届けよう。逆境に立たされ、かえって意思が固まった。

◆これまで走ってきたどの川とも異なる石狩川の広大な景色の中で、出会うのは工事関係者だけ。ザックを背負って走る見ず知らずのぼくにかけてくれる素朴な「頑張れよぉ」「気をつけてなぁ」の言葉が胸にしみてくる。石狩湾をスタートして5日目。旭川で石狩川と分かれ、忠別川に進路をとる。その先の東神楽で、Aのお父様からの思わぬリモート歓迎が待っていた。作業小屋を一晩開放していただいた上、手作り弁当と手紙が置かれている。お会いしたことはなく、顔も知らないのに、小屋は温かい気持ちに満ちていた。一人なのに、翌朝までAの家族と一緒にいる気がした。

◆出会いは翌日もつづく。少し前に某オンライン企画で知り合ったOさんが、現地の友人をぜひ会わせたいという。かろうじて連絡が通じ、東京から来られていたお母様とともにHさんが応援に来てくれた。Oさんにもまだ会っていないのに、初対面の三人で忠別湖を眺めながら、しばしまったりと会話。不思議な時間が流れた。

◆極めつけはサプライズ応援で旭岳温泉に現れた札幌在住のM夫妻。アポ無しで来たけど、会えなかったらどうしたんだよ、まったく。人を避けていたはずが、いつのまにか最後までずっと誰かと走っていた。北海道に来ることをあきらめなくてよかった。

◆コロナ禍のなか、群馬と北海道、そして9月には富山と石川を走った。現地での交流はなかばあきらめていたが、意外にも平常時以上に歓迎された。たとえ多くの人とオンラインでつながっていても、みんな生身のふれ合いに飢えているのかもしれなかった。ゼロサミとは、山頂に落ちた雨粒が海に注がれるまでの流跡を探りあて、それを海からたどる走り旅。作為を捨て、自然の摂理に寄り添って走っているだけで、出会いが川上から流れてくる。走りながらそれを拾っているうちに、さらに出会いが生まれる。そのひとつひとつを大切にしたい。改めてそう思った。

◆コロナ禍とは関係なく、時代にも左右されずに川は流れつづけている。そんな川に寄り添ってこれからも走っていきたい。ぼくの走り旅はまだまだつづく。(二神浩晃


先月号の発送請負人

■地平線通信497号は、9月16日午後、印刷、封入作業を終え、17日新宿局集配課の方に引き取ってもらいました。今回も24ページの厚い内容となりました。印刷、封入作業は、いつもの榎町地域センターで。 三密を避けて広く呼びかけはしませんでしたが、以下の皆さんが駆けつけ、汗をかいてくれました。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 久保田賢次 白根全 中嶋敦子 光菅修 伊藤里香 江本嘉伸 坪井伸吾


突然中止となった「ノースウッズ」写真展、11月再開します

■6月の大阪展に続き、この通信に登場するたびに同じ告知ばかりで申し訳なく思う。が、これもコロナに振り回されてのことなのでご理解いただきたい。今年の2月末に会期半ばで突然の中止となってしまった六本木フジフイルム スクエアでの写真展が、11月13日(金)から26日(木)までの会期で再開することになった。中止となった時、フジの担当者からも「落ち着いたら必ずまた写真展をしましょう」と言われていたので、いつか再開することは分かっていた。が、あの時の切羽詰まった雰囲気からは、来年にできるかどうか、いや再来年になっても仕方がないとさえ思っていた。だから年内の再開が決まった時、正直、思いのほか早かったという印象を受けた。

◆しかし、皆さんもご存知の通りコロナに関しては何も落ち着いてはいない。ワクチンができたわけでも、治療法が確立したわけでも、ウイルスの正体が判明したわけでもない。それでも、重症者や死亡者が激増している状況ではないので、ある程度の社会活動は動かしていこうという流れなのだろう。実際、大阪での写真展は予定通り終了できた。4、5月の極度の自粛生活のおかげで新規感染者数はかなり少ないタイミングだった。

◆2週間毎日電車に乗って会場へ通ったが、マスクを着用し、写真集の販売やサインを頼まれる度に手指を消毒するなど、感染拡大防止策にはかなり気をつけた。ギャラリートークはできなかったが、ありがたいことに来場者が途切れることはなく、密にならない程度に盛況だった。それでもちょうど会期終了後ぐらいから大阪でもじわじわと感染者数が増加したのは、あの時社会活動を再開したことが原因なのだろうが、写真展のような静かなイベントまで中止にすべきかどうかの是非は、運悪くクラスターが発生するかどうかの結果でしかないような気がする。

◆ちなみにこの原稿を書いている今、サッカーも無観客ながら10か月ぶりの代表戦である。残念な試合内容はともかくやはりライブで見るスポーツは胸が躍る。プレイヤーたちが確定されていない未来に向かって挑戦し、フィールドを走り回っている姿を見ていると、自分も今この瞬間に生きて、世界が動いているのを目撃しているという確かな手応えを感じる。自粛期間中は不要不急という言葉がよく言われたが、スポーツもアートも音楽も旅も、不急ではないかもしれないが不要なものでは決してない。

◆コロナ禍で多くの文化的活動が奪われてからは、自分がいかにそうしたものから心の栄養を摂取し、明日を生きる糧としていたかを実感する日々である。ぼくらはただ単に食べて生きながらえるために存在しているわけではないのだ。今回の写真展はライブのように展示がその都度変化するわけではない。しかし、会場に漂う空気感や大判プリントの迫力はオンラインの画面上で味わえるものではなく、その場で実感してもらうしかない。

◆例えば会場には横幅1メートルを超える特大の銀塩プリントがいくつもある。どれもシャッターを切ったまさにその瞬間に、「いつかこれぐらいの大きさで発表したい」と意識していた。広大な原野にポツンと佇むバイソンや、冷たい大気に舞うカラフトフクロウなど、点景として捉えた動物の周囲に広がる空間を感じてもらいたい。また、メスを求めて森を歩く世界最大の鹿ムースのポートレートも、プリントの大きさを譲ることができなかった写真の一つだ。展示する写真は全部で約50点。撮影年も幅広く、フィルム時代のものから、昨年撮ったものまである。20年越しの思いを込めた写真展なので、ぜひ会場で目撃して欲しい。体調を崩さない限りは、ぼくも毎日在廊するつもりだ。(大竹英洋

大竹英洋写真展

「ノースウッズ 生命を与える大地」
  会期:2020年11月13日(金)〜11月26日(木)
  時間:10:00〜19:00(最終日は16時まで)
  会場:フジフイルム スクエア(最寄駅:六本木)
  入場:無料


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。実は、地平線報告会ができない分、通信を充実させて分厚くしてしまったため、毎月の紙代が半端なく膨らんでしまっているので志は大変ありがたいです。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

森美南子(10000円。地平線会議へのカンパです)(だいぶ以前にいただいたのに記載漏れでした。失礼しました)/永井マス子/中村保(10000円 地平線通信に江本さんのあくなきジャーナリスト魂を感じ敬服の一語です。ますますお元気で幅広いご活躍を。『さよなら神尾さん』に心打たれました。5年分の通信費です)/矢次智浩(10000円) /斉藤宏子(10000円 お元気で。祝福をお送りします。トオクから)/大嶋亮太/嶋洋太郎/近藤淳朗(10000円)


凍った大地を追って

その12  “10年で本を出して次へ行け”

■5月の通信でも少し触れたが、我々が日常手放すことのできなくなった素材ゴアテックスの生みの親、ボブゴア(Robert W. Gore)さんが9月17日に他界した。83才だった。32才の時偶然熱したテフロン(PTFE)を瞬間的に引っ張ることで空隙の多いゴアテックスを発明、以後人類に計り知れない貢献をしたと思うが、発明者はあまり知られていない。最近つまらないハリウッド映画が多いが、彼の伝記とかを映画にした方がよっぽど感動的だと思う。

◆世界最高所のアンデス天文台建設も苦難の道のりで感動的な物語が進行中だ。世の中は、まだコロナ禍の最中だが、今月から天文台工事が再開した。チリ政府も落ち込んだ景気刺激策で公共事業に積極投資を始めた。チュキカマタ銅山へ行く国道も片側2車線にする予定だ。これで大型トラックの追い越しも楽になる。幸いなことに我々の永久凍土ネットワークもこの公共事業の一つに選ばれ、予算倍増、掘る山倍増はありがたいが、年が明けてから忙しくなる。

◆ペルー、コロンビアでも穴掘り準備が始まった。ペルーでは環境破壊で閉鉱した永久凍土地帯の鉱山から未だに流れ出る鉱毒問題、ちょっと深刻なプロジェクトだ。コロンビアのネバドデルルイス(=アルメロの悲劇)と言えば、ちょっと年配の人なら知らない者がいないほど酷い火山災害だった。最近また活発になってきて、新たな泥流災害の見積もりに頂上でボーリングと測器設置のため、コロナ明けに空軍ヘリで速攻穴掘り計画だ。ドリル機材は今の所カナダ国境が開いたらアラスカからメキシコ北部に運び、メキシコナンバーの車に乗せかえ、コロンビアまで運ぶ計画だ。ドラッグディーラーとは逆方向なので怪しまれないだろう。アメリカは輸出規制が厳しく諸事情で船は使えない。

◆我々の凍土ネットワークも北極地域から中南米、そして北海道までつながっている。永久凍土の観測を季節凍土の卓越する北海道でも宮城大学原田鉱一郎氏と実施しているからだ。現在北海道では利尻、礼文なども含め主に道北道東の学校が参加している。以前弟子屈の子供達にアラスカでトナカイを飼っている話をしたが、さほど興味を示さない。聞いてみたら、子供達はみな家で牛の世話をしてから登校していたのだ。さすが道東だ。原田とは長い付き合いだ。ヨットでは陸上隊長、南極ではベースを見てくれた。

◆南極といえば、先月の通信で外間(杉田)晴美さんの寄稿を読ませていただいた。ありがとう。こうやって昔の話を共有できるのは、単独行とは別に歳とってからいいものだ。この連載で南極の話をする機会がなかったが、科学報告書は世界の極地研究で著名な大学図書館で閲覧できると思う。また当時の話は永田秀樹氏の岳人連載の本『氷原の彼方へ』に詳しいのでそちらに譲ることにする。巷の噂では中古本市場でこの本が10円で手に入るらしい。当時副隊長だった松原尚之氏が書いた(幻の)本の原稿を20年ぶりに読み返してみると感じ入るところがあった。ちょっと引用してみよう。

◆“私はまだ過ぎ去った昔の日々を懐かしむ年齢には達していない、と思う。けれど、南極の計画に生活のすべてを注ぎ込んだ20代後半のあの2年足らずの時期は、自分の人生における一つの黄金時代ではなかったかと、今にして思う。あれほど夢中になって、ただ一つのことに集中できたあの頃の若さが、確かに少し懐かしい。吉川といつかまたどこかに一緒に出かけることがあるだろうか? 一つの共通の目的のために何かに取り組むことがあるだろうか? ほとんどありそうもない、そんなことをたまに私は空想する。私たちはかつて確かに一つの旅をともにした。それは、私たち二人の人生という旅の行程が、2年間という期間だけ、類稀なる偶然によって見事に重なった結果である。もうあのようなすばらしい偶然は二度と起こらないにちがいない”

◆たくさんの偶然が重なり、そういう過去が出来上がる。そしていつか歴史の中に去っていく。多分この通信のような活字媒体だけがそこを生き延び、将来こういう個人の歴史に興味がある者が偶然に見つけるのかもしれない。ではこの偶然はどういう意味があるのか? 残りあと2回の連載のテーマにしたいと思う。確かなことは、あれほど集中し、ドラマティックな時間を共有できたのは、偶然ではなく、そういう運命だったのだと思う。

◆ちょうど木崎甲子郎先生が『上昇するヒマラヤ』の大著を出版した頃、先生から“吉川、ダラダラ仕事しないで、長くても10年で本を出して次へ行け”と言われたことがある。結局師匠の教えに背いてまともに出版していないが、適度に次に進むことは守っている。木崎先生の言いたかったことは、人生短くいろいろなことをやりきれないで終わる。人生の1割までをひとつのプロジェクトに充てろということだと私なりに悟った。20代では2年、60代では6年ということだ。歳をとると動きが鈍くなるのに加え、納得のいくようになるのも時間がかかる。そういう意味で松原のいう我々の“あの頃”の2年は歳取ってからの2年とは濃度が違ったのだ。

地平線ポストから
地平線通信への心

大西さんの熱意、神尾ドクターの責任感

■地平線通信497号を読みながら、山に登る高校生たちの二つのシーンを思い浮かべた。ひとつは大西浩さんの「かけがえのない文化が存亡の危機に瀕している」という文章。部活動の中止で苦悩の日々が続くなか、僅かな救いとして記されていたのが「鍬ノ峰」への登山だ。前職で日本山岳遺産基金という、環境保全の取り組みをしている人たちへの助成を担当していた時、高校山岳部からの応募を見て、とてもうれしくなったことを思い出す。

◆東京での認定式に大町高校(今の大町岳陽高校)山岳部の生徒たちを引率して来てくれたのが大西先生だった。ボランティアを担うのはリタイアした方々というイメージもあるなか、高校生たちの新鮮なプレゼンは会場の注目を集めた。「私もいつか鍬ノ峰の登山道整備を手伝いに出かけたい」。その時の自分への誓いはまだ実行できていないが、早く通常の活動を取り戻せることを祈りたい。

◆もうひとつは、「さようなら 神尾さん」のページからよみがえって来た。高校生たちを励ましながら富士山の頂を目指す姿だ。神尾先生との出会いは、江本さんがフロントに記していた時と同じ、都岳連の顧問ドクターとして日本山岳耐久レースの会場に詰めていらした頃だったが、その後、東日本大震災の被災地の高校生たちと、富士山に登るという活動の事務局を務めていた時にもお世話になった。初めて富士山に登る100人もの高校生たちのためには医療班の充実が欠かせないと、同行をお願いしたのだ。

◆診療の仕事を終え、暗くなってから前泊地、六合目の小屋に駆けつけてくれた。ザックいっぱいの医療器具や薬品類、AEDまでも持参して。もちろん山頂の往復では私が背負ったが、それまで体験したことのないほどの重さだった。「これは神尾先生の責任感の重さだ」と感じながら一歩一歩登ったが、その重みを思い出しつつ、ご家族がまとめられた履歴書を、1行1行大切に目で辿った。(久保田賢次

教科書にはない民のリアルさが伝わってくる地平線通信!

■いつも地平線通信をありがとうございます。冒険・探検者の観る歴史や現代社会観、教科書にはない民のリアルさが伝わってくる記事を毎回、楽しみにしています。

◆江本さんに、なにからお伝えしようかと思うほど、時が過ぎてしまいました。マサ(登山家の戸高雅史さん)は春から大分県のキャンプ施設の指定管理者になり、過疎化していく郷里の地域貢献に力を尽すべし! と頑張っています。オープンエアーのキャンプ場のニーズは高く、密にならないように入場制限をするほどの人気だそう。

◆私は娘2人と葉山にて海ある暮らしと週末は山中湖の2拠点ライフも10年になります。コロナ禍では、学校行事の遠足やら修学旅行は中止ですが、文科省は「子供たちの心身の健全な発達の為の子供の自然体験推進事業」を野外教育団体に委託。野外学校の仲間と助成事業を申請し、子どもと自然がつながる時空間を開き続けています。想えば28年前結婚してヒマラヤに同行する私に、「人に注目される夫について歩くことになるが、あなたはあなたが感じる世界を大切に、夫を語らず自分を語りなさい」と贈ってくださった言葉が今も胸の真ん中に灯っています。

◆江本さんと屋久島の海で遊んだ娘は19歳になりました。昨年10か月間、福祉国家スウェーデンに高校留学し、コロナ渦でも学校も街も家庭もなにかによって崩れることのない豊かな北欧文化と自然や人の営みにふれて6月末に帰国しました。次女は高1、父と行くハードな山行から海に転身し、サーフィンに夢中。家族4人、新しいステージに立ち、それぞれが目指す道を時々ジョインして、私はローギアでゆっくり行こうと思います。江本さんに会いにいきたいです。(戸高優美

小笠原からの便り

■拝啓 小笠原出発前は、おいしい食事ごちそうさまでした。毎日小笠原母島の森を歩いています。仕事内容は世界遺産の小笠原の保護区で外来種の調査と駆除。詳しい事は守秘義務とやらで言えないのですが、近くの無人島に渡る時はカヌーを使うので長年のカヌー経験が役立っています。

◆8月までは奥多摩の山々、9月は亜熱帯の小笠原の森、どちらも東京都です。一国の首都に2000m級の山々と亜熱帯の島々があるなんてのは他に例がないでしょうね。コロナ禍の世でその両方の森で働けている幸運に感謝しています。一般には小笠原の無人島は固有種保護のため入域禁止ですが、特別調査許可で渡ります。そこの浜で驚く事は、南シナ海、東シナ海に面する国々からの漂流物の多さです。

◆プラスチックの廃棄がこのまま続くと、今世紀中にその重さが世界の海の魚全量の重さを越えるとの試算がありますが、東洋のガラパゴスと言われる孤島ですらこれですから、さもありなんと思います。小笠原の海の群青色も空の蒼さも島の翠もとても鮮やかです。世界遺産景気とやらで、若い人の職場もあり、人口が増えているそうです。全国の村の風景と違うのは子供が多い事です。

◆外来種も廃棄物も、人類の一方的欲望の結果。持続可能、多様性、適正技術が語られ始めて30年以上経ちます。随分普通に耳にするようになりました。危機は増していますが、対策の優先順位はこころもとなし。今はコロナ禍で目の前は精一杯。通信9月号で宮本千晴さんが書いている通りコロナ禍でもやっかいな問題は進んでいます。それでも人間中心史観から地球宇宙的相対史観へのコペルニクス的転換の時代なのだろうと、青い海と緑の森の中から夢想しています。

◆とりもなおさず、いまここで一人でもできることからやるという当たり前な日々を重ねています。長くならないようこの辺で失礼します。10月からは奥多摩の山々です。敬具。(景観作庭師、職種、露払い太刀持ち&しんがりしりぬぐい、山田高司

引っ越しました!

 唐突ですが、この度35年間住んだ鎌倉を離れ、人里離れた山の中に移住することを決めました。新天地は、明石(注:あやさんの連れ合い、明石太郎さん)にとっては40年近く通っている場所でもあり、イヌワシやクマとも遭遇するチャンスがあるような環境。これまで私に付き合ってくれましたから、終のすみかは彼の好きな場所にと決心した次第です。

 お引越しは10月1日、すでに済ませました。以来、明けても暮れても段ボール箱を減らす作業が続いています。ようやく半分片付いたところ。だいたい引越しをするというと、「良いね!」というのは旅好きの人。「えっエ〜〜!」と過剰に驚くのはそのほかの人。

 作業していてわかりました。お引越しは、70歳をすぎた人が考えることではないのです。足腰に来ます。とはいえ私にとってはトラックで家財道具を運ぶなど初めてのこと。寝袋を背負って歩くのとはわけが違います。新しいところへ向かうという晴れがましさで出発しました。

 転入届をした時、日光市足尾支所では、役場の人たちが三密で地図上の番地を捜していました。グーグルでも見つからない……と。ここらあたりだと指し示して、ようやく住民登録ができました。別荘として建てられたために住民登録をしていなかったのでしょう。

 足尾町の総人口は1729人(1124世帯)。この私の住む餅ケ瀬渓谷沿いの集落は5世帯8人。ほぼ限界集落。この小さな家は、隙間風が縦横無尽の鎌倉の木造家屋と違って、ドアも窓もぴっちりしまり、屋外は12、13℃でも室温はずっと20℃。夜中の安い電力を使ったエコなオール電化。鎌倉の田舎者は戸惑うばかりです。庭は森。各種のキノコや山栗やどんぐりなどがたくさん実ります。これから野生の動物たちと恵みを分け合う生活が始まります。

 それから、この集落のセッチャンが、早速、「やたら」というナメコに似たキノコを持ってきてくれました。入れ物がないので着ていた上着に包んで! 昔、ランタン村に住んでいた頃、パサン・タルキェ爺さんがいつもそうやって森に入るたびにキノコを持って帰ってくれたことを思い出します。最寄駅は、わたらせ渓谷鐵道「原向 はらむこう」。春は連休頃の三春(梅、桃、桜)にヤシオツツジ、秋は紅葉。夏はキャンプ+渓流釣り、研修の場としても適当な場所です。冬以外の季節、寝袋持参でお訪ねください。

貞兼綾子/2020.10.10)

次の大きな課題に向けて

■こんにちは! ネパール・ドルポ越冬から帰国して、まだまだ落ち着いていない稲葉香です。越冬記録をやっと冊子としてまとめることが出来てきて、その販売や、色んなところで執筆をさせて頂きました。日本山岳会の「山岳」では、西ネパールに通い始めた2007年からの遠征の記録を、今回のドルポ越冬に至るまでをまとめて、さらに「ヒマラヤ協会」では、ドルポ越冬の報告書から日記を掲載させて頂いております。フィールドワークを評価して頂けたのでしょうか、とても光栄でした。

◆現場では日記を毎日書いていて、私は熱すぎる想いが爆発してしまうタイプなのですが、書きすぎ注意で、自分の中の引き出しを変える事を学びました。地平線通信では、毎回その時リアルな思いを書かせて頂き、後には絶対書けないであろう心境が出てきてありがたいです。コロナ禍の中ですが、人数限定の小規模開催の報告会を大阪では5回・東京では1回を終え、初めてのオンライン講演会もありました。それは、地平線会議で出会った光菅修さん企画で「焚き火のある講演会」と言い、とてもいい機会を頂きました。

◆そして年内あと3回講演会が決まっており、頑張り時でもあります。そんな中、実はこの夏に持病リウマチが再発しました。久々の手足の激痛と、毎朝の強張りがでました。再発は、何度が経験してきてるのですが、今回は今までにない、痛いところが多い、いつもより期間が長い。だから、この夏は縦走も沢登りにも行けずでした。朝、立つことさえもままならない、正直きつかったですが、やっと秋になり落ち着いてきました。

◆今、動きたくてウズウズしています。前回、こちらで書かせて頂いたとき、「山美容室」を宣言しまして、今、片付けから少しずつ動き始めてます。今まで旅やヒマラヤ遠征に行きやすいようにと常に変化してきました。美容室で面貸しスタイル11年(お店の一部を借りる)から、今、大阪市内で独立して来年で10年目に入るのですが、次は、もっと負担なく遠征に出れるように山に移転します。

◆春までには、住居の一部を改造し、大阪の唯一の村、千早赤阪村の金剛山登山口から徒歩10分のところに「山美容室」を完成させたいと思ってます。こちらでまたオープンしました、の発表が出来るように頑張ります。そして、ここを拠点にヒマラヤ遠征を目指そうと思います。次の大きな課題に向けてはじまりました!(稲葉香

あの日から20年、伊南川は、冷たい風の季節になりました

■大変ご無沙汰していました、福島南会津から酒井富美です。地平線会議も最近は新しい人、知らないか方々が増えていて「通信」から常に刺激をもらっています。気がつけば、伊南村(現南会津町)の大桃の舞台(国の重要有形民族文化財)で「地平線報告会 in 伊南村」(2000年9月23日)を開催してから20年の歳月が過ぎましたが、あの時の感動は今も鮮明に覚えています。

◆川をテーマにした内容で,世界の川を旅している方々に集まってもらいました。森田靖郎さん、山田高司さん、賀曽利隆さん、そして地元の山椒魚捕り師の星寛さん(寛さんは現在92歳,ご健在です!)。当日は、舞台の花道に関野吉晴さんのアマゾン川流域で生きる人たちの大きな写真パネルも展示させていただきました。今思えば、鎮守の森に佇む狭い場所に150人あまりの人たちが集まり開催できたことは貴重な出来事でした。そして報告会の次の日(2000年9月24日)は、シドニーオリンピックのマラソン当日でした。宿泊したキャンプ場では江本さんの持参した小さなラジオに人が集まり「高橋尚子! 金メダル!」の感動を共にしました!

◆話は変わりますが、この春から8年ぶりに小学校で働くこととなりました。場所は隣の只見町(日本有数の豪雪地帯で真冬は伊南地区よりも倍くらい雪が深い場所)です。全校生45人の小さな小学校で講師として、主に1年生と過ごしています。今を生きている子どもたちとの関わりは、汗水涙の溢れる日々です。

◆昨年は記録的な雪不足で今年もどうなるか心配です。雪の暮らしは大変なことも沢山ありますが、雪不足がさらに大変だということもわかりました。今は雪を生業(除雪やスキー場など)に暮らしている方も少なくないので,昨シーズンの雪不足は住民の生活に大きく影響しました。続けてコロナの影響もあり、家業の民宿も、雪不足でスキーのお客様は半分以下、春の緊急事態宣言を受けて4月末から丸2か月営業を自粛しました。

◆この春中学校に入学した息子も臨時休校となり、早朝からの陸上練習や放課後の部活動などもすべて中止に。新たな夢や希望を持って始まった中学生活も、ある日突然時が止まったかのようでした。親子で悶々としていたそんな時に、毎月届く地平線通信から刺激を受け、色々なことを考えさせられました。とりわけ6月号の長岡祥太郎君(中3)の言葉には深く感動しました。『学校は学びの場であると同時に人間の基礎を築く場所だと思う。学校に戻ればいい奴もいれば気の合わない野郎もいる。それもふくめて自分達を高めていくために必要不可欠な場所である』と。

◆息子は休校中どんなことを考えていたのだろうか? 祥太郎くんのように、今この時に中学生として暮らしながら、今しかない時から多様なことを考え学んでいるのだろうかと。7月から再開した民宿も、本来は最もにぎやかな夏休みを迎えました。7月半ばの鮎釣りは解禁となりましたが、世の中の流れから、お客様は毎週末数人程度でした。8月に入ってからも明るいニュースが少ない中、親戚帰省のない静かなお盆の夕暮れ時に、パワー炸裂の電話がかかってきました!「富美さ〜ん!賀曽利で〜す!今晩泊めてもらえませんかぁ〜!」と。

◆お盆は完全休業中のため、お客様用の食材仕入れもなく、家にあるもので良ければ……と伝えたら「ありがとうございまぁす! ではこれから2時間半くらいで到着できると思いま〜す!」(えっまだ福島市ですか?と)驚きつつ電話を切りました。予定より少し遅く8時半頃、賀曽利さんは到着。すぐ浴衣に着替えてきました。夕飯のお膳を目の前に、浴びるように地酒を飲み「やっぱり田舎料理はいいですねぇ!」と。静かな村の宿も久しぶりににぎやかな夜となりました。その夜は賀曽利さんの人生が醸し出すパワー溢れる言葉を浴びながら、本当に有難い気持ちでお酒も進みました。

◆この原稿を書いている9月20日頃、突然の来訪者がやってきました! 地平線会議の河村安彦さんと白根全さんの突撃訪問でした。我が家の前を流れる伊南川を眺めながら、南米や北米の川での釣り話を聴かせてくれました。二人の会話に耳を傾けながら、そうかこの伊南川も地球の一部なんだなと改めて実感しました。今の私は本当に井の中の蛙状態ですが、いつかまた色々な世界を見に行きたいなぁと思わせてくれました。

◆昨年まで10年間、海宝道義さんと実施してきた「伊南川100kmウルトラ遠足」も、20年前の「地平線報告会in伊南村」も、今思えば開催できたことが奇跡だったような気がしています。本当に地平線会議との出会いには感謝しかありません。ありがとうございます! これからも通信を楽しみにしています。(伊南から 酒井富美

 めっちゃオモロイ家族を

 「めっちゃオモロイ家族を作る」1年ぐらい前、長く続いていた低迷期から抜け出して、私はどうありたいのかを模索していた時期に、突然天から降ってきた言葉。運転中の信号待ちで、突然降りてきた言葉になんとも言えない衝撃を受けました。どうにもこうにもワクワクする! 自分にしかできないことをやりたい。それが木のおもちゃを作る事だと思っていたけど、なんか今は、もっと大事なものが内側にもあるはず。その結果、溢れたモノが木のおもちゃなのでは……? という漠然とした思いがありました。木のおもちゃを志した頃はそれでよかった。私が最も大切にするものは、自分自身の中からでてきた木のおもちゃ。だけど、時はながれ時代も変わり、環境も立場も変わった今、私には自分自信を表現することよりも大切なモノがあったのです。それが当たり前に目の前にありすぎて気づくのに遅れた……!

 「めっちゃオモロイ家族を作る」ことは、それこそが私にしかできないことだし、それが私の作品やんけー! そしてそこから溢れ出たものがarumitoyであってほしい。それはまさに私が描いていた未来なだったなと。そりゃ、ワクワクもするわ!

 最近の家族会議でできた我が家の新しいモットーは、「それぞれのやりたいことは全員で応援・協力する。そのために誰かが犠牲になる必要もない」。今までは主に私達夫婦が好き放題やってきたけど、娘も思春期に入り、自分の人生を歩み始める時期。もちろん彼女にもやりたいことが出てくるわけで、それを私達の都合で動かすわけにはいかない。時間やお金のやりくりも全員で話し合って、全員が納得づくで動く。私にとって、これは「めっちゃオモロイ」以外のなにものでもありません。

 この夏、たごっちはまた4か月も家に帰って来ませんでした。「多胡家、どうなってんの !?大丈夫なの !?」ってしょっちゅう言われるけれど、毎日家に帰って来たとして、別にめっちゃオモロくない。それよりも野放しでイェ〜ィって飛んでいるたごっちを見ている方がオモロイ! その地で繰り広げられた人々との話を聴くのもオモロイ。現場で四苦八苦している話を聞いてゲラゲラ笑う幸せ。めっちゃオモロイ!

 以前の私だったら、到底こんな風には思えなかったはずです。私にだって、やりたい事がある!って絶対思いました。娘がアレやりたいコレやりたいと言ったって、そんな時間やりくりできへんわっ!って思ったはずです。それでいつも、どこか満たされない虚しさやストレスをいっぱい抱えて悲しくなっていました。

 自分の心は自分でしか満たせないのだ。それがいっぱいになったら、溢れた分を周りの人へ与える事ができるんだ。だからいつだって、自分を整えておく必要がある。それがようやくできるようになったから、めっちゃオモロイ家族が勢いよく加速している気がします。

 こんな変化に勢いがついたのも、世の中の既存の価値観が変わり始めた事の影響もあると思います。今となってみれば、私はずっと生きづらさを抱えていたのだと思います。世の中の価値観と合わず、合わせられもせず、いつだってマイノリティで、自分自身を生きる事は出る杭で、それでいったいどれだけ食えてるんだ!?という線引きでの評価。果たして、食えたら本当に幸せか?という疑問も愚問に終わるような世の中だと感じていました。

 でもやっとやっと、人の生きざまや、本当の意味での幸せが価値を持つ時代がきたな〜と思っています。我が家が加速するワケです。

 この秋。たごっちは夏の終わりに2週間ばかり帰宅し、再び旅にでました。今回は2か月ぐらいだそうで。この前まで暑くて暑くて、映像編集するにもMacが動かないとか言っていたのに、一転、10度切った〜寒ぃ〜とか言っておりました。娘は、運動会もマラソン大会も駅伝大会もなくなって、「走り屋」としては少々残念な年ではありますが、6人から始まった学級が8人になり、それなりに人生経験を積んで、小学生の女子感満載です。志高く日々全力で生きる姿は、保育園時代から変わりません。

 私はというと、また、おもちゃの賞をいただきました! 自分の中から出て来たモノが評価を受けるというのは感慨深いです。実はこのおもちゃ、作り方や構造が難しくて、もう廃盤にしようかと思っていました。だけど捨て子にするほどオニにもなれず、長らく在庫がありませ〜んと放置しており、こんな事態になって、「相すみません。スグに見直します!」となったかというとそうもならず(笑)、重い腰を上げてようやく改良を遂げたといういきさつです。結果、ものすごくシンプルな構造になり、可愛くてしかたがない子になりました。

 今日も我が家はそんなオモロイ家族をやっております。オモロイを通り越してオカシナとかにならないようにだけは気をつけようと思います。(木のおもちゃ作家 多胡歩未


森田靖郎のページ

2020コロナ“人類の未来派”に出会う文明の旅

森田靖郎

コロナと共に、人生を運命を探すことに

 昭和、平成、令和の元号越え、20世紀から21世紀へ世紀を跨いだ。そして文明末コロナとの遭遇……コロナ前の社会に、もう戻ることはできない。コロナ危機で生き残るのは強い者か、賢い者か、それとも“何か……”を探そうと、コロナ最前線ルポ『コロナ世代/人類の未来派』(森田靖郎著)を緊急発刊した。

 三密回避、自粛、ステイホームそして緊急事態宣言……気がつけばマスクが街から消えていた。マスクを求める長い行列、医療機関でも悲鳴を上げる「マスク後進国」──先進国は軒並みグローバル化で国産から中国産マスクへ、グローバル化の囚人と化していた。

 “2020コロナ”を誰も予測できなかった。“ブラックスワン”(予測不能)を決め込み、“ドラゴンキング”(想定外分布)を見逃していた。人類は進化しながら、同時に何かを失ってきたのだろう。コロナと出会い、「人生の意味を、運命を探すこと」になった。

 コロナは直感を超える。地球上で、誰もが免疫を持たない新型コロナウイルスは細菌よりもはるかに小さいが感染力は強い。ウイルスは自己増殖ができない、人間に共生し、人体をウイルス工場と化して生き続ける。平常モードから緊急モードに切り替わったのは、コメディアン志村けんさんのコロナ感染による死亡ニュースだった。驚いたのは、志村さんは家族や親族に会うことなく亡くなり、遺骨となって初めて対面できたことだ。人は死んでもコロナは死なない。

 死者へ敬意を払わない社会とは──イタリアの哲学者アガンベンは「生存以外のいかなる価値を認めない社会に疑問を抱かないのはおかしい」と、「死者の権利」を訴え、その意見を巡りネットは炎上した。

 緊急モードのドイツでメルケル首相は「移動の自由を苦労して勝ち取った私のような人間にとって、移動制限は絶対に必要な場合にのみ正当化される。生存のために、絶対的に必要な時だけしか許されない」と、ロックダウンを宣言した。

 人間を行動制限から解き放った東欧革命は、ベルリンの壁の崩壊から始まった。旧東ドイツ出身で統制社会を生きたメルケル首相の言葉にはコロナ危機を受け容れ、民主主義に反するとしながら、誠実で説得力があった。

文化の違いが生命の差に

 コロナには差別はない。しかし、低所得層や医療体制の不備な地域ほど被害が広がる“生命の差別”を生み出した。満足な医療体制が受けられない、防護服なしで働かなければ生きていけない人たちが犠牲になっていく。経済格差が生命の格差を浮き彫りにした。コロナ死亡率には、国家と文化が深く関わっていることがわかる。権威主義的な伝統のある国や地域(中国、韓国、台湾、ベトナム、日本など)、規律を重んじる国(ドイツ)は、アメリカ、ブラジル、フランスなどの個人主義的な国民性よりも死亡率が低い。タテ社会の国々は上(政府)からの自粛要請に従い、ヨコ社会の国々よりコロナ対策の成果があった。

生身のコミュニケーションを奪われた=東京コロナ攘夷論

 三密とは、大衆、消費、情報を集中させ、経済圏コアを中核・周辺に分散させ、都市化、効率化で豊かな社会を築いた資本主義の産物だ。人と接触する機会を8割減らし三密回避は、資本主義のあり方に逆行する。

 日々、メディアが伝えるコロナウイルスの新たな感染者数とは何だろう、数字だけに動かされる“数字社会”は、人間の顔が見えない、生身のコミュニケーションがどんどん失われていく。それでも減らない東京の感染者数、コロナ問題は東京問題だろう。政府が肝いりで観光業へ救いの手を差し伸べた“GOTOトラベルキャンペーン≠ヘ、東京を対象外として実施された。

 幕末期、開国すれば“感染症≠竓O敵が日本上陸すると、攘夷論を盛り上げた。東京を外敵扱いする2020東京コロナ攘夷論、都民の善意に救われた。

コロナ・トラウマ=ほんとうの危機はこれからやってくる

 「人類最期のようなコロナ危機」と政府もマスコミも国民の危機感を煽る。「コロナ」と「生活難」の価値観を比重に、ほんとうの生死を分ける危機はこれからやってくる。コロナ第二波より恐ろしいのは、「生活崩壊の第二波」だ。あらゆる生活層を直撃したコロナ……派遣切りに遭った人、住居を失った人、雇い止め(契約更新の打ち切り)、家族とも会えない孤独な高齢者、個人事業者やフリーランスなど持続化給付金を受けられない業態の弱者たちのSOSは、政府や社会に届かない。コロナ・トラウマ──締め付けられた経済が弱者を追い詰め、やがて社会を壊すことになる。社会的ディスタンスより、経済的ディスタンスから脱け出すまでどれほど時間を要するかわからない。

 日本のコロナ感染の死者数が少ない要因の一つとして「一億総中流化」がある。テレワークにも余裕を持って応じる中流社会、その「一億総中流化」も崩れ始めている。生活保護の対象ともなる年収200万円以下の人たちは、働く人たちの30%を超えた。

 第一波に政府はなんとか応えてきたが、政府は財政的に、第二波の余力は残されていない。医療体制や経済的な補償に必要な積立金……日本の財源制度では、地方自治体には積立金制度があるが、国家財政には年度間の財政調整制度はない。“霞が関埋蔵金≠ニも呼ばれる特別会計の積立金の大半は年金積立金で、これを取り崩すことはできない。残る道は、日本銀行に国債発行をお願いするしかない。総理が日銀総裁に頭が上がらないのは、この仕組みにある。だが、そのツケは次世代が負うことになる。

コロナバブル=V字回復する根拠なき熱狂

 コロナ禍で経済が落ち込むなか、アメリカ、日本の株価はV時回復を見せている。NYダウは続伸を続け、ハイテク中心のナスダック総合指数は一時史上最高値をつけた。株価で恩恵を受けている米国民の上位1%の資産は、中間層すべての総資産額とほぼ同じ、超富裕層にとってコロナ禍は別世界、株価は庶民の生活を反映していない。

 「世界市場は複雑で合理的ではない」と『根拠なき熱狂』(ロバート・J・シラー博士)は、株価世界の不思議と評している。“コロナバブル”の背景にあるのは緊急事態宣言にある。財政出動で、世界の市中に81兆ドルの“マジックマネー”が出回った。コロナ禍の巣ごもりで消費が冷え込む一方、行き場を失ったおカネは株への投資へ、“デフレ市場”と“金融インフレ”真逆の動きのなかで、実体経済と株価は乖離(かいり)している。

コロナショック・ドクトリン=生活改変の実験場

 危機を煽り政権を自在に操る──惨事便乗型資本主義をナオミ・クライン氏(ジャーナリスト)は、『ショック・ドクトリン』と警鐘を鳴らす。

 危機感に平常心をなくした国民は集団ショック状態、これを機に世界改変へ動く──コロナショック・ドクトリンは、民主主義の手続きが省かれ新しい秩序が次々と進む。

 外食や夜の街といわれる産業が「感染防止」の一言で自粛要請対象にされる。わずかな協力費に、経営者は要請に応じざるを得ない。行動の自由、生活権を奪うことは最大の人権侵害のはずだが、コロナ禍では罷り通る。戦時中の「負けられません、勝つまでは」が、いまのコロナショック・ドクトリンだ。マスクの有無、ソーシャル・ディスタンスなど行動チェックする“自粛警察”という市民の相互監視が、“隣組”の再現になりかねない。

ガラパゴスと化した「コロナ復興新内閣」

 コロナ復活へ、国民的足並みが揃いつつあるなかで、安倍晋三首相の辞任の発表があった。ニューノーマルを打ち出した政権の再出発は、コロナ復興内閣のはずだ。コロナ世代のニューリーダーを選ぶ自民党新総裁選びは、コロナ前と変わることなく、派閥の論理のまま、民主主義のルールを無視した“コロナショック・ドクトリン≠ェ罷り通った。変わることの出来ないガラパゴス・ムラ=永田町ムラ、いつの日か日本は時代から取り残され、ガラパゴス国家といわれているのではないか。

政策のマスク=コロナの感染力Rt

 コロナの感染力は一定ではない。地域、気候、人種、人の行動、生活習慣など、コロナは日々変異する。ドイツのコッホ研究所は“Rt”という感染力の単位を発表した。「実行再生産数」を意味するRtは「一人の感染者が何人に感染させるか」コロナの感染力を示す。Rt1とは感染者が一人に感染させる。ロックダウン前のドイツはRt3.4、一人の感染者が3.4人に感染させるアウトブレイク(感染爆発)で、世界的なパンデミックを引き起こす。ドイツ政府はRtの数値を国民に知らせ、行動を制限することでRtを1以下に抑え、0.7まで下がると段階的にロックダウンを解除していった。Rtが0.7だとすると、100人の感染者が70人にそして49人へと徐々に減り、エピデミック(局地的な流行)を抑え、最後にコロナウイルスは消える。感染防止と経済活動の“黄金バランスRt0.75≠研究所は見つけた。

 東京では、第一波のRtは2.6だった。緊急事態宣言直後には0.7に下がった。だが、緊急事態宣言解除後、Rtは再び上昇し、GoToトラベルキャンペーンが始まった東京のRtは1.23だった。東京より感染者数では少ない大阪は、Rtが1.62で、感染力は東京を上回る。感染爆発に見舞われた沖縄では、一時Rtは2.98、エピデミックだったことがわかる。夏休み後、日本全体ではRtが1.00前後を推移している。

文明を破壊した“文明の利器”

 異なった文明との出会いが感染症を地球上に広めた。もっとも衝撃的な文明の衝突は、旧世界と新世界の接近だろう。スペインのピサロが“インカ帝国”を崩壊させた「カハマルカの惨劇」(1532)──インカ帝国が簡単に滅びたのは“三種の文明の利器”だと作家ジャレド・ダイアモンド氏は言う。三種の利器とは、“鉄製の武器”“銃”そして“病原菌”だ。免疫を持たない新世界の人たちにとって“処女地のウイルス”だろう。

 大航海時代、西半球と東半球の植物、動物、食糧、資源そして奴隷などの広範囲にわたる交換=コロンブスの交換により、多くの伝染病も移転された。地球は人類だけのものではない。「細菌の惑星」「ウイルスの惑星」でもある。

コロナ世代──米中コロナ戦争、戦前・戦中を生きている

 50万年前、ぼくらの祖先は黄河源流で生まれた。紀元前3000年、農耕をはじめ、紀元前2500年には人類最初の酒をつくった。文明の起源のひとつは中国大陸にある。

 土を掘り返し農耕を見いだし、森林を拓くことで集落を築く。そして貯蓄に耐える炭水化物の植物を見いだし、乾燥化した土壌で食糧を貯蔵することを覚え、人類が生態系に負荷をかけてきた。自然界に存在している細菌、ウイルスなど病原体とも遭遇した。

 さらに、野生動物を家畜化することで、生きものを媒介として、細菌、ウイルスが深く人間社会に入り込み感染症を次々と発生させる。文明の進化とともに、細菌やウイルスとの共存を強いられることになった。

 集約農業で効率よくお互いが助け合う共同社会を生み出した。人が移動し、物流を発達させることで商品経済を生み出す。文明トレンドに乗り、人はより快適な空間を求め移動し、都市化へ進む。人が移動すると同時に、家畜や野生動物も移動する。人口増加による農産物の増産が重なり、土壌の肥沃度を低下させ環境を悪化させる。

 1万年ほどかけて、人類が繰り返しながらつくり上げた文明の高度化“密閉、密着、密接”は、ウイルスや細菌の感染症と切り離せない生活が始まる。文明が高度化するとウイルスや細菌も進化し続け、サバイバルに決着がつかないことをコロナが教えている。

 ビフォーコロナからアフターコロナへ──その入口から出口まで、文明発祥のひとつ中華文明をたどり、人類の歴史、文明の足跡を通してみるとわかりやすい。中国の改革開放によるグローバル化とコロナ・パンデミックとの関係性、さらにアメリカと中国の政治的、経済的、軍事的関係性がコロナ対策および両国の関係を悪化させ、脱グローバル化へ動く。

 習近平は毛沢東イズムを継承し、香港、台湾そして中国全土を統一、中華王朝復活が夢だ。「中国の夢は、中華文明が世界文明の中心から転落し、アメリカ文明が世界を導く潮流を変えるべくして興った。アメリカ文明の光芒に陰りが現れ、中華の知慧で満たされ、人類の発展を推進する中国の夢を渇望している」。天(宇宙)の中心へ、アヘン戦争以来180年の中華民族の屈辱を晴らすと考えている。

 皇帝vs帝王──現代の皇帝・習近平に対し、アメリカのトランプ大統領は帝王だろう。アメリカニズムを復活させ、アメリカファースト(アメリカ第一主義)で、経済ナショナリズムを突き進むトランプ米大統領は、「パックス・チャイナはパックス・アメリカーナ(アメリカの平和)への挑戦」と、衝突は避けられない。

天宮“宇宙ステーション”を目指す、現代の皇帝・習近平

 習近平が目指す「中国の夢」は、宇宙空間にある。宇宙ビジョンとして宇宙インフラに力を入れ、火星探査そして宇宙ステーションの建造計画である。そのために中華民族の復興“チャイナドリーム”を憲法に盛り込み、国家主席の任期を撤廃し、終身の国家主席を明文化した。新中国建国100周年にあたる2049年までに、世界の一流国家を目指す。

 中国の宇宙インフラ計画には、電力エネルギーの恒久化がある。宇宙太陽光発電衛星(SBSP)を建造し、月面活動の太陽光発電を地球へ送り返すことでエネルギー源とする狙いがある。化石燃料への限界から新たな電力として宇宙太陽光発電を開発することで、世界の電力エネルギー市場を独占しようとする、習近平の野望である。

 “天宮”(宇宙ステーション)は、月軌道への飛行のソフトランディングの基地であり、月面での有人活動能力を高める。宇宙通信により、航行システムやミサイルの誘導など、政治的、経済的そして軍事的情報の収集、偵察の指揮系統を強化するために、中国共産党の新たなミッション“宇宙強国2030”が新たな文明の兆しなのか。

コロナが巻き戻した人類の歴史

 コロナ危機が歴史を塗り替えた。感染が広がり、経済活動が停滞し、社会的弱者へしわ寄せが集まる。2030年までに達成したいとしたSDGs(次世代へ持続可能な17項目の開発目標)は、次々と後退を余儀なくされるなか、最も困難といわれた10番目の項目“人種差別≠、世界的な規模のデモへと連動した。

 「Black Lives Matter」(黒人の生命も大切/BLM運動)──アメリカ黒人殺害事件抗議デモが400年引き摺ってきたアメリカの歴史を、人類の歴史を変えようとしている。コロナで生命の尊さの現実を目のあたりにした“コロナ一体感=A民族、国家、人種を超えて人類が共有したことは史上初めてのことだろう。平和的デモというイメージだが、7%は暴動に発展している。行動や言論が攻撃対象となる“キャンセル・カルチャー”か、差別や偏見を防ぐ政治的中立を装う言動“ポリティカル・コレクトネス”か、言論の自由をめぐりアメリカ社会が二極化している。コロナ変容が人々の意識を変え、社会を変え、国家や民族を超えて絆を強化する可能性を生み出した。

 一方、米中関係のヒビが割れるような、歴史的な法案が通過した。

「香港国家安全維持法」が施行された翌日(7・2)、米議会は党派を超えて「香港自治法案」を通過させた。香港の一国二制度を踏みにじる習近平ほか中国当局を処罰する高圧的な法案に、ヒューストンにある中国総領事館を閉鎖、これに対抗し、中国政府は、成都のアメリカ総領事館を閉鎖、アメリカの外交官らが退去した。コロナ世代は米中コロナ戦争、その戦前・戦中を生きているのかもしれない。

デジタル独裁“デジタル・シルクロード”

 習近平の夢が着々と実現されている一帯一路とは、中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパへ続く経済ベルト「21世紀のシルクロード」と、中国沿岸部から東南アジア、スリランカ、アラビア半島からアフリカへ続く「海上シルクロード」である。

 一帯一路は、交通手段、道路、通信機器などインフラおよび情報社会を整備する計画である。さらに産業および生活の高度化をめざす複雑で多元的な“経済回廊≠推し進めるのが“デジタル・シルクロード≠セ。

 ネットで展開するデジタル・シルクロードは、通信情報手段としての5Gの導入により普及する。夢のような時代を実現しようとする“華為(ファーウェイ)≠セ。国家が約18兆円を投じて進める第5世代(5G)移動通信ネットワーク構想を実現させ、情報集中“5Gタワー≠ノ接続するあらゆるメーカーの情報を中国政府へ送るシステムも可能になる。アメリカが恐れているのは、中国共産党が5Gを使って米軍基地を制御する能力を有することだ。アメリカがファーウェイを目の敵にするのがわかる。

 アメリカはファーウェイが設計した半導体の海外のファウンドリー(半導体の下請け企業)による量産を禁じ、ファーウェイのアキレス腱を突いた。「トランプ大統領のお陰で、自国で生産する覚悟ができた」と強がる中国、米中関係悪化が脱グローバル化を推進するのか。

コロナ世代の監視資本主義

 緊急事態宣言解除後、「社会・経済活動を段階的に引き上げてコロナ時代の新たな日常を作り上げる」と、日本政府は感染者との接触アプリの強化を掲げた。

 国家がコロナ感染者を管理するシステムで、国民は24時間監視されることになる。

 監視資本主義──人間の消費など行動歴をネットで集めた個人情報を利用して、ユーザー(消費者)の行動を予測し消費へと誘導する社会が到来していると、ショシャナ・ズボフ名誉教授は、『監視資本主義の時代』と評した。

 ユーザーの個人的な情報も、ネットによりデータ化されると、収益可能な消費活動への誘導へ変換されてしまう。ウイズコロナ時代、いっそう加速するだろう。

 産業資本主義では自然界の素材が商品に生まれ変わる。石炭や石油などの素材を使って、自動車や家電製品など次々と商品に交換してきた。監視資本主義では、生活者は消費者であると同時に、商品となりうる素材である。個人情報には、行動歴、病歴、思考、個性まで詰まっている。個人情報から行動に関するデータを収集し、企業にとって利益の出る方向へと消費者の行動を誘導する──これが監視資本主義の骨子なのだ。コロナを理由に国家が国民を監視するデジタル独裁社会が待ち受けている。

 街を歩けばスマートフォンで、つねに“何かに接続”されていることが避けられなくなるコロナ時代、読書傾向、ファッション志向、趣味、好みの食べ物、仕事上の知り合いや友人、人間関係、家族まですべてがデータ化され、次なる消費行動の素材となる。都市はこうした人間情報の宝で、収益へと誘導する都市改造が進む。

 グーグルやフェイスブックなどビッグテックが開発、主導する監視資本主義社会は“手段主義的権力”で、強い者だけが生き残る、分断と格差社会の到来を老婆心ながら憂う。

 フェイスブックは、「性格診断アプリ」で得たユーザーの性向を診断し、それぞれにターゲティング広告で、勝ち馬に乗りたい=ネット・ポピュリズム(ネット世論)を利用して、大方の予想を覆しトランプを大統領に生む(2016)片棒を担いだ。

ネット社会はフィルターに覆われた“フィルターバブル”だ。フィルターに閉じ込められると、自分の好む情報に縛られ、さまざまな情報から隔離され、思考や考え方、あるいは行動といったものが次第に画一的になってしまう。限られた情報のなかで動かされ、見えるものも見えなくなり、視野も狭くなってくる。

TOKYOリボーン=コロナ世代のリーダー論

 男を変え得るのは「革命、女、そして麻薬」とは、ポール・ニザンだった。都市を変え得るのは、「デジタル情報、女そしてコロナ」。都市をも変え得る“女”とは──。フィンランドのサンナ・マリン首相、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相、台湾の蔡英文総統など、女性リーダーとしてコロナ対策に存在感を示している。そしてドイツのアンゲラ・メルケル首相のロックダウン宣言は三密回避で荒むドイツ人の心を救った。

 コロナ対策では、日本政府の指導力欠如が諸外国からも指摘されてきた。地方の自治力、知事の発信力そして何よりも「日本人であるという生き方」が支えてきたことは間違いない。安倍政権下(当時)では、医学の専門家、経済、社会の専門家など、さまざまな意見を総合する集合知を形成してきた。だが意見や助言に頼り、責任逃れをしているように思えた。コロナ世代、危機管理には集合知ではなく、全体知だろう。

 さまざまな情報、専門家の助言などを踏まえて、自分の考えや理想、つまり国家、国民の想いを集結する……総合知を分析し、そこから日本という国のあり方、生き方を模索し、自ら構築して発信する全体知が、コロナ復活に求められる。

 SDGsで、生きものが住み続けることが出来る地球環境を目指すコロナ世代、かつての日常を取り戻すことができなくても、ずっと東京に住み続ける都市改造“TOKYOリボーン”はあるのか。小池百合子東京都知事は、定例の会見では新たな感染者数だけを伝えるだけの“火消し役”で、都民に生きる活力を与える言葉やビジョンが表に出ないのが気がかりだ。

トレードオフ(一得一失)かリスクテイクか=適者生存

 何かを得ると、別の何かが失われる=トレードオフ(一得一失)。コロナ感染防止と社会経済活動の復帰の両立はあるのか。それとも、感染者の広がりをある程度覚悟しつつ、社会、経済の日常を取り戻す“リスクテイク”か──。大阪府は独自の基準に基づく自粛要請・解除の基本的な考え方を“大阪モデル”とし“リスクテイク”を覚悟した。経済への過度な影響を排除するために感染者数が減らないリスクも敢えてとるという意志決定である。コロナは勝ち負けではない。コロナ淘汰は勝者生存でなく適者が生き残る

2020コロナ世代「歴史は動いた」

 コロナ文明でいくつかの言葉が頭から離れない。『武漢ダイアリー』を書いた武漢在住の作家方方(ファンファン)は、コロナ禍における文明国家のあり方を問いかけた。高層ビル、強大な武器や軍隊、科学技術など……、これらは文明国家に値するものではない、「文明国家の基準は弱者に接する態度である」と──。

 スウェーデンの16歳(当時)の少女グレタ・トゥーンベリは「気候危機を起こした原因は私たちにあるが、解決策を打ち出すのも私たちであるべきだ」と、「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と各国の首脳らに、緊急の行動を求めた。

 少女に言われるまでもなく、コロナを予測した科学者はたくさんいる。科学者たちは、コロナを予測しながら、いつどこで、どのようにコロナが発生するかは、誰も予知できなかった。偶発的な出来事……、それを受け容れるしかない。コロナは誰のせいでもない、地球上の人類が生み出した数千年積もり積もった文明病だから。

コロナ後、日本の禍機

 コロナ世代の末端の者として、気がかりなのはコロナ後、社会がコロナショック・ドクトリンで改変されていくことだ。安倍一強に見られた全体主義的な政治傾向は、一部議論を切り捨て、政治もメディアも一辺倒に偏りすぎている。政権に都合よく情報管理され、国民を一定方向に仕向けている。勝ち馬に乗りたがるポピュリズムを利用して、安倍一強から菅一強に引き継がれてしまう日本の禍機(禍の予兆)だ。民主主義手法が後退し、ビッグと強い者が勝つ、弱者が切り捨てられる社会に……杞憂であればいい。

強い者でなく、賢い者でなく、変わることが出来る者だけが生き残る

 コロナは大きな教訓を次世代に残した。コロナ復活後、いつかコロナを忘れるかもしれない。しかし歴史はコロナを決して忘れない。ぼくらはコロナ前の生活に戻りたいとは思わないだろう。

 人や社会、国家に運命があるように、文明にも運命がある。運命には逆らえない。突然、仕事を失った人、派遣切りに遭った人、大学に入学しても一度も登校できない学生、就職の内定を取り消された人、家を失い、家族とも会えない人たち、コロナに感染しまわりから閉ざされた人たち……人生の歯車が狂わされた。

 コロナが変えた、それぞれの運命……。「人生の意味とは、運命を探すこと」たしか、ドイツの若き天才哲学者、マルクス・ガブリエル(40/ボン大学教授)だったか……。

 コロナと遭遇し、賢人の言葉に従って、人生の意味を、運命を探してみた。ようやく、たどり着いたのが、運命、宿命そして天命に従って、生き抜くことだと……。人生は、自分史の器だろう。戦後、少年期を過ごし、高度成長とともに育った昭和人間として、最後の大仕事はこの地球を次世代に残すことだ。

 コロナ禍を乗り越えて生まれ変わったヒト、モノ、コト、マチそして時代を、歴史は“2020コロナ世代≠ニ呼ぶだろう。コロナ変容は、人類の未来を変える──。

(森田靖郎著『コロナ世代/人類の未来派』は、アマゾン、kindle、楽天koboで配信しています)


今月の窓

かたつむりのように

新刊『人間の土地へ』をめぐり、著者・小松由佳さんと荻田泰永さんが真摯に対峙したクロストーク

 新型コロナウィルスの感染拡大が始まって半年以上が経った。

 仕事柄在宅勤務は殆ど無いものの、職場以外への外出のチャンスはめっきりと減り、飲み会の回数も減った。天候不順と野暮用で週末の山行きも減って、増えたと言えばオンライン会議くらいのものだ。

 今週末こそは山にと思っていたが、折からの台風襲来予報で諦めた。

 そんな折、北極男の荻田泰永さんが主催する冒険研究所でトークイベントを開催するという案内をもらった。タイトルは『冒険クロストークvol.1 小松由佳「人間の土地へ」』、小松さんと荻田さんのトークなら面白いに違いない。会場の冒険研究所の入場定員は感染対策で20名限定。ボヤボヤしているうちにチケットが完売したので、YouTubeのチケットを購入してネット越しに参加することにした。

 小松さんの話は、去年開催された日本冒険フォーラムのパネルディスカッションで一度聞いているが、複数のパネラーが交代で話す場では消化不良気味だったので、もっとじっくりと聞いてみいと思っていた。

 「人間の土地へ」は先月出版された小松さんの著書のタイトル。出版後すぐに手に入れて一気に読んだ。

 頂を目指す高所登山から山麓の自然と共に生活を営む人へと関心が移り、草原と沙漠の旅を経てシリアに暮らす家族と出会い、彼らとの触れ合いを通して知るシリアの文化の素晴らしさとそこに暮らす人の精神的な豊かさを知る。その後に訪れる内戦、難民となった家族の様子とその後夫となる末息子との壮絶な遠距離恋愛、そして異文化を背負った二人の生活と子育て。その過程が知性的で瑞々しく素直な文章で綴られる。

 クロストークは、第1部「山と人間」、第2部「シリア難民を見つめて〜妻としてフォトグラファーとして」の2部構成。第1部では、小松さんの山との出会いから学生時代の山登り、チョモランマでの挫折、K2登頂、そしてシスパーレでの敗退まで。第2部は、気持ちが山の頂上に向かっていないと気づいたシスパーレの登山の後、シルクロードの旅を経て出会ったシリアの家族との出会いから今に至るまで。まさに小松さんが駆け抜けてきた道のりとその情熱が伝わって来る内容で、にこやかな語り口の中に芯の強さを感じることができた。

 また、今回のトークにあわせてシリアに関する本を何冊も読んで予習し、小松さんの後輩でK2に一緒に登頂した青木達哉さんに事前インタビューをして小松像を掘り下げるなど、相当の準備をして望んだ荻田さんの相手の話を引き出す話術も素晴らしかった。去年話を聞いた時よりも小松さんがリラックスしていると感じたのは、そんな荻田さんの手腕もあるのだろう。居酒屋のカウンターにいる二人の話を横に座ったおじさんが聞いているような雰囲気とでも言えばいいのだろうか。

 小松さんは、仕事や子育てで奔走しながら3年半の歳月をかけて「人間の土地へ」を書きあげた。結婚を後悔したこともあったが、この本を書き上げることによって今までの自分を振り返ることができ、その時々で最善と思えることを選びとってきた結果が今に繋がっているということに改めて気づいたという。

 ふる里というと大半の日本人は生まれ育った土地の情景を想い浮かべるが、シリア人の想い浮かべるふる里は大家族を中心としたコミュニティではないか、時代を超えて移動を繰り返してきた遊牧の歴史があるシリアの人たちは、土地に縛られることはなく、住み着いた人たちが「土地」を作って行くのではないかと小松さんは言う。

 「かたつむりのように人間の土地へ進む」。著書にサインする際に小松さんはこの言葉を添えるそうだ。異文化に深く関わり、シリア難民の生きざまをライフワークとして記録して行きたいという小松さんの姿勢を現す素敵な言葉だと感じた。

 それにしても小松さんは何としなやかに生きているのだろう。もちろん折々に葛藤はあるのだろうが、自分の心の声に忠実にそして真摯に生きている姿勢が言葉からも文章からも感じられ、こんな生き方をしている人がいることに勇気づけられる思いがした。(10月11日、冒険クロストークを聞き終えて。樋口和生


あとがき

■世界がここまで新型コロナウイルスに痛めつけられている今、報告会を無理してやる気持ちはなかった。ただ、こういう言い方が適当かどうか、ほんの少し揺さぶりをかけたい気持ちがある。とりあえず10月はささやかにやってみるが、11月、12月はどうなるか。何も決めていない。冬に入ってインフルエンザウイルスが騒ぎ出すかもしれないし。当分は地平線通信を大事にしよう、と考えている。(江本嘉伸

[10.29.地平線報告会の参加について]
1 ハガキで下記にある地平線会議の住所(江本宅)宛て「10月報告会申し込み」と書いて、住所氏名、メールアドレス、携帯番号を書いて23日(金)までにお送りください。先着30名までの人にはがきかメールで参加OKを連絡します。
2 報告会当日はそのハガキかOKメールをプリントして持参してください。会場入り口での検温、手の消毒、マスク着用にご協力くださ
3 定員になって参加できない人にもメールかハガキか電話でその旨お知らせします。
4 報告会の様子は11月に入り、視聴できるよう準備します。


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

地平線の根っこ

  • 10月29日(木) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室
  •  ※ハガキによる事前予約制です

「外大山岳部でアイゼン技術を叩きこまれてたおかげで、7700mまで登れたんだ。そこではじめて、三浦雄一郎がこんなところでスキー滑降に挑戦したことのスゴさに感動した」というのは、元・読売新聞記者の江本嘉伸さん(80)。'75年のエベレスト日本女子登山隊同行取材時のエピソードです。

その5年前、日本人が初めてエベレスト登頂を成し遂げた'70年は、日本山岳会隊と三浦氏率いるエベレスト・スキー隊が同時期にアタックするという意味でも画期的な年でした。「朝、毎、読の大手三紙の記者が現地に揃ったほど、当時は社会的な大事件だったし、行動者も命がけだったなあ」

'79年、仲間と共に《地平線会議》を立ち上げた江本さんの念頭には、エベレストに見た、探検、冒険をする「行動者」の“生き方の美しさ”を記録に残したい!という強い思いがありました。今年で創設43年目。年末には500回を数えるはずだった報告会の根底には'70年のエベレストがあったのです。

COVID-19のため今年4月以来休止していた報告会を今月久し振りに再会し、江本さんに'70エベレストを振り返って頂きます。半世紀を経てあらたに分かった秘話、そして地平線会議の歩みも語って頂きます。

※会場の制限のため、人数限定の事前予約制となります。整理券をお持ちでない方は会場に入ることができません。ご了承ください。


地平線通信 498号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年10月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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