2024年1月の地平線通信

1月の地平線通信・537号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月17日。2024年はじめての地平線通信をお届けする。新聞を取りに降りると(普段は連れが取りに行く)池には氷が張っている。東京の気温1度。この通信を出す記念に目の前の浅間山に登り、あらためてこの1年の武運、つまり歩きまわる力の維持を祈った。災害関連死含め6434人が亡くなった1995年の阪神淡路大震災から今日で29年。神戸市の遊園地には「1.17」と「ともに」という文字のかたちに灯籠が並べられたそうである。ん、「ともに 」って?

◆元日は今年も信州上田で迎えた。午後になって近くの松尾宇蛇神社、通称白蛇神社に初詣りした。いつもながら急な坂道である。以前は一気に神社まで行くところ今年は途中で一息つかないと登りきれなかった。この急坂、今後も私の脚力テスト地点となるであろう。「白蛇さん」で手を合わせ、2024年の平和を祈る。ここで連れと別れ、食品スーパーで落ち合うこととした。太郎山への細道をほんのすこしたどると、御神体の「白蛇さま」が安置されている祠に出た。元日とあって扉が開いている。自然木にしてはよくぞ見つけたと思う、 身をくねらせた真っ白な蛇の姿が見事だ。

◆ゆっくり出たのでもう4時をまわっている。元日も営業しているスーパーはそれなりの賑わいだった。連れと合流して店内をゆっくり歩いているとグラグラグラ、と激しい揺れがきた。これはでかくなるぞ、と身構えるとゆっくり静まっていった。帰宅すると上田は「震度5弱(翌日4と修正)」だったが、能登半島を中心に震度7の揺れがあり、各地で深刻な被害が起きたとのこと。正月早々なんということか。

◆ただちに救援活動が始まった。しかし、翌2日午後、羽田空港で能登の被災地支援のために待機していた海上保安庁機に、着陸してきた日本航空516便が滑走路上で激突、炎上するというすさまじい惨事が起きた。海保の乗員6人のうち機長を除く5人が亡くなったが、炎上した日航機の乗客、乗員379人は、全員無事だった。飛行機が燃え尽きるまで時間はなかったのに全員無事。乗員たちの沈着な誘導ぶりが海外からも絶賛された。

◆2024年はこのような災害からスタートした。「令和6年能登半島地震」と命名された地震の被災者支援がさまざまなかたちで始まっている。「ともに」は、阪神淡路大震災の被災者から能登の被災者へのメッセージなのである。

◆2024年は世界的に選挙の年だそうだ。まずこの14日、台湾で注目の総統選が行われ、蔡英文総統を引き継ぐ与党民進党の頼清徳副総統が当選、香港の二の舞はごめんだ、とする台湾の民意を表明した。しかし、同時に行われた立法院(定数113)選挙で与党民進党は51議席にとどまり、今後の政権運営は黄信号が灯った感じである。台湾とどうつきあってゆくのか。日本にとって重大な決断を迫られる場面が近いかもしれない。

◆きのう16日はアメリカ共和党のアイオワ州の党員集会で党の大統領候補を決める党員集会が開かれ、あのトランプが圧勝したそうである。世界に大きな影響力を持つアメリカだが、民の意識は極端に内向きのようだ。「MAGA(Make America Great Again)」というトランプ用語がいまなお人々の心をつかんでいる。まもなく3年目に入るロシアのウクライナ侵攻だが、ウクライナが頼みとするアメリカの軍事支援が共和党の反対で止まっており、はじめて「ウクライナ敗北」の可能性がささやかれている。

◆そして、ガザ。10月7日(私の誕生日なので明確に覚えている)、パレスチナ軍事組織ハマスの奇襲攻撃で始まった激しい戦闘。「ハマス殲滅」を掲げるイスラエル軍はパレスチナ人の住むガザ地区に容赦なくロケット弾を撃ち込み、1月15日現在、ガザの死者は24000人を超えた、と伝えられる。東京23区の6割の狭い土地に200万人のパレスチナ人が住むというガザ。一体、ここはどんな暮らしがあったのか。はからずも1本の映画が教えてくれた。

◆1月14日、新宿歴史博物館(11月に500回報告会をやった場所)で地平線会議主催でドキュメンタリー映画『ガザ 素顔の日常』が上映された。丸山純さんが見てこれは地平線の仲間たちが見るに値する、と動き、実現した。通信に載せる時間もない慌ただしさだったが、45人が参加して2019年、アイルランド,カナダ、ドイツのドキュメンタリストが協力して制作した92分の映像を見た。

◆さんざんイスラエルにより破壊されたボロボロの町。さまざまな人が登場するが、私は海辺で遊ぶガザの市民たちの平和な日常の風景に強く惹かれた。閉鎖された空間に閉じ込められた人々の人生。海はそこから心を解放できる唯一の場所なのだ。よく見ると人間と一緒に馬まで海に入っているではないか。泣きそうになった。映像の素晴らしさを教えてくれた上映会は、「地平線キネマ倶楽部」の名で実行された。どんなねらいか。丸山君にしっかり書いてもらおう。皆さん、今年も地平線会議をよろしく。[江本嘉伸


先月の報告会から

自由への道のり

高世仁

2023年12月23日 榎町地域センター

■前回の「つなぐ 地平線500!」を終え、節目となる時期を迎えた地平線報告会。そこに続く501回目の報告会に登壇してくださったのは、ジャーナリストの高世仁さん。高世さんは、『中村哲という希望』という書籍(佐高信さんとの共著)を出版したばかりだ。今回の報告会は、10月に現地入りしたウクライナのレポートのみならず、中村哲さんの思想にも触れながら、今の日本人の価値観や本来あるべき姿というスケールの大きな話へとつながっていく。会場に持ってきてくださった書籍20冊は、あっという間に完売してしまった。参加者全員に多くのことを考えさせる、2023年を締めくくるのにふさわしい報告会となった。

日本人ジャーナリストが現地入りする意味とは

◆高世さんは、2023年10月にウクライナ入りして取材を行った。その取材の成果は、BS11の番組『報道ライブ インサイドOUT』で放送され、ネットメディア『デイリー新潮』『JBプレス』でもウクライナ取材記事を連載中だ。高世さんとともに現地で取材したのは、ジャーナリストの遠藤正雄さん。彼は、なんとベトナム戦争の取材経験まである、百戦錬磨のベテランだ。2022年のアフガニスタン取材でも、二人はタッグを組んで取材している。

◆ウクライナ戦争が勃発してから、はや2年近くが経った。国際的な関心は薄れつつあるが、極東の日本に住む私たちにとっても、他人事では済まされないのだと高世さんはいう。日本は、表向きでは戦争をしている国家に武器の提供を禁じているのだが、ウクライナに武器を提供したアメリカに、日本は補充用の武器を輸出している。私たちの税金で賄われている日本の防衛費を使って、間接的に戦争に加担しているということを、日本人としてきちんと知る必要がある。そのために、海外メディアの報道に頼るのではなく、日本人ジャーナリストが日本人の視点で現地に行くことに意義があるのだ。

◆今回のウクライナ戦争は開戦後2年だが、実はそれ以前からウクライナは戦争状態にあるという事実をご存知だろうか。この戦争の背景について、高世さんが報告会冒頭で解説してくれた。1991年の独立以来、ウクライナ政府は汚職のまん延や経済停滞といった数多くの問題を抱えており、2014年2月には不満が高まった市民が蜂起し反政府デモ(ユーロマイダン革命)が発生。それをきっかけにロシアの介入と武力衝突に発展して以降、停戦協定と協定違反の衝突が繰り返されている状態が続いていた。そして最終的に、2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻を開始。ウクライナ人からすれば、2014年のユーロマイダン革命以降、10年もの間、断続的に戦争をしていることになるのだという。

“無理ゲー”な戦争に挑むウクライナを支えるボランティアの存在

◆今回、高世さんと遠藤さんは、ウクライナ側に従軍して取材した。現地に入ってまず驚いたのは、前線の最も危険な場所でも、市民は日常生活を続けているということだという。朝の通勤ラッシュもあるし、夜は劇場でオペラが上映され、レストランやカフェも営業している。長期化している戦争に耐えるため、ウクライナ政府も経済を回そうとしているのだ。むしろ、戦時下でありながらも、今を緊急事態として過ごすのではなく日常生活を続けるということに、ロシアへの強い抵抗姿勢を感じると、高世さんは語る。

◆そして、ウクライナはロシアに対して圧倒的に不利な条件下で戦わざるを得ないという、この戦争の構造についても高世さんは言及した。ロシアが制空権を持ち、武器の質や量、兵士の数もロシア軍の方が上であるにも関わらず、ウクライナは、ロシアからの攻撃に対してロシア本土への反撃が許されず、専守防衛することしかできないのだ。攻撃を受けている土地は全てウクライナ国内であるため、工場も戦災を受けて国内でまともな生産活動ができない状態が続く。一方のロシアは軍需生産をどんどん進めることができている。ロシアの軍事作戦を止めるための敵基地攻撃も許されず、より飛距離のある高性能な武器の使用も許されない。アメリカやEUも、せいぜい防衛戦に耐えるような武器しか渡さないのだ。いわば手足を縛られたような状態で戦争をしているため、アメリカが援助を打ち切るとなると、ウクライナはかなりの苦境に立たされることになるだろう。

◆ゼレンスキー大統領に対する支持も決して高くなく、政府支持率は39パーセントという、戦争中の国家としては異様な低さだ。公約として掲げた汚職退治に今一つ成果をあげられていないと、国民の評価は厳しい。市民も政府を信頼しておらず、兵士たちを支える物資もボランティアによって提供されているという事態を、高世さんは現地で目の当たりにした。ウクライナは、外国からの軍事援助とボランティアによってなんとか支えられているのだ。

◆ウクライナ戦争を、日本人はどう見ているのか。侵攻開始直後の2022年3月に、テレビ朝日の『モーニングショー』で、レギュラーコメンテーターの玉川徹さんが「ウクライナは、すぐに停戦すべきだ。命を守ることよりも大事なものはない」と発言。2023年10月には『通販生活』が、表紙でウクライナ戦争を猫の喧嘩に例えて停戦を求めるメッセージを出したことが話題を呼んだ。《プーチンの侵略に断じて屈しないウクライナの人びと。(中略)人間のケンカは「守れ」が「殺し合い」になってしまうのか。ボクたちのケンカはせいぜい怪我くらいで停戦するけど。見習ってください。停戦してください》。しかし、本当に、“命よりも大事なものはない”のだろうか。高世さんは、中国の属国になることに激しく抵抗した香港、軍事政権に抵抗したミャンマーなど、命よりも大切なものを守るために身を投げ打って主張し、抵抗を続けた人々を見てきた。そんな中で、今の日本人が持っている価値観に、違和感を感じるようになってきたと語る。

わたしたちが暮らす日本社会はこんなにも絶望的

◆今の日本はどんな国になっているのかを考えるにあたり、高世さんは「世界価値観調査」などのデータから、いくつかの興味深い調査結果を紹介してくれた。私たちは、自分が普段考え行動していることを当たり前だと感じているが、他の文化圏や民族と比較してみて初めて、日本が今どんな事態に陥っているかが見えてくるのだ。

◆「国のために戦えますか?」という問いに対して、日本はダントツのビリ。これこそ平和国家日本のあるべき姿だ、との見方があるが、続いて紹介する「愛国心はありますか?」という質問に対しても、日本人は最下位という結果に。これは、日本人が平和について特別な信念があるというよりも、国のことなんてどうでもよく、自分には関係ないという考え方が読み取れる。さらに他にも、「ここ一か月人に優しくしたか、慈善活動や寄付をしたか」「政府は貧しい人の面倒を見るべきか」「自分の人生は自分で思い通りになると思うか」という問いに「はい」と答えた人の割合も、軒並み最下位レベルで、これは金融危機や情勢不安に陥った国と同水準だ。豊かで平和なはずの先進国としてはとてもあり得ないような結果となった。

◆国なんてどうでもいい、困っている人や貧しい人を助けない、助ける必要がない……そんな考え方が大多数という、これらの日本人の倫理観の崩壊の原因は、「コスモロジー」が失われたことにある、と高世さんは語る。「コスモロジー」とは、この世界がどうなっていて、その中で自分がどういう位置を占めていて、何をしなければいけないかという、大きな枠組みのことだ。

◆かつて、この質問に答えていたのが宗教だった。どんな宗教でも、なぜ生まれてきて、死んだらどうなるのかという質問に対する答えを、きちんと持っている。今では宗教とは縁遠い日本人にも、かつては伝統的に持っていたコスモロジーがあった。神道や仏教、儒教、先祖崇拝が一緒くたになった「神仏習合」という宗教現象で、これが近代化によって崩れていったのである。

◆高世さんが報告会で触れた、渡辺京二の『逝きし世の面影』という書籍には、明治維新前の日本を訪問した、外国人による記録が残っている。同書内では、日本人はみんな優しくて、いつも笑っていて歌いながら仕事をしているパラダイスのような国だと外国人が褒め称えている。当時の日本人はすぐ休憩をして、時間にもルーズだったという。その後、近代化が進むようになって、鋳型に当てはめたような人間が出来上がることになってしまったのだ。

◆今まで信じてきたコスモロジーが崩壊したことによって、自己肯定感や自信も失われていき、根本的な人生観までも侵食されているのが、今の日本人の姿だと高世さんは指摘する。絶対的なものが信じられないという、哲学的にいうとニヒリズムの状態から生まれるものはエゴイズムで、道徳の基準が崩壊しても快・不快だけは残るため、エゴイズムは快楽主義と結びついていく。

◆先ほど話に触れた「命よりも大事なものはないので戦争はやめるべき」という意見に象徴されるように、絶対的な価値観を失った多くの日本人にとって人生の目的は「自分が幸せになること」になってしまった。そして、親も子どもに対して「あなたの人生は、あなただけのものなんだから、好きに生きていいんだよ」と教える人が多いように見受けられる。しかし、自分の人生は、本当に自分だけのものなのだろうか。当たり前じゃないかというのが今の日本人の価値観だが、世界的に見ればそれは決して当たり前ではないのだ。

“命よりも大事なもの”はあなたにありますか?

◆今回の報告会はウクライナ戦争の話に始まり、日本人のコスモロジーの崩壊という話題にまで及んだ。今の日本人の価値観では、“世界”を理解できないのではないか、ということを高世さんは危惧している。反政府デモや武力闘争で亡くなる人のことを「命を粗末にする馬鹿者」と捉えて考えるのであれば、彼らをはじめとする世界の人々と深い共感を持ち連帯することはできないだろう。今の日本人の多くが考える「命が一番大事だ」という意見は、「自分が死にたくない」という意味に過ぎない。今のウクライナ人が戦っているのは、これから生まれてくる子どもたち全員の命という意味での“大きな命”を守るためであり、民族としての譲りがたいアイデンティティを懸けて戦っているのだ。自分の命だけが大切なのだという考えを持っているのであれば、そこから世界の人々との対話が生まれなくなってしまう。

◆画家ポール・ゴーギャンは、彼の最も有名な作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描いた後に、自殺未遂を図った。生まれてきて死ぬことの意味がわからない、絶対的に信じられるものがないという、コスモロジーが崩壊した状態では、本来、人間は生きていくことはできないはずなのだ。ここまで日本人の倫理的な崩壊が進む中で、どうするべきかという問いに対して、私たちは根本的な人生観を転換するところから考えなければならないと高世さんは提言する。

◆私たちに残された選択肢は、前の時代に戻るか、新しいコスモロジーを作るか、の2つしかないという。まず1つ目の、前の時代に戻るということは、できないし、やってはいけないことだ。イスラム圏で原理主義が再び力を持ち始めていることも、その潮流に位置付けられる。だから、新しいコスモロジーを作ることにしか道は残されていない。そのためには、“現代科学の最新の地点とどの宗教にも共通する一番大事な部分を融合する”ということが必要になると高世さんは語る。

◆高世さんが提案するコスモロジーは、中村哲さんが持っていた価値観と通じるものがあるという。中村さん自身はキリスト教徒だが、実は「神」という言葉をあまり使わず、それに相当する概念を表すために「天」という言葉を使っていた。「天」というのは自然や宇宙などというような、汎神論的な概念だ。中村さんの思想が、近代化によって失われた、日本人が取り戻すべきコスモロジーを作り上げる上でのヒントになると高世さんは考えている。

◆日本は少子高齢化問題だけでなく、コスモロジーの崩壊に関しても、世界を先駆けて経験している。コスモロジーの崩壊は、人類が初めて直面する大きな課題で、先陣を切った日本の動向を、世界中が観察しているのだ。それは地平線会議的にいえば、人類最大の挑戦であり探検であり、冒険ともいえるかもしれない。その課題を解決することができれば、人類全体への大きな貢献となるだろう。

最後に

◆今回の報告会では、現代日本社会に漂う言葉にならない“違和感”や“閉塞感”を、高世さんによって解説・言語化してもらえたような気がした。高世仁さんは、テレビ番組制作会社「ジン・ネット」を経営していたジャーナリストだ。筆者は、実はジン・ネットに入社して2か月で倒産を経験した、最後の新入社員である。現場を離れた今でも高世さんが活躍されている姿を見ることができ、とても嬉しかった。前回の「つなぐ 地平線500!」では赤ちゃん連れでおそるおそる参加したにも関わらず、地平線会議のみなさまが温かく迎えてくださり、本当に感謝が尽きない。そんなご縁で江本さんが声をかけてくださり、今回はレポートを書かせていただくことになった。余談だが、早稲田大学探検部(下川知恵と同期)に所属していた学生時代に筆者が一人暮らししていたのも、報告会会場付近の新宿区榎町。そんな懐かしい思いにも浸ることができた報告会であった。[貴家(さすが)蓉子

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

そこかしこに“やさしさ”があふれている日本。しかし……

■ウクライナを取材して驚いたのは、汚職だらけの政府への不信感と、その政府をあてにせずに国民一人ひとりが自ら戦争を支えようとする熱意だった。マックスという青年は大学を休学し、危険な前線近くまで出かけて、兵士と住民に食糧や薬品を届けるボランティア活動をしていた。いつ死んでも不思議でない状況で活動を続けるわけを聞くと「私の同胞とこれから生まれてくる子どもたちのため」と答えた。

◆帰国後、ウクライナの人びとの戦いを語ると、「ここが日本でよかった」という感想が返ってくる。戦争の当事者が“私”でないことに安堵するのである。「なぜウクライナが戦うのかわからない」との声もよく聞く。日本人は、命をかけて同胞のために尽くすウクライナ人に共感できなくなっているようだ。

◆今多くの日本人は「いちばん大事なのは自分だ」「人生の目的は、自分が幸せになることにある」と考えている。私たちはこれがあたりまえだと思っているが、日本人の利己的で刹那的な人生観、他者への冷酷さは世界で突出している。残念だが、これは数々の国際調査が示す厳然たる事実である。自己肯定感が低く、心を病んだり自死する子どもが多い原因も、大元はここにある。

◆日本から笑顔が消えていることをカンボジアに住む友人が教えてくれた。友人は東京でカンボジアシルクの手織りを実演するため、織りの名手の高齢の女性を来日させた。山手線で移動中に女性が友人に尋ねた。「なんで、みんな怒ってるの?」と。電車の中でむっつり押し黙っている人々が、彼女には怒りの表情に見えたのだ。

◆しかし日本人は昔からこうだったのではない。幕末に来日した英国人ジャーナリスト、ブラックは、日本人のホスピタリティに感激している。「彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。(略)通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった」

◆別の英国人(明治初期、日本で教師をつとめた)ディクソンは、東京の街頭の人々の上機嫌さを西洋と比較してこう記した。「西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている」。私たちのご先祖は、かくも親切で陽気で愛想のよい人々だったのだ。

◆私は昨年末、『中村哲という希望』(佐高信氏との共著)を上梓した。アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師のメッセージを、いま日本人があらためて学ぶべきだとの思いからである。中村さんは自分のことしか考えない日本の風潮を嘆いていた。「『自分の身は針でつつかれても飛び上がるが、他人の体は槍で突いても平気』という人々が急増している」

◆日本ではそこかしこに“やさしさ”があふれている。「お肌にやさしい」、「地球にやさしい」、「体にも環境にもやさしい」……。中村さんには昨今の“やさしさ”はまがいものに見える。「『やさしさ』は社会的な風潮となった。残酷な表現を子供の世界から奪い取り、童話の筋まで書きかえる。差別をなくすと称して、人を罵倒する言葉を禁止する。チャンバラは廃れ、ケンカも少なくなった。大人の世界では、差別語摘発が始まり、自然保護、動物愛護が叫ばれた」

◆今の日本で“精神性”と“道徳”が崩壊していることを中村さんは憂いている。「極端な戦後教育の転換は、全て古いものを封建的という烙印を押して一掃し、日本人から精神性を奪い取った。温故知新というが、日本は古い道徳に代わる何ものも準備せず、やたら古い権威の分析をしたり、仮面をはぐのみであった。そのつけは今来ている」

◆では、私たちはどう生きるべきなのか。「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ」。“私”の幸せのために生きるという私たちとは反対に、人のために生きるのが人の道だというのだ。「目をこらして何が虚構で、何が事実かを見つめ、世の流れに惑わされぬことである。人の欲望は限りなく、どこにでも不満と不幸を見いだす。しかし、私たちは自分で生きているのではなく、恵みによって生かされているのだ」

◆私たちは自分で生きているのではなく、恵みによって生かされている……。私たちは、人間の力を過信して自然への畏怖を忘れ、自分のエゴをむき出しにして、“私”を支えてくれる無数のご縁に気付かない。大いなるものの“恵み”によって生かされていることに私たちがあらためて気づくとき、失われた“精神性”や“道徳”を再建し、人と人、人と自然との関係を本来あるべき姿に正すことができるのではないだろうか。その先に、あの150年前の微笑みが日本に戻ってくると信じている。[高世仁


大阪から参じたはじめての地平線

■昨年11月に開催500回を迎えた地平線会議に、501回目の今回初めて参加させていただきました。初めは自分がその中に入っていけるか不安だったのですが、江本さんを始め先輩方に温かく迎えていただき、様々な分野で活躍されている皆様の生のお話を直接伺うことができ、自分の知見を広げられたほんとうに貴重な時間となりました。

◆私は2023年の4月から、大阪で山岳雑誌『岳人』の編集をしています。今回、『岳人2月号』(1月15日に発売されたばかりです)の特集「日本人とヒマラヤ」で、かつて田部井淳子さんがエベレストに登頂した際、同行されていた江本さんに原稿をお願いしました。江本さん自身がテントの中で雪崩につぶされそうになったこと、シェルパの皆さんが女性隊を成功させようと頑張ったことなど「あのできごとの裏や登頂の後にはそんなことがあったのか」と驚くような視点からの原稿となりました。そして起こったことを無駄なく正確に伝える力がいかに大事かメディアの新人として勉強になりました。

◆そして江本さんが長くお仲間と続けている「地平線会議」のことが気になり、原稿が仕上がったお礼のお電話で恐る恐る参加したいとお願いすると快諾していただいたのが、今回大阪から馳せ参じた経緯です。501回目の報告会は2022年から続くウクライナ戦争の現場に行かれた高世仁さんから伺う会でした。しかし、話題はウクライナの現状に始まり、生きることを優先して停戦を主張するコメンテーターの引用が挟まってから日本人のアイデンティティに関する問題へ深まっていきました。

◆実は私は4歳から小学校1年生まで父の仕事の都合でトルコに住んでいたことがあります。学校はほぼすべてヨーロッパやアフリカ系の児童でアジア人は3人だけ。日本人は私1人でした。周囲と見た目も話す言語も大きく異なり、コミュニケーションを取るのに非常に苦労したので「自分とは誰なのか」について漠然とした不安を抱えていました。

◆日本に戻ると今度は「外国にいた得体の知れないよそ者」になり、より自分という人間はいったい何なのか考えるようになりました。その幼少期の経験から学習院大学時代は哲学科で東洋哲学を学び、ここ数年もアイデンティティについて考えていた私に、高世仁さんの報告会は改めて自分について問い直したくなる学びの多い場でした。

◆二次会まで参加させていただき、地平線会議の先輩方にお目にかかることができて、とても楽しい半日でした。江本さんに原稿をお願いしたことから地平線会議に参加できたことも何かのご縁で、ありがたいことと思っております。大阪在住で、毎月末は締め切り前ということもあって毎回の報告会への参加は難しいのですが、今後お見知りおきいただけますと幸いです。ありがとうございました。[佐久間智子


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。先月の「500回記念報告会」へのエールもあり、今月も多くの方がお祝いのカンパを下さったことに深く感謝します。万一記入漏れがありましたら江本宛メールください。最終ページにアドレスがあります。

川井良子(30000円 長い間通信をお送り頂きながら料金未納で申し訳ありません。お恥ずかしい限りです) 戸高雅史・優美(4000円 地平線通信を読む時は鉛筆を持って心に留まる言葉に線を引いています。時を空けて読み返すと気づく視点が違うことも発見。共感と問いかけをいつもありがとうございます! 優美) 原田鉱一郎 新堂睦子(5000円 地平線通信を通してみなさまの自然への愛に感嘆しています) 島田利嗣(10000円) 佐藤泉(いつも楽しみにしています。趣味の短歌の結社誌の寄稿依頼があり、自転車旅を続けられるうちは短歌も続けられそうだと記しました。その間は「地平線」も眺めていたいと思います) 笠島克彦(10000円 通信費です。どうぞ良いお歳を!) 秋元修一(4000円) 宮崎拓(地平線会議を知るきっかけになったのは、何十年前になるか、読売新聞に載った江本さんの記事でした。報告会500回、おめでとうございます) 斉藤宏子(10000円 お祝い) 森本眞由美(5000円 逝ってしまった夫、孝に代わり、山田高司さんが「3バカたかし」に入ってくださったとのこと、喜んでおります) 花崎洋(20000円 会誌、毎号ワクワクしながら読んでいます) 滝野沢優子(10000円 通信費5年分です) 菅原茂(10000円 地平線通信、いつもありがとうございます。スタッフの皆さん、いいお年をお迎えください。カンパです) 佐々木和夫(5000円 通信費2年分とカンパ1000円分です) 扇田孝之(5000円。今さらですが。相変わらずのエネルギッシュなご様子に感じ入っております。それにしても山崎哲秀氏、大変ショッキングで言葉もありません。こんな理不尽なことが起きるのですね。30余年前、長野県池田町の小、中学生を対象にした講演会にお越しいただいたのです。当初は今井通子氏と舟津圭三氏の対談の予定でした。ところが、今井氏から「山崎哲秀という素晴らしい若者がいるので、私のギャラを半分にしてもよいから是非呼んであげて」という強い要望があったのです。その後今年にいたるまで、グリーンランドからと、帰国後の2回律儀に手紙をいただいておりました。昨年、荻田泰永氏の講演に際して、シンポジウムにご参加いただき、終了後深夜までお付き合いいただいたのが最後になってしまいました。梅棹忠夫山と探検文学賞事務局)


―― 連   載 ――
波間から

その4 海にはなすすべがない

和田城志 

■2022年1月、513号に「世界と日本の現在地」を書いた。1919年の第一次世界大戦終結とスペイン風邪パンデミックと各国内の紛争と不況、そして第二次世界大戦へ。あれから100年、現在との類似点に危機感を抱いている。明らかに悪い方に推移しているように感じる。その上に、気候変動、自然災害、拡大する南北格差、生成AIに代表される暴走しそうな科学技術、戦争、環境破壊と人類劣化はいちじるしい。2024年はどんな1年になるのだろうか。

◆2023年に不定期連載として「波間から」を載せてもらった。今回、江本編集長から引き続き連載してほしいとの依頼を受けた。ヨットの旅のつれづれに書き始めたが、北前船航路探訪の旅は完成せず、今は陸(おか)にいるからもう波間ではないけれど、世界は荒波に翻弄される難破船のような状況だ。

◆書く内容は、過去の登山(アルピニズム、冒険、探検)から現在の生活(自転車、ヨット、旅)、時事ネタと脈絡なく、まさに波間に漂う小舟のようになりそうだ。で、「波間から」という表題をそのまま使うことにする。海からの視点を大切にしようと思う。すでに3回載せてもらってきたから、今回は「その4」として再開しよう。

◆北前船航路にまつわる歴史、遺跡には目を開かせるものが多かったが、印象に残っているのは海の汚染の方だ。国際港、産業港、ヨットマリーナはもとより漁港にもゴミはあふれていた。風光明媚な海岸線には大量の漂着物が打ち上げられていた。瀬戸内海や入江、海峡の海水が濁っているのは仕方ないが、外洋に出ても潮目に浮遊物が帯をなして流れていた。

◆人は美しい自然を求めて南海の島々を巡る。南西諸島や小笠原諸島、グアムやハワイは人気があって、透き通ったマリンブルーや異国情緒に浸れる。先進国の遊民は、薄汚れた故国を離れ、かろうじて残る未開の美しさを愛でる。私もヒマラヤにそれを求めてきた。そして山中にゴミを残してきた。それらは人目につかず、雪に埋もれ氷に閉じ込められて、地層のように積み重なっているだろう。幾星霜を経てゴミは、氷河から川を流れ、海に運ばれる。

◆水は地球進化を支える血液だ。地球の元素組成のトップは酸素で47%を占める。水素は宇宙で最初に生成された元素だ。H2Oが生命にとってどれだけ重要か自明であるが、地球本体にとっても重要な役割を果たしている。太陽エネルギーにより蒸発した海水は雲にかたちを変え、降雨や気流の運動エネルギーとなる。自然はこのエネルギー循環によって支えられている。原子力だってその熱エネルギーを、水蒸気を介して電気エネルギーに変えているだけのこと。水はすぐれたエネルギー変換効率を持つ媒体である。水はすごい。


 海は

 海は すべての行きつくところ
 放射能もプラスチックも二酸化炭素も
 投げやりなうわのそらで
 人新世のガラクタを積み上げる
 夢も骸も神さままでも
 海は あるがままの独り語り
 とおい昔 宙からやってきた
 驟雨のように涙のように 私たちを満たす
 畏れ 憧れ 戦い そうして
 私たちは 羊水に溺れる悪魔になる
 からみあう 命の乱舞
 貪欲と言う愚かさで
 神聖な孤独を 手放してしまってから
 海とともに やがて宙に帰る


◆海は怖い。波にもまれながら海原を眺めていると、自分の小心さに打ちのめされる。ヒマラヤにはなすすべがあったが、海にはない。ただただ、海の思し召しのまま漂うだけ。

イラスト-2

 イラスト ねこ


2024年1月1日 能登半島地震
以前から地平線報告会にたびたび参加されているカメラマンの東雅彦さんが、元日の震災発生時、震源ほぼ直上、珠洲市の大谷峠にたまたまいたとのこと。5日に能登半島を脱出したというご本人に、発災直後の緊迫した状況の報告をお願いしました。福井市在住の塚本昌晃さん、いち早く現場に駆けつけた落合大祐さんからのレポートと共に掲載します。

目の前の民家がペチャンコに

■帰省した輪島市の実家で新年を迎え夜空の星を眺めようと弟と庭にでた。山から狸が私たちを一瞥し庭を横切る。珍しいこともあるもんだと星を眺めながら思った。一年の計は元旦にあり。お寺へ初詣。ライフワークの水平線撮影を大谷峠にて。みやげ用に名物の塩を買い求めに飯田へ向う16時6分、車が左巻に捻れるような感じで3度跳ね上がった。五里霧中。峠を越え町に入った直後の16時11分、2度目の地震、走行困難。目の前の民家がグラグラと揺れペチャンコになる。

◆各地の友人から「津波が来る、逃げろ」とメッセージが届く。ぐうの音もでない。海辺へ向かっていたからだ。峠へUターンしたが道路が裂けて不通。迂回路もすべて不通。珠洲は陸の孤島になった。翌朝、輪島市への国道が一部復旧。町野町の実家まで6kmの地点で土砂崩れがあり、車は不通。歩いて進み、16:20帰宅。実家は基礎がズレて建っているだけの状態。この日は損壊したその家で横になる。夜通しドーンという鉄球が地面に落ちたような音が遠くで響く毎に外へ避難を10度、朝を迎えた。

◆3、4、5日と故郷の様子を視察。もう以前の姿はない。大雪予報が出た。父は私に雪が降る前に町を出てほしいようだ。能登路のハブ地点、穴水まで通常45分のところが、悪路のため4時間半かかった。故郷を離れるのは複雑な気持ちだった。[東雅彦 写真家]

能登半島に震度7の揺れが起きたとき

■2024年1月1日夕方。突然、大きな揺れが我が家を襲った。棚はギシギシと音を立てながら左右に大きく揺れ続け、水槽の水がチャプチャプと床に溢れた。本やテレビを置いている壁面棚が丸ごと前に倒れそうになり思わず両手で押さえる。それでも棚が倒れようとするため両腕を突っ張り全身を使って転倒を防いだ。

◆石川県能登半島沖を震源とする最大震度7の地震が発生した際の様子だ。自宅のある福井市内は震度5強(東日本大震災での東京と同じ震度)を記録し、大きな揺れが長い間複数回続いた。スマホのアラーム音がけたたましく鳴り響きすぐにテレビの速報を見る。津波が石川やその近隣の福井、富山等に押し寄せると即時避難を指示するアナウンスが。

◆実家の父からの電話が鳴る。父の住む福井県三国町は海に面しており今から高台へ避難するという。日本海側では大きな津波は発生しにくいという常識が崩れた瞬間だった。地震発生の直後、20年来の付き合いの地平線仲間のマサさん(東雅彦さん=写真家、東京都在住)に連絡を取る。なんとマサさんは、能登半島の輪島市へ正月の帰省中だった。まさに震源地付近にいたわけだ。

◆マサさんからは出先で遭遇した2階建ての大きな日本家屋が崩れる瞬間の映像が送られてきた。津波が来るため即時避難を告げる。その後、マサさんから山間部へ避難できたと連絡があってからは、一切の連絡が付かなくなった。それも1日だけでなく何日も。送ったLINEが既読にならない。大丈夫と信じていても不安だ。

◆1月5日朝。マサさんからの電話が鳴る。実家のある輪島市町野町は電気や水道、ガスなどのインフラがまったく使えない状態とのこと。そのため通信途絶状態だったが、ドコモの電波をかろうじて拾える場所が見つかり、そこから電話してきたという。マサさんの実家周辺では建物の全壊、半壊が相次ぎ(報道では約7〜8割の建物に大きな損害、全容は未だ不明)、実家は基礎からズレてしまい辛うじて建っている状態だと。周辺の小さな橋が「全て」崩落し大きな地割れがいくつも見られるなどとんでもない状況になっているとのこと。

◆町野町は奥能登と呼ばれるエリアに位置し半島の先端付近のため、救助の手が届くまで時間がかかり陸の孤島と化していたと。地域の避難所では1人につきコップに半分の水と食パンが4分の1ずつ配られたと聞いた。それが食パン1斤の4分の1でなく、パン1枚の4分の1だとわかったときには耳を疑った。そんな心細い状況の中で、地元を走る金沢市や福井市のロゴが入った応援の消防車を見かけたときには思わず胸が熱くなったそうだ。

◆1月5日深夜。地割れの箇所に砂利を詰めて国道が応急復旧した。その道を通り東京へと車で戻るマサさんと途中の金沢市内で落ち合う。弟さんを含め3人でスーパー銭湯内のレストランで食事をし湯舟を共にした。今年になって初めてのお風呂だそうだ。お風呂では自衛隊らしき人たちを見かけた。能登半島は過去に何度も訪れたことのある地域だ。風光明媚な能登半島で、半島全体を壊滅的状況にする地震が発生した。復興は10年単位の世界だ。地域全体の高齢化が進む中で一次避難、二次避難と進んだその先の展望が見えてこない。それぞれの避難により地域の大切なコミュニティも途切れてしまう。今回の復旧・復興は被災者だけの力ではどうにもならない状況だ。県として、国としての支援が求められる。そして、個人としてもささやかでも確かな支援をしていこうと決意した。[塚本昌晃 福井市]

被害は報じられるよりも広く、大きい

■1月6日、予定を変更して能登半島に向かった。元日に起きたM7.6の地震で震度7を記録した志賀町に入ると、道路が崩れて片側通行になっている箇所があったが、役場のある高浜は特に大きな被害がないようだった。運転停止中の志賀原発の脇を抜けて、以前の旅でお世話になった福浦に行ってみると、町から人の姿が消えている。小学校にみんな避難していた。が、その入口で「ここよりも富来のほうが大変だと思います」と言われて、さらに先に進む。

◆海沿いの道は通行止め。倒木が道を狭め、路面が波打っている山越えの道を迂回する。富来、増穂、釼地、赤神、黒島、道下。かつて自転車で旅した村々は、北上するにつれて倒壊した家屋が増え、門前に着くと、無傷の建物を探すほうが難しいほどだった。崩れた建物が道路にはみ出して、車が通れないところもある。以前、自転車のタイヤがバーストして進めなくなった私を助けてくれた旅館も半壊。あそこに泊まっていたときにも震度3の地震があったが、そんなのはまったく甘く感じるほどだ。

◆テレビのニュースでは朝市で有名な輪島市河井町の火災を繰り返し流し、七尾や穴水など能登半島の入口にあたる地域の被害を伝えていたが、それは道路の寸断によって奥能登にカメラが入れず、また停電や断水によってクルーが自由に動けないのが原因だった。被害は報じられるよりも広く、大きかった。ここで起きていることが、東京の新聞社、テレビ局によって報じられるまでにだいたい2日かかっている。FacebookやTwitter(X)の仕様変更でSNSでもリアルタイムの情報が得にくくなっている。「情報化社会」はいまや退化しつつある。

◆7日は雪が降る中を輪島市町野町に向かい、東雅彦さんが一時身を寄せていた避難所に水やタオル、歯ブラシ、消毒液など細々とした物資を届けた。一番喜ばれたのはコンビニの菓子パンとその日の朝刊だった。同じ輪島市内でも門前町と中心部の河井町、この町野町はそれぞれ行き来ができず、いまだ孤立している地域も多い。町野も3日に自動車が通れる迂回路ができるまで孤立状態だった。発災後飲料水が届くまで3日かかったが、いまは足りているという。食糧にも燃料にも不安はなく、避難している100人ほどで助け合って食事を3食作っているそうだ。目の前の最大の敵は「退屈」、そして災害ユートピアが終わった後の不安だろう。

◆8日、能登半島を後にして金沢駅から大阪に向かった。「もっと大変な人たちがいるから、そちらを先に」。ホームに到着した電車から降りる乗客を待たず我れ先に乗り込む人たち、飲みかけの缶で溢れたゴミ箱などを見ていると、そんな思いやりの言葉を能登半島の各地で聞いたのを思い出した。私たちは災害に遭わないと優しい社会を取り戻せないのだろうか。[落合大祐


先月号の発送請負人

■地平線通信536号は12月6日印刷、発行しました。月のはじめの発送で時間の余裕がない中、そして11月の「つなぐ 地平線500!」という報告会500回記念のイベントの特集で20ページの大部になってしまった割にはベテランたちが頑張ってくれ、無事に印刷も封入も時間内に終えることができました。発送作業のあとは北京でおいしい餃子を食べながら、印刷担当の車谷建太君がいない場合のことをいろいろ話しました。一度車谷君がいるときに、建太君は手を出さず新人が頑張ってみよう、ということになりました。

◆汗をかいてくれたのは以下のみなさんです。長岡竜介さんはのりこさん手作りのあんパン運び人もやってくれました。皆さん、ありがとう。おつかれさまでした。

 車谷建太 高世泉 中嶋敦子 長岡竜介 伊藤里香 秋葉純子 白根全 中畑朋子 久島弘 武田力 江本嘉伸


2024年のはじまりにあたって 各地からのメッセージ

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測量を新たな仕事として

■新年あけましておめでとうございます。ジャーナリストから完全に足を洗ってから、約1年半が経過しました。2022年9月、僕は実家の岐阜県高山市に戻りました。友人が経営する測量会社に就職して、先輩に厳しく指導されながら、山や川を駆けずり回りながら、林道や河川の護岸、堰堤、道路や橋脚、トンネルなど様々な現場に足を運んでいます。ニュースを見ます。相変わらず、世界では戦争が起きています。ウクライナ、ガザの報道が耳に入ってきます。周りから、「またジャーナリストに戻りたいんじゃないのか」と言われたりします。でも、今では戦争のニュースを見たり、聞いたりしても、現場で取材をしたいとは思わなくなりました。

◆僕がなぜ戦場に興味を持ったのか。それは、高校生のころに読んだ、本多勝一氏の戦争について書かれた本がきっかけです。僕は思いました。戦争が実際に起きていることが信じられない。人と人が殺しあう世界が本当にどこかに存在しているのか。自分の目で見ないと信じられない世界が戦争というものでした。大学卒業後、僕はインドのカシミールという紛争地で取材を始めました。そこで、初めて「この世界に戦争が存在している」ことを肌身で実感しました。

◆本来であれば、戦争を僕の目で確認できたことで満足して終わるはずでした。でも、戦争を見たという事実を僕一人、胸のうちにおさめることはできませんでした。それは、こんな現実があることを多くの人に伝えないといけないという義務が生じたからです。僕はジャーナリストとして歩み始めました。それから、20年、僕は戦争に関わってきました。最後の取材地がシリアでした。ここは、これまで僕が見てきた戦争とは異なりました。人が虫けらのように殺されていきました。3年間、計5度シリアを訪れて、僕はもう十分やりきったなと思いました。疲れてもいました。そして、最後にもう一度だけ、それが2022年6月の6度目のシリアの訪問でした。

◆僕はジャーナリストをしていた20年間、ひたすら取材費を貯めることに全精力を注ぎこんできました。趣味も持たず、風呂なしの部屋に住み、節約を重ねて、恋人にもあきれられて、それでも取材のために我慢してきました。今、僕はバイクの免許を取り、バイクを購入して、暇があればツーリングに走り、釣りとキャンプを楽しんでいます。今、戦争から僕は遠ざかりましたが、世界で戦争が起きていることを肌で感じることができます。僕が戦争を報道してきたことで、戦争がなくなったわけではありません。それでも、僕の経験は多くの人々に「戦争とは何か」を伝えられたと思っています。新年早々、大きな地震があり、僕が住んでいる高山市も震度5弱と大きな揺れに見舞われました。大変な年の幕開けになりましたが、測量という仕事を通じて、新しい生き方を探っていけたらと思います。[桜木武史

元日の島でもずく漁師の事故が

■今年の元日から悲惨な災害。気が滅入る新年のスタートです。本当に被災された方々の苦しみはいかばかりかと思います。よりによって元日の夕方に地震だなんて。

◆こちら沖縄はあたたかな新年で、今はヤギが草をはむ音しか聞こえない穏やかな昼下がりです。この静けさは昨年屋久島沖でオスプレイが墜落という重大事故を起こしたため飛行が止められて、いつもは1日に何度も頭上を飛んでいたアレの爆音が聞こえないおかげでもあります。

◆元日は島でも悲しい事故がありました。もずく漁師が事故死しました。海中で作業中に空気を送るホースがはずれてしまったらしいです。今はもずくの幼苗を網に付けて海底へ設置し育てている時期。この島は旧暦で動くため新正月も海に出ていたのでした。亡くなった方は「ヤギに食べさせて」と、時々刈った庭の草を持ってきてくれた心優しい方でした。こういう事故は今までにも何件かありました。もずく漁師も命がけです。

◆今年は12年に一度の大祭が三年の延期を経ていよいよ11月に催されることが決まりました。果たして無事にできるのか? 12年前に初めて参加させてもらったころからだいぶ高齢化が進み人口も減りました。でも島の人はこの祭りに誇りを持っています。詳しいスケジュールが決まったらまたお知らせしますので江本さんや地平線の皆さんにも見に来てほしいです。

◆あ、連れ合いの昇は食道がんの手術後5年経ちました。先日の検査で異常なしで「定期的検査は卒業ね」と医師に言われました。まだまだ油断はできませんがとりあえず節目を迎えてホッとしています。これからもゆるゆると過ごしていきたいと思います。では今年もよろしくお願いします。[外間晴美

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山も、研究も続ける

■年が明けた。元日、西穂山荘で登山客を送り出した後、いつも通りに客室清掃を行い、その後売店でラーメンを作り(西穂はラーメンが名物)、厨房で客食の準備をしていた。16:00を回ったころ、一斉にスタッフの携帯から緊急地震速報が流れた。その場にいた皆がびくっと動きを止めたその数秒後、揺れがきた。「火消して!」。急いでガスの元栓を閉じ、揺れが収まるのを待った。震度4の揺れだった。2024年1月8日現在、能登半島地震の被災状況の全容はいまだにわかっていないという。そして元日の翌日には、羽田空港で飛行機が炎上。「日常」はいつも非日常から逆照射的に浮かび上がるのだと痛感する。

◆2023年は、山小屋やネパールに滞在し、山の上で過ごした期間が半分以上だった。一方、今年の4月には復学し、来年には大学を卒業する(予定)。生業を考えていくタイミングに差し掛かっている。しかし現段階では、研究も山登りもやめない、ということだけがはっきりしている。「〇〇になりたい」はなく、やりたいことが目の前にある。やりたいことと社会との接点を探し続けているが、なかなか見つからない。決めるべき時は自ずとやってくるはずなので、行動をしようと思う。

◆研究では、環境の危機が叫ばれる現代社会において、人間と自然環境はどう関係を再構築すればいいのだろう、ということを考えている。自分が近代文明の恩恵の元で育っている一方、人間活動が自然環境を大きく改変している。人間が感じる豊かさと、自然環境の豊かさの双方がバランスをとれるような関係性や実践を模索したい。土中環境整備という活動と出会ってからは、個人の庭での実践に関心を持ち、福岡県糸島市で参与観察をしてきた。ミク口な現場から大きな問いを考える、という立場はこれからも変わらないと思う。しかしフィールドの事例と先行研究がうまくつながっておらず、学問的な問いになっていない。勉強と思考が不足している。大学院に進学して研究を続けようと思っているが、それを将来仕事にできるかはわからない。

◆他方で、山も続ける。強くなって、ザイルを引けるようになりたい。アイランドピークに登りながら、ザイルを引けたらどんな感覚なんだろうと思った。物理的に山と接していても、没入感がなく、経験として浅いと感じた。山行の充実度は登り方やその過程で大きく変わるのだと実感した。自分自身、山での経験も技術も体力も未熟だ。山登りに関して、日本の山でやるべきこと、できることがたくさんある。登ったことのない山もルートも、先人が積み上げてきた記録もたくさんある。これからは山岳部の活動から一歩踏み込んだ山登りをしたい。

◆大学院に進学して、修士課程を終え、就職をして、働いて、山にも登って……というイメージはできないことはない。他方、この地平線通信との出会いがそうであったように、ふとしたきっかけで世界の見方ががらりと変わることもある。幸運なめぐり合わせもあれば、天災や人災もあるかもしれない。偶発性もひっくるめて、命がある限り生きていくしかない。どう転んでも、他者の声ではなく、自分自身に納得しながら生きていきたい。行動を絶やさずにいたい。

◆とどのつまり、まだもう少し右往左往しています。今年1年が、皆さんそれぞれにとって良い年となることを願っています。[安平ゆう


かきまぜつづける

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初登りに思う

■1月5日。朝5時半に、まだ暗い樹林帯のなかへヘッドライトを点けて歩き出す。歩くことおよそ1時間、視界が開け、風の吹きつける小さな雪原に出た。後ろを振り返ると南北に長い松本盆地を挟んだ反対側に、今まさに日の光が落ちようとしてくる、雲一つ被らない冠雪の北アルプスの峰々が見えた。これまで生きてきた自分にたいするご褒美のように感じられる景色か広がり、嬉しくなって駆け出した。生きていてよかった。山に登れる自分の状況に感謝したい、そう思う令和6年の登り初めだった。

◆いよいよ南米の旅まで一月半。円安により航空券はコロナ禍になる前と比べ倍の値段になっていて、薄給の身としては経済的には少し悔しい買い物をした気分だ。しかし、円安ながらなぜ今行くのかというと、それは私の時間が今行くしかないと言ったからだった。それに、お金を稼ぎながら山で働いているのは、こういう旅に出るためでもあった。

◆今は南米大陸や訪れる国のペルーとボリビアに関わる本を図書館から借りてきて読んでいる。たとえば、地平線でお馴染み関野吉晴さんの『グレートジャーニー人類400万年の旅 南米編I・II』や白根全さんの『カーニバルがやってきた!』を拝読。政治や歴史についても、高校生のころの教科書を、もちろん最新情報とは限らないが漁って読み返してみたりした。今年はこれまでの人生で最も大きくなる旅に出て、無事に帰ってきたら再び自分の山に集中したい。未踏峰や未踏ルートの開拓、頂を目指す時代を経て、これからは個人がいかなる方法で山と関わっていくかの独自の捉え方や取り組みが鍵となるという。

◆改めて冊子『地平線・五百螺函』の全記録一覧をざっと眺めてみて、わかりやすい一点を見ているだけでは気付けないようないろんな人のいろんな人生の語りがあると感じた。山の字が入ったタイトルの報告会ではどんな山が発見できるんだろうかと、とりわけ興味をひかれる。南米の旅のあとは「地平線ネット」へ。自分の人生の山に積み重ねる何かヒントが見つかるかもしれない。[小口寿子 長野県]

エモの目

「青春日記 〜中高生編〜」

  編集長が15歳から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

■師走のある日、地平線仲間と試みた横浜丘散歩(当日の様子は16、17ページに)。車谷建太君はジブリ映画「コクリコ坂から」の世界だ!と感激、私にそのDVDを送ってくれた。一見してまさに我が青春がそこにあった。私が日々の記録を書きはじめたのは1955年6月22日、15才、中学3年の時だ。大学に入ってからは山や街で山行記録や片想いを書いた。記者になり、メモ帳やノートにさまざまな見聞を綴った。個人的なものだが、この地平線通信がそうであるように、結果としてひとつの時代の記録ともなっている。余白を見つけてその私的記録を掲載することを、年男に免じて許されよ。スタートは、横浜の丘散歩の話から。実は中学、高校生のころ、私はよく山手の丘を歩いた。平地ではなく丘を歩くことに惹かれていたと思う。

1956年1月27日(15歳)

◆きのう5時頃からF(注・当時親しかった同級生。男子)と歩いた。山手を散歩。話はいろいろある。若き頃の熱と感傷で3時間歩きまわった。しかし、話しすぎたナと思う後悔がないでもない。今年の旅行のこと、歌のこと(注・当時詩歌研究部というのに属していた)、自分たちのことetcである。

◆山手の道はやはりいい。静かだ。彼にやはり“若い2人”にはこの道が一番いいのだろうな、と言った。教会がその雰囲気に溶け込んでいる。キリスト教自体を思うわけではないが、その建物は本当に美しい。「だいたい、宗教建築はどんなものでも悪いというものは一つもないからな」と彼に語った。

◆山手の付近は高級社会的匂いがする。それでなかったらあの静寂は存在しないのかもしれない。

1957年3月11日(16歳)

◆オードリー・ヘップバーンの可愛らしい顔! 映画『戦争と平和』。ヘップバーン演じるナターシャを見ていて彼女のこと(注・当時片思いだった高校生)の事を考えてしまうのは当然だろう。

◆感激した時の常で今日も歩いた。無性に山手のカソリック教会の近くへ行きたくなってしまった。静かな山手を静かに歩いた。あまり急ぐことはできなかった。教会に近づいてくると胸が震えた。自分1人だけだ、という思いがそうさせるらしかった。

◆明日は天気が良ければ山手の丘へスケッチに行くつもりだ。また胸が震えるかもしれない。


島ヘイセンvol.13
届いた大学合格証に渾身の雄叫びをあげた

■過酷な受験生活を乗り切り、5か月ぶりにこの原稿を書いている。かなり期間が空いてしまったため、半年分をまとめてレポートしたいと思う。

◆昨年9月。私の受験戦争が始まった。目指すは第一志望、立正大学心理学部対人・社会心理学科に合格すること。一発目の試験は9月の下旬に行われたゼミナール型選抜というものだった。

◆試験内容は一次試験が課題図書である『アリエリー教授の「行動経済学」入門』に関する理解力と応用力を問う筆記テスト、二次試験は地域のゴミ問題を調べ、どう解決するかをプレゼンテーション・グループディスカッションするというものだった。私は一発合格を目標とし、夏休みの8割をこの本の熟読に割いた。

◆本の内容をノートにまとめ上げ、日常生活や社会現象と結びつけながら考察を広げていった。専門用語なども完璧に覚え、本の内容は熟知した。そして迎えた試験当日。緊張はしていたが、この日のために使った時間のことを考えれば焦る必要はないように思え、落ち着いて試験に臨むことができた。無論問題はすらすら解くことができた。基礎的なことはもちろん、発展的な記述問題も納得のいく文章を書くことができ、手応えはかなりあった。一次試験は確実に突破したと思った。

◆そして待ちに待った一次試験合格発表。私は驚愕した。なんと合格者欄のところに私の番号が無かったのだ。私は見ているサイトが違うのだろうと思い、もういちど合格者一覧のページを調べた。5回くらいそれを繰り返した。しかし何度見てもそこに私の番号は無かった。不合格だったのだ。この大学には人を選ぶ才能がないのかと思った。2か月間の努力が水の泡となってしまい、メンタルもやや不安定になった。

◆しかし落ち込んでいる余裕はない。すぐ次の学校推薦型に向け舵を切り、私の第二次受験戦争が始まることになるのだが、ゼミナール型の一次試験が不合格だったおかげで、不本意ながら私は最後の島の村民大運動会に参加することができた。

◆二次試験と日程が重なっており、本来であれば参加できないはずだった。素直に喜ぶ気持ちにはなれなかったが、コロナの制限が完全になくなり島の伝統である本来の村民大運動会に参加することができたことは嬉しかった。中でも面白かったのは借り物競争だ。普通の借り物競争は「日傘」や「ボール」などの“もの”を借りることがセオリーだが、神津島ではお題が「日傘を持っている人」や「次女」、「四男」など、人を借りてくるのだ。次女のときは3人の次女が借りられていた。内地ではこのような企画で消極的になってしまうことがほとんどだと思うが、島民は積極的に借りられにいっていた。

◆神津太鼓のパフォーマンスは圧巻で印象に残っている。また私は3年目にして分団対抗リレーという、いわゆる地域対抗の選抜リレーにも参戦した。高校最後にこのような体験ができたことはとても誇らしく、一瞬不合格でよかったかもとの思いが脳裏をよぎってしまった。

◆運動会の1週間後には高校最後の文化祭が行われた。1日目はクラス企画の運営、2日目はダンスや演奏を披露するオンステージが行われる。クラス企画ではアンティークをイメージしたカフェを作った。友人達は島にはないお洒落な空間に憧れているらしい。前日からスコーンを製作し、当日は飲み物とともに販売した。スコーンはなんとか売り切ったが、飲み物がかなりの量あまってしまい、結果は大赤字だった。とても滑稽だった。2日目のオンステージは例年よりも数段レベルアップしたステージになっていた。私もドラムソロパフォーマンスをし、会場を沸かせた。

◆浮かれていられるのもここまでだった。運動会・文化祭が終わると待っていたのは受験だ。学校推薦型の試験内容は小論文と面接で、一般的な推薦入試と同じだ。面接では島で体験したことや、生徒会長としての活躍をアピールした。しかし、小論文の出題形式が今まで練習したものとまったく異なっており、焦りが生まれてしまった。ゼミナール型に相対して、あまり自信がなかった。

◆結果が出るまでの約1週間、不安で押しつぶされそうになっていた。そして訪れた合否発表日。合否通知は速達郵送されるとのことだったが、島への到着には2日かかるうえに、前日からの津波注意報発令で船の着岸も危ぶまれる。もう精神状態は崩壊寸前だった。昼の自炊当番中に、ようやく1通の封筒が届いた。調理を後輩に任せて、自室に戻り恐る恐る封を切った。中には1枚の合格証と入学手続書類が入っていた。私は渾身の雄叫びをあげた。と、同時に同級生や後輩がノックもなしに私の部屋に飛び込んできて、皆が合格を祝ってくれた。前回奈落に突き落とされたこともあり、感極まってしまった。ここまでくるのに先生方や友人、両親には数えきれないほど支えてもらった。本当に感謝しかない。

◆こうして私は無事に第一志望校に合格することができた。気付けば二学期が終わり、残すは三学期だけとなった。島にいられる残り少ない日で、お世話になった方や神津高校には最大限の恩返しをして卒業したい。[長岡祥太郎 神津高校3年]


ブラジル先住民との20年ぶりの再会から

■2023年10月24日からブラジル・サンパウロで写真展「長倉洋海 アユトン・クレナックとアマゾンを行く」が始まりました。私はオープニング直前、セレモニーと先住民を招いてのイベント・トークのために現地に向かいました。

◆空港でアユトン・クレナック(『鳥のように、川のように――森の哲人アユトンとの旅』〈徳間文庫〉で私が旅をともにした先住民の精神的リーダー)と約20年ぶりに再会し、会場のTomie Othake文化センターに着くと、3展示室を使った大掛かりな展示にちょっと驚きました。そこで初めて見た写真展図録にはアユトンだけでなく、文化人類学者、ジャーナリストたちが文章を寄せていて、300ページ近いボリュームと相まって主催者側の意気込みが伝わってきました。

◆私がかつて取材した5つの先住民グループがブラジル各地から集まってくれ、アシャニンカ族はペルー国境から3日かけて参加してくれました。テレビや新聞も今回のイベントを大々的に取り上げてくれ、高校生なども来場、連日、大勢の人でにぎわいました。

◆なぜ、私の写真に再び光が当たったのかと怪訝に思う方もおられるでしょう。国立文学アカデミー(定員40名)に先住民として初の選出をされたアユトンや友人たちの尽力が大きかったと思いますが、ブラジルでの先住民への関心と敬意の念が高まっていることも大きな要因だったと思います。歴代の政府が進めてきた「開発」と「森の破壊」への見直しが始まっているのです。昨年来、狩猟民族ヤノマミの居住区へ押しかけた1万を超える金掘り人たちによって、地域が汚染され、狩りの獲物が激減したことで、彼らが飢餓に追い込まれたことも連日報道され、心を痛めた人もいました。今年2月のリオのカーニバルのテーマは「ヤノマミ」となることも決まったといいます。

◆しかし、先住民を取り巻く環境は依然、厳しいままです。アユトンたちがかつてインディオ連合を結成、運動を進めることで先住民の土地確定が進んだのですが、ブラジル人たちは森を破壊し、金を掘り、先住民を虐待してきました。トーク会場で話を始めたクリカチ族のプルイは「何度も命の危機があり、いまも不安を覚えています。土地を守るために神経も使っています。私たちはまるで籠の鳥のようです。自由に空を飛びたいのです。対立を求めているのではなく、相手を同じ人間として尊重したいのです」と悲痛な訴えをしました。

◆それでもアユトンに伝統歌を歌うことを促されると、マイクも使わず、吹き抜けの大ホールに集まった300人以上の人々に堂々と歌声を披露しました。私は村の大きな木の前で毎晩、彼女たちが歌っていた姿を思い出し胸が熱くなりました。このような祖先からの伝統が彼らを支えてきたのです。同時にアユトンが20年前に「私たちは災害で粉々になっても、魂は風に舞いながらも生きていく。決してなくならない」と語ったことも思い出しました。

◆今回の訪問で、たくさんの新たな視点を教わりました。それは世界はひとつのことで繋がっているという実感です。「自分たちだけがよければ地球のことも、未来がどうなってもいい」という論理が世界を覆っています。アフガニスタンのタリバンが女性を人間として認めず、パレスチナでも民衆や子どもたちを殺すことをなんとも思わない勢力が存在すること。日本でもスリランカ女性の拘置所での虐待やベトナム実習生への差別や暴力などがあります。人間を尊重できない輩が、地球や自然への敬意を払えるはずもありません。

◆では、何ができるのか。何をすべきなのか。最初に、自分のまわりや自分が関わっている事柄を、以前よりも歩を進めること。一歩、踏み出すこと。それがいつか世界を変えていく力に繋がると私は信じています。悲観に囚われがちですが、希望を探す旅を私はまだ続けていきます。

◆サンパウロでの展示は2月4日まで。そのあとはリオデジャネイロ、ブラジリア、ベロオリゾンテをそれぞれ3か月ずつ、1年をかけて巡回します。この展示がブラジルの人たちへ何かの希望をもたらすことができますように。[長倉洋海

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もう一つの紛争 ――インド通信追記

■2023年9月末から12月初めまでのインドで過ごした2か月間。長いようで短く、短いようで長い、中身がぎっしり詰まった濃密な滞在でした。生きとし生けるものの命の儚さに心を揺さぶられるときもありました。あちらとこちら。まったく違う現実の中での生活に戻り、いまだチグハグな居心地の悪さを感じたまま新年を迎えようとしていますが(日本からインドへはすんなりと移行できたのに……)。年を越す前に、地平線通信535号に掲載された10月29日付け「インド通信」の追記として、11月11日付けで書いたものに加筆してシェアさせていただきます。

◆マオ・ナガのポール神父さんはディマプールにあるサレジオ大学の学部長で、『いのち綾なす』を編集する際にも大変お世話になりました。今回、「きちんと調べていないから正しい見解を提供できないかもしれないよ」と躊躇われたところに無理を言って頼み込みマニプール紛争の概要を教えていただく機会を頂戴。おかげさまで多少全体像が見えてきました。

◆少なくとも3つの大きな事柄が絡んでいるようです。一つ目:クキ族はもともとはミャンマーに居住する先住民族だが、1947年にイギリス人が労働者や国境付近の警備隊としてインド北東部に連れてきた。1948年の独立後は内戦が始まり、多くのクキ族が難民として国境沿いのマニプール州に逃れてきた。二つ目:クキ族はインドでは指定部族(ST)と認められており、彼らの居住区はインド国憲法によって保護されており、マニプール州に住むマニプリ人とメイテイ人は彼らの土地を買うことができない。三つ目:2023年2月インド政府はクキ族の土地の一部を森林地に変更すること、また、それまで指定カースト(SC)だったメイテイをクキ族同様にSTに認定する方向をとることを決定した。この三つ目が5月3日チュルチャンドプールで始まった闘争の直接的要因である。

◆「今回の民族紛争でなぜクキ族以外のクリスチャンも迫害される羽目になったのですか」という質問に対して:マニプール州にはメイテイ人を含むいくつかのグループからなる地下組織(州首相が後ろ盾)があり、RSS(ヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体)から訓練を受けている。クキ族にはクリスチャンが多い。ヒンドゥー・ファナティックはここぞとばかりに「クリスチャン浄化」(ポール神父さんはこの言葉は使いませんでしたが、実際に起きていることを見れば明らかです)を開始した。モディ政権率いるインド政府は、RSSがマニプールで何をしているかをもちろん知っているが、知らないふりをして我関せずというわけだ。

◆「マニプール州に住んでいるナガの人々も多くがクリスチャンですが、直接の被害を免れている理由は?」:実は数からいうとメイテイはマイノリティーで、その居住区はインパール周辺のわずかな面積にすぎない。でもBJP が背後にいるから強ぶっている。もしもナガにちょっかいを出したら、クキとナガに挟まれているメイテイは行き場を失うだろう。 「解決の目処は?」:クキ族は州政府から独立した行政を望んでいるが、それを許したらナガは黙っていないよ(確かに! ナガの人たちはそのために70年近くも戦っている!)。Time heals.(時が解決する)って言うだろう? それしかないんじゃないかな……。

◆インパールにあった司教館(地元でのカトリック教会の本部のようなところ)も焼かれてしまい、司教さんはディマプールに避難してきました。学生たちは勉学を続けるためにツテを頼って他州に逃れてきていることはお伝えした通りです。最近はインド国内のメディアもあまり取り上げないようですが、悲惨な状況は延々と続いています。一体いつになったら解決する時がくるというのでしょうか……。[延江由美子

    ★      ★      ★

■スライド・トークショウのお知らせ

 場所:冒険研究所書店(小田急江ノ島線・桜ヶ丘駅東口前)
 内容:ナガとカシの人々に絞りましたが、時間の許す限りマニプールで起きている紛争や今回の滞在のことにもふれたいと思っています。
 日時:1月28日(日)午後3時から2時間くらい
 会費:1000円
 予約:冒険研究所書店 https://www.bokenbooks.com の「CONTACT」よりメールをお願いします。

横浜エモ散歩〜憧れの『シウマイ弁当』の向こう側

◆12月14日午前10時の山手駅。ついにこの日がやってきた! 「いつか横浜生まれの江本さんと一緒に横浜を歩いてみたい」。数か月前から僕と江本さんでこっそり計画していた企画、通称『横浜エモ散歩』。発送作業仲間に声をかけ、江本嘉伸、車谷建太、高世泉、長岡竜介、長岡のりこ、伊藤里香、白根全、武田力、長野亮之介の総勢9名が改札口に集まった。江本さんはこの日のためにとっておきの散歩コース(構想30年!?)を考え抜いてきてくれたご様子。一人一人に一枚の地図が手渡されていざ出発!

◆いつもは榎町センターで顔を合わせる面々が江本さんを先頭にカルガモの如く隊列を組み、談笑しながら進む。この歳になってのこの遠足感! ワクワクしながらひとつ目の坂を登り切ると、創立100周年を迎える江本さんの母校、神奈川県立「横浜緑ヶ丘高校」が。60年ぶりの訪問と、感慨深げな江本さんを校門の前でパチリ。少し移動して隣の「本牧山頂公園」からは遠くに海が見える。手前にはタンクがずらり。お茶を一服しながら「石油コンビナートは余計だな」と江本さん。

◆一帯は丘陵地のため、登り降りを繰り返すのだが、丘の上の住宅地の細道を江本さんは迷いなくスイスイ進んでゆく。それもそのはず、この先には生家があるんだそう。「いまは埋め立てられているけれど、昔はすぐ側が海だったんだよ」。ふんどし姿でこの道を駆け降りたり、秘密の地図を作って他所の家の庭の木で遊んでいる当時の江本少年がありありと目に浮かんでくるのがなんとも微笑ましい。

◆生家前の小さな公園で、この場所が防空壕だったという話を聞く。体験者の江本さんの口から直接聞かなければとても信じられない程に、そこは今は静かで平和な空間だった。続いて訪れたのは根岸競馬場跡地。1930年に建てられた一等観覧席が現存していて、レース場だった敷地が今は森林公園となっている。モンゴルの草原みたいな広大な芝生のど真ん中に皆で輪になり昼食を食べることにした。

◆取り出しましたるは崎陽軒の『シウマイ弁当』。以前四谷の江本さんのお宅でご馳走になって以来、僕はこの弁当の大ファンになってしまった。俵型ご飯(小梅、黒胡麻)、シウマイ、鮪の漬け焼、蒲鉾、鶏の唐揚げ、玉子焼き、筍煮、あんず、切り昆布&千切り生姜。おかずのラインナップとご飯の分量のバランスが奇跡的に完璧なのだ。青空の下での最高のシチュエーション。弁当発祥の地横浜(1954年販売開始)でこの感動を皆と共有できた思い出を僕は一生大切にしたい。

◆ここからしばらく丘の道を行く。今日の散歩は丘歩きなのだった。いったん街に降り、麦田町という昔市電の車庫があった平らな通りに出るが、すぐまた反対側の丘に登っていく。銀杏の綺麗な公園を抜け、階段を登っていくと、キリスト教会やテニス発祥の地、そして高校生だった江本さんにとって「雲の上の存在」だったフェリス女学院が。そこからが有名な「山手の丘」なのだった。

◆しゃれた洋館や教会、そしてカフェを見ながらゆっくり進むと左手に外国人墓地が。横浜の街を一望にする景観に感嘆しながら進むとやがて「港の見える丘公園」の展望台に出た。ジブリ映画「コクリコ坂から」に登場する船の国際信号旗がはためいている(1963年横浜を舞台としたこの映画の主人公は江本さんと同世代)。おかげで僕は映画の記憶と、目の前の横浜ベイブリッジやガンダムの風景を重ねて楽しむことができた。

◆ここで丘散歩を終え、元町のカフェで江本さんの思い出話に耳を傾ける。持参してくれた小学校時代の通信簿や母君の写真などを楽しく拝見した。江本さんは新聞社の横浜支局にいたことがあり、当時ソ連のナホトカと横浜を結ぶナホトカ航路の客船、バイカル号やハバロフスク号は格好の取材場所だったという。

◆ロシア語を習得した唯一の新聞記者だった江本さんは横浜港沖で検疫待機中の船にいち早く乗りつけて、サーカス団員やスポーツ選手、あるいはヨーロッパアルプスの壁に挑戦する日本人クライマーらの取材にあたった。船内はソ連そのもので、濃いコーヒーとコニャックを一緒に現地流に飲むのが楽しみだったのだそう。

◆最後はやっぱり中華街。昔の記憶を辿って入った台湾料理店「福楼」が僕達大所帯をすんなり迎えてくれた。ビールと共に卵焼き、アヒル料理、魯肉飯など本場の味を堪能しているとなんだか皆で台湾旅行をしているよう。参加者は満面の笑みで帰途につき、『横浜エモ散歩』は大成功を収めた。

◆振り返ってまず思うのは「みんなで歩くって、それだけですごく楽しい!」ということ。遠足は子供だけのものじゃない。どんどんやるべきですね。山手駅を起点とする散歩コースは実に見事な構成で、昔を思い出しながらしみじみと歩く江本さんと並んで当時の情景を追体験することで、かけがえのない横浜の記憶を胸に刻み込むことができました。江本さんありがとうございました! またお願いします![車谷建太

江本さんと行く横浜散歩と私のファミリーヒストリー

■12月14日、江本さんと行く横浜散歩に参加した。私が参加した理由は昨年の父の葬儀の際、久しぶりに親戚が集まり、祖母の思い出話をする中で、自分自身のファミリーヒストリーに想いを巡らせたことに端を発する。両親と年齢の近い江本さんがどの様に育ちどの様に仕事をされて現在に至るのか、スーパー江本像に迫ってみたいと思ったからだ。江本さんの生まれ育った地を巡りながら、生家の前に防空壕や井戸があったこと、B29だったのか、何度も爆撃機が飛んでいく中をその防空壕に避難したこと、戦後はそこにいも畑をつくったこと等、幼少期のリアルな戦争体験を伺った。

◆私の両親は父が昭和17年、母は18年生まれで、江本さんと同じく幼少期に終戦を迎えた世代である。母方の祖父は満州鉄道で働いており、現地に渡っていた祖母と結婚、母は満州からの引揚げ者である。母は3歳前に引き揚げたので、満州での記憶はまったくないと言うが、熊本県天草の祖父の実家に身を寄せ、そこで近所のおばさんが、伊勢えびを食べさせてくれたことはよく覚えているという。その後、祖母の出身地の北海道に家族で渡ったという。当時満州では娯楽といえば麻雀で、祖父母は現地の中国人に麻雀を教わったらしい。そういえば私が幼いころはお盆やお正月に親戚が集まると大人たちはジャラジャラと麻雀をしていたっけ。

◆我が家では祖母から母へ、そして私へと受け継がれたものがある。それは祖母が満州で教わってきた水餃子だ。お客様をおもてなしする最大のご馳走が水餃子で、残りを翌日に焼いて食べるのだと伝え聞いている。残念ながら皮の作り方は母も教わっていないので、これから探究していきたいと思っていることの一つである。

◆話を横浜散歩に戻そう。江本さんの出身高校へ向かって坂道を上っていると、当時、女学生のコーラスが奏でる「故郷を離るる歌」が窓から聞こえてきて、涙が出るほどに美しかったと語ってくださった。何かが私の記憶に引っかかる。「どんな歌でしたか?」という私の問いに、♪「園の小百合 撫子 垣根の千草〜」から始まる一番を淀みなく歌って下さった。吉丸一昌作詞のドイツ民謡だ。約30年前、音楽大学を卒業したてのころに伴奏をした女性コーラスのことを思い出した。

◆指揮者の先生は大正生まれの方で、文部省唱歌や童謡をこよなく愛し、情緒と美しい日本語で歌うことに重きをおいた指導をされていた。私はピアノ教室で指導するときに数年前から危惧していることがある。それは若者や子どもたちが日本の唱歌や童謡をほとんど知らないということと喜怒哀楽の「哀」の表現力が乏しいと感じることだ。

◆学生時代に現代曲だったものも、四半世紀経てば、もはや近代曲に分類される。時代の流れに沿って新しきものを取り入れ進化していくことは重要だが、古き良きものは忘れ去られていくのだろうか。否、私にできるやり方で伝え繋げていこうと思う。そのコーラスで伴奏した忘れられない2曲がある。「椰子の実」と「鎌倉」だ。「椰子の実」は小学校の音楽の授業で習ったと記憶しているが、戦争の歴史に起因する歌詞の意味を理解するようになったのはこのころだと思う。

◆「鎌倉」は七里ヶ浜から始まる鎌倉の風景を淡々と八番まで歌うだけなのだが、古を語る物悲しいメロディーが何とも心に響くのだ。次は江本さんと是非とも文部省唱歌「鎌倉」の地を散歩したいものだ。さて、横浜散歩も終盤。カフェで一息つきながら、記者時代の貴重な話を伺う。ナホトカ航路に乗って取材したこと、田部井淳子さんのエベレスト登頂の緊迫した現場。臨場感溢れる話に引きずり込まれた。江本さんにとって新聞記者は真に天職だったのだなぁ。

◆最後に少しだけ父のことを書こう。父は熊本県の山間部の農家の生まれ。裕福な家ではなかったので、高校進学を諦め、農家を継ぐことにも抵抗して家出したという。当時の武勇伝はよく聞かされたものだ。その後、叔父に諭されて陸上自衛隊に入隊し、定年まで勤め上げた。北部方面隊(北海道)に配属され、津軽海峡を渡ったときには流石に涙がこぼれたという。父の故郷を想う気持ちは私が大切にしていこうと思う。それにしてもこの横浜散歩、とにかく坂が多かった。「この坂道をただ苦しい道と思って歩くのはつまらないでしょう。こういう坂道こそ楽しまなくちゃ」と歩みを進めていく江本さん。人生の師である。[長岡のり子

イラスト-6

氷に消えた山崎哲秀さんのこと

■12月2日、大学の音楽サークルの同期会で京都に来ていた。会は夕刻からなのでそれまで懐かしい母校周辺を歩いていた。13時48分。地平線関係者よりメールが入る。確認してみると山崎哲秀さんがグリーンランド、シオラパルク村をベースに海氷調査を行っているアバンナットプロジェクトが添付されていた。

◆はて、この人と山崎さんって知り合いだったかな、と、不思議に思いつつ添付を開く。すぐ目に入ったのが「このたびは残念なお知らせがあります」の一文。どうしたんだろう。資金繰りが苦しくなったのかな、と、続きを読む。

◆「山崎哲秀が北極アバンナットプロジェクトにて活動中のグリーンランドシオラパルク村で、現地時間11月29日(日本時間11月30日)遭難しました。海氷に落ち、行方不明となっております。状況から生存の可能性は見込めません。遭難初日、現地の警察の方がヘリコプターで海氷上を捜索し、現在も引き続き、村の方々による懸命な捜索が続いておりますが、現時点では本人の発見に至っておりません」

◆なんだ、これ。意味は理解できるが内容が理解できない。もう一度読み直してみる。西日が差す公園のベンチで動けなくなった。山崎さんの知り合いを思い浮かべて、ハッとする。そういえば京都伏見の仲間が昨日、心が崩れる出来事があったとFacebookに書いていた。彼女は知っている。だけどあの言葉を思い出すと、今すぐには聞けない。誰かと話がしたい。山崎さんをよく知っている誰かと。

◆すぐに浮かんだのが日本アドベンチャーサイクリストクラブの永谷彰朗さんだった。僕らは3人で何度か講演会もした。電話に出た永谷さんは「1か月ぐらい前かな。グリーンランドに行くときに話したよ。帰ってきたらまた一緒にキャンプしようって」と言って、言葉につまった。もう極地関係者から連絡が入っていると思いつつ、江本さんにも電話する。一人で抱えきれなくて電話してしまったが、この情報は拡散してよかったのだろうか?

◆電話しているうちに本来の目的である同期会の時間がきた。卒業以来会っていないメンバーもいて楽しみにしていた会だった。でも今はどんな顔をして会ったらいいのかわからない。うっかり話題にしたら気持ちを制御できないので、一度事故のことは心の奥に沈める。

◆東京に帰り、もう一度文面を見直す。山崎さんはセイウチに襲われた可能性がある、と書かれている。セイウチ? ネットで調べると水族館のページが出る。人になつくかわいい生き物として紹介されている。誰かこの件についてわからないのか? 脳内検索するとアラスカポイントホープで鯨漁に参加している高沢進吾さんが浮かぶ。

◆Facebookを見ると、高沢さんはすでに山崎さんの事故情報を出している。メールすると、もう朝日新聞にも出ているとのこと。セイウチについては「人を襲うことはあります。ただ襲って食べるとかではなく遊びですね」という返事。怒りがこみあげてくる。「なにやってんだセイウチ。その人は地球温暖化の調査をしてたんだぞ。オマエらの未来にも関係してるんだぞ」

◆個人の感想だが、冒険、探検は世の中に役には立たないと思っている。ただ例外はあって、それが山崎さんなのだ。山崎さんは「役に立つ」探検家だった。それも人類というスケールで。

◆3年前、テレビのバラエティ番組「突撃!カネオくん」に山崎さんが出ていた。カネオくんの「おぬし、さぞや儲かってんだろうな?」の決め台詞に「ボランティアなので費用の捻出が大変です」と笑顔で答え、ゲスト全員が絶句。見ていた僕も絶句してしまった。アバンナットプロジェクトは個人の趣味ではなく、研究者のサポートもしているのだからどこかが費用を出していて当然だと思っていた。番組を思い出すと記憶も蘇る。山崎さんの言葉は意味そのものだった。

◆下心が何もないから「地球温暖化」や「自然や人々を守りたい」なんて言葉もまっすぐに届く。録画を止めて見ると、ゲストの表情にも言葉が刺さっているのが一目瞭然だった。

◆もっと情報が欲しい。思い切って「心が崩れた」とFacebookに綴っていた京都伏見の仲間に連絡してみる。東京に引っ越して疎遠になった僕と違い、彼女は支援グループの中核にいる。現地時間11月29日朝、彼女は山崎さんと電話で話している。最後の言葉が「9時になったら買い物に行って、その後に活動でるね〜」だったという。いつもの明るい山崎さんだったそうだ。

◆山崎さんは金棒だけを氷上に残し、神隠しにあったようにこの世界から消えてしまった。何かに命がけで挑戦していた瞬間においてではなく、いつもどおりの時間の中で。

◆江本さんから何か書いて、と、依頼がきてから1か月がたつ。この件に向き合おうとすると何もできなくなる。年末の忙しい時期に時間をとめられず、「忙しい」という理由で逃げている自分を許せず、今に至る。山崎哲秀は尊敬できる友達だった。[坪井伸吾


今月の窓

しあわせな死

〜自然の循環に命を委ねる〜

伊沢正名 

■若いころから私の願いは、良い自然環境の中で自然と共生した暮らしを送ること。ところが人間は、他の多くの生き物を食べて殺し、その命を奪って生きている。しかも食べて消化吸収した後の残りを汚いウンコに変え、トイレに流したウンコの最終処理は焼却灰をセメントの原料にしてコンクリートに固め、生き物の世界には戻さない。しかし自然はよくしたもので、ウンコや動植物の死骸は菌類が食べて分解し、大地を肥やして植物を育て、新たな命に蘇らせる。そのことを知った私は1974年1月1日、菌類の助けを借りて食べて奪った命を自然に返そうと、トイレではなく裏山の林へ行って野糞を始めた。

◆それ以来延々と続く野糞生活は2023年の大晦日で丸々半世紀を迎え、この間にした野糞は16263回。15年には舌癌治療で9日間入院したり、都会のホテル泊まりやたまに海外旅行にも行くが、それでも21世紀に入ってからの23年間でトイレに流したウンコはわずか17回。そして連続野糞の最長記録は13年と45日、4893日だ。生涯トイレなどに縁のない先住民にはかなわないが、文明社会で暮らす者としてこの数字は自負してもいいだろう。

◆2000年6月1日に始めた野糞連続記録は千日達成までは必死だったが、それを過ぎるとやる気を出すためにライバルが欲しくなった。ちょうどそのころ大リーグでは、イチローが200本安打の連続記録を着々と積み上げていた。密かに彼をライバルに仕立て上げ、10年で記録が途絶えたときにはイチローを超えた喜びに独り悦に入った。そんなこともあってか2013年7月16日に新宿駅のトイレで記録が途切れたときは、悔しさよりも記録挑戦への肩の荷が下りたことで、むしろホッとしたくらいだった。

◆閑話休題。最もわかりやすい命の循環は食物連鎖だろう。植物は光合成で有機物を作り、その植物を草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、さらに強い肉食動物がそれを食べる。この連鎖は下位の者より上位の者が数量的に少なくなければ、下位の者は食い尽くされて成り立たない。ところが実際には、雑食ながら人類がこの連鎖の頂点に君臨し、自然の摂理を遙かに超えた膨大な数でこのバランスはすでに大きく崩れている。それでも農業や養殖漁業などで生産性を上げながらここまで食い繋いできたが、近年の急速な人口増加は更なる食料や資源エネルギーを必要とし、広大な森林を皆伐して農地にするなどの環境破壊はすでに危機的状況に陥っている。おまけに遺伝子組み換えやゲノム編集など、生き物の世界に将来何が起こるかわからない危険な領域にまで踏み込んでしまった。

◆これまでは「食は権利、うんこは責任、野糞は命の返しかた」という糞土思想で人と自然の共生を考えてきたが、ここまで状況が悪化するともっと根本的な解決策が必要になる。それは生態系のバランスを取り戻すための大幅な人口減少で、積極的に死を受け入れることも考えなければならない。とはいえ、辛く悲惨な死はお断りだ。そこで考えたのが、納得して受け入れられる、できれば悦びさえ感じられる死を見つけること。それが私が探究している「しあわせな死」の本質で、単に死の恐怖を遠ざけるような心情的なものではなく、むしろ科学的でさえあると思う。

◆死が嫌がられ遠ざけられる一般的な理由としては、「死は終末」とか「死後どうなるかわからない不安」があると思う。だが私はこのことについて、ウンコを通して答えを見つけた。まず最初に、死とは自分の体が死体になること。つまり死んだ有機物で、物質としては食べられた生き物の最後の姿であるウンコと同じようなものではないか。

死体はウンコだ

◆野糞をして土に埋めたウンコがどうなるかを調べた「野糞跡掘り返し調査」では、ウンコのゆく末、つまり将来は、獣や虫に食われて彼らの命になり、菌類に食われれば菌の命になり、その菌のウンコは土中の無機養分と二酸化炭素になって植物を育て、植物の命になる。現在の日本を覆う火葬一辺倒を改め、土に還る土葬や風葬、水葬などの自然葬を実現する必要はあるが、だから私は死期を悟ったら、こっそり人間社会を離れて自然の中で野垂れ死ぬのを望んでいる。その意味でも食えなくなって徐々に死に向かうのは、理想的な死に方だと思う。

死んだ後は動物、菌類、植物に生まれ変わり、新たな命になって生き続ける

◆食べて奪った命を返して自然と共生する糞土思想に則れば、死は終末でもなければ死後の不安もない。さらに言えば、生きている限りは食べて命を奪い続けなければならないが、死ねばもう命を奪わずに済むのだ。自分の生の裏には必ず相手の死があり、死の裏には与える生がある。これも愛という大きな幸せではないだろうか。更にさらに、死には生きているとき以上の大きな力もある。

◆脱原発や環境保全でも積極的に活動した音楽家の坂本龍一さんは亡くなる直前に、神宮外苑再開発の樹木大量伐採を止めるよう小池都知事に手紙を出した。そのことをきっかけに、多くの人が坂本さんの遺志を引き継ごうと神宮の森伐採反対運動に次々に立ち上がり、9月に予定されていた伐採開始は延期になった。もしこの手紙を坂本さんが元気なときに書いていたらどうだろう。死の直前の行動だったからこそ、大勢の心に強く深く響いたのではないか。死に際しての言動は、生前の活動より遙かに強い力を発揮する。しかしこれは、命を返す日々の野糞とは違い、生涯で一度しか使えない貴重な力だ。それだけに、最期の切り札として「しあわせな死」がある。[伊沢正名 糞土師]


あとがき

■ことしは辰年。実は、年男である。暮れになってから気がつき、「そうか。72歳になったか」と思いかけ、待てよそれはプーチンのことと気づいた。ひぇー、84歳ではないか。しかし、考えてみればここまでくれば遠慮することはないな。これでも年寄りが(地平線なんて)いつまでやっているんじゃ、と言われる(たまにそう聞く)のをすこしは気にしているから。

◆そんなわけで12ページを参照あれ。若い時のけして世に出ないはずの日記の断章を通信の埋め草として掲載してしまった。日頃から若い友人たちに「自分を記録せよ。けしてムダではないから」と言ってきたが、その証しでもある。かって宮本千晴が「地平線会議は江本の天職だ」と言い切って驚いたことがあるが、最近は自分でもそんな気がしてきた。世代交代は自分が考えなくても自然にそうなるものだし。

◆とはいえ、私が本気になるのは若い世代の発掘である。その上で円熟した大人の中にも新たに何かを発見する楽しみがある。44年地平線をやってきた者の特権とも言えるだろう。皆さん、これからも楽しませてね。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

天辺を巡るアレコレ

  • 1月27日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「世界の登山界で話題になってる『真の頂上(True Summit)』問題が興味深いです」と言うのは写真家の石川直樹さん(46)。「例えば'56年にマナスル(8163m)に日本人が世界初登頂したとき、山頂から数mズレたところに旗を立てた。尊敬すべき偉大な登頂なのに、厳密にはピークを踏んでいないのかも?と言う声が出てくる」。8000m峰14座のうち13座に登った石川さんもこの議論の検証の為に'22年にマナスルを登り直しました。「呼吸もままならない超高所で、わずかな差なんてどうでもいいとも思うけど、登頂とは何か?と考えるのが面白い」と石川さん。

昨年11月には自身の14座目となるシシャパンマ(8027m)に挑みました。頂上まで200mほどの地点で、先行して競い合っていた米女性登山家2パーティの遭難を間近で目撃。撤退します。「余りにもピンポイントの二度の雪崩で、普段超自然的なモノを信じない僕も一瞬怖かった」。

今月は石川さんにヒマラヤの山々について今考えていることをお話し頂きます!


地平線通信 537号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2024年1月17日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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