2020年11月の地平線通信

11月の地平線通信・499号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月18日。午後2時過ぎ、いつものように東京都の新型コロナウイルス感染者数が発表された。なんと「過去最多の493人」。感染者の急増を受けて、都は明日19日、専門家が出席する会議を開き、感染状況を4段階のうち「最も深刻」の警戒レベルに引き上げる方針という。なんとなく安全圏かと思われていた北海道もにわかにやばい状況になってきた。このままでは冬はどうなるのか。あまり大げさにはしたくないが、やはり1年、2年と付き合う厄介なものなのかもしれない。

◆世界を見ても断然厳しい。米ジョンズ・ホプキンス大学システム工学センターによると日本時間のきのう17日現在、世界の感染者数は、5530万人 (うち回復者3560万人)、死者は133万人に達している。感染者最多のアメリカは1140万人が感染、24万8000人が死んでいる。2位はインドで887万が感染し13万千人が死亡。次いでブラジルが591万人が感染、16万7000人が死亡、フランスが204万感染、46273人が死亡 ロシアが197万人感染、3万3931人死亡。

◆アメリカでは大統領選の混乱が続く。13日までに結果が確定していなかった南部ジョージア州(選挙人16人)で民主党のバイデン前副大統領(77)が制したと伝えた。南部ノースカロライナ州(同15人)は共和党のトランプ大統領(74)が獲得。これによりバイデン氏は獲得選挙人を306人に伸ばし、トランプ氏の獲得選挙人は232人となった。しかし、断固負けを認めないトランプの抵抗は続く。来月のこの通信までに決着がついているか微妙だ。

◆メディアの予想に反して現役の共和党候補、トランプは“大善戦”した、と言っていいだろう。あんなインチキっぽく見える男にあれほど熱狂的な支持者がいることはこちらの目が曇っているとしか言いようがない。アメリカの何が私には見えていないのだろう?

◆そんな中、来夏に延期となった東京五輪・パラリンピックの準備状況を話し合うため、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が15日、来日した。断固開催する方針ということで、菅首相以下、日本の要人と話しあったが、この問題来年夏の開会ぎりぎりまでごたごたすることは間違いない。

◆10月29日、久々の地平線報告会をやった。報告会者は私、江本嘉伸。地平線報告会への参加はほぼ皆勤賞ものだが、自分の報告会となると2007年8月の339回報告会「草原とアンテナ」以来13年2か月ぶりだ。今回は新型コロナウイルスの蔓延後、初の地平線報告会の試みで直前に中止もあり得る、という前提で、それなら自分がやるしかない、と覚悟した。

◆もちろん、やる以上は聞いてもらうに値する内容を話さなければ。そう決めたら、腹がストンと落ちた。できるだけ参加者を制限したかったのでハガキ申し込み制にして様子を見たら、想定以上に反応はにぶかった。どっと殺到したらどうしよう、なんて心配はまったく杞憂でしたね。結局、ハガキでの応募はわずか11人。当日参加したのはスタッフ含めて22人。そして、負け惜しみではなく、今はこれくらいがちょうどよかった、という実感である。

◆エベレストなんてずっと昔の話、と思っている人が多いだろうが、人類史から見るとほんの瞬きするほどの短い時間にいろいな挑戦があり、多くの優れ者が帰らなかった山だ。幸運にも南北双方からある程度の高所に達することができた目撃者としてまだしっかり伝えきっていないぞ、という反省があった。なので、2020年10月29日は、私にとっても現代史の一コマを語りのこすことができた大事な“現場”だったのである。今回の報告会は落合君が記録におさめてくれ、間もなく希望者は見ることができる(報告会レポートの最後を参照ください)。

◆報告会を終えた安堵感で11月は甲斐の山の家にしばらくぶりに滞在し、山の秋を満喫した。誰も通わない、朽ち果てた林道を歩くことは犬のいないさびしさを我慢すればすばらしい。ただ、生き物、とくにクマとの遭遇に気をつけねばならない(私の連れはすぐ近くで子グマが逃げて行くのを目撃した)。帰路、列車で新宿へ出ようとしたら特急が「動物と接触したため」大幅に遅れたという。シカやイノシシなどの野生動物と列車の衝突は最近増加している。衝突で列車が定刻より遅れるといった輸送障害は、JR東日本の管内で2019年度に1345件あったそうだ。

◆東京の感染者493人、と聞くまでもなく当分地平線報告会は様子を見ることにします。その分、地平線通信は頑張る、といい続けてもう年の暮れ。来月12日はついに「500号」を迎えようとしている。静かに、頑張ろう。(江本嘉伸


先月の報告会から

地平線の根っこ

江本嘉伸

2020年10月29日 新宿スポーツセンター

7か月ぶりの報告会

■本当に久しぶりの新宿スポーツセンター。参加受付のために予め送ってもらった葉書を忘れてはいけないと、何度も鞄の中を確かめながら向かった。思えばどこか懐かしい。もう何年前だろうか、どこで地平線会議のことを知ったのかは忘れてしまったが、会社員になりたてだった私は、月に一度、同じようにハガキを握りしめて、会場のアジア会館に向かう夜が楽しみだった。初志を追い求めて行動を続けている人たちの話をうかがうことで、変化の少ない日々の気持ちを紛らわせていたのだと思う。今回の江本さんの話を聞いて、まさにその頃の自分の思いや、地平線会議という「場」のありがたみが蘇って来た。

◆検温をしてもらい手を消毒して、長机に1人ずつの割合の席に着く。見渡すと多くが馴染みの人ばかりだったが、やはり、こうして実際にお会いできると、懐かしさも込み上げてジーンと来る。「地平線の根っこ」と題した8ページの小冊子も配られた。今回、進行を務める丸山純さんが仕上げたばかりだという。前のほうでは、落合大祐さんが映像記録のためのカメラ設置に忙しい。いつもは報告者のまん前にどんと構えている江本さんだが、今日は主役としてこちら向きのテーブルに。

◆「今日の久々の報告会、『地平線の根っこ』」とイラスト担当の長野亮之介画伯は命名しましたが、私には『江本嘉伸の根っこ』という命名のほうがふさわしい内容に思えます。これまで江本さん、新聞記者としての仕事は地平線の中ではできるだけ出さないようにしてきたそうですが、今日はそうしたことも含めて存分に話してほしい」と、丸山さんの冒頭挨拶から7か月ぶりの報告会が始まった。

32年前の林彪機

◆「恐ろしいことが起こりました。今年は御年80に。(地平線会議も)とっくにやめているんじゃないかと思う年齢ですが、相変わらず続けている。それどころか3月以来、通信はどさっと厚くなった。それはなんだろうと作りながら思うのです。何よりも、新型コロナウイルスの席巻という未曾有の事態が進行している今を記録しなくちゃならない、という使命感です」

◆「2月に横浜港に立派な客船が入って来て患者が出始めた頃から、見守っている期間がもう10か月続いている。冒険や探検ではないが、みんな何を感じて生きているのか記録を残そう。あと30年経ったら私はいない。コロナが吹き荒れた時代の市民の記録が語り継がれなくてはならない」と。そして、「今日はこれまで見せてこなかったいくつかの記録を見てもらいます」そう言っていくぶん茶色くなった新聞を掲げ、前の席から回覧を始めた。

◆墜落した軍用機の尾翼部分の写真が大きく載っている。手元に回ってきた時によく見たら、1988(昭和63)年4月9日(土)の読売新聞夕刊一面で、「無残「林彪機」の残がい」「モンゴルの草原1キロ四方に散乱」という見出しの、墜落したトライデント機の写真も痛々しい取材記事だった。

◆71年9月、中国でナンバー2の地位にあった林彪がクーデターに失敗、毛沢東にやられて脱出後、飛行機は草原に墜落したのだった。その機体の尾翼部分がほとんどそのまま残っている現場。「17年後、現場に案内されてこれを見せられた。え?これがそのまま残ってるのか?!と驚いた。西側メディアはまったく入れなかった草原」。それを伝えるふるい色褪せた新聞記事を手にとってもらうことで例えば「現場」というのは、そういうことに思える」と、江本さんはこの新聞を最初に見せた理由を語った。

◆色褪せた新聞、何十年か前に録音された音声、そうしたものを地平線会議はいかに大事にしてきたか、オンライン形式の講演会、トークに慣れっこになっている身には見えない風景を江本さんは冒頭強調したかったようだ。

半世紀前のエベレスト

◆今回の報告会のテーマは、日本人の登頂から半世紀を迎えたエベレストのことが中心だと聞いていたが、先ずはその話題から。江本さん自身も75年の日本女子隊と、80年の日本山岳会チョモランマ隊に同行取材をしている。「なんとなく新聞の仕事で行ったなあということもあり、ほとんど語ってはこなかったが、現場はやはり面白かった」と語り始める。

◆最初は70年に日本山岳会隊と日本エベレスト・スキー探検隊が競合した時の話。スクリーンに大きく映し出された写真は、5月6日、スキー隊の三浦雄一郎さんがローツェフェース7700m地点から2分20秒の滑降の後に転倒、「おしまいか」という一瞬。パラシュートの端っこが氷のギザギザに引っかかり、なんとか止まったというシーンだ。日本山岳会隊の人たちも交信を止めて静かに見守り、無事だとわかった時には、みんなが拍手したという。三浦さんも、さすがにあの瞬間は死ぬと思ったらしい。「その後、70歳、75歳、80歳の時にもエベレストに登ったが、登る分にはすぐ死ぬことはない。アイゼンがしっかり食い込んでさえいればいいのだが、スキー板では止まるに止まれない」。

◆日本女子隊に同行した時、ローツェフェースを登った江本さんも、5年前の滑降地点を見て「ちょっとこれは……」と思ったそうだ。その時、三浦さんは37歳、まさに絶頂期。そこまでかけてやりたかったのだ。この年は大阪万博の年。「183日間に6400万人の人が見に行って、人気の館は入れなかった」。お金はないけれど、何か目立つものをやりたいというネパール観光局の思惑と、日本山岳連盟の高橋照さんの思いつきが合わさり、ヒマラヤ、エベレストの大きなパノラマ写真を飾るという目玉企画ができ、スキー滑降と映画撮影の許可を、前に計画していた日本山岳会より先に取ってしまった。当時はシーズンに一隊が原則。「頂上までは登らない」という条件で滑降許可が出た。

◆スキー隊にもすごいクライマーがそろっている。「もしかしたら先に登っちゃうんじゃないか」という心配もあり、「頂上にはいきません」という念書を交わしお互いにさわらないように、世界最高峰に共存していた。エベレストは南極点、北極点とともに、地球の三極として世界の冒険者にとって象徴的存在だった。日本人の初登をやりたいと日本山岳会が考え、世界最高の冒険をやりたい三浦さんの挑戦と重なった。しかし、三浦さんには痛恨の思いも残った。アイスフォールの崩落で6人のシェルパが死んだのだ。専従スタッフとしてスキー隊を支えた加藤幸彦さんが、最後まで荼毘につきあって礼を尽くしたという。

◆続いて映し出されたのは日本山岳会隊の写真。ここで江本さんが語ったのは高所登山の怖さ、慶応大学山岳部出身の成田潔思さんの死についてだ。登山隊には隊員間の競争心も付きものだが、28歳の成田さんは誰にも負けない体力の持ち主だった。山麓に滞在していた時、トレーニングに騎馬戦をやったが、成田さんにはシェルパもかなわない。「彼は頂上に行くかも」と、あの植村直己さんがライバル心を燃やしていた。しかしBC入り直前で風邪をひいてしまい、高所順化がうまくいかなかった。6400mのABCまではやっと行けたが、C1まで戻ってきたところで突然死んでしまった。結果、未踏だった南西壁は断念したものの、5月11日に植村直己さんと松浦輝夫さん、翌日、平林克敏さんとシェルパが東南稜から登った。

◆写真は80年に江本さんが取材同行しているチベット側の山容へと切り変わった。この時は日本山岳会隊が北壁を初めて登攀、重廣恒夫さんらが登った。その後、エベレストは、登頂しただけじゃ価値がないと、様々な試みが行われるようになっていく。「石川直樹君が登った2001年にも、フランスの青年、マルコ・シフレディがスノーボードで北壁を滑ったが、その時のルートがすっきりしてなかった、と翌年もう一回試みて今度は死んでしまった」。そして、商業公募登山隊の時代となっていった。

頂上直下の行列

◆「むしろこの写真を一番見てほしい。これが今日のエベレスト話のハイライトです」という言葉とともに映し出されたのは、ラッシュで大混雑する信じられない頂上直下の行列の写真だ。「登り、下りのすれ違いで、どうしても待っている時間ができる。充分に酸素が吸えるか吸えないかも命綱なのに。今はこういうことがほぼ年中行事みたいだ。これは何も美しくない。この人たちにとって記録は残るが。一人800万円、1000万円といったコマーシャルエクスぺディションが、ちゃんとビジネスになっている。いつの間にか世界はそうなったんだ」と、以前を知る江本さんは嘆く。

◆続いて頂上に立つ田部井淳子さんの写真。75年、エベレスト日本女子隊が登頂に成功。江本さんはこれに同行した。日本山岳会隊や三浦隊がエベレストに出かけた70年、田部井さんたちはアンナプルナIII峰に登頂している。その模様は『アンナプルナ女の闘い7577m』という本に描かれているが、江本さんは久野(当時宮崎)英子隊長の豪胆さに魅かれたという。「女が登るなんて無理だ」。誰もがそんなことを言っていた時代だった。しかし75年のエベレストでは結果的に久野さんではなく副隊長の田部井さんの力、リーダーシップだけが印象に残った。帰国後の田部井さんの活躍はご存知の通りである。

鍛えられた山岳部

◆続いて、アルバムから複写した学生の頃の江本さんの写真が映し出された。18歳の時だそうだ。江本さんは東京外国語大学ロシア語科に入学してまもなく山岳部に入部した。東京芸大山岳部にいたお兄さんの影響もあったらしい。「いまは山岳部自体がなくなってしまったが、当時の大学山岳部がそうであったように、外語山岳部もかなり先鋭的な登山を目指していた。北穂の滝谷では初登攀争いもしていた」。写真の横には「1959,8 はじめての山から帰って数日後 身体中が痛く、下痢にもめげず、食い続け、ボーッとして、尚かすかに興奮している−」という文字も記されている。5年間、ロシア語はどこへやら登山に明け暮れる日々だった。

◆「いきなり45キロもの重たい荷物を背負って歩かされた。石を背負っていたようなもの」。強くはなったが、背負い方がまずかったためか、いわゆる「ザック麻痺」に。合宿を終える頃には左腕がだらんと下がってしまい、上げられない。「後になって、少しやばいクライミングをする時に、最後は左腕が利かなくなる瞬間があり、それは登攀にとって致命的だった」という。リーダーとして出かけた剱岳、北穂高の滝谷……。厳しい登攀の写真が次々と続く。写真を見て今も胸が疼くのは、62年3月、北穂の頂上にテントを張って1週間もいた時のこと。吹雪でテントが埋まらないように交替で除雪した。

◆滝谷は当時北穂からいったん降りて壁に取り付くのが普通だったが、外語山岳部はその後は下の岐阜県側の蒲田川から入った。「滝谷にはAからFまで6つの沢があり、その全てを登下降した。アイゼン技術はこういう所で鍛えられた。慣れてくると斜面が急なことも楽しくなる」。その技術はエベレストで役に立ったという。

ローマ字原稿

◆続いて江本さんが披露したのは、「たまたまローマ字の原稿が出て来たので持ってきてみた」という、日に焼けて時代を感じるA4サイズの薄紙。「誰か読んでみて」という呼びかけに、長野亮之介さんが代表して読み上げた。「CHOMOLANMA BC KARA TNTOODESKATE EMOTO……」チョモランマの取材時に書いた予定稿だそうだ。高所でも必ずタイプライターを持って行き、ローマ字で原稿を書いた。「ネパールならばメールランナーが、この原稿はチベットだから、ヤクとジープで電信が送れるところまで運び、1日半かけて東京に届く」。

◆江本さんがここで語りたかったのは「伝える」ということの大事さ。今はSNS等で瞬時に何千、何万の人に伝えられるが、そうではないものを見せたかったとのことだ。「だから今でも地平線通信は紙で作っている」。78年には日大隊の北極点到達を取材した。植村直己さんも相次いで到着。本に書いているが、日大隊に先を越されて悔しがっていたという。北極に住み着いている日本人エスキモーで、シオラパルクの村長もずっとやった大島育雄さんの写真に続き、「北極点を競った3人」と記された写真が映された。ヨットの堀江謙一さん、日大隊の池田錦重さん、植村直己さん、そして江本さんたち。こうした話題で社会面トップを書いたりしていたそうだ。

地平線会議の誕生

◆後半は地平線会議の話に。「これが今に続く私の姿。新聞記者もやりながら地平線のことも一生懸命やって、結果的にそれが今も続いている……」。78年12月、法政大学で関東学生探検報告会という催しが3日間にわたって開かれた。「3日間とも通いました。面白かった」。江本さん38才の時で、参加者のなかで宮本千晴さんとともに最年長だった。「三浦さんがエベレストを滑った37歳とも近い。怖いもの知らずでもあったんでしょう」。宮本さんが、最後の日にこんな質問をした。「この3日間よかった。ただ、学生をやめて、この後、皆さんどうされるんですか」。会場はちょっとだけシーンとなってしまった。それぞれ就職したりして、その後も続ける人はいない。

◆「何かやろうか。俺たちがこういう人たちを支えなきゃいかんのじゃないか」と江本さんと宮本さんは話し合った。何人かが四谷の喫茶店に何度も集まり、79年8月17日、江本さん宅で「地平線会議」という名前が決まった。それが地平線の誕生日だ。毎月報告会を開く、記録として通信を出すということも。そういう話の中で会場に快活な女性の音声が響いた。「こんにちは。ダイヤルしていただいてありがとう……」。地平線会議誕生の頃に伊藤幸司さん、丸山純さんらがスタートさせ、2分半の放送を毎週作っていたという地平線放送だ。続いて年報『地平線から』『DAS』『地平線大雲海』などの写真も披露された。パスポートが自由に取れるようになった1964年には、わずか12万8000人だった海外渡航者数が、ほとんどがツーリズムや旅行とはいえ、352万人という(当時としては)すごい数になっていた。

◆「どうやって記録に値する年報にするかが問題。年報『地平線から 1979』ができた時はジーンと来ましたね。値段は1500円で確か500部刷ったが、そんなに売れなくて」。でも毎年、毎年出し、その都度発刊記念大集会をやった。初代編集長は関西学院大学探検部OBの森田靖郎さん、その後は白根全さんが引き継いだ。

地平線放送と年報『地平線から』

◆スクリーンに再びチョモランマの写真が映し出されると同時に、会場に今度は男性の声が流れた。「えーと、ただ今ノースコル、目の前の壮大な眺め……。時間は午後5時……」。強風のためか途切れ途切れではあるが江本さんの声だ。1980年4月、チベットのチョモランマ北東稜。7000mを超えたノースコルのキャンプにいる時、「そうだ地平線放送があった」と小さなテープに収録したものだという。「伝え続けるには、あらゆるやり方がある。たどたどしいけれども、この音は何十年ぶりに聞いた」と述懐する。

◆82年7月、『地平線から・1981』発刊記念の大集会。ドキュメンタリー映像の専門家、故牛山純一さんが地平線会議にすごく関心を示して支援してくれ、有楽町そごうビルの映像カルチャーホールで貴重な映像を1日見るという催しが開かれた。82年秋にはその縁で3か月以上のチベット自治区縦横断旅に参加できることになった。チベットにはまだなかなか入れなかった時代だが牛山さんがドキュメンタリー枠をとってくれ、新聞記者には許可が出ないので、番組宣伝用のスチールカメラマンとして出かけたそうだ。

◆カメラ三つぶら下げて標高4000m以上の高地を走り回った。川を渡るヤク、毛糸を撚る婦人、お食い初め、バターやチャン、ヤクの皮革を縫い合わせて作った「コワ」という川舟での漁、鳥葬の岩……。遊牧の草原、収穫の農村、森の暮らし、僧院の生活等々、チベットの珍しい写真が続く(この時の体験は『ルンタの秘境』として光文社から発刊された)。江本さんが著した『ルポ 黄河源流行』の書影も出てきた。86年の刊行だ。「行くたびに本も書いてきました」。

社会主義時代のモンゴル行

◆その後はモンゴルの写真が続々と登場。87年に初めて出かけてから30回以上は行っているとのこと。「1968年 モンゴル ハルヒラー連峰 外語大山岳部」という文字が記された古い冊子も映し出された。江本さん自身は同行できなかったが、外語大の山岳部が外国隊として初めてモンゴルの山に出かけた時の登山計画書。参加できなかったことは悔しかったが「その悔しさが出発点になっている」という。

◆江本さんが初めて訪れた頃、モンゴルは完全にモスクワのコントロール下にあった。言い換えればロシア語が通じた。驚いたのは今では信じられないが、チンギス・ハーンがソ連の歴史観をそのまま受け入れ「残虐な征服者」として完全にタブー視されていたことだった。折からゴルバチョフのペレストロイカが始まり、そのことが江本さんのモンゴル遊牧草原への“潜入”を助け、数年後、チンギス・ハーンの陵墓を科学的方法で探索する「ゴルバンゴル学術調査」として結実してゆく。

◆民主化以前の社会主義時代のモンゴルの遊牧草原、都市の暮らしを体験したことは私にとって実に大きな財産だった、と江本さんは言う。たとえば、1000頭、2000頭の家畜をいい草を食べさせ太らせながら屠場まで1000kmもの「家畜運搬旅」をする人々の遊牧システムは、社会主義時代のもの。今では若い遊牧民は知らない暮らしぶりだという。88年には冬の遊牧草原を長期取材。「子羊がいっぱい誕生して、一匹も死なせないように大変な戦いになるんです。毎晩寝ずに羊たちの出産を見守り、一頭の赤ちゃんの命も大切にする。子家畜を守るというのはそういうことなんだ」。

◆今では日本の大相撲では不可欠のモンゴル力士たちもモンゴルの民主化の賜物という。毎年7月11日の「ナーダム祭」の時にはウランバートルの中央スタジアムに512人の力士が参加し、芝生の上、2日ががりでゆっくり、ゆっくり取り組みが進む。モンゴル相撲の話や、乗馬中の江本さんの写真も。馬にほんの少し上達し、酔った勢いで裸馬に乗ったら、わざとクリークをジャンプされて投げ出され、大反省したという顰蹙もののエピソードもある。

◆『鏡の国のランニング』という本も紹介された。40才になってから始めたランニング。北極でもチベット高原でも「地球のどこにいても毎日10km走ろう」と決めた。「夏も冬も本当に10km走った。考えてみれば元気ではあったんですよ」マラソンを3時間08分で走れるようになったという。

『西蔵漂泊』の世界

◆続いて映し出されたのが『西蔵漂泊(上下巻)』の書影。93年、94年の刊行だ。明治から大正にかけてチベットに潜入した十人の日本人たちを紹介したもの。「80年のチョモランマ登山の際に、かつてチベットに潜入した日本人のことを調べた経緯もあり、さらに85年の黄河源流行でも、チベットについてさまざまな資料を読ませてもらいながら、日本人のチベットの旅に強く関心を抱くようになった」という。

◆私事ではあるが刊行当時、私はこの本の版元の山と溪谷社に勤めていた。江本さんの著す内容はもちろん、こんな重厚な本を刊行できる会社に改めて誇りを感じたものだった。本になる前に『山と溪谷』誌に連載されていた頃には、自分は当時ブームを巻き起こしていたスキー雑誌の世界に浸りきっていたが、やはり、こうした骨太の企画を連載できるような編集部に異動したいと、かなり我儘を言って移らせてもらう上で、精神的に背中を押してくれた連載でもあった。

◆執筆当時は、まだ三人のかたが健在だった。西川一三さん、木村肥佐生さんの二人は、興亜義塾で情報員の教育を受けてチベットへ旅立った人たち。木村さんは要領がよくスマートな青年、対して西川さんは浮いた話は全くなく、仲間内でも「馬鹿みたいに一徹な男」と評されていたという。江本さんは、お住まいの盛岡で東京でと西川さんに何度もお会いした。「戦争を知っている人は、あまり口にしたくなかったこともあり、なかなか話をしてくれないものだが、あの人たちにお会いして話を聞けたのは、本当によかったなあと思う」と懐かしむ。今みたいに飛行機もなにもない時代。日本からチベットを目指すには船と自分の足で歩くしかない。

◆もう一人の野元甚蔵さんは97歳まで健在だった。「暮らしていた鹿児島の開聞岳の麓、山川町(現指宿市)に毎年通い、はじめは取材だったが、そのうちご家族とも親しくさせていただき、取材を超えておつきあいさせてもらった」という。小学生のお孫さんと海に潜って魚の種類を教えてもらったり、夜のイカ曳き漁を体験したり。「地平線報告会に2度(2009年5月と2010年5月)も来て話をしてくれた。野元さんの著書(悠々社刊『チベット潜行 1939』)をお手伝いできたこともいい思い出です」。

社内では評判悪し

◆ここでは詳しく書ききれないが、配布された8ページの冊子「地平線の根っこ」を読むと、江本さんのさらに多彩な活動ぶりが見える。72年8月、国交正常化直前の中国取材、北朝鮮の平壌での南北赤十字会談取材、フィリピン・ルバング島で小野田寛郎さんを捜索、77年のソ連取材……。「なんとなく好きなことをやって字にしてきた」。しかし、「好きなことを仕事にする人はもちろん好かれないね。社内では評判が悪かった」と自己評価は辛口だ。「いいんじゃないか。あいつはあれで」とだいぶ上の上司が認めてくれ、仕事を進められたのがありがたかったという。

◆その当時の仕事の一つとして黄ばみかけた、よれよれの新聞が披露された。モンゴル遊牧草原の記事だが、写真が見開き中央部をまたいで大きく載る「ノドつぶし」という手法でレイアウトされている。「新聞は何十ページあろうと真ん中だけに見開きで写真が大きく使えるページがある。このスペースを利用してモンゴルの遊牧草原を迫力ある写真とともに紹介した」。記事下には企業広告が載る。江本さんの書く記事の人気故に広告企画として組まれた例だ。「業務でやった仕事だから地平線で話すのはきまりが悪い。サラリーマンがこんなことやっていいのかと時には思いましたよ」と遠慮しつつも、「新聞記事の面積では稼いでいたし、一応のことはしてきたのかな」と述懐する。

◆海外に出かけて多忙な時期には地平線のことはかなり仲間にお願いしてしまった。「報告会も年報も……。つくづくありがたかった。だからその分、日本にいる限りは頑張る、と決意した」。江本さんはちょうど2000年に読売新聞社を退職し、地平線会議の仕事に本格的に取り組むようになる。スクリーンには、それ以降の動きが次々と映し出された。02年の国際山岳年には田部井淳子さんを助けて日本委員会事務局長を務め、「日本にも山の日を」と小学生たちに呼びかけてもらった。当時の「山の日」ポスターの写真には外語大山岳部の先輩、三宅修さんが撮影した羅臼岳の写真が使われている。08年10月25日、沖縄県うるま市で開かれた「地平線あしびなー」。もちろん2011年3月11日の東日本大震災の時も現地に出向いて行動した。陸に乗り上げてしまったままの「乗り上げ船」、84人の子供たちが津波に飲まれた石巻の大川小学校の写真などが映される。「先生がとにかく山に逃げろと言ってくれていれば……」。

◆「これが私の歩いてきた道です。僕にとってはそれが地平線だった」。そして「今回の報告会のあとも多分新型コロナウィルスの猛威は終息しない。当分報告会はできず、通信を発行するだけになりそうだが、その分、コロナ時代の記録を残す気持ちでいい通信をつくりたい」と。年末の「地平線通信500号」を目前にして、久しぶりに話す側と聞く人たちとが同じ空気を吸いながら開かれた報告会。江本さんの話は、こんな言葉で結ばれた。「とにかくコロナ時代でも記録を残すこと。さまざまな人が本気で書くことで空気が動く。それが大事だと思う」(久保田賢次

■10月の報告会はネットでも配信します。休憩を挟んで前編70分、後編60分の熱い語りが期間中ならいつでも無料で繰り返し観られます。配信は12月29日までの予定です。ご希望の方は までメールでお申し込みください。折り返し担当者からアクセス方法をお知らせします。受付は手作業のため、お申し込みいただいてから数日かかるかもしれませんのでご容赦ください。また、申し込み者が素性不明の場合は返信できないことがあります。

報告者のひとこと

■久々に報告者となって空間が空いていることにほっとしている自分に驚いた。100人が入っても大丈夫な会場なのに、今回だけは参加者の少ないことを祈る、というヘンテコな気持ちで前に立ったのだ。会場に離ればなれに座ったのは20人あまり。話し始めるとこういうさ中に聞きに来てくれた人に損はさせないぞ、という気持ちが出てくるから不思議だった。

◆話したかったことの一つは「時代をどうとらえるか」ということだ。そのために日本人のエベレスト登頂から半世紀経ったことを報告のきっかけとした。人間の寿命から言って「あれから1世紀」はない。せいぜい半世紀か70年ぐらいであろう。エベレストの登山史は、ヨーロッパで生まれたアルピニズムの発展史であるとともに中国という巨大国がチベットを飲み込もうとする厳しい現場でもある。

◆「密拒否とマスク着用」こそ2020年の象徴だろう。旅も探検もない、こういう事態は誰も予想できなかった。関野吉晴のグレートジャーニーが終わっていてほんとうによかった、という思いがコロナが騒がれて以来、ずっと私にはある。当分、報告会はできなくても地平線通信という紙媒体を活き活きさせ続けたい、と願う。(江本嘉伸


控えめな江本さん

 コロナという新しい日常のなかで、地平線報告会をどうすべきなのか? 江本さんはこのことについて、ずっと考えてきたという。今年の春、メディアは「今日もこんなに感染者が増えた」と人々の感情を煽り、日本中に自粛ムードを広げていた。江本さんはギリギリまで悩んだ末、3月の報告者である森田靖朗さんを自宅に招き、少人数の前で話していただくという決断をした。翌4月からは、ついに報告会がなくなった。そのぶん、地平線通信が厚みを増した。江本さんの報告会に対する情熱は、そのまま通信制作のほうへ注がれた。

 10月。7か月ぶりに報告会を行うと決めたものの、コロナの状況によっては土壇場で中止になる可能性もある。そうなっても迷惑がかからないようにという意味合いもあり、江本さん自身が報告者を務めた。報告会の冒頭で江本さんはこう言った。「これまでZoomの講演会に何度か参加した。悪くはないが、どこかで“違うんじゃないの?”という思いもあった」。生の報告会を40年間毎月続けてきた地平線会議にとって、Zoom報告会という選択肢は今のところ「違う」らしい。

 会場では江本さんの人生年表が配られた。司会役の丸山純さんが、江本さんとあうんの呼吸で前夜に制作したという冊子だ。1972年8月・日中国交正常化直前の中国へ渡航、1972年9月・南北赤十字会談の取材で北朝鮮入り、1972年11月・ルバング島で小野田寛郎氏の捜索活動に参加、1975年5月・エベレスト日本女子隊登頂成功に同行、1978年4月・北極点到達の日大隊に同行、1987年5月・林彪墜落現場を取材、1991年8月・ゴルバチョフ退陣の瞬間に社会主義末期のモンゴル滞在……。現代史の激動に立ち会ってきた、なんと刺激的な人生。新聞記者として、無類の冒険好きとして、自らの足で現場を渡り歩いてきた江本さんの人生年表は圧巻だった。

 この日印象的だったのは、「今からする話は会場に来ている皆さんだけに話します。オフレコでお願いしたい」と前置きされた3つの裏話。輝かしい冒険記録の影には、むきだしの野心や嫉妬、足の引っ張り合い、色恋沙汰などの泥臭い人間模様が存在していたりする。世の中は現場に行かないと知りようのない、生々しい真実だらけなのだろうと考えさせられた。煮えたぎる好奇心を持って多くの人と本気で関わってきた江本さんは、それだけ多くの秘密を抱えているのだろう。

 報告会中盤、「今日のテーマの底にあるのは“伝える”という行為の大事さです」と江本さん。地平線報告会や通信がアナログにこだわるのは、そうじゃないと届けられない何かがあるからなのだと思う。「SNSに載せれば瞬時に何万人とすぐつながれるのかもしれない。でもそういう時代だからこそ、あえてつながらないことも良しなのでは」。記者時代は必ず現場にタイプライターを持参した。5,300メートルのエベレストBCでは天気が良ければ外で、悪ければテントにこもって、初登頂成功の予定稿を書いたという。現場に身を置かないと感じられない空気のようなものは、きっと文字にも表れる。

 ところで、地平線報告会で江本さんはつねに拳を振り上げ、「オイ!」と吠えている(ようなイメージがある)。しかしこの日は妙に穏やかで控えめ(?)だったので不思議だった。後でハッとしたのだが、江本さんはいつも、他の誰かの凄さを訴えるために吠えている。そうしてこれまで数えきれない若手の可能性を表に引っ張り出し、背中を押してきた。新聞記者を引退してフリーになった後も、自著を書くことより地平線通信の制作に没頭しているので、約20年間本が出ていない。以前宮本千晴さんが、「地平線会議は江本の天職」と語っていらっしゃったのを思い出す。(大西夏奈子

ナマエモ効果

■「使命は、客観的に事実を伝えること」。そんな新聞記者気質が働くのか、江本さんの報告会で私見や私情を耳にした記憶は、あまりない。あるいは地平線を語るときも、「世話人代表的立ち位置」からのコメントが多かった気がする。ところが、この日の江本さんはちょっと違った。個人と言うのか、私人と言うのか。「あっ、ナマのエモトさんが喋ってる!」と、誇張すればそんな印象だった。そこに今回の報告会にかける静かな意気込みを感じ、また、「ああ、この人はいつもオフィシャルだったんだなぁ」との感慨にも打たれた。

◆映し出された写真の中には既に目にしたものもあったが、ナマエモ効果なのか以前よりリアリティが増幅され、林彪搭乗機の墜落現場など、自分も渺々たる荒野を渡る風に打たれて、残骸を見上げている気分になった。現場と言えば、報告会場も小さな現場だ。この日は、小松由佳さんの男の子2人が、コロナ下で緊張気味の会場の空気を和ませてくれた。この御時世に屈託ない子供たちの姿は救いだけど、未知の土地での子連れ取材となれば話は違う。「どんなに大変だっただろう」と想像し、改めて頭の下がる思いがした。

◆報告会で体験を伝えるのは、報告者のトークや写真だけではない。聞き手の我々も場の当事者となり、会場全体が媒体に変わって、さまざまな情報が行き交う。これだけは、どんなに優れたリモートイベントでも真似できない。当たり前に報告会が開けていた時には気付かなかった当たり前のことに気付けた。その点でも、私には意味のある報告会だった。(久島 弘


地平線ポストから

「第3波」の中、ノースウッズ写真展を六本木で開催中

■六本木フジフイルムスクエアでの写真展が13日に始まった。スタートの前日、毎日新聞の都内版に写真付きで大きく告知記事が載ったのだが、その時の一面の見出しは“助言委「感染急拡大恐れ」新型コロナ日医会長「第3波」”だった。用心している人にとっては再び外出自粛の決断をするのに十分なインパクトだ。

◆もともと再開の期日が伝えられた時、微妙な時期だと少し不安を感じていた。気温が低くなり、空気の乾燥も始まり、普段でも風邪を引き始める頃である。例年インフルエンザが出始める11月下旬にも差し掛かるので、せめて10月中にスタートできれば安心だったが、スケジュールを選べる立場にはない。

◆「第3波」という言葉が見出しに躍った影響がどれぐらいあるのかわからないが、幸い、週末を含む最初の3日間は、順調に来場者がきてくれている。2月に中止する前に比べれば親子連れもずっと多い。「小学校でチラシを受け取ってから楽しみにしていた」と親御さんが教えてくれ、子どもたちが会場でプリントの中の動物たちを見つめている姿が何より嬉しい。実は、今回の期間中、在廊するためにすぐ近くのビジネスホテルに泊まっている。

◆出費は痛いが、毎日、都心で不特定多数の人々と接触することになる自分が、高齢で持病持ちの両親が住む実家に泊まるわけにもいかない。例えコロナでなくても、もし熱や咳が出るようなことがあれば在廊もできなくなる。19時に終わって部屋に戻ればすぐにシャワーを浴び、外食はせずにコンビニ弁当ですましている。レストランもテイクアウト・メニューが増えているらしいので、余裕が出たらそっちも考えようか。そうまでしてでも在廊したいのがこの写真展。これまでで最も大きな個展であり、20年この日のために努力してきたのだ。会場でお待ちしています。(大竹英洋

大竹英洋写真展

「ノースウッズ 生命を与える大地」
 会場:富士フイルムフォトサロン東京 スペース2(最寄駅:六本木)
 期間:2020年11月13日(金)〜11月26日(木)
 開館時間:10:00〜19:00(最終日は16時まで)
 入館:無料

ウイルスとの共存のために基礎体力を

■近況をお伝えします。千葉県内でのコロナ合併がん患者入院病院に指定されて半年、どういうわけか対象者ゼロでいまだに接せずほっとしている一方で、職員が罹っては信用問題とGoToなど論外、なおも越県しないように引きこもるしかないのが、どの県でも起きている医療従事者の悲しいまでの心理です。

◆たぶんどの病院でも似たようなものでしょう、ただでさえ抵抗力の弱った入院患者が感染すれば院内パンデミック、重症者続出は確実なので一般病棟での面会は家族であっても原則禁止。とはいえ終末期の私の病棟はそうもいきません。もう危ないと判断されればこれが逢える最期の機会ですから家族に緊急呼び出しをかけねばらなず、呼び出しを受ければ当然のことながら兄弟親類まで声をかけることになり、やってきたのは10人超ということも起こります。

◆そのようなときはより近親者に3人程度に絞ってもらい順番に短時間ずつの面会になるわけですが、いよいよとなるとそうもいかず、せまい病室でベッドの周囲を一族がぐるり、となります。事前対策として窓口で面会者の健康状態を問い、体温を測り、サーモグラフィーで確認しているとはいえ、はたしてどこまで防げるのか不安な日々はなおも続きます。

◆そんななか今月ついに世界の感染者が5000万人を突破、第3波と思われる状況にいたり、いったいどこまで広がるのかわからなくなってきました。それでも第一次世界大戦時に全人口の1/4が感染し5000万人が犠牲になったというスペイン風邪に比べればまだ小規模なのですが、見方を変えればそれだけさらなる拡大への余地が残っているともいえます。当時と比べれば医療環境の充実により犠牲者数こそ減るかもしれませんが、感染者数は限りなく迫るのではないでしょうか。

◆だれしもがそのような病魔には罹りたくないので清潔を最優先し、日常を抗菌グッズで囲んでいると思います。たしかにその効力でも脆弱な細菌やウイルスならのぞけますが、コロナのような未知の強力な病原菌が侵入、突破されるとさてどうか。人類にとって未知の病原菌が侵入してきたときに膨大な人口減に陥ったのは、くり返し流行した天然痘、ペスト、コレラが物語っています。新大陸の人口激減でもその主因は、強いられた過酷な労働環境よりも征服者の持ち込んだ天然痘でした。

◆そこで考えたいのが、防御もさることながら、乗り越えられたときの対策。つまりウイルスとの共存です。このもっとも効果的な方法はワクチン接種であり特効薬ですが、これはまだ未完成。となると3密回避による防御ともに有効になってくるのは基礎体力の向上です。ウイルスに負けぬ体を作るために、ふだんの生活に運動を組み入れること、具体的にはエスカレーターを排除する、一駅前で降りて歩く、短距離ならタクシーを使わない、といった積み重ねで足腰を衰えさせない姿勢につきるでしょう。そこに許容範囲内でのウイルスらとの共存生活も加えられればベストではないでしょうか。

◆そしてそのとき新型病原ウイルスにもっともかかりにくく、仮に感染しても重症化せずにいられる人々を想像すると、浮上してくるのは開発途上国の激烈なる汚染環境に耐えつつひたすら歩きまわってきた過去を持ったがゆえに、国内でもなおそこそこの悪環境をみずから求めてしまう困った性を先天的に持ち合わせてしまった集団、すなわち地平線関係者が最有力だと判断せざるをえないのです。

◆ところで10月末に千葉県がんセンター新病院が竣工、総床面積50,000平方メートルの巨艦病院が誕生しました。とにかく広すぎるこの新居への引っ越しを一日で済ませたのですが、さすがに混乱をきわめました。なにしろ寝返りさせただけで息の止まりそうな人もいる病棟、数百メートルの移動にはたして耐えられるのか不安でしたが、通常と似たような状況で経過してくれました。

◆ただ引っ越し直後にありがちな、どこに何があるのかがわからず、そしてやっと覚えてもこっちのほうが取りやすいからと翌日には移動、その発見作業に莫大な時間を要してしまい本来の仕事が滞っているのが現状です。もし千葉市から九十九里浜方面に向かうようなことがあれば、巨大なクスノキが増えてきたなと感じた大網街道7km地点で見えてきます。(埜口保男

やはり報告会は生がいいですね

■昨夜は報告会に参加させていただき、ありがとうございました。初めて目にする映像や古色の新聞、雑誌なども手元に廻してくださったり江本さんならではの貴重なお話しを伺うことができ、楽しい時間でした。

 やはり報告会は生がいいですね。コロナ災厄の今だからこそ記録しておこう、との“地平線の根っこ”を地平線通信に感じ、読ませて頂いています。私の心の栄養です。

 どなたかおっしゃっていました。江本さんの執筆集のようなもの私も是非お願いしたいです。(報告会翌日便箋で 横山喜久

宮本常一写真展「風待ちの港『飛島』1963」開催される

■10月31日、酒田市の沖合にある山形県唯一の離島・飛島が舞台のドキュメンタリー映画『島にて』を酒田で初上映した。市内には映画館がないため有志で自主上映会を企画し、コロナ禍による入場制限と感染拡大の状況をにらみながら日程を決めたのは1か月前。近隣のシネコンで2か月のロングランを行ったこともあり入場者はそう多くないと思っていたが、3回上映で予想を上回る535人に観ていただいた。

◆上映会をはさんだ10月28日から11月8日、酒田市内で宮本常一写真展「風待ちの港『飛島』1963」が開催された。宮本さんが飛島に滞在したのは1963年8月22日から24日の3日間で、離島振興法の公布から約8年後の島の対応や変化の視察と、民俗学の立場から島の風俗や習慣を見ることが目的だった。予告なく訪れた宮本さんに応待したのは、飛島旅館の主人で漁協に勤務していた本間又右衛門さん。本間さんの案内で島内をくまなく歩いた宮本さんは、島の風景や神社、漁の様子や漁具、海岸で遊ぶ子ども、古文書などを撮影している。

◆宮本さんが飛島で撮影した写真は全部で158枚。7年前に飛島で開催された写真展「宮本常一が見た飛島」では、小サイズながら撮影順にすべての写真を展示していたが、今回は酒田港の写真を加えた40枚。この写真展用にプリントしたと思われる大判の写真はきれいで見応えがあった。ちなみに、「風待ちの港」というタイトルは飛島が北前船の風待ち港だったことに由来する。

◆全国の離島の様子を聞いた本間さんは飛島の振興について助言を求め、宮本さんは「(畑が広がる)島の台地上に縦貫する道路を拓くことが振興の基本になる」と提言したという。じつは、30年前にわたしが初めて飛島へ渡ったのはまさにこの農道を造る仕事で、本間さんから直接この話を聞いている。30年近く温めてきた提言がようやく実現したことを本間さんは喜んでいたが、言外に遅すぎたという気持ちも感じられた。宮本さんの訪島からもうすぐ60年。今の飛島を描いた『島にて』を観たら、おふたりはどんな感想を持つだろうか。(酒田市 飯野昭司

コロナに始まり、結核で暮れようとしている2020

■結核の治療が9月30日からはじまった。パラオから帰国して130日目の朝だった。治療と言っても朝食の前に12錠の薬を飲むだけだ。しかし、口の中で溶け出すとやたら苦くて閉口する。副作用は予想より軽かったのだが、夜になると決まって頭が痛くなるのが厄介だ。途中で薬を飲むことを止めると耐性菌ができてしまう恐れがあるので自己判断で中断することもできない。これが3月末まで続くのだ。

◆10月の半ばには血中の総ビリルビンの濃度が高くなっていて、肝臓が弱っていることが分かった。これが上がり続けると黄疸が出る。もしこの値が高止まりしない場合、治療は一旦中断。そうなると治療再開後、再び6か月間薬を飲み続けることになる。

◆結核に感染したのはパラオだった。パラオ近海の航海が終わった直後、居候先の家族が結核で入院したのだ。狭い部屋でずっと雑魚寝状態だったので、私もそのときに感染してしまっていることが容易に予想できた。だから、帰国後真っ先にしたのは保健所に連絡することだった。保健所に事情を話すと7月以降の検査を勧められ、それに従った。

◆7月になり、まず実施した胸部レントゲンの検査は問題なし。しかし、血液検査の結果が陽性だった。その後8月に再検査でCTを撮ったところ、肺に2か所、結核由来の影が見つかった。そして、喀痰、胃液、内視鏡での検査を経て、結核の治療がはじまった。結核の検査では内視鏡が1番きつかった。内視鏡を喉から入れるため、局部麻酔はしていても反射的にえずいてしまうからだ。ただ苦しくはあったが、医師から聞いていたほどではなかった。航海中の船酔いに比べれば終わりがある分耐えることができた。

◆帰国後ほとんど外出しなかったのはコロナも影響していたが、実はそんな理由があったのだ。幸い他者に感染させてしまう排菌状態にはないため、飲酒制限以外に日常生活に支障はない。しかし、弱いながらも薬の副作用による頭痛や身体のだるさがあり、医師からも同じ肺の病気であるコロナには気を付けるようにと言われているため、できるだけ家にいる生活は継続している。

◆今結核を治療する日々の中でぼんやりと思うのは、ある種の病は自分では防ぎようがないということだ。パラオの日々を思い返してみても感染を防ぐ手立ては私にはなかった気がする。そのことを思うたび、病というものは知らないうちに向こうから勝手にやってくるものなのだなと改めて感じている。ある意味でそれは運命に似たものなのだろう。薬を飲めば治る病気となった結核だが年間の国内死亡者数は2,000人を超えており、実はコロナのそれよりも多い。

◆私の2020年はコロナに始まり、結核で暮れようとしている。コロナのためにハワイ航海ができず、パラオで停滞を余儀なくされ、帰国してからは結核で行動を制限されている。同じ停滞でもそこにあるのは違う種類の停滞だ。前半は大家族の内で、後半は孤独の内でただ時が過ぎゆくのを眺めている。この過ぎゆく時間の中で自分の内側に生まれるものは果たして何かあるのだろうか。そこに見出せるものは静かな諦観だけなのかもしれない。(光菅修


通信費をありがとうございました

2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて、どころかなんと「30年分」払ってくださった方もいます。新型コロナウィルスの猛威にもめげず、いやむしろだからこそ、内容のある地平線通信を発行する、と決意していて通信費、カンパはその志を理解くださった応援歌としてありがたいです。万一、掲載もれ(実は年齡もあって意外にそういうミスが多い)がありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

野元啓一(10000円 送っていただいた報告会資料の「地平線の根っこ」父のことにも触れてくださり、ありがたく、大事に読んでいます)/二神浩晃(4000円) /松本明華(大学生 ロシア語仲間) /金井重(30000円 足が弱くなりました)/向後元彦・紀代美(20000円 すみません、通信費いつ払ったか忘れました。とりあえず10年分送ります。地平線がこれからもいつまでも続きますように)/鶴田幸一(60000円 江本さま 30年の不義理をお許しください。還暦前の大バカボンです)/片倉和彦(10000円 私自身は家の前の坂をたまに歩いて上がると息切れする人間ですが、まわりには登山家とか、いろいろな人がいます。7月に神尾重則先生からもらった手紙で地平線通信を知り、ネットで記事をよんでいます。ずっとただよみしていたので、心をいれかえて、カンパします。今後も、ネットで通信を読ませてください)/広田凱子/岸本佳則(10000円 いつも通信を送っていただきありがとうございます。5年分振込ませてもらいます)/坂本貴男(10000円 地平線通信いつもありがとうございます。毎月楽しく読ませていただいています。5年分のツウシンヒです)/野々山富雄(10000円 いつ払ったのか何年たまっているのかわすれてしまいまして、すみません。これからもがんばって下さい。屋久島ガイド)/ワダカオル/月風かおり(10000円 いつもありがとうございます)/高城満(10000円 いつもお世話になっています)


地平線通信500号を出すにあたって地平線会議からのお願い
 すでにご存知のように、この地平線通信は来月発行する12月号で輝く「500号」を迎えます。1979年8月17日に発足した地平線会議は、9月に第1回地平線報告会を開催(報告者は三輪主彦さん「アナトリア高原から」と題してトルコ留学体験について語った)、以後毎月はがきに手書きで文章を書いては報告会の予告をし続けました。
 1986年1月の「75号」から今のB5版に拡大、報告会の様子や旅先からの便りなども掲載されるようになりました。
 ぞれが2000年代に入って(つまり、江本が会社をやめてフリーになって)次第にページ数が増え、12ページ、16ページが普通になり、ことし新型コロナ・ウィルスが猛威をふるいはじめて地平線報告会が開けなくなってからはさらに20ページ、22ページと分厚くなりました。
 で、お願いというのはいまの地平線通信への感想、提案、叱咤激励を短く書いてほしい、ということです。
 1人300字(最大でも500字以内で)、12月10日締め切りとします。
 どうかよろしく。普段原稿などと縁がない、という人も是非トライしてみてください。
 宛先は通信の最終ページにあります。もちろん、ハガキで手書きでも構いません。(江本嘉伸

■彫刻家、緒方敏明さんの久々の本格的作品展があの高島屋で!

「海へ還る──緒方敏明展」

 
11月18日(水)→12月7日(月)
日本橋高島屋本館6階 美術画廊で

江本さんと地平線のみなさまと 出会って かれこれ たぶん 20年の歳月が経ってしまいました しかしながら やっと いよいよ ついに 自称「美術家」 やろうとおもいます

ぼくは 20年に一度咲く はな なのです(笑)っていうか、いままで ただの一度も 花開いたことなど ありません

てんらんかいは 2020年秋 コロナ社会に 都会の野に しずかに咲く ちいさな花 なのであります
あ〜 これって かっこわるいなー

今回の自身の作品と展覧会について コトバにしようと想いますが、 長く成ってしまう。
コンセプトは、いちおうあるのですが、それは、展覧会を視る前にコトバで言ってしまうと、あまり意味が無いと想う。
以下。
 ◆
「不確か」「不在」とか、そういったことの【リアル】を 提示しようと想う。
って、それは、現実的に 不可能なので、
そこの認知回路を透過する、、みたいな作品。って、意味不明の文章だけど。
リアルとリアリティの異なる「確か」を 作品にする
あー よけいに わからなくなっちゃった

コトバは、いつも (自分に)遅れるし。困る。
だから 「創る」ということが 成せるのだけれど
成せるというか、やってしまうのだろう というか

恐怖(コトバ)よりも 速く走らなければ さくひんは 創れない
妄想は(作品は)、決してコトバに 追いつかれてはならない。
コトバなんか 無い
世界には コトバなんか無い
だから 「わかっている」
とか
念仏のように 自己に言い聞かす
コトバで
あー ダメだっ(以下略)


「飛びながら目頭が熱くなった」━━年間300日、車中泊の単独空撮行報告

 10月15日、江本さんからの電話が鳴った。「多胡、通信原稿を書け!」「先月号で歩未が面白い家族作るって書いてくれてな、今度はお前だ」と。人生の顧問に言われては「了解」以外の選択肢はない。話は速攻でまとまった。

 俺はそのとき、紅葉の八甲田山(青森)の空撮に挑戦していた。10日ほど八甲田直下の田代平にベース(離発着地)を構えていた。しかし風が読めず飛ぶ気にはなれなかった。そこで、十和田湖の南にある熊取平にベースを移し、いよいよ明日は飛ぶというところだった。往復70キロのビッグフライトだ。「しかし、江本さん。俺は地平線のみんなにお伝えするようなことは何もしていないよ」というと「いいから、お前の元気を書け!」と顧問。ということで、多胡のこの1年をどうぞ!

家族との約束

 俺はこの5年ぐらいだろうか。活動を悩み考えつづけた。その結果「自分はどうありたいか」という考えに行き着いていた。その背景には Rice work と Life work の葛藤が根深くあった。迷っているところにドローン空撮の出現で仕事はなくなった。ご存じの通りだ。しかし、空は自由だった。そしてその自由と撮っているときの充実感は他の何ものにも変えようのない尊い時間だった。そして、俺はなんでこんなに苦しいのだろうかを真剣に考えた。

 徒歩に野宿で四国遍路をやったり、セミナーに参加したり、いろいろと苦手なことに手を出した。今となれば、どれもこれも多くを学んだが決定打にはならなかった。そして、つまるところ深く自分と向き合わないと駄目だということが分かった。そして時間はかかったが、好きなことに生き、それをヤリ続けるために経済を回せばいいのだと気がついた。

 それを実行するには覚悟と家族の理解が必要だった。そして家族と相談し、親子3人、それぞれが自分の持ち場でおもいきりやるという約束をした。俺の持ち場は空だ。歩未は木だ。天俐は学校だ。各々の思い切りの姿勢を、家族全員で応援する。これが多胡家のあり方だ。そう決めた。そして俺は空の旅を始めた。年間300日、車中泊の単独空撮行だ。

コロナと俺ルール

 コロナがやってきた。世の中は外出自粛要請令が出ていた。俺は直感した。混乱期こそ己を信じる。そして俺はルールを作った。地元京都の木津川にある広大なフライトエリアで2週間にわたり自主隔離合宿を行った。周囲にはなにもない河川敷だ。隔離にはちょうどいい。その間、休校中の天俐も呼んだ。1人で踊り、野猿のように走りまくりストレスを発散させていた。

 季節は春。うららかだった。今この状況でできることはないか。そして、我が家のある加茂町の山桜と、その隣町の和束町の茶畑を撮ることを決めた。どちらもフライトエリアから飛んでいくことのできる里山景色。撮った映像はYouTubeで見られるようにした。外出自粛中に地元のエアショット。住民からの声援は温かだった。

 自己隔離を完了した俺は、俺ルールの第二弾のもと、四国での空撮行をスタートさせた。5月20日だった。俺は誰とも接触することなく愛車で現地に入り、現地人と同じような生活をしながら、河川敷から空撮活動を試みる。ずっと車中泊。これが計画。世の中では学校の休校延長の議論が為されていた。

四国空撮行

 向かった先は高知県の仁淀川。やっぱり俺は川が好きなんだよ。仁淀川を河口から源流までを空撮することが目的だ。仁淀川の河口に到着すると、モーターパラグライダーが飛んでいた。偶然だった。コロナ自粛の気まずさを引きづった移動だった。しかし、ここで一気にスイッチが入った。モーパラをおいかけると、そこには5人ほどの土佐のフライヤーがいた。俺はマスクをして走りより大きな声で挨拶すると「あんたはあの飛んでる多胡さんかい?」と、勝手に話は転がりだす。「おおいに仁淀川を飛んでくれ。困ったことあったらなんでも相談してくれ!」と土佐フライヤーの北川(80歳)さんは歓迎してくれた。

 仁淀川を河口から源流まで飛んだ。ベースは河川敷に3か所確保した。少しづつ上流へ近づき、そこから飛ぶ。これぞと思った空間では川から山間へと翼を走らせた。四国山地の深淵にはどこまでいっても僅かな平地に暮らしが点在していた。河口の土佐湾から源流の石鎚山まで124キロ。飛行回数12回。飛行時間16.9時間。仁淀川流域、その全てを俯瞰し撮った。ラストの石鎚山へのフライトは達成感からか、飛びながら目頭が熱くなった。上空で涙したのは2003年のマッケンジー以来だ。

 道中、遍路写真家の野澤さん(72歳)と再開した。「行く先が不明なときこそ、遍路が大切なのに誰も歩いていないよ。現金だよな。寺も寺で、こんな時こそ拠り所として存在して欲しいのに、ブロックだもんね」と嘆いていた。

 仁淀が終わると、清流をハシゴした。四万十川も河口から源流まで196キロをやった。飛行回数12回。飛行時間24.2時間。撮影行のあいまに梅雨にはいった。雨が降ると飛べない。その間、宇佐の宮本さん(50代)に大変世話になった。宮本さんは第二の家を俺にあてがってくれ、我が家のようにくつろぐことができた。その間、Youtubeのアップを連発し、地元のテレビ取材などもうけた。

 8月に入り撮影再開。中流域の十和では空間と人に魅せられ、ひと月ほど滞在した。ここで飛ぶと四万十川の背景がよくよく分かるのだ。その間、恩地ファミリーには四万十川で取れたアユを毎日のように頂いた。一生分喰ったのではないかというほどだ。四国は4か月にわたり飛んだ。その間、どれだけの人に助けられたことか。9月の中程、紅葉にそなえ一度我が家へ。道の駅は幾分駐車する車も増えたが、カーナンバーはみな高知だった。

人情あふれる空撮行

 八甲田、十和田湖は青森にある。八戸のフライト仲間をたより青森に入る。紅葉は八甲田の中腹からなだれ落ちるかのごとく十和田湖へとすすみ、里を包みこむ。その様子を撮るために40日にわたり現場に張り付くことになった。その間、現地での出会いとサポートは今までを凌駕する流れになっていた。

 サポートは米、肉、果物、野菜とありとあらゆる食べ物の差し入れであったり、離発着場の提供であったり、宿泊や風呂券、宴、BBQ、そして志の申し出であったり……。紙面の都合上、名前は挙げきれないが(Blogでみてね!)、八戸の金田一さん(72才)と黒石の三上さん(52才)には破格のサポートを受けた。八甲田では飛行回数12回、飛行時間18時間をやった。紅葉は爆発していた!

 その中でも東八甲田にある又兵衛茶屋の女将さん、山本さん(60代)とのやりとりは印象的だった。

「私もね、コロナになって人の流れが止まったでしょ」「そして私にできることはなんだろうって真剣に考えたよ」「そしたら、やっぱり考えている人は居るもんだね」「思ってることを本気で伝えると、相手にして欲しいことを伝えるって言うのかな、そうすると事がグイグイと動きだすんだよね。このお米もそう。美味しいの分けて貰ったの(本当に旨かった)」

「大間のマグロも形はあれだけど良いところを分けてくれて。このリンゴもちょっと形わるいけどフジより美味しいんだよ! 私にできることを精一杯やるって決めたら、みんな助けてくれてね!」と女将さんは言った。この話を聞きながら俺は頷きまくっていた。この空撮行は女将さんの言う通り、みんなに助けられ俺は生かされている。自己資金には限界があるけれど、奇跡の連発で飛べていた。

 時代は変わったんだよ。と言うと大上段だが、昔からそうだった本質。その流れにより多くの人が反応するようになってきている。価値観が変わったんだよ。豊かさの基準というのかな……。 その他にも女将さんには沢山たくさん背中を押してもらった。「青森のために撮ってくれてありがとう!」と女将さん。この言葉、一生忘れませんわ!

YouTube, TAGO channel

 撮った映像はすべてYouTubeのTAGO channelで公開している。現在150本程の日本各地の空撮映像がアップされている。1〜2分で見られるサクッとした空撮映像だ。多胡の声とエンジン音とで構成されるワンカット勝負。撮影現場からアップしてる、是非見てチェンネル登録!

 「YouTubeの広告収入を狙ってんのね!」と思ってもらって結構。時代はそうだしね。でも狙いはこうだ。

 俺は「本当のことを知りたい、自分の目で見たみたい、だから、空を飛び撮っている」「それと同時に、記録された空間は地域の宝だ! その宝を自分の利益にしている場合じゃねえ!! だから全ての映像を公開することに決めたっ!!!」。との檄文をうったA5のチラシを会う人会う人そのすべてに配っている。歩未が作ってくれた! その裏面には「何にも左右されず撮るために、この活動は自己資金とサポーターの協力で成り立っています。僕の活動をサポートしてください!」とお願いし、口座番号もいれた。俺は本気だ。訳の分からぬ自信と、前例はない、これでヤルしかないという覚悟がそうさせている。

 「今回は青森を飛ぶよ! 青森を押すよ! 地元の宝が写ってるし! YouTubeで見てな! よかったら俺の背中も押してな!」てな感じで、地元の人とやりとりをしている。そうすると、地元の人は話してくれるんだよね。俺はこの生のヤリトリがたまらなく好きだ。この温度感と空気感を感じて飛んでいきたいのだ。

 俺は今日も飛んでます。お近くを飛んでいるときは是非ベースまで。熱いコーヒーとビスケットぐらいは準備できます。近況はYouTube、Blog、FBで随時。Have a nice day !!!(多胡光純


インカルシから

北の国にも新型コロナウィルスの波

■新型コロナウイルス感染拡大の第二波を乗り越えたかに見えた北海道の感染者が急増している。北海道新聞が集計したデータによれば、11月5日に感染者が過去最大の119人(うち93人は札幌)を記録したのを皮切りに、連日新規感染者数が100人を越え、一時は東京のそれを越える日もあるほどだった。この原稿を書いている11月15日を含めた4日間ではさらに過去最大の感染者数を更新しながらの200人越えが続いており、状況は深刻さを増している。

◆この様子は全国ニュースにも日々取り上げられ、道はコロナウイルスの感染拡大に関して3度目の注目を浴びることとなった。夕方のニュースを見ていると道全体の感染者数のみが伝えられることが多いように感じるが、その約7割は札幌に集中している。最多感染者数を「再更新」した12日も、236人中、164人が札幌だった。一口に北海道といってもなにぶん広いので、札幌とそれ以外の地域では実情に大きな差がある。とはいえ、同日には利尻島でも感染が発覚し、離島にも影響が出始めている。

◆この事態を重く受け止めた道はコロナウイルスに関する警戒ステージを3に引き上げ、今月7日から27日までの「集中対策期間」を設けた。知事は飲食店を利用する道民に対して食事中以外のマスク着用を徹底すること、食事中の会話も控えるように呼びかけた。飲み食いしながらの会話を楽しむ飲食店、とりわけ居酒屋などの事業者にとっては、期間限定とはいえ存在を否定されるに等しい厳しい言葉だろう。

◆突き出しの枝豆をサッと口に運び、すぐマスク。そそくさとビールを流し込んでまたマスク。焼きあがったホッケの開きが到着したので、取り分け専用の箸で身をほぐして取り皿に運び、これまた瞬時に口に放り込む。そしてマスク。この間、会話はなし。こんな茶番を実践してまで飲みに行こうという酔狂な人もそうはないだろうから、この期間居酒屋は事実上の閉鎖を宣告されたも同然なのではないだろうか。

◆それを十分承知しているからであろう、会見でこれらを要請する知事の表情も苦しそうだった。札幌の歓楽街ススキノ地区の飲食店に対しては、22時以降の営業自粛要請も出されている。市内の新規感染者の多くは同地区の酒類を提供する飲食店から出ていることが背景にあるという。四角で囲んだ制限地区の境界付近に位置する事業者は歯がゆい毎日を過ごしていることだろうと思う。あちら側とこちら側を作り出してしまう線引きの問題はいつも難しい。

◆ところで、3に格上げされた道の警戒ステージは、国の新型コロナウイルス感染症対策分科会が提言したステージに準じて独自に設定されたもので、全5段階からなる。全4段階の国のステージ分けとは違うため、「道基準の」ステージ4になって初めて、「GoToキャンペーン」の除外対象になりうる「国基準の」ステージ3に該当する。なんともややこしいこの話は、案の定、「北海道、GoToキャンペーンの対象除外か」との混乱を招いたようだ。

◆とはいえ、ステージ4になる要素のうち「一週間あたりの新規感染者数が764人」という基準は先述のようにこの4日間でゆうに突破してしまっている訳で、この原稿が掲載されているころには、問題の「道基準ステージ4(=国のステージ3)」になってしまっているかもしれない。そうなると、GoToで一時客足の回復を感じたであろう道内の飲食店や観光の事業者にとってはまた先行き不透明の暗いトンネルの中へ放り込まれるような日々に逆戻り、となってしまいそうだ。

◆私が暮らすオホーツク管内はといえば、この1週間の感染者数は11人に留まり、他の管内と比べればまだそれほど多いとは言えない。ただ、この秋に予定されていた町内のイベントは、この春そうだったように軒並み中止に追い込まれている。地方紙の記者として働く相方は、「地域面を埋める記事のネタがまたなくなった」と嘆いている。「札幌に合わせてイベントを中止にしなくても」と言う住民もいるそうだが、北海道が全国から注目を集めるいま、自分の町からクラスターを出すまいと行政側も必死なのだろう。

◆山仕事でマスクや密とは無縁の労働環境に身をおく私は、今一つ危機感を持てないでいる。平日にはドアツードアで山と家を往来し、休日には相方とこれまた車で登山に行くという生活習慣なので、人混みに紛れることがないためだと思う。車社会の町内では人の往来もまばらなので、あまりウイルスの存在を意識することがない。夕飯の支度をしながら耳にするニュースで告げられる、「北海道、感染者数全国一」の厳めしいタイトルはどこか他人事になってしまう。こういう無警戒の我々のような若者に「道内では20代の陽性者が急増しています」とニュースキャスターが釘を刺す。こんな状況でも暢気にやれている毎日に感謝しつつ、気を引き締めて今後の状況に注目したい。(遠軽 五十嵐宥樹 27才)

★「インカルシ」は、アイヌ語でいつもそこへ登って敵を見張ったり、物見をしたり、行く先の見当をつけたりする所の意味で、遠軽町の由来となっています。街の裏手にある巨岩がインカルシだったようです。

凍った大地を追って

その13 大学をやめ、コーヒー農園を営みながらアンデスへ全力投球することに

■あいかわらずパンデミックは変わらないが、アメリカのほとんどの空港は入国フリーパスだ。悲しいことに体温チェックさえもしない。入境が厳しいのは、10月27日現在メイン、ニューヨーク、アラスカ、ハワイだけだ。それでもアラスカ原住民の村はひどいことになっている。多くの村でロックダウン、死者のほとんどはネイティブだ。

◆コロナはどうもアメリカ原住民が深刻な症状になるようだ。その上、極地の村はウィルス対策に脆弱でまた施設も整っていない。この時期よそ者が来ることは全く好ましくない。というわけで状況は混沌としたなか、もし来春コロナが収まり、もう一度村への訪問が許されるならトナカイ旅行を予定しているが、トナカイプロジェクトも7年目、トナカイの寿命からこれが最後だろう。

◆始めた頃、知りたかったトナカイソリの疑問にも、ある程度理解できるようになった。この件については来月の連載最終回で書きたいと思う。今のファーム生活は気に入っているし、外から電気や水道に頼らない生活は悪くない。ヨット生活を手放す時のように生活に何の不満もないが、いい時代の終わりと決めて、次に進む宿命なのだ。

◆トナカイ牧場も最初の2年は道のない森の中だった。道のない生活は極めて不健康だ。森を歩くので、どうしても持って行くのは、ウィスキーやウオッカになる。ビールやワイン、焼酎でさえも薄くて効率が悪いと思った。色々なシングルモルトのコレクションが増え、ちょっと(アル中?)心配になってきたので道を作ることにした。1マイルの道に使う砂利は、ダンプトラック450杯。土地や家より高くついた。しかし苦労の甲斐あって、案の定、健康的になった。

◆道といえば、アラスカの道路事情もこの100年で随分変わった。飛行機、スノーモビルができて、村々を結ぶ犬ぞりやトレール整備の必要性がなくなり、大戦中日本軍が攻めてくるので、急造したアラスカハイウェーで本土と繋がった。そういう意味で1900年ごろのゴールドラッシュのアラスカは今と状況がかなり違う、そしてかなりエキサイティングなところだっただろう。

◆役者も揃っていた。物書きのジャックロンドン、OK牧場の決闘のあとワイアットアープはサルーン経営、ノボシベリア諸島からは“北極のビスマルク”商人のヤンウェルテル、ちょっと遅れて、アムンセンが北西航路からやって来て、そしてトナカイ指導でノルウェーからやって来たサーメのサミエルバルトーは後に金鉱堀りになった。セントラルパークにあるノームに血清を運んだリーダー犬の銅像バルトーはサミエルにちなんでつけられた名前だ。

◆サミエルは、ナンセンと1888年にグリーンランドを横断した5人の1人だ。この時メンバーのスベルドロップが駅まで貨物車に乗ってきたサミエルともう1人のサーメを迎えに行っている。5年後にフラム号で北極へ向かう時、ナンセンはグリーンランド横断した(軍人で忙しかった1人を除いて)全員を誘っている。結局スベルドロップはフラム号船長になり、ナンセンにとって20代のグリーンランド横断の経験を共有したメンバーは生涯交友が続いた。

◆特にスベルドロップなくして、その後のフラム号の名声は考えにくい、まさにそう言う運命だったと思う。サミエルもナンセンと年が近かったこともあり、アラスカに移り住んでからも頻繁にナンセンとの手紙の記録が残っている。第2次フラム号探検で極地史上最後の大発見をしたスベルドロップは晩年ナンセンの弟アレキサンダーとキューバでプランテーションを企てた。

◆プランテーション……いかにも前近代的な、搾取を連想させる言葉だが、私も今学期でアラスカ大学をやめて、コーヒー農園を営みながらUNESCOの手伝いをして、アンデスへ全力投球することにした。今までのようにアラスカ大学に席を置きながら、活動もできるが、その必要はないと思う。

◆プランテーションといえば、戦前英国の登山界をリードした若き日のティルマンとシプトンが出会ったのもケニアのコーヒー農園だ。最近書いたキリマンジャロの永久凍土についての論文で私は1930年のティルマンの観察を引用したが、彼の視点には驚くものがある。ルウェンゾリ(火山ではないが)、ケニア山を登ってくるとアフリカの高峰はつい氷河ばかり注目されるが、キリマンジャロで地熱活動があることを世界で最初に報告したティルマンは一流だ。

◆今でも頂上だけを目指す観光客にはキリマンジャロはただの最高峰にしか見えないはずだ。加納一郎氏や本多勝一氏が冒険と探検の違いを説いているので今更私が説明する必要はないが、科学的見地から冒険と探検は非常に明快に分けられる。すなわち将来に渡って、その行動によって得られた事実を人々が引用するか否か、である。

◆探検は成果が全てであり、わからなかったことがわかるようになるのだ。一応、加納さんの本の中にわかりやすい一節があるのでメモしておく。“探検とはけっして学者集団の観測行事だけでことたるものではなく、また血気にはやるめくらヘビ的な功名心を満足させるための企画であってはならないのである。”


大企業にも国にも折れない、反リニア「オール静岡」の闘い

■10月1日と2日。南アルプスに出かけた。といっても登山ではない。車で大井川の上流部までの調査旅だ。静岡市から南アルプスに車で入るには、事前に市に、車のナンバーや運転者名などを届け出ての入山許可を得なければならない。市から南アルプスに入りしばらく林道を走ると、ゲート・バーのあるチェックポイントがあり、そこから先は、許可車か、徒歩か自転車しか手段はない。

◆今回目指した場所のひとつは、大井川上流部にある「燕(つばくろ)沢」という河川敷。もしかしたら、将来、ここに高さ65m、幅300m、長さ700mという副都心のビル街にも匹敵する規模の建設残土が積まれるかもしれない。ざっと東京ドーム3杯分の量になる。だが、この燕沢が昨年秋の台風19号で土砂崩れに襲われ、川の流路も変わったというのだ。で、それを確認しようとする市民団体に便乗させてもらった次第だ。

◆JR東海が2027年開通を目指す「リニア中央新幹線」(以下、リニア)。完成すれば、東京(品川駅)・名古屋間の286kmを最高時速505kmでわずか40分で結ぶ。リニアは静岡県最北部の南アルプスを11キロだけ地下で横断するが、その工事により大きく懸念されていることは2つある。

◆1つが、工事後も、県民の水源である大井川が毎秒2トンも減流するかもしれないこと。これは大井川を水源とする中下流域の8市2町62万人分の水利権量に匹敵する。もう1つが、工事で排出される360万m3(東京ドーム3倍分)もの残土を燕沢に積むことだ。JR東海によれば、残土山の頂上にリクリエーション施設をつくるとか……。一体誰が65mもある残土山に登るのだろう?

◆ともあれ、現場に行った。私は燕沢を2014年にも訪れている。すると、確かにその風景は一変していた。土砂崩れに襲われた燕沢では大井川の流路が変わり、川沿いに生育していた木々はすべて消失していた。もしここに巨大な残土山があったとしたら、今頃どうなっていただろう。調査の主催者である静岡県民の林さんは「もし、ここで残土が崩落したら、大井川は流れを失い、このあたりはダム湖になる」と予測する。彼が許せないのは、JR東海が「100年に一度の豪雨や土石流があっても、ダム湖になることはない」と明言していることだ。もし、ダム湖になってしまったら、62万人は一気に水に困る。なぜ、そういう不測の事態に思いを巡らせないのかと。

◆ということで、いきなり話は変わるが、林さんも共同代表となって、10月30日、107人の原告(ほとんどが静岡県民)がJR東海を相手に「リニア工事差し止め」訴訟を起こした。私も提訴のための入廷行動やその後の記者会見などを取材したが、リニア取材ではかつてないほどの数の記者たちが取材に来ていた。静岡は熱い。静岡での特殊性は、県は知事を筆頭に、2014年から一貫して「工事で失われる水は全量大井川水系に戻せ」とJR東海と協議を続け、一滴でも大切な水を失ってたまるかとの方向性を崩さず、「オール静岡」体制で闘っているからだ。川勝平太知事は国交省の事務次官にすら「工事を許可するつもりはない!」と断言している。

◆そして、今回の提訴で、県民もその闘いに加わったから、普段はリニア問題に見向きもしないマスコミが、その「絵になる」ネタにやっと目を向けたのだ。林さんは提訴の理由をこう語った──「県の闘いを指をくわえて見守るのではなく、県民こそが立ち上がらねばと思いました」。人間生活に一番大切な水を守るための、行政と県民の両方が、大企業にも国にも折れないという「オール静岡」の闘いには、個人的には「オール沖縄」にも負けない質の高さを感じる。

◆ただし、毎月2、3回のペースで静岡県に出かけ、さらには、リニアが通る他の都県にも出かけていると、クレジットカードの請求額にため息が出てしまう。かといって、JR東海が大スポンサーになっているほとんどの雑誌には取材したことを記事にすることもできない。とはいえ、もう10年も続けている取材を中途半端で終わらせるわけにはいかない。来年には新たなリニアの単行本を出す。それが今の目標です。(樫田秀樹


先月号の発送請負人

【先月号の発送請負人】

■地平線通信498号(2020年10月号)を作り上げ先週発送しました。今月も多彩のな書き手が登場し、20ページの大部となりました。書いてくれた皆さん、ありがとうございました。例によって印刷、封入作業にあたっては声かけをしませんでしたが、なんとなく察して集まってくれた方々が多かったのは嬉しいことでした。以下の皆さんが参じてくれました。
森井祐介 車谷建太 久保田賢次 白根全 高世泉 中嶋敦子 伊藤里香 坪井伸吾 二神浩晃 関根皓博  江本嘉伸 光菅修 大西夏奈子
◆それにしても今月は多いな、と感心しつつたまには「三密」でない状態でビールぐらい、と久々に餃子のおいしい『北京』に行きました。そこでさらに人が増え、なんと私に花束が! えっ? 通信のフロントに書いたように10月7日は小生の誕生日でついに80才になったのですが、まさかお祝いの場を用意してくれたとは、びっくりでした。こんなコロナの日々なのに。◆80才は「傘寿」と言います。それに合わせて花束のほかに素敵なモンベル製の折りたたみ傘をもらいました。もちろん、ビール代も免除です。「北京」でお金を出さないなんてほんとバチがあたります。皆さん、ほんとうにありがとう。


今月の窓

世界コロナ禍の中、来年4度目の南極へ!

■来年出発の第63次南極地域観測副隊長兼越冬隊長に決まりました。第34次越冬隊、第47次越冬隊、第53次夏隊につづく4度目の参加です。20代、30代、40代と南極観測隊に参加してきて、60代はさすがに無理としても、50代もなんとかしたいと思っていた矢先の決定でしたので、重責ではありますが、個人的な野望は密かに達成されました(出発はまだ先なので油断は禁物ですけど)。

◆第63次隊の総隊長(兼夏隊長)は極地研究所の牛尾収輝教授で、極地研究所の職員ということもあってすでに何度も隊長を経験された老練な研究者です。私は総隊長を補佐しつつ昭和基地に1年間とどまって観測を続ける越冬隊を指揮します。このような編成は、永田武総隊長、西堀栄三郎越冬隊長のコンビだった第一次隊の時代からかわりません。

◆これから1年をかけて、隊員の選考・訓練、物資の準備などを行って、来年11月中頃に南極に向けて出発する予定です。越冬隊は、来年12月末に南極昭和基地に到着してからさらに1年間にわたって現地で観測を継続して、2023年3月に帰国となります。トータルで足かけ3年にわたる長丁場となります。

◆南極観測は、1955年に(今話題の)日本学術会議から出された要望にそって閣議決定されたことから始まる国家事業です。オリンピックも国を挙げた事業のようになっていますが、実態はIOCが主催する一民間事業に過ぎません。これに対して南極観測事業は、文科省をはじめ、総務省、財務省、外務省、国交省、環境省、農水省、厚労省、防衛省などほぼすべての省庁が「統合推進本部」を組織してオールジャパンで運営にあたるという、縦割りが非難される政府事業にあっては非常にめずらしい体勢でなりたっています。

◆そういう経緯もあって、従来の観測隊人事は関連省庁や国立大学を中心に進められてきました。今回の私の越冬隊長就任は、私立大学に所属する研究者としては初めてとなり、官公庁中心の慣例を打ち破ったものともいえます。こころよく送り出してくれる法政大学の懐の深さには感謝したいと思います。

◆南極観測は6か年ごとに区切って立案・実施されていて、私は大学院生の時に初めて越冬した34次隊以来、5期分に相当する南極観測事業にかれこれ30年間にわたって関与してきました。現在走っている第IX期計画にも研究分担者として参画してきており、自分の研究テーマとしても面白い企画になっていましたので、実際のところヒラ隊員で行く方が研究者としてはやりがいがあるのですが、計画の中での自分の立ち位置などを考えて、このコロナ禍という火中の栗を拾う役割を選択することにしました。

◆今年初めに越冬隊長候補の一人に指名されたころから新型コロナウィルスの感染が拡大し、南極観測にも暗い影を落し始めました。実は、この夏の間は、1年以上にわたる越冬に耐えられる身体であるかどうかを厳密に見極めるための身体検査の連続で、ずっとコロナ感染にビクビクしながらの病院通いの日々を過ごしていました。この年齢になるとどこかしらガタが出てくるものですが、幸い、コロナ太り以外はいたって健康という診断でホッとしています。この先も感染など健康管理には十分に気をつけていくつもりです。

◆一方、南極は、小松左京の「復活の日」さながらに、地球上で唯一と言ってもよいコロナフリーの清浄な世界です。ここにウィルスを持ち込むようなことは決してあってはなりません。この11月初旬に62次隊をのせて出航した砕氷船「しらせ」は、一旦横須賀沖で約2週間洋上隔離され、感染・発病がないことを確認した後にようやく南へと向かいます。

◆さらに、「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と呼ばれる荒海「南氷洋」へと乗り出すべく、オーストラリアに寄港して燃料や食料を補給し鋭気を養うのが通例なのですが、今回はそれもありません。無寄港・無補給で昭和基地へ直行するという、南極観測史上でもこれまでになかったチャレンジングな航海となります。当然、観測そのものの規模も縮小され、正常比で60%の編成となりました。

◆この状況を引き継ぐことになる我が63次隊は、6か年計画最終年担当として、コロナ一過の期待のもとに遅れをとりもどすべく、一転して南極観測史上最大規模の編成となる可能性すらあります。その一方で、コロナがまだ継続していれば南極観測の存続をかけた厳しい活動になるかもしれません。どちらに転んだとしても、現場のやりくりは相当大変なことになりそうだと、今から覚悟を決めているところです。

◆そもそも北大に進んで山岳部の扉をたたいたのも、故郷である富山の雪深い山里で、立山の霊峰を眺めながら極地探検の世界に夢はせていた憧憬に突き動かされたことに始まります。北大山岳部には、南極で使った樺太犬の訓練をはじめとして、南極観測の草創期を築いてきた先達がすぐ手に届く範囲にいました。その感激が今の私の研究と教育活動につながっているといっても過言ではありません。

◆北海道を出奔して法政大に転職してからは、江本嘉伸さんをはじめ地平線諸氏の皆様にも、ゼミ生共々たいへんお世話になり、希望の紐をつなぎ続ける糧とさせていただきました。夢や野望の実現はクラーク博士の教えにもつながりますが、それを後進に伝えていくことも忘れてはいません。出発までは大学と観測隊の二足のわらじで仕事を続けるものの、出発後は1年以上教育の現場からは離れます。無事任務を終えた暁には、この体験を生かして次世代の育成につなげていきたいと思っています。(澤柿教伸


あとがき

■報告会レポート入りの地平線通信はしばらくぶりだ。ただ報告者のひとことも含め、全て自作自演のかたちなのでなんとももじもじしてしまいました。

◆「北の国のウイルス問題」を書いてくれた五十嵐宥樹さんは2019年6月「地雷の向こうの精霊の山」というタイトルが482回目の地平線報告会をやってもらった当時北海道大学の大学院生でした。院を卒業して相方の住むのホーツク沿岸の遠軽町に住み、山仕事を修行する日々。一時は新聞記者志望だったこと、昨年の報告会の印象もあって時々、地平線通信に書くようにお願いしました。

◆日本の至るところに書き手がいてほしい。とりわけ若い人は地平線通信で腕を鍛えてほしい、と日頃考えています。書き手が」揃っているという点では地平線通信は挑戦に値する場なのですよ。しごかれてみたい、と思う人は是非! なお、「インカルシ」という名前の語源には「五十嵐」という名も入っているようです。

◆先月号のフロントで「大糸線に沿って島々を通過」と恥ずかしいミスをしてしまいました。もちろん「島々線」の間違い。大糸線は北アに通う岳人には慣れ親しんだ鉄道なのでつい。にしても連れに指摘されて決まり悪いことでした。(江本嘉伸


■地平線マンガ『奇妙な果実の巻』(作:長野亮之介)
マンガ 奇妙な果実の巻

   《画像をクリックすると別タブで拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員112名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月(11月)の地平線報告会は、開催しないことになりました。感染も拡大中ですし、もう少し様子をみることにします。


地平線通信 499号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年11月18日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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