
2月18日。穏やかに晴れている。冬季オリンピックがたけなわだ。きのう17日は木原龍一(33)、三浦瑠来(24)の「りくりゅうペア」がなんとフィギュアフリーで金メダルを取った。なんと、と言ってしまったのは、フィギュアのペアだけは日本の選手には不可能領域と思い込んでいたせいだ。
◆1972年2月3日から13日まで開かれたアジア初の冬季五輪を札幌で取材した。トワエモアの「虹と雪のバラード」の曲が流れる札幌の街は白く、美しかった。笠谷幸生はじめ3人の「日の丸飛行隊」のメダル独占の瞬間も現場で見届けたし、氷上で尻もちをつきながら銅メダルを得たフィギュアのジャネット・リンの愛らしさは格別だった。
◆日本選手がフィギュアで、ましてペアで活躍するなんて夢の夢だったあの時代を思うと皆、すごいレベルだ。そしてハーフパイプなどボード種目で活躍する若いアスリートたちは自分たちで道を切り開いているところがすごい。そんなわけで、日本チームは今日までに冬季五輪の日本の記録となる「メダル19個」を達成してしまった。
◆2026年2月8日は、自民党が歴史的大勝をした日として歴史に記録されるだろう。日本初の女性首相、高市早苗が仕掛けた勝負は世界を驚かせる結果となった。開票が終わってみれば、自民は公示前から118議席も上回る「316議席」という戦後初の大議席を獲得したのである。野党の中道改革連合は公示前の167議席がわずか3割の「49議席」に凋落、「高市一強」の勢いにもう何も言えない状態になり下がった。
◆驚くべきことだ。国民が選んだこの“惨状”をどうしたら動かせるのか。きょう18日からの通常国会を前に自民党は17日「新人議員研修会」を開き、不用意な言葉は慎むように伝えたという(読売)。20年前の小泉元首相の郵政解散で誕生した“小泉チルドレン”の一部に「料亭に行きたい」などひんしゅくを買う発言に批判が集中したことへの反省だ。自民党の新人議員の中には、数合わせのための立候補で実際に議員になるとは思っていなかった人がいる。その代わり、国会に残って気を吐いてほしい、と思う野党議員の多くは消えてしまった。国会の実態は実は無残なものだ。日本はどこへ向かうのか。高市さんは何を仕掛けるのか。
◆1月の地平線報告会は、平靖夫という異才を迎えて不思議な展開となった。事前に本人からは概要は聞いていたのだが、いざ始まってみると写真も音声もなく、1時間そこそこで本人はもう話し終えました、という雰囲気。2ページからの報告会レポートはそんなわけで異色なものとなった。観文研(日本観光文化研究所)が発行した『あるくみるきく 126号』「志賀高原の自然——雑魚川辺——」という特集(1977年8月発行)は平靖夫が全編を書いた貴重な記録だ。入手しにくいが、そういう資料があることをお伝えしておく。
◆ところで、その報告会だが、今月だけはお休みする。いつもの会場が確保できないので他の場所を探したが、なかなかない。思い切って地平線会議誕生の頃利用させてもらっていた懐かしい赤坂のアジア会館も調べたが、とても高くて手が出ないレベルでした。まぁ、ホテルだからね。よし、たまには休むのもいいか、と決めた次第です。
◆今年になって我が人生始まって以来の体験があった。気功というものに初めてふれたのだ。それも2回。気功の力を持つ先生が私の腕や首のあたりを軽くさわるとぶっとぶような痛みに襲われ、思わず跳ねてしまった。先生はほとんど何もしていないのに。痛みを感じること自体、からだのどこかが悪いということなのだろうか。しかし、どう痛いのか実は表現もできない。うーむ、人生にはこんなことがあるのだ。衝撃である。[江本嘉伸]
■年始めの報告会。山形県からはるばる登壇したのは平靖夫さん(80)。事前に江本さんより頂いた資料には、『法政大学探検部を創設。全長75kmのクロスカントリーを10か国で完走。日本観光文化研究所に在籍。地元山形で環境保護活動…。』とある。それに加えて、60歳にして山伏の修行をされたという。「これはさぞや有難いお言葉を頂けるに違いない」。毎年目黒不動尊での新年護摩祈願が通例となっている僕はワクワクしながら会場へと向かった。
◆スクリーンを一切使わず、壇上に静かに座り思いのままに語り始める平さん。僕はその一言一言を聞き漏らすまいと全神経を集中させてメモを取る。しばらくして脳裏によぎったのは、「……ん? 意味が全然わからないぞ? 一体何のことを話しているんだろう……!?」。僕は瞬時にパニック状態に陥った。起承転結は度外視され、ご本人からはそのみごとな行動年表のお話が一向に出てこない。飛び石の如く展開されるお話はご本人の中では辻褄が合っていても、初見の人は置いてけぼりをくってしまうのだ。
◆慌てた江本さんが会の途中に質問を投げかけるも、気がつくと平さんの姿はそこになく核心は霧の中という前代未聞の報告会。これは事件です。なので今回のレポートは「平さんはこういうことをお伝えしたかったんじゃないかな……?」という僕の憶測も込めつつ書きますので、皆さんも一緒に魅惑の霧に包まれた平さんの思想の森を探検いたしましょう!
◆今回一番楽しみにしていた山伏のお話から。早期退職で岩手県への移住を期に平さんは山形県羽黒山の山伏修験に入門する。探検部時代に中央アジアに行っていた経験から、シルクロード経由の古い仏教の流れを汲むお寺の山伏(明治時代には迫害されていた)を選んだという。「まずは自分たちの葬式をして、次に死んでから再生し、修行により満願を果たして帰ってくる」。皆の目に見えるところでは滝行や相撲や火の上を歩いて渡ったり……。
◆しかし肝心な修験の内容は「喋ると破門されるわけ」。笑みを浮かべる平さんに僕は思わず「オーマイガー!」と叫ぶのであった。修行の「お山がけ」以降は地下足袋を履き、「山には行っても頂上は踏まない」ソフトな山登りに意識的に変わったのだそう。シーズンの初めには在居でこれまで逝った多くの仲間たちを想いながら護摩焚きならぬ「お焚き上げストーブ」をしている。羽黒山での修行は一度きり。その後は「自分だけの山伏」として、日々の暮らしのなかで自分なりに深めているところが実に平さんらしい。
◆遭難で亡くした仲間も少なくない。平さんご自身も1974年にヒマラヤで対岸の峰から谷中に拡がる物凄いスケールの氷の雪崩を目撃している。このころからかつてない頻度で大きな事故が発生するようになり、原因を探ると気候変動などの様々な問題が出てきて、知るとやはり恐ろしい。当時の命を惜しまない登山家を横目に、「人の命は絶対に失ってはいけない」という信念のもと、平さんが今回何度も仰っていた『逃げるが勝ち』という人生を一貫した精神がこのころから根付き始めているように僕には感じた。
◆ここで平さんの独特な語り口についてそのままお伝えしておきたい。江本さんがスキーの話題を振ると、「僕にとってスキーは誰にも捕まらないように逃げるための道具だったんです」と返ってくる。 →(逃げると言えば)カモシカの駆け上がる心肺機能の強さの解説。 →(滑ると言えば)スキーに塗るワックスの摩擦抵抗の仕組みと、昔はクジラの油が最適だったお話。 →電気の時代になったらもっと欲しいと今度は原発の時代となる。20世紀は自然に憧れ、自然を壊してきた。「そのままでいいのか?」。 →いま競技の世界では勝ち負けや速さだけではない情報が見落とされている。選手個人の主張やノンセクシャルの多様性。自分たちベビーブーム世代は「追い越すことが人生」で辛かった。これからは「競争」ではなく、「共走」や「共奏」といった楽しみのある形もあるべきとの持論を語る。 →このように想定を超えて様々な分野の思想のお話へと派生してゆくのである。
◆しかし今振り返ってみれば、このお話の展開は今回平さんが最も伝えたかったことへの伏線のようにも感じる。平さんは唐突に原爆のお話を語り始めた。原爆が投下されて以降、進駐軍による報道管制の敷かれた日本では、アサヒグラフによる初めての正式報道がなんと7年後の昭和27年だったという。当時小学生だった平さんはそこで初めて知った感覚を記憶している。被爆した人たちが長年に亘り喋ることが許されなかった空白の7年間があったのだ。今歴史を勉強しようとしても抜け落ちているような事実。平さんご自身はオリンピック競技としての宣伝活動のなかで「1%でも真実があればそれを100倍くらいにしてPRする方法」を学んできたが、「でもウソは作れなかった」。今はウソを作ることが要求され、その大量に信じてもらえた事実の方を大事にする時代になってきていると話す。
◆そして今は被爆した世代から傾聴できる最後のチャンスだとも。地平線会議の人たちのなかには実際に戦場に赴き行動する人がいる。そうでない人たちにも「他人事」と思わずにできる同質なこととして、身近な人からの傾聴の大切さを挙げる。実際の体験や身近な傾聴のなかで、どんなふうに理解してゆくか。自分たちが残せるものがあるとしたら、それを紡いでゆくこと。「未知と無知。その暗闇の先の見えない真実を探ることこそが探検であり冒険だと思う」と語り切る平さんの目はこの日一番に輝いていた。
◆現場で感じ、自分の頭で考えて血肉に変えてゆく。そんな平さんの人生において最も重要だったフィールドワークの一つ。それは1968年。法政大学探検部として3名で挑んだカラコルム越冬でのことだった。インドとパキスタンの情勢が急速に悪化し、戒厳令により登山どころではなくなりメンバーは空中分解してしまうのだが、平さんは一人現地の村に留まり、結婚式に参加したりと次第に馴染んでゆく。お土産に洋服を作ろうと仕立て屋に行ったところ、次に連れて行かれたのは山の牧場だった。「どの色の山羊で作る?」と聞かれ、1〜2か月をかけて山羊から洋服が縫い上がるまでの本物の現場を目の当たりにすることに。登山の断念はあったが、このホームスパン(手作業で紡がれる毛織物)との出会いこそがかけがえのないフィールドワークだったと振り返る。この日も40年前に仕立てたハリスのツイードを身に纏っていた平さん。とても丈夫で大事に手入れすれば一生着られるそうだ。
◆ 天然物の毛織物はそのまま畑で分解されるが、ユニクロ製品はそうはいかない。洗濯時に出るカスは海に流れるとなかなか浄化されないという。海を望む酒田市にお住まいの平さんは、この10年間鮭の放流活動にも従事されているが、4年を周期に毎年何万匹と帰ってくる鮭が去年は10〜100分の1に激減している。ほかにも松林の松枯れ問題の本質は地球温暖化といわれているが、実際には表には見えない農業用水や松の木につく菌根菌などとの関連性があることなど、「真実から遠ざかる現状に我々はどう向き合うか?」という問題提起が続く。
◆スキーで初めて行ったフィンランドとのご縁から、天皇をお連れして一緒に滑った経験もあるという平さんは、似たような環境と文化を持ちながらも、長年交わることのなかった先住民サーメとアイヌの人たちとの初めての民族間交流の実現に尽力。当時は国連先住民会議よりも先駆けた画期的な試みで、このときアイヌの代表として選ばれた白老町の人たちが今日のウポポイの活動に繋がっているという。ここでもっと現場での交流の様子を詳しく聞きたいと会場から質問が飛ぶも「その直接的な答えは何処に行ったんかーい!」とツッコミたくなるほど全然話してくれない平さん……!
◆そんな話の流れのなか、前半の最後に平さんはあまりにも突然に娘さんを殺害された過去を話された。衝撃的な告白に会場にはギュッと緊張感が張り詰める。そして平和についてご自身の考えを静かに語り始める。それは平和とは憲法9条だけでは成立せず、人権(24条)と掛け合わさって初めて実現するのだというお話だった。人の命を一番に大切にしてきた平さんに起きてしまった非情な体験。ご自身のなかでその無念を昇華させることがどれだけ過酷だったかを想わずにはいられなかった。
◆ 会の後半では平さんの人柄をズバリと表現したお二人のお話がとても印象的だった。この日60年ぶりの再会を果たしたという北村節子さんは、新聞記者駆け出し時代に若かりし平さんの平節により、環境を考えるうえで “衝撃の目から鱗体験” だったエピソードを語ってくれ、観文研時代を知る宮本千晴さんは、あらゆる分野で一人黙々と探求を繰り返してきた平さんの印象を『放浪の思想の探検家』と表現した(お二人の投稿にその内容は詳しく)。「彼のストーリーをまだちゃんと聞けたためしはない(一同笑)。いずれはみんなに示してくださいよ」との激励を受けた平さんは「逃げてばかりで無責任な人生だったという自己嫌悪の塊でした」と吐露。それでも自分を育ててくれたフィールドや人々に対する恩義は何よりも大切だと感じていて、人生の局面で陰ながら自分なりの恩返しを頑張っていると話した。
◆「逃げる」という行動のなかには生物としての生存本能が活きている。当時アルピニズムが主流だった登山界の潮流のなかで気候変動を学び、人の命との天秤に対する自分の考えを尊重していた平さん。環境問題の原稿に対し新聞社の人から「こういうことを書いちゃいかんぞ。これを書かなければずっと食える」と助言されるも身を引いた過去がある。そこには現場の体験から、仮に本流とは違っても自分を曲げない決断をする姿があった。その結果、平さんは人生を通じて、「好奇心の赴くままに様々な世界を縦横無尽に駆け巡り、実に多くの人間との交流を重ねて、(仮に今後誰にも語ることがないにしても)ご自身のなかで納得のゆくまで己の思想を深め続けた人なんだ」。と深く頷きながら感嘆する自分がいる。
◆脈絡がないようでいて、世界は思想は何処までも拡がってゆくことを説かれていたようなお話の数々。それはまるで一つの薪を焚べるとパチパチッと火の粉があがり、すかさず別の火の粉があがったかと思うと、その真相はボワッと煙のなかに消えてゆく……。平さんの人生の護摩炊きを間近で見つめているような不思議な余韻に包まれる時間だった。『自分で考えて、自分で理解して、自分で決めていく』。そんなお言葉を僕の心に残してくれた、ちょっぴり奇人で破天荒で仙人のような平さん。報告者の逃げ足に誰一人追いつけなかったという語り継がれるべき伝説的な報告会として、ここに記録しておきます(書ききれないことが山ほどあってスミマセン)。平さん、ありがとうございました![車谷建太]
平さんから「足を痛めて入院してしまいました。今月は『報告者のひとこと』は書けません。来月頑張ります」との連絡が。お大事に。[E]

イラスト 長野亮之介
■2026年初秋に予定している北海道での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを募っています。北海道地平線を「青年たちが集う場にしたい」、というのが私たちの希望です。交通費、宿泊代など原則参加者の自己負担としますが、それ以外に相当な出費が見込まれます。どうかご協力ください。[江本嘉伸]
賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口)神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵
★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸
■平君の話を聞きに行った。一度じっくり話を聞きたかったからだ。しかし補聴器を忘れたので話の内容はほとんどわからなかった。
◆平君は古い友人だ。でもじっくり話を聞いたのはずっと昔のことで、以後気にはしていても「いま何をしてるの?」と聞ける機会はあまりなく、人生や営みもほんの断片しか知らない。ただ、聞けばいつもちょっと恥ずかしそうな小声で「ヘえー、そうなの!」というような思いがけない言葉が返ってくる。平靖夫は控えめな心優しい人で、いまはまっていること、いま結論だと思っている具体的なことしか話さないから、ちょっととらえどころがないかもしれない。だが、実態はこの世を自分の目と体と頭で確かめないと気がすまない、そしていつも今の課題にはまっている探検少年なのだと思う。だから平靖夫は会うたびに新しい。不思議な人だ。
◆いや、不思議なのは、彼について具体的なことはほとんど知らない関係なのに、古くからの友だと安心して言えることの方だ。彼について具体的なことはほとんど知らない関係なのに、彼の人生は彼独自の探検による気づきと、体験的な探求と発見や確認の連続だったと勝手に理解しても間違いではないような気がすることの方だ。さらにいえば、それらの行動や思索は平にとってはまともな人の世を守るための探索なのだと言っても怒られはしない気がする。
◆といっても、これは古い友達という関係に甘えた勝手な妄想にすぎない。やはりそろそろ当人の口からその探検的放浪の物語を聞かせてほしい。なぜ法政に探検部をつくったのか。つくって何をしたかったのか。なぜ探検に惹かれる若者たちを繋ぎたかったのか。志賀高原で何を見たのか。自然について何を知っていったのか。知るための最先端の探求者に何を見たのか。山谷を自在に駆けめぐる技(スキー)に何を期待したのか。なぜ修験道なのか。そして何がいまやれること、今の人がやっておかなければならないことなのか、等々。わたしの知らないことはたくさんあるのだろう。たとえば生涯の行動年表をつくってみてほしい。そうすれば、みんなが「なぜ、なにを、で?」と聞き出していける。平靖夫を知りたい人は多いのだから。[宮本千晴]
■平さんとの接点は60年ほどもさかのぼる志賀高原の一夜。駆け出し記者だった私は当時、上高地など貴重とされる自然地区の保護活動に熱を上げていて、草木鳥獣虫魚、すべてアンタッチャブル、といわば前のめりの環境派でありました。そんな私に「タイラっていう兄ちゃんに会っておいで」とアドバイスをくれた人がいて、その人が志賀高原の素朴な小屋に住んでいる、との情報に「それなら」と出かけた次第です。彼=平氏は山中にひっそりと客もとらない小屋の主(山本さんという独特な仙人もどき)の居候でした。
◆暖房は薪ストーブ。薄暗く小さな小屋の一室は気持ちよい暖かさでしたが、その薪が周辺の森から得たものと聞いて私は「まずくはないか」とつっかかります。そこで彼が語ったのが、「海の向こうから来た石油を焚けば、自分の周囲は傷つかないさ。でも、ここの薪なら『これだけ暖めるにはこれだけの樹木を消費するのだ』と自覚できる。それがキモだ」という理屈でした。
◆あああ、とその一言で、私は今は広く言われるようになった「ライフサイクルアセスメント」の概念に気が附きました。あらゆる消費には、その消費や使用にいたるまでに用意される消費財すべてに思いをいたせ、というわけです。がりがりの保護主義だった青い私の開眼の一夜でもありました。なので平さんは、以来60年にわたって消費とかエントロピーを考える上での私の「師匠」でもあったわけです。
◆当時はどこか闘争的な雰囲気を漂わせていた青年が、今回のレクではにこやかな好々爺?に見えました。が、ちょっと禅問答風なお話には、「山伏に入門するには自分の葬式を出して、一度死んでから生き返る、というプロセスをへる(のじゃ)」といった説話風の物語が出たと思えば「長距離スキーの走行には、滑り係数と摩擦係数のバランスを考えてワックス決める」と工学部的な解説が出る~~やっぱり、好々爺と見せて、あの小屋の一夜同様、われわれになにかの「なぞかけ」をしていた、と思えます。これは師匠から次の宿題をもらったかな。今は思案投げ首状態です。[北村節子]
■岡村隆さんと酒を呑んだ席などで、法政探検部の創設者で直接の先輩でもある平靖夫さんについて、何度も話が出た。山に入ったときの強さとか、自然に対する独特の姿勢とか、人を巻き込むリーダーシップとかを得意そうに語ってくれるのだが、平さんが何をしているのか、どんな人生を歩んできたのかが、よくわからない。酔っぱらっているせいか、いつも「とにかく平靖夫はすごい!」という決め台詞でごまかされてしまった。
◆で、1月の報告会、これでいよいよ平さんについて知ることができるぞと期待していたのに、さらにわからなくなってしまった。平さんは主語や目的語をどんどん省略してしゃべる。さらに、センテンスの途中から時間と空間を飛び越えて他のエピソードに突然ワープする。思いもよらない例え話から深い思想的な話になったり、平さんの思考スピードにこちらがぜんぜんついていけないのだ。
◆後半のトークタイムで宮本千晴さんが日本観光文化研究所(観文研)時代の平さんについて語ってくれたが、20代から「放浪する思想家」だったという話を聞いて、なるほどと納得した。他の観文研の所員たちと違って、平さんにとって旅や自然のフィールドは、思索を深めるための舞台に過ぎなかったのだろうか。だから、そこから得られた自分の思想は語ってくれても、それに至るまでの過程はあまり説明していないのかもしれない。
◆最近の地平線報告会では珍しく、スライドも映像もなかったが、話だけだとかえってこちらの想像力が広がっていくのも面白かった。しかし、報告会レポートを担当する車谷君、大変だろうな。どんな平さんを描いてくれるのか、楽しみにしています。[丸山純]
■江本さん、ありがとうございます。昨日は平靖夫さんの話を聞けてよかったですよ。今日はさっそく『あるくみるきく』126号の「志賀高原の自然・雑魚川辺」を読み返しています。まさに「平靖夫像」が凝縮された1冊ですね。
◆さらにもう1冊、『あるくみるきく』169号の「雪の山野を駆ける・スキーラングラウフへの招待」をみつけました。昨日、平さんが話された75キロスキーレースのすべてがのっていますね。
◆『あるくみるきく』のこの号には、宮本常一先生の訃報も入っていました。[賀曽利隆 報告会の翌日に]
■(新年300字特集締め切り翌日の)1月6日の朝、外は寒いが快晴。「そうだ!塩尻に行こう」と思い立った。地元紙(よく登場する信濃毎日新聞)で紹介されていた平出和也展の最終日だったからだ。3月のダイヤ改正・運賃改定に伴ってなくなってしまう長野~松本・塩尻「信州往復切符」のありがたさを感じつつ、特急しなので向かった。
◆そうだ! ついでに、狭さで知られる塩尻駅の駅蕎麦を味わおう。待合室側にまわると、次から次へと客が訪れる。なかなかいいなあ。塩尻の図書館の中にあるコーナーで映像を見つつ、しばし佇む。自分は何者か~。しかし、この図書館はよくできた造りだなあ。市民に交じって新聞と雑誌を読みふける。この一週間後、新年初めての映画は「小屋番」。黒百合ヒュッテも登場した。
◆……新年早々、これまで仕事で西穂山荘に2回行ったくらいの私の前にやってきたこの二つ。これは何なのだろう? そして、新年二つ目の展覧会は、中畑朋子さんにご案内いただいた「花とみどり・いのちと心展」。そこで岡村節子さんにご挨拶させていただくことに。
◆ん~この展開は、いったい何なのだろう? どこに行くのだろう?と感じる2026年。[長野 南澤久実]
■地平線通信561号の発送作業は1月14日に無事終えました。江本は寝過ごして今回も二次会からの参加、埜口さんもせっかく久々に参加したのに榎町地域センターに着いたときはみんな引きあげた後。しょんぼり早稲田駅に戻る途中で、偶然「廿四味」の店内に坪井さんの姿を発見して、合流できました。坪井君が入口に近い席に陣取っていてよかった。作業に参加した(うち2人は二次会から)のは以下の皆さんたちです。
車谷建太 高世泉 中畑朋子 伊藤里香 中嶋敦子 長岡のり子 岡村節子 白根全 坪井伸吾 落合大祐 埜口保男 江本嘉伸
■念願だった10年越しの夢が、ついに形になりました。来月、国立民族学博物館で企画展 「ドルポ——西ネパール高地のチベット世界」を開催させていただくことになりました。 これは10年前に思い描いたことでした。 2014年、師匠・大西保が亡くなり、ドルポを歩いてきた国内外の先達が次々とこの世を去っていきました。そのころから私は、ドルポが大きく変わっていく気配を感じ、2016年にムスタンからドルポへの大横断を計画しました。
◆師匠から学んだことを、言葉ではなく行動で示したい。河口慧海師がチベットへと越境した道をできるだけ忠実に辿り、国境からは自らの読図だけを頼りにドルポ内部を横断する。約2か月、約600キロ、5,000メートル級の峠を10本以上越える旅でした。まだ静かだったドルポ、移動手段は歩くことだけ。私はその土地を、自分の足で一歩ずつ踏みしめて歩き切りました。
◆そして今、2026年。かつての歩き道に車道が延び、ドルポの内部にも車が入りつつあります。これは現地の人々にとって大きな大切な変化です。医療へ早くたどり着ける、物資が届く。けれど同時に、古い道が消えていくことに寂しさを感じる。それは外から来た者の勝手な感情ですが、あのとき歩き、記録し、撮影しておいて本当によかったと、今強く感じています。
◆あの横断の最中、ひとつの思いが芽生えました。ドルポの写真集を作り、展示という形でアーカイブとして残したい。 私がドルポを歩けたのは、決して1人の力ではありません。河口慧海にはじまり、西北ネパール登山隊の川喜田二郎隊、そして大西保の記録があったからです。先人たちの足跡と記録がなければ、私は道をつなぐことができませんでした。
◆しかし大西保の記録は、今ほとんど埋もれています。本にもなっていない。残っているのは当時のブログのみ。それも、現地を歩いた者でなければ読み解くのが難しい。けれど現場を知る者にとっては、これ以上ないほど面白く生きた記録です。机上の整理ではなく、自ら歩き、見て、感じた総体の記録だからです。 この記録が埋もれているのが悔しい。だからこそ、ドルポを語るうえで欠かせない存在として、大西保の名を国立民族学博物館に刻みたい。先人たちの情熱を、次の世代へ手渡したいのです。
◆ この思いを理解してくれるのは、大西保氏とも繋がりがあった南真木人先生(国立民族学博物館教授)しかいないと思い、2024年7月に完成したドルポの写真集を博物館へ送りました。 南先生は私の気持ちを受け止めてくださり、期待以上の企画、展示が実現することになりました。
◆これは先人たちへの敬意を形にし、その情熱を受け継いだ私の記録を並べ、未来へ手渡す場です。ドルポの歴史をたどる人が、いつか必ず行き着く場所に、その名と記録を残すための展示です。 研究者でもない私が国立民族学博物館で開催できるなんて、正直奇跡だと思います。それでも、この展示には意味があると信じ続けて10年かかりました。今ようやく手が届いたことを、心から嬉しく思っています。[稲葉香]
期間:2026年3月12日(木)〜6月16日(火)
定 休 日 : 毎週水曜日
会場:大阪 国立民族学博物館 本館企画展示場
10:00~17:00(入館は16:30まで)
本館観覧料金(一般780円)
最寄駅:・大阪モノレール 「万博記念公園駅」徒歩 約15〜20分(太陽の塔の近くを通る)
・大阪モノレール 「公園東口駅」徒歩 約10~15分(博物館に近い側の入口)
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。
福原安栄(3000円 通信費と雑費としてお送りします。いつも発信ありがとうございます) 佐々木陽子(30000円 足立区) 栗原健 奥田啓司 高松修治

■国民学校(小学校)一年の12月7日、米軍の首都空襲を逃れ、福島のいわきにソカイするまで世田谷の北沢に住んでいました。京王線の笹塚駅が最寄りの駅であり、次いで小田急線の東北沢駅、そして若干距離があるも、割と利用していた駅が下北沢駅でした。 北沢の家の朝は家の前が舗装していない砂利道でしたので、通勤者のザクザクと歩く足音がとめどなく左に向かい笹塚の駅を目指していました、たまに東北沢、下北沢に向かう足音が右に向かっていました。
◆夜静かになると、京王線、小田急線、帝都線(京王井の頭線は戦時中そう呼ばれていました)の警笛とモーターの音とともに、ときに走行音が聞こえてきました。このことは私の当時の生活の原体験だったのか、いつも耳にあって忘れられません。現在の住居に移転してきて、35年になりますが、当初聞こえていた京浜東北線と京急線が奏でる懐かしの電車の走行音は、最新の車輌に変わってあまり聞こえてこなくなりました。
◆私は街の生活音が好きです。郵便局、区役所、とこやさん、銭湯、クリニック、お店など、生活にともなう場所とそこの音がとても好きなので、駅はもっとも好きな場所のひとつです。電車の音もそれらの延長なのかもしれません。そのような幸せの音が途絶え、ソカイ先ではどの音もまったく無縁となりましたが、東京にもどり、戦後の復活のなかで再び蘇り、こよなく好ましく感じられました。
◆そのさらに延長で「鉄道」が大好きであり、いささかの模型を買い、模型店をおとずれ、外国ではドイツの模型を集めました。なになにオタク、例えば撮り鉄、乗り鉄、読み鉄などなどと分類される鉄道オタクのどれにもあてはまりません。戦前、戦後の東京の街中の営みにこよなくなつかしさを感ずる延長にある鉄ちゃんです。ちなみに私は無党派ですが、石破前首相と、公明党の斎藤鉄夫党前代表はともに鉄ちゃんなので、好感をもって見ていまして、もちろんこのお二方と政治判断は異なるはずだったのですが、おっしゃることすべてにうなずいている自分がいることに「鉄ちゃん」の不思議を感じてます。
◆さて、最近NHKで運転席から見た風景と題し、あたかも自分が運転しているように、運転席から鉄道の走行をひたすら映し出す番組があります。電車が走行する線路をひたすら映し出し、通過駅名とか最小の情報だけ提供する番組です。音楽が入る部分は、走行音だけが聞きたい鉄ちゃんなのでとても疎ましく感じられます。若干テレビ画面に近づき見ていると、まさに部屋は運転席に早変わり、爽快な走行が楽しめます。復興後ののと鉄道、あちこちの路床の白い部分が痛々しいですが、線路沿いのサクラは圧巻です。
◆宝塚線とかだと純粋に楽しめたのですが、小田原から新宿まで小田急線特急「EXEα」の走行を見て仰天してしまいました。東京生まれ、東京育ちで東京を熟知していたはずの自分が、浦島太郎であることがわかりました。沿線風景はまだ昭和がありましたが、路線環境は未来社会に変わりつつあります。多分登戸からだったと思いますが、複々線になり、その走行を見るのは初めてでしたので、まるで別世界の感じでした。
◆登戸は稲田登戸とよばれ、遊園地があり、遠足の行き先でした。電車は猛スピードで思い出を殺して行きます。成城学園前を通過したときは仰天しました。停まらないんだと。なによりも出身の梅ヶ丘中学は遮蔽のある複々線からは見えず、駅もまるっきり別物になっていました。根津山も確認できないうちに地下へ、世田谷代田はいつ通過したか不明のうちに通過しました。なつかしの下北沢は未来都市に、東北沢は駅だけでした。東北沢の駅そばの北沢小学校(国民学校)に入学した身としてはなんとも味気ないことはなはだしいです。
◆ゆったりと傾斜した付属の畑で歩き回るアヒルが学校給食の味噌汁に入っていて、いまなら飛びつくご馳走ですが、当時は苦手としていました。まったく贅沢な戦時中でした。日本における学校給食は戦後食料に余裕のできた〇〇年に始まりましたとのテレビ報道に、おっとどっこい戦時中もあったもんねと反応した次第です。チコちゃんを含めてこの手の誤った知ったかぶりが時にありますね。チコちゃんは「諸説あり」と、保険をかけていて、うまくやってます。
◆私の感覚では当時との違いは、テレビ、スマホがないだけで、サラリーマンの一日は基本同じなんです。長時間労働も同様、父は日経の記者でしたが、朝出たらいつ帰ってきたのかわかりません。日曜にやっと会える日々でした。今との違いは小田急線代々木八幡あたりには陸軍の練兵場が近かったせいか、兵隊さんがけっこういました。そう思ってはいましたが、下北沢、東北沢のショックで、昔から老人が言う、私は生きすぎたのか、超未来の社会を見てしまったと思い、これから火星移住を準備する人類の行く末に思いを馳せました。
◆電車は省エネの大量輸送機関であることをあらためて実感しました。問題は小人数輸送の車です。トランプ関税でいじめられることとなり、車はアメリカに輸出しなくていいのではと考えるようになりました。それは私個人のことで、大方の賛成は得られないだろうことはわかっています。
◆でも私は考えます。テスラや中国車を考えると、日本の車はせいぜいハイブリッドで、途上にあり何周回遅れに見えます。政府のバックアップでということは、働く国民の血税で独り立ちできないひ弱な半製品をまもるように見えます。なんか兼業農家の棚田を護るような、一抹のわびしさを覚えます。最近中国の日系企業の方に聞いたのですが、10年前ぐらいに中国であった国際車会議で、米国や中国が話していることに参加していた自民党の代議士先生が日本は4周遅れとショックを受けていたそうです。
◆トヨタ自動車は28兆もの社内留保をためこんだといいますが、多分、下請けや従業員の取り分があるのでしょうね。そんなため込んだ資金は投資に回し、私のような無免許老人でも乗れる1人用の自動運転車の開発とか未来志向の乗り物開発に投資して欲しかったと思います。もういいですけど。でもその投資をアメリカに工場をつくり日本に輸出することに振り向けるようですが、石油ほしさに他国に攻め込むなど(日本もかつてしましたが)、個人だったら強盗でしょう。そんなコトする人に気を遣っているまに、またもう一周遅れないか心配になります。そんな苦労するよりはいっそ産業転換はかったほうがいいのではと思ってしまいます。
◆電車に戻りましょう。ライトレールが各地で成功を収めています。大都市も車の進入を制限してライトレールをとりいれてはと思います。また、横浜市では都市型のロープウェイが運行されていますが、最近パリにも設置されたそうです。首都圏はライトレールなど路面電車とJR、そして小田急線、京王線、東京メトロなどの私鉄に加え、場合により都市型ロープウェイでいいじゃないですか。
◆ケンブリッジでは街の中に自動車を入れていません。街中は徒歩でした。われわれも電車と徒歩にしませんか。徒歩ってすごいですね。山田和也監督の『南米アルパマヨ』を見ました。ピラミッドのような白い美しい山を撮影するためにすごい歩きでした。しまいには、氷の山にしがみついて、這っていましたけど。やはり、人間の体すごいですね。

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■通信554号(2025年6月)での決意表明のとおり、昨年11月に『沖縄 最後の追い込み漁—宮古島狩俣集落・友利組』という本を出しました。版元探しに苦労し、350冊買い取り+1千部まで印税ゼロという自費出版に近いものです。しかし今は、ともかく「本を出すこと」が重要だったと実感しています。
◆わたしが宮古島で素潜りの「追い込み漁」に出会ったのは、20年前のこと。初めて体験した漁は、衝撃的でした。人が泳いで魚を追い込む漁法は、本能を刺激する「海の狩り」です。しかも魚と同じ海を泳ぐことで「魚の命も自分の命も同じだ」と実感させられるものでした。すっかり魅了されて宮古島に通ううち、伝統漁法の追い込み漁はどんどん姿を消し、気づけばこの組が沖縄で最後の組に。組を率いる哲雄親方は現役ですが、5月で88歳になります。体内のリズムを潮汐に同調させ、海の生態系に溶け込むように生きてきた人びとの記録を残さねば――。20年もの間、漁師さんと海に潜り、お話を聞いてきた自分にしかできない仕事ではないか。そんな思いに突き動かされ、1年かけて書き上げたのがこの本です。
◆思いがけず世間の評価は上々。日経新聞の文化面などに取り上げられ、那覇のジュンク堂書店には特設コーナーが。来月には同店でのトークショーも決まりました(3月14日(土)15時から。入場無料)。何より、親方が「この本で得をしたのは、地元の若い漁師連中だよ」と、伝承の価値を認めてくださったのが最大の喜びです。
◆今回、漁労民俗研究の第一人者、川島秀一さんが書評を書いてくださいました。川島さんは、地平線会議にゆかりのある故・森本孝さんと親交があり、一緒に漁村の旅もされています。わたしはご著書に感銘を受け、2010年、気仙沼市のリアス・アーク美術館の副館長だった川島さんをお訪ねして以来のご縁。その後、東北大学の教授になられ、退官後は何と福島の新地町で刺し網漁の乗組員に。漁の手伝いをしながら、研究を続けておいでです。その体験から生まれた『春を待つ海-福島の震災前後の漁業民俗』(冨山房インターナショナル、2021年)は、どの頁からも潮と生活の匂いが立ち昇り、政策など机上の論理と浜の実際との乖離を浮き彫りにする傑作です。
◆『沖縄 最後の追い込み漁』は350冊買い取ったので、個人販売サイトをつくりました。江本さんの「本の買い方も書いて」とのお言葉に甘えてご紹介します。https://umi-to-ryo.bibliojp.com からお入りください。市販より少し安い2,600円(税・送料込)での販売です。[大浦佳代]
■1月の宮古島には強い西風が吹いていた。10時すぎ、大神島への渡船が出ている島尻の岸壁に着いた。屈強な男が車に近づいて来て、何かと思えば「きょうは全部欠航」と教えてくれた。大神島はまた今度にしよう。
◆島尻共同購買店に立ち寄る。「パーントゥ」で有名な島尻、とはこのときまで知らなかった。知られざる観光地だ。島の東岸に「マングローブ林」の案内があって寄り道する。汽水の林の中を歩道が作られていた。水路は静かで、太陽の光を映して美しい。
◆エビ養殖場のある海岸を抜けて坂を上ると狩俣小学校の前に出た。共同売店「狩俣マッチャーズ」に大浦佳代さんの著書ポスターが貼られていた。出たんだ! 『沖縄 最後の追い込み漁 宮古島狩俣集落・友利組』というのがその本の名前だった。おにぎりや菓子パンに並んで、埃をかぶらないよう1冊ずつビニールで包まれた本が、レジのおばちゃんの横に積まれていた。地元の人にこんなに大事に扱われていることに、大浦さんの仕事に対する敬意を感じた。
◆狩俣より北で地図に出ているのは橋で渡れる池間島までだが、大神島の周囲やさらに北の八重干瀬には広大なサンゴ礁が広がっていて、大潮の干潮時には「幻の大陸」が現れるという。宮古島に匹敵する広さの礁を舞台に、潮汐の間隔を縫って演じられるダイナミックな追い込み漁!
◆ここでの暮らしは海と島とが渾然一体となっている。生活はサンゴ礁に通じる広い海にあり、また観光客が行き来する島の道路にもある。三陸のバーティカルな漁村や、寺社に彩られた瀬戸内の島々とまた違った世界。東京に帰って大浦さんの本を読むのが楽しみになった。[落合大祐]
■今から、ちょうど20年前頃から、私は列島の「追い込み漁」の系譜をたどる目的で、各地を飛び回っていた。それは、追い込み漁が〈伝統的〉であるとか〈原始的〉であるからというような通俗な理由ではなく、むしろ現代において急激に失いつつある、自然に対する人間の関わりかたを、私を含め再認識したいがためであった。
◆2007年の元旦は、沖縄県の久高島にいた。この日は旧暦の11月13日で、島ではアミドゥシと呼ばれる、四歳の男子から長老までが参加する男性中心の儀礼が行われようとしていた。このような儀礼で食べられる料理の魚は、必ず追い込み漁で確保される。8人の漁師がサバニという小舟に乗り、私も同行してみた。
◆1人が黄色いロープを体に結んで海に跳び込んだ。海底を広くロープで回しながら魚を追い込むわけだが、次々に他の漁師も海に跳び込み、気がついたら、私1人が揺れるサバニの上にいた。心細いこともあったが、いったい今、海の中でどのような操業が行われているのか、見たい一心だけで、コベリにすがりついて、海底をのぞいていた記憶がある。
◆ところが最近、その追い込み漁の海底の操業の様子を見事なまでに活写した、すばらしい書が出版された。「海と漁の体験研究所」代表の大浦佳代さんによる『沖縄 最後の追い込み漁—宮古島狩俣集落・友利組』(南方新社、2025年)である。本書は、主に友利組の親方である友利哲雄さん(昭和13年生まれ)からの「聞き書き」調査で構成されているが、それだけではない。彼女自身がスキンダイビング・インストラクターの資格を持つダイバーであり、この狩俣の、素潜りを特徴とする追い込み漁に加わり、漁の手伝いをしながら、自分の身体でその実態を把握していった。
◆本書の第四章「追い込み漁の身体性」は、これまで誰にも描くことのできなかった追い込み漁の本質的な領域である。しかも研究者がよく言葉にする「参与観察」などという甘っちょろいものではなく、自分の身体を使って漁の仕事をしながら感得した文章の集成である。視覚と聴覚と机上の作業だけでは、「客観性」などは得られないものだからである。
◆しかし、同時に著者は「第二章 哲雄親方七十年の漁師人生」で、親方のライフヒストリーを扱いながらも、その背景にある沖縄の追い込み漁の歴史を的確におさえている。続く「第三章 追い込み漁の魚たち」の中でも、魚類の生物学知識もおろそかにしていない。
◆ところで、その「身体感覚」についてだが、私は以前から、生物としての人間が船上で生活する以上、その食事や排泄の問題、あるいはカツオ一本釣り船などの長期出漁中の性の問題などを気にしていた。著者は排泄に関して素潜り漁師の次のような言葉を載せている。「海の中にはトイレがないから、そのまま海の中にやっているさ。もちろん大きいほうもさ。スズメダイなんかは食べているよ。それをまた人間が食うんだから」。
◆しかも著者もまた同じ経験について次のように述べている。「サンゴの上を潮に流されていく広がりに小魚が群がって、夢中でついばんでいる。体の奥から笑いがこみあげてきた。わたしは海を汚したのではなかった、受け入れられたのだ。自然の循環の大きな輪が、ほんの一瞬開いてわたしを入れ、両手をつないでくれたような気がした」。稀なる体験とその感性に脱帽である。自分から切り離された自然を賛美するのは簡単だが、自身を含めた自然を感得する力は、漁師そのものの感性である。
◆哲雄親方も魚類だけでなく、身近な自然である藻類も、さまざまな薬効を求めて自身で試している。著者はそのような親方に対して「自然の力に体が敏感に反応し、命の源にできる能力もまたすごい。わが身に引き比べると、生き物としての格が数段も違うように思う」と記している。この「生き物としての格」こそが、私の漁労研究の一つの目標であった。
◆しかし、列島の追い込み漁は、本書によると、衰退の一途をたどっている。狩俣の追い込み漁は、素潜りで、遠浅の海域で行われるチナカケヤーである。一方で、同じ宮古諸島の伊良部島の佐良浜で行われてきたのは、潜水器を用いて、より深海で操業するアギヤーである。しかし、こちらは現在、カツオ一本釣りの生餌の小魚捕りに終始している。いずれ、列島の追い込み漁は、細々と、臨時に操業されるイベントになるであろう。
◆しかし、最後まで見届けることで、そこにこそ追い込み漁の本質的なことを見出すこともできるであろう。海面を仰ぐ海底を操業現場とする追い込み漁師の思いを記録することは、一度その漁法に関わってしまった者たちの責任と思われる。[川島秀一]
■地平線の皆様こんにちは。ちえん荘住人の五十嵐です。たびたび本通信へ拙稿を掲載していただく折、(ちえん荘住人)などという文責を書いている者が複数おるので、なんとなくその名を目にしたことがある方もいるかと思います。本紙にも、ちえん荘についての記事を書かせていただいたことも幾度かあります。このたびは改めて、ちえん荘とは何であるのか、これまでの歩みとこれからについてこの場をお借りして記録してみたいと思います。
◆ちえん荘は2021年の9月に、北海道旭川市近郊の町に発足した共同生活家屋である。賃貸の一軒家に「ちえん荘」と名付け、最大4名の男女が同じ屋根の下で暮らした。名前の由来は、発起人である私の生業である山仕事に欠かせないチェンソーに「遅延」をかけたもの。当初は知恵の、とか、地縁とか盛沢山に掛けていたが、意味不明かつ説明が面倒になる一方なので最近は「チェンソー×遅延荘=ちえん荘」とだけ説明している。
◆2020~21年ちえん荘発足前夜。効率化の下に世の中自体が、またそんな世の中に人が、どんどん急かされているような気分がして、そのことにひどく嫌気がさしていた。そんな風潮はその瞬間に始まったことでは当然ないのだが、少なくない学友が就職先の企業で病み、傷つくのを見聞きしたことが厭世感を高めていたのだと思う。友として見ていた彼らの素敵な部分がことごとく社会では用無しとされ、スポイルされていたように感じていた。
◆一般企業では、マルチタスクを次々とこなしていけることが有能なことで、燻製が上手に作れるとか、面白い歌を作って歌えるとか、そういうことは当然ながら能力として評価されないでいるようであった。山や焚火で輝いていた彼らがくたびれていく姿をみるにつけ、彼らに能力がないことが問題なのだろうか?という疑問が湧いてくる。企業に就職するまでもなく病に臥せた自分にだって、そんな生活を送れる自信がない。学生時代に耳にした電通元社員、高橋まつりさん過労死のニュースもずっと忘れることができないでいた。過労死こそいないものの、仲間が、仕事が原因と思われる病になった知らせを聞くと、悔しくて涙が出る日もあった。
◆気忙しい世のスピードに合わせてダメになってしまうなら、いっそ思い切りのんびり生きてしまったほうが幸せなのではないか? それがたとえ遅れている、と否定的に見られる生き方であったとしても。半ば居直るような形で、本当に楽しい生き方を模索しようと思ったのが、共同体的な暮らしをはじめたいと思った初期衝動だったように思う。
◆時を同じくして、そういうスピード社会の前提になっている資本主義社会の限界を伝える言説が巷にも普及しはじめていた。第三国に廻したツケが地球を一周し、先進各国にもそのしわ寄せがきはじめている、脱成長・脱資本主義という論調は「失われた30年」と共に育った自分には納得の議論だった。私が思う「本当に楽しい生き方」とは、心身ともに健康で、飢えず凍えず、自分らしく暮らしている状態を目指す。だから働きもせず年中酒浸りでガッハッハ、という生き方はあまり望ましくない。さらに、その楽しい暮らしがどこか遠くの人々の苦しみのうえに成り立っていることは愉快でない。
◆困ったことに、自分が生まれる遥か前から初期設定の資本主義は、負担を外部化するのが前提だ。その恩恵を一身に受けて健やかに育ってこられたのも事実。かといって、資本主義を転覆する革命を志向するのも、本筋からずれる。であるならば、現行の資本主義体制から少しずつ距離をおいてみること。生活に必要なあらゆる物事を市場に頼って、交換と消費をし続ける生き方からすこし離れてみること。これが現実的な暮らしぶりとして目の前に立ち現れてきた。そういう生活圏を仲間と作れないか、ということが私にとってのちえん荘の出発点だった。
◆1990年以降の快適便利な日本で生まれ育ってきた私。しかしその裏で発生する負担を外部に追いやってくる仕組みに気付かず、気付いてもなおそれを容易に変更できない不愉快さがある。ここからどうにかして少しでも距離をとろうとすること。それに必要な技能を仲間と身に付けていくこと。そういうようなことをぼんやり夢想した。
◆こうしたちえん荘の特徴を2023年8月号の地平線通信にまとめていたので、引用する。——生きることからかけ離れた賃労働でカネを稼いで、モノを買って消費する一生よりも、生きることや作り出すことに近い仕事をして歳を取っていきたかった。一人ですべてを賄うのは容易ではないけれど、業(わざ)をもった仲間があつまることで、生産と消費の輪っかを、だんだん手元足元に引き寄せたい。「自給自足」とは少し違った、そうした環境を作り上げる、はじまりのアジトが「ちえん荘」なのである——
◆具体的な暮らし方のヒントになったのは、探検部時代の共同生活。北大探検部は1990年に大学の公認を自主的に脱して(2022年より公認に復帰)以来、大学のそばの一軒屋を借りて部室として利用してきた。必然的に部室はそのまま住処にもなり、部員による共同生活が続いた。2013年に入部した私も、廃れつつあったその文化の残滓にありつき、退廃的な、それでも一部では創造性を模索する自由と戯れた。何より、そこで探検とは何かとか、俺はこういう浪漫があるとか、そういう経済・効率性とは一切無関係な時間に浸れていた日々が、どうやら貴重だったらしい。当時、「コスパ」という言葉が社会に蔓延し始めていたころだったと思う。それが、効率化一辺倒な社会の不自由さみたいなものを嫌う感覚を培っていたのだと思う(結果、ひねくれたともいえる)。
◆「ちえん荘」を構想したとき、その「部室暮らし」を一生やろうと思った。なんで、仲間と生涯つるんで楽しくやってちゃいけないのか。それは、余暇に居酒屋に“かつての仲間”と集まって日々の憂さを晴らして楽しい、のとは違う。流石に当時そのまんま、みたいな退廃的な暮らしはもうたくさんだが、享楽的だけれども、情熱のある、背筋の伸びるような、実生活に即した共同生活を夢想した。速度が求められる社会に疲れた仲間を巻き込んで、かつての部室よりもちょっと前向きな共同生活を送ること、それがたどり着いた答え、というかそれしか参考になる原体験がなかったというのが正直な所かもしれない。
◆そう言って一人目の住人山川佑司を誘ったのが2021年のちょうど今頃、出稼ぎ先の土建屋の飯場でのことであった。彼が道に迷っていたように見えたのは、実は自分がそうだったからで、道連れが欲しかっただけなのかもしれない。新聞記者生活に疲れていた笠原初菜が程なく合流して、「ちえん荘」がはじまった。現農夫の山川は地平線通信25年3月号等に登場、現椅子張り職人駆け出しの笠原も、先月号も含め何度か誌面に掲載させてもらっている。
◆「ちえん荘ってなんなんですか?」「人になんて説明しているの?」と聞かれることがある。私はいつも戸惑いながら、「ちえん荘というチーム名を共有して、斜に構えた若者たちが屯(たむろ)している、暴走族みたいなもんです」とボソボソと答えることにしている。質問したほうは大抵わからない顔をしているが、こればかりはわからないでいてもらうほかない。山地民の暮らしぶりが都市住民からはよくわからないのと同じで、結局来てみてあなたが感じてくださいとしか現地人側からは言えないのである。
◆だから「シェアハウスですか!」と言われても素直に頷けない。およそシェアハウスという言葉の響きとは程遠い生活空間だし、別に家だけを共有しているわけでもない。4人暮らしをしていたときは炊事食洗も当番制で、薪や端材を集めて割るのも、煙突掃除をするのも協働で、やはり共同生活家屋と漢字でいうほうがしっくりきているのだ。これからは核家族の枠を超えた子育てができたら面白いなどという話もでている。
◆発足当時の住人はみんなが林業、農業の見習い、あるいは職業訓練学校の生徒といった卵たちだった。それが今では一人親方の林業者、農地を持った百姓、工房開設の準備をする職人、伝統工法を扱う会社で働く大工、旅人になったりして孵化していった。また、ちえん荘自体も、それぞれの活動する場へ引っ越す形で「ちえん展開」した。かつてのちえん荘は「本店」などと呼ばれ、それぞれが住む家は「ちえん荘美瑛店」とか「ちえん荘三笠店」とか、自他共に呼ぶようになっている。
◆ただ、それぞれがそれぞれの仕事の道に進み、独立して“農・林・製造業”に関わるようになってくると、設立理念との乖離も生じてくる。距離を取ろうとしていた市場の舞台に、生産者、職人、商売人という立場で舞い戻ってしまう皮肉に直面しているのだ。
◆つまり、それぞれの仕事で自分のしたいことをしようと思えば思うほど、当初の理想との両立に無理が生じてくるのである。たとえば、山川は有機無農薬の畑を営んでいるので、海外から輸入される化成肥料を使うことはない。それでも、原料の馬糞や籾殻を集めるために車を走らせれば外国由来の化石燃料を燃やすし、3反の畑を切り返すのにもトラクターを使っている。私の目指す林業馬搬にしても、馬を現場まで運ぶのに家畜運搬車を使うし、木を伐るのには外国製のチェンソーに燃料をふんだんに使い、丸太を運んでもらうのに大型の運材車を手配する。それらの部材、部品、原料はさて、どこから?
◆それでも、原料はなるべくそばから、自分たちの生産物は自分たちで回すように、生活に必要なものを自分たちで賄ってみたい。生活の舞台裏を手元足元に可能な限り手繰り寄せたいとの思いは変わることはなく、そこにどんな苦労や手続きがあるのか、それをどの程度外部化してきたのか、それを知る作業がちえん民として暮らす醍醐味でもある。
◆ちえん民であること、あろうとすることは、「自分の生活を他人や国に任せきりにしてないか?」と自問することにつながると思っている。国の福祉サービスがあるうちは恩恵も受けるが、なけりゃないで自立できる素地を鍛えておくこと。この地を追われても私たちは生きる。移動したその先、その地で生きていく。いざそうなれば動揺し、狼狽えるには違いないのだろう。ただ、いまから少しはそのことも想像しておくこと。そこで、そこにあるものを使って、体を動かし始める覚悟と体があるか、ときどき自問するということ。
◆伐ること、耕すこと、繕うこと、建てること、編むこと、紡ぐこと、商うこと、養うこと、力をあわせること、労うこと、様子をうかがうこと、有難いと思うこと、思いを馳せること……。そして、忘れちゃいけない、食う、寝る、遊ぶ。
◆発足当初は頭でっかちに、「自分たちでイキルゾー」とかのたまっていたが、まだまだ乏しい生きる力を仲間と磨きあっていくことが、今のちえん荘の等身大かもしれないと思っている。平凡だけど、それこそが2020年当時の苛立たしさに対するしなやかな答えを紡いでくれそうな気もするし、どんなことがあってもこの人たちと、どんな場所でもどんな人ともやっていけるのでは、という淡く前向きな期待を抱いて日々を過ごしている。ちえん荘の姿は変わりつつも2026年現在、仲間と楽しく生きている実感がある。[ちえん荘5年目 五十嵐宥樹]

■初めまして。北大探検部4年目の神藏と言います。お世話になっている探検部OB五十嵐さんから江本さんへと話が広がり、今回寄稿させていただくことになりました。江本さんから半年分の地平線通信を送ってもらいましたが、面白いですね。
◆昨年、9月から年末までヨーロッパを旅していました。そのときに感じたのが、自分の活動を、面白いと思ってくれる、話を聞いてくれる、あるいは一緒に参加してくれる人の存在の貴重さ。1か月半ほどイギリスで語学留学をしていたのですが、スクールで女の子にハイキングに行こうと声かけても、返事はNOばかり。海外だと男性は誘いづらいし。NOを突きつけられ孤独にハイキングをする日々。
◆そんな中、語学留学後にブリテン島を徒歩で横断しようと目論見ます。はっとひらめいて、同じくバックパッカー中の探検部の後輩S(だいぶ前に退部している)に連絡すると、二つ返事で「行きます」。一週間後にはイギリスに飛んできた。私が野草を食べると、真似して食べる後輩。これが探検マインドよね……! そうして過酷な?丘あり道路あり涙なし花火ありの7日間200キロのブリテン島横断をするのですが、それは置いておいて。
◆探検界隈って、多分すごい密度なんですよね。好奇心と身体性を共有している。これが、どれほどすごいことか! その皆さんの報告の場である、地平線通信。感動しました。記事の中には、私が本当に知りたかった活動の仕方など、勉強になることが多くて。もっと早く読んでおけばよかった。探検に本気になりだしたからそう感じるのかな。まあ、そんなこんなで地平線通信を褒め称えたところで、本題に。
◆今回は昨年8月に行った「遠泳による◯◯湖中島上陸」のお話を。〇〇湖と書くのは少しグレーな活動だからです。中島をもつ風景明媚な大きな湖です。皆さんご存知のはず。ことの発端は一昨年の春。真夜中に石狩湾の砂浜からみた海。ふと心に浮かんだ疑問「水面ってどんな音なんだろう……」。その夏、◯◯湖にラフトを出して見る。チャプチャプ。自分にあたる水の音でした。そこで見た、中島。すぐに届きそうな程、近くに見えるのに、遠い。漕いでも漕いでも、目の前の中島は大きさを変えません。その日は撤退。実は、ラフトでの中島上陸は、数世代前の探検部OBOGが果たしているようでした。中島まで4キロ。私は「今度は泳いであの土地に上陸したい」そう思いました。
◆そして同年の夏、まずは〇〇湖の近くにある綺麗な円形のカルデラ湖の遠泳で、横断に成功します。およそ2キロ。浅い場所だと、透明で澄んだ湖の水がよくわかります。泳いでいるときは、とても気持ちよくて。チャプチャプという音を聴きながら、水を感じて泳いで行きます。水面ギリギリで見る深い青と、霧と、外輪の山。喧騒離れた時間と絶えず泳ぎ続ける体。最後、湖底が見えてきて、青青しかった湖が透明な薄い青に戻ったとき。足の裏で感じる大地。力の入れ方を忘れていて、少し立つのが難しい。きっと人魚姫も同じ感覚だったんだろうなぁ。遠泳の楽しさに目覚めたと同時に、こう思いました。「次は〇〇湖」。
◆そして2025年、昨年の夏。市営プールでの自主練と、2回のプレ活動を経て、ついに決行。遊覧船に見つかると厄介なので、朝4時、空が白み始めたころに出発です。遠泳者は私と一年目の2人。あとは伴走船にサブリーダー含め4人。〇〇湖は、大きい湖なので、風の影響をもろに受けます。陸から離れるほど、まるで海のような波になることも。そしてまた泳ぐ方向も難しいです。波の影響で、目的地の方向へ泳ぐのが最短距離とは限りません。だからといって、来る波に立ち向かうように泳げばいいわけでもない。水面と水中の流れって違うんです。
◆しかし、あらかじめ読んでいたとおり、早朝は風も穏やかでベストタイミング。時折、伴走船に方向を指示されながら進みます。空はだんだんと赤みが抜けていき、休憩もそこそこに、黙々と。ずっと遊覧船の影が心の中でちらつきます。念願の中島上陸も、ここで見つかったらすべておじゃん。なんとしてでも上陸したい、上陸せねば。私の探検人生がかかっているかのような気持ちで、急きたつ。そして、あと数百メートル。すでに中島は、遠くから見た景色ではありません。最後は、後輩に死ぬ気で食らいついてもらう気持ちでスピードアップ。そして、湖底が見え、ついに足が地を踏みました。立つことに違和感を感じるほど、身体が泳ぐことを憶えている。そして、抑えきれない達成感。
◆自分として初の探検的な活動を達成してその場にいることが嬉しくて嬉しくて。湖の先の対岸を見て、あの陸から来たんだぜ、と悦に浸りました。人間には道具があります。船があります。でも動物にはありません。1953年に人間により持ち込まれるまで、中島に鹿はいませんでした。私は渡ったぞ。えっへん。新たな土地に足を踏み入れる。そのことへのワクワクは、きっと動物であろうと、人間であろうと、そこが人類未踏でなかろうと、時代が変わろうと、きっと変わらないものだと感じました。そして、朝7時ごろ中島から撤退。作戦成功です(これらはすべてフィクションかもしれません)。
◆その数週間後、私はヨーロッパに向かったのでありました。実をいうと、遠泳は私の主な志向ではないのです。一番は、宗教への興味。その教えと、現実社会への表れと、自然観に興味があります。ヨーロッパへ向かったのも、一神教(キリストカトリック)の考えが支配する世界を感じたい、という由でした。
◆それとは別に私はただ水全般が好きなんです。氷も雪も好きだし、飲料水も川も海も好きです。雨も好き。サムイのはイヤだけど(この間、父親と話したら、若いころスキューバダイビングをしていた、というから驚きです)。宗教の方と違って、泳ぐことには、思考的な発見や面白さはありません。ただ好きなだけです。私は身体が強いわけではなく、大西洋を泳いで横断した人が存在する人類の中で、弱い方の部類でしょう。しかしやっぱり探検部人生、“探検”にこだわりたい。そう考えると、身体をダイレクトに伴うのは私には向いていないかもしれません。
◆だけど、何が探検に繋がるかはわからないけど、身体を動かしていたらアイデアは降ってくる気もしています。旅をしていて、色んな海や川、湖を見ました。中には山の上にあったり、洞窟の中にあったり。夢は広がるばかりです。そして北海道。次はどこを泳ごうか。札幌が暖かくなるのが、待ち遠しいです。[神藏未和]
■最近、雪による建物の倒壊や除雪中の事故のニュースが相次いでいる。もともと雪国では小雪の年以外は除雪作業中の事故による死傷者が多数出るもので、昨秋のクマによる被害よりずっと多くの死傷者がすでに生じている。アメダスが設置されていないためにあまり知られていない山形県の志津は4mから6mもの積雪だし、アメダスの積雪ランキングで酸ヶ湯に次ぐ2位が定位置の肘折では3mから4m積もるが、こうした豪雪地は除雪の体制が整っている。大変なことは大変だが、冬はそういうものとしてつつがなく暮らしていけるのだ。
◆私が生まれ育った町もそこそこの豪雪地で、実家を処分するまでは1月はちょこちょこ実家の除雪に通ったものだった。Facebookに「思い出」という、きょうと同じ月日の過去の自分の投稿が見られる機能があり、1月は連日のように過去の実家の除雪の写真が出てきて、屋根の雪を降ろしたり、玄関周りを掘ったりした日々が懐かしい。雪かきが好きなので、嫌々ではなくむしろ喜んで除雪に行っていたものだ。
◆つらくしんどいと思わずにいられたのは、実家が庭がなくてすぐに除雪車が通る道路に接していたのと、玄関前に流雪溝という雪を捨てるための水路があって雪捨てにまったく苦労しない立地だったからだろう。二階の屋根にはハシゴがなくて上がれないのと、1人作業は危険なのとで業者に頼んでいたが、二階の窓から出て上がれる玄関の屋根や、下屋の屋根、物置の屋根などは自分で降ろしていた。場所によっては流雪溝に直接落とし込めたりして快感だった。
◆父の部屋のサッシ戸から下屋の上に出るときは、すぐ前に雪が迫っているので部屋の中で長靴を履いた。スコップ持ってとりあえず雪の上に出て、室内に雪が入らないようにサッシを閉め、まずは雪の高さを利用してちょっと高い位置の物置小屋によじ登り、そこの雪を降ろしてから下屋の雪の上に飛び降りてそこの雪を降ろした。降ろして終わりではなく、次は下の道路や隣家との間に落とした雪を流雪溝に捨てなければならない。前からたまっていた固い雪の層も片付けるので、スコップで切り崩してはスノーダンプで運ぶという作業を延々とやってきれいにして終わりだ。
◆心地よい疲労感ときれいに片付いたという充足感……。除雪ボランティアや雪イベントの手伝い等は自分が楽しい上に誰かのためになるので積極的に参加したいが、日程がなかなか合わなくてそう何度もできないのがもどかしい。雪でお困りの方がいたら呼んでほしい。空いている時なら駆けつけます。[山形 網谷由美子]
■アメリカが「グリーンランドがほしい」と動き出したことで、世界の注目を集めているグリーンランド。この島は、伝統的に捕鯨の島だ。北極と北大西洋の間に位置する世界最大の島で、面積は日本の約6倍(約216万平方キロメートル)。国土の約80~85%が氷床と万年雪に覆われている。デンマークの自治領であり、独自の自治政府が存在する。人口は約5万7,000人、主にイヌイット系住民が沿岸部で生活している。
◆イヌイットの人たちは4000年前から捕鯨をしてきた。40年前、商業捕鯨が禁止状態になってからも「原住民生存捕鯨」という特別枠でミンククジラ、ナガスクジラ、ホッキョククジラを捕獲している。とはいえ、イヌイットの捕獲枠も簡単には認められない。グリーンランドがIWC(国際捕鯨委員会)で長く訴えていたのは「ザトウクジラの捕獲枠を認めてほしい」ということだった。グリーンランドのイヌイットにとってザトウクジラは伝統的な捕獲対象なのだ。しかし、ザトウクジラはホエールウオッチング界のアイドル。20年くらい前のIWCで南米や豪州、ニュージーランドの大反対を受けていたことが思いだされる。紛糾する会議において、米国が突如、「デンマーク提案をブロックしない」と宣言した。グリーンランドの要望はデンマークが提案する。その宣言に呼応して、声高に反対していた国々もコンセンサスで認めることに同意し、グリーンランドのザトウクジラ枠は認められた。
◆米国は反捕鯨国だが、自国のなかにアラスカを抱えており、アラスカ先住民のため原住民生存捕鯨枠を主張しなければならない立場。そのため、反捕鯨一辺倒というわけにはいかないのだ。先住民生存捕鯨枠は5年毎の更新のため、更新の年のIWCは熱気を帯びる。自国内に原住民生存捕鯨エリアを持つ米国、ロシア、デンマークは、自国民の権利を守ろうと躍起になり、欧州や南米の反捕鯨国と捕鯨推進国はここぞとばかりにアラスカ、グリーンランド、チュクチ(シベリア)の先住民捕鯨をたたく。「ホッキョククジラは資源量が悪い。それを捕獲対象にするのはいかがなものか」「アラスカ捕鯨は食料確保のためというが、捕鯨の村でもハンバーガーも普通にたべているではないか」等々。
◆今回のトランプ大統領のターゲットはグリーンランドの地下資源だそうだ。カナダとフランスはグリーンランドに領事館を開いた。「グリーンランドのことはグリーンランドが決める」という自治領に連帯を示すものだという。現在の国際ルールでは、グリーンランドはグリーンランド人のものなのだから、国際社会はグリーンランドに味方すべきだと思う。しかし、この500年の歴史のなかで国境が多様に変わってきたのもまた事実。島国・ニッポンで生まれ育つと国境意識がどうしてもうすくなってしまうが、世界には現在ひかれている国境線に異議を唱えたい人や国が数多く存在する。
◆国際捕鯨委員会は、私に世界を教えてくれる場でもあった。20年くらい前、モンゴル代表が言った言葉が忘れられない。「モンゴルは草原の国だ、内陸の国だといわれているが、それは現在の国境をさしているだけのこと。我がモンゴル帝国はかつては海を持っていた。海までが我がモンゴルだったのだ。我々も、もっと海に権利を有するべきなのだ。そのことを言うために、私はここに来た」。[佐藤安紀子]
■実家を離れ、名古屋に来てから、まもなく3年。働き始めてから、両親への向き合い方が少しずつ変わってきたと感じています。父は昔から、「希望は自分の力で叶えなさい」という考えの人でした。よそはよくてもうちは駄目、ということが比較的多い家ではありましたが、私が本気で説得しようとするなら、どんなことでも、何度でもその土俵は用意してくれる両親でした。
◆大学で探検部に入り、海外を夢見てボルネオへの渡航を望んだときも、分厚くなった計画書を広げて、連日地元のファミレスで説得を重ねたことを記憶しています。その後、ボルネオの奥地にある村に出会い、現地を駆け回った数年間も、振り返ればそうした環境の下で過ごしていた時間でした。ただ学生時代の私にとって、両親の支えは特別なものというより、いつでもそこにある空気のような存在でした。そのことを少しずつ意識するようになったのは、実家を離れ、働き始めてからのことです。
◆それでも思えば、私の関心の多くは、これまで遠くの村に向いてきました。往復に2、3週間をみなければならないボルネオのその村には、慕う義理の両親や友人たちが、変わらず待ってくれています。社会人になってからも、どうすればまた現地へ行けるのか、どう関わり続けられるのかと考えてきました。簡単には行けなくなったからこそ、少しでも近づきたいという思いが募り、昨年からは現地での職探しの準備も、少しずつ始めていました。
◆そんな折、昨年11月、父が脳梗塞で倒れました。平日の朝、母が父の異変にすぐに気づいたことで、最善の処置を受けることができましたが、歩くことや食べること、声を出すことといった、それまで当たり前だったことが、その日を境に難しくなりました。倒れる少し前、父は50代半ばで余儀なくされた転職を経て、ようやく自分の仕事に手応えを感じられるようになってきたと、嬉しそうに話していた矢先でした。
◆母は、自宅から自転車で30分の距離にある病院まで、仕事のある日もない日も、欠かさず見舞いに通っています。名古屋で暮らす私は、そのそばで二人を支えられないことにもどかしさを覚える日々です。年末年始には毎日、少しずつ回復してきた父のリハビリを手伝うなどしながら、家族3人で穏やかな団欒を過ごしました。私には、「ただいま」と言える場所が二つあります。ひとつは、自分にとって特別な、遠い熱帯の森の中にあるロング・スレ村。そしてもうひとつは、これまで当たり前のように帰り、受け止めてもらってきた、東京の実家です。とりわけ今は、その実家の存在を、以前よりも強く意識するようになりました。
◆知らない世界へ足を向けることばかりを考えていた時間も長くありましたが、これから先の私にとって大切なのは、その二つの場所とどう向き合い、どう行き来していくのかということなのだと思います。外へ外へと視線を向けていた時間を経て、今は足元にある場所に目を向けながら、娘としてのあり方を考えています。
◆春に向かって少しずつ日差しが和らいできたこの頃、今は急がず、丁寧に、その時間を重ねていきたいと思っています。[下川知恵]

■昨年末の地平線報告会の帰り際に予言したとおり、新年早々向かうところ敵なしのトラ珍大統領はベネズエラに侵攻するご乱心の展開を見せた。現地時間1月1日未明の攻撃と読んでいたが、天候悪化で攻撃ヘリ視界不良のため二日遅れの攻撃となったのは、1989年のパナマ進攻でノリエガ大統領を逮捕した記念日に合わせての決行だろう。
◆通信勧進元のE本氏より、サルでもわかるベネズエラ情勢を5分で読める2ページ見開きの文章にまとめよ、との無理難題チックな発注があったが、カーニバル出撃直前の取り込み中で時間も集中力も枯渇気味。が、侵攻後の現地特派員はもとより、識者と名の付く向きから無責任な戯れ言を並べるユーチューバーまで、真っ当な解説はほとんど見られない。地元紙や現地マスコミの報道をアシスタントに集めさせ、AIがまとめたようなこたつ記事ばかりで、まともな評論は皆無に等しい。
◆あまりに登場人物も歴史的背景も関連事項も多すぎて、どうにもまとまりがつかないがゆえ、あえて焦点をずらせた視線でこの展開を解析してみたい。なお、文中に我が読書記憶に刻まれた、それぞれの事項に対応する書籍名を(注)として挙げておくので、ぜひとも文献の裏に広がるさらに深い闇を読み解いていただきたい。
◆まずはベネズエラの国名に言及した記事が見当たらないが、正式にはベネズエラ・ボリバル共和国(República Bolivariana de Venezuela)で、このボリバルは南米の解放者シモン・ボリーバルのこと(注1)。スペインの植民地だったベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドル、ペルーの五か国を独立に導いた軍事指導者/政治家で、ボリビア多民族国の国名やベネズエラの通貨ボリーバルはその名に因む。ラテンアメリカ全土の大都市からド田舎の村まで、ほぼどこに行っても通りや広場にその名が刻まれている偉人で、このボリーバルが提唱したのが「我らがアメリカ」という概念であり、それこそが西半球を裏庭扱いする米帝国主義=モンロー主義に対抗する南からの思想だった。
◆のちのキューバ独立の指導者で詩人のホセ・マルティにその思想は受けつがれ、それを実現させたのが髭のカストロやチェ・ゲバラへとつながる系譜となる(注2)、(注3)。キューバ革命は社会主義ともコミンテルンともほぼ無縁で、米国の傀儡政権に対する民族主義革命であり、源流はルソーなどに代表される啓蒙思想。その理想はスペイン植民地支配から脱したラテンアメリカ諸国が一つの巨大な連邦(パトリア・グランデ=偉大なる祖国)を形成し、奴隷解放や反帝国主義をもって、北の巨人アメリカに立ち向かう、はずだったのが、結局は仲間割れの企画倒れとなり、ボリーバル将軍はエクアドルで失意のうちに亡くなる(注4)。
◆とここまで記したところで時間切れ、カーニバルのパナマに移動したので、この先はまさしく現地通信と化す。それはさておき、コロンビアの領土だったここパナマは運河建設のため、アメリカの謀略で1903年に独立させられ、運河地帯の幅16キロはアメリカが永久に主権を維持統治する憲法を押し付けられた。前後してキューバのスペインからの独立戦争を乗っ取る形で、陰謀たっぷりの戦艦メイン号爆沈事件をきっかけに米西戦争が開戦され、軽くスペインを撃退。キューバはほぼ属国として独立させ、さらにプエルトリコと太平洋方面のグアムやフィリピンを植民地として併合した。
◆このどさくさに紛れて、かの悪名高いグアンタナモ米海軍基地が設置されるが、キューバ国内にありながら、両国が合意するまで米国が租借使用する条約を強要された。9・11のアルカイダ容疑者を無期限拘束するなどやりたい放題なのは、米国内法も国際法も適用されない治外法権の地だからこそ。まあ、沖縄から赤坂まで居座る米軍の地位協定に耳目を閉ざす国は、偉そうなことは言えない。留意すべきは、南北戦争で分断敵対していた南部と北部が、共通の敵に対して初めて和解し共同して闘った歴史的事実だ。アメリカは戦争を常に必要とする国家なのである。
◆そのアメリカがよくぞパナマ運河を返還したものだが、これは天才的戦略家でパナマ大統領としてジミー・カーター米大統領と渡り合ったオマル・トリホス将軍の外交交渉の成果である(注5)。ラテンアメリカ全域を管轄する米南方軍総司令部やアルブルック空軍基地は運河とともにパナマに返還され、今や巨大なショッピングモールやバスターミナルになっている。
◆トリホス将軍は国民の間で絶大な支持を集めていたが、1981年に謎のヘリ墜落事故で死去。CIAによるミッションで、暗殺を実行したのは部下の情報将校だったノリエガだったといわれる。不正選挙から麻薬密輸や二重スパイなどなど、悪行には事欠かない来歴で、そのあたりは今回拉致誘拐されたバスの運転手あがりの国家元首マドゥロ大統領に劣るとも勝らない存在だろう。とはいえまあ、トラ珍が麻薬密輸阻止ほかいくら綺麗ごとを並べても、やはり石油利権欲しさのならず者の所業であることは間違いない。
◆次はグリーンランドも欲しいもんというトラ珍は、もはやソシオパスと化してきており、ノーベル平和賞からドンロー主義による西半球支配まで、要は単に欲しいものはすべて手に入れなければ気が済まない状態だ。それをうまいこと利用して個人的利権や目的を達成しようと目論む取り巻きのなかでも、悪の筆頭に挙げられるのが国務長官マルコ・ルビオ。反カストロ勢力の拠点マイアミ出身のキューバ難民子弟で、父親はバーテンダー、母親はウエイトレスの極貧家庭で育つ。生涯の天敵カストロ政権を倒すことだけが目的で、対キューバ制裁を主導してきた。
◆当地に暮らすベネズエラ難民や気のいいパナマ国民に直接聞いてみると、確かにマドゥロ逮捕は歓迎すべきことではあっても、そりゃやっぱり軍事侵攻による誘拐は犯罪行為だろっと覚めた意見が多い。帰国しようという向きは、故国に残した家族に会うためとか、情勢の変化に対応した新規ビジネスを立ち上げるためなど、物理的実務的理由ばかり。大多数は様子見だ。マルコ・ルビオは次期大統領を一時期狙っていたが、バンス副大統領とコンビを組んだほうがトラ珍の覚え目出度しというわけで、共和党支配を拡大する方向にシフトしている。
◆マドゥロの前任チャベス大統領時代は彼がカストロの大ファンだったこともあり、ベネズエラの石油とキューバ人医師による医療サービスのバーター形式で厳しい経済封鎖にもしぶとくサバイブしてきた。が、今やトラ珍は別に手を出さなくてもすぐに潰れんじゃねっとばかり、ロシアや中国の影響力排除を優先している。それよりは、エプスタイン・スキャンダル隠しの方が最優先事項だろう。
◆唯一メキシコだけはアメリカに対抗する姿勢を見せていたが、関税200パーセントの脅しにめげてキューバへの石油タンカーを止めた。ハバナの闇市場のガソリン価格は1月末の時点で1リットル8271円をマーク! 国の半分は停電と断水で生産活動停止状態となり、医療や教育まで深刻な日常生活の危機が発生している。カストロ無きキューバがどこまで持ちこたえられるか、もしかすると半年以内に自壊の可能性すらある、ってこれも、エネルギーと食料の大半を輸入に頼り、そのくせ食品廃棄量世界一を誇る我が国は有事の際どーするつもりなのか、決して他人事ではない。
◆ベネズエラに世界が注目したとたん、ガザもウクライナもすっかり忘れ去られた挙句、総選挙や冬季オリンピックで、すでに過去の話になった感もある。実際のオペレーションは徐々に情報が漏れ伝わってきているが、全景を俯瞰してみるとほとんどハリウッド製アクション大作そのものだ。戦闘機や無人機など150機以上の軍用機を投入、陸海空海兵宇宙軍や情報機関を総動員した周到な電撃作戦で、拘束任務を担ったのは米陸軍特殊部隊デルタフォースと、2011年のウサマ・ビンラディン襲撃作戦に参加した夜間任務専門の第160特殊作戦航空連隊。隊員一人養成に16億円の巨費が投じられる桁違いな存在で、わずか43秒でマドゥロ夫妻に手錠がかけられた。
◆なんと内部情報通報者はカベジョ内務・法務大臣だったという香ばしい落ちだが、戦の途中ゆえこれにて失礼。後日、基礎文献リストを別途掲載の予定、何とぞよしなに。[Zzz@カーニバル評論家]
(注1):『シモン・ボリーバル——ラテンアメリカ解放者の人と思想』 ホセ・ルイス・サルセド・バスタルド著、春秋社刊 (注2):『キューバ革命勝利への道 フィデル・カストロ自伝』 フィデル・カストロ・ルス著、 明石書店刊 (注3):『チェ・ゲバラ 革命の人生』上・下 ジョン・リー・アンダーソン著、みすず書房刊 (注4):『迷宮の将軍』 ガルシア・マルケス著、新潮社刊 (注5):『トリホス将軍の死』 グレアム・グリーン著、早川書房刊
【またもや1本の電話で始まった非常勤講師】——探検家として、編集者として生きた——岡村隆さんの人生はこう言い切ることができるだろう。でも、そのなかで4年間、大学の教員を務めていた時期があったのは案外と知られていない。2002年の秋、岡村さんから突然電話があった。「地平線のなかで、誰か大学で教えられる奴はいないか」。え? またもや話がぜんぜん見えない。いろいろ聞いていくうちに、西武文理大学という、今年度末に初めて卒業生を送り出すことになる新設の4年制大学で非常勤講師を探しているという話であることが理解できた。
◆もともと西武文理はホテル・レストラン業界向けの専門学校から発していて、全国の旅館・ホテル経営者の子弟を多く学生としてかかえている。いまのところはサービス経営学部だけの小さな単科大学だが、観光学部を設置したいという構想があって、それに備えて何人かの教員をまとめて確保したいのだそうだ。そこで大学と付き合いのある近畿日本ツーリストに相談があり、そこから元日本観光文化研究所の宮本千晴さんに連絡が行き、千晴さんが岡村さんに丸投げし、途方に暮れた岡村さんがさらに私に話をもってきたというのが事の次第だった。
◆たしか20名弱だったか、岡村さんの要請にもとづいて氏名と旅歴、想定される授業科目をリスト化し、提出した。それをもとに岡村さんが自分で電話をかけてくどいていったようだが、春夏冬の休みはあっても、毎週1回かならず授業をやらねばならない。おまけにキャンパスが埼玉県の狭山市(西武新宿線の新狭山駅からスクールバス)で、通勤にかなりの時間がかかる。次々と断わられてしまったようだが、地平線会議の外にも声をかけ、岡村さん自身も講義を担当することになって7名の講師が決まった。あと一人。そこでまた突然「お前がやれ」という電話があり、みなさんを勝手に推薦した責任も感じて、私も引き受けざるをえなくなった。
◆地平線つながりでは、『森の回廊』の吉田敏浩君が「異文化理解」を、林業にも詳しい長野亮之介君が「エコツーリズム論」を、民俗文化研究家で『望星』で連載をもっていた名本光男君が「観光資産論」を、トラベルジャーナル社時代の岡村さんの同僚で旅行ジャーナリストの沢木泰昭さんが「リゾートライフ論」を担当することになった。「どなたかにゼミを担当していただきたい」という大学側の申し出があったので、私は3年生のゼミ「異文化理解」を引き受け、彼らが4年生になったところで卒論の指導や進路相談までやってしまった(3年目、4年目は講義も担当)。
【探検家育成のためのプログラム】——そして岡村さんはというと、なんと「旅と探検」という、大学側の希望にはなかった独自の科目を勝手に自分で用意して、半期だけ担当したのだ。手元に2005年度のシラバス(履修要項)が残っているのだが、その「講義の目的と概要」では、「(旅の)本質を典型的に体現している『探検』という行為に焦点を当て、その動機や発想から、企画立案、実際の行動、作戦や方法論、成果の評価、広報や報告活動のおり方までをいくつかの事例に応じて概観し、その『やり方』を学んでいく」と構想を述べている。続く「講義方法」では、「たとえば自分ならその地域や旅のどこに興味があって何を知りたいか。そのために何をどうすればよいのか、興味に応じての『探検』を擬似的に企画・立案することを主眼としたい」と書く。
◆最後には全15回分の授業計画が挙げられている。「1…講義方法、評価の方法について。講師の活動歴などの紹介/2…人はなぜ旅をするのか?/3…旅と探検、冒険、調査の違い/4…旅の持つ文化的側面について/5…世界探検史概観/6…日本人の旅と探検/7…探検の発想と企画立案/8…探検実行の準備について/9…探検と各種交渉/10…現地での作戦、方法論について/11…探検の成果とは何か/12…プロジェクトの広報宣伝と報告方法/13…探検企画書など文書の作り方/14…探検報告書の作り方/15…各自の探検企画発表と討論」。どうだろう。これは一般の大学生向けの授業とはとても思えない。きちんと組み立てられた、探検家育成のためのプログラムではないか。
◆実際に岡村さんがこんな授業をしたのかは、わからない。どんな授業内容なのか尋ねてみたことがあったが、「大航海時代の話とか、ヘディンらの中央アジア探検なんかの話をしているだけ。楽なもんよ」と笑っていた。だから、探検史を語る座学中心の講義なのだと思い込んでいたのだが、まさか最後に受講生たちに探検の企画を発表させ、討論までやらせる実践的な授業だったとは……。岡村さんは生半可な覚悟で講義を引き受けたのではなく、本気で「教育」に取り組もうとしていたのだとつくづく思う。
【ヒゲの4人がクビに】——◆非常勤講師のギャラは専任の教授らと較べるとゼロが2桁少なく、これだけではとても生活できない。岡村さんも午前中に大学で授業を済ませ、午後から『望星』編集部に出勤していたようだ。私も「丸山さんは大学で忙しそうだから」という理由でフリーランスとしての仕事を幾つも失い、経済的にかなり苦しくなってきたので、4年目の夏休み、今年度いっぱいでやめさせてもらおうと考えているうちに、「組織改編のために来年度の授業はありません」という通知が大学から先に届いてしまって、悔しい思いをした。
◆このとき、岡村さんや長野君も含めて同期で就任した岡村組8人衆のうちの4人がクビになったのだが、4人に共通するのがヒゲを生やしていることである。西武文理大学はホテルマン養成も重要な柱としていたので、長髪やヒゲ、服装の乱れなどを見つけた教員は、学生にイエローカードを渡して注意する決まりになっていた。大学当局にとって、教員みずからがヒゲを生やしていては示しがつかなかったのだろう。観光学部新設を強く推進していた学部長が諸事情から退職して、後ろ盾がなくなってしまっていたのも影響していたと思われる。
【開かれたNPOとして再出発】——法政大学探検部を母体とする「スリランカ密林遺跡探査隊」は2003年、岡村さんが大学教員となった年に第7次隊を派遣して大きな成果をあげた(岡村さんは不参加)。これは私の勝手な推測でしかないのだが、ちょうどこの時期あたりから、岡村さんは法政隊とは別の組織での活動を考えるようになったのではないかと思う。
◆岡村さんの右腕として法政隊やのちのNPO隊を支えてきた探検部の後輩・境雅仁さんによると、遠征に参加してもほとんどのメンバーが1回だけで離れていくそうだ。境さんは国内で遺跡の発掘調査を仕事とする専門家になったし、執行一利さんはスリランカの文化人類学研究をやるようになったが、たいていは一度社会に出てしまうと復帰してこない。しだいに探検技術や知識の継承が難しくなり、法政の探検部だけでは活動の継続が先細りになってしまうことが見えてきた。そこで、関東学生探検連盟で声掛けするなど、スリランカに関心をもつ人たちが広く参加できるよう門戸を開放していくうちに、NPOの設立を望む機運がしだいに高まっていったようだ。
◆2007年9月には法人設立に向けて設立総会が開かれ、これまでの法政隊の枠を取り払って「開かれた市民団体」として再出発することになる。そして、スリランカだけでなく南アジア全域を対象とし、研究や啓蒙活動、文化財の保護、住民への福利活動なども事業内容として盛り込まれて、2008年2月に「特定非営利活動法人 南アジア遺跡探検調査会」(通称SARERS:South Asian Ruins Exploration and Research Society)として設立認証された。岡村さんが大学を離れたのが2007年の3月。その頃からNPO設立に向けての動きが具体化したのは、偶然ではあるまい。
◆SARERSは2009年の夏に7人の会員をメンバーとする遠征を実現させたのを皮切りに、2010年、2011年、2013年、2016年、2018年と立て続けに遠征隊を送り込んだ。どの隊にも新たに加わった各大学の探検部員らが多く参加している。密林をかき分けて古代の仏教遺跡を発見していくという行為はまさに探検の王道で、若者たちを惹きつけた。ただし、なかには焚き火をするのもシュラフで寝るのも初めてという、アウトドア未経験者もけっこういたようだ。密林で行動するためには基礎的な登山技術が欠かせないし、測量や写真撮影の技術も短期間で習得させなければならない。彼らをいかに事故なく無事に帰ってこさせるか。岡村さんをはじめ、リーダーたちが現場で感じていた緊張と努力はどれほど大きかったことだろう。
◆こうした初心者たちを教育するうえで、かつて大学教員として学生たちを教えた経験が活かされたのではないだろうか。というより、こんな展開になることを、岡村さんは2003年の段階から感じながら、あの授業を実施していたように思えてならない。岡村さんはこわもてで声も大きく、怒ると怖いが、情が厚く、懐も深い。編集者として書き手を何人も育てたとよく評価されるが、多くの若者を育てた教育者でもあったという側面も強調しておきたい。
◆半世紀にわたる密林遺跡探査への情熱が評価されて、岡村さんは2019年に第23回植村直己冒険賞を受賞する。SARERSはコロナ禍が明けた2023年夏に遠征隊を送り込むが、岡村さんは直前に病気(骨髄異形成症候群)が発症していて密林に入ることは控えたものの、ご家族をスリランカに迎えるという宿願を果たした。2024年隊は東京から遠隔で指揮したが、あまりの熱心さに現場は辟易させられたとも聞く。
【探検家として目覚めた瞬間】——私は、SARERSが刊行した報告書のうちの2冊(2011/2013年隊と2016/2018年隊)のデザイン・レイアウトを手がけている。その最中、ここまで執拗に報告書作成にこだわるのはなぜですかと尋ねたところ、岡村さんは意外そうに、「報告書を出さなけりゃ、探検とは言えんだろう」と答え、初期の報告書を観文研が刊行してくれたときに宮本千晴さんから受けた恩義について語り始めた(地平線通信25年9月号参照)。この話は何度も聞いていたが、「岡村よ、これは一生かけてやらねばならない仕事だぞ」という、このときの千晴さんのひとことによって、岡村さんは探検家として歩み始めたのだなとあらためて感じた。そして、まさにこの瞬間こそ、「探検の教育」がなされた現場だったのだと思う。
◆思い出は尽きないが、ひとまずここまでとしたい。今ごろは赤ペンを手ににやにやしながら待ちかまえているのかも。[丸山純]
■久しぶりに画伯の8コマ漫画を見て、たまに報告会おやすみも悪くないな、と思った。ハングルで書かれている文字は「地平線通信 五百六十二」の意味。何気ない数字もデザイン化してしまう画伯の腕にいつもながら感心する。そして、エナガやシジュウカラが来る庭は紛れもなく懐かしい長野家の庭でこういうスケッチも嬉しい。
◆3月の報告会は(上に書いてあるとおり)28日14時からです。報告者はまもなく決めます。なるべく若い新人を、と思いつつ地平線ではかっての若者たちが大人になってなお、すごい行動を続けている者が多いのでそっちの側も同じように大事にしたい。
◆3月の地平線通信は18日に印刷予定です。原稿は早めに、できれば10日までに必ずお願いします。[江本嘉伸]
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《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》
今月の報告会は、会場の都合により中止します。
地平線通信 562号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2026年2月18日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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