2023年6月の地平線通信

6月の地平線通信・530号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月19日。朝10時の気温26度。昨日ほどではないが、蒸し暑い。新聞の一面に「大谷メジャー150号!」と出ている。松井秀喜の175本に次ぐ記録だそうだ。すごいんだなあ、と思っていると今日も1本打ち、151本に、とテレビが伝えている。ウクライナの反攻開始、ブリンケン国務長官が訪中し秦剛(チンカン)国務委員兼外相と7時間半も会談、いろいろ気になるニュースばかりの世の中だが、大谷の活躍だけは飛び抜けて別の味なのだ。こういうアスリートは初めてではないか。

◆南米コロンビア南部のアマゾンの密林から生還した4人のきょうだいのことが世界から注視されている。墜落した小型飛行機事故で行方不明となった1歳から13歳の先住民のきょうだい4人がさる9日、約40日ぶりに救出された。世界が「奇跡だ」と喜びに沸いている中、一時4人のそばにいたらしい軍用犬が不明となり、わんこの捜索が始まっている。

◆13歳のお姉ちゃんが日頃から子育てを日課としていたことが大きい、とたまたま電話をくれたドクトル関野は語っていた。

◆きのう6月18日は2018年に亡くなった長野淳子さんの命日だった。個展「J.... 光あそぶ庭に」の会場(展示は20日まで)、阿佐ヶ谷駅近くのいつものカフェ「ひねもすのたり」に仲間が集まり、壁に展示された10点の長野画伯の作品を鑑賞しながら自分の生を生き切った淳子さんをしのんだ。

◆タイトルは淳子さんが愛した小金井市梶野町の家の50坪ほどの庭のことだ。武蔵野の面影を残すこの庭は、住み着いた猫たちとともに淳子さんのお気に入りだった。亡くなる年の4月、「環境再生医」として知られる造園家、矢野智徳さんが訪れ、本人をまじえて、この庭を生き返らせる術について語ったそうだ。実際の作業は淳子さんが天に旅立った日から半月後、矢野さんの指揮下、31人の仲間たちで行われ、その経緯は前田せつ子監督による話題作『杜人』(もりびと)の冒頭で紹介されている。

◆「じゅんこの庭」の部分はこの日のために18分にまとめられ、昨夜の会場で披露された。私は昨年夏暑さにうだる青梅の映画館で『杜人』を見て日本人の持つ素晴らしい感性、庭仕事に打ち込む人の輝きを見た気がした。自分にあの千分の一の才能があればなあ……。

◆宴なかばに長岡竜介さんのケーナ演奏、さらに車谷建太君の三味線も加わって、皆が淳子さんが好きだった中島みゆきの「糸」や沖縄の歌を歌った。淳子さんが喜びそうないい会だった。地平線通信の仕事があるので早めに退出する私にマイクがまわってきたので話を始めると背景の壁にいきなり淳子と私が走ろうとしている“勇姿”がうつった。いつだったか荒川の岸辺を走る彼女の初マラソンの記念写真。進行役の丸山純君が取り込んでくれていたのだ。長野淳子の元気を証明する絵であるとともに江本自身の元気を証明する記録でもある。

◆先月報告会前日の5月25日、いつものように農工大構内を歩いて府中駅方面に向かっている途中、我が頑健な右足にびびっと痙攣のようなものが走り、急に歩けなくなった。

◆びっくりした。なんとか通りまで出て通りかかったタクシーで帰宅。翌日の報告会は杖をついて会場にたどり着き、二次会にもタクシーを使いなんとか参加できたが、帰路は皆さんに助けられた。

◆翌日画伯に紹介された武蔵小金井駅近くの鍼灸院に。鍼もお灸も初めての体験だが、とにかく治さなければ、の一心である。2時間近く入念に施療していただき、幾分落ち着いた。やはり使い過ぎらしい。少し休ませて、と脚が訴えたのであろう。丁寧な施療にだいぶ治まってきた、と感じるが、まだ颯爽と歩くまでにはいかない。それどころか、この際筋肉を鍛えて歩き方を直した方がいいです、としっかり忠告されてしまった。

◆このままでは年寄りのヨタヨタ歩きが目の前ですよ。そういう言い方はしなかったが、まあ、私としてはそうとらえた。毎日15000歩を歩いていい気になっていたが、とんでもなかったのだ。

◆長い時間過信してきたので鍼灸治療だけでは心配だ。府中市に長く住んでいる宮本千晴にいい外科を知らないか訊ねると教えてくれた。早速タクシーで向かう。待合室は老いた人たちで賑わっていた。本を読みながら自分の安易な日々を反省する。

◆レントゲン検査でも異常はなかった。焦らず治すしかない。千晴が推奨していたのがこの病院の「骨密度検査」だ。確かにいままでやったことのない丁寧な検査をしてくれた。そして、結果は悪くなかった。大腿骨と腰椎の2箇所をチェックしてくれたのだが、大腿骨は「同年齢比較148%」、腰椎は「同年齢比較145%」とずば抜けていいのである。

◆歩き続けてきたことは悪くはなかったのであろう。やり方をもう少し年寄りらしく思案してみよう、と考えた6月だった。[江本嘉伸


先月の報告会から

未来を照らすランタン

貞兼綾子

2023年5月26日 新宿スポーツセンター

■コロナ禍にお住まいを鎌倉から日光の森の中に移されたチベット学者の貞兼綾子さん。今年2月8日から3月7日にかけて4年半ぶりにネパール・ランタン村を訪れた。2015年4月25日にネパール中部を襲ったM7.8のネパールゴルカ地震。ランタン谷は壊滅的な被害を受け人口の4分の1ほどが還らぬ人となった。貞兼さんが家族と称す大切な人たちが暮らす美しい村が消えた。いてもたってもいられなかった貞兼さんは地震の1か月後にはランタン谷に向かい、村の若者たちと共に復興に尽くしてきた。しかしその活動はコロナのために停滞してしまっていたのだ。

ゾモTとランタン

◆会場に入ると江本さんはじめ丸山さん、長野画伯までがゾモTを着ている。江本さんのピンク色のゾモTの似合うこと! 貞兼さんは開口一番「私も着てくればよかった!」。今回のランタン行きは地震直後からコロナ前最後に行った2018年5月までの牧畜やキャンチェン・ゴンパや村の復興サポートの検証のためでもある。牧畜が時代の流れとともに観光業に押されてきていたところに地震でゾモ(牛とヤクのハイブリッド種の家畜。乳量が多い)を失ってしまった。生活の糧を失い途方にくれるゴタルー(放牧専従者)たちのために貞兼さんは2016年にゾモ・ファンドを作り、頭数を増やして新しいチーズの作り方を教え、酪農組合を立ち上げた。ランタン村ではゾモの頭数も増えミルクも増産したが定期的なフォローが困難でクオリティを保つことやチーズ販売のシステムを作るまでには至っていない。

◆当時、江本さんの発案でTシャツを作って応援しよう!と地平線有志たちで「ゾモ普及協会」を始動。報告会のたびに皆が購入してくれてゾモを増やすことに多少の貢献はできた。南極越冬隊でもゾモTを着用してくれて、「ハナちゃん」という可愛いゾモがゴタルーのもとに届いたことが思いだされる。今日はメンバーがゾモTを着ての応援♪と私自身も嬉しくなった。

◆2019年〜2022年にかけては再訪できず、観光業で成り立っていた村人は生き延びることができるのだろうかと心配していたが、彼らはなんと!放棄していた畑を耕しだして大麦・馬鈴薯・蕎麦を作っていた! ランタンよりずっと低い場所の共同体から種子や作物を分けてもらい、バターや乾燥チーズと交換しながら新しい関係をつくっていた。貞兼さんはコロナ禍での暮らしを悲観的に考えていたのだが、彼らは明るく、痩せてもおらず、「心配して損しちゃった!」と嬉しそうに語った。

◆地震以前のランタン谷の様子と地震直後の状況をまとめた映像が流された(2016年/ランタンプラン展示用/映像作家の小川真利枝さん編集)。雪を纏ったランタンリルン。石造りの家々。角を曲がる少年。「この少年が今は30代の立派なお坊さんになっています」と貞兼さん。雨乞いの祈りの声。キャンチェンゴンパ。祭りの歌声が響く中、放生された聖なるヤクがゆっくりと山へ帰っていった。一転して画面が変わると一面が土色になってしまった。ランタンリ登攀中の大阪市立大が撮影した地震4日後の映像だ。美しかった村は氷河と土砂に覆われて創世記の地球のようになってしまった。

貞兼さんとランタンの家族

◆あれから8年を経て今年2月のチベット正月の準備や家族の写真。「息子のテンバと奥さんです。奥さんは頭ひとつ背が高いんです。二人の子供がいます。右がソナムリンチェン19歳とミンダパルモ17歳です。テンバの母のリクチーには内孫が11人いるんです。だからお年玉を11人分用意しました。一人2000ルピーずつ」。貞兼さんは1975年からランタンに通ううち、テンバの両親の家に寄宿するようになった。4人の姉のうち3人亡くなった後、テンバが生まれ、弟、妹が生まれた。しかし今はテンバ以外皆亡くなってしまった。当時子どもたちからチチ(母方の叔母)と呼ばれていた。今、テンバの子どもたちからはイビ(お婆ちゃん)と呼ばれている。貞兼さんは地震で亡くなったリクチーに代わって一家を見守っている。一家の母のような存在なのだ。

◆「こちらは1975年からの古いボーイフレンド」と僧侶3兄弟と貞兼さんのスナップ。先祖はブータン。宗派はドゥクパカギュ。長男は台湾で仏画を描きその財産でスワヤンブーの近くに寺を建立。その寺は今は三男が守っている。イギリス在住の次男は里帰り中で4人揃っての何十年ぶりかの再会だった。知らない人はなぜ何回もあのような遠い所に行くのかと思うだろうけれどもやめられないの。故郷へ行くのをやめなさいとは言えないでしょう。貞兼さんはこうやって懐かしい人たちとの親交を続けてきた。

若者たちの明日――進路と海外流出

◆若者たちの教育程度は高く10学年卒業時の統一資格試験の結果、多数がサイエンス系に進み専門学科を学ぶために海外に出ていく者も多い。テンバの娘は医者を目指している。貞兼さんは笑顔で並ぶ写真の少女たちを「みんな私の孫筋です」と紹介し、孫にもらった「鬼滅の刃」や「NARUTO」のキーホルダーを誇らしげに掲げた。日本のアニメは大人気のようだ。

中央ネパールランタン谷・ランタン村・キャンチェン

◆建設中のセンターハウス(酪農組合作業所)からは村が一望できる。村の斜め上の山肌から氷河などが落ちてきたことが写真でもわかる。ランタンプランの主要メンバーでもある澤柿教伸さんが「建物が危ない方に増えていますね」と述べられていたが、ハザードマップで安全だろうと思われるのは以前に村があった最終ライン。

◆地震後すぐに日本の自然科学者(防災・雪氷・氷河)が現地に赴きハザードマップを作成して、国立公園もデブリの所に立ち入り禁止の壁を作ってはいるのだが、少しぐらいの誤差は良いだろうとどんどん広げてしまう。村では青いトタン屋根(韓国などの支援物資であろう)の建物が目立つ。あるジャーナリストが村を見て「なんと醜い。クンブは綺麗です」と言ったとき、貞兼さんは自分が責められているように感じたそうだ。しかし、地震後すぐに組織された再建委員会の若者に訊いてみると「美しいと思う」だった。美意識というものは押し付けることができない。他の地域をたくさん見て彼ら自身が「美しい街」というものがどういったものなのか気づき修正していくしかない。村には銀行(以前はホテルだった建物)もできていた。ランタンリルンの氷河を利用した水力発電による電力も得てあちこちで家が建設中だ。

◆ランタン村の人々にとって心の拠り所であるキャンチェン・ゴンパの再建は何ものにも代え難い。まずゴンパなのだ。老若男女村人総出で重い建材を運び、白土だらけになって塗装をした。そして2018年4月25日に落慶法要が執り行われ、村人たちの切なる願いは叶った。中心の4本の柱は以前の寺のものが使われ、ランタンリルンの神様の壁画もみごとに復元されている。堂守が決められた日に灯明をあげるが銅の壺は税金として収められた灯明用のバターでいっぱいに満たされていた。貞兼さんもほっと胸をなでおろした様子だ。

ゴタルー(放牧専従者)会議

◆3月2日に皆でこの5年間のこと、これからのことを話しあった。参加者は30〜40代6名、70代女性1名の計7名。この5年の間に3名と配偶者1名が亡くなり6名が廃業した。しかし家畜を村の同業者に譲ったことにより頭数が減ることはなかったことが救いだ。良質のチーズを作ること、工場への結束交渉、ハーブや軽食などをトレッカーに提供する施設(建設途中のセンターハウスや貯蔵庫)の活用など2年間の試行後、酪農組合の方針決定をする。これらの活動のためランタンプランは今年度50万ルピー(円安のため約55万円)を支援したそうだ。ここで亡くなった3名のゴタルーが紹介された。貞兼さんなりの哀悼だ。7名のゴタルーとお土産(お茶と砂糖とゾモT)の写真。テンバの叔母以外は皆、若く頼もしい。7名しかいない彼らがいなくなったらランタンの酪農文化は失われてしまう。何とかしてこの火だけは灯し続けてほしい。それにしてもゾモTはやはり派手な色が好まれるようだ。私たち日本人との好みの違いに思わず笑ってしまう!

ランタン小文化史

◆貞兼さんは以前からランタンの仏教史を書いてくれと村人に頼まれていて、断片的なチベットの本を読んではまとめていた。その中で必要なところを翻訳し注釈をつけ、新しい資料が見つかれば改良していて「ランタン小文化史」といったものを作ってはどうかとテンバに相談していた。一方Facebookで美しい英語のコメントを書くランタンのギャルポ・ツェリンという青年を発見。彼は非常に優秀で7〜8歳で寺に預けられ、あと2〜3年の勉強でゲシェ(博士)という地位になれたが地震で両親が亡くなり弟が残されたので村に戻ってきた。

◆チベット語・サンスクリット語・英語が堪能なギャルポとテンバと一緒にこのプロジェクトを進めている。こうやって文化を残したいという青年と出会えたことが今回の帰郷での大きな収穫となっている。地元の言葉を自由に操り村人を引っ張っていく貞兼さんは人種や性別や年代を超えて「自分ごととして」理解し合うということの大切さを教えてくれる。「世界一美しい村」を再び甦らすために貞兼さんのランタン村とファミリーへのアクションはつづくのだろう。

◆最後に大きなネパール料理の写真が画面いっぱいに映された。「ランタンから降りたトゥリスリという町にあるドライバーが必ず立ち寄るネパール料理の人気食堂です。マスの丸揚げも有名です。もう下に降りると暑くって!」とランタン村を懐かしむようにつぶやいた。[田中明美


報告者のひとこと

気にしていることをズバリ言われて

■5月26日、新宿スポーツセンターでの地平線報告会。いつぶりだろう。5、6年ぶり? スタッフの皆さん(揃ってゾモTシャツ着用!)もそのままだし、前回の報告会以来の知人や遠く仙台から駆けつけてくれた友人にも出会えた。後ろの方まで席が埋まっていてこういう時期なのにと感謝の気持ちでいっぱいだった。

◆何よりランタン谷復興のためにずっとご支援いただいてきた方々に直接ご報告する機会をいただけたことは大変貴重なこと。改めてお礼を言います。最後に「もう一言」の機会をいただいたので、ランタンプランが一番力を注いできたゴタルー(放牧専業者)たちへの支援について、追記します。

◆今回の報告会の最初に述べたように、支援のあり方への反省がまずありました。専門家のご協力をいただきながらそれを十分に活かすことができなかったこと。例えばハザードマップの提示や酪農組合の立ち上げ。後者に関しては新しい乳製品の導入のために日本からわざわざ指導に来ていただいた。

◆ランタン谷滞在中は必要に応じてゴタルー会議を持ってきた。今回も下山前にランタン村の宿に集合。ゴタルーたちはまだ冬の放牧地にいて、早朝から村まで上がってきた。その数は19人から7人に減っていたけれど、泣きそうになるくらい嬉しい再会だった。会議の趣旨は、震災直後からコロナ禍の8年間を振り返り、私の前回の下山(2018年6月)から現在までの報告を聞くことであった。

◆翌日にゴタルー会議をひかえ、震災前まで私の右腕として働いてくれたニマ(43歳)に、「チチのこれまでのやり方は何が問題だったと思う?」と問うてみた。これに対して、彼は明瞭に答えた。「チチがやったことは、ゾモファンド以外はどれも失敗だった。これからは失敗を繰り返さないように慎重にすすめるべきです」と。ご馳走になっていたモーモー(餃子)も喉を通らず、心を鎮めてカトマンドゥのテンバに心の動揺を伝えた。彼は「上手くいったものもそうでないものもあったかもしれないが、それほど気にすることはないよ」と言う。気にしていることを「その通りだ!」とズバリ言われて、普通でいられるはずがないではないか。

◆私は翌日のゴタルー会議で自分たちが新しく導入した乳製品がいかに良質で商品価値を生むかを力説し、自分ができるものを作り続けるよう強く要望した。ニマも組合長のセンノルブも一緒になって、彼らを説得していた。ゴタルーがグループあるいは家内で作れる乳製品は、伝統的なバターやチュルビのほかにカチョカバロチーズやハードタイプチーズなどがある。組合長は軌道に乗せるまであと2年間は待ってくれと言った。[貞兼綾子 2023.06.11]


地平線通貨「江蒙」登場す!

■5月26日の報告会場で、ゾモ普及協会制作の最後のゾモTシャツが“販売”された。ただし、先月の通信で丸山純さんが書いているように、新宿区の施設では原則物販はダメ、という規則があるため、お金ではなく「地平線通貨」を作ってしまおう、とこの日のために通貨「江蒙(emo)」を画伯と丸山コンビで制作した次第。1江蒙は500円と決められており、ゾモTシャツは3江蒙(つまり1500円)で1着購入できる。

◆この通貨、実物を手にしてみると実に精巧に、美しくできているのに驚く。表は例によって長舌の、江本らしい人間を乗せた馬、そしてヤギ、羊、牛とモンゴルの5家畜が、裏面はモンゴル草原の主、愛嬌いっぱいのタルバガンがすっく、と立ち、その横に ホログラム加工された王冠が輝いている。わー、これだけで記念に買いたくなる出来栄え。またまたやったね、画伯、丸山君! ありがとう。[E

地平線通貨
地平線ポストから

人間と人間がこんなに近くで暮らしている
 ――地震被災地レイハンルの難民キャンプから

■2月6日に発生したトルコ・シリア大地震の取材のため、トルコ南部のハタイ県に入っています。被災地のアンタキヤやカラ・ハーンにて、今も瓦礫の撤去が進む倒壊した建物を撮影し、地震で家族を失ったり家を失った人々を取材させてもらっています。ビスケットが砕けるように粉々に倒壊した建物や、瓦礫が撤去され何も無くなってしまった建物跡地を目にし、ここまでの災害が起こり得るのかと、その悲惨さに言葉が出ませんでした。

◆私は今、国境のレイハンルに作られたシリア難民の被災者のキャンプに寝泊まりしながら地震で亡くなった友人と、生き残った子供を取材しています。子連れ取材で難民キャンプでの生活は、特に暑さが厳しく大変ですが、登山をやってきた経験が精神面でも支えてくれています。

◆取材に連れた7歳と5歳の二人の子供たちは、難民キャンプの子供たちとすぐに打ち解け、キャンプ内を集団であっちにこっちに移動しながら、毎日実に楽しそうに、自由に過ごしています。難民キャンプの子供たちはみんな逞しく、よくお手伝いをしています。

◆テントを出ると誰かしらがいて、鍋や食器を借りたり、世間話をしたり。こんなに人間と人間が近くで暮らす関係は私にとって初めてで、まるで日本の昭和の下町の、戦後の厳しい中を人々が助け合って暮らしたあの雰囲気を彷彿とさせます。

◆今回はいつもより短い1か月の取材。写真家としてどれだけ、被災者に寄り添いながら心にあるものを感じとり、写しとれるか、毎日考え続けています。とにかく一刻たりとも気を抜けない真剣勝負の毎日です。[レイハンル発 小松由佳

遊ぶ彼らの悲しみと喜び

■5月のモンゴルへ行ってきた。飛行機から見おろす草原の緑色は渋かったけれど、上陸してみたら、モンゴル人たちの間で早くも夏が始まっていた。肌寒さの残る首都ウランバートルでは連日イベントが行われ、若者たちが遊びに繰り出していたのだ。

◆世界中からシャーマンが集うシャーマン・フェスティバル、スフバートル広場で3日間にわたり出版社が本をセール販売する本のお祭り、子どもを4人出産した女性に政府がメダルを授与する式典、子どもの日のお祝い、人気バンドが夜通し歌うロックフェス、ヒップホップイベント……。派手な色の服や民族衣装を着て、赤い口紅を塗りサングラスをして、彼らは友人や恋人や家族と出かける。年齢や社会的地位に関わらず、モンゴル人は遊び上手だなあと見ていて思う。

◆一見明るく生きる彼らだが、若者たちと交流していると、その複雑な人生に触れることになる。たとえば今回私がお世話になった写真家のインジナーシという青年。彼は昨年、大阪の国立民族学博物館で開催されたモンゴルの特別展に数多くの写真を提供し、光と影をあわせ持つ現代モンゴルの新たな姿を日本人の目に焼きつけた。人間の心の皮を何枚も剥いだあとにかすかに残る光のようなものを捉えた写真たちに、私自身も魅了された。

◆日本の出版社が彼の写真に惚れこみ、作品集を今年出版する予定だという。その関係で今年春に彼が来日していたとき、友人の紹介で私は知りあった。家事もこなすし、社交的で人間好き。という印象を持っていたが、ふと腕を見るとリストカットの跡。17歳のときにやったそうで、「若かったから」と言う。しかしあとで知ったのは、ゲル地区で暮らしていた子ども時代に身内から暴力を受けつづけ、誰にも助けを求められず耐え忍んできたこと。当時家事をすべて引き受けていたから料理が得意なこと。18歳まで唯一の友だちがロックミュージックだったので音楽に異常に詳しいこと。そういう人間が撮る写真だから、何かへの渇望が表れて人を惹きつけるのかもしれない。

◆インジナーシの友人で、「教師の仕事を辞めてシンガーソングライターになりたい」と歌を聴かせてくれた華奢な青年がいた。いい曲だった。聞けば彼も、父親に暴力を受けてきたという。そのような過去はなくても、親や兄弟や配偶者が早いうちに何人も他界し、心のなかで寂しさと闘う若者がとても多いことを今回私は知った。無我夢中で遊ぶ彼らの裏側にある悲しみを垣間見た。[大西夏奈子



荻田泰永さんが絵本作家の井上奈奈さんと書いた『PIHOTEK(ピヒュッティ)北極を風と歩く』が「第28回日本絵本賞」(全国学校図書館協議会主催、松岡マジック・ブック・ヘリテージ協賛、読売新聞社、中央公論新社特別協力) 選考会で最高賞の日本絵本賞大賞に選ばれた。



早撃ちガンマン

■戦後さしたる娯楽がないころアメリカ映画があふれるように入ってきました。中一のとき初めて見たのがモノクロの「拳銃無宿」です。夜の場面でした。それだけでも知らない土地の夜は怖かったのに、むやみやたらに拳銃を撃ち出しました。怖くて映画館を出てしまいました。そのうち映画はカラーになり、ロシアの「石の花」の美しさに魅せられました。モンゴルでやたら「チョロンツェツェグ(石の花)」という名の年配の女性がいましたが、親世代があの映画を見たに違いありません。時空を隔ててシンパシーを感じました。

◆それから西部劇というアメリカの時代劇にはまり、よく見ました。インディアンは少数民族モンゴル系だからけしからんという意見が時にあり、好きな西部劇を見るのをいちじ控えていました。しかし、アメリカのそのような議論のなかでアメリカインディアンというのはハリウッドが創り出した架空の民族で、現実の先住民の中に映画そのままの民族はいないとの記事を読み、西部劇がわたくし的に復活しています。西部劇は開拓時代、どこか昔のモンゴルににています。そしてサバイバル。草原で食べて、眠らなければいけません。そのような場面をみるとモンゴル草原での野宿を思いだします。コヨーテの鳴き声もモンゴル狼の遠吠えを思いだします。モンゴル行き飛行機で知人のモンゴル人の子供と狼ごっこしているうちにウランバートルについてしまったこともありました。狼の棲息するモンゴルの荒野が大好きで、西部劇の荒野は見ていて気持ちよく大好きです。

◆さて強いガンマンがでてくるとそれを倒そうという挑戦者が次々に出てきます。町がやとったガンマンが始末が悪い悪者ガンマンを倒すため一騎打ちします。決闘では相手が抜く前に抜いて仕留めなければいけません。

◆政府が専守防衛という防衛政策を変更して、敵基地攻撃とか言い出したとき、このガンマンを思いだしました。相手より早く抜かないと倒されます。それは専守防衛とは真逆の行動です。政府はとぼけて専守防衛政策は変わらないと言ってます。それに世間はクレームをつけていないようなので、「私だけバカなのかな」と思っています。

◆ところが映画によっては、幸運にもそのガンマンを倒したところで、子分や仲間が襲ってきて町はてんやわんやの銃撃戦になります。これを現実にあてはめると、敵基地攻撃したところで、その他の基地から核搭載のミサイルがめちゃくちゃ飛んできます。町は全滅になります。バカな保安官の町防衛対策では、住民はたまったものではありません。どうしてこのような考えがでたのでしょう。

◆AとBにはさまれた日本はBと手を切ってAに下駄を預けようとしています。北朝鮮、イランなどが「ならず者国家」と言われていますが、AもBも国際場裏ではなかなかの「ならず者国家」でまるで暴力団一家のようです。Aにわらじを脱いでしまったので、いまみかじめ料が求められ、防衛費5年で43兆円とか言っています。

◆弱い町の生き方はAともBとも適当に付き合い、どちらにも旗幟鮮明にしないのが西部流ですし、日本の平和外交は本来そんなものと思っていました。たしかに強くなることを望み、今の状態を残念がる「えらい人」を何人も見ました。大国外交華やかな場面で「日本も武力があれば口をはさめるのにね」とか。偉い人たちが国際場裏でいい顔するために、軍備増強をするなどたまったものではないと思いました。

◆もっと地に足がついた外交をして地域の安全を護ってほしいと思います。日本は率先して、「開かれた民主主義の国」とか「法の支配」だとかお題目を唱えて世界を色分けし、分断しようと国連内外で、同盟国のお先棒をかつぎ、積極的に先走りしていますが、周辺にそんな模範的な国はあまりありません。模範的な国とだけつきあっていたら確かに楽で気持ちがいいかもしれませんが、食糧だって、エネルギーだって安全に保障されないことは、誰が考えたって明らかだと思います。それが駄目になったらガンマンの出番なんてごめんこうむりたいです。

◆日本は戦後インドネシアのバンドンАА会議でアジア外交デビューしました。日本政府はオブザーバーとして参加し、経済審議庁長官であった高碕達之助氏が周恩来総理と会談しました。その成果が前世紀末まで日本が享受したアジア周辺国との関係でした。バンドンの10原則、整理されて5原則が約束されました。今世紀に入り、中国の伸張を感情的に許せないリーダー達がパラダイムを破戒してしまったと私は思っています。5原則でいいじゃないですか。領土主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存で。

◆一番取引の多い中国を政治的に攻撃する手先になっているのを見て、商売の神様、渋沢栄一様や紀伊国屋文左衛門さんはどう思うでしょうか。やはり、まわりのアジアの国々と丁寧につきあっていく、それを政府だけにまかせず、私たちもそれぞれの立場でと思います。

◆昨日コロンビアのアマゾンで軽飛行機が墜落し、母親を含む大人3人は死亡したのに、13歳の長女が1歳の赤ん坊の面倒をみつつ4人の子供が40日後に発見されたニュースをテレビで報道していました。そこにわれらが関野先生がコメントを求められ、生存者の子供たちが先住民と聞いて、「問題ない、かれらはアマゾンをよく知り、水、食物も熟知しているから生きられる」というような、極めて小気味よい正確なコメントをされていました。この北東アジア地域でもそのようなコメントができるほど現地とお付き合いできる人びとが増えたら、さぞかし関係がおおいに改善されるだろうと思いました。[花田麿公

山と海

■原稿を頼まれた。私はつくづく適当な人間だと思う。忘れてしまっていた。言い訳はしない。ただ不誠実なだけなのだ。地平線会議に携わる人たちの熱量には常に圧倒されてきた。現在進行形の私には語るべき今はない。私にとって、探検も登山もとうに過ぎ去った記憶の中で、酒にまどろむ寝物語に過ぎない。でも書けという。書こう、恥の上塗りで書こう。

◆島根県出雲市の十六島(うっぷるい)港で知り会った定置網の漁労長さんとヨットで酒を飲んでいた。そこへ江本さんから電話が入った。原稿締め切りの催促だった。本当にすっかり忘れていた。5月12日に高知県の母港を出港して、足摺岬から九州に渡り、西岸沿いに北上して、五島列島、対馬を訪れ、日本海に入った。目的はヨットで北前船の遺跡を訪ねる旅だ。

◆あまりにもいろいろなことがありすぎた。ヨットの旅とは言ってもなんてことはない。のんきな年金生活者の道楽に過ぎない。日本国中どこにいても移動は楽で、どこに行くのも不便は感じない。遠い僻地に来ている感覚はない。考えてみれば、世界中どこでも飛行機に乗ればその日のうちに目的地に行ける。6月4日には東京大学スキー山岳部百周年記念式典に招かれ、ヨットを五島列島北端の宇久島に係留して、フェリーと新幹線を利用して東京を往復した。招待者を代表してちょっとスピーチをした。

◆冒険、探検は青春のあこがれだ。今なお多くの先達たちが頑張っている。しかし、私にはもうその力はない。しかし、我が家の布団で日々の安楽を貪り寝る気はない。自転車でもヨットでも歩いてでも野宿の日々を過ごしたい。港港に女がいる、というような旅はまさに見果てぬ夢で、もうすぐ後期高齢者に突入しようというのに、精神的生臭さは消えようもない。バツイチ48歳、生活に疲れたママが営むような居酒屋で飲み明かすのが旅のだいご味だ。

◆ヨットの旅は見知らぬ人との出会いの旅だ。漁労長さんと飲んでいるところへ色白の観光客風の人がやってきた。大阪の人だという。如才ない人で話が弾んだ。一杯どうですかと缶ビールを差し出したら、仕事中ですからとことわられた。何と先ほど入港してきた大型の税関監視艇の船長さんだった。税関も船を持っているんだ。初めて知った。海の監視は海上保安庁だけだと思っていた。警察も消防もみな艦船を持っている。日本海には北朝鮮を含め多くの外国船が行き来しているので密輸や不法行為が多いのだという。

◆北前船には深い思い入れがある。この船は単なる輸送船ではない。商船である。物流と文化の交流、江戸時代の日常生活を一変させ、いろいろな物語が紡がれた。北海道の昆布が上方の食文化を作った。東北の紅花が京の遊郭の女を飾った。

◆6月14日は温泉津港沖泊に停泊した。今まで入った港の中で最高の港だった。戦国時代毛利元就の支配下になって、石見銀山の銀の積み出しから始まり、江戸時代の北前船の寄港地として栄えた。今は疲弊した街並み、かつては温泉街に遊郭の立ち並ぶ港町だった。路地裏に崩れかけた廃屋、閑散とした港、時の流れが否応もなく刻みつけられたたたずまい、日常生活のくびきから解き放たれた瘋癲おやじの気まま旅に時代を読み解く力があるはずもない。

◆実は北前船の旅を試みたのは去年11月だった。恥ずかしいことに島根県浜田港で海上保安庁につかまった。小型船舶運転免許証が切れていたのだ。ヨットを長期係留して大阪に帰り、免許の更新をした。略式起訴で10万円の罰金を払った。保安庁にも検察庁にもお世話になったし、親切に対応していただいた。のんきに旅を楽しむ場合かと知人にお叱りを受けた。

◆今回はそのリベンジだ。心をおとなしくして、静かに自然と触れ合おうと思う。もはや冒険を語る資格など私の日常には存在しない。元アルピニストとして、あこがれの海の旅に身を置きたいだけのことである。山から海へ、私が尊敬して止まないハロルド・ティルマンの足跡をたどることは、やはり見果てぬ夢である。身の程を知る私には嫉妬心はない。ティルマンとは違う世界を自分の中に見つけたい。

◆能登半島福良の腰巻地蔵のいわれ、瀬戸内海御手洗港のおちょろ船、命を懸けて海に生きた男たちとそれを慰めた遊女たちの物語を訪ねるだけで、私は、私の身の上の幸せを想う。私には妻がいて子も孫もいる。山が海が私を育んでくれている。ヒマラヤと雪黒部の記憶が、日本海を漂う私の船にエール送ってくれているようにおもう。[和田城志


先月号の発送請負人

通信529号(2023年5月号)の発送作業は、5月15日に印刷、封入作業を終え、新宿局に持ち込みました。5月号は3年3か月ぶりに報告会レポートが復活、大西夏奈子さんが小松由佳さんの報告会について臨場感あふれる文章を書いてくれました。ほかにも読ませる原稿が多く、20ページの厚さに。この日の発送作業には13人もの仲間が参加してくれ、厚いページのわりには18:30ころには終わりました。長岡のりこさんが美味しいアンパンをつくってきてくれ、皆でいただきました。ありがとうございました。作業の後、北京に移って、歓談しました。光菅くんは北京からの参加です。

 長岡のりこ 中畑朋子 車谷建太 石原玲 伊藤理香 中嶋敦子 白根全 久保田賢次 高世泉 落合大祐 江本嘉伸 武田 力 光菅修


―― 連   載 ――
旅のはなしのはなし

その3 冬のカナディアン・ロッキー長期縦走

田中幹也 

■30代前半は冬のカナディアン・ロッキー長期縦走にすべてのエネルギーを注いだ。カナディアン・ロッキーは、本州がすっぽり入る雄大なスケール。氷河を有する3000メートル級の峰々が連なり、急峻な岩山とひろい裾野をもつ深い森からなる。あの山を越えたむこうには、どんな光景がひろがっているのだろう。そうした好奇心もあったけれど、自分の人生で何かをやったという手応えを残したかった。それまでの人生では何をやっても中途半端だったから。三十代前半とは、この機会を逃したら自分はもう一生ダメだとおもいこんでしまう年代なのかもしれない。

◆冬のカナディアン・ロッキーの積雪は多い。スキーを履いても腰まで潜る。裾野がひろくアプローチは長い。情報が氾濫しているのは一部のアイスクライミング・エリアと人気の氷河トラバースにかぎられる。長期縦走の情報は極端にすくない。あらゆる面で登山としての効率がわるすぎる。

◆はなしがすこし飛ぶ。十代のころクライマーの端くれだったわたしにとって、登山における効率は、ひとつのポイント。いかに荷物を減らして速く登るか。インスタント・ラーメンは砕いて粉にする。冬山でも夏用シュラフかシュラフカバーのみ。アンバランスなほどムダを削らないと、難しいルートは登れない。その効率重視の反動がきてしまったのか。効率のわるすぎる登山に、興味をもちはじめた。

◆効率のわるすぎる登山をふたつ紹介する。1987年1月中旬から4月上旬、80日間の単独ノンデポによる黒部横断。八方尾根〜唐松岳〜奥鐘尾根〜欅平〜北仙人尾根〜剱岳〜大日岳〜立山。植村直己の母校・明治大学山岳部OBによるものだ。

◆もうひとつは1993年12月から94年5月、冬の北海道縦断。単独、670キロ。ユースホステルや知人宅などをベースに全行程を12回にわけて歩いた。核心部の日高山脈は気象条件のもっとも厳しい真冬に踏破。準備のために町に滞在中も、知り合った地元の人たちとの飲み会をなによりもの楽しみに旅をすすめる。黒部在住の写真家・山岳ガイドの志水哲也によるもの。登山の記録といった概念では括りきれない。いつかこんなふうに自然とも自分とも真摯にじっくり対峙してみたい。二十代後半のころにそうおもった。

◆さて、わたしの冬のカナディアン・ロッキーの縦走スタイルだが、担げるだけの食糧、燃料をザックに詰め込む。ザックは50キログラムを超える。麓の町をスタート→山脈を縦断→つぎの麓の町にゴール。デポもする。こまかなルールはめんどくさいからナシ。あっ、通信機器は持参しない。何かあったら救助は求められない、というのは重要だ。

◆冬のカナディアン・ロッキーで人に会うことは稀。生き物の気配はたまに動物の足跡を見かけるくらい。雪、氷、そして深い森。聞こえてくるのは風の音。歩いていてふり返ると、広びろとした雪原に自分のスキー跡だけが、見えないところまでつづいている。もしクライミングの世界で満足感を得ていたら、こうした光景とも出会えなかっただろう。縦走中にそんなふうにおもったわけではない。冬のカナディアン・ロッキー縦走から離れて20年以上たったいまつくづくそう感じる。

◆3冬で2500キロ踏破。夏の縦走をふくめれば4000キロ歩いた。いったいどうしてそんなに歩いたのだろう。毎冬のように目標地点にゴールすれば人生の節目ができるのでは、と淡い期待があった。でも何も変わらない。

◆死を覚悟して挑んだわりには、死ぬような目に遭わなかった。ケガは、肋骨の疲労骨折のみ。インフルエンザでテントのなかで38度の高熱を出したけれどなんとかなった。野生動物を遠目に見ることはあっても、危険な動物に襲われることはなかった。雪崩がヤバイかなっておもうことはあっても、巻き込まれることはなかった。ひと冬で2400キロ踏破をめざした年もあったけれど、初夏の日ざしをかんじる季節まで粘って1200キロが限界だった。

◆でもおもいついた計画を実践へと昇華させた。もっとできたのではないかという未練はない。さいごの最後は、何かを完成させることよりも記憶、ではないだろうか。あのころ登れた登れないといった低次元の意識にとらわれていたわたしのようなものにも、そんな気づきのきっかけを与えてくれたカナディアン・ロッキーはやはり雄大だった。


いのち綾なす ささやかな写真展

■みなさん、こんにちは。シスター延江由美子です。卯年生まれの故か? ジャックラビットよろしく、埃を舞い上げながらあっちこっちと飛び回っているうちにあっという間に6月になりました。蘭に続いて君子蘭が終わり、雪柳がたわわに咲き誇った後に、芍薬が見事に咲いてくれて、今は紫陽花やバラが綺麗です。エキネシアも咲き始めました。母は花屋の娘でしたから身近にはいつもお花があふれていました。そんなわけで私も、日本にいる間は小狭い実家の庭で土いじりを楽しんでいます。

◆季節が移るなか、さまざまな出来事が立て続けに起きました。アメリカにいた同年代の親しい友や慕うシスターの何人かが天に召され、インドでは姪のような人が大変な病にかかって今も予断を許さない状態です。一緒に弔いたいけど……そばにいたいけど……ああ、やっぱり遠いなあ……と思わざるを得ません。でも祈ることはできます。いつも心に留めています。

◆今朝(6月6日)のニュースで聞いた話:タイでも高齢化が進んでいて孤独な高齢者が増えている、親や上司と分かり合えないと悩む若者が少なくない、などなど、そんな状況に対応すべくSNSを使って異なる世代を繋ぐ活動を始めた人がいて、大きな反響を呼んでいる。「世代間ギャップ」そうなのよねえ、とうなづく私。インドの修道院においても高いハードルです。文化の違いと同様、お互いにわかり合おうと意識して努力しない限り飛び越えられません。

◆日本では4月から大学3年生と4年生対象の授業を一コマいただいていますが、学生たちとのやりとりを通していろいろと学んでいます。「現在ロシアとウクライナだけでなく世界各地で戦争が起こっているが、日本でも過去に沖縄では地上戦が起こっていたかと思うと信じられない」と書かれたリアクションペーパーに、え?と思いました。

◆また、中村哲先生が命をかけて取り組んだアフガニスタンでの偉業を話すにあたり歴史背景を説明する段になって、彼女らはあの9.11を知らない世代なのだと気がつき愕然としました。講義中、初めは堂々と居眠りする人もいたし、今も寝てこそいないが「授業、全く興味ないし」的にずっとスマホをいじっている人もいます。かと思うと真摯に聴いている人も少なからずいて、嬉しい一方、何をどう伝えるか大いに責任を感じています。

◆同居している母は90歳と6か月になりました。こちらも、毎日一緒にいて母の頭の中は一体どうなっているのか見てみたい、と真剣に願うほどわからないことばかり。ついイライラしてむやみに憤ったり、どうしようもないとわかっているのにグダグダと文句を言ってはガックリする。我ながらおかしいです。

◆さて。今月23、24、25日と、インド北東部のささやかな写真展を開きます。去年撮った写真と拙著の写真集「行雲流水」と「いのち綾なす」からのを併せて、現地の布と共に展示します。ギャラリーのオーナーである阿部櫻子さんはインドと深いつながりをお持ちで、地平線通信の読者にもご存知の方がいるのではないでしょうか。ご都合がよろしければどうぞぜひお立ち寄りください。数と種類に限りはありますが、布も販売いたします(収益はトークショウも含めすべてインド北東部での支援活動に充てさせていただきます)。[延江由美子

写真展 いのち綾なす インド北東部への旅
 6月23日(金)12:00〜19:00 (トークショウ 18:00〜19:00 メガラヤ州への旅)
 6月24日(土)12:00〜17:00 (トークショウ 14:00〜15:00 ナガランドへの旅)
 6月25日(日)12:00〜16:30
  ※トークショウ:入場料1000円(予約不要)

会場:ギャラリーディープダン Gallery DEEPDAN
   https://www.deepdan.com
    世田谷区北沢1-32-17
    井の頭線・池の上駅北口から徒歩2分

4年ぶり、学校音楽鑑賞会コンサート

■ 大変お世話になっております。祥太郎の『島ヘイセン』の連載、いつもありがとうございます。さて、私は5月12日から10日間ほど、4年ぶりに復活した学校音楽鑑賞会コンサートの仕事で、長野県千曲市、全小学校・中学校ツアーにまいりました。久しぶりに大勢の子供たちの笑顔に出会えました(ちょうど宮本常一編訳の、『菅江真澄遊覧記』を読んでいたところで、姨捨や坂城など、真澄ゆかりの地の学校で演奏できて、興味深い思いをいたしました)。

◆そのあと、安曇野にある早稲田大学・岳友会の山小屋で演奏会がありました。その折、1960年代、日本のアンデス登山黎明期の興味深い話を、沢山聞くことができました。管楽器は、コロナ飛沫拡散源の一つと考えられておりましたが、やっと一般的にあまり気にされなくなってきつつあるようです。早く自由に笛が吹きたいものだと考えております。学校音楽教育のリコーダーは、まだ吹奏禁止の所もあるようです。[長岡竜介


島ヘイセンvol.11
いよいよ大学受験が

■島での暮らしも残すところ1年を切った。寮では離島留学生5人の新一年生が加わり、私は受験生になった。最高学年となり、生徒会長としての重責もある中、進路などへの悩みもある。しかしこのような状況下でも楽しむことができるのが、神津高校生のあるべき姿だと思っている。

◆神津高校では毎年5月に新入生歓迎会を行っている。以前は島のキャンプ場で三学年合同のどんたく(バーベキュー大会)が行なわれていた。ここ数年はコロナの影響があり、新入生歓迎会を従来通りに実施することは叶わなかった。3年前は歓迎会の開催すらできなかったという。今年度に入りマスク着用の義務が撤廃され、コロナの制限はかなり緩和された。今なら、新入生歓迎会でどんたくを復活させることができるのではないかと考えた私は、すぐさま先生方に提案した。

◆天候や食材などの様々な懸念事項があり、何よりも経験者がいない。ほぼゼロからの資料作成と計画を、生徒会メンバー中心で行った。教育委員会の許可も下り、無事に開催できることになった。しかしここで問題が発生した。4年前に使用していた鉄板や網を倉庫から引っ張り出したところ、錆びだらけでとても使える状態ではなかった。新入生歓迎会前日、生徒会と先生方で、雨の中鉄板を洗った。合計20枚以上の鉄板と網を洗うのは大変だったが、翌日のバーベキューが終わった後の軽い筋肉痛と達成感は素晴らしいものだった。

◆新入生歓迎会を無事に終え、生徒会の仕事はひと段落した。いよいよ受験に向けての具体的な方向性や、目指す場所が見つかった。今までは特に学びたいことや、やりたいことが見つからず進路にかなり苦しんでいた。しかし、自分の本当にやりたいこととは何なのかを考え抜いた末、心理学を学ぶ大学へと進学することを決意した。

◆神津高校の今年度の全校生徒数は46名。先生方との距離感も近く、学習面や進路の相談なども、親身になって指導していただいている。しかし生徒数が少ないため、教員の数も少ないのが現状であって、内地の学校に比べて履修科目の選択の幅は限られている。しかも卒業後の進路は大学進学、専門学校への進学、就職と多岐にわたる。決してメリットばかりの離島留学ではないかもしれないが、これがこの環境で導き出した今の自分の答えだ。

◆また、先月の瀧本柚妃さんの報告を拝読。一緒に報告会に参加していたころと変わらずに、様々な事に情熱を持って頑張っている姿勢が伝わってきた。同じ受験生ということで、時を同じくして努力している人がいると思うと、自分も頑張る気力を貰える。進路実現に向けては正念場だが、自分のやりたいことを大切にしてこれからも頑張っていきたい。[神津高校3年 長岡祥太郎

「それでいいの?」という声が私にも……

■もう6月なのですね。早すぎて腰を抜かしそうです。以下、ささやかな近況報告と通信529号の感想を送らせていただきます。ちょうど昨日(6月4日)、広島市で開催された日本文化人類学会に行ってきました。初めての学会で、研究者の現場を見ることができました。学問的文脈とフィールドの具体的な情報とが噛み合って初めて、問いと情報に意味が伴う、ということを改めて認識しました。

◆今日の昼頃、福岡に戻り、15:00から九州大学山岳会海外登山研究会の第一回目に参加しました。改めて文字にすると迫力がありますが、コロナ禍も明けてきたことだし海外登山の話でもしてみよう、という具合で、緩やかに始まった会です。コロナで海外登山など夢の話でしたが、現役部員の間でも海外に行きたいという人が増えています。

◆私自身は、今年の秋にヒマラヤに行くための計画を4月下旬から組み立て始めています。初めての海外で、高所の経験もない、技術も体力も未熟、ということで、ひとまず5000m以上の山に登る、山麓の村をめぐる、ということに焦点を当てて山域を絞りました。といってもヒマラヤが大きすぎて、情報が手に入りやすい山域に収束していった印象です。

◆5月頭、九大山岳会の元会長である中溝幸夫先生に相談したところ、Ngima Sherpaさんとつないでいただきました。そこからヒマラヤ行の日程と山域も具体的に決まり、準備を進めています。結局、今回は10月下旬から11月中旬にかけて、エベレストを擁するクンブ地方のthree passのトレッキングと、Imja Tse(Island Peak 6189m)の登山をする計画となりました。山小屋から帰ってから今日まで、アルバイト、勉強(卒論執筆と英語)、ヒマラヤ行の準備、の三本柱であっという間でした。その日常と、会いたい人に会うことができることの有難みを感じます。

◆報告会が再開されてからの地平線通信を初めて手に取り、臨場感あふれるレポートや感想を興味深く読ませていただいています。小松由佳さんの報告のレポート、報告者のひとことを読み、絶句というのか、ただ圧倒されました。その緊迫感とエネルギーに、なにが小松さんをここまで駆り立てるのだろうと思っては、行動が語っているということかもしれないと考えました。個人的には第二夫人の件のその後が気になっていました。そんなのありなの!?と驚いていましたが報告の感想にあった「アラブの女になったと認められた」騒動と捉える視点に、なるほどと思った次第です。報告会に参加したいという気持ちが大きくなりました。

◆5月号の感想を書こうとするとどうにも収まりません。高世泉さんの土地との関係性の深さには憧憬の念を抱きますし、森井さんの「キュート」な魅力には思わず笑みがこぼれました。文字がぎっしりつまった地平線通信を初めて見たときに感じた熱を思い出しました。またフロント記事で、江本さんが当時16歳(!)のときに書かれた日記を読んだ夜には、中断していた日記を再開することができました。せわしない日々でこそ書いて立ち止まるべきだと感じます。

◆他方で今、こうして感想を書いている頭をよぎるのは「それでいいの?」という声です。しばらく消えそうにありません。6月27日からは山小屋に上がります。高山植物が楽しみです![安平ゆう


  滄海   松田けい

 のー、わしらが戦地へ行くときゃー
 全国から兵隊がのー
 御幸通りを行軍して
 宇品の港から船に乗って行ったもんじゃー
 終戦になって運よく帰ってみりゃー
 広島はピカドンで焼け野原よのー

 かっての兵士は語った

 78年後 この宇品島でG7サミットが開催され
 戦時下の国の大統領もかけつけ
 平和に向かって発信した

 しかし停戦に向けての武器支援の話はあったが
 核兵器禁止条約への言及はなかったという
 揺らぐ地球人たち……
 宇品島に漂う波のよう……

 「地球は青かった」
 ガガーリン少佐の言葉である
 海はどこまでも蒼く
 永遠である

■冒頭友人の詩を引用させていただいた。「ヒロシマ」というと原爆被害だけに目がいきがちであるが、宇品港は、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と、おびただしい兵隊を送り出した港である。広島は軍都として栄えた。その宇品にあるホテルがG7サミットの会場だったのだ。

◆原爆をテーマとした「父と暮らせば」という戯曲を書いた井上ひさしは、「原爆はアメリカが日本に落としたのではない。人類が人類の上に落としたのだ」と言った。その伝でいけば、今回の会議は、「人類が人類をやっつけるための話し合い」ということになるだろうか。

◆今回の会議では、最大約2万4千人の警察官が警備に当たったという。私は呉市に住むが、JR呉駅でパトロールしていた二人組の警官の制服には「山形県警」の文字があった。日本全国から集められた警察官の協力により、会議は無事終了した。彼らの姿に、ウクライナで戦うロシア兵、ウクライナ兵のことを思った。プーチンが狂って一般市民が徴兵されたように、日本でもトップが狂えば私も息子も徴兵されるだろう。なぜならロシアも日本も同じ国民国家だからだ。人類がよかれと思って作り上げてきた「国民国家」というシステムが、もしかしたら人類の共通の敵ではないのか?

◆日本に生まれた以上、このシステムから逃れる術はない。しかし、地平線会議は、一時的にせよこのシステムから逃れた方々が、人類が生き残るための知恵を模索し、発表してきたし、これからもし続けることを期待しています。[豊田和司


はじめての北海道で2人展開始

■こんばんは。緒方です。北海道へ来ています。北海道では、初めての展覧会が明日17日、始まります。今、セッティングが完了しました。ギャラリーの最寄駅はJR十弗駅ですが、駅から6キロ。周囲は広大な畑。ワインの池田町も近いです。近いけど遠い。ギャラリーは、ほぼ廃屋です。廃屋をリメイクしないままに「ギャラリー」活用運営しているという、強気のプロデューサーです。緒方作品は、34点。二室を使った展示です。

◆引きこもりのぼくにとっては、大旅行です。母親といっしょに来ました。母親のことと距離を置くために遠くへ行くのに、母親の遺骨とともに移動するというのは、矛盾してるかもしれないですが。今まで、なかなかいっしょに居れなかったという気持ちが自分には有って。いっしょに旅行へ行こうとか温泉へ行こうって母親と話していたので。けっきょくは、すべて、自己満足のためなのだとおもう。けっきょく、未解決をひきずる結果になるのかもしれない。

◆今回の展覧会は、ぼくのともだちの安藤榮作氏との二人展覧会です。ほんとに長いともだちで35年以上前からです。ぼくのことをよく知ってくれてます。もちろん母親関連のことも知ってます。ですから、安藤榮作との二人展覧会という企画もオーナーの白濱さんの意図が活きています。安藤榮作は、第一線で活躍してるアーティストです。超スゴイ。 以下は、ギャラリーArtLabo北舟の主催者の白濱雅也さんからの「展覧会情報」です。[緒方敏明 6月17日深夜]

    ★    ★    ★    ★

◆震災、コロナ禍を体験し、今またウクライナ侵攻に遭遇している私たちは、これまでしばらくの間、拠り所としてきた科学や民主主義という20世紀近代の根幹が危うく脆いものであると深く実感しました。

◆その無力感のなかで、親しい人との会話や日常的な環境の価値などささやかで大切なことを見過ごしてきたと気づいたことでしょう。それは特にコロナ禍の長い時間において痛切に実感したことです。

◆美術家は世間の常識に囚われず内省に長けていて、そうした視線を常に持ち合わせていることが多い人達です。彼らが見つめてきた目に映っている現実の姿のその奥にあるもの、認知しているつもりの自分自身のその奥底にあるものを見つめ表出します。

◆緒方敏明は、陶による建築彫刻のなかに透明感をたたえた泉のような空間を生み出し、それは繊細な作家自身の聖域のようです。斧の彫刻家で知られる安藤榮作は、優れた素描家の面を持ちそのドローイングはフォルムの奥に潜むものをなぞるような線で作家自身の感覚の軌跡を思わせます。

◆二人の作品からは、繊細で抽象的すぎて日常ではキャッチできない感覚を現前に見ることができます。

「その奥にある小さな泉」緒方敏明+安藤榮作展

 ■会 期 6月17日〜25日 10:00〜16:00(火曜日休)
 ■入場料 ドネーション(寄付)
 ■会 場 ArtLabo北舟/Northern Ark
      豊頃町十弗355−2
      070-5360-8300
      

48年目の2000湯!

■6月3日、福島県楢葉町の天神岬スポーツ公園キャンプ場で「楢葉キャンプ」(焚き火night&キャンプinならは2023)が開催されました。主催したのは地平線会議の渡辺哲さんや名刹大楽院のご住職の酒主秀寛さんらの焚火night事務局。渡辺さんと酒主さんは双葉高校の同級生で息の合ったコンビです。日本各地から140人を超える参加者が天神岬に集結しましたが、その大半はライダーです。台風2号の大雨で高速道路が各地で通行止になる中、各人が思い思いのルートで天神岬を目指したのです。

◆ぼくはといえば午前4時に神奈川県伊勢原市の自宅を出発。バケツをひっくり返したような大雨の中を20万キロを達成したバイク、Vストローム250で走り出したのです。しかし新東名、圏央道は通行止。東名には乗れたので首都高経由で東北道に入ろうとしたのですが、川口JCTで通行止。外環道に入れたので、外環浦和で降り、浦和から大宮へ。大宮からは県道2号で岩槻に行き、岩槻ICで東北道に入ることができました。東北道を北へ、宇都宮を過ぎると雨は止み、福島県に入る頃には青空が広がっていました。こうして台風2号と大格闘の末に楢葉まで行ったのです。

◆「楢葉キャンプ」は16時、楢葉町の町長、松本幸英さんの挨拶で始まりました。松本町長はライダーで、楢葉町の復興に熱い気持ちを持った方です。そのあとのカソリと司会&進行の渡辺さんとのトークショーでは「楢葉談義」、「浜通り談義」におおいに花を咲かせました。イベントが終了すると大焚火会の開始。これが「楢葉キャンプ」最大の魅力なのです。焚火を囲んで参加者のみなさんと飲んで騒いで語り合いました。折しも満月の夜。月明かりに照らされてキラキラ揺れる太平洋を見ながらのキャンプは最高の贅沢でした。

◆翌日は「楢葉キャンプ」にも参加した『ツーリングマップル』編集長の舛木信太郎さん、『ツーリングマップル関東甲信越』担当の中村聡一郎さんと3台のVストローム250で福島県内をまわりました。楢葉から国道6号で浪江へ。浪江からは国道114号で福島まで走りました。東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染で、長らく二輪車の通行が禁止されていた国道114号ですが、東日本大震災から12年目にしてついにその規制が解除されたのです。

◆福島からは国道4号で二本松へ。二本松からは国道459号で浪江に向かいました。この国道459号も二輪車の通行が禁止されていましたが、先月、その規制が解除されてバイクも走れるようになりました。浪江への途中、日帰り湯の名目津温泉に入りました。小さ目な湯船の無色透明の湯につかったときは、もう感無量でした。この名目津温泉が我が「温泉めぐり」の第2000湯目になるのです。

◆1975年2月21日、広島県の湯来温泉「湯来ロッジ」の湯に入りました。それを皮切りに「日本の全湯制覇!」を合言葉にして日本各地の温泉をめぐり、48年目にして2000湯を達成したのです。ぼくは20代の大半をついやして「アフリカ一周」(1968年〜1969年)、「世界一周」(1971年〜1972年)、「六大陸周遊」(1973年〜1974年)と、バイクで世界を駆けめぐりました。

◆その反動もあって、「六大陸周遊」を終えたあとは無性に日本を見てまわりたくなったのです。さんざん考えた末に峠と温泉を二大テーマにして日本をまわりはじめたのです。次の目標は3000湯の達成です(「温泉めぐり」とは別に2006年11月1日から2007年10月31日までの1年間をかけた「300日3000湯計画」では全部で3063湯の温泉に入りました)。

◆国道459号で浪江町に入り、国道399号に合流。これで国道459号も全線、走り切りました。最後は国道399号です。浪江町の津島で国道114号と交差し、飯館村との境のいちづく坂峠に到達。峠の浪江町側は高濃度の放射線量でたびたびニュースにも登場した赤宇木です。峠を下ると長泥ですが、ここもかつては80〜90マイクロシーベルトという高濃度の放射線量を記録したところです、現在は激減し、線量計は小数点以下の放射線量を表示しています。

◆長泥から北に行くと陽の出石峠を越え、県道12号との交差点に出ます。これで国道399号の二輪車通行禁止区間も全線走りきりました。東日本大震災から12年目にして、被災地のすべての国道の規制が解除されました。もう規制区間はありません。それにしても12年というのはあまりにも長い年月でした。

◆県道12号で八木沢峠を越えて南相馬に出ると、今晩の宿の「ほっと大熊」へ。大浴場にゆったりまったりつかりましたが、この一帯が大熊町の復興拠点。新たな町並みが誕生しています。翌日は大熊から国道6号を北上して宮城県に入り、亘理町の荒浜から名取市の閖上へ。閖上の被災地を見下ろす日和山の山上で舛木さん、中村さんとガッチリ握手をかわして別れ、ぼくはさらに北へ。仙台から松島、石巻、気仙沼を通って岩手県に入り、三陸海岸の陸前高田、大船渡、釜石、宮古を通って久慈まで行くのでした。[賀曽利隆

サポートする側の喜び(SSTRに参加して)

■土手から見下ろす。暮れなずむ浜に光の帯がどこまでも続いている。帯の正体は日本中から石川県の千里浜を目指して集まってくるライダー。その数、8日間でなんと12000台。風間深志さんが主催するSSTR(サンセット・サンライズ・ツーリング・ラリー、太平洋岸から夜明けとともに走り出し、日没前までに日本海岸にたどり着く)が5月20日から28日までの期間で開催された。2013年に130台で始められたこのシンプルなルールのイベントは、11年後に100倍の参加数となった。2012年「がれきの学校」という被災地支援イベントの際、控室で風間さんがSSTRの構想を子供のように語っていたのを覚えている。あの時聞いた夢は今現実のものとなっていた。

◆今回、ゲストトークの依頼を受け戸惑った。バイクに乗り始めたころから風間さんは舞台の上にいる人で、僕は観客の一人だったからだ。しかもステージである。似た状況を想像すると、富士山マラソン(河口湖)が思い浮かぶ。42キロを走り終えて、ゴールゲートのすぐ脇で開催されているトークショーを聞くか? 正直、それどころじゃない。思うにこれってかなりの難題なのでは。

◆僕の出番が24日水曜日と決まり、風間さんより「どうやって現地に来ますか」と問われる。「ライダーに話すには自分も体験しないと話す資格がないと思います」とバイクでの参加を決める。当日朝、東京湾スタートだと途中でトラブルがあるとたどり着けない。そこで22日に東京を出て愛知県の伊良湖岬に宿泊。23日、岬よりスタートとする。伊良湖岬は何十年ぶりだろう。考えるとワクワクし、すでに旅心が動き始めている。

◆23日午前4時20分、岬の駐車場にはすでに2台のバイクが止まっていた。一人は青森、一人は浜松から来たという。また千里浜で会いましょう、と、二人に手を振り走り出す。千里浜に到着したのは17時ごろ。強い海風が吹き寄せる日本海が見えたとき想像以上に熱い気持ちになり、立ち尽くしてしまった。海から海。2005年に北米大陸横断ランニングで大西洋を見た時と似た感慨がある。

◆ゴールではガンを克服した自転車世界一周のシールエミコさんが待っていてくれた。1996年にナイロビで会ってからのお仲間。こんなところでまた会えるのも不思議な縁である。トークは結局、24日の夕刻のステージと25日の朝、ゴール真上のカフェと2回になる。この2か月ほどずっと考え続けてきた舞台が終わると、全身から力が抜けた。

◆夕刻、昨日エミコさんが出迎えてくれたゴールゲートへ行ってみる。今日も日本中からライダーがこのゴールを目指して走ってくる。ぼんやりと見てるとライダーが僕にガッツポーズをした。慌てて同じポーズを返す。瞬間、その人の気持ちがはっきりと感じ取れた。昨日の自分もそうだった。ゴールしたとき「お帰り」と言ってもらって嬉しかった。自分が振った手に答えてくれてうれしかった。自分がゴールした姿を見届けてくれた人がいて嬉しかったのだ。

◆ライダーは次々とゴールしてくる。全身で喜びを表す人もいれば、無表情な人もいる。それでも疲労と安堵と達成感が余計な仮面をそぎ落とし、喜びだけが体から溢れている。ゴールゲートは幸せのパワースポットで、近くに立つだけでサポート側も存分に喜びを受け取れる。不思議な感覚だった。サポートとは奉仕ではないのだ。僕は今までサポート側の気持ちがよく分からなかった。夢は自分でかなえるもので、人にかなえてもらうものでも誰かの夢に相乗りするものでもないと思っていた。だけどそれは恵まれた環境にいる者だけが言える言葉だ。

◆昨日、エミコさんは「私は本当にしんどかった。応援してくれる人がいないと無理だった」と本音を吐いた。今まで一度も聞いたことない言葉だった。ガンがエミコさんの中で過去になったと思った。風間さんは事故の後遺症でステージ裏の段差を越えるのに苦労して「オレはモタモタしてるヤツ見ると腹立つんだけど、今は自分がモタモタしてる」と寂しそうに笑った。僕と違って、二人は応援される側もする側も両方の気持ちが分かるんだと思った。

◆考え事をしていると、なぜか周りに出迎えのボランティアがいない。なのにバイクはゴールしてくる。自分が出迎えなければ、この人のゴールは寂しいものになる。そう思うと場を離れられなくなる。バイクが途切れた時に、携帯の位置情報を開けてみる。ナビが参加者の現在地を教えてくれる。日没まであと10分。羽咋市内に入っているライダー、もう少しだ。んん? この人はまだ岐阜県? どうしたんだ?  点は点ではなく人である。テレビで見た被災地のビッグデータを思い出す。津波が来る前に移動していた点は津波到達後に消えてしまった。気持ちが飛んでいると、またバイクが来る。

◆SSTRから2週間が過ぎた。思い出すのは、苦労したトークではなく、ゴールでライダーたちを出迎えた記憶だ。[坪井伸吾


地平線の森

『北関東の異界  エスニック国道354号線 絶品メシとリアル日本』

室橋裕和著 新潮社刊 1600円+税

■北関東の群馬県高崎から太平洋岸の茨城県鉾田市まで続く国道354号線周辺の外国料理店を中心に足しげく通って取材をすすめながら、そこで暮らす人々の生きざま、たくましさ、苦難などをユーモアも交えて語りつくす驚きばかりのルポルタージュ。国ごとの飲食店や寺院には人が集まり、日本に在住している外国人に話を聞く機会が得やすいので、飲食店と寺院に出かけては話を聞きだしていく。

◆出てくる飲食店・国々は、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ロヒンギャ、フィリピン、インドネシア、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、ブラジル(日系人含む)、ペルー(日系人含む)、ボリビア、韓国、中国、インドと多彩で、地域ごとに同じ国同士や同じ宗教同士で集まっていることが分かり、日本人住民との交流にも苦心する。

◆宗教施設は、イスラム教徒とモスク・ハラール食材、タイ寺、スリランカ寺、シーア派モスク、ヒンドゥー教寺院、シク教寺院などが紹介され、これら寺院等での催しが在留者たちの交流の場になり、また近隣日本人との交流にもなっているものも紹介される。

◆例を挙げると、笠間のタイ寺院が地元の農家の住民とうまく交流しているが、それは一人の僧が近隣を毎日歩き回り、住民とあいさつを交わし、交流を深めようと努力した結果だった。他の地域でも日本人とうまくやっていくには長い年月を必要としたらしい。しかし、必ずしも他の多くの地域や宗教施設が近隣住民とうまくいっているとは限らないという。

◆外国人たちは就労のために日本に来ているが、354号線周辺には日本人では集まりにくい労働を必要とする工場(スバル、三洋電機〈現パナソニック〉、それらの下請け工場、古川配電盤茨城団地など)があり、また、栃木県小山市は中古車オークションの大規模なものがあり、中古車輸出業を始める人たちも集まってくる。その他、建設現場、農家での労働、出身国の飲食店経営・食材店経営などをする人たちも出てくる。さらに、女性は介護施設、老人ホームなどで介護の仕事をする。

◆こうして集まった外国の人びとは、日本人が使わなくなったシャッター街の店舗を借りて飲食店や食材店を開いたり、耕作放棄地の利用で東南アジアの野菜を育てるなど、資金をあまり必要としないが労働力だけで稼げる仕事を開拓していく。日本人が使い捨てた夢の後を外国人労働者が再利用して活気を取り戻すという構図。こうした外国人は、工場や農家では、景気の調整弁や、繁忙期だけ雇える労働力として、経営者にとってはなくてはならない存在になっている。

◆これら外国人の身分は、出稼ぎよりも技能実習生、派遣会社から工場労働、難民申請も却下で「定住者」または「仮放免」、「特定活動」の許可を得るなどが多い。また「偽装難民」というものも。そして不法(フホー)が重宝される現場も多い。「茨城の農業を維持していくためにフホーが必要なのです」==ベトナム出身の人びとが支える農業。==繁忙期だけ働いてもらえる。さらに日本人の配偶者を見つけて仕事を続ける人も多い。

◆日本で住んでいながら保険に加入していないとか、年金を払い込んでいないとか、身分として生活保護の対象にならないなどの社会保障制度が適用されない心配が、彼らの老後の心配ネタになっている。さらに、移民の子供たち2世3世については長年の受け入れをしていた自治体は制度が整っているが、そうでないところは社会的なルール、学校教育や日本語教育の問題が今でもある。

◆全編を読み終えて、肉体労働(だけではないが)としての労働力を担っている外国人労働者によって農業、製造業、建設業、介護などが成り立っている日本社会が見えてくる。仕事を探すのは大変ながらも自分が住みよい街を探し、たくましく仕事を探し、お祭りでは大いに食べて人生を楽しんでいる人々が目に浮かぶ。この人たちをある程度社会として認めていく方法を確立する必要があるだろうと思う。しかし、フホーを取り締まったら農業がつぶれてしまう。そこをうまく解決する制度を作ってほしいと思う。だって現実に人々が生きているんだから。

◆最後に小山市で中古車業を営むパキスタン出身のハフィズさんが筆者に言った言葉で締でめくくる。日本で暮らす外国人たちは、こんな目で日本を見ていることがわかる。「なんでいまの日本は、学校でしっかり教えないの。親を大事に、先生を大事にって。昔はちゃんと教育していたでしょう。それにね、家族を大切にしよう、ちゃんと結婚して家族をつくりなさいって教えないと。家族をつくらないと国が終わっちゃうよ」[北川文夫

最新刊『独裁者の墓場』の、ご案内

3年前、四谷の我が事務所からオンライン地平線報告会をやつてくれた森田靖郎から久しぶりに手紙が届いた。一度は卒業を宣言した友だが、やっていることは地平線そのものだ。若い人に森田靖郎という生き方を知ってほしいので、本人の了解を得て、以下に紹介させてもらう。 [江本]

■日本を取り巻く安保環境は、戦後最大の危機です。モノ書き50年を見直すつもりで『独裁者の墓場』、恐る恐る筆を執りました。その時頭をよぎったのが開高健さんの一言でした。

◆あれは30数年前です。開高健さんの古典的名作『オーパ!』終了後、空白となっているルポルタージュの連載企画に、腰が引け、煮え切らない私が行きついたのが、繁華街の外れにある老舗のバーでした。

◆長いL字カウンター、酒はウイスキーだけメニューはない……、薄明りの向こうで開高さんはサントリーの“達磨”を抱え、グラスの氷が弾けてやっと私に気づいてくれました。酒の飲み方、酒の勧め方、酒の席での話題、間の取り方、開高流「野生のヒューマニズム」に圧倒され、今時「男が惚れる男」は昭和レガシー“美学の完成形”に酔いしれました。

◆開高さんと私には、いくつかの共通点があります。同郷人ではありませんが、お互い関西生まれの“反骨”、進駐軍と対峙した少年時代、そして韃靼の地平……締めは釣りです。世代的な時間のズレはありますが、「少年のハートで、オトナの財布を持て」と、開高さんの背中を追いながら生きてきたようなものです。私の連載がスタートした年の暮れ、“昭和の巨星墜つ”――。星の降る夜、一番輝く星へ、ひとり献杯のグラスを……その時、あの一言が舞い降りてきました。「背筋を伸ばして、踵(かかと)を上げて、背伸びしろ」。

◆高いところを目指すには、決して踏み台などを使わず、背伸びして手の届く所が、自分の限界点だということでしょう。踏み台は足元が揺らぎ、外されると、転んでしまう……。私の人生、何度も落ちこぼれ挫折しながらも、高望みせず、手の届く限界点まで精いっぱい「背伸び」する……自分の背丈に見合った分相応の生き方を、肝に銘じてきました。

◆思えば、私は70年代安保世代ですが、当時ノンポリを決め込んで貨物船で秘境地を歩き回り、地平線の向こうに逃げ込んだという思いがあります。モノ書きとなり、“安保”を、書かねばと思いつつも、戦後ニッポン人が置き去りにしてきた安保問題……突き詰めれば「この国のあり方」、「日本人であるという生き方」私にはとても、と尻込みしていました。

◆本を書くレベル、読む方もレベルが問われます。私らの分野はシビアで重苦しいですが、一冊丸ごと書き、読み切って、大江健三郎さんの言う“分かる”ということだと思います。

◆齢い80年、一人前の人間になりたくて、「誰も行かないところへ行け」「誰もやらないことをやれ」と、歴史をタテ軸に、旅をヨコ軸に、自分の座標軸を俯瞰しつつも、「オレの一生はヒマ潰し」と勝手気まま、恥ずかしながら未完成の荒削りな人生です。このままでは終われないと、これまでの人生で、今さらながら最も勉強に励む、ていたらくです。

◆江本さん、丸山さん、長野さんをはじめ地平線会議の皆さんには、人生において多くのことを示唆して頂きました。まだまだ遠く及びませんが――自分が生きてきた時代だけは書き残しておこうと、地平線会議卒業後も、性懲りもなく書き続けております。本を一冊丸ごと読み切るのは知識だけではありません。作者の、苦悩、怒り、挫折、悲しみ、喜び……など機微、情に通じる、それが“分かる”ということではないでしょうか。[森田靖郎

『独裁者の墓場』
 森田靖郎著
  出版 アドレナライズ
  税込 770円
  ※購入はインターネットから


通信費をありがとうございました

■地平線会議に会費はありません。通信費(年2000円)と報告会参加費(500円)は頂いていますが、1979年8月に発足して以来額はずっと変わりません。先月の通信でお知らせして以降、通信費を払ってくださった方は以下の方々です。カンパとしていつもより多めに支払い、あるいは送金してくださった方もいます。貴重なカンパは未来を担う若者たちの購読支援に役立たせており、地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

瀧本千穂子(4月の報告会で)/相田忠男/小林由美子(5000円)/小林有人(20000円 コドモトホウコクカイニイケルヒヲタノシミニシテイマス)/河村安彦(10000円)/鶴田幸一(3000円 何年滞納しているか覚えませんが、とりあえず1年分と、拙稿を5月号に掲載いただいた御礼1000円です。どうもありがとうございました)/梶光一(10000円 いつも楽しく拝読しています。私も府中にいますので一度徘徊を御一緒させてください。3年分の通信費とカンパです)/吉岡嶺二(5000円 大病を克服して、5月10日、なんとか85才の峠を越えました。地方の海川を漕いで通り過ぎていった石狩の地に思いを馳せています)/中村易世/久保田賢次(10000円 5年分です)/澤柿教伸/ささき眞/埋田晴夫(10000円 通信費+若い人への支援)/森美南子(78年も生きていろいろ見てきたはずなのに、見ても見えていなかったとハッと打たれる文章に時折出会います。知らない世界を知る楽しさもある通信ですね。それにしても皆さんよく語る。このエネルギーはどこへ行くのでしょう)


地平線のこの磁場を、若い人たちはどう受け取るのだろう

■はじめまして。坂井真紀子と申します。コロナ禍後の小松由佳さんの報告会から、ご縁があって地平線にお邪魔しています。

◆私は90年代に緑のサヘルというNGOの職員としてチャド共和国に5年弱滞在し、その後なんだかんだとずっとアフリカに関わっている。地平線会議の存在は以前から知っていて、まわりには探検・冒険臭の漂う人たちが常にいたけれど、私とは全く縁のない世界だとずっと思ってきた。とにかく地平線の敷居は高かったし。

◆それに、私の立ち位置はいつも観察者で、何かやってやろうという野望はあまりない。チャドにいても、小金井にいても日常は日常、自分の中ではそれは探検とか冒険に類さない。通信費は支払ったものの、この期に及んで、いやいや私は左のつま先をちょっと浸してみるだけだと言い訳したい自分がいる。その一方で、まるで村のつながりの中にいるような妙な居心地の良さも感じる。この抵抗感と一歩進みたい気持ちとの拮抗はなんだろうと長年自問自答してきた。とはいえ、今回、お金を払って講読というステップを踏んだら、ちょっと距離が近くなった気がしている。

◆地平線通信を手に取ってまず圧倒されるのが、巻頭言の密度だ。この文字がびっちり詰まった感じ! 日常から見える時勢を捉えたイントロにぐっと掴まれる。密なのは表紙だけかと思いきや、全ページがメンバーのみなさんの濃厚な文章で埋まっている。思わず笑ってしまう。世界各地から集まってくるこの得体の知れないエネルギー、なんですか、これは? 投稿するメンバーの多種多様なこと、古今東西津々浦々、地理的広がりもさることながら、読ませる文章であふれている。それが何十年も続いているのだから、驚きだ。

◆コロナ禍も乗り越えた時間的蓄積は打算的な思惑でできるものではない。時間に育まれた自然の営みで、いつの間にかシマシマになる地層のようなものだ。探検や冒険というと、メディアで報道されるような「すごいこと」を成し遂げた人に焦点が当たりがちだ。でも、ここでは普通に日常を生きる「探検」も「世間的にすごい探検」も同じ地平に並んでいて、同じ光を放っている。

◆コロナ禍以降3年数か月ぶり、対面の報告会が再開された。私は4月の小松由佳さん、5月の貞兼綾子さんの報告会に続けて参加した。それぞれ2時間30分。他にくらべてもかなり長時間の講演だ。誰にもまねのできないフィールドへの深いコミットに感銘を受けた。これは、参加する側もエネルギーを蓄えておかなければ身が持たないぞ、と思う。ああそうか、聞き手一人一人の胸の内に自分なりの「探検」があって、エネルギーが呼応して増幅されているのだ。

◆この磁場を、若い人たちはどう受け取るのだろう。大学教員という職業柄、若者の旅の仕方を目の当たりにする機会が多いが、「せっかく大金を使ってアフリカに行くのだから、限られた時間でできるだけ効率よくいろんな場所を見たいんです!」との女子学生の言に、ディズニーランドのアトラクションか!と思わず突っ込みたくなる。時短、コスパ、インスタ映え、ああ。デジタルツールの呪縛。「未知の世界と出合う」こと、「今ここにいる」ことが、本当に難しい時代になった。フロンティアが消えた(ように見える)今、若者には受難の時代だ。でもデジタル世代はそれがデフォルト。

◆フィールドワークの授業で、「スマホを持たずに、初めて行く駅のまわりを散策してみよう」と提案したら、「スマホがなくても家に帰れますか?」という質問が来た。「そういうあなたはもっと道に迷った方がいい。絶対帰れるから大丈夫です」。他になんと答えればいいのだろう。

◆スマホという魔法の杖を手にして、人類は万能感に酔いしれている。瞬時にどこにでも行けて、人生は何度でもリセットできて、望んだものはすべて叶って、命は永遠に続く。でもそれは幻想だ。どんなに情報が増えても、実は人生の法則は何も変わっていない。肉体・時間・空間のリミットと向き合って、何かを選び何かをあきらめる。その結果に責任を持つ。痛みと引き換えに選んだ道が、自分を信じる根拠になっていく。スマホにそこを丸投げしては、「これでいいのか」と不安を抱えてうろうろするしかない。

◆手ぶらで体当たりすれば、世界はこんなに答えてくれる。そんな実感を持てた時代は何と幸せだったことか。この地平線会議の磁場は、次の世代に開かれてこそ。先月の報告会で南極から帰ったばかりの澤柿教伸さんと一緒に5、6人の学生さんが参加していたが、ぜひ感想を聞いてみたい。大人の顔色や手練れの英雄談など気にせずに、自分の探検や冒険を愛し語ってくれる若者がどんどん出てきてほしいなと思う。[坂井真紀子

森フェス、今年もやります

■昨年10回目で最終とお伝えした「信州森フェス!」ですが、若手スタッフの要望で今年も開催します。我らが大西夏奈子さんのモンゴル報告も。[長野亮之介

 場所:長野県上田市菅平高原の菅平高原プチホテル・ゾンタック 別館フォーレス館
 日時:6/24(10時〜20時)、25(10時〜17時)の両日。入場無料
 https://morifes.jimdofree.com

この通信の身近さ、心の中への届き方は特別だ

■3年ぶりに再開されたという地平線報告会の様子を5月号で読み、小松由佳さんの報告をやはり直にお聞きしたかったと思いました。

◆地平線通信を読み始めて1年余りになりますが、日本のみならず世界各地から届く旅や冒険の記録、報告を、毎回とても身近に感じながら読ませていただいています。直にお話が聞きたい、声が聞きたい、という気持ちが湧いてくるのもそのためだと思います。

◆子供のころから探検記等を読むのが好きではありましたが、この通信の身近さ、というか心の中への届き方は特別だという気がしていました。何故だろうとも思いましたが、地平線通信の文章の一つ一つが、信頼できるお仲間や先輩方に宛てて書かれている通信だからだろう、と思うようになりました。そして、そういう人の輪を行き交う文章を読ませていただける幸せも感じるようになりました。

◆毎回いろんな方向に感情を揺さぶられていますが、必ず、一度ならず、仰天させられる(例えば5月号、田中幹也さんの「二つの会心の旅」)のも地平線通信ならではです。若い方々が各地で頑張っている様子を読ませていただくのも嬉しいものです。

◆私自身は、うかうかと年を重ねてしまった気もしますが、もうひとふんばりしなければ、と思わせてくれる地平線通信に感謝です。[渡辺三知子 姫路市]


地平線会議からのお願い

■最終ページの報告会予告イラストにあるように、今月の報告会はいつもの新宿スポーツセンターではなく、毎月、通信の印刷、封入作業に使わせてもらっている榎町地域センターの4階の「多目的ホール」です。ここは、土足禁止で会場に入る際は備え付けのスリッパに履き替える必要があるのと、会場わきに並べてある椅子を引き出して会場に並べる作業も自分たちでやらなければなりません。いつもと勝手が違いますがどうかご理解ください。

◆ただ、毎月抽選で会場を借りられる日が決まるので毎月毎月同じわけではないこともご了解ください。榎町地域センターを会場にしていいことは遠かった二次会場の「北京」が歩いてすぐ、のところにある点です。これは行ってみればわかりますが、大きな利点ではあります。

◆なお、江本が引っ越しして遠くなったのと多少歳をとってきたので二次会は「原則23時解散厳守」とさせてください。


森井さんのお墓参りをしてきました

■森井祐介さんが逝って2か月半。5月30日、妹のしのぶさん、弁護士の岡本理香さん、それに車谷建太君と4人で巣鴨の染井墓地に行ってきました。

◆以前、三輪さんが書いてくれたように、染井墓地の一角、というよりは外れの方に「すがも平和霊園」という区画があり、そこだけで7000もの御霊がねむっている、とのことです。森井さんはそのひとりになっていました。芥川龍之介、谷崎潤一郎らのお墓がある慈眼寺とはほぼお隣さんで、読書家だった森井さんに相応しい場所です。

◆一角にこの墓地に眠る方々の名前が彫られた掲示があり、そこに森井3兄妹の名が(まだお元気なしのぶさんの名も)刻まれていました。岡本弁護士が用意してくれていたお花を捧げ、手をあわせました。森井さん、よかったね。落ち着ける場所で。

◆染井墓地は、私には特別感慨深い場所でした。18才から23才まで毎日通った東京外国語大学はこの墓地をぬけてすぐのところにあったからです。横浜に住んでいた私にはほんとうに遠かった。まずバスで30分かけて横浜駅まで行き、京浜東北線で田端まで。そこで山手線に乗り換えて巣鴨駅へ。ここから歩いて染井墓地を通り抜けてようやくキャンパスにたどり着くのです。家から片道2時間。帰れない日は山岳部の同期の下宿に泊まらせてもらったものです。毎日往復4時間ですからいっそ下宿したかったが家の都合でそうはできなかった。

◆その代わり、同じ横浜にお住みだったロシア語のタチアナ先生とは時に同じ電車で乗り合わせ雑談まじりの“授業”を受ける幸運もしばしばありました。なにしろ長い時間なので先生にも多少は退屈しのぎになっていたかも。私は当時からロシア語会話だけはまずまずでした。今は、府中市に移転した外語大。いつもその脇を通って徘徊しているのも不思議な縁です。

◆お墓参りのあと、しのぶさんの希望で行きつけのファミレスで食事しました。しのぶさんは今では私や車谷君とここに来るのが一番楽しみ、と言っていますが、そう頻繁には行けないのが辛い。でも、これもご縁ですね。[江本嘉伸

高世仁さん 講演会のお知らせ

ジャーナリストの高世仁さんが、小金井市の市民講座で2回に分けて中村哲さんを語ります。小金井市在住在勤が条件ではありますが、席に余裕があり、高世さんの知り合いであれば参加可能とのことです。

市民講座「中村哲医師が命がけで私たちに教えてくれたこと―平和そして人の道―」
 7月8日(土)「中村医師にとって平和とは何だったのか」
 7月15日(土)「中村医師の生き方に学ぶ」
  いずれも14時〜16時
  小金井市公民館緑分館(小金井市緑町3-3-23 042-387-7301)


今月の窓

知り続けること 感じ尽くすこと 考え抜くこと 遣り通すこと

 ベーブ・ルースのグローブのような手を持つ人々へのレクイエム

山田高司 

■今年の春の拝島の我が部屋は、例年にもまして多摩川べりの匂いが充満している。クサギ、ニセアカシア、クワ、ドクダミ、ユキノシタ、スイバ、ギシギシ、イタドリ、オオバコなどなど、山菜薬草50種以上。オイカワ、カワムツ、ウグイ、フナ、コイ、ヤマメなどなど、川魚10種以上を獲って作って食べた。拝島付近の多摩川べりは山川草木鳥獣虫魚にことかかない。小生の縄文遊び式狩猟採集ワザはほとんど違法なので、鳥獣虫には手を出せないのが残念だが、植物と魚だけでも食に彩り添えるには充分。

◆2017年11月上京以来、高野秀行君とのイラク行以外は、奥多摩で山仕事の合間に、少しは山川の恵みを採って食べていた。今年は4月で65歳になり、定年退職して、時間にゆとりができた。下拵えに手間がかかる山菜には手を出さなかったが、今年は食えるものはなんでも食ってみた。部屋は草木と魚臭くなった。

◆ひとまず定年退職にあたって、なんとも感慨深い。50年前の初志と45年前の決意を、なんとか遣り通した満足感は充分ある。以下、我が肉体労働クロニクル。

◆50年前、1973年。私は四国最南端土佐清水市の端っこの中学3年生だった。海岸の小学校から30人、山間の小学校から15人の、合わせて1学年45人2クラスだった。親の職業は、農業、漁業、林業が大半で、他に役場、教員、警察、医者、商店など。最近、交通距離で東京から一番遠い市で売り出そうとしたくらい辺境だったからか、貧しい家庭が多く、中学を出て働くものが10人以上いた。みんな、小さいときから、家の農作業を手伝って、手の指が山芋みたいにごつかった。高校生になって、仲良かった友人から「仕事はきついけんど、頑張っています。山田もスポーツと勉強頑張って、偉くなってください」なんて手紙がくると涙が溢れた。このとき、なぜか、自然相手に体を使う仕事に就こうと決めた。体を使って働かないと申し訳ない気がした。そして、必然的に実学を重んじる東京農大を選んだ。

◆45年前、1978年。東京農大進学、地球の辺境に興味があったので、体力知力をつけるため探検部に入った。幸か不幸か農大探検部20期にあたり、4年時の1981年、創部20周年記念遠征として南米大陸三大河川カヌー縦断をやることになった。3年間は年間150〜200日の野外活動に明け暮れた。創部メンバーの向後元彦先輩は今も続くマングローブ植林をアラビア湾で始めたころだった。同じく創部メンバーの故国岡宣行先輩はテレビディレクターとして「24時間テレビ」を始めていた。国岡さんは「いいか、農大は首から上では、東大、京大や早稲田、慶應にはかなわんからな、首から下で勝負せにゃならん、鍛えておけよ」と、よく言われた。

◆私は、我が意を得たりだった。そのために農大の、それも探検部を選んだのだ。自然の近くで体を使って働くことを生涯の仕事にすると決意した。遠征用の資金集めは、もっぱら肉体労働。日本は高度成長期真っ最中で学生アルバイト募集はいくらでもあった。中でも、新宿駅、渋谷駅の地下街や新宿高層ビルが建設ラッシュで、足場組みと解体の肉体労働は夜間やると賃金が他の2倍(日当1.5〜2万円)くらい良かった。夜間労働の後、新宿ションベン横丁でいっぱい引っかけ、授業に出て寝ていた。教授には嘆かれた。大学卒業後、地球一周河川行の第一弾、パンアフリカ河川遠征の資金稼ぎも、群馬県嬬恋村キャベツ畑と新宿青果市場荷担ぎだった。

◆30年前、1993年。滋賀県西部、琵琶湖を見下ろす棚田と段々畑の農場にて。農大探検部同期で日本の川と南米行の仲間、竹村弘君の農場。「完全無農薬、無化学肥料で野菜作ってきた。84年以来やから、かれこれ10年。高い値で売って儲けてはる人もいてるけど、それでは金持ち相手で意味ないやろ。ワイは30家庭くらいと契約してスーパーと同じ値段でだしてる。その代わりハネ品もとってもらう。仕事の8割くらいは、土づくり、草引き、虫取りやな。ほれで、年収は200万円台。一生懸命働いて契約家庭増やし300万円超えた年もあったけど、体がきつい、持たんわ。まあ、このくらいが、自然に対して、フェアやと思う。消費者の家庭の子供から、後継者生まれんかと期待してんねんけど、今のところゼロ。この収入では、今後も厳しいやろな。まあ、体使って、いい汗かいて、朝起きて、気持ちええねんからそれだけでも有難いと思うてる。山田はアフリカでどや」

◆「うん、91年から、チャドで砂漠化防止植林やってるけど、現地の人と一緒に泥まみれ汗もつれでやってる。ヨーロッパの常識では、大学出の管理職は肉体労働はやらんらしい。一緒に体使わんと、わからん事いっぱいあるけどな。幸い、現地の人たちとは、本当に上手くやれてる。ただ、他のヨーロッパのNGOの連中からは、嫌がられている。あんたも、山田みたいに一緒に体使って働けと、言われるらしい。そうしないと、この暑いアフリカの野外で働くことが、どれだけ大変かわかるわけないと。まあ、チャド人でも、高学歴の人は肉体労働しないがね。肉体労働は階級の低い人の仕事と固定観念があるようだな。同じく、現地の人たちとフェアに付き合いたいから、俺はこれからも、自然に向き合い肉体労働現場におるよ」。「日本でも、おんなじやろ。安全な食いもん作ろう思うたら、体使うしかないけどな。今、日本の田舎でも外で人見んやろ。機械つこうて、農薬、除草剤、殺虫剤、化学肥料使うたら、外で働くこと、ぐんと減るねん」。

◆2年前、2020年、11月。滋賀県竹村農場収穫祭。「おお、おまんら、ええ手になったなあ。まるで、ベーブ・ルースのグローブや」「???」「ほれ、大リーグの大谷がベーブ・ルースと比べられる時、写真にベーブ・ルースのグローブも写ってるやろ。巨大手袋みたいなあれよ。100年前のグローブ。45年、毎日、土いじり、草ひき、虫取りすれば、そんな手になるんやな」「昔の百姓は、みんなこうやった」「アフリカの人も同じや。さらに足も登山靴みたいな人もおったな」。今年も、6月下旬から小笠原に行く予定。定年退職したけれど、肉体労働は続けるつもり。少々手を抜いて。

◆いつからか、日誌に時々書きつける箴言がある。「学びて、時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや」。そのために、自分に課してきた4つの事。知り続けること。感じ尽くすこと。考え抜くこと。遣り通すこと。この4つを首から下の体で遣り通した。親友の竹村とは、言葉は多くなくても、わかりあうことが少なくない。海外への行き帰り、故郷へ帰省の途中、土産話を持ってよく寄った。危険地帯に行っても、死ななかった幸運の女神ならぬ男神だ。


意味ガラス

《画像をクリックすると拡大表示します》



あとがき

■昨夜の「長野淳子さん祥月の集い」で、三味線を披露してくれた車谷建太君は実はお姉さんとともに76歳の母上を連れてのロサンゼルス行から帰ったばかりだった。何しにロスへ? それはもちろん大谷選手応援のためですよ。なんと一家は3試合も見たんだって。そして、大谷君の2本をしっかり現場で見届けた。よかったねえ、と思いました。こんな歴史的な出来事、あまりないよ。

◆車谷君だから余計によかったねえ、と言いたいのだと思います。昨夜話してしまいましたが、彼とはおととい、きのうと紙の量についていろいろ相談したばかりなんです。地平線通信はウェブサイトでも読めますが、本体は紙です。たとえば今月は600部刷る予定ですが、その場合、何百枚の紙が必要か計算しなければならない。車谷君はその準備をいつもやってくれる。毎月どのくらい紙が必要なのか、なくなってきたらどうするか。

◆そして、大変なのが印刷。榎町地域センター2階の受付わきの小部屋でひとり(時には応援つきで)黙々と印刷、そして折りを続けるのです。時には森井祐介さんの家まで版下を取りに行ったりもした。ついでに言うならば車谷君が自分の車を運転してきてくれることがどんなにありがたいか。重い紙の輸送。大谷選手、建太君一家の前でのホームラン、ありがとう。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

幻の蛇を追って

  • 6月30日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「ツチノコって、古事記にも登場する日本の古典的なUMA(謎の未確認動物)なんですよ」と言うのはドキュメンタリー映画作家の今井友樹さん(43)。民俗文化映画研究所の故・姫田忠義氏に師事して後に独立。日本各地で生活技術や精神文化にまつわる人の営みを映像に記録してきました。

今井さんがこの9年に渡って追い続けてきたのがツチノコです。ビール瓶のような胴体と言われるこの謎の蛇は今も全国で目撃談が絶えず、中でも今井さんの郷里、岐阜県東白川村が一番多いのです。

「'89年頃、僕が小学3、4年生の時に全国的なツチノコブームがあり、大人達が楽しそうに探し回っていた。ツチノコはロマンじゃ!って。その姿に憧れ、僕等も探して、実は…」。

子供の頃の強烈な体験を確かめる為に目撃者を訪ね、検証を重ねてきました。その経緯は来春公開予定の映画として製作真最中です。

今月は今井さんにツチノコを追う情熱とその面白さを語って頂きます!


地平線通信 530号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2023年6月19日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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