2026年5月の地平線通信

5月の地平線通信・565号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月20日。気温は朝から上がり続け、夏の気配だが、夕方には雨も予想されている。

◆4月から5月にかけて珍客が次々にあらわれた。はじめはかのマッシャー、本多有香。新潟の実家の用事でアラスカから10年ぶりに帰国した。と言っても会えたのはアラスカに帰る4月30日昼過ぎ。午後の便で飛び立つため、私との時間は東京駅で1時間半ほど。効果的に時間が使えるよう、リコさん(17ページ、田中律子)が素早く動いてくれた。

◆有香との思い出は沢山あるが、とにかくビールだ。資金稼ぎのために佐渡島まで働きに来ていた時は何人かで島まで押しかけ慰労の口実でビールを飲んだし、植村直己冒険賞を受賞された時には兵庫県豊岡市まで皆で押しかけ賑やかにこれまたビールをたらふく飲んだっけ。いまも犬たちと暮らしている本多有香、次は「地平線半世紀」の年にまた来るかも、という。

◆最後に「これ、地平線会議へのプレゼント」と言って季節感を無視したつなぎの防寒着をいただいた。おお!これこそ「地平線モリズム」のオークションに出せる。用意しておいた著書『犬と、走る』(集英社インターナショナル刊)にサインを頼むと「2026.9.6西興部 地平線 現在アラスカで犬ぞりしてます。4649!本多有香」と書いた。そう。皆さん、9月の地平線モリズムでは盛大にオークションをやるつもりです。

◆5月半ば、大阪に向かった。かってはよく通った民博(国立民族学博物館)で企画展「ドルポ――西ネパール高地チベット世界」をやっている。企画の主役でもある稲葉香さんはネパールを旅していて不在だが、担当の南真木人名誉教授が私と同行者の久島弘さんを2時間たっぷり解説しながら案内してくれた。ドルポ展だけでなく通常の展示コーナーや久々に梅棹忠夫資料室も覗くことができた。ああ、ここにも何度も通わせてもらったな、と懐かしさがこみあげた。

◆2002年は、国際山岳年の1年だった。世界各国に合わせて日本にも国際山岳年日本委員会ができ、私はその事務局長となった。その際、目は不自由だが、山と探検への思いはまったく変わらない梅棹さんに「特別顧問」をお願いした。そして、この年の11月には朝日新聞と国際山岳年日本委員会の共催で私が聞き役をつとめるかたちで「山と文明」という講演をやっていただいた。そういうご縁もあり、のち「梅棹忠夫・山と探検文学賞」の選考委員もつとめることとなった。

◆夜は、通信の4コマ漫画でお馴染みの中島ねこさん、岸本佳則・実千代さんご夫婦と待ち合わせて懐かしい「テンカラ食堂」へ。井倉里枝さんがもう12年美味しい食事を提供している小さな食堂。何年ぶりかの私にはほんとうに懐かしく夕食時、次から次へとお客が現れ食事するさまに、思いがけず感動した。ここはお客が食べたい、と思う食事を出している場所なのだ、とわかったのである。

◆翌15日は予想もしなかった再会が待っていた。オーストラリアのあのシール・エミコがスティーブと大阪に現れたのだ。確かもう6回目になるガン再発でこちらから病状を聞くのもためらわれていたが、それがなんと病と戦いつつ宿願の沖縄旅(19ページ参照)をやってのけて大阪に来たという。6番目のガンを克服しての「奇跡」というだけではない。実はこの日5月15日はエミコの61回目の誕生日であり、奈良の農家暮らしをしていたエミコたちを私が訪ねた日からちょうど20年になる記念の日なのである。

◆喫茶店で話し続けること1時間あまり。旅のこと、何度かお会いしている、今は天に召されたエミコの母上の話も出た。歌が好きで確か私と同い年、私のカラオケ歴の最後はエミコ母と歌った「宇宙戦艦ヤマト」だったな。

◆初夏5月。今年もさまざまな人との出会いがあった。久島君には荷物運びをまかせ、移動のすべてをリードしてもらった。「後端技術愛好家」を自称する彼が常に磁石で方位を確認しながら動くのが面白かった。久島君、2日間、ほんとうにありがとう。[江本嘉伸


先月の報告会から

森に育まれた暮らし

笠原初菜

2026年4月25日 榎町地域センター

■今回の報告会に登壇してくれたのは、笠原初菜さん(32)。北海道で旅人や探検部員などが出入りする「ちえん荘」という共同生活の場を作り、時間や経済に追われない柔軟な暮らしのあり方を探っている人だ。初菜さんは、北海道の南富良野町で自然豊かな環境のもと生まれ育ち、大学時代はネパールに通ったりカヌー部や探検部に所属して山や川を旅してきた。大学院修了後に新聞記者を経て、現在はイス張り職人の修業を行っている。彼女曰く、「私は何か大きな功績を収めたわけではないけれど、自分が育った環境や経験してきたことが誰かにとっては珍しいかもしれないので、自由に解釈してもらえたら」とのこと。普段は北海道で暮らしている彼女が今回上京してくれ、「ちえん荘」を軸に自らの経験や、時代や社会、暮らしに向ける考えを語ってもらった。

◆まず、彼女はどのような環境で生まれ育ってきたのだろうか。初菜さんのご両親はともに海外や日本各地を放浪する旅人同士で、北海道で出会って初菜さんが生まれた。一家の周りに集まる人々もまた旅人が多く、いわゆるサラリーマンではない人たちが近くにいる環境で生まれ育ったのだという。

◆初菜さんが幼いころからよく出入りしていたのが、キャンプ場やアウトドアアクティビティを提供する「どんころ野外学校」だ。一家が住んでいた旭川市から車で2時間ほどの南富良野町にあり、両親は時々そこでスタッフとして働いていた。どんころ野外学校とのつながりで、初菜さんが5歳の時に一家は南富良野町に引っ越す。幼き日の初菜さんは、そこで20代や30代の若者に遊んでもらい、子どもながらに彼らから多くのことを学んだ。さまざまな背景を持つ大人たちと触れ合う機会に恵まれたどんころ野外学校は、自らの原点となるような場所だと語る。

◆その後、中学高校生活では部活に明け暮れ、いわゆる一般的な学生らしい生活を送る。北海道大学に入学してカヌー部に入るものの、大学生活全般で無理をし過ぎてしまったせいでうつ病を発症してしまい、半年ほど大学に通えない時期があった。その後、探検部に入部。探検部は初菜さんが入部する前年まで、部室として築90年ほどの一軒家(デューク東郷)を持っており、そこで部員たちが暮らしていた。カヌー部時代に初菜さんも遊びに行ったことがあり、他のカヌー部員は「ボロボロですごいところだね」と言っていたものの、幼いころから共同生活に慣れていた初菜さんは居心地の良さを感じていた。探検部入部後は、新しくなった一軒家兼部室(イプシロン)で共同生活をしながら、仲間と探検に出かけた。

◆大学、大学院では文化人類学を専攻し、修了後に新聞記者となる。希望の職に就くことができやる気に満ち溢れていたものの、実際に待っていたのは紙面を埋めるためのネタ探しでノルマに追われる多忙な日々だった。しかも地方支局で馬の合わない上司と二人きりという職場環境が追い打ちをかけ、あっという間に心身のバランスを崩してしまう。初菜さんは、過去にも高校生のときに留学中、大学でのカヌー部時代と2回もうつ病を発症していたが、3回目のうつ病になりそうな状態だったという。当時は、パートナーの五十嵐宥樹さんも出稼ぎで離れており、一人暮らしになったのも大きな要因だった、と初菜さんは振り返る。子どものときから探検部に至るまで、常に大人数で暮らしてきたからだ。

◆その時期、パートナーの五十嵐さんが、元探検部で旅人になっていた山川佑司さんを誘い、北海道に連れ戻したことがきっかけで、初菜さんも仕事を辞めた。3人で旭川近郊の町に一軒家を借りて、2021年秋ごろから、共同生活が始まる。それが「ちえん荘」だった。その後に初菜さんの弟が加わり、元山岳部のYさんが山川さんと入れ替わるなどして4人で暮らした。ちえん荘には探検部の現役部員や先輩たち、カヌー部の友達が来ていたりと発足当初からさまざまな人が出入りしていた。五十嵐さんと山川さんが鹿を解体して食べたり、魚を釣ったり、DIYをしたり、30万円で3ヘクタールの山を買って「ちえん林」と名付け、探検部員や集まるみんなが自由に遊べるフィールドとして活用したりもした。

◆ちえん荘とは何かというと、シンプルに表現すれば「みんなで一緒にご飯を食べる」場所なのだという。普段からさまざまな人が出入りしているが、共同生活を円滑に進めるため、月に1回「ちえん会議」を開いて住人同士で意見交換をし、ゴミ捨て当番や食事当番を日替わりで担当するなどして、家事を分担していた。ちえん荘の「ちえん」は、五十嵐さんがつけた名前だ。この言葉には多くの意味が含まれており、まず一番の意味合いは、早すぎる社会のスピードについていけないからゆっくりいこうじゃないかという意味の「遅延」。それから、五十嵐さんが林業で使っている「チェンソー」。他にも、知恵を蓄えていきたいという意味での「知恵の荘」、土地の縁を大事にしたいという意味での「地縁」などもあるが、いくつも説明するとややこしくなるので、最近は遅延とチェンソーをかけている、と説明している。

◆ちえん荘での暮らしは3年ほど続いたものの、現在ではその共同生活自体は一旦解散し、それぞれの道を歩み始めている。山川さんは親方のもとで有機無農薬野菜作りを学んだ後、自ら畑を借りて親方の住んでいる地域で新規就農した。五十嵐さんは個人事業主として林業の一人親方をしており、冬場は馬の力で伐採した木材を運び出す「馬搬」を学ぶべく、親方のもとで修業をしている。初菜さんの弟はカナダにワーホリに行き、Yさんは大工の修業中だ。初菜さんは職業訓練校での家具職人の勉強と親方のもとでの修業を経て、イス張り職人として独立する準備をしている。「将来、既存の家族の形にとらわれない風通しのいい環境で子育てをしてみたい」とのことで、いろんな仲間が他人ではない距離感でゆるく関わり合う家族の形を夢見ている。

◆共同生活の場としてのちえん荘がなくなった今でも、集っていた人々の心の中には依然として「ちえん荘」が棲みついている。初菜さんにとってちえん荘とは何かというと、実は仲間と集まって共同生活をすることが当たり前だったゆえにちえん荘の存在意義についてあまり深く考えたことがないのだという。そこで初菜さんは、地平線報告会で話をするにあたり、ちえん荘の住人やよく来ていた人たち計8人に会いにいったり電話をかけたりして、ちえん荘をテーマにおしゃべりをしてみた。会場では、初菜さんがそれぞれの人たちと話した内容を対話形式でまとめた冊子が配られ、それをもとに報告会が進められた。その冊子では、おしゃべりの内容を聞き書きの形であえて全文を掲載している。会場の参加者に「お土産」として渡したもので、その行間からなんとなくちえん荘のことを想像してもらいたい、という意図なのだという。実際に会場で報告会に参加した方は、冊子の内容を読み、初菜さんの話を聞くことでちえん荘の“輪郭”のようなものを掴むことができたのではないだろうか。

◆その冊子の内容の一部を報告会レポートの中にぜひ書き残したいと思ったが、初菜さんの意向によりそれは取りやめることになった。8人の発言内容の一部だけを抜き出して掲載することで、それがちえん荘の思想なのだという誤った認識をレポート読者に植えつけてしまう恐れがあるからだ。あくまで「特定の思想があるわけではなく、みんなで集まっている場」であるということが、ちえん荘を説明する上でとても重要な要素なのだという。

◆その冊子を読むことで、ちえん荘に集まる30代前後の彼らの価値観がよくわかり、とても興味深い内容であったためにここで紹介できないのは筆者としては大変残念に思う。そのため、ここで簡単に筆者の感想を述べさせていただきたい。この冊子に書かれた内容はもちろんのこと、言葉選びや発想のしかたなどから滲み出る断片に、私は強い既視感と懐かしさを感じた。筆者も、実は初菜さんと同い年で早稲田大学探検部出身だ。探検部に入る前と、探検部を卒業した後の社会人生活においても、こんなことを考え発言するような人々には出会ったことがなかったからだ。

◆私は大学院から探検部に入り、在籍期間は2年足らずだったものの、そこで得た衝撃は私のその後の人生を大きく変えるものだった。部員たちは部会でも部室でも飲み会の場でも、探検とは何か、人生とは何か、とにかくそんな剥き出しで根源的な問いを議論し合っていた。そんな問いを立てられる彼らを心から尊敬していたと同時に、正直、気後れもしていた。自分にはみんなみたいにアウトドアの経験や知識もなく、クリエイティブな発想や才能もなかったからだ。あの頃はみんなお金がなくて、部会が終わった後は、コンビニでお酒を買って公園で座って飲んでいた。私はただ、「探検とは何か」というお題目を肴に酒を飲み、全力で議論する部員たちを見ているのが好きだったのである。

◆あれから10年経ち、私は人並みに結婚し子育てをしている。日常は忙しくも淡々と過ぎていき、胸に去来する思いを誰かに共有し議論する場所はほとんどない。私も社会に揉まれ、当たり障りのない発言で日々をやり過ごすという手垢にまみれたスキルを身につけ、本当の気持ちは誰にも言わず日記帳に書き残して済ませる生活にもすっかり慣れた。人が何か胸の奥に隠された思いがあるときは、それを理解できそうな相手が目の前にいて、初めて言語化されるものだと思う。現代の社会にはそうなりうる環境がなく、そんな相手に出会えることも多くない。ちえん荘にはその環境があり、非常に稀有な存在だと思う。今は共同生活の場としての「ちえん荘」がなくなっていても、いつかどこかで繋がって、何か面白いことが生まれるのではと期待している。[貴家蓉子

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 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

ちえん荘の安心感って何なのだろう?

■「地平線」の皆さま、こんにちは。先日会場まで足を運んでくださった皆さま、ありがとうございました。発表では、自分が育ってきた環境のこと、北海道東神楽町で仲間と共に「ちえん荘」で過ごした数年間の共同生活のこと、そして、自分やみんなの、今とこれからについて話しました。たくさんの面白い大人たちに囲まれて育った幼少期の心地良さと、わちゃわちゃとたくさんの人が集まるちえん荘の心地よさ。自分の過去と現在が、なんとなくつながっているような、そうでもないような。

◆小さいころ、周りにいた大人たちは、土木仕事ができたり、家を建てられたり、畑で野菜を作れたり、歌を作って歌う人もいれば、カヌーを作れる人もいれば、鹿の皮をなめして服を作れる人もいました。青空の下、大人がひとりでもくもくと作業する場面も、仲間同士で力を合わせている場面も、よく目にしました。自分は、そういう環境で育ちながら、そういう大人たちを目の端で捉えてはいながら、何も、自分でできるようにはならなかった。普通に、遊んで、部活して、勉強に精を出して、自分の手では何も生み出せないまま大きくなりました。これでは「恵まれた環境で育ったらこんな面白い人間に育ちました!」みたいな、わかりやすい図式が成り立たない……。

◆そして、ちえん荘での共同生活。これまた、強い思想みたいなものは何もない。私自身は「居心地がいいなあ……。たくさんの人が一緒に時間を過ごしてくれてありがたいなあ……」というのが、思いのすべてというか……。仲良くなった人たちと、少しずつ力を貸し借りしながら、良い時間を過ごしながら、願わくば「自分の手でできること」を増やしながら、心地良く、暮らしたい。ヨチヨチ歩きの赤ちゃんくらいゆっくりのスピードで、それを試している最中。ただそれだけです。

◆それだけなのに、私はそこに、計り知れない安心感や、心強さを感じている。ちえん荘に集まってくれる人たち、この人たちがいれば、私はこの先、不安定な不透明な時代の中でも、なんとか生きていけるんじゃないかという漠然とした希望がある。これはなんなのだろう? 自分でも、よくわかっていません。その、よくわからなさを伝えたい、そういう話をしたかったような気がします。ちえん荘を取り巻く色々について、何かを断言したり、「こうだと思う」とは言いたくない。自由に解釈してほしいし、ちえん荘に来た人がその人なりに楽しんでくれれば良いのです。

◆報告会当日、会場に来てくれた方々にお渡しした「お土産」は、ちえん荘をよく表したものになっているのかなと思います。ちえん荘に出入りしている人たち一人ひとりと私が、ちえん荘をテーマにおしゃべりをした、聞き書きの冊子です。長野亮之介さんとZoomで報告会の打ち合わせをした際、長野さんが言ってくれた「ちえん荘って、縁側みたいな場所なのかもね」のひとことから、「みんなにとってはどんなところなんだろう?」と気になり、突発的に思いついて作った聞き書きです。

◆いきなり電話をかけて「ちえん荘ってどんな場所だと思う?」と水を向けたら、皆それぞれ、考えを話してくれました。一人ひとり、ちえん荘に来ている理由は違っていました。ちえん荘について何を感じているかも違う。今我々が生きている時代のこと、生きづらい世の中の空気のこと、SNSのこと、「同じ釜の飯」を食うこと、「社会貢献」という名の圧力のこと、物々交換のこと、これからの家族のかたちのこと……、色んな話に展開しました。こうやって皆がおしゃべりしてくれるのが本当に嬉しいし、考えを話し合える時間が素敵だな、楽しいなと思いました。そして私は、ちえん荘って何なんだろうと、ますますわからなくなる。それが面白いのです。当日は説明的になってしまった部分、私の想いと別の方向で伝わってしまった部分もあるかもしれませんが……。ちえん荘の話を聞いて何かを感じてくださったあなた、ちえん荘で会いましょう。お待ちしています。

◆そして今回の報告会で嬉しかったもう一つのことは、地平線のみなさんと「出会えた」ような気持ちになれたことです。もう10年近く前から、地平線のことは知っていたし、通信も受け取ってはいたけれど。私は、学生時代に探検部に所属していながらも探検にはのめり込めなかったし、行動者になりたいと思いつつも特に目立ったことをできずにいたので、「できればあまり近づかないでおこう」とさえ思っていました。ヘタに近づいて、自分の薄っぺらさを暴かれるのが怖かったのです。

◆「北海道地平線」の話が動き出してからは、江本さんを始め数人の方々と少しずつ触れあい、「面白そうな大人たちだ……!!」と思い始めていました。そして今回。江本さんや長野さんが「あなたには話せることがある」「面白い発表になると思う」と言ってくれたことに、心が動きました。報告会前日に「はっちゃんの話ならぜひ聞きたい」とメールをくれた花岡さん、発表直後に「面白かった」と声をかけてくれた澤柿さん、光菅さん、「あの聞き書きの冊子が良かったね」と言ってくれた車谷さん。そして、2次会の新北京では、初めてお会いする方々も含めて一人ひとりが、発表について触れたり、話しかけたりしてくれたのです。本当にあたたかいところだと思いました。今までガードを固めていたのが嘘みたいに、地平線の方々一人ひとりに、そして地平線が積み上げてきた歴史に、興味が沸いてきました。これまで何度も「通信に原稿を書いてみて」と打診してくれ、私が地平線とつながれるよう扉を開いてくれた江本さん、本当にありがとうございます。興味が出てきたので、早速、『地平線から・第8巻』の座談会のページを読んでいます。とても面白いです。[笠原初菜

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 イラスト ねこ


同じ釜の飯を食う仲——「ちえん荘」が揺さぶったもの

■4月の地平線報告会で、久しぶりに脳を揺さぶられた。実を言うと、最初は少し戸惑っていた。最初に会場で配られたのは、「ちえん荘をめぐる、おしゃべりの記録」と題された、住人や周辺の仲間たちへのインタビューの文字起こしだった。登場人物も多く、誰が誰なのか、どんな関係なのか、最初はよくつかめない。正直、このままどう話が展開するのだろう、と思いながら聞き始めたのである。

◆ところが、後半に入ると、その戸惑いは見事にほどけていった。前半で初菜さん自身の生い立ちや現在の模索が語られ、後半になると、配付資料に記されていた断片的な声が、初菜さん自身の語りによって回収されることで次々とつながりはじめる。人名と人物像が結びつき、ばらばらに見えていた断片が、一つの場の輪郭として立ち上がってくる。ああ、そういうことだったのか、と途中で景色が反転するような感覚があった。

◆あとから思えば、この「最初は分からないものが後でつながる」という構成そのものが、ちえん荘という場のあり方をなぞっていたようにも思う。まず人がいて、関係が後から見えてくる。講演の組み立て自体が、内容と照応していた。その設計のうまさにも、私は感心した。

◆報告者の笠原初菜さんは、北海道大学探検部OGで、「ちえん荘」という共同生活の場を拠点に、貨幣や効率に回収されきらない暮らしのあり方を模索している人である。「物々交換で生きていけたらさいこうですね〜」という冒頭の一言から、話はすでにこちらの思考の地盤を少しずつ掘り崩し始めていた。

◆実は、初菜さんの話は、私にとってまったく他人事ではなかった。彼女の原風景として語られた南富良野の野外学校「どんころ」は、私にも縁があったからだ。2000年代初頭、北海道が自然ガイド資格制度を立ち上げた際、前職場であった北海道大学大学院環境科学院では「自然ガイド・環境保全指導者コース」を開設したが、「どんころ」はその実働面を支える重要なパートナーだった。初菜さんは、そのころ「どんころ」に出入りしていた少女だったのだ。さらに北大進学、ランタン村での経験、野外系の部活を介した人のつながりなど、私自身の履歴とも不思議に交差していた。

◆だが、それ以上に心を動かされたのは、彼女が繰り返し語った「同じ釜の飯を食う仲」という感覚だった。ちえん荘は、所有より共有、契約より関係性、効率より余白を重んじる実験の場のように見えた。そこには、現代社会で失われかけた「コモンズ」の気配がある。さまざまな人が出入りし、必要なものは融通し、時には物々交換で回り、互いの技能や信頼が通貨のように働く。

◆しかも、配付資料の声をたどると、それは単なる「共同生活」ではないことが見えてくる。そこでは、「人が人を呼ぶ」「目的を定めないほうがいい」「来る人がまた次の人を連れてくる」といった言葉が繰り返されていた。理念が人を集めるのでなく、人の往来そのものが場を育てている。これは、磁場のようなコモンズだと思った。

◆それを聞いていて思い出したのは、私自身が学生時代に北大山岳部の仲間たちと暮らした通称「おばけやしき」である。古い民家に人が集まり、金も物も乏しいのに、なぜか生活は回っていた。炊事をし、酒を酌み交わし、議論し、計画を練り、ときに沈黙を共有する。「同じ釜の飯を食う」とは、単なる比喩ではなく、関係を編み上げる技法だったのだと思う。

◆南極・昭和基地の越冬生活も、振り返ればそうだった。文明社会から隔絶された極限環境では、貨幣はほとんど意味を持たない。そこで機能するのは、役割への信頼、互酬性、評判、つまり「評価」の回路である。越冬隊長としてその人間関係をマネージした経験も、もとをたどれば「おばけやしき」で私が学んだことと地続きだったのかもしれない。

◆報告を聞きながら、斎藤幸平のいう“コモンズ”や、岡田斗司夫のいう“評価経済社会”という言葉も頭をよぎった。両者に通底するのは、「お金という尺度が通用しない領域を広げる」という構想である。血縁・地縁を基盤とした前近代の社会があり、貨幣経済が支配的になった近代・現代があり、その先に評価や信頼を媒介とする次の社会がある。荒っぽく図式化すれば、そんな流れが見えてくる。

◆実は、この感覚は最近、別のところでも再発見していた。昨年、認知症の進んだ父の介護と荒れた実家の片付けで、故郷・富山の集落に何度も通った。高卒で北海道に渡ってから半世紀近く、地元との縁はほぼ切れていたと思っていた。排他的な田舎の共同体に入り込めるはずもない、と、どこかで身構えていた。ところが違った。

◆集落の寺院のすっかり老いてしまった住職の面倒を見に帰ってくる長男、という私のステータスのアドバンテージもあったであろうが、集落の人々は意外なほど敬意をもって接してくれた。高騰した米は、スーパーで買う商品である前に、地元では収穫物としてやりとりされるものだった。物々交換も、助け合いも、まだ生きている。そこには血縁・地縁が色濃く残りつつ、次世代の「評価経済社会」の萌芽も見える。

◆考えてみれば、こうした世界は完全に失われたのではなく、貨幣経済の下に潜伏していたのだろう。ちえん荘の実践は、それを現代に引き戻して可視化している。「ちえん荘をめぐる、おしゃべりの記録」も、単なる補助資料ではなく、場の多声性そのものを立ち上げる装置になっていた。そこでは共同生活が理想化されるのでなく、煩わしさや摩擦も含めて語られていた。にもかかわらず、いや、だからこそ、「ともに生きる」ことの価値が浮かび上がっていた。コモンズは楽園ではない。手間も葛藤もある。それでもなお、そこに戻ろうとする力がある。

◆もう一つ印象に残ったのは、ある「それなりの地位のある人」から、ちえん荘の営みを「学生時代の延長のようなもの」と評されたことに、カチンときた、というくだりだった。これはわかる、と思った。既存社会の側から見ると、定職や制度や所有を中心に組み立てられない生き方は、しばしば未成熟と見なされる。遊びの延長、モラトリアム、と。

◆正直に言えば、私自身も、油断するとそういう見方をしてしまいかねない側にいる。大学役員という立場にいる今ならなおさらだ。読んでいて、少しドキリとした。けれど同時に、若い頃の自分なら、同じように腹を立てただろうとも思う。それは単なる暮らし方の違いへの反発ではなく、自分たちが試みていることの意味を、既存の尺度で片づけられることへの抵抗だからだ。「学生時代の延長」ではない。むしろ、成熟とは何かを問い返す実験なのかもしれない。

◆この春から私は新しいゼミ生をとらなくなり、かつて学生を連れて通っていた地平線報告会にも一人での参加となった。本来なら学生たちに聞かせたかった話だったと思う。しかし、ひとりで聞いたからこそ、かえって深く刺さったのかもしれない。

◆「同じ釜の飯を食う仲」とは何か。それは懐古趣味ではなく、これからの社会を考えるための手がかりなのではないか。南富良野の森にも、旭川のちえん荘にも、富山の集落にも、そして南極の昭和基地にも、その断片はある。報告会を聞き終えて、そんなことを考えていた。

◆貨幣だけでは測れない関係の中に、人はまだ生き延びる余地を持っているのだと思う。そして、考えてみれば、地平線会議そのものもまた、そうした「同じ釜の飯を食う仲」の一つのかたちなのかもしれない。あるいは、少し大げさに言えば、ここもまた一つの「ちえん荘」なのだ。[法政大学 澤柿教伸


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです。通信の充実のために「感想」は大事です。メールアドレス、住所は最終ページにあります)。

清登緑郎(3000円) 山川佑司 北川敏(4000円 通信費+カンパです。毎月新鮮に拝読) 多胡啓次・幸子(20000円 地平線会議への通信費用として) 三好直子(10000円 若い人が次々に登場してくるのが楽しみ。地平線、すごいです) 宗近郎(10000円 通信費5年分です。よろしくお願いします。いつもありがとうございます) 滝村英之(3000円 通信費とカンパです) 藤本亘 神長幹雄(20000円 地平線に若い参加者が増えてきて、刺激になります) 小林由美子(5000円 様々な世界を想像させる書き手の皆さん、ありがとうございます。私も終了後は土中の微生物たちのエサになり循環されたいものです) 中村易世(3000円) 八木原(ヤギ ハジメ) 木富正裕(キトミ マサヒロ) 瀧本千穂子 南澤久実  橋口優(4000円) 澤柿教伸


 2026年9月4日〜6日
地平線会議 in 北海道西興部へ向けて
〜 西興部通信 〜

西興部村って、こんな村です

■地平線会議拡大集会が、今秋西興部村で開催されることが決定しましたので、すでに何名かの村民が投稿されていますが、読者の皆さんに村についてご紹介します。

◆概況 西興部村は流氷が接岸するオホーツク海から25キロ内陸に入った、北海道179市町村の中で下から3番目に人口が少なく(3月末932人)、乳牛頭数は3,500頭という酪農の村です。とはいっても、総面積308平方キロメートルのうち89%が山林で、2本の河川に沿った狭長な農地での酪農です。開拓以来盛んだった林業は、昭和29年の洞爺丸台風による風倒木処理が増えた隆盛期後は、輸入外材が取って代わり、小規模な林業しか残っていません。

◆歴史 西興部村は大正14年、隣の興部町から分村し、昨年開村100年を迎え、明治37年最初の定住者から数えると120年目になります。開拓には道外各地から沢山の人々が入植し、現在でも山形団体道路、越中団体道路と言う村道名が残っているほか、岐阜からの集団入植や四国、京都からの入植者の3〜4世が生活をしています。

◆農業 開拓から長い間、ジャガイモ、大麦、小麦、豆類、ハッカなどの畑作でしたが、国や道の政策により、寒冷地に適した酪農が推奨された後、近代化により規模の拡大が進み、小規模農家の離農が相次ぎました。私が役場に就職した57年前は専業農家だけでも73戸ありましたが、現在は10戸と2法人になってしまいました。

◆3本の足で立つ 主産業であった農業人口の減少は、商業や学校、関連産業の減少を伴い、村の存亡にも関わる大問題です。そこで村は、福祉をもう一つの産業と位置づけ、特別養護老人ホーム80床(2回増設)、ケアハウス30床、障害者支援施設40床(他にグループホーム50人)を建設し、社会福祉法人が運営しています。福祉施設は、利用者の他お世話をする人が必要なので、村外から沢山の若者が採用されています。一方第3セクターで、エレキギターを作る「オホーツク楽器工場」と「ホテル森夢(リム)」を運営している。それぞれ40人、20数人が働いており、家族を含めると、重要な定住人口となっています。

◆合併しなかった村 私が村長に就任した平成15年当時は、平成の大合併という大嵐が吹いていました。国は市町村への地方交付税を減らし自治体の権限も縮小する、と、道庁は各地域ごとの望ましい合併組み合わせパターンを発表するなど、小規模自治体は浮足立っていました。しかし私は、①少し我慢すれば持続可能な財政推計ができる。②合併パターンでは本村は端っこの小集落になってしまう。③国が言う合併のメリットは、西興部にはない……などから、合併しない道を村民とともに選択し、20数年が経過しました。

◆エゾシカと生きる 現在北海道もご多分に漏れず、(エゾ)シカとクマによる農作物の被害が多い地域です。被害対策のため、デントコーンや牧草畑には、電気牧柵を設置するとともに、地元ハンターに補助金を出して、大規模に有害駆除を行っています。遡ること30年前、私は地元有志10人が立ち上げた「養鹿研究会」の事務局長をしていました。まだ村内ではシカの被害がないころでした。手作りの小さなシカ牧場を設置し、管理費を稼ぐため、野生シカの肉を加工販売していました。当時設立された「北海道エゾシカ協会」の支援の下、「村猟区管理協会」を立ち上げ、首都圏のハンターを呼び込み、ガイド付きハンティングを始めました。お客さんは、お金を払ってシカを獲ってくれるし、ホテルにも泊まっていただけます。駆除の補助金は払わなくても済むし、良い循環になっています。

◆以上村の概要を紹介しましたが、ホームページで画像などもご覧いただき、秋の拡大集会に是非ご来村ご参加ください。次回は、私の田舎遊びを紹介したいと思います。[高畑秀美 前西興部村長]

モリズムロゴ

地平線モリズム、大いに期待!

■「地平線モリズム西興部」の開催まであと4か月になりましたね。「モリズム」という愛称が決まり、地平線通信を読みながら、どんな地平線会議になるのかを想像すると、ワクワクが止まりません。早速、北海道行きのチケットをネットでポチってしまいました(笑)。私の目標は、地平線会議の皆さん、西興部の皆さんと交流を深められることと、西興部の空を見ること、ちえん荘に行くことですかね。最後はご迷惑かもしれませんが……。

◆ちえん荘のことは、地平線通信でずっと追ってきましたが、その設立理念や皆様の生き方には共感できる部分が多く、色々な壁にぶつかって試行錯誤しながらも、お互いに適度な距離感を保ちながら、力を合わせて乗り越えていく。そんな姿が見えてきます(私の勝手な想像かもしれませんが)。「そんな生き方をしてみたい」と思いながらも実際には、現実の資本主義社会にどっぷりと浸かってしまっている……。そんな自分にムチを入れる良い機会になっています。実は、服部文祥さんと、子どもたちが廃村での自給自足(実際には行なえていない)の生活を体験する「山の学校」をおこなっています。文祥さんの化石燃料に頼らない自由な生き方に憧れている自分が、少しでもその生活を垣間見れるチャンスということもありますし、子どもたちに文祥さんの生き方をちょっとでもかじって欲しいということがあります。この件についてはいずれ文祥さんに話してもらいましょう。

◆さて、新著『山の天気入門』が山と溪谷社から6月2日に発売されます。2011年に「山岳気象大全」(山と溪谷社)を出してから共著を入れると11冊目になりますが、久しぶりにかなりの労力をかけた一冊になりました。152ページで全ページカラー、図版と写真の数も非常に多く、編集者やイラストレーター、デザイン担当の方など多くの人に支えられて何とか校了することができました。本業(気象予報業務と講習会の講師業)や日本山岳会120周年および、中央大学山岳部100周年記念事業、アラスカ・デナリ合宿の準備と色々なことを掛け持ちしながらやり遂げることができたので、充実感に浸りたいところですが、まだまだアラスカ合宿の準備や年報の作成が終わっておらず、GW予報やヒマラヤの予報業務も重なって余韻に浸る時間がありません。余韻は、アラスカへの飛行機の中か、デナリの停滞日にじっくりと浸りたいと思います(笑)。

◆本著では、登山を始めたばかりの方でも気象に興味を持っていただけるような内容にすることを心がけました。そのため、イラストや図を多く使用し、言葉遣いもできるだけわかりやすくしたつもりです。ただし、出版社のルールがありまして、そこまでくだけた表現にはできなかったところがありました。また、気象遭難を防ぐことが最大のテーマですので、過去における気象遭難の事例から学ぶべきことや、遭難が発生したときの8つの気圧配置を提示し、事前に気圧配置がわかればほとんどの遭難が防げることを書いています。

◆気圧配置は天気図を見なければわかりません。しかしながら、天気図という言葉を聞いただけでアレルギー反応を起こしてしまう方もおり、天気図を見ることのハードルを下げるような書き方を工夫しました。気象情報が氾濫している中で、情報の使い方についても分かりやすく解説しました。登山をする方だけでなく、普段の生活の中でも気象というのは私たちの生活に大きな影響を与えます。是非、手にとって感想などをお寄せいただければ幸いです。書くことが本業ではないので、拙い文章も多いかと思いますが、ご容赦を。

◆地平線通信が皆さんのお手元に届くころには、アラスカへ旅立っています。私が30代で闘病生活をしていたとき、入院中、星野道夫さんの本を読み漁っていました。そのときから憧れていたアラスカの地へついに立つことができます。今回は、学生の合宿なので、メンバーのほとんどが10代と20代前半。若い人のエキスをいただきながら、オッサンはなるべく足を引っ張らないように頑張ってこようと思います。今回も山岳気象予報士として、マナスル、エベレストに続き、予報をしながら登山をするというスタイルです。現地ではStarlink Miniを使い、情報を収集しつつ、空を観察して複雑な「気象予報」というパズルを組み立てていく作業をしていきます。そして、学生とのテント生活も楽しみです。若い人たちと力を合わせて登るという貴重なチャンスをいただけることに感謝しています。[猪熊隆之 山岳気象予報士]

北大にきて、ほんとうに良かった!

■こんにちは。北大理学部地球惑星科学科の青木銀です。札幌での生活も2年目となりました。去年北大入学に合わせて札幌に移り住んだときにはまだ雪が道端に残っていた気がしますが、今年はもう融けきってしまいました。雪国に長く住んでいる方々からしたらうれしいことだとは思いますが、雪を求めて北海道に来た自分にとっては少し残念です。温暖化は依然として進んでいるんだと突き付けられたような気がします。

◆さて、北大の理系学生の多くは2年生に進級する際に所属する学部・学科が決定します。1年次は学部に所属せず、理系科目の基礎的な内容に加えて、外国語や情報学などの共通教育科目を中心に履修します。進級の際にその成績をもとに各自の希望に応じて学部・学科へ振り分けられる仕組みになっています。自分は無事に第一志望であった理学部地球惑星科学科(以下「地惑科」)に進むことができました。地惑科は他学科と比べて極端に競争が激しかったわけではないのですが、南極を目指すという自分の目標に向けて、大きな一歩を踏み出せたと実感しています。地惑科では、いわゆる「地学」を中心とした幅広い分野を学ぶことができます。具体的には、地質学、大気科学、海洋学、宇宙惑星科学など、多岐にわたる領域を横断的に扱います。専門性も高く、講義はどれも非常に興味深いです。1年次とは異なり、現在受けている授業はほぼすべてが専門科目であり、自分の関心と直結しているため、学ぶこと自体が大きなモチベーションになっています。

◆ご存じの方も多いかと思いますが、南極での研究と一口に言ってもその内容は多様です。たとえば、地質分野では岩石の年代測定を通じて南極大陸の形成史を解明する研究がありますし、大気や気象の分野では極域特有の気候システムの観測・解析が行われています。また、海洋分野では南極周辺の海流や生態系の研究が進められており、雪氷分野では氷河やアイスコアの分析を通じて過去の地球環境を読み解くことができます。さらに、南極は隕石の宝庫としても知られており、それらを解析することで宇宙の起源に迫る研究も盛んに行われています。

◆自分自身は、将来南極で研究を行いたいという目標は明確に持っているものの、具体的にどの分野に進むかについてはまだ決めきれていません。もともとは雪氷学に強い興味を持っていましたが、極域海洋学の講義を受けたことで海洋分野も捨てがたいなと感じています。また、岩石の年代測定を通じて南極の地質的歴史を解明する研究も魅力的です。そんな中で地惑科は自分にとって非常に適していると感じています。幅広い分野を学ぶことができる環境は、自分にとって理想的です。今後は学部で様々な分野に触れながら、自分が本当に取り組みたい研究テーマを見つけ、大学院進学までに進むべき道を定めていきたいです。

◆ただ、雪氷学に関しては、地惑科だけではあまり深く学べないようです。もし雪氷分野に本格的に進むのであれば、大学院からになるかと思います。北大には低温科学研究所という、極域科学や雪氷学を主として研究する機関があります。環境科学院へ進学することでこの低温研に所属することができ、実際にそこから南極観測隊に参加する研究者も多く輩出されているそうです。2025年の冬に日本を出発した南極観測隊の隊長も、この低温研の教授が務めていました。いつか雪氷をやるとなったら非常に良い環境だと思います。

◆去年北大に入学してからつくづく感じますが、北大にきて本当によかった。そして地惑科にきて、自分は南極に行けるんだと確信を得られた気がします。あとは研究テーマを決めるだけです。年始に目標として掲げた「極学」の通り、極域を学ぶために学びを極めていきたいと思います。これからの学部生活がとても楽しみです。また定期的に進捗や近況をお話しさせていただきたいと思います。最後になりますが、西興部でやる地平線も着々と近づいてきました。開催は9月ということですが、北大生からしたら夏休み真っただ中です。ぜひ行かせていただきたいと思います。9月ともなれば本州に比べ北海道はだいぶ涼しくなっているかと思います。これから暑い季節が来ますが、頑張って乗り越えなければなりません。暑さにやられると早く南極に行きたいなと思ってしまいます。涼しくなった北海道で、北大探検部の仲間とともに、江本さんをはじめとした地平線の皆様をお待ちしております。[青木銀

地平線モリズムへの参加希望の方々に

■地平線会議 in 北海道「地平線モリズム」を9月4日(金)〜6日(日)、西興部村で開催します。小さな村の宿泊施設が限られているため、この期間の宿泊は地平線会議でまとめて手配します。人数把握のため、参加ご希望の方はモリズム特設ページから氏名と連絡先の登録をお願いします。開催が近づきましたら個別に連絡します。

https://www.chiheisen.net/morism/

モリズムQR


「地平線モリズム西興部」に向けた1万円カンパのお願い

■2026年9月4日〜6日に予定している北海道西興部村での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを募っています。北海道地平線を「青年たちが集う場にしたい」、というのが私たちの希望です。交通費、宿泊代など原則参加者の自己負担としますが、それ以外に相当な出費が見込まれます。どうかご協力ください。[江本嘉伸

1万円カンパ協力者

(2026年5月17日現在)

賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口) 神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵 江口浩寿・由利子 河野典子 古山里美 河田真智子 野元啓一 野元伊津子 成川隆顕 神長幹雄 中嶋敦子 桃井和馬 光菅修(2口) 田島裕志

★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
 みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸

ねこまんが

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—— 連   載 ——
モンゴル音だより2025

第4回 梅仕事

花田麿公まろひと 

■サクラの花は、日本の国中をぼーっと上気させるような華やかさがあり、夜桜も含めてあくまで表の花であると私には思えます。高校生ごろ、おぼろ月夜に夜桜といった絵はがきに、えも言われぬ心持ちをかき立てられました。夜とはいっても華やか、やはり表の花でしょう。それに引き替え梅の花は素朴で清らかなたたずまいをもっているように思います。あくまで控えめというのが印象です。梅の花が好きです。このシリーズの通してのタイトルに東風吹かばを選んだのは梅の花にちなんだからでした。季節でもありましたし。

◆いわきの旧大野村に大字玉山字宿(シュク)というのがあり、そこに疎開しました。「シュク」の端の山の観音堂に十一面観音様がまつられていました。たしか100段前後の階段がありました。その真下の観音下といわれている地に母と子どもは間借りしました。観音様の広場は夏祭り、盆踊りの中心で夜店も出ていました。夜店の明かりのカーバイドの臭いを覚えています。

◆観音堂にはなぜか子ども用の御輿があり、この御輿を中心に小学生からなる天神講が営まれていました。年に数回、「シュク」の子どもたちだけ集まり、6年生のリーダーのもと、講を主催し、皆で交互に歌を歌ったり、絵をかいたりしました。春の4月8日の十市神社の例大祭には、神社の御輿が観音下に到着すると、その後について、四ツ倉海岸まで一里の道を練り歩きました。海岸にそろった近隣の御輿が一斉に海に入るのは壮観でした。

◆秋には年ごとに順番に「シュク」のご家庭にお泊まりがあり、そのお宅の座敷に御輿が据えられます。そこではお母さんがた総出で炊き込みご飯とおかずづくりをします。そして夜間肝試しが行われます。御輿をかつぐのは男の子だけです。そしてリーダーの6年生は夏、観音様の広場で、青年たちが村をまわるジャンガラ念仏の太鼓たたきの練習に参加せねばなりません。

◆ソカイの私は部落の行事に混ぜてもらえないことがありましたが、この天神講から混ぜてもらえるようになり、うちは狭いので宿こそできなかったのですが、お泊まりには参加しました。6年のときはリーダーになり、ジャンガラ念仏の太鼓も3列の青年の列の後ろについて習いました。今でもいつでも一部についてたたくことができて、ついつい本の背表紙を太鼓にみたてて叩いたりします。「トントコトット トコトコトット トットコトット トン トット」の繰り返しが頭です。山場は鐘に合わせて、左手のバチは指に挟んで空中で回し、右手で「テッテ テッテ テッテ テッテ」と止めどなく打つ長丁場です。

◆天神講がなぜ観音様にあるのか今もって疑問ですが、皆で最初に「東風吹かば、匂い起こせよ梅の花、主なしとてぇ〜春を忘るな」と、多少原文とちがう文句をみんなで合唱するのです。まさに学問の神菅原道真公がまつられています。観音堂には児童の優れた絵などの作品が保存されていました。私たちの大家さんの長男早苗さんはプロ並みの絵の描き手で、出来映えは群を抜いていました。

◆残念ながら、水戸偕楽園の梅園には行ったことがありませんが、心にのこる梅は、1990年2月、モンゴルの首相として初めて訪日されたソドノム首相を皇居にご案内したとき、正殿の中庭に対角線上咲き誇っていた紅梅、白梅が一位です。次が、滋賀大学に移られたナムジム教授ご夫妻を訪ねて妻と訪問したとき、747年に建立された石山寺で拝観した紅梅が圧巻でした。

◆現在住んでいる杉田の梅は有名で、毎年観梅会が催されています。明治期にベルツ水という化粧水を日本で売り出したお抱え外国人教師の1人、ベルツさんは毎年梅の時期になると、横浜から、この杉田にお嬢さん方をふくむご家族で乗馬で見えていたようです。岩波文庫の4巻からなる『ベルツの日記』にそう記してありました。当時横浜と杉田の間に道はなく、渚を水につかり馬を走らせたとありました。

◆杉田のスーパーSUZUKIYAさんでは、毎年杉田の梅を神社で拝んだのち加工した縁起商品が並びます。その中に梅干しがあり、外国勤務の次男に持たせました。母の実家九州福岡は菅公の縁でか梅干しが盛んです。花田の屋敷でも梅があり、九州に行ったときには、伯母が干している梅を母はこれは母の実家山口ではなく、養家の花田の梅だと言って貰って帰っては梅仕事をしていました。梅干しを漬けたり、梅酒をつくることを梅仕事というそうです。

◆昨年私は梅仕事に挑戦しました。昔から妻は毎年梅酒と梅干しをつくっていましたので、アンティークな梅干しが少々あります。妻の梅は販売されている梅干しと同色のものでした。妻が漬けてみたらというので昨年は自主独立、福島で母が漬けていた真っ赤な梅干しを漬けようと挑戦しました。しかし無念、面倒見が悪く、干した梅の皮はやぶれ、さんざんでした。できそこないに関心がうすれ、忘れてしまいました。

◆従来のオーダーで台所を使用してきましたが、よく考えてみるとここはもう私の職場、ならば私流に大改造しようと、学用品など別領域の小道具や百均の道具を駆使して改造しました。でも小改造に終わりました。ところが、台所の未片付けの山の下から見事に真っ赤な梅漬けがでてきました。私が漬けた梅干しでした。十分でないものの、新たな試みはやがて熟して、りっぱな梅干しになっていました。菅公の神通力で東風が吹いたようです。


地平線ポストから

擬死再生 本番の明け年

■1月28日、出先で転んでそのまま入院、4月22日に退院しました。左上腕部の骨折と右足膝蓋骨(お皿)が割れて、2箇所を同時に手術。治療はギプスで固定6週間、さらに転院してリハビリに6週間要しました。陽光を遮断された3か月の入院生活は、毎日がラップランドの極夜行です。しかしオーロラもトナカイもサンタクロースも病院には、おりませんでした。

◆退院した今は日光浴でビタミンDを産生し、少しでも骨量を増やしています。また、重力の刺激も骨には必要なので、クロスカントリースキーの長いストックで猫背を矯正して、ノルディック・ウォーキング、颯爽と4WDウォークです。検査で認知症を探られましたが異常なく、単純なそそっかしい怪我でした。今後は少し用心します。要介護2の暮らしは、電動ベッドで快適楽チンです。

◆山伏の修験は擬死再生です。57歳の初回は6万年に一度の火星大接近の年。2回目が58歳、前立腺癌からの生還。今回の転倒は3回目の擬死再生です。瞬間にとどめを刺されて、放置すれば生物としての死に至る始まりでした。野生にあれば捕食され、残渣はCO2、H2Oを気散、遺骸は土壌の微生物や菌類に分解されて物質循環、カルシウムなど若干のミネラルがしばらく残るだけです。

◆山伏修験の擬死再生は死と再生、そこには「正反合」と言う弁証法的な世界があります。反対を位相で表せば革命的なリボルバー180度です。私は西洋のヘーゲルほどきっちりしていないから、地質で言えばN300°からN60°、位置を方位で表せば北西から北東までの広い反対領域です。よくいえば東洋的な緩い弁証法です。だからといって「いい加減」とは異なります。読経を全員で行う声明で、共鳴するときなど、新たな時空へ至る導きを感じます。

◆旅は方角を点と点で結び、距離が地平を拓き、やがて時間が積り、歴史となる。たまたま救命された僕は、今後の人生の再始動にあたり、すべての生の営みが、他によって支えられ、与えられる時間としての始まりを自覚しました。新たな生を得た僕の今は、利他に生かされる生後100日の糞ジジイです。いただいた残り時間、今しばらく元気に楽しみましょう、お互いに。[円教院(平靖夫)2026年5月3日擬死再生、本番の明け年(2026年1月地平線報告会「探検的ココロ」報告者)]


先月号の発送請負人

地平線通信564号(2026年4月号)は、さる15日印刷、封入作業をし投函しました。今月は14ページとやや薄めだったため、作業ははかどりました。参加してくれたのは以下の皆さんです。◆ゲストの四家さんは江本にあうためこの日突然参加した人。『スポーツゴジラ』という季刊無料誌で江本のことを取り上げたい、と検索する中で地平線会議のことを知り、ついでに15日に通信の印刷を榎町地域センターでやると知って駆けつけたという。江本のことは昔の『鏡の国のランニング』(窓社刊)を読んで知っていたそうだ。

 車谷建太 中畑朋子 高世泉 伊藤里香 中嶋敦子 岡村節子 白根全 久島弘 長岡のり子 江本嘉伸 四家秀治


来し方行く末、そして今

■2024年に『波間から』と題して北前船寄港地探訪のヨット旅を長期連載した。あの旅は完成しなかったが、2025年に性懲りもなく同じ計画で出かけた。色々あったが5か月を要して、北海道一周を加えて北前船の航路をトレースした。北大を訪れ中退した孫にも会えたし、利尻も知床も訪れたが、何だか感動はなかった。その理由はわかっている。私がいまだに来し方にしがみついているからだ。私の本質はアルピニストだ。分不相応な夢を抱いた。卑下も自負もなく冷静に顧みるに、たいしたクライミングはできなかった。私は探検も冒険もできなかったことを告白するしかない。なのに、来し方にしがみつく習性から抜けだせないでいる。

◆来し方を語るのは老いの特権であるが、行く末を語る道具にしてはいけないと思うときがある。語るのは、おのれの老いそのものであるべきだ。となると語るべきことはあまりないことになる。愚痴と言い訳はそれなりにあるが、言えば必ず自分に降り掛かってくる。黙して語らず、行動で示すのがやっぱりカッコいい。

◆「Old soldiers never die, they simply fade away」は1951年のマッカーサー引退の弁だ。このフレーズは、19世紀にイギリス陸軍で歌われていた兵隊歌で「兵士は老いながらも生き続けるが、彼らが生きていることと彼らが成しとげたことは忘れられていく」から引用したものらしい。トルーマン大統領との確執に敗れた彼の引き際の言葉としては悪くない。

◆私が崇拝する探検登山家H・W・ティルマンが1953年に登山から足を洗うときの言葉がすばらしい。古い英国の諺を引用している。「気魄はますます激しくあれ、心はいよいよ勇ましくあれ、すれば体力は衰えても、度胸は逆に大きくなる」「もしも人間がもはや、こうした厳しい規範の実行にたえられなくなったと感じたならば、高度の努力を必要とする分野からは、引退するのが身のためだといえよう」彼はこの後山を去り、帆船で高緯度の海に向かった。これまた引き際がいさぎよい。彼がエヴェレスト初登頂の隊長をしていたら、その後のヒマラヤ遠征の姿は違っていたかもしれない。その資格も力もあったのだからもったいなかった。

◆私にとってヨットは体に悪い。ほとんど動かないから足腰がなえてくる。それに洋上ではいつもびくびくしているから、精神衛生上もよくない。脊椎管狭窄症も悪化したし、人工関節にしていない健常な左足の膝関節も悪くなって、歩くことが苦痛だ。ヨットにも立派なディーゼルエンジンを搭載しているが、物に頼った活動はどこか後ろめたいところがある。やっぱり歩くに勝る旅はない。ヨット旅を終えて、さてどうするかと考えたがアイデアが浮かばない。それでまた来し方にすがろうとした。それも私自身にではなく、過去の歴史に対してである。

◆私の出身は大阪市大山岳部であるが、山岳部も山岳会も今年解散消滅した。旧制大阪商大から数えると100年以上続いた老舗山岳会である。その足跡を後世に残そうと思い、『雪線——山に賭けた青春の群像——』と題した冊子を解題編集した。資料収集を入れると1年以上かかったことになる。1925年から65年までの部活動(1936年の台湾北部遠征と1940年冬の白頭山鴨緑江遠征を含む)は書けたが、五度のヒマラヤ遠征については目次紹介だけで、内容まで踏み込めなかった。

◆私自身は登場していないから、自分の来し方を書いているわけではないが、何かしら先輩たちの行為に自分をかさねようとしているところがある。私自身の行く末もほぼ無に等しいが、消滅した山岳会の行く末はもう完全にない。過去と未来の接点である現在は、何のためにあるのか。それで未来を、反転した過去として想像するのも悪くはないと考えた。先輩たちの歩んできた足跡の中に未来を導くアイデアがあるのではないかと思った。

◆私はアルピニストを目指してきたが、探検という言葉にも魅かれてきた。かつて登山は探検の一分野であった。そして現在の登山が探検の仲間に入れてもらえないこともわかっている。探検は間口が広すぎて、なんにでも応用できる言葉だからわかりにくい。この冊子を書く中で、探検に関する言葉をいくつか引用した。それを紹介しよう。1940年に三高山岳部の部員3名が白頭山探検をしたときのものである。梅棹忠夫(20歳)の若々しい気概が胸に迫る。

◆白頭山天池の落ち口から松花江上流の原生樹林帯に踏み込んだときの記述である。「わたしはこのような自然との全人格的なたたかいが、いかにゆたかなよろこびをもっているのかということをふかくかんがえずにはいられなかった。(中略)ただ、命のあらんかぎりたたかうことにおいてのよろこびを見出し、その際には自己と環境ははじめて渾然としてひとつにとけあうことができる」と言いながらも、この探検はパイオニア的行為とは言えない。すでにほかの探検隊がこの地に入っているからだと言う。「かつては、登山という行為は、パイオニアにふさわしき仕事として、十分な領域を展開しえた。だが現在では、登山者自身が、パイオニアたるにふさわしからぬ社会に堕してしまったのだ。開拓者たらんと願う者は、山岳部からも、登山界からも、はなれなければならない」

◆どこへ向かえというのだろう。このとき一緒だった藤田和夫(戦後、大阪市大理学部教授)は山岳部の部報『雪線』20号(1959年)にエッセイを寄せている。「地理的発見こそ探検のもっともすばらしいものである。処女峰の登頂はこれと似たところがあるのではなかろうか。まだ何者にも足跡を残していない地球上の部分にふみ入る歓びは登山の神髄である。最初のルートの発見は地理的探検を垂直に移しかえたものだといえる。(中略)初期のヒマラヤやカラコルムは、登山と探検が未分化の状態であった。山に近づくまでが、長い行進を必要とした。そしてその大部分が処女地であった。だからこそその魅力は絶大であった」。地理的探検が終われば(未踏峰がなくなれば)、探検は精密な学術探検に移るだろうと述べている。

◆1955年に今西錦司、藤田らはカラコルムのバルトロ、ビアフォ、ヒスパーの各氷河に日本人としては最初の学術探検隊を出しているが、これらのルートは19世紀後半から探検されており、すでに処女地ではなかった。今西と梅棹に強い影響を受けた本多勝一は、1956年(マナスルが初登頂された年)に京大山岳部から分離独立して探検部を設立し、藤田を隊長に迎え、探検部として東部ヒンズークシュに最初の学術遠征隊を出した。今西は京都駅で藤田、本多らを歓呼の声で送り出している。

◆本多は梅棹の忠実な後継者だといえるだろう。彼らは探検の神髄を開拓者精神によるパイオニアワークと定義している。非の打ちどころがない正論である。梅棹は畳みかけるように「そこには俳諧的な詠嘆的なセンチメンタリズムの存立は許されない」とまで言う。探検は理学(サイエンス)であって、詩学(未開地漂泊)ではないのだ。

◆彼らは日本の誇る知的集団だ。アルピニズム命で生きてきたわが身にとって、悔しいような悲しいような気になるが、反論する糸口はない。屁理屈を言わせてもらえば、ほとんどの処女峰には、まず探検家の地理的アプローチ探査が先行していて、初登頂はその後の登山隊が成功させている。しっかり役割分担ができていたともいえる。そういう意味で、その動機に未知なるものへの憧れが通底していたとしても、探検と登山は別だと強弁できないことはない。

◆極論したら、第二次大戦以降に地理的探検はありえたのだろうか。大航海時代を皮切りに、あらゆる地域に分け入った探検家たちの心の内には何があったのだろうか。登山は探検時代の最後に登場した。探検(知的好奇心)は、大航海時代のコロンブス(征服)に始まり、リビングストン(アフリカ)、ダーウィン(博物学)、ナンセン(極地)、ヘディン(中央アジア)へと受け継がれた。しかし、それらはママリー(バリエーション主義)からティルマン(古典的初登山)に受け継がれた探検登山とは明らかに毛色がちがう。しかし、これら来し方の偉人たちに共通するものはやはり開拓者精神である。

◆私は探検と登山を区別しているが、現代の若き実践者たちにはその必要はない。来し方に縛られている私は度量が小さいのだ。何をしたいか、何があるのか。狭い地球(地理的探検)にフォーカスせず、あり方、かかわり方の深さをめざすことこそが、偉人たちの精神を受け継ぐことだと思う。来し方は一つのテーマに洗練し収斂していくベクトルを持っていたが、行く末は、拡散共鳴する多様な世界を横断すべきだ。

◆探検とはきっと身近にあるものだ。そういう意味で、この地平線会議に集う多様な人々は、偉人たちの開拓者精神の遺伝子を受け継いでいるといえるだろう。地平線通信に山関係の記述が少ないのは当然のことである。探検の発展要素を無理やり身体、知、心と分解すると、来し方は心→知→身体と駆動の主体が変遷してきた。探検の目指すものは、自然地理の広がりから人間社会の深層へさ迷っていく。つまり、身体に語らせる感性の世界だ。

◆私は、8000m峰に集中して観光化する登山や冒険パフォーマンス化する探検をセンチメンタルになげく。私はアルピニストの心で知を粉飾したかったが、身体的興奮にとらわれ過ぎて、知から離れてしまった。その消化不良が、行く末を見通せないせいである。[和田城志

 山はかなでられるもの
 来し方と行く末のアンサンブル
 とおい記憶の水底から
 きこえてくる淡い調べ
 アンモナイトは唄う
 ながい旅路の果てに
 氷のいただきを唄う
 山は沈黙のベールにつつまれ
 すべてをふるさとにしてしまう
 山はかたられるもの
 言葉のへりをなぞりながら
 独りでつぶやくもの

絵本『よるがみている』と父親のこと

■昨年の5月末に約2年間住んでいた北海道を離れ、そのまま和歌山県御坊市のバイオマス発電所建設に加わった。わたしが担当しているバイオマスは、ベトナムから運ばれたPKSと呼ばれるヤシ殻や北米で加工された木片チップを燃料として使用し、発電を行っている。この発電所を昨年8月に無事引き渡した後、今は短期出張という形で御坊市を訪れ、発電所に起きる大小様々な問題を日々解決しているところだ。

◆出張で訪れている御坊では、隣町の美浜町三尾にあるカナダ移民が帰郷して建てた築80年以上の古民家を改築したゲストハウスに去年の夏からお世話になっている。三尾は戦前日本で2番目にカナダ移民が多かった地域で、現在バンクーバーには1万人ほどの彼らの子孫が生活しているそうだ。このゲストハウスの向かいには古い洋風建築のカナダミュージアムがあり、中庭にはカナダの先住民がつくったトーテムがそびえ立っている。はじめて三尾を訪れた日、その奇異な景色に違和感を覚えながらも、どこか穏やかな気持ちになれたことが、そこに長逗留するきっかけとなった。

◆そんな和歌山での出張中につくりはじめたのが、今年3月に完成した3冊目の絵本『よるがみている』だった。ひどい船酔いに苦しみ、いつ現れるかわからない島に想いを馳せ、カヌーのデッキを叩く波音におびえながら過ごしたミクロネシアの海で日々感じていたことを絵本にしたものだ。これをGWにあった「第27回ピンポイント絵本コンペ」に応募したところ、3次選考通過という結果となった。3次選考の次が入賞(最優秀賞1名、優秀賞2名、入選3名)となるので、惜しいところまではいけたようだ。

◆一方、最近もっぱら心をくだいているのは、3年前に認知症の診断を受けた父親のことだ。去年の夏に肺炎で入院してから、足元がおぼつかなくなり、今では歩行器なしでは歩くのも難しい。4月には腰が痛くてベッドから起き上がれないと緊急入院もした。そんな父親を連れて、GW最終日に父親の兄である伯父の墓参りに行ってきた。朝7時半に千葉の家を出て、栃木の実家に着いたのは10時過ぎ。少し休んでから、2時間かけて埼玉の八潮市に向かった。伯父の家に着いた後、仏壇に線香をあげ、伯父や従姉と連れ立って墓地に行き、そこで父親と一緒に手を合わせた。もうどこにも行きたいところがないと言う父親の唯一行きたかった場所が、コロナ前に亡くなった伯父の墓だった。

◆八潮市からの帰りの車の中で難聴気味でもある父親に大きな声で話しかけ、少しでも歩かないと動けなくなってしまうし、そうなると実家にもいられなくなると諭した。2年前、同じように墓参りに行ったときよりも明らかに反応が鈍くなってはいるが、それでも話しているうちに少し父親の目に光が戻ったような気がした。もうしばらくはこうして父親に寄り添う日々が続くだろう。その日々が少しでも長く続いてほしいと今は願っている。[光菅修

10年ぶりの再会

■先日、江本さんと10年振りにお会いできました。スネ夫調に髪を全幅横流ししていらっしゃったので、新聞社だ冒険だ地平線だ言っていた成れの果てがモード系とはさすが江本さんだ……と底知れないエモパワーに心が震えました。が、寝癖だったと知り、安心し、そして少しガッカリしました。江本さんの驚愕エピソードを知りすぎてしまっているため期待値が高いのです。

◆唐突ですが今回お会いしてお話した結論は、地平線会議というものはつまりは江本さん自身なのだ、ということでした。ただ、これは多くの地平線関係者にとっては既知の事実で特に驚くことではないのだとも思うのです。そして、だからこそこんなにも面白い物がずっと続いてきたのだと思います。改めて私も地平線に関われたんだという幸運を噛みしめています。

◆ビールを美味しくいただきながら、興味深いお話ができて、江本さんとお会いできるのもこれで最後かもしれないし(次の訪日がいつになるやらなので)、短い時間でしたが有意義でした。幹事をして下さったリコちゃん、ありがとうございました。あと、ねこさんと電話で話せてよかったです。

◆私の近況ですが、うちの子たちは更に賢くなりました。しかも美犬ばかりです。老犬との別れのたびに落ちて八つ裂きにされる私を救い出してくれる優しさも兼ね備えています。どうしてこんなに良い子ばかりが我が家に!? ああ幸せ。近年は200〜300マイルをキャンプして楽しんでいます。いつのまにか増えた技術と知識が溢れてしまい、もう人脈もあるので長距離キャンプが楽にできるのです。

◆そして、負けた気がしますが、太陽光発電を開始しました。発電については今まで様々な物を試みてきたので、工夫も何も要らず基本的な電気の知識のみで事足りる、あまりにも簡単な太陽光は敢えて避けたかったのですが結局このザマです。しかも、冬こそ電気が必要なのにこちらでは無用の長物に成り下がるのです。

◆実はこの冬は2週間程マイナス50度以下だったので、ヘッドライトを充電したくても寒すぎて発電機も動かせず、室内で発動させてたら排気管で問題発生して死にかけるし、酷い目に遭いました。ほぼ薪割りと犬の世話のみで一日が終わるという生活で、ヘッドライトなしではかなり苦労しました。

◆というわけでこちらでは太陽光発電は夏限定です。なのに夏は特に電気が必要ありません。まあせっかく作った電気を無駄にしないために冷蔵庫のある生活を始めようかと思います。この電力を使う意義を感じるための仕方のない出費としてビールを購入しなければなりません。

◆北海道での地平線会議、楽しそうで羨ましいです。江本さんが88歳になられる年(つまり地平線会議半世紀の年)にはなんとかまた訪日したく検討中です。それではまた![アラスカから 本多有香

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本多有香ちゃんとの再会

■4月30日江本さんと本多有香ちゃんの10年ぶりの再会の場に同席させてもらいました。 盛岡から成田空港へ行く東京駅での乗継ぎの1時間勝負と聞いたからにはロスの無いよう情報を集め事前下見を2回、当日は90分前に到着し最短ルートと所要時間を確認。有香ちゃんを江本さんの待つお店へ連れて行き感動の再会を見届け、成田空港で見送った後は安堵しました。

◆ 有香ちゃんとの出会いは私がアラスカに住んでいた2006年か2007年頃。「フェアバンクスの母」と慕われた西山周子さん宅での食事会。2008年に私は日本に帰国したのでアラスカでは何度かしか会っていませんがこうして縁が続いていること、更に江本さん始め地平線会議の皆さんともご縁が繋がったようで嬉しく思っています。

◆私は今、これまた西山周子さんを通して知り合った星野直子さんの事務所でお世話になっています。今年は星野道夫氏が亡くなって30年。夏には六本木のフジフイルム スクエアで写真展が開催されます。詳しくは星野道夫事務所公式サイトでどうぞ。最後は宣伝になってしまいました(笑)。[田中律子

涸沢で始まった穂高の日々

■2026年GW明け。人の波が去って再び落ち着いた北アルプス涸沢の小屋で、これを記している。ここに来たのは1か月前。ヘリコプターによる入山の前日に、小屋開け作業に携わるメンバー17人が集まって入山口で前泊する。今年は上高地への通行規制ゲートが目の前の「中の湯温泉旅館」にみんな集まった。翌朝8時には上高地ヘリポートで荷上げの準備をする必要があり、朝7時に宿からみんなで一斉に数台の車を走らせ上高地へ入るのである。

◆日本の標高第3位のピークを持つ、北アルプス穂高連峰。その東部にある涸沢氷河圏谷の端の巨壁の真下に、私の働いている小屋はある。ここで働くことが決まったのは1月の末。4年勤めた林業界を一度抜け今年はどこかの山小屋で四季を通じて働きたいと思っていた。松本盆地に住みながら、日本の登山界で代表格とも言える山域である穂高連峰にこれまでほとんど登ったことがなかった。それもあって一度この山域にどっぷり浸かってみたかったのでこの一帯に目星をつけ、そして最後にこの山小屋に応募した決め手は、知人の口コミだった。

◆それまで槍・穂高連峰には、南北末端部にある槍ヶ岳と西穂高にしか登ったことがなく、涸沢は一度も訪れたことがなかった。よって小屋の様子や雰囲気も人づてに見聞きした程度にしかわからず、知人のアドバイスを頼りに決めたのだった。そして思い切って応募して手にした切符は、想像以上に私に大きな意味を持っていたと、すでに確信をもって言うことができる。

◆この地が、人が暮らすにはまったく特殊な環境であるのはいうまでもないが、それより何より、ここで出会った人たちが本当におもしろいのである。一人ひとり説明することはできないが、社長とは異なる現支配人は、18歳からこの小屋に入り、以来、地元民でも登山好きでもないのにこの地に20年根を張り、救助に携わったり周辺の小屋と交流したりしながら涸沢の地を見守ってきた。この小屋に在ってしかるべき存在になっている。

◆またおもしろいのが、私以外のスタッフはみんな長野県外から来ていることである。年齢は10代から50代まで、前職もさまざま、冬場の仕事もさまざまな彼らは、いわずもがな独自の経験をしてきていて、「個」を持っている。それが、一つの山小屋経営で自然と協力しあうことができる、化学反応が起きている。「個」のクリエイティビティとコミュニケーション。どうしたら仕事を上手く回すことができるのか、スタッフみんなが一人ひとり楽しみながら工夫してこの山小屋を楽しい居場所にしているように感じる。互いが思いやり、それでいて気を使いすぎることも感じられず自然にその化学反応が起きているのがおもしろいのである。

◆そしてびっくりしたのは、入山から4日後に急遽研修登山と題して残雪の奥穂高岳に登ることになったこと。除雪の進み具合と天気等を考慮して、行く日の前夜、夕食中に突然行くことを聞かされたのがまた衝撃的であった。夏でさえ未踏であった奥穂の稜線に、思いがけない機会を得てこの残雪期にトライすることになるとは。小屋開けだけに携わるメンバーのうちの一人に、かつて小屋で働いて今は山岳ガイド業と夏の山岳遭難防止常駐隊で働いている方がいて、ありがたいことにその方のガイドで突然奥穂の頂に立つことができてしまったのである。雪が少なかった今年、除雪に時間のゆとりができたからということで、このような境遇に恵まれ、本当に感謝に絶えない。

◆ずっと山に暮らしたいと思っていた。山暮らしにもいろんな形はあるが、この高山帯でおもしろい人たちと生きている今この瞬間は、本当に貴重で幸福な時間に思う。涸沢の山の春は、まだ雪の白と岩綾の黒と時折空の青との3色で構成される。早くも入山から1か月経つ5月半ばに、一度休暇で下山するが、街の新緑と暖かさにびっくりするだろうか。[小口寿子

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思えば、浜比嘉島もう20年

■5月1日快晴の午後、そのふたりは自転車に乗ってさっそうと牧場に入ってきた! おー、ほんとに来てくれた。シールえみこちゃんと、スティーブ! はじけるような笑顔。「久しぶりー」とハグ! 何年ぶりだろ。30年、40年? もーわかんないねー。それにしても何年も過酷な闘病したとは思えないよ、パワフルで相変わらずかわいい! 連れ合いのスティーブは初対面だったけど、ギャグばかり言っておもしろすぎるー。昇となんだか似てるね、なんて笑い合う。

◆兵庫から島に移り住んで織物をしている渡辺智子ちゃんも合流して、ヤギや猫やアヒルに囲まれながら木陰でひとしきり話がはずんだ。エミちゃん、沖縄は38年前にバイクで来て以来だそう。38年前の海中道路の写真を見せてもらったけど、昔2車線今は4車線。昔はもっと海が近かった気がするって。昇が懐かしい懐かしいと。もっと昔、道がないころは渡し船と海上トラックだったんだよーと。

◆そうしてあっという間にゆるやかに、時が過ぎた。夕方になりそろそろ……と、別れがたかったけど、ふたりは次の目的地へ向けて出発だ。目指すは沖縄一周。いやー、こうして沖縄ツーリングできるまでに元気になって。とは言っても不自由なことをたくさん抱えながらの旅だろう。でもほんとにふたりとも明るい。なんてステキなふたりなんだ! めちゃくちゃ元気をもらいました。ありがとう。また絶対会いたい。それまでお互い元気に頑張ろう。また会える、きっと。

◆さて何年ぶり?といえばこの間中畑朋子さんから「もうはるみちゃんの結婚式から20年経ったんだねー」と言われて「え??」。自分のことなのに、言われて気がついた。もうそんな経ったんだー。東京に暮らしていた私がここ沖縄に移り住むことになったのはいろんなタイミングからそうなったわけだけど、それを知った長野亮之介さんが私が住むことになる昇の家を訪ねて何泊かしている。そしてなんと江本さんも、訪ねて下さっている。私がまだ住む前、である。私が暮らすことになる浜比嘉島という島はどんなところなのか、私が一緒に暮らすオトコはどんな奴なのか、確認しに行ったらしい(身内かよー笑)。

◆そんなこんなでお二人は浜比嘉島をとても気に入ってくれた。私が移り住んでまもなく、島の人たちも内地から三線担いで嫁にきた物好きな私を気に入ってくれたようで、毎晩我が家にはビールや魚を持って島人が訪れ大宴会。やがて島人の発案で島の高台に建つホテルの1階を貸し切り結婚式をしようとなり、もずく漁が一段落した6月末にやることになった(ほぼ島人の主導、都合)。

◆時間無制限持ち込み自由のそれはそれは昼から晩まで島人による大余興大会であった。6月末と言えば梅雨末期。朝からすごい大雨の中、たくさんの島人たちが集まってくれた。内地から私の山仲間、三線仲間も駆けつけてくれた。今は亡き長野淳子さんと一緒に何曲も三線を弾いたっけ。そして江本さんもスピーチしてくださいましたよね。島でやる島人の結婚式は何十年ぶりとか。そしてあれから20年、島人の結婚式は島ではされてない。

◆そしてその流れ?で、浜比嘉島での地平線大集会がその翌々年におこなわれることになる。長野さんや江本さんはじめ地平線スタッフは何回も浜比嘉島を訪れ、行事に参加したり島人と交流したりしてまるでここがふるさとのように足繁く通ってくれた。こうして2008年10月、「ちへいせん・あしびなー」は、豪華な報告者、ゲスト、ないちゃーとシマンチュをつなぐ盛りだくさんのめちゃくちゃ濃い内容で執り行われたのだった。詳しくは報告書『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』をご覧くださいませー。秋には「地平線モリズム」が計画されていますね。受け入れ側の苦労がほんのちょっとはわかるので大変とは思いますが、スタッフの皆様頑張ってください! 私も行きたいのだが、なかなか気軽に出かけられないのだ〜。でも行きたい!

◆なかなか出かけられないのは、ヤギをたくさん飼っているからなのだ。私が島に来たころは、まだヤギは6頭くらいだった。最初の一頭は、昇が祭りで引いたくじ引きで当たったメスヤギだったそう(沖縄は祭の景品がヤギということがままある)。今はヤギ35頭にヨナグニウマ一頭、アヒル約40羽、ニワトリ20羽、ネコ4匹がいる。ヤギはアジアでよく見るような小型のものや、アルプスの少女ハイジに出てくるような白い大型のもの、などなどである。

◆ヤギは昼間は牧場周辺や放牧地に連れていき草を食べさせ、夕方小屋に戻る。沖縄は草は一年中あるから餌代はほぼかからない。耕作放棄地を開墾した牧場(「清ら海ファーム」といいます)では子ヤギと遊んだり散歩ができ、予約制で近くの海岸まで散歩するプログラムもしている。収入はヤギやアヒルの販売だが最近は海散歩の収入が増えている。恐るべしSNS。宣伝もしないのに晴天の週末ともなればお客さんが押し寄せる。

◆ヤギはいつも観光客と遊んでるからか、すごく人懐こい。こんなかわいい動物、なんでみんな飼わないのかなと思う。かわいいし噛まないしあまり病気しないし人に慣れるしお乳は美味しいし糞は良質な肥料になるしいざという時は……食用にできる。ヤギ、サイコー! ヤギを飼いたい人はぜひご相談くださいね。[外間晴美

◆追記・文中のちへいせん・あしびなー報告書『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』を約30部の在庫限りですが、希望されるかたにお分けします。最終ページの地平線ポスト宛に、送付先住所・お名前を明記のうえ、お申込みください(在庫切れの際はご容赦ください)。

◆なお、送付の際郵便振替用紙を同封しますので、カンパ(ひと口500円から)をいただけますと幸いです。「地平線モリズム」へのもうひと押しのカンパとさせていただきます。

35回目のサラワク熱帯雨林訪問

■3月25日にマレーシア・ボルネオ島のサラワク州へと出かけ、4月3日に帰国した。サラワクの熱帯林には35回くらい出かけ、その滞在は延べ2年以上になる。超短い滞在だったが、今回の滞在で私はちょっと考えてしまった。

◆私のサラワク初訪問は1989年。このときは、日本人の日常生活に直結しているアジアの問題を見たいと、サラワクで進む苛烈な森林伐採を見に行った。サラワクでの環境問題と社会問題は終わらない。伐採に続き、アブラヤシ・プランテーション(ありとあらゆる加工食品に利用されるパーム油を生産)やアカシア・プランテーション(紙パルプの原料になる)、加えてその出力が原発に匹敵する超巨大ダムの建設など「開発」は留まるところを知らない。サラワクの中流域と下流域では、肌感覚ですでに8割近い面積がプランテーションに転換され、伐採から生産される木材製品の多くは日本を目指す。パーム油もしかり。

◆だが、そういう環境破壊に直面しながらも、コミュニティと環境を守るぞと、強く、しかしゆったりと生きる先住民の生活に私は惹かれていった。実際、私が活動の根拠とするUB村では、「福祉」とか「ボランティア」との単語がなくても、誰もが安心して生きていける社会があり、私自身も「ああ、こんなに幸せなら、オレ明日死んだっていいや」と思ったものだった。

◆最初の1989年の滞在で、初老の男性マリンさんが突然「お前を養子にする」と宣言。旅人へのリップサービスかなと捉えていたが、彼は本気だった。私が一緒に森に出かけ、魚や動物を捕らえる手伝いをし、一緒に農作業(超ハード)をこなし、一緒に食事をし、言葉を覚えていく中で、「ただの旅行者ではない」と判断してもらったからだと思う。

◆じつは私がジャーナリストなるものになったのは、サラワク滞在があったからだ。1989年の滞在だけで3か月をUB村で過ごし、あちこちの村での様々な抵抗運動の場に出かけるうちに、当然だが、わずか1泊か2泊の取材だけで帰っていく日本の記者よりは広く深い情報を有することになり、帰国後に朝日新聞の記者から「そんなに滞在が長いんだったら、書いてみなよ」と勧められて某週刊誌に書いたのがこの道に入った第一歩だった。

◆だが私には、サラワクの人たちを取材や調査の対象にするよりも、あくまでも居候/家族として滞在する方が居心地がいい。実際、焦らなくても、ある程度の長期滞在をしていれば、立場に関係なく必要な現場と情報に身を接することができる。結果として記事が書ける。

◆ただ最近では、サラワク関係の記事を書く機会がめっきり減った。かつては、私が掴んでくる情報は環境保護団体などには貴重な情報源として重宝されたが、今では、NPOなどが積極的に現地調査をして次の行動につなげることが一般化したので、私の出る幕は少なくなった。だが、それでいい。私は村での生活にどっぷりと漬かることができるからだ。

◆マリンさんには10人の子どもがいたが、私はその11番目として、10人のきょうだいとは37年経った今も付き合っている(うち2人は亡くなったが)。きょうだいたちのほとんどが結婚や仕事で村を出て、大きな街や違う村で住んでいるが、このたびの訪問では、そのうちの5人に会うことができた。

◆2009年。義父マリンが亡くなったが、幸いにも、私はその1か月前にサラワクを訪れており、街に住む末娘のウラオの家で寝たきりになっていた義父と最後の時を過ごすことができた。以後、サラワクに行くたびに義父の墓参りは欠かさない。今回も、サラワクを離れるその日の午後が空いたので、ウラオに「墓参りに行きたい。車を出せるか?」と連絡すると、すぐに車を出してくれて、すぐ上の姉のポヤンと一緒に来てくれた。

◆初めて会ったときは14歳と17歳の少女たちは今、51歳と54歳のおばちゃんになったが、今でもめっちゃ私を慕ってくれる。家族だけではない。UB村では、なんでこんなに優しいんですかと思うしかない男性も女性もいて、その一人である女性は今年70歳(89年は33歳)になった。村で世話になる男性は今では75歳になったが、これは人口1000人弱(町で暮らす人も含め)の村では9番目の高齢者だという。で、私は考えてしまった。高齢となった人たちにあと何回会えるのか、と。いや、サラワクに初めて行ったときは30歳だった私も今では67歳だ。私にしてもあと何回サラワクに行けるのか。

◆その思いから、いつもの訪問でのお土産はハンカチなどだが、今回は、きょうだいや、特に世話になる村人には廉価だが腕時計を買っていった。もサラワクの先住民が「開発」からいかに自分たちの生活を守るかに心を砕いている以上、もちろん私もその問題に無関心ではいるわけにはいかない。居候生活と取材との両立を今後も継続するが、今望んでいるのは、私の死後、遺骨の半分を義父マリンのお墓の近くに埋めてもらうことだ。ま、これはきょうだいたちと話し合うことになるが。

◆サラワク、7月にまた行くかもしれません。[樫田秀樹

ラッパー首相が手をつけた「スクンバシ」問題

■上空から爆撃を受けたのか、大地震で建物が崩れ落ちたのか——戦地でも被災地でもないはずのネパールで、目の前にそんな光景が広がっていた。4月末、首都カトマンドゥでトップニュースになったのが、Sukumbasi(スクンバシ)の話題だ。

◆スクンバシとは、ネパール語で「土地のない人」を意味する。かつてのスクンバシは、田舎にいても現金収入の当てがないため、仕事を求めてカトマンドゥを目指す人が大半だった。その数が急増したのは、ネパールが内戦下(1996〜2006)にあった時期。ネパール共産党毛沢東主義派(通称マオイスト)が各地で反政府武力闘争を展開すると、戦闘を逃れるため、周辺農村部の人々がカトマンドゥ盆地に流入したことによるといわれる。

◆故郷を離れた、あるいは追われた人の多くが最初に住み始めたのは、インフラもなく、人の住まない川沿いの国有地だった。だが、空き地に勝手に家をつくれば、土地代をかけずにすむことに気づいた人々が、支持政党や経済状況に関わらず川沿いに勝手に家をつくり始めると、不法占拠地は広がり、その数も急増。カトマンドゥのバグマティ川沿いは、35000人のスクンバシが住んでいると推定された(2022年時点)。

◆大雨で川が氾濫すれば、すぐ流されるようなバラックもあるものの、川沿いの軟弱地盤を補強してコンクリートの建物をつくり、その家をフロアや部屋単位で貸すことで得たお金で、さらに家を建てる、貸すを繰り返す。故郷に広い土地や財産を持ち、カトマンドゥでも、自身は町中に住みつつ、占拠した川沿いの土地に建てた家で不動産業をする——そんなビジネスマンやマフィアも現れた。

◆4万人ともいわれるカトマンドゥのスクンバシについて、「その9割は、政府のルーズな対応につけこんで、空き地に勝手に家をつくり、『ここは自分の土地だ』といい張る人で、本当にそこ以外に住む場所のない人は1割くらいじゃないか」。わたしが話を聞いた人の多くは、そう答える。

◆本来、不法占拠者を取り締まる立場にありながら、既得権益を守ることにしか興味のない政治家たちが、先延ばしに先延ばしを重ねたこの問題に手をつけたのが、現首相でラッパーのバレンドラ・シャハ(通称バレン)だ。約4年間、務めたカトマンドゥ市長を辞して、3月の総選挙で国政に出たバレンが入党したRSP(国民独立党)は単独過半数を獲得し、選挙に圧勝。公約に反汚職や雇用創出を掲げたバレンが、市長時代から着手していたのが、災害リスクの高い川沿いの土地を占拠するスクンバシ問題だった。

◆今回、政府は不法占拠地の解体作業日を数週間前に宣告。36時間前にも、住民に荷物を持ち出すように再通告していた。そして4月末、警察も動員され、まずは市内の大規模な不法占拠地から解体は始まった。「今日は不法占拠地で最大の建物が解体されるよ」。そういわれて現場に足を運ぶと、そこには8階建てのビルがそびえ、周辺では2〜3階建ての家が、すでに解体されていた。その後も川沿いを中心に市内を回ると、隣接するパタン市との境界のバグマティ川沿いは、数百メートルにわたって瓦礫の山と化していた。

◆今回のスクンバシの強制退去執行では、本当に川沿いのバラック以外に住むところのない人たちにはシェルターが用意され、健康状態に問題がある人はメディカルチェックを受けるなどの対応がされている。同時に故郷に土地や財産を隠していないか、スクリーニングも実施中で、その妥当性を確認した上で、土地や家を持たない人の移住は進められるそうで、透明性を担保するため、情報やデータはウェブサイトで公開するという。

◆ネパールには、「7世代先の子々孫々のために稼ぐ」ということばがある。既得権益を持つ層の骨の髄までしみ込んだ、汚職の温床となっている縁故主義は果たして改善されるのか。正直、わからない。だが、バレンが市長になった4年前以降、半年ごとの来訪のたびに、町中や川のゴミは目に見えて減り、渋滞を誘因する違法駐車の取り締まりや、秒数表示する信号機の設置によって、交通状況も改善している。解体された川沿いは緑化・公園化を進めると、バレンは公言しているので、今後はスクンバシの問題から、カトマンドゥの変化を定点観測ができるかもしれない。[塚田恭子

熊に出会った話

■私の娘(谷口けい)が山で遭難死してから10年になるが、今でも山岳関係の先輩や仲間が墓参りに千葉県へ毎年来られている。今年は江本さんも来ていただき、その縁で地平線通信に書かせてもらうこととなった。

◆子どものころ、娘を筑波山など近県の山に連れて行ったが「山をやれ」とか「危険だからやめろ」とは1回も言ったことはない。気がついたら谷川岳の一の倉沢を登っていた。私自身は「山の花」を撮ることを趣味としていた。リタイヤしてからは友人と二人で毎月のように谷川、八ヶ岳、奥日光の山々、時には鳥海山、加賀白山、越後駒まで足を伸ばした。リタイア後すぐに向かったのが谷川岳でもちろんロープウエーを使って天神尾根からのルート。シラネアオイやサンカヨウがすばらしい。

◆下りは谷川温泉に泊まることにしていたのでノーマルルートでは一番きつい中ゴー尾根を選んだ。尾根の草原は花も多くて素晴らしいが樹林帯に入るとだんだん道が消えてゆく。何となく勘でブッシュをかき分け下った。汗は出るが手持ちの水がなくなっていた。最後の力をふりしぼり下っていくと谷川の流れる音が聞こえてきた。そしてようやく二俣の出合に出た。昔はここがキャンプ場だったが今はその形跡はない。谷川の水をガブガブ飲んで生き返った。

◆しばらく休んで張った足をひきずりながら歩き出したころはもうあたりが薄暗くなっていた。そのとき、前方に黒いものが横切った。「熊だ」。足が震えてきた。覚悟した。懐中電灯を振り回したら熊は茂みに消えた。小熊だったようで距離もあったので助かった。ただ、親熊が出てくるかもしれない。恐怖を抱きながら雪崩でところどころ切れている道を歩いた。ようやく東大谷川寮のあかりが見えてほっとした。すでに空は真っ暗だった。寮で電話を借りて車で迎えに来てもらい、ほっとした。宿に着いたら全身がドロドロで私の足首は山ヒルがたっぷり血を吸って丸くなっていた。もう20年ほど昔の話である。[谷口尚武


今月の窓

「ケイさんのポトラック」

恩田真砂美 

■4月19日のよく晴れた日に、今年もケイさん(谷口けい)のお父さんを囲んで持ち寄りのピクニックをした。あれから11年になる。お墓は手賀沼を見下ろす高台にあり、墓石には、お父さんと一緒にはじめて登ったという筑波山が彫られている。少し時間が経ってからお墓ができたと聞いて、ケイさんが最後に住んでいた北杜市の友人たちと訪ねていった。生前から、よくまわりに声をかけて持ち寄りで集まっていたことを思い出し、私たちも自然に、何か一品ずつ持ち寄って、ピクニックがてら訪ねようということになった。

◆北杜の友だちは車を飛ばして一泊二日の旅。ケイさんのお父さんが手配してくれた墓地の芝生の空き地にブルーシートを敷き、持ち寄ったものを広げる。墓参というよりも、お父さんとお母さん、そしてケイさんが山の父母と慕っていた飛田和夫さんや寺沢玲子さんを囲んで、友だち同士で春のピクニックに来たかのように、小さな子どもたちは墓地を遊び場みたいに走り回った。お父さんが、「持ち寄りのピクニックだから、ポトラックだ」と言った。それ以来、「ケイさんのポトラック」は、春のあたたかな良き日に行われるようになった。

◆ケイさんの食べっぷりは、誰に聞いても「すごかった」。冬の登攀の帰り、時間がなくサービスエリアで夕食を食べたことがある。ケイさんとケンシくん(今井健司)と3人でカツ丼を頼む。食べきれずご飯を半分残そうとすると、二人のギラギラした目が残したご飯を見つめて「食べないのなら食べていい?」と、すかさず平らげてしまった。あのときの目は動物のようで、夏冬問わずクライミングにいきまくっていた二人は、大食漢ともいえるほど食べるのに、必要な筋肉を残して余計な脂肪などない、美しい生き物だった。そんな彼らと、40代前半のいっときを共にした時間の記憶は、今も少し胸がひりつくような気持ちとともによみがえる。そんな冬の登攀の世界に、私を誘ってくれたのはケイさんだった。

◆日本山岳協会で行われたケイさんのカメットの報告会を聞きに行ったときだ。ケイさんの活躍は聞いていたが、実際に話す姿をみて、日本ではみたことのない人としての魅力とスケールとその登攀の発想力と実行力に圧倒された。その報告会の帰り道に、私はその感動を伝えるべく、江本さんに電話をかけた。いかに、すごいものを見てしまったか、聞いてもらえる人は江本さん以外にないと思ったからだ。その後、江本さんが私とケイさんをつないでくれ、しばらくしてケイさんから突然「家に遊びに行っていい?」と連絡があった。

◆私は夕食を用意し、ケイさんは花を持ってやって来た。なんでも「おいしい、おいしい」と食べてくれて、「恩田さん料理上手じゃない」と笑った。その流れで「今度、一緒に山に行こう」と誘われて最初に行ったのが、冬の錫杖岳だった。一緒にいったのがケンローくん(中島健郎)と坂もっちゃん(坂本健二)で、あとから考えると、それは、車とテントをシェアして、できるだけ安く済ませるというケイさんの作戦だったようだ。

◆ケイさんが用意するよと持ってきてくれたのは、切干大根やいろいろな具が入ってかつ軽量化もされた煮干し出汁の鍋と米。それはとてもおいしいものだった。味、満足度、どれも冬の登攀にぴったりの内容で、2泊3日のひとりあたりの食費はたしか400円。さすがだなあと思ったものだ。このとき、冬の登攀というものが、自由で楽しく、工夫に満ちたものであることを、ケイさんから教えてもらったのだ。本来、寒く、厳しく、リスクのある冬の登攀で、私がそのような印象を強く受けたということは、ひとえに、そう思わせるだけの余裕がケイさんにあったということだ。今振り返るとよくわかる。強烈な原体験となった。

◆ケイさんは、多くの友だちを山で失っていた。冬の明神岳に行ったときのことだ。登攀を終え、テントでケイさんの鍋を食べながら、アラスカで亡くなったクライマーの話になった。ケイさんは懐から、小さくコピーしたその友人の記事を出して「毎年、実家に遊びに行くんだ」と言った。一緒に韓国でアイスクライミングをしたキムさんが遠征中に遭難したと聞いたときは、ネパールの帰りソウルに立ち寄り、ご家族と一緒に墓参りをし、悲しむお母さんに「私が娘になるから」と言ったと写真を見せてくれた。

◆「私は絶対に山では死なないよ」とよく言っていた。まわりも、この人は死なない人だと思っていた。それでも、その危うさを、ケイさんは誰よりもわかっていたのだと思う。亡くなった友だちの家族のところへ、誰よりも足を運んでいた。アルパインクライミングという、美しく創造的な行為の真の意味を深く理解していたからこそ、本人の意に反してこの世を去った友たちの、残された家族によりそっていったのだろう。

◆今年は、数年前から入院しているお母さんは参加できなかったが、お父さんは、いつものようにかくしゃくと私たちを迎えてくれた。ポトラックの相談をすると、いつも寺沢さんがまわりに声をかけてくださる。今年は、江本嘉伸さん、北村節子さん、飛田和夫さん、越後谷正善さんが思い思いの品を持って集まった。旬の筍、黒豆、いちご煮のおにぎり、海鮮サラダ、そしてケイさんが大好きなアイスクリーム。大輪のユリもきっと気に入ってくれたと思う。

◆そして帰りぎわ、お父さんは江本さんに、「来年はエモカレーを持ってきてください」と笑いながら頼んでいた。


あとがき

■きのう14日、山田和也監督からこんなメールが。「『puujee(プージェー)』が公開されてから20年の歳月が経ちました。嬉しいお知らせが届きました。5月7日から6月2日までソウルで開催されている『シネマテークの友人たち映画祭』でpuujeeが上映されるというのです」

◆「コンペティションがあるような大きな映画祭ではなく、独立系映画館ソウルアートシネマで、20年間毎年開催されていている名画座的な上映イベントです。そのプログラムにpuujeeが」

◆日本でのプージェーの上映は20年前の2006年6月3日、ポレポレ東中野から始まった。あれからちょうど20年、探検家の心をとらえ、「将来は日本語の通訳に」と話していた少女の夢は交通事故で砕かれたが、その姿が隣国で復活するのは素晴らしい。私たちももう一度見たい。[江本嘉伸]


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

森という智恵

  • 2026年5月29日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「人里離れた奥山で巨木と向き合うと、匂いや音への感覚が研ぎ澄まされます」と言うのはドキュメンタリー映画作家の今井友樹さん(47)。制作に5年をかけた映画『森に聴く』(共同監督/撮影)は、放置された人工林(人が植えた森)や、過剰な伐採などが原因の災害が多発する昨今、多様な生き物が共存する自然な森のあり方に耳を傾け、今一度学び直す試みを描く作品です。

今井さんの郷里、岐阜県東白川村の周囲はヒノキが主体の人工林ですが、この映画では有数の研究者を案内人に、日本を代表する4つの気候帯の天然林に分け入りました。〔亜寒帯(北海道雄阿寒岳山麓)・冷温帯(宮城県鳴子)・暖温帯(大分県日田/熊本県市房山)・亜熱帯(沖縄県西表島)〕。

「自分よりずっと長く生きている巨木の前では、ヒトの生き方を問われている気がして。森という生命体に対する畏敬の念が自然に湧いてくるというか…」。民族文化映像研究所で故・姫田忠義氏に師事した経歴を生かし、一貫して自然と共存する人々の営みを描いてきた今井さん。今月は今井さんに各地の森に聴いた声を語って頂きます。


地平線通信 565号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2026年5月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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