2026年6月の地平線通信

6月の地平線通信・566号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月17日。早朝は爽やかな空気だが、かなり暑くなる気配。とうに夏に入っているのだろう。ふだん、寝る時間は午前2時という深夜族。早朝に起きるのは今朝のように地平線通信のフロントを書く日ぐらいだ。しかしおととい15日の朝はぴたり4時50分には起き、5時からW杯サッカーの日本対オランダ戦を見届けた。ファンというほどではないが、一瞬で戦いが決まるこの競技、見ておきたいではないか。

◆月に1回、連れと六本木のサントリーホールで読売交響楽団の演奏会を聴きに行くことにしている。きのう16日は「693回名曲シリーズ」だった。「炎のコバケン」と称される人気指揮者、小林研一郎がタクトを振るショパンの「ピアノ協奏曲2番」の演奏が終わったところで、グラグラ、ときた。天井から吊られた10本のシャンデリアのすべてが揺れている。

◆群馬県南部と埼玉県北部で震度5弱、東京震度3、というからかなりの規模であるが、ちょうど15分の休憩時間に入ったところだったので混乱はなかった。コンサート会場での地震。これも貴重な体験である。休憩の後、チャイコフスキーの「交響曲第5番」を振る。曲名だけではわからなかったが、旋律を聴いてああ、やはりあの曲だ!と合点した。

◆85歳。私と同年の小林は指揮者にしては饒舌だった。アンコールで「ダニーボーイ」を振り、「実は」とマイクを手に昔話をした。なんでも昔、父親が危篤であったとき、やはりこのダニーボーイを振っていたというエピソードだった。指揮者にしておしゃべりなところもこの人の人気の所以なのだろう。

◆帰り道は各駅停車で帰る。中央線快速はこの時間帯めちゃ混みなのだ。最終バスにも余裕で間に合い、11時には帰宅できた。猫の源次郎が「かあちゃーん」とすり寄ってくる。10年一緒にいるというのにあいかわらず私には見向きもしない。かあちゃん、長生きしてね。

◆9月はじめ、北海道・西興部村で開催予定の「地平線モリズム」の開催まで3か月を切った。この21日から3日間、江本、長野、落合、車谷の4人に加え、新たに光菅修君をまじえて今度は紋別ではなく旭川から現地に入る。宿も今回は元中学校の「GA.KOPPER」とする予定だ。すでに品行方正楽団一味の間で「西興部音頭」なるものも仕上がっているらしい。付記すると、なんと踊りの振り付けまでできていて、現地でスコップ三味線をやる女性たちとコラボの話もあるそうだ。

◆北海道地平線に関してあの“冒険王”賀曽利隆が貴重なテーマを提げて参加することも伝えておこう。彼はここ数年、「巨木を訪ねる旅」を実践していてことしは北海道を舞台としているのだ。詳しくは来月の地平線通信にしっかり書いてもらうが、一端を紹介しておくと——。

◆[まず、函館から往路では乙部町の「縁桂」(樹齢500年以上のカツラ)、江別市の「昭和の森のクリ」(樹齢800年以上のクリ)、石狩市の「千本ナラ」(樹齢800年以上のミズナラ)、中頓別町の「千本シナ」(樹齢200年以上のシナノキ)、下川町の「七尺ニレ」(樹齢300年以上のニレ)を見てまわって西興部の地平線会議の会場まで行きます]

◆そしてもう1人、北海道といえば、酪農に打ち込んでいる田中雄次郎だ。昔の印刷物だが『あるくみるきく 138号』(1978年8月)の特集「日本縦断徒歩旅行」を可能なら探し出してほしい。1977年7月25日から9月29日まではたちの青年が宗谷岬から佐多岬まで歩き続けた記録。歩行距離2751キロ。使ったお金40001円。拾ったお金1105円。あまり人を誉めない宮本常一さんがこの記録を絶賛したそうだ。東京農大を卒業して北海道で酪農家になった田中君が賀曽利はじめ懐かしい地平線の面々を前に何を語るか。恐るべし! 地平線モリズム。[江本嘉伸


先月の報告会から

森という智恵

今井友樹

2026年5月29日 榎町地域センター

■今年9月4日〜6日に北海道西興部村で開催予定の「拡大報告会」のテーマが「森」であることにちなみ、ドキュメンタリー映画監督の今井友樹さんが山上徹二郎氏と共同監督を務め、5年以上の歳月をかけて完成させた新作ドキュメンタリー映画『森に聴く』を題材に、日本の森の現状や取材時の体験が語られた。

◆今井さんの2020年公開の土佐和紙の原料となる楮(こうぞ)をめぐる山里の人々の暮らしを記録したドキュメンタリー『明日をへぐる』でプロデューサーの山上さんと出会い、高知の森を歩いたときに森の映画をつくりたいと声をかけられた。昭和29年生まれの山上さんは40年間映画のプロデューサーの仕事をしてきたが、本作が初めての長編映画監督への挑戦でもあることから、息子ほどの世代である今井さんという年の差コンビでの共同製作となった。

◆周囲からは共同監督特有の衝突を心配されたが、互いに尊敬と気遣いを持って臨んだことで、極めて円滑に進行したという。実はこの作品は2年前に一度客観的なトーンで完成していたが、両監督共に仕上がりに納得がいかず、撮影素材を活かして一から完全に作り直された経緯を持つ。

◆完成版では、山上さんのバイオグラフィーが強く反映され、彼自身がナレーションを担当している。その大きな動機となったのが、山上さんの故郷である熊本県人吉市の豪雨災害(球磨川氾濫)であった。実家が床上浸水するほどの被害を受けた山上さんは、この大水害の背景に上流域の「人工林」が抱える深刻な問題があると考え、宮崎・熊本県境の「市房山(いちふさやま)」をはじめとする山の世界へ取材の歩みを進めることとなった。

◆映画は、日本列島の4つの気候帯(亜寒帯、冷温帯、暖温帯、亜熱帯)に分け、それぞれにおいて人の手が入っていない「天然林」と、そこで地道な調査を続ける研究者たちを頼りに取材を敢行した。今井さんは撮影を中心に担当したが、山に囲まれた岐阜県東白川村で育ちながらも、これまで「所有物」としてのイメージが強かった山林の深部へ足を踏み入れた経験はなく、当初は樹齢数百年の巨木を前にどうカメラを回すべきか途方に暮れたという。しかし、北海道・雄阿寒岳の溶岩が積み重なるアイヌが守ってきた原生林(エゾマツ・アカマツの森)に佇むうち、「人間以外の植物や様々な存在の気配」を察知するようになる。この「気配を捉える」感覚が拓かれたことで、謙虚に、かつ自然にカメラを回せるようになったという。

◆冷温帯のフィールドとして訪れた東北大学の演習林では、森林生態学の清和研二名誉教授の案内のもと、人工林と天然林の境界、そしてそれらが交じる「混交林」の可能性が示された。清和教授は20年間にわたり、同じ条件下にある3つの杉の植林地(「20年間全く間伐をしていない地区」「3本に1本の弱間伐を3回繰り返した地区」「3本に2本の強度間伐(70%間伐)を3回繰り返した地区」)の比較調査を行ってきた。間伐のない杉林の地面は、日が当たらず、杉の葉が分解されないまま残って地肌が露出している。しかし、弱間伐、強度間伐と進むにつれて林内は劇的に明るくなり、下草が生い茂る。特に強度間伐のエリアでは、地面を踏むとふかふかとした感触があり、杉だけでなく広葉樹もまっすぐ高く伸びていた。清和教授の研究により、強度間伐を行った森は地中にミミズなどの生物が多く、山が水を蓄える「水源涵養機能」が極めて高いことが実証されている。

◆また、映画には金沢大学の菌類学者・都野展子教授も登場する。都野教授との取材では、一見目に見えない地中の「菌類(キノコ)」が樹木の生存と分布にどれほど深く関わっているかが明かされた。地球上に植物が誕生した5億年前、陸上にはまだ植物を分解する菌類が存在しなかったため、当時の植物は腐らずにそのまま化石(石炭など)になった。しかし約3億年前に菌類が誕生したことで、植物の分解と有機物の循環が始まり、人間を含む多様な生命が生きられる環境が整った。

◆樹木と菌類の共生には大きく分けて2つのタイプがある。一つは、根の細胞の内部に入り込んで共生する「内生菌根菌(アーバスキュラー菌根菌)」で、これは杉、ヒノキ、サクラ、カエデ、クスノキなどと相性が良い。もう一つは、根の周囲を包み込んで菌糸の鞘(さや)を形成する「外生菌根菌」で、ブナ、マツ、ナラなどがこれに該当する。外生菌根菌は、外からの病原菌の侵入を防ぐバリアのような役割も果たしており、ブナの巨木の足元でその子供(実生)が育つ際、親木が菌類を介して子供を助けているのではないかという説が紹介された。現在の単一な人工林の土壌には特定の菌類しか存在しないが、人間が手を入れずとも樹木と菌類が自律的に共存し合うメカニズムを解明することこそが、荒廃した人工林を豊かな森へと再生する鍵になると清和教授は語る。

◆亜熱帯のフィールドでは、西表島のマングローブ林を30年以上調査している馬場茂行教授を訪ねた。馬場教授は、西表島に自生するスダジイ(オキナワジイ)のような「北方系」の樹木と、マングローブのような「南方系」の樹木を対比させ、植物のダイナミックな移動の歴史を解説した。北方系のドングリは海水に浸かると発芽能力を失うため、約50万〜100万年前に大陸や本州との島が完全に切り離されて以降は、自力で海を渡ることができない。つまり、現在島にあるスダジイは、かつて陸続きだった時代に渡ってきた祖先の子孫である。これに対し、南方系のマングローブは「海流散布型」の種子を持つ。マングローブの種子は、真水の中では沈んで根付くが、塩水(海水)の中では完全に浮くようにできており、海流に乗って遠方まで移動できる。100万年単位の時間軸の中で、地球の温暖化や寒冷化に伴い、花粉を媒介する虫とともにマングローブが日本列島を北上・南下してきた壮大な営みが語られた。

◆清和教授が強く批判するのは、昭和25(1950)年頃から昭和40年代にかけて国策として全国一斉に推進された「拡大造林」である。かつて日本の奥山には世界有数の天然林と広葉樹の巨木群が残されていたが、戦後のわずか20〜30年の間に、年間8,000万立方メートル(直径80センチメートル、高さ30メートルの巨木換算で年間約2,000万本)もの木が切り尽くされた。その跡地に手っ取り早く経済的価値を生むとして植えられたのが、単一の針葉樹(杉・ヒノキ)だった。その結果、本州の山の3分の2以上が人工林へと置き換わった。しかしその後、安い外国産材の流入や山林の過疎化によって間伐などの管理が放棄され、現在、日本全国に水源涵養機能の低い危険なハゲ山同然の針葉樹林が広がり、人吉市のような大水害を誘発する要因となっている。

◆こうした現代の歪みを直視する一方で、今井さんは取材中、圧倒的な歴史の堆積に触れる決定的な体験をしている。阿蘇山周辺の取材時、9万年前の大噴火による火砕流で埋まった杉の「埋れ木」が、河川工事の際に地中から発見された。発掘当時は「焼き芋のような甘く焦げた匂い」がしたというその大木の一部が展示・保管されている博物館の収蔵庫を訪ねた際、今井さんはそこから時を越えて漂う明確な「杉の匂い」を嗅いだ。9万年という気が遠くなるような時間軸と、現代にも共通する杉の具体的な匂いが身体の中で結びついた瞬間、人間の寿命を遥かに超えた森の世界と対峙する実感が湧き、この映画が作れるという確信に至ったという。

◆盆栽が趣味の山上さんから譲り受けた松の盆栽を「栄養を与えすぎて枯らしかける」という失敗エピソードも象徴的だ。インターネットやYouTubeで調べ、松の本質が「痩せた土地だからこそ育つ」点にあると気づく。ここでも、人間側の「良かれと思って施すコントロール(肥料)」が自然(松)を殺しかけるという実体験を通じ、拡大造林に通ずる「人間のエゴと自然のメカニズムの不一致」を身体的に学び直している。

◆私は報告会の前にその日から青梅シネマネコでアンコール上映されていた『森に聴く』を鑑賞してきた。6月25日まで上映している。また、都内の田端チェプキでも7月からの上映が決まっているそうである。76分に詰め込まれた内容は深くて、私は一回観ただけでは理解できなかったが、報告会を聞いてもう一回観てみたくなっている。

◆後半の1時間は今井さんが手がけている仕事について話された。なんと今、12本のドキュメンタリー映像の仕事に関わっていると言う。一部紹介すると、来週にも取材で行く湯布院を舞台にした『湯布院——“ふるさと”のつくりかた』(仮)、『子どもの眼差し——紙芝居100年』(仮)、『生きる姿勢——オーダーメイドの車椅子』(大西暢雄さんとの共同取材)、6月から撮影開始する自身初の人を主人公にした『人間 堅山勲』(仮)など取材対象が高齢なために待ったなしの同時進行で、さらにどの作品も重厚な内容で興味深い。民族文化映像研究所で修行した今井友樹さん。「野にありて耳・目をすます」という姫田忠義さんの精神を間違いなく継承している。[高世泉


報告者のひとこと

「森の体現者」を描きたい

■2018年9月28日「オキのサキと飛べ!!」、2023年6月30日「幻の蛇を追って」、そして今回の「森という知恵」で、三度お話しする機会をいただいた。森は、人間の“存在の小ささ”を感じられる空間だ。森に立ち入ったものなら誰でも感じるであろう、“気配”や“畏れ”といった感覚もそう。たぶんDNAレベルで備わっていて、森は長い時間をかけて人類を律してきたのだと思う。

◆一方、地平線報告会が行われる前に、不妊治療の最先端を学ぶ学会に参加してきた。オスのマウスの尻尾からXY染色体の女性を司るX染色体だけを取り出してiPS細胞を作り、そこから卵子と精子を作り出し、さらに受精に成功したという話を聞いた。人間に応用するには倫理問題のクリアが必要とのことだが、森の中にいると不思議とこういう感覚は「自然界ならさもありなん」と受け止められるのだ。

◆しかし、こと“人間が”となると、とてもとてもと畏れ多くなる。思えば、『鳥の道を越えて』で追いかけた鳥の道は、「死んだ人があの世へ行く道筋だったのでは」という“畏れ”でした。ツチノコも「いるかもしれない」という“気配”の話でした。こういう感覚は、戦後しばらくまでは世代を越えて確かに伝えられていた感覚でした。

◆つまり森は、人間以外の存在について語ることのできる「伝承を作り出す場所」になっていたと思います。しかし、今では縁が漂っているにすぎない。そんな世界に僕らは森を見ようとせず生きている。森の世界はあまりに遠く、近づけば近づくほどに遠のくような世界です。でも本当にそれで良いのだろうか————。

◆僕はこのあたりを、明治時代に活躍した修験者・林実利を、森の体現者として描けないかと考えています。かつての修験者は生活の身近にいたし、誰でも修験の世界に触れる世界はあったはず。いま80代、90代の人たちは子供のころに「修験者に病気を治してもらった」、「夜泣きを治してもらった」という体験をしています。ある人は火事のとき「修験者が火の中に入っていき、屋根の上に上がって祈ると火が消えた」という伝承を覚えていました。先日話を聞いた古老は、寝小便を治してもらうためにある有名な行者さんを訪ね祈祷してもらったことを覚えていました。行者が祈祷をあげている間、頭を下げて正座していました。行者が「エイ!」と気合いをいれた瞬間、辺りがピカッと一瞬光ったといいます。彼はそれが不思議でならなかったと言いました。また「今思うと、あれはカメラにつけるフラッシュを焚いていたのでは?」と、科学的にも解釈しようとしていました。

◆『夜明け前』では、明治大正期に活躍した西洋医学の精神医学者・呉秀三を取り上げました。彼が活躍した時代、西洋医学が戦ったのは世間に蔓延する科学的根拠のない迷信でした。その迷信を流布していた代表格が修験者の活躍であったという論法です。修験側というより里に住む我々社会が、じりじりとその世界から離れているからこそ森の世界が遠くなっていき、気配や恐れは迷信になっていく。森から離れていった僕たちの物語を語りたい。そのあたりを報告会でうまくいうことができればよかったのになと、帰り道に反省しながら考えていました。もしかすると、修験そのものに目を向けたらこの映画は上手くいかないかもしれない。あくまで生活者の目線で森の世界を描くことができれば。そしたら雲を掴むような森の世界へ、いけるのか? うーん。僕は、まだまだ修行が足りないようです。[今井友樹

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


地平線ポストから

関野吉晴さんとモンゴルの少女と映画『puujee』の20年

■関野吉晴さんの「グレートジャーニー」に同行したドキュメンタリーディレクターの山田和也です。先月の「あとがき」で江本さんが触れてくださったように、拙作『puujee(プージェー)』がソウルの「シネマテークの友人たち映画祭」で上映されました。ご存知のように、関野さんは南米の南端からアフリカまで、人類拡散ルート(グレートジャーニー)を10年の歳月をかけて無動力で遡りました。その途上、モンゴル高原で出会った遊牧民の少女プージェー(当時6歳)との5年間を描いた記録映画が『puujee』です。

◆シネマテークの友人たち映画祭は、映画資料館ソウル・アート・シネマ(日本の国立映画アーカイブのような施設)で、20年間毎年開催されており、今年は「約束と映画」をテーマに1か月にわたって開催されました。そのなかに、映画監督や俳優、文化人など総勢14人が自ら推薦する映画を選び、観客と対話しながら上映するというプログラムがあります。『山猫』(ルキノ・ビスコンティ監督)、『未知への飛行』(シドニー・ルメット監督)、『シェルブールの雨傘』(ジャック・ドゥミ監督)、『少年』(大島渚監督)、『夢二』(鈴木清順監督)などの14本、映画史を飾る名作が、きら、星のごとく並んだラインナップです。そのなかに『puujee』も加えていただきました。震えてしまいます。

◆選者は、イ・オクソプ監督。『なまず』という作品で映画賞を受賞している新進気鋭の監督です。1989年生まれですから、プージェーの4〜5歳年上。同世代の2人が出会ったのは、おそらく20年近く前にソウルで開かれた映画祭で上映された『puujee』を通してだっただと思います。

◆プージェーと関野さんの出会いは、1999年のモンゴル。社会主義体制から市場主義体制へと社会が大きく変動していくなかで貧富の差ができ、様々な理不尽が起きていました。プージェーの家も馬を39頭も盗まれてしまいます。苦しい生活に陥っても、プージェーの家族は、いつも笑顔とミルクティーで迎えてくれます。親しくなった関野さんに、母親のエルデネチメグさんは、アフリカまで行くのなら、必要になるからプージェーの馬を持っていきなさいと言ってくれます。旅人に親切にすることは、厳しい自然のなかでの相互扶助の精神。13世紀後半にユーラシアの大部分に版図を広げたモンゴル遊牧民の知恵であり美徳だと思います。次に来るときに馬のお礼に何かプレゼントを持ってくると言う関野さんに、プージェーは小声で「コ・ン・ピュ・タ」。子どもたちの間で流行っていた携帯型ゲーム機のことでした。

◆数か月後、約束のゲーム機を携えてプージェーを訪ねた関野さんは、エルデネチメグさんが亡くなったことを知ります。落馬して内臓に傷を負ったのですが、無保険だったため治療を受けられないまま亡くなったのです。医療費が無料だった社会主義時代には考えられなかったことです。

◆出会いから7か月、プージェーは、関野さんを通じて日本に強く興味を持つようになり、アフリカへの旅を再開しようとしていた関野さんに、日本語の通訳になりたいと告げます。プージェーが草原の外で職に就くことは、市場経済とはなじまない遊牧の暮らしに悲観的になっていた祖母のスレンさんの願いでもありました。それなら日本に来てほしいと言う関野さんに、プージェーは強くうなずきます。プージェーの未来が大きく変わろうとしていました。人と人が出会うことによって変化がおきる。人類が地球上に拡散していった5万年もの間、無数の出会いと変化が繰り返されてきたことでしょう。

◆2004年、アフリカへの旅を終え、プージェーを日本に受け入れる準備を始めていた関野さんに知らせが入ります。プージェーが交通事故に遭い、亡くなったというのです。市場経済導入後急速に増えていた日本の中古車による事故でした。モンゴルの道路事情は、高速で走る自動車にまだ対応できていなかったのかも知れません。

◆関野さんが南米からアフリカまで様々な出会いを重ねることができたのは、大きな戦争がなく、一部の紛争地帯を除いて自由に移動できたからです。しかし今はどうでしょう。ウクライナ、パレスチナ、レバノン、イランなどで武力紛争や侵略が続いています。日本もまた、思慮を欠いた政治の動きによって危うい方向へ進みかねない状況にあります。このわずか20年で人類が失ったものの大きさを思うと暗澹たる気持ちになってしまいます。[山田和也


 2026年9月4日〜6日
地平線会議 in 北海道西興部へ向けて
〜 西興部通信 〜

西興部村での私の田舎遊びを聞いてください

■退職して12年目を迎えました。北海道の閑村ですが、自然に親しみながら楽しく忙しい日々を過ごしております。以下に1年の村での私の田舎暮らしを紹介させてください。

〜春夏〜

◆村の一年は4月初旬の積雪ゼロから始まります。花壇ではクロッカス、チューリップ、スイセンなどが我先にと花を咲かせ、半年雪に閉ざされ、待ちわびた北国の人々に元気を届けます。小さな花壇と菜園・果樹園ですが、ハウスにビニールを張り、畑を起こし、マルチングした畝に野菜の苗を植えます。一方、モモ、プラム、ナシ、リンゴなどの果樹には、病害虫予防の消毒、袋掛けなど、適時の作業が待っています。さらに盆栽とは言い難い鉢植えの管理、フキ、ギョウジャニンニク、ウド、ワラビ、セリなども、機を逸せず採取し季節を楽しんでいます。畑のあちこちに掛けた巣箱には、シジュウカラ、ハクセキレイが子育てに一生懸命で、3年前には偶然5羽の巣立ちに遭遇しました。また、オホーツク海の釣り船では、50リッターのクーラーボックスいっぱいカレイを釣り、1年分の魚を確保しています。北国の春夏は短く、遅咲きのチューリップとアヤメが同時に咲いていることも珍しくありません、人も植物も、駆け足で生きているようです。

〜秋〜

◆現職中から地元でヤマベ釣りを長年やってきましたが、退職3年目からオホーツク海でのサケ・マス釣りをはじめました。7月末からマスが、9月初旬からサケが釣れだします。時期になると、釣り場所確保のため、早い人は早朝2時頃から海岸に立ち、隣の人と肩が擦れ合いそうなぐらい混んでいます。薄明るくなるとケミライトをつけたルアーが飛び交います。隣の人と絡まったものなら大変、釣果に大きく関わるので大迷惑、上手でない私は列の端の方でチョロチョロ。長年ほぼ同じ所に通っているので顔なじみも増え、釣り道具やエサなどのアドバイスもいただいています。しかし数年前までは1シーズンに30匹を越えたこともありましたが、3年前からマスの回帰はゼロ。釣り人のマナー悪化により、あちこちで釣り場規制が広がり、サケも減少していることから、さながら戦場と化しており、昨年はサケも私はゼロでした。口直しにヤマベ釣りやマツタケ採りに山河に行くのですが、ここ2〜3年、全国のクマ騒動と同じくヒグマの目撃が多発し、回数も減少し、自家用飯寿司のヤマベもやっとです。それでも、9月初めには200個ほどの桃の収穫、10月にはリンゴ、洋ナシなどの楽しい収穫ができます。

〜冬〜

◆我が村は早ければ11月末から雪が積もり始めます。地面が白くなると忙しい季節になります。退職した年の秋に、罠猟の免許を取得しました。ヒグマも対象動物ですがとてもとても恐ろしくて、エゾシカだけを獲っています。最初のころは大先輩の師匠に色々と指導を受け、「雪が降ってから罠を掛けること」ときつく言われました。期間の定め(9月15日〜4月15日)のある狩猟免許の他、地元住民だけに許可される「有害駆除許可」を得ているので、1年中捕獲は可能ですが、近年はクマも学習して、ワナに掛かったシカを食べて、食べ残しを近くに埋めていることがあるということです。そこへ人間がワナの確認に行くと、自分のエサを取りにきたと、クマの攻撃に遭うのです。ですからクマの足跡が雪の上に残る積雪後でなければ、銃を持たない罠師は罠を掛けてはいけないということです。最初のころは雪の上の足跡から設置位置を決め、知恵比べをしながら、楽しんでいました。しかし罠猟はかかったシカの苦痛抑止と、キツネによる被害防止のため、マイナス17℃の気温や、吹雪の日でもほぼ毎日見回りは欠かせませんので、意外と大変です。

◆近年は、冬季間、銃が撃てない夜間に沢山のシカが酪農家のサイレージサイロに集まり、その被害が膨大なことから依頼を受けて捕獲をしています。捕獲したシカは死亡しているものを除き、剥皮、解体、小バラシまでして、知友人、地域の希望者に配って喜んでもらっています。捕獲は融雪が進む3月中旬まで行いますが、大きな雄の場合罠のワイヤーを引きちぎって逃げるなど、罠のメンテナンスも都度するため、1頭かかっただけでも、ほぼ1日かかります。でも狩猟本能か、緊張の中にも楽しみもあり、運動不足になりがちな冬季間過激なほどの運動になっています。

◆近年このサイクルはほとんど変わりなく、去年より良い作物の収穫を、より美しい花を、より多くの釣果を、狩猟成果をと日々楽しんでいます。本村は古い地層なため、温泉も出ませんが地震もなく、分水嶺の上流のため河床が低く水害の心配もありませんが、森林が多いため、春の乾燥期における山火事だけが唯一の心配な災害です。私ももう後期高齢者ですが、健康であれば色々楽しみを見つけることができる村です。9月4〜6日の「地平線モリズム」に沢山の皆様のお越しをお待ちしております。[高畑秀美 西興部村元村長]

モリズムロゴ


西興部村、どこに泊まる?

■地平線会議 in 北海道「地平線モリズム」が9月4日(金)〜6日(日)に開催される西興部村は、人口934人(5月現在)の小さな村。6月に入ってもストーブは欠かせず、9月も朝夕は冷えることがあるそうです。

◆モリズム期間の宿泊は地平線会議でまとめて手配します。人数把握のため、参加ご希望の方はモリズム特設ページから氏名と連絡先の登録をお願いします。開催が近づきましたら個別に連絡します。

▼ホテル森夢(リム) 村の中心にある村唯一のホテル。シングル10室、ツイン・ダブル各4室など最大46名が泊まれる。村唯一のレストランも併設。サウナ付きの大浴場には村の人たちも昼間から通う。夜にはスナックに通じる秘密の扉が開く。「モリズム」メイン会場のホール、西興部村図書館も同じ建物にあります。

▼GA.KOPPER(ガコッパー) 森夢から約5km離れた上興部地区にあるゲストハウス。旧上興部中学校をリノベーションした施設は『北海道建築 北の大地に根づく建物と暮らし』にも取り上げられた。ドミトリーを中心に、浅野和さんのセンスに満ちたユニークな部屋が並ぶ。最大17名+シュラフ持ち込みで音楽室に雑魚寝。

▼ログハウス 村役場の隣が森林公園、その中にある2棟のバンガロー。主にスタッフと学生さんが泊まる予定にしています。

▼キャンプ場 村役場とログハウスのあいだにある芝生の広場がキャンプ場。水場、炊事場完備。テント持参の方はぜひ。

モリズムQR
https://www.chiheisen.net/morism/


ねこまんが

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地平線ポストから

マヨルカ島のトレイル ケルンを追って

■焦っていた。30分経っても、トレイルの入口が見つからない。事前の情報でこれだと信じた歩道の案内は、取ってつけたように「この先」と書き直され、その「先」がどこかわからない。さっきバイクのおじさんに「こっちではないよ」と言われた道に半信半疑で入っていくと、5分も歩かないうちに監視カメラ付きの鉄柵に出くわした。おかしい。この道のはずなんだけど。スペインまで来て、山歩きのスタートでつまづいている。

◆スペインは地中海に浮かぶバレアレス諸島の中でいちばん大きなマヨルカ島。バルセロナでの仕事ついでに昨夜着いて、深夜のスーパーで食糧を買い出し、けさ7時の始発バスでヴァルデモッサという山間の小さな村にやってきた。標高1064mのプッジ・デステックスには、ここから自然歩道のGR-221をたどるのが早い。のだが、村はずれにあるその入口がわからないときた。結局、谷の対岸に新しい道を見つけた。さっきの監視カメラは、自然歩道が私有地を抜けるのに業を煮やした土地所有者が設けたものだった。

◆どんなに険しい道でも、この道で間違いないと思えばどんどん歩ける。GR-221は海が見える素晴らしい道。しかしプッジ・デステックスには何の案内もない分かれ道へ。荒れた道を登っていくと石積みの壁がたちはだかった。ハシゴが架けられているが、その上には「私有地につき立入禁止」をマジックで二重線引いて「→テックス」と書き直された看板。ここにも登山道と土地所有者との攻防が。

◆すぐ上にピークが見えるのに、今度はそこに登るルートがわからない。道がないのではなく、ヤギが作ったケモノ道が無数にあって、どれが正解なのかわからないのだ。迷いながら登ること15分。ピークに人がいる!とよく見ればヤギの親子が、まだ来ないのかと私を見下ろしていた。トレイルに入ってから2時間、やっと島全体が見渡せるプッジ・デステックスのピークに着いた。

◆マヨルカ島最高峰1445mのプッジ・マジョーはピークにスペイン海軍のレーダー基地があって登頂できないのだそうだ。そのプッジ・マジョーを眺めながら、さらにトレイルをソーイェルへたどった。私有地?のトレイルは案内標識代わりのケルンが頼り。倒木は当たり前、崩れた箇所をケモノ道使って巻いてまた戻って……。意外にタフだった。観光地ソーイェルまでさらに4時間かかった。帰りの路線バスの車窓から峨々たる山並みにカメラを向ける観光客に、さっきまであそこにいたんたぞ、と威張りたくなった。

◆あすからバルセロナに戻って仕事。そしてスペイン時間水曜日の未明には江本さんの原稿をレイアウトして、車谷くんに渡す仕事が待っている。[落合大祐

★この地平線通信のレイアウトはほぼ新垣亜美さんが担当してくれているが、印刷当日の提稿となるフロントとあとがき原稿だけは落合君が(世界のどこにいようと)受けてレイアウトした上、印刷担当の車谷建太さんに送ってくれる。[E

「地平線モリズム西興部」に向けた1万円カンパのお礼とお願い

■2026年9月4〜6日に予定している北海道西興部村での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを進めています。少しでも多くの青年たちが集う場所にしたい、というのが私たちの願いです。おかげさまで、6月までに目標額の100万円は達成しました。皆さんの熱い心に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。カンパは引き続き受け付けておりますのでどうかご協力ください。[江本嘉伸

1万円カンパ協力者

(2026年6月14日現在)

曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口) 神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵 江口浩寿・由利子 河野典子 古山里美 河田真智子 野元啓一 野元伊津子 成川隆顕 神長幹雄 中嶋敦子 桃井和馬 光菅修(2口) 田島裕志 河村安彦  五十嵐宥樹 笠原初菜 恩田真砂美 滝野沢優子 西牧結華 谷口尚武

★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
 みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸

ヒマラヤキャンプは終了するも「現役登山家」であり続けたい

■延滞しまくっていた通信費を振り込んで江本さんに連絡をしたら、近況を書いてほしいとメッセージをいただき久しぶりに書かせていただきます。思えば私の報告会は、甲斐駒ヶ岳七丈小屋の運営を引き継ぐ直前の2017年3月24日に開催されました。恩田真砂美さんが書いてくれた報告会レポートを改めて読み返し、10年前には全く想像すらしていなかったいまの状況を少しご報告させていただきます。

◆2017年といえば、メンバーが集まらなくてヒマラヤキャンプを見送った年でもありました。七丈小屋の開始が目の前に迫っていて、それどころではない状況だっただけに、少しほっとしたのを覚えています。そのヒマラヤキャンプも昨年2025年をもって、プロジェクトの終了を宣言しました。ピオレドールを受賞して、そのおかげで多数の企業からスポンサードしてもらうようになりました。これまでのように山に行くために働いてお金を稼ぐ必要がなくなり、いわゆるプロとして活動ができるようになりました。登山家と名乗り、講演やイベントなど、様々な場に出させていただきました。

◆大きな登山の結果を残し続ける能力がない私にとって、ヒマラヤキャンプは登山家と名乗ることを許された唯一のプロジェクトだったと思っています。そして登山家と名乗るからには、最低でも毎年のように、ヒマラヤなどで挑戦し続ける活動をしなければならないと思っていました。

◆現役で登山という行為に挑戦し続けること。これが登山家と名乗るために自分自身に課した課題でした。残念ながらコロナの間はどこにも行けなかったけど、その間を除くと去年まではヒマラヤキャンプで(不完全なときもあったけど)、毎年未踏峰に向かい続けました。でももう時間的にもモチベーション的にも持続できなくなったと悟り、今年から元登山家と名乗るようになりました。これからはいち愛好者として、引き続き山に登りたいと思っています。

◆ヒマラヤキャンプを始めたころは時間にも余裕があって、毎月のように合宿を行いメンバーと一緒に山に行く時間も多くありました。思えば一番楽しかった時期かもしれません。しかし個人のプロジェクトとして3回実施して思ったことは、どうすればこれを存続できるかということでした。公益に資するプロジェクトであるという自負もあったので、公益社団法人でもある日本山岳会に打診をしてみました。

◆ちょうど創立120周年記念事業が立ち上がろうとしていたので、そのプロジェクトのひとつとして受け入れてもらいました。組織ゆえに独断で進められないことも多々ありましたが、組織のおかげでできたことのほうが多く感謝しています。しかし組織のプロジェクトだとしても、結局は当事者意識のある個人が動くしかないことには変わりありませんでした。毎年1か月半は日本を離れる。毎年数百万円単位の資金を調達する。ヒマラヤの未踏峰に初海外登山を含む若手複数人とともに行き、一定の結果を出す。複数年続ける(私は10年間歯を食いしばりました)。この苦行とも言えるプロジェクトを、誰かに引き継ぐことはできないと思いました。

◆いま一番力を入れていることは山の保全です。七丈小屋の運営を始めて、自分が当事者になったことで、今までまったく気付いていなかったことに気付きました。日本では登山道だけでなく身近な里山から奥山に至るまで、地域の山岳会や地元住民、山小屋関係者などによる手弁当の努力に深く支えられてきましたが、その仕組みが大きな転換期を迎えています。

◆実質的に日本の豊かな自然環境と歩く文化を維持してきた機能は、地域の過疎化や会員の高齢化、担い手不足が深刻化し、これまで培われてきた保全技術の継承や、定期的な活動の継続自体が年々難しくなっています。激甚化する気象災害や利用の多様化による登山道の荒廃は、従来の仕組みでは対応しきれない大規模なものも増えています。

◆これからはボランティアや善意に依存する仕組みから脱却し、日本のあらゆる地域に山の保全ができる団体を作り、官民がしっかり連携して持続的な体制へと移行する必要があると考えています。甲斐駒ヶ岳で気付いてこの地域で実践してきたことを広げていきます。これまでにない困難な未踏峰への挑戦だと感じています。[花谷泰広


—— 連   載 ——
モンゴル音だより2025

第5回 目の前の人が、大事に思えるかな

花田麿公まろひと 

■7歳過ぎまで育った東京世田谷の北沢の小さな家の裏は、ミツカン社長の広大な中埜邸と、満洲皇帝の木造3階建ての東京のご別邸でした。満洲皇帝のご別邸は、主としてご一族の子弟が学習院に通学するためにあったと聞いています。当時、皇帝の甥御さんの桂(ケイ)さん、というご夫妻が住んでおられました。お二人のほかに満洲人のお手伝いさんがおられました。6歳のとき、5歳の弟と子供だけ二人、午後のひととき2階のサロンに続くベランダに招かれ、紅茶とお菓子を振る舞われ、満洲のお話を伺いました。地平線に沈む太陽が大きいとか、門から玄関まで馬車で1中国里あるとか話されていました。黒ずくめのお手伝いさんが初め怖かったのですが、それ以来親しくなり、ときどき満洲料理をもってきてくださいました。私がモンゴル語を専攻したのもこの幼児経験と関係しているかもしれません。そして瀋陽勤務はこの経験とオーバーラップして、とても味わい深いものとなり、心に残る勤務地になりました。

◆私の初めての在外勤務は香港でした。香港勤務は私から外国人に対する偏見と食物のえり好みをすっかりぬぐい去ってくれました。総領事館には、香港系(及び広州系)の他に、台湾系、満洲系の中国人の方々が勤務していました。後に官房長官になられた加藤紘一さんも同時期に勤務していて、満洲族の中国人を招き、意見交換会を開いたりなどしてました。その中で、人種によってこちらの態度を変える必要がないことを、知らず知らずに学びました。

◆岡田晃総領事に総領事館の設宴のメニューの作成担当をおおせつかりました。これには参りました。その店の料理人に侮られないようなメニューを選ぶことが大事と言われました。店の作ってくるメニューに店に侮られないよう一部駄目だしを、何とか加えました。やがて中国料理にある程度の自信をもつことができました。大部分の店のメニューを言えるようになっていました。共通して命名の原則があることも学びました。

◆岡田総領事から言われました。「お前さんも諸先輩に負けなくなったね、それが中国を知ることだよ。食べることで彼らの本質に近づくのだよ」と。さらに「北京料理、上海料理、広東料理と違うように、人も違うのだよ」と。そして、「いま君は中国人は日本人より貧しそうにしていても、侮れないと尊敬の眼で見ているはずだ」と付け加えました。

◆マレーシアのペナンの総領事館に勤務したときは、総領事の発案で、われわれ、日本人とマレー人、中国人(福建系)、インド人の館員が、総領事だろうとだれだろうと平等に食費を負担して、香港系の用務員が作った昼食を、その人も加えて一緒に食べました。四方山話をしながら昼食をとり、楽しかった思い出があります。マレーシアではブンミンプトラといって、マレー人、インド人、中国人が平等との原則がありましたが、背景にはそれがあったので各人種の館員が昼食に集うことができました。外交の場面でも、個人的な交際でも、なにかのイベントや集まりでも多くの人種が同時にいて、みなベタに普通で、えっ!みな人種違う?とあらためて気がつく場面に多く遭遇してきました。

◆ケンブリジのキングズカレジに特別研究員として招かれました。キャロライン・ハンフリー博士の指揮するプロジェクトがあり、私はそれに参加していました。その他にもモンゴルに関するいくつかのプロジェクトがあり、その内の1つは私名義でマッカーサー・ファウンデーションから資金を得ていたそうです。ハンフリープロジェクトでは、英国人を除いて、参加者のほとんど全部の人の国籍が違いました。私の他、モンゴル人、内モンゴル人、ウイグル人がいて、チェコスロバキア人、フランス人などヨーロッパ各国人が参加していました。彼らとは昼夜一緒なんてことがざらで、食べたり飲んだり、議論したりしていました。そして国籍や人種を意識したことがありませんでした。

◆モンゴルではゾド(雪害)のとき、アマルジャルガル首相と夜間吹雪のなか220キロの道のりを行き、私の車は遭難しかかりつつ南ゴビにたどりつき、幼稚園の机を並べてその上で寝ました。翌日ある牧民家屋で首相を囲み、目を怒らせた牧民満杯の中で、彼らに混じり私もおりました。気がつけば外国人は私1人、緊迫した牧民と総理の直のやりとりに、モンゴル式の新たな民主主義を感じましたし、そのとき、私自身が牧民でした。

◆外語大学というところでは、人種を学問的に意識することが多く、民族、人種など学問上どう分類し、どう理解するかを学び、民族から民俗学にいく人と、民族から植民地解放、民族闘争にいく人もいました。しかし、私は学問上理解する「民族」とは離れて、いつも、日本人とはなんだろうと思います。外国で東洋人に会うと、日本人についてはおおよそ見当がつきます。しかし、電車に乗って、ほとんどが日本人なのに、次の電車ではまったく別の日本人に出会います。相撲の観戦でも、人好きのミチコはあの人名古屋場所ではいつもあの席にいるとか、観客席に多くの関心を払っています。観客席の他はいつも違う人ですが、日本人がほとんど。私には日本人とはと確定できないのに、他の民族とはおおよそ区別がつきます。そんな不確かな存在の日本人として他の民族を差別するなどとてもできません。

◆そこで私の拙い経験から、外国人に関して、ある一国について言えば、3種類に分けて考えています。1つはその国の政府、2つめは観光客や就労、移民で入国してくる人々、3つめはその国に住んでいる一般の人と分けて、いまこの方が言っているのは類型2の話だなとか考えながら話を聞いています。はっきり言って、累計3の人たちは私たちと異なることない普通の人々ですので、それに難癖つける人はよほどの方と心得たほうがよさそうです。

◆私を含めた一般の人が特別な感情を持つようになるのは、大部分は類型2の例でしょう。これは先方さんが言葉ができない、こちらの慣習を知らないところからでてくる話なのでは、と思いますがいかがでしょう。受け入れ側が思いをめぐらせれば済む話もおおいのでしょうね。その国の政府となると話は別です。外交、国際政治は別のゲームと考えた方がよさそうです。だってトランプ大統領など、自分のスキャンダルが問題となるたびに、外国を侵略して平気で人殺ししているのですから。一般だったら単なる強盗でしょう?

◆そしてどうしても外国人排斥の根底にあるものに触れないわけにはいきませんよね。政府は偉そうにしていても、所詮強権者の感情とか、国民、メディアのあおりとかで動いているように見えませんか。戦時中、米軍機に絨毯爆撃(絨毯のように面で、1つ残さず消滅させるとの意味)といってあからさまに、米軍が地上から日本人を抹殺するとの発言がありましたし、広島、長崎の原爆投下による日本人大量虐殺も、ルーズベルトとチャーチルの間で、ドイツ人には使用できないが、「日本人にはいいか」として投下されました。

◆今、移民排斥とか、ミネソタ州の例を見ても、残念ながら根底にどうしても人種差別が見え隠れしています。外国人やよそ者を差別するのは、その人たちについての理解不足と、寛容の精神の欠如にあるように見えますがどうでしょう。

◆私にとり、国籍、人種は関係なく、外国人を含む、今、目の前にいる人がとても大事なのですが、どうでしょうそう思いませんか。翻って考えれば、すべてのホモサピエンスは1人の母からでているのですから、差別はおかしいです。ブライアン・サイクスさんの『イヴの七人の娘たち』によればそのようです。放逐した移民とトランプ大統領もDNAでつながっているそうです。どうも骨肉の争いのようですね。


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。

村田憲明 花谷泰広(10000円 近況は今号に) 野口英雄(5000円 通信費2年分+カンパ 毎月たのしく読ませてもらっています。日本からの移住者も多いカナダに行った時、現地図書館の書物交換コーナーに地平線通信おいておきました。現地の日本人が読んでくれたらと思いました) 西牧結華(毎月の通信から皆さんの活動に対するエネルギーを感じ、自分の日常の外にある世界を意識させてもらえることをありがたいなと思っています。せっかく北海道にいるので、西興部村での地平線会議に参加できるよう、調整してみますね) 三笠民子(4000円 送金が遅れて申し訳ありません) 菊地由美子 古山里美 ささき眞(6000円 長らくありがとうございました。今月号にて〆お願いします)


奇跡的なつながりが招いてくれた民博「ドルポ展」

■ただいまです! ネパールから帰りました! 今回の旅は、以前からのご縁とリクエストがあり、映画『ホピの予言』の監督である故・宮田雪(きよし)氏の奥様であり、長年にわたりネイティブ・アメリカンの先住民族の伝統派ホピのメッセージを伝え続けておられる辰巳玲子さんを、アッパームスタン(ネパール・ヒマラヤの奥地)へご案内しました。

◆国立民族学博物館での企画展開催期間中ではありましたが、以前から温めていた計画でもあり、実は私自身、以前からホピ族とチベットには、何か深いところで共通する精神性があると感じていました。ホピの文化が大切にしてきた「マザーアースとの調和」や「精神的な道」という世界観は、かつて河口慧海も歩き、チベット仏教文化が色濃く残る赤い土と山があり、東洋のグランドキャニオンのような場所があるアッパームスタンの精神風土と深く共鳴しているように感じたのです。

◆これまでヒマラヤの大地で感じてきたことの中に、ホピの思想と重なるものが数多くあって、今回の旅は、私にとっても「ホピ×チベット」というテーマを改めて深く感じる再確認する旅となりました。玲子さんは、この夏、ホピの大地へと向かわれます。これからどのように展開していくのか注目しています。

◆そして、帰国後の今、国立民族学博物館で企画展「ドルポ——西ネパール高地のチベット世界」も、いよいよ終盤を迎えています。振り返れば、この展示は私にとって一つの集大成だったように思います。私がこの企画を民族学博物館へ持ち込んだ時、担当してくださった南真木人先生(国立民族学博物館名誉教授)は翌年の退官を控えておられました。もし南先生がいなければ、この展示は実現しませんでした。

◆そして、企画が決まったあと、実に驚いたことがありました。1968年のドルポ調査の記録『ヒマラヤ旅日記——ネパール ポンモ村滞在記』田村善次郎(編著)、西部ネパール民族文化調査隊(著)が出版されました。正直、それまで私はその存在を知りませんでした。私の関心はアッパードルポに向いており、この記録はロードルポのポンモ村のフィールドワーク。しかし、「ドルポを表現するなら、この記録を知らないのはダメだろう」。そんなふうに教えられた気がしました。そして、こちらの調査隊の記録も加わり今回の企画はさらに深いものとなりました。

◆最初の1か月間は、さまざまなテーマで講演会が行われました。私は毎回登壇させていただき、ドルポの文化や旅の話だけではなく、民博だからこそ語ることのできる背景についてお話ししました。企画展にもかかわらず、毎回定員を超える参加者が集まり、会場がホールに変更されるほどでした。

◆さらに幸運だったのは、その時代を知る方々に直接お会いできたことでした。1958年にドルポを撮影した映画『秘境ヒマラヤ』に関わられた飯島茂先生(文化人類学者、東京工業大学名誉教授)にもお会いすることができました。92歳になられた今もお元気で、「ドルポへ行ったことが、その後の人生を変えるほど面白かった」と笑顔で話される姿が、とても印象に残っています。

◆そして『ヒマラヤ旅日記』の記録者である西山昭宣先生(早稲田大学卒業、早大アジア学会所属、元・日本観光文化研究所所員、元・都立高校教論)。講演会後の食事では、お腹が痛くなるほど笑わせていただきました。記録の向こう側にいた人たちと実際に出会えたことは、今回の展示の大きな財産です。

◆そこに、さらに一つの奇跡がありました。映画『秘境ヒマラヤ』(1958年、川喜田二郎隊長率いる「西北ネパール学術探検隊」に同行した、大森栄カメラマンによる長編記録)の撮影地でもあるツァルカ村出身の方が、名古屋に住んでおられたのです。Facebookを通じて知り合い、上映会の日に会場へ来てくださいました。そして映画を見ながら、「映っているのは私の祖父です。動いている姿を見るのは初めてです」と涙を流されたのです。その涙を見たとき、私は強く思いました。いつかこの映画をツァルカ村へ運びたいと。

◆1900年、河口慧海が歩いた世界。1958年、『秘境ヒマラヤ』が映した世界。1968年、『ヒマラヤ旅日記』が記録した世界。そして現代、私が2007年から出会ったドルポ。それぞれの時代の記録や収集品、写真が響き合い、100年以上にわたるドルポの時間が一つの空間に重なっていたことに深い感動を覚えました。

◆私は研究者ではありません。ただドルポが好きで通い続けてきた一人の旅人です。しかし、単なる記録では終わらせてはいけない、伝えていかなければならないものだと強く感じて、10年後このように形になりほんとに感無量です。そして、今月の地平線報告会に江本さんから声をかけていただきました。地平線通信で今回の企画展の記録が刻めること、嬉しい限りです。どうぞよろしくお願いいたします。[稲葉香

ごくごく私的な民博ドルポ展同行記

■先月14日夕刻、国立民族学博物館の通用口前に立ったとき、私はちょっとばかり不安を感じていた。ネパールの稲葉香さんから連絡を受けた南真木人名誉教授が待っている。江本さんに、そう聞いていたからだ。エラい先生の案内はありがたいけど、緊張しやしないか。その上、かなり遅刻した。でも、心配はまったくの杞憂だった。南先生は気さくな楽しい人柄で、挨拶もそこそこに、共通の知己や友人の多い江本さんとあっという間に打ち解けた。そして、あれこれの話題で早くも盛り上がっている。二人から少し離れて展示を眺めていた私は、なにか疑問が湧くたびにチャンスを窺い、会話の、一瞬の切れ目に割り込んで先生に質問した。

◆会場は、過去2回の調査隊(西北ネパール学術探検隊〈1958年〉・西部ネパール民族文化調査隊〈1967〜68年〉)が持ち帰った日用品や道具類の展示と、稲葉さんの写真で構成されている。その写真を見つめていたら、40年ばかり前、アンナプルナ山麓を歩いたときの記憶が甦った。一周コースの北側はドルポに似た乾燥冷涼なチベット世界で、薪が建物や塀の上に高く積まれているのもそっくりだ。ただ、あちらは温暖湿潤な森林地帯に近いためか、立派な割り木が多かった。こちらドルポは、ねじ曲がった貧弱な灌木の薪ばかり。南先生によると材木は貴重だそうで、そんなところにも「チベット世界ド真ん中」が感じられた。

◆展示品と写真の間には、数十年の時間的開きがある。けれど大きなギャップは見られず、いまも変わらないドルポの、昔ながらの暮らしを彷彿させられる。その写真の中に、下界からはるばる運ばれた、ちょっと意外なものが写っていた。炊事場の圧力鍋と、宗教儀式の席に置かれたステンレス魔法瓶だ。寒冷な高地だから、ともに、平地にも増して重宝する生活必需品に違いない。ただ、ツァンパが主食の土地で、何を圧力鍋で調理するのだろう。干し肉? ダルバート? 豆はノズルに詰まりやすく、一撃で安全弁を吹っ飛ばす。下界では、その穴に詰め物をして使い続け、ついには爆発させるのが常だった。変形した鍋を直せる鍛冶屋はドルポにいるのか。それとも、皆さん修理はご自分で? 鍋1コから想像が広がった。

◆楽しい時間ほど短い。午後5時、閉館の時刻がやってきた。後ろ髪を引かれつつ出口に向かっていると、ドルポ出身の女性が日本で暮らしていて、ボディービルに凝ってるそうです、のビックリな話が南先生から。でも、考えてみれば変化に驚く方が間違っている。ああ、展示品ではわからない最新ドルポ情報も、もっと訊ねるべきだった。悔やんだけれど後の祭りだ。園内をモノレール駅に向かう途中、江本さんの「ソフトクリーム食べよう」の提案で売店に立ち寄った。そして純白の渦巻きを舐め舐め、「研究者直々の案内だなんて、ほんとに贅沢な時間でしたね」と改めて濃密なひとときを振り返った。いまの日本でこんなマン・ツー・マンの持てなしを受けられるのは、他に皇族だけだろう。

◆今回の民博ゆきが決まったのは、訪問日の僅か5日前だった。岸本実千代さん経由で中島ねこさんにも声を掛け、その夜の地平線関西迎賓館「テンカラ」での宴が実現。お開きのあと、ねこさんが押さえてくれた近場の宿まで、岸本夫妻ともども、4人で江本さんを送っていった。そして翌朝、これも実千代さんの橋渡しで、沖縄帰りの疲れと超多忙の中を時間を空けてくれたシール・エミコさん、スティーブとの、感動的な再会が叶った。その後は地下鉄で新大阪駅へ。江本さんとの別れ際、改札上の時計を見上げたら、昨日ここで出迎えたのは1時間後。なんと、まだ1日経っていなかった。特に誰かが仕切る訳でもなく、相談は簡単なメールのやりとりだけ。あとは各々の判断で動いたけれど、すべてが阿吽の呼吸でトントン拍子に進行した。こうして、怒濤の23時間はトラブルなく終了。私のミッションも無事完了した。

■どうでもいいエピローグ:1984年の長旅に出るちょっと前、アサヒグラフだったか週刊朝日だったかで、ドルポの記事を見た。その神秘的なフォクスムド湖の写真に、「ここに行ってみたい!」と思った。が、カトマンズで聞くと、5000mの峠をいくつも超えて何週間も歩かねばならず、現地は食料も乏しいから、雪で閉じ込められた場合に備え、一冬分の食べ物を持参する必要があると言う。とても一介の旅行者がフラッとゆける場所ではなかった。結局、登山経験ナシでも歩けるアンナプルナを周遊。最高点のトロン・ラ(峠)に立ち、前方の白く輝くダウラギリ山群に、「ああ、あの裏側がドルポか」と感慨に浸った。民博訪問の10日ほど後、江本さんから、「原稿の参考に」と月刊みんぱくや稲葉さんの写真集が送られてきた。その中のマップをじっくり眺めてハッとした。ドルポはダウラギリの背後ではなく、北西側に広がっている。が〜ん。私はあらぬ方角に向かって思いを馳せていた。あの場に戻れたら言ってやりたい。「おいっ、ドルポはそっちじゃない。45度、右だ!」と。[24年前の市内地図と街なかの電磁波で時々方向音痴になるコンパスを手に、2日間、アヤしい道先案内人を務めた 久島弘

テンカラ食堂から広がった世界

■先日はテンカラにお越しいただきありがとうございました。テンカラ食堂は12年前縁もゆかりもない大阪市北区本庄という場所で始まりました。飲食業の経験はほとんどなかったから、日々「必死のパッチ(大阪弁で死に物ぐるい)」でしたが、小さな時間をみつけては近所の行ったことのない店に足を運んでいました。そんな中にギャラリー「iTohen」があって、助けられました。iTohenで壁に飾られた絵の中に立つと気が変わるというか、呼吸が深くなって自分に戻れた。iTohenのオーナのーが閉店を考えているとの話がでたとき、「閉店されては困るな」という人たちが集まって話す場をもちました。20人くらいいたでしょうか。これだという案が出たわけではないのですが、集まったことで何かがひらかれ、iTohenは前より少し風通しの良い場になり、集まったうちの数名でiTohenを使った企画をするようになりました。

◆つながりのない場所ではじめたテンカラでしたが、iTohenだけでなく他の個人営業の店もつながって、「つながりの中で働き、まなび、遊ぶ」ことができてるのが豊かだなと思います。このほかに「テンカラがまぐち」というのもやっていて、無尽講のようにお金の循環の実験をしてます。信頼のおけるメンバーで各人1円以上から融資し、これぞと思う人やプロジェクトに貸したり、カンパしたりします。返済の計画、責任はメンバー全員が負います。

◆お知らせしたいのは「Over50アイドル」のことです。50歳以上を条件とするアイドルのオーディションがあったのです。アイドルになりたかったわけではないのですが、なにせ50歳以上しか受けられない! やったことないことをやってみよう!と大学の先生をしている友人と受けました。けっこう必死で課題曲を練習して臨みましたが、3回戦落ち。気持ちよく散って帰阪したら、翌日メールがきて、敗者の中から別チームを作ることになりましたと。オーディションに受かると何があるのかというと、2か月先の横浜ぴあアリーナの舞台です。その間2回の合宿練習、オリジナル曲のレコーディング、リハーサル2回。衣装の調達。普通に働いてたらかなり厳しいスケジュール。

◆で、腹をくくって「やる」を選びました! それが2年前のこと。私たちは1期で、現在は5期160名くらいになってます。先週6月10日、出羽三山神社の奉納でこのアイドルたちを中心に17名で舞いました。いっしょにアイドルとなった友人は出羽三山神社で修業した山伏でもあり、「いつか奉納したい」という夢がかないました。各地に散らばるメンバーはZoomや近い人どうしで練習を重ね、前日初めて全員が集結。

◆本殿でのリハーサルはできないので本番前はかなり緊張しましたが、始まれば場の力を借りてそれぞれが自分の中に入ってゆき、そしてそれは結果的にぜんぶをひとつにしてゆきました。奉納のあとはみんな満たされ、解放されていました。「私たちが日本の元気の源!いつからでも、何歳からでも挑戦できる」を旗印にさまざまに活動してます。[井倉里枝

文章を書く喜びから新聞記者に

■北大環境科学院修士2年の杉田友華です。5月の報告者が笠原初菜さんだと伺い、通信が届くのを楽しみにしていました。初菜さんは、昨年北海道に来たばかりの私をちえん荘に招いてくださったり、ちえん新聞やお手紙を送ってくださったりと、本当に親切にしていただいています。昨年夏、山川さんの畑で焚き火を囲みながらお話をした際には、私の拙い話にも真摯に耳を傾け、「わかる、わかる」と頷きながら一緒に悩み、考え、数冊の本を貸してくれました。そんな誠実さが魅力である初菜さんの報告会レポートを読み、私が研究対象者としている南極人の関係性に「ちえん荘」が重なるような感覚を覚えました。

◆南極関係者の飲み会に参加させてもらい話を聞いていると、多様な背景を持つ隊員たちを統合する共通の価値観、連帯意識のような、南極での越冬を経験した者たちだけが有する「内なる世界」があるように思います。彼らは定期的に集まり、深夜まで飲み、笑い、家族のように越冬生活を懐かしく語り合っているのです。研究テーマとする南極の祝祭「ミッドウィンター祭」においても、極地探検時代から現代にいたるまで高い熱量をもって継続されている背景には、単なる娯楽を超えた集団的な必然性が存在するように思えてなりません。このミッドウィンター祭という象徴的な場を窓口としながら、南極観測隊という特異なコミュニティの深い内面世界と社会的な背景を構造的に解明する。ひいては、日本社会の縮図としての観測隊の分析にとどまらず、ちえん荘が提示してくれた「同じ釜の飯を食う」人と人との関係性について考える、そのようなことがしてみたくなったところです。北大に来て研究も紆余曲折していますが、こんなところに行き着きました。

◆さて、私事ですが報告です。先日就職活動を終え、私の生まれ故郷である秋田県の新聞社から内定をいただきました。記者として働くことへの憧れは、読売記者だった江本さんをはじめ道新に勤めていた初菜さんの姿から影響を受けたことは確かです。そして何より、この地平線通信で報告会レポートや感想を書く機会をいただいたことで、文章を書く楽しさ、感想を受け取る喜びを味わえたことが大きかったと思っています。素晴らしい経験をさせていただき、ありがとうございました。

◆9月の地平線モリズム、私も三日間参加します。久しぶりに地平線の皆さんにお会いできること、楽しみにしています。私の研究テーマは「祭り」ですので、西興部でその「祭り」を擬似体験できるかも?と期待しています。[北海道大学環境科学院修士課程2年 杉田友華

北の町にも春の訪れが

■レイキャビクにも春がやってきました。5月の終わりごろから衣を脱いだように街は色づき、地中で眠っていた花々が一斉に芽吹きました。はじめにチューリップや水仙が花を咲かせ、プリムラ、ソーレイといった多年草が次に続き、このあとは樹木の花が咲き始めるそうです。私は5月に春学期を終え、3か月ほどの夏季休業に入りました。レイキャビクを中心とした都市部の庭造りについて調査するべく、日々個人宅の庭を案内してもらい、インタビューを録っています。市民のガーデナーから聞くお話と、私の日常の風景が日々混ざり合い、見える景色が変わってきたような気がしています。アイスランドでの生活も10か月目となりますが、冬から春にかけて、日差しと大地の呼吸がゆっくりと戻ってくるような季節を経験できたことは、何にも代えがたい喜びです。

◆とはいえ、あわただしい日々です。引き続きアルバイトをしているのですが、夏季休業中は労働時間の制限がないため、現在はフルタイムで週に40時間働いています。アイスランドの観光はハイシーズンに入りつつあり、羽振りのいい人が増えました。値札とにらみ合って買い物をする私や友人も、そうした観光客も隣り合わせで生きている。ただそうなんだと思い至りました。

◆そういえば、地平線通信に前回投稿させていただいた際、バイト先のブランケットの生産地について触れましたが、その後紡績工場の見学に行った際、リトアニアで作られているものだとわかりました。アイスランドで生産された毛糸を輸出して、商品を輸入して販売する。購入された後も商品が旅を続けることを考えると、地球一周分くらいは移動しているのでしょうか。それはアイスランドのブランケット、と言ってもよいのだろうか、と時折考えながら働く日々です。この点、その土地らしさとはなんだろうかという疑問にもつながります。しばらくは庭、バイト、言語、時々登山の夏になりそうです。[レイキャビク 安平ゆう

地味な探索の先に、遊びが生まれる

■ 去年の5月、知人から紹介された東京・目黒の小さなギャラリーを予約し、1年後に個展を開くことに決めた。私の肩書きは一応イラストレーターだが、自分では絵描きのはしくれ、くらいがしっくりくると思っている。そんなどうでもいいことばかり言って、行動力に欠ける自分が嫌いだった。とにかく会場を押さえ、締切に向けて制作することを自分に課した。

◆とうとう30年ぶりに油絵の道具を引っ張り出し、封印を解いた。鏡を立て、自画像の制作に取りかかる。ところが描き始めてすぐに、「あれ? どうするんだっけ」とうろたえた。絵に夢中だった17歳のころの自分を召喚し、指示を仰ぐ。本気を出せばまたいつでも描けるなんて、まったくのカン違いだった。デッサンも構図もいい加減で、ムキになって描けば描くほど画面は泥沼と化した。結局、何時間もかけた自画像は気に入らず、裏返したままとなった。カチンコチンに固まって蓋が開かない絵の具のチューブと同様、能力が確実に劣化してる現実を受け入れた。

◆身の回りのものをあれこれ描いていたある日、壁に画鋲で留めておいた娘のシュウのスケッチを見て、ブンショウが「シュウがいる」と言った。「なんか、雰囲気が出てる」。ラクガキ程度に思っていたけれど、そう言われてみると、悪くないな、と思った。和田城志さん的に言うと、たぶんその絵は小手先ではなく、ハートで描いていたのだろう。

◆日々、目には入っているのに、ちゃんと見ていないものたち。動物や植物を描いていると、初めてその成り立ちに目がいき、対象物の中を旅している気分になる。今回発見したのは、地味な探索の先に、遊びが生まれる、ということだ。線や色の中で二次的な自然が生まれ、化学反応が起き、その世界に引き込まれて勝手に腕が動く。ドキドキするような時間が流れて、元の世界に戻ったあと、今のはもしかして「自由」というものだったのかな?と思う。

◆ちょうど子供たちの人生に節目が訪れて、家で一人になる時間が増えた。空の巣症候群になりそうな危機だったが、忙しくて感傷に浸ってる場合ではなかった。久しぶりに自分の時間に没入できたことも嬉しかったし、地平線の家族のような人たちや、古い友人、様々な人たちに絵を見てもらえて幸せだった。せっかく生身のボディを持って生まれたのだから、これから先もAIにはできないことをやりたい、と思っている。[服部小雪

小雪まんが

まんが 服部小雪 《画像をクリックすると拡大表示します》


先月号の発送請負人

■地平線通信565号の発送作業は5月20日、いつもの榎町地域センターで行いました。先月号はいつもよりページ数が多めの24ページだったのですが、車谷印刷局長が早めに作業を開始してくれたおかげで、いつもより早く終えることができました。終了後は最近見つけた近くのインドレストラン「ナマステ ヒマール」でおいしいカレーをいただきました。みなさんおつかれさまでした。

 車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 久島弘 中嶋敦子 落合大祐 長岡のり子 新垣亜美 武田力 江本嘉伸


演劇公演のおしらせ

5月の地平線会議でお会いした貴家蓉子さんが、3歳の息子さんと一緒に6月の演劇ユニット「ポランの広場」にご出演くださることになりました。せっかくの機会なので、公演の案内を載せていただけますと幸いです。[柏木志津子

演劇ユニット「ポランの広場」第14回公演
●どんぐりと山猫
  作 宮沢賢治
  脚本・演出 柏木志津子
●ポランの部屋 ——本日のお客さまは天野まりさんです——
  作・演出 柏木志津子

公演場所 北とぴあペガサスホール
日時 6月26日 18時/27日 12時 15時 18時/28日 12時 15時
ご予約、お問い合わせ poran.0921@gmail.com


今月の窓

「地平線モリズム」に触れて思い出す「ギサロ」の儀礼

市岡康子 

■1966年から1990年までテレビ放送したドキュメンタリー番組『すばらしい世界旅行』(日本テレビ系)は、NHKも含めて日本で初めての本格的な海外取材番組で、カラーテレビの登場とともに「日立」の提供で日本全国にネット放送された画期的なシリーズだった。シリーズを企画しプロデューサーとして制作を推進したのは、テレビ界最初のドキュメンタリー番組『ノンフィクション劇場』を世に送った牛山純一氏(故人)で、海外情報としては『兼高かほる世界の旅』と同時期に始まったが、後者が兼高の個性と人脈を前面に出したものだったのに対し、それまでテレビでは紹介されたことのない「世界の民族」を現地に長期滞在して記録することに徹した、テレビ番組の枠を超えた画期的なシリーズで、今でいう民族誌フィルムの先駆けだった。20世紀後半は民族固有の文化が失われてゆく時期だが、ぎりぎりのタイミングで間に合ったといえよう。

◆このシリーズでの私の代表作はと訊かれたら、民族学者マリノフスキーの著書『西太平洋の遠洋航海者』で名高い、パプアニューギニアのトロブリアンド諸島を中心に南方の海域に散らばる島々の間で行われる「KULA(クラ)」だが、それにもまして心に残るのがニューギニア山中の森林地帯で出会った儀礼「ギサロ」だ。この儀礼をおこなうのはカルリ族、彼らはニューギニア島の中心部に東西に連なる大パプア高原の東部にそびえるボサビ山の北斜面に住み、そこには小型のチャーター機セスナでしか近づけない。

◆「ギサロ」についてはやはり書物によって知った。制作の参考書探しをしていたシドニーの書店で、セールの山の中で見つけたペーパーバック『The Sorrow of the Lonely and the Burning of the Dancers』(Edward S Schieffelin著)がそれだ。「ギサロ」とはカルリ語で歌一般をさすが、同時に称賛を受けた歌い手にやけどを負わすという苛烈な儀礼もさす。ホテルに帰って序論を読んだだけで深く引き込まれすぐにでも飛んでゆきたい衝動にかられた。しかしそこはチャーター機でしか近づけない山の奥で、山上での車移動はできず徒歩だけ。宿泊施設はない。カルリ語と英語の通訳も期待できない。ただ一つ幸先が良かったのは、カルリ族など3言語グループからなる選挙区から選出されている州議会議員ハリ・カレ氏に会ったことだ。ボサビ地域では60年代からアメリカのプロテスタント宣教団が布教をはじめ、その信者になると伝統的な儀礼に参加することは禁じられた。だから70年代には儀礼はほとんど行われなかったようだ。ハリ・カレ氏は伝統の継承・復活に熱心で、映像による記録が残るならとギサロの組織を約束してくれた。

◆1年後、低地の2か所で撮影を終え、いよいよボサビ山に乗り込む。6人乗りのセスナ機で、樹海の中の1本のリボンに見えるエア・ストリップ(滑走路)に降り立つ。すぐ傍まで森が迫り、傍らにカルリ族に特徴的なロングハウスがある。

◆このロングハウスの住民が別のロングハウスの住民を招いた。招かれた方は4人の歌手と唱和するコーラスメンバーから成るグループだ。歌手たちは顔と体を赤い粘土とヤシの殻を焼いた炭で隈取り、胸に貝のペンダントを下げ、頭にはヒクイドリの羽を飾り、肩からは若い棕櫚の葉のマントを流す。

◆4人の歌手はロングハウスの中央を貫く長いホールの両端に二組になって向き合い、順番に立って訪問先、つまりこのロングハウスの住民になじみ深い地名や、そこに立つ大木、鳥などの名を織り込んだ歌を順番に歌い、コーラスが唱和する。「ギサロ」とはカルリ語で「歌」を意味し、同時にこの儀礼のことでもある。第1の歌手は次のように歌った。「私はアナの滝を立ち去る。亡き父よ、私はひもじい。アナの滝は、なにひとつ分けてくれないから。もう姉妹もいない。だからここには留まれない。亡き姉よ、私はひもじい。タビヤブロのボロの木は、なにもくれないから。今は母もいない。だから他所へ行こう」

◆歌に織り込まれた地名や樹木の名は、迎えた側の住民の心に訴えかけ、感情を呼び覚まし、ついには亡き母を思って涙を流す青年が出た。歌手は称賛されるが、代償として泣いた青年は木蝋のたいまつで歌手を焼くことができる。「涙とやけどの交換」、クラにおける貝の首飾りと腕輪の交換のような様々な形の互酬性で特徴的なニューギニアの文化の中でも特異なケースだと思う。

イラスト-2

 イラスト ねこ


あとがき

■新聞記者を仕事としていたので世界のあちこちから原稿を送ったことはあるが、落合大祐君の身軽な、世界を股にかけた活躍ぶりは唖然茫然だ。目下スペインのバルセロナにいて今月の「フロント原稿」も、この「あとがき」も私から原稿を受け取るや一瞬でレイアウトして東京の車谷建太君にメール送信する。

◆建太君は近くのコンビニでプリントアウトし、いつもの榎町地域センターで600部を印刷。集まってくる「発送請負人」たちと刷り上がった紙の束から“製本”し、透明なビニール封筒に封入する作業を黙々とやる。

◆武田力君も沖縄はじめ各地を移動しながら地平線通信の仕事をこなしてくれている。メインの編集作業をこなしている新垣亜美さんも本業のかたわら、おもに休日のすべてをこの通信にあててくれている。地平線通信は毎号、不思議な力の集積である。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

あるくことは生きること

  • 2026年6月27日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「土地と人に惚れ込んじゃった」と言うのは写真家/美容師/ドルポ探求家の稲葉香さん(53)。ネパール北西のチベット文化圏ドルポに'03年から通い続けています。難病とも言われるリューマチを10代の頃から患っていますが、ネパールに行くと痛みを忘れます。「現地まで8日間歩くけど、出発地に立つと痛みが半減し、着くとゼロになる。私にとって高地を歩くのは生の証みたいなもの」

「同じ病を得ながら明治期に経典を求めて同地に潜入した僧侶、河口慧海の足跡を辿る旅が原点でした。ドルポに詳しい登山家の故・大西保氏を師と仰ぎ、'19年には現地で越冬。「ドルポの人たちには、人間と自然の境界がないみたい。一緒に暮らしていると彼らがだんだんケモノのように見えてきて、自分もそうなっていくのが嬉しい。天国が本当にあるなら、ここじゃないかと思う」。

今年3/12〜6/16には、大阪の国立民族学博物館で、念願のドルポ企画展を実現しました。「国内にドルポ研究者が少ない中、関わってきた方々のことを民博に刻みたくて」。

今月は香さんに、ドルポの尽きせぬ魅力を語って頂きます。


地平線通信 566号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2026年6月17日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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