2022年3月の地平線通信

3月の地平線通信・515号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月15日。ずいぶん暖かくなった。午後1時の東京の気温なんと22度だ。ウクライナにロシア軍が攻撃を開始してもう20日。誰がこんなに持ちこたえると思ったろうか。先月号のこのフロントで取り上げた2日後の2月24日、ロシア軍はウクライナに侵攻した。強力な武器と20万の兵で固めたロシア軍である。2、3日で一気に決まってしまうか、と予想したが、とんでもなかった。ウクライナはゼレンスキー大統領以下、まったく退かないのだ。これは、素人が見ても想像を超えた展開である。誰が、強大なロシア軍の侵攻を20日も持ち堪えると思ったか。

◆プーチンの怒りはすさまじいレベルだろう。彼がウクライナを許し難いのは、かっての“仲間”が憎き西側の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)側に入ろうとしているからだ。冷戦終結後、ソ連と東欧諸国が加盟していたワルシャワ条約機構は91年に解体された。それなのに西側のNATOは解体どころか冷戦集結時に16か国だった加盟国がチェコ、ハンガリー、ポーランドが加わり、今では30か国と拡大している。ロシア魂を熱く抱き続けるプーチンにとって、それは許し難いものなのだろう。

◆今日、世界に勇気ある女性の映像が流れた。マリーナ・オフシャニコワさん。ロシアの政府系テレビ「第1チャンネル」の生放送中のスタジオに英語で「NO WAR」、ロシア語で「戦争やめて。プロパガンダを信じないで」と大書した紙を掲げて女性キャスターの後ろに立ったのだ。自分の顔はまったくかくさずに。放送局員だからできたことだが、もちろん即座に連行された。しかし、すでに世界に画像は流れている。同じ状況だとして自分もできるか。今回のロシアのウクライナ侵攻問題で、私には一番心に残る場面である。尊敬します! マリーナさん。

◆3月8日、森本孝さんのお別れの会が習志野駅近くの小さな教会で営まれた。ガンと戦いながら『宮本常一と民俗学』を見事書き上げ、ことしに入って新たな治療法に挑戦中だったが、容態は好転せず、いったん退院、2月24日、自宅でご家族に見守られつつ永眠された。

◆本人はクリスチャンではなかったが、最期の場は仏教ではない、教会で、と言い残したそうで、自宅に近い、小さな教会で、ご家族と近しい友人のみの家族葬が行われた。狭い式場なので親近者以外は参加できない。せめてひと目お別れを、と希望する方たちのために献花の時間が設けられた。しかし、あいにくの雨天、最後までひっそりと静かなお別れとなった。

◆森本さんは1989年11月、第121回地平線報告会で「モルッカ海航海記」のタイトルで話してくれている。3.11直後の2011年5月の報告会「ソーテイの向こう側」では、漁船・漁具に詳しい研究者として登壇した。私は宮本常一さんの命日である1月30日に開かれる「水仙忌」でほぼ毎年お会いして近況を知ることが多かった。病気のことも率直に話してくれていた。

◆しかし、双方が熱をこめて語りあったのは、玉川大学出版部刊の「日本の伝記 知のパイオニアシリーズ」で『宮本常一と民俗学』が刊行されてからである。あんな病気を抱えながら大きな仕事をなしとげた森本さんに私は激しく感動し、その思いを何度か電話で伝えた。地平線の若い人たちに送りたい、と10部を注文もした。いちいち話すのはしんどいか、と遠慮もしたが、本人は「電話くれるのが何より嬉しい、ありがたいんです」と歓迎してくれた。

◆電話での元気な声を聞いているので、私は当分森本孝は生き延びるものと信じて疑わなかった。でも、そうならなかったのである。お別れの場に参加した人には2021年『望星』11月号の「いま語り継ぎたい宮本民俗学の精神」のコピーが渡された。地平線会議の丸山純がインタビューし、8ページにわたって特集した貴重な内容である。雨が上がりつつあった午後、宮本千晴、岡村隆、丸山純、それに私が最後まで付き合わせてもらい、好漢をしのんだ。

◆きのう14日、東京のコロナ感染者は4836人と本当に久しぶりに5000人を切った。国内の通算感染者数は、581万人、死者は116人増えて2万6278人となった。世界では4億6000万人感染し、604万人がコロナで亡くなっている。21日を期限に18都道府県に適用しているまん延防止等重点措置について、大阪府を除く17都道府県で解除する方針を固めたという。

◆米国アラスカ州アンカレジ〜ノーム間1900キロを走る世界最長の犬ぞりレース「アイディタロッド」が今年も3月8日の第1土曜日にスタートした。参加50チームのうち、今年は我らが本多有香さんが49番目にスタート、2015年以来の完走をねらっている。嵐に遭遇するなどで数チームがすでにリタイアする中で、本多チームは目下犬を減らすことなく、44チーム中の41位にいる。健闘を祈ろう。[江本嘉伸


宮本常一に惚れ込んだ人生――森本孝さんを偲んで

 2月24日。森本孝さんが亡くなった。2月上旬に入院したものの、病院では仕事ができないと、自宅に戻って治療・介護を受けるようにしたばかりだというのに、容体が急変してしまったそうだ。残念でならない。いまこうして森本さんについて何か書こうとしても、さまざまな思いが渦まいてちっとも文章にならず、途方に暮れている。

 森本さんは立命館大学探検部の出身で、民俗学者・宮本常一が主宰する観文研(日本観光文化研究所)の所員だった。観文研は宮本先生のお弟子さんや教え子などの国内派と、長男の宮本千晴さんに連なる大学山岳部や探検部出身の海外派が同居しているのが面白いところで、地平線会議の創設にこの海外派の人たちが大きくかかわった。

 ところが森本さんは地平線の創設メンバーには加わっていないし、報告者として地平線報告会に登場したのも、地平線会議創設から10年が経った1989年11月(第121回)になってからだ。

 なぜか。おそらくこの頃の森本さんは、日本中をめぐって、和船や漁具の収集に明け暮れていたからだろう。昨年9月に刊行された森本さんの著書『宮本常一と民俗学』の冒頭には、観文研の所員となって4年後の1973年に、いきなり宮本先生から全国の漁村めぐりをして伝統的な造船技術や漁民文化を後世に残す活動をするように提案される、とても印象的なシーンが描かれている。

 それまで二度にわたるインドネシアのスラウェシ島海域への旅や、金稼ぎのバイトで瀬戸内海で石船に乗った経験はあっても、漁船や日本の漁業についてはまったくの素人。どこへ調査に行くのか、何を調べてくるのかまで、当初は宮本先生の指示を仰いでいたという。このまま放っておくと、森本はボヘミアン志向だからふらふらとどこかへ行ってしまうに違いない。やるべきテーマを与えてつなぎ止めておけ、と宮本先生や千晴さんが考えたのだろうと森本さんは言う。ちょうどその頃、武蔵野美術大学の教え子だった真由美さんと結婚した森本さんを、宮本先生は自分の目の届くところに置いておきたかったのかもしれない。

 漁船や漁具を収集する森本さんの活動は、18万点ほどの資料となって大阪の国立民族学博物館に収められている。現物の漁船も20隻ぐらい収蔵されているそうだ。長いあいだ慣れ親しんできた舟や道具を手放すには、漁師も相応の決意が必要だろう。漁村の暮らしに寄り添い、趣旨を理解してもらい、地道に説得し、搬出して納品する。宮本先生が亡くなって観文研が解散した後も、個人としてそれを続けた。まさに森本さんでなければできなかったみごとな仕事だと思う。

     ◆

 私がこんなふうに森本さんについて語れるのは、昨年の秋に『望星』という月刊誌で『宮本常一と民俗学』を紹介しようと、森本さんにインタビューをしたからである。ほんとうはじっくりと時間をかけて半生をお聞きしたかったのだが、森本さんの背中の痛みがひどく、長時間起きて座っていることが難しかったため、毎日1時間ほどZoomを使って3日にわたって取材した。

 森本さんは編集者であるため、事実関係や日時を大切にする。下手に突っ込むと、痛みを押して2階の書棚まで資料を取りにいきかねないので、質問は最小限にして自由にしゃべってもらった。そのため、きちんと説明してもらえなかったり、話が前後していつのことだかわからなくなってしまったエピソードが幾つもある。退院して落ち着いたらぜひまた続きの話を聞かせてもらうつもりでいたのに、それが果たせなかった。こんなことなら、遠慮しないでもっと強引に進めてしまえばよかったと、後悔が尽きない。

 この取材のなかでもっとも印象に残っているのが、立命館大学に入学してから観文研に加わるまでの経緯だ。森本さんは大分県で生まれ、福岡県の県立東筑高校から立命館大学法学部に進学した。高校時代の恩師の影響で、立命の総長だった民法学者の末川博に憧れたからだという。末川は戦前の滝川事件で京大を辞した後、貧しき弱者のための法学を掲げて法曹界に大きな足跡を残し、護憲・平和運動でも活躍する。森本さんの奥底には「義」があり、末川の生き方に深く共感して、権威ある国立大学ではなく、私学を選んだ。

 高校時代に九州の山を歩いていたので山岳部に入るつもりだったのに、森本さんは探検部に入部する。トカラ列島の島々で民俗調査をしたり、岩手県岩泉町の竜泉洞や安家洞に通い詰めたりしていたが、やがてOBと現役合同のスラウェシ島遠征計画が持ち上がった。生物相が独特で未知の洞窟もあり、民族調査もできる。立命の探検部にまさにぴったりのフィールドだと思えてのめり込んだが、学生課の猛反対などもあってなかなか企画が実現しなかった。遠征資金を稼ぐためにバイトをしているうちに、5回生になってしまう。

 秋のある日、たまたま森本さんが探検部の部室にいると、向後元彦さん・紀代美さん夫妻がふらりとやってきた。東京農大探検部の創設者として知られる向後さんは、機関誌『あるくみるきく』を手に主だった大学の探検部を回って、観文研の仲間となってくれる若手を勧誘していたらしい。

 その頃、ちょうどバイトを辞めてしまったこともあり、何を仕事にしようか迷っているうちに思いついたのが、山小屋の主人。ゆくゆくは山小屋を経営したいが、そのためには山の道具について詳しくなりたい。ということで、暮れも近くなって神田の万世橋近くにある登山用品店にバイトさせてほしいと押しかけたところ、月給2万2000円ですぐさま雇ってもらえることになった。

 そのとき、東京に出てきたらぜひ連絡してほしいと向後さんから言われていたのをふと思い出して電話を入れると、「万世橋ならすぐ近くだから来なさいよ」と言われて秋葉原の観文研に向かったところ、向後さんと千晴さん、宮本先生の3人が待っていた。「君が森本君か」とにっこりほほえんだ宮本先生の笑顔が忘れられないという。

 2万2000円というバイト代を聞いて千晴さんが「そのくらいならうちでも出せる。観文研の友の会づくりとか『あるくみるきく』の編集、民具の収集などを手伝ってくれたほうが、君にとってもプラスになるのでは?」と言ってくれ、なるほど、それならスラウェシ遠征にも役立つと、即決。登山用品店に断りを入れて、翌年の2月に京都を引き払い、観文研に加わった。

 まるで小説のようなドラマチックな展開だ。人の縁とはなんと不思議なものなのだろう。そして、森本さんの行動力と決断の早さにも恐れ入る。

     ◆

 観文研が1989年に解散した後、森本さんは継続中だった和船収集や市史編纂の調査などを個人として続けたり、放送大学の非常勤講師を引き受けたり、観文研の若手研究者たちが著書を出版するのを編集者として手伝ったりもした。

 もう一つの大きな仕事が、途上国の零細漁村の所得向上をめざすJICA(国際協力機構)のプロジェクトに水産コンサルタントとして参加するようになったことで、東南アジアやカリブ海諸国、中米、スリランカなどを訪れて現地調査を担当した。港、船、漁法、市場設備、流通網のどこに問題があり、どう改善すべきか。日本の漁村とそっくり同じ構図が見えてくる。滞在するのは最長でも3か月ほどで、漁民たちの話を聞きながら現地でレポートをまとめるのは大変だったが、何年か後に再訪してみると、お前のおかげでこんな立派な港ができたんだと大歓迎してくれた。

 観文研を通して学んだものが、こういうかたちで人々の役に立つ。森本さんはこの仕事に誇りをもち、常に貧しい者、差別される側に立つ宮本民俗学の精神を自分は体現しているのだという、手応えを感じていたようだ。戦後まもなく、宮本先生は農業指導や離島・山村の復興事業などの地域復興に尽力する。あっという間に情報を仕入れ、限られた時間内にレポートにまとめる天才だったと森本さんはみなす。宮本先生はしゃべった話がそのままに原稿になると言われるが、森本さんも文章が苦もなくあふれて出てくる人だった。

 森本さんの『宮本常一と民俗学』は、本人に成り代わって森本さんが子ども向けに語る自叙伝だが、読み進めていくうちに、自伝や他の評伝と異なる宮本常一像が浮かび上がる。クロポトキンの「相互扶助論」に惹かれ、左翼活動家をかくまったこともある若き日の宮本常一に、末川博に憧れた高校時代の自分を重ねていたのかもしれない。学問は論文を書くためでなく、人々を豊かにするものだという宮本先生の教えを森本さんはしっかりと受け継ぎ、実践していたのだ。

 末川博、宮本常一と並んで森本さんが惚れ込んだのが、『バナナと日本人』や『ナマコの眼』で知られる鶴見良行さんである。漁船や漁業の専門知識をもち、インドネシア語がぺらぺらで、しかも敬愛する宮本常一の門下生だった森本さんは、アラフラ海の船旅などでアジアの底辺の暮らしを見るフィールドワークをしていた鶴見さんにとっても、ベストパートナーだったに違いない。

 そして森本さんは鶴見さんに、宮本先生と同じニオイを感じていた。にこやかな笑顔、明るく朗らかな性格、反アカデミズムの姿勢、弱者に対するまなざし。初対面で「あっ、また宮本常一に会っちゃった」と感じたそうだ。鶴見さん亡き後、森本さんは鶴見良行全集の編集にも参画するが、鶴見さんの本質を深く理解し、編集者として冴えた仕事を残している。

     ◆

 1999年から3年間勤務した国立水産大学の教員時代、周防大島文化交流センター(宮本常一記念館)の開館に向けての準備活動、震災後に歩いた東北の海など、森本さんを語るにはまだまだ足りないが、紙幅が尽きた。最後に森本さんの闘病について触れておこう。

 2016年の8月、体調不良で検査を受けた森本さんはいきなりステージIVの肺がん、余命半年と診断された。喫煙による肺の繊維化も進んでいたので手術はできず、抗がん剤治療も危険が大きいと緩和治療を勧められる。しかし、森本さんはがん治療の最前線を調べ抜き、自力で戦う決意をする。その年の11月から郡山の南東北がん陽子線治療センターで陽子線照射を受けたところ、大元の肺がんだけでなく、転移した腫瘍も体内から消失。どの医師も驚く効果に、がんを兵糧攻めするケトン食療法を続けたのがよかったのではないかと森本さんは考えている。おかげで17年は仕事にも復帰できたが、18年から少しずつがんの再発や真菌性肺炎などに悩まされるようになり、さまざまな最新の治療法を探って治験にも参加していたが、今年2月、ついに帰らぬ人となった。

 森本孝という名前は宮本常一ほどのビッグネームではないけれども、私のなかではさん然と輝いている。「同業者」として可愛がってくれ、励ましてくださったことは一生の思い出となった。どうか安らかにお休みください。[丸山純


地平線ポストから

2年ぶりに渡航します。インドではなく、アメリカへ

■みなさん、こんにちは。「インド通信」の延江由美子です。2月号には田中明美さんと坪田七海さんが私どもの新刊写真集「いのち綾なす――インド北東部への旅」について素晴らしい寄稿文を執筆してくださいました。まずはこの場をお借りして心からお礼を申し上げます。

◆拝読して私は一刻も早く編集チームに読んでほしいと思いました。というのも、「いのち綾なす」が形あるものとして誕生し陽の目を見ることができたのは、非常に複雑かつ微妙に入り組んだ、その上、極まりなく粗い材料を、これほど目に美しく気持ちの良い作品としてまとめ上げたデザイナーさんのおかげに他ならないと言っても過言ではないからです。明美さんはその凝った作りの魅力を余すことなく、それもイラスト付きで表現してくださいました。編集チームは誰も現地に行ったことがない人たちですが、七海さんのように、作業を通して様々なことに思いを巡らせながら、見知らぬインド北東部への苦労の絶えない旅に同行してくれました。

◆実は納品されてからもいろいろあって、結局追加で栞を作りました。多くの方々の温かい支援と栞のお陰で、この本が時が経つにつれて更なる広がりの可能性を持っていくように感じています。今は販売元の担当者さんに助けられ、細々ながらも書店を回って売り込みをしています。日本で「営業」するのは初めてですが、だんだん慣れてきました!

◆さて。来週いよいよ2年プラスぶりに渡航します。「インドに戻るんです〜」と言いたいところですが、行き先はアメリカ。ちょっと長々しくて恐縮ですが、事情をご説明します。

◆わたしはMedical Mission Sisters(MMS)というカトリック修道会にアメリカ管区から入会しました。日本人はいなかったし、日本での活動もなかったからです。私たちは国籍は違えどみんな同じMMS会員ですが、諸々の都合上、それぞれに入会した管区のリーダーと連絡を取り合っています。私にはそれがアメリカ管区です。

◆国外に派遣されると、3年ごとに数か月帰国します。私の場合は「帰国」と言ってもアメリカは母国ではないので、日本とアメリカで半々づつを「休暇」として過ごしました。2011年3月11日に震災が起きたときは日本にいましたが、いろいろと考える機会となりまして、これまで散々勝手をさせてくれた両親のサポートをしたいと強く願うようになりました。二人とも持病持ちで特に母が弱かったのです。幸いにそれが受理されました。実はこの措置は修道者としてかなりの例外で、MMS以外の修道会、それもアメリカ管区以外でしたらおそらく許されなかったろうと思います。

◆その後MMSとしての活動拠点を東京の親の家に移し、日本の気候が穏やかな春と秋にインド北東部へ行き、酷暑の夏と極寒の冬は日本で活動、という変則的な「修道生活」が始まりました。MMSは、わたしが日本でしていること(母のサポートも含め)もインド北東部での活動も正式なミッションとして認めていて、3年ごとにプロトコールとして文書で言い渡されてきました。最終版が2019年にきれたので一旦渡米して更新するなり変えるなりするはずでしたが、コロナパンデミックによりずっと保留になっていたわけです。

◆インド北東部へ戻る前には兎にも角にも「絶対一度アメリカに戻らなくてはダメ!」と事あるごとに釘を打たれ続けておりまして、今回渡米することになりました。私たちにとっては、それぞれの場での活動としてのミッションはもちろん大事です。一方で、同じ信仰の道を歩む者同士としてのつながりを深めることもまた大変貴重なことと捉えており、こうして渡印する前に渡米するのは、「すごい贅沢」なことに見えますし、実際にそうなのですが、私たちには必要なことというわけです。

◆あちらでは写真集の制作過程を分かち合う機会もあるでしょう。独特な地域性を持ったインド北東部についての本を出版するということ、そこで活動するミッショナリーとしてのあり方、日本語、英語、そして現地語をお手玉の如くやりとりしながらの苦労話、またAmazonを通して販売するにあたってわかったことなどなど、話しに限りはありません。それらは、いずれまた。[延江由美子


先月号の発送請負人

■地平線通信514号(2022年2月号)は,さる2月22日に印刷、封入作業を行い、その日のうちに新宿郵便局で発送しました。フロントに書いたように、珍しく数字の「2」が続く日で世の中では何かと猫の話題(にゃんにゃんとかなんとか)で盛り上がったらしいが、地平線は関係なく黙々と作業。常連に屋久島から帰ったばかりの新垣亜美さん、神津島にひとり息子を“留学”させている長岡竜介さんが加わってくれたのはありがたいことでした。そして今月も印刷主任として頑張ってくれた車谷建太さんが車を運転して来てくれたこと、ひたすら感謝です。通信は重いので車は局まで運ぶのにほんとうに助かるのです。参加してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 白根全 長岡竜介 新垣亜美 久保田賢次 江本嘉伸 武田力


島ヘイセンvol.6
停電で「冷水」を被った2月の夜

■神津島への離島留学も一年が経とうとしている。まずはこの一年間、島ヘイセン通信に沢山の温かいメッセージをいただき、ありがとうございました。一年前に江本さんから「隔月でレポートを」と依頼されたときは畏れ多い気持ちが大きかったが、皆さんからのメッセージにも支えられ、自分の決断を記録し伝えることの大切さを感じながら、一年間寄稿できたと思う。この感謝の気持は日々の何気ない日常を島ヘイセンに書き続けることで応えようと思っている。ちなみにこの「島ヘイセン」(シマヘイセンと読みます)というタイトルは、原稿をパソコン保存するときのファイル名を「神津島 地平線」にしようとしていたのだが、変換ミスを繰り返して、島ヘイセンになってしまったというだけの単純なネーミングである。しかしながら、校舎から見える水平線はどこまでも真っ直ぐで、そこに夕陽が沈む景色は本当に美しい。今はそんな意味も込めている。

◆3学期はとにかく忙しかった。生徒会活動、3年生を送る会や新入生を迎える準備、学生名物のテストなど。本当に忙しすぎて、また身体がぶっ壊れるのではないかとすら思ったが、何とか持ちこたえている。そんな中、我々を停電が襲った。2月17日夜の8時過ぎ頃である。先輩たちとお風呂に入っていると突然電気が消えて、シャワーのお湯が出なくなってしまった。最初は誰かのいたずらだと思っていたのだが、同級生と先輩が「島停電だって〜」と能天気に伝えてきた。なんと全村停電だった。そのとき風呂に入っていた僕たち3名は体を洗っていたところで、ちょうど全身泡だらけだった。しかしお湯は出ない。どうしたか、察した人もいると思うが、この馬鹿寒い季節に頭から冷水を被ったのだ。ぶるぶる震えながら風呂を出ると食堂に寮生が集まっていて、女子の一人が呑気に卵焼きをつくっていて笑ってしまった。卵焼きをいただいた後、ランタンを準備した。大騒ぎはしていたが3時間ほどで復旧した。島の電力を支える島内の小さな発電所は見るからに古い。真っ暗な中、寮ではハプニングの連続だったが、一人ではなかったので不安はなく停電の夜もなぜか楽しかった。ただもう水は浴びたくない。

◆2月24、25日にかけて、神津島では『二十五日様』という行事が行われた。旧暦の1月24日、25日は二十五日様という神様が島に訪れるとされる日で、この日は仕事をすべて休まなければならない。日中に海や山畑にいくと“祟り”があるとされている。また夜間外に出るとその家に凶事が起こると恐れられて、日没前から雨戸を固く閉ざし、明かりを消して静かに床に入り、就寝しなければならない。旧暦1月26日は「子だまり」といい、こども達は前日に引き続き、早く就寝しなければならないのだ。26日に夜外に出ていた子供が殺されてしまったことからこのような文化が生まれたという言い伝えもある。寮でもこの二日間の夜は明かりが決して漏れないように、また大きな物音もたてないようにとのお達しがあった。当然のごとく外出も禁止された。この時期にはあまり来島はないが、観光客も例外なく外出禁止。島の商店も全て夕方で早じまいする。そして物忌奈命神社の神主さんが、闇夜に紛れて村内にたくさんある猿田彦碑を拝礼してまわるらしいが、外に出られないため実際に何が行われているのかは全くわからない。25日の夜に部屋の電気を消してちらっと外を見てみたが、特に変わった様子はなかった。また、竹の棒の先に藁を巻き付け燻した「いぼじり」という二十五日様の期間中には欠かせない飾りがあり、厄除けを意味するお守りで、住宅によっては玄関に飾られている。昔は伊豆諸島のどの島でもやっていたそうだが、今でもこの不思議な神事が続いているのは神津島だけなのだと島の方が教えてくれた。なぜ神津のみでこの文化が続いているのかということに少し興味を持った。

◆さて、コロナの第6波はとうとう神津島にも押し寄せてきた。保育園、小・中学校でクラスターが発生し、今は高校だけが生き残っている。島だから内地よりは安全だろうと思っていたが、そうとも言えなくなってきた。突然の休校で途方に暮れた2年前の悪夢再びかと不安もあったが、三送会と卒業式は実施することができた。

◆三送会は規模を縮小せざるを得なかったが、1年生からは3年生の写真が詰まっているアルバムをプレゼントし、スライドショーをつくった。2年生は離任された先生方からビデオレターをとっていた。3年生の先輩方からも1人ずつ在校生へのメッセージを伝えていただいた。卒業式では島の先輩とたくさん写真を撮った。自分は今まで他人の卒業式で泣いたことがないのだが、なぜか今回の卒業式では寮生の先輩が卒業証書を授与されたところで耐えられなくなってしまった。3年生はあと1週間ほどでこの島を旅立ってしまう。寮生はある意味で家族のようなもの。一緒に食事をし、勉強を教えてもらったり、時には夜中まで語り合ったり。だからこそここまで絆は深まったと思うし、自然と涙が出たのだと思う。

◆残り僅かなこの期間を大切にしたい。そして4月からは新1年も入寮してくる。自分は後輩から先輩という立場になる。責任はより多くなると思うし、大変なこともたくさんあると思うが、一歩一歩を積み重ね、次の一年も楽しんで過ごしたいと思う。3月6日、島では桜が咲き始めた。[神津高校1年 長岡祥太郎


――連 載――
石ころ
その6 「シリアで起きたことがウクライナでも」

■今回の「石ころ」。今回ばかりは、過去のことをゆっくりと考えられる心境ではない。何しろ今、現在進行形で戦争が起きているのだ。

◆2月24日から突如始まったロシア軍によるウクライナ侵攻。ウクライナ各地では激しい戦闘が続き、すでに100万人近くが難民となって隣国に逃れた。母親たちは子供を連れて安全な地へと逃れ、父親たちは最愛の人に別れを告げ、戦地へと向かっている。なんという、時代の動くスピードの速さ。そして、こんなにも際どい均衡の上にあるこの世界。

◆欧米諸国はロシアに対し、「武力侵略を容認しない」という強いメッセージを送った。異例中の異例という経済制裁も次々と課され、世界の厳しい目がロシアに向けられている。

◆2008年、ユーラシア大陸横断の旅の途上、1週間ほどウクライナに滞在した。人は温かく、大地は豊かで、詩的な美しさの漂う国だった。首都キエフのドニエプル川を見下ろす高台で、寄り添うように夕暮れを眺めていたカップルの後ろ姿が思い出される。

◆ともすると核の使用にまで発展しかねない危機的な状況だが、私はどこか釈然としない思いも抱いている。誤解を招く可能性も承知で言えば、不謹慎かもしれないが、中東で起きることと、ヨーロッパで起きることとでは、報道で伝えられる深刻さも、世界を取り巻く危機意識も、人間の命の重みも扱われ方が同じではないと感じているのだ。

◆この戦争は確かに異常事態だ。だが過去、同様の軍事侵攻や戦闘行為は世界各地で行われてきた。近年ではシリアで、2011年以降の内戦で50万人以上が死亡、国民の半数にあたる1300万人以上が難民・国内避難民となって生活を失った。シリアでは、10年近くにわたって戦争が続き、多くの人命が無差別攻撃に晒されて失われてきたのに、報道は同じではなかった。

◆シリアは国内で繰り広げられた戦争で、ウクライナは隣国に侵攻され、さらに核戦争の脅威もあると反論もあるだろう。だが、中国やロシア、アメリカなどの大国が、独自の主張や経済利権によってシリアに介入し、結果的に圧倒的な人命が失われ続けてきたことについて、世界は議論してきただろうか。

◆シリアで起きたことが、今回ウクライナでも繰り返されている。常任理事国の意見不一致による国連安保理の無力化の問題も、ロシア軍による民間人への無差別空爆もそうだ。シリアで起きてきたことが、ロシアに前例と経験とを与えたのだ。

◆2015年以降、ロシアはシリア政府に軍事協力を行っている。特にロシア空軍の参戦によってシリア情勢は政府の安定化に繋がったとされる。ロシア空軍は、クラスター爆弾や真空爆弾など、国際法で禁止されている武器の使用を行い、201の学校を含む1083 の民間施設の攻撃を行なった。これらの攻撃により、930人の医療従事者、20940人以上のシリアの民間人が亡くなった(シカゴトリビューン紙 2022年3月1日)。

◆こうした事実が報道されても、刻々と犠牲者を生むシリアでの戦争に、世界は有効な手段をとることができなかった。しかしこのウクライナ侵攻を機に、西欧諸国は結託して動き始めている。シリアとは実に大きな差だ。背景には、自らが被害者となり得る当事者意識、危機意識があるのだろう。

◆シリアのアサド大統領はプーチン大統領と電話会談し、「世界秩序を回復し、歴史を修正するものだ」とウクライナへのロシアの侵攻を評価している。ロシアも、シリアも、恐怖政治によって支配を維持してきた同じ歴史があり、両者は経済的にも軍事的にも切っては切れない協力関係だ。

◆ちなみに、ウクライナ侵攻に手間取るロシアが、戦闘に投入するためのシリア兵を募集している。シリア兵はこの数年の実践の戦闘経験があり、市街戦の経験も豊富だ。さらにロシアにとっては安価な傭兵として雇うことができる。

◆シリアでは物価の高騰で皆苦しんでいる。内戦前の2010年頃、平均的な月収は約200〜250ドルほどとされたが、2022年3月現在では平均月収30〜50ドルほどだ。困窮にあえぐシリア人にとって、ロシアが示した月額1500〜3000ドルとされる給与は、信じられないほどの条件なのだ。こうして、シリア人は安価な傭兵として、危険な戦地へ向かっていく……。

◆ウクライナで戦闘中に死亡したロシア兵、または捕虜になった者の情報が閲覧できるサイトがある。ウクライナ内務省によって作られた「200rf.com」というサイトだ。ここには、彼らが尋問を受ける様子や、ロシアの家族とスマートフォンで会話する様子がアップロードされている。このサイトを目にし、なんともいえない気持ちになった。ウクライナ侵攻以来、「侵略者」としてカテゴライズしていたロシア兵たちが、急に一人一人の個として感じられた。シアでは父親や母親、兄弟や恋人が、彼らの帰りを待っているに違いない。戦場へと投げ出された彼らにも愛する人がいて、誰かから愛される一人であるはずだ。人間は誰もが、無数の人生と絡み合ってここに存在している。戦争の惨劇は、人間を敵味方に分け、憎悪を生み、そんな当たり前のことを、忘れさせてしまう。

◆人間は、戦うことでしか戦いを終えることができないのだろうか。数えきれない悲しみと破壊とを繰り返し、私たちはどこへ向かおうとしているのだろう。それでも、私たちの歴史は人々の願いが結集する方向へと、きっと進んでいく。そう信じたい。

◆この不毛な戦争が1日も早く終わりますように。心からそう祈る。そして短い人生の中で、この激動の時代のなかで、写真家として何を撮り、残していけるのかを考え続けたい。


はるのワルツ

とりが なく
くさが はえる
はたけを たがやす
てをやすめるわたしに

うたが めばえ
うたが あふれ
わたしが わたしから
あふれだす

とりや
くさや
はたけや

かぜや
くもや
そらや

せかいが
わたしが
しずかに
たゆとう

ふしぎな
ふしぎな
はるのひのゆうぐれ
豊田和司


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連載「石ころ」に惹かれて

■江本さん、地平線会議の皆さま、ご無沙汰しております。北海道の五十嵐です。最近の通信では、とくに小松由佳さんの連載「石ころ」を夫婦ともども楽しみに拝見しています。全身全霊でシリアと向き合う小松さんの姿勢が毎月の原稿からひしひしと伝わってきます。

◆私がとりわけ印象に残っているのは、第3回の「撮り続けよう」です。今回のウクライナ侵攻のニュースに触れるなかで改めて読み返し、事態が収束したあとのウクライナに思いを馳せました。混乱が収束しても、国外へ避難した者と、国内に残った者との間で、分断が生まれるのではないかとの懸念が浮かびました。報道では見えてこない、現地の人々の暮らしを想像するきっかけをもらっています。取材の苦労は尽きないことと思いますが、今後も、「石ころ」を楽しみにしています。

◆さて、私の方はといえば、先月末に最後の出稼ぎ労働を終えました。最後の現場も、同居している友人Y(昨年12月の地平線通信で、少し紹介しました)とともに勤め上げ、気付けば約1年間の出稼ぎ労働の間、ほぼすべての現場を共にしていました。大分県別府市の現場から北海道の借家「ちえん荘」に戻った私たちは、専ら「生活」を楽しんでいます。作業着の洗濯を除けば、出稼ぎ先で家事や炊事をすることはなかったので、雪下ろしや夕飯作り、あるいは居間で読書をするといったただの生活が貴重に感じるのです。

◆いつかの通信だったと思うのですが、光菅修さんが、「(あなたは)生きてはいるけど、生活はしていない」と旅先の村で言われたと、書かれていたような気がします。それを読んだ当時はまだ学生だったので、その意味を実感することはなかったのですが、なぜかそのフレーズだけはよく覚えていて、とくに出稼ぎに出ずっぱりだったこの一年はそのフレーズを反芻していました。「生きることの中心がカネを稼ぐことになってしまうと、暮らしが疎かになり、生きること=生活することではなくなってしまう」という意味の言葉として、出稼ぎ人夫の私の胸に刻まれていったのです。

◆ちえん荘に戻った私たちは、ようやく「生活」をはじめることができています。ただ、シェアハウスに馴染みのない近隣住民にとっては、戸惑いも多いようです。これは去る1月のこと。友人Yが軽トラの荷台に一頭の雄鹿を縛り付けて持って帰ってきたときの話です。害獣駆除の名目でハンターが射殺した鹿が捨てられそうになっていたのを、Yがもらってきてくれたのです。大量の肉が確保できたことで、住人は大喜び。しかし、庭先で我々が鹿を解体していたところ、両隣の家主が除雪を言い訳にじりじりと接近してきて、訝しげに我々の様子をうかがっていました。事情は説明しましたが、お隣さんの表情から忖度して、鹿肉のお裾分けは遠慮しておきました。

◆さらに今月、義弟がこの家に引っ越してくることになりました。札幌でのサラリーマン生活をやめて、相方と同じ職業訓練校の、しかも同じコースに通うためです。ちえん荘の住人はこれで4人、春から揃って修行生活に入ることになりました。

◆「一軒家で共同生活をしている」というと構成員の説明をよく求められるのですが、現在の状況はなかなか複雑なので、国民的アニメを例えにしようと思っています。木工をするサザエさん(私の相方)と木を伐るマスオさん(私)と木工をするカツオくん(義弟)と野菜を育てるアナゴさん(友人Y=今年度いっぱいは職場の同僚だったため)が一つ屋根のしたで暮らしているといえば、理解はされなくても、把握ぐらいはしてもらえそうです。

◆私はといえば、12月の通信で書かせていただいたNPO法人に採用が決まりました。今年で16年目となるこの団体では、森の資源を活用しつつ、市民に森林と林業を紹介する場をつくることを目的として活動しています。薪の生産と供給、学校での森林教育や、山主と山主になりたい人に伐倒や搬出の方法を伝達することなど活動は多岐にわたります。春からのスタッフは私を含め3人と小規模ですが、その分みっちりと山仕事のいろはを学びたいと思っています。近頃は地平線通信のなかに、先輩諸氏の山仕事の様子や、同世代で林業の道を志している小口寿子さんの投稿を見つけては、元気をもらっています。私が樵の端くれとなった暁には、皆さんと山仕事のあれこれ、よもやま話をする機会があることを夢見ています。

◆去年の今頃、地平線通信に投稿したときには、「世界とどうつながっていけばいいのか」という江本さんの言葉をキーワードに書きました。あれから、一年、何度となく自問を続け、今は足元の生活を成り立たせることに、その一つのあり方を見出そうとしています。資本主義システムで生じるツケを見えない所に押しつけて、快適さを享受する暮らしと、世界とつながろうとする姿勢は相反するものと私には思えたからです。少なくとも、眼前の日々の暮らしに真摯に向き合うことなくしては、世界との接点を見つけることは困難だと私は考えました。

◆衣食住、暮らしにまつわることを少しでも目に見える範囲に手繰り寄せること。快楽に伴う苦労を可能な限り引き受けようとすること。そうした暮らしを目指す姿を、周囲(とりわけ、自分と同世代以下)に見てもらうこと。足元の暮らしと世界との接点を探りながら、明日も生活をしていきたいと思っています。[北海道ちえん荘住人 五十嵐宥樹

奈良で個展開催中です!

■地平線会議のみなさまこんにちは。自称美術家のおがたです。いま、奈良で作品を発表しています。地平線のかたがたが来訪してくださっています。ありがとうございます。

◆今回の創作は、「雨とひかりと銀河」についてを描きました。現在、自分の工房兼住居は、雨漏りが多く、床も抜けかけている。この現状を前向きに捉えポジティブに妄想を重ねてきた経緯を開示しようというこころみです。現実の工房は立ち退きが決まっており、梅雨までに借家を探さねばならないです。物件情報をおまちしております。

◆どうぞよろしくおねがいします。[緒方敏明

     ◆

雨になって 川になって 海になって
世界中を旅したい
地面にしみ入り 草になって 木になって 森になって
むしになって さかなになって とりになって
大気になって くもになって そらになって

星と いっしょに
ひかりに とけて

雨は 銀河から 降りてくる

     ◆

彫刻家 緒方敏明展「天空郵便 RAIN」

3月8日(火)〜3月20日(日)

11:00〜18:00(月曜日休廊、最終日は16:00まで)

ギャラリー「勇斎」
 http://www.g-yusai.jp/
 〒630-8372
 奈良県奈良市西寺林町22
 Tel/Fax. 0742-31-1674
 JR奈良駅より徒歩15分
 近鉄奈良駅より徒歩8分


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

鈴木泰子(6000円 楽しいひとときをありがとうございます)/河野典子(10000円 皆様によろしくお伝えください)/飯野昭司(10000円 地平線通信すごいです。2月号ではとくに3冊の本の紹介が印象に残ります。延江由美子さんの『いのち綾なす インド北東部への旅』デザインが素晴らしい本!/稲葉香さんの『西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く』リウマチをおしてヒマラヤの奥地に入る気概!江本さんほかの『日本人とエベレスト』(半世紀のエベレスト史。江本さんしか書けない内容で感動しました)。私は3冊ともすぐ購入しました。どれも素晴らしかった)/野口健志(6000円 通信費2年分+カンパ)/津川芳巳/田立泰彦(5000円 通信費2000円残りはカンパ。毎号タイトルのデザイン楽しみに見ています)/野元龍二(10000円 先日はお電話いただき有難うございました。久しぶりに元気な声をお聞き出来て嬉しかったです。とは言っても、毎月の地平線通信で引越しされたり、コロナ禍にある中で、新しい拠点でも地平線会議のなかまと元気にご活躍されておられることはよくわかっているんですが…)『チベット潜行1939年』著者、故野元甚蔵さん次男/小林新(10000円 息子淳不明のまま30年以上もの歳月が過ぎてしまいました。今まで長い間地平線通信をお送り下さり、ありがとうございました。息子の代わりに拝読させていただきました。私も超高齢の年代に入り、現世は何年残されているかわかりません。つきましては通信費を感謝の気持ちとして1万円送らせていただきます。今までありがとうございました)2010年6月「君のいなかった30年」代理報告者。1982年にアフリカで消息を断った小林淳(あつし)さん(当時26)に代わり、報告者に。アフリカ捜索の旅に同行した賀曽利隆らも参加した。地平線会議初の本人不在の報告会だった。


春の槍ヶ岳に登頂、無事下山しました

■3月5日の朝、槍ヶ岳から福岡に帰りました。帰宅後、洗濯機を回しながら地平線通信のフロントを読み、ページを繰っていると、稲葉香さんの書かれた記事が目に入り、一読してしばらく呆然としました。体の動きを制限し、痛みを生じさせるリウマチとともに歩く、ということ。日本を飛び出し、ヒマラヤの地を歩かれているということ。そして最後に記されている「まだまだ歩きたい」という言葉。稲葉さんが稲葉さんご自身の体で歩き続けることをあきらめていらっしゃらないということ、そしてこれまで実際に歩いてしまわれ、生還されているという事実にただただ圧倒されたのだと思います。

◆実は2月25日から3月4日まで雪山におり、3月2日に槍ヶ岳に登りました。以下、手短に報告いたします。

◆1日目に新穂高温泉から入山し、穂高平小屋へ。2日目は槍平小屋まで歩き、3日目は沈殿しました。4日目に奥丸山に伸びる尾根から中崎尾根に合流し尾根を歩き、2500m地点に雪洞を掘りました。5日目は沈殿し、6日目にアタックをし登頂。アタック時は千丈乗越を登り西鎌尾根に合流した後、稜線を槍ヶ岳山荘前まで歩き、穂先にとりつきました。下山も同じルートをたどりました。7日目に槍平小屋まで下り、8日目に新穂高温泉から下山しました。

◆幕営はしないで槍平小屋を使わせていただきました。過去に雪崩事故が起こっているためテント泊を避けた次第です。チビ谷、ブドウ谷など、雪崩危険箇所が多いアプローチで、下山日には雪崩れた跡もありました。また7日目の奥丸山からの下山時、樹林帯の踏み跡が崩れ、30mほど雪の斜面を滑落してしまいました。けがはなかったものの、隊の一人を巻き込んでしまいました。状況の観察を怠り、体力的な余裕をなくし、思考と判断が鈍っていたことに反省点があります。自分の未熟さを思い知らされた経験でした。自分という人間の甘さが露呈したと感じます。

◆このようなことを考えながら帰宅したこともあり、稲葉さんの文章に固まってしまったのだと思います。私もまだまだ登りたいと思いました。

◆下山してからはウクライナの情勢、ロシア、中国の動きが気になります。地平線の皆さんのなかにもゆかりのある方がいらっしゃるだろうと想像し、固唾をのみながらニュースをみる日々です。

◆まとまらない内容になってしまいましたが、なによりお体にお気を付けください。[九大山岳部2年 安平ゆう

寂しいですが、島を離れます

■喜界島は風は少し冷たいですが、晴れた日は夏の日差しになって、随分暖かくなりました。コロナ感染者も先月数名出ただけで、正月後に流行することなく平和な日々です。

◆今年、島生活三年目に入りたかったのですが、夫の転勤で残念ながら今年関東へ戻ることになりました。島に来てすぐに授かった子は今1才1か月。島の記憶は残らないと思いますが、夫と私はここで子育てができて本当によかったです。

◆町の人に大事にしてもらい、地域での同世代のお友達もすぐにできて皆近所に住んでいる。会う約束がなくてもビーチでピクニックしていれば誰かしら会うことができる。もう少し居たいという気持ちは来年でも再来年でも考えてしまうので、またここに帰ってきたいと思うことにしています。

◆1才児との引っ越し準備はなかなか進みませんが、12日の荷出しに向けてあと少し頑張ります。埼玉県入間市に引っ越します。そこでの新しい出会いを楽しみに、島を離れる寂しさを紛らわしています。[喜界島 日置梓


長野亮之介猫絵展6

「破猫 盤乗(ハニャンバンジョウ)展」

4月8日(金)〜12日(火)12時〜17時
ギャラリー・メゾンドネコ(地下鉄銀座線京橋駅から徒歩2分)
特設ブログ https://moheji-do.com/hanyan

■コロナ陽性から無事復活した原始人長野です。4月に音楽をテーマにしたイラスト展を開催予定です。昔LPレコードのジャケットを見て、どんな音が飛び出すのかと心躍らせた気持ちを思い出し、好きな楽曲に勝手にジャケット絵を描いてみます。ギャラリー名にちなんで、絵の中のどこかに猫が潜んでる趣向。とはいえ、絵がなかなか描けず、焦り中です。いつもながらギリギリまで頑張ります。会期中は全日在廊予定でお待ちしてます〜。[長野亮之介


セリゲル湖の懐かしい夏

■昨年の引っ越しの際もなくさず、新しい住まいに運んだ本のひとつが『エベレスト 82 ソビエト岳人たちの世界最高峰登頂』というロシア語の本である。

◆大判368ページのずしりとしたもので1982年春、ソ連登山隊が最困難とされていたルートを経由して5次11人(うちウクライナ人2人)が登頂に成功した時の公式記録。この本はその1人、登攀リーダーのエドワルド・ムイソロフスキーが私にくれたもので冒頭「江本嘉伸 様 1995年7月4日から7月14日までセリゲル湖を共に旅した記念に エドワルド・ムイソロフスキー」とペンで書かれている。

◆ウクライナ侵攻で世界を敵にまわしたかに見えるロシアのプーチン大統領は柔道、馬術など体力を誇示するのが好きだ。体力自慢の彼は、冬になるとテレビカメラの前で“厳冬の沐浴”をやってみせる。氷を割って一気に湖水に潜るのだが、その湖の名を知って、待てよ、と考えた。私がずいぶん前にヨットで旅した、あのセリゲル湖ではないか。楽しかったロシアの夏の10日間をまざまざと思い出した。

◆1995年7月4日、私は旧知の登山家,ムイソロフスキー(大学教授でもある)の招きでモスクワ空港に降り立った。毎年夏、モスクワから北400キロにあるセリゲル湖で学者たちが少年少女に楽しい夏休みを過ごさせるためのキャンプがある、江本も一度参加してみないか?と誘われたのだ。

◆ぜひ参加したい!と即返したのは、それがヨット4隻を使って広大な湖のあちこちに接岸しながらキャンプする旅とわかったからだ。ロシアの湖をヨットでのんびり旅するなんて滅多にない機会ではないか。

◆友人のエドワルドを含め、大人たちは大学か高専の先生が多い。譲り受けたふるいヨット1隻に加え2人乗りの小型ヨット3隻に分乗、合計4隻の“定員”は12、3人という。皆、20日間楽しむが、私は10日の休暇を取るだけで精一杯、半分ほどの行程に参加させてもらった。

◆モスクワからは車で半日、湖まで走り、午後5時過ぎ、水辺のダーチャ(別荘 ロシア人の多くが簡素な建物のダーチャを所有している)に着いた。なんでもオーナーが何かの罪で収監されていて4年ほどは自由に使えるという。前日先発していた6人がヨットで待っていた。テントも張ってあり、食堂テントもできている。日本人の参加を歓迎してウオッカで乾杯。日本から用意した蚊取り線香が早速役に立った。

◆翌日からヨットで島々をめぐりながらロシアの夏を楽しんだ。ただし、ヨット1年生なので操縦法の学習に時間を取られた。ヨットでは帆をくぐり抜け、反対側に移る動作が大事だが、その際「パヴォロート!(回転)」と掛け声をあげながら瞬時に移動するタイミングが難しかった。

◆風がない時もひと苦労だった。とにかく備えのオールで漕ぐしかないのだが、学者といっても体格のいいロシア人と張り合うのは簡単ではなかった。

◆セリゲル湖は平均水深5.8m、周囲長528キロ、日本最大の湖、琵琶湖(周囲長235キロ)の2倍以上大きい。だから何日帆走しても、漕いでもなかなか全島の様子はつかめない。ロシア正教会の修道院があることからイエス・キリストの洗礼にちなみプーチンでなくとも冬の沐浴を試みる信者が少なくないらしい。

◆接岸してテント張りを終えるとキノコ採りだ。この季節、さまざまな種類のキノコが採れ、食材となった。野苺の類もあちこちで採れた。私のヨットに同乗した9才の少女、マルガリータは「トーリャ」と名付けた小さなペットの亀をいつもポケットにしまっていて苺食べない?と話しかけていたのが可愛かった。

◆毎日どこかの島に停泊し、食事を作り、バレーやサッカーなどスポーツに興じる。そうした日々から自然と親しむこつを会得する。少年少女たちには絶好の学びの場なのだろう。

◆カヌー、カヤック、いかだ。さまざまな水上交通手段があり、それらの多くに犬たちが乗っている。停泊した土地土地の小さな店での買い物も楽しみだった。ウォッカ、ジャガイモ、鶏肉程度の品しかないのだが、店のおばあさん、おじいさんとの会話に味わいがあった。

◆明日はモスクワに帰るという日、お別れの夕食会となった。乾杯のあと“船長”のトーリヤが立ち上がり、私に向けて言った。「ユンガ(見習い水夫)と本人は言っていたが、オールを漕ぎ、火を焚き、バレーボールにも参加した 。よってマトロス(水夫)への昇格を認める」

◆この言葉にあわせて全員が「ウラー!」「ウラー!」「ウラー!」とやってくれたのは心底びっくりした。そして、ああ、仲間になれたのだ、と嬉しかった。

◆この夜は、好みの場所にテントを張っている先住者たちのキャンプにもお邪魔した。若い女性3人がギターを手に即興の歌をハモってくれた。即興で歌を奏でる能力に心底感嘆した。ウォッカをやりながら美しいコーラスを聴くなんてなんと贅沢なことだったか。

◆セリゲル湖の思い出は、ロシアという大地と人の心を今もあたたかく私に伝えてくれる。

◆同じ湖水で沐浴したプーチンのイメージは、それと真反対のもの、ほんとうのロシアとは違う。[江本嘉伸


今月の窓
ファイナルメッセージ

『悠々として、急げ』

ヒトは、なぜ旅をするのか──

 背伸びすれば、海峡越しに北方領土の島影が見える。

 珸瑤瑁(ごようまい)漁港から出港してまもなく、貝殻島と納沙布岬の中間点となるわずか3.7キロの地点の警戒ライン「ロシアとの国境線」を、納沙布灯台の霧笛が報せる。「警戒ラインを越えると、カニもウニも獲り放題だった」船長の話は特攻船時代のことだ。「ケイソン(鮭鱒)が道端に落ちていても、ネコも見向きもしない」ネコ跨ぎといわれた“ケイキ(景気)時代”の面影は、いまはない。船尾に立つと、国後島の爺々(ちゃちゃ)岳が、蜃気楼のように波間に浮かび上がった。

 氷河期を終え、地球が温暖化に向かう1万5000年程前、島伝いに北からやって来た最初の旅人=縄文人がニッポン人のルーツのひとつだろう。

 大陸で農耕が始まる頃、豊潤な海と落葉広葉樹の森が広がる北の大地で狩猟、漁労、採集を維持したまま定着した。森とともに自然と共生する縄文文化がニッポン人固有の“山河一体”となり花鳥と一身となる文化をつくりあげたのか……。日本人には古代人(ネアンデルタール人やデニソワ人)から受け継ぐ遺伝子がコロナ重症化を防ぐ(20%低下/欧米系は重症化する遺伝子も併せ持つ)と、研究論文『PNASS/米国アカデミー紀要』にある。これがファクターXなのか……。

 旅する遺伝子を引き継ぐぼくは旅を生業(なりわい)としてきた。人生観は旅がつくり上げてくれたと思っている。《なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う》昭和の文豪内田百けんの『阿呆列車』は、書き出しのたった一行で、人生の極意すべてを表現した。

 何のために生きるのか、目的などなく偶然に生まれてきた人生の大半はヒャッケン先生の言う「用事がないと云うのが用事」=不要不急だろう。ヒトの一生なんて死ぬまでのヒマ潰しのようなものだ。どうせなら自分なりに好き勝手に潰したい。ただ違うのは、人生は片道しかない旅だ。

 「大学というところは、天下の浪人をかかえておくぐらいの、ゆとりをもってほしいものだ」偉大なる自由人今西錦司先生の言葉を自分勝手に鵜呑みにし、人の倍ほど大学時代を過ごしたことで、ぼくの人生は、不要不急にはまり込んだのかもしれない。《すでにいろいろな危機の到来が叫ばれているけれども、もとをただせば、それは人類がこの直観ということを軽視しだしたことによるのではなかろうか》今西錦司先生の『人類の周辺』の一文、コロナ禍、唸ってしまった。

 直感──9・11、3・11そして気候変動……人類の危機と直面しながら、なぜコロナを予測できなかったのか。文明が進みすぎると、ヒトとしての直感を失ってしまうのか。

 コロナ禍で「日本人であるということBeing Japanese」を掘り起すように旅を繰り返す。

 いちど聞くと、その名を忘れることのない『酩酊(めいてい)新聞』とめぐり合ったのは、世紀末だった。『酩酊新聞』は居酒屋の新聞ではない。山岳家の根深誠さんが発起人であり発行人である山の同人誌だ。

 そもそもが、山の仲間たちと酩酊状態になるまで酒を飲むことから“酩酊グループ”と名付けられた。彼らが『酩酊新聞』を発行するきっかけとなったのは、白神山地の自然保護と、ブナの森を守ることにあった。

 その名を聞いただけで、忘れることのない奇抜なネーミング『酩酊(めいてい)新聞』とめぐり合ったのは、世紀末だった。『酩酊新聞』は居酒屋の新聞ではない。山岳家の根深誠さんが発起人であり発行人である山の同人誌だ。

 そもそもが、山の仲間たちと酩酊状態になるまで酒を飲むことから“酩酊グループ”と名付けられた。彼らが『酩酊新聞』なる山の機関紙を発行するきっかけとなったのは、白神山地の自然保護と、ブナの森を守ることにあった。日本で最初の世界遺産(1993)は、白神を守った“酩酊グループ”と地元の人たちにあげたい。

 白神を訪れるきっかけは、青秋林道(青森と秋田を結ぶ白神山地の林道)が中止(1990)と聞いたからだ。白神山地へ青森県西目屋村から踏み出した。東北地方の山間部の奥地に住む“マタギ”(西目屋ではシカリ)に導かれ暗門の渓谷に踏み込んだ。

 その昔、江戸時代の国学者、菅江真澄が《岩木が岳のかなた、目屋という沢の山奥、岩木川にそってさかのぼったところに、その名称もかわった“あんもんの滝”という、世間にあまり知られていない、またとなくおもしろい滝があると、年来聞いている……》(『雪のもろ滝』寛政8年)と書き残す。聖樹ブナの存在感がぼくの半端な人生観を圧倒した。

森を出たサル

 あれから30年……ヒトの手にも負えないコロナ禍の2021年夏、白神山地のブナの森で渡り鳥アカショウビンが飛来する姿をひと目見ようとしばし待ち構えていた。《人間の特性の一つが自己破壊。自分で自分を滅ぼす行為は動物にはない。その表れが自殺であり、戦争。今や核兵器開発や環境破壊により、“ヒト”という種を破壊する道をひらいてしまった》。今西錦司門下で霊長類研究の大家、河合雅雄先生の言葉だ。

 一瞬の静寂をついてアカショウビンが水場にやってきた。この森から巣立ち、毎年季節になると忘れずにこの森に帰ってくるアカショウビンたちに、地元の人たちはわが子のように名前をつけている。

 河合先生はサル学を始めた研究動機について《戦争が終わってみて、何で人間はこんなバカげたことをするんだろうと思った。こんなことをする人間の人間性というものを、もう一度その大本にまで立ち返って、探ってみようと思った。そのためには、サルまで立ち返って人間性の根源をしらべにゃならんと思った》と……。

 河合先生によれば、ヒトは森を出たサルだ。森を出たことで、サルからヒトとして他の生き物と違った進化を遂げた。進化したヒト“ホモサピエンス”は、森に背を向け破壊欲動のまま生き物や自然を滅ぼし“人間の森”をつくり上げてきたのだろう。ヒトが農耕を覚えた“農業革命”以後1万年におよんだ完新世(ホロシーン)が終わり、新たな地質時代“人新世(アントロポセン)”へ、人類の活動は後戻りができない一線を超えて、地球の地質そのものを変えつつある。

 コロナのような野生動物から家畜や人に感染する動物由来感染症は、自然破壊と深いかかわりを持っている。人間だけが健康であればといいというわけではない。人と動物、地球の生態系の健康をひとつと考える“ワンヘルス/One Health”──自然界の摂理エコシステム(生態系)を受け容れるしかない。

 コロナ行脚──山伏の背中を追った羽黒山、修験者のほら貝で目を覚ました大峰山、比叡山ではなにも考えずにただ歩く歩行禅をくり返した。そして、3度目となる白神山地“暗門の滝”を登り、ブナの森へ踏み込んだ。

 毎日、政府が発表する「コロナ新規感染者数」──森に潜んでいたはずのコロナが、森林が開発され人間の森を宿主として変異を繰り返す。

 三密(密集、密接、密閉)回避、不要不急の外出自粛……数値化された情報社会はまるで『ゴンドラ猫』(1963/アメリカの学者ヘルドとハインの実験)のネコだろう。

 装置に2匹のネコが入れられ、一方は自由に動き回ることができる。しかし、もう一方のネコはゴンドラに閉じ込められ受動的にしか動けない。2匹のネコは、見る世界は同じでも、自由ネコとゴンドラネコは装置から出されたあと、行動に差が出た。自分の意志で自由に動き回った能動的なネコは、モノとの遠近感覚など正常な認識能力を取り戻したが、受動的なネコは空間認識力が正常に機能せず、障害物を避けることはできなかった。ネコに限らず、ヒトや生き物は視覚だけでなく身体全体で世界を知覚していることがわかる実験である。自分が生きている社会を正確に見定めるには能動的に自ら行動しなければならない。まん延防止等重点措置、緊急事態宣言による巣ごもり生活などがくり返されるなか、いつしか数値化された情報化社会の落とし穴に陥った。

1979夏「旅の未来派」

 「誰も行かなかった所へ行け」「誰もやらなかったことをやれ」……筆一本で生きるモノ書きの心柱としてきた。《文化は辺境に残りやすい。中央において成立した文化は、辺境に伝わっていくが、中央は変化がはやいので、うしなわれてしまうことも早い。一方、辺境は変化が緩やかで、古い言葉、風俗などが保存される率が高い》(司馬遼太郎『街道をゆく』)「もしも後に、私の仕事で残るものあるとしたならば、それは『街道をゆく』かも知れない」と、作家司馬遼太郎氏は、辺境にこだわり続けた。

 山や離島の突端、辺境、そして極限の地平線の彼方へと旅する私的な旅人たちと情報、人的交流の場をつくろうと、地平線会議という得体の知れない人間の集まりが生まれたのは70年安保後「シラケつつノリ」「ノリつつシラケる」“シラケ世代”といわれた70年代最後の1979年、一瞬の夏だった。

 出身母体が山とか冒険、探検など旅を極めた向後元彦さん、宮本千晴さん、伊藤幸司さん、岡村隆さんそして賀曾利隆さんとそれぞれの分野の第一人者が言い出した。そこに「ヨミウリにエモトあり」と言われるジャーナリズム界の鬼才江本嘉伸さんが立ち上がった。地平線会議というところは、じつに不思議なところで、規約もない、偏った考え方もない私的な旅を続ける、旅の詩人たちが集ってくる場所に過ぎない。

 「言い出しっぺは、必ずなにかをやる」「人のやることに足を引っ張らない」「やりたいことだけやる」つまり「やった者勝ち」という気風があった。

 地平線放送、地平線報告会+通信など次々とプロジェクトが生まれるなか、群れることが苦手なぼくは、地平線会議で居場所がない。気鋭のジャーナリスト恵谷治さんが、「年報」を提案した。年報──気の遠くなるような作業におじけづくぼくらを、地球上に解き放たれた(海外渡航自由化)日本人の行動記録の集積に危機感を抱いていた江本さんが「オレは本気だから」と背中を押した。

 冒険、秘境、探検という言葉が「JALパック」(1969年)、「いい日旅立ち」(1978年)に飲み込まれそうな世相のなか「記憶よりも記録だろう」語りでは正確に残せない旅人たちの足跡を活字で残すことなら手伝えると名乗り出た。

 初代編集長の恵谷さんが仕事で離脱する間、ぼくが編集長の代理を任された。編集などまったく経験がないドシロウトのぼくは、航路も着地点も燃料も考えずに未経験のパイロットが離陸する飛行機のようなものだ。そして冒険や探検など使い古された言葉の代わりに“地球体験”という言葉を生み出した。

 パソコンやワープロが普及していない時代、みな手弁当で、手書きの原稿で印刷費を切り詰めるために台紙に貼り付ける作業を自分らでやった。

 年報『地平線から1979』は、誤字、脱字など代理編集長の力不足で「初めての年報」は「恥めての年報」と、悔やんでばかりいられない。80年版へすでに半年が過ぎ、次の作業に追われる。自転車と同じで、前輪が動けば後輪(次年号)も動き出している。「オレたちのレベルが問われている」江本さんの言葉が重くのしかかった。

 せめて印刷費の一部を広告費でと、無謀にも「ロレックス」に広告を願い出た。『地平線から』がロレックスの広告媒体として不釣り合いを承知で、担当者が「“極限への挑戦”コンセプトは同じ」と寛大に広告を引き受けてくれた。『地平線から1980』が無事に出ると、次に「ニコン」にも広告を依頼した。“直感”が通用するいい時代だった。

 3年で代理編集長を返上するつもりが、クライアントの手前もあり、1983年版まで引き受けた。5年間はモノ書きとしての“第二の子宮”だったかもしれない。

 カーニバル評論家の白根全さんが正式の編集長として引き継ぎ、質、量そして装丁など編集力を数段レベルアップし進化した『地平線から』は不定期ながら出し続けておられることに頭が下がる。丸山純さんが編集発行された『大雲海』は、「ヒトはなぜ旅をするのか」、旅の未来派たちへ地球体験の解体新書だろう。

 芭蕉の句に「逆旅(げきりょ)」がある。旅とは真逆の“逆旅”とは、旅人を迎え入れ送り出す宿屋のことである。唐代の詩人李白の「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」を芭蕉が『奥の細道』の冒頭に引用した。解釈はひとそれぞれだが「天地(この世)は、あらゆる人やものを迎え入れる旅の宿のようなもの、時の流れはうつろいやすいものだが、旅人と宿は永遠だろう」と、李白は人生を旅に、この世を宿屋にたとえた。

 暗闇の海を航海する小さな船が灯台の明かりを見つけて安心して航海を続ける、山で言えばケルン──地平線会議とは旅の途中あるいは旅の行き帰りに立ち寄り、旅だけではない人生の「来た道、行く道」を確かめ合う“逆旅”となっていた。

 「旅は放浪とは違う」と言った永遠の放浪家で詩人の金子光晴さんは「旅は帰るところがある」と……地平線の旅人たちは旅の行き帰りに、都会の片隅の人間臭い森に帰ってくる。「オレは引き下がるつもりはない」江本さんは逆旅の主(ぬし)を生涯引き受けてくれた。

真犯人は、資本主義だったのか

 80年代、時代のそっ啄(たく)に、ぼくは逆旅を巣立った。天安門事件を発端としたベルリンの壁の崩壊(89・11・9)、東欧革命そしてソ連解体の世紀末……逆革命。歴史の裂け目のような世紀末を筆一本で跨いだ。

 “東西分断の壁”を壊したはずが、文明末にトドメを刺すような“9・11同時多発テロ(2001)”で幕が上がった21世紀──アメリカ的価値観(個人の自由の保障と市場資本主義)の前に“新たなる壁”が立ちはだかり、アメリカ文明の賞味期限を加速させた。

 テロの標的となったワールド・トレードセンタービルは、20世紀初頭第一次世界大戦によって巨大な資本主義王国を築いたロックフェラー家が「自由貿易による世界平和を」(ワールド・ピース・スルー・トレード)をスローガンにしたカネが正義のニューヨークの摩天楼である。資本主義、民主主義への挑戦のようなテロによって、アメリカの20世紀は終わった。

 文明は周期的に東洋と西洋の文明が入れ替わる──文明末。

 文明史家トインビーは、文明の交代期を「文明の衝突」とし、天変地異が起こり異常気象に見舞われ、疫病が蔓延、民族移動や動乱、内戦、戦争、テロなど高度化された文明社会を脅かすと指摘している。コロナ・パンデミックもそのひとつだろう。

 17世紀人工的な国家理論『リヴァイアサン』を打ち立てた近代哲学者ホッブスは「ヒトの欲望は無限である。限りない欲望を満たすために、限られた資源を自己保存のために、ヒトは争う。この世は万人の万人に対する闘争だ。決着がつくことはない」と。

 人間は“欲動”によって動かされる生きものである。欲動(Drive)とは、フロイトの精神分析学の用語で、食欲、性欲、出世欲、権力欲そして破壊欲など……ぼくらは欲動によって生かされている。文明は欲動の産物だろう。一方、文明を破壊するのも人間の欲動である。欲動を生産の手段として資本主義が生まれる。資本主義はあらゆる生産物を創造するが、同時に破壊もする、創造と破壊をくり返すことで進化してきた。戦争、核兵器、原発、地球温暖化による気候危機そしてコロナもまた人間の欲動が招いた破壊的産物だ。真犯人は資本主義だったのか……地球全人類70億人が加害者であり、被害者であり、目撃者でもある。

 文明のルーツを遡ろうとアメリカ大陸にシフトした。この国の人たちは合衆国をnationではなく、たんにthe statesと呼ぶ。人工的につくられた国だからなんだ。

 更地から文明を築いたアメリカの筋力もそろそろ賞味期限だろう。その原風景フロンティア精神を見ようとアメリカ大陸の誕生時から生息しているレッドウッド、セコイアの聖樹の森に踏み込んだ。森とそこに生息する老樹林に生命が宿るものとして自然を尊ぶ先住民の文化にも触れた。

 サンフランシスコ郊外、寂れたバレー(谷)に築いたITの本拠シリコンバレーは“アメリカン・ドリーム”の作品だ。アップルの生みの親スティーブ・ジョブズの「stay hungry stay foolish」は、落ちこぼれ人生を背負ったぼくのような人間にはズシンと胸に響く。ジョブズの仕事ぶりから「少々道を外れてもいいから、自分らしく生きろ」と、自分勝手に解釈した。

 ジョブズは若い頃、すでにアメリカ文明の底を見ていた。東洋とくに禅の「重重無尽」という宇宙感に憧れていた。尽きることのない縁──宇宙には一見、バラバラに見える点がいくつもあり、それらが結び合って無尽の縁になる。ジョブズは内なる英知を見いだしiPhone、iPadを開発し、無尽の人たちを結びつけるネットワーク社会の“縁”を築いた。ジョブズは「方向を間違えたり、やり過ぎたりしないようにするには、もっとも重大な機能を除いて、重要でないすべてに“ノー”を言う必要がある」と言い遺した。

 欲動にまかせた資本主義に“ノー”と言えなかったぼくら世代は、天怒ともいうべき“3・11フクシマ”(2011)に立ち止まった。

 20世紀の近代科学文明は、人類にとって史上最大の進歩を遂げ、生活に豊かさを実現してくれた。だが、人間の手に負えない近代科学は、もはや文明とは呼べないのではないかというしっぺ返しも食った。

 「成長神話」「安全神話」を真に受けてきたペラいニッポンに未来はあるのか?

 3・11後、「原発をやめられない社会とは何か」に答えがない。ドイツの哲学者ハイデガーは「人間は決して科学や技術の主人になることもなければ、科学や技術の奴隷になることもない」と人間の愚かさを嘆いた。3・11後、卒原発を前倒ししたドイツ、脱原発ではなく、いろいろと学んだ上での決断だから卒業の意味を込めて“卒原発”だ。

 旧東ベルリンで借りたアパートのオーナーは、元FDJ(自由ドイツ青年同盟)の一員だった。ベルリンの壁崩壊の前兆となる「ロックが壁を越えたコンサート(1988・7)」、ロック歌手ブルース・スプリングスティーンとともに東ベルリンの数十万の若者が合唱する“ボーン・イン・ザ・USA”(ベトナム帰還兵の苦悩を歌った曲/アメリカ賛歌ではない)を阻止できなかった。それから1年後、ベルリンの壁は崩壊した。

 「ドイツ人はなぜ卒原発を?」と問うと「ドイツ人の倫理だ」と、「倫理とは何か?」すると「森へ行け」と……。

 ドイツ人にとって“森は哲学”だ。哲学というと堅い感じがするが、平ったく言えば「頭を冷やす」ことだ。小むずかしく考え込みすぎた頭を柔軟にするには、週末森で過ごし、ヒトがひと時サルに帰る。頭をリラックスさせ“直感”を呼び覚ます。

 原発に“ノー”と言ったドイツ人気質は、森で培われた高度な理性が生む倫理と大いに関係がある。ドイツ人であるという生き方が、卒原発へと駆り立てた。

 ──文明の前に森がある。文明の後に砂漠がある。

 19世紀のフランスの作家シャトーブリアンが残した言葉の原点を探そうと、ドイツの黒い森から、さらにヒトとなる以前のサルの直感を求めて、フィヨルドを越えて北欧の森へと、旅は地球の突端まで突き進んだ。もう書くこともなくなったのか……その矢先のコロナ・パンデミックだ。

 コロナによって、人生も運命も狂わされた。ぼくらは強くもない、賢くもない、変わらなければ生き残れないと、『コロナ世代/人類の未来派』(2020・9)を書いた。人生は一度かも知れない。が、いくつもの人生がある千のコロナ──人生は悲喜こもごもだろう。見失ったモノもあれば、見出したモノ、コトもある“ロスト・アンド・ファウンド”のコロナ人生なのだ。

 ニーチェは、「生きる意味を感じられれば、どんな生き方にもたいてい耐えられる」と……。強い者はイキがってみてもいつまでも強者でいられない。いつかは弱者になるかもしれない。安心して弱者になれる「誰もが生きるに値する社会」とは何か──「日本人であるという生き方」を見直し、「文明が人間を幸せにしてきたのか」をもう一度問いかけて『コロナ白熱の森』(2021・7)を書いた。

コトからトキへ「悠々として、急げ」

 地球誕生とともにカウントが始まった地球終末時計──23時58分20秒、残り時間が2分を切った。核実験、原発さらに地球温暖化による気候変動、グローバリゼーションなど、この1世紀で1分以上時計を進めた。コロナが一瞬時計の針を止めたが、時計の針を戻すことはできない。文明が簡単に滅びたのは「三種の文明の利器=鉄製の武器、銃、そして病原菌」だと作家ジャレド・ダイアモンド氏は言う。森を出たヒトの仕業だ。

 脱炭素へグリーン戦略がむしろ石油など化石燃料の価格を大きく押し上げ、インフレを一段と加速させるリスクが高まる“グリーンフレーション”(グリーンとインフレーションを合せた造語)、資本主義は一筋縄ではいかない、やはり得体の知れない魔物だ。

 科学の文明が進むと、人間の文明が失われる……資本主義にどんな罪があるのか、『コロナ地平/真犯人は資本主義だったのか……』(仮題)を執筆している。

 地球末──富豪、権力者たちは自らの破壊欲動の後始末もしないで地球を棄て、宇宙へ脱出しようと企てている。21世紀版“宇宙船地球号”はどこへ行こうとしているのか。さらなるテーマとして『地球末/人間の森』(仮題)を同時進行中である。

 いまビジネス界で使われる“エコシステム”とは、そもそもは生物学でいう“生態系”のことで、自然界はお互いが共生し合いながら生き抜いている。自然界のエコシステムには、“キーストーン種”という核となる存在が不可欠だという。キーストーン種を取り除くと一帯の生き物も絶滅する。いまIT業界ではGAFAのようなプラットフォーム企業がキーとなり、多様性のある周辺の企業や社会が成り立つ。社会の重心ともいうべきキーの存在によって他の生き物(人や企業)が脅かされては本末転倒だろう。自然界ではそのようなことは決して起こらない。

 経済成長率が低いのは、もうモノはいらない高度な社会だからだ。もっと言えば、他人、他国、他民族を犠牲にしてまで競争って必要だろうか……。強い者、賢い者、大きい者だけが生き残るポストコロナを理念だけで先走りをしてはいないか。

 1杯650円、少し高めの珈琲を淹れてくれるオーナーは『ゆっくり、いそげ〜カフェからはじめる人を手段化しない経済〜』(影山知明著)を世に問うた。コロナ同時代、「ファスト&グローバル」を“よし”とする価値観へのアンチテーゼとして「スロー&ローカル」な価値観への転向を探るという。「不特定多数」の間での価値交換がおこなわれるグローバル経済から「顔の見える人たち」との関係を大切に「特定多数」のコミュニティを育んでいる。つまり、モノではなくコトさらにトキ(時間)を共有する時代なのだ。ぼくは居心地がいい特定多数のひとりになった。

 コロナ禍、大勢で食事をする機会が減った。だれと食べるか──“縁食(えんしょく)”という言葉を生み出したのは京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授だ。孤食か共食か、そのどちらでもない第三の縁食こそ、コロナ禍で見失った人間関係を構築し直し、コロナ同時代の社会づくりへの突破口が第三の場でもあると気づかせてくれる。

 第三の場所=サードプレイス──アメリカの社会学者オルデンバーグは、ファーストプレイスを家、セカンドプレイスを職場、働く場所、もうひとつ人々が集う場所サードプレイスが社会を維持するうえで重要な役割を果たしているんじゃないかと指摘した。「居心地のいいカフェ」は、ぼくにとっては「縁食」の場ともなっている。

「コロナだから仕方がない」とは、言わせない

 ギリシア哲学には“絶対”がない。自分で考え、自分でリスクを負い、自分で責任を取る。自分の尺度でモノを考えろ“公助より自助”が、コロナ同時代、社会のすべてで試される。

 『モモ』などの著作があるドイツの作家ミハエル・エンデは「老化するおカネ」「時とともに減価するおカネ」が《環境問題、貧困、戦争、そして精神の荒廃には、おカネの問題が潜んでいる。もう一度貨幣を実際になされた仕事やモノの実体に対応する価値として位置付けるべきだ》と、おカネの通説を覆し“リーマンショック”を予言した。

 「何が生まれた新しい美しさか、何が失われた大切さかを、見極めることが大切だ」岩手県遠野では民俗学者の柳田國男さんの言葉で、コロナ同時代、ただ変わればいいのではなく“変わる”と同時に“失う”を直感した。

 ウイルスは人間を宿主として自らのコピーづくりに変異をくり返す。もっとも強い変異株だけが宿主を占拠する。オミクロン株もやがて次なる変異株に座を譲る──変異なければ弱毒化なし。コロナのゲノム解析5%は発展途上国以下(カンボジア15%など)、次々と変異しながら進化し続けるコロナに、日本は追いつかない。感染が激減した黄金期(2021・10〜12)を無策に過ごした政府、専門家の分科会、そして官庁……ブースターの出遅れで深刻な第6波を見舞った。コロナ・ゼロはあり得ない。ワクチンや感染により全人類の半数以上がコロナ抗体を持つ“コロナ・エンデミック”へ、コロナから学ぶしかない。

 いま地球上70億の人類が同時に遭遇した歴史の転換期=ポストコロナ社会へあらゆるデジタル・システムの変革との関わりを避けては通れない。とりわけデジタル敗北者ニッポンが縮み志向にならず、理念先行に囚われず、人類とDX(デジタルトランスフォーメーション/進化したデジタル技術を浸透させ生活をより質の高いものへ変革)の未来へ生き抜く至言として、作家開高健さんの『悠々として、急げ』が心強い。

 もとは「Festina lente」というラテン語で、ローマの初代皇帝アウグストゥスの座右の銘であった。単純に言えば「急がばまわれ」だろう。それを開高さんは『悠々として、急げ』と表現したところに開高さんの崇高な生きざまが滲み出ている。ぼく自身、飛行機などを使わずローカル鉄道やバス、船とほとんど歩きで山靴一足履きつぶした、不要不急の「悠々として、自適なる」旅だ。

 卒コロナを安易に語ることは避けるべきだが、デジタルでもコロナワクチン国産化でも敗北した。かつてのテクノロジー大国ニッポンは、世界を湧き立たせた日の丸イノベーションに取って代わる新たなイノベーションを見つけられずに漂流、滑りやすい坂道を転がるように世界の潮流から取り残された。人をすり減らす安値思考の経営も限界だろう。新規感染者数シンドロームから脱し、国民を「ゴンドラ猫状態」から解き放ち、21世紀型テクノロジーの新潮流をつかめるか。国家がその種まきをして強い者、賢い者だけでなく弱い者を支援する、五感を働かせてコロナ・エコシステムの仕組みをつくらねばならない。

 「コロナだから仕方がない」とは決して言わせない。モノやカネだけではない豊さとは何か……誰もが生きるに値する社会へ『悠々として、急げ』は、「日本人であるという生き方」がウイズコロナ社会に通用することを実証していることを忘れてはならない。

 生来、人前で話すことが苦手なぼくだが、聞き出し上手な長野亮之介画伯の深遠なるイラストと予告に、話す機会が与えられた。映像なし、メモやレジメもなく、真っ白の原稿用紙に向かったつもりで90分間しゃべりっ放しで、皆さんを縛り付けた。「モリタの話はノドが渇く」とよく言われた。非常時に出くわすのが宿命なのか、3・11報告会、コロナ禍の3・30(2020)報告会は集会自粛で、たった5人のサテライト報告会だった。いずれも全文を地平線通信に掲載していただいた。

 昭和、平成、令和と三代の年号を跨ぎ、20世紀から21世紀越え、800年に一度という文明末、そして気候危機の地球末と遭遇……歴史上かつてない、とてつもない時代をぼくらは生きている。歴史はぼくらを“コロナ世代”と呼ぶかも知れない。

 地平線会議はまもなく45年を迎える。インドの人生観「四住期」によれば、41歳から60歳までの「林住期」、人生の最盛期で社会のために能力を発揮する。地平線会議は人生でいえば「林住期」迷いなく、自分らしく自由に、社会を引っ張る現役世代だ。わが人生はとっくに還暦を過ぎた「游行期」、人生を振り返り世間から次第に離れていく。いろいろ学んだ地平線会議からも卒業していく。山水画のように、だんだんと自然の風景のなかに溶け込んでいくのもいい。人生には自分史という作品がある。「一人前になりたければ、歴史をやれ、旅をしろ」先人(荻生徂徠)の言葉に従って、まだまだ終わりたくても終われない旅は続く。

 モノ書きって農耕民なんだ。原稿用紙という畑をペンという鍬でひたすら耕し根を生やす。水(時の流れ)と太陽(熱き心)が欠かせない。誰が言ったか、生野暮熱鈍(きやぼねつどん)──生真面目で野暮で熱っぽく鈍臭い人間たち。ぼくもそのひとりだが、地平線会議へ最大の褒め言葉だと受け止めてもいい。

 地平線会議を卒業するにあたって気づいたことですが──。人生には無知の悲しみがありますが、知る悲しみもあります。知って初めて気づく人生の苦さと悔恨。

 コロナはある意味、私の人生で最後の師です。コロナで気づかされた「知る悲しみ」があまりにも多くありました。

 「時代に咲く花、季節に咲く花もあるが、老い木に咲く花もある」。ある年齢を過ぎると人生が顔に出ます。文章にも出ます。人生は悲喜こもごも、数限りなく知る悲しみを積み重ねて「一人前の人間になれ!」と──。今後、肝に銘じていきます。長い間、お世話になりました。ありがとうございました。[森田靖郎


あとがき

■43年あまり一度も休まず発行し続けている地平線通信の515号を送ります。先月もそうだったが、実は長い間、この通信は水曜日印刷、発行と決まっていた。それが今月も今日、火曜日となったのは、先月同様、作業にお借りしている榎町地域センターがワクチン接種会場となり、水曜日は使用できなくなったせいだ。

◆そのことを地平線通信のスタッフには伝えたつもりで、徹底していなかった。今月は長野亮之介画伯が完全に「水曜日モード」に入ったままだったのだ。大慌てでマンガを描いてもらっているが、3月15日16時10分現在、入稿されていない。まあ、まもなく来るでしょう。

◆春は何かとやることがあり、自由に飛び回りにくい。緒方敏明さんの個展、奈良まで行くつもりでいるが18日までは動けず、結局19日に行くことにした。閉幕直前だが、地平線通信を投げ出すわけにもいかないし。緒方君、90何歳かの御母堂をできたら会場に呼びたい、といろいろ思案しているようだったが、健康のこと考えて諦めたようだ。でも、あれほど母上のことを案じている息子なのだ。思いは伝わっていますよ。

◆奈良まで行くなら、ついでに立ち寄りたい場所がある。どこかは言わない。ほんの少し旅気分を味わいたい。では、4月にまた![江本嘉伸


『春霞の巻』(作:長野亮之介)
表4 春霞の巻

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しないため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。


地平線通信 515号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2022年3月15日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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