1999年8月の地平線通信



■8月の地平線通信・237号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信237表紙●地平線会議は、なぜ20年も続いたのか。地平線の人々は地平線に何も期待してないでしょ。旅人というのは、対価を求めない。長いこと旅してると、求めても何も得られないってことが分かってきて、過大な期待をしないようになるからね。

◆最初の頃は、「地平線の旅行会社を作れば」とか、「出版をしよう」って話もあったんだよ。一人一人は凄い本を書いている人がいっぱいいるから、あれの一部分だけでも「頂戴」って貰ってきてシリーズにしたら、20年ありゃ相当溜まったと思う。DASくらいの労力をかけて本当に売れるものを作ろうとすれば、作れただろうね。結局、個人レベルでやった事しか、地平線には残ってない。でも、人を巻き込んでないから続いてきたんだよ。

◆組織って、維持しようとすると必ず壊れるんです。だから、維持しようとしなかったところがいいんです。最初に地平線を起こした向後、宮本たちの思いとは違うかもしれないけど、地平線が続いてきた理由の一つは、そこにあると思う。

◆「情報を下さい」とか「何かいい事があるんじゃないか」と期待して地平線に来る人たちは、結構いるよ。テレビ局とか雑誌とかも、「何か面白いことないですか?」ってね。「そんなの自分で探せ」って何回か言うと、来なくなるけど。これだけ情報が多いと、選択肢も多いように見える。でも、これってアンケートの回答と同じで、用意された答え以外の意見は存在しないことになる。ほんとはそれ以外の選択肢、というか開拓肢がいっぱいあるんだけどね。今の子たちも、与えれられた中のどれを選ぶか、ということばっかり学校でやってるから、「もっと面白いこと探せよ」って言ったって、それが出来なくなってる。

◆高校生を男女3人、インドに連れていって置いてきちゃった事あるんだよ。受験生だったんだけど、12月に出て、ぼくは学校があるから(註:三輪さんは高校の先生)1月の9日頃に一度全員を集合させて、「帰るか」って聞いたら「帰らない」って。3月にはみんな戻ってきたけど、その時は試験は終わって、もう卒業式だった。それでも面白いこと言ってたね。「仕事がないんだったら、自分で作りゃいいじゃん」て。さすがだったね〜。で、ちゃんと今は立派な仕事やってる。カアちゃん(親御さん)には、「他の兄弟は大学に行って安定した生活をしているのに、あの子は‥‥」て、今も言われるけどね。ここで「こんな旅もあるのか」って学んで出ていった人が、何年後かに戻って「ああ、まだやってるのか」って、地平線がそういう通過地点になるといいと思う。

◆一番変わらなかった人間が、地平線の中心部に残っているのかも知れない。森田や惠谷みたいにスタンスをどんどん移していける人たちは飛び出していった。行動者は地平線に残らなかった。でも、行動者集団になってしまったら、連続的に何か続けることは出来ない。核になる、元に戻ってこられる場所があるのはいいことだよ。報告会と通信しかないけど‥‥。

◆最近、ジャーニーランを新たにやってんだけど、極意は「だらしなさ」ですよ。歩いちゃいけないとか何時に着こうとか考えない。だって、目的地までまだ先が長いと思うとさ、途中のこんなとこで一所懸命やれないんだよ、疲れちゃうじゃない。すると、どんどんダラシなくなっていく。それに耐えられるようになったとき一流だな、って事が分かったよ。

◆20年前って、確か成田もなかったよね。国が消えたり出来たりしたし、世の中はやっぱり変化してんだよ。変わってないのは北朝鮮と地平線くらい。結論はそこだね、江本さんは怒るだろうけど。(竹早高校にて三輪主彦放談。聞き手兼まとめ役:久島)



1999.7.24 報告会レポート
その1
植村直己冒険館

●7月24日、兵庫県城崎郡日高町の植村直己冒険館で、地平線会議20周年記念集会が行われた。報告会の会場となった冒険館は、兵庫県北部の神鍋高原(関西では有名なリゾート地)のふもとに位置し、野球のグラウンドやトラック競技場を有する広大な植村直己記念スポーツ公園の一角にある。この日は、朝から良く晴れたとても暑い日だった。

●報告会の始まるまでの間に、この冒険館の展示や記録映画を見てみた。余すところなく吊るされた山道具、冒険絵本と称する電動飛び出し紙芝居、上面と側面に覗き穴が開いている子供ほどの大きさの箱(中に何が見えるかは来てのお楽しみ)、30kgの背負子を背負う体験コーナー、北極行のキャンプサイトを再現した部屋等、見学者を飽きさせない工夫が感じられる。

●展示室の隣室にある映像ホールが、今回の報告会の会場になった。ミニシアター風で、正面のスクリーンに対面してベンチシートが4列。さらにその両脇の床に座ったり、折り畳みの椅子をいくつか出して座り、スクリーンに映ったスライドやビデオプロジェクターの映像を見ながら報告者の話を聞いた。

●開場時刻の15時になったのに、司会進行役の三輪さんがまだ到着しない。そこで、急遽前回の神戸集会のリーダーだった岸本さんが開催の挨拶をして、20周年記念集会が始まった。主なスケジュールは次のようなものだった。

 15:10 … 開会あいさつ(岸本佳則)
 15:15 … 冒険館正木徹館長あいさつ
 15:25〜17:05 … ワイド報告とスライド(江本嘉伸)
 17:15〜18:00 … 参加者全員の自己紹介
 18:00〜19:30 … 夕食を兼ねた交流会
 19:30〜19:45 … 植村直己冒険賞の紹介(正木館長)
 19:45〜21:00 … 未発表ビデオ上映(解説・江本)
          地平線的インターネット活用(北川文夫)    
 21:00〜 … 未発表ビデオ上映(解説・江本)
   〜02:00頃 交流会

●報告会は、江本さんのチベットとモンゴルの話で、スライドとビデオを中心に進められた。江本さんのワイド報告については別の稿にて詳しく紹介する。

●そのあとのチベットの未発表ビデオで、15分の記録映画が3本。音声はなく、映像だけなので、江本さんが解説してくれた。中国の支配のおよぶ前のチベットの姿が映し出されていて、特に現在消滅しているという貴族達の儀式や踊りの様子が興味深かった。

●東京を飛び出した報告会は2年前の神戸集会に続き2回目だが、今回は都会から離れた場所での開催だけに、人が集まるのか少し心配だった。神戸集会では、事前に新聞に記事が出たこともあり、地平線会議を知らない人達も数多くやってきが、今回はそのような宣伝めいたものが無かったにもかかわらず、40余名の参加者が集まった。その多くは地平線通信等で知ってやってきた人達であり、前回の神戸集会に参加したメンバーも多かった。

●関西以外からは、広島、岡山、鳥取、高知、東京等から来ていて、中には「ニューヨークから来ました」なんて人もいた。

●今回は、冒険館の方々にとてもお世話になった。会場のセッテイングからビデオプロジェクターの操作、プログラムや名簿の準備と参加者への配布等も協力して戴いた上に、夜遅くまで館を利用することを許していただいた。また、参加者全員に冒険館のカラーガイド(館の案内と展示品の目録)と第1回目と第2回目の植村直己冒険賞の選考冊子を配布していただいた。

●残念ながら僕は先に帰ってしまったので、このあとの報告は、北川さんにお願いします。(平本達彦)



1999.7.24 報告会レポート
その2
冒険の瞬間!

●今回の報告会は、東京のアジア会館を離れ、兵庫県北部の山の中にやってきた。故植村直己氏の生まれ育った町、日高町にある植村直己冒険館である。きれいに手入れされた公園の一角に、コンクリートで作ったクレバスがある。幅2m弱、長さ200m程、深いところで8mぐらいの亀裂。このクレバスを降りていくと、その下にイグルー(雪洞)をイメージした展示室と今回報告会のメイン会場になった映像ホールに出る。

●植村氏は、1964年(昭和39年)に大学を卒業し、船でアメリカに渡った。江本さんの話は、その昭和39年という時代の説明から始まる。今では想像もできないが、この年の4月に海外渡航が「自由化」されて、初めて普通の日本人が自由に海外に出られるようになったのだそうだ。終戦後およそ20年たっている。そしてまた、その年には東京オリンピックが開催された。日本人が世界にあふれ出ていく瞬間であったのだろうと思う。たしか江本さん自身も大学を卒業してジャーナリズムの世界に関わるようになったのが、同じ昭和39年だったはずである。

●それから6年後の昭和45年、植村氏はエベレストに登頂した最初の日本人の一人となる。スライドを映しながら、話はエベレスト登山隊に移っていった。エベレストという山の名前は、元インド測量局長の名前をとったもの。その命名以来、この山の名前の混乱は続いていて、地元では「サガルマータ」と呼び、さらにチベット側では「チョモランマ」という名前もあって、合計3つの呼び名があるそうだ。たしかに「チョモランマ」は、僕の記憶では昭和50年代後半にならないと耳にはいってこなかったし、それを初めて新聞記事のタイトルで読んだ時には、どこの山に登ったんだろうと不思議に思ったものだ。

●スライドは、登山からチベットの風景へ続いた。「チベットは山と遊牧というイメージを持っているかもしれないが、農業も重要な産業だ」と説明いただいたが、ラサの町もポタラ宮も五体投地の人々もほこりっぽい赤茶けたものばかりで、頭の中は納得いかない。スクリーンにこれと示された緑の風景も、頭の中のチベットのイメージと同期しないのだ。ところが、話がモンゴルに及ぶや、現実のスクリーンよりも早く頭の中に遊牧草原が広がった。「刷り込まれている概念を変えよう」と江本さんは語ったが、凡人には難しいですね。

●話は一気に北極へ飛ぶ。植村直己の知り合いだと言ったらロシア人が飛行機に乗せてくれたとか、日課のジョギングを北極点でもしていたとか、楽しい話が続く。犬ぞりの犬達との交流の話の合間に「地平線犬倶楽部」なる怪しげ(?)な言葉も飛び出していた。(僕の隣に座っていた久島さんは地平線犬倶楽部のTシャツを着ていた!)そういえば、この報告会が始まる直前に、会場で植村直己の犬ぞり行の記録映画を見せていただいた。冒険館の展示品も北極点犬ぞり単独行以降のものがほとんどで、その中には犬ぞりも展示してある。

●ぼうっとそんなことを考えているとスクリーンは再び緑に変わり、江本さんがにやりと笑う。「これは何の風景でしょう」。何とスペースシャトルの打上げの連続写真だった。あっと驚いているうちに江本さんのお話は終了していた。(平本達彦)



1999.7.24〜25 報告会レポート
その3
二次会と写真展

◆休憩兼夕食会は車での参加者の協力で、おにぎりやお弁当、つまみ、ビールとウィスキーの買出しに行っていただいた。飲める人はかなりのペースで飲んでしまったので、後半はミニシアターの長椅子や床に寝転ぶなどして報告を聞いた。こんなスタイルもなかなかいけるものだ。

◆後半の最初は私の報告で、「地平線的インターネット活用」と題し、95年から続いている「地平線Web(ホームページ)」に掲げられた「祝!第237回地平線報告会、兵庫県日高町で開催!」というメッセージを紹介することから始まった。

◆話の中心は、この地平線Webの登場ランキングである。トータルで263ページに達したWebのページから、人物別、行動別、出版した書籍の数別、出版社別で、それぞれ10位程度まで発表。酔った参加者にさぞかし受けるだろうと思ったのだが、それほどでもなかった。ランキング1位は、それぞれ、長野亮之介、登山、賀曽利隆、山と溪谷社であった。

◆続いて、江本さん秘蔵のビデオ2本の上演である。一つは「1939年のチベット―ドイツ隊の記録」でもう一つは「モンゴル遊牧草原」である。どちらも、調査隊がなかなか入れない時代のもので、貴重な映像であろう。それぞれ人々の生活が映し出され、現在の状況と比べてみてもおもしろい。

◆上映後の江本さんの解説が、アルコールに加速されておもしろかった。モンゴルとチベットのつながりは、ダライラマの「ダライ」がモンゴル語であるということや、チベットの生き仏は、宗派争いに勝つために各宗派が競って目をつけた子供の英才教育をすることから始まったことなどが、印象に残ってる。

◆夜も遅くなり、冒険館の中を片付け、芝生での野外談話会に移る。アルコールとつまみはしっかりと持ち出してきた。テント持参者はテントを張り、ごろ寝組は芝生の上に直接寝転んだ。個人的な旅の体験があちこちでいろいろと語られた。三輪さんの星空観測のおまけもついた。私は、星空を眺めながらいつのまにか芝生の上で寝ていた。

◆翌朝、三輪さんは皆が寝てるうちにさっさと走り出して行ってしまった。どうやら、瀬戸内海まで走っていくらしい。

●準備の良い人の朝食のおすそ分けをいただいた後、日高町センターに移動し、江本さんの解説付きで写真展「地平線発」を鑑賞する。

◆惠谷治さんの中東の政治的紛争写真を前に、惠谷は最近の冒険は政治的冒険者が少なすぎると言っている。江本さん自身が写したモンゴル家族の写真では、家族のつながりが大切なんだ、と力説。吉田敏浩は従軍しながら「森の回廊」を書いた。期待している一人だ。戸高雅史さんは今もヒマラヤに行っているが、彼の山に対する考え方はどこか宗教がかったところがある。丸山純はチトラルのカラーシャ族について世界に通じる調査をしている。森田靖郎さんは、中国の反政府活動や蛇頭の調査を精力的に行っている……。

◆夕方までに東京に戻るという江本さんが会場の1面を残して帰られたので,久島さんと熊沢さんが、関野さんや長倉さん、白根さんらの写真を解説してくれた。久島さんが撮った街頭歯医者の写真で、座ってるほうが患者なんですという解説に、一同びっくり。熊沢さんは、コルシカ島の解説とともに自分の写真を語ってくれた。

◆江本さんも言っていたが、写真の裏にあるもの(時代的、政治的、経済的、文化的背景など)が分かると、その写真の意味がより明確になり、重要度が理解できる。解説を聞きながらそれぞれの写真を鑑賞できたことを喜ぶとともに、写真を撮った方々、写真展を企画して下さった方々、日高町の皆さんに感謝したいと思います。(北川文夫)



報告会 in 日高町


from Hyogo
▼平本達彦[兵庫県神戸市]…今日は江本さんの話をたっぷり聞けて楽しみました。ありがとうございました。

▼平本規子・美帆[兵庫県神戸市]…正木館長様、子守までして下さってありがとうございました。

▼黒郷多津子[兵庫県神戸市]…今日はすご〜くすご〜く貴重なビデオが見られて本当によかったです。どうもありがとうございます。

▼杉本和彦・由香利[兵庫県神戸市]…これからも兵庫県で報告会があることを期待しています。又、神戸(行ける場所ならうれしい)で是非やって下さい。

▼近藤淳郎[兵庫県姫路市]…なつかしい顔、はじめての顔、とてもワクワクした一日でした。関西ベースの私としては、またまた出張地平線を期待します。

▼菊地豊美[兵庫県明石市]…私は平本さんの知り合いです。今日は、興味深い話をありがとうございました。楽しかったです。又、よろしくお願いします。歴史面白かったです。

▼西田啓二[兵庫県神戸市]…やっと参加できました。今は関西在住なのでなかなかアジア会館に行けませんが、なんとか機会を見つけて参加したいと思います。楽しかった!! 今後ともよろしく。

▼坪井伸吾[兵庫県神戸市]…夜9時に来ました。これから宴会に参加します。また東京にも行く予定。


from Hiroshima
▼岸本佳則[広島県広島市]…植村直己という、私にとって特別の存在であったこの地で報告会ができたことは、とても意義深いことだと思います。関西圏に居てもけっこう遠いこの場所に40人もの人が集まった事は、地平線会議の20年の力を感じさせました。正木館長にはとくにお礼申し上げます。植村直己に対する気持ちがひしひしとその言葉から伝わってきました。そしてこの冒険館を維持・運営する困難も理解出来ます。少しでも協力していきたいです。

▼岸本実千代[広島県広島市]…神戸集会(まだ独身でした)以来の報告会で楽しかったです。江本さんのスライドも興味深かったです。いろいろな人と話しをし、交流をもつ楽しさを改めて教えてもらったような気がします。今回は私用の為、皆さんよりも先に帰ってしまいますが、この次機会がありましたらとことん最後まで参加したいと思います。


from Kanto 1
▼香川澄雄[東京都青梅市]…私が呼びかけている四方山話の会又はその他の集まりにいつも出席して下さる江本さんに恩返しのため、はるばる?広島経由で来ました。丹波の山奥を想像していたのですが、予想に反して開けたところでした。敬愛する植村さんの遺品を拝見し、感動しました。明25日13時から東京立川で行われる娘の笋コンサートに出席のため、今夜中に京都にいかねばならぬため、20時までに退席します。地平線の楽しさは2次会以降にあるので残念です。皆様楽しんで下さい。[下山家・日本ウルトラランニングクラブ会長]

▼伊藤禎俊[埼玉県所沢市]…前日まで地平線会議についてその存在すら知りませんでした。取材先(私ガイドブック等のカメラマンをしています)で写真展「地平線発」のチラシを見たのも、立ち寄って見ようとおもったのも、地平線会議が翌日行われるのもまったくの偶然でした。この会合で素敵なみなさんと出会えた幸運をよろこびたいと思います。今後も機会があれば参加したいと思います。

▼今井努[東京都豊島区]…バックパッカー交流会 参加者募集中。安宿のように集まってバックパッカーな話題に華を咲かせませんか。留守電に住所入れてください。(今井さんの電話は編集部まで問い合わせください)

▼安東浩正[神奈川県藤沢市]…荒野のサイクリスト安東です。鳥取大学山岳部の後輩達を連れてやってきましたが、わが母校はここ植村直己生誕の地から100キロ弱しか離れてません。ぼく自身、植村直己なくして山岳部には入ってなかったでしょうし、そうなると今の僕もいないわけで、そんな偉大なる冒険家生誕の地の近くに住んでたというだけで、ちょっと得意な気分です。…そんな鳥大山岳部も他の大学と同様に部員不足の危機にあり、数えるほどの部員の平均年齢は23歳、留年、休学、院進学というバンカラ部員達のおかげでかろうじて存在しています。…江本さん秘蔵の1930年代のチベットの映像は凄かった。食い入るように見てしまった。その頃のラサといえばたどり着くだけでも簡単でなかった時代なのに動画を残してるのだから。地平線20周年大会は江本さんの人生トークショーみたいでしたけど、チベットや黄河源流といい、どうもぼく自身知らないうちに、江本さんの辿った場所を15年くらいの時間をあけてたどってる事に気付きました。ということは、次に僕が目指すのは極地かな?…わざわざ、関東から青春切符で行っただけの甲斐はありました。

▼佐藤薫子[東京都世田谷区]…観るもの聞くもの全て新鮮でやっぱり感動しちゃいました。影山さんから聞いた時から感動したくて来てみたのです。参加できて良かったです。

▼熊沢正子[東京都武蔵野市]…青春18切符でとことこやってきました。途中で友達できたし、この4月にニュージーランドのトランピングで会った友達とも合流でき、久々にバックパッカーになった気分。日高への小さな旅でした。寝不足続きでスライド・ビデオ上映中に眠ってしまいましたが、これも愛嬌ですね。これからもガンガン旅していきます。

▼久島弘[東京都中野区]…いつものアジア会館を離れ、広々とした場所でやる報告会もまたよいものだと痛感しました。


from Kinki
▼遊上陽子[大阪府大阪市]…とても楽しみにしてました。やってきて、とっても楽しみました。テントと食料もってきたので余裕をもって遊べました。おもしろい人がいっぱいいるんですね。いろいろありがとうございました。

▼今村修[大阪府吹田市]…地平線、やはりいいですね。干魚が久しぶりに水で戻してもらったような気がしました。これからもよろしく。

▼中島剛[大阪府吹田市]…熊沢さんの著書で地平線を知り「地平線の旅人たち」でこの具体的な内容を知りました。私は主に国内中心のライダーですが、海外の様々な情報に触れ、とても刺激的な1日でした。三輪さんをはじめ、スタッフの方々、いつも新聞をありがとうございます。定期的に関西で集いを開きましょう! お手伝いします。

▼小森茂之[和歌山県田辺市]…はじめて地平線会議に参加できてうれしい。

▼三田村哲生[和歌山橋本市]…はじめて参加しましたが、色んな個性のある話、特にチベットは良かったです。

▼掛須美奈子[奈良県生駒郡]…おもしろかったです。江本さんのモンゴル・チベット講座はとてもためになりました!!

▼喜多清恵[奈良県奈良市]…私は8月にモンゴルへ行きます!

▼小堀洋・裕子[滋賀県大津市]…神戸の地平線会議から2年。又、再びやってきました。今回はこれから星空の下で宴会もありで楽しみです。


from Kanto 2
▼江本嘉伸[東京都新宿区]…◆20周年を記念する何かをやりたい、それも大騒ぎしないで電撃的に、と思っていたら植村直己冒険館での写真展「地平線発」の開催が決まった。今年は、仲間の関野吉晴が植村直己冒険大賞をもらったことでもある。よしっ、日高町へ行こう!とためらうことなく決めた。無論、東京からは行けない人が圧倒的に多いだろう。それでいいのだ。普段東京の地平線報告会に参加できない人たちと一年に一度ぐらいゆっくりするのは、地平線会議の流儀に合っている。世話人たちも、いいんじゃないですか、たまには東京を離れたほうが・・と賛成。

◆冒険館の正木徹館長に相談すると、そういうことなら是非是非と言ってくださった。こういう時は、地平線会議の“伝統”がありがたい。なんでも構内には草地があり、いざとなったらごろ寝もできそうだ。

◆丸山君を通して地平線HARAPPAに呼びかけてもらったら、神戸集会の仲間たちがふたつ返事でOK、何でも手伝いますよ、と言ってくれた。実際、即席にもかかわらず、司会役は広島の岸本君が引き受け、神戸の平本君が報告会報告を躊躇なく担当した。岡山の北川さんには、パソコン情報から地平線会議を見る、というようなテーマで話をしてもらうことにした。即席の呼びかけにもすぐ応じて雰囲気はいい。

◆呼びかけた以上、来た人には必ずトクをしてもらいたい、と思う。前宣伝はいっさいしなかったが、実は冒険館の映像設備が素晴らしいと知って、それなりの準備をした。

◆ひとつは、私のスライド。モンゴルやチベットについては何度か報告したことがあるが、極地の天然ガスの発掘現場、旧ソ連の北極海の観測氷島、そしてケープカナベラルのスペースシャトル打ち上げ現場などは、これまで披露したことはない。地平線の報告会は、どうしても特定の地域や行動がテーマとなるために、同時進行しているあちこちの世界が見えない難がある。

◆チョモランマの登攀風景、チベットやモンゴルの遊牧草原などとあわせて、私なりの地球今日的状況を伝えようと試みた。話はあっちこっちへ飛んでとりとめなかったが、たまにはこういうやり方があってもいいと思う。

◆目玉は、1939年にドイツ隊が撮影したチベットの貴重なモノクロの記録映画である。遊牧の暮らし、農民たち、新年のモンラム祭などチベットが完全にチベットであった頃の生き生き情景が記録されている。これは事情があってまだ未公開のもので、植村直己冒険館に来た人たちだけが見る機会を得たのである。

◆もうひとつ、モンゴルの遊牧草原のカラー記録映画があった。これはフィルムの保存が悪かったので、さわり部分だけとした。

◆植村直己冒険館は、予想以上に立派だった。もっと早くここでやるべきだった。夜10時以降は、構内の芝生の上での雑談会になったが、夜になって駆けつけた人も含め、さすがにひとりひとり面白い人たちだった。テントが6、7張りあったが、私はシュラフカバーで芝生上のごろ寝を楽しんだ。

◆日頃のご縁があったとはいえ、好き勝手にやらせてもらった正木館長と館員の皆さんに、心からお礼を申し上げます。お祝いメッセージをくれた宇都木さん、絹川さん、賀曽利さん、家族で東京から参加する予定が、直前の出張でダメになった武田君、同じく急な仕事で来れなくなった松田さん、ありがとうございました。

◆さあ、次は東京だ。
◆三輪主彦[東京都板橋区]…久々に東京を離れて「地平線会議」が開かれました。5月に関野吉晴さんが植村直己冒険賞を受賞をしたときに、私も参加しましたが、この素晴らしい環境で地平線会議をやったらいいなと江本さんに話したところ、急遽実現。参加したみなさんも日本にこんな冒険館、冒険賞があることを認識してくれたのではないかと思います。……芝生の上で星を見ながらゴロ寝をしましたが、翌日は日本一低い分水嶺を越えるマラソンをするため始発電車で江原駅を発ち、福知山から石生まで行き、そこから加古川をめざし走り始めましたが、暑い暑い。時々川で全身を冷やしましたが、オーバーヒートで加古川郊外でリタイヤ。瀬戸内海にタッチはできませんでした。


チベット見聞記
その2 赤ひげ先生採尿談

◆今回のチベット旅行の目的のひとつに、チベット人のオシッコ集めがあった。人の尿より検出されるポリオーマウィルスは親から子へ受け継がれ、そのDNAの型により人類のルーツが解明される。現在、東京大学医科学研究所がこの研究を世界の先住民族を対象に行っている。私はその研究の手伝いも兼ねてチベットを訪れた。

◆ジョカン寺近くのチベット医学の権威、蔵病院に3月12日通訳のジョーとともに訪れた。チベット医学は数千年の歴史を持つ中国医学の元になるもので、脈診により診断し生薬で治療する。政府の援助もあって人民病院(西洋医学)と違い低料金(20〜30元)のため多くのチベット人が治療に訪れる。医師たちは5年間のチベット医学の学業を終え、一人前となる。女性を含め約20人の赤ひげ先生が蔵病院に勤務している。

◆病院がジョカン寺に接していることもあっていつも巡礼者などでにぎわっている。門をくぐり建物に入いると受付がある。木の椅子がいくつも並び民族衣装のチベット人が大勢順番を待っている。年輩者が多い。そして患者が次々と決められた診察室に入っていく。中廊下を挟んで左右に約10の診察室がある。コンクリートの打ちっ放しの建物内部が寒々としていて赤ひげ先生の職場に似合っている。

◆4階に上がるとチベット医学の開祖像、祭壇、数十枚の医学タンカ(掛け軸)が壁一面にかけてある。ここでジョーが顔見知りのDr.ツェワンにオシッコ集めの東大の余郷助教授からの依頼書を渡しその主旨を話した。医師には手間がかかることなので難色を示し「人民病院で頼め!」といわれたが、ジョーは食い下がり再三の懇願の末どうにか承諾してもらった。

◆病院裏手の厠とと書いてあるトイレの前で、用足しに来る人を待った。Dr.ツェワンはチベット人のみに紙コップを渡した。赤ひげ先生の頼みに彼らは躊躇したが、次第に快く黄褐色の液体を提供してくれた。3本集まったが、次の人を待っている時間は長く感じられた。これだけの病院にしてはトイレの利用者が少ない。

◆Dr.ツェワンは、病院内や門前にたむろしているチベット人を呼びに行った。しばらくすると、白髪の老人、足の不自由な老婆、遊牧民たちが来た。皆汚れたチベット服を着ているが、極度に乾燥しているので異臭は全くしない。ジョーの話だと体を洗うのは月1度で充分だという。彼らはきっと年に1度かもしれない。

◆1時間もすると10本のオシッコが集まった。ちょうど休憩時間になったので医師達が5〜6人見学に来た。日本から用意してきたオシッコ集めの依頼書をにこやかな表情で読んでいる。そして採尿に協力してくれた医師もいた。尿の提供者にはほんのわずかだが謝礼をしたことが広まったのか、少しずつ厠の前はにぎやかになってきた。狭い裏庭が人々でいっぱいになってしまった。

◆気品を持った美しい女性、これ以上汚くなることはないだろうと思われる親子、夫婦者、羊の皮を身に覆っている人、カム族の男達も来た。顔は赤黒く焼け、手は黒かった。指にはめたトルコ石がよく似合う、そして髪をまとめて後ろで縛っている、カッコイイと思った。女性は鮮やかなピンク色の服がここの風土に合い、彼女らのファッションは実に決まっていた。髪は左右に分け編み込み、カラフルなヘアバンドで止めている。正に民族の坩堝である。

◆見とれているうちに作業が忙しくなった。次から次へと尿の入ったコップを受け取り採尿管に移すのであるが、時々こぼれて手にかかる。Dr.ツェワンは手を洗えというが貴重な資料に汚いという意識は無かった。3時間余りで持参した30本の採尿管に黄色の液が満たされた。まだまだチベット人が提供すると言ってくれるが、入れる容器がない。申し訳ないような、惜しいような...。そして順番を待っていた人は残念そうに引き上げって行った。こんなにうまくいくとは思わなかった。

◆この3時間の出来事を頭の中で繰り返し思い出し、大役が果たせたことが嬉しくて自然と頬がゆるんでくるのが分かった。日本を発つときにある先輩から共産圏でのオシッコ集めは思想上の理由から非常に困難であろう、危険を考慮に入れて行動するように忠告を受けた。私も同感だった。そして数カ所の採尿場所が必要だろうと覚悟をしていた。全然集められないか、よくても10本ぐらいだろうと予想していた。が、快挙だった。通訳のジョーの機転と長年治療活動を続けられた赤ひげ先生の人望によるものだった。

◆日本での尿の分析の結果を必ず報告するとの約束をして午後5時頃蔵病院を後にした。そして30本の貴重な尿を無事日本に持ち帰ることが出来るかと考えると、責任の重大さが肩にのしかかってきた。言うまでもなくこの先のすべての行動で、私はこの尿を肌身離さずもって歩いたのである。[本庄健男]



地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。
地平線ポスト宛先:
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
お便りお待ちしています


●横田明子さんから…

◆みなさん、お元気ですか? お忘れの方も多いかと思いますが、今年の3月まで報告会の受付の片隅にいました横田でございます。私は今、農文協というところで働いております。やってることは営業です。毎日、スーパーカブに乗って農家のおじちゃん、おばちゃんと話をしています。今、飛騨高山には、ナイスバディの外国人観光客が市内を闊歩していますが、私は、史跡旧跡には目もくれず、ひたすら宿舎と山奥との間を往復しています。ビタミンが足りません。今日、ホウレンソウを農家から恵んでもらいました。地平線の方々の炸裂している人生を思い起こします。いつか顔を出すと思うので、また相手をしてやってください。


●関有海子さんから…

◆ゴールデンウィークまっただなかに行ってきました“微笑みの国タイ”。T.V.で観たタイランドのイメージがすこぶる良く、なんといっても本場のムエタイを観戦できる事にワクワクしながら降り立ったバンコクは、普通なら暑くてたまらないはずなのに、涼しい程。通常雨季でもないのに、どしゃどしゃ雨まで降る始末。雨女の私のせいか、はたまた温暖化のせいか?

◆とりあえず、夕食はホテル内でとることにして、タイ舞踊を観つつタイのクロスタービールで乾杯。タイ飯のバイキングはおもったより辛くなくて、観光客向き。ひととおり食したのち、チェック。…高い。

◆ビールがメニュー表記の600バーツから1800バーツになっている!「これ、違うんじゃないの?」「でも、サービス料かも...」 そのあとタイ在住の知人に言われたのは、ホテル内でアルコールは厳禁なんだそうだ。メニューより高くつけられるとの事。なにそれ! だったら“時価”とでも書いといてよ〜。

◆次の日、タクシーでパッポンという屋台街へ。ここは、ブランドのなんちゃって商品や、タイ飯の屋台が軒を連ねている所。タクシーは安全になったと聞いていたけれども、やっぱり“メーター”をつけているタクシーじゃないと、ボッタクられます。とくに日本人はカモられます。メーターをつけていないタクシーと交渉しても、清算する時にっこり笑って値段をつりあげるし、場所を指定してもぜんぜん違う所で降ろされる。(そして、ムエタイ場は分からなかった)(中略)

◆有名なワット・ポー(涅槃寺)の寝釈迦像をみても、ありがたやってより、「いいわね〜寝っころがっててお金もらえて」なんてつぶやかずにいられないタイランドでありました。


●宇都木慎一さんから…99.8.4

◆富士山頂より暑中お見舞い申し上げます。
☆毎日暑い日が続きます。いかがお過ごしですか。
☆天保山から東海自然遊歩道を辿って富士山までの旅が終わりました。
また次の旅を考えます。'99盛夏


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第九発 ―生田目の極貧―

◆尻ン玉を取り戻して、無事インドから帰国し、気持ちも新たに迎えた日本での再出発は、住所不定無職だった。かといって、実家に帰る気にもなれない。というのも、母のほうも父との離婚が成立し、慰謝料替わりの中野の家を売り払って、板橋のはずれの山の上に庭付きの一戸建てを購入し、一人暮らしを謳歌していた。

◆一応、私の部屋もあるにはあったが、幼い頃から住み慣れた中野の家と違って何とも他人の家のような気がするのと、あまりに辺鄙過ぎて(板橋のはずれの皆さん、ごめんなさい)、どうもなじめそうになかった。第一、また過干渉の日々に戻る気になれなかった。

◆そんな時、鶯谷の小さな店の経理をしてみないかといわれた。家に帰らない以上、選り好みをしている場合ではなく、早急に食&住を決めなくてはならなかった。幸い、その店から数分のところに1万5千円のアパートを斡旋してもらえた。

◆このアパート暮らしが凄かった。この生活があるから、これまで数々の困難に耐えてこれたような気がする。自分が蒔いた種とはいえ、強烈だった。

◆下町らしく細い路地の長屋の2階の4畳半で、窓を開ければ15cm先は隣の壁だった。もちろん風呂なしで共同便所、高校時代に両親が別居した時に住んだ場末のボロアパートなんか、比じゃなかった。あの時、歯を食いしばって絶対這いあがってやると思っていたのに、とうとうここまで来てしまった。

◆隣人は、24時間ずっと喋っているおばはんだった。毎晩、いろんなおじさんが出入りしていて、ベニヤ板1枚のような壁の状況では隣の様子は手に取るようで、いくつになってもお盛んなんだなあと妙に感心しつつ、気分が悪かった。今思えば、あーいうのを「ちょいの間」というのかもしれない。鶯谷と三河島と入谷のちょうど真中あたりで、吉原も近かったから、ナイスロケーションといえばいえなくもない。

◆次に私を情けない気持ちにさせたのが、銭湯だった。下町らしく、風情のある風呂屋だったけれど、入りに来ている人がほとんど日本人じゃない。いかにも稼ぎに来ました風のお姉ちゃんたちがワンサカ来ていて、面食らった。ジャパ行きさんなんていう言葉が流行していた頃だった。その風呂から上がると、必ず体から消毒液の匂いがしたのだ。肌に悪そうだなと思いつつも、気合いで風呂に行っていた。

◆小学校の時の算数の先生が大学時代に死体洗いのバイトをしていて、大きなホルマリンのプールで死体を洗うので、体に薬品の匂いがついて食事の時は辛かったと言っていたのを、なぜか思い出した(笑)。

◆それでも負けるものかと意地だけで、毎月10万円ずつ貯金した。15万の給料で家賃払ってだったから、本当に丸貧だったけど頑張れた。そうこうして半年経つ頃、母が肝臓病で倒れた。実家に戻らざるを得なかった。60万円握り締めて「決して尻尾巻いて帰るんじゃないぞ。ママが病気になったから帰るんだ」と自分に言い聞かせて‥。でも心の中ではホッとしていた。これで、ちょいの間長屋ともクレゾール風呂ともおさらばだ。やっぱり実家はありがたいもんだ。根性なしの情けないガキだった。[生田目明美]



今月の地平線報告会の案内(絵:江本嘉伸/文・丸山純)

地平線通信237裏表紙  

8/27(金)
Friday
6:30〜10:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500

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 地平線会議20周年記念特別報告

  5人の旅人が披露する
   「旅の写真術」!!
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今月の地平線報告会は、発足20周年記念にふさわしく、5人の豪華メンバーをそろえて開催します。テーマは「旅の写真術」。カメラ携行時のノウハウからこれまで出会ったトラブルとその解決法、さらには撮る者と撮られる者の関係まで、司会者が投げかけるさまざまな質問に答えてもらうことで、5人の報告者の「旅のスタイル」を浮き彫りにしようという趣向です。

報告者は、写真集の編集を数多く手がけ、『旅の目・カメラの目』の著者でもある編集者の伊藤幸司さん、インドとチベット文化圏を中心に、素晴らしい作品を発表している写真家の松本栄一さん、世界各地で感動の旅をつづけるバイクジャーナリストの賀曽利隆さん、ぐるーぷ・あいらんだあを主宰し、娘さんと心に染みる旅を続ける島旅ジャーナリストの河田真智子さん、そしてペルーをはじめ、世界の紛争地や辺境を斬新な視点で取材するフォトジャーナリストの桃井和馬さん。司会は丸山純が務めます。

レンズの向こう側で、5人の旅人はなにを見つめ、どうやってシャッターを切っているのでしょうか。旅をすることと写真を撮ることの深い関係を、みんなでわいわいと考えてみたいと思っています。どうぞお楽しみに。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円



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