2021年7月の地平線通信

7月の地平線通信・507号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月28日。心配されていた台風8号は関東地方には近づかず、宮城県に上陸、東北地方を北上している。関東周辺の大荒れの予想は拍子抜けとなったが、東北地方を中心に土砂災害が心配されている。

◆きのう27日、東京都の新型コロナウイルスの新規感染者が2848人と発表された。これまでで最多だった1月7日の2520人を上回る過去最多の数字だ。緊急事態宣言の発令から2週間を過ぎても、感染拡大に歯止めが掛からない状況だ。

◆そんな中でオリンピック「TOKYO 2020」がすでに始まっていて、もう1週間になろうとしている。柔道、水泳、卓球、体操など日本のアスリートたちの活躍は目覚ましく、予想を上まわるメダルラッシュが続いている。特筆しなければならないのは、ほとんどの競技が「無観客」ということだ。いったい、目の前でおきている事態をどう受け止めればいいのだろう。

◆1964年の東京オリンピックを取材者の立場で観戦した者としてそのその印象を言えば、57年後に実現した今回の大会は「エキストラ大会」ということだ。新型コロナウイルスがむしろ拡大しようとしている時期、強行された今回の「オリンピック」、個人的事情(引っ越し)もあって私は意外なほど関心を持てなかった。「そこまでしてやるべきものではない」という確信があったのと、IOC、日本政府による開催の動機が、パンデミックが世界を覆っている中で強行するにはなんともメッセージとしてお粗末、と感じている。

◆開会式も少し眺めただけで、失礼してしまった。聖火リレー最終走者が誰であるかも関心を持てず、テニスの大坂なおみ選手であることは翌日知った。メディアもやりにくそうだ。NHKはじめテレビ各局は実況中継をやるのは当然として、たとえば今朝の朝刊。読売新聞の一面トップは「ソフト連覇 北京以来 米破る」と女子ソフトボールチームが金メダルを取ったことを大きく伝え、そのわきに「東京感染 最多2848人先週の倍 若年層目立つ」と報じた。

◆朝日新聞は「東京感染最多2848人 首都圏3県、緊急事態要請へ」をトップに据え、「首相、五輪中止を否定」と伝えた。毎日新聞は「突き進むしかない五輪 東京は過去最多の感染者 医療逼迫懸念も」と報道。

◆府中にベースを移してはじめての地平線通信である。6月末、新型コロナウイルスの2度目のワクチン接種を済ませ、42年住み慣れた四谷荒木町のマンションを離れて府中市のマンションの8階で新しい暮らしを始めた。ベランダの近くに緑の森が広がり、落ち着けばとてもいい環境と言えるだろう。しかし、1か月も経つというのに、まだ近くの散歩を楽しむ余裕もない。

◆私は本のかなりを荻田泰永君の冒険書店に寄贈したし、かなりの持ち物を捨てた気でいたが、とんでもなかった。段ボール箱を開くたび、こんなものまで持ってきたの! 新しい暮らしに切り替えてよ、と連れに面罵される。確かに私の所持品はふるびたものばかりだ。世界各地から舞い込む旅人の便り、地球のあちこちで撮りためてきた写真、中にはご本人の意志で私に託されたとしか思えない貴重な便りや写真も。

◆たとえば、1986年、インドから届いた手紙。もちろん、手書きだ。「今、突然の激しいスコールが襲ってきました。ビー玉のように大きくて重い雨粒です。今日は朝からカンカン照りで34℃まで気温は上がりました……」。薄い紙の便箋にぎっしり10枚も。カルカッタに着いてからの便りはこんなことを書いている。

◆「外の通りで亮之介にバクシーシ(物乞い)してきた老女のあの力強さ。彼女は突如として私たちの前に現れ、彼の右腕を両手でつかむとその中に身体をあずけ、ほおずりを始めました。母親が息子を抱きしめて、ほおずりするように。彼女の顔は微笑みをたたえ、やわらかくおだやかでした。私は目の前で起こっている光景に圧倒されました。私たちが知っているもっと過去にも、そして私たちが知らないずっと未来にもこの老女はかたちを変えて存在しているんじゃないだろうか……」

◆亡くなる直前、地平線通信に「生ききりたい」という、穏やかだが、きっぱりした文章を寄せてくれた淳子さん。インドへの旅は、1986年の1か月半。亮之介画伯と結婚した翌年だから25、6歳のころであろう。ぎっしり書き込まれた文章は、長野淳子という女性の生を伝える貴重な宝物だ。今度、そっくり画伯にお渡ししするつもりでいる。そうそう。1975年、田部井淳子さんがサーダーのアン・ツェリンとともにインクで署名してくれたエヴェレスト頂上の石もある。もちろん歴代の犬たちの写真も。

◆私の混沌とした持ち物はこのように“いわく言い難いもの”で溢れ、加えて整理整頓技術がないために1か月たっても落ち着いていない。深く反省。(江本嘉伸


地平線ポストから

島ヘイセンvol.2
5メートルの飛込みに夢中

◆離島留学生として神津島に来て4か月が経過した。島の生活にも大分慣れてきて、楽しく毎日を過ごしている。学校では、入学当初はあまり話さなかった友達とも距離が縮まった。

◆先生方とは、勉強の事だけでなく進路の相談や日常の事などもたくさん話したり、部活で一緒に汗を流したりしている。寮では、今年度1年生4名、2年生4名、3年生3名、計11名が共同生活を送っている。こちらも学校同様、苦手意識のあった先輩とも今では何でも話せる仲になった。

◆寮生活では掃除・洗濯等、自分の事は全て自分でしなくてはならない。当然ながらその中で学習時間を確保する。そのうえ、玄関・下駄箱掃除、食堂掃除、配膳係、寮菜園の草むしりと、各種当番もかなり充実している。平日はこのルーティーンをこなすだけで精一杯である。

◆加えて土日の朝昼食は自炊当番が待ち受けている。1回の当番は2〜3名で、13人前を買い出しから担当するのである。全員が、すごくレベルの高いものを作るので正直驚いた。朝から天むすやケーキがでたり、昼はガーリックライス、ガパオライス、ロコモコ丼といった、まるでカフェの様なメニューも登場する。

◆そして、それらのすべてがとても美味しいのだ。自分の当番では肉みそうどん、カレードリア、ローストポーク、海鮮丼、卵焼き等を作った。スーパーでは店員さんに「今日は何をつくるの?」とよく聞かれ、地域の人とも多くのやり取りをするようになった。予算内で美味しくボリューム感のあるメニューを考えるのは大変だが、毎週の密かな楽しみになっている。

◆週末は、島の友達の家に遊びに行って大人数でゲームをしたり、皆で海に行って泳いだりしている。寮に集まって勉強会をしたりもする。定期試験前の勉強会にはなんと、校長先生が直々に講師をしにきてくださった。また、島のバレーボールチームにも加入し、地域の活動にも積極的に参加している。

◆神津島には赤崎という観光名所があり、そこでは飛込みが楽しめる。3m、5m、10mの高さがあり、自分は先日5mの飛込みに挑戦した。島の友達によると、5mは3歳の子供でも飛込むらしいが、普通に怖かった。しかし、何回か飛込むうちにそのスリルの虜になり、最終的には一緒に行った仲間の中で一番多く飛込んでいた。

◆10mは明らかに高さがあり、さすがに怖かったので今回はやめておいた。いつかは飛んでみたいと思っている。島にはカラオケやボウリング場、映画館やゲームセンターといった娯楽施設は一つもない。しかしここには豊かな自然がある。都会でお金をかける遊びをするよりも、はるかに贅沢な日常にとても満足しているし、最高の島生活を送れている。

◆さて、依然猛威を振るうコロナ感染症が危惧されるところであるが、7月16日に寮生は2回目のワクチン接種が完了した。島唯一の診療所で受けたのだが、しっかり対策されていてとてもスムーズに受けることができた。

◆高齢者や観光業に携わる人、離島留学生が優先的に接種を受けることができた。8月中には全島民の接種が完了する見込みとのこと。副反応は翌日に激しい頭痛と38.9℃の高熱、腕の謎の痛みに襲われた。ちょうどその日には以前から模試の予定があり、激しい頭痛の中で問題を解いた。結果はご想像におまかせする。

◆島には夏になると多くの観光客が来る。現在は来島自粛をお願いしていることもあり観光客数も例年よりはぐんと少ないが、来週には300人ほどの来島予定と聞いている。島の活性化には観光業は欠かせない。だから個人的にはワクチン接種が進むことによって安心して観光客を迎えられるようになればいいと思っている。

◆明日はいよいよ東京オリンピックの開会式が開催される。島ではどちらかといえばオリンピック開催を快く受け止めている人は少ないように感じる。自分も昨年、中学の修学旅行が中止になった一人であるが、今年、3年生の先輩方も修学旅行を諦めることとなった。「オリンピックはできるのに……」というもどかしさは常につきまとう。

◆そのせいか、島の公道で催された聖火リレーの応援も、正直まったく盛り上がらなかった。しかし自分は、だからといってオリンピックを楽しまないことはないと思っている。アスリートの方々がオリンピック出場に向け努力してきたのは事実であり、自分はいつもどおりにテレビ観戦で応援をするつもりだ。納得いかないこともあるし、開催反対論もよくわかるが、だからこそ今は自分にできる感染対策をしっかりしつつ、本気で楽しむべきなのではないのかと思っている。

◆初めてだらけの離島留学も7月21日に無事1学期を終えた。しばし島での夏を満喫した後、母の手料理を楽しみに8月3日に帰省します。(神津高校1年 長岡祥太郎

ドルポのアーカイブをつなげたい!

◆植村直己冒険賞授賞式を終えてご報告させていただきます。はじめに前日、豊岡入りした際の感動について。私とパートナーのためにホテルの立派な部屋が用意されていたのです。

◆私は20年前から植村直己冒険館に通っていて、初めて行ったのは28歳の時でした。一人で大阪から始発で行き終電まで堪能し、帰りの電車では遭難本を読んでいたら入り込んでしまい、電車の中で涙が止まらなかったこと、今でも覚えてます。

◆そして、ここ数年は植村さんのお墓の下の広場に車中泊していて、そこが私の豊岡での寝床なのです。これが今回は突然ご招待によるホテル泊となり、すごい贅沢だという話です。

◆今回、私の家族やTeam Winter Dolpo(ドルポ越冬中に私の現地発信をまとめてご支援くださった皆様にメールの配信作業をしてくれていた友達)のメンバーが数名と、あと私のお店の常連様やご支援していただきました方々もかけつけてくださいました。

◆実はいま、家族の体調が良くなく、特に姉(同じく膠原病で姉は他の病気にもなりやすい)が入退院を繰り返していて、前日に強引に退院してきたという状況でした。そんな中、姉の娘、私の姪っ子は7か月目の娘も連れて、家族みんなで来てくれました。

◆母もリウマチで、私が一番早く発症してますが、母、姉と共にリウマチ一家です。ですが、姉もまたパワフルであまり厳しい状況を口に出さないタイプです。父は、6年前に亡くなっており私の活動には一切口を挟んでこなかった人でした。

◆あと忘れてはいけない人、普段からサポートしてくれてるパートナーは、ほんとに理解してくれていて感謝しかないと思いました。環境活動、アウトドア系を主に仕事としている彼とは、30代の前半頃に出会いました。

◆その頃、お互いに里山で暮らすことを考えていてタイミングが合い、今住んでいる金剛山の麓に一緒に住みはじめて15年が経ちます。私のヒマラヤ通いをずっと応援してくれています。

◆私はこの大好きな家族と応援して下さる皆さんのおかげで今回の受賞に繋がったと、この日とても実感しました。

◆メダルには自分の名前が、盾にはドルポ越冬のことが書かれていて、さらに植村直己冒険賞の審査員の石毛直道先生(文化人類学者・民族学者。国立民族学博物館名誉教授・元館長)が私のこれまで人生のことをていねいに演説してくださった。またそれが心のこもった内容で私はすごく感動をしました。

◆今回のドルポ越冬が受賞したわけですが、まさかの石毛先生から受賞のコメントをくださるなんて思ってもいなかったこと。

◆実は、今回の受賞に関係なく、私にはやりたいことがあります。それは石毛先生が名誉教授である大阪の国立民族学博物館に関わること。とはいえ、私は高卒なので普通ならそのスタート地点にも立てないのですが、「ドルポのアーカイブを繋げる」ことを本気で考えています。

◆それは民族学博物館にある1958年の「西北ネパール学術探検隊」(隊長:故 川喜田二郎氏)が撮影した写真がドルポのもので、ネパール写真データベースといってすでにデータ化されてます。これを元に私の師匠・故 大西保氏が調査してきた2000年前後、そして私が通っている今の時代、この3世代を繋げる。

◆西北ネパール学術探検隊にはチベット文化学者・河口慧海師研究の故 高山龍三氏も隊員でした。高山先生は私の越冬中に他界されました。私がドルポに行けるようになったのもこの先人様達のおかげで、先人様達が築いてきたことを残したいのです。

◆昼食が重なった時、今がチャンスだと思い石毛先生に思いをお伝えしました。まずは種まき成功です。しかし気持ちだけではダメ、それをどれだけ貴重で必要なものかを具体的に伝えるために今月中に計画書を本気で作り、来月にはこの計画を今一緒に模索している先生(奥山直司氏:日本の仏教学者、高野山大学教授。専攻は、インド・チベット仏教文化、密教図像学、日本近代仏教史、河口慧海研究者)に見ていただく予定です。

◆私はフィールドワークの専門家、登山家でもありません。美容師を職としてきましたが、こんなに面白いヒマラヤ遠征をやめるわけにはいかない、さらに今はまた使命感まで湧いてきてます。今やらないと消えてしまうからです。だから今年からは美容師の傍らをやめて「ヒマラヤに通う美容師」として、従来の美容室と逆の発想の展開で動いてるところで今回の受賞でした。

◆そして、最後、豊岡市の方と交流する時間がありました。私は豊岡に20年通って植村さんのお墓の下で車中泊してることを皆さんの前で話しました。引かれるかなーと思ったのですが、「ワシの家はすぐそこや、あんたぐらいの娘もいる、よかったらいつでも来て」と、嬉しいことを言ってくださいました。

◆そこで私は「本気で言ってますか? 本気なら行きますよ、大阪人なので……笑」と伝えました。

◆さらに帰り際には、解散した後なのに植村さんの甥っ子にあたる植村守さんが自転車で後を追ってきて下さり、「時間あったら家に寄って」と声をかけて下さいました。時間がなくても行きたいと思い、最後、冒険館にご挨拶と特別展の打ち合わせがありましたが、全てを終えて最後に家にお邪魔させていただきました。

◆私は以前から植村さんの兄・故 修さんとも交流があったのでそれを伝えると喜んでいただき、そこでまた植村さんの日記の直筆を見せていただき、手にとってみると今も生きてるような植村さんの魂を感じることができてとてもよかったです。

◆こんな私が冒険賞を頂けるとは、歴代の受賞者の方々とは世界が違いすぎて本当におこがましく思っています。それは今も消えないですが、冒険賞を頂けたことで今までやってきたことが間違ってなかったと、そして今後も続けることを決意できました。そのように思わせていただけたことに感謝しています。本当にありがとうございました。(稲葉香

願わくば、オリンピックに関するポジティブなニュースも掲載されることを

◆2021年7月23日、ぬるい夜風を浴びながらキーボードを叩く。ここは、岩手県は雫石町の、とある民宿の一室だ。地熱探査の労働者として滞在している私は、扇風機のない部屋で汗まみれになりながらも、机に向かっている。どうしてもこの日のモヤモヤを記録しておかなくてはいけない気持ちに駆られているからだ。

◆気がつけば、コロナウイルスの蔓延から2度目の夏を迎えていた。外出時に確認するケータイ・鍵・財布にマスクが加わり、車を降りて店舗に入る間にマスクを付ける一連の動作も、無意識でこなせる領域に入ってきた。しかしそのことは、ウイルスと私たちが仲良しになれたということでは一切なく、被害者の数が増減を繰り返しながら報じられる日々に変わりはない。今も沖縄県と東京都では、緊急事態宣言が発令中であり、日本はウイルスによる危機の只中にある。

◆それなのに、国を挙げての一大イベント、お祭りが、今まさに開かれんとしている。言うまでもなくそれは、国内では2度目となる、東京オリンピックである。1964年の東京オリンピックの当時、もちろん私は生まれてもいないが、それでも2021年のそれと比べれば、国民の熱気や関心には相当な差があるというのは感じ取れる。戦後復興の象徴としての昭和五輪とコロナ禍での令和五輪。背景にある社会情勢はあまりに違うはずだ。モヤモヤの核心はそこにある。人生で初めて自国開催のオリンピックを体験する私なりに、今思うことのあれこれを、この場をお借りして書き残しておきたいと思う。

◆もともとスポーツ観戦に関心がない私は、東京五輪招致が決まった2013年から、オリンピックにもこれといった思い入れはなかった。ましてや、新型コロナウイルスの蔓延と収束が見えないなかでもオリンピック決行に邁進する政府関係者の動向に呆れ果て、かといって声をあげることもなく開会式の今日を迎えてしまった。そもそも、「集まるな」と言われているこの時期に、本来国民が一丸となって熱狂する行事を「開催します!」といわれても、あまりの温度差に白けてしまうというのが本音である。

◆実際、先日の現場作業に向かう車の中で、路上でトレーニングをするオリンピック選手を偶然発見するまで、オリンピックの「オの字」すら頭になかった。八幡平の高原道路を高速で漕ぎ登る自転車乗りがルワンダの代表選手だったということも、「後で調べてみたらわかった」という同僚に教えてもらわなければ、わからずじまいだった。

◆こうして奇遇にもオリンピックとの僅かな接点を見つけることができたが、それほど私はオリンピックに無関心だったのだ。私だけではないのかもしれない。毎日一緒に働く10人程度の労働者のうち、「あと何日で開幕だね」などということを呟く人はただの一人もいなかったのだ。あくまでも地方で働く現場労働者の肌感覚に過ぎないけれども、それほどまでに市民の関心が薄い、というのが、トーキョー2020なのではないだろうか。

◆そんな私だから、当然今夜の開会式には毫も興味がなかったのだが、一つ屋根の下で暮らす同僚に誘われたら無下に断ることもできない。民宿のテレビで焼酎をあおりながらNHKにチャンネルを合わせた。

◆ちょうど始まった開会式の様子を見つめるともなく見ていると、どうしても口は「への字」に曲がってしまう。緊急事態にあるはずの都市で、「平和の祭典」であるはずの行事が執り行われようとしている現状にどうしても違和感を抱いてしまうからだ。

◆現場作業の合間にラジオでキャッチした、「外国オリンピック選手、東京で新型コロナウイルスに感染」のニュース。過去の失態による、オリンピック関係者の相次ぐ解任。別に思い出したくもないトピックが、式の鮮やかな映像に重なっては消える。20時5分に新国立競技場で盛大に打ち上げられた花火を、ホテル療養しているコロナ患者はどのように見つめていたのか、という疑問も頭から離れない。「緊急事態」であるはずの日本には、およそ不釣り合いなお祭り騒ぎのオープニングセレモニーが上滑りしていく。私の目には、どうしても今この時という状況が、ちぐはぐに見えてしまい、それが得も言われぬ不快感を生み出している。

◆数年後、きっと学校教科書の現代史のページには、今の現状そのまま、「2021年−−コロナウイルスの感染拡大/二度目の東京オリンピック開催」が併記されるのだろう。あまつさえ「大きな災厄を乗り越えて、実施されたレガシィとしてのオリンピック」を匂わす出版社もあるのだろうか。少なくとも、これまで書かせていただいたような小市民の違和感が、そこに載ることはないだろう。だからこそ、地平線通信に書き残す原稿が遺跡になるよう願いを託す。

◆いったいどれだけの人が、今日の開会式をワクワクした気持ちで、見つめることができているのだろう。純粋にスポーツが好きで、コロナ前からオリンピックを楽しみにしていた人たちも、なにか後ろめたさを感じることなく、楽しめるタイミングだったのだろうか、この日は。

◆世間ではいまだに自粛が声高に叫ばれ続けている。東京では新たに1359人が新型コロナウイルスに感染したという。悲観的な私の思いをよそに、目の前の16インチの画面では滞りなくセレモニーが進んでいき、空席ばかりの祭典が幕を開けようとしている。閉幕までの17日間、私のモヤモヤは止まらない。

◆願わくば、オリンピックがウイルスの活躍の場にならぬことを。願わくば、今月の地平線通信にオリンピックに関するポジティブなニュースも掲載されんことを。(雫石町にて 五十嵐宥樹

ペダルを踏んで植村直己冒険賞授賞式へ

◆7月3日(土)兵庫の奥座敷、湯村温泉を朝早くに出て、村岡から自転車で峠を越える。長い長い蘇武トンネルの中に、香美町と豊岡市の境界線があった。植村直己の故郷、旧日高町に入ったのだ。

◆トンネルを出た水口の集落で一休みする。ふと視線を感じて目をあげると、植村さんが歩いていた。いや植村さんが歩いている写真が立派な石柱に掲げられていた。

◆1971年、犬ぞりでの南極大陸単独横断を目指していた植村さんは、その距離3,000キロを体感するため、稚内から鹿児島までを52日間で歩いた。写真はその途中、上郷の実家に一泊してから山越えをするときのもの。私がいまトンネルで抜けてきた峠を、植村さんは徒歩旅行の途中で山越えしたのだ。

◆同じ町内とは言え、上郷からも冒険館からも離れたこんなところに植村直己の記念碑があるとは思わなかった。この記念碑には世界的な冒険家が郷里に帰ってきた地元の人たちの嬉しさが溢れていた。

◆「どんぐりBASE」という子供向けの体験施設が加わり、カフェではスタバのコーヒーも出すようになった植村直己冒険館に立ち寄る。4月にリニューアルしたにも関わらず緊急事態宣言で休館を余儀なくされたと聞いて心配していたが、この日は親子連れで賑わっていた。年間パスポートが安いので、雨が降るとここにやってくる人たちも多いようだ。

◆2020年の植村直己冒険賞授賞式が行われる日高文化体育館は200以上のパイプ椅子が満席。「ドルポ越冬122日」の稲葉香さんは4月に就任したばかりの関貫久仁郎市長からメダルや副賞を次々と受け取り、記念撮影に応じた。4月5日の都内での記者発表のときにはマスコミのカメラに囲まれた稲葉さん、きょうはそれを上回る数の豊岡の人たちのスマホに囲まれ、少し緊張した笑顔で応じている。

◆続いて受賞記念講演。200人もの人たちが稲葉さんの話に真剣に耳を傾ける。冬には雪に閉ざされ、食糧にも事欠くこともあるというアッパードルポでなぜ越冬を思いついたのか、122日間はどんな日々だったのか、そしてドルポの人たちの暮らしにどんな変化が起きているのか……。稲葉さんの話の中身だけでなく、聞く豊岡の人たちが目を輝かせているのが印象に残った。

◆25回目になるこの受賞講演会を楽しみにして毎年通っている人も多いと聞いた。郷里の英雄を誇らしく思う豊岡の人たちの気持ちが、次の挑戦者を育てる。支え、支えられる循環がこうやって続いているのが素晴らしい。たとえ市長が交代しても、この動きは簡単には止められないだろうと感じた一日だった。(落合大祐

アフリカの女性に日本のすり身の技術を伝える女性たちの活動にエールを!

◆初めて投稿させていただきます。インド北東部で支援活動されていた延江由美子さんの高校の後輩で、世界の先住民の暮らしに最近興味津々という理由だけで地平線通信を紹介していただきました。

◆先月号の感想を、ということで、一番印象的だったのが、アフリカの女性に日本のすり身の技術を伝える佐藤安紀子さんの記事です。

◆異国の文化が出会う話は大好物なのですが、遠く離れたアフリカに日本の技術を伝えたいという意志と行動力にとても刺激を受けました。

◆人間の習性を観察していると、本性は「助けたがり世話したがり喜ばせたがり」だと思うことがよくあります。無償の愛とか母性のようなもので、老若男女問わず誰でも持っている気がします。

◆世界には、人を助けるよりも攻撃したい人がいるのも事実ですが、それを解決できるのは母性だと確信しています。

◆あるSF映画の中で、宇宙人が先に地球入りしていた仲間に「地球人の特徴は?」と聞くと「おびえると攻撃性を増す」と一言。え?それだけ?と思ったのですが、そのあと妙に納得。

◆彼らは、攻撃的な地球人を責めたり排除するのではなく、その根底にある強い恐怖心や不安を、同じくらいの強い愛情で溶かしていきます。まさに「母性は地球を救う」。

◆知り合いの庭師の言葉を思い出しました。「雑草が暴れるのは、強いからじゃなくて、苦しいから。根元から切らず、風に揺れる柔らかい部分を根気よく刈っていくと、草は学習してそれ以上伸びるのをやめて大人しくなり、土を元気にしてくれる」

◆憎たらしいものほど、根気よく愛情をかけると、いつしか愛おしいに変化するのかもしれません。話がそれましたが、いつかアフリカのすり身を食べたい!と妄想しながら、そんなことを思いました。(田中澄子

全身麻酔を体験してしまった

◆3月の下旬だった。風呂に入ろうとしたら左の鼠経がポコッと膨らんでいるのに気づいた。そっと押したらぐにゅっとした感触といっしょに引っ込み、また出てきた。

◆「こりゃ手術だね。痛まないのなら急がないけど、いずれ激痛救急搬送緊急オペになる。自転車乗りか。サイクリストってけっこう多いんだよ」とは、あわてて受診した先の主治医。

◆あまり聞かないがと思ったが、職場に実情を話して休暇を確保すると、自転車屋はともかく周りに意外といたのには驚いた。「うちの父もこの前手術した」「となりの爺さんも先日手術したって聞いた」「うちの旦那もそうなのよ、手術がいやだってごねて困っているの、結果教えて」とまあ、出てくるわ、出てくるわ。

◆2か月後。なおも痛まないが、ぽこっとした膨らみを鼠経にかかえながらの毎日はあまり気分のいいものではない、ここは手術と覚悟を決めて、ふたたび主治医の説明。「前日入院、2日目オペ、3日目にバルーンと点滴を抜き、4日目に退院。手術は半身麻酔で鼠経から直接治療か、全身麻酔で上腹に3つ穴をあけての腹腔鏡の二通りから選んで。腹腔鏡のほうが回復は楽だよ、手術歴がないのなら全麻のほうがいいと思う」。

◆こうして6月下旬のオペは決まり、入院前夜、病棟には「へルニア国まで全麻の旅に出かけてきます」と伝言を残し、他病棟の仲間にはしばしの休みを告げた。「九州ですかあ、北海道ですかあ、いいですね。まさか外国じゃないですよね」。十人が十人、私が休むときは自転車をどこかで乗り回していると信じ込んでいやがる。「遊びじゃねえ、市立海浜行だ」「え?」「入院、緊急全麻オペ。このご時世に遠出ができるか」といって背を向けた。

◆初日はオペ前検査で終わり、2日目朝、手術台の前に立った。これまでさんざん全身麻酔をサポートしてきたけど、かけられるってのはあまり気持ちのいいものではない。しかし今回にかぎっては俎板の鯉、覚悟を決めて手術台に臥床、天井を見ていると「始めます」と左前腕に点滴ラインが入って麻酔剤(筋弛緩剤)が注入された。なんか天井が回転してきたな、これから眠りにつくのか、ちゃんと目が覚めるかな、なんて思うのかなとの予想とはうらはらに、入れますね、といわれた直後に記憶は飛んだ。

◆ここで解説(1)。全身麻酔オペでは、患者が眠ったのを確認したら、口の中に先端だけが大きいくぎ抜きのような喉頭鏡なるものを入れて舌の付け根に当て、ぐいと下に押します。すると気管の入り口が見えてきます。ここに追加の麻酔剤を直接肺に噴霧できるよう管を入れます。この手技を挿管といい、全麻オペでは必ず行います。なお自発呼吸は点滴内の筋弛緩剤ですでに止められているので、このとき我が呼吸は人工呼吸器の支配下。したがってここで機器を外せば呼吸も止まり、我が人生そこまでです。なお筋弛緩剤というから分かりにくいのであって、要は呼吸停止剤です。ちなみに平成12年、仙台でおきた北稜クリニック事件は、犯人が意図的にこの薬剤を点滴に混ぜて死に至らしめた事件です。

◆さて。気づいたら3時間が過ぎていた。とはいえまだ残存麻酔の支配下、病棟に運ばれたのは理解できたがなおも断眠の時間帯である。その後の数時間も白河夜船だったが着実に切れていく。麻酔に固まった体をほぐしたい。

◆ところが。わずかの動きでさえ激しくきしむ腹筋に寝返れない。腹壁に穴をあけて入れた炭酸ガスで内臓と腹膜の間に手術できる空間を作ったのはたった数時間前、それぐらいはしかたないかとは思いながら漫然とした夜が明けていった。

◆翌日、朝から飯が出た。腹は切ったけど内臓までは切っていないから食べるのは問題なし、オペのため丸一日絶食中。空腹の俺はさっそく飛びついたが、わずかの動きでまたしても疼きやがる。

◆食べられましたね、このあと点滴抜いてバルーンも抜きましょう。そしたら歩いていいですよ、とはその直後にきた主治医。

◆解説(2)。バルーンとは、動けない人間がトイレに行かずにすむように、膀胱に直接入れて排尿させる管のことで、尿はベッド下にぶら下げた2リットル強の袋に溜まるよう誘導されます。この管が尿道に入っていることによる違和感が耐えられないと、さんざん入れてきた私は患者さんたちから恨まれていますが、どういうわけか気づかないぐらいに気になりませんでした。はなはだ疑問です。

◆とにかく2日目にして管が抜け、点滴もはずれ、身軽になって立った。そして一歩を踏み出したとたん、またしても「うっ」。疼く腹筋に看護師だより、手すりだよりの情けないあゆみではあったが、廊下を往復して病室にもどった。

◆そんな矢先、電話が鳴った。無視したかったが姉だった。「どうだった?」「話せるまで回復したけど……」「えっ、何? 聞こえない」

◆う段は声になるのだが、あ段とえ段がつらい。話すだけでここまでイレギュラーに腹筋を使うとは思わなんだ。「とにかく元気」とだけ小声でいい、もうかけてくるなと携帯をにらんで切った。

◆そして最終4日目、退院の日。人体の回復機能とはすばらしい、痛みは加速度的に後退していく。「うっ」と漏らす回数も大きさも急降下、痛みは残りながらも病棟内程度なら自由に移動できるようになり、この調子なら家まで歩けるのではとささやかな期待まで生じてきた。

◆とはいえ何らかの拍子に神経が暴走したら路上にうずくまりかねない。下手すると凍傷(1度)の足を引きずったアコンカグアの40kmなみの1500mになるかもと危惧していたが、幸いにも同僚が迎えに来てくれた。(埜口保男

ZEROtoSUMMIT 広島篇走登記

■一度目の新型コロナワクチン接種翌夜、夜行バスで広島に向かう。副反応は出てないが、左腕が重く、はたして走れるだろうか。広島県最高峰は1346mの恐羅漢山(おそらかんざん)で、島根県最高峰でもある。その山頂に降った雨粒は西の島根県側に落ちれば匹見川から高津川となり日本海に、東の広島県側なら太田川となって瀬戸内海に注がれる。今回は後者をたどって走る。

◆26日朝、広島駅着。舟入南駅で路面電車を降り、河口まで歩く。海と面して、前回の愛媛篇で石鎚山から見た海の反対側に来ていることに気づく。昼前にスタート。三角州をなす6河川のうち、黒い泥に覆われた本川(旧太田川)をしばらくたどる。川に降りるための階段「雁木」をモチーフに近年修景された石の護岸がすばらしく、これまで見てきた都市河川では、富山市の神通川にならんで美しい。

◆平和記念公園でしばらく足を止める。平和記念資料館を出たあとは、広島の風景が違って見えた。相生橋を狙って原爆が投下されたという史実がぼくの身体の芯に突き刺さってしまったのだ。その相生橋から遠ざかるにつれて過去から現在に引き戻されていく。こんなに川の景色が重く見えるのは初めてだ。大芝水門で太田川放水路と合わさり、太田川は一本に。安芸大橋をすぎると、一気に中流域の表情になった。初日は亀山まで23.8km。

◆夜半に降り続いた雨も朝には上がった。梅雨最中の今回は連日ずぶ濡れを覚悟していたのに運がいい。2日目の今日はずっと峡谷地帯で、食糧にありつけるかどうかも不明。それにしても山深いのに驚く。中国自動車道がチラ見えするので人里離れた感はないが、どこまでも山が続く。時折現れる廃線廃橋の光景が異様だ。この可部線、三段峡まで観光客を運ぶ足として戦後は大いに賑わっていたのだろう。

◆出発して46km、戸河内の道の駅でやっとメシにありつく。ここで今回予定している三段峡コースの一部が通行止めとの情報を入手。さてどうする。残りを一気に走り、三段峡ホテルの浴槽にドボン。夜が更けてから何気なく川に目をやると、なんとびっくり、ホタルの大乱舞。しばし見とれる。2日目55.5km。

◆さぁ最終日。黒淵〜水梨口間の崖崩落?をどうするか。単独で冬山に入るような懐かしい緊張感。本当にヤバければ引くしかない。と走り出してはみたけれど、詳しくは書かないが呆気ない結末だった。三段峡を無事通過し、最後はスキー場を駆け上がって海からぴったり100kmで恐羅漢山に登頂、広島篇の完成だ。ZEROtoSUMMITを走ると、その土地に染みついた悠久の歴史を感じる。しかし原爆、可部線、三段峡と、太田川では昭和以降の時のうつろいを濃厚に感じた。すこし寂しいけど、でもあたたかい感じ。水都広島の川ぞいを改めてゆっくり走ってみたいと思った。

◆これで47都道府県中1都1道1府24県の27座を完走し、残り20座。6年目でやっと第3コーナーにさしかかってきた。来年2022年中の国内篇完遂をめざして走り続けます。(二神浩晃


荒木町物語

モンゴル ナーダムのない夏

◆モンゴルの友人たちがオリンピックに連日大興奮している。とくに人気なのは柔道で、兄妹で金メダルをとった阿部一二三・詩選手はモンゴルのメディアも賑わせた。日本人の柔道メダリストのなかには、モンゴルへわざわざ武者修行に出かける選手もいる。真冬の雪山を駆け登り頂上で腕立て伏せするようなモンゴル式の過酷トレーニングが、心身の刺激になるらしい。

◆人口わずか330万人のモンゴルはスポーツ大国だ。政治家にもマッチョな人が多く、バトトルガ前大統領はサンボの世界チャンピオンだし、朝青龍の兄でもある現ウランバートル市長も有名な格闘家。そんなモンゴルで7月といえば、国民が一丸となり盛り上がるスポーツの祭典ナーダム(競馬・相撲・弓矢)の季節だが、今年は開催を目前に中止となってしまった。

◆2021年は人民革命100周年にあたる年で、与党・人民党はナーダムをなんとか開催したがっていた。しかしコロナの自粛に疲れた民衆のフラストレーションは爆発寸前。モンゴルは諸外国のような補償も出なくて、みんなギリギリで生きている。都会の若者が「NOナーダム」のプラカードを掲げてスフバータル広場で座りこみを始めると、民族衣装を着て馬に乗った「YESナーダム」の行列も広場に集まってきて騒動に。「YES」派は草原の遊牧民で、1年前から我が子と競馬の特訓を重ねてきた彼らにとってナーダムは夢そのもの。開催をめぐって国民が二分していたが結局ナシになり、ナーダムロスに陥ったモンゴル国民の熱が今、オリンピック観戦に向けられているように見える。

◆オリンピックといえば衝撃の事件もあった。モンゴルオリンピック委員会は昨年、委員長に当時36歳の柔道家トゥブシンバヤルを満場一致で選出。2008年の北京オリンピックでモンゴルへ初の金メダルを持ち帰った国民的英雄だ。その彼が今年4月のある晩、バーで一緒に飲んでいた柔道仲間のエンフバトを血だらけになるまでボッコボコに殴り、意識不明の重体にしてしまった。エンフバトは韓国の病院に運ばれ、トゥブシンバヤルは即拘留。数か月後にオリンピックを控えた大事なときに、リーダーである彼はなぜこんなことをしたんだろう。

◆この話をモンゴル軍に所属する防衛大留学中の友人にしたら、「我々は戦闘民族だからよくあることです。僕もときどきケンカして殴りますから」とあっさりしたものだった。確かにウランバートルの夜道を歩くと、酔っ払い同士が素手で殴り合う光景に出くわす。ここで思い出すのが、日馬富士関と貴ノ岩関の事件。彼らと交流のあるモンゴル人は「騒ぐまでのことではなかった」と言うが、ここは日本だから、あの現場にいた人たちの運命はそれぞれ大きく狂ってしまった。真相は謎のまま、日馬富士と貴ノ岩は当時よりだいぶスリムになってモンゴルで頑張っている。

◆オリンピック同様に、モンゴル人が熱視線を送っていたのが大相撲名古屋場所だ。千秋楽では、あの事件以来はじめて白鵬関と照ノ富士関が対戦し、互いに睨み合っていたときの緊張感がとてつもなかった。6場所の休場を経て復活した白鵬のプライドと、失うものはもう何もない照ノ富士の鬼気。激しい戦いの末に全勝優勝を決めた瞬間、モンゴルのメディアやSNS上では偉大な横綱を祝福する声が洪水のようにあふれた。そういえば「品格」についてモンゴル人が話題にするのを私は聞いたことがない。

◆モンゴルは今年の春から、新型コロナウイルスの感染者が急増して大変なことになっている。すでに国民の6割が2度のワクチン接種を終えたのに……。その原因として、中国製ワクチンが効かないという説や、6月の大統領選挙や前大統領開催の勲章授与式で「密」が生まれたから、という説も。世界でいちばん人口密度の低い国なのに、皮肉だ。現地のコロナ収束はまだ遠く、自由を愛するモンゴル人にとって辛い時間が続いている。

◆国境をはさんだ南モンゴル(中国内モンゴル自治区)では、もっと深刻な状況になっている。中国政府の方針で、モンゴル民族学校に通う子どもたちが母語のモンゴル語で授業を受けることを禁じられてしまったのだ。当初、誇り高いモンゴル人たちは学校や街で堂々とデモをして反発していたが、監視カメラで人物が特定されて逮捕され、もう誰も声をあげられなくなった。母語を失っていく悲しみと憤りを心のなかで押し殺したまま、耐えるしかない。チベット、ウイグル、そしてモンゴル。民族が消されようとしている、現在進行形のできごとだ。(大西夏奈子


先月号の発送請負人

■地平線通信506号(2021年6月号)は、さる6月15日の水曜日、印刷、封入作業をし、その日のうちに新宿局に託しました。報告会は相変わらず開けないが、通信は今月も多彩活気に溢れた内容であると思います。書いてくれたすべての皆さんに感謝! 今月は以下の11人が集まってくれ、助かりました。
 森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 光菅修 長岡竜介 伊藤里香 久保田賢次 武田力 久島弘 江本嘉伸
◆頑張ってくれている仲間の顔を見るとたまには一緒に何か食べたいぞ、という気持ちに。で、すぐ「北京」に電話、営業していることを確認ししばらくぶりで美味しい餃子を食べました。もちろん、ビールはなしで。今月も車谷君の車で新宿局に運び、この日のうちに投函できたのはほんとうに良かった。


「災害救援集団すばる」からのお願い

◆江本さま 暑中お見舞申し上げます。お引越しの荷物は片付きましたか?

◆東京のCOVID-19感染者数が再び2,000人を超えそうなときに開幕したオリンピック。同じころに、熱海市では地元在住者中心のボランティア活動がようやく始まりました。熱海市だけでなく、今回の水害では、鹿児島、熊本、鳥取、島根、広島、静岡県沼津市、富士市などで支援活動が始まっています。が、大規模な土砂災害に押されて、各地の浸水被害が見えにくくなっているようです。

◆気候変動に起因するだろう災害はどこででも起こる可能性がありますが、コロナ禍でのボランティア募集は、「できるだけ近くに住む人で」が原則となりつつあります。

◆昨年、小さく誕生した「災害救援集団すばる」は、平時に顔の見えるつながりを作ることと、いざ支援活動が必要になったとき、このつながりから自走する「災害救援集団すばる」チームが結成されることを理想としています。

◆そのときに現地で「災害救援集団すばる」チームとして着用すること、また、活動を後方から支援金等でご支援をいただきたく、白虎(びゃっこ)Tシャツプロジェクトがスタートしました。

◆2枚以上のご購入から1枚につき500円引き。いずれも送料込です。ご支援よろしくお願いいたします。Tシャツの背中のロゴ、正面イラストともに地平線イラストレーターの長野亮之介さんにお願いしました。

◆詳細は、こちらから。https://subaru-d.com/product/dry-t/(八木和美)

 [ご購入例]
  応援額:3,000円(リターン:Tシャツ1枚)
  応援額:5,000円(リターン:Tシャツ2枚…Tシャツ2枚の合計額が5,000円になります)
  応援額:10,000円(リターン:Tシャツ4枚…Tシャツ4枚の合計額が10,000円になります)

白虎Tシャツ

けもの道とひとの道

岡村 隆 

第7回

■飯だけは女房の稼ぎのおかげで食えていたが、旅にも出られず、酒場にも出入りできず、人との距離も広がってしまった私を心配して、外へ引っ張り出そうとしてくれたのは、ありがたいことに年来の探検部仲間だった。なかでも1993年に始まった関野吉晴の「グレートジャーニー」を応援しようと集まった野地耕治さん(上智大)や、恵谷治(早大)、街道憲久(東海大)、坂野晧(早大)らのOB仲間は、そこだけが「探検」と繋がる場になってしまった私にとっては「心理的な命綱」のようなもので、おかげでスリランカとも縁が薄れずに済んだのだろうと今では思う。

◆1994年にはテレビドキュメンタリー制作会社クリエイティブネクサスの副社長兼ディレクターだった坂野に引っ張り出されて、十数年ぶりにモルディブへ渡った。NHKの旅番組の案内役だったが、坂野や明石太郎カメラマンとの旅は楽しく、遺跡調査もさせてもらった上に出演料までもらって、久しぶりに息をつくことができた。

◆しかし、その後はまた閉じこもった私を、今度は東海教育研究所専務の街道が呼び出した。月刊『望星』の編集長をやれという。勤め人暮らしに戻るのには躊躇があったが、恵谷もその場にいて二人に強く説得され、家では女房にも説得されて、結局は受けることにした。

◆編集長就任 (再就職) を躊躇したのは、定職に就くと、ヘイエルダールの「太陽神殿発見」のときと同様に、何かあってもすぐには動けなくなるのを恐れたからだった。しかし金がなくても動きたいときに動けないのは事実だったし、そうした現実に疲れてもいた。仲間は、夢を追いながらも貧乏たらしくしているそんな私を、そばで見るのがいやだっただろうか。「お前ももういい歳だ。ちっとは楽をせえ」と恵谷は言った。

◆一時は同様の立場で北極に通っていた街道も同じことを言う。では、そう言われて引き受けた月刊誌編集長の仕事が楽だったかというと、そんなわけはもちろんなかった。

◆最初は1年か2年のつもりだった編集長稼業が結局は14年にもおよび、その後、役員も務めて計20年も同社にいたのは、仕事が面白く、意義を感じていたからだろう。自由に腕を振るわせてくれた街道 (のち社長) の配慮も大きかった。

◆雑誌がテーマとする文化や社会問題を語るのに、旧知の探検部出身者や地平線会議メンバーらが適切な執筆陣として周囲に多くいたことは、もっと大きかった。向後元彦、西木正明、船戸与一、江本嘉伸、関野吉晴、吉田敏浩、高山文彦、長倉洋海、桃井和馬、樫田秀樹、久島弘、丸山純、長野亮之介……と数え上げればきりがなく、高野秀行君には「これは探検部御用達の雑誌ですね」とまで言われたほどだった。

◆発想が探検部的で、そこから世の森羅万象を見ていこうとする姿勢はユニークとされ、少部数ながら大新聞や大雑誌、テレビなどに、記事が企画のヒントとしてよく利用された。筑紫哲也さんは「こういう少部数雑誌をアメリカでは『シードマガジン』(種子の雑誌)と言って貴重なんだよ。頑張れ」と言ってくれた。

◆仕事が面白くて意識や労力を多くつぎ込めば、当然、苦労も生じる。編集方針をめぐっての発行主体である東海大学との軋轢、右翼の脅迫などいろいろあったが、多くは忘れた。それより、私が負の感覚として常に抱いていたのは、「飯は食えているが、スリランカが遠くなっている」という自覚だった。これでライフワークと言えるのか、という自問は常に焦りを伴った。

◆2002年にはグレートジャーニーを完結させた関野を迎えに街道、恵谷らとタンザニアに行き、久しぶりにインド洋を見たが、翌年の法大第7次スリランカ密林遺跡探査隊には参加できず、悔しい思いをした。その隊が運営の不備から報告書も出せない結末となったことが焦りを増幅させた。

◆2008年にNPOの「南アジア遺跡探検調査会」を立ち上げ、探検の主体を法大探検部から移そうとしたのにも、そうした焦りの影響はあったかもしれない。自身の人生も、せっかく成果を積み上げてきたスリランカの遺跡探査のプロジェクトも、このままではいけない……。そんな思いが、仕事の日々の通奏低音となっていた。

◆要は、どこかの時点で仕事をやめてしまえばそれでよかったのかもしれない。だが、歳を重ねるとともに背負い込む「責任」や「浮世の義理」は四方八方に根を伸ばし、自らをも縛ってしまう。仕事の世界だけでなく、子供の教育や入院先から施設に移した田舎の父と独り暮らしの母の問題もあった。社会的動物としての人間は、食うためだけでなく、その責任や義理を果たすためにも「個」としての夢や理念を追うのに「遠回り」を余儀なくされることがある。

◆その回り道を、社会的動物としての「けもの道」だと私は感じ、非才で不器用ゆえの迂遠さに焦りながらも、個として歩むべき「ひとの道」を思った。そして、思い続ければこその光明は確かにあった。編集長職を離れたのを機に、その偶然の光明は射してきた。

◆2010年、私は会社に無理を言って強引に1か月の休暇をもらった。NPO設立後、初の本格的な密林遺跡探査隊としてスリランカに渡るためだった。その日のために、仕事の一方で仲間とともに準備してきた結果でもあったが、折しも同国では長く続いた内戦が終わり、私たちが再び思いのままに活動できる条件が整いつつあった。1か月で探査活動が終わるかどうかは、もちろんわからなかった。(つづく)


「遅れて来た読者」たわしのたわごと 3

    樹

  樹のように生きることができたら
  海外旅行などしたいと思わないで
  風や雲や空や
  世界のほうが自分を訪れてくれると
  思うことができたら

  樹のように生きることができたら
  光と水を恵んでくださる天に笑顔を向け
  地中深く根をめぐらせて
  その場所で出会う事物を取り込んで
  毎年若葉で希望を語ることができたら

  だがそのように生きてはいない
  ここではない他の場所を求めて
  かもしれなかった人生に思いを馳せて
  今こうしてここにあることに感謝もせずに
  残りの時間を茫然と眺めて日々を過ごしてしてゆく

  樹のように生きることができたら
  半日首が痛くなるまで見上げても
  樹にとって私は一瞬の幻
  夕暮れ鳥たちはねぐらに帰る
  風が枝々をしずかにわたる

  ああ
  そのように
  生きることができたら


◆三宅修氏の心の中で起きたようなことが、安国寺恵瓊にも起きた、つまり心の師と新緑の取り合わせが、大きなトラウマを解消したと仮定して、昨年その場所を特定する旅に出た。旅、といっても安国寺(広島市牛田町)から毛利元就の郡山城(安芸高田市吉田町)まで直線距離にして約40km。

◆歩行速度を時速4kmとして、昼休みを入れても11時間。早朝出発すれば、夕方には着くと予想した。しかし1回目は7時間歩いたところで、足にマメができ、八千代支所前でリタイア。そこからバスで吉田町に行くが、毛利氏の資料を展示した安芸高田市歴史民俗博物館はコロナのため休館。

◆2回目はそこよりさらに手前の大林でマメのためリタイア。まったく、地平線通信読者の風上(風下?)にもおけない仕儀と相成った。この2回で、ほぼ場所の特定はできたが、確証を得るため、先日ズルをしてJR可部線で可部駅まで行き、そこから7時間かけて、やっと郡山城跡まで到達することができた。

◆昨年2回目、大林で引き返す時、「伊勢が坪城入口」の看板に誘われて、熊谷氏の居城跡を訪れた。当時、旅する僧は重要な情報源。だとしたら、恵心らは、毛利氏の配下にあった熊谷氏に面会し一泊。翌朝郡山城を目指した可能性もある。

◆当初、アスファルト道をひたすら上り続ける無味乾燥な旅を覚悟していたが、さにあらず。川沿いの気持ちの良い道がほとんどで、太田川、根の谷川に沿って歩くと、山が両方から迫ってきて、急峻な霧切谷(キリキリダニ)をよじ登ると、驚いたことに、そこからはゆるやかながら川は下っているのだ。

◆簸川(ヒノカワ)、江の川と下って吉田町に着く。私が特定した場所は、この霧切谷で、三次市で発生した霧が南下してきてここで切れるために、この名がある。時刻は斜光に映えて新緑がより美しい早朝か夕刻。熊谷氏の居城を早朝出発した直後か、毛利氏の郡山城を辞して、夕刻ここに差しかかったころであろう。

◆さて、太田川沿いに歩いていて、奇妙な光景に出会った。河原に二本棒が立っており棒の先に害鳥除けであろうか、鳥の形をした凧が、一方のは勢いよく宙を舞っているのに、二メートルも離れていないもう一方のはだらしなく着地している。自分がもしも恵瓊なら、この光景から「たとえ仇の風でも、自分を高々と舞い上がらせてくれる風を選ぼう」とでもいった啓示を得るのではなかろうか。

◆無論、当時このようなものはない。しかし、心の師と一緒に旅をしているという大きな安堵感のなかでは、何を見、何を聞いても、それが前向きなメッセージに変換されるのではないか。そしてその運命は、三宅修氏が串田孫一氏と一緒に土合山の家を出発したとき、恵瓊が恵心と安国寺を踏み出したとき、すでに決まっていたのではなかろうか。 

  パラグライダー発射台にて詠める

  春立つや宙に踏み出す一歩より たわし(豊田和司


2021コロナ卒論
  日本人であるという生き方

 人生とは、運命を探す旅

 雨上がり赤くただれた西陽(にび)、人気(ひとけ)のない参道、静寂に染み入る読経(どきょう)……殺気だった震えは1300年という時をタイムアウトした過去と対話ができる高揚感だろうか。

 飛鳥時代から奇跡的に残った“まほろばの古寺”を、西欧の老哲は“凍れる音楽”と評した。時を止め、人も心もフリーズしたまま、一身に自己と向き合う無彩色の空(くう)の古寺……。透明な音響は時間と空間を凍りづけた。旅を生業(なりわい)としてきたわが身にとって、コロナ禍、子宮帰りのように日本中を歩いたことは何10年ぶりだろうか。

 文明は人間を幸せにしてきたか――コロナ世代の人間として次世代へ持続可能な社会を見出すには、文明と文化のボタンの掛け違いの現場を臨場しようと歩き始めた。コロナと文明、文化との関わりを解き明かすことは、全人類の共通問題だろう。

 日本人にコロナ感染者や死者が少ないのは「日本人であるということBeing Japanese」が底流にある。「歴史をやれ、旅をしろ」(荻生徂徠)と、ニッポン人の来歴を辿る旅は遠回り、回り道ばかりで、ローカル鉄道とバスと歩きで、山靴を一足履きつぶした。

 波花舞う日本海を南下し、遅咲きのツバキが咲く早春、隠れキリシタン仙境の長崎県五島列島を海上タクシーで巡り、旅人はいつしか巡礼者になっていた。旅先でふっと出くわすデジャブ(既視感)、人生は旅だろう――。

「何にも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へでも行ってこようと思う」

 夏目漱石の最後の弟子、昭和の文豪内田百フの『阿呆列車』の書き出しだ。旧かなづかいながら、たった一行で人生の機微を言い尽くした見事な書き出し、おそれ入った。

「不要不急の外出自粛」には人生が見えてこない。ニーチェや西田幾多郎、三島由紀夫など、難しくて仕舞いこんでいた本を読み返し、雲に流され、風の吹くまま、何も求めずただ歩くだけの歩行ZEN(禅)、自由空想時間に身をまかせてきた。

 用事がないのが用事=不要不急という境涯は、コロナ自粛を逆手にとった人生の極意だろう。往きがあれば帰りがある旅と違うのは、人生は片道しかない旅だ。人生とは運命を探す旅なのか……。

 コロナという未曽有の体験は人類が蒔いた種、さまざまな過去の過ちに気づき生活を改める=実存的変容(ニューノーマル)を生み出した。西田哲学でいう「矛盾的自己同一」とは、これか……。

 コロナ維新の檄――果たされなかった約束

 「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐(さよあらし)」

 半世紀前(1970.11.25)、三島由紀夫はこの一句残して自ら命を絶った。蹶起(けっき)直前、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことはできない。このまま行ったら“日本はなくなってしまうのではないか”という感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(サンケイ新聞夕刊/1970.7.7)と、三島は「果たしていない約束」を書き残している 。

 そして「僕が死んで50年か100年経つと、分かったという人がいるかもしれない」と。あれから50年、コロナを予言していたかのような三島、“日本人であるという生き方”を顧(かえり)みた。

 コロナ目線で見るスプレッダーの境目

 コロナ感染者の8割は、他の人へ感染させていない。残り2割の陽性者スプレッダーがコロナ感染を広めるエピセンター(震源地)になっている。その境目がCt値だ。日々更新される新規のコロナ感染者の数……陽性者、陰性者の二分化だけではコロナ感染の実態は見えてこない。Ct値――飛沫に含まれるウイルス量の目安となる数値がヒトに感染させる分かれ道である。Ct値25未満のスプレッダーはスポイド一滴分……マスクなしで30分ほど三密の中で会話すれば、これくらいの飛沫を浴びる。さらに“スーパースプレッダー”は、飛沫量にして0.01ml、ミスト(霧状)で10人以上を感染させる。

 いつ、どこでスプレッダーが発生しているか、ピンポイントで国民に危険な地域、時間帯を報せることで脱コロナを感染者数の最も少ない鳥取県がこれを採用している。イギリスで見つかった変異アルファ株には間に合わなかったが、インドで確認されたデルタ株には、検査でCt値を確認しながら、対策を講じればいい。

 数の上では、感染者数が少ない日本人にはスーパー免疫力“ファクターX”があるという。「日本人であるという生き方」が信条だけでなくコロナ感染防止でもスーパー免疫力を発揮している。

 ニッポン人のスーパー免疫“ファクターX”をつくった“うまみ成分”

 腸は脳の親――脳の働きを腸が握っている。摩訶不思議な脳腸相関関係が、不要不急の外出や時短営業などガマン強く自粛し、他人を思いやる寛容精神が、政府や東京都の指導力不足を補ってきた。日本人であるという生き方は、日本人の古代からの食生活にある。

 コンブやカツオから抽出する“うまみ成分”がスーパー免疫力“ファクターX”を生み出す。日本人の母乳にはうまみ成分がたっぷり含まれている。伝統的な日本食の“うまみ成分”がコロナ免疫と関わっていることを見直そうと、江戸から明治時代にかけて北海道と大阪を結ぶ、物流と文化を運んだ海の経済動脈“北前船ルート”が旅の始まりだった。

 トリアージ――命の順位をだれが決める

 イギリス型のアルファ株に見舞われたコロナ第4波、一時コロナ患者の自宅療養者が1万数千人(大阪)に達した。治療介入が遅れて自宅でコロナ患者が相次ぎ死亡した。「救える命が、救えない」医療体制が危機的な状況に、誰を優先して命を救うのか“トリアージ”こそ、医療現場のジレンマだ。大事故、災害で同時に多数のけが人、患者が出た場合、緊急搬送、医療、治療の優先度を順位づける“トリアージ”は、阪神淡路大震災(1995)後、取り上げられた。

 ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「ハーバードの白熱教室」では、「制御不能になったトロッコが、猛烈なスピードで走っている。行く手には、線路工事の作業員が5人いる。待避線にも作業員一人が工事をしている。一人を犠牲にしても5人を助けるか、それとも――あなたならどうする?」 究極の状況を想定した「トロッコ問題」が瞬時の思考力と道徳観を問うた。

 コロナ禍、世の中は混迷の度合いを深めている。とりわけ医療現場では、命を守るための優先順位は現場に押しつけられ、不明確になりつつある。つまるところ、「みんな(専門家)がそう言うから」と弱者の論理にはまる政府の無策に、国民の迷走は続く。

 コロナ知新=ネオフィリア日本人であるという生き方

 故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る=温故知新。コロナ禍、歴史の時間を巻き戻すことを強いられ、たどり着いたのがアイアンロード(鉄の道)である。新しもの好きの遺伝子=ネオフィリアを受け継ぐニッポン人ならではのテクノロジー国家をつくり上げたアイアンロードは、シルクロードより古い人類最初の交易ルートでグローバル社会の源流だ。北陸豪雪に見舞われたコロナ年越え、第2次緊急事態宣言下、琵琶湖畔の国友鉄砲村に行き着いた。

 一発の銃声=鉄砲伝来は、ニッポン人の世界観を変えた。戦国時代を一変させ軍事的近代国家統一へ大きく歩み出し、西欧列強との交易の道を拓きグローバリゼーションへと踏み出した。徳川300年を支えた軍事国家そしてアジアで最初の産業革命“幕藩インキュベーション”、コロナ知新=ニッポン鉄景から見える原風景こそ、コロナ後を生きるテクノロジー復活“モノづくり国家”だろう。

 コロナ後の分断と格差の社会=エスノセントリズム

 「自分の国の文化がもっとも優れているという思い上がり=エスノセントリズム」――他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする“自己文化中心主義”は、コロナ社会の分断を生むと、アメリカの社会進化論者ウイリアム・サウナー氏が指摘した。

 “自国第一主義”や異なる文化へのヘイトスピーチなど、コロナ禍の底流で渦巻くエスノセントリズムは、人種差別、格差、偏見を広げ、社会の歪みが露わになり、民主主義の土台を崩そうとしている。「能力主義によるエリート社会が顕在化し、民主主義を崖っぷちに追いやっている」(サンデル教授)と……。

 フランスの知性といわれる家族人類学者のエマニュエル・トッド氏は、高等教育を受けたエリートによって推し進められてきたグローバル化という現象が「コロナ後、世界は分断と格差固定の時代が来る」と、とりわけ日本を案じる。戦後、日本はひたすらグローバル化に追いつこうと、高等教育に力を入れエリート層を生み出した独占的国家だろう。

 日本は、伝統的に直系家族を基盤とする身分制の社会である。男性優位の社会がさらに高等教育によりエリート社会をつくり上げてきた。二世議員、二世タレント、同族経営などエリート層に支配された“エスノセントリズム”のエリート階級社会で、やがて“大分断”という亀裂が起きるのだろうか。

 コロナ・パンデミック時、世界は共通問題としてひとつになった。しかし、コロナが侵食し始めると、他を思いやる寛容性に欠け、自己中心に動き始め、社会の不平等、格差が広がる。日本政府、東京都の指導者は有事なのに、思考は平時のままの停止状態で政策がルーティン化し、夜の街、外食産業、若い者への無意識の偏見が分断、格差を生み、賢い者、強い者だけが生き残る。コロナ同時代、一得一失ではなく、生きるも活きるも共に=経世剤民(けいせいさいみん)だろう。

 現在の、未来の世界の風景を変えよう

 医療現場の医師たち、政府分科会有志、国民、都民の多くが不安視する2021東京オリンピック開催、政府と東京都の「安心、安全」は根拠なく説得力もない。コロナかオリンピックか、国民の命と生活は……そもそも「なんのためのオリンピックなのか」優先順位トリアージ論も尽くされていない。コロナ禍のオリンピック──誰かが喜び、儲ける、その一方で同じだけ悲劇に泣くゼロサム・ゲームだ。この国は「初めにオリンピックありき」と、コロナショック・ドクトリン(非常時独占国家主義)を突き進む。プランAが無理なら、プランBを考える思考が停止してしまっている。ある意味、オリンピックよりワクチン接種を、国家的事業として優先されるべきだったのではないか……。

 ワクチン接種率の高い国はコロナ復興成長率も高いことが明確になってきた。OECD(経済協力開発機構)の2021実質経済成長率の見通しでも、接種率の低い日本は下方修正された。コロナ出口戦略に出遅れた日本は、ペラい国家を世界に露呈してしまった。

 本来なら東京オリンピックの開幕の日(2020.7.24)、「オリンピックよりもやらねばならないことがある」と、社会貢献に関心のあるZ世代(1996年以降生まれ)の若者たちが起ちあがった。「コロナで噴出したさまざまな問題を根本から変えよう」と、“ビジョンハッカー”と呼ぶネットワークはSNSを通じて、貧困の連鎖を断ち切り、途上国の医療制度をサポート、教育格差、地球環境などを訴え、世界の若者たちを動かした。「現在の、未来の世界の風景を変えよう」とする若者たちを、ビル・ゲイツ(マイクロソフトの共同創業者)は“コロナ後を変える未来人”という。

 オリンピックを前に「8時だよ、みんな帰ろう」の小池都知事、開催都市の首長として、都民ファーストを掲げる都知事なら、都民に語るべき言葉が他にあるだろう。存在感も薄く、政治ビジョンも見えない。総理にモノ言える唯一の役職であるはずだ。“都知事の本懐”今からでも遅くない。

 緊急事態宣言が出るたびに、社会の均一性を求められ、モノ言わぬ従順なコロナ人間の集団へ指向しているように思えてならない。国民の善意に甘え、ダメ尽くしで独創を育てない社会に、日本人が反骨精神を失い、無感動な体質の人間になりつつあるのではないか、老婆心だろうか。

 次の世界へ、生きる目的を探るZENとは

 巨大格差を生むグローバル資本主義、ポピュリズムに脅かされる民主主義に社会不安が広がり、さらにテレワークなどデジタル化に突き進む社会は人間関係も薄くなり、疎外感から“次の世界”を暗中模索している時代背景が、ZEN(禅)を求める動きにある。物質中心の社会から、こころを満たす“しあわせ”へ退却の道を探る人々が、ZENに自己を見いだそうとするのは、時代の流れだろう。坐禅は“マインドフルネス”という国際語となり逆輸入された。

 欲動と道づれの資本主義にアンチテーゼとして見直される“ZEN資本主義”――「他を利するところにビジネスの原点がある」とは、JALを再建した稲森和夫さんの経営哲学である。新1万円札の顔となる渋沢栄一さんも、「利益を考えるなら、まず周りから」と、コロナ禍、先が見えない日本経済の見通し、ガバナンスもコンプライアンスも突き詰めれば、「道義の伴った利益の追求」(『論語と算盤』)だろう。「国を治めるには仁義があるのみ」「上から下まで利益ばかり求めると国が衰退する」(孟子)、有事こそ国家、企業、社会のリーダー像が問われる。

 歴史はコロナを“文明の裂け目”と言うかもしれない。見失ったモノもあれば、見出した、見直したコトもある“ロスト&ファウンド”のコロナ人生。人生の、運命の分岐点にぼくらは立っている。ニーチェは、「生きる手段は限りなく進化したが、肝心の生きる目的がよくわからなくなった」と言う。

 コロナ余生――次世代へ何を遺すのか

 地球上のあらゆる生きものは、生殖期を終えると死ぬ。子孫を残すことに生命を賭けて、生涯を終える。ただヒトだけが生殖期間が終わった後も、次世代へ文化、文明継続のために生き永らえる――これが余生だ。

 コロナに狂わされた人生を、運命を探す羽目になり、極限の人間修行“千日回峰行”のまね事で、歴史をタテ軸に旅をヨコ軸にして、険しい山道を修験者の背中を追い、先人の智慧を借り、ようやく第一弾『コロナ世代/人類の未来派』(2020.10)を書いた。それでも「文明は人間を幸せにしてきたか」は、まだ見えない。行き着いた「空(くう)の世界」、空とは幸せの実感を得る無の境地だと……。なんだか、よくわからない。幸せって、もっと身近に見つけられないのか。

 空とは――自分の考えが一番だという思い込みをいったん置く、いちどリセットしてゼロつまり“無”にするのだそうだ。まだ実感がない。誰かと比較したり、優劣や損得だけで物事を見ないことらしい。最も簡単なことは固執せず一度諦めてみる。空っぽにすれば、空腹時の食欲のように、雑念なく無心に喰らう、幸せの一瞬だ。人間の幸せなんて、愛されること、褒められること、必要とされること、役に立つことだそうだ。家事や仕事、働けば、誰もが手に届く。

 見え失せた運命を手探りで掘り返し、自分史を振り返り「この人生が、生きるに値するものなのか」を自問自答しながら、コロナ卒論!『コロナ白熱の森』(2021.7)を仕上げた。まだまだ千日回峰の道半ばの五百日回峰、さらなるコロナ行脚へ、終わりたくても終われない。(森田靖郎 新刊書『コロナ白熱の森』は、アマゾンKindle、楽天Koboで配信中)


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

■山崎金一(10000円 いつも素晴らしい内容ありがとうございます。5年分送ります) 津川芳己 酒井富美(6000円) 藤木安子(10000円) 水落公明(3000円 コロナ禍の中、毎月ボリュームのある『地平線通信』をお送りいただきありがとうごいざいます。外へ出掛けることも少なくなり、何となく巣籠りのような生活が続く今日この頃です。¥1000は僅少ではありますが、カンパということで) 田村タカユキ(4000円) 竹下郁代(6000円) 高橋千鶴子 豊田和司(3000円 1年分+カンパです。江本様引越しに際して蔵書を有効活用された大英断に敬意を表します) 後藤聡(5000円) 堀井昌子 鈴木飛鳥(5000円 移転予定の為、退会します。ありがとうございました) 三森茂充 田武迺テ子(10000円 通信費代をしばらく納めていませんでした。これからも宜しくお願いします) 石原卓也


そんな日々。tr>
小笠原
今月の窓

観文研3ばかタカシの一角から

地平線通信506号で賀曽利隆さんの奇跡の生還を知った観文研の同志、和船をテーマに海の旅を続けてきた森本孝さんから原稿をいただいた。賀曽利隆、岡村隆と並んで“観文研の3ばかたかし”と称されたあの森本さんである。実は森本さん、いま末期の肺がんと戦う日々にある。そんな状態の中で師である宮本常一さんの“自叙伝”を上梓しようとしているから驚く。常一さんになりかわって森本さんが一人称で書いた、少年少女向けの作品、『宮本常一と民俗学』(玉川大学出版部から9月発売予定)。その不死身の仕事ぶりは、賀曽利隆に負けない。(E)

■先月の地平線通信506号で、“地平線ライダー”の賀曽利隆さんが5月31日に東北道で事故にあい、3度目の奇跡的生還を果たしたことを知り、驚いています。すでに退院されたとのことですが、無事でなによりでした。賀曽利さんの最初の大事故はパリ・ダカールラリーでしたっけ? 2度目は、中国浙江省の事故でしたね。今年、NHKの所ジョージの番組で、常磐道を走る賀曽利さんの映像を見て、賀曽利さんは超人だと思いましたが、やはり彼は不死身のライダーです。

◆右手一本でPCを打って事故報告をする姿にも感銘を受けました。3度の致命的事故から生還できたのも、16歳からバイクに乗って鍛えた、ずば抜けた反射能力と体力がなしえた奇跡かもと思います。じつは私も16歳でバイクを始め、学生時代にはホンダCL250のマフラーから消音器を外し(時々ですが)、京都市内や京都北山の山道を走り、市民に迷惑かけたこともあるバイク好きでした。

◆同じ年齢でバイクを始めた賀曽利さんと私ですが、大きな違いがあります。賀曽利さんは若者たちの見本になるような、正統なバイク乗りだということです。私も平成3、4年頃まではバイクを転がして、三陸海岸の漁村を訪ねるほどバイク好きでしたが、先の京都での前歴が語るように、私は亜流の悪いバイク好きにすぎませんでした。今後の地平線通信に賀曽利さんのツーリング報告が載るのを心待ちにしています。

◆ところで、賀曽利さんは5月号の地平線通信で「観文研(日本観光文化研究所)3ばかタカシ」とその謂れを紹介し、私も名誉あるばか仲間にしてくれていますが、高齢者になってもバイクを続けている賀曽利さんや、1973年以来40年もスリランカの仏教遺跡探検を続ける岡村隆さんほどのばかではありません。私は終生を旅に生きるつもりでしたが、やり続けたものがない……。

◆私は確かに悪筆でした。「森本の原稿を読めるのは俺ぐらいだろ」と、『あるくみるきく』の編集長だった宮本千晴さんが公言していました。賀曽利さんの文字は原稿用紙の上を黒いミミズが這いまわったようで、悪筆の誉れをえたのでしょう。岡村さんの悪筆はこの通信で初めて知りました。

◆観文研時代の私は悪筆に悩んでいました。そこで、千晴さんに教わった親指シフト入力方式のワープロ専用機、OASYS(オアシス)での執筆と編集に取り組み、『あるくみるきく』では最初にフロッピーディスクによる印刷所への入稿を果たしました。以来、私は悪筆コンプレックスから解放されています。

◆最近の地平線通信を読んでいて、地平線会議に集まる人も若返り、冒険・探検が大きく広がりと深みを増し、精鋭化、前衛化しつつ、冒険探検精神が次代に受け継がれつつあると思いました。39歳で地平線会議を始めた当初の情熱を変わらず持ち続け、伝え続けてきた江本嘉伸さんが、若い人たちを覚醒させたのでしょう。

◆観文研3ばかの中で最年長の後期高齢者で末期肺がんに苦しむ私ですが、地平線通信で読む若い人達の活躍には心がゆさぶられます。私もまた不治の病と折り合いをつけ、東インドネシアの海や太平洋諸島の海へ出かけたいと思っています。嗚呼、もう一度私もばかになりたい!(森本孝

【7月26日追記】私が“迷惑ライダー”だった箇所の言い訳です。私はホンダCL250というバイクを乗り回していました。平地用のホンダCBと異なり、トルク(馬力)が強い。京都北山の山地をモトクロスのように走りたくて、馬力を上げるために時々消音装置をはずしていたのです。市中ではずすことは、滅多にありませんでしたが……。賀曽利さんも、キリマンジャロに登るときは馬力を欲したはずです。


あとがき

■80歳になって引っ越しはどうか、という声もないではなかったが、ともあれ新鮮な気持ちになれた。これを機に地平線通信も一新したいが、それはゆるゆると。

◆オリンピックについて深い考察を、と考えたが自分のことに追われてそれどころではなかった。世間にはもっと思慮深く調べ、考え、記述している人が溢れている。ただし、スポーツを見ることは好きなので観戦はしている。とくに今日、大橋悠依選手が女子400、200メートルの個人メドレーで2冠を果たしたのには感動したな。そこまでやるアスリートとは予想してなかった。

◆ただし、いま考えるべきは、新型コロナウイルスの件に尽きる。この問題で、国も都も時にIOCと厳しく対決することがあってよかったのではないか。私は6月24日に2度目のワクチンを接種してもらい、少し安心できる状況だが、このあと、仮にオリンピックが無事終わっても終息できるかどうか。

◆今月は山田高司とねこさんのイラスト付き原稿がどれもよかった(八木和美さん原稿には画伯のイラストも)。山田高司、実はかなりの絵師です。報告会が開けない日々、地平線通信を改良しつつ、思いがけない才能が出てくるのは嬉しい。

◆8月号で「引っ越し」についての体験を募集します。1人300字から500字で引っ越しに関することならなんでも。よろしく。(江本嘉伸


『水の道を歩くの巻』(作:長野亮之介)
イラスト 王妃の庭の巻

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■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 507号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年7月28日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp(江本伸方)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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