96年9月の地平線通信
拡大神戸集会特大号
(全12ページ)…その1

※容量が大きいので、4つのファイルに分かれています。



■9月の地平線通信・202号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
  ※題字は201となっていますが、これは誤植で、ほんとうは202号です。

地平線通信202表紙平線会議の第201回の報告会(96年8月24日)を神戸でやると聞いて、地元出身の私が誘われたのはその2週間前の土曜日の午後だった。四谷駅構内のビヤガーデンで「大震災とサバイバル」というテーマがその日のうちに決定したのは、集会慣れした地平線会議ならではである。

「神戸地平線」は、いくつかのことを考えさせられた。地平線会議の地方版とも受け取れるし、地平線会議の地方巡業とも取れる。どちらにしても、エンターテイメント化した地平線会議の新たな脱皮が始まったのだろうと、軽く考えて同行を決めた。これまで東京という場で、18年間行ってきた地平線会議の神戸巡業は、日常から非日常化への移動である。つまり地平線会議の小さな旅でもある。それも初めての旅であった。昔流にいえば、数え年で20歳を迎えようとする「20前の旅立ち」だった。

戸の小さな旅から東京へ帰る途中で、「地平線の点と線」というのを考えていた。初めて地平線会議に参加した神戸の人(大阪、堺からきた人もいた)は、確かに戸惑っていた。「会議」という名に尻込みしていた人もいた。地平線流の話題に乗り切れない地平線初心者も多い。20年近く走り続けている地平線会議という列車に乗り移るタイミングを計るかのように小走りで話の輪に乗り込む人、隣のひとの手を借りて乗り移る人……など、さまざまな地平線会議の新しい乗客をまのあたりにした。

この地平線列車・神戸行きの車掌的役割を務めていた丸山純氏が、時折、列車を減速させ、乗客が乗り遅れないように落ちこぼれそうな乗客を拾い集めていた姿に、彼の「DAS」という地平線のデジタル化への情熱の一端を知ったように思えた。当初、鈍行で走り出した地平線会議は、いつしか時間がたつとともに加速を加え、気がつけば急行、特急並のスピードで走っていることを乗客は気付いていない。走り去る窓の向こうの景色を見ながら列車のスピードを知り、通り過ぎてしまった駅を置き忘れてきたことを神戸地平線で私なりに感じていた。そして過ぎ去った風景を「DAS」でプレイバックして見ていた。

はいえ、地平線はモニターの画面だけでは間に合わないことをそれぞれが知っている。旅は時間と空間という間の出会いだという。そして、もうひとつの間があることを神戸地平線は認識させてくれた。それが人間との出会いである。「彼とはパソコンを通じて何十回も会いましたが、顔を合わすのは今日が初めてです」という挨拶を会場で何度も聞いた。まるで大草原を走る地平線号にヘリから乗り移ったひとのように、彼にはスピードの違和感がない。10数年来の仲間のようにすぐさま打ち解けている。これまで「点」の地平線会議を、彼らが「線」の地平線会議に展開し始めているような気がした。

「神戸地平線とサバイバルは、いいテーマやったけど。そんな大義名分なんかどうでもええんです。とにかくここまで来てくれはったことがうれしい」。

一晩飲み明かした呑み屋の女将のようなセリフを背中に浴びせて送り出してくれた神戸の人がいた。この言葉を真に受けてまた、どこか地方へ出掛けるのもいいか。そんな気分で真夜中の高速を飛ばして東京に朝帰りした。[森田靖郎]




拡大神戸集会・総括

 神戸で一度集まってみたいというごく小規模な集まりを考えていたのが、いつのまにか加速度をつけて拡大して行き、ついには記念すべき第201回地平線報告会になってしまった。

 今回の神戸集会は様々な点に於いて画期的な事だったと今になって感じられる。

 まず第一は東京を離れて報告会が開かれたこと。「いつも東京で開かれているので行けなかったが、こうして神戸で開いてもらったおかげで参加することが出来た」という感想に象徴されるように、数は多くなくても全国には報告会に参加したくても出来ないでいる多くの地平線会議のメンバーがいることが実際に解った。

 第二に新しい協力者が次々に登場した。言い出した私が転勤で神戸を離れてしまい、準備に事欠くようになったがそれを補うように、神戸周辺に住む平本・高下・山本・今里・近藤・宇都木・小堀といった人たちがそれぞれ協力を申し出てくれ、新しい仲間が増えていった。

 第三に都合70名の参加を得た。事前案内の不十分さや東京との人口の割合から考えるとこの人数は非常に良く集まったと思う。特に午前11時から夕方の5時までだけでも長丁場なのに2次会・3次会・4次会と深夜12時になるまで本当に多くの人が残って話がはずんでいた事は特筆ものである。それだけ参加者に楽しんでもらえたと思っている。

 最後に、準備に当たっては地平線HARAPPAのネットワークを最大限に利用した。準備段階で私が神戸に2度と東京に1度行って打合わせた他は、ほとんどがパソコン通信を利用しての打合せであった。時間や地理的要因を乗り越えて一つのイベントをやり遂げた事は今後に重要な方向性を示せたと思う。

 いずれにしても神戸での報告会はすでに終わり、202回目の報告会がもう迫って来ている。神戸は成功だったと思っているがそれはたった一回のことであり、改めて200回を続けてきた地平線会議のパワーの持続に感心している。

 講演を快く引き受けて頂いた永瀬さんと福井さん、Part1で語ってくれた小堀さん、三木さん、榊原さん、久島さん、西牟田さん、今里さん、森田さん、東京から駆けつけてくれた皆さん、そして神戸報告会に参加してくれた皆さんにお礼を申し上げて総括を終わります。[拡大神戸集会・実行委員長:岸本佳則]



拡大神戸集会・報告会

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 ●Part 1【585日間の震災体験から学ぶもの】
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 第201回の地平線報告会は、神戸集会を熱く希望していた岸本実行委員長の開会の挨拶で始まった。震災後の神戸で集まりたいという思いが語られ、神戸集会を準備をしてきた一人として、私は実現した喜びをかみしめていた。引き続き岸本さんの司会でPart1が始まる。

 Part1は「585日間の震災体験から学ぶもの」と題して、震災に関係した体験者達の報告である。大学探検部以来、今でも洞窟探検をしている小堀洋さんの報告が始まる。高架道からバスが半分落ちかけた所の近くで被災したが、被災直後は部屋の中で倒れたものもたくさんあるが、あのようなひどい災害になっているとは思わなかったという。

 アパートの2階から下りる階段からは外へ出られないとわかるが、まだ暗い中、行動するのは得策ではないと、明るくなるまで部屋の中でじっとしている冷静さにうなってしまう。事前にザイルで窓から降りたと聞いていたので、さっと下りて次の行動に移ったかと想像していたのでなおさらであった。現在も洞窟探検をしている経験がそのまま生かされたと言っていた。

 次は元探検部で神戸市の区役所に勤めている三木宏隆さんの体験が語られた。自宅も被害があり両親も引きうけた上、被害調査に自転車であっちこっちを走り回る。市役所の職員として被害実態を把握し救援を行い、復興計画実施をしなければならないという義務感を持って、仕事をした様子が伺えた。街の規模も役所の規模も大きい所で地震被災対策マニュアルが申し訳程度にしかなかったことが、円滑な対応ができなかった要因であるというところに、小堀さんの行動との対比が見られたように思う。

 続いて地平線会議のメンバーでボランティアに参加した榊原英一さん、久島弘さん、西牟田靖さんから、それぞれのボランティア活動報告があった。全半壊の家屋を解体し、廃材として再利用するボランティアは、結局それら廃材で再生された小屋は、被災者には見てくれが悪いということで受け入れられなかったという。被災者が本当に必用とするものは何かということが分からないことは、救援食料がある地域で相当大量に捨てられた例も含めて語られた。このような情報伝達を組織的にもれが少なくするにはどうしたらいいかという課題は、きちんと調査されていて対策が練られているのだろうか。震災後に神戸以外の自治体も非常時の対応という点で、学ぶべきことが多いのではないかと考えさせられた。

 廃材に関してはベトナム人が屋根板の裏に断熱材を貼って作る「ベトナム住宅」が効果抜群で、快適に夏場もしのげたという面白い話もあった。被災者には人ばかりではなく、犬や猫などのペットもいる。ペット専用の避難所もあり、環境になじめずストレスのたまる犬もいるそうである。犬好きの多い地平線会議でこんな事を言うと怒られるかもしれないが、犬もひ弱になったものだ。人を助けるのが犬ではないか。

 被災者でありながら、1ヶ月後に内戦で廃虚同然と化したクロアチアの街に出かけた今里好美さんは、国際的里親制度で自分の子供たちの様子が心配で出かけていった。元気そうな子供達を見て安心したが、心の傷は深いものが有るだろうと心配していた。彼らの親たちは、住み慣れた街を捨てられないらしい。神戸の仮設住宅で今も暮らす人々は同様の思いで神戸に居るのか、それともそれぞれ違った理由があるのだろうか。

 最後は森田靖郎さんで、震災に乗じて、中国から密航者を大量に神戸に上陸させた国際的犯罪の報告であった。混乱に乗じて悪いことを紛らわせるという、火事場泥棒的な卑劣な手段で金を稼いでいるという許し難い行為が、いくつかの証拠となることを交えて語られた。非常時でもスキを見せられない世の中になったものだと感じた。

 Part1の全体を通して感じたことは、まず復興を早くしなければいけないこと。そして、非常時の対応では、備えが無ければ対応が後手後手となって、問題解決が相当長引いてしまうということである。言い換えれば、普段の備えが非常に重要になってくるということである。洞窟内での非常時に対応出来るように、普段からイメージトレーニングをしているという小堀さんが、冷静に対応したということに象徴される。[北川文夫]



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 ●Part 2【極限を日常として暮らした2人】
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 パート2は、“極限を日常として暮らした2人の報告”と題し、永瀬忠志さんと福井慶則さんのお二人から報告してもらった。

■永瀬忠志さん

 開演前に、アフリカ大陸横断の記録『サハラてくてく記』にサインをお願いした時、永瀬さんは少し照れくさそうな顔で応じてくれた。サインには“一歩ずつ一歩ずつ”という言葉が書き添えられていたが、永瀬さんの旅は正にその言葉どおりだったようだ。「話をするのは苦手です」と言う永瀬さんは、スライドを交えて自分の旅を振り返ってくれた。

 高校3年の夏休みに初めて自転車で泊まりがけの旅に出て、これを繰り返せば日本一周ができると思った永瀬さんは、大学1年の夏に海岸線沿いを自転車で日本一周する。次の夏は前年の旅で走らなかった日本の中央部を徒歩で縦断することにした。このときに荷物をリヤカーで運ぶという永瀬さんのスタイルができた。大学卒業後は就職せずに、そのままオーストラリア大陸徒歩横断の旅に出た。26歳の時、念願のアフリカへ旅立つ。赤道地帯を横断し、さらにサハラ砂漠を縦断する計画だったが、赤道地帯を横断した後でリヤカーを盗まれ断念する。このとき永瀬さんは無念さと共に「もう歩かなくていい。これで日本に帰れる」と思ったと言う。帰国後は教員になり安定した生活が待っていたが、33歳の時にアフリカ大陸縦横断に再挑戦する。それも前回の旅の続きではなく、アフリカの第一歩からやり直すことにした。そして、ついにパリまでの11,100kmを歩き通す。

 永瀬さんのとつとつとした語り口には温かさとユーモアがあり、なんとも言えない心地良さで聴衆を魅きつけた。サハラ砂漠の柔らかな砂と格闘している姿はとても印象的だった。片方の車輪の下に板を敷き、板の長さ分だけリヤカーを引く。板を移動し、また板の長さ分だけリヤカーを引く…。1回で2mも進まない気の遠くなるような作業を延々と続ける。その姿は自らに苦行を強いているようにも思えたが、その苦しさと闘いながら「ここで立ち止まったら動かない。何も解決しない」と旅を続ける永瀬さんの底力に圧倒された。「旅の途上ではもうこれが最後と思うが、旅をしていなければ出会えないものがある。その出会いが歩き続ける原動力です」という永瀬さんは、いつか南極大陸を歩いてみたいと語り報告を終えた。

■福井慶則(ユースフ)さん

 福井さんは18歳の時に、サハラ砂漠横断に挑戦し砂漠に逝った上温湯隆さんの旅に刺激され、ラクダによるサハラ砂漠の完全横断をしようとその準備を始めた。大学ではアラビア語を学び、休みを利用して何度かサハラに出かけた。大学卒業後、福井さんはまずラクダの乗り方と砂漠での生活を修得しようと、遊牧民トゥアレグ族の村に入る。遊牧民と共に1年間生活した福井さんは、サハラ砂漠の横断という当初の目的よりもサハラの自然と遊牧民(トゥアレグ族)の生活により魅力を感じるようになった。ラクダでしか行けない場所を訪れたりはしたが、結局サハラ砂漠の横断をせずに帰国する。その後も遊牧民として暮らしたりNGOのスタッフあるいはODAの職員としてサハラ通いを続け、サハラ・サヘル地域での生活はのべ14年にも及んでいる。ついにはそこに住む女性と結婚しすっかり遊牧民となってしまった福井さんだが、久しぶりに日本に戻り大学院でアフリカの牧畜民の研究をしている。

 福井さんの紹介の時に「彼は日本人じゃない。遊牧民だ」と言う人がいるとのことだったが、一見すると冷静で知的な研究者という感じを受ける。遊牧民の社会は口コミのネットワーク社会だという福井さんは電子ネットワークにも堪能で、現在はインターネットでアフリカの情報を発信したり情報交換をしている。「援助や開発によって昔の遊牧民の社会が変化してしまい、もう元には戻れない」と言う福井さんが、研究者あるいはひとりの遊牧民としてこれからどんな活動をしていくのか、次の報告を楽しみに待ちたいと思った。[飯野昭司]



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 ●Part 3【会場縦断車座リレートーク】
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 パート3では椅子が円形に並べ替えられ、まず本の紹介から始まった。『地平線の旅人たち』、永瀬さんの『サハラてくてく記』などとともに、私も少し協力した『地平線データブック』が紹介された。パソコン通信を使って全国の協力者たちが入力してできた、ある意味では時代の先端を行く本なのだが、その最先端の本を机の上に山積みし、机をたたきながらバナナのたたき売りのように紹介していたのが楽しかった。次にインターネットの地平線ホームページがビデオで紹介され、そのビデオと同じ画面がノートパソコン→携帯電話→インターネット接続という最先端技術でデモされていた。パート2で講演したサハラ・サヘルの行動者福井さんも、インターネットを使って現地と情報を交換しているという。今後、インターネットは、使いようによっては行動者達のツール、武器になるのではと感じさせられた。

 次に報告者、スタッフ、行動者たちの紹介と近況報告などが行なわれた。特に永瀬さんの結婚についての江本さんのつっこみが楽しかった。永瀬さんの「納豆とキュウリとご飯の消費量が一人のときよりも増えるが、なんとかやっていける」という話に、なぜかホッとさせられた。そして最後に参加者全員が自己紹介をし、報告会についての感想を語った。昨日、オートバイ世界一周から帰ってきたばかりの行動者もこの報告会にかけつけていた。自己紹介が進むにつれ、実は以前に海外で会っていたとか、一緒のグループに所属して旅行していたとか、探検部時代にどこかで会っていたとか、さまざまな興味深いつながりが明らかになった。また行動者たちがお料理を作って食べる会という、ほほえましいネットワークの人たちも参加していた。

 行動者ならではの世界各地での出会い、行動に関心をいだく者同士の見えない糸によるつながり、パソコン通信・インターネットなどの電子の糸によるつながり、これらが地平線会議をさらに大きなネットワークに発展させるのではないかと感じた。[奥田一晶]



◆地平線オークション

商品番号
生産地
品名
落札価格
落札者
1
インドネシア

バリの神様を書いた布(3枚セット)

[1,000ルピー硬貨(銅貨周りを銀貨が包んでいる結構カッコいいもの)がおまけ]

1000円
山田高司
2
ウクライナ 刺繍入りショールと子供用ブラウス
3000円
平本規子/美帆
3
ハンガリー 木製人形型パプリカ入れ
2000円
山本智浩
4
イリアンジャヤ コテカ(ペニスケース)
5000円
黒郷多津子
5
インドネシア アンボン島の何だか判らない缶詰
200円
三木宏隆
6
イギリス 写真集「The spirit of scotland」
1503円
杉田晴美
7
パキスタン プリント正絹クッションカバー
1500円
高下由美子
8
パキスタン 真鍮細工の一輪挿し
2000円
今里好美
9
パキスタン ビーズ刺繍の手織りポーチ
500円
尾田光浩→平本美帆
10
アフガニスタン ラピスラズリのミニ宝石箱
4200円
花岡正明
 [商品提供者:花岡+丸山+北川]


【その2へ続く】



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